石山修武 世田谷村日記

4月の世田谷村日記
 R446
 三月三十一日
 十二時半世田谷村発。油壺月光ハウスへ。満開の桜の中を走る。大蔵三丁目を走り、停止信号で停まっている時、いきなりズドーンという大音響と共に車が一メーター程前にすっ飛ぶ。何だこれはと思って後を振り返っても何も見えない。車の外に出てみると、何とオートバイがグシャリとつぶれて若者が一人倒れていた。オートバイが私の車に追突大破したのだ。

 事故である。丁度四年前の四月三日に私は研究室の祝いの会の帰途乗ったTAXIが事故に会い、銀行に突っ込んで大破した。後続の車に乗っていた者は、私が当然死んだと思ったと言う。それ位の事故であった。

 何の因果であろうか、同月同日ではないが、その三日前の三十一日に又も衝突事故に遭遇した。すぐに警察と救急車を呼ぶ。追突した若者は倒れたまんまだ。警察官は自転車でやってきた。若い二十代前半の全く役に立たない人間で、実に鈍い。機転も、気もきかぬ。救急車は消防自動車スタイルのと、白い救急車スタイルのが2台来た。又、1台の救急車が事故直後に通りかかり、今別件で立ち寄れない旨を告げて去った。警察よりも、余程救急システムの方が優れているのを知る。マア、立会った警察官の質が問題外であったのかも知れぬが。

 現場検証、ヒヤリングの後、病院に行く。最寄りの関東中央病院に行くも、外科が手術中という事で、近くの1 km 離れた町の病院に廻される。コレが謂わゆる、たらい廻しだなと知る。窓口の事務員も全く我々の体に対する心配のカケラもない。町の病院で、診療代他の件でいささか手間取る。当方は当然、停止時に追突された側で、しかもオートバイは歩道とのわずかな隙間を走り抜けようとしてスリップし、追突転倒したので、若者が保険に入っていれば問題ない筈なのだが町の医院は冷静に保険会社からの電話証明が必要だと言う。何とか保険会社との連絡もつき、ようやく診断、レントゲン検査。ムチ打ちは恐いのだ。医者からは一週間後の再検査及び数日の静養を言いわたされる。

 レントゲンは、とり敢えず大きな異常はないとの事であったが、部分変なところもあり、コレは老化と古傷ではないかと言われる。同乗の娘友美と研究室の渡辺も全て検査した。渡辺は後部座席に座っていたのでショックも大きくいささか心配である。結局十七時半迄、病院にいた。月光ハウス、Nさんのところには結局行けず、再訪とするのあやまりの連絡を入れる。

 近かったので、世田谷美術館に寄り、書き上げた原稿をN氏等に渡す。コレが今日の唯一の対外的な仕事になってしまった。無念である。しかし、コレで厄の連続も断ち切れるであろう、断ち切るぞと念じる。

 コワれた車、後部バンパー他は大破して、救急車隊員より黒いガムテープをもらって、とり敢えずの、と言うよりも、とってつけたような処置で一応車らしきの体裁をととのえた。よくバラバラにならずに走ったと思う。
 烏山に戻り、とりあえず居酒屋に三名でよく無事でいられたね、これで厄は落ちたの乾杯と食事。イヤハヤ、ドン底以下の一日とはあいなった。これ以上に悪い日はあり得ないであろう。何となく、首がズキズキとし始めてイヤな気分のママだ。

 R445
 三月二十八日
 秩父より、世田谷村に戻り、六月二十八日からの展覧会の骨組みを最終チェックする。これから先の石山の表現の大枠を決めるモノにする積もりなので、自由に、なおかつ慎重に取り組まねばならない。
 建築がみる夢の主題はFIXする。12の物語も良し。これは要するに何も言ってないに等しいから、内容はいかようにでも調整可能だ。
 建築がみる夢は、社会モデルとしての可能性である。社会モデルは社会設計ではない、一つの断片、部品であるという自己限定性を持つ。12の物語の章立てを、つまりはそれぞれの部分(断片)としての役割を明快にする必要がある。

 山口勝弘先生より葉書到着。入口、ロビー部分につくる山から模型飛行機を飛ばそうというものであった。つまりイカロスの夢というわけだ。先生は第一室に設置する2枚の大きなヨットの帆の配置から折紙飛行機を想像されたようだ。山口先生が帆にイカロスの羽、そして鳥をイメージされるのは芸術家としては素晴らしい事だ。しかし、入口はそのような芸術家の飛翔は控えたい。

 石の山のモデルに子供や大人が入り込んで遊んでくれるので良い。大理石の壁が、擬態させた石の山に変容して、つまり物質が観念を内包した山となり、人間達の遊びの道具となる。その事をハッキリ見せたい。石の山、つまり私に接してくれるわけだから、ここで何かの手続きが必要になるのだな。山に石を積んだりするのが望ましいが、切符や、案内のしおりをおみくじの如くに山にゆわえつけるのも良いか。それならば山は針の山にして、その針におみくじを結えば良いか。観客の方々に何かを造ってもらいたいな。会場を一巡する間に。あるいは研究室の分室で何かを手渡すことで。擬態している山に何かを表現してもらおうか。あなたにも山を作れますよという感じで。

 三月二十九日
 八時半起床。十時半迄畑仕事。長ナスの種をまき、ネギを植える。生ゴミを埋めた面積が仲々拡がらず、極く極く自然ななりゆきで狭いところを丹念に使うという事になっている。箱庭畑である。最近は生ゴミも思った程に出ない。食事の人数が少なくなったから。
 十五時迄WORK。

 十八時新宿味王で第2回向風学校。旅人ナーリさんを囲む会。この会の事、他向風学校の件は向風学校のサイトをのぞいて下さい。安西君からの報告があるでしょう。二十三時世田谷村に戻る。

 三月三十日 日曜日
 七時半起床。今日は思考に集中しなくては。昨夕の会で今年の花見も終わったから。最小版の銅板に対面して、展覧会の主題、つまりはここ5年程で成し遂げるべき私の主題を彫ってみる。
 昨日、4月刊となった交通新聞社刊「セルフビルド」のブックデザインがあがってきた。
 「セルフビルド」は写真家の中里和人との10年程かけての取材の成果である。一番最初の著作であった「バラック浄土」と共に私の考えのベースも良く示されている。中里和人の写真も良い。御一読願う。

 九時過銅版最小サイズ一点了。マア、銅板にカリカリと彫り込んでいて何かが明快になるって事は一切無いが、少なくともこれでゆくしかないなの覚悟らしきは確認できる。初めて銅版に制作の日付とサインを彫り込む。

 むしろ、今やっている銅版を彫り込むWORKは多くの生活者達には最も不可能なWORKだろうな。設計、デザインのWORK、モノを書くというWORKはほんとうに、これは誰でもできるのだけれど、この銅版カリカリはあんまり、できないと言うよりも、頭の良い人達はやらぬであろうと思う。余りにもバカバカしくって。

 十九時半、美術館カタログ用原稿10枚書き上げる。同時に銅版の大きな奴一点も修了させた。少しづつ、頭の中が整理され始めている。銅版は文字入りのモノを初めてやってみた。山口勝弘先生の手紙の字が見事なもので、先生の手の不自由さを版画の左右逆転をしながらやってみた。恐ろしくむずかしいものだ。レオナルド・ダ・ヴィンチの鏡を使った左右逆転の芸当などは凡人の私には出来る由もない。食後、再び手を入れるつもり。

 三月三十一日
 昨夜川合健二夫人花子さんより電話をいただいた。S世田谷美術館長、N、M氏等が昨日幻庵を訪ね、その帰途川合邸、あのコスモス畑に浮かぶノアの方舟に立ち寄った事のお知らせであった。今、川合邸は松林の中にあるが、歴史を感じる。あの未知の域に属する物体はやはりコスモスの花に浮いていたのが良い。花子さんは珍しく長く話された。
 「今度の展覧会は大変良い事だと思う。過去の仕事を振り返るのではなく、これから先、石山君が何をやろうとしているかを示すのはとても良いと思う。川合も喜んでいると思います。」
 と言って下さった。これに勝る激励は無い。

 六時四〇分起床して、すぐ展覧会カタログ用原稿に再び手を入れ直す。我ながら気合が入っている。昨夜の川合花子さんの励ましの御陰様であろう。世界は膨大な死者の声に満ち満ちているのを実感した。私はそれにかつがれて動いている。
 雨が降っていて肌寒い日になった。明日から四月だな。
 宮古島N島計画のNさんに連絡して、本日午後月光ハウスにうかがう事になった。今日はいろいろとやらねばならぬ事が多い。研究室に来月からのオペレーション送附する。

 R444
 三月二十八日
 六時起床。浅草計画。オタワ条約。こう並べてみても何の事なのか一向に不明である。昨日はその不明さの闇にそれでも入り込んだ。夢の中の一日であった。遠い昔に会った人達と再会したり、ミャンマーの人間に会ったり、ここまで夢と現実の境界がおぼろになってくると我ながら危い。要注意だ。浅草仲見世会館での会合、そしてオタワプロジェクト。向風学校。これ等をまとめ切れたら、我ながら大したものだとは思うが、無理かもしれない。
 七時半過、秩父に向う。秩父から研究室に連絡を入れる予定。
 R443
 三月二十六日
 十四時前、原稿を26枚仕上げる。ひろしまハウスから幻庵、開拓者の家までをパースペクティブの内にとらえた。未来の事は世田谷美術館でやる。夕方、近江屋で打合わせ。渡辺の原稿とすり合わせする。渡辺のはカントの純粋理性批判から入っていて、私のはコントから入っている。カントが偉くて、山本夏彦は文体家に過ぎぬというのは日本知識人の常識であろう。でも、私はそうは考えない。カントと山本ではただ頭の構造様式が異なっているに過ぎないのだ。それ故言説のスタジアムが違う。カントが洋風導入スタジアム、つまりは岩波文化の象徴であるとすれば、山本夏彦はパリ帰りの身近な宇宙スタジアムで発言を続けたのである。パリ帰りというのが大事で山本は中学生の頃、武林無想庵に連れられてパリ生活をした。ヨーロッパを知る事尋常ではない。ヨーロッパを中学生の頃直に感じていた。それであの文章のあらましの枠組みが作られた、と考えたい。つまり山本夏彦の文体は翻訳体ではない。知性が血肉化されている。

 渡辺は可哀想だな。若い頃に山本さんみたいな凄者に会う事がなくて。山本さんだったら、この原稿全部書き直した方がイイヨ、と平気で言ってくれたに違いない。私は軟弱な場当たり人間だから、書き直したらとは言わなかった。が、こうしてウェブに公開して書き直したらと言っている。困った人間である。

 三月二十七日
 七時過起床。畑におり、生ゴミを捨てるコンポストの位置を動かす。これは書く程容易な作業ではない。コンポストの隣に 30 cm 〜 40 cm 位の、イヤこれは少々水増ししてるな、公開文の悪さが出てる。25 cm くらいの四角い大きな穴を掘り、次にコンポストを移動させる場所を確保しなくてはならない。何故移動させるかと言えば生ゴミを肥料にして、土を改良しているからだ。

 畑を作っている処は、以前に平屋の離れが建っていて、その残材の石やカワラが少なからず埋まっている。決して肥沃な土地ではない。昨年のナスはついに実を結ばなかったし、キュウリは少々、トマトは全然だめだった。だから今年は畝の方向を変え、石は更に掘り起し、生ゴミを計画的に入れている。今日からは枯葉と生ゴミを混ぜて地中に埋めている。我ながら頑張っているのである。

 先日、種をまいた畝の下には生ゴミが全体に埋まっているのである。今年はキチンと育てよと叱咤激励している。毎日、土に向って早く芽を出せ、コノヤローと言っている。
 その甲斐あって、大根の芽が一気に吹き出した。ザマミロである。小松菜の芽はまだだ。何してるんだ、グズグズして。とブツブツ言うが考えてみれば、まだ種をまいてから三日しか経っていない。九時過まで作業する。昨日の原稿書きで頭がいささか抽象世界に移っていたので、バランスがとれるだろう。

 熊谷守一は池袋にあった八〇坪程の土地から、ほとんど一歩も外に出ず四〇年程を暮したといわれる。庭はうっそうとした森状態となり、そこには天狗の腰掛けとか命名された、ただの木片とか凹みが散在していた。それをグルリと巡るのを日課としていたらしい。私にはそういう動かずにいても豊かだという想像力の持ち合わせが無いので、そういう暮しは無理であろう。最後まで地駄馬駄し続けるに違いないのだが、ささやかな土いじりは続ける積りだ。アトは動物をもう少し飼いたい。

 韓国旅行で記憶に残っているのは河回村の集落でニワトリの野放しに出会った事である。ニワトリと農道と家々が一体化していた。あれを世田谷村で再現したい。飼っているニワトリをつぶして食べるというのは出来そうにないから、卵を得る位にして、あとはフンを肥料にする位だろうが。

 R442
 三月二十五日
 十二時世田谷村発。十三時たまプラーザに山口勝弘先生を訪ねる。八〇才になった先生は益々品格にみがきがかかり、車椅子の帝王の如くになっておられた。ファラオもどきと言われるアゴヒゲも立派になられて堂々たる風格である。しかし、圧力は感じられぬのが良い。

 世田谷美術館の展示では大がかりなコラボレーションは今度は不可能なので、私の研究室が美術館に移転する展覧会期間中の、美術館内石山研究室作業場に、山口先生とのコラボレーションの経過を発表してゆく事にした。

 つまり、六月二十八日から八月十七日迄の展覧会期中、石山研の一部は世田谷美術館に移動する。私も美術館にほぼ常駐し、そこから仕事に出掛ける事にする。世田谷村から美術館は遠くないからね。石山研も展示しちゃえのシンプルな仕掛けである。そこでたまプラーザの老芸術家山口勝弘をはじめとする、芸術家、職人、労働者、市民との協働の有様も同時に見て頂こうというわけである。何処まで出来るか、まだわからぬが、できる限りの実生活も公開しちゃえと考えたのだ。勿論演技されたものではあるけれども。

 十四時半過迄。山口先生と話し、近作を見せていただく。先生の創作意欲は増々高まりこそすれ、弱まりを一向に見せぬところが凄い。恐ろしい者を見るようだ。

 十五時半世田谷村に戻る。世田美より、展覧会カタログの柄谷行人氏の原稿が送られてくる。石山展カタログへの寄稿依頼は考えられる限り、一番ハードな人選をさせていただいた。柄谷行人氏然りである。二十二時迄、何本かの原稿を書く。頭が少し、ドローイング向きから言葉向きになってきたようだ。原稿書きのスピードがようやくにして速くなった。思考もスポーツの風があるな。

 三月二十六日
 六時起床。原稿書き始める。九時過何とか15枚迄辿り着いた。午前中に完了させたい。十二時前、22枚書く。もう少しだ。

 R441
 三月二十四日
 十七時過研究室を発ち、新宿味王へ。カンボジアのナーリさんに会う。ナーリさんはケイタイをピヨピヨと呼ぶ。こいつはどうしようもない奴で地獄です、と言いながら話している間に何度も何度もピヨピヨが鳴く。それにしても驚くべき人付合いの才がこの人物にはあるな。カンボジアから日本に一時帰国して何やら集金活動しているらしいのだが、短い時間の間に沢山の人と知り合いになっているようだ。ケイタイでワケの解らない会話をしているのを脇で聞いているという会談になってしまったのだが、相手がナーリさんでは仕方が無いのである。

 ナーリさんの家は浅草仲見世にドーンと店を構えていて、仲見世の主である。
 「ナーリさん、俺ね浅草の将来図を絵に描いてみたいんだけど仲見世の連中に話しつけてくれよ。」
 と頼んだ。都庁やら台東区から話を持ってゆくより、浅草生え抜きの連中に先ず会おうと考えたからだ。ナーリさんは早速動いてくれた。

 「バッチリですよ。もうOKです、仲見世会館に人集めておきます。」
 だって。それで今日の会となった。
 「イヤー、石山さんね、勘違いしちゃってね。平山郁夫って絵描き知ってる。アレの関係の人間が絵を描いちゃったって言うのよ。」
 「何処に」
 「シャッターに。仲見世商店街の」
 「エーッ、何言ってんの、ナーリさん」
 「だから、何処でどう勘違いしちゃったんだか、石山さんが描きたい絵ってのは、商店街のシャッターの絵じゃネェーよね。」
 「当り前だろ。何言ってんだよ。バカだねえ。」
 「他人をバカ、バカ言っちゃあいけません。どうせアッシはバカなんですから。バカをバカヤロって言われたって。でも、そう言ってくれる間が華です。」
 と言うような、トンチンカントンな話しが続きました。まことに夢うつつの時間なのでありました。それでも浅草へはナーリさんの手引きで入ろうと決めているのです。私の東京計画は浅草です。と俺も実のところ、頭の程度はナーリさん位のもんだな。

 三月二十五日
 一夜明けて六時前起床。昨夜のナーリショックがまだ続いている。夢なのか現実なのか。畑におりて、インゲンのつるの状態を見たり、花泥棒で持ち帰った花ニラの様子を見たり、俺もそろそろピヨピヨ持とうかなんて考えたりしました。

 語り口までおかしくなっちまった。ナーリ毒だなコレワ。ナーリさんと話していると「フーテンの寅」シリーズの映画にまぎれ込んでしまっているようで、でも何でも出来るかも知れないとバカな事を考えたりもするのです。

 何にも出来ないと考えるのが、今の世間の常識でしょうな。ナーリさんみたいに、「ワールドツアーできます。やっちゃうもん、アタシ。もうSに出発の予定組んどけって言っちゃったし。」というのは非常識というものです。ワールドツアーというのは地雷反対を世界にうったえる、手こぎ三輪車による世界一周の旅団計画のこと。

 ナーリさんはカンボジアのプノンペン、ウナロム寺院で、その手こぎ三輪車をもう百台以上も作り続けているのです。カンボジアの内戦で地雷を踏んで足を失った人間は多く、まだまだナーリさんのウナロム寺院製手こぎ三輪車を待っている人はとてもとても多い。本当に、バカは常識人にはできぬ事をやるものです。偉いと言はねばならぬところもナーリさんにはあるのです。

 それはひろしまハウスに十年程も通い続けて、黙々と汗をたらしてレンガを積んで下さったSさんの偉さにも通じる。そうだ。住宅建築の「ひろしまハウス」の原稿はSさんの事から書き始めよう。あの人に出会えた事が、ひろしまハウスでは一番の事であったと今にして思うな。「何故、こんな事をズーッとしてくれるんですか。」と聞いたって、何にも答えてくれなかった人だ。民衆、名も無き民の尊厳はいまだに失くなってはいないと知ったのは実に大事なことだった。

今日から、カメラマンの大橋富夫さん達一行がカンボジアに「ひろしまハウス」撮影に出掛けている。

 R440
 三月二十一日
 十一時研究室、アベル&コロンビア大学のチリ人セオリスト来室。十二時半打合わせ。十六時半発。青山ときの忘れものギャラリーへ。綿貫氏と話す。二〇時新宿を経て世田谷村に戻る。

 三月二十二日
 午前中ドローイング。幾つかの連絡。畑仕事。十二時過発。西調布へ。十五時戻り、畑仕事、読書。思い立って、花ドロボーに出掛ける。小さなシャベルとビニール袋を持つ。犬の散歩の人達が犬のクソを入レルためのシャベルと袋を持ち歩くのと同じスタイルである。

 ただし、私はレッキとした花ドロボー。近くの団地の、パブリックスペースに生えている花ニラを掘りおこして、ビニール袋に土と共にほおり込み、逃げ帰るのである。道端に咲いている花を盗むのは罪になるのだろうか、知らぬが、やはりいささか後ろめたいのである。

 最初の一株は公道脇の、個人スペースとのすき間にある微妙な土地に生えていたヤツをやった。それでも何人かの人がけげんそうな顔をして、道端の花ニラを掘り返す私を視て通り過ぎた。意外に根が深く、小さなシャベルの柄が曲がってしまう位の力が必要であった。泥棒はやはり力業である。その一株を世田谷村の南端、畑のワキの道端に植え込む。

 実はこの花ドロボーはだいぶん前からどうしてもやってみたい事だったので、実に充実した気持となり、当然の事ながらドロボーは再犯がクセになると言われる通り、もう一株やってやろうと、又、出掛けてしまう。
 これは、もしや変態の部類に入り込んでいるのであろうか。ドローイングが過ぎて、日常生活のバランスが完全に崩れてしまったのであろうか。

 今度は個人の所有地ではないが、見知らぬ他人の家の庭から垣根をはみ出して咲いている、小さな、これも花ニラを狙った。掘りおこしていたら、同年輩の男性にあいさつされてしまう。彼の家の玄関の先5mくらいの処の花であった。実はこの団地は二階建のテラスハウス形式で皆、住民が個々に庭を持ち、共有スペースのオープンスペースもゆったりとしており、私が泥棒した処はそのオープンスペースの住民が居なくなった住戸の前の土地のものである。男性はまだこの団地に居残っている家族の人間らしく、恐らくはこのテラスハウスが好きな人なんだろうか。自分の家の玄関先で明らかに見知らぬ男が花を掘りおこしているのを、とがめるでもなく、あいさつの声を掛けられたのである。

 この人物は恐らく、自分の家の玄関先に咲く誰のモノとも知れぬ花ニラの花が春の風に揺れているのを見て、毎日出勤されていたのであろう。それで私と同じように、私は明らかに私有する権利など全くないが、彼には恐らく共有地の自分のエリアに属する花であるとの意識はかすかに、しかし歴然としてあったに違いない。明らかな侵入者による花ドロボーを眼近にみて、それでも、ニコリとあいさつをされた、その心情は何処から生まれたものなのか。私はいささか、妙な気持になったのである。

 それでも、妙な気持のママに第三の現場へ移動して、これも道端の排水溝と個人の庭のすき間に発生した二〇 cm 程のスペースに咲いていた、これも花ニラを、又、一株グサリと掘り起し、失敬したのである。花ニラ専門の泥棒である。手にニラの香りが移り込んでいる。
 それも又、私の畑の南端に植え込んでしまった。主が居なくなる場所の花とは言え、それを盗んで私有しようとしているのだから、誠にいやしいと言えるが、不思議なコトに、花屋で買ってきた鉢植えの花を植えるのよりもズーッと気持が良いのである。これはクセになるかも知れぬが、近所に知れわたると、変な噂が飛び交いそうな予感もする。
 しかし、昼日中の明らかに泥棒は泥棒だろうなコレワ。でも、あの、あいさつして下さった男性のあいさつには、不思議な感情が込められていたように思う。もしかしたら、これが原コミュニティの感情なのかも知れない。
 身近に、人間はいるものなんだと、つくづく思った。

 三月二十三日 日曜日
 十時過大学へ。世田谷美術館石山展のポスター・ちらしの為の、今日は写真撮影の日である。ここ九ヶ月の仕事の成果の一部をカメラマンに切り取られる日だ。建築学科の8階、9階に溢れ返ってしまったモデル群を写真にとってもらう。当然、大事な時間なので、終日立ち会うつもりであった。十七時半迄。十七点程の今日迄出来ていた模型撮影に立ち会い、大変面白かった。

 物心ついてからの一年弱の、つまりは 1/30 の、人生の 1/30 の時間の全てを記録してもらったのである。
 十八時半院生とお茶を飲んで雑談。皆良くやってくれているのだが、ついつい説教になってしまう。二〇時半李君と映像フィールドゼミの打合わせ。二十二時過世田谷村に戻る。

 三月二十四日
 九時前、起床。バウハウスギャラリーの件考える。
 一昨日、カメラマンの大橋富夫さん他、住宅建築編集部の人達が幻庵、川合邸を取材したので榎本夫人、川合夫人に御礼の電話をする。幻庵はやっぱり、七久保川の橋が流されて、渡河しなければ辿り着けなかったそうだ。前庭の苔が大層美しく、昔と何も変わりがなく、感動したと大橋さんは言ってくれた。

 そうなんだ。幻庵は主がいなくなっても、変わりが無い筈だの確信はあったのだが・・・榎本基純さん亡き後、幻庵は彼の歴史も背負って生き続けるだろう。鉄の寿命がくる迄は。もう三〇年以上経ったから、今の若い学生達が生きてきた時間よりはズーッと長く生きている。この時間の流れに対する力が建築の中心の価値だろうな。

 R439
 三月十九日
 十三時世田谷美術館N、Y両氏来室。打合わせ。十五時カンボジアのナーリさん来室。夕食を共にして二〇時世田谷村に戻る。

 三月二〇日 休日 雨
 七時過ぎより十三時半迄北京モルガン・ドローイング。北京オリンピック以降に向けた計画を描き始める。中国の中心に向けての提案で、巨大な暗黒星雲に巻き込まれそうで、不安と希望が入り交じり、そんな雰囲気のドローイングになった。

 建築的世界のドローイングにも文学・神話のニュアンスがまぎれ込むのだ。難波先生と電話で共同研究の件を話す。安西君より「向風学校」ウェブサイトを始動させたの連絡が入る。のぞいてみて下さい。

 我ながら膨大な量のドローイングを描いたな、この一年近くで。

 十六時四〇分、雨の中へ発つ。新橋へ。十七時四〇分ハウス・オブ・トゥモロー・ギャラリーの場所を借りて石山研スタッフと打合わせ。フォーマルハウトのザイフェルト、ストックマン両氏と会う。十九時レクチャー。AAスクール出身らしいプレゼンテーションだった。P・クックは健在のようで嬉しい。二〇時了。二十一時去る。予想以上の人が集まってくれた。いまだにAAスクールのネットは強いようだ。

 三月二十一日
 八時起床。昨夜雄大がハバナ、メキシコより帰国した。十時前発研究室へ。チリの建築家と会う予定。

 R438
 三月十八日
 十一時東大赤門で安藤、S(GA)両氏と会う。槇文彦氏設計の建築の隣に完成した福武記念館は、恐らくは安藤氏の数多い作品群の中でも最良の部類に属するものだろう。第一次案から第四次案迄の経過を聞いたが、建設された最終案がベストである。

 安藤氏は本能的にベスト迄辿り着いたように思う。又、福武記念館はその名が示すように、東大の構内に在りながら税金ではなく、個人の意志が反映される形式で建設が実現したのが大きい。税金で建てられる建築のみみっちさが感じられぬのも良い。
 かと言ってサイトは東大キャンパスであるから、商業建築の立地とは異なる。歴然とした公の枠がある。個人の金と公の場所という双頭のフィールドを踏まえてこの建築は生まれた。その辺りの手綱さばきは鮮やかとしか言い様がない。この建築のたたずまいの良さは、そんな条件から生み出されている。他にも幾つか気付いた事はあるが、四月二日のGAでの対談まで温めておく。

 GA・S氏によれば、二川幸夫氏は今フィンランドで、雪景色のアルヴァ・アアルトを撮影中らしい。以前、ルイス・カーンの建築の前の樹木の葉が枯れて落ちるのを待っているという話しを聞いて驚いた事があるが、ほとんど風狂の建築人の域だな。建築がその尊厳を失っている現代に、その存在は価値をいや増すに違いない。二川幸夫の写真は時に実物の建築よりも存在感があるのだ。映像、複製芸術とオリジナルの現代的宿命であろう。

 十四時半新宿で鈴木了二氏と会う。十六時迄打合わせ。映像フィールドゼミに関して。十七時世田谷村に戻り、畑を少し計りいじる。今日は研究室には顔を出さなかった。

 三月十九日
 六時半起床。十時迄WORK。

 R437
 三月十七日
 十一時磯崎さんと話す。元気であった。チベットの事など雑談。十二時半研究室。十三時M0ゼミ、M0をそろそろ石山研に侵入させるつもり。十五時迄。十五時二〇分向風学校安西君と打合わせ。十九時迄。世田谷村に戻り、二十三時迄眠る。

 三月十八日
 二時向風学校サイトへの原稿書き了。これ位の努力で向風学校が徐々にでも前進すれば良いのだが、あとは安西君の応答次第だな。関心をお持ちの方は向風学校のサイトにコンタクト願う。三日後位に向風学校の落ちこぼれ、あるいは枠外者ユニオンらしきの素が発足するでしょう。先ずは多くの若者達が、力強く落ちこぼれてくれるのを待ちたい。

 七時過起床。昨夜書いた原稿送信する。十時前発東大へ。今朝は安藤忠雄さんに会って福武ホールを案内してもらう予定である。

 R436
 三月十四日
 昼前、津田沼へ向う。本八幡迄の都営地下鉄線。NRTから外国へ飛ぶのもこの線を利用するが、そんな時は妙に心が浮き気味で我ながらおかしく、車内でスケッチしたりもするのだけれど、目的地が津田沼であると、気持ちはあんまり弾まない。何故なんだろうか、この現実振りは。要するに旅による想像力の枠が号数で決っているのだな。大作と小品と。

 情報過剰とその速力(コンピューター)は地球上から距離を消した。距離が奥行きの素であるのは、ルネサンスの透視図法が良く示していた。それは距離が、つまり旅が困難さと、意志を要求するものだったからだ。レオナルド・ダヴィンチがモナリザを馬の背にくくりつけて旅に生きたのは良く知られる事でもある。

 そんな事をボーッと考えながら本八幡から京成線に乗り換える。特急に乗ったが、流線型のボディでもなく、地味な弁当箱みたいな車輌で、これは仲々良い。九州の電車、汽車は皆派手な格好しているけれど何故なのかな。キチンと赤錆び浮かして地味に走るのがあっても良いのではないか。

 京成津田沼駅とJR津田沼駅は少し計り離れていて少し歩いて千葉工業大学へ。十三時半公開講評会。構造設計家の川口先生等と御一緒である。川口先生のクリティークが年輪を感じさせて味があった。修士設計のテーマはCO2に絞られており、仲々独特なものだった。この大学の建築は頑張っている。

 三月十五日 土曜日
 十時バウハウス・ユニバーシティのクリス・デイン教授と打合わせ。十一時インスブルック大学、AAスクールのアーティスト来室。面白いプロジェクトやっていて、話していて大変刺激された。三月二〇日に彼等の展覧会場で再会する事となった。面白い人間に会うと、気持ちも明るくなる。十二時半加藤、輿石先生と打合わせ。十三時世田谷美術館N氏来室。

 六月末に、世田谷美術館と同時開催でワイマールのバウハウス・ギャラリーで石山展を開催する事になった。十四時西調布。二〇時過世田谷村に戻り、早く休んだ。ドローイング二点。

 三月十六日 日曜日
 七時起床。チベット自治区ラサで暴動との事。今、世田谷村三階に居る仏陀像はラサのジョカンテンプルから来たものだが、ジョカンテンプルの名前も新聞記事に出てくる。漢民族のチベット統治には無理があり過ぎるが、仏教による統治は一度、近代化の波をくぐるべきだろうとは思うが、近代化が漢民族そして共産党によるコミュニズムとが一体化となった奇妙なシステムでなされているところが、誰が考えてみてもおかしな政治的状況を産み出していたのだが、それが北京オリンピックを前に吹き出したのである。

 チベット仏教寺院が中国元の集金マシーンと化しているのは2年前のチベット行で眼のあたりにした(これに関しては、「境界線の旅」を一読願う)。ミャンマーと同様に仏教寺院と僧侶による仏教資本主義的な仏教的伝統はより理性的に修正された方が良いと考える。キリスト教、特にプロテスタントの金の社会還元システム位が適正だろう。しかし、世界の屋根チベットの民俗が広い平原の漢民族と同様な価値観を持つわけもないのは明白でもある。チベットという地球上でも特異な地勢が産み出すものをあなどってはならない。

 この問題、この事件に関しては稿を改めて考える必要があるので、日記ではこれ迄とするが、チベットでお会いした活仏や、ジョカンテンプルの僧正達は今どのようにしているのだろうと、大いに気になる。チベットの騒乱は中国大陸の騒乱の予兆になるのではなかろうか。

 東京都の新銀行への都の税金の再投入問題は石原都知事にとっても大きなアキレス腱となるだろう。二〇一六年のオリンピック誘致へのJOCへの毎年一千億円の資金源投入は石原都知事の公言であったと記憶しているが、この問題、東京オリンピック誘致問題とも大きく関連してくるのは間違いない。
 チベットの乱が北京オリンピックに与える波紋も小さくないだろうが、これでオリンピックを東京にという可能性はほとんどゼロに近くなったのではないか。

 午前中、下の畑を本格的に耕し直す。生ゴミを埋めた部分に大きなうねを作った。今年のウネは東西方向にウネ幅八〇 cm 位とした。汗をかく。十一時半迄。

 昼食後、近くの園芸屋に種と苗を買いにゆく。青首春大根の種と、沖縄太ゴーヤの種を求める。又、昨年の経験と、Hブロッコリー名人の助言もあり、きぬサヤエンドウは種まきから苗植えに切り換えてみる。

 園芸屋の帰りにHさんのところに寄り、イタリアンパセリとパセリの株をもらって帰る。すぐに種まきと苗植えの作業。十六時前迄。今日はドローイング他の仕事は手につきそうにもない。

 十八時、暗くなる前に下の畑におりて、今日の仕事をしゃがみ込んで眺めやる。

 夜、向風学校の件をアレコレと考える。
 西村修の講義録はほぼ完璧な形でまとまったのだが、西村氏の無我ワールドから全日本プロレス移籍に伴い、版権等が厳しくなり、安西君が頑張ったが結局もの分かれになった。西村修氏や全日本プロレスは最も良質な観客集団を失う事になるだろう。しかし、ここまでやったのだから何とか陽の目を見せられるように、アレやコレやの工夫が必要だが、今回は一度引いたほうが良いだろう。近々安西君と会って打開策と言うより、プロレスからの迂回を相談したい。私としても、別にプロレス業界と深く附合う気持は全くないのだし、ただ、安西君等の若く、特異な集団が何故あんなに斜陽の業界に入れ込んでいるのかが不思議で附合っているに過ぎないのだから。

 三月十七日
 二時に目覚めてしまう。昨夜は二〇時過には寝てしまったから無理もない。土いじりが過ぎた。網野善彦「日本の歴史」を読む。三時過ぎ眠る。八時起床。新聞によるとチベット騒乱で中国政府は活仏に対して民衆を制するように求めたらしい。私がお目にかかった活仏はどのように対応しているのだろうか。騒乱は力で制圧されるだろうが、それは短い間の事で、再び更に大きく吹き出る事になるだろう。

 九時矢車草の種をまく。伐っておいた酔芙蓉の枝をきぬさやえんどうのつるの支柱に何本か植え込む。既製品のポールだけでは味気がないし、自然の枝には限りがある。

 十時半発観音寺を廻り、研究室へヨットの帆を運ぶ。

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 三月十三日
 十八時研究室OG、S氏等と会う。彼女達が立ち上げを考えているメディアの相談を受けた。頑張ろう、今の状況を打開したいと考えている様だが、対話、シリーズ対談で径が拓けるとは思えないが、危機感の一部は伝わってきた。

 三月十四日
 六時半起床。ドローイング。昨日は終日、リアルな寸法入りの物を考えていたので、今日はノースケールの世界に入ってみる。意外と手間取り、八時過までかかってようやく一点。小休して昨夜のSさんの企画書を読み直してみるが、やはり小さな具体的焦点が欠けているように思った。三〇代の若い作家達らしきと、我々の世代らしきとが同時代を共有できるとはとても思えない。

 ただ一つだけ可能性があるかなと思ったのは、「新しいキュレーション」という言葉だ。
 今という時代を観察するに、出版業界の経営はかんばしくないようだが、それは電子革命によるペーパー時代の衰退によるもので、これは仕方がない。ただし、グローバリゼーションと創作との関係を直截に考えれば、その中枢に編集的作業が存在する事は間違いない。情報のスピードと蕩尽(消費の意志)の連結は、クリエーションそのものよりも、編集的、キュレーション的作業に力の中心を移動させやすい。つまり、キュレーション自体が新しいモノを作り出すエンジンになるって可能性大という事である。ただし、キュレーターがその事を自覚出来ているかどうかが要になる事は言うまでもない。

 Sさんは、だから王の如くに振る舞わなくてはいけない。女性でも女王のごとくにではなくって、あくまでも王の如くに。言葉を投げかけて、集め、組織して人の動き、つまり情報の流れを創造すれば良い。デザイナーやクリエイターの大方は素材として扱えば良いのだ。人生は一回切りだからね、それにどんなキュレーションやったって死にはしないから。

 今日は十一時過に発って、津田沼の千葉工業大学へ。卒業設計、修士設計の公開講評会へ出向く予定。

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 三月十二日
 十九時WORK終了。宮古島に関していささかの収穫があった。

 三月十三日
 七時起床。ドローイングにかかる。寒さがゆるんで春めいてきた。三階もようやくにして仕事しやすくなってきた。真冬は実に寒かった。十二時迄WORK、N島第二案を大体まとめた。ドローイングを研究室に送信する。昼食後再WORK。夕方迄続ける予定。研究室とは今日も通信連絡となる。

 宮古島N島計画にようやく筋と光が視えてきたので周辺を固めてゆかねばならない。やはり、良いアイデアが生まれてくるとスケールも大きく推し進めてみたいという力も生まれてくる。これに関連して色々な計画を組み立てられそうだ。

 十三時過研究室より第一信着信。ソーラー関係の素材の情報がもう少し欲しい。もう少しつめれば宮古島市役所へ、大プレゼンテーションが可能になるだろう。N氏と連絡。宮古島でのプレゼンのスケジュール等。

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 三月十一日
 十一時人事小委員会。十二時半中国より研究室OB陸海来室。十四時事務打合わせ。十五時ツリーハウス取材、インタビュー。二度目のインタビュアーで楽しくおしゃべりした。十七時過世田谷美術館N氏来室。二川幸夫氏との打合わせの結果報告他。二川幸夫流石筋金入りであったと言う。そりゃそうだよ。二〇時過迄展示その他の打合わせ。話しが細部に進んできたので面白い。終了後、コーリア料理屋で、私は今日初めての食事。と言ってもキムチだけ。体にいいのか、悪いのか不明だなコレワ。二十三時前世田谷村に戻る。

 三月十二日
 七時過起床。石山修武脳内世界案内之図詳細をつめる。十時研究室に通信6枚送る。通信によるメッセージ(伝達)の方が通じやすい時もあるだろう。十一時半頃宮古島ソーラーボートのスケッチ送る。模型製作をたのむ。小休。返信を待つ。

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 三月十日
 N氏月光ハウスよりヨットの帆二枚届く。マスト(垂直)方向八m半、短片四m半弱のものである。この帆数枚をNさんの宮古島の自給自足住宅のシェルターに見立てて、世田美の第一室を構成する。

 昼前研究室。材料・施工・構法(エンジニアリング系)の輿石先生、そして加藤先生との合同ゼミの為のエスキスをする。

 十二時半、T君来室。今春よりM大で教職との事。健闘を祈る。十三時半合同ゼミ、今年度初会合。十五時過迄。加藤先生と色々と相談して、世田谷村に戻る。

 三月十一日
 四時起床。メモを記し想を練る。宮古島の計画はあと二段階位進化させねばいけない。今のレベルでは駄目だ。川合さんや、フラーだったらどう考えるだろうか。勿論彼等も又進化しているとしてだけれど。

 ヨットの帆の形態、材質には一切の遊びが無い。レースの規約、つまり船の大きさの規定と、マストの高さに数理的に適う形とスケールが与えられている。下辺に微妙なアールが施されているのが興味深い。これは競技者(クルー)の船上の動きをスムーズにする為であろうし、帆に数カ所空けられている透明なウィンドー状の部分は競技者の視界を確保する為の窓である。つまり、帆は船体とマストと競技者とが風と一体となって初めて意味を持つ形態である。

 フラーが手こぎカヌーの設計に没頭したのも、水と船体と人間が一体となった有機的な細妙さに気付いていたにちがいない。彼のカヌーを再考しなくてはいけない。N氏の月光ハウスにも天井にそれはそれは美しい形をしたカヌーが浮いているが、あのカヌーについても尋ねてみる必要があるな。
 六時過休む。

 八時前再起床。

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 三月七日
 十四時建築ジャーナル、インタビュー。Y氏の質問、やりとりが面白くて時間が長くなった。十六時世田谷美術館N、M両氏来室。色々と打合わせ。途中坂田明に電話して願い事をする。美術館でのトーク&ライブ、七月二十七日夜決定。十七時過講談社S氏、カメラマン、デザイナー集合し、カタログ合本の件で打合わせ。

 廊下、サロンにドローイング、模型の一部を並べてみる。昨年七月より描きためていて良かったとホッとする。二〇時迄。皆さんがどう思ったか、聞いてみたいが、聞いてどうともなるわけではない。ポスター、ちらし、装本等のデザインが難しいだろうな。

 二十一時半頃世田谷村へ戻る。

 三月八日 土曜日
 七時過起床。ドローイングにかかる。八時前一点了。
 このマラソン、ワークもあと三ヶ月チョットで区切りとなるが、全く自分で自分の体力、気力、才質を点検している如きになってきた。まだ描きたいモノがあるうちは大丈夫だろう。八時休み。畑に生ゴミを埋める。実に毎日ゴミを排出しているな我々は。

 近所のH氏のところの畑で穫れたブロッコリーが届き、仰天する。デカイ、猫の頭程の大きさがある。H氏七十四才まだ元気に会社務めをしているが、畑も自分の家に作っていて、お互いにその小ささを誇る位のものなんだが、この巨大ブロッコリーには参った。あのオヤジ奴俺に内緒で秋口からこんなモノ育てていたんだな。

 畑作りの先輩でもあるので「冬を越せる野菜の種無いかなあ」と頭を下げて尋ねたのに。「サア、ありませんよ。」なんて言った舌の裏にブロッコリーの種を隠していたのである。あまりと言えば、あまりの仕打ちではないだろうか。

 台所のカウンターの上にジャングルの大樹の如きH製ブロッコリーを眺めながら、口惜しさに歯ぎしりするのである。九時十五分ドローイングに手を入れて完了。命名地図の絵図。

 畑には一面梅の花の花びらが舞い落ちていて、雪のように積もっている。しかし、こんな風に美しいだのなんだのと言っている間にもH氏はせっせと自分の畑の世話をして、食料を得ているに違いない。やはり、世界は花よりダンゴなんだなあ。

 十二時過西調布へ。驚いた事に京王線車中でブロッコリー栽培名人H氏にバッタリ会う。
 「凄いですね、見事ですね、お宅のブロッコリー」
 「エヘへ、それ程でもないよ。今度小松菜持ってこうか。」
 「エッ、他にもやってるの、冬なのに。」
 「ブロッコリーは簡単なのよ。農家から小さい小さい苗もらってきて、それ植えればいいんだ。」
 「近くにそんな農家あったっけ?」
 「散歩のコースの途中にあって、そこでもらってくる。」
 「今、まける種ありますかね」
 「種は難しいよ、苗がいい。」
 「大根やりたいんだけど」
 「アレは土を深く耕さないと駄目なんだ。」
 と、名人は完全に畑で私の優位に立っている。それが言葉の端々ににじみ出ている。畑における優位性は自然に全身にみなぎり始め、やがて生活全般に及ぶのである。H氏のところには、死にそうになっていたのを拾ってきた子猫がいる。世田谷村にも七ヶ月になる子猫がいる。H氏のところの子猫の名はジローという。世田谷村のは白足袋である。共にそこいらの拾い猫であった。ジローは道端で死にそうになっていた。白足袋は道端で拾ってきた猫ではない。もっとせっぱつまっていて、保健所に出掛けて拾ってきた。放っておけば明日は薬殺される予定だった5匹の子猫の一匹であった。
 前に居た白猫は由緒ある猫らしかった。突然変異で眼は金眼、銀眼でエレガンシーを持っていた。純種は弱いものでもあるらしく、二年程で亡くなった。世田谷村から、弱った体なのにわざわざ出掛けて、何軒か隣の家の庭の樹陰に隠れて死んだ。ある深夜、白猫の姿が消えて大騒ぎしていた時、心配して眠れぬ夜、遠くに猫の声がした。アレが最期の知らせだったんだと、悲しく覚えている。白猫が居なくなり、その空白感にたえてはいた。でも、やはり、もう一度飼おうという事になった。
 今度は雑種の、野良猫みたいなのが良い、純種は弱い、すぐ死ぬ。死ぬのに立ち会うのは辛い。それで紆余曲折もあったが、尋ね歩いた末の保健所であった。保険所で殺されるのを待っていた五匹の子猫達全員は引き取れない。それで四つ足の先が白いという、ただそれだけの特色を持つ故に白足袋が世田谷村に来たのである。
H氏のところのジローと世田谷村の白足袋は、それ故の御同様の境遇の持主なのだ。が、しかし。

 ブロッコリー名人、畑のH氏は畑での優位を背に、こう切り出した。
 「うちのジローね。」
 「アッ、だいぶん大きくなったらしいね、今何 kg ?」
 「 10.5kg です。」
 「何、デッカイな、猫っていうより豚じゃないの。」
 「豚には見えませんよ、ウチのは顔はトラみたいなんだから。ホラ、特別な血統ですから。」
 H氏のところのジローは成長するにしたがって、どうやら、そこらの野良猫とは違うらしき、際立った風采を持つようになっており、氏はその点をついてきたのである。畑での優位を猫にも及ぼそうとしているわけだ。
 「おたくは、今何 kg ?」
 「ウチのは四 kg チョッと。」
 「アレ、小さいね。」
 「何喰って、そんなに太るんだろうね。」
 「ウチのジローはね、ヒヨドリ喰うからね。頭いいんだ、鳥とって喰べちゃう。」
 「ヘエ、そりゃ凄いな。でも栄養つき過ぎるだろう、鳥ばっかりじゃあ。」
 「ジローはね、だから菜食とってバランスとってるの。」
 「猫が菜食するかあ、イタメシ屋に猫がメシ喰いに行ってるの?」
 「外では鳥喰ってきて、ウチでは菜食です。」
 「ウチのは外に出ないからね。おたくのジローはこのあいだ家出したって言うじゃない。何日も行方不明で、外で何してるか解らんぞ。」
 「キチンと帰ってくるところが頭いいんですよ。ホントに賢いんだ。」
 と、もう行く処敵なしなのでありました。
 もう、今日はHさんとの会話に尽きる一日でありました。

 三月九日 日曜日
 七時半起床。ドローイングとメモ。ドローイングつまり設計である。設計、ドローイングも又、畑作りや生ゴミ埋めと同様に日常生活化させようとしているのだが、こんな頭で考えている事に身体がついていっているのか、どうか。

 昼前、畑仕事、クワの修理。
 十二時より、名古屋マラソンをTVで観る。35 才の高橋尚子がどう走るかが楽しみだったから。知り合いとも賭けようか、なんて言っていた位だ。
 私は高橋尚子は惨敗するだろうと予想していた。時々、TVに登場していた彼女から執念といったものは全く感じられなかったし、八年間一般的には恵まれた状況の中で、キツイ指導者を得られぬままに、自分中心の世界を築いてしまってきた。だから、厳しい勝負は不可能だろうと感じていた。
 スタートして高橋尚子選手はすぐ脱落してしまった。案の定である。それにしても他人の事は良く視えるのだが、自分の事はどうかな。    十七時前、「セルフ・ビルド」に 14 のキャプションを書き終る。こういうのは楽しくていくらでも書ける。

 十七時過Hさんの家まで歩いてみようということになり、歩く。と言ってもほんの十五分程の事。到着したらブロッコリー名人のHさんは九十三才の老母の介護も修了したのか、丁度小さなシャベルと花の鉢を持って道に出てくるところであった。早速先ず東の庭に作られた畑を見学。確かにブロッコリー、小松菜、パセリ、ブルーベリー、さやえんどう他がもう葉をつけ、つるを竹棒にからませているではないか。

 今日も一部が土おこしされており、「こうやって土を空気にさらしてから苗を植えるんだ。」との事である。自慢の猫ジローにもお目にかかった。会ってみればそれ程巨大ではない。H夫人に何 kg なのって尋ねたら、四・五 kg です、との事。十・五 kg だなんて、何と六 kg もさば読んでいたのである。名人Hは。これならうちの白足袋と何の変わりも無いではないか。ああ、男の誇大広告は何の為なんだろうと、キツネにつままれた感に打たれて、戻った。ヘビー級を粉飾していたフライ級のネコ、ジローが曲り角まで見送ってくれた。

 二十二時、NHK教育TV、小田実「遺す言葉」観る。
 小田実さんには何度かお目にかかった。佐藤健の手引きであった。阪神淡路大震災で小田さんは西宮から、健の酔庵へ引越して来た。そして小田さんは癌になった。佐藤健と同じだ。そして同じように死に至る迄、書き、かくの如くに発言を続けた。
 彼の最後の頃の闘病と執筆の現場映像は全くと言って良い程佐藤健の最期と同じで、私はその事にいたく感動した。人間は皆、順番に死んでゆくが、誰もが何かを確実に残してゆくな。有名、無名を一切問わずして。小田実が大災害時の被災した人々の復興に関して市民立法を主唱して、死後それを議会を通して法律として成立させしめたのはまさに歴然と残されたものである。二十四時休む。

 三月十日
 七時起床。昨日描いた大判のドローイングがどうしても気に入らずに手を入れる。ドローイングは設計図の前段階的産物であり、平面立体を問わず、作品を作り出す原動力、何故、作らなくてはならぬのかの素を掘り出そうという意味合いがある。同時に、恐らくは美術館での展覧会が無ければ、こんな風に手を入れる事はあるまい。充分に観られる、観てもらう事が意識されているのが解る。と、いうよりもどうしようも無く手を入れたくなるのだから、一点一点のドローイングも自立させようとしている。

 R430
 三月六日
 十二時の打合わせ迄に新たに三点ドローイング。空気膜オフィス案。メキシコのプロジェクトに空気膜を適応させる準備にかかる。空気膜メーカー来室。宇宙服ハウスの最終段階の打合わせ。何とか六月の世田谷美術館の展覧会には出展できそうだ。

 十四時教室会議。十七時前迄。十八時四〇分発新宿へ。十九時「映像フィールド」ゼミ準備会。学科に地味な形で良いから実験的な核を私の研究室の他に作りたいと考えて準備に入っている。S氏も同様に彼の拠点の外で先鋭的な試みをやりたいと考えているので、呉越同舟となっているわけだ。二十一時迄、話し合う。二十二時世田谷村に戻る。

 三月七日
 八時前起床。ドローイングにとりかかる。ブラジルの谷氏より連絡あり、ブラジル移民百周年の件など。十一時前ドローイング二点了。十一時三〇分三点了。休む。十三時発研究室へ。

 R429
 三月五日
 世田谷村に置いてある全ドローイング、銅版を研究室に運ぶ。十二時半研究室。十三時博士課題W君相談。十四時T氏来室相談。十五時OB、U君来室相談。十六時ドイツから帰国したK君来室。海外で仕事する体験をした若い人は、日本に戻ってからがキツイのだ。健闘を祈りたい。ベルリン在四年の最後の一年で描いたドローイングを見た。韓国料理屋で会食後世田谷村へ。二十一時過戻る。

 三月六日
 六時起床。マラソン・ドローイングにかかるも、手が動かず、三〇分程新聞読んだりのウォームアップ。何を描くでもなく始めたら、何かを描き始め、どうやら何かの庭園計画らしい。庭園はいつかやってみたい仕事だが、今鬼沼でその始まりを手掛けているが、その展開プランのようなモノが出現した。やがて宮古島のN島計画のドローイングとなり、八時三点修了。

 九時過、「建築がみる夢」準備録書く。文とドローイングの源は同じなのか、異なるのか少し解らなくなった。

 十時四十五分研究室。路上で学部生に尋ねられた。「石山研はゼミは男はとらないんですか。」「イヤ、そんな事は無いよ。もうすぐ告知しますよ。」と答える。間違った情報が流れているのだろうが、それはそれで仕方がない。

 歩いている内にアイデアが生まれたのでドローイングに落とす。研究室でのWORKはチョッと世田谷村とは条件が異なる。

 R428
 三月四日
 十二時三〇分研究室。打合わせ。十三時転科・学士入学面接試験。十五時過迄。他大学より良い人材が得られそうだ。女性の利発さが何処まで延びるのか、楽しみでもある。
 十七時過迄打合わせ。カンボジアのN氏が日本に一時帰国。「寒くてふるえあがってます、動けないよ、寒くって」との事。そうだろうな。私も冷え込んでいる。

 十八時過、「建築がみる夢」展準備録、書き上げる。ここに書きつけた小さな出来事は面白かった。

 三月五日
 七時起床。すぐドローイング、チリ計画。チリ全土を動き廻る、15台のモバイル・シアターのネットワーク計画及びハードのデザインである。
 八時四十五分一点了。情報・映像・有機体之図だなコレワ。この計画には簡単に名前がつけられない。名付ける事が完了したら、船は停泊しなくてはならないからね。できるだけ流動させるのだ。十時前更に二点完了。ドローイングをしているとプロジェクトへの愛着が湧いてくる。十時半遅い朝食。

 R427
 三月三日
 九時起床。イージス艦あたごの衝突事故による、漁船清徳丸沈没、漁師お二人の行方不明事件で鮮明な印象として残ったのは、勝浦の漁師さん達の見識、言動の風格の高さであった。それと比較すれば政治家、防衛省役人、軍人達の風格は見劣りした。TVを介しての印象で片寄った報道の誤りはあるやも知れぬが、それがあったとしても正直に言えばそうなる。

 報道された新勝浦市漁協組合長の見識、漁師達の対応、そして行方不明のお二人の親族達の話し等を総合すれば、そこからは海に生きる人々の独立自主の自治意識の底流が垣間見える。四〇代の大方を宮城県唐桑、気仙沼市で多くの漁師、及び船主と附き合わせていただいた記憶が鮮明に思い起こされる。

 二〇年程昔の事になってしまったが、あの体験は私の中ではまだ未消化のままだ。唐桑気仙沼での仕事は私の中では重要であった。世田美での展覧会を機に、自分でも忘れようとしているいくつかの仕事に関して、見直しをはかりたい。

 十一時半研究室。打合わせ、十三時 M0・M2 ゼミナール。十五時過迄。その後、打合わせ、雑作業十八時了。あとドローイング三百枚描く決心をする。一日三、四枚で二ヶ月かかる。できるかな、今夜から始める。

 三月四日
 四時過ぎドローイングにとりかかろうと起き出したが、手が動かない。どうにもならず、メモを記し、五時再眠する。色んな事を考え過ぎているのだろうか。不安になる。八時過再起床。十時ドローイング四点を得る。テラスのエサ台に残飯他を置く、カラスがすぐ飛んで来る。十時二〇分、ドローイング二点仕上げる。

2008 年2月の世田谷村日記

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