石山修武 世田谷村日記

7月の世田谷村日記
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 六月三〇日
 朝思い立って、十二時過多摩プラーザ、山口勝弘先生訪問。山口先生は昼食中であったが、強引にお邪魔してしまった。小一時間程お話して帰る。たまたま宮脇愛子さんも御一緒で、蜂蜜入りのアッサム紅茶をごちそうになった。深夜まで、色々と考えながら読書。ルイス・カーンの建築論集、等読む。

 七月一日 日曜日
 六時前起床。パガン計画ドローイング。十一時迄続ける。考える事、ドローイング(スケッチ)製作、文章を書く事は仲々同時並列進行出来ない。考える事が多ければドローイング量は減少し、日記すらも、短くなってしまう。十三時過、疲れて畑に降り、キュウリに支柱立てる。ゴーヤは実を得ていないが、キュウリは得られるかも知れない。無茶苦茶に蚊にさされ、ほうほうの体で退散する。

 七月二日
 七時前起床。雨。昨夜は二十三時半から、参院選が間近となりTVで党首討論会を一時間半も観てしまった。その印象は今朝の新聞に書かれている党首討論に関する諸説の印象とは少し異なる。新聞とTV、そしてITとは、常に世界がズレている。ありのままの現実を、いかなるメディアもそのまま伝える事は無い。それは不可能である。TVの報道番組が最も非現実的じゃないのか。メディアの現実と、実物の現実は明らかに異なるのは解るのだが、実物らしき現実が本当にあるものなのか、少しばかりいぶかしむようになった。「立ち上がる。伽藍」WORKを進めれば進める程に、そんな、不確かな世界へ入ってゆくのが、それだけ自覚できるのだ。
 妙な小路に踏み込んでしまったのか、未知なフィールドなのかもまだ、不明ではある。明々白々なフィールドを歩くのとは異なる不安は勿論あるが、その不安そのものを面白がらねば、コレワ、仕方ないのだろう。しかし、その不安さえも体感できてはいないのである。

木本一之展の設計・時の谷の設計
 R235
 六月二十九日
 昨日午後「立ち上がる。伽藍」他立ち上がり、ホッと一息。ウェブサイトの遊びがどれ程現実に接近し、交差するかの実験です、コレワ。12 のプロジェクトが呈示されます。

 七時半起床。昨夜も月下美人一輪咲く。香りは4時間位で消えるな。十時大学、院レクチャー準備。今日のレクチャーは川合邸・開拓者の家・世田谷村で考えていた事共。十二時一〇分了。
 同じ素材を使っていても、話す事は少しづつ変化している。民俗学とテクノロジーの関係を話した。アレグザンダーの「無名の質」、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」、宮本常一の「常民」である。

木本一之展の設計・時の谷の設計
 R234
 六月二十七日
 十三時過、鬼沼計画の件でメーカー来室。十五時演習G。十七時半北園先生と食事。渡辺君合流。木本君の会場設計の件で、おしゃべり。彼等とは新宿で別れ、世田谷村に戻る。丹羽太一の頑張りで、明日、「立ち上がる。伽藍」「木本一之展の設計・時の谷の設計」の二つの新連載というか、新番組がスタートできそうだ。

 六月二十八日
 八時起床。難波和彦先生の「クリストファー・アレグザンダー再考」10 +1読む。磯崎新のインタビューも面白く読んだ。

 年令もキャリアも異なる両者の論とインタビューを併読して面白い事に気がついた。あるいは気がついたような、思い付きを得た。難波先生の知性は並々ならぬものだが、常に自己解析のモメントが核になっており、磯崎新のそれは初期の創作活動の頃から、溶融あるいは自己統合の動きを内在させていた。

 難波氏のこのアレグザンダー論では、これ迄に、あまり見掛けられなかったニュアンスが、「畏れ」「悲しみ」が、タイムレスには無いと気が付いた事の表示、そして、アレグザンダーの「無名の質」に関する非分析性で、これをユートピア的としている。
 磯崎は同じ問題を「黒い影」と呼び「霧状のモナド」と言い換える。迷宮の設計者ダイダロスの化身デミウルゴスを再登場させるぞと予言する。両者は同じ核を視ているのが解る。同じ核を見ながら、言い方が異なるのは知性の動き方の違いに過ぎない。

 磯崎はアレグザンダーを初期的に日本にジェーン・ジェイコブスとの関連で紹介した。難波はアレグザンダーを学習し、テクストとして批評している。まだ未消化だが、アレグザンダーには若い頃深い関心があり、オレゴンの実作等見て廻り、痛く失望した体験もある。失望した核にあったのが、両者が異なる呼び方で呼んでいる、いかんとも言葉では表現し難い、畏れ、闇、影らしきの不在であったのだろうと思われる。

立ち上がる。伽藍
木本一之展の設計・時の谷の設計
 R233
 六月二十六日
 十二時学部レクチャー了。十三時半ミーティング、十七時前迄。十七時、学生インタビュー。十八時半近江屋へ。「立ち上がる。伽藍」目次作成。二〇時半世田谷村に戻る。月下美人一輪咲く。木本君より、更なる資料送られてくる。

 六月二十七日
 七時半起床。昨夜、「立ち上がる。伽藍」はじめに、の部分を全て点検し直したので、上手くゆけば明日にはウェブサイトでスタートさせる事ができるだろう。もう一つの新シリーズと共に、これ迄のサイト上の色々な試みの第一次集大成になるので、是非体験してもらいたい。九時、渡辺豊和氏への返信書く。十時半了。木本一之君にいささかの交信を試みる。正午、世田谷村を発ち研究室へ。

木本一之展の設計・時の谷の設計
向風学校のすゝめ
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R232
 六月二十六日
 七時半起床。夢は見なかった。凡人である。渡辺大志の「立体の再生」に関するエッセイを読む。昨夕読んだ時は少々、若さが鼻につく感を持ったが、再度読み直してみると、それなりに面白い。もう少し工夫をこらして、鋭利に磨けば光るかも知れない。三〇代、四〇代に、これと言った人材が居ないので、これで彼は彼等を無意味にしてしまえる可能性を持つことになる。この小論と、幾つかのプロジェクトの両方を持つ事になれば。それで良し。体がだるく、動きたくないので、車で大学迄送ってもらう。十時学部レクチャー準備。一度手を抜くと、それっ切りになる予感もあり、今年は一切のレクチャーは手抜き無し。
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 六月二十五日
 七時起床。グダグダとして九時世田谷村を発つ。十時大学。十一時デザインと生産技術ゼミ。何と参加学生、二名のみ。力を入れて準備したのだが、二名には驚いた。主催者の工夫不足なのか、今年の四年生に問題があるのか、それは不明である。しかし、打てば響く相手に話すのと、打っても応えぬ鈍器を相手にするのとでは、全く、こちらの能力の使い方は別次元になってしまう。でも、取り敢えず、十四時位まで話す。
 十四時より、研究室で編集会議。これも又、同様の空気である。それでも、丹羽太一、渡辺大志の支えもあり何とか、しのぐ。私が考えて、そして話している事を、解らないというよりも、解りたくないのかな、反応がない。十九時前までオペレーションを続けて、何とか作図の初歩的方向だけは決められたように思う。その後、近江屋にて一服して世田谷村に戻る。

 世田谷村は月下美人、一挙七輪の満開であった。濃厚な香りが村の内に一杯に拡がり、クラクラとする計りである。Wの草稿をチェックする。眠りにつく前に月下美人大輪の数を数えたら、八輪であった。世田谷村の歴史で最大数である。「君知るや、南の国・・・」の香り、芳醇さがフォルムをもってしまう位の香りである。月下美人の悄然とした姿は恐らくたかだか六時間程のものであろう、しかし香りの記憶はそれよりは長い。二十二時過、月下美人の香りに打ち負かされるようにしてダウン。三〇分頃、眠りにつく。この香りの中では、悪夢の連続であろうか。

 R230
 六月二十二日
 十八時丸の内国際ビル地下一階、十勝場所文化レストランオープンプレビュー。後藤健市さんにお目にかかる。後藤氏健在なり。十勝でお会いしたTさん も、今、銀座の街づくりプランナーとしてやっているようだ。皆、しぶとく生きてる。有楽町ガード下でビール飲んで世田谷村に戻る。

 六月二十三日
 星の子愛児園、壁画スクリーン完成チェックのため京王線稲田堤に出掛けた他は、終日、世田谷村でWORK。陽射しキツイ。

 六月二十四日 日曜日
 七時起床。十五時までWORK。大分はかどった。疲れて畑に。じゃがいも、赤カブを掘り出す。虫が多くて、むき出しの手を刺す。今晩はじゃがいもが食べられるな。
 二〇時半WORK了。二日間の収穫にはマア満足したい。初めてのチャレンジで全くの手探りだが、なんとかするつもりだ。

 R229
 六月二十一日
 十六時半の約束を遅れて、水道橋後楽園ホール前で、A、S両君と会う。随分高スピードで、伽藍プロジェクトが進行しているから、別の流れに入り込むのは少々危険なのだが、エイ、これしきの事と決めて後楽園ホールに来ているのだ。両君に会う前に、無我プロレスラー西村修に再会、あいさつを交わす。その後、西村修氏を交え、向風スクール、プログラムに関して話す。十八時半、無我ワールド、試合開始。二十一時前了。

 六月二十二日
 八時起床。WORK。「伽藍プロジェクト」点検。九時過世田谷村発。十時四〇分院レクチャー。十二時過了。

 「立ち上がる。伽藍」「木本一之展の設計・時の谷の設計」の作図作りを依頼する。外出。十八時丸の内、十勝の後藤さんにお目にかかる。

向風学校のすゝめ
 R228
 六月二〇日
 指扇への埼京線車中で、再び木本一之の作品群資料に見入る。埋蔵された迷路とも呼ぶべき、イメージの固まりが連続している。十一時前A邸現場。打合わせ。昼前了。暑い。足場の上迄あがるとクラクラする。真昼、指扇のプラットフォームに一人、風に吹かれて、陽射しを眺めている。十四時前、多摩プラーザの韓国料理屋で昼食。石鍋ビビンパ、冷麺、野菜サラダにキムチ等小皿三品。それで一二八〇円。腹一杯だ。一人旅だね今日は。

 十四時半、多摩プラーザ、ライフコミュニティに着く。夕方に来ますと約束していたので、セキュリティエントランスを入り、三階のサロンで「立ち上がる。伽藍」書き進める。エンドレス洞穴と宇宙船、プロジェクト断片生まれる。十五時過、山口勝弘先生の部屋へ。先生は相変らず、閉じた窓に対面しこちらに背中を向けたママの姿であった、凄い背中である。色々とお話を、うかがう、面白い!五分が一日程の中身である。途中、隣室に一時引越しされてきた宮脇愛子さんにごあいさつする。宮脇愛子さんもお元気そうであった。磯崎さんのところの引越しは大変な様だ。
 お二人とは、何を話すでもなく、何の計画の話しをするでもなく、ただただ身を置いたのだが、とても良い一日になった。坂を登り、又下り、駅に行き、帰った。

 六月二十一日
 七時起床。昨日の体験を記録。諏訪君より電話あり、今日、プロレスラー西村修と打合わせらしい。
 十時半迄、色々作業を続ける。

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 六月十九日
 十時研究室。レクチャー準備。四〇分レクチャー。十二時了。手を一切抜かないでやっている。諸連絡チェック。十四時、ライター赤坂卓範氏来室。インタビュー。寺院のグランドデザインあるいは寺院のある風景について。十六時迄。丁度、考えていることでもあり、率直簡明に話せたと思う。鬼沼他打合わせ、十八時半迄。山口勝弘先生より電話あり、「いつくるの」とおっしゃるので、明日、うかがう事にする。

 六月二〇日
 広島の木本一之さんより、多くの資料届く。彼の近作展が今秋、広島ギャラリーGで開催される。その会場計画、他を引き受ける事にした。送られてきた近作資料を見る。近年の木本さんの仕事の充実振りに、いささか驚く。広島の山深くに独人工房を構え、独人、鉄の造形に取り組むのを遠くから見ていると、似たような仕事をしている身としては、何か胸に込み上げてくるものがある。同時に、このまんまでは木本さんに負けちゃうなの、ゾーッとする気分も湧くのである。実物の力というものを木本一之の近作から強く感じる。私の作ってきたもの達、「ひろしまハウス」や「開拓者の家」に色濃く通じる何者かを感じる。

 私は現在、強くウェブサイト上のコミュニケーションのリアリティに関心がある。実物を目的とするのではなく、道具として、素材としてサイト内に空間を立ち上げようと試みている。そんな事をやろうとすれば、どうしたって実物は弱くなる。そりゃそうだろう、人間のエネルギーには限りがあるから、それは仕方ない。しかし、木本一之さんの仕事に接すると、自分は危い事をやっているなと痛切に思わされるのである。木本一之さんの作品につけられた名前を見ていると、しかし、古いやり方で作品作りに、営々といそしんでいる木本さんにも同様な危機が押し寄せているのを知る。芸術家の中の芸術家のもの作る原動力は、一種の危機感であろう。これは常に時代を超えたものとしてある。木本さんの広島山中での自身の内に強くある危機感が、これ等の見事な作品群を作らせているのを、強く感じるのである。
 私は、今はウェブの中に居る。しかし同様の危機感は持ち続けている。だから、まだ前へ進めるのだと自覚もする。

 九時半世田谷村を発ち指扇へ。
 午後、多摩プラザの山口勝弘、宮脇愛子両氏を訪問する予定。両氏に木本一之の作品を見ていただく積りだ。

 R226
 六月十八日
 十二時半上野駅公園口。日経BP・T氏。講談社S氏等と待ち合わせ。昼食を共にする。S氏の知り合いニ名も参加。尾久に移動。
 JR東日本グループ、日本レストランエンタプライズ近藤広報室長、とNRE大増訪問。S社長、Y氏等にお目にかかる。日経BP取材。食品ビジネスの厳しい現場の空気に触れる。その後、尾久駅前でS氏、福嶋氏、淵上氏と話す。淵上氏は故郷三国で、福嶋氏は滋賀の農園でそれぞれ頑張っている人達だ。鬼沼、新潟と連携してゆければ面白い。スクールを組もう。十八時半頃迄。十九時過新宿、同四〇分世田谷村に戻る。

 六月十九日
 七時起床。昨夜は早く横になったが、全く眠れず、起き出して本一冊読み切ったりで、どうも調子が良くない。このところ、乱読が過ぎている。脳内の渦の数が多過ぎて整理できない。それで、かえって疲れているのだろう。

 R225
 六月十八日
 六時起床。昨日よりのWORKを再開する。畑には降りない。昨日書き始めたものの名前を「立ち上る伽藍 第一章 忘れる」と、取り敢えずは決める事にした。どれ位続くものかは、まだ解らない。が始める事にした。昨夜からボーッと考え続けて、これ以上の知恵が生まれないのだから仕方無いだろう。

 今日は昼から、N社K社の人達と食事したり、取材に出掛けたりしなくてはならぬので、丹羽、渡辺両君に昨日考えた事など、少しまとめて、FAXで送る。

 R224
 六月十六日
 十三時材料・デザインゼミ、中間発表会。設計・デザインよりは論文の方が今の学生には向いているようだ。設計を見ているよりもイライラは小さい。しかし、普通の知力を持つべき、体力を持たぬ類の人種がいるのも確かだ。これで大学生、しかも四年生なのか、と絶句もする。十五時過了。加藤先生と新大久保で一服。十七時半頃迄。十八時過、京王線車中。まだ外は明るい。が、学校の事を思えば、先は暗いな。

 今週は、いささか疲れた。明日、日曜日は目一杯休むぞと決心する。

 六月十七日 日曜日
 午前中、畑でキュウリ、トマト他の世話。陽光がキツイ。午後、渡辺君の本の構成について、勝手に少し計り検討。彼の年令位になって、初めて、本当の教育的関係が生まれてくるようだ。その後、自分の方の仕事にかかる。十九時前迄WORK。畑に出て休む。

 R223
 六月十六日
 昨夜の野辺公一さん、松村秀一さんとの会食は二十三時過まで。野辺さんは突然奥様を病気で失い、半年程茫然自失のごとくであった様だが、立ち直りつつあるようだ。
 逆境に強い男というのは、居そうで仲々居ない。皆逆境には弱い。野辺はえらいよ。とりあえずは、メゲてる風を外には見せぬ力を取り戻しつつある。
 松村先生からは、専攻長難波先生の教室会議での活躍振りを面白おかしく聞いて、笑った。先生は専攻長が似合うのだ。堂々たるもんだ。

 十一時半、世田谷村を発つ。カーンという音が聴こえるような陽射しである。
 小林澄夫氏より『風景表』送られてきて、読み通した。氏もまた、この陽射しの中を短い影だけをつれて歩いているのだろうと、チョッとセンチな振りになる。

 R222
 六月十五日
 七時起床。サイトの北京七星モルガンプラザ物語り(仮)原稿書く。こいつは面白いですよ。

 十時研究室。院レクチャー準備。十時四〇分院レクチャー。十二時過了。再び各種交信。十六時前、北京モルガンの件打合わせ。
 十八時新大久保駅にて、松村先生、野辺公一と待ち合わせ。韓国料理を食べにゆく。野辺氏とは何とも言えぬ彼が不幸に遭ってから、初めての再会になる。旧群居の友人達と会う事になる。渡辺豊和さんも、群居同人であったから、今は群居のOB会やってるようなものだ。大野勝彦さんもお元気になられたようで、心強い限りである。

渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R221
 六月十四日
 山口勝弘の電話での言葉に、何故だか、ひどく触発される。やっぱりこれはメールではダメだ。今の自分は、身の丈をはるかに超えた現実にふり廻され、ゴミの如くにもみくちゃになっている最中だが、山口勝弘の夢の中に現われたという事は、まだ死んではいないという事だ。自分では気づかぬところで、生きているのである。戦争もしている。山口の如き真の芸術家は、やっぱり何をしても、作っても、話しても、自然に人間を、自分自身も含めて、鼓舞するものだなあ。この力は批評的言動とは異なる。実に創造的な事だ。創造的であるという事は要するに、武田製薬のリポビタン的であるという事では、断じてない。山口勝弘の本をつくらねばの想いが強く再生する。ああ、いくつ身体があっても足りないな。

 十八時過近江屋で一服して、二〇時前世田谷村へ戻る。実物も交えて言葉や映像による物語らしきを作る方法の、初歩的段階が視えたような気がするけれど、どうか。一番困難な問題に対面しているのである。エヘン。

 R220
 六月十四日
 十六時過ぎ、ブッ続けで諸交信を続けたので、疲れて、小休。

 山口勝弘先生に電話したら、
「石山さん、昨日アナタが夢に出てきたよ」だって。
「エーッ」と反応したら、
「何か、現場で新しい建築を作っていた」との事。
「自由な形が作れるようなのですか」
「そう、自立と共生の挟間にあるようなのだった」との事。
 山口勝弘先生の頭脳は増々、さえわたっていらっしゃる。
「隣の部屋に、宮脇愛子さんが引っ越してきたよ。もう四週間位になるかな」とおっしゃる。
 驚いた様な、自然なような。乃木坂の磯崎宅は、開発によって取壊しになるので、一時、移り住んだのであろう。たまプラーザは凄い場所に なっているようだ。行かねば。

渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R219
 六月十四日
 昨夕、T社来室。又、壁にブチ当る。夜、熟考し、再展開を計画する。

 十時半、研究室。昨夜考えた事を実行。多方面にメール、及び手紙を発送する。十二時過迄。小休。
 広島の木本一之さんから手紙をいただく。九月に広島で個展開催が決ったとの事。着々と単独で積み上げているな、仕事を。二〇年もしたら巨大な独立峰になっている事であろう。喜んで支援させていただく事とする。
 思いついて、木本さんから送られてきた写真でTOPページを構成する。

 R218
 六月十二日
 十時大学、四〇分学部レクチャー。十二時過了。外出、十五時半研究室に戻る。
 「向風学校」のサイトを立ち上げるのを決めたので、その準備をする。安西氏のサイトと相乗りの形になるが、彼のサイトとテーストが全く異なるので問題は大きいが、心配していても仕方ない。水と油を承知で始める事だ。大体、慶応の幼稚舎出身の彼等となにかやるってんだから、いささかの仰天は覚悟している。
 十七時四〇分近江屋で一服。十九時前世田谷へ。

 六月十三日
 七時半起床。畑へ。キュウリに支柱を立てる。トマトの苗再び間引き。トマトの苗には銀色の産毛がキラキラと生えそろい、それをつかんで抜くと、一瞬、トマトの精の匂いらしきが飛び散る。大きくなった苗の間引きは後ろ髪を引かれる思いがある。馬場昭道より電話あり、北京の件。上手くゆくとよいのだが。

 R217
 六月十一日
 十三時半大学へ。十四時、高橋明日香さんインタビュー。構成力のあるインタビューで楽に話せた。独り旅について。十七時十五分まで。
 十七時半、新大久保駅前近江屋で「向風学校」打合せ。安西直紀氏と。途中より渡邊君参加。渡邊は安西の『睨むんです』を手にして仰天してしまう。「こ んなのありですかねー」だって。俺もそう思う。ただただ世界中を駆け巡って、いたるところで睨んでいる自分を写真に撮っている本なのである。ただただ一 途に無意味なのである。
 渡邊と安西は同年であるが、面白いコンビになるやも知れぬ。二十一時前了。

 六月十二日
 七時起床。昨夜の「向風学校」の打合せ、整理する。少しだけ進展している。
 安西より渡された第一次『睨むんです』出版記念祝電集、百名のリストを睨む。彼の人脈の拡がり方は、今の若者達の縮まり具合に慣れてしまってる身に とっては驚きだな。大学をすぐ中退したのが良かったのだろう。百名のリストとチョッとした付記が曼荼羅状にうごめいている。

 R216
 六月九日
 畑、赤かぶ収穫の後に、ハーブ、青しそ、他、コスモス等の花の種をまく。雑読。乱読。諸々の制作準備。

 六月十日
 七時起床。八時四〇分発、今日は「向風学校」設立のために色々と動く予定。十時半埼玉指扇。雨降りで予定が狂い、午後、すぐに向風学校プログラムの件に予定変更。
 H社長と浅草へ。仲見世通りアーケード内クラウン喫茶店で、安西直紀、諏訪太一君等と会う。十五時まで相談。この若い諸君達の良いところは、紆余曲折 しながらも、いじけてねじれていないところである。これは珍しい美質だ。上手に生かしたら、スーッと走り抜ける感じがある。

 十六時世田谷村。畑へ。キュウリの苗の間引き、移植。カモミールの種まく。草取り。十七時三〇分、NHKラジオ、真栄寺・馬場昭道の話しを聞く。和尚の話しは上手くなったな。十九時半、二〇五〇年の交信、二片書き終える 。

音の神殿 13
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R215
 六月七日
 十二時過教室会議、人事小委員会十六時過迄。長い。

 六月八日
 七時前、起床。もう八日か、時間が飛ぶように走り去ってゆくな。音の神殿 12 書く。

 昔、桂枝雀にインタビューした事があって、その時、彼は、いつも六頭の馬を同時に走らせています。つまり話のネタは六本同時に、頭の中に育てていると言っていた。強い印象があった。そのときの枝雀の、少し誇らしそうな、でも寂しそうな顔を思い出す事がある。
 サイト上で、それを真似て、試みていはいるのだが、私の馬は一向に走ってくれない。ましてや、枝雀のように六頭立てとはとても言えぬ状況だ。言葉を使う才能が、まるで桁違いなのを知る。

 九時過、世田谷村発。十時四〇分院レクチャー。

音の神殿 12
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 六月七日
 昨夕は、ドイツからデービッド・レーンオルトが来室。日本で職を得たいとの事。ドイツは今、失業率が異常に高く、若い優秀な人材は国外へと流出せざるを得ない。デービッドのバウハウス大学の友人達も多くは中国他で職を得ているとの事。ロシアに進出している若者も多いらしい。ロシアはオイルマネーで将来は中国と同様の建設ラッシュになるのを見越しているのだ。日本のボーッとしたとしか言い様のない学生達は、とりあえず国内で職を得ているわけだが、国際的な競争力は著しく低い。

 十時、大学院面接試験。どうなってゆくんだろうか、この諸君達は。

渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
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 六月五日
 十時四〇分学部レクチャー。及び臨時試験。十二時迄。音の神殿 11 書く。十五時過発。十五時半古市事務所。

 六月六日
 八時起床。母の家のエスキス。世田谷村の母の置物スケッチ
 母の記憶が母によって編集された、これは場所である。まるで美術館にディスプレイされるように、西の木の箱状の部屋に納められている。この凹部は母の母による記憶が表現されている。
 朝食は炒飯と野菜サラダ、高野豆腐。畑に降りて、わずかの作業。音の神殿 12 を書く。

 昼前迄畑。生ゴミを畑のコンポストに捨てようと降りたら、コンポストはもう一杯だった。仕方ない、移動させよう、と新しく穴を畑のウネの作物が開いてしまっているところに掘った。穴は深い方が良いらしい。マ、15分位で終わると思っていたら、大きな石がゴロゴロ出て来てしまった。総計八ヶ。ここは前は二部屋の離れが建っていたところだ。それを解体した時に基礎の割栗の石を地中に埋めてしまったものだろう。生ゴミを捨てるのと石を掘り起こすのが変テコリンに結びついてしまった。大汗かいて作業する。汗が吹き出たついでに、スイトピーのつるの支柱を二本立て、つるを巻きつけ、ゴーヤのツルもひもで支柱に結ぶ。
 音の神殿どころでは無くなってしまう。こういう作業をしばしばやっていると、畑や庭との関係が別世界のものへと開放されてゆく。

 何をたわ言を。日曜園芸じゃないの、と思うだろうね。言われるまでもなく、コノ作業は日曜園芸の部類に属している。でも私は、出来得れば、こんな作業を自分の表現の仕事としても出来ないかな、と考えている。そう意識しているのと、していないのとでは全く異なる世界だ。だから、世田谷村日記も記録し、公表しているのです。・・・と、意味あり気に記すのは、畑仕事にあきてしまっている自分に気付いているから。消費社会の市民てのはかくの如き者だと我ながら知るからです。

 R212
 六月四日
 十一時昭和医大歯科へ。待合い室で、エンドレス絵巻物の考えをまとめる。変な事考えちゃったような気もするし、明日になれば、又もやただのバカな思いつきに過ぎないのかもしれない。
 十三時千駄ヶ谷ホープ軒で冷し中華を食べる。十四時研究室。
 十五時半発、五反田トモ・コーポレーションへ。社長と十九時半まで打合せ。終了後、地下の寿司屋で渡邊、Tと食事。二十一時まで。ここは新大久保駅前の近江屋と同じくらいにうまくて安い、寿司屋なのだ。  只今、二十一時四十五分京王線新宿発。世田谷村への帰途につく。今日は「母の家」プロジェクトの道筋と、取組みの方法が視えたのが収穫であった。

 六月五日
 七時起床。垣根のスイトピー点検。冬を地中で過ごしただけあり、生命力が強い。花の色も鮮やかである。

 今週の日曜日NHKラジオ第二・宗教の時間に、真栄寺の馬場昭道の話しが流れるそうだ。聞いてみて下さい。

音の神殿 11
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 六月三日
 畑作業を少々。雑草取りの他はする事ない。スイトピーの茎を棒に巻きつけたり、新しく出た朝顔の芽をしゃがみ込んで眺めたりである。

 岩明均「寄生獣」読む。と、いうより見る。全八巻だが、四巻くらいで途切れさせた方が良かったんじゃないか。人間に寄生する寄生獣自体の造形も日本的に過ぎる。ゲゲゲの鬼太郎をひいちゃってるな。映画「マトリックス」の方が少し計り、寄生造形は良かった。かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」のラストも、神、予言者、絶対者の存在を啓示して終わったが、「寄生獣」も然り、それに漫画世代のほのぼのロマンスが組み込まれている。「マトリックス」はそれに速力が加えられていたが、あれは映画でしか表現できなかったかも知れない。夜、TVでたけしの「座頭市」を久し振りに見た。今度は、たけしの考えていた事らしきが解った。

 六月四日
 昨夜遅くまで本を読んだので、朝、七時迄眠ってしまった。ソロソロ、畑もあきてきたなと実感する。昨日は、漫画とTV映画と早慶戦の一日であった。考えようでは、とっても現代的に過ごした日曜日であった。

 毎日新聞で、ネット君臨第三部近未来の風景が始まる。第一回は電脳会話の絶望、のタイトル。新聞としたら良い企画だ。でも、新聞としたら他人事では無い。もっと新聞の未来という事と密接に書き進めるべきだろう。新聞とTVはつながりを持つ。活字文化、新聞は同じ世界。大学は活字文化圏に属している。特に教師はそこから越境しない。しかし、なんである。むしろ洞穴に引き込もっている人のほうが賢者らしき、かも知らんね。

 やり始めている銅板画は私の漫画制作なんだろう。次は四コマ版画に取り組んでみる。

Setagayamura Nikki
音の神殿 10
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R210
 六月二日
 六時半起床。チョッとしたアイデアを得て、メモする。畑でふだん草をつむ。トマト、キュウリ、急に成長した。雨のエネルギーは凄い。雑草とりの手間も急に増えた。
 十時、母、父の仏壇と共に来村。これをもって、母の終のすまい計画の始まりとする。Nikki マテリアル描く。音の神殿、二〇五〇年の交信へ配信の予定。音の神殿、書く。十三時半、母と共に世田谷村を発つ。母を送る。母の部屋には、沢山の母の記憶の物体がしつらえられ、劇場の如くになってきた。世田谷村は再び動き始めたのである。
 十五時前学校。三年設計製図の公開講評会。
2007 年5月の世田谷村日記

世田谷村日記
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