至誠館建築現場日誌 06

20110112

建築は年末に上棟を迎えた。2階のテラスを皮切りに随所にカンボジアのレンガが積まれ始めている。このレンガはプノンペンのひろしまハウスで使用したもので、これが至誠館の現場にあるだけでどことなくメコンの風が吹いているような気にさえなる。メコンの土でできたレンガが持つアウラであろう。

工事は内装工事に入っているが、次第に建築の様相が明らかになっていくにつれて外構のイメージが気にかかるようになってきた。特に愛児園と挟まれたザクロの小径と私たちが読んでいる側の外構は園庭を囲み、建築内部からもよく見える。外部の園庭を内部空間のように感じさせるためにこの外構にもカンボジアのレンガを組み込む予定である。

2階の保育室や3、4階の乳児院からはレンガの手摺で囲まれた2階のテラスを眺める事が出来る。同じ視界に捉えることができるグランドフロアの園庭と、このテラスそして屋上の庭園をレンガの壁というボキャブラリーで繋ぎ、立体庭園の様相を呈することを狙っている。

ザクロの小径からすれば、この外構のレンガ壁は反対側の愛児園の生け垣、ザクロの外灯とともにここにインテリアを作り出す。それは緑とメコンの土に囲まれた生命力のある空間となるだろう。私たちがデザインしたザクロの外灯やタロイモの照明はその生命力の表現が生んだデザインである。

石山が言うところのアニミズム溢れる場がお母さんと子供、そして保母さんがここで談笑し、戯れることで発生する。

このカンボジア産レンガを組み込んだ外構によって、乳児院の側には立体庭園が、ザクロの小径にはある種族による場が現れることであろう。


絶版書房ウェブ行商日誌03

20101228

キルティプールの丘の家については15年前に書かれたアニミズム紀行5、6号で知ってはいた。実際に行くのは今回が初めてのことである。これは15年越しの出来事である。

私にはまだ手に余るところがあるのだが時間と純粋な立体について考えてみたいと思い、そういう視点から色々な建築を見たり作ったりもしてきた。今も密かにプロジェクトを考案中である。

中でもあるイスラム圏の国で見たムスリム王の霊廟は非常に印象深いものであった。詳細はここでは控えるが、おそらくアレが私の個人史の中での今のところの時間の建築を考える原点になっている。あるいはそう思おうとしている。それ以外の建築は事前に教育された情報によってそう感じるように操作されていると思う為である。生の感性で感じたものではない。ただ、何故ムスリム王の霊廟に触手が働いたのかを知りたいと思いイスラムの神学校について勉強しようともした。それは視覚世界から自由にならねばならないことを私に促した。

時間とは何かというような愚論を犯したくはないが、それは要するに歴史であり、歴史とは今眼前で起きている出来事である。そう考えれば具体的に自分の身に引き寄せて考えることができる。建築に歴史学の分野があるのは元来建築が事件そのものであったからでもあろう。

ムスリム王の霊廟も王の死という事件を形にしたものである。あるいは私たちが古典や廃墟を見て感慨深くなるのも、かつてそこで起きた事件を想起してのことであろう。それほどの力を現在の建築が持っているか。もし持っていなければそれは事件性という視点からは建築であるとは言えない。建築は建物を指して呼ぶわけではない。

どれだけ構造の明白な事件を造形化できるのか。そしてそれが王権によってではなく、市民社会の一市民である私に出来るのかは甚だ疑問ではある。

ムスリムの王の霊廟が現在を生きる私に好ましく感じられたのはそれが歴然とした形態を持たないことであろう。偶像を持たないにも関わらず、確固とした形式があることが建築全体にまで昇華されていることに共感したためである。それが私にムスリム王の霊廟への共感をもたらした。

先にも述べたように時間、つまり歴史は個人の中にもある。それが現代の多様化した価値観の生み出した歴史認識である。歴史は王だけのものではあるまいという価値観である。

キルティプールの丘の上のヒンドゥー寺院の修復をしながらの家の建設は寺院に流れる大きな時間とある個人の小さな時間が入れ子になっている。そしてそこに15年越しで訪れる私の時間が入り込む、ちょっとした時間の迷宮の様相を呈しはじめている。この家の実測調査のメモリの単位は何時何分何秒に変わりつつある。


絶版書房ウェブ行商日誌02

20101221

今は2025年、現地実測調査とワークショップのために数名でキルティプールの丘を訪れている。ここは2003年にトリブバン大学と共同でワークショップを行った場所でもある。最近はどうやら本格的に石山がキルティプールに拠を移したようで、かねてから計画していたヒンドゥー寺院の修復もようやく始まったらしい。

丘の麓から続く草原からキルティプールを眺めている。昔石山から話しは聞いていたのだが、確かに南北に二つの丘が盛り上がっているのが見える。その頃の記憶を辿ると確か南の丘に見えるのが仏教寺院で北がヒンドゥー寺院だったはずだ。その二つの寺院を中心として、その周囲にそれぞれ集落らしきシルエットがあり、草原からの風が丘の方へ吹き渡っている。

これからこのワークショップのドキュメントを随時ウェブページを介してみなさんにお伝えしていこうと思う。今日はまず今私が草原から見上げているキルティプールの丘の写真をアップしてみた。

北側の丘の方の集落には、確か石山の住処もあるはずだがここからはついぞ見定めることはできない。ただヒンドゥー寺院のストゥーパは2025年も丘の風景の中心にそのシルエットは確認することができた。あの辺りを取り敢えず目指していけば良いだろう。

丘の上には凧がいくつか風に吹かれている。子供たちが揚げているのだろう。風が心地よいので車の窓は開けたままにして丘へと向うことにしよう。


絶版書房ウェブ行商日誌01

20101213

石山から本日絶版書房6号の最終原稿を受け取ることになっている。今月中に校正して、年明け早々には発刊の見通しである。

6号には珍しく石山の建築論が長編で掲載されている。社会的な出来事や歴史上の建築などを取り上げながら語る建築論としては『生きのびるための建築』(2010年NTT出版)などが記憶に新しい。が、ひたすら自分の作りたいものだけでまとまった形で建築論を書いている場合は5号のようにシナリオ性が強く出されることが多い。

しかしながら今度の6号は完全に建築論である。

そして5号で物語調に描かれた2025年のキルティプールの丘の石山自邸が再び登場する。キルティプールの丘の家で石山は隣りのヒンドゥー寺院を修復しながら2025年を生きている。ツバメが飛び交い、子供たちが凧を揚げて知覚されるアニミズムの風が丘の上を吹き渡っているのを読者は感じたに違いない。

そしてキルティプールの丘のアニミズムの風がふたたび6号で、今度は建築論の形式で吹き始めている。

文字の形式で描写された5号の自邸と6号の建築論は5号に描き込まれた石山のドローイングが繋いでいるのが6号を読んでから5号のドローイングを見るとわかる。

とはいえ、このようにテキストで説明してもよくわからないであろう。私も同様である。そこで5号に登場するキルティプールの家を模型の形式で立体表現してみようと考えた。その方が私も読者と同様に楽しめるから。

掲載した写真は5号に描写された2025年のキルティプールの丘を実測調査して、家の情報を平面図の形式に落とし込んだモノである。

これは私のこれまでの体験と石山研での経験(プロジェクト)を踏まえた上で想像したものである。石山と私は三回りの年齢差があるため、おそらくこのスケッチと石山の想定しているモノにもそれだけのギャップがあるであろう。それ故石山がこれと同じモノを想定しているとは限らない。

5号の読者も同様にそれぞれの脳内にキルティプールの家が既に立ち上がっているであろうから、そちらを優先していただきたいと思う。

これはあくまで私の場合は、である。少しミヒャエル・エンデのモモの住処である円形劇場の廃墟の雰囲気が混入しているのはそのためである。灰黒色のレンガ壁に時間の概念を入れ込むためにモモの住処を模倣している。これから実際の立体にしていく過程でそれは微修正されると思う。

いずれにしても5号と6号はセットで読まれることをお薦めしたい。キルティプールの丘の家とそこでの生活は5号の世界観と6号の建築論の丘の上に立てられた伽藍であるとこのスケッチを描いてみて感じたことをみなさんにお伝えしたい。


至誠館建築現場日誌 05

20101208

午前中絶版書房6号の原稿を一読してから現場に出掛ける。

今日は天井仕上の一部の原寸型枠を持参することになっている。最上階の乳児院の子供たち、といっても主に赤ちゃんたちなのだが、身寄りのない赤ちゃんたちの寝るスペースの天井の一部にビロードを張り込めることにしたのでそのデザインを現場所長他に示すことになっている。

繰り返し述べているようにこの建築は、機能的なことだけではなく川崎市の補助金等の関係も含めて極めて公共性の強い建築である。それ故完成後のメンテナンスを極力フリーにし、万が一の場合の部品の取り替えなども可能なようにサッシュや内装に既製品を多く使用している。つまり製作部品が極小になるようにしている。

デザインが好きな設計者とすればややもすると飽きかねない場合があるやもしれない。しかしながら、この極度の制約は社会的構造を有しており、チャチなデザインよりは余程高度であることはこの現場の体験で十二分に理解したつもりではある。

そこで、このわずか3尺×6尺版二枚程の天井のデザインの問題である。ここだけは目一杯好きなようにやってもよろしい、とクライアントである保母先生からも、本音は簡単に作れるモノにして欲しいと願っている現場所長からも承認を取り付けてあるのだ。

身寄りの無い赤ちゃんたちにとってこの建築は故郷そのものである。そして毎日をこの部屋の天井を眺めながら過ごす。そういう子供たちにどのような天井を提供すれば良いのであろうか

私は典型的な日本の中産階級の家庭に育ったため、申し訳ないがこの施設で暮らす子供たちの心境は本当の意味では理解することはできない。それは予想するしかなく、しかも押し付けることしかできない。それでも出来るだけ良い天井を見せてやりたいと願う。

そこに消費的デザインが出てきようもないのは明白であるが、一方で私自身は日本の高度経済成長期が産み出した中産階級の真直中に育ち、消費的デザインに囲まれて育ったことは否めない。つまりあらゆるものは与えられて育ったのである。こういう言い方をすると非常に罰当たりで子供たちに申し訳ないのだが、そう言わざるを得ない。

誰からも与えられることのない境遇の子供たちの為にどのような風景を天井に描けば良いか、という命題は非常に高度な課題である。夜空の星を描いたり、あるいは空跳ぶクジラ雲を描いたりのロマンチシズムもあるやもしれないが乳児院の子供たちは保育園の子供達とも微細に感性がことなるかもしれない。こちらのエセヒューマニズムなどあっという間に透視して、乳児用ベッドの上でこちらの中途半端なロマンチシズムなど吹っ飛ぶような夢を見る子がいるかもしれないのである。

保母先生には「ここは目一杯やらせてもらいますよ」と豪語したものの、この天井のわずかな面積のグラフィックのデザインはなかなかにやっかいなのだ。子供のための画を描こうとすれば中途半端なロマンシチズムに陥り、これまで受けた建築教育を活かそうと思えば、例えば「なんだこれは、シュプレマティズムじゃないか」といった具合に返って滑稽極まる。

考えてもみればこうした子供のための建築自身も同じ問題に対応しなければならないはずである。K理事長は「子供たちのための大きな家みたいにして下さい」とおっしゃって、この仕事を任せて下さった。基本設計のときもそれは念頭に置いていたが、これまで受けた設計教育が建築の外観を大きな家の形にすることを当然のように拒否した。

結果としてこの建築の見た目は箱型となっている。当然只の箱とならないように、大きな家ということへの工夫が施されているがそれを語るのはまたの機会としたい。

少々脱線したが、天井のビロードのデザインではそのようなことを考えた。既製品の仕上の中に埋没せぬように、ここだけは少し細かい造作を現場所長にも依頼した。この天井を見た子供たちが何を想って夢を見るのかはわからないが、感動する感性を育てたいという園の方針に建築デザインが寄与できればよい。ナスカの地上絵を見るのも、あるいは洞窟の装飾をイメージするのも、それは子供たちの自由である。せめて子供達の数だけ連想の種類があるようなデザインにしたい。


至誠館建築現場日誌 04

20101124

十二時現場、すぐに所長と工事状況を見て廻る。四階から厚生館愛児園とザクロの小径と我々が呼んでいる道を見おろすことができる。

ザクロの小径計画は2008年の世田谷美術館でも展示させていただいた。広島の金属造形家・木本一之さん製作のザクロの外灯がそもそもの始まりであった。ザクロの外灯は現在二本製作、設置済みで星の子愛児園と厚生館愛児園の外構に設置されている。

ザクロというのは厚生館グループのK理事長のアイディアであった。ザクロは知恵を象徴する果実である。愛児園のエントランスにはザクロの照明もデザインした。至誠館の建築が完成すれば園庭の先端と愛児園との間の小径の入口に三本目のザクロの外灯を設置する予定である。

ザクロの照明や外灯のデザインは石山研究室と木本さんとの合作である。こちらのアイディアをもとにしてはいるが、実際に金属を扱うクラフトマンの意見が充二分に発揮されている。木本さんには厚生館グループの三つの建築のために他にも彫刻なども制作していただいた。

これらいくつかのエレメントと三つの建築によって、この辺りに子供の風景のインフラを設計しようというものであった。

現在石山がXゼミに今年の東大との合同課題の講評を述べているが、現実の設計においても共有されるヴィジョンは決して学生の製図課題、実務の区切りはない。

ザクロの小径計画を発表したのが2008年であるからすでに2年程の歴史が発生している。星の子愛児園の完成から考えれば数年の歴史を既に有していることになる。

子供の文化的インフラとしての建築デザインを旨とし、星の子と厚生館愛児園、そして現在進行中の至誠館さくら乳児院によってつくられるデルタ地帯そのものを建築化していく試みである。インフラ、風景といった都市スケールの諸問題に対してクラフトマンと子供によるもの作りというような身近な技術とデザインが、それこそ問題のインフラになれるのか。至誠館の建築では単体建築としてのテーマそしてそれによってなされる建築試行と同時に三つの建築によって生まれる風景としか今は呼ぶことができないもの(しかし、おそらくネットワークではない)への試行の二つの試みを考えているところである。


至誠館建築現場日誌 03

20101117

十二時半現場を所長以下数名と見て廻る。1階2階内部は型枠がバラされているので大概の空間は現れてきている。無柱空間を複雑にコンクリートの梁が大きく渡っているのがわかる。構造的に工夫している部分の梁は天井を仕上げた後も見せるように設計してある。

内部からは壁式RCの構造体による立体グリッドの片鱗が現れているのがわかるが、外観は全て防音シートで遮られているため立面全体として視認することはできない。足場が全て外れてシートがとれるのは2月ごろである。

打放しのまま残す部分は内外共に限られているため、矩体のみの純粋な立体グリッドは頭の中でしか見ることができない。再三記している開口部の十字柱が矩体のグリッドに浮かぶはずであるが、打放しコンクリートのグリッドの中に浮かぶ姿は最後まで実際に見ることができないのである。

設計者の頭の中にだけあるイメージをどれだけ実際の立体に反映する事ができるか出来上がるまで戦い続けることになる。最初に述べた社会的用件に最大限配慮した建築物と、今は設計者の頭の中だけにしか立っていない立体との往復過程が、施工の現場の醍醐味であろう。設計図を引く、模型を作るのではない、実物を作る現場の面白さである。

3階へ上がると南側に星の子愛児園が見えた。この建築の設計の端緒は北側にある厚生館愛児園との間のザクロの小径と呼んでいる道のデザインとともに、屋上から眺められる星の子愛児園と併せた子供の風景のデザインから始めた。この地域に立つ厚生館グループの三つの建築を介して、子供を中心としたまちづくりをも含めた建築デザインを行うというものである。松崎町などの石山研の修景計画の系譜とツリーハウスなどのマイノリティのためのデザインの系譜の交差点に発生する系譜である。

単体の建築ではなし得ないものを考えていたことを思い出した。


至誠館建築現場日誌 02

20101105

十二時現場小屋着。定例前の事前打合せで現場所長よりサッシュ図のたたき台が出される。先日にも記したこの建築の特徴になりつつある十字のパターンの部分についていくつかの指摘をする。

幅を123@とし、矩体より75ミリ浮かすように指示した。サッシュ本体は外壁面より30@内へ追っているので、105@奥行きに差を与えたことになる。また、十字柱以外の部分は極力薄い見付け寸法とするように指示した。RC構造体のグリッドの中に十字のパターンがある種の構造を持って浮かび上がるのが狙いである。この十字柱が浮かぶ部分のディテールは細かい所までこだわるつもりである。これには現場所長、実際にサッシュを製作してくれるメーカーとの意思疎通が不可欠である。

定例後、分科会。そこでちょっとした事件が発生する。

以前1階の柱のコンクリート打設時に現場主任に指示していた内容が現場に上手く伝わっていないことが判明する。施工図にも赤で注記していたのだが、明日打つ型枠に反映されていない部分があったのである。

現場所長も腹をくくって型枠をバラさせようかなど一悶着あったが、石山から工期最優先と言われているため考え方を変えて結局現場優先とした。これは仕方なくではなく、その方が建築にとって良いと判断したためである。

一悶着あった部分は非常に些細な部分であるが、私にはそういう部分が気になる性質がある。二次元の設計図通り三次元の立体があっているべきだという矛盾を抱えるときがあるのを自覚している。当然三次元の立体を作るための二次元の設計図であるから、この矛盾は本末転倒である。

これは鬼沼の時間の倉庫で学んだことであるのだが、良い建築は非常に細かい所迄こだわった方が良い場合と、その細部が小細工と化し返って建築の強さを害する場合がある。恥ずかしながら未だに石山から「まだお前の頭の中はグラフィックなんだよ。建築は立体なんだ。」と叱責されることがある。その意味はわかっているつもりであるが、どうも重源のような割り切りができずに、小細工を聾して結果として建築の強さを弱めてしまう悪いクセが私にはあるように思われる。

今日の私の考えと現場との相違は建築にとってはどうでもよいことなのかもしれない。一度そう思って再度現場と図面を睨むと、別の考えの構造が浮かび、現場の型枠の状態で行った方が返って良いと思えてしまった。結果は出来上がったものをみてみないと正直私にはわからない。以前であれば工期の問題がなければやり直しさせていただろう。ちょっとした、しかし私にとっては小細工の枠から出る為の冒険である。


至誠館建築現場日誌 01

20101027

十二時現場着。現場主任のH氏と三階スラブの鉄骨梁の施工をチェックする。RC壁式ラーメンの三階以上のスラブに重量鉄骨梁を用いたハイブリット構造である。地震耐力を負担するRCラーメンとスラブの垂直荷重を負担する鉄骨梁を構造的に分離しているため、コンクリート打設時に鉄骨が転ばないように固定するのに気を使う必要がある。

鉄骨梁を採用したのは荷重の問題もあるが、完全な柱中空間を求めた結果である。この建築は一見いわゆる箱状の形態をしているが、全層無柱空間とするための構造的な工夫がなされている。型枠工事中の二階に立ち、フロアと階高のスケールを確認する。恐らく上棟時が一番空間としては気持ち良いであろうが、日本の建築は雨風を凌がねばならないのでそういうわけにはいかない。

この建築の特徴の一つは乳児院という機能にある。乳児院は全国でも144カ所しかなく、川崎では二つ目と聞いている。もちろん私も初めての経験である。構造体を外周に配置し完全な無柱空間としたのは、様々な用途の要求に答えられるようにするためでもある。つまり、都市に建設される建築であるがこれまでのビルディングタイプの枠に当てはめることができない。この点は様々な事務的申請上の手続きにおいても実感した。役所のどの部署や消防も乳児院は初めてであり、対応マニュアルが存在しないのである。マニュアルが存在しないため、建築基準法、児童福祉法、消防法、省エネ法などの枠によって当てはめる枠が異なる。日本で建築を建てる際について廻るビルディングタイプの宿命から自然と外れる機能を持つ建築の可能性は、いわゆるデザインといった一部の専門家だけの世界での価値観の枠を超える構造を有する場合がある。

一階の型枠をバラした多目的ホール、エントランスなどを確認して現場小屋へ。十三時より総合定例会。現場所長のK氏を中心に建築、設備機器、電気の順に打合わせを行う。設備機器に関して園のF先生から細かい要望、指摘がある。設備屋さんと全て対応する。また、建具は子供の指挟みの防止に配慮するように対応することを確認。電気の打合わせでは途中警備会社を交えて行う。こうした打合わせの連続で一つの建築が立ち上がることを改めて認識する。決して雑務ではない。

私は直接施工できるだけの技術をもたず、ただ設計図をひくのみである。しかしプイヨンの『粗い石』の石積み建築は現代ではこうした雑務と思いかねない打合わせの連続の中にある。多くの人間の人格が積層して建築は成り立っている。

今日はその中から一つデザインが生まれた。設計家としては本来許し難いことではあるのだが、設備屋さんがスリーブの位置を一カ所間違えてあけてしまった。しかもメインエントランス脇の打ち放し壁にである。補修後に壁全体を吹き付けで仕上げて隠させて欲しいとのことであった。しかし瞬時にこのミスを活かしたデザインで解決した方が良いと判断する。同じ壁面にいくつかあるベンチレーション等と組合わせたデザインを考え、スケッチに現場所長にも線を加えるように依頼する。すると所長は十字のパターンとなるように線を加えたのである。

実はこの十字のパターンはこの建築の立面に繰り返し現れてくるものである。それについては詳しくは後述することにするが、要約して言えば構造体のRC壁式ラーメンの変則的なグリッドの中に十字のパターンの装飾によるもう一つの構造が重なって現れることを狙ったものである。

現場所長はお金と工程を管理し、現場の一切を段取りする役割である。こちらのどのような抽象的な観念も全てお金と材料と工程と職人に置き換えて把握する。そのような役割の彼が設計者と同じ言語でこの十字のパターンを持ち出したとは思えない。しかし、この現場を仕切って五ヶ月もすると現場所長が設計家とは全く違った言語、つまりお金と材料と工程と職人といった観点から設計者と同じ図形を導き出したことに興味が惹かれたのである。

少々飛躍しすぎかもしれないが、プイヨンの粗い石を見たような心持ちになる。今日の収穫であった。

様々な社会的制約の多い現場である為、時としてそれに押し流されそうにもなるが、良い建築にしていきたいと改めて思う。


「アーツ・メディア・アンド・クラフツ」展 企画編04

20100812

するとこれは本の版形や価格、印刷部数とも絡んでくる。話題を何にするか、それをどう編集するかは、商品としてどのように流通させるかと当然関連する。ここが一品生産を基本とする建築との違いである。

早速絶版書房でお世話になっている印刷屋さんに相談することとした。

その結果、本の版形は絶版書房と同じとすることとなった。ページは24ページ。価格は500円(税込)とする。本来であればカラーとしたいが、カラーはお金がかかる。一色だけでも入れようかと考えたが、絶版書房と違って石山の手描きドローイングは入らないので、その代わりにカラーの絵ハガキを一枚指し込もうということになった。当然絵はがきのデザインは石山研でする。

この絵はがきのデザインにも石山研の小史があり、松崎町の長八美術館で販売している。石山曰くこれはなかななか売れなかったの感があったようで、今回はそのリベンジでもある。

絵はがきは同じものを印刷してカタログに挟み込むことにしたのだが、石山のことだから3種類くらいのバリエーションを作ってはどうかと言うに決まっているのだ。コストを考えると可能かどうか不安であるが、先回りしておいた方がよさそうである。

バリエーションを考えると、当然シリーズにしたくなる。松崎町の絵はがきは確か電脳美術館といった文字が書き込まれていて、ストリートミュージアムというコンセプトが考えられていた。今回の展覧会は最初から一回だけのものとするのではなく、各季ごと、あるいはいくつかの場所を移動して展示することを考えているのでモバイルミュージアムというのは絵はがきのテーマになるかもしれない。

方丈記で鴨長明がその行動範囲とジャーナリストぶりを示しているように、展覧会場そのものを絵はがきを介してつなぐことが考えられないだろうか。都市の風景のインフラとして絵はがきを考えてみたい。そのためには会場の特定が急務である。


「アーツ・メディア・アンド・クラフツ」展 企画編03

20100807

石山研における設計ミーティングは何年か前からウェブサイトの編集会議を中心とすることが意識されてきた。それは当然のことながら建築設計の放棄でもなければ、実物からの離反でもない。

私が研究室のスタッフとなった前後位から毎回の打合せで石山からそのような指示が出るようになった。私なりにそれを解釈すれば、情報の編集がそのまま設計行為になる径を確立することに尽きる。それは何もデザイン上の抽象論に留まるものではない。設計の定義が変われば、設計料といった建築産業に於ける設計行為による報酬の枠組みも少しは変化するのではないかの思いもある。

情報の編集をアナログに表現すると出版という形式をとることになる。出版はウェブサイトに較べれば、時間も労力もかかる。ウェブサイトは無料であるから、毎日でも情報を発信することができる。しかし誰でもどのような情報でも発信できるが故に、発信される情報には信用性が今のところはない。出版社はその信用性を保証する者としての価値を未だ留めている。それ故に出版は無くなることはないであろうし、やはり本は出したいと思うのである。

この小さな展覧会でも、広報の中心はウェブサイトとメールにならざるを得ないが、カタログなどの何がしかの本はやはり欲しいのである。

第一回の展覧会カタログの話題の中心は参球四脚にしようと思っている。しばしばトップページや新制作ノートでも登場しているが、大工さんと石山研の共同作業である。そして参球四脚のページの編集は同時に参球四脚の次の展開のデザインとしても展開中である。

企画編01のインタビューで石山が触れていた記名性の話しもあるのだが、これは読み物としての話題にはなりにくい。つまり、お金を払って読むものにはなりにくいと考えた。ウェブサイトと本の最大の違いは、本は有料であるからだ。

やはり造形物としての参球四脚に焦点を絞って物語る方が情報としてはより高価であろう。ただし、具体的に。参球四脚を磨いた水は赤城の水だとか、着色は京都の特殊なものによるとか、木の素材は何だといったことである。これはそれぞれの材料のいわれを記すことにもなるだろうから、お茶室の設計のように情報デザインの産物として参球四脚を捉え直すことにもつながるかもしれない。


「アーツ・メディア・アンド・クラフツ」展 企画編02

20100724

さて、まずは展覧会のタイトルを考えねばならない。前回からの表記の通り仮称「アーツ・メディア・アンド・クラフツ」展としているのは次のような経緯からのことである。


□少量多品種の今日的意義について小論

ウィリアム・モリスが始めたアーツ・アンド・クラフツ運動。それは生活を豊かにする品々には芸術性を豊かにすることが必要であるというものであった。産業革命以降、商品の大量生産化が予測される中で、機械化(生活)と職人による手仕事(芸術)を結びつけようとしたのである。それが真の生活の向上であるとの理念からだ。

20世紀前半のロンドン、パリには百貨店文化が芽生えようとしていた。ココ・シャネルやアナイス・ニンといった女性デザイナーたちは皆そこから輩出された。建築ではアール・ヌーボーからアール・デコといった装飾様式が流通し、ニューヨークの摩天楼を形成し始めた頃のことである。それらは全て消費と商品の時代の産物であった。では、近代において装飾とは消費社会の申し子でしか在り得なかったのであろうか。

必ずしもそうではないのではないかという思いを1925年のパリで行われた装飾美術・工業美術国際博覧会(アール・デコ展)を振り返ることで抱くに至った。

同展にはL.H.ボワロー設計のボン・マルシェ百貨店館、J.イリアール等設計M.デュフレーヌ内装によるギャラリー・ラファイエット館、A.ルヴァールの内装によるオ・プランタン百貨店館などの百貨店文化と同時にル・コルビュジェのエスプリ・ヌーボー館が出展されていた。

そのことは初期の近代芸術において、絵画を純粋芸術とし、壁紙を装飾芸術とすることの矛盾を呈していたようにも見える。

同展の伏線となった1900年のパリ万博とその翌年に設立された装飾美術家協会。これらの運動は生活に用いられるべき芸術の主張であり、すなわち装飾芸術の主張であった。

そして、ドーバー海峡を挟んだ対岸にウィリアム・モリスがいた。モリスが1877年に設立した古建築保護協会は現在に至る迄受け継がれている。そこでモリスが行ったのは、職人による手仕事の技術の保存と古建築の保存は同値であるということであった。つまりともに真に生活を向上させるためのものであった。そしてレッドハウスで実践された生活(経験)と芸術(装飾)の融合に1925年のアール・デコ展のルーツをも見ることができる。

つまりその表現が百貨店文化であろうが近代建築様式であろうが問題ではなく、機械(生活)と手仕事(芸術)の融合の表現という意味ではもともと同値であったのではないか、ということである。当然コルビュジェの機械は観念的過ぎたし、百貨店文化は消費的傾向が強過ぎた。それによって純粋芸術と装飾芸術の分化化が進行し、大量生産大量消費社会に概念そのものが消費されたのではないだろうか。

建築史家の鈴木博之氏はアール・デコの造形が硬質で光沢に満ち、屈曲しつつ放射状に広がってゆくことに着目し、「この時代になって都市内のあらゆる文化が浮遊し、飛翔し始めたことと無関係ではあるまい。アール・デコの時代に、デザインは地縁性を払拭するのは無論のこと、表面を覆うものであることもやめ、離陸し飛翔しはじめるのである」とアール・デコ展について述べている。

そこには氏の情報メディアに対する直観がうかがわれる。何かを覆う装飾芸術はつきつめればメディアなのである。

この点が21世紀を生きる私がモリスの時代とは違った価値観を持つ拠り所となるだろう。

モリスはケルムスコット・プレスを手掛け出版にも相当の意識を持っていた。しかしモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が大量生産の始まる時代の少量多品種の運動であったことと、既に大量生産大量消費が前提の私たちの時代の少量多品種の意味は自ずと異なる。

少量多品種は売る相手を限定する。つまり大柄なもの言いになるが売り手が買い手を選ぶということである。そして一つとして同じものは存在しない。大量消費時代において手渡すことの意味はここのところに凝縮されている。M・モースの贈与論を持ち出すまでもなく、一つ一つの手作りの商品を手渡すことに鈴木氏がアール・デコの造形にみた装飾の浮遊性、都市の盛り場の浮遊性と同じ意味を個別に持ち得る背景が既に21世紀の資本社会には整っている。つまり手渡すことは個人に即応したメディアであり、運動であることがメディアを共有可能な本来のメディアであらしめることなのである。

近代装飾の起源を遡行すれば、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に端を発する生活の真の向上のために用いられるべき装飾とはそういうものであった。

それ故にアーツ・メディア・アンド・クラフツ展といういささか大仰なタイトルを付けた次第である。


「アーツ・メディア・アンド・クラフツ」展 企画編01

20100723

9月の初頭に小さな展覧会を企画している。この展覧会は現在進行中のM邸や新制作ノートに掲載中の「水の家」(母の家)、そして世田谷美術館におけるプロダクト販売などとも連携しながら、各職人さん達と石山研の共同作業による商品の展示、即売会ともするつもりである。

数ヶ月に1度はこうした小さい展覧会を開いていきたいと考えている。どこまで続くかもわからないが、その過程も展覧会の一部だと考えてみなさんに公開していきたい。

この展覧会の主旨は石山研ホームページ内の他のプロジェクトのページと密接に結びついている。まずはそれを踏まえた石山へのインタビューを皆さんに読んでいただくのが、裏日記本来の役割を果たすものと思う。


石山―今松陰神社で小さい増改築をやっています。このM邸は10年先のモデルになるようにしたい。M邸で実感していることは、単なる個人住宅のリノベーションということではなくて、設計及びそれに関わる作業が非常に複雑になってきていて難しいということです。難しい問題は本質的に解きたくなる。古いものと新しいものや、クライアントと設計者等、複雑なブリコラージュをしているのだと考えています。こうした高度に難しいブリコラージュは、私の全てのプロジェクトに反映させていく方法論としていきたい。宮古島の計画や杉並の屋敷林、昭道さんのお寺などを横断していくヴィジョンを示すつもりです。それが若い人たちにも希望を与えることにもなるのではないかと思います。まずは面白いこと。次に設計業としてお金を取れること。それから、その仕事が永続していける可能性。現実はいずれ歴史になります。歴史と新しく作ることがブリコラージュされた概念を一つの道筋として示したい。

私たちは白い紙にデザインすることに慣れ過ぎています。これは世界の現実とかけ離れている。世界の中で日本だけが90%以上が新築だったわけですが、これはおかしいということに急速に気付いてきました。そのギャップの中に健全な産業としてのデザインというものを呈示していきたいのです。

ワールドカップでは南アフリカに建設されたサッカー場の数に注目していました。一スタジアム当たり500億円程度が投資されたと思います。これを南アフリカというまっさらな土地に、つまり近代の技術が具現化されていない場所に建てるということは初期の近代建築とイコールだと思うのです。つまり、アフリカのサッカー場は中世のカテドラルと同じです。投資する価値がある。

暗黒大陸とまで呼ばれた更地に建てることは依然として意味のあることで、俯瞰した視点で地球上のエリアでみるとあれは役に立っているという実感があります。

日本でもワールドカップがありましたが、日本ではサッカー場の後始末に苦労している。当初から今迄の日本の歴史と接ぎ木してしまうような技術、テクノロジーがあれば、ああいう作り方はされなかったでしょう。

近代の歴史と接ぎ木していく。近代の財産をメインにして接ぎ木していくデザインに対して投資していくフィロソフィーの必要性を感じています。M邸の現場でそういう現実を直視しています。

今年の東大、早大合同課題でも歴史と接ぎ木することを風景レベルで考える課題にしたいと思っています。そうしないと建築は生き延びていけない。今迄の日本の近代の歴史を前提にした上で、それを改変させていく手付きの中にデザインの現代的な意味があるのではないでしょうか。

この考えをアニミズム紀行やプロジェクトを総括的に横断させていくつもりです。あまりにも「私が」という我や、エスプリ・ヌーボーを考え過ぎていく態度が大き過ぎると思います。

渡邊―接ぎ木という概念をおっしゃいましたが、日本の近代は非常に浅薄です。日本の場合は何に接ぎ木をしていけばよいのでしょうか。

石山―確かに日本の近代は浅薄です。しかしその薄っぺらささえ財産だと思うことです。薄っぺらささえ愛おしんでしかなければならない。「ダメだ」と言ってはいけません。ロンドンの時計塔の方が日本の近代建築よりも良いという価値観ではいけません。個々の人間が見ているものが歴史の現実であって、それを認めないとどうしようもないと思います。日本の近代を薄っぺらではなく弛まぬ努力と考えないと今の危険な状況は打開できない。

私はスペースではなく時間軸に対して言っているのです。私は1950年代以降を生きています。1950年代、日本の近代建築は最高のものが作られました。しかし、それらは全て模倣です。丹下さんや村野さんも模倣に一体何がつけ加えられるかを必死に考えていた。そういう歴史を全部受け止めることです。

私はひろしまハウス以降時間の倉庫、水の神殿といった抽象絵画のようなものを描きました。もっとみんなが真似してくれるべき思想を示す人や、お金儲けに走る人がいても良い。これらをカテゴリー分けしないで総合していく作業がなされるべきです。そしてその役割はアカデミー、とりわけ歴史家の役割なのです。

歴史意匠というのは分離していない。分離派ではなく、歴史と接ぎ木してしまう。この接ぎ木という理論を歴史家を中心にして言ってもらわないと仕方がない。

アニミズム紀行やXゼミに果てしない蕩尽をしている自覚は持っています。でも無駄の中に文化があるのです。その目的は接ぎ木です。これをブリコラージュと呼んでもいい。

中国の梅に桜を接ぐようなグロテスクなものではなくて、もっと私たちの生きている状況はエレガンスになっています。梅に松茸を接ぐくらいにはなっている(笑)。

白地に赤く、ではなく何かを接ぎ木していく。何かをブリコラージュしていく。神話的世界ではなく歴史の中での高度な接ぎ木はこれからのデザインの圧倒的な価値になっていくでしょう。

ワールドカップでは日本はベスト16と健闘しました。あのとき遠藤が本田にフリーキックを蹴らしてくれといった根拠が重要です。直前の本田のフリーキックを警戒して、左に背の高い人が3人いて、右に背の低い人が3人いた。本田は左足で左に蹴るのが上手い。遠藤は右足で右隅に蹴ることができる。遠藤は自分の我のために蹴らしてくれと言ったのではなかった。彼らの短いやりとりの中に、ゴールを入れるという目的のためだけの瞬時の判断があった。そしてメディアが、情報がそれを分析していることは大変興味深いです。

これは接ぎ木の思想です。オレのフィロソフィーではなくて、数秒で判断する。サッカーは時にホンの一瞬ですがデザインより進んでいると思う瞬間でした。

しばしば日本の本質は空虚だという言説がありました。しかし空虚を押し進めても何も生まれない可能性が強い。空虚自体を価値にしていくことはできません。

本田や遠藤のように瞬時に良く見えている人が、お前蹴ってみろと言う。そしてさらにそれがベスト8に進出するときにどういう作用があるのかを考えられると、これはデザインになる。そう思います。

渡邊―接ぎ木の思想を実践しようとするとき、M邸と並行して進めている何人かの職人さんとの仕事で考えていることについて聞かせて下さい

石山―それは記名ということに尽きるでしょう。つまり誰の作品かということ。これは本来共同でしかありえません。作ってくれた職人さんの名前を書くか、書かないかという話しです。ダ・ヴィンチにも絵の具屋さんがいて、モデルがいて、キャンバス屋さんがいたはずです。それを記名しないのはルーズなだけとも言えます。

設計においては建築家が王様です。しかし、記名するべきでしょう。職人さんも自分の名前を記名する権利があります。例えば三球四脚は市根井さんが作っていますが、石山の作品とされます。それを市根井と記名する。そして分け前も同様です。

設計家やデザイナーはディレクターの役割です。施工図もどこまで引くか。私たちはそれをチェックする立場です。原図から施工図を引くことの間にデリケートな配慮があります。

建築物はそれが1回1回、一度きりのものですからそれをどうやって記録するかが問題です。これはコンピュータの記録に残すことができる。

要するにディレクターの役割はシナリオを書いてくる人の能力次第です。まず劇場を設置するべきです。どういう人が聞きにきているか、どういう人が演じるのか、バイオリンやチェロなどの音楽はどうなっているのか、そしてそれを誰に聞かせるのかを充分に意識する。

コンピュータを計算能力と考えればグローバリズムになりますが、コミュニケーション能力と考えればあらゆるものは個別だということになる。ディレクション次第です。デザイナーは聞いてくれる客層まで意識できないとこれからはダメなんじゃないか。普遍というのは空疎なのですよ。

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