3月の世田谷村日記
165 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十七日

十一時半上石神井、早大高等学院着。受付を終え、新校舎の内外を見学。隣の、今日も学院生が学び生活している校舎は、早稲田の安東勝男先生が設計したものだ。安東先生が教職を退任され、その後に私が後任の教職として就任した歴史がある。それもあって私は学院の校舎の歴史には関心を持つ。

三菱地所設計と鹿島建設による第一期の校舎は、3階建の分棟によるものである。三菱地所設計の方から聞けば、設計期間が短かったとの事であった。全ての棟を同時着工し、工期 10 ヶ月との事。つい三日前が竣工式であった。石山研の今やっている計画が同じ 10 ヶ月で4階建であり苦労しそうだ。

驚いた事に、気仙沼市の気仙沼商会の高橋社長にバッタリお目にかかる。高橋社長は漁港気仙沼市の遠洋漁業の船の油を仕切っている人物である。臼井賢志さん他と共に私の気仙沼での活動を支えて下さった方だ。オーッと声をあげる程に懐かしく、ここで会えるとは考えてもみなかったので、話しが思い切りはずんだ。

二〇年以上の昔ではあるが、あの頃はわたくしは飛び切りな人間達に会っていたのだなあと、痛感した。高橋さんは学院の6期生である。わたくしは十三期生。そんなわけで、新校舎の印象他はすっ飛んでしまった。高橋さん、河野洋平と同期で河野氏が来るとの事で今日は彼に会いにきたそうだ。

白井総長、山西学院長他にお目にかかる。新潟の酒倉菊水の代表・学院一期生高澤氏のあいさつが良かった。多くのOB達とあいさつを交わす。気仙沼の高橋さんは今晩気仙沼で稲門会だそうで途中退席。私も長居を避けてお先に失礼した。

十七時過世田谷村に戻る。

酒井忠康氏より「彫刻家との対話」現代彫刻の世界・未知谷刊三八〇〇円、送られてくる。今夜はこれを読んで過ごそう。部厚くて良い。

二月二十八日

午前中私用。昼過ぎ油壺月光ハウスへ。早大学院OB・N氏と会う。外洋ヨット競技界のドンである。十六時半迄。様々な相談。十八時過世田谷村に戻り。宗柳で夕食。

164 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十六日

私用で外出、動きながら「生きのびるための建築」NTT出版最終稿校正を続ける。やり始めたら、自分で読んでいても面白く、手を入れ終える。十七時、編集K氏に全ての素材を渡し終える。決して少なくはないチェックが再び入り、仲々氏も最後までキッチリねばるなあ。いい本が出来るだろう。表紙デザインが少し遅れているようだ。

アニミズム紀行シリーズを自分達で世に送り出しているので、ほとんど全ての工程を知る迄になっていて、校正、図版レイアウト等のディテールが本の仕上がりを決めるのをのみ込むようになった。建築設計と良く似ている。

二月二十七日 土曜日

五時半起床。WORK。新聞を読んで再び眠り、九時再起床。十時半発、上石神井の早稲田大学高等学院へ。私の母校である。三菱地所設計、鹿島建設施工の新校舎、第一期工事のお披露目である。私が手掛けたかったが、諸々の事情で不可能であった。さて、今日は出来上りを見せていただこうかの気持がある。

163 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十五日

十二時十五分京王線烏山駅でスタッフと会い、十二時四〇分京王線稲田堤、至誠館グループ、星の子愛児園へ。星の子愛児園は我々の研究室の作品である。JR南武線京王稲田堤間近に位置している。十三時、川崎市役所の方々と会議室でお目にかかり、至誠館主要メンバー、及び石山研スタッフを含む総勢十二名を交え、理事長以下大人数の会議が始まる。

地域に於ける、画期的とも考えられる、乳児院と保育園の混合建築計画でもあり、石山研としても最大限のエネルギーを注ぎ込んでいる計画でもある。この計画が日本全国でのモデルになってくれる事を望みつつ、力を注いできた。ので、感慨も深い。市役所の皆さんより様々に教えていただき議論を二時間半すませ、多くの知識を得た。

その後、至誠館の主要メンバーとの具体的な細部の打合せを、すすめる。乳児、幼児達の生活を考えて、あまりある打合せであった。大変勉強にもなった。この道にもそれぞれに大変なエキスパートがいるものだ。十八時過迄。五時間にわたる打合せを終え、散会。良い、しかも前例のないモノを作り上げるのには、エネルギーを要するものだと、再び繰り返し、思い知る。

十九時前烏山のソバ屋、宗柳でミーティング後のまとめの打合せ。十九時半了。世田谷村に戻る。いい建築を、しかも様々な子供達と両親と先生方が全て、混然一体となる建築が作れるかどうか、わたくしに与えられた命題の一つである。

アニミズム紀行3の残冊7が気になる。アニミズム紀行5は、わたくしのアニミズムシリーズでは最高のものなのだが、それは、3号あっての事でもあり、是非読んでもらいたいのだが、鈍い反応は仕方ないのだろう。わたくしの非力だ。でも読んで下さいよと言いたい。

今、進めている至誠館の複合建築は、私にとって、鬼沼の時間の倉庫、北海道、音更の、水の神殿をこえる、複雑な建築の形式になる。わたくしとしても、これ迄実現し得た建築の形式の中では、強く社会的産物になるであろう。これを作れたら又、次に進みたいがとにかく力を尽くしている。

二月二十六日

三時半パッチリと目が覚めてしまう。ノコノコ起き出して二階の吹抜けのガランとした中で読書。厳しい寒さもようやく去り二階にはようやく価値が再生してきた。ガラン洞の空間に空気の流れの気配が漂い、それが心地よい。本を拾い読みして、四時半再眠。七時半再起床。メモを記す。

NTT出版「生きのびるための建築」まえがき、あとがきに手を入れる。今日編集のKさんに渡さなくてはならない。九時四〇分作業を終える。フーッ。

162 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十四日

十二時半研究室。生まれたアイデアの一部をスタッフに伝達。十三時過、石山研ゼミOGで清華大学大学院へすすんだDさん来室。色々と精華大学での事等を聞き、アドヴァイス。日本と中国を結ぶ貴重な人材なので将来が楽しみだ。十四時過教室会議。十六時前了。

至誠館複合建築の作業を続ける。日影で苦しむ。十八時過、絶版書房アニミズム紀行5にドローイングを入れ始める。柔らかい色鉛筆で試みる。十九時過 17 冊に作図。1冊1冊丹念に進める。

昼食をとらずに空腹の極みであったが、設計作業に戻る。日影が仲々にクリアー出来ず。微妙な修正を繰り返す。都市部での建築の困難さの一つである。

二十三時二〇分ようやくクリアー。スタッフ共々ホッとする。どうやら今日は研究室泊まりになるスタッフを残して、二十三時三〇分研究室発。電車内でNTT出版の「生きのびるための建築」校正ゲラに手を入れる。二十四時三〇分世田谷村に戻る。〇一時横になるも、眠れず。頭をいささか使ったのと、コーヒーの飲み過ぎだろう。

二月二十五日

明け方、五時前にようやく眠りに落ち、八時に起床。もう少し気持を図太く持たないとダメだ。どんな時でも、グッスリ眠れるようにならないと。

昨日生まれたアイデアは、まだ成熟させる迄にはなっていないが、大事に育てないといけない。形の生成に関するアイデアではない。むしろ形の消去に関するアイデアである。NTT出版の本作り作業や、アニミズム紀行5づくり等からも力を得たのかも知れず、アイデアの生成はとても神秘的なものでもある。

今度のアイデアはすぐに至誠館の複合建築で一部を実現出来るチャンスがあるやも知れぬので、自分でもいささか静かに高ぶっている。創作の喜びは、自然を観察するよりも、余程自分の脳内風景や気持の動きが、複雑で、予測し得ぬところの巨大さを自覚する時だ。

こんなに面白い事は他に無い。この面白さ続ける為にも身体の無事を祈り続けたい。身体も又、実に神秘に満ちている。

161 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十三日

十三時向風学校代表安西直紀さんと会う。台湾行、他の話を聞く。十五時過日経アーキテクチャーのフリーライターによるインタビュー。伊東豊雄さんについて。伊東さんに関しては様々な俗論、俗評が出廻っているが、わたくしには伊東さんと旅をして得た、まずは間違いようのない直観があるので、その事を話してみた。

私用、雑用に暮れて、二十一時世田谷村。

二月二十四日

八時過、至誠館の複合建築に、ようやく待望のアイデアの光りが指した。コスト面からも大丈夫なアイデアであり、あわてて、スケッチに残す。書くべき事ではないのだろうが、実は仲々に苦しんだのである。ようやく、血の一滴が吹いたの感あり。まだ油断はできぬ。スケッチを続ける。

私用で外出。

160 世田谷村日記・ある種族へ
二月二十二日

十時半京王稲田堤至誠館愛児園。K理事長打合わせ。二階プラン見直し。十三時ブラジル人アンドレア君と会う。ドクター論文の相談。十五時NTT出版K氏。三月末出版の「生きのびるための建築」の打合わせ。世田谷美術館での連続講義は二分冊で出版となり。1は前記表題、2は「手わたしてゆく建築」これはまだ仮題、となる。

他諸々の雑用、WORK。難波和彦さんの退職記念本の為のエッセイを寄稿しなくてはならず、頭が痛い。難波さんと私は、初心は恐らく同じ処から出発しているが、今はだいぶ遠い位置にいるから。でも、キチンとしたモノは書いてみる。キチンとしたものが、どれ程のキチンとしたという水準を確保できるか。私に振られたのは主に教育者としての難波さんという枠組みなのだけれど、当然、キチンとやろうと欲すれば彼の四層構造のデジタル思考、及び連作という名の作品にも触れなければならぬので気が重いのだ。

二月二十三日

今日は雑用で一日過すが、途中に何がしかの打合わせ、相談が入っている。

昨日は遂に絶版書房アニミズム紀行5には一冊もドローイングを描き込めずにしまった。努力したのだが描けなかった。ドローイングだって決して気楽なものではない。鉛筆けずりで少しづつ命をけずってやるようなものだ。色んな事を考え過ぎると、頭脳・気持・身体のいずれにも逃げというか、遊びが欠けてきて、自由に手が動かなくなる。実に、自由と勝手気ママとは大違いなのを、こんな時に知る。厳密な意味でのデタラメなんてものは、こういう作業にはあり得ぬものだ。デタラメがあるとしたら、何も描かぬことになるだろう。

159 世田谷村日記・ある種族へ
二月二〇日 土曜日

十三時東大難波研究室。難波先生の御家族がいらしていた。十三時半超満員の階段教室で最終講義。カール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」の言より始める。やはりマルクスかとつぶやいて、フッと隣りの空席であったところを見るとそこには先程迄難波先生が座っていた筈のところなのだが、何と、今は思い出せる人も少ないだろう毛綱モン太が居るではないか。

「何だ、モンちゃん、場ちがいな処に現れるなよ。皆不気味がるじゃないか」とたしなめるに、「ナンバ先生が、マルクスなんてハナから見栄切るもんだから、のんびり寝てるわけにもゆくまいと思ってね。ついつい出てきちまったんだ。やっぱり場違いか・・・・じゃ帰るわ、俺は・・・・」と、又、消えた。毛綱は若い頃の私を、タダモノ主義者とよくからかっていたものなのだ。タダモノとは唯物論者のことである。毛綱の若年の輝きは人間のエロスの表現そのものであり、難波先生にそれは欠落している。それで生霊となり私の夢の中に出現したのである。

たっぷり二時間のレクチャーを受ける。難波さんの鉱物性世界が良く構成されたレクチャーだった。市民社会のアウラ、別の言い方をすれば大衆の趣向は、箱の家の光景に表われているのか、難波さんの抱く市民像、二十一世紀的民主主義像とはどんなものなのか?エイリアンの反美学的美に恐怖する難波さんの測鉛は何処まで届いているのか。これからの問題になるのではないか。それでもあるだろう箱の家の美の質は、自然に無印の家では市場主義の美に飼い慣らされる宿命となる。大野勝彦さんの企画したセキスイハイム・オリジナルもそうであったように、ある種のデザインの甘さ、ルーズさが市場からの要求として出てこざるを得ないのだ。

難波さんの工場や児童建築作品群をほぼ全て見せていただき、難波建築は資本主義の宗徒の美を民主主義体現として表現する事を欲しているのだろうかと考えたりもした。これだけの固まりになってくると、それがおのずと表現されてしまうのである。

十六時製図室で懇親会。小スピーチをする。いつ迄ご一緒できるかも知れぬ年令に突入するので、小スピーチも作品だと考えた。十七時了。お別れする。

十八時新宿味王で空腹のため夕食。二〇時過世田谷村。

二月二十一日 日曜日

九時迄寝床で、昨日印刷製本があがってきた絶版書房アニミズム紀行5「開放系デザイン・技術ノートIキルティプールの丘にて我生きむ」読み、かつ見入る。五冊目にしてようやく満足する出来映えとなった。

ベイシーの菅原正二さんより、朝日新聞東北版「スウィフティの物には限度風呂には温度」第四十九話FAX送られてくる。私迄登場してしまい、菅原さん相当苦労しているようだ。しかし、菅原正二さんの物の考え方、文章の成り立ちと、難波さんの物の考え方、そしてデザインはアナログの巨匠対デジタルのプロトタイプとくくりつけるのにもまして、開きが在るように思えてならない。

難波さんは賢いから、神話的ジャズ喫茶店主と東大教授を同じに並べて論ずる事の正当性は理解するであろう。読者の多くは知らぬ。半端な人間程いぶかしむ者なのだ。そのいぶかしむ人間達を相手に難波さんは無印住宅を送り出し続けることになるのであろう。市場拡張の具にならぬ商品なぞあり得ないから、それはモダニズム初期のデザイン理念とはズレてくる必然がある。

ベイシーの菅原さんは四〇年来、レコードを廻し続け、余人にはとても計り知る事の出来ないオーディオの細部改良を営々と進めてきた。今やそのアナログサウンドは神話的な世界に入っている。難波さんも恐らく、ここ四〇年ほぼ同様の営為をされてきた筈だ。成果品が建築か、音の違いでしかなく、又、その違いは・・・人間の一生を賭ける位に距離がある。

二月二十二日

四時半起床。絶版書房アニミズム紀行5読む。八十一才になった私の回想記のスタイルで書いたものである。それ位の自由さは表現しても良い年令だ。年令に関して自分にも儒教的倫理は実にあるのだと知る。5号は思い切り自由になってみた。読者の反応を見て6号にすすむ。すでに6号の大半は書き終えているのだが、5号の先ずは反応が大事だ。風の噂くらいは届いて欲しいものだ。

六時再眠。七時再起床。良く良く考えてみたら、難波先生の箱の家、無印の家への批評はすでに行動として絶版書房・アニミズム紀行の連作でやっている。近代化が作り出した普遍のアイディアは今日では資本主義の標準化すなわちグローバライゼーションのモンスターまでに成長した。近いうちにアニミズム紀行は日本農村の旅に展開させるが、そうなってくると私の今の建築観が少しは皆さんに解ってもらえるのかも知れない。21 世紀農村研究会もそのために在る。5月の連休ごろに全国大会を開催するから参加されたい。アニミズム紀行6はその準備号の形式をとるだろう。

今日から、時間を見つけてアニミズム紀行5に一冊一冊ドローイングを入れてゆく作業が待ち構えている。手を抜いたらすぐに崩れかねぬ作業だ。まさに5号で書き記した終のすみ家作りをやっているようなものなのだ。八時過メモを記し終わる。

158 世田谷村日記・ある種族へ
二月十九日

十時至誠館厚生館愛児園でK理事長と打合わせ。十二時前迄。十三時半新大久保で図面渡し。その後 21 世紀農村研究会の件で動く。動きながらスケッチ。十六時半スケッチを研究室に送付。動きながら良く考えられるものだと我ながら不思議。やはり原稿書いたり、雑用したりよりは細胞がはつらつと動くのだ。二十一時世田谷村に戻る。WORK。二十四時半就寝。

二月二〇日

七時起床。今日は陽光におふれ暖かい。愛児園と連絡。八時四〇分K理事長と連絡。今日は難波和彦さんの東大退職記念最終講義である。安藤忠雄、鈴木博之、難波和彦と潮が引くように東大建築教室を退職した。この潮の流れの変化と、転形の姿は眼に視えるものとはならないだろうが。十一時半過世田谷村発、東大へ。

157 世田谷村日記・ある種族へ
二月十八日

十一時前研究室、打合わせ。昨夜来のWORKスケッチをスタッフに伝える。十三時ヨルク・グライター先生来室。十四時グライターさんと近江屋でランチ。三年振りなので沢山な話がある。十六時前研究室より図面届き、チェック。まだスタッフとフィーリングが合っていないが、なんとかしたい。NTT出版、学芸出版より連絡入るも、仲々密実な対応ができず、すまない。十七時まだ話し足りずに新宿に移り、話し続ける。グライターは新潟の長岡泊なので、そう長居もできず、十九時頃別れる。ニーチェ研究はドイツ人らしく着々と進んでいるようだ。彼も完全に独立した建築領土の思想の島の住人である。ブレないところが似ているのだ。ワイマールではニーチェ学会の会長を任じている。

何年も前に私も彼のアレンジでニーチェハウスに宿泊させてもらったが、ニーチェが亡くなった場所がここだったと、スペースをグライターに示されて、遂に夜眠る時に燈を消せずに。恐怖とは異なる重圧を感じた事等を思い起こしたりもした。深夜にニーチェが晩年錯乱の中で弾いていたピアノの音が聴こえるとか、色々吹き込まれて、残念ながら眠れなかったのが懐かしい。6月にワイマールで会う事を約して別れる。

世田谷村に戻り、至誠館さくら乳児院・至誠館なしのはな保育園複合建築の件で諸々の連絡、および対応。二十四時就寝。

二月十九日

六時目覚める。今日は陽光が洩れている。WORK&少し計りの読書。寝床のまわりは積み上げた本が崩れて廃墟の中に寝ているようだ。昨日聞いたのだが、グライターさんはイタリアの大学に勤務しているのだが、自転車に乗っていて大ケガをして、顔が変形してしゃべる事も不可能になったそうだ。大変なショックだったと言う。友人達は皆平穏そうに気丈に振る舞ってはいるが、それぞれ山あり谷ありの現実なのだろう。それぞれに年令なりの苦難にも対面しているのだろうと憶測もする。しかし、それに流されるわけにはいかないのだ。生きている間は少しでも前に歩き、時には走りたいものです。

156 世田谷村日記・ある種族へ
二月十七日 

十一時前京王稲田堤至誠館厚生館。十一時K理事長打合わせ。この仕事は私が隅から隅迄目を通し、手も動かすつもりでやっているので、返って速力が遅くなるきらいがあるとクライアントには映るようで、これは私の不徳である。意が通じるように努力したい。十二時四〇分、了。十三時四〇分研究室へ。打合わせ事項伝達。作業に入る。

十四時過入試空間表現採点。T社来室。十七時半梅沢良三先生、チーフスタッフと来室。至誠館建築打合わせ。構造の基本の大方を決定する。計算に入っていただく。コストに関しても梅沢さんと僕の読みはほぼ一致する。スーパープロとの打合わせは心地良い。十八時半終了。十九時半迄内部打合わせ。グライター氏より連絡あり、明日会う約束。二〇時より夕食をとりながら打合わせ。至誠館建築玄関廻り仕様を決定する。二十一時半了。二十二時過世田谷村。

遅い夕食の後、至誠館建築WORK。二十四時過横になり、スケッチを続ける。乳児院と保育園が複合し、なおかつ隣地に至誠館厚生館愛児院があるという、子どもと先生方の王国とも言うべき計画で、良い建築にしたい。〇二時迄WORK。

二月十八日

六時目覚め、寝床でスケッチ。今朝、連絡しなければならぬ事は多い。小雪降り続き、今日も寒い。子供にとって、特に乳幼時の子供たちにとって建築は家の延長だろうし、別世界でもありたい。でも記憶に残る何者かでありたい。十時発。

155 世田谷村日記・ある種族へ
二月十六日

十一時R君世田谷村に来る。近くのソバ屋宗柳で話す。我ながら馬鹿な事をしているな、と知るのだが、途中でほうり出すのもイヤだ。R君の困難さは我々平和ボケ気味の民族には計り知れぬものがある筈だから。十三時迄。R君に一つの決断を促して別れる。後、雑用。

十七時前世田谷村に戻り研究室で作業を続ける。厚生館設計チームの作業をFAXを交じえてつづける。アニミズム紀行5は順調過ぎる程に予約集中らしい。ところが、残部7冊になったアニミズム紀行3が動かない。アニミズム紀行3は440部刷って、研究室に保管が20冊程、読者には420冊を用意した。413冊迄手許に無くなったところで動かなくなった。このサイトを読み流す人間は増えているようなのはサイトデータでわかっている。でも有料の絶版書房は仲々売れてくれない。これは仕方ない事なのであろう、気長にまだ会えぬ読者を待つしかない。

二十三時二〇分烏山駅でスタッフと会い、図面他を受け取る。二十四時前戻る。図面チェックして〇二時就寝。

二月十七日 

六時半起床。WORK。七時半再び横になる。八時半再起床。今日も寒い。十時過厚生館へ。

154 世田谷村日記・ある種族へ
二月十五日

十一時R君の未発表修士設計を見る。彼は国籍を移さずに日本在住の学生として建築設計のトレーニングに励んだ。研究室入室まで復数年を要した。

絶版書房のアニミズム紀行1、2の表紙デザイン等にも積極的に関わった。秘かに期待していた学生であった。修士論文・設計発表当日彼は姿を見せなかった。模型やパネルはすでに学校に運び込んでいたと聞いた。電話連絡しても出ないと言う。今日、面談して尋ねるに、「将来建築設計を続けてゆく確信が持てぬママに、このような修士設計を発表する事の意味そのものに懐疑的になった。」と言う。

しかし、よおく考えてみるならば修士設計の大半はそのような矛盾に目をつぶりながら成就される。修士設計のテーマ、方針がそのまんま彼や彼女達の将来につながっていゆくとは考えられぬものが多いのだ。数ヶ月先の職場の事を考えれば、修士設計のテーマの続行の困難は明らか過ぎる位に明瞭なのでもある。しかし学生諸君はそんな矛盾は片眼で眺めながらも突き抜けて進まねばならぬ。生きる事、生活する事は理念を持てば持つ程に矛盾の固まりなのだ。

そんな風に考えるならR君の決断は余りにも、ガラス細工のように繊細でもろい。R君の考え、将来へのプランなどを聞き、相談しながら、これは並みなみならぬ相談をしているなと実感した。私の一言、私のアドヴァイスらしきがR君の人生の枠を決めかねぬのを知るからである。

R君はモノを作るのが本当に好きで、モノ作りには関わっていゆきたいと言う。私はその意志を貫徹したらと言った。その言はR君にも私にも実に重いのだ。この重さは明らかに教育者としての私が持たざるを得ない重さである。本来モノ作りとしての私はそれから自由であるべきなのは良く知っている。でも仕方ないのである。何とかR君の道筋をデザインしてみる。余計なお世話でもあろうが、そうしたい。

二月十六日 

四時半起床。WORK。十時前伊丹潤さんに連絡。近々お目にかかる事となる。昨秋作品集をいただいた半年遅れの御礼を申し上げる。ソウルの宗廟を地面に座ってスケッチした体験は私にとってはかけがえの無いものであった。大地と石の生霊が少し体内に入り込んだのであろう。そんな事共を伊丹さんに話してみたい。

153 世田谷村日記・ある種族へ
二月十三日

十三時西調布。中学生になったと思われるMちゃんからチョコレートをもらう。十六時半ニューオータニ、なだ万さざんか荘。十七時始まりの予定であったが、安藤忠雄さん、すぐに現われる、流石用意周到である。音も無く現われた。鈴木博之、難波和彦、伊藤毅各先生全て定刻前に集まる。今日は安藤忠雄さん主催の難波和彦先生東大教師御苦労様でしたの会である。

細雪が降っていたので、雪見の会になった。生々しい話し、生臭い話共に一切無く、枯れかじけて枯淡とも言うべき会であった。幽玄と言うべきか。でも世阿弥の幽玄には程遠く、時に抜身がキラリと光るのであった。親友であればある程に油断大敵なのである。

さざん花荘は村野藤吾の晩年の名作数寄屋である。竣工した当時拝見した事があったが、安藤さんのお蔭で久し振りにゆっくり体験させてもらった。友人達との気のおけない会話が当然主であったから、背景としての建築のしつらえは全くと言ってよい程に目に入らず、気がついてみればそれが達人の技と言えば技なのであろう。しかし、照明器具等の細部に込められたエネルギーは異様なものであり。職人達は嬉々として苦労しただろう。その意味では、この数寄屋はアーツ&クラフツ運動の系譜にある。又、柱の細さは異様であり、何となく、何となくですよ、フィリップ・ジョンソンのニューキャナンの自邸下の有名な、縮尺をゆがめたパビリオン建築を連想させるのであった。

十九時半過迄。楽しみは尽きなかったが。楽しみには終わりがある。二〇時半の汽車で大阪に帰る安藤さんを見送って、我々は新宿へ。

さざんか荘から急転直下、南口魔窟台湾料理味王へとあいなった。さざんか荘の超高級和食の後で喰べるモノもなく、ただただ無駄話しで過した。これも又、終りが来て、二十一時半頃散会。

二十二時半世田谷村に戻る。

二月十四日 日曜日

朝からNTT出版の、まえ書き、と、おわりにを書く。金曜日にKさんより命じられた分はこれで全て終了である。十五時半頃までそれでもかかる。むすび、でベーシーについて触れたので、菅原さんにベーシーのところだけ校正刷りを送り、チェック願う。すぐに赤がドーッと入って返ってきた。やはり、菅原さんも音の世界、ジャズの世界には厳しいな、流石だ。

昨夜も、ビールにまぎれて、鈴木博之さんにフィリップ・ジョンソンとミース・ファン・デル・ローエ評価を逆転させる方法はありやと問うたら、バカ言え、そんな話しに耳を傾けるのは磯崎新くらいだろう、と一蹴された。マ、仕方ない。友人程に厳しいものだ。

十八時、ニューサイエンス社、四季の味、原稿4枚書く。十九時、今日の仕事全てを読み直し始める。アニミズム紀行5は順調に売れているようだ。

152 世田谷村日記・ある種族へ
二月十二日

十二時過、石山研卒論テーマ説明会。渡辺、ウォーラル両氏と共に。十三時半博士論文審査分科会。十七時過迄。空腹にて渡辺君と回転寿司。回転寿司は要するにサンドイッチだと思えば良い。修士生が二川幸夫さんのところに就職が決まり、あいさつに来た。これで一人を除いて、皆行先は決まった。来年は厳しそうだから、色んな方に力をいただく事になるだろう。その後席を移して、石山研春のゼミについて話し合う。二〇時過世田谷村に戻る。寒い一日だった。

二月十三日 土曜日

昨年の秋に送っていただいた伊丹潤さんの作品集(主婦の友社)を昨夜から眺め入り、今朝も続けた。韓国と日本を往復しながら、建築を作り続けている建築家である。送っていただいた時にはサッと眺めて、深入りはしなかった。最近になって何かがひっかかっていて、引張り出して眺め入り、文章も読んだ。

かつて唐十郎は日本と韓国は(朝鮮半島はと言い直すべきか)シャム双子だと言い放ち、唐の中でも良品であった二都物語り等の脚本を書き上げた。金芝河とも交友を結び、ファナティックではあり過ぎたが、そのあり過ぎるところ過剰なところの中枢らしきに力があって、一時的ではあったにせよ観客を遠く迄運んだのだった。一時的であったのは演劇の宿命であり、唐の責任ばかりとは言えない。

唐の当時の劇団状況劇場には李礼仙という立役者が居て、華であり、唐は李に対して脚本を書き続けていたのでもあった。女役者は老いる。華の影は失せる。唐も老いて、ファナティックなエネルギーは自然に消えた。

吉本隆明が唐版風の又三郎に関して批評を残している。唐は宮沢賢治に届いていない。ましてや世阿弥には遠く及ばぬというような内容であった。

若かった私はそれを読んで、批評家といのは随分なハッタリをかませる者だな。生意気でいいんだなと感じ入ったものだ。

柄谷行人も唐に関しての小エッセイを残している。おそらくは特権的肉体論を介して、体当り的、特攻隊的でイヤな感じであったが、脚本他を読むと、フロイトを下敷きにしており、見直した、と言うようなモノであった。

伊丹潤の作品集に眺め入りながら、私はそのような記憶を思い起こしていた。創作の主体そのものの複合性とでも言うべき事。そして批評=歴史との関係とでも呼ぶべき事共についてである。

伊丹潤の作品群の中に、白井晟一らしき、あるいはドローイングの中に高松伸らしきを視る事は容易である。全作品を通して解りやすい形態他の引用元を指摘するのも容易である。しかしながらそれを指摘する矢は同時に我身をも撃ってくるのである。

これが近現代の造型家、特に韓国や日本の建築家の宿命なのだ。もともとの近代の元祖が輸入モノであることの悲劇と喜劇の同時併存である。

白井晟一も高松伸も共に典型的なまがいの建築を作り続けた。しかも、自らのまがい性を充分に意識する事が無かった。

ここまでまがいと言うのは話せば長くなるので、このサイトの図書館のページにフィリップ・ジョンソンのミース・ファン・デル・ローエの本物性に対するまがい性の現代的な意味についての論考があるので参考迄。

伊丹潤の建築は韓国と日本の近代、そして現代の悲喜劇的な、それはシェイクスピアのような劇作家でなければ描けぬような歴史性を帯びてさえいるのだけれど、それ位に本物なまがいモノである。今のグローバリゼーション下の世界を眺め渡しても、この二つの国のまがいもの性は突出している。そのような視界の中に伊丹潤の建築を置くならば、韓日両国の近現代建築家には一筋の光が視えてくるのではないだろうか。

まあ、これを読んだら伊丹さんは怒るかも知れないが、怒ってしまったらそれで創作らしきはストップしてしまう。私なりに伊丹潤の建築を凝視した印象である。

十二時過発、西調布へ。

151 世田谷村日記・ある種族へ
二月十日

十時修士論文,修士設計発表会。昼食をはさんで二〇時過迄。

今日は古谷研究室,入江研究室、修士論文に秀逸なものがそれぞれに一本あったのが収穫であった。修了後、合否判定。修士設計賞論文賞を選ぶ。今年の先生方の議論は真剣で良かったと、身内を賞賛したい。早稲田建築の将来をみな考えているのを当たり前だが知る。

もう私の仕事ではないが、次の早稲田建築のヴィジョンは今の系の解体と芸術系、技術系への大きな二分化ではないか。私だったら芸術系の一部の研究室と早稲田文学の一部で共同連携ゼミナール位はやるがね。早稲田文学も三田誠広くらいを教師にしているようでは全くどうかなと思うが、文学部にも文学部なりの俗な政治力学が働いているのであろう。勿論、最近の女流小説書き達も駄目だ。アレなら早稲田建築の女学生の方がまだましだろう。と暴言を吐きつつ研究室に二十二時戻り、修士学生達と小さな会。二十三時十五分発。二十四時世田谷村に戻る。やっぱり疲れた。

二月十一日

今日は休みらしく、私も普通に休む事にした。九時過迄眠りこける。寝床で、姫田忠義対談集 I ・ II 読む。やっぱり、網野善彦氏との対談が群を抜いてよい。人間は対手によって生きたり、生きなかったりするものだな。しかし、ここでは家が庭が畑が、極々自然にアニミズムの発露として語られている。彼等の歴史観のタイムスパンは要注意だ。レヴィ・ストロースが古層と現代が日本では隣り合わせにあると感じ入ったのは、姫田や、他の文化人類学者の感性そのものに触れて、触発されたんじゃあ、あるまいか。

姫田忠義のまっとうさにいささか、へきえきして、古いatの賀川豊彦特集を繰る。山折哲雄のマハトマ・ガンジー他に関する小さなエッセイが面白かった。ガンジーが意図的に母性を獲得しようとして、若い女性に添い寝をした。自分の中の男性を意識せざるを得ず、それを発表してから苦境に落ち入り、暗殺された。つまり母性というのは女性だけの特権ではなく、ある種の男性の目指したものでもあるという歴史的事実がある。石山研の今年の修士設計の最良のモノは母性を巡るものであったが、アレはジェンダーの壁を超えてはいない。マハトマ・ガンジーの無抵抗の抵抗という究極の平和主義の母体も又、母性の意図的構築を目指した男性思想家によって成し遂げられたという歴史も、女学生は学ばなくてはならないのではないだろうか。

夕方、猫のエサと猫の便所の小石を買いに出る。スーパーの猫のエサは実に豊富で、懐石とか、グルメ何とかとか、人間のエサより高級なのではないかと憮然とする。ウチの白足袋も最近太りやがって、ビービーわがまま放題であり、少したしなめなくてはなるまい。と、言ってもなぐるわけにもゆかず、メシを喰わせないわけにもゆかず、どうたしなめて良いのか不明である。ネコの教育はむずかしいぞこれは。人間の方が楽なのかも知れない。

二月十二日

自分の中でスケジュールがいささか混乱してきたので、申し訳無いと思いつつ、難波和彦さんに確認する。案の定四層構造的に明晰な答えが帰ってくる。明日が安藤忠雄さん主催の難波さん教師生活御苦労様の会で、N万S荘の晩飯。来週が難波さんの最終講義 IN 東大で十三時より、十五時より製図室で懇親会である。つまり週末は二週連続難波さんサッタデイ・イブニングになるのだとの事である。

明日の会は一般参加は勿論ナシだが、来週土曜日二月二〇日は私も参加する位だから、誰でも受講OKだと思う。難波さんはここのところ最終講義の準備を綿密に続けてこられたようなので、私も実は大変期待しているのだ。東大は安藤忠雄、鈴木博之とここ数年名教師が連続退官し、今年の難波和彦教授退官となった。皆、私の良き友人達でもあり感ずるところ大である。難波和彦最終レクチャーに関しては来週、日記と設計製図のヒント双方に記したいと考えている。

ところで、私の退官もあと4、5年程である。私は最終講義はしないと決めているので、08 年の世田谷美術館の 24 回のレクチャーが最終講義だ。一足早く講義録もまとめている。何故、最終講義をしないかと言えば、その頃には友人達皆老いて、誰も足を運ばぬだろうと予測するからで、わざわざ、そんな事をやるまでもない。

今日は卒論のテーマ発表日である。若い学生の指導はそろそろ若い後輩に任せてみようと思い、今日の説明会は渡辺大志さんに概要を述べてもらう事にした。その方が学生達にも良いだろうと考えたのである。10 年 20 年先の事を考えればそれに限るのだ。私は作る方へ専念したい。こっちの方はまだまだ先へ進みたい。十時半過ぎ世田谷村発、雨が小雪になった。

150 世田谷村日記・ある種族へ
二月九日

十時修論発表会。石山研は母性をテーマとした修士設計が秀逸であった。ル・コルビュジェとシャルロット・ペリアンのデザイン、計画の関係性に着目し、それを自身に適用しようとしたもので、これは歴然と学部の水準を超えていた。ネバダのネイティブアメリカン居留地の核廃棄物投棄フィールドの計画も、テーマは面白く興味深かった。テーマが壮大過ぎ、テーマに喰われた感あり、しかし、良い試みである。将来に期待する。論では素人のデザインの不可能性をテーマにしたものの次の展開が楽しみである。修論は実は一生の財産になることがあるのだ。昼食をはさんで十五時三〇分まで。

加藤先生と近江屋で一服して早々と世田谷村に戻る。

二月十日

七時起床。メモも記す。今日も発表会で、天気も曇天でうっとうしい。いい人材に出会えるかな、楽しみと失望の予測が入り混じる。

九時発。十時会場。昨日のグーグル検索数石山修武は異常な数で、気味が悪い。あんまり良い気持ではない。変なフィールドに入ったのだと思う。

149 世田谷村日記・ある種族へ
二月八日

九時発、一カ所立ち寄り、十一時研究室。打合わせ。十四時S社S氏冨山より来室。十五時研究室OB光嶋君来室。ドローイング、版画を見せてもらう。こういう事を続けている日本の若い建築家は特異な存在であるのだろう。健闘を祈りたい。十六時加藤先生来室。設計製図のヒントの草稿をいただく。

十七時発。八重洲小樽で清水氏とネパール・キルティプールの打合わせ。座を外し、十八時二〇分発。十八時四〇分八重洲富士屋ホテルで結城登美雄氏、渡辺君と落ち合い、再び小樽へ。21 世紀農村研究会打合わせ。

今日も結城氏は千葉その他を眼一杯に廻ってきたそうで、聞けば五日間連続での移動だそうだ。21 世紀農村研究会の具体的な活動方針他を確認し合う。結城さんは恐らく今、日本の農と食に関しては第一人者であり、実に適確な見識の持主でもある。彼に導かれながら、現実に 21 世紀型農村モデルを幾つか実現したい。その為には何でもする。途中より農文協のK氏参加。二十二時散会。二十二時過ぎ世田谷村。

二月九日

七時起床。昨日絶版書房アニミズム紀行5の予約を開始した。6が大体私の手許で形になり始めているので、早く絶版したい。最近の我々のサイトの編集には随分力を入れていて、それなりの成果らしきがようやく現れ始めているのが、データには表れているのだが、実に実感は稀薄である。これが情報時代の身体の特色だろう。この潮流にスッポリとはまってしまえばさぞかし楽なのであろうが、危険極まりないのを知る。

今日、明日は終日修士論文・修士計画の発表会である。朝いちで 21 世紀農村研究会の昨日のまとめをする。結城登美雄と私が組んで出来る事の的をしぼれば少しは世の為にはなれるのではないか。九時世田谷村発、修士発表会会場へ。

148 世田谷村日記・ある種族へ
二月六日

九時河野鉄骨河野氏来。現場へ、物件を見て打合わせ。十一時了。

宗柳で昼飯、相談を続ける。十三時迄。新宿長野屋食堂にて、NTT出版講義録十講手入れ。新大久保ラーメン屋にて十講手入れ。講義録ゲラ抜きは食堂シリーズの趣きを呈してきた。大衆食堂の健全な空気が本に染み込んでくれれば良いのだけれど。ラーメン屋でスタッフにインタビューしてもらって了。十七時過世田谷村に戻る。

二月七日

六時半起床。NTT出版よりの講義録、十講、十一講に手を入れる。十一講は光について、ルイス・カーンのブリティッシュ・アートセンター、十講はフォルムについて、ル・コルビュジェのラ・トゥーレットの僧院。十時におわる。これで山は越える事が出来た。何度か全体を通して手を入れたので、だいぶん、こなれて読みやすくなってきたように思う。

第一講バラック浄土、第二講「錆びたポルシェとノアの方船」から十一講「光について」迄。つまりバラックから光の荘厳に迄、思えば長い旅であった。私の二〇代から六〇代半端までの小さな歴史の旅でもある。自分の講義本の校正ゲラを面白いと書く愚は知らぬでもないが、ハッキリと知っているのだが、それ位の事は。でも面白かった。しかし、建築は底知れぬ力を持つ。ここ迄自分を夢中にさせる力があるのだなと実感する。

十二時、どうやら昨日一ノ関ベーシーの菅原正二より朝日新聞東北版に連載中の「 swifty の物には限度、風呂には温度」が送付されてきており、読んだ。友人の書くモノには当然ひいき目があるのだけれど、それを知っていても面白い。感心してしまう。第四八話バイ・バイ・ブラックバードである。是非何等かの手段を講じて読む事をおすすめしたい。

何があったのかどうか?ここしばらくは実物の本人にはお目にかかってはいないけれど、紙面の断片で彼の書くモノに触れるに、今さら言うまでもない、菅原は、年令に達しているのだけれど、されどもです、まことに一皮ムケちゃっているのである。

菅原は「今の坂田明はとても良い。良くなった」と何の脈絡も無く良いつのるのを聞く事しばしばであったが、アレは自分の事を坂田の鏡に写して言っていたのかと、知るのである。

一部折角だから紹介しておく。要するに、一九六〇年前後に作られた英国デッカ社の「デコラ」という古いけれども、ちょうど良い感じでリビングルームで聴ける本物の電蓄で、ベートーベンの「皇帝」を聴いて、茫然自失した。ベーシーの知る人ぞ知るオーディオは一種の「遠隔病棟」である。ちょうどいいところ、つまり普通の身の程を知る音を目指したい。と、そういう事が書いてある。

私は笑った。ちょうどいいところを目指せる人ではないのを知るからだ。ほとんどノイローゼ状態、心身離脱状態にまでベーシーの狂音が鳴っている気配を感じる人間がまだかろうじて生存しているからこそ、ベーシーには遠くからのマニアの巡礼が続いているのである。

それはさておき、菅原正二が一皮ムケたなと痛感するのは書いている内容の事ではない。彼のコラムの文体らしきもの、文章づくりの手付きらしきが、すごくわかり易くなってきたのに驚いている。わかりやすさは時にキッチュな風、クリシェの風を帯びて品格を欠くのが多いが、菅原のこのコラムの文体のリズムといい、バックに流れる音感らしきは実に独特なモノに昇華し始めている。口惜しいけれども、そう言わざるを得ないのである。

一昔前にあった、「ベーシーの選択、聴く鏡」などにあった、まだ肩肘を張って、抜身の刀を腰にブチ込んで一ノ関の木枯らしの街をゆく、というようなところが、少し影をひそめた。まだ残るけれど、全部失くなったらそれでおしまいなのだから、尾底骨はまだ残っている。マ、なにしろ素晴らしい。早く本にしろといいたい。

ことのついでだ、もうひとつ短文について、UP2の「三枚の鏡 クロード・レヴィ=ストロースと東アジアの宗教言説」中島隆博を面白く読んだ。私は今、イスラム建築に大きな関心を持つので、悲しき熱帯におけるレヴィ=ストロースとイスラムから始める評は、菅原のコラム程にわかりやすいものではないが、これは文章が下手なだけであり、考えようとしている事は伝わってくる。明日、この人の書いたモノは検索してもらおう。

十七時発。十九時前京王プラザホテル地下階和食レストランで和光市のファミリーと会食。気持の良い方々であった。二十時十五分新宿西口で渡辺君と待ち合わせ。二十一時東京駅八重洲富士屋ホテルへ。結城登美雄を待つも現われず。当り前だ、会う約束をしないで勝手に待っているんだから。

手持ち無沙汰で、渡辺君と明日からの絶版書房予約受付の方法等を相談する。アニミズム紀行5は少し沢山刷ったけれど、今迄の反応ではアッという間に売り切れそうなので、読者の皆さんにはもう残冊がどうだ、こうだとのサービス過剰なお知らせは一切しない。売り切ったらそれで絶版です。

二十二時半迄、ロビーで明日のサイトのデザインやら何やらの作業をして、もうコレワ今夜は結城さんには会えんなと思い切り、フロントに付け文と 21 世紀農村研究会の書類を残し寒風吹きすさぶ中を東京駅まで歩く。と、遠くあちらの方から何やら見覚えの在るお地蔵さんみたいな影がトコトコとやってくる。やっぱり、結城地蔵なのであった。スマン、スマンと彼は言うが、全く何も彼が悪い事は無い。勝手に待ち伏せていたコッチが悪いのだ。明日十九時に会おうと別れた。結城さんは島根からの帰りだ。超売れっ子だな今や。うらやましい。

二十三時半世田谷村に戻る。ベーシーの菅原正二より、FAXが届いていた。今日の日記のメモを送ったので、返信である。何故か安心して、二十四時半眠りにつこうとしている。変な一日であった。

147 世田谷村日記・ある種族へ
二月四日

十時過研究室、打合わせ。十時半中川武研究室。博士論文審査会。プレアンコール遺跡に関するモノ。若い研究者がカンボジアにとどまり、アジアの中世・古代史とでも言うべき研究に身をていしているのに触れるのは深い感動を覚える位だ。今となっては私は学問としては異領域に属するとしか言い様が無いが、深く歴史学の本質は体で理解している。私はアンコール遺跡、プレアンコール遺跡に関する詳細を議論する能力は無いが、その本質的な価値はわかる。若い研究者特有の表現の若干の上滑りは少々感じたが、骨組みはしっかりしている。

こういう研究に接すると、二〇代初め、田辺泰、渡辺保忠両史家の許で、北向きの、全く陽の当らぬ研究室で、カビの匂いを嗅ぎながらチョッとは勉強していた事を痛切に思い出す。あのカビの匂いこそが歴史学の中に在るアニミズムだろう。わかりやすく言えば、プレアンコールの遺跡に眠るモノの実体はアニミズムであり、若い歴史家の眼はそれを視ているのだと想う。

これからも深いアンコールワットの森の中で独人研究にいそしむのだという若い研究者の気持の奥にあるモノに共感を覚えた。私も建築学の極微を担う気持は持ち続けている。だからこそ、アニミズム紀行を書き続ける。若い研究者、中川武先生、佐藤滋先生等と昼食の弁当をいただきながら、何か深い安堵の気持の中にあった。こういう気持はその場で表わすモノではないので、敢えてこんなところに記すことにする。よい将来を。

十四時教室会議。卒計判定等。若い設計者の卵たちに、こういう若い学者の気持のような深さが、いずれ宿るのか、不安である。

十七時、再び中川研究室で、今度はベトナムの木造建築に関する博士論文審査会。論文報告に接しながら、強いインスピレーションを得る。木造建築による曲線、曲面の表現に関するモノであった。これも又、アニミズム紀行6に書いている途中のモノだ。中川研に来ると、不思議に良いインスピレーションを得られるな、DNAだろう、田辺・渡辺先生を思い出すのである。いつまでたっても頭が上がらなく、何でも受け容れようという気持になる。

十八時講談社S氏来室。アニミズム紀行3、4買っていただく。他、諸々の相談。有能有為な人物であり、何かを共にしたい。二〇時過迄。明日に向けて歩きたい。やらねばならぬ事は山程にある。二十二時過帰宅。良い一日であった。私も若い研究者に見習って学ばねばならない。初心忘れるべからずだ。

有難いことに絶版書房アニミズム紀行4は絶版となった。3はまだわずかの残冊がある。頑張れ、3。こうなってくると本に対するアニミズムだな。

二月五日

早朝、諸々の連絡とメモ作業。朝青龍引退、残されたモンゴルの横綱白鵬の涙が印象的である。勝負の世界の残酷さと、清々しさが赤裸々に表現されている。朝青龍は格闘技なんかに転業せずに、モンゴル実業界の龍になって空を舞って欲しい。私も舞わずとも、歩き続けたい。

今朝はこれから早稲田野球部OB元投手、毎日新聞元論説委員六車氏と会い、色々のプロジェクトの相談である。六車氏は死んでしまった元早稲田野球のエース三輪田投手の同期の投手であった。三輪田はイチローを見出した名スカウトであった。プロの投手としては大成し得なかった。その三輪田と早稲田野球部のマウンドで、初めてとなり合って投げ、その球の速さに息をのみ、野球選手としての限界を瞬時に悟り、スポーツ記者に転身した男である。人間様々な生き方がある。これも又、酷薄で清々しい人間模様である。勝ったイチローだけが本当の勝者ではない。イチローも大リーガーを引退してからの人生こそが本当の現実に対面する事になるのだろう。ともあれ、スポーツの本物の世界は見事である。これも又、一つの径を突きつめるのに、学びたいものだ。まだまだ青二才だ私は。若い本物達に負けずに努力しなければ。

146 世田谷村日記・ある種族へ
二月三日

十時大会議室で卒計発表会。昼食をはさんで二十一時迄。その印象他を今記す事はひかえる。何しろ若い人材を育むに、楽天的になる事も、悲観的になる事も、共に困難な時代を我々は生きている。学生も又同様であろう。

大きな模型をいくつも次々に会場に運び込む学生達の姿を見るに、複雑な想いを抱いた。この大きなエネルギーの消費を強いているのは教員の側の無為にもあるのではないかな。ある意味では卒業(現実的にも精神的にも)しない学生に卒業計画は呼び方もおかしいかも知れないな。第五課題位の感じがよいかも知れない。これはつまらぬ独り言である。

「atプラス 03 」特集「生きるためのアート」送られてくる。一読願う。

二十三時寒い中を世田谷村へ戻る。

二月四日

六時半起床。読書。メモ他。昨夜、ブラジルのT氏から電話あり。明朝、電話するとのことだったが、まだない。ブラジルの人間は実におおらかで、それがこちらに伝染していて待ってもイライラしないのが良い。イライラ。

145 世田谷村日記・ある種族へ
二月二日

十一時打合わせ後卒計採点。一点良いモノがあったのが収穫であるが、その一点も 90 点がつけられず、いささか低調の極みであるのは否めない。システムとして仕方ないとは言えない。三年次のシステムはほぼ完成したので、次は四年次と二年次を見直すべきだろう。昼食後雑事。十六時中川研博士論文審査会。神社の様式命名に関するモノで、いまだにかくの如き研究を続けている人材がいるのは、何とも安心感があるものであった。こういう学者がいなくなると、史学は崩れるのだろう。筋金入りの古さだ。

二月一日の石山研サイトのデータ出て、今年一番のヒット数となり、トップページは、いわゆる表紙も良く見られるようになっていた。久し振りの一日二万ヒット迄届くところであった。グーグルによる被検索数データも百七〇万件となっており、我々としても実感の薄い異様な数字である。私の記憶では昨年春には七万位の数字であった筈だから、この数字の延びは何とも理解しづらいのである。日々の更新努力だけでこんな数字が出る筈もなく、恐らくはグーグル側の検索能力が進化したのだと考えるしかない。

ともあれ、この数字をベースに、次段階の戦略を考えねばならない。しかし、サイトによるコミュニケーションとは空恐ろしいものだ。

長野屋食堂にて、スタッフにこの空恐ろしさについてインタビューしてもらい二〇時過世田谷村。

二月三日

六時起床。昨夜は帰宅後NTT出版の講義録7講に手を入れたが、手を入れながら、このペーパーメディアはどんな意味があるのだろうと、いぶかしむ事仕切りであった。二〇〇八年夏の世田谷美術館での二十二講の「真夏の夜の夢」と題した連続講義を一年半かけて成熟させ、耕したモノであり、サイトとは時間のかかり方がまるで違う。サイトの命は速力であり、パーパーも又、それに対抗する反対の位置の速力だろう。重いゆっくりした速力、時間をペーパーには内蔵させるしかない。今、こうやってメモしている瞬間にも世界中で百何十万件の検索が私のサイトを通り過ぎている。

恐怖さえ感じざるを得ないが、最も恐ろしいのはその数字の実感が私には全く無い事だ。私および石山修武研究室への眼に視えぬ空中戦の如くが凄惨に繰り広げられていて、それを私は全く実感できない。刻々とグーグルの数字だけがそれを示すだけである。

K氏によれば、対談とか、シンポジウム等の形式はネットでは即中継できて、現場からの帰りには、その速記録のようなペーパーを本のようにして客に渡すような事が現実になされているようで、私はその様な試みは益々ペーパーの価値を落としめるものでしかないと思う。やっぱりペーパーは時間をかけて釀造するしかないのである。

八時過、NTT出版講義録8「水晶宮からサー・ノーマン・フォスターまで」、手を入れおわる。小休。九時発。十時大会議室、卒計発表会。

144 世田谷村日記・ある種族へ
二月一日

午前中諸々の打合わせ。十三時NTT出版K氏来室。「生きのびる建築(仮)」のゲラ渡される。一講〜十二講の第一冊分を十二日迄に見る事になった。実は今朝は第一講を歩きながら校正してきたのだが、我ながら面白かった。でも、こんな事してたら事故に会う。

十五時半K建設、東北仙台アトリエ海佐々木氏来室。打合わせ。十七時再び研究室ミーティング。市根井さん制作の木工品が送られてきたので、それの値付けと命名。十九時過迄。アニミズム紀行5の最終ゲラ渡し・打合わせで印刷所担当者来室。本当に良くやっていただいている。ベーシーの菅原の話しが出て、驚く。世間は狭い。

今日は坂田明からメールが届き、彼のページの「サカタ式」に無断でオマエさんの事書いたから許せ、という事であった。実ワ、この人物も又、私奴が信頼を寄せている、ホンモノ、彼等の業界ではモノホンな人間なのであり、最近の坂田の成熟振りは、ほとんど狂い咲き延々、とでも呼びたいモノであるらしい。うらやましくって、モチヤチです。二十一時半世田谷村。積雪でスッテンコロリンにならぬように用心しながら夜道を歩いた。

二月二日

六時起床。新聞読みNTTゲラ、第二講錆びたポルシェとノアの方船に手を入れる。八時了。メモを記し小休。九時第三講終了。小休。九時四〇分、第四講終了。今日はここ迄。

1月の世田谷村日記