石山修武 世田谷村日記

6月の世田谷村日記
 R042
 五月三十一日
 十一時研究室。十一時半打合わせ。十三時半了。十四時韓国料理屋で野村等と昼食。野村の失読症に関する話しを聞く。ミース・ファン・デル・ローエ、アントニオ・ガウディ、ミケランジェロ、アンディ・ウォーホル、岡本太郎等がアルファベットの組合わせを言語として識別できなかったという珍説であるが、野村が語ると変なリアリティが全く無いわけではない、と思ってしまうコチラの感性の不思議さよ。まことに、人間は怪しい存在の形式にしか過ぎないな。十七時過迄歓談。面白かった。熱帯魚ショップに寄りメダカを見る。十八時過世田谷村に戻り、早々に眠る。

 六月一日
 南青山の「ときの忘れもの」ギャラリーで七月十八日から二十六日迄新作銅版画展を開く知らせが届いた。届いたと他人事のように言うが、自分の展覧会なのだ。六月二十八日から一ヶ月半にわたる世田谷美術館での「建築がみる夢」の期間内での同時開催である。美術館で「建築がみる夢」と題した建築のプロジェクトとドローイング他を表現する。そしてアートギャラリーでは「電脳神殿窟院之図」の如くの、銅版での現代建築ではとても表現し得ぬ映像世界を示そうとしている。

 何故銅版画をやり始めたのか、ドローイングはまだしも、銅版はいささか時間と力が必要である。要するに片手間では出来ない。それでもなおやった、これからもやり続けるのか、について考えてみたい。考えを突きつめると、これはこの世田谷村日記の公開、サイトを介しての私の表現活動、コミュニケーションの仕方とどうつながっているのか、それともただただバラバラな思い付きに過ぎぬのかになる。

 ただただ自然ななりゆきとしか言い様の無い月日の流れから銅版画をやり始めた。彫っていたのは心象風景としか言い様のないものであった。荒地、廃墟、砂漠、巨大な山岳、バゴタ、廃船、次にその風景にアンモナイトが出現した。これはインナーヒマラヤの旅、カリガンダキの壮大な流域で見た、家程のアンモナイトの化石の印象記憶が強くあるので、その素は太古のヒマラヤなのは自分でも解っていた。でも、それだけの事で、何故彫らねばならぬのかについては放っておいた。絵描きがやるような事に自分もそまったのだろうと気楽に自己満足していた。

 今度の展示の為の製作は三回目である。いくら思い付くままにと言ってみても、思いつく風景、形らしきが際限も無く湧き出てくるものではない。彫るモノを探すのに手間どった。エイヤと始めてみたら、更に心象風景のようなモノになってきた。夢の中、脳内にフッと置き去りにされている風景が鉄筆と、銅版の手応えを借りて出現しているのだった。銅版と彫る道具によって決まるモノがあるなと気付いた。色んな道具を勝手に自分流に使い始めた。少し自由になれた。彫る速度も速くなった。

 彫っているモノに名前を考えないといけないと考えた。これ迄のモノにも名前は与えていたが、なりゆきの名前づけのままであった。

敦煌莫高窟と脳内風景

 佐藤健の最後の旅になったシルクロード西域敦煌の窟院風景が頭に浮かんだ。敦煌窟院の沢山な洞穴と壁画はまるでコンピューターのサイトの群みたいなものだなの印象があったのが頭によみがえった。窟院に彫られた装飾や壁画との観念的な近似の感触とでも言おうか。あの窟院を彫った彫師や絵師の脳内風景と、私の銅版画は遠い親戚であると考えてみた。

 この思い付きは今のところとても気に入っている。他の仕事とも脈絡もつくかも知れぬぞとも考えている。脈絡と言っても自分で自分をなだめる、納得させるが如きものだが。

 敦煌莫高窟を遠く眺める砂漠の小石だらけの丘を、死ぬ半年前、余命いくばくもないと知りながら、必死で登ろうとしていた、杉浦康平や滝カメラマンや私やらと同じに歩こうと気力をふりしぼっていた佐藤健の姿が鮮烈に思い起こされる。佐藤健をこうやって今、思い起こしているのも、壁画を描くのも同じなんだよ。一瞬の中に永遠があり、死者も生者も同居するのだ。

 R041
 五月三〇日
 十時研究室。院レクチャー準備。十時四〇分レクチャー、英国式ハイテクと英国人気質。パクストン水晶宮からノーマン・フォスター迄の流れ等。セインズベリーのアートギャラリーの光についてを中心に。小テストの答案を返却する。打合わせ後設計製図採点に参加。入江先生の課題、アルチュール・ランボー・ミュージアム in 早稲田古書店街。良い課題だ。難しいけれど、学生は良く頑張った。来週土曜日の講評会に、私の「建築がみる夢」展のドキュメント番組の為のTVカメラが入る事を先生方に了解していただいた。十八時四〇分迄。

 十九時新大久保近江屋で古市徹雄先生と打合わせ。力をかしていただく。二十一時過迄。雨の中を世田谷村に戻る。

 五月三十一日
 五時半起床。広島の木本一之さんからのFAX通信「ざくろの街灯」八枚への返信。大変だけれども面白い。良いモノが出来そうで楽しみである。図像(スケッチ)の交信でモノを作る楽しみは何モノにも代え難い。時に自分の生命力さえ感じる。こういう事があるから生きているようなものだ。力を入力してもらっているのだ。

 木本さんと私のイメージ、考え方のズレがようやくハッキリと出てきていて、そのズレを楽しみたい。ズレを解消するのではなく、ズレを表現できるようになりたいものだ。彼は近くの山に入り、樹々の枝のつき方を観察している。ガウディだね。素晴らしい。負けてはいられない。私も精一杯やる。精一杯させてもらっている。他人の力で生きているのを実感するな。二時間程をかけて、木本一之さんのスケッチに私の考えをすり込ませたスケッチと言葉を描き、彼の工房へ送信する。

 彼の単独者振り、山里の工房での姿を思い浮かべて、自分をふるい立たせているのだ。

 前広島市長平岡敬氏の友人、京都のY氏よりお便りいただく。「ひろしまハウス」がとり持ってくれる縁だ。七時四〇分小休。早朝は頭が良く動くようだ。徐々に朝型人間になっているのだな。

 私の世田谷村日記も徐々に、顔も見る事のない多くの人々への交信の趣きが強くなっているのを感じる。これも又、交信なのだろう。

 R040
 五月二十九日
 十時半研究室。打合わせ。様々な対応打合わせ十七時過迄。十八時過少し遅れて鈴木博之先生の教授退官記念連続講義受講。第二回は五十嵐太郎先生の「建築は兵士ではない」総合書評的時代相レクチャー。氏のスマートな脱色的時代対応の姿勢が良く出ていて興味深かった。第二回も超満員の聴衆が集った。

 二〇時過終了。懇親会の後、料理屋で談笑。伊藤毅先生の元気な姿に再会し、嬉しさこの上なし。お互いに年をとると何やかんや色々な事が起きるのは自然な事であるから、年を経る事自体の有難味を共有する事になるのであろう。二十二時半頃迄さんざめく。二十三時半世田谷村に戻る。

 五月三〇日
 六時過起床。寒い。昨夜の五十嵐太郎氏の講義に感じた居場所の無い感じというか、アイデンティティの無いアイデンティティ(それを彼は脱色性と自分で呼んだのだけれど)の素を少し考えてみたくて、藤本壮介氏より送られてきた「原初的な未来の建築」( INAX 出版)のページを捲った。伊東豊雄の「弱い建築からの脱皮」、五十嵐太郎「直角のない幾何学」、藤森照信との対談「人工の建築、自然の建築」を読んだ。藤森照信の発言に心惹かれた。というよりも刺激を受けた。藤森のイサム・ノグチの庭園(自邸の)への注視は、私が視ているモノと同じかも知れぬし、チョッと違うのかもしれぬが、ほぼ同角度の視野であると痛感した。

 五十嵐太郎の視線はここでも彼の言う、脱色されているのが特色であるのが昨夜のレクチャーを介してその相対的な意味を理解できた。 パリ生まれだったかな五十嵐太郎は。ソウル生まれの伊東、北海道生まれの藤本と、彼等に通じる脱場所性とでも言うべきか、非現実と現実の境界での浮遊状態への希求とでも言うべきは、故郷(集団的無意識)への距離感の脱色性から来ているのかも知れない。

 昨夜私は五十嵐太郎の「居処の無さ」と不用意な発言をしてしまったのだが、その不用意さをもう少し用意周到に言い直したい。

 八時木本一之氏からの通信を見る。ざくろの小径の街灯は着々と進行している様だ。私の方も一層頑張る。

 R039
 五月二十八日
 十時半安藤忠雄講演会。氏の短い紹介をする。超満員の観客であった。相も変わらぬ人気だ。千人位の聴衆だったか。他の建築家とは桁外れの集客力である。十二時過修了。十三時研究室小ミーティング。十四時三〇分演習G、北園先生、渡邊先生の映像レクチャー。私の映像レクチャーは色について。学生の発表は二つ程見るべきものがあったのが収穫。十八時迄。

 その後研究室打合わせ。十九時近江屋で先生方と一服。楽しい一服であったが、何も刺激はなし。身内の会合は控えようかといぶかしむ。二十一時新宿発烏山へ。世田谷村に二十一時半戻る。

 五月二十九日
 四時起床。

大橋富夫写真集「屋根の記憶 - 日本の民家」彰国社

 大橋富夫の「屋根の記憶」は二川幸夫の「日本の民家」以来、久し振りの民家の造形の妙を知らしめる美本である。座右の書とされたい。
 二川幸夫の「日本の民家」が同様に日本全域の民家を内部も含めて美の対象ととらえているのに比して、大橋富夫の「屋根の記憶」は外の、民家の象徴でもある屋根の造形を記録したものである。その点に時代の流れ、日本の現代の歴史の酷薄さも感じられる。良く、今の時代にこれ程迄に民家の美が残されていたものだ、とその点に先ず驚くのである。

 恐らく、この本は最期の民家の美の記録となるであろう。それだけでも是非入手されたい。貴重である。

 大橋富夫さんには若い頃から大変お世話になり続けた。最近ではカンボジア迄行っていただき、プノンペンの「ひろしまハウス」を撮っていただいた(住宅建築 6 月号)。「ひろしまハウス」はGAの二川幸夫にも撮ってもらった。
 二人の写真家の「ひろしまハウス」を見比べて、その余りの違いに感動してしまったのだった。
 たとえて言うならば二川幸夫の写真は建築の中枢の価値を射抜く風があり、大橋のそれは人間の生活の表象としての民家の美を記録しようとしている。

 二川幸夫は建築を建築の自律的価値として見抜き、大橋富夫は建築を文化の反映としてとらえる。
 「ひろしまハウス」の写真の違いは恐るべきものであったが、この「日本の民家」と「屋根の記憶」の違いにも驚かされる。写真論としても誰か論じてみたらいかがか。凡百の雑本を読み捨てるよりも余程の価値があろう。

 大橋富夫は今、中国の民家を撮り続けているようだ。二川幸夫も、世界の集落を撮っていると聞く。共に時間との闘いの最中に在るのではないか。人間が愛情を持って作り続けてきた建築、民家共に失われつつある。かつて山田洋次氏から「フーテンの寅のロケハンするのは本当に難しいのです。渥美清さんが年を取ってゆく、その困難さ以上に日本の風景がコワレてゆき続けています」と聞いた事がある。
 同様な問題が世界中に起きていて、特に、とりわけ日本ではそれがもうなす術もない程にすすみ過ぎている。

 只今五時十分、眠くなった、一旦休み再考する。

 七時四十五分再起床。大橋富夫の写真集に再び見入る。こういう良質な、時間をかけた写真集は特に若い世代に体験して欲しい。モノクロ写真の凄さと共に実物の中に在る人間の愛情を感じてもらいたい。

 「屋根の記憶」を見ていて、かつて日本の山岳寺院の本をまとめてみたいと考えていた事を思い出した。中国の四川大地震を映像で体験して今更ながら日本が山国であり、複雑な地形そのものが危うい地層によるものであることを再認識する事が出来た。我々の先祖が色濃く所有していたアニミズム的心性が自然に対する恐れから発生したものであるのは間違いがない。地震、津波、台風、火山の噴火に対する恐れがアニミズムの素なのだろう。
 民家の屋根に表れている美の中心もアニミズムだろう。天空に、自然に祈る気持が造形されている。大橋富夫の写真はそれを良く表現し続けたのである。

 現代の民家(住宅)にはその一切がない。恐らく将来かく如きの愛情を込めた記録者、写真家は出現し得ぬだろう。最期の民家の美本であると決めつける由縁である。

 R038
 五月二十七日
 三時過目覚めてしまう。昨夕は並木さんと琉球泡盛をいささか飲んだので帰宅後すぐに眠りこける。チョッと読書して又、すぐ眠りにつく。八時再起床。九時半発。学部住居論講義へ。

 十一時半迄講義、十二時過小試験。その後小休。十五時半TVプロダクションD氏来室、四十五分番組を作る事になったのでその打合わせ。十六時世田美N、M両氏参加。修了後、展示のディテールをつめる。十八時迄。近江屋で一服して世田谷村に二〇時戻る。

 五月二十八日
 五時起床。
 折角ここ迄やったのだから、展覧会を沢山の人に見てもらいたいと切望しているのだが、地道に宣伝するしか無いかと考えてはいた。しかし、ここに来てTV番組製作の話しがリアライズされたので、もうひと踏んばりしなくてはならない。
 ドキュメンタルなものにしたいとの製作者の意向が強いので、私の日常の生活、制作、コミュニケーションの仕方等の映像公開も必要となる。プノンペンの「ひろしまハウス」にも行かなくてはならぬだろうし、浅草の人達とのやり取りも、月光ハウスも、不可欠だろうと思われる。

 しかし、考えようでは良い時期に映像記録が残せる事になったので幸運である。カタログ製作にかけたエネルギーと同様な体力が必要となるのは目に見えているのだが、ここは踏んばり処だ。これ迄力になってくれた人達のためにも踏んばりたい。でも、本当にブッ倒れぬようにしなくてはと、切実ではある。体力がおとろえている事の自覚が先ず第一だが、自覚してどうすれば良いのか、基礎エネルギーは減少しつつあるのだから、出力を減らすしかないか。つまり無駄な事はしないという事か。無駄にも色々な世界があるからなあ。

 今朝は休もうと思っていたが、安藤忠雄先生の特別講義があるので、九時半には発たねばならない。六時十五分再び眠ろうとする。八時再起床。九時半発。

 R037
 五月二十六日
 十一時研究室野村打合わせ。十三時発十四時世田谷村に戻り、渡辺と油壺ヨットハーバー月光ハウスへ。十五時半月光ハウス。N氏と打合わせ。テラスでヨットハーバーを眺めながら気持の良い時を過す。十七時過発、世田谷村に戻る。

 五月二十七日
 三時過目覚めてしまう。昨夕はNさんと琉球泡盛をいささか飲んだので帰宅後すぐに眠りこける。チョッと読書して又、すぐ眠りにつく。八時再起床。九時半発。学部住居論講義へ。

 R036
 五月二十三日
 十時四〇分院レクチァー、アルヴァ・アールトの自邸を中心に。これでル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ、アールトと三巨匠に一応触れた。院生の知的水準を知りたくて抜き打ちの試験を十一時三〇分より、十二時迄。すぐ答案を読む。学部レベルの知性から抜け出している者は少ないように思うが、一人良いのが居た。

 十五時過世田谷美術館N氏来室。カタログの為のドローイングのキャプション打ち作業。十八時稲門建築会総会。村松映一会長以下OBの面々にお目にかかる。年とともにこの会の重要さを実感する。尾島先生に久し振りにお目にかかった。血色も良く、体も少しふっくらとして万事好しの風があった。大学を教師として卒業されると、こんなに健康になれるのかと、キリキリとうらやましかった。本当に、今の時代の建築学科教師は地獄だよ。

 岡部憲明氏の講演を拝聴する。小田急ロマンスカー車輛の設計の話しがとても良かった。しかしながら、ハイテクの潮流もここまでゆくと、建築の非技術的価値が浮き彫りにされるなと痛感する。建築は古い、とこしえに古い存在様式の中に在る宿命も持つのだと思う。しかし、良い仕事をされているなと思う事仕切りであった。

 稲門建築会総会の特別賞にシンガーソングライターの小田和正さんが受賞され、絶妙なスピーチをされた。東北大から早稲田に来られて、藤森照信とは同級生だったとの事。面白い人物はやっぱり同時期に出るんだな。

 二十三時世田谷村に戻る。

 五月二十四日
 六時半起床。木本一之さんからのFAXに返信。厚生館愛児園から依頼されたざくろの小径の街灯の、製作が昨日から開始されたようだ。木本さんの作る喜びがヒシヒシと伝わってくる。やっぱり、一番ハッキリと解り合っている葉の部分から作り始めたようだ。今日からコークス炉に火を入れて葉をたたき始めるという。面白いだろうな。山里の工房で独人で製作に没頭できるなんて、鉄をガンガンとたたいている音が聴こえてくる気がするな。

 アト、一ヶ月を切ったな。最後のプロジェクトとでも言うべきを、考える。コレをエントランス・ロビーにセットできればこれで良し。十六時二〇分世田谷村を発ち、新百合ケ丘へ。厚生館第二愛児園主催での厚生館グループの新人歓迎会に呼ばれた。厚生館グループは今や四つの園を有し、地域の育児支援の要である。

 十八時過パーティー始まる。石川県よりタイ他取り寄せられ、美味な食であった。二十一時過迄楽しむ。厚生館グループ保育の先生達総勢百名以上による、様々な音楽演奏等が繰り拡げられる。仲々のモノであった。先生方がこれ程迄にまとまっている現実は大変な事だ。

 終了後、K理事と雨の中立ち話しして新宿へ戻る。厚生館の新しいプロジェクトは是非共まとめたい。意欲がメラメラと燃え上る。

 K理事長より、ざくろの小径計画に鬼子母神を附け加えるようにと言われる。鬼子母神は左手にざくろを持つ女神だと言うのだが、その図像は未見である。グレート・マザーだよね、鬼子母神は、そんなおっかない神様を具象化出来るのかな。難題を抱え込んだな。

 二十二時過新宿。二十三時前雨の中を世田谷村に戻る。

 五月二十五日 日曜日

ツタンカーメン・ミイラ・エンドウ再生品来る

 七時過起床。世田谷奥沢のKさんより、美しい箱に入ったドライフラワーならぬドライ・エンドウを送っていただいた。何と三千五百年前のツタンカーメン王の棺から発見されたエンドウが再発芽して、密かに世の中に出廻っているようで、私のところにもそれがおすそ分けされたのであった。

 そうか、ツタンカーメンの棺にいた、エンドウの生きたミイラなのかと見れば、良く生き返ったなと感無量である。再発芽の由来、詳細は知らぬが、三千五百年の時を経たモノ、しかもエジプトの王家の谷に封印されていたモノが今世田谷村に送られてくるという事が嬉しい。このツタンカーメンのエンドウが無事に芽を出し、花を咲かせたら、ここは世田谷村ではなくて、王家の谷ツタンカーメン東アジア支局世田谷第X分室になるのである。

 Kさんのおすそ分けは、これはマルセル・デュシャンの芸術もどきよりも、ズーッと芸術なのではなかろうか。Kさんからは以前、見事なスケッチ入りの葉書きもいただいており、私のドローイングよりもこれは上手いなと恐れ入っていたのであり、それは今世田谷村では宮脇愛子、山口勝弘のドローイング(ペインティング)に並べて楽しんでいた。早速この件は宮脇、山口両氏にお伝えしなくてはならないな。

 ウチもツタンカーメン、エンドウを無事育成できたら、友人諸氏におすそ分けできると良いな。

 ゆっくりと午後一杯ドローイング他を続ける。このWORKは一日中同じペースでは続けられない。自動的に出来るものじゃない。写真家の大橋富夫さんより連絡いただく。住宅建築6月号では大橋さんの写真に助けられた。この号には建築メディアに久し振りに良いエッセイを書いた。ひろしまハウス、幻庵、開拓者の家、川合邸をつなぐ小論ともなっている。

 夜TV朝日の中国四川大地震報道特集を見る。今更言うのもおこがましいが、かくの如きの災害に余りにも我々は無力である。中国の被災者は総数五千万人と言われる。日本の人口のほぼ半分である。しかし資本主義社会、大量消費社会の無為と、人間の馬鹿さ加減は痛烈だな。四川省の人々の残酷としか言い様の無い映像と共にCMは当然流され続けるし、他のお笑い馬鹿番組も垂れ流され続けている。私もそれに麻痺している。東京、つまり世田谷村だって、研究室だって、その他何処でもいつどんな事態が到来するのかは予測もつかぬが、今日、明日にやってくる確率はかなり高いと言われているし、私もそう思う。阪神淡路大震災の体験を我々はキチンと生かし得ているのかな。私だって世田谷村に居る時に大地震が来たら、これは自信を持って大丈夫と言えるのだが、他の場所では一切不明だな。

 五月二十六日

展覧会以降

 七時半起床。展覧会以降のプロジェクトの構想に想いをはせる。ここ一年は世田美展「建築がみる夢」の十二のプロジェクトを中心に現実と未来を交差させてきた。十二のプロジェクトはすでに作り始めているものを含めて、全力を投じて実現への努力を惜しまぬが、更に新しいモノにも取組みたい。

 昨日は一日外出もせず世田谷村で過ごした。幸いウチは歩き廻る処が多いので陰気になったり、落ち込んだりは無いのだが、やはり時には休養が必要な年令になっているのは自覚せざるを得ない。まったくやりたい事が山程あるのに人生は有限なのだから、エネルギーの投入の仕方をデザインしなくてはならない。

 世田美展の作業をほぼ一年続けてやった。自分の今の力量は目一杯表現してしまった。十二のプロジェクト、友人達の力を得たカタログ本の双方にそれは表れている筈だ。しかし、奇妙な事も又起きてしまった。ドローイング、銅版画の数々の将来である。画家、版画家になろうというわけではない。でも建築家であるという自覚も無い。版画やドローイングは日常の生活から必然として生み出されてきたものだ。展覧会には五百点程のドローイングが出展される。模型は二〇点弱だから数としては多い。銅版は三十二点製作したが展示は十九点になった。このドローイング、版画の行末を考えたい。

 R035
 五月二十二日
 九時三〇分新宿駅で吉田さんに山口勝弘氏からの資料を手渡す。世田美準備録は面白くなりそうだぞ。十時過のやまびこで、東北大学生十四名のエスキスを全て見る。予想していたよりも皆ズーッと自由でのびのびとした発想をしている。終わってしまっている計画学的なアプローチのものは少ないのが良い。これを何処まで膨らませ得るかが、ウデの見せ所だろう。数名の人材は発見したい。

 十二時前福島。十四名のエスキスは全て把握できた。クリティーク指導の順序、組合わせも大方を決めたが坂口先生の意見も聞かねばならない。早稲田と違って人数が少ないと教師は全員を把握できるだろうが、全く、うらやましい限りだ。

 十三時設計製図、全員模型を作っていて、仲々の水準である。総体的な印象はとても清新であった。どうしても早稲田の学生と比較してしまうのは仕方ない事であるが、悪ズレしてないのが良い。情報まみれになっていないので、押せばスーッとのびてゆく可能性がある。素直なのだ。
 何人かの学生にはとても良い資質を感じた。意外であった。全く、早稲田建築の教師達は危機感を持つべきだ。デジタル系のスタディが少なく、アナログなトレーニングを積んでいるのも大変良い。初心者ののびしろはこれに尽きるのだ。十七時修了。十四名全ての顔と製作物を覚えたので、何処までのびるのかのばせるのか楽しみである。

 キャンパスを案内してもらい、バスで市内へ。十八時先生方と会食へ。二十一時過の新幹線で東京へ。二十四時過世田谷村に戻る。

 五月二十三日
 流石に疲れた。七時起床。ボーッとしながらメモを記す。東北大の建築学生に新鮮さを感じたのは何故なんだろうと、考える。東大の学生達にも感じたものであるが、やはり誠実さだろうな。早稲田建築学生にほとんど野性、本能、嗅覚といったものが感じられなくなったのは、私の方の問題なのかも知れないが、かなり本質的な難問を抱えているのは間違いがない。今朝の院の講義で学生の空気を冷徹に比較してみよう。何か違うよ明らかに。

 R034
 五月二十二日
 昨日は平々凡々たる一日であった。演習Gの若い先生二人のレクチャーもかんばしいものではなかったし、何も得るものは無かった。教師はもっと緊張して自己研鑽しなくてはならない。学生がいまひとつのレベルでも教師はキチンと全力を尽くしたいと、申したい。私は今や、学生に対してというよりも若い先生達の水準に対して異をとなえているが如きだな。
 設計の教師はもっと勉強しろと申し上げたい。君達が学生のレベルを作っているのだ。

 山口勝弘先生から沢山のマテリアルが送附されてくる。八〇才不動明王となったアバンギャルドからのメッセージは胸にひびき過ぎる。

 磯崎新より私の今回の展覧会を期に出版する本の帯原稿が送られてくる。帯原稿というよりも、コメントだなこれは。磯崎新は小堀遠州と俊乗坊重源の間を張りつめているタイトロープを渡って居る人間だし、ブルネレスキとデュラーの距離の中に存在する人物だ。今回の展覧会では、鈴木博之の論と磯崎新のコメントは必需だと考えていたので、左右両翼そろって完璧になった。

 しかし、本気で取り組む展覧会は本当にエネルギーを消耗する。

 深夜、何をするでもなく起きてしまう。山口勝弘先生からの便りと資料を再読する。六時起床、木本さんからのFAXに応信する。今日は東北大の四年生の設計製図を見る為に仙台に行く。他校の高学年生の設計製図に接するのはとても楽しみである。メールで資料を送っていただいてはいたが、顔と作品がまだ一致していないので、クリティークは出来なかった。やっぱり5分でも話しを聞いて本人の眼の光や、話し振り、かもし出す空気の如きを感得しなくては設計製図のクリティークは出来ない。

 山口勝弘不動明王の「 Four Virtual Projects 」二〇〇七年イマジナリュウムと題された小論を読むと、先生はすでにわたしの「建築がみる夢」展を予言されていたようにさえ思える位であった。山口勝弘は言う。

 「私は一九〇〇年代にイマジナリュウムと呼ぶ計画を発表して来ましたが、今回の想像上のプロジェクトもまた、計画と実現の間に多くの困難が予想されます。そこで私は仮想プロジェクトとして発表する方法をとることにしたのは、人々に私の夢を見て貰いたかったのです。つまり私の夢を見て貰うことを選んだのです。そもそも芸術作品には束の間の夢から始まる場合があります。こういう夢の共有、もしくは共犯者、所有者になるのも芸術の存在性、仮想性である。つまり想像力を媒介とするため芸術と呼ぶことが許されるのでしょう・・・」

 つまり、私の「建築がみる夢」展の基本が二〇〇七年に山口によって書かれていたと、読んだのである。驚いた。磯崎新はその夢をアポカリプスと仮定しつつ、「すべてが喩えのなかに封じ込められたまま、異形の隊列がはじまる」と言う。

 そうなのだ、磯崎の言う如くに<建築>は座礁した。その座礁船から生きのびようとする手だての如くを私は「建築がみる夢」と呼んだのである。
 世界には先行者らしきが、どうやら居る。それを認めるのは辛いものではあるが、明らかに二人の言そのものが、私の先を歩いている事を明らかにしてしまっている。
 実に面白いな。この展覧会は成功するであろう。

 七時半、メモを記し、八時山口勝弘に連絡し、送っていただいたモノの公開の許しを得たいと思うも、部屋には不在であった。九時二〇分に新宿で吉田に資料を渡し、東京発十時過のやまびこで仙台に向う。

 R033
 五月二〇日
 十時四〇分学部レクチャー。十二時過ミーティング。十三時過美術誌アート・トップインタビュー。十四時半研究室発。十五時半西調布N先生。十七時前京王稲田堤星の子愛児園N社長打合わせ。

 今日は一日体調悪し。と言っても右肩が気持悪い程痛いだけ。内から来ている痛さでは無いとは思うが、肩が痛いだけで考える事がしぼみ気味になるところが実に情けないのである。

 五月二十一日
 六時半起床。広島の木本さんから昨日届いていたスケッチのFAXに手を入れて七時半送り返す。今日の昼過から展覧会の展示用のザクロの制作に入るそうだ。
 メタルはまだまだ可能性に溢れ返っている。木本さんの能力を最大限に引出せたら、大変なモノが出来るのではないかと、私も力を入れている。スケッチWORKを続ける

 R032
 五月十九日
 十時世田谷美術館。カタログ模型撮影立ち会い。及び館内で原稿書き。十七時半迄。全てのモデルを美術館に運び込む。
 カタログのマテリアルは何とかなりそうだ。あとは仕上げだ。最後迄気を抜かずにやる。
 今日は、第二室の渡真利島月光 TIDA 計画の扇形の室に問題ありと思われたので、現場を見て最終チェック。

 横尾忠則展を見て廻る。横尾忠則さんの展覧会は充実していた。とてもカラフルでバリエーションもあり、あきさせない。負けてはおられんぞと、勝手に気合いを入れたのであった。横尾忠則展のカタログを持ち帰り自分のそれと仮想上見比べた。仕上げ次第で何とかなりそうだ。

 五月二〇日
 展覧会というものがこんなに疲れるものとは初めて知った。ヴェネチアもロンドンも一人の展覧会ではなく、磯崎新がいたし、仲間がいた。今度も研究室の面々が精力的に支えてくれているけれど、最終的な判断は皆一人でやらなくてはならない。

 若いうちから、展覧会はこんな風に全力を尽しておれば良かったと、後悔するもすでに遅しかな。しかし、ギリギリに滑り込んだ感もある。七時起床してそんな事を考えている。

 要するに、アーティスト、表現者を小馬鹿にし過ぎていた。若い頃から磯崎新に接していながら、彼がアート、及びアーティストに深い関心を寄せ続けてきた、その事自体にもっと注意を払うべきであった。外は大荒れの暴風雨である。風速二〇m。

 R031
 五月十六日
 十時四〇分院レクチャー。ミース・ファン・デル・ローエ、バルセロナ・パビリオン。ミースのゲルマン的アニミズムについて。十二時世田谷美術館N氏来室。打ち合わせも大づめになってきた。磯崎新氏に二分冊のカタログの物語・プロジェクト編の帯の小文・リードを依頼する。馬場昭道氏来室、展覧会チケットを購入してくれた。N氏と初対面となった。

 N氏、私の展覧会の担当者として、石山論を書き上げて、読ませてもらった。正面から私を論じていただいた。忘れがちにならざるを得ない初心とも言うべきを痛切に思い出させてもいただいた。批評の力である。

 身体がだるく、十六時半研究室を発ち、世田谷村へ。きつかったが、幾つか仕事をすませて、早めに休む。明日は鬼沼に出掛ける。

 五月十七日
 六時起床。ゆっくりゆっくり、画用紙、カバン、クレヨン等を整える。展覧会のポスター、ちらしもT社長用に用意する。セールスマンだなコレワ。しかし、照れてる場合ではない。八時過世田谷村発。九時過東京駅。

 T社長と我々4名で郡山より猪苗代鬼沼現場へ。車中で諸々の打合わせ続行。アッという間に郡山着。車で現場へ。途中昼食をいつもの美味なるソバ屋ではなく、かつて一度寄った事のある超大盛り食堂へ。人間というのは馬鹿な者でいわゆる恐いもの見たさなんである。

 大盛りネギラーメン、タンメン、カレーライス、焼肉定食、4品をたのみ、小皿、小鉢を多く持ってきてもらい、シェアーする。全て、背中に油汗がタラーリ、タラーリと流れ落ちる位の量である。恐怖の極みである。大盛りネギラーメンの鉢などはほとんどバケツ状態である。恐らく猪苗代湖の大きさが食堂経営者のイメージをかり立てて、この異常な状況を作り出したものと予測する。

 店内は、近くの集落の家族連ればかりではなく、おじいさん、おばあちゃん。そして工事関係者らしきで満員なのである。工事関係者は何とか理解できるのである。大昔に謂わゆる「ドカベン」の呼称があったように、体を動かして働く人間達は量を求め続けざるを得ない。しかし、小さな子供達を引連れた家族、老人達はどうなのかと言う事になる。猪苗代湖畔の人々は皆大食であるという事はなかろう。そこでハタとヒザを打つのであった。我々がシェアーし合った如くに彼等も又、シェアーしているのに違いないと。小さな子供や老人達がまともに、この食堂の豪快てんこ盛りを食べ切れぬ事は誰の目にも明らかである。それ故に、この周辺の人々はここをシェアー食堂、終業食堂として賢明にも利用しているのではないか。つまり、ここは(名は秘す)現代の食堂としては最先端の使われ方をしているのだ。

 我々も黙々と取り換え合い、協力し合って、なんとも呼べぬ食事を続けた。カレーライス、味噌汁、おしんこの群、豚焼肉の山、キャベツみじん切り、トマト、ライス、ライス、ライス(定食のライスのボリュームは三人分に別けてもまだ多いのだ)。そして、ネギラーメン、タンメン。これ等を等分にミックスされたもの、すなわち、中華風和風定食様式とでも呼ぶべきものなのであった。
 T社長も汗をかきながら食べた。私も又、そして非常に疲れた。こういう食べ方は今の年令には決して合ってはいない。

 食事をそれでも無事に終え、我々は無口に現場に向った。山々の緑が美しかった。現場で担当者と打合わせ。時の谷の、中央ホール(蝸牛劇場・アンモナイト劇場)打合わせ。

 途中、私は一人抜けて前進基地内で、一人スケッチする。前進基地の囲炉裏フードのデザインを決める。良いアイデアが出た。

 その後皆と再合流して、果樹園の土地に初めて奥深く踏み入る。T社長はすでに一人で前進基地の周囲に畑を作っている。私も世田谷で小じんまりとやっているのでその気持ちは良く解るのだ。畑はいい。

 素晴しい夕景を背に、鬼沼を去る。隣りの土地ではすでにビオトープの池や田も作られていて、ここは面白い可能性のフィールドになるのかも知れないぞ。

 帰途、昼食の量に対して、やはり質も大事だと話し合い、いつもの美味なソバ屋に立ち寄るも、何とすでに閉店していた。ああと、天を仰ぐ。あきらめ切れずに、ソバ屋を探せという事になり、一つ寄ってみたが、ダメであった。やはり一つの地方には一つのソバ屋なんだな。

 帰りの新幹線では皆、疲れて眠って帰った。二十二時世田谷村に戻る。

 五月十八日 日曜日
 今日は休むつもり。昨日のメモを記す。昨日、猪苗代で買い求めた種についていささか黙考する。といってもボーッとしてるだけ。「ざくろの小径」スケッチ。広島の木本君とやり取り。写真をとって、十七時休息とする。
 本を五冊とばし読み。十九時半馬場昭道さんよりデッカイトマト一箱届く。食べて元気つけよう。

 R030
 五月十五日
 十三時教室会議。何だか悪い方に向かっていくような気がするな。研究室では数点のモデルがほぼ完成しつつある。良くやってくれたと思う。でも最後迄手を抜かずにやろう。十九時半世田谷村。

 五月十六日
 五時過起床。新聞を読んで、再び横になる。七時半再起床。中国四川大地震は次第に被害状態が明らかになってきた。死者は五万人を超えると書かれている。あと三ヶ月程で北京オリンピックである。統制されているとは言え、オリンピックの北京と災害の四川の落差は中国人民に明らかになってゆくのではないか。

 李祖原の西安の大寺院建設は順調なのだろうか。高さ 200m 長さ 2km 程のもので、中国国宝一号の仏陀の指を納める舎利を中に持つ。彼程に強い建築家を世界に知らぬが、その強さはアントニオ・ガウディがカソリックの信仰に生きていた如くに、仏教への傾倒(信仰とは言わぬ)から来ているようだ、と気付き始めた。李祖原は北京オリンピック会場西に北京モルガンセンター(旧名)をほぼ完成させたが、あのグレート・ウォールは中国人民の眼にどんな風に写るのか、といささか不安になるが、彼が最後迄中国スタイルを貫いたのが今になって、彼を救うかも知れない。六本木ヒルズみたいのを建てていたら、大ピンチになっていただろうな。

 西安の大寺院は彼の王道の結晶である。これが完成すると、彼は三つのモニュメントを得る事になる。台北101、北京モルガン、西安大寺院.I・M・ペイとは全く違うスタイルで中国人を代表する建築家になるだろう。大きな歴史をまざまざと視ている気がする。

 R029
 五月十四日
 十四時研究室。模型チェック。十四時四〇分演習G教師陣の提供した映像が面白かった。学生も少し乗ってきたか。再び模型チェック。近江屋で一服して世田谷村に戻る。

 五月十五日
 朝、山口勝弘先生より便りがきたので返信をしたためる。美術館の銅版画の小部屋の前に実験室を設けるつもりなのだが、その名前について先生と相談する予定。
 我孫子の馬場昭道和尚より、明日までに世田美の入場券一〇〇枚用意するようにと厳命される。「頑張らなきゃいかんぜ」とハッパも掛けられる。疲れたなんて言ってられないのだが、チョッとヘトヘト気味である。自分で入場券売り歩くかと、展示の内容には自信を持てる迄に仕上がりつつあるので、出来るだけ多くの人に来場していただきたい。展示の総体を作品として見立てるならば、これ迄の私の作品では一番良いし、力もあると信じる。李祖原も中国から来てくれるとの事で嬉しい。北京モルガン・オーナー郭氏も都合次第で来日を要請したい。

 しかし、中国は今、国難というに近い状態である。「大丈夫か」と昨日、尋ねたら「大変な困難の最中だが、ノープロブレムだ」と相変わらずだ。彼等は強い。まことに強い。マア、あの二人は特別なのだろうが、特別なのに会ってしまった、自分の弱さが身にしみるぜ、全く。

 R028
 五月十三日
 九時四十五分研究室。モデルチェック。十時四〇分学部二年レクチャー。十二時再びモデルチェックと指示、十三時長井さん来室。インタビュー。中国のコンペ案について話す。その後再びチェック&指示。対応能力に個人差があってその計算が難しい。しかし幾たりかは確実に才質をのばしているようだ。十六時過指示を終えて去る。

 朝昼食共に抜いていたので近江屋で一人キシメンを食す。中国大地震の報道を知る。いささか予知能力らしきがあるのかも知れぬ知り合いのN先生が近々、東京又は中国で大地震があると予言していたのはコレだったかと。しかし、予言では秋だとされていたので、様々に不明な未来ではある。しかし、東京は大地震間近だと、予知能力の全くない私でも予感するなあ。何とか生き延びたい。

 中国ブン川地震の被害は想像を絶するものがある。先年訪れた成都の石積みのギャラリーも無事なのだろうかと、いぶかしむばかりだ。北京から成都までの距離は約千 km である。中国は歴史的に内陸部から沿岸部へと経済発展が移動してきた。内陸部は急速な経済発展から取り残されてきた嫌いがある。長安(西安)から中国の中心が移動した歴史がそれを歴然と示している。

 今度の巨大な災害は典型的な内陸部で起きた。その中国の歴史への打撃であった事は間違いがない。
 そんなことはとも角、夕方、中国で開発事業に乗り出した友人F地所、T氏に電話したら、無事であった。ホッとした。知り合いが、世界中に飛んでいるので、それだけ危険に出会う確率も大きい。人生も厳しくなった。しかし、T氏は勇気と根性共にあるな。日本に居ればF地所の副社長であったのに、それをかなぐり捨てて、新天地中国に乗り込んだのである。流石、慶応大学ラグビー部中興の祖と言われるだけの事はある。そんな事はともかく、なにしろT氏は無事であった。二〇時それがわかった。

 五月十四日
 五時半起床。新聞で中国大地震の件読んで、再び眠る。天災は忘れた頃にやってくるとは古い伝えであるが、現代は予測・憶測しているのにやってくるきらいがある。八時半再起床。電脳化石神殿について準備日誌に記す。ようやく銅版画の座りどころがしっかりしてきた。面白いので超高価な本にしてみたい。

 R027
 五月十二日
 十一時半研究室。模型チェック。まだ慣れぬ院生の安易な仕事振りに怒る。しかしながら、まともに怒られている奴はまだましなんだな。姿を見せないのもいるからな。レベルは本当に、底が抜けたのかも知らん。十三時輿石研との合同ゼミ。話しにもならないレベルで又も怒る。一人で怒っていても仕方ないのだがキチンとしたいのだ。

 加藤先生と遅い昼食をとって、そのまま帰る。連日書いて、高揚していたのだろう精神が、それでヒモが切れてズルズルの学生達に失望したのだろう。まだ若い世代に期待しようとしている俺が阿呆なんだろうな。

 十九時世田谷村に戻り、「ときの忘れもの」ギャラリーに預けた版画三十二点の新作のネーミングにとりかかる。この作業は面白い。頭を使うからね。無い頭でも使わねばならぬ時は動こうとするから、それで面白いのだ。

 五月十三日
 面白い筈の版画のネーミングに意外に手間取って、午前二時起きてテーブルに向かうも、何もすすまない。彫りたいものを自由に彫っていたツケが今来ているようだ。人間の脳内風景は決して連続していないのを知る。少くとも自分の場合は。三十二点のうち一点が決まればあとは楽なんだが。

 三時過完了。電脳化石神殿探訪記の枠組で全てを命名する。もう一組は砧山石山寺縁起とした。深夜の雨降り続く。三時二〇分横になる。

 七時過起床。寒い。命名を修正。八時二〇分。銅版画解説も書き直してみる。世田谷美術館へ送附。九時世田谷村発。研究室へ。

 R026
 五月十日
 十一時研究室ミーティング。十五時迄。十七時迄世田美N、M両氏の作業を見守る。ここ迄やってもらって、一人去るわけにはいかない。その後、いささかの会食を共にして、労をねぎらう。

 五月十一日 日曜日
 早朝より深夜迄原稿を書く。出来ないだろうと思ってやり始めた、プロジェクト全解説を書き切る。又、物語りの一部の続きを書き終えた。やはり疲れ切って眠りにつく。

 五月十二日
 五時過起床。無理のあった稿の書き直しと書き加え続行。八時前迄。ほぼ完了する。二分册となる展覧会カタログのほぼ全て、私が書かねばならぬ分は書き終えたように思う。まだ若干の修正、不満足な部分はあるが大枠は修了したと言って良い。ホッとして朝風呂に入り、今日はゆったりとする。しかし頭は疲れ切っていて、返って休めない。
 八時半再びWORK。行けるところ迄行く。
 九時過、全てのWORKを終える。とり敢えずは上手くいったと思う。明日になれば解らないけれど、今はもうのばさぬ方がよい。

 R025
 五月八日
 夕方、新宿でI君と会う。佐賀での早稲田バウハウススクールの学生であった。三十六才になっていて、本格的に建築の勉強をやり直したいという。こういう相談にはキチンと応えた方が良い。人生は不可能性に満ちている。非常に困難であろうと言った。

 年令が問題なのではない。話しが余りにもプリミティブ過ぎるのである。純朴過ぎる。しかしながら、門前払いは出来ない。キチンと礼を尽して会いに来ている。時々、休日に研究室ミーティングやるから、それに何回か参加してみたらと提案した。

 八時半、芸術学校長鈴木了二先生と「映像ゼミ」の定例打合わせ。第一回のゼミは参加人員が多過ぎて、中身がうすくなってしまった感もあり、第二回目はもう少し中身も参加者のレベルも上げないといけないな、と話し合う。次回は五月二十七日夜に開催すると決めた。

 帰りの京王線車中で、立ちながら原稿書く。フラついていて、しかし良く書けた我ながら。もう文字書きはイヤなのに、その筈なのに、意外とそうではないのかも知れない。

 五月九日
 六時起床。又、原稿を書く。仲々今日はのれない。もう二百枚は突破している筈だから、どこでどうやめるのかを考えなくてはならない。あんまり、気分がのらないので朝ブロに二回もつかってしまった。勿論、何の効果もなくただ、だるくなっただけである。バカだ。仕方ネェバカだ。

 R024
 五月七日
 十二時半、京王稲田堤星の子愛児園へ。園長先生にお目にかかり、メンテナンスの件打合わせ。子育て支援の大変な困難さの現場の話しなどをうかがう。大学の現場も危機的であるが、保育園も同じなのだ。特に両親の問題が大き過ぎて困難さに目もくらみそうだと言われた。

 本当だよ。日本の将来は教育、子育ての現場から崩壊し始めていると思うな。十三時半過修了。十四時半研究室。

 演習G十七時半迄。浅草Iさん来室。会食。

 五月八日
 昨夜はIさんと楽しく過ごした。人柄が大きいな。浅草仲見世生え抜きの代々が育てた人材であろう。今日中に世田谷美術館カタログ原稿書き上げてしまうつもりなので、研究室とはFAXで連絡を取る。

 R023
 五月三日
 十一時研究室。打合わせ。十三時TVプロダクション打合わせ。十五時四〇分発、京王稲田堤へ。十七時前厚生館愛児園K理事長と久し振りにお目にかかる。「セルフビルド」さしあげたら、すでに買い求めて下さっていた。お買い求め第一号じゃないかな。

 K理事長からは星の子愛児園新築、厚生館増築の仕事を任せていただいているが、今度は「ざくろの小径」の計画をいただいた。又、大きな将来計画の話しを聞いて胸ふくらむ想いであった。
 愛児園の園庭はK理事長好みの樹木、果樹、植物棚で豊かに生い茂る状態になっていて、西の陽に輝いていた。世田谷村の生垣と良く似ている。果樹の多い分だけ、うちより良いかも知れない。と最近は我ながら生垣・庭園評論家の風あり、おかしい。

 近くの料理屋で食事。色々と話しをうかがう。ざくろの小径は広島の木本一之さんとのコラボレーションとなる。ざくろの小径と 天の川計画を対にして世田美の十二の物語りの一つにする事を決めた。二〇時過迄。お別れして稲田堤から烏山へ。二十一時過世田谷村に戻る。

 五月四日
 三時半起床。メモを記し、建築がみる夢 12 の物語りの原稿に取りかかる。書ける時に書いておかないと。五時いささか疲れて小休する。十二時過 16 枚書く。サスキア・サッセンの原稿届く。これで四名共全て原稿が届き、英訳・邦訳の作業に本格的に入れるだろう。

 五月五日
 昨日に続き、世田谷村から一歩も出ないで原稿書きに没頭する。夕方、すでに酩酊亭脩二状態の仙人山田から電話が入る。これは危ないなと思ったので速力を上げて、ようやく調子も上がり一本書き上げたところに、ピンポンであった。酩酊亭の檀那が、何とのこのこついてきたガキを二名連れてやってきてしまったのだった。
 先程あった電話でガキを連れてきそうな気配があったので、ガキはイヤですよ、世田谷村には入れませんよとキチンと宣告していたのにである。

 それでもなお、ガキを連れてくる酩酊亭山田が馬鹿なのか、ノコノコ、ついてきた。二人が本物のバカなのか、入口でガキだけはイヤだよと突き返した俺がバカなのかは知らぬ。
 いくら山田と言えども、見知らぬガキは絶対に家には入れないのだから。しかし、二人も良く渋谷からここ迄ついてきたよと、あきれる。世間は皆が皆そんなにサークル状態じゃないんだよ。呑み屋に寄るような気分で他人の家に来るな、とののしりたい。

 二人を門前払いして、上り込んだ酩酊亭と呑み始める。塩辛いモノばかり酒のつまみに持って来やがってと怒りをあらわにするが、酩酊亭はすでに迷酊しているので、おこっても仕方ないのであった。深夜二時頃まで何の話しをするでもなく、グデグデと呑んだのであった。

 五月六日 休日
 今日は連休の最終日だ。七時過、昨夜は終局世田谷村に泊り込んだ山田脩二と飲み始める。酩酊亭の檀那は朝から絶好調である。九時過、これから長崎へ行くという酩酊亭をかどまで送る。

 銘酊亭はこの呑みっ振りではいつ倒れてもおかしくないので、後ろ姿が消える迄見送った。これが今生の別れになるかも知れんからね。しかし、銘酊亭の顔色は朝から赤くつやも良く、まだとうぶん死にそうもない。困ったものである。

 十一時半迄、原稿書く。意外にはかどってもう一本仕上げた。空は五月晴れで、風もそよぎ、壮快きわまる。山田脩二も去り、実に晴れ晴れした気分なのである。断続的に二十三時迄書き続ける。疲れて寝た。

 五月七日
 七時起床。今朝、W氏に渡さなくてはならない版画二点にサインを入れる。再び原稿書き。九時半、「音の神殿」四〇枚を書き切る。

 R022
 五月二日
 十時四〇分大学院レクチャー。浄土寺浄土堂について。次回はラ・トゥーレットとする。十二時十分了。白井版画工房の白井氏来室。銅版画の試刷を見る。白井さんが色々と工夫して下さり、面白く仕上っていた。世田谷美術館での展覧会開催中に七月に一週間南青山のときの忘れものギャラリーで銅版画展を開催する事になった。今回の銅版画は我ながら面白いから是非足を運ばれたい。
 十四時世田谷美術館に依頼した宮古島計画の島の台到着。浅草計画の6m程の台も到着。大学に保管していたいくつもの大型モデルを美術館へ第一次搬出した。二つのフロアーを占拠して他研究室にだいぶめいわくをかけていたので、良かった。研究室ミィーティングの後、浅草へ。I社長夫妻にごあいさつの後、浅草花屋敷社長に面会。ごあいさつ。浅草おかみさんの会、会長にごあいさつ。I社長には首を引かれて観音様巡りの連日である。研究室ゼミ生達による仲見世商店街全店インタビューも三日間無事修了した。浅草の方々には御礼申し上げる。駒形どぜうで一服して世田谷村に戻る。
 浅草の方向性がはっきりしてきた。北京モルガンの体験がそうさせている。今度は素早く、手ぬかりもなく動けるだろう。

 五月三日 休日らしい
 七時過起床。メモを記す。中里和人写真の「セルフビルド」交通新聞社刊が少し遅れて三〇日位から書店に並び始めている筈だが、売れると良い。十時世田谷村発研究室へ。

 R021
 五月一日
 午前中杏林病院で定期検診、とりたてて悪いところはない模様。午後世田谷村で銅版画二点修正制作。何となく疲れる。というよりも非常にエネルギーを消耗してしまう。

 十八時過東大へ。少し遅れて、鈴木博之先生退官記念講義第一講に出席。途中いささかあわてたので息が切れた。難波先生克明な「建築の世紀末」に関するレクチャー。ほぼ一時間。いかにも難波先生らしい章立て毎の解説であった。しかしとても良いレクチャーであった。東大の階段教室には溢れ切らんばかりの若い聴衆で、その皆が理解できたかどうかは知らない。難波先生はキチンとベストを尽された。その事に心動かされた。とても良い、建築史のレクチャーになっていた。その後、鈴木先生のレクチャー。短いものであったが非常に感動した。何に感動したかと言えば、彼の言説、話し振りの全てがほぼ四〇年前の克明に記憶しているそれと寸分の狂いもないからであった。

 鈴木博之氏は四〇年前と今と、表明したい思想の一切にブレがないのであった。私もその辺りはしつように記憶しているので、間違いはない。四〇年経って、鈴木氏の明らかにしようとしている思想に一切のブレがない。その安心感、信頼感は何にも代え難い。

 私が驚いたのは、最近の鈴木氏の書くものに仕切りに現れてくる哀切としか言いようのないニュアンス。それがすでに四〇年前の書物、「建築の世紀末」にすでに現れている事だ。恐らくこの哀切、痛切こそが鈴木博之の中核だろうと考えるのだが、この哀切は彼の主題そのものである近代が宿命的に内在させるものであろう。あるいは日本の近代化そのものの実体なのではないか。そこに最初から鈴木の眼は届いていた。やはり一種の天賦の才である。
 ヨーロッパの近代芸術は根強くメランコリアを抱え込んでいる。それが表現の深層、根である。それが無いものはつまらないものでしかない。

 ロンドン留学を体験した夏目漱石はこのメランコリアに徹底的に侵蝕された。漱石のユーモアはそれからの回復剤の如きものであった。堀口捨巳はパルテノンに接し、ほぼ、日本の近代建築の行末に絶望し、立ち直らなかった。見事過ぎる著作集は全て立ち直らなかった事の記録であった。磯崎新もその中心に深いメランコリアを抱えている。それが氏をして世界史への亡命者の風貌をつくり出している。

 鈴木博之の哀切はそれ等と比すべきものであろうが、違う内実を抱え込んでもいる。実は、そこに我々は賭けねばならないのだが、多くの人は解らねえだろうな。日本近代の悲喜劇である。決して成熟に向おうとせぬ、仮面の中の未熟さ、精巧きわまる幼児とでも呼ぶべきものか、これが日本近代の実体である。

 鈴木はその出発時から、すでにそれに気付いていた。しかし、アイロニーを遊んだり、ニヒリズムの海に沈んだりはしなかった。彼は解らネェだろうあなた、とあらがったのだ。これが鈴木博之の悲哀の実体である。

 二十三時過世田谷村に帰る。

 五月二日
 七時過起床。昨夕のメモを記す。
 結局、鈴木博之は悲哀の実体の中へ成熟しつつあるのだ。私にはそれが良く解る、と、てらいも無く言っちまう。建築史家、作家、教育者として、しかし今の若者達の仮面性、実体が何も無いのを隠す仮面なのだが、それ等はどう反応するのだろうか。昨夜の多くの聴衆はその片鱗に気がつくまいが・・・。出来得るならば、建築の世紀末を多くの若者達が読み直してくれるのを期待したい、のだが、読まねえだろうな。これからの鈴木氏はより自由な立場で書く事が可能だから、その悲哀について、近代の哀しみそのものについて書いて欲しい。

2008 年4月の世田谷村日記

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