石山修武 世田谷村日記 | |
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6月の世田谷村日記 | |
R209 | |
五月三十一日 配島工業社長配島氏と打ち合わせ。安西直紀氏と連絡。昨日の打合わせ整理。丹羽太一等と打合わせ。十五時了。ウェブサイトで遅ればせながら、西村修出演のイカレスラーを体験。よく西村氏は出演をOKしたものだと思う。エライ。渡辺豊和氏の漫画大学よりの商品イメージあり。私は、こういうのは作れると思うけれど、作らない。渡辺大志(いろんな渡辺が登場して紛らわしいのが面白いが)は、これに近い線の建築で行くのかなと予測する。これでは、一体何を言っているのか普通は全然解らないだろう。解らん方が健全なのだ。チョッと若い世代の問題に眼を向け過ぎていると反省。わざわざ身を縮めることはないよね。 サイトの表紙を理屈から、具体にスリップさせた。こんなモノを作ろうとしている。これなら、解りやすいでしょう。
六月一日 | |
R208 | |
五月三〇日 昼過、鈴木博之先生より電話あり、一ノ関ベーシーの菅原のところで遊んだらしい。菅原は元気だったよとの事。秋に先生のお手伝いをする事になる。 十八時、ホテルオークラ、日経BPオンライン開設一周年記念パーティ。安西直紀、諏訪太一両君と打合わせ。プロレスラー西村修のフリースクールの件は、更に考えを進めて「向風学校」開設とする。私にとっては、自分の学校運動好みの最終ステージとするつもり。若い二人はまことに頼りないが、行動力があるのが取り柄だ。二人とも慶応大学創設者・福沢諭吉研究会関係者である。 向風学校は安西を代表、諏訪を幹事長、私がオジキ役でスタートする事になる。当然、鈴木先生にも「向風学校」の知恵袋になっていただくつもり。究極の遊びだな、コレワ。二〇時過了。二十一時世田谷村に戻る。
五月三十一日 | |
Setagayamura Nikki : Open technology bed room 渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 | |
R207 | |
五月二十九日 十三時前稲田堤星の子愛児園。園長先生他と打合わせ。八大建設N氏と。鉄の変形ドームの色が少しあせてきたな。夕方、近江屋で一服。世田谷村に戻る。明日はハシカ明けである。二〇五〇年の交信、二片書く。
五月三〇日 | |
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 | |
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R206 | |
五月二十八日 二十二時前蒲郡の故幻庵主夫人榎本さんより連絡あり。JIA(日本建築家協会)から幻庵に何か賞を授与したい旨の打診があったが、どうしましょうか、そんなものいりませんよねの相談であった。当然、そんなものはいらないでしょうと返事する。価値体系が異なる世界のモノなんだから、JIAが賞を与えるなんて事を考えるべきではないのだ。JIAの賞はキチンといらないと考えている人間だっているんだ。榎本基純さんが生きておられたら、当然至極にそう考えただろうと思う。
五月二十九日 | |
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 | |
R205 | |
五月二十八日 午後研究室。明日でとり敢えずハシカ閉校は区切りだが、情無い事にしょうも無い件で生活のペースに狂いが生じた。幾つかの電話連絡。渡辺豊和氏より交信あり、すぐ返信を書く。私の方はようやくにしてサイトの道筋がボンヤリ見えてきたが、渡辺さんは私より、いささか年を召しているから大変かな。でも、渡辺豊和だから、だから何とかするだろうと思う。少し面白くなってきた。六時前研究室を去る。新大久保のコーリア料理屋で一服。世田谷村に帰る。二十一時半。
今日は、自民党の農水省の松岡大臣が自殺した。政治家になるような人間は自殺とは縁遠い印象だけがあるのだが、むしろ自死に追い込まれるには最も近い職業なんだろうか。肩書き外せば何もネェからな。しかし、それは万人に言える事でもある。肩書きに人間とだけ書ける人はほとんど0に近い程に少ないな。でも死ぬ迄の事ではないだろうに。 | |
R204 | |
五月二十七日 十一時過村を出る。十三時半指扇Aさんの家へ。一五時過了。真夏の如くに暑い陽差しの午後であった。村に十七時過戻る。大相撲白鵬優勝をTVで見届ける。その後、TVに見入る。チャンネルは勿論5分毎に変えて、TVに没頭。やはり、どう考えても活字体よりも情報量は圧倒的に多いのを実感する。ただ、問題は低劣な事だが、それは我々が低いままなだけだ。内容を問題にするのは間違いだろう。テクノロジーの問題ではない。インターネットも同じ事だ。 五月二十八日 六時起床。新聞を読んで、再び眠る。新聞は別に何もなしと言うような、相変わらず大変な事ばかりだとも言えるような。少し眠り八時過再び起きる。ハシカ閉校などもあり、ここのところ変な本を読み過ぎている。要注意だ。知識の増加は自身の作る意志の増量と反比例しかねない。本を読めば読む程、身体は馬鹿になるという現実もある。黄色ランプがチカチカと点滅している状況だな。 | |
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信 | |
R203 | |
五月二十六日 昨日の稲門建築界通常総会は盛会であった。今年より会長は竹中工務店副社長村松映一氏となる。今朝は七時半畑に降り、いささかの作業の後、終日学習。院生が収集した、レニ・リーフェンシュタール、南方熊楠、の資料を読みふける。金子兜太、鶴見和子対談より深い関心を持つようになった南方熊楠が面白い。夜、頭がぼーっとなり休むも、脳だけは動き続け、良く眠れず。しかし、何がクリアーになったわけでもない。 五月二十七日 日曜日 八時前起床。畑へ、昨日手入れした草花、野菜のツルの巻きつき具合を確認。昨日の乱読で、益々考えている事は迷宮状態に突入した。知識は増えれば増える程、そして、それを記憶すれば記憶する程動きようが無くなる。書物によるそれはサイトというテクノロジーから得る情報よりも質が高いだろうという、先入観があるからだ。しかしながら今のサイト状況を眺めれば、その事実は歴然としてもいる。サイトの進化はテクノロジーに裏付けられているから、リアルだ。そのリアルさが未進化なのだ。 | |
R202 | |
五月二十五日 昨夜は先生方と久し振りに飲んで、少々頭が痛い。八時起床。雨の中畑を見て廻る。WORK。午後研究室。A君のサイトをのぞいてみる。予想通り異世界をのぞく趣あり。すっごいスリップである。渡辺豊和氏との交信どころの騒ぎではない。A君S君とのコミュニケーションが何を生み出しますやら。全くワカラン五里霧中なのである。しかし変なエネルギーがあるな。 | |
R201 | |
五月二十四日 八時前起床。。畑へ、何もせず。しかし、身の周りのほとんど全部が、自分が育てた野菜や畑や草花、そして垣根も、そんな中に身を置いていると、何もしなくても何かをしている如くの気持ちになるものだ。ましてや、植物は勝手に育ってゆくから造形物とは違う。非常にルーズな、しかし明らかに造物、造形の意志は歴然としてある、言ってみれば開放的な場所になっている。 昼過、研究室。ハシカ閉校でも教室会議は開催される。当然である。
十七時前迄教室会議。十八時半、新任教員・非常勤講師の会。二〇時半迄。 | |
インデックスが二〇〇となった。RはREUSEのR。再生というのはおこがましいので、再使用のRだ。サイト作りは七年やっているので、インデックスをつけると数字が大き過ぎて重い。それで、やり直しの意を込めてRとした。 我ながら、ウェブサイトは少しづつ進化している。読者、観者はそれに気附き難いであろうが、私の方は少し自覚している。特に Nikki A Piece を 挿入して、サイト全体の筋径を交通整理したのは大きかった。昨日の事である。この二片を入れた事で、ようやく私のサイトに関する考えは明快になり始めた。ネットの本性は英語がベースになっているのを忘れてはいけない。絵は英語の代行だ。
< A HREF="../2050.html" TARGET="_blank">渡辺豊和との二〇五〇年の交信は、サイトにダイアローグの形式を取り入れようと始めた事である。すでに記したように、私の渡辺豊和再評価運動の趣向もある。サイトに渡辺との交信を章立てした途端に、私のサイトの性格がその傾向を帯び始めたのである。その傾向とはREUSEならぬ、それこそRE−BIRTHを、再生を、基調としている事がハッキリした。渡辺との交信が必要以上に戯作の風を帯びて始まってしまったのは、コレワ、鈴木博之先生との句会、妙見会以降の句作(ただの臭作だの声もある)遊びの成果だろう。
この交信を始めて、良く< A HREF="http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/" TARGET="_blank">渡辺豊和のサイトをのぞくようになった。実は、渡辺もウェブサイトの意味を、かなり早く直観でわかっていた人である。しかし、渡辺のサイトの印象はチョッと変だ。特に次世代の、多分息子さんのサイトが変だ。実作が余りにも、ダサイ。余計なお世話だと怒るのを承知で、コレワ、言っている。どんなモノ作ってもそれは自由だが、私にとってはコレワじゃまだ。老いつつあるオヤジと、再びヴァーチャルを装いながらの共同戦線を組もうとしているのだ。陣営の点検はして当然の事だろう。あのサイトは何とかして欲しい。補給班にもならんぞアレワ。しっかりしてくれ。 | |
R199 | |
五月二十二日 夕方、ハシカ騒動でほぼ無人状の大学を去る。今の日本の根本的欠陥は教育の中枢が抱える問題からも来ている。大方の議論としては、小、中、高の教育指針及び内実に問題ありとされている様だが、私は大学教育にも問題があり過ぎると、にらんでいる。大学は実社会のプレステージである。完全に消費社会化している。ここでの生産的機能が失われると、実社会のモデル自体が崩壊してしまう。今の状態は完全にそのマンマにそれでしかない。大学は教育という段階(プロセス)ではほとんど機能し得ていない。学生の幼児化に伴い、専門領域の知識、教養を植え込む以前に、基礎的な人格体力育成の如きレベルにどうしても眼が及ばざるを得ない。実体はほとんど、その水準の困難さへの直面ではなかろうか。人間として未成熟な人間に、専門的な知識を植え込む危険を犯しかねない現実の連続でもある。 | |
R198 | |
五月二十二日 朝六時起床。畑。何もせず。< A HREF="../topstory.html#070522" TARGET="_self">Nikki B piece に手を入れる。柄谷行人等の「NAM生成」読む。福沢諭吉研究会とのフリースクール構想への参考と考えて、の事だが、これは参考にはならない。運動向きじゃない人ばかり集まってしまってた。昨日から駄目田大学はハシカ感染スクールとして自己認定校となった。K大創始者福沢諭吉の流れを汲む研究会として、S・A君等はこの機会をとらえて駄目田大学向け自主スクールなど開催したら興行としても面白かったのにナア。足腰が強くないと出来ない事ではあるが。 午後遅く閉校中の大学へ。森閑として凍結。遺跡としての大学が出現している。 |
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< A HREF="../topstory.html#070522" TARGET="_self">B piece of story in Dun Huang, the Gobi desert | |
R197 | |
五月二十一日 午後、大学へ出たら、中庭に学生が密集していて、何となくザワついている。オッ、何か騒動か。全教授糾弾大会でも開かれるかと期待して研究室に行ってみたら、何と、馬鹿ばかしい。ハシカの流行で、全学閉校になったとの事。ハシカというのはハシカ、じゃない、タシカ、子供の時にかかっておくものだろう。大学生がかかるものじゃない筈だと、憮然とする。しかも、十日間も大学閉めるってんだから、天を仰いで、ならぬ、天井を睨んで怒トーの一句。 だい学よ たかがハシカに 気はタシカかもうコレワ、駄目田大学だ。東京中の大学が閉めても、最後の一学生が居るかぎり、閉めたらアカン、イカンのや。と、ボー然とする計りなり。しかしながら、学生の姿が全く消えた大学キャンパスってのは、仲々良い風景なのだ。学生達も皆ハシカになって、一皮むけて帰ってきてもらいたい。中世のヨーロッパの都市はペストによって都市そのものが廃棄される歴史があったようだ。日本の大学もハシカで一度廃墟状態をキチンと認識した方が良い。しかしなあ、早稲田もハシカ休校とは、ハシカでラグビーの試合延期するのか、神宮の野球も休むのか、箱根駅伝も休むのか。体育会系を充実させる意味が全く解っておらん。 |
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R196 | |
五月二〇日 午後、ウェブサイトに構造性を持たせる為の作業を始める。< A HREF="../2050.html#070521" TARGET="_blank">渡辺豊和氏との交信のサイトも軸を提出しておかぬとバラバラになってしまうのは眼に視えているし、< A HREF="../topnote.html" TARGET="_blank">開放系技術論の展開速力もママならない。エイヤ、と< A HREF="../../en/topsp.html#070521" TARGET="_blank">スケッチを一つ描いた。< A HREF="../topstory.html#070521" TARGET="_blank">この絵からできるだけの事を展開してゆくつもり。二十二時 Nikki 2点目及び論を書き進める。面白くなってきたので余り急がずに進めようと、書き切らずに残した。 五月二十一日 二時起き出して読書。昨日の < A HREF="../topstory.html#070522" TARGET="_blank">Nikki B Piece と、遠くで関連する様な気がして「緑の石」クライン・ユーベルシュタイン読みふける。 八時半起床。畑へ。「緑の石」読みふける。今週の丹羽太一は、相当頭を使わないとサイト編集不可能になるだろう。サイトが進化する道具をデザインしたんだから、と意識している。 |
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渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070520" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 < A HREF="../../en/topsp.html#070521" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki + < A HREF="../topstory.html#070521" TARGET="_self">A piece of Story in Setagaya Village | |
R195 | |
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五月十九日 六時半起床。世田谷村に滞在していたイスラエル人カップルがテルアビブに帰った。畑へ。二〇日大根の間引き。草取り等。雨降ったり止んだり。山田脩二より電話あり、居留守作戦も通じず。遂に捕捉される。ホンマ、山田ハンには敵いません。夜隠れても、朝駆けだもの。十時過山田脩二来村。十六時前迄飲む。山田だもの、仕方ない。畑に降りるも何も出来ず。一人呑む山田を前に、なす術もなく山田をスケッチする。全く似ても似つかぬ哲人風のモノになる。何故に、私が山田をこんな哲人風に描かねばならんのだと、憮然とするばかりである。コニカミノルタのフォトスクエアマガジン春号、山田の「炭火焼の情景」で山田の最近の炭焼きカメラマン振りを知る。 |
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五月二〇日 日曜日 六時四〇分起床。畑へ。らっきょう、ほうせん花、又咲いたスィトピー等スケッチ。区民農園へ、二、三人の人が畑仕事をしていた。一人おじいさんが、菜に埋もれるようにして野良仕事をしていた。凄いと思ってスケッチ。沖縄の、畑で死にたいって言ってた百才をこえるバアちゃんを思い出した。山のような背中である。八時四〇分迄。 |
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R194 | |
五月十八日 < A HREF="../2050.html#070518" TARGET="_blank">昨夜は、福沢諭吉研究会のA君S君と相談。プロレスラー西村修から始めて、今何が出来るかという計画について話し合う。速力が大事だなコレワ。九時研究室。院レクチャー準備。九時半風車の件、専門家と打合わせ。十時四〇分院レクチャー。重源と浄土寺浄土堂。十二時過迄。山田脩二より電話アリ。ヤバイ、東京に居るようだ。避難の径を考えなくては。黄金バット、不死身の山田、首都に現われてしまったら、仕方ない。霧隠れ才蔵を決め込むしかないのである。 |
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渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070518" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 < A HREF="../../en/topsp.html#070518" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki | |
R193 | |
五月十七日 八時起床。 雨。 又もや畑は喜んでいるだろう。 世田谷時代 一九四六 - 一九五一の岡本太郎2 世田谷美術館。 野田氏の美術団体内改革者としての岡本太郎、先ず読了。2分册目の岡本太郎展カタログは異様に充実している。大変な作業が秘められているのが知れる。世田谷文学館の力もあるのだろうか。美術手帖6月号ル・コルビュジェ特集。目を通す。 毎日、畑に遊ばせてもらっているが、この遊びは芸術部門に属するものなのだろうか、技術部門なのかな。畑仕事をする人の時間は、それが融合しているんだろうとは感じるな。感じて、どうなるものではないが。 十時杏林病院。十一時了。全ての数値は良いそうだ。十一時烏山駅。 十三時半、カンボウプラスKK社M氏来室。< A HREF="../note02.html" TARGET="_blank">鬼沼のビッグバッグ打合わせ。いろいろな可能性がありそうで面白い。十四時四〇分了。その後別件打合わせ。 |
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< A HREF="../../en/topsp.html#070517" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki 渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070517" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R192 | |
五月十六日 六時半起床。畑へ。昨夜の雨で、アッという間に畑は様変わり。朝顔の芽もようやく顔を出した。遅いぞ、の声を掛ける。植物の生命力は凄いもんだ。余りにも、キュウリの芽が巨大に育ちつつあるので、スケッチする。まるでサバンナの風景だな。朝陽が射し込んで、キュウリの芽にスポットライトを当てた。こいつ等をいずれ間引かねばならないと思うと、あんまり入れ込まない方がイイゼと自戒する。< A HREF="../../en/topsp.html#070517" TARGET="_blank">Nikki 1点作る。二十日大根の芽を思い切り間引く。昨夜、帰りの京王線車中で見掛け、スケッチした女性達を思い出した。アレは二十日大根だったんだ。十時四〇分休む。Nikki もう一点作る。十一時半了。 |
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< A HREF="../../en/topsp.html#070516" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki 渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070516" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R191 | |
五月十五日 七時過起床。体調持ち直す。休講しないですみそうだ。今日の講義の下調べ。昨夜のスケッチに手を入れたり。八時半迄。冬を越して育てたスィートピーがようやく一輪花をつけた。アッという間に誰かが切って、便所の花ビンに差している。文句も言えない。その、仲々たくましいツルに虫が一匹へばりついて、仲々良い姿を見せていた。S君、真栄寺、に連絡。< A HREF="../2050.html#070507" TARGET="_blank">西村修の件。九時半発。十時四〇分学部レクチャー。 学生ゼミ十五時半了。続いて打合わせ。 |
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< A HREF="../../en/topsp.html#070515" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki 渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070515" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R190 | |
五月十四日 八時半起床。日経BP原稿に手を入れる。どうやら、ここ数日西村修と渡辺豊和にこだわり過ぎているな。朝食おにぎり2ヶ。九時過畑へ。十時了。カゼで体がだるい。 十二時半研究室。十四時半、輿石・加藤両先生との材料とデザインゼミ。< A HREF="../2050.html#070511" TARGET="_blank">渡辺さんよりの返信読む。少しずつ面白くなるだろう。 |
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渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070511" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R189 | |
< A HREF="../2050.html#070510" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信。今、プロレスラー西村修の九十九里浜道場訪問のくだりに、ようやく辿り着いたところである。渡辺豊和という異形の人と、無我派プロレスラー西村修とが、ウェブサイトで出会おうとしている。うまく出会えますか、どうかは僕のお手並み次第なんである。筋書きとしては、哲学派プロレスラー西村修と異形の建築家マッド豊和がマット上で組んずほぐれつの大乱闘ならぬ、珍問答の粋を極めるというシナリオなのだが、うまくいくかどうかは知らぬ。 今夜は藤森照信と彼の展覧会場で対談らしきをしなくてはいけない。藤森建築は今が盛りだ。それを語るよりも、渡辺豊和を語る方が好みなのだが、と下らぬ事を想いつつ、夜が白々と明けてきたので眠る事にしたい。
只今、四時半である。カゼ薬を飲んだら、全然眠れず。それで、こんなメモを記す破目に落ち入った。 |
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R188 | |
五月十三日 日曜日 昨日の午後、中谷礼仁研で小会合を持ち、早稲田の若い先生方を中心に、何か出来ないかを議論した。まとまらなかったが、仕方ない。要するに、若い世代にとって焦点が結び難い時代なのだな。高木正三郎先生には九州からワザワザ出向いていただき、空振りで申し訳なかった。
石山研のウェブサイトでは、自分で言うのもなんだが、< A HREF="../2050.html#070509" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信のページと絵日記が伸びている。二〇五〇年は渡辺豊和氏との交信で始めたページだが、今のところ全く交信になっていないところが、面白いと言えば面白く、何だこりゃと言えば、全く、何だこりゃなのである。お互いにもうガキじゃないから、すれ違おうが、すじ交い外れであろうが、ジタバタする事もない。 |
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R187 | |
五月十二日 土曜日 六時起床。畑へ。三〇分程のつもりであったが、気がつけば八時前迄。北海道小樽のHさんからいただいたトマピイの種をまいたり、水をやったり、ゴーヤの苗に支柱を立てたり。かいがいしく働いてしまう。野菜、人間問わず、世話をやくのは手間ヒマがかかるものだ。結局ロマーノという名のインゲンの種は芽を出さずと判断、掘りくり返した。種は捨てるにしのびず、申し訳程度に移植する。朝顔も芽を出さないな。< A HREF="../2050.html#070515" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 No8、No9 書く。面白いと筆がのびる。九時了。朝食後畑でスケッチ等。十一時半迄。陽差しが強く、体が火照る。十三時世田谷村発。 |
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R186 | |
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五月十一日 七時過起床。畑へ。色んな芽が出てきて、少々錯乱気味。昨夜は結局雨が降らなかったな。残念。八時 Nikki のスケッチ。< A HREF="../../en/topsp.html#070511" TARGET="_blank">a Gate in a Dream 。 十時四〇分院レクチャー第4講。< A HREF="../topnote.html" TARGET="_blank">バルセロナパビリオンとミース・ファン・デル・ローエ。十二時十分了。W君博士論文相談、十五時了。世田谷村垣根スケッチで小休。十四時四〇分、世田谷美術館展ミーティング。アイデアスケッチ。 その後、< A HREF="../note02.html" TARGET="_blank">鬼沼ミーティング。構造モデル原寸チェック。これ位になると面白い。< A HREF="../note03.html" TARGET="_blank">北京、チェック。終了後< A HREF="../2050.html#070515" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 No.8、書く。十七時半迄。 |
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< A HREF="../../en/topsp.html#070511" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki | |
R185 | |
五月十日 十四時A氏来室。< A HREF="../../fukuoka/jp/fukuoka.html" TARGET="_blank">福岡オリンピック計画案作成時の有力なメンバーの一人であった。東京オリンピック誘致プラン作成の為にやはり呼ばれたようだ。A氏は僕の友人では数少ない体育会系の人間で、実に気風の良い人間である。 東京オリンピック計画案作成にA氏は不可欠な人物であろう。頑張ってもらいたい。二〇一六年オリンピックはシカゴ、リオデジャネイロが有力候補であろうが、東京には福岡の分まで背負ってもらわねばならぬ。しかし、福岡案は一年経って振り返ってみても、仲々のものであった。十五時前教室会議。十七時迄。世田谷美術館ミーティング。十八時了。 |
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R184 | |
五月十日 八時前起床。畑へ。キュウリの芽大きくなる。八時半前杏林病院へ。定期検診。 大きな病院の待ち合いロビーの風景人々の表情と、世田谷村の畑の風景とは、まるで別世界だなあ。不安と心配に枯れつつある風景、生命の力にザワめいている風景の二極だ。どちらの風景も共に興味深い。昔は、病院と聞くだけで、身がすくんだが、今は慣れた。人間は慣れ、習慣に飼いならされ易い生物なんだろう。待ち時間にスケッチ二点。検査は異常なし。園芸ショップでゴーヤ他の苗を求めて、世田谷村に戻る。十一時過。朝昼食。おにぎり、しめさば、豆腐。十二時半前迄畑。ゴーヤの苗を植え込んでから研究室に発つ。暑い。 |
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< A HREF="../../en/topsp.html#070510" TARGET="_blank">Setagayamura Nikki 渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070510" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R183 | |
五月九日 昼過研究室。十五時演習G、北園徹、森川嘉一郎両先生と十七時迄。参加学生は激減、どうした事か。来週は即日課題提出となった。両先生共に一生懸命にやって下さっているのだが、力を入れれば入れる程学生はのらない風がある。ジタバタする事もない。学生一人になってもやってみる。十九時迄WORK。二〇時修了。二十一時世田谷村。エスキス、二十四時迄。 |
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R182 | |
五月九日 六時四〇分起床。七時半迄下の畑。トマトの芽もどうやら顔を出し始めた。絹さやえんどうを片手、手の平いっぱいにつむ。 昨日、プノンペン帰りの渋井さんにお目にかかった。日本に帰って二年位は、何もしないでブラブラしているつもりだそうだ。二〇年もカンボジアで暮しての、日本帰りだ。タイム・トラベルしているようなものだろう。しかし、二年やそこらで日本に馴染むのか、おぼつかぬだろう。 プノンペン・ウナロム寺院に一人残った小笠原氏はいかなる事になるのやら。毎日、する事もなく、ジィーッと旅をしているようなものだ。動けぬ旅は辛いですぞ、コレワ。涯てしなく雨宿りしているようなものだから。さぞかし、一人のワット・ウナロムは辛いだろう。「< A HREF="../note03.html#015" TARGET="_blank">ひろしまハウス」のその後も気になっている。二、三年したらプノンペンを訪ねてみたい。 帰るところがあるから、旅は成立する。帰るところのない旅は身を捨てるに等しい。小笠原さんはすでに現実には生きていない。渋井さんは、そこから帰還したばかりだ。 |
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R181 | |
五月八日 二〇時半、近江屋で一服していたら、渡辺君が英文の絵日記にチョッと言葉が入っていたら、面白いのに、とつぶやいた。ウェブ・サイトに丹羽編集長が英文の絵だけのコーナーを作ったのを、僕は知らなかった。お恥ずかしい。貧しい英語力で、英文ダイアリーを記録する方法を教えられた。それで早速、< A HREF="../../en/topsp.html#070509" TARGET="_blank">自覚的に英文らしき、あるいは英文もどき、のダイアリーを自分なりに始める事にした。どこまで続ける事が出来るか、おぼつかぬ。 最初の絵は、続「ひろしまハウス」に自然と、なった。こんな建築が作れたら、もう終わりで一向に構わないの、そんなスケッチでもある。世田谷村に戻り二十三時に描いた。 |
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渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070509" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
R180 | |
五月八日 七時頃起床。 七時半迄下の畑。 キュウリの芽が完全に出そろった。 モロッコ、ロマーノといったエキゾチックな名の種はどうやら駄目かも知れぬ。 ひとしきり草むしり。生ゴミをコンポストに。 これ位の面積の畑だったら無農薬栽培でいけるだろう。 しかし手入れが大変だ。 八時半迄今日の講義の準備。朝食。十時四〇分学部講義。十二時了。プノンペン帰りの渋井修さんブラリと来室。その後のプノンペンの話し等うかがう。午後、いささかのWORKに集中。十七時前、世田谷美術館展のミーティング。十八時半了。 |
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< A HREF="../../homej/osawahtml#070508" TARGET="_blank">大沢温泉依田之庄花鳥風月 | |
R179 | |
五月七日 七時半起床。八時半迄畑で草とり。昨日の雨で一気に雑草も元気になるであろうから、少々入念に。実に多様な芽をもたげているな雑草諸君は。昨年、植え込んだニンニクが一列、ヒョロヒョロと育ちつつある。二〇日大根の育ちは早い。間引きするのが大変だろう。十一時からのミーティングへのペーパー再整理。九時半世田谷村発。研究室へ。十時半研究室。十一時< A HREF="../note03.html" TARGET="_blank">北京モルガンP、ミーティング。十三時過了。北京より電話、五月末に訪北京となる。 午後遅くT社長より連絡あり、< A HREF="../note02.html" TARGET="_blank">鬼沼計画の隣の、集落の基盤整備に環境保護団体からクレームがつき、地元の新聞に出て、こちらの計画もとばっちりで、少し遅れるかも知れぬとの事。仕方ない事ではあるが、まことに、何を作るにも困難な時代になったものだ。 十七時、渡辺豊和との通信その六、書く。 |
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渡辺豊和X石山修武 < A HREF="../2050.html#070507" TARGET="_blank">二〇五〇年の交信 | |
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五月六日 日曜日 七時前起床。この連休は、あたかも世田谷村に旅行していた様な印象だ。良く体を動かし、製作し、メモし、そしてのんびり考える事が出来た。休み最終日の今日はウェブサイトの更新に少し力を割こう。畑に下りて少しばかりの作業。残っていた葉大根の種をまく。午後から大雨の予報だから、ベスト・タイミングである。ふだんそうの芽がどうやら少し顔を出している。キュウリの芽もそれらしきが認められたが、まだ確かではない。九時過、< A HREF="../2050.html#070507" TARGET="_blank">>渡辺豊和氏との通信、第五便を書きおえる。肩の力を抜いて、建築から少し距離を置いてみたが、大事なことを書き始めたような気もする。まだ解らない。十三時半< A HREF="../../homej/osawahtml#070508" TARGET="_blank">大沢温泉秘話を書きおえる。雨、本格的に降り始める。畑は喜んでいるだろう。 |
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五月五日 休日 七時起床。畑へ。草むしり、八時四〇分迄。< A HREF="../note03.html" TARGET="_blank">北京プロジェクトに関して色々と想いを巡らせながら、仲々スッキリとした考えには辿り着けなかったが、これ迄の僕の小歴史と建築の歴史を遡行するのが一番だとの結論を得た。それしか方法はない。九時朝食。十三時前迄WORK。屋上に畑に久し振りに上ってみる。鉄板部分が熱くて裸足で飛び上がっちまった。昼食を挟んで十五時半迄WORK、北京プラン。十五時半小休。十七時半迄読書。田窪恭治の「林檎の礼拝堂」読む。もう皆の記憶から消えているかも知れぬ美術家の仕事だが、不可思議な情熱と努力を注ぎ込んだものだなあ、氏は。今はどうしているのか。十七時半、区民農園まで歩く、といっても百メーター位。屋上の手入れ他。十八時半三FでWORK少し計り。十九時半休む。夕食後二十一時半迄再びWORK。二十三時半横になって読書、すぐに眠りに落ちる。 |
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五月四日 休日 六時前起床。八時半迄読書。朝食、庭のフキ、納豆、ごはん、他。畑に下りる。十時半迄畑。畑でスケッチ、他。十二時半昼食。野菜、フキ、ホウレン草、他、オニギリ。読書。十五時半迄。十六時半迄畑、スケッチ。休むでもなく、考え続けるでも無く。と気取っている馬鹿ばかしさはとも角。まだ種をまいて五日程しか経っていないのだが、畑のウネに眼をこらして、ほとんど土に鼻をつけんばかりにして観察するのだが、春だというのに、芽はピクリとも出ていない。冬まきのちんげん菜は確か三日程で芽を出してくれた記憶があるから、気候がはるかに良い春にこの体多落では・・・明日は掘り返してみるかと・・・。モロッコなる種は古物だったし・・・と色々考え込むのである。十八時過、念の為にと思って、畑を念入りに見て廻ったら、何と、二〇日大根(赤カブ)の芽が一せいにふき出ていた。思わずホーッとため息をつく。嬉しいものですぞ。二〇時烏山広味坊で夕食。ここはだいぶ味が落ちたような気がする。味の店は、繁盛は痛しかゆしだな。 |
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五月三日 休日 七時半起床。十時迄、下の畑に居る。畑のスケッチ。西の道路側の土いじり等。アッという間の時間であった。庭のディテールを視入ると、アンコールワットの遺跡状だな、コレは。改めて驚いた。パンと野菜サラダの朝食をすませ、世田谷文学館「向田邦子 果敢なる生涯」展へ。向田邦子は山本夏彦が最も認めていた作家の一人である。沢山の人が来場していた。遺品の数々を見て廻る。この作家は道半ばにして亡くなったが、後二〇年生きていたらどれ程の仕事をしていただろうと痛感した。植木屋に寄って戻る。朝顔の種をまき、ブラック・ベリーの苗を植え、ダリア、アネモネ等も植え込む、十四時半休み昼食。十七時前、三階の仕事場に上り、何やら仕事の事などを仕切りととめどもなく考えてみる。先程まいたほう仙花の種の位置の事などが気になったりもする。仲々集中出来ない。十九時前銅版画に取りかかる。畑にコルゲートシートのオブジェクトを刺し込んであるのだが、その切端の形が下絵に現われる。この下絵に出現するモノを切り離してアッセンブルする方法があるかも知れない。いずれにせよ建築とは程遠い作業である。 |
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五月二日 十二時品川駅集合、日経BP・T氏の車で千葉外房大東へ。総勢五名で。十三時半頃大東着。大東駅でカメラマンと合流。以前、中里和人氏とサーファーの家を取材に来た、まさに同じその場所である。あの船の家も健在であった。西村修氏道場はそのサーファーの家からすぐ近い。西村氏は堂々たる体躯を示しながら、小振りのリンカーンと共に現われた。仲々いい味出している。プロレスラーには哀愁が漂うのだ。あいさつもそこそこに道場のマットに上がり込み、あぐらをかきながらインタビューを始める。西村修氏は正面から誠実に対応した。このプロレスラーは、故毎日新聞記者佐藤健に一度だけでも会わせたかったと痛感。私のインタビュー術はまだまだ拙劣である。このインタビューの有様は日経BPのビジネス・オンラインに近日中にオン・ウェブされるから、是非読んでもらいたい。面白く書けるの予感あり。良い二時間弱であった。時の経つのを忘れた。十六時前、了。近くのレストランへ車で移動、食事となる。ガラス窓からは、太平洋のボーボーたる拡がりが気持ち良い。西村修氏の南インドの療養地であった処と似ているのではないかと直観した。コモリン岬はいざ知らず、マドライ、マドレスの風と海の感じに似たものがあるのだった。ヒンドゥーの海みたいだここは。名残り惜しいが、別れる。S/Y/A君三名の青年は西村修道場泊となり、僕はT氏と二人東京に戻る。品川でT氏と別れ、新大久保へ。近江屋で一服、世田谷村に戻る。プロレスラー西村修氏とキチンと話が出来て、良い一日であった。 |
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五月一日 十六時材料とデザインゼミ了。十六時十五分研究室ゼミ。十八時了。十九時発、コーリア料理屋で打合わせ。二〇時四十五分了。二十一時過世田谷村に戻る。今日は一日、先生としての一日であった。 五月二日 六時半起床。新聞を読んで下の畑へ。土いじり。八重ひなげしの種をまく。霧雨が舞っていて、ひんやりとした冷気に身をひたす。九時前まで。畑で動いているとアッという間に時間が過ぎる。ここ数日にまいた種の名が憶え切れず、名前の入った種袋を立札に立てたので、畑はコンビニエンスストア状になってしまった。こんな事でいいんだろうか。今日は午後若い友人達と外房まで足をのばし、日経BPの取材で、無我のプロレスラー西村修氏を取材する予定で楽しみだ。ゆっくり朝食、めざし、ホウレン草、キュウリ、ダイコン、ゆで卵、ごはん。十一時待ち合わせ場所の品川に向う。 |
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五月一日 朝、六時過起床。畑仕事。八時前までほんの少し体を動かすつもりが、ついつい汗ばんでしまう。ひとうね拡張した。曇天の日の畑も又良いものだ。八時半迄エスキス。十時前発。 十時四〇分G2レクチャー、一九五七年の吉阪隆正ヴィラクゥクゥ他について。池辺陽、清家清、白井晟一の住宅について述べてきてようやく吉阪隆正に辿りついた。建築家の設計した住居を中心に話を進めているが、その社会性について論及する事は外せない。十二時迄。小雨が降りだした。畑の種には良いな。十三時材料とデザイン公開ゼミ。今日は「土」に関しての僕のレクチャー。 |
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2007 年4月の世田谷村日記
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