石山修武 世田谷村日記

2006 年7月の世田谷村日記
 226
 六月三〇日十五時原宿岸記念体育館。今日はJOCに計画書提出の日。福岡市は百七十二ページの概要書と三百七十二ページの資料編の二冊を提出。同日、東京は概要書だけの提出だった様だ。山崎福岡市長、麻生渡県知事、鎌田迪貞九電会長、磯崎新、記者会見。その後、麹町の福岡市事務所へ。市長と歓談。十八時のTVニュースで両都市の計画概要書に関して報道あり。百七十二ページの概要書だけでは計画の細部は表現し切れぬ。それ故、福岡はJOCの指示に従い、各施設のプラン、使用方法等を明記し、それを大部の資料編として提出した。至極当然な対応である。東京は薄い概要書だけである。その概要書の内容も実に見事な位に何も無い。拍子抜けする位に何もない。これでは東京スポーツ施設観光ガイドブックではないか。余りの東京の不甲斐なさに呆然とするばかり。両者の計画内容は何らかの形で公表し、広く皆さんの御意見をいただきたい。
 225
 総長選挙選投票。理工学部は今、スキャンダルに揺れている。学生諸君も情けない思いがあるだろう。それにつけても思い出すのは故吉阪隆正が学部長であった頃の事共だ。彼は学内政治や学内での政治的位置等には無関心な人物であった。担がれて学部長になっても人格は変わらなかった。ああいう人材が今、この学部には居ない。三流の政治ゴロみたいなのが大手を振ってまかり通っている。しかも、まかり通らせてしまったのは教職員自身なのだ。大学内意思決定こそ、よりピュアーに人物の見識、人格、構想力によって企てられなければならない。学生達に顔向けられぬ様になってはいないか。
 李祖原より連絡あり。北京で Mr. 郭共々、待っているとの事だ。何がどう展開するか、楽しみである。彼等との附合いは中国風に言えば仁義をベースにしている。信用したら裏切らぬ、何があってもブレない、それが大学には無い。
 224
 九州の件で野村とミーティング。北京モルガンへの取り組みの構想を考え直す。少し間があったので冷静にプロジェクトを眺められるようになっている。建築を介して世界の現実に対面することが出来たここ半年間であったが、二〇〇八年の北京オリンピックの嵐はどれ程のものになるのか、想像し切れぬものがある。
 サイトの読者数が多くなり、何処でどんな人が読んでいるのか把え切れない。丹羽編集長に頼んで出来るだけ日付等の記録を消去する方向にしたい。悪用される恐れが現実のものになっている様な気配がある。
 223
 チベット自治区のラサから格爾木(ゴルムド)を走る青蔵鉄道。長さ千百四二キロメーター、平均高度四千メーターは胡錦涛政権の「西部大開発」のシンボルである。チベットの精神的中心であるダライラマ十四世はインドに亡命して、七十一才になる。亡くなった佐藤健はダライラマに単独インタビューをした事が自慢であった。健とは縁があり、亡くなる前に敦煌まで共に出掛けた。彼の最後の旅だった。今度のチベット行はその続編だな。
 222
 二十八日午後、李祖原にTEL、十日〜十三日の北京行きを伝える。北京モルガンセンターの Mr 郭も北京市とのトラブルをようやくにしてクリアーしたそうで、丁度良いタイミングであった。北京でこの眼で確かめたい。十日はチベットのラサから西安に入る予定で、我ながら大丈夫なのかといぶかしむが、何とかなるでしょう。十九時半新宿。難波先生会食。四方山話。二十二時前世田谷村に戻る。
 221
 十時半作業室。挨拶をして発つ。博多駅迄歩く。十二時前のJRで東郷へ。のんびりバスで宗像大社へ。辺津宮本殿。高宮祭場。中津宮本殿、二ノ宮、三ノ宮を巡る。人も少なく、静かで気持良かった。古代祭場であった高宮に興味があった。高宮の位置自体が建築的構想力そのものである。古代に生きた宗像の人々は、更には日本列島の人々は祭所にさえ建築、神殿を必要としなかった。海の正倉院と言われる沖の島の出土品を収めた宝物殿を見学して、再びバスで東郷へ。博多を経て空港へ。夕食をとって十九時十五分の便で羽田へ。二十二時頃世田谷村に戻る。サッカーW杯ブラジル・ガーナ戦を観るもロナウドが早々とゴールを決めたところで眠くなり、寝た。翌二十八日七時半起床。宗像大社の資料を読む。神社と古代神話のヴァーチャルなネット関係は今の情報社会よりも余程高度なものだった。
 220
 六月二十七日七時目が覚めてしまう。姜尚中氏が福岡オリンピックを支援する理由と福岡オリンピック反対派の人々との違いを一言で言えば、例えば藤原恵洋九大教授の言う「程々の生活ができる都市で良い。」に対し、姜尚中は「その程々の生活が出来る事を維持するのは大変な努力が必要なのだ。それがグローバリゼーションだ。東アジアコモンハウスのそれが大きな根拠だ。」という、要するに歴史認識の決定的相違である。勿論、私も姜尚中氏の認識と同様な考えを持つ。それ故に磯崎と共に福岡を支援したいと考えたのだ。東京のオリンピックプランが発表になっている。大半が使い回しの案である。これでは世界には勝てぬ。都市改造の契機にもなり得ぬだろう。石原慎太郎老いたり。やはり彼は青年期の人物だったか。
 219
 十七時ソラリアホテルで姜尚中氏と再会。共にエルガーラホール・8階大ホール、国際スポーツ市民フォーラム会場に向う。十八時市民フォーラム開始。山崎広太郎市長、山田部長の話しに次いで、二〇数分のプレゼンテーション。今日は、市民のオリンピック反対派の人々も居るので気を遣わざるを得ない。フォーラム参加者は五〇〇名程。発言者は七名。藤原恵洋九州大学教授、脇義重いらんばい福岡オリンピックの会事務局長、田中由紀YM―net代表が福岡オリンピック反対派。青木麗子オリンピック招致を支援する女性の会会長、姜尚中東大教授、日下部基栄シドニー五輪銅メダリスト、出口敦九州大学教授が賛成派。馬場周一郎西日本新聞社編集局スポーツ本部長が司会であった。姜尚中氏の発言が際立って説得力があった。市民との直接の会話、議論の場を持てたのは良かったと思う。東京はこの様な会は一切無いママである。この会の印象は別に記すつもりである。二十一時会修了。近くで遅い会食後、歩いてホテルに戻る。イタリア、オーストラリアのサッカーを見ながら、メモを記し、翌一時三〇分頃眠りにつこうと試みる。今日は貴重な一日だった。
 218
 県庁より戻り昼食のそばを喰べて作業室に戻る途中、上川端商店街に寄る。T氏にアッという間に商店街振興組合に連れてゆかれ理事長をはじめとする幹部の方々に引き合わされ、アッという間に十五日の山笠の、上新川端町土居流、飾り山笠に乗る事が決められてしまう。磯崎氏は十三日の山に乗るそうで、私は十二日は北京だから、乗らずにすむだろうと思っていたら、この仕末である。人生何があるか、わからん。博多祇園山笠土居流参加者規定の書類を読むと、背筋がのびざるを得ない程に掟が厳しい。大体恥かしながら、どんな恰好をしたらよいのかも知らぬ。マ、しかし、なるようにしかならないのだろう。T氏の力技に感謝して良いのやら、茫然とするやらで呆気に取られる。
 217
 二十六日七時起床。オリンピック関係の諸資料を読む。九時前5Fで朝食。
 本日発売の米誌ニューズウィークに福岡が世界で「最もホット」な都市として紹介されている。二〇一六年の夏季オリンピック開催都市として東京に対して挑戦している事も含め、世界で十都市を特集している中に選ばれた。「同誌は、独自に入手した国連の調査結果を基に、東京やニューヨークなどの人口増加率は減速傾向にあり、今後はより小規模な「第二の都市」が次代の発展の中心的存在になると指摘し、地方の都市を中心に「ホットな都市」を選出した。福岡・九州がオリンピックに挑戦しているのを、先ずニューヨークのメディアが評価したとも言える。十時福岡県庁打合わせ。十一時打合わせ室に戻る。
 216
 二十五日、日曜日。朝、庭の梅の実を家内と拾う。手に匂いが移る。十五時羽田空港。明日は福岡で公開の市民フォーラムがある。会で福岡オリンピック会場計画について報告する為の福岡行である。磯崎さんとはスレ違いで、氏は今頃、福岡から羽田についた頃だろう。二〇時、ホテル着。チェックインして渡辺と食事。二〇時室に戻る。
 215
 六月二十三日、午後便で福岡へ。明日の 福岡・九州オリンピック招致推進委員会「総会」「決起大会」のプレゼンテーションの準備をする。磯崎氏からの資料をベースに渡辺に用意させたものを附け加える。T氏と夜食後深夜ホテルに戻る。翌二十四日八時前起床。五F朝食。九時過作業室。西鉄グランドホテルへ。十時開会。二〇分より三〇分弱の最終計画案プレゼンテーション。立食パーティ。山崎市長、麻生知事、鎌田会長とあいさつ。総会は四〇〇名程度の盛会で、立見も多かった。十一時十五分発。福岡空港へ。ロビーでTVを観ていたら昼のニュースに総会の模様が流されていて、私のプレゼンテーションも一部放映されていた。空港のTVでもう一人の自分に会った感アリ。十四時過羽田着十五時を少し遅れて大学へ。講評会にギリギリすべり込む。二十一時世田谷村に戻る。
 214
 六月二十二日十二時半研究室。野村と幾つかの打合わせ。明治通りのコンバージョンが小さくとも動くと良いな。他に九州の件、北海道の件。十三時教室会議。十六時半前教授会。白井総長と隣り合わせになったので福岡オリンピック、他の事話す。「早稲田は北九州もあるし佐賀もあるからオリンピックは福岡でいいよ。」との事で、選挙が終ったら相談する事にしよう。上海の計画もあるし。
 213
 十八時新宿にて芸術学校長鈴木了二と会食。芸術学校の件話し合う。学科設立の研究所と芸術学校の合同コースを創立するのが最良の径であろう。学科のウィークポイントは学生の幼児性にあり、芸術の弱点は学生の一般的な質の問題にある。それを小さくとも解決するのは、実験的一部合流の試みか。どうか。福岡市民からメールが幾つも入る。
 212
 二十四・二十六日の福岡でのプレゼンテーションの準備、他。ゆっくりとペースダウンした時間がかえって辛い。ここ数週間の情報をとり敢えず見直す。十七時研究室出。世田谷村に戻り早々と寝てしまう。明日から東大出版会の仕事に本格的に取り組む。原稿を何年も延び延びにしてきたから、その分はイイモノ書かねばならない。翌二十一日十三時半研究室。伊豆の大沢温泉ホテルの仕事を再開する。
 211
 六月二〇日、昨深夜どうやら淡路島の山田脩二が世田谷村の一階で寝ていたようだ。朝、一階のダンボールに置き手紙があった。声を掛けてくれれば良いのに。早朝六時半頃起きて、ウチの新聞を読んで去ったらしい。申し訳ない事をした。ホームレスみたいな事をさせてしまった。レクチャー前に電話したら、新幹線車中で帰途の最中であった。しかし、本当に体だけは大切にして貰わなければと痛切に想う。彼とはアト何度かの仕事をどうしても立ち上げねばならぬのだから。まだ径半ばですぜ、お互いに。
 210
 農文協の甲斐氏が言ってくれた。日本中の村は福岡オリンピックを支援すると。彼はクールだから、町と市は外した。しかし、村の支援はOKと。力をつくすと言ってくれた。日本全国の村が福岡を応援してくれたら、我々はそれだけで闘える。二十一時前、打合わせは終わった。赤坂のジャズスポットを離れて、二十一時新宿。 京王線の車中。世田谷村に戻る。
 209
 千村君よりメールあった。彼のメールはことさらに嬉しい。何しろ他の人のものより一字一字に時間がかかっている。勝手に引用させて頂く。
「バーチャルな浮世絵な江戸=日本を再生できるのは福岡だけかも知れない・・・。福岡オリンピック応援してます。 ちむら」
 一騎当千の味方を得た気持である。
 十七日十三時研究室。農文協の甲斐氏に連絡して少し早目に東京駅で会う事にしたい。全国の農業、農村の人達にも福岡オリンピックを支援していただきたい。これは東京対地方の戦いでもあります。十六時東京駅北口地下一階黒塀横丁、沖縄地料理屋龍潭にて甲斐氏を待つ。東京駅の地下の沖縄料理屋とだけしか言ってないので来られるかな。彼は宮崎高千穂村の出だから、骨のズイまで九州もんだ。九州もんは勘が良い筈なのだ。時間通りに甲斐氏登場。流石。二〇時前迄打合わせ。その後、赤坂に移り、飲む。二〇時三〇分修了。
 208
 十二時半総長選投票。昨日の学科の投票一本化の決定に従う。アベルのチリの雑誌向けインタビューの後ミーティング。十三時、アナザーオリンピックゲームのサイトを設けることを決める。若松社長五時来室との事。二川幸夫氏に連絡、明日からヨーロッパとの事で、七月一日に会う。広島の木本君とも連絡をとらねばならない。
 207
 新潟市役所より農村スクールの企画書が送られてきた。仲々頑張っているようで、じっくり附合うかと考える。新潟市も政令都市になるのを期して、東アジア、ロシアとの関係を再構築する必要がある。世界的な農業都市を目指すには三〇年の計が必要である。その為には何よりも先ず人材育成であろう。福岡オリンピックに関して大いに勉強したので、その辺りのところは良くわかる。十六日八時半起床。十時過研究室。院レクチャー準備。十時四〇分レクチャー。十二時前修了。福岡オリンピック計画案づくりに参加したお陰で、これ迄やったプロジェクトの意味合いも又、明らかになってきた。
 206
 八時起床。九時杏林病院。ここ一ヶ月程続いているセキは問題ないだろうとの事。驚いた事に、そう言って下さった私の体調管理のK先生のジイ様がロスアンジェルス・オリンピック水泳金メダルのKさんだった。IOCの副会長であったとの事。それなら毎週病院に来ても良い。十時半了。十二時大学。人事小委員会。帰ってみればこちらも総長選の真只中であった。十三時半了。研究室で一息つく。久し振りにカバーコラム書く。早稲田の大隈講堂で「何故オリンピックは福岡なのか」の講演会・討論会やるか。運動部、OBにも集まってもらって。今日は十五日。
 205
 翌十四日、十時過迄眠る。チョッと東京情報を福岡に入れ、再び眠る。昼前、T氏からの電話で起きる。福岡の件である。何処に居るのか解らんと、と博多弁でぼやく。夕方、研究室に連絡取るつもり。
 204
 T氏と昼飯のうどん喰べて別れる。十三時過福岡空港。やれる事は皆やった。最後の時間の大半は編集作業だった。アトは福岡の人間の力に任せるしかない。しかし、八月末の最終プレゼンテーション迄の二ヶ月余りが本当の試合になるだろう。十四時十分の便で羽田へ。十六時前羽田着。六本木のブックセンターで本を二冊買う。二十六刷目のリリー・フランキーの「東京タワー」と村上春樹の「東京奇譚集」何となく、これも又、福岡対東京の図式になってしまう。十七時半磯崎アトリエ。打合わせまじりの対談。頭がとても対談風には出来ておらず、打合わせになってしまう。二〇時修了。二十一時久し振りに世田谷村に戻る。ワールドカップサッカー、韓国VSトーゴ観るも、眠くなって、眠ってしまう。本当に疲れていたんだ。
 203
 七時半起床。今日は十三日か。なにしろ一度東京へ。九時5Fで朝食。要修正のメモ。十時半作業室。スタッフに最後の指示。T氏打合わせ。
 202
 二十一時半迄作業。流石に今日は疲れが出て、適切なWORKが出来たかどうか、いささか危ぶむ。しかし、完璧を目指している。二十二時あがる。T氏と近くの和食レストランでサッカー、ワールドカップ日本対オーストラリア戦をTVで観ながら夜食。私の予想通り日本は完敗した。サッカー協会は日本の中でだけ少々おごり過ぎたきらいがありはしないか。これが、まさに日本サッカーの実力かも知れない。サッカー協会は東京ばかりに顔を向けていると手痛いしっぺ返しを喰らうぞと僭越ながらもの申したい。日本の敗北は残念ではあるが、百五〇万都市福岡の東京への挑戦にとってはどう働くか、観モノである。〇時十五分ホテルに戻り、休む。明日は東京に行かねばならない。夕方、磯崎氏と会う予定。しかしながら、今我々は異常に福岡オリンピック実現に熱を上げている。それ故に日本のスポーツ界の内部の事情もいささか知る迄になった。福岡対東京の構図がそのまんま金銭の多少、勢力の有無の構造になったら、スポーツそのもの、あるいはアマチュアスポーツの存在の意味は無い。今日、日本サッカー代表がオーストラリアに完敗した事実は、そのままトリノでの冬季オリンピック惨敗の日本の実状と酷似しているように思う。その実状を変える為にも福岡オリンピックの実現は大事な事なのだ。疲れて、言葉足らずになってしまっているのを承知でつぶやきたい。
 201
 六月十一日、七時目覚める。十一日目のホテル暮しである。実に単純な頭の構造になっているのを自覚する。体もそうなっている。体育会系だな今の自分は。しかし考えてみれば旅に出れば一週間、二週間この状態だから、別にどうって事もない。その旅が半年続いているだけ。カンボジアの現場も気になるのだが、どうにもならぬ。今日は印刷所から試し刷りが出てくるのを待つ。昨夜A氏から大阪がオリンピック招致に動いた時は、計画書をまとめるのに印刷所の輪転機を止めたりの騒動があったのを聞いたが、何があるか分からない。東京との戦いで、何が一番福岡は違うかと言えば、実に単純な事実が浮かび上がる。福岡は広告代理店を代行者として立てなかった。要するに電通がいない。作業を皆、市役所が直接行った。何もかもだ。市役所が出来ぬ事を地元の民間が手伝った。それを磯崎チームが支援した。東京の電通が実質何をやっているかは知らぬ。当然、ビジネスでやっているだろう。世界戦、つまりIOCに出た時に勝てる勝率は東京には全く無い。石原都知事が知事でいる限りはである。石原都知事の超右翼振りはそれ程有名ではないけれど世界に知れ渡っている。特に中国はそれに嫌悪感が強い。非常に強い。二〇〇八年の北京オリンピックのTV放映権のシェアーで日本のTV関係、NHK、電通他の占めるシェアーは非常に小さい。眼の先の北京オリンピックでは日本はビジネスに於いても韓国の足許にも及ばぬ。つまり、TV放映権というビジネスで、とりわけオリンピックビジネスに於いて電通の力は大きくはない。ワールドワイドな投資会社や代理業に負けてしまっている。先日、福岡にゴールドマンサックス社の面々が来て、福岡に太鼓判を押した。ゴールドマンサックスは幾つかの五輪の放映権を仕切ったところだ。世界、そして中国、アジアにも精通している。そこが太鼓判を押した。福岡の可能性に。地元新聞にも出ている。日本中の人はそれをまだ知らぬ。これは実は大きな出来事であった。その理由は詳述せぬが、福岡は要するに東京電通よりもはるかに大きな力を世界から得る事ができる。何故ならオリンピックは世界の祭典であり、日本の祭典ではない。オリンピックの意味は世界スケールで存在するのであって、日本国内のスケールに意味はない。この続きは、又、書く。朝食を喰べに行かねばならない。
 200
 六月十日、八時半起床。今日は最後のみがきをかける。M社のA氏に会って色々と知恵をもらう積り。九時5Fで食事。十時打合わせ室。午後眠気来ていたたまれぬ状態になる。何とか乗り切る。十六時過A氏来室、コースその他の最終チェック。二十一時夜食。その後A氏と色々と話す。この五輪事件では実に沢山の人達との協同になったが、この人物は得難い人であった。この先もお附合い願いたい。翌一時過休む。
 199
 六月九日、八時過起床。九時5F食事。十時打合わせ。三〇分さらに打合わせ。二十二時四五分迄。夜食後一時眠る。曜日感覚が失くなった。むしろ、自然な事か。翌十日八時起床。九時5F朝食。十時作業室。二十二時迄ぶっ続け。その後用事があり山の「流れ」の一つの飲み所「やす」に寄る。一杯の酒も呑まず用件のみ。ここで、初めて七月の山笠に向けて準備にいそしむ山笠の「流れ」の現場の空気に触れる。実にイカシている。誠にイイ気っ風の男達が集まっている。翌〇一時ホテルに戻る。
 198
 二十三時頃T氏と相変わらずの夜食をとっている時に、どちらからともなく、平凡なおかつ無類に非凡なるアイデア湧き出す。これで五輪はいただきだねと、無気味に笑う。我ながら変だ。明日、具体的なプログラムを作らねばならぬ。二十三時半ホテルに戻り、このメモを記し休む。完全な五輪バカになってしまった。
 197
 十時作業室。CGの最終ブラッシュアップ。最後まで手をゆるめずに行く。今日は八日か。昼食中華メン他。十六時秀巧社。十七時戻り。
 196
 十一時過迄打合わせ。昼、櫛田神社宮司阿部さんにお目にかかり、福岡オリンピックの相談。近くのソバ屋で又、オリンピックの相談。打合わせ室に七月一日開催の山笠の灯を持ち帰る。阿部宮司の、モダーンよりも地方色豊かに出したらイイの言が印象的であった。石山研スタッフ山笠の小道具のデザイン。二十三時夜食の後ホテルに戻る。膨大な情報を把握するのはそれに見合ったエネルギーが必要だ。
 195
 六月七日、昨日は二十四時過ホテルに戻った。福岡の石山研スタッフも疲れ気味なので早く休ませた。今朝の新聞に昨夜の東京の会が盛況であった事が報道されている。又、ゴールドマンサックス社をはじめとする投資会社が福岡の立地、他を高く評価している事も全国紙には報道されている。地元紙の支援がどうも鈍い。全国的な評価は高いと思われる。八時5Fで朝食。九時作業室。CG等最終チェック。膨大な原稿量のチェックが残されているがベストを尽くしている。やれる事は全てやった。最良の仕上がりになりつつある。
 194
 六日八時前起床。今日は出来上がりを全て見直す。書ける事はどんどん少なくなるばかり。又、書く事もなし。実にシンプル極る。今日は磯崎は東京で大事な会合だが、私は福岡に居残り、仕上げ作業の万全を期す。九時半作業室、市役所打合わせ。二十三時迄。
 193
 五日七時半起床。八時半5F朝食。九時半打合わせ室。十時O邸。十二時打合わせ室。十三時市役所。幾つかのMEETING。秀巧社ビル打合わせ。十六時打合わせ室近くのうどん屋でいなり寿司の昼食。二十三時過迄作業。
 192
 十時打合わせ、SBC取材打合わせ。十一時半発、十二時大濠公園レストランにて麻生県知事夫妻と昼食。十四時前了。櫛田神社を巡り、十四時作業室に戻る。二〇時過迄打合わせ。T氏と夜食後ホテルに戻る。実にシンプルな日々が続く。
 191
 夕方迄編集会議続く。全てのページが頭に入った。作業室はフル活動だ。コンビニの弁当を喰べながら二十三時迄。体調はすこぶる良い。二十四時休む。六月四日九時前朝食。十時前作業室。
 190
 六月二日、十時研究室。レクチャー準備。四〇分院レクチャー。十二時了。サンドイッチ食べて、十三時半製図準備室、採点。十六時前了。十八時の便で福岡へ。二〇時ホテルチェックイン。T氏夫妻と食事。明日からの英気を養う。アト十日程で第一段階の実質的な作業は修了する。  翌六月三日、六時前に目覚めてしまう。今日は終日編集会議とドローイング、CGの仕上げ作業。頭を余程クリアーにしておかないと全部が把握し切れぬ。しかし、作業チーム全体の力は掌握したから、今日から、もうひとつハードルを上げる。十時からのミーティングは即断即決が要求されている。十時前打合わせ室。編集会議。
 189
 山口先生は心持ち少し小振りになられたように思ったが、すこぶるお元気であった。回顧展を数カ所で成し遂げられ、一段落の安心の中におられるのであろう。来年の展覧会の構想などをうかがう。話しの節々に芸術家の直覚の凄さが感じられて相変わらず刺激的であった。七十六才になって、このエネルギーなのだ。もって銘すべし。新しい砂漠シリーズの絵を見せていただく。一時間程でお別れする。渋谷で小休し、十八時過世田谷村に戻る。福岡に電話してプレゼンテーションの仕上がりを聞く。
 188
 六月一日九時起床。サンパウロのマリア・セシリアから電話あり。リオデジャネイロ市、ブラジル政府にコンタクトしてくれるとの事である。今日も午前中は休む積り。月日は百代の過客どころではない。時間がゴーゴーと音を立てて通り過ぎている感あり。十四時新宿。十五時多摩プラザ山口勝弘訪問。
2006 年5月の世田谷村日記

世田谷村日記
サイト・インデックス

ISHIYAMA LABORATORY:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2006 all rights reserved
SINCE 8/8/'96