石山修武 世田谷村日記

2006 年8月の世田谷村日記
 260
 グラフィケーションに書こうと考えていたテーマがようやく見つかった。
 「それでも、モノつくる人」
 それだけでは、俗論に過ぎぬが、今はモノをつくり難い時代だ。ここで言うモノというのが実に巾広くなっている。コーヒーショップで飲む量産品のコーヒー一杯もモノだし、そのコーヒーショップを出店する計画案をつくる計画自体も商品として見ればモノだ。その店の店舗自体もモノである。コーヒー自体の豆は何処から来ているか不明であるし、そのコーヒーは有料のものである水に溶かされ、有料の熱を加えられ、ウェイトレスのアルバイトによって運ばれてくる。その総体をひっくるめてコーヒー店が出現し、我々はいささかの無為の時をそこで過ごす。消費者にとってはぼんやりとする時間さえも商品だ。そう考えると数百円のコーヒー一杯をすかして実に錯綜とした世界が視えてくる。
 現代(現在)の特色はあらゆる商品の背後に明快にし得ぬ世界が横たわっている事を、ほとんどの消費者と呼び、呼ばれる人達が本能的に知っている事だ。
 別の言い方をすれば、あらゆる「モノ」は何重もの包装紙状の膜がかかっている。情報社会の情報というのはこの膜の事である。あるいはその膜自体を我々は「モノ」と呼んでいる現実の中に居る。
 それ故に、つまりそう考えざるを得ぬと、我々はモノをつくりにくいと考え、モノが視えにくいという俗論の渦中に巻き込まれてゆく事になる。そして、ありとあらゆるモノが複製品(コピー)である。身の廻りの生活環境にオリジナルは無い。全てが複数つくられていて、複数の回路で交換されている。そう考えると「モノ」と抽象的に考えている何がしかの全ては複製品、極端に言えばニセモノという事になる。今風に言えばヴァーチャル世界であり、基礎的に言えば情報社会の中枢はそれだ。
 あらゆる実体験と思われるモノ自体がすでにリアリティを失っている。それよりも実体験自体と思われる世界がミラージュ状に構成されている。その世界を意識的にあるいは無意識ではあっても直感として把えている如き人間たちが居るならば、彼等のモノつくり観、生活観らしきモノを開き、そして共に考えてみたい。
 一.山口勝弘
 二.イッセー尾形
 三.レプリカ製作者
 四.義眼づくり
 五.ロボットづくり
 六.復元家
等を対象とする。
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 三〇日日曜日、朝になってみると月下美人三輪共にすでにしおれて、すでにあの香り、匂いの一片だに無い。二〇時月下美人五輪いきなり咲き開く。馥郁たる香り辺りに満つ。この花は何処から来たものか。日本古来の花では無いのは確かだろうが、砂漠の国から辿り着いた花だろう。
 258
 二十九日土曜日、朝から晩まで読書。五、六册読んだか。夜半月下美人咲く。しかも三輪一時に。これは豪勢であった。三階迄濃密な香りが立ち昇ってくる。
 257
 平岡敬氏来室。広島県の人間がプノンペンに出掛けて、ウナロム寺院僧正スタッフと会ってきたそうだ。そこに居なかった渋井さんの同席を求められたと言う。仏足が西を向いているのが日本の軍国主義を想わせるとか言われたそうだ。東京に居る渋井修さんにすぐ連絡し、実際の状況を尋ねる。広島県の人が言っている事と落差があるようだ。良く、カンボジア・ウナロム寺院の実状を知り抜く渋井さんと日本での考え価値観から考えようとする県の人との受け止め方は大きな落差があるのは、これは仕方無い。電話では話しが通じぬ部分があると解ったので、来週早々に渋井さんと会う事にした。平岡さんには責任を持ってこの仲はとりまとめると申し上げる。
 沢山の人間が参加するという事はそれなりに大変な事なのだ。広島県の方々もこれから十年二〇年と本当にカンボジアに根付いてゆく事を考えるならば、それなりの大きな考えを育てないと上手くゆく筈がないと考える。先ず、渋井さんとお目にかかり、話しを聞き、それから動く事にしたい。ひろしまハウスの未来にとっては決して悪い話しではない。私さえ我執を捨てて、自由になっていれば解決出来る。より良いひろしまハウスになるのではないか。
 256
 十八時高田馬場文流にて鈴木博之先生と会食。ここしばらく時々お目にかかってはいたが、気持の上ではシシリアの旅以来の再会ではあった。パレルモで鈴木先生と一緒に体験したのは、様式の植民地的バロック化という事だった。それとは別にジョサイア・コンドルの先生であったウィリアム・バージェス設計の聖堂の色濃いサラセン様式の顕現は近代化に於ける一国(日本)が選択せざるを得ない様式そのものが内在させる危うさというモノを如実に示していた。日本の近代建築の素が持っていた危うさのようなものだ。模倣自体が示す根深いシステムを眼の当たりにしたのである。良い旅であった。私は様式の伝播のシステムの一端をパレルモに於いて鈴木先生から直接的に教えられたのだ。と勝手に思っている。思うのは自由だから。二〇時過ぎ京王線で世田谷村への帰途である。今も又、模倣の歴史的繰り返しの時代である。
 二九日六時起床。今日は午後遅く広島の平岡敬氏が上京される。
 255
 十四時中国人大学院入室希望者面談。北京プロジェクトミーティング。北京プロジェクトは近日中にサイトを開く予定。ひろしまハウスのオープニングツアーのサイトをレバノンの戦争情報から入るよう院生に指示する。仲々の難問を禅問答風に投げかけたのだが、どう対応するか楽しみにしている。答えの一つは「戦争とひろしまハウスの使い方」について平岡敬元広島市長に講義してもらう事で、早くその事に気附かねば駄目なんだがな。
 ツアーのプログラムをデザインする事が、自然にその答えに連なってゆく事に気附くべきだ。五日位のプノンペン・スクールの中で、
 一.平岡敬 つくり出す平和 チェルノブイリとプノンペンそしてひろしま
 二.馬場昭道 カンボジア仏教について
 三.中川武 クメール建築の平和
 四.吉村作治 古代建築の価値
 五.鈴木博之 ポルポトと歴史の切断
 等のプログラムを組んでみたらどうかね、レバノンの戦争はそのプログラムのポスターに使えるよ。あるいは、地元のウナロム寺院の学習僧の参加を得て唱詠を儀式化するとか、現地の渋井さん、小笠原さんの力を借りれば出来るかも知れない。
 千人の参加者を得る為にはそれ位の、それ以上の事をデザインしなければならぬのを、本当は知らなければならない。
 254
 二十七日朝北京モルガンセンタープロジェクトのオリエンテーションを考える。昨日スタッフからそれぞれドローイングを出させた。どう使うか。先ずはそれぞれの位置の確認からスタートさせる。今夕は鈴木博之先生と久し振りに会食の予定があり、楽しみである。
 253
 二十六日、昨日は午後、池袋東上線で和光市のホンダ技術研究所へ。日経BP社。講談社S氏同行。再び、現代の職人群像を探ってみようという企画である。ホンダはクレーモデルを製作するKさんとIさん等五、六名の方々に取材した。私が雑誌「室内」で現代の職人を取材したのは、もう二〇年程昔の事になる。その時代と今と、どれ程の開きがあるのか知りたいと思った。当時、十年程をかけ百数十名の方々を取材した。その全体の温もりはまだ記憶に新しい。その総合的体験をベースに今の「職人」たちがどのような生活をし、どのような気持ちを持ち、どのような希望を持つのかの現実に触れたいと考えた。第一回がホンダ四輪開発センターのモデラー達だった。久し振りの現場取材であったが、仲々今の現場のリアリティーを取材するのは大変困難であるというのが先ず了解できた。企業に属する個人の考えを、どう取るか、それがこれからのシリーズの課題であろう。面白い話しをたくさん聞けたが、皆、こちらも知っているし、予測できる話しが多かった。インタビュー技術が下手な事もあるだろうが、あの企業秘密の壁を社会倫理を犯さずにどう乗り越えるかが鍵になりそうだ。和光駅のコーヒーショップでこれからの事など話し合い、十九時迄。
 京王線が人身事故で全線ストップになったので、振替で小田急線成城からバスでかえった。こういう時に大声で駅員を怒鳴ったりのヒトが出現するが、仕方ない事をいぎたなく、ののしるのを視るのは不快だ。。あきらめるのではなく、仕方ない事は仕方ないのである。こういう事への対応が実にTVの品性下劣なキャスター的になってきている。大宅壮一がかつて一億総白痴化と言ったが、一億総キャスター化とでも呼びたい現象であろうか。
 TVの番組作りの方向は社会モデルとしては決して良い方向にアングルを開いていない。TV界、メディア界に本格的な人材と呼べる者が少ないからではないか。深夜、川口慧海のチベット旅行記(二)ようやく読みおえる。慧海はようやくにしてラサに入った。慧海の視線は宗教家のそれではない。やはりこれだけの体力に恵まれてしまった人の眼、すなわち今で言う体育会系の人物の視線なのである。時々、記録されている和歌が実に俗っぽいのであるが、これ位でないとヒマラヤをあれ程には走破できぬのもよく解る。ラサをどう記録しているか、楽しみである。
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 十四時新潟市役所来室。九月中旬から一週間の農村ワークショップ開催の具体化相談。今週中にHPに開催のお知らせを掲示する事を決めた。農文協甲斐氏途中より参加。十六時過若松社長参加。ロシアのダーチャ事情を聞く。来年新潟市は田園都市として初の政令指定都市となる。学ぶべきモデルはもう世界の何処にも無いし、同時に無数にあり続ける。その後研究室ミーティング。終了したのは二十一時前。
 翌二十五日七時過東大出版会の校正に手を入れる。九時過修了。北京モルガンセンター計画を本格的に進め始めている。本格的というのは原理的にという事で、非現実的様相を呈して来ざるを得ない。しかし、面白い。世の中ひっくり返してやるぞと馬鹿な妄想が時に膨らむところが特に面白い。この自己内誇大妄想も想像力の一部だろう。ときの忘れものから送ってもらった、トリシャ・ブラウンの本を読んだが、良く解らなかった。詩人とダンサーはどうも苦手だ。
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 北京モルガンセンターProjectは古典的(近代的)なプロジェクト、すなわち実物を予想図をなぞる形式で表現しても駄目かも知れぬ。表現の形式から考える必要がある。つまり、完成予想図を描いても意味が無い。先ず、何よりも、我々の頭脳の中に、その何がしかの断片が記録され、それが集積してゆく過程自体がアンダー・コンストラクションとして表現され、実際(リアル)の機能も果たすようになる。そして実物が出現し、消える。頭脳内のセンターは消えたり、残ったりしている。その全体を表現する必要がある。二十四日朝、そのアイデア自体をスケッチブックに記録する。こうなってくると記録する事自体がアイデアを抽出する。重要なモメントである事が解る。
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 七月二十三日、昨夜は磯崎夫妻とイタリアのアーティスト夫妻(名は失念した)等と会食して、久し振りに喰べ過ぎ、勿体無い事に少々気持悪くなって六時過目覚めた。何才になっても飲み方、喰べ方が身についていないのを痛感する。チベット帰りの磯崎はもう少しは疲れているかと予想していたが、全くそんな風もなく、いささか拍子抜けする。もう少し疲れた風を表現してもらいたい。イタリア人夫妻に福岡オリンピック案及び東京案について、話したりしていた。元気だ。マッタク。私設文化大使の風があり、もう世界戦(IOC)に出る下均しをしている感があるのであった。今日は本当に久し振りの休日で楽しみにしていた。昨日青山ブックセンターで買った「岡本太郎」はすぐ読みおえそうで、あと何するか。屋根裏のチベットから来た釈迦牟尼像は線香に包まれて、マ、とりあえず安穏にしておられる。姫田忠義「私の民衆風土記、周辺への旅(未来社)」読む。縄文土器を含めた日本の器について書かれた章が興味深かった。姫田氏は後年レヴィ・ストロース研究所の招きでバスク地方の研究に渡仏されたが、その辺のフランスの構造主義的アプローチと宮本常一のそれとの比較論の如きものを是非書いてもらいたい。日本の民族学の国際的な位置関係(上・下を含めて、しかしそれ計りではない)を知りたい。夜、ピーター・ホップカーク「チベットの潜入者たち(白水社)」読む。チベットに持っては行ったが、一頁も繰らなかった本である。
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 二十二日早朝、チベット紀行書き進める。十時大学大学院一般入試面接。十四時GA杉田君とおしゃべり。十六時過迄。作日研究室のサイトが更新されてチベット紀行の二になった。日記のスタイルを変えなくてはと色々と試みてみたが、先ずは具体的なスタイルとしてチベット紀行と日記の交差というのを試みている。私的記録とエッセイとのミックスである。何処迄出掛けてみても退屈には変わりない現実と、その現実をなぞりながらのフィクションとしての小さな表現がどうクロスするか。もうすでに紀行二と今は九日間のズレがある。九日の間に何が風化し、何が残るのか自分でも楽しみだ。中谷君からもらった渡辺豊和の「文象先生のころ毛綱モンちゃんのころ、山口文象毛綱モン太覚え書(アセテート)」拾い読みする。十年二十年はまたたく間の事である。チベット密教建築を体験して、毛綱建築への考え方が変わった。紀行文に書いてみたい。
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 北京オリンピックサイトのモルガンセンタープロジェクトがようやく動き出した。福岡オリンピックとの橋渡しが出来れば、これに勝る僥倖はない。日本仏教協会にも馬場昭道氏を介してコンタクトしなくてはならない。産業界、経済界、行政だけではこのプロジェクトは片輪になってしまう。
 二十一日小雨。梅雨は明けぬ。今日は大学で補講の連続である。集中して講義した方が効果的であるという説もあるが、聴き手の能力にも左右される。夕方にモルガンプロジェクトミーティング予定。
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 福岡市の野本和範君より山笠の写真を送ってもらう。彼は研修生当時より大分体重が増えているようで、少しオタク青年の眼付きになっていたのが気になるが、身の丈にあった目標を持って、強く生きてもらいたい。早稲田バウハウス・スクール が残した人材であるのだから、何とかやり抜いてもらいたい。キチンとした社会人となってから再び私のところで何かやる機会もあるだろう。無名だが、しっかりとした人生観を持ち、地域に根差した生き方を通す職業人こそ必要な人材なのだ。健闘を祈る。
 ワークショップを介して様々な人材と出会ったが、大半の人間を覚えている。気にはなるのだが、いかんともし難い面もある。先ずはぞれぞれに、それぞれのやり方で良く生きるしか無いのだ。
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 十五日博多で山笠の山に上っていた日に篠原一男先生が亡くなっていた。今日十九日に大阪の中谷礼仁君から聞いて初めて知った。篠原先生とはこれまでに何度かすれ違った。何度もお目にかかる機会はあったのだが、深く影響されたりという事は無かった。上原通りの家だったかを見せていただいたのと、用事があって東工大百周年記念館を実見したのが、わずかな作品体験である。鶴のように首が長く、自矜心の強い方だなという印象であった。この人は建築家村の中では最左翼の芸術派であった。しかし、私の印象では先生は現代芸術への総合的なパースペクティブを持ってはおられなかった。先生は常に自分が依って立つ処を中心に世界を眺めていた。自他、社会との関係性、つまり歴史性については無関心であられたように思う。篠原一男先生は先鋭的に建築ジャーナリズムを良く使い抜いた。特に石堂威編集長時代の新建築は先生をある種のイコンの如くに扱った。篠原一男先生が一時代を画したのにはそれが大きく作用した。先生の作品は先ず社会の現実に在るという事よりも、ジャーナリズムのページの写真の中に在った。ある意味ではメディア時代の建築の価値を先取りしている風があった。が、しかし、その事は強く自覚されておられなかった。先生は一度新宿の小田急デパートで複製住宅展だったかの展覧会を持たれた。あの展覧会はその作品の複製、つまり繰り返しへの展望を備えていた事によって、先生の社会性を帯びた唯一の思想性を備えた実践であった。
 午後から夕方迄、研究室から近江屋迄席を変え中谷礼仁君とおしゃべりした一日だったが、結果的には篠原一男先生の死を知った一日でもあった。
 北京の李祖原から連絡があり、モルガンセンター・プロジェクトはどうかと、勿論、前に進めるよと答えた。グッドの一言で電話は切れた。こういう感じ、ドキュメンタルな世界は一切篠原一男世界には無かったように思うが、どうか。彼の終幕に近く、ヨーロッパでの大掛かりなプロジェクトの話しもあったそうだが、あのスタイルでは無理があったろう。しかしながら、建築界は貴重な人を失った。記して追悼の辞に代える。
 二〇日早朝カゼ気味で長く眠れず、メモを記したり、チベット帰りの釈迦牟尼像周辺の整理などして無為の時を過ごす。
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 十八日、九時前起床。福岡で梅雨は明けたと思われたが、小雨模様。十時半大学。すぐに大学院入試採点、および設計製図採点作業。十三時過修了。世田谷村日記メモ整理する。また振出しに戻ったな。
 244
 十七日、小雨終日原稿書き、何とか夜半終了。少し手を入れてFAXで送附。何とか、鈴木博之先生に顔向けできるかも知れない。チベットの釈迦牟尼像は三階の仕事場に、言われる通り、南向けに鎮座していただいた。
 243
 十六日昼前T氏と会い、御礼を言う。色々文句もあるが、これだけの体験をさせてくれたのだから、先ずは礼を言うのが道理だ。北京モルガンの仕事の話しを少しするが、T氏の頭はまだ山笠と福岡オリンピックで一杯である。いずれ、もう少し進めたら相談してみよう。荷物をまとめ、午後便で東京へ。夕方世田谷村到着。東大出版会の原稿のつづきに取組む。
 242
 十五日山笠本番追い山笠の日。朝三時中川端商店街事務所へ。着替え。締込み、ハチ巻、地下足袋、他の正装を決め込む。フンドシは生まれて初めてである。心なしか気持ちも引締まる。縄を腰にはさみ込み。赤い追い棒を持ち、何となくその気分になり町へ出る。八番中川端飾り山は、山笠の伝統を最も背負った山で、何しろ大きい。仕掛けからくりも色々と備えている。夜はまだ明けぬ。
 やがて、四時五十九分。一番山スタート。次々と五分おきに二、三、四、とスタート。八番山も直線コースに出て、いよいよ山に助けを借りて上る。かつぎ手の気合いも最高潮である。八番はなにしろ大きくて重いからスピードは出ない。常勝千代流れ、東流れ西流れと比較したら、堂々としているのが取得だ。やがて、五分前、一分前の声。そしていきなりスタート。大声でオイショ、オイショの声を出し、追い棒を振る。山留めから、グーッとカーブを切り、櫛田神社境内のメインスタジアムへ突入。これはまさにオリンピックである。沢山のTVカメラ、報道、さじきの観客の前を走り抜ける。アッという間であった。境内を山に乗り、夢見心地で廻り抜け、町へ。程良い処でお役目を終えて山を降りる。水も大分あびた。八番山に伴走して、再び中川端へ。実に良い体験であった。いつの間にか、夜も白々と明けた。簡単な直会を終え、ホテルに戻る。朝食の後、少しの仮眠、午後遅く福岡市立博物館へ。吉村作治早稲田エジプト 40 年展を見学。見応えのある展示であった。吉村作治の大柄な大衆性が良く出ていた。吉村作治にあいさつ。氏の講演会は午後の二回共超満員で札止めとの事。バスでホテルに戻り、夕食後休む。明日は東京に戻らねばならぬ。
 241
 翌十四日は午前中休み。午後秀巧社ビルでJOC、及び競技団体への説明会に出席。聞けば各競技団体の福岡への支持の感触は概ね良好との事である。福岡の日差しは本格的な夏の到来を思わせる。T氏の友人達と会う。夕方、土居流れ近くの寿司屋で会食。ホテルで仮眠。
 240
 十二時四五分福岡空港着Hさん等迎えてくれて、キャナル・シティーへ。聞けば磯崎新は昨夜上海より福岡入り、懸命の手当てで体は奇跡的に快方に向かい、何とか山笠の山には乗る事になったと言う。ホッとすると同時にそれならこんな思いをして、北京、上海と便を乗り継いでまで、来る事も無かったのである。まったく。気が抜ける。ドーッと気が抜ける。ホテルで山笠のハッピ、モモヒキ、ゾウリ等に着替えさせられる。カンカン照りの山笠会場へ。二番山、土居流れで磯崎新に再会。足にデッカイ、肉離れ防止用テープを巻いていたが、元気そうだった。フンドシもキリリと締めあげ、磯崎新もまんざらでもなさそうであった。ラサ以来の再会である。やがて土居流れの山は掛声と共に走り出す。市役所迄を走り抜けた。雪駄が足に心地良い。夕食は山中で。磯崎と分かれホテルに戻り、ベッドに倒れ込む。長い一日であった。
 239
 六時モーニングコールでシブシブ目覚める。フロに入り、荷をまとめて六時半ロビー。G君と地下鉄、ドイツ製のホラ、何て言ったか磁力で浮く乗り物と乗り継いで上海国際空港へ。磁力で浮く奴はG君は四百KMの速力出ますと言ったが、三百KMそこそこだった。そうだろう、たった八分なんだから四百KM出したって仕方ないのである。全て、Tが悪いのである。空港でG君と別れて、中国東方航空にチェックイン。何しろ眠い。飛行機は二〇分遅れで離陸。アッという間に福岡だ。たった九百八〇KMの距離である。今度、シャングリラからラサまで走った距離が二千三百KM程らしいから、随分な事をしたものである。福岡空港着は日本時間で十二時三〇分との事。福岡に着いてからが大問題である。
 238
 十三日一時過上海空港着。二時頃迎えのG氏と会う。もうヘトヘト。空港内のマクドナルドで食事しましょうかと言うので、俺はマックはダメなんだと言う。こりゃ仲々のもんだなと覚悟。ホテルにチェックインして近くのチェーンストア風のラーメン屋に入り、ラーメンとまんじゅう少々、トイレが無いのには驚いたが、マアこの時間では仕方ないのだ。店員のガキ共の態度の悪さも凄かったが、G君が悪い訳ではない。全てTが悪いのだ。G君は悪くない。当たり前である。ホテルに戻ったら三時だ。六時にモーニングコールだそうで三時間は眠れるそうだ。
 237
 このままだと上海に着くのは午前二時頃になってしまうな。Tの野郎どうしてくれるんだバカヤローと怒り心頭に達す。本当に俺は馬鹿だ、お人好しだと自分で呆れ返る。上海空港でTの部下が待ってなかったら、本当に腹切らせるぞと決心。もうどうとでもなれとヤケになった途端に離陸するらしい。今夜は、というより明朝はどこで眠れるのか。Tのバカヤロー、殺してやるとつぶやく。もう二十四時前である。
 236
 幾つかの建築を李に案内してもらって、モルガンセンターに戻る。福岡のT氏より何度も連絡がある。どうしても、明日の昼頃に福岡に入ってくれとの事、それが出来ないと切腹モノだとかなり深刻だ。いいじゃないの、腹の一つや二つかっさばいて見せろと思ったが、口には出さず。冗談じゃネェーよ、こちらの都合ってものも大いにあるのだと答える。
「本当に博多山笠の歴史初の大事件になってしまうんです」
 と大の男が声をふりしぼっている。クドクドと口説かれて、遂に折れる。実に甘いな俺は。李祖原に事情を話す。そうか、と Mr. 郭がすぐ北京上海のチケットを手配してくれた。香港空港での郭氏手配のフリーパスを思い出した。ホテルの荷物をまとめ、李祖原に北京空港まで送ってもらう。空港に着いたところが、北京空港は雷の為、全便がストップ。李とは、もし飛ばなかったら予定通り明日の便で直接福岡に飛べば良い、電話してくれ、又、空港に戻って拾ってやるよ、と別れた。もう四半世紀の附合いだ。友人は有難い。ラウンジは待客で一杯。結局二時間半遅れの二十二時半に飛行機に乗り込む。乗り込んでも一向に飛行機は飛ばず。そのまま、今二十三時半。
 235
 食後のデザートにもうひとつのオリンピック計画とも言うべきプランを提案した。北京モルガンセンターを東アジア・コモンハウスのショーケースにしようという計画で、ここ一年程かけて暖めていたものだ。長さ六〇〇メーター、高さ二〇〇メーターのショーケースである。了解を得て、ランチを終えた。
 234
 七月十二日、北京三日目。午前中はホテルで休息させて貰う。流石に体が休みを欲している。今日の午後は李祖原に北京の建築を案内してもらう積もり。
 北京の空はチベットと比較すれば途方も無くどんよりと濁っている。北京モルガンセンターは二〇〇七年末までに設備と外装を完成させなくてはならない。あと一年半の工期である。大変だろう。しかし、オリンピック村はようやく架構が現れたばかりの状態だから、当事者達は平然としている。 Mr. 郭もまだ形態の最終決定を下さない。この人達の神経はどうなっているのか。今日は昼食を Mr. 郭の家に招待されているので楽しみである。
 十一時ホテルからピックアップされてモルガンセンターへ。正午過、 Mr. 郭宅へ。四合院風の作りの邸宅だとは李から聞いてはいたが、これ程までの大邸宅だとは想像もしなかった。北京の超一等地に位置し周囲は全て伝統的四合院の屋並みである。地下はプール、大型サウナ群、広々としたギャラリー、そして映画室、超大型のスクリーンでカンフー活劇を観た。一階は居室、日本で言えば大型の大使公邸といったところか。二階はギャラリー。ここが最も驚くべきところで秦代の古拙な美しい仏の彫像やらが並んでいる。日本で言えば最古の飛鳥寺の飛鳥仏頭像の完全な、より以上の立像である。漢代、唐代の絵のコレクションも多い。古代の絵は薄い木の皮状のキャンバスに描かれていた。このコレクションの一部でモルガンセンター一ヶ分は軽いらしい。とび切りうまいワインでランチ。当然料理人と給仕係がつく。ま、仰天しました。フィリップ・ジョンソンのニュー・キャナンのガラスの家も、その豊かさに驚いたが、それよりも余程驚いた。何しろまだ三〇代なのだから。中国社会の不思議だな。
 233
 ミーティングの後ランチへ。北京大菫拷鴨店で北京ダック、他を食す。これは美味であった。北京で No. 1の味だそうだ。特にスープが良かった。喰べ過ぎて腹の調子がおかしくなる。天安門広場近くの国立オペラハウスを車から眺めてモルガンセンターに戻る。ポール・アンドリューのオペラハウスは良くない。極めて悪い。フランス人にハイテクは無理がある。歴史がないのだから。イギリスには産業革命以来の技術の進化への信頼の歴史がある。フランスはせいぜい、失敗したコンコルドとレース飾りのエッフェル塔だ。オフィスに戻り、北京オリンピック時のスペシャル・エキシビジョンのプラン作りをまとめる。十九時大体まとまる。李祖原と相談。モルガンオーナーの Mr. 郭に明日プレゼンテーションする事になった。腹が全然空いていないのにディナーに出る事になってしまった。清代口林式食府、白家大宅門食府なるテーマパークのようなレストランへ。清代の悪趣味の極みの固まりレストランであった。李にこれは悪趣味だぜと言ったら、味も良くないし高価だと返事が返ってきた。北京を勉強させられたのだろう。完全に腹の調子が悪くなり何度もトイレに行った。大丈夫かと言われて、大丈夫ではないとも言えず、フラつきながらつき合う。二十一時、北京モルガンセンターに戻る。何度もオリンピックサイトを通り過ぎたが、全く途方も無いスケールのサイトである。これに比較したら福岡オリンピック案の合理的正当性は歴然としている。北京オリンピックは史上最大級のオリンピックになるだろう。ベルリンオリンピックを超える超国家主義的なものになるのは歴然としているのだ。北京オリンピック後のオリンピック・ビジョンは途方も無く難しいものになる。東京のオリンピック案は全くその事を考えていない。二十一時半 Mr. 郭と再会。モルガンセンターのモデルを前に少しの議論。相変わらずのエネルギー量を発散している。この人物とは妙に気が合うのだ。二十二時半、明日の再会を約し別れる。李と共にホテルに戻る。福岡のT氏より何度か連絡あり。私も体調が良くないので明日福岡に来いと言われても体が言う事をきかぬであろう。申し訳ないが、福岡オリンピックと同じ位に大事な仕事を創ろうとしているのだから、勘弁してくれと言いたい。洗濯して、メモ記し二十四時過ベッドに横になる。眠れるかな。色鉛筆をけずってから眠ろう。
 232
 七月十一日朝七時半起床。良く眠ったのかどうかも知らぬ目覚めだった。原稿の件気になって仕方ないが体が言う事をきかぬ。昨夜はチベットのラサ、ジョカンテンプルの大僧正から頂いた釈迦牟尼像をバッグから取り出して、しみじみと眺めた。良い像である。初めて仏像に親愛の情を持った。九時にロビーで李と彼のスタッフに会い、朝食。十時、北京オリンピックサイトを巡り、モルガンセンターへ。一年振りだ。その間、モルガンセンターの工事はストップしていた。3Fに上り、モルガンセンターの最終案を見る。少し計りの意見を述べる。長さ六百メーター、高さ二百メーターの大スケールの建築だが、こちらも磯崎新と福岡オリンピックの長さ1.2KMの建築計画を体験したので、なんだか小さく感じてしまった。この建築は北京オリンピックサイトの入口に当る所に位置し、北京のニューシンボルになるだろうものだ。ドキュメントとしても興味深い。北京市最大級の事件であろう。 Mr. 郭はモルガンスタンレーファミリーと特別な関係があり、それでファミリーの一員となった。若いビジネスエリートだ。中国の次世代のビジネスを切り拓く人物になるだろう。
 231
 ビールを少量飲みながら再会を祝す。李は北京モルガンセンターの為に台北から来た。 Mr. 郭は今、鄭州に出掛けているそうで、明日北京に戻るとの事。二〇時に会うスケジュールのようだ。北京市最大級のスキャンダルになっていた北京モルガンセンターのコンストラクションサイトは郭と北京政府の戦いになり、ようやく全てが解決の運びとなった。完全な一年のブランクであった。李祖原によると、ラサの様々な計画はやはり北京が全てコントロールしているとの事、しかも軍の力が強いとの事。明日、 Mr. 郭にその辺りの事を尋ねてみたい。李祖原はラサ地域には余り関心が無いと言う。何故なら、ラサは、というよりチベットは密教で、彼は禅だから、別世界なんだそうだ。チベットは中国にとって大きな政治的問題であり、チベットに関して中国政府の方針は大いに問題があるのは誰でも知っている事だろうとの意見で、私と同じ考えのようだ。二十一時別れる。明日は九時に共に朝食との事。二十四時眠りにつこうとする。
 230
 十八時半、北京へ向けて発つ。北京空港には李祖原が迎えてくれる筈だ。しかし、中国は誠にデッカイ。デッカ過ぎてまとまりがつくのだろうかと余計な心配をするばかりだ。佐藤健との最後の旅になった「阿弥陀の来た道」探索行と今度の旅は連続しているように思えてならぬ。あの旅も最初佐藤健からシルクロードのウルムチに同行せよと言われたのだが、積まらぬ所用があり、ウルムチは断念し、敦煌行となった。あの時ウルムチ、サマルカンドへ同行していれば良かった。阿弥陀の生誕と東方への道を眼の当りにできたかも知れぬ。そして今度の磯崎新とのチベット行も、結局、阿弥陀の旅であったから。阿弥陀とは光、無量寿光を意味する。この旅の事は違う書き方で何とかまとめてみようと考えたりしている間に4111便は再び離陸。遂に河口慧海のチベット紀行は第二巻中途までしか読めなかった。磯崎新も全五巻は読み切れなかった様で、三巻以降はこちらに廻って来なかった。磯崎が事故にあわなかったら、全五巻全部チベット高原で読む羽目になったかも知れず、それは相当にハードな読書になったであろうと思われる。四千、五千メーターでの読書は力業を必要とするんだナア。機内のディナーで白ワインを飲む。久し振りの酒だ。まずいサントリーワインみたいなモノなんだが、上味の様に感じるのが面白い。予定を大幅に遅れて二十一時頃北京空港着。荷物も遅れて出てきてイライラする。ようやくの思いで出ると、李祖原とモルガンセンターのスタッフが待っていてくれた。「大ぶ遅れたな、成都で何かあったか。」と李。白い大きなリムジンタイプのBMWが待っていて、乗せられる。 Mr. 郭の車だろう。マフィアになった感じで李と共に北京市内へ。クラウンプラザホテルにチェックイン。7階のバカ広いスゥイートをとってくれていた。汚いチベット帰りの格好で申し訳なくなる。気が小さいな俺は。三つもある部屋に汚れた荷物を放り込み、すぐ李とBarへ。
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 七月十日十七時十五分成都国際空港のトランジットルームに居る。
 チベットのラサで磯崎新と別れて、一路北京に向かっている。ラサから成都までは二時間半程の飛行だったが良く眠った。磯崎の足の具合も何とか程々の状態まで回復したようだ。今朝は西蔵澤当飯店で朝九時半迄熟睡した。昨夜はワールドカップを視たいという Mr. SAIの子供達の強い希望もあり、チベット最良の建築であるダナンのサムイエ寺(桑那寺)宿泊をあきらめて、一時間半程車にゆられて街に降りた。磯崎の体調が万全であったなら泊まりたかったが天の指示であろう。私も泊まりたいが半分、ホテルでシャワーを浴びたいが半分であったが、極く極く自然なところであった。町に降りたのは。今朝は十時にホテルのレストランへ。磯崎と朝食。彼のこれからの計画の話しを聞く。ディテールをここに書くのは失礼だろうから書かぬが、岡倉天心覚三の「茶の本」を超える日本文化論を書くつもりのようだ。五千六百メーターまで登り降りした今度の短い大旅行の目的もその中の一章を書く為のイメージの確認の旅でもあったようだ。外国人に解らせたいという意志は長年、外国人と交流し、文化的な戦いを続けた者が辿り着いた理念であろう。謂はゆる日本の文化界には、こういう人物は座り心地が余りよろしくないであろうのを良く良く知る。十五時四〇分ラサ発予定の中国国際民航の4111便がいきなり一時間早い十四時四〇分発となり、一人であったらあわてたであろう。それにしても予定を少し早めてホテルを発って良かった。八日間を共にしたドライバー達とも別れた。磯崎の事故の原因ともなったチベッタンのドライバーが別れに、「本当に申し訳なかった」と初めて、謝り、磯崎も「気にするな」と返し別れた。磯崎は運が良い人だ。あの事故は一つ間違っていたなら、足一本どころか、ランドクルーザの下に巻き込まれていただろうから。誠に何が起きるか解らぬ事を眼の当りに知った。
 七月二日〜七月九日の世田谷村日記チベット紀行編はカバーコラムに掲載されています。
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 夕方代々木GAで二川幸夫と久し振りに会う。相変わらず、元気であった。七十三になって、この元気振りは異様だとは思うが、磯崎を見ていると似たようなものではある。ただし、二川幸夫の変わりの無さには余り波がなくて、残念な事に私はこの人物の不元気、不機嫌振りに出会った事がない。久し振りに会った二川幸夫の印象は「この人は建築狂いの最期の人になるな」という確信であった。時代は急速に動いている。二川幸夫のような明快な姿形、そしてムキ出しの価値観をわずらわしいモノとして遠避けるようになっているように思う。特に日本では。衰退期とはそういうものだ。誰がどう頑張ってみても、建築は今急速に力を失っている。この人の強い愛情を建築は受け止める事は出来ない。十一月にカンボジアに一緒に行こうという事になり別れる。
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 七月一日の朝刊各紙はいっせいに二〇一六年オリンピック誘致福岡 VS 東京を取り上げた。各全国紙共に計画案は福岡が優勢の報道である。特に読売新聞はオリンピック誘致取材班記者の採点表まで発表するという力の入れ方である。競技会場計画は8対5、オリンピック選手村は9対7で共に福岡。一般的インフラ整備は7対8、宿泊施設は6対9で共に東京。という具合に十二項目にわたって点が付けられ、総合は 86 対 86 で全くの五分五分という事になっている。要するに、東京の今の力と福岡では東京、五輪にかかわる諸計画は高水準で福岡という判定である。都市計画、環境計画、建築計画の視点から見れば、東京案には、見るべきモノは実に少ない。石原慎太郎東京知事は良い作家であった筈だが、三島由紀夫と同様にモノを、つまりに都市や建築を介して、社会モデルを視る才質には大いに欠けているのではないか。
2006 年6月の世田谷村日記

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