石山修武 世田谷村日記

5月の世田谷村日記
 R020
 四月三十日
 十二時三〇分研究室、世田美N、M両氏打合わせ。いよいよ、あと二ヶ月弱になった。宮古島計画のモデル原寸図等をチェック。十七時迄。神田へ。
 ビックリして腰が抜けそうな話しを聞く。

 今年は日本からのブラジル移民百年記念祭である。この事はサンパウロ大学のマリア・セシリア・ドス・サントスからも聞かされていた。ブラジルでも決して小さくない話題であり、記念すべき国の出来事でもある。ブラジルから国会議員 12 名を含む、ほぼ百名の方々が日本政府に招待されて、日本にやってこられた。皆さん大変な苦労をされた先駆的日本人である。ところが、決してすくなくない国会議員の方々、ブラジル県議会の方々が欠席されたという。聞けば、招待とは名ばかりで、来日された飛行機代、ホテル代の全てを自分で払わなくてはならなかったそうだ。移民百年を記念する式典で、しかも招待の形式をとっているのにですぞ。

 私の知り合いのブラジル移民の方は、本当に情けない思いをしていると言った。国が招待して、しかも金はお前払えというわけだ。ついでに夫婦同伴は不可だとの事。しかも、この記念すべき式典のブラジル側催事に日本国が供したお金は五百万円だとの事である。日本国の外交の力というのは、これ位のものなのかと情けなくて涙が出たと、知り合いは天をあおいだ。

 苦労に苦労を重ねてブラジルで働き抜いて、地歩を築き、日本人の良い所を世界に示した人々の記念すべき国家の式典に日本国政府は五百万円供しただけらしい。ケチとか、しみったれとかのレベルの問題ではなかろう。これは国の恥ですぞ。失礼きわまる。
 少なくともJALその他に協力させて、飛行機代、ホテル代は支払うのが当たり前の事ではないのか。何しろ招待ですぞ。
 知り合いは皇太子にお会いできて光栄であったと言っていたけれど、本来は皇族の一人や二人はそれこそ自費でブラジルまで飛んで、その労をねぎらうくらいの事はすべきだろう。

 知り合いは金の事だけで天を仰いだのではない。日本の外交のコモンセンスに表れてしまった総合力、識見の余りのレベルの低さに天を仰いだのである。
 聞いた私も驚いた。日本の外交、政府は明らかに世界の三流以下である。国会議員、外務省関係者はそれぞれカンパして、招待したブラジル移民の方々百名の飛行機代、ホテル代を返却しろと言いたい。

 五月一日
 六時前起床。昨夜のブラジル移民百周年記念式典の現実を知る、を経て今朝の朝刊を読む。日本の政府はどうなっているのかなを実感せざるを得ない。巨額な金がスーダン他に出されているようだが、その理由は我々は知らない。ブラジル - 日本間のフライトはビジネスクラスで往復 80 万円、エコノミークラスで 20 万円だそうだ。大半の移民の方々は日本政府に招待されて、しかもエコノミークラスで夫妻同伴禁で来日して式典に臨まれたと言う。失礼だが、エコノミーで百人分は二千万円だ。スーダンへの供出は二百五億円だとある。恐らくアジア・アフリカ地域、あるいは他の地域への外交的配慮らしきでの円の垂れ流し額は途方も無い額にのぼると思われる。だれがどのようにこの金を差配しているのか。知らせよ。

 ジャーナリズムはこのブラジル移民百年記念式典の表面しか伝えてい ない。百名のブラジルからの参加者達がどんな思いで参加したのかの報道も一切無い。怠慢としか言い様がない。

 TVにそういう掘り下げは無理だろうが、新聞にもその様な恥ずかしい話は一切出てこない。最近、つくづく痛感するのだが新聞記事のレベルが低下しているように思えてならない。特に政治、社会面の凋落振りが目に余る。
 記者諸君はきちんと足を使って情報を手にしているのか、いささか疑問に思う事が多いのである。

 今日は朝、杏林病院での定期検診がある。昨日は宮古島から戻り、原稿ばかり書いていて、夕方一瞬ではあるが体調が悪かった。気をつけたいが、どう気をつければ良いのかが不明である。

 再び、何故に我ながらくどくどしく、ブラジル移民百周年記念式典、ブラジルに本人移民招待自腹切り問題について書くか。これは世田谷村での畑作りと同じ問題なのだの確信があるからだ。身辺雑誌の内に現実の総体を視たいと考えるからだ。

 昨日、研究室で宮古島船暮し、島探訪の留守中に研究室の面々が作り続けていた各種模型を見た。大変面白かった。浅草雷門、観音様は念入りに作られていたし、世田谷村二〇一三年計画も面白く出来ていた。
 多分、この面白さは彼等が作っている模型を模型として考えている面白さなのだ。彼等は作っている模型が実現されてゆくであろうプロセスへの関心、つまりリアライズされるであろう世界のモデルである事を考えていない。端的に言ってしまえば模型飛行機をつくる如くに模型を作っているのである。
 この事を叱っているのではない。そこにある種の哀切を視るのである。社会モデルとしての建築なんて事を考えずに模型作りは模型作りとして楽しむしかないという、私から見れば哀切である。
 日本の若者は模型の美学に遊ぶしか可能性のありかが無いのであろうか。

 R019
 四月二十八日
 終日、書く。夕方李君にドローイング渡し、模型の指示をする。新大久保近江屋で鈴木博之先生と久し振りにお目にかかる。話す事とてあんまり無かったのだが時に実物を見ないとね。お互いにそれ程大事は無い、小事はあるけれどを確認しただけである。その後、名残り惜しいので、もう一軒。難波先生合流。

 四月二十九日 休日
 終日、書く。宮古島計画について。絵と字は全く同時にはできないのだ。夕方疲れて近くにオリオンビールを買いに出て一人で飲む。オリオンビールはうまいような気がする。

 四月三十日
 六時前起床。書く。九時修了。二〇〇字詰 75 枚を書き終えた。大変だけれど面白い。連休中にあと一〇〇枚書かねばならない。「室内」に書き続けていたので原稿用紙の枚数は二〇〇字単位が身体にしみついている。もっとも、今時、原稿用紙に書く人間も恐らく化石状態なのだろうがね。
 フト、机の脇に置いてある小さな額入りの写真に目がゆく。アレ、何故こんな処に宮古島の与那覇湾があるんだろうと、いぶかしんだが、古い松崎町岩地集落の写真であった。岩地の小さな入江と宮古島で訪ねたサイトの湾、あの無人島今は渡真利島月光 TIDA 村予定地の湾の形が酷似していたのだ。

 四半世紀の時がアッという間に今につながる瞬間があるものだな。十一時世田谷村発。学校へ。

 R018
 四月二十四日
 六時半羽田空港JTA 21 便宮古島便を待っている。先程、月光号チーフクルーのZ氏にカウンター前でお目にかかった。宮古島迄御一緒する。Nさんはすでに何日も前から宮古島に入って、多分、ヨットで暮らしているのだろう。昨夜の連絡では宮古島の海は少々うねりがあるので、今夜は無人島泊になるだろうとの事。恐らくは計画地のN島だろう。これは幸先がいい。初日からN島どまりとは。
 飛行機は小さなボーイング 737 。宮古島迄三時間のフライトだと機内放送があった。そうか、台湾に飛ぶのとほぼ同じなんだなと距離を実感する。「無人島どまりになりそうです、草ボーボーですから、スニーカーの方が良いでしょう。」と言われている。若い頃であれば、それだけでアレコレ想像を巡らせて、それはやがて妄想となり、ロビンソン・クルーソーまがいの情景迄作りあげてしまったであろう。アレヤコレヤと馬鹿な事を考え過ぎて、一睡も出来ぬ夜になったに違いない。遠足の前の小学生のように。しかし、昨夜は夢を見ずにグッスリと眠ってしまった。誠に普通極まる旅の前夜であった。無人島どまりなのに、あんまりワクワクでもドキドキでも無かったのである。早朝荷造りをまとめながら、とてもその事が気になった。これは無感動症候群にまみれてしまったか、それとも年令のなせる業なのか。感性がすれ切り始めたのだろうか。それともいささか用心深くなったのか。
 計画地(サイト)を訪ねるのは設計する者にとって、依頼主に出会うのと同じに何より大事な事だ。事を紡ぎ出す源になり得るからだ。しかしながらこれ迄の体験では現実は想像を上廻った事、サイトがヴァーチャルを凌駕した事は数少ない。特に私の場合は人間や土地に触発されなければ、どうにもならないタイプだから、あんまりガッカリしては困るのだ。ガッカリがそのまんまモノになって立ち上ってしまったら、それこそ生きてる甲斐も無いくらい。それを知るようになっているから、あんまり夢も見ないようにしているのである。
 それに、今度のN島計画は依頼主も土地も余りにも私の日常とかけ離れている。それ自体が巨きな物語り仕立てになっている。だから、止せば良いだろうにもう充分に妄想は膨らませ過ぎている。計画案のスケッチも模型だってすでに幾通りも作ってしまった。そして、まずい事にそれは全てNさんの人間に触発された片肺飛行のものなのだ。サイトは実見していない。グーグルのサイトで、かなり正確に予測はできるし、島の写真もある。でも、サイトの何か、霊気のようなもの、は感じ取っていない。身体で感じる風の柔らかさ、陽光の移ろい。海の音、潮の香り、星々の作る影、草木のざわめき・・・ほとんど無限に近い迄に複雑でしかも有機的に連関しているに違いないサイトが発する言葉。それをまだ聴いてはいないのだ。
 島を見て、そこに立って聴くであろうサイトの言葉を得たならば、これ迄作りためてきた案はすぐに壊してしまおう、もっと何か凄いモノを得られそうだと、実ワ、心待ちしているのである。できるかどうか、まだわからぬけれど、可能な限り、空にしておかねばならない。自分を。サイトの全てを受け入れよう。
 あと、一時間程で宮古島に着く。
 機内で得た小パンフレットにある宮古島の地図にも、N島のある湾の名前は記されていない。エイの形をした宮古島の東シナ海に面して、いかにも湾らしく、巨人が開けた大口みたいな地形なのに名前が無いとは不可思議なり。Nさんの言う通り、宮古島はまったいらで肉眼ではほとんど形らしい形が立ち上がっていないので、それで地名もつけにくかったのかな。鳥だけが上空からのエイの形を知るだけだし、魚達だけがサンゴ礁の複雑であろう海底の森を知るだけだから。
 鳥になってみる、魚になってみるというやり方がもしかしたらあるのかも知れないな。
 あんまり余計な事は考えず、少し計り眠っておこう。今夜は眠れないかも知れないしね。

 宮古島空港に降下している。眼下の島は全く平坦で山も川も見当たらぬ。見覚えのある湾の形がいきなり眼に入ってきた。N島計画の湾である。湾には島が三つ浮いている。曇天だが確かに美しい海の色である。
 「Zさん、ここですよね。この湾でしょ。」
 「そうだと思います。こんなに真上から視えるんだ。気がつかなかったな。」
 「あの、湾の入口の方の細長い島ですよね。Nさん、おっしゃっていたのは。」
 「どうなのかな。まだ良く解りません。今日の午後に島に上陸するって聞いてますから、それでハッキリするんじゃないですか。」
 「そうか、しばし待て、ですか。」
 ZさんはNさんと数十年の附合いで、徹底的にヨット競技をたたき込まれた人物だ。会社経営者だからキチンとした現実感覚の持主である筈だ。それが、こんな状態なんだから。例の物件の土地はあれかな、と問うたのに、どうでしょうかね。の答えなのだ。
 海の人間は、どうやら陸の人間とは違う価値観の所有者なのかも知れない。バックミンスター・フラーの言うGP、大海賊は彼の夢想の中にだけ在る人種だと考えてもいたけれど、それはどうやら違うらしい。外洋を走り廻るヨット競技世界には色濃く陸のルールとは違う、何かがあるのか知れない。飛行機の小窓から、口を開けた大巨人の形をした湾を見ながらの、Zさんとのやり取りからそんな事を考えさせられた。
 しかしまだ、とんでも無い出来事だ待ち受けているとは、露とも知らぬ身ではあった。とんでも無い出来事。言葉にならぬ、呆然。忘然。天地震動。しかも極く極く平然とした出来事。
 ドスーン、宮古島に着陸。

 四月二十八日
 七時半起床。二十四日から昨二十七日迄の四日間宮古島の洋上で生活していた。その間の事は失礼ながら世田谷美術館と講談社から発刊される、展覧会カタログに記されるので、それを御一読願いたい。なにしろ、二百四十枚書き下ろしなので、あんまり、それを前もって読んでいただくのは得策ではないのである。

 宮古島ではドローイング二十二点を描き上げた。やはり高揚していたのであろう。TIDA AGAIN 琉球語で再びの太陽号の上での生活は充足していた。視た事も無い色彩に囲まれた日々であった。又、N氏のヨット月光五世と、再びの太陽との、小さな歴史の話にも、いたく興味をひきつけられた。「再びの太陽」は、一度暴風で沈んでしまった双胴の大型ヨットなのだが、引き上げられて、再び海に生命を動めかせている。月と太陽とが組んでの、N島計画であるのだから、これは神話的スケールを持つものになるなと、確信をしてしまったのであるが・・・

 N島計画はT島計画に変更した。N氏の計画は正式にT島月光 TIDA 村計画と名称を変更したのである。

 この間の事情もまた、美術館と書店の双方に並ぶカタログ本に詳述してある。

 R017
 四月二十三日
 昨夕、神田岩戸にて馬場昭道、仏教伝道協会Y氏、ナームの会N氏と会う。N氏はわざわざ那須から出てきて下さった。仏教界の方々の世田谷美術館での展覧会へのご協力をお願いした。宗派を問わず関心を寄せて下さればありがたい事だ。話しをうかがっていると、仏教界の悩みも又、深い事がうかがえる。それだけ誠実な僧も又多いという事だろう。岩戸のお母さんが、私の描いた展覧会のひろしまハウスの漆喰パネルを大変気に入ってくれて、娘さんと二人で来てくれる事になったりして、展覧会の宣伝行脚の風を帯びてきたな。

 七時半起床。昨夕の会もまた、故佐藤健の縁が取り結んでくれたものだと、感じ入る。佐藤健を失い早くも五年になる。最近、再び友人、知人のなにがしかの周りに、生の波風が立っているようで、何ともなやましい限りである。が、無原則に訪れる病気、死といった人生最大級の壁は、当然生まれた時から対面してきたものでもあり、歳を経ると、増々それからは逃れられぬ事を知るだけの事でもある。

 佐藤健との最期の旅は西域であった。再び思い返すに末期癌であった彼にとって、本当は旅の途次で倒れたら本望だったのかも知れない。日々、そんな極限の状態に赤裸々に対面したが、彼は決して暗くはなかった。冗談を言い続け、他人を笑わせようと意を尽くした。杉浦康平さんも私も、上山さんもよく笑った笑った。「あなた死ぬのに良くそんな事言ってられるね。」なんて言葉が飛び交ったくらいだった。西域の旅が、佐藤健がお膳立てした最期の旅がそう言わせたのかは誰も知らない。人間はああいう力を持っているのかと今は懐かしい。笑う力、ユーモアとは言わぬ、でもそれに極めて近いモノを人間は持っている。病気とか死とか、を笑えるような力をも人間は持っているのだが、その自覚を持続するのはむずかしいのだ。

 山口勝弘先生八〇才車椅子の不動明王から手紙をいただく。今日のはエアメールの封筒で華美である。宛名住所に英語でJAPANとある。旅の途中から出しているという、これも又、笑いなのであろうが。先生の場合は笑いをさえ超越されて、笑いとうつつ(現実)が薄皮一枚で隣り合わせている風があるのだ。先生は六月二十八日にそなえて体調を整えていると書いてこられたが、一体何を考えておられるのかなあ。

 R016
 四月二十二日
 昨日十三時より世田谷美術館Mさんのインタビュー。十五時迄。講談社S氏来室。カタログ原稿の件。アト八〇枚書く事になった。

 七時半起床。出来上がって届いた「セルフビルド 」交通新聞社 石山修武=文 中里和人=写真 をしみじみと見入る。久し振りの刊行本なのである。二〇〇一年二月から二〇〇四年四月迄、スタジオボイスとMEMO男の部屋を拠り処に取材を続けた成果でもある。
 一時は刊行をあきらめかけたが、中里和人のねばりと情熱が交通新聞社からの刊行迄辿り着かせた。
 編集は田邊寛美、武田憲一、すみずみ迄見事に眼くばりが行き届いている。ブックデザインは祖父江慎、安藤智良。紙の選び方、なによりもページの繰り方そのものに対するアイデアが素晴しい。一ヶ月発行が遅れた甲斐があった。何よりも、中里和人の写真が良い。非常に良い。中里のねばり強く、安定した人柄が良く対象を、なんとも言えぬ人間味溢れるモノとしてとらえ続けている。

 私の処女刊行は「バラック浄土」であった。あの本のフィーリングが再来しているのを痛い程に感じる。しかし、文は流石に読みやすく、青臭さ、一人よがりな感じも、我ながら消えているように思う。
 久し振りに良い本を出せたなと嬉しい。ここ迄、こぎつけてくれた人達に感謝したい。

 二十四日夜は書店に並ぶ筈だから、買って読んで下さい。九時半世田谷村発。大学へ。

 R015
 四月十八日
 十時四〇分院講義。2講は大仏様その1。十二時十分了。十四時ミーティング。十五時鳴子温泉Y氏来室。夏の催事、まちづくりに関して。十八時世田美N、M両氏。打合わせ、ポスター他の仕上がりを見る。満足。その後近江屋でそばを食べ、世田谷村に。

 四月十九日 土曜日
 七時起床。十時過迄雑用。ようやく荒れ模様の空が静かになり始めた。今日からN氏は宮古島へ。宮古島ではNさんの島に滞在して、その間に島の計画を作り上げてしまわなければならない。
 十三時輿石、加藤合同ゼミ。十五時迄途中抜けて浅草へ。十六時半浅草I社長一家と打合わせ。又も、ソバ屋で大ゴチソーになってしまう。二〇時頃世田谷村に戻る。

 四月二〇日 日曜日
 終日WORK。銅版画に取組む。十九時過小休。途中、生ゴミを埋めに下の畑に降りたのと、上の畑の様子を見に上ったのだけが息抜きであった。

 四月二十一日
 六時起床。銅版画に取組む。九時了。これ位で銅板は小休した方が良い。十時雑用を終えて小休。

 十二時世田谷村発。昨日は一日こもり切りで銅版画やっていたので流石に気分は澱んでいる。画家とか版画家という類の人々は本当にタフなのか、あるいは単純で鈍いのか、どちらかだろう。世田美での展覧会に併せて、南青山のときの忘れものギャラリーで第 III 回目の銅版画展、ドイツのバウハウスギャラリーでも建築展が開かれる事になった。それなりに忙しい。

 あんまり、展覧会の類に情熱を燃やした事など無かったのだが、今度は我ながら異常に集中している。自分なりの危機感の表われだろう。ひろしまハウスから浅草へのオリエンテーションは考え抜いた末の事であるから、もう微動だにしない。

 十三時研究室、世田谷美術館Mさんインタビュー。

 R014
 四月十七日
 十時前のはやてで仙台へ。仙台駅に坂口大洋先生迎えてくださる。車で青葉城近くの東北大学工学部キャンパスへ。道々、話をうかがう。
 東北大建築学科先生方にあいさつの後、4年生の設計製図の課題出題。一時間程の小レクチャーの後、課題を出す。課題に取り組むのは十五名程の学生である。早稲田と比較すれば、うらやましい程の小人数である。一学年の学生数は五〇名程という。これ位のスケールなら学生一人一人の才覚を把握するのは容易だろう。

 終了後再び坂口先生に送っていただき仙台駅へ。坂口先生は演劇に関心の深い方で、短い期間ではあるが、面白くおつき合いできると良いな。仙台への、行き帰りの新幹線車中で原稿書きがはかどった。

 四月十八日
 五時起床。一時間程読書。七時過再起床。雨降り続く。原稿書く。九時十五分発大学へ。

 R013
 四月十七日
 三時、原稿を書き続けて、いささか疲れて小休し、メモを記している。今日は朝の新幹線で仙台へ。東北大学に設計製図の課題を出しに行く予定である。六時四十五分起床。切抜いておいた多田富雄さんの記事を読む。ここにも、もう一人の山口勝弘が居ると痛感する。太田阿利左記者の記事も良い。(四月十一日毎日新聞夕刊)
 七十四才の免疫学者は脳梗塞で倒れ地獄を見てから再生した。再生というよりも、何かを新しく創り出す契機をつかんだのだ。

 山口勝弘先生から連日葉書きやFAXをいただくようになった。きっと先生には先生のお考えがあっての事なのだろう。何か、私には視えぬものが視えているのだろうと思う。この葉書一葉一葉が絵になっているのを知る。先生は左手が動かないから、右手で葉書を押さえながら同時に文字も、図も描かれている。
 その営みの力が葉書の画面に力となって表現されてくる。先生との交信は、と言うよりも受信の方が圧倒的に多いのだけれど、類稀れな何かの機会を私に与えてくれるもののようでもある。それがようやくにして解ってきた。これはウェブに公表するわけにはゆかないので、世田美のモバイル石山研の壁に展示してみようかなと思う。ピンで止めるわけにもいかないだろうが。

 広島の山の中で独人仕事を続けているだろう木本一之君は今、何を作っているのだろうか。

 昨日NYのMoMAから又もいきなり連絡が入り、幻庵の模型をどうしても送れという。バッキャロー、余りの頭の高さに怒髪天をつくが、研究室はやはり送りましょう、MoMAですからとなり、じゃあ世田美には新しい模型を作ろうかとなった。
 これは意地でもNYよりもいい奴を世田美用につくらねばならない。どんな模型を新しく作れば良いのか、研究室の連中に考えさせてみよう。

 R012
 四月十五日
 十時四〇分学部レクチャー、二年生へのレクチャーは仲々難しいが、手を抜いたらそれでおしまいなので、気合いを入れてやるしかない。人数が多過ぎるのだ。私学の宿命だな、コレワ。十二時過迄。十四時過アベル打合わせ.十五時前研究室ミーティング。十七時発近江屋でナーリさんとお別れの会。二〇時過世田谷村。

 四月十六日
 七時半起床。今朝ナーリさんはカンボジアへ飛んでいる筈だ。今度こそ帰るのだろう。ブッ飛び雷門ジジ天神よウナロム寺院で平穏に暮らしてくれたまえ。
 十一時半迄WORK。カタログの文を書きすすめる。文とドローイングは同時には出来ない。

 R011
 四月十五日
 六時四十五分頃起床。WORK、八時過迄。N島計画が突破できなかったけれど、ようやく、出口が視えたような気がする。どんなにスケッチしても、頭の中ではコレでは駄目なんだという声がしていたのだが・・・どうも、最終的な判断は美学がなしているようだ。技術は使えば良い。本当は美学、技術が同列に並ぶのが望ましいのはわかってはいるのだが・・・クセだな。

 前期授業が始まり、ニッちもサッちもゆかない日々になりそうだ。今週はなんと5回も授業がある。
 昨日に続き、今日も研究室ミーティングを開く。N島計画の流れをつくらなくては。何とか、昨日浅草の方は方向性を決めたが、どうなりますか。浅草より連絡が入り、今週末にうかがう事になった。

 R010
 四月十一日
 十九時近江屋難波先生打合わせ。今年も何かの形式で学部3年の共通課題をやろうかと合意する。大学院レベルの共同作業は難波研石山研に絞り込んで、双方の院生の共同でやる事は決めていたので、昨年よりも一歩前進できるだろう。二〇時過了。二十一時世田谷村に戻り、白足袋に食事を供する。
 二十三時横になって浅草作業。これはどうしても前にすすめたい計画になった。メキシコから「来い」となったので四月は気ちがいみたいなスケジュールになってしまいそうだ。

 驚いた事に、院生が花田清輝を誰一人知らなかった件で、どうかなと尋ねたら、難波先生曰わく「そりゃ知らんだろう、先生だって知ってるのかね。」と逆襲されてしまった。「ウーン、うちの若い先生方に尋ねてみようか『転形期の精神』読んだ事あるか?って。」ないのかも知れない。コレは無いものねだりであったのか。

 四月十二日
 六時四〇分起床。八時迄WORK。八時半世田谷村発。九時過新宿西口で建築史家の中谷礼仁氏と待ち合わせ。富士ヶ嶺観音堂へ。昨夜、「白いオープンカーのゴルフ」で行きます、の連絡を受けた途端にイヤな予感がした。  「俺はそんな恥かしいのには乗りたくないよ。」
 「イヤ、オープンカーですけどチャンとホロかけてゆきますから。」

 そうか、中谷先生は肝玉が太い、フォルクスワーゲンゴルフに駅馬車のホロをかけてくるのか、格好いいなと思ったのである。
 新宿西口に現れたのは、ただの古いゴルフであった。聞けば三〇年前の型で、走行十数万 km という、しかもハンドルには妙なメキシコ風オーナメントが彫り込まれている。これは、ヤバイゾと直感した。

 33 km の大渋滞の中を、中央高速道路を八王子ジャンクションを過ぎた頃から白いオープンカーのゴルフはシャー、シャリ、シャーシャリの音を立て始め、車内に異様な匂いが漂い始めた。

 今時の車が自然に自己破壊する等の異様な事態を想像する事が出来なかった我々も、ようやく、もしや、コレワという不安にかられ、「白いオープンカーのゴルフ」を高速道路脇に停めた。ボンネットを開け、エンジンルームを眺める。眺めてどうにもなる事では無い。「白いオープンカーのゴルフ」のエンジンルームはアポロ13号状態であった。つまりガムテープでラジエーターが貼り付けられていたりの、プリコラージュ状態なのであった。

 中谷先生はJAF他に連絡し、我々は高速道路脇で一時間以上、無為の時間を過ごした。流石、歴史家である、悠々の時の中の一時間等どうという事は無いのである、の感が走る。高速道路をそんな感じが走ったのである。

 JAFとハイウェイパトロールがやってきて色々として下さり、しかし、もうこの車ダメです、というわけで、我々はレッカー車で昭島ヤナセサービス工場迄運ばれたのである。中谷先生と私は「白いオープンカーのゴルフの後部座席に座ったまま、レッカー車に引かれて、満開の山桜の中を、レッカー車に持ち上げられているので、すこし斜めに上空を眺めながら、出発したばかりの東京へ向けて、帰らざる河を逆のぼったのであった。

 誠に桜が美しかった。
 ねがはくば、花の下にて我死なん・・・の西行の歌を口にふくませながら、無常の旅をしたのであった。レッカー車に引かれる車中で我々は、「もう若いとも言えぬ、若年寄りのオジさん歴史家達は何とかなるのか、どうか」等と空しい会話もしていたのである。

 しかし、そんな品の無い話しをしていたのは私ばかりであって、中谷先生は「白いオープンカーのゴルフ」が無残にもブッコワレてしまったショックで元気が無いのであった。

 まあ、そんなこんなで富士山には行けず、夕方東京迄電車で戻った。元気のない中谷先生とお別れして、私は新宿で、N氏に会ったのである。

 十八時より二〇時迄、色々と浅草の件その他話して、N氏は「今日はS氏と二人で、ブッ飛びスポーツカーで鎌倉に、ブッ飛んで帰るぞ」と言うのであった。
 私も少し計りつかれていたので、甲州街道行くんなら、烏山まで乗せてけよと頼んだ。「イヤー、アッシの車はツーシートだから、アンタは駄目。」と、アッサリ、断られた。
 「ダイハツのケチな車ですけど、何百万かけてチューンアップしたんで、BMWや、フェラーリよりもブッ飛びますぜ。」N氏は言う。

 今日は、朝は「白いオープンカーのゴルフ」夜は「ブッ飛びツーシーター」と、余程、馬鹿車に縁のある日であった、厄日だと、私は痛感したのであった。
 S氏運転で現われたブッ飛びスポーツカーはそれでも、マヅマヅは良く走るようで、夜の闇に消えたのであった。この「ブッ飛びスポーツカー」の色も白なのであった。昔の白いパンツがスタンダードであったように、しかし、車の色は白はイカンなと私は胸に刻んだのである。

 しかし、今日は好対象な二台の白い車に出会って、共に、私の目的地までは、私を運んではくれなかったのであった。先日、オートバイに追突されて首筋が痛い私は、今日で本当に厄日は終ったのかと、又、なるべく、車には近づかぬようにしよう、そうしなければならぬと、確信したのであった。実に様々に学んだ一日であった。

 四月十三日 日曜日
 早朝四時起床。WORK。六時再び眠る。九時前よりWORK。十二時半小雨の中を畑へ。生ゴミを埋め、少しの土いじり。
 十九時半迄、WORK。二〇時より二十一時迄WORK。二十一時休む。

 四月十四日
 六時起床。WORK。八時半過迄。九時半発研究室へ。

 R009
 四月十一日
 十時四〇分大学院レクチャー。第一講は例年通り「転形期」について。当然、今現在が典型的な転形期にあるという歴史認識を持ちたいという話しである。同じテーマで話し続けてはいるが当然毎年話しの出来不出来がある。それ故に手が抜けない。十数回のレクチャーの中では重要なゲートの役割を持つ。

 驚いた事に院生の誰一人として花田清輝を知る者が居なかった。これは仕方の無い事なのか、どうか今夕東大の難波先生に尋ねてみる必要がある。当然全員とは言わなくとも、何十人かの受講者の三、四人は知っているだろうと思って話したのだが・・・。一般教養の不足なのか、私の方がいささか古いのか。でも花田清輝くらいはもう古典だろうが。古典は読んでおくべきだ。

 十四時世田美N、M氏講談社S氏打合わせ。ポスター、ちらしの初稿デザインが上ってくる。良いモノが上ってきてホッとする
 テーマカラーをもう少し考えてもらいたい、だけを私の方からはお願いした。浅草計画の位置付けをキチンとしたい旨も伝える。

 十六時過、構造設計家梅沢良三氏と打合わせ。鬼沼・センターホールの件。相変わらず梅沢先生の設計は速い。アッという間に終了。

 十七時半、建築史家中谷礼仁氏と世田美カタログの作品解説の件で打合わせ。
 歴史家相手にこう書いてくれとは決して言えるものではない。むしろ中谷礼仁氏には余り調子に乗ってもち上げないでくれと、申し上げた。

 十八時半研究室発。近江屋で打合わせ予定。

 R008
 四月十日
 結局近江屋で仙人と会食となり教室会議は欠席となった。研究室に戻り疲れたので椅子を並べて横になる。やはり仙人ダメージ大なり。十八時半大隈タワー4階へ。

 十九時半より第一回映像フィールドゼミ。石山開講レクチャー。鈴木了二、スティーブン・スピルバーグのプライベートライアン、激突等の作品を写し解説。
 私は鈴木了二氏の話しらしきを聞くのは初めてであった。映画マニアの話しの風もあるが、予想以上に参加者が多かったので、アレしか無かったろうとも思った。参加有料のゼミだから、もう少し年令層も多様でバラバラなのが望ましい。参加者の多さに押され気味で第一回は完全なスレ違いであったが、そのスレ違いが何をもたらすのか、今しばらく様子を見る事にしよう。議事録をまとめるのが大変だろうな。激しいスレ違いになるのも映像フィールドゼミらしくていいじゃないか。

 二十二時新宿味王で夜食をとり、二十三時過世田谷村に戻る。〇一時休む。

 四月十一日
 七時起床。昨日のメモを記し、アレコレと考える。八時昭道和尚より連絡入り、私の為に色々と動いて下さっているようだ。ありがたい。九時迄連絡他。

 仔猫の白足袋は氏も素性も知れぬ野良猫のまつえいだから、顔はやっぱり野良猫の顔をしていて、眼がキツイ。決して和まない。しかし、ここ二日ばかり私と二人だけの生活であった。食事や水を与えていたので・・・・。でもやっぱりなつかない。
 マ、これ位が附合いとしては良いかと思う事仕切りである。この猫は何となくイスラム教徒の面影がある。と実に馬鹿馬鹿しい事を考えながら、九時過大学へ。今朝から大学院の講義が始まる。

 R007
 四月十日
 六時四〇分起床。小猫の白足袋に朝食を供し、すぐにWORK。良いアイデアを得る。今日は良いスタートを切れた。手を動かしていると前進するな。

 昨夜は二十三時頃だったか、酔仙山田脩二より電話があり、聞けば今、烏山の駅だと言う。しかし幸いな事に仙人はすでに酔っていて、烏山で急行から鈍行に乗り換えて何処ぞへ行く途中なのだとの事であった。正直ホッとしたのである。これから飲み始めれば朝になる。そんな耐久力は今は無い。頼むから来てくれるなよ、と初めて痛切に願ったのである。しかし、不安になり、もう電話もピンポーンの呼鈴にも出ないぞと覚悟を決めて、フトンを頭からかぶって眠ってしまった。幸い朝迄グッスリ眠れて、今朝のWORKとなった。

 考えてみれば、仙人と昨夜飲んでいたら、今朝のアイデアは生まれなかったわけだから、仙人に会わなかったのは正解であった。
 八時小休、新聞を取りに下に降りる。まさか仙人がダンボールにくるまって寝てはいまいなと恐る恐る入口ドアを開けた。良かった誰も寝ていない。と、ホッする私はまことに小市民なのでありました。

 仙人山田脩二も長生きすれば草食性の恐竜、例えばブロントザウルスの顔の部分くらいにはなるであろう。恐竜とは先ず何よりも体力であり、自然体であり、直観の持主であらねばならないのだが、仙人山田は煙となって大気に消えるか、化石になって残るか、そのいずれかをいずれにしても選択せねばならないのである。兵庫県立美術館の山田脩二展のカタログに書いた通りなのだが、あの文章は多くの俗人には理解されなかったろうな。煙と化石。実に良いではないか。

 十一時に新宿で仙人と会う事になって、世田谷村を十時半発つ。イヤな予感がする。何も起きなければ良いが。

 R006
 四月九日
 六時起床。明日の映像フィールドゼミの準備を考える。昨日の午後は新入生オリエンテーション。年に一回だけ全教員が小スピーチをする。これは新入生に向けてであると同時に先生同志がお互いの意志と力量の一部を認め合おうとする機会でもある。
 今年は先生方の欠席の多さが目立った。この日くらいは何とか出て欲しいな。私は卒業式には出ない。学生は4年や6年で卒業するとは思ってないから。出て、壁に当って、相談しにくるような人間には必ず会うし。

 猫の白タビが眠りこけている。猫はいいな。全くのマイペースで、決して人間に合わせようとしない。見習いたい。  九時半世田谷村発。

 電車でGKのOさんにバッタリ。お元気そうであった。栄久庵さんもお元気だとの事で安心する。色々と中途半端になっている事ばかりで申し訳ないのだが、中国相手の事なのでこちらの都合が通り切らぬ事が多い。しかし、あきらめてはいないので栄久庵さんもお身体お大事にと伝えた。Oさんもこのページを時々のぞいて下さっているとの事、次第に書いてて色んな人の顔が浮かび、書きにくい事おびただしいが、身から出た錆である。錆び切るまでやるしかない。

 十時半、新潟市の方々来室。新潟ワークショップ東大早稲田+αの相談。難波先生と連絡。お目にかかる人が皆、事故にあったそうでと心配して下さるので、もう首の痛みの件は書きません。

 R005
 四月七日
 外科病院での検診、治療の後、成城警察へ。被害者であるのに事故調書を前部座席二人と後部座席の一人と分けて取られる。これはルールなのだろうが明らかに疑われるような感のある方法だな。病院やら警察に居ると次第に気持ちがケガ人の如くになるのであった。十一時過修了。

 予定していたよりも早く済み、逆に今日の予定が狂い、微調整する。
 夕方、鈴木了二氏と新宿で会う。十日夜の第一回映像フィールドゼミ準備打合わせ。修了後浅草計画の打合わせ。二十時半了。

 四月八日
 六時起床。GA座談会のゲラ校正他。安藤忠雄氏は訂正ナシとの事。彼らしい。この、安藤忠雄最新作に関しての座談は二川幸夫の面目がいかんなく発揮されていて、大局的にみても仲々面白い。御一読願いたい。二川、安藤両氏に会っていると建築狂いを眼の当たりにするようで、いささかまぶしい。本当に変な人達である。

 肩から首にかけて痛む。事故の傷害かといささか不安。映像フィールドゼミ、レクチャーの構想を練る。このゼミは大学の枠から少し自由に離れてやるので学生相手の手心は一切加えない。そろそろ我慢の枠を自己破壊する必要もある。

 R004
 四月四日
 十時半研究室。昼食抜きで十七時過迄打合わせ。M0ゼミもミーティングに一緒に混ぜてすすめた。時間が惜しい。とてつもなく惜しい。世田美Nさん十七時過よりミーティング参加。申し訳ないとは思ったが、そうするしか無かった。院生はプロを相手に、一日1cm 位育たなくてはいけないのだよ。

 二〇時終了。近江屋でNさんと一服。朝食後初めての食事にありつく。

 二十三時前世田谷村に戻る。

 四月五日 土曜日
 八時起床。下の畑へ。ゴーヤ、たべたい菜という変な名前の青梗菜もどき、カブ、小松菜の種をまき、育ってきたサヤエンドウの手入れ。大根の芽の間引きと移植、他を行う。水をやったり、生ゴミ、コンポストを動かしたりで、十二時迄作業する。

 十三時半世田谷村発。十四時半、都立大学駅近くの安西君宅へ。今日は安西宅の二本の見事な染井吉野の花見の会。三〇名程の若者が集まっていた。国籍も多彩で日本人だけでないのが良い。十六時半名残りは惜しいが去る。

 十七時五〇分浅草雷門で渡辺君と待ち合わせ。十八時浅草仲見世名物壱番屋でI社長にお目にかかる。裏の舞扇子店で奥様にもお目にかかり、仲見世路地の小料理屋の二階へ。大変な接待をしていただく。

 カンボジアのナーリさんの兄妹、親戚の方々である。人情に厚く、酸いも甘いもかみ分けた人達で頭が下がった。世の中にはまだこういう見事な人物がいるのだなあと嬉しくなった。二十一時過、駅迄送っていただき、お別れする。渡辺も珍しく感動していたようで、それも良かった。人間は力があるな。人を勇気づけられるのだから。二十三時世田谷村に戻る。

 四月六日 日曜日
 七時半起床。下の畑へ。手紙を投函するついでに、小スコップ他を持ち、再び花ドロボーする。今日は道端の露草と、タンポポを失敬したが上手く掘れずに花には申し訳無い事をした。十時迄、下の畑を耕したり、ドロボーしてきた花を植え込んだりで過す。十時半小休。再び花泥棒2回目行。花ニラをごっそり大スコップで掘り出してきて、畑のウネの谷間に植え込む。他に二種の花を植える。名は知らぬ。十四時過迄畑で遊ぶ。いささか疲れた。

 メジロがやってきて、私の作ったサヤエンドウの支柱に立てた酔芙蓉の小枝にとまり、枝の樹皮をつついて、飛び動いていた。少なくとも鳥の役には立っているな。十七時、原稿校正等の作業一段落する。

 里イモも植え込んだので、上手くいけば今年はあのアンブレラみたいな葉が茂るのを見る事ができるかも知れない。今日は朝から夕方迄ずっと土に触れて暮らした。何も考えずに無心であった。体は疲れたが、気持ちは休まった。

 四月七日
 六時起床。雑用。八時発、先日の自動車事故の検診へ。追突した青年は退院したそうで、良かった。青年にとっては一大事であったろう。

 R003
 四月四日
 昨夕は十八時二〇分磯崎新宅。二川幸夫氏と共に会う。何を話すでも無く、しばらく過ごす。磯崎さんは書をやられていてこれは又、一つの世界になるのであろう。広尾のイタリア料理店で会食。磯崎、二川両氏とも健啖で、会話の速力も弾みがあり舌を巻くばかり。食後、上のBarに上り、飲む。私は実に久し振りのウィスキーでうまかった。「お前はもっと飲まなくてはいかん」と言われたが、流石に二人の大人を前にして自制。二十三時お別れする。二十四時過世田谷村に戻る。

 七時四十五分起床。昨夜を思い返してみれば、磯崎、二川両氏そろっての席は実に久し振りの事であった。深夜、お別れしてから、お二人はまた何処かで飲んだのだろうか。別体系の身体の持主だな彼等は。真似をしてたら死んでしまうであろう。イヤハヤ。世の中には確かに異能の人がいるものだ。

 R002
 四月二日
 十時半研究室ミーティング。十三時過迄。十四時前GA。安藤忠雄さんより、一九七七年夏の、渡辺豊和創刊の建築美をいただく。建築美創刊号は今は昔、もう三十一年も昔のものだが、コレに私が寄稿していた。安藤忠雄、渡辺豊和、石井和絃の三人の、当時、若い建築家であった彼等を役者に見立て、の一幕一場の演劇のシナリオを書いていたのだ。安藤さんは三十一年昔の個人誌を持っていて、「コレは面白いで石山はん、コレで今日の鼎談の代りになる位やで」と言う。そうは言っても、今日は二川幸夫さんがワザワザ登場しての場だから、そうもゆくまい、とて予定通り十四時から十六時前まで話す。安藤忠雄の最新作東京大学福武記念ホールについて。

 鼎談は案の定二川幸夫の独人舞台で、二川さん絶好調で話し続ける。こんなに建築を愛している人物の前では完黙せざるを得ぬ。我々は大人しく、それを拝聴した。私は二川幸夫から、君は何をしとるんだの言を受けた。マア、二川氏でなければ修羅場になったような鼎談であった。どうまとめるか、編集の力量だな。

 修了後、大阪に帰る安藤氏と東京駅へ。別れる。十七時過神田、宮崎料理店岩戸へ。しばらく独人でWORK。十八時前、馬場昭道、藤野忠利。スポーツニッポン新聞社S氏と会食。二十一時迄。Sさんの奥様の亡くなった一部始終の話の一片をうかがう。
 馬場昭道さんには、私の世田谷美術館の展覧会への様々な配慮をいただいて感謝する事はなはだ深く広い。

 四月三日
 六時過起床。WORK、記録。二川幸夫の建築への情熱に久し振りに触れて、我ながら恥ずかしい想いをした昨日であったが、一生懸命やるしかない。
 昨日安藤忠雄氏より渡された建築美を読み返すと、もうすでに人それぞれの歴史を痛感せざるを得ない。若い世代の不可能性を言う前に自分と、自分の廻りの困難に立ち向かっていかなくてはならぬのが先である。こんな時には誠に月並みではあるが体を張ってゆくのだ。考えてみれば本当に、これ迄体を張ってやった事があるのか、忸怩たる思いだ。昭道和尚に昨日の御礼状を書く。

 R001
 二〇〇八年四月一日
 今日は私の誕生日だ。誕生日のたんびに車がぶつかったり、ぶつけられたりしたのでは、いくら命があっても足りない。しかし、昨日の事故で又レントゲンをとり、自分の頭を透し見て中には何も無いのを知った。空っぽであった。だから、今日からいささか年を経た体になってはいるが新生する事とした。早速、世田美展のためのメッセージ版画に取り組む。八時四十五分ドローイング一点と共に了。菅平の正橋孝一さんに大橋富夫さん等の取材の件伝える。菅平は雪が降っているそうだ。カンボジアに帰るナーリさんにお別れのあいさつ。ナーリさん、泣く。昨日向風学校の安西君に会ったそうで、「ああいう若者を育てて下さい。純でやさしくて本当の人間です」と、又泣く。普通の耳では聴きとれぬせりふだが、ナーリさんが涙ながらに言うと、照れているこちらの馬鹿さが浮き彫りになってくるのである。辞世の句まで詠まれてしまった。サヨナラ、ナーリさん、又、何処かで会う事があるやも知れません。ナーリさんの件は別に向風学校サイトに書くつもりである。時代にはズレてしまった人だが人間としては立派な人である。品がいい。

 昨日の事故の件で朝保険会社とのやり取りが続く。資本主義の中枢の一つだな保険業は。京王線車中で世田美エントランスのメッセージボードの銅板のアイデア浮かぶ。脳内風景、つまりバーチャル建築である。うたたかのアイデアだからメモしておかないと消えてしまう。

 十時半研究室。ミーティング。今日から伝達事項は毎日FAXであらかじめ送るようにしたい。展覧会迄作業はアト二ヶ月となった。十四時半迄。研究室発、いくつかの用事を済ませ、昨日の事故で果たせなかったN氏への資料送附等を行う。グアダラハラ作業をすませる。十九時半了。

 今日は土曜日(三月二十九日)の第二回向風学校の件で、ナーリさんの話があまり評判良くなかった事を知らされる。確かに有料であの話は問題があったと常識的には反省するが、全ての責任は私にあり、ナーリさんや安西君には無いので、誤解のない様に。この悪評らしきは必らず挽回して、お返しするのでお許しいただきたい。ナーリさんを呼んだのは私ですから、私が悪い。二十一時前、中判の銅版画を彫る。今朝、京王線車中で得たアイデアを銅板に記録する。二十四時了。原稿再チェック。

 四月二日
 七時四十五分起床。十時半からのミーティング内容を整理する。今日は午後GAで二川幸夫、安藤忠雄両氏と安藤さんの最新作について話し合わねばならないので、そのメモも作る。八時十五分了。九時半世田谷村発。

2008 年3月の世田谷村日記

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