R065
六月三〇日

案の定、日記の二本立ては混乱し始めている。立て直さなくてはならないが、書く体力がない。このまんま眠りたいね。

R065
六月二十八日

八時長野県管平の正橋順子さんより電話があって、「今主人が石山さんの家の下のガレージにレタスを置いて、これから美術館に行くところです。」との事。下へ降りてみると、段ボールの箱一杯のレタスがあった。声も掛けずに去ってしまうとは正橋孝一さんらしい。十年以上もかけて「開拓者の家」を共に作り続けた仲だから、彼の事は良く解るのだ。

しかし、開館まであと2時間、何処でどうしているのやらと、チョッとオロオロしてしまう。

早く私も美術館へ行こう。

六月二十九日 日曜日

七時過起床。昨日は美術館で多くの旧友、知り合いに会えた。夕方には佐賀から早稲田バウハウスワークショップで知り合ったT氏まで親子で来てくれて、恐縮している。夕方は芦花公園駅近くで木本一之氏等と。二十二時頃世田谷村に戻った。昨日の入場者は 195 人だそうだ。一昨日が 300 名だから、今のところ 500 人である。八月十七日迄の長丁場なので色々と対策を講じたい

一日展示室内の石山研分室に居て来館者の動きを眺めていたら、展示の欠点も見つかったので、今日、早速N氏と相談したい。九時過発。十時前美術館。

R064
六月二十八日

七時起床。十時前世田谷美術館。今日は何人かの人と美術館内の石山研分室で会う予定である。昨夕のオープニングレセプションは大変多くの人が参集して下さった。今日からの一般公開もそうあって欲しい。展示は大方仲々好評である。

R063
六月二十七日

八時半迄眠った。十一時発世田谷美術館へ、今日はオープニングセレモニーである

R062
六月二十六日

五時前起床。世田谷美術館日記を記す。日記を二本同時進行させているのだが我ながらややこしい。何処かでキチンと二つを整理しないと頭がおかしくなりそうだ。

今夕は東大で鈴木博之先生の連続講義の会があるのだが、遅れても出席したい。五時二〇分再び横になる。眠れるかな。八時起床夢を見たようだが思い出せない。

梅沢良三先生より連絡あり。

R061
六月二十五日

九時四十五分、世田谷美術館。今日は研究室メンバー4名が作り込みに参加し、追い込みにかかる。十五時四十五分迄諸々のWORK。体は疲労の極みだが、もう少しだ。十五時四十五分世田美発、用賀、渋谷経由西早稲田へ。新副都心線に初めて乗って、早大理工キャンパスに直接入る。こんなダイレクトに地下鉄とコネクトして、大丈夫なのだろうか。最近は異常とも思える事件が続出しており、これ程キャンパスが不特定な集団の交通手段であるメトロと直結するのは、どうかなとも思う。

十七時より、稲門建築会理事会、評議委員会に出席。

R060
六月二十五日

五時起床。昨夜は二〇時からぐっすり眠った。我ながら自分の肝玉の小ささにあきれ返るのだが、一昨日は展覧会の建て込みの疲ればかりでなく、やっぱり成否に不安が残っていたのであろう、それで眠れなかったようだ。

昨日夕方迄にようやく展示の全容が視えてきた。一部を残したが、ほぼ一年分のドローイングは貼り込んだ。絵巻物というよりも絵日記の長蛇状である。これだけでも見物する価値があると思う。CGの壁との対比が面白い。

第一室、宮古島市渡真利島月光 TIDA 計画は九〇%仕上った。第二室(大部屋)のデッカイ、浮遊物三体も吊り終えた。残るは鬼沼計画と光風水塔のモデル組立て、と、木本一之の製作物を待つばかりである。アッ、そうだ浅草計画の建て起しが残っているな。

今日で大方は終了するだろう、とチョッと明るくなった。この日記には強気な事書いてきたけれど、やっぱり不安ではあったのだ。

今のところ 75 点だな。あと何かで思考の軸が伝わるようになれば、 80 点迄は登りつめられるだろう。

カタログは 26 日上り、講談社刊の合本は七月から書店に並ぶ事になった。これ等は 90 点の仕上がりである。

九時過世田谷村発。世田谷美術館へ。

今日も夕方迄美術館暮しである

R059
六月二十四日

昨日は疲れて余り眠れず、柄谷行人の本等読み始めてしまい、更に眠れなくなってしまった。今夜はもう少し眠れる本を読む事にしたい。

七時半起床。今朝は晴れているが、一日美術館暮らしになろうから、天候は余り関係ない。美術館自体が、外界と遮断された箱なのが昨日良く解った。

今日は大方の大きな吊物をセットし、鬼沼計画のランドスケープを建て込み、ヨットの帆の調整、そしてドローイングの貼込みの続行予定。

八時半世田谷村発世田谷美術館へ。

以下世田谷美術館日記へ

R058
六月二十一日

十三時世田谷美術館。ドローイング三百九点レイアウト作業。十九時半迄。何とか終了する。足腰が痛い。大変な作業であった。すこぶる工房の代島氏撮影を続ける。

二〇時芦花公園ちょうちんで一服する。二十二時前世田谷村。

六月二十二日 日曜日

十時油壺月光ハウスへ。Nさん、Zさんと面談。その風景を代島氏撮影する。雨の合間にテラスでの風景も撮れて良かった。十四時昼食をヨットクラブで、十五時三崎口駅で広島取材の代島氏と別れて世田美へ。

世田美N氏に月光五世号の模型と写真を渡す。十七時世田谷村に戻る。

六月二十三日

七時起床。メモを附す。今日も世田美での建込み作業である。十時前世田谷美術館へ。

R057
六月二〇日

十時十五分研究室、昨日依頼していたデータをチェック、良く出来ていた。午後のLLP場所文化機構での話しは、このデータに合わせて話す事になる。十時四〇分院レクチャー。十二時迄。小休。磯崎新氏に世田美オープニングレセプションのスピーチを依頼する。明日は午後からハードな作業が始まるので、感覚を研ぎすましておく必要がある。

十五時前発。日本教育会館一ツ橋ホールへ。十五時二〇分着。十五時四〇分から十六時四〇分迄話す。質疑応答十七時二〇分迄。地域づくりに関して活動している方々なので、質問も具体的でリアルであった。種々雑多な人々が集合しており、面白い勉強会だ。

十八時半世田谷村に戻る。

六月二十一日

九時前迄眠る。宮崎の藤野忠利さんに具体派芸術家達のリスト、アドレス送附の御礼。

白足袋

仔ネコの白足袋はビニール袋にもぐり込むのが大好きという特異な性格を持つ。

白足袋はビニール袋に五匹一緒につめ込まれて捨てられていたらしいから、故郷はビニール袋なのである。それが本能として残っていて、やたらにビニール袋、紙袋、ゴミ袋の類にもぐり込みたがるのだろう。

しかし、この猫は一向になつかない。死んでしまったニコライは銀眼金眼の白ネコで血統も良く、しかも実に良くなついた。眠っているともぐり込んで来るし、ヒザにもすぐに飛び乗ってきた。安楽椅子に仰向けに腹を丸見せにして、大の字になって良く眠っていた。白足袋とは全く異なる性格の猫であった。良く病気もした。やはり血統の良いのは弱いのかも知れなかった。

その点、白足袋は完全な野良猫、捨猫である。他の兄弟四匹は保健所で薬殺され焼却された。母親も知らず、天涯孤独であり、これからもそうだろう。二、三度世田谷村の家の外に出て、他の野良猫にひどい目にあわされたようだ。あるいは余程恐い目に遭遇したのであろう。それ以来、一向に外に出ようとしない。

もともと、世田谷村は何処にも外と内の区分けはない。内外同じだ。それに内の広さはガランとして小さな体育館ぐらいあるから、猫の世界としては充分なのだろう。白足袋はそれで、内にい続けている。何を考え、何を望んでいるのか一向に知る由もないが、毎朝の食事を得て、家の中を走り廻り、満足している様に見える。

しかし、時に一匹、二階の南の縁先みたいな処で遠くをボーッとして眺めていることがある。ネパールの人々が何もしないでヒマラヤをボーッとして眺め続けているのと同じようなスタイルである。何を遠望しているのだろうか。猫には猫の脳内風景があるのだろう。

白足袋は歴然として世田谷村内野良猫である。一向になつかず、素振り、眼付き共に明らかに良種の飼い猫風ではない。コイツは長生きするに違いない。

R056
六月十九日

十三時人事小委員会。十四時過教室会議。十六時了。雑用、連絡他。

「ときの忘れもの」の銅版画展「電脳化石神殿」のオープニングパーティーが七月十九日十七時に決まった。今度の銅版画展は充実していると思う。乞御期待である。

十八時半研究室発リーガロイヤルホテルへ、十九時非常勤講師の先生方の会。二十一時迄、東大の松村秀一先生、東京農業大学の進士先生他にお目にかかる。二十一時過研究室に戻り、依頼していたデータチェック他。展覧会用の幻庵のモデルが上手くいってないのにビックリ。やはり、見ていないとダメだ。作り直しさせる事にする。二十三時半世田谷村に戻る。

六月二〇日

六時四〇分起床。山口勝弘先生より「山口勝弘と飛行の夢」竹とんぼからイカルスへ、のインビテーションカードが届いていた。私の「建築がみる夢」への参加作品である。 私の展覧会への招待カードをいただくというのは初めての体験であり、ギョッとしたが、山口勝弘ならマアやるだろうとも思った。

宮崎現代っ子センターの藤野忠利氏より具体派と呼ばれる作家達のリスト・住所が送られてきたが、物故者が少なくないようだ。実験工房×具体を会場で出会わせてみようかと考えていた当初の案は淡く消えそうである。

しかし、具体派も何とか展覧会に繰り込ませてみたいのだが。

今日から、日記は世田谷村日記と世田谷美術館日記の二本立てにする。うまく編集されたい。

R055
六月十八日

十六時、スコブル工房の代島治彦氏と番組作りの打合わせ。山口勝弘先生へ取材依頼のお願い。先生のたまプラーザの部屋にTVカメラが入る事になる。何とか今の先生の生き様をメディアに露出したかったので先ずは第一歩を踏み出す事が出来た。

生き様なんて言葉は嫌いなのだが、山口勝弘先生には良く似合うのだ。不動明王となられた八〇才の老アヴァンギャルドの創作風景、チンピラ・アヴァンギャルドまがいの私奴との協同の有様が上手く収録されると良いのだが。

横尾忠則展が大入り満員状態で終了したとの事で、俗人である私は異常に高揚してしまい、すぐ北園、渡邊両先生にゲキを飛ばした。飛ばしたと言っても、親、兄弟、子供も動員せよと威張っただけ。しかし明日から大車輪で自助努力をしなくてはならない。

六月十九日

二十一日からの世田美での建て込み、と新日曜美術館の番組作りが同時進行となり少し計り並々ならぬスケジュールになりそうだ。疲れた顔なんかしていられない。六時半起床。ちょうちん劇場、ちょうちんパビリオンの世田美内配置計画スケッチ九時四〇分迄。

木本君のFAXを見て「立ち上がる伽藍」のモデルはほぼ完全に理解されたと思った。うまくゆくといい。

知り合いの何がしかに連絡して、世田美展のおひろめを依頼する。

R054
六月十七日

十三時新大久保近江屋で鈴木博之先生と昼食。先生が保管下さっている私の小ドローイングをお借りした。世田美に出展する。

十五時半、世田谷村に戻り、諸々の連絡、相談。二十一日よりのTVロケのスケジュール、広島取材、月光ハウス取材スケジュールを確定する。平岡敬氏、木本一之氏にも時間を割いていただく事になった。

西調布N先生、夕食をとり、再び世田谷村に戻る。木本君と二十二時半迄FAXで交信、展覧会用の最後のオブジェ(模型)の打合わせを続ける。ほんの少しではあるが、先が視えてきた様な気もする。

六月十八日

八時木本君に「立ち上がる伽藍」ほぼ最終案を送る。

九時発。十時中川研博士論文審査。

十一時半中川研での審査修了。木本君に「立ち上がる伽藍」の最終案を送る。とめども無く展開してしまうアイデアをSTOPさせる決め手、すなわちルールがようやくにして得られたか。十二時半演習Gスライド・レクチャー準備。今日は「ゴミ」について。二十一世紀はゴミの時代でもあり、その黙示録的風景について述べたい。

演習Gは毎回先生方の用意する映像が刺激的である事だけを旨とする講義である。興味のある方は誰でも、学外者でも構わないから来られたら良い。一見の価値はある。

アベルとチリに関して小ミーティング。ラテンのポリティカル・ストラテジーは基本が良く解らぬままである。十三時世田美M氏来室。ワークショップのディテールに関して。

R052
六月十五日 日曜日

十二時世田谷村発、渋谷へ。東急ハンズ前のモンベルクラブ十三時。五Fサロンでの「ツリーハウス・トークショー」へ出席。ツリーハウス協会主催で、気のおけない楽しい会であった。ツリーハウス協会は頑張って内閣府ともコンタクトし、ツリーハウス特区とでも呼ぶべきを企てようとしているようだ。良くやっていると思った。構造計算は不可能に近く、木にボルトを打ち込んだりするのもどうかと思うのだが、ヴィジョンとしては良い。

カンボジアのアンコールワット近くでのツリーハウスの試み等は良いと思った。会場には建築業界とは全く別種の人々が集まっていて、興味深かった。八〇名程、年令は六才から七〇才位迄。

アメリカからツリーハウス・ビルダーの連中が数名参加していた。この人たちは本格的な「ビルダータイプ」の人種のように感じた。

日本各地のNPO法人他も集合していた。十七時過会場を去る。渋谷の雑踏振りは私には気味が悪いだけだ。

十八時半頃世田谷村に戻る。小林秀雄ムックを読みながら眠る。高橋悠治の小林秀雄論はチョッと言い過ぎだな。同好相あわれむの感あり。私もチョッと気をつけなくては。

六月十六日

七時半起床メモを附し、九時過東京駅へ。十時八分の汽車で仙台へ。

R051
六月十四日 土曜日
向風学校

昨夕、十八時より新大久保近江屋で向風学校代表安西直紀と会う。二〇時迄相談。台湾総統李登輝氏にどうしても会いたいと言う。今夏台湾の新高山に登るので、それに合わせて会談したいと言う。六月末に李祖源夫妻が私の世田谷美術館展に来日するので、その際李祖源と会って相談したらどうかと言う事になった。安西直紀の勘は良い。二の失が継げぬところが欠点だが、それは将来計画が明快でないままにいるからだ。そこで安西君。キミ、政治家になれよと再び示唆する。

「やっぱり、そうなるしかないでしょうか」

「そうなるしかないネ。今の政治家の有様見ていたら、そう思うだろ。」

「思います。」

「それなら李祖源に会う理由が出来たよ。」

「政治家になります。」

七時半起床。向風学校が急展開しそうで良かった。安西直紀は日中台の架橋になり得るか?どうか?期待したい。

十三時半研究室。雑作業を少々。

十四時半、今朝世田美のN氏が山口勝弘先生の作品のコピーを届けてくれて、眺める。山口先生は総数十六点の作品を私の展覧会に寄せて下すった。先生の体調その他を考えれば大変なエネルギーである。私もこれ等の作品群を包み込むが如き、スペースを考えねばならぬと決心する。八〇才の老アバンギャルドに負ける訳にはゆかぬのだ。何だか壮絶な感じさえする展覧会になりそうだが、やれるところまでやり切ってみよう。

十五時頑張って作業を続けているスタッフ、院生に昼食を供する。いつものコーリア料理屋であったが、心許りのものだ。展覧会が成功したら、浅草の芸者さんをパアーッと集めて、ドンチャカやりたいものである。十六時過了。十七時過世田谷村に戻る。

R050
六月十三日

昨日は十五時半迄眠り続けた。カンボジア疲れというよりも恐らくは移動の疲れ、空調疲れである。ボーッとしながら十七時市ヶ谷に向う。私学会館で大橋富夫の『日本の民家 屋根の記憶』出版記念パーティー。久し振りのパーティー出席であった。会場には懐かしい人々が顔を並べていた。平良敬一氏に初めてお目にかかり、ごあいさつ。八十二才になられたが、実にかくしゃくとしておられた。

発起人他の二次会がセットされており麹町へ。平良氏とお話しする。田尻裕彦氏(彰国社)はこの立派な本の出版に力を注がれた様で実に嬉しそうに酔っていたのが印象的であった。

この世代の人達はキッチリ筋が通っているな。田尻さんも深酒しなければ九〇才はいけるだろうから、少し酒を控えられたし。三次会に新宿に行こうなどと言ってはいけないのだ。そうなのだ七十五才には七十五才の酒の呑み方があるだろうと思いつつ、二十三時終了し、足早に四谷駅まで歩く。カンボジアの健康生活が皆吹き飛んだ。

七時半起床。メモを記す。八時半世田谷村発。今日は理工スポーツ大会で授業は休みらしいが、私はやる。一人でも院生がやってくれば講義はやる。他人は他人、私は私。

十時半大学、講義準備。四十五分より十二時過迄院レクチャー。ルイス・カーンのブリティッシュアートミュージアム(ニューヘブン)。カーンの建築と光について。ル・コルビュジェ、ミース、アールト、ノーマン・フォスター、ルイス・カーンと代表作を中心に作品論、作家論を一通りやった。転形期の建築として、俊乗坊重源の浄土寺浄土堂をゲートとして、今を転形期としてとらえる、そしてその視点から眺めた現代建築シリーズは今日をもって一応完結したので、後半は次に入る。

十二時打合わせ。十三時世田谷美術館Mさん、打合わせ。子供達とのワークショップについて。十五時ツリーハウス協会A氏来室、十五日十三時半より渋谷でのシンポジウム打合わせ。

世田谷美術館のチラシ、セルフビルド本を渡して、配布、販売の手配をしてもらう。

世田美N氏と連絡、山口勝弘先生の割り込み展示の対応を話す。私としては、思い切り、侵入してくれた方が面白いと思うが、今回の私の展示は仲々に手強いから侵入するのは困難だろう。山口先生の御健闘を祈りたい。なにしろ、メディアアートの大先達山口勝弘先生が私の展示空間に、ねじり込んでくるのだから、これは見物なのだ。老アヴァンギャルドの死ぬ迄アヴァンギャルドの執念を是非見ていただきたい。

李祖原よりオープニングパーティ出席の知らせが来る。友遠方より来たる、又、楽しからずやだ。

浅草モデルの仕上がりを倉庫で眺め、安心する。良く作ってくれた。

十七時二〇分研究室発。近江屋で向風学校代表の安西直紀と会う。色々と重要な話し合いをしなければならない。

R049
六月七日

十時研究室。TVプロダクションD氏と打合わせ。十時過倉庫へ。ロケ開始。浅草計画の模型作りを撮る。十二時過毎日新聞インタビュー。十四時四〇分研究室に戻る。十五時設計製図公開講評会。ここにもTVカメラ入る。D氏のアシスタントE君参加。今年の三年生はどうか楽しみにしていたが、女性にいい才質を持つ人間がいる。十九時過迄。倉庫へ浅草の模型を見にゆく。丸山欣也先生にお目にかかる。七〇才になられたそうだが、全く変わらず若い。学部の二年生当時のTAであり、随分おだてていただいたものだ。二〇時過先生方と学生の懇親会へ出席。その後、韓国料理屋で会食。〇一時時過迄。

六月八日 日曜日

六時前起床。荷作りをして、六時五〇分発。NRT空港でTVクルーと待ち合わせ。十一時のタイ航空 641 便で発つ。バンコク空港で二時間の乗り継ぎ待ちし、バンコクタイム十七時三〇分 TG698 便でプノンペンへ。バンコクの外は猛暑だろうが、新しい空港内は当然完全空調で、身体の調子が悪くなる。身体が世田谷村の自然に慣れ切っているからだろう。

現在の空調方式が人間の身体と精神に本当に良いものなのか大いに疑問だな。

十八時四五分プノンペン空港着。カメラの三脚出てこず。明日朝再連絡とする。ナーリさん迎えてくれて、二〇時半頃ウナロム寺院着。「ひろしまハウス」の内部を見て廻る。全く何も変っていない。二十一時半日本語学校西北の角の木の寝台に蚊帳を吊って眠る。稲光りでひろしまハウスが発光して美しい。

六月九日

五時起床。良く眠った。風と湿度が気持よい。いつもどうりの壮大な朝焼けがメコン河の方角に繰り拡げられる。空は刻一刻と変形し赤光にそまり、渦巻く。地球劇場の趣きあり。十数年のここでの生活を思い出して感無量。時に身を任せてゆっくりやれば良い。三日間の滞在だが心身共にエネルギーを充電させてもらおう。

六時朝の水浴と洗濯。七時朝食、近くの屋台でビーフン、スープ。ロケハンでウナロム寺院境内、トンレサップ河岸、国立美術館を巡る。七時四〇分日本語学校に戻り、ひろしまハウス内部、水浴場をロケハン。九時小休。着かなかった三脚情報収集。のんびりとした時を過す。「ひろしまハウス」内部ロケ。街路より、他、十二時前迄。私は水浴及び昼寝。どうやら昼寝しているところもカメラに収められた。午後十七時過迄目一杯ロケ。いささか疲れた。夕方の水浴を済ませ十八時小休する。大方の撮影は山を越えた様に思うがどうかな。

二〇時過夕食をとり、日本語学校へ戻る。二十二時就寝。

六月十日

〇二時目覚める。

ひろしまハウス

久し振りのひろしまハウスは美しかった。私にとっては近代的な建築というよりも伽藍である。多くの人々と共に手塩にかけて育てたものでもあり、とても愛しい気持がある。建設に参加してくれた人々の十年にわたるここでの生活のざわめき、言葉にならぬ鼓動ととも言うべきが伽藍の内に満ちていて、感無量である。

この、ざわめき、無言のエネルギーを背中に負って、更に前へ進みたい。それでなければ生きている甲斐も無い。頑張らなくてはいけない。更に前へ進まなくては。体力はかなり下降気味であるけれど、お陰様で気力をもらった。この建築にはそういう力があるな。その力が私にだけでなく、訪ねてくれる人達や、道ゆく人々にも、わずかなりとも働きかける事ができるなら良いと思う。

積み上げたレンガの一つ一つや、架構、そして射し込む光の動き、夜も又、星の光、月の光に反応して、ひびきを生み出しているのが感じられて、本当に力を得た。自分達の力を信頼する事が出来るような気持である。

この、ほぼ完成した物体を土台にして、更に何かを積み上げるのだ。人間は時に愚かな者であるけれど、信頼できる生物だよ。その力を掘り起し、ふるい立たせなければ、それが私の義務である。

深夜、星の光に浮かぶ物体と対面してそう考えた。揺らがずに、マア急がず、しかし、ジタバタしたいものだ。三時前、再び蚊帳の中にもぐり再眠する。夜明けの五時には起床して、あの壮大なメコンの朝焼けを眺め、体に力をみなぎらせよう。

五時半、壮大な朝焼け。水浴。七時朝食、いつものタンメン屋台。八時戻る。十一時四〇分、私の出番のあるシーンは全て修了。水浴、昼寝をたっぷり。ナーリさん手作りの朝食もたっぷり。二〇時前トンレサップ河沿いのフランス料理屋でディナー。二十二時眠りにつく。

六月十一日

四時過起床。暗闇の中でメモ。夜明けのスケッチを考える。犬の遠吠え。たっぷりとメコンの霊気を吸い込んでTOKYOに戻りたい。来年はラオスにでも行ってみようかと、ナーリさんと話した。メコンからの風が気持よい。 十時半博物館でクメール彫刻をスケッチして戻る。

今朝からスケッチ5点得る。三脚がようやくにしてプノンペン空港に到着した。帰る日に着いたのも、良かった。 十一時カレー・レストラン。水浴。スケッチ、昼寝。十六時過ナーリさんの友人が空港まで送ってくれる。十七時空港でナーリさんと別れる。十九時四十五分タイ航空でバンコクへ、三時間弱のトランジットを経て、二十三時五〇分NRTへ発つ。

六月十二日

七時四十五分NRT着。今度はカメラの三脚は出てきた。今度のプノンペン行では、すこぶる工房のD氏と色々と話しが出来たのが収穫であった。考えていることが少し解った。ナーリさんの相変わらず振りは仲々のもんだよ。アレはすこぶる人間だ。

今、京成線車中。東京は完全なる梅雨ヴァージョン。プノンペンの雨とTOKYOの雨はこんなに違うものか。

やはり疲れているので、いったん世田谷村に戻ることにする。

R048
六月六日

九月半新宿西口。十時半上石神井早大高等学院。母校の高校生に建築の面白さ、可能性を話す。三〇名程度の高校生になにしろ皆建築学科に来なさい、何をやりたいのか解らないのは自然だしそういう高校生には建築は一番向いているよ、と建築のすすめ。十二時迄。

終了後学院長の山西先生と昼食をいただく。長男雄大が大変お世話になった先生である。Nさんの話しに花が咲いた。

十四時研究室。世田谷美術館N、Y氏と打合わせ。講談社S氏も加わる。十七時迄。その後、打ち合わせ、雑作業が二〇時過迄続く。近江屋に寄り世田谷村二十一時戻る。

六月七日

六時半起床。昨夜中途迄済ませた、展覧会カタログの最終校正を八時過に了。自分で言うのもなんだけれど、面白いものに仕上がりそうである。乞御期待。木本さんより、少しばかり急いだ連絡あり、珍しい事だ。

東京オリンピック

シカゴ、リオデジャネイロ、マドリッドと並んで、東京が二〇十六年のオリンピック開催都市候補にセレクトされたと、報道されていて、数日TVはにぎやかであった。

石原都知事は久しぶりに上機嫌だろう。なにしろ総合評価一番なのだから。「でもシカゴは強敵ですよ。なにしろ、したたかで金があるから」だって。二年前に福岡オリンピック誘致チームの一員として、東京、すなわち石原都知事と戦った兵卒としては、それはあなたに向けなきゃいけない科白でしょ、という感じで、笑った。

でも、東京チームも頑張っているのだろう。ドバイが落選してしまったから、日本国政府の力の入れかた次第では勝負になってきたのかも知れないな。石原都知事の腕力が幸運をとりあえずは呼び込んでいるのであろう。

実に複雑な気分でオリンピック報道に触れているが、最後迄見届けたい。

R047
六月五日

十七時前、柄谷行人氏の知り合いの、太田出版T氏来室。季刊「at」への寄稿を求められる。いきなりやって来られてアッという間に書く事になってしまった。神業の押し込み強盗みたいな人である。打合わせ二十三時二十分迄。二十四時過世田谷村に戻る。

六月六日

七時起床。昨夜は二時迄読書。

横尾忠則展

私の「建築がみる夢」展の直前の世田谷美術館の展覧会、「冒険王・横尾忠則」展が大人気である。次の私の展覧会の分の観客迄皆もっていかれてしまうのではないかと、ビクビクしている今日この頃なのだ。週末には千人以上の人、親子連れが行列しているらしい。私の娘も先週出掛けたが、余りの混雑振りに仰天して、又、ウィークデーに出直そうと帰ってきてしまった位なのだ。

大人気、大入りの理由は勿論横尾の絵画の芸術性にある。時にその本質に在る大衆性、というよりも今では死語になってしまった感のある民衆性にある。我々は大量消費社会の消費者としての市民であるだけではない。セクシュアルな野生をまだ内に持つ、皆、夢みる人間である事を、横尾絵画はよく表明しているからだ。

その事を今度の横尾忠則展は浮き彫りにした。それは世田谷区の教育委員会による、小学校四年生向けの「美術鑑賞教室」が、取り急ぎ中止されたからである。中止の理由は横尾忠則の絵の中に、ナイフを持つ少年や、男女の性行為らしきが点在しているから、小学生に悪影響を及ぼすとの判断があったらしい。

その事が新聞等で大きく報道された。ジャーナリズムは、久し振りに健在振りを発揮したのである。その報道は明らかに横尾忠則支持に廻っている。当然であろう。

そして、民衆、世田谷区民も大いに本来のエネルギーを発揮して、好奇心ムンムンの民衆振りを大入り状態、美術館に行列状態で表現し得たのである。これは芸術本来の事件性、新奇性、スキャンダルの素を提供し得る可能性についても再び眼を開かせてくれる事となったのである。その意味では区教委の「美術鑑賞教室」中止は大いに大事な問題の扉を開く役割を果す事となり、快挙であった。

区の小学校四年生諸君はこぞって仲間をつのり、世田谷美術館に足を運んだら良い。君達にはすでにほほえましいとしか思えぬようなセクシュアリティーや、やさしい暴力としか言い様のないエレガンシーをなつかしく鑑賞できるに違いないだろう。そして、僕達は実はもうチョッと過激なんだよねと、ペロリと舌を出す四年生もいるだろう。

しかし、心配である。このスキャンダル性すなわち芸術性がいよいよドンドン拡大して、益々大人気となり、世田谷美術館空調能力の限界を超え、故障続出夏季休館となってしまうのではないかと心配なのである。

私も及ばずながら、新たにワザワザ、男女の性行為を直写した如き建築設計でも付け加えるかと、非力ながら対抗策を考えているのである。

小学生四年諸君!次の「建築がみる夢」はもっと、実はセクシュアルで、ゾクゾクするものになるから、横尾忠則展に引き続き世田谷美術館に足を運ぶようにしてくれたまえ。

R046
六月五日

五時前起床。昨日は午後研究室。演習G。北園、渡邉両先生の小レクチャーを聞く。若い両先生にも私の小レクチャーを。夕食をとり、早々と世田谷村に戻った。

今日は院の面接である。教師として、建築学科の将来を心配している。デザインは心技体の総合であり、特に芸術系はそれにつきるのだが、何処までのびるかわからんぞ、という様な人材には仲々お目にかかれない。これは恐らく今の時代相と言うべきなのであろうが、折角教師をやっているのだから、残念至極でもある。私のところは、もうポリシーを明快にした。今年は女性を中心にとる事にした。女性にある種の可能性を見ざるを得ないからだ。私の年令はそんなわがままもそろそろ許されるだろうとも考えた。五時十五分再眠。六時再起床。ぶつ切りモーニングだなこれでは。

八時半スケッチ数点を描き小休。九時前大学へ。十時院面接。

十一時過修了。十二時教室会議合否判定。十四時途中退席。十七時打合せ。このところ早朝型の生活になっているので、午後に必ず睡魔が襲ってくる。こんな状態ではとても、大事なモデルを進めることが出来ない。今朝のスケッチは一向に進まないままだ。

世田美のNさんから教えられた中原浩大というアーティストの検索資料を読む。オタク・アートの村上隆より早くオタク的フィギュアを試み、発表していた人物のようだ。つまり、どの分野にも先駆的な人間は存在するもので、中原浩大は自分のやっていた事の面白さそのものを相対化しなかった作家らしい。研究室OBの森川嘉一郎がやはり触れていて、相変わらずオリジナル幻想批判を述べ、中原浩大を批評しているのが面白かったが、フィギュア製作職人を持ち出すのなら、ストーリー制作者まで辿る事になるのでは、果てしないオリジナル迷路に踏み迷うだけではないのかとも思った。

しかし、何はともあれN氏が関心を寄せていた事の方が私には面白かった。この人を最初に発見、評価した人物も又、オリジナル・イコンを作り出すオリジネーターの役割を担うのであろう。

研究室の連中が異様に点景や点景の人物、群像づくりに才を発揮するのも、もしかしたら中原浩大的世界なのかな。浅草計画の模型づくりに発揮した才は、まともに受け取めたほうが良いかも知れぬ。

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六月三日

十時四〇分学部レクチャー。十二時過迄。雑事を済ませて昼食、ビザ用写真撮影等。十四時過迄。京都の山野上さんと連絡。やはり毎日新聞OB、佐藤健を良く知っていた。誠に縁としか言い様が無い。

雑事を済ませて、十八時半芦花公園「ちょうちん」にて世田谷美術館N氏と会う。諸々の相談。最後に来ていささかの迷いが生まれたので率直に尋ね、大方の方針を得る。その後雑談。N氏の美術観を聞く。考えてみれば私の展覧会の担当者である彼の考えを聞くのは初めてであった。二十一時過迄。N氏は美術館へ、私は世田谷村へ戻る。N氏は今忙しさのピークであったのだろう。申し訳ない。

六月四日

七時半起床。昨夜のN氏との打合わせを整理して、先ず山口勝弘先生に連絡する。木本一之氏とも連絡して基本的な考えを伝え、相談する。エントランスに「建築がみる夢」あるいは「脳内化石神殿」と題する鉄の模型(オブジェ)を設置するのを決定し、木本一之氏は広島の工房からトラックで二十七日朝に世田美に運び込むという段取りになった。世田谷美術館内石山実験室は共同実験工房とする。エントランスで実現し得なかった映像実現もここで行う事を決める。

九時半山口勝弘先生からのFAXを待っている。これで難問解決か、あるいは新たな難問の出現か。スリルだ。私、今や世田美展覧会おたく状態である。

R044
六月二日

十三時研究室打ち合わせ。十三時四〇分突如GQインタビュー入る。修了後、再び打合わせ。十九時前発。近江屋で一休。二〇時半迄。二十二時前。世田谷村に戻る。

六月三日
中外日報五月三十一日版

五時起床。中外日報、五月三十一日、送られてくる。山野上純夫氏が社説に「安芸門徒の力でひろしまハウス」を書いている。中外日報は日本仏教会を代表する新聞であり、仏教会からかくの如き正論が寄せられたのは嬉しい事だ。一部引用し紹介させて頂く。

プノンペンに建設した四階建てのひろしまハウスを斜め張りの柱で支える構造にした。全体的にはレンガを一つずつ積み上げるという、素朴な手法だ。」平岡敬・前広島市長の言葉によると「ありふれた技術をもってヒロシマの思いを形にした」ものである。(中略)平岡氏によると「ひろしまハウス」はグローバリズムや市場主義とは無縁の構造で、エスカレーターも冷暖房設備もない。自然の風がさわやかに吹き抜ける。「完成させるよりも、それまでの過程が大切だ。が大方針だった。」短い言葉で「ひろしまハウス」の中枢が言い抜かれている。

平岡敬氏も広島市長になる前はジャーナリストであった。山野上氏平岡氏、共にジャーナリストがジャーナリストである骨格が崩れていない、ジャーナリストの基本的精神である在野精神、反勢力の姿勢が歴然と見てとれるのである。実はこの事は最近では実に珍らしい事である。記して謝したい。

世田谷美術館での「建築がみる夢」展も、馬場昭道氏をはじめとして多くの仏教会からの支援が寄せられようとしている。美術館と仏教会とは縁が薄い筈だが、もともと美術と宗教は深い関係がある。美術の至上は人間の精神の生を極めるものであるから。

R043
六月一日 日曜日

十七時前研究室、打合わせ。十九時迄。十九時半新大久保近江屋で打合わせ続行。二〇時四〇分迄。今日は研究室に二名程院生がつめており、日曜日だというのに勉強していた。こっそりやる勉強は良い。昔と同じに休日に研究室に来るのも悪くは無いのだ。ニャロメとなつかしき赤塚不二夫風につぶやいてみる。二十一時半世田谷村に戻る。

広島の平岡敬氏、油壺のN氏両氏とTVロケの了解と日程を決めた。両氏の健在振りを確認できたのが収穫であった。ひろしまハウスの平岡敬さんは憲法9条の会で頑張っておられる。八〇才になって、まだ広島市長当時の「つくり出す平和」に身をていしているのには頭が下がる。本モノの老人は皆強く、しなやかである。

六月二日

三時半目覚める。少し計り読書して再眠。八時半起床。サイトの編集者である丹羽太一さんが先週末体調悪く、しばらくサイトが動かなかった。

私の室のサイトの動きは時にマチマチである。日記は土、日は動かない。サイトのレイアウト他、一切のデザインは丹羽さんが権限を持っていて他は動かせない。

サイトのテイストについて

すでに御承知の方も居られるとは思うが、編集長は山口勝弘先生と同様に不動の人である。コンピューターの取り扱い以外は全て他人任せなのだ。車椅子も他人が動かす。

だから室の人間達は丹羽さんの自由を大事にしている。そういう気風が生まれている。私だって丹羽さんのサイトのデザインに時々違和感を覚えるが、その違和感は動かぬ人との、かなり基本的な、身体の本格的な感覚の相違からくるものなのだと考えるようになった。そうしたら丹羽さんのデザインを楽しめるようになった。

丹羽さんのレイアウト、色使い他は全く、一般的なサイトのテイストと異なっている。何よりもニギニギしく刺激的ではない。淡い。山口勝弘先生の俳号が淡雪であるように、まさしく淡い。身体が恐らく淡さを必然的に求めるだろうからだ。身体が濃厚さ、動き、ニギニギしさを好ませない。どうしてもミニマムさを求めてゆく。それは今では充二分に理解して、成程ねと思う。

それならいっそ丹羽さんのテイストをより突きつめて表現できないのかな、というのが今朝考えている事だ。画面一杯に淡さ、を細いラインひとつに迄、表現してしまったらどうだろうか、なんて夢の如くに考えている。 文章の長さを今風に細切れにしてくれたのは良かった。その間の細い余白部分に細い渋い色のラインを入れたらどうだろうか。それだけでも画面のクオリティは上がるかもしれない。

以前からの課題ではあるのだけれど、世田谷美術館、ときの忘れものギャラリー展を機会に英文サイトを一新したい。どうも古臭い情報を世界の人々は見続けているような気がする。世田谷美術館のカタログが美術館のバックアップもあり、そのほとんどの論、解説が英文に訳されてもいるから、これを機に英文サイトを一新させたい。丹羽さん大変でしょうがよろしく頼みます。と今日体調を回復させているだろうと願う丹羽さんへ。

十時前、馬場昭道和尚より、誰々に展覧会の招待状を送れと指示される。気合い入ってるなあ和尚は。

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