石山修武 世田谷村日記

5月の世田谷村日記
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 四月二十九日
 日曜日、七時起床。十二時迄畑に手を入れて遊ぶ。なす、きゅうり、トマト、そして赤じその種を苗床を作ってまく。汗ばんだ。久し振りに、みみず、げじげじ、小さな虫等に触れる。昼食をはさんで十六時迄畑作り。
 四月三〇日休日
 六時半起床。下の畑にはまだ陽が射していないので、スケッチその他に没頭。頭だけを使っていると少々バランスを欠いてくる。七時半、畑におりる。九時過迄土いじりに没頭する。考えたりスケッチする時間より長いな。ロマーノ、モロッコ(いずれもサヤエンドウの一種)、二十日大根、ふだんそう、カモミール、香菜の種をまく。十五時前了。少々疲れた。区民農園を見学、というよりも、皆さん何をどうやって育てているのかを見学。どうしても、皆同じような野菜を育てるという事になってしまうのが、残念。何も野菜作りまで我を張る事はないのは、承知しているのだが・・・何とかならんかな。十八時迄エスキス。
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 四月二十九日日曜日
 昨夜は、随分前から気になっていた烏山商店街裏通りのビリー・ザ・キッドで一人食事をした。この店はいかにもな西部劇スタイルで、そのいかにもな風が頑固で、当然の事ながら今風ではなく、外から眺めるに何時も大方客は居らず、時には長く扉を閉じている事もある。しかし、何故か閉店もしない。しぶとく店は開き続けている。大きな木製車輪が飾り付けられた店頭から、例の両開き、上半分だけのパタパタドアをくぐり、更に扉を開けて店内に入る。客は一組いた。店内、壁に取り付けられたTVを店員と見ている。何とも無愛想な空気が沈殿している。西部劇の酒場のスタイルである。カウンターの上をバーボングラスが投げられ、すべってくる事は無いが、そんな感じはありありとある。ステーキはビリーを抜いたキッド風味である。健康には悪そうだ。一組いた客もすぐ居なくなり、店内には店員と俺一人。ここから得も言えぬ、イイ感じが漂い出すのである。店員は全く俺に気を使わない。俺も当然気なんか使ってほしくない。何故、店に入ってきたんだ、ウルセイ、ただヒマだから入ったままよ、の感じ。つまり、真昼の決闘風なんである。決闘は勝負がつくが、ステーキはつかない。金を普通に払って、投げたりしないで、店を出た。外は砂嵐でも、木枯らしも吹きすさんでもなく、静かな普通の何の取り柄もない商店街の春の夜。しかし、この店に何故、いつも客が入っていないのかの疑問だけは氷解した。演技抜きの無愛想さにある。つまり、デザインされたりなんかしない、生のまんまの無愛想さがここビリー・ザ・キッド烏山店には氷結している。これが素晴しい。まさに文化財ものだ。悪意はないが、力のある無愛想。完璧に近い客無視のリンとした姿勢。それを体験してみたい人には是非すすめたい。ただし、ビールと少々のつまみ位が良い。くれぐれもステーキは避けたい。。
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 四月二十七日
 十二時十分レクチャー了。午後、相談他。十五時鬼沼光風水塔ディテールチェック。十七時三〇分発。十八時半六本木ミッドタウンで古市徹雄夫妻と会食。たっぷり天ぷらをいただく。二十二時前了。難波先生の事務所へTAXIで。道に迷いTAXI共々ウロウロと迷走。二十二時半頃到着。共通課題の相談他。二十三時半迄。世田谷村に〇一時帰着。古市氏、夫妻共々お元気で何よりだった。難波先生の事務所は以前うかがった時よりも小振りな空間に思えた。空間がキチン、カチンとしていて難波モデュールである。
 四月二十八日
 七時半起床。久し振りに畑に降りる。恥ずかしながら雑草がアッという間の生い茂り様である。ホウレン草、サヤエンドウを得る。草の匂いの中にしゃがみ込んでいると、何となく体に何かがしみ込んでくる如きである。今日から連休のようだ。
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 四月二十六日
 十時半新潟市の方々来室。二十一世紀農村研究会の件、他。農村の将来像を描く事はとても大事なことだ、と理屈では分かっているのだが、仲々体がついてゆかない現実ではある。十七時半八大建設西山社長来室。十八時過ぎ近江屋で会食。近い内に何処か山登り、はもう出来ないから、ほどほどの丘登りでも共にしようかの話となる。日本の山は全て丘だ。プノンペンよりメイルで写真送られてきて、「ひろしまハウス」の屋上部分の更なる増築が完了しつつある事を了解した。屋上の仏足状のオブジェ部分にカンボジア建築特有の屋根を架けたのだが、上手くいっている。「ひろしまハウス」はまだ理想的な未完の状態を続けている。屋根を架けて更に建築は高く空にのびて、建築としての尊厳が出現した。西山氏と登山の話に花が咲いたのだが、一つ意見が完全に一致したのは、超一流の登山家は必ず登山中に死ぬという事であった。天才ヘルマン・ブールは単独でブロードピークに消えたし、植村直己もマッキンレーで死んだ。高度な登山はハイキング状のものとは全く異なる世界であるから、F1レースと同様に早く強い奴は必ず死ぬ。アイルトン・セナもそうだった。早く走るレーサーは死ぬ宿命にある。ま、そんな極論はともかく、お互いに死ねずに来てしまったのだから、これからはデレデレと延び切ったうどん状に生きていくしかネェーなと笑い合ったのであった。二十三時世田谷村に戻る。
 四月二十七日
 七時半起床。スケッチ。十時半院レクチャー第三講。

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 四月二十四日
 十七時半迄、エスキス。昨年の「ひろしまハウス」は建築の芯をやったから、北京モルガンはその反対側へ、飛んでみる。ドキュメント、メディア、不可触、グローバリズム、ノンスケールあるいはスケールアウト等の言葉が道標になるだろう。李のスタッフ、リチャーズと雑談。今夕の食事は有名なベジタリアン・レストランのようだ。十八時十五分出。三〇分、Pure lotus っていう名のレストランへ。僧侶が経営する精進料理屋。インテリアや食器、メニューのスタイルが仲々こっているが、味は新大久保の近江屋が勝る、の印象である。六人の李一家とのディナーで今回の仕事も終わり、ほっとした事もあり楽しかった。二十一時四〇分了。二十二時前ホテルに戻る。明朝早いので荷造り。ホテルの室の黄色の百合の花が美しかったのでスケッチして、二十二時三〇分に横になる。
 四月二十五日
 一時四〇分、又しても眠れずに起き出してしまう。不甲斐ない事だ。五時起床。まだ暗い。六時ロビーで李祖原と別れて空港へ。七時十五分ANAラウンジで一息。北京オリンピックの公式シンボルマークはアイデアは良いが、デザインが悪い。つめが甘い。八時三〇分離陸。今十一時五〇分。NRT迄アト一時間程の飛行。十三時NRT着。十三時半頃の京成線で八幡迄。十五時新大久保駅前近江屋で打合わせ。世田谷村に戻る。
 四月二十六日
 七時前起床。スケッチ。三年前に作った方針がようやく少し具体化しつつあるので、用心しながら着々と進めたい。東京も北京も似たような天候だな春は。

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 四月二十三日
 北京モルガンオーナー、マイルスKと打合わせ。相変わらずの超陽性拡張型人間である。アッという間に話しは終り、プライベートルームで昼食。オリンピックスタジアムが真下に視える。ディナー時に又、打合わせとなり、プラザ内李祖原オフィスに戻る。全館工事の真只中で、活気に溢れ返っている。明日のミーティングのための打合わせを、Kの秘書達と。十六時半、李祖原のオフィスで独人小休。十九時半迄スケッチ&エスキス。夕食李と。二十一時ホテルに戻る。BMWが競争相手として出現している。情報を得たい。早目に横になったが仲々眠れず。
 四月二十四日
 二時前まだ眠れず、時差もないのにおかしい。気が小さいんだね。きっと。六時モーニングコールで起床。快晴。オリンピックスタジアム、モルガン七星プラザが共に陽光に輝いている。七時前ロビー。李祖原とモルガンプラザへ。七時マイルスKと打合わせ。七時半前T社幹部来訪。初打合わせ。そして朝食会。現場見学等。九時半迄。良い会談であった。終了後、マイルスKのオフィスに戻り、色々とつめる。途中、彼のオフィスのハウステンプルの開山式につきあう。北京ナンバーワンの風水師と会う。興味深い体験であった。マイルスK他とプライベートレストランで昼食。その後、再び重要な打合わせ。十三時半修了。マイルスKと別れる。十三時四十分、モルガンプラザ内の李のオフィスへ。昨日からズッとモルガンプラザ内を動いていた。今年の夏は研究室は北京に移動だな、と覚悟した。十四時半、一階コリドール部分、他を独人でリサーチ、写真撮影。十五時半戻り。李のオフィスで小休。計画がリアルになってきた眼で見る北京モルガン七星プラザは仲々てごわい。
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 四月二十二日 日曜日
 只今十六時三〇分出発ラウンジで一息ついている。明日の北京から厳しいネゴシエーションが始まるだろうから、直前の休息である。十七時半離陸。来年の北京オリンピックは確実に世界の中心のドキュメントになる。中国が本格的に世界の中心の一つとして登場する事を、世界中に知らしめる歴史的契機となる。そのオリンピック会場で何ができるかの、ケンケンガクガクが始まっている。僕の国籍が日本である事はそれ程重要な事ではない。なにしろ、このプロジェクトの中枢にいる日本人は今のところ私一人なのだから。黄海上空を飛んでまもなく大蓮上空。
 四時間弱のフライトで、北京空港二十一時半頃着。李祖原が迎えてくれた。もう一人台北から香港経由の人間を三〇分程スターバックスコーヒーで待ち、いつものロングサイズのBMWリムジンでCホテルへ。チェックインして只今二十二時三〇分(日本時間二十三時三〇分)過部屋でこのメモを記している。明朝は九時三〇分にブレックファスト・レストランで朝食となった。真近に北京オリンピックメインスタジアム、そしてモルガン七星プラザが夜の闇に浮かんでいる。モルガンは明かりがこうこうとついている。二十三時とり敢えず横になる。メインスタジアムの夜の工事は今は無いようだ。
 四月二十三日
 〇時、仲々眠れずに、オリンピック会場を眺めおろしている。モルガンのタワー部には溶接の火花が散っているのが良く見える。工事は二十四時間体制だな。こうして、メインスタジアムとモルガンプラザを同時に眺めると、モルガンでのパフォーマンスは二二〇メーターX六〇〇メーターのスケール全体を使ってやらねば。六時半、目覚めてしまう。八時半迄それでもウトウトする。北京らしい曇天である。スケッチとエスキスを少々。九時半李祖原と朝食。蔡國強に会う。十時過北京七星モルガンプラザ。コリドールを歩く。プランを少し修正しなくてはならない。石をふんだんに使った立派なものになっている。巨大な一枚モノの大理石は中国でしか得られぬものだろう。十一時モルガンプラザ内、李祖原オフィス。リチャードに一/五〇〇のファイナルプランをプリントアウトしてもらう。正午マイルス・Kに会う。
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 四月二〇日
 十八時三〇分一段落して少し休む。関岡英之氏より和田秀樹氏との共著「「改革」にダマされるな」送られてくる。関岡氏は研究室OBの出色な論客であり、益々活躍されているようで頼もしい限りである。古市徹雄氏より「世界遺産の建築を見よう」岩波ジュニア全書送られてくる。
 四月二十一日 土曜日
 明日から北京なので色々と準備。朝、版画芸術原稿に手を入れ完稿。関岡君の本読了。渡辺君の論考の一部を読む。若い才能が育つのをハラハラして見てる感じだな。どうせ最後は一人なんだから、誰でも。十二時半迄。十六時半研究室。二十一時前、世田谷村に戻る。
 四月二十二日 日曜日
 七時前起床。ゆっくり荷づくり。今日からの北京行きは四日間のスケジュールではあるが、出来る限りの事をしてしまいたいので帰りは延びるかも知れぬ。風強き朝なり。十一時世田谷区選挙投票へ。午後世田谷村発、成田空港へ。十七時二〇分 NH 955 便で北京へ。
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 四月十九日
 十三時西調布。N先生にお目にかかる。十四時二〇分大学。同四〇分教室会議。終了後都市計画の先生方と秋の東大との共同課題について打合わせ。その後少々ミーティング十九時前了。
 四月二〇日
 七時半起床。十時過大学。院レクチャー二講目準備続ける。院レクチャーは誰が聴講しているか知れぬので、緊張もする。十時四〇分院レクチャー。十二時十分迄。話しているうちに高揚した。健康にも良い。版画芸術の原稿書く。十七時二〇分了。三〇分GK・T氏来室。十八時了。
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 四月十八日
 十三時前、北京モルガン打合わせ。十四時過迄。松崎町の森さんから久し振りに電話。彼の声を聞くだけで和む。松崎町の友人達も皆元気なようで嬉しい。十四時半過、演習G。北園徹先生、森川嘉一朗先生と。参加学生は減ったが、予想通り密度高くやる。十七時過迄。北園徹先生とコーリア料理屋で相談。二十二時世田谷村に戻る。
 四月十九日
 八時半起床。世田谷美術館展のアイディアを少々、他構想を練る。諸先生の好意、熱意によって今秋には設計教育に画期的な試みが実現しそうで、これにも全力を尽くしたい。
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 四月十七日
 十時前京王線車中。今日の講義の再組み立て。十時四〇分G2講義。十二時迄。十三時石山研ゼミ。十五時過了。地図ゼミ。十六時三〇分了。レクチャー準備に時間を割く。十八時教育学部の学生へのレクチャー。「タージマハールは名建築か」。建築学科外の学生に話すのは珍しい事なので面白く準備できた。しかしながら、用意した設問が最初から崩壊してしまい、苦しい講義となる。タージマハールを知らない学生が多過ぎた。当然、代々木のオリンピックプール体育館も知らない、関心の外にあったのだった。私の義務は今回だけなのでなんとか乗り切ったが、他の先生方もさぞかし苦労する事であろう。少なからずカルチャーショックを受けた。十九時二〇分了。二〇時発。近江屋で一服。世田谷村に戻る。
 四月十八日
 七時半起床。長崎市長選挙遊説中の射殺、アメリカ・バージニア工科大学での学生大量射殺。撃つ者と撃たれる者の間には、どうにも説明できようのないカルチャーの違いがあるのだろう。昨夜の自分の体験も実はそれに近いのではないか。タージマハールならおそらく知っているだろうと安易に考えていた私と、タージマハールの名さえ知らぬと言う学生達。同じ都市、同じキャンパスで生活していながら、教室には巨大なクレバスが出現してしまった。用心しなくてはいかんな。この出現してしまった谷がさらに固くなり、互いにそれぞれが自分の居る場所の正当性を一方的に主張し始めると、一見闇としか言いようのない悲劇が発生する。だから、益々お互いに自分の場所に閉じ込もろうとする。それが現代の特質かも知れない。バージニア州で銃を撃ち続けた韓国人学生の周囲にも凍りついた谷があった。
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 四月十六日
 八時三〇分起床。新潟三条市の田辺吉洋氏が亡くなった。私の教え子であり、ダムダンの良きスタッフでもあった。六十一才の若さであった。私よりも二つ若いだけだ。六〇年代の良い時代を共に過した。少し落ち着いた頃に墓参りしたい。思い出すのは二〇代前半の彼の顔ばかりなり。鬼沼で訃報の知らせを聞いたのだが、山中にていかんともしがたかった。今日が別れの会なのだが、行けない。十一時大学、材料と技術ゼミ。参加自由のゼミなので人数は増加しているのだが、観客が多過ぎる。マ、これで良しとしなければならん。十四時過ぎ迄、ミッチリやる。十九時半迄研究室ゼミ。二〇時過近江屋で一服。二十二時世田谷村に戻る。
 四月十七日
 八時起床。今日は終日レクチャー及びゼミなので準備。
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 四月十三日
 十八時半迄打合わせ。十九時東京オペラシティ、アートギャラリーへ。藤森照信展内覧会。幾たりかの知人友人に会う。盛会であった。展覧会自体は素人の学芸会がいきなりメインステージに上がった風があり、又その良さが溢れ返っているのであった。少年建築プロレス大会だな。久し振りに会う藤森はほんの少しくたびれて、仲々イイ味を出していた。この人物も人並みに地蔵面になってきたのであった。二〇時より五十三階のイタ飯屋で路上観察会の面々等とのパーティー。赤瀬川原平、南伸坊諸氏、ポケットモンスター達と語り合った。この人達はやっぱり独特なテーストの持主連である。二十三時頃世田谷村に戻る。
 四月十四日
 六時前起床。七時半東京駅、T親子と待ち合わせ。八時過ぎのやまびこで郡山へ。車中、T社長にプレゼンテーション。郡山よりレンタカーで猪苗代湖鬼沼現場へ、途中ソバを喰い現場着十二時。足ごしらえして、劇場の谷、社長事務所建設予定地、そして山の上の風力発電塔現場へ登る。ハードだ。塔の位置決め、及び伐切樹木マーク。山を下り、再び劇場予定地で軸決め糸張り等。十七時半迄。火おこしメシ炊き、十八時夕食。フキのトウ、ヨモギ炊き込み飯。山で採取した山菜とメザシ、イワシの簡素なもの。美味かった。二〇時就寝、良く体を動かしたので、疲れて熟睡する。
 四月十五日 日曜日
 六時前起床。囲炉裏に火をつくり、メシ炊き。ゴハンと昨夜の残りもの。焼玉ネギの朝食。T社長、役所営林所と打合わせ。我々は休み。昼過迄。十三時鬼沼発。十四時ソバ屋。昼食。十六時過郡山駅。同三〇分過の新幹線で東京へ向かう。山野を駆け巡る生活は若い頃にさんざんやったのだが、まだ卒業できていない。十八時東京駅で皆と別れる。十九時世田谷村帰着。若いA君S君来る。私の取材の件。夕食をとりながら話しを聞く。面白い人達だ。何が面白いのか、まだ良く解らないが何しろ不思議。二十四時前迄。無我ワールド・プロレスラー西村修氏のインタビュー、アポイント取ってもらった。一時就寝。S君世田谷村泊。
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 四月十二日
 十一時研究室。日経BP・T氏に、次回ものつくる人讃歌取材、プロレスラー西村修でどうかの連絡、了解を得る。鈴木博之句会妙見会会長より、世田谷村日記の四月八日付の句について鋭い批評をいただく。会長自ら範例を示されたので、無断で掲載する。
鈴木博之先生詠める句
桜散り、友散り、後に思い散り、散りぢり混じる出会いにて・・・
一つ家に 三地蔵さくら喰いにけり
二人して 桜と友に会いにけり
三地蔵 歯なし髪なし さくらかな
一二三よと 数えて帰るさくらかな
 それぞれ句の妙は言う迄もないが、見所は勿論、発句の頭が一、二、三と数え唄風になっているところである。三地蔵の三という数を手掛かりに、この構成をたちどころに考えた才を見なければならない。おまけに、その工夫を見落としてはならぬぞとの、いましめ風の四句目に一、二、三と数えて詠んでおるのだぞとの、さとしがある。流石、会長である。たったの二人の会員である、もう一人の貴重な平会員の私に何事かを教示しているのである。誠にありがたくもあり、かたじけない。妙見会理知派の句風が良く示されている。早速、会長の連句風を模倣して、スタディしてみた。
よみながら 頭たれたり 春の朝
五里霧中 句作の道の 遠ければ
六道の 輪廻のカルマ えい止まれ
 三句目は昨日見てしまった哲学派プロレスラーの影響がありありとあり、我ながらいただけないのである。こんな事していたらイカンな、と思いつつ聞く春雪崩。富永譲先生より近著いただく。誠実だな彼は、うらやましい限りである。
 十三過発、目白GKへ。栄久庵憲司さん等と打合わせ。フィンランドの件十六時半迄。十七時近江屋で一服。今日の仕事はこれ迄、と思いつつスケッチ。
 四月十三日
 七時過起床。今日から大学院の講義が始まるので、その準備。少しづつ内容を変えてみる。明日は鬼沼行である。十時過研究室。同四〇分院レクチャー。十二過迄。私の院レクチャーはオープンなので興味のある方は誰でもどうぞ。

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 四月十一日
 十一時研究室。打合わせ。十三時コイズミ来室。バードハウスプロジェクトに関心を持った。十四時森川嘉一郎、北園徹両先生来室。演習G打合わせ。十四時四〇分演習G開始。院生、四年生へのオープン開講、他大学の学生も参加自由とする。十七時前了。十七時過ぎ研究室発。十八時水道橋待合わせ。ビール、おにぎり等を買い込んで後楽園スタジアム。5Fスタジアムへ。無我2007ワールドシリーズ、チャボ・ゲレロ日本引退シリーズ観戦。若いライター安西直紀君の解説付きでプロレス六試合を観る。藤波辰爾、西村修、チャボ・ゲレロ、チャド・マレンコ等の技と演技力を楽しむ。安西君を中心に多くの若い人達のグループの一員として参加させてもらったが実に面白い体験であった。二十時過了。二十一時過世田谷村に戻る。
 四月十二日
 七時前起床。昨夜のプロレス観戦で面白かったのは、若い諸君のプロレスへの関心の持ち方であった。A君、S君の解説ではレスラー西村修のライフスタイルへの共感がベースになってるのが知れた。西村修は若くして病を得、インド等でメディテーション、東洋医学で病と共に生きながら、リング生活をしているとの事。その姿に深い関心がある模様。又、藤波、チャボ等の有名レスラーも皆年を取り、彼等の言によれば「イイ味を出している」のであった。無我ワールド・プロレスリングは彼等の解説によれば、古典的なスタイルへの復古を旨としているようで、その代表的レスラーがどうやら西村修のようだ。古典的レスリングとは、殴る、蹴るの荒技をできるだけ封じ、本来の技を見せるのを旨とするもののようだ。昔のワールド・チャンピオン、ルー・デーズ風味だ。彼等によればプロレスはオペラ派、哲学派、まで巾広くあり、西村修は瞑想派とまで呼ばれているらしい。試合終了後S君の手引きでロビーでお目にかかり、握手させていただいたが、穏やかな物腰の全く外連味の無い人物のようであった。プロレスラーには皆一様にある種の哀愁の気配があり、それがA君やS君を引き付けているのではなかろうか。
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 四月十日
 七時半起床。今日より講義開始なので、その準備他。十時過研究室。十時四〇分G2講義、半年のレクチャーガイダンス。学生であった関岡君の話しをしようと考えていたのだが、尻切れトンボに終わったので次回にエピソードとして話したい。この講義は原則としてオープンなので誰でも聴講可である。十二時過了。今年のゼミに関して院生と相談する。前半のゼミはパクストンの水晶宮研究となった。博士課程渡辺さん相談。十五時過台北より卒業生陳さん来室。元気そうでなによりだ。明るいのが良い。十七時近江屋へ、雑打合わせ。十八時李祖原夫妻、馬場昭道氏、会食。打合わせ。西安の件。二〇時了。二十一時前世田谷村に戻る。
 四月十一日
 七時起床。スケッチ。消えては又現はれる「つむじ風」。ヨハネスへの指示ができそうだ。八時過了。宮崎の藤野忠利氏より便り読む。

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 四月九日
 七時半起床。新聞各紙に目を通す。十時世田谷村発。
 十一時研究室。十二時李祖原来室。北京の計画打合わせ、サンドイッチ&MILKのランチ。十四時半迄。十五時雑打合わせ。十六時共にGAへ、二川幸夫氏と会談、及び少々のスケジュール調整。十七時過迄。十八時前六本木へ。十八時四〇分磯崎アトリエ。李祖原と共に磯崎さんと久し振りにお目にかかる。TAXIでイタリアン・レストランへ。会食二十二時前迄。恵比寿で李祖原と別れ、世田谷村へ。二十三時半世田谷村に戻る。
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 四月八日 日曜日 その二
 八時起床。何をするではなし時を過す。十時過、芦花小学校へ統一地方選投票。初めて、投票するのに行列待ちの列ができていた。しかし、高齢の人間の姿が目立ち、若い無党派らしきの姿は無い。十二時半、世田谷村発鶯谷へ。十三時半鶯谷駅北口で李祖原と待ち合わせ。豆腐料理笹雪へ。李が完全な菜食主義者なので、食事は大変なのだ。十四時鈴木博之先生合流。三〇年以上の長きに渡る古い友人達の気のおけぬ集まりになる。桜の花はすでに散っているが、豆腐の会である。鈴木会長の前ではあるが、一句得たので記す。
鶯谷とは名ばかりなり、谷を通るは休日とは言え車、車、車。古き友人達と、何を話すでもなく、さんざめきながら谷を渡る。中国人の友に英語で漢字を手助けに仏教の講義を受ける、という何とも考えてみれば得体が知れぬ時間なり。
桜散り 豆腐食べたり 三地蔵
 十五時半了。十六時過世田谷村に戻る。何となく、気持は休まった。花見というより、友見だったな。十九時豆腐三地蔵の絵を描く。ハハァ、何だこれは、と驚く。都知事選は石原知事圧勝。福岡県知事選は麻生知事圧勝であった。
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 四月八日 日曜日
 〇時三〇分、世田谷村で李祖原からの資料読む。昨日十九時過、台場ホテル日航で李氏と打合わせ及び会食だったが北京七星モルガン・プラザは最上階にスペシャル・ハウスが設けられビル・ゲイツやアラブの王族の中国での住居になりつつあるようだ。オーナーのKは今や中国で最も影響力のある人物の一人になったと李氏もいささか驚いている。ホテル日航から眺めるベイ・ブリッジ、東京タワーの夜景がガラスに乱反射して妙な映像を結んでいるのをスケッチした。
 モルガン・プラザは六月には高層部分が立ち上がるとの事で、実に6ヶ月で三百米のビルを建ち上げるという、驚くべき事がなされつつある。「我々は速い」と李氏は平然としていた。西安のプロジェクトも壮大なものになっていて、これは今年工事中に訪ねる事にしたい。
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 四月六日
 十七時新入生ガイダンス了。
 四月七日
 六時半起床。七時半世田谷村発軽井沢O邸現場へ。十時半O邸。O氏、工務店担当者と打合わせ。台所から浅間山が美しい。色決め、他。工務店担当者、小諸の真言宗僧侶でもある事が解り興味津々。O氏によれば、色々と不満を言っても動じないそうである。十二時了。軽井沢駅前茜屋珈琲店でカレーライス、コーヒーを食し、帰途につく。十五時前研究室。十七時半ホテル日航で李祖原に会う事になる。
 O邸のOさんは、そのライフスタイルがとても興味深い。今年から軽井沢の工房を拠点に建築部品や家具等を制作販売しようという人物で、私にとっては鬼沼のT社長と共に典型的な開放技術的人間なのである。O氏の事業にどれだけの支援ができるのか心許ないが、ゆっくりやってみたい。
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 四月六日
 午前、李祖原と連絡。二十四日に北京で会う事になる。十三時スケッチ。今日の絵日記は、山に軟着陸した宇宙飛行士。又は現代の修行僧。何枚かの内から丹羽さん他にピックアップしてもらう。絵日記もやってみれば大変だ。何枚も捨てられてしまう。十四時新入生ガイダンス。建築学科全教員が学生にスピーチする唯一の機会である。毎年各先生方の考えを聞く事ができるので楽しみな時間でもある。
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 四月五日
 十一時研究室。雑作業。若松社長交通渋滞で打合わせキャンセル。十四時人事小委員会。教室会議。設計製図方針打合わせ。十九時前迄。会議疲れで早々に退散する。安藤忠雄さんの発案、難波先生の試みてみようかの姿勢により、今年は東大、早稲田の共通課題が試みられる事になった。若い先生方の加入と、アレやコレやを加勢にして設計教育を若干改革するチャンスだろう。二十四時前、李祖原よりTEL入り日曜日朝十時大学の門前に会う事になった。北京計画も大詰めである。中国大陸の、今度のプロジェクトの厳しさは、日本以外の企業と渡り合わねばならぬ事につきる。相当のストレスである。
 四月六日
 七時起床。畑でとれたホウレン草を喰べる。九時半研究室へ。今日の絵日記は鉄の丸棒の曼荼羅化を描いたもの。何処で、何の為に使うでもないアイデアだが、鬼沼の地形再構成と基本的には同じ方向の考え方である。
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 四月四日
 鬼沼に計画中の谷のスタディが面白くなってきた。谷の模型が仲々良い。地形が建築になっている。昨日、何の気なしに描いた風葬の建築の視点と酷似している。
 四月五日
 八時前起床。昨日の鬼沼の谷の模型と風葬のスケッチ。ウェブサイトに公表するスケッチと非公表のスケッチの仕分けが仲々デリケートである。「絵」は公表できても「エスキス」は公表できないとでも言おうか。昨日の谷の模型も小さな箱を作って仕舞い込んだ。来年の世田谷美術展まで封印する。広島山県郡山中の木本一之さんから、「ひろしまハウス」への小モニュメント、シンボル彫刻の案が送られてきた。木本さんはカンボジアまで足を運ばれ、建築に身を置いて、体感したうえでの案なので、良いモノを提案して下さった。心臓の鼓動を、音を形にするというアイデアは良い。早速、実現に向けて動いてみたい。この木本さんのアイデアは鬼沼でも使えると気付いた。又、送られてきたイメージスケッチが素晴らしいので、サイトのトップページに公表させて頂く事した。木本さんはお怒りにはならぬだろう。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
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 四月四日
 五時起床。スケッチ他。七時二〇分発。東京駅八時半のぞみで名古屋へ。十時半、安藤忠雄さんと待ち合わせ。コーヒー飲んで十一時トヨタ自動車へ。打合わせ。十二時前了。名古屋構内で安藤さんと雑談し別れる。十三時過のぞみで東京へ、とんぼ返り。十六時研究室。ミーティング。
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 四月四日
 今は、実はまだ四月三日である。日記のスタイルを変えたので日付は自由自在になった。ただし、毎日、「絵」を描くノルマが発生してしまった。字(言葉)は垂れ流せるが、実は絵、フォルムも、もっと垂れ流す事は容易だ。どうせ、垂れ流すんだったら、双方共に水洗便所状にしてしまおうと覚悟したのである。そんなわけで、今日も四月一日付の「絵」がそえられている筈だ。
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 四月三日の夕刻、新宿の雑居ビル3F味王でヒマをつぶしている。人生の節々にそうであったような気がするが、世田谷村日記のスタイルを変えるのを決心する。マ、言葉は変わり様がない。毎日、スケッチというか、絵というか、何とも言いようのないモノを一葉指し込む事にする。つまり、絵日記に形式を転換する。言葉を記す気になれぬ時は絵でゆけるのだから、コレはとても良い考えだと自画自賛したい。
 最初の非言葉の記録、つまり絵の日付は四月一日のモノだ。四月一日、つまり、ウソをついても公認の日、ようするにエープリルフール、バカの日は、かく言う私奴の誕生日である。で、あるから、誕生日を記念する「絵」は、やっぱり、つっぱり、どうしても入れたい。と、いうわけで、三日の記録に、一日が顔を出したのである。
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 四月二日
 七時過起床。八時前迄ドローイング。No.001 は視えてきた。No.2 の極小にかかる。九時朝食。十時半研究室。十一時第二回材料と技術研究会。土とコンクリートゼミ。十三時過迄。博士論文審査、イタリアの留学生による「メタボリズム」に関する論。英文、英語による発表で、仲々大変である。十六時前迄。十七時過渡辺豊和氏に返信。十七時半ミーティング。二〇時半迄 Mr. 蔡と議論。近江屋で一服して世田谷村に二十二時半戻る。今年の桜は今夜が見おさめか。
 四月三日
 朝小雨:ノドの調子が悪く午前中用心して休む。煙草をひかえた方が良いな。小ドローイング二点。ドローイングには一切技術的思考、観念は現われてこない。機械も出現しない。建築も現われない。何か地形のようなものが現れてくる。こんな書き方をしているといかにもな芸術家のようだが、そんな気配も我ながら全く無い。冷たい夢判断でもない。時間と立替えに描いているのだから、今の時間を描いている筈だ。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R144
 四月一日 日曜日
 四時過起床。佐藤健の「ルポ空海」佼成出版社読む。昨日、真栄寺で手渡されたもの。平成二年出版のこの本は佐藤健が最も体力、気力充実していたと思われる時期のものだ。滝雄一の写真も素晴らしい。五時過、再び眠り九時半起床。
 十五時半読了。ドローイングの仕入レ作業のようなものだ。有り難い事に洛陽・長安の都まで旅をする事ができた。長安(西安)には彼の最期の旅に同行したので、殊更な感慨がある。あの時も滝さんが一緒だった。続いてルポ仏教、読みふける。十八時エスキス、十九時半ドローイング開始。「風の館」仮。大きな紙に描くのは気持ち良い。ようやくにして気持が攻勢に転じた。二十三時前小休止。再び読書。今日のドローイング及びエスキス、スケッチは、要するに今何を、これから何を考えようとしているのかを、視覚的に知ろうとする為のものだろう。頭で、言葉に頼ってする思考は時に自分の本性を裏切るからな。手はそれと比較すると不自由ではあるが正直だ。こんな事考えているのかの驚きが現れてくる。時には。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
2007 年3月の世田谷村日記

世田谷村日記
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