4月の世田谷村日記
192 ある種族へ 世田谷村日記
三月三十一日

十一時玉川線松陰神社、M邸。H建設会長N氏と。積算の件でM夫妻共々打合わせ。昼食をはさんで、十七時半過迄。大枠の方針を決める。野村を残し、会合の為新宿へ。十八時半新宿、入江先生と打合わせ。十九時加藤先生参加。加藤先生助教退任の慰労会。二次会をすぐ近くの味王で。二十四時半了。TAXIで世田谷村に戻った。

四月一日

九時過起床。久し振りの二日酔いで、頭が痛い。昨夜、両先生は家迄たどり着いたのであろうか。

今日より難波、石山の両サイトで「 X ゼミ」の一部を公開する。鈴木博之さんを要にサイト上の時評のようなものだと、始まりは考えている。昔、今はなき「都市住宅」誌上で、鈴木博之さんと、わたくしが交代で毎月、時評を担当した。楽しい作業だった。今はペーパーメディアはスピード不足で哀亡している。一石を投じたい。

三人の合議は困難極まるので、先ずは自然体にて、時間の流れ通りに ON してみたい。第一回は鈴木博之さんの小論までの、やり取りとしたらいかがか

191 ある種族へ 世田谷村日記
三月三〇日

十一時研究室。サイトチェック。修士S君相談。L君相談。十三時スペイン・バルセロナより鈴木裕一氏来室。27 年振りの再開である。バルセロナ在住 24 年となるとのこと。10 年がかりで仕上げたバルセロナの住宅を見せていただく。アーキテクト・ビルダーの初心を忘れずに見事な作品を作り上げている。感心した。又、スペイン文化と日本文化の交流について独自な見識を育てているのを聞き、共感した。

スペイン、しかもカタルーニャの都市バルセロナに長く棲みこんでいる人間は、やはり、それなりにカタルーニャの人間の歴史の匂いがしみついてくるものだなと、鈴木氏に会って、そう感じ入った。

昔、サクラダファミリアの若き石工であっった外尾悦郎と出会った時の感じを再び受け取ったのである。やはり、人間はそれなりにそれぞれに身体と精神を落ちつけるべく、その場所の力の波及を受けるものだなと痛感する。鈴木さんや外尾悦郎にとっての生きるべき場所と、それぞれの意志の関係を考えるに、実に興味深い。どうやら、人間はその本来の出自にある個性よりも、育ち、成長する場所に育まれる要素の方が大きいのかなと思ったりもするが、バルセロナすなわちカタロニアが特別に異常なのかとも、思わぬでもなし。少しセンチでロマンティックな考え方に過ぎるかも知れぬが。

カタロニアがカタロニアであった時代はとうに失せているのかも知らんし、そうではない、そんなに固有の力は失せないのかも知らん。簡単には考えられない。

http://www.u1architects.com/ が彼のページアドレスである。

ワイマール・バウハウスのカイ・ベックより連絡あり。5月のバウハウスでの展覧会の準備を急ピッチで進めなくてはならない。

夜、世田谷村でH建設からのM邸積算に関してやり取り。H建設にしては珍しくズサンな積算で、やはり、気分悪い。最前線を引いたN社長に直接自分で全てを見てくれるように強く伝える。若い世代に工務店仕事を引継げるような人材が、そんなに速く育つわけが無い。

三月三十一日

七時半起床。今日は陽光が射し、少しは暖かくなるか。H建設と昨日に引続きやり取り。久し振りに声を荒ぶる。

190 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十九日

十一時研究室。研究室ミーティング。長谷見先生、入江先生と打合わせ。

今年の基本的な方針を述べられるようになったので、スタッフに話す。十年単位で考えてみても間違いのない軸だと確信。四月一日よりのXゼミの公開準備、四月十七日の世田谷美術館公開レクチャーの予約準備、絶版書房アニミズム紀行5の予約状況の報告を聞く。サイトの動きを少し早めるように編集に指示。十二時半了。

研究室発。地下鉄で東京駅、八重洲小樽でナーリさん、清水さんに会い、雑談。ナーリさん又も、パスポートを何処かに忘れてきたらしい。わたくしだったら大騒ぎするのに、平然としていた。どうなってるんだろうね、この人のルーズさと、それと裏腹な平気の平左さの同居は。十五時半、それではお元気で、と別れる。又、お目にかかれる日を楽しみに。

その後、清水さんと、雑談。「ナーリさんの考えの奥深いところは、多くは正しいんだよネ。十年後は一時日本を脱け出して、メコンでナーリ食堂でも手伝って、一息つきたいね」。十七時過ぎ去る。十八時世田谷村。ナーリタイフーンが去り、いささか疲れました。良い人なんだけれど、ナーリさんは本物の寅さんだから、一緒に居ると、正直こちらがみじめになるのですな。

三月三〇日

六時過起床。メモ。八時鎌倉ナーリさんと連絡。いつの間にか、お世話の人になっているなコレワ。パスポートは手許に戻った。やっとカンボジアに去ってくれるようで胸をなぜおろす。カンボジアのレンガの件、大食堂の件等について。

しかし、正直言って、うらやましいのである。ナーリさんの生き方とは言わぬ、暮し方が。市民社会の枠から完全に外れて、まぁジジイ坊やなんだけれど、それは彼の特権であるのだから、とやかく言う事ではないし、後は実に勝手にやっている。他人に迷惑かけぬことを祈るばかりだ。といっても、無理であろう。そうに決まっているのである。

189 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十七日

十三時半京王稲田堤、星の子愛児園。至誠館プロジェクト打合わせ。理事長、園長、首脳陣と最終プランの検討。打合わせを続ける中で、良いアイデアがクライアント側、わたくしの方からも生まれて、整理されつつ、目に視えて良くなっている。理想的な打合わせである。十七時過了。

十七時四十五分、特急で新宿へ。南口味王にてナーリさんと打合わせと依頼事。安西直紀さん参加。談笑する。二〇時了。宴は短いのが良い。二十一時世田谷村に戻る。

三月二十八日 日曜日

七時四十五分起床。メモを記す。今朝も薄寒い。昨夜、ナーリさんから渡された絶版書房「アニミズム紀行3 ひろしまハウス」のカンボジア海賊版は驚異的であった。レイアウトも版の大きさもアッという間に変えて、大判となり、カンボジア価格日本円で百円だというのだから。彩色ドローイングをやっておいて良かった。これが無いとオリジナルの意味が全く失くなるな、本当に。

九時半世田谷村発。十時N幼稚園I園長宅。江戸時代からの大きな屋敷林に棲む人である。この屋敷林をどうやって守り、将来に向けて運営してゆくかのプロジェクトの相談であった。とても現代的な主題である。大きな林の中を歩く。都内 23 区内でおそらく稀有な屋敷林。桜や桃の花、さんしゅゆの樹花をいただく。沢山の野草の苗も掘り出して箱一杯つめてもらう。

十四時前了。荻窪駅迄送っていただき、中央線、京王線を乗り継ぎ、十五時世田谷村に。面白い課題に取り組んでゆく事になろう。良い日曜日の朝であった。

188 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十六日

十一時発。私用で動く。タイフーン・ナーリにすっかり生活パターンが揺り動かされている。他愛ないな、わたくし奴は。しかし、俗な事を言うがナーリさんはギリシャのアトス山で出会ったギリシャ正教の修道僧の如しでもある。ナーリさんは今、プノンペンのウナロム寺院の境内、ひろしまハウスの真向いの僧院の3階に独居している。年に一回、日本に集金に帰るが、他は僧院生活だ。自分でも言っているが、日本に帰ってくると完全な異邦人であると。何もかもが、おかしいと感じるらしい。それはそうだろう、それにわたくしは期待しているのである。十六時世田谷村に戻る。Xゼミ草稿。こういう日はノートを書くのが先行して、そのオペレーションを実行することになる。

アトス山では遂に、会いたいと考えていた荒野の独人修業僧には会えなかった。わたくしが泊まらせていただいた僧院(アトス山には確か8ヶ所位の僧院がある)らしき群から離れてたった一人になり切り、荒野の洞穴や物陰にひそみ、野草を食し修業している修道僧がいると聞いていたからだ。彼等の平均寿命は三十数才だったと記されている。わけありの若者が多かったと聞く。ナーリさんだったら半島を歩き廻って探し切り、言葉は通じなくとも話しただろうと思う。話したって、どうともならぬのは知っていてもそうしただろう。それが人間のはじまりなんだとは知るのだが、いまだ、わたくしは出来ぬ。ナーリさんと会うと、自分の卑小さが身につまされるのである。

二十一時WORK休止。小休する。うまくゆかない時はうまくゆかない。二十四時就寝。

三月二十七日

六時四五分起床。昨日うまくいかなかった椅子のデザインに又、とり組む。十時前、スケッチすすむ。

187 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十五日

十二時半、新大久保近江屋にてナーリさん。メコン・食のコロセアム計画を再説明。ようやく納得してもらう。カンボジアの観光開発はまだ途上である。開発という言葉はすでに我国では耳に心地よいものではないが、カンボジアではフンセン軍事政権の許、いわゆる近代化路線が進行中である。

日本の近代化の結果が今の日本社会の現実である。我々みんなの営々たる努力による結果である。軽々しい事は言えぬ。が明らかに間違いはあった。中国のみならずカンボジアも同様だ。日本とは少しでも違う近代化の径による、建築の姿を想い描きたい。それ故の大レストラン(食のコロセアム)計画である。

大義はとも角、我ながらおかしいのは、こんな大事な事をナーリさんに相談しているっていう事である。アニミズム紀行2を読んで下さった人にだってよくはわからないだろう。

打合わせ、十五時半了。チベットにくわしいダライラマのドキュメンタリーを作った友人に会うので一緒にどうですかと言うので、断る理由も無い。三軒茶屋迄行く。ところが待ち人現われず、一時間遅れで現われたが、わたくしは顔を見ただけで、失礼した。十八時、世田谷村に戻る。

三月二十六日

七時起床。芳賀繁浩牧師より再びていねいなお手紙をいただく。M邸積算の件でH建設と。

186 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十四日

十一時研究室、サイトチェック。

昼過、I先生と連絡、I先生何やら考え始めようとしているようだ。東京都内でも有数な屋敷林をもつ人間である。あの森は大事にしたい。

十三時半人事小委員会。十四時教室会議。十六時教授会。その後、至誠館、乳児院+保育園の小打合わせ。

アニミズム紀行5、他、17冊ドローイング。十七時過新宿南口味王にて、昼夕食。幾つかの連絡をこなす。明日からは、機能的に動くと決めているので、こういうのは今日が最後だろう。帰りの電車で、写真家の藤塚光政にバッタリ会う。

十九時半世田谷村に戻り、WORK。

三月二十五日

七時起床。又、寒くなった。天候の不順は身体にひびくが、仕方ない。天気は神のみぞ決定権を持つ。人間に出来る事は人工環境を作り出す事だけだったが、これも又便利の追求、近代化のベクトル上に完全に乗るものであった。つまり電気ガマ、洗濯機、という典型的な工業製品の工夫と同じである。今更、それが無い生活は考えられない。Xゼミの草稿を書かねばならないが、針の穴を通すような議論は避けたい。

四月十七日の世田谷美術館でのレクチャーの準備を早々とすすめているが、これから先の事、すなわち前向きな未来の話をするつもりなので、力をふりしぼるつもりだ。サイトだけでの広報である。ほとんど研究室のメール、ファックスでの予約の手間を取らせるが、御参加願いたい。

たまプラーザの山口勝弘先生より、長文の私信をいただく。公開できぬが、82才のハンディキャップ人を超えて、素晴らしい文面であり、一個の表現となっている。

今は楽器を作る計画をすすめているそうで、頭が下がる。

わたくしも山口勝弘先生に近状報告をしなければいけない。というわけで10時絶版書房通信で山口先生への便りを書く

185 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十三日

十三時至誠会星の子愛児園にて、至誠館さくら乳児院・至誠館なしのはな保育園複合建築打合わせ。川崎市役所、至誠館首脳スタッフ、石山研。密度の高い打合わせを十九時半迄。二〇時前了。K理事長と打合わせ会食。二十二時過了。

幼児施設のベテラン、スペシャリスト達との打合わせは仲々緊張するが、実に面白い。ゆだん大敵である。気が抜けぬ。

その後のK理事長との打合わせは、それにも増して気が抜けないのだけれど、面白い。打合わせはすれば、する程建築は良くなる。「星の子愛児園」は一階玄関ホール等、色々なところに職員の方々の手が入れられ見違える位に良くなった。やはり、建築は使われる事で良くなる。又、設計者では子供や、お母さん達の気持ちの隅まで、思い、知り尽くす事は不可能に近いから、やはり運営者の知恵の参加は不可欠なものだ。特に乳児施設はそれが言える。

三月二十四日

五時半起床。メモを記す。「紫明」特集「港」入手。ゆれて、傾いて - 金子光晴の港 - 原満三寿をはじまりに面白そうな記事が満載である。表紙に山口勝弘のドローイング。

M邸リノベーションの、そろそろまとめをしなくてはならない。

184 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十二日

午前中は昨夜の民謡追分け後遺症でボーッとして過ごす。

今日の午後、フーテンのナーリさんに会うべく、すでに会う約束はしているのだけれど、頼りにならず、昨夜泊まり歩いたらしき友人達の処とチェーン状に連絡を廻してもらうも、遂にやはり一昨日と同様、わたくしに会うのに先程駅で別れた、を最後に又も糸が切れた。筋金入りの旅人さん(フーテン)をつかまえるのは至難の技である。月末にはプノンペンに帰ってしまうので、何とかつかまえたい。

非常手段として底引アミならぬ、カスミアミを張って待ち受けることにする。とて、新宿南口長野屋食堂で待つ事にする。アジア的待ち方であり、三時間は待つのを覚悟した。

ここで、できるだけの仕事をする。十六時過ナーリさん出現。ひろしまハウスは大森さん達の日本国際社会事業団 ISSJ ストリート・チルドレンへのたき出し、他の活動が始まったそうだ。色々とすれ違いの話しの後、十七時TAXIで品川宿青物横丁へ。十七時半、スーパー平野屋角で品川宿町づくり協議会会長H氏。S氏と会い、近くの中華料理屋へ。二十一時迄会食。打合わせ。品川駅でナーリさんと別れ、二十二時半世田谷村。

183 ある種族へ 世田谷村日記
三月二十一日

十三時千葉工業大学。卒計・修士設計、講評会。川口衞、渡辺定男、難波和彦各先生方と。古市徹雄先生の司会。学生達が皆、大きな模型作りを最終目標としている様な気がした。十七時終了。

津田沼駅で難波さんと別れ、川口衞先生等と浅草橋へ。TAXIで民謡の店、浅草追分へ。民謡専門の驚くべき店であった。低い小さなステージに三味線、尺八、太鼓が六、七名程。素人耳にも、かなり高度なライブなのである。アンダルシアのフラメンコ専門店のライブを想い出す。北海道江差の江差追い分け体験もよみがえる。と、すかさず川口先生ステージへ。江差追分け、前唄、本唄、後唄を通じて唄われた。更に相川音頭も。話しには聞いていたけれど、もうビックリ。二十三時半迄。先生はまだまだという感じであったが夜も更けた。ソロソロと、出る。TAXIで送っていただき、一時過世田谷村へ。今日はビックリ、グッタリであった。

182 ある種族へ 世田谷村日記
三月二〇日

四月十七日の世田谷美術館での講義のために始めた「制作ノート」スケッチを、都内、郊外を動きながら続ける、もう決して若くはない。明らかな老いを迎えている。しかし、それなりの知恵も少しはついている。と、思いたい。自分だけのイメージを得意気に露出しても、もう恥ずかしくはないのだけれど、何の為にもなりはしないのは知っている。それは馬鹿馬鹿しい。

三点描いたところで、続かなくなった。で、一切の小ざかしい屁理屈を除いて、空っぽの気持になり、全く、自由に描いてみる事にした。そしたら、案の定、七面倒くさい境界とかボイドとか何やらは抜け。いきなり大食堂らしきのスケッチが出てきた。何も機能が無いどころではなく、明らかに、これは大食堂、大レストランである。それもチョッと照れ臭いので、「食のコロセアム」の標題をつけた。

そうか、自分はかなりデッカイ、食堂、レストラン、の類をやってみたいのかと知る。これは本音だろう。スケッチは続き、小レストラン迄スケッチしてしまう。それが住宅として、さらに縮み6枚のシリーズになった。どうやら、わたくしは典型的な縮み志向が歴然としている。

今早朝、鎌倉の小笠原氏のところと連絡したら、やっぱりナーリさんがカンボジア、プノンペンから日本に一時帰国していた。アニミズム紀行2に登場した人物である。弟さんが、「イヤ、さっきアンタのところへ行くって家出たとこよ」と仰天するような事、言ってくれちゃう。エッ、わたくし、「全くそんな事聞いてませんよ」と返すに、「アイツは、全く自分勝手な奴だから、仕方ネェーンです」との事。でもわたくしは今日は夕方迄外出が続き研究室には行かぬので、連絡して、ナーリさんがそっちに向っている旨伝えた。伝えたって、どうなるものではない。

十六時半、ようやく連絡がとれて、「エーッ、夜の8時位に連絡クレ」との事でした。全く、チンプンカンプンで明日からの10日間程はナーリ旋風が吹くのであろう。

二〇時半、そのナーリさんから電話あり、マ、来週くらいに会う事にする。制作ノートに書き、そしてスケッチ迄している、大レストラン計画の実題を是非ともベトナムか、カンボジアで実現したいので、それにはナーリさんの力が必要なのである。

三月二十一日 日曜日

早朝起床するも「制作ノート」のスケッチ進まず。

昨夜は台風なみの暴風が吹き荒れた。世田谷村は南に面して、その南は保護緑地で大きく事実上の空地になっている。西は駐車場となり、これ又、事実上の空地である。だから、風は南、西方向からは直接吹き当たる。昨夜は一時、風速 20m 以上の風が吹いたろう。

世田谷村の構造は極めて合理的なもので、地震にも暴風にも万全であり、信頼し切っているのだが、寝ながらきっと、今はあそこのテンション材が強く働いているなというような事が、イメージできるところが、世田谷村の良いところです。

十一時半、津田沼に発つ。

181 ある種族へ 世田谷村日記
三月十九日

鈴木博之さんより (X) ゼミのメール、コメント入る。難波、石山でイームズハウスのユーカリと土地の広さで議論が始まったと思ったら、鈴木さんから「近代建築以前の暗さ」としての「去年マリエンバートで・的」謎としての空間が持ち出された。要、すなわちパイロット(水先案内人)が、議論のフィールドが、つまりはリングの照明が陰りが無くて明る過ぎるぞ、と問題を持ち出したのである。まだ公開していないのに、これは面白過ぎる。

しかし、鈴木博之さんは赤坂迎賓館、東本願寺門主御殿と連日、底冷えしそうな処を動いているな。もう少し熱環境に少しは配慮された建築内を動いた方が健康には良いのではなかろうか。難波さんの箱の家はかゆいところ迄熱が届き過ぎてx気味悪いけど、鈴木さんの論理もうっそうとした巨木の森の中みたいでコタツくらいはあたらせてくれと言いたいのである。

ゼミをまだ公開できぬのに、思わせ振りを書いているが、書かざるを得ない程に面白いからである。

十時半発。十六時迄雑用で東京近郊を歩く。当然こういう日の昼夕兼用食は新宿南口の長野屋食堂である。この時間に三人程の初老のプロレタリアートがそれぞれ一人で日本酒やらビールを飲んでいる。「去年北千住で」だな。

二〇時四〇分世田谷村に戻る。今日は午前三時半に起きてしまい昔の職人のような時間の過し方をしてしまった。やはり六時起き位にしないと体が持たない。

三月二〇日 土曜日

七時起床。スケッチと制作ノート。ムズカシイ。何しろ、相手がいないのだから。

180 ある種族へ 世田谷村日記
三月十八日

豊島北教会の芳賀繁浩牧師より、大変ていねいな便りをいただく。かねてアニミズムとキリスト教のおり合いの悪さらしきに疑問を覚えていたので、ありがたい。牧師の了解を得て絶版書房交信に掲載することとする。

わたくしは、何でも人間を介して視て、そして考えるとわかりやすいので、プロテスタント、カルヴァン派の牧師と浄土真宗の馬場昭道を介して、宗派、さらに宗教を感じてゆく事になるのだろう。こんな事簡単には言えぬが、芳賀牧師と馬場住職とは言葉の使い方、その世界がまるで別世界である。織田信長の合理精神が僧侶を憎み、宣教師達を好んだのは良く解るような気がする。

至誠館、理事長K氏にお目にかかる。二十一時過迄打合わせ。会食。二十二時世田谷村に戻る。難波和彦さんより、ケース・スタディハウス NO. 7チャールズ・イームズハウスに関してのコメントが届いていた。まだ公開せぬが、ゼミナールは面白くなりそうだ。

三月十九日

三時半起床。あまりの早朝の起床となったが、気が小さいもので制作ノート、(X) セミナー返信、他を書かねばならぬと、目が覚めてしまったが、やはり早過ぎるので、制作ノートのスケッチだけやって再眠。四時十五分。

六時再起床。制作ノート記す。スケッチ2点はサイトに ON してみよう。六時半、今朝インドに発つT社長に電話、インドでのビジネスを頑張っているようだ。頑張る人は何時でもコンスタントにエネルギッシュなのだなあ。インドから帰ったら会おうとなった。「時間の倉庫」のオーナーである。

八時十五分、交信ゼミ書く。いつこのやり取りを公開するか相談しなくてはならないな。公開しなくてはゼミにならないし、けれども非公開でコッソリやるのも面白いが、それは馴れ合いになるか、内ゲバになるしかないから、やっぱり避けた方がよい。しかし、内ゲバだって、俺もまだ若いな。

わたくしの畑は今、紫のだいこんの花の花盛りです。小松菜は喰べずにほっといたら、高くのびて黄色の花を咲かせました。その中に立って、一瞬ですがホーッとしました。ほんの一瞬です。

179 ある種族へ 世田谷村日記
三月十七日

十三時半NTT出版K氏刷り上った「生きのびるための建築」NTT出版2400円+税持参。良い出来上りだ。四月十七日の世田谷美術館ホールでの、この本に関する、というよりも、続連続講義のディテールの相談。百五十名定員なので、関心のある方は、予約していただきたい。予約はメール又はFAXで願います。無料です。当日、本も販売します。

十五時T社来。打合わせ。アニミズム紀行5に関しての感想も、いただけた。葉書等も舞い込む。その後雑用をいささか。十八時半、ドローイング5冊。

雑用にも色々あって、学生対応のとんでも雑用もないわけではないが、恥ずかしいので書かない。十九時半近江屋で一服しストレスを発散する。おだやかに。二〇時半了。スタッフと「生きのびるための建築」を眺めながら、少しは頑張ってる、甲斐もあるよなと想う。

三月十八日

七時半起床。薄日指す朝である。

 梅散りて 再びの朝 少しうれしい

4月17日の「生きのびるための建築」の世田谷美術館でのレクチャーの準備をする、かと言ってもどういう話の方向にしようとボーッと考えるだけ。対談にしようかとも考えたが、イヤ、これは独人で話してみたいと決める。

八時半、そうだレクチャーだけでは面白くないから、あと丁度一ヶ月あるので、今日の日付から毎朝作業して、世田谷美術館ホールでレクチャーと一緒に何か見ていただける、つまり一時間半の展覧会レクチャーをやってみようか、のアイデアが浮かぶ。来場者とのやりとりを含めて二時間の展示会レクチャーの形がとれないかと考える。一ヶ月の準備期間があるので、何か出来るだろう。ホールの外に出ない配慮はしなくてはならないし、来場者はやはり階段状のシートに座っていただくので、それを念頭に、何か見ていただけるモノを一ヶ月の時間系をミックスしながら展示し、話してみるというのを試みてみる。

ルールとして、今日から丁度一ヶ月三〇日のWORKだけを見てもらおう。それについて話すということにしたい。早朝の一時間程をかけて作業をすすめる事にしたい。

178 ある種族へ 世田谷村日記
三月十六日

十五時過京王井の頭線駒場東大。十五時半、藤森照信退職記念講義。沢山の人がつめかけていた。前半立派な講義であった。日本の近代建築史研究者として超一流な藤森さんの資質を思う存分見せつけてくれた。明治初期の国家の意志の形とでも言うべき、りんかくの断片を示した。

講義の最終部は巨石文化からイサム・ノグチの石の仕事で象徴的にしめくくられた。これは、歴史家から作家に転じた藤森照信さんはいささか不用心であったような気がする。イサムの、香川のイサム家の丘の上にある、私的な生の記念碑としての垂直に重力に抗している楕円の石、石の中にはイサムの骨が納められている。それと、イサムの最高至上の石の作品であった、エナジーボイドで講義はしめくくられた。しかし、友人として、ここで言うべきなのかは知らぬが、これは、大きな疑問符が当然はりつかざるを得ない。藤森照信の学問の成果を、これが示しているわけもない。そして、その後の創作活動を象徴するモノでもないように思う。気持が先走ったんだな。退職講義なので、これからの宣言なのかな。

イサムの仕事は、典型的な芸術家としての生の表現であった。藤森照信の生き方は前半の近代建築史家、そして後半の設計家としてが、今のところは分断されている。二人の人間がある時期を画して表現されている。

10 年早く作家に専念したかった、とは藤森照信のもらした言ではあるがわたくしはもう 10 年歴史家としてやっていたら、しかも、日本の外からの建築文化受容の歴史を究明していたらと、今日のレクチャーを聞いていてしきりに思ったのである。凄い歴史家であると再認識したのである。

終了後、懇親会。多勢の懐かしい人の顔があった。チョッと打合わせたい事があったので、鈴木博之、難波和彦氏をそれに渡辺豊和さんをおさそいして、渋谷へ。地下のヤキトリ屋で、これから何するかね、の相談。大した事をやらかそうというわけではないが、青山で鈴木ゼミをやろうか、ボチボチと、それに難波、石山が参加する形式だったらリアルだなという事になった。気楽に始めましょう。

渡辺豊和さんは顔色も良く、「空気の良いところに居るからね」という事であった。奈良で執筆その他の活動に励んでいるのだ。この場に彼が居合わせたのも何かの縁であろう。久し振りに会った藤森さんも実に顔色が良く、安心した。良い未来への航海を!二〇時了。二十一時世田谷村に戻る。

三月十七日

六時半起床。十時前、はじめようとしているゼミについて、チョッと良い考えを思い付いたので、鈴木、難波両氏にFAXする。このやり方なら、ズルズル続けられそうなのが良い。難波和彦さんからすぐに応信があり、すでにゼミナールは始まったと考えられる。いずれ鈴木博之さんの了承が得られれば順次公開したい。

177 世田谷村日記・ある種族へ
三月十五日

十一時研究室。サイトチェック。今日は4アイテムがページににONされて、少しややこしい感じである。読者も読みにくいか?コラムに書評らしきをONしてみたが、座りが良くない。いずれ工夫したい。

H牧師より、HPトップページの鳥を一羽よこせという無理難題あり。牧師は勿論キリスト者であるが、アニミズム紀行を読んで下さり、いずれどう思っているのか尋ねてみたい。しかし、近代建築の名作にキリスト教聖堂、僧院の類はあるが仏教寺院はまだ無い。実に日本近代の悲劇である。

原始キリスト教はエジプト、アレクサンドリアで仏教らしきと交信したようだが、定かではない。いずれ、アニミズム紀行でそこ迄辿り着きたいものだ。モダニズムデザインとキリスト教とは明らかに連動している。ニーチェハウスでそれを直観したのだが、いずれ力があったら詳述したい。

H牧師には何とか鳥を送り届けたい。

十六時過、来る筈の馬場昭道さんがまだ現われない。仏教には契約=約束のルールが無いからな。しかし、待つ身にもなってみろと言いたい。このもうろうさはキリスト教には無いんだよ。こんな事してたらキリストの方へ行くぞとブツブツ。いきなり仏事でも入ったか。と怒る。当り前だ。

十七時半、あまりの空腹さに、新大久保のラーメン屋へ。お気に入りの、レバニラいためをいただく。レバニラいためを喰べていたら、仏教よりは儒教の方がまだましだなのアイデアが浮かぶ。十八時二〇分、昼食了。仏教の僧侶のルーズさにあきれ返って、世田谷村に去る。

最近のある種族へ・世田谷村日記、ある種族をオリジナル原稿では世田谷村より先にしているのに、誰もウチウチの人間は気付いていない。ウチのも仏教の僧侶なみだなと、内心寂しい想いを抱く。まことにコミュニケーションはむづかしいのだ。

只今、十八時四〇分、桜上水である。

十九時半、世田谷村に戻り、一人で一服する。猫の白足袋だけが寄ってくるが、こいつは泥棒なので用心したい

フト、思いついて、TVをつけてしまった。軍艦島のドキュメンタリーをやっていた。映像は凄かった。作った人間達制作者達が想像した以上の映像が流れていた。しかし、なんである。登場して、しゃべっていた人がいけない。こういう何もないタレントらしき人物を登場させないと視聴率かせげないと思っているTV業界のバカさ加減は恐ろしい。TVもすでにほろびつつある世界であるのは歴然としているのに。

と、いいつつ二十一時半、何回目かの「悲しき熱帯」読みながら、眠りに入る。早く、これから脱れたいのだが、むづかしい。凄いな、このユダヤ的な心性は。と、なげやりな印象を記すしかない。まだね。でもいつか脱したい。

レヴィ=ストロースは冒頭から言ってくれる、わたしは旅と冒険が嫌いだ、と。近代芸術も嫌いなんだし、勿論、近代建築の馬鹿馬鹿しさも好ましくないのだろう。近代からの亡命者なんだ。それで悲しき熱帯。

二時半目覚めてしまい、メモを記す。雨が降っている。コラム、2本書く。ストックしておかないと、毎日コラム更新というわけにはいかない。

三月十六日

七時半起床。浅い眠りだった。雨は上がっている。これで一気に春になるだろう。九時半制作ノート書いた。スタッフへの通信文もかねている。手紙書いたりで過ごす。

177 世田谷村日記・ある種族へ
三月十三日

十三時半研究室。打合わせ。十四時よりM0ゼミの予定だったが、打合わせ喰い込む。打合わせを体験させるのも実に最高のゼミなのだけれど、感じ取る人間がいるかどうか。十四時半よりM0ゼミ。石山研のM0とは実質的には3年生の最終期に、4年ゼミを石山研をセレクトした学生をいう。十六時迄ゼミ前半。その後、ブラジルからのアンドレア、相談。サンパウロとグローバライゼーションのテーマだが、むづかしい。プレM1のWORKを見て、ウームとうなる。でも、わたくしだって学生の頃は不様だったのだ。リアルな仕事の入口をトライさせると、その人間の総合的な力量がアッという間にわかるのは仕方ない。でも、頑張って欲しいのだ。その後、ゼミ後半。十九時迄。呑み込みが速い学生と、遅い学生は歴然としており、その辺りが面白いのである。

二〇時前、やっぱりいささか疲れて新宿南口味王で一服。アニミズム紀行5に寄せられたメールリスト、及び内容を全て読む。奇跡的に赤城山で出会ったY夫妻からの、ネパールの写真メールの数々に感動する。又、千葉のT君の便りもあり。

広島市役所のTさんより、アニミズム紀行3の残部が気になって仕方ないので、全部引き取るのメールが金曜日にあったようで、アニミズム紀行3はこれでめでたく絶版となった。やはり、「ひろしまハウス」の号はひろしまの人間に幕を引いていただきたく考えていたので、内心ホッとしている。こんなやりとりのディテールがわたくしの気持に灯をともすのである。二十一時了。しかしながら、小さい事ではあるが、アニミズム紀行1 ~ 4迄絶版に出来た事は良かった。読者の皆さんのお蔭様である。と殊勝に御礼を述べる。

二十一時半世田谷村。読書しながら眠りにつく。

三月十四日 日曜日

このところ、七面倒臭い本ばかりをズーッと読んできて、一昨日であったか、トム・クランシーの「レッドオクトーバーを追え」上下2巻文庫本を拾いモノのように読んで、面白かった後遺症である。むづかしい本が読めなくなった。むづかしい本をむづかしい顔をして読んでるのは、滑稽な事ではあるが、人間はそもそも滑稽な者でもあるから、仕方ないのか。

絶版書房交信、ベイシーへの便り書く。4号迄ようやく売り切ったなんて事は勿論一切書かない。彼は売れたか、売れなかったかなんて事には一切関心を持たぬ。十時半K社K氏と連絡。小さな工事の工程について。新制作ノート書く。書くことがそのままアイデア作りになってくれる事を望むばかりだ。

十六時過、「遊廓社会」読了して、感想文も日記に記したが、少々重く、長くなったので、コラムに移すことにした。

一段落してホッとしていたら、太田邦夫先生から「エスノ・アーキテクチュア」鹿島出版会、2400円送られてきた。ウワーッ、これも読まなくちゃなあ。渡世の義理は重いのである。

宅急便が来て、大きい。又、宮崎の藤野忠利さんの大作品である。意を決して、だいぶ前に送られてきた大きな箱を一階に置いていたのを開いて、三階のわたくしのスペースに運び上げる。汗ばむ位の作業となった。このまま藤野作品が送り続けられると、わたくしのところは藤野忠利倉庫になっちまう。

「エスノ・アーキテクチャー」読み始め、第三章で休む。二〇時四〇分だった。これは一種の伝統文化への工学的思考アプローチだな。まだ解らないけれど、いきなり言うが、太田邦夫的思考と難波和彦の四層構造とは実に似ているような気がする、と妙な事を感じたのである。両者共にマルクスだろうな。太田邦夫先生の最近の実作は不勉強で知らぬが、昔の赤げらの家、山車の家、他の建築作品は東大の生田勉の流れ、清々しいが、淡白な、酒でいえば久保田、ビールに例えれば、わたくしが医者にすすめられている淡麗W発泡酒みたいな感じなんだなあ。又、これもコラムに移行させたい位だが、これは意外と正しい直観であるかも知れない。かつて、若き大野勝彦も、セキスイハイム・オリジナルを実行しつつ、現代民家論というイメージをふくらませていたからな。大野勝彦は記憶によれば、四層ならぬ田の字型にも非ず、オセロ的九コマ構造で、住宅、地域、生産、他を説明するのを好んでいた。そういう類の好み、愛好癖が難波さんと似ている。そして、太田邦夫のエスノ・アーキテクチャーの語り口も又、酷似しているのである。つまらぬ事を考え始めたので、チョッと早いけれど横になろう。二十一時半である。

三月十五日

七時起床。今朝は又薄曇りで寒い。春ヨ来い駆け足で。ベイシーの菅原正二より昨日送った通信への返信が届いていた。チョッと彼の中枢に触れてしまったようで、一つの専門世界の凄味がのぞいている。大変面白いので絶版書房交信に公開してしまおう。この交信はいずれ本にしてみてもいいな。

176 世田谷村日記・ある種族へ
三月十二日

二〇時過世田谷村に戻った。今日も一日すぐには役に立たぬ事で動いていた。創作と学問とは似て非なるものだと考えていたが、最近は、いや待てよと考え直している。良い創作と良い学問はすぐに役立たぬ事で同じである。建築学の分野で一番すぐに役立たぬのは建築史である。構造・設備・材料等々の分野は建築生産の合理性、わかりやすく言えば人間の生活の利便性を求めるが故に、その存在価値がわかりやすい。コンビニ、ファミレス、ユニクロ、百円ショップの存在に似る。要するに工学というのは解りやすい。初歩的な数学に似る。

が、しかし数学も宇宙の膨張の因を知りたい類の水準が当然存在する。宇宙が日々驚くべき時間と空間に於いて膨張しているという事実らしきは我々の日々の生活とは何の関係もない(と思う)。というよりもわかりにくい。つまり建築史と同じに文化的フィールドに酷似するのである。長くなりそうなので、ここで切るが、まあ要するに今日は文化的な一日であった事だなあと思うのである。

二十二時、そこらに転がっていた(最近世田谷村には誰のものとは知らぬ、変な本が良く、転がっている)トム・クランシーの「レッドオクトーバーを追え」を何気なく読み始めてしまった。今は昔の、海洋冒険軍事エンターテイメントである。実はわたくしは潜水艦が好きなんである。何故なら潜水艦の短手断面が正円であるからだ。何故正円であるか、水の中は上下左右等分な圧力がかかり、それに対抗するための正円である。つまり原理に忠実なのだ。マ、これはヘリクツ。何故か潜水艦が好きである。

トム・クランシーのレッド・オクトーバーは世界的なスーパーベストセラーであり、映画化もされているから知っている人も少なくはないだろう。

二、三ページ読んでみるかと読み始めたら、これが失敗で、止めようがない。上巻はすぐ読んでしまい、下巻を探しにさまよう羽目に、そして遂に下巻も読み切ってしまったのである。

これは潜水艦が好きなんて事だけではすまないのである。良くもマア、読ませてくれちゃったなあと、やはりその筆力というか、構成力は凄いね。トム・クランシーはこの一冊をほぼ十年かけて書き抜いたらしい。旧ソ連の海軍、アメリカ海軍のディテールも詳細に描かれていて、このディテールが読ませる一因でもある。わたくしはR・B・フラー論を書きたいと考えていたが、アメリカ海軍のディテールを知り得ず、それだけで、あきらめた歴史がある。B・フラーはアメリカ海軍に入隊したくて、近視と背が足りなかったのであきらめたという人生があった。

あまりにも、それでも呆然とした。恥ずかしくて何時迄レッド・オクトーバーを読んだか、なんて書けるか。でも面白かった。

三月十三日

起きたような、ほぼ昨日の続きのようなである。まずいよなあ。年なのに、こんな読み方してたら。しかし、わたくしは高校生の頃は物凄い読書家であったのである。山岳書、推理小説、冒険小説専門であった。ハヤカワ・ミステリー他には大変お世話になった。気がつけば押入れ、数カ所が満杯になる程であった。別に押入れで隠し読んでいたわけではないが、オヤジの立派な本棚を見て育ったので、オヤジはマア漢文学者らしきであった。自分の読書傾向が妙に俗っぽく片寄っているのは、だから知っていたのである。

頭の中が潜水艦状態で、そう言えば先日N艇長の月光ハウスで海上自衛隊の潜水艦乗りの方々にもお会いしたなあ、自分も取材で黒潮の中に入った事はあるが、出来れば、出来る事ならば、原子力潜水艦という物体そのものは一度実感したい。「渚にて」がいよいよリアルになっているような気もする。あれは現代のアニミズム的物体である。

八時半我孫子真栄寺、馬場昭道に連絡。彼の「新しき寺」は仲々、前途多難な様である。馬場昭道は都市開教、つまり近代都市への仏教伝導を目指している。現代の仏教が目指すべき一つの径であろう。わたくしなどは仏教、寺、あるいは墓地に拒否感はない。しかし、都市、あるいは都市近郊に暮す人々はそうではないようだ。

寺、墓地は人間の生にとっては、実は必然の存在である。それに気付かぬ、あるいはそれに対する自覚の無さはオールド日本仏教界の怠慢である。現実の都市、あるいは郊外新興住宅地の人間達の少なからずは、寺、墓には拒否感があるようだ。昭道さんも宮崎の大寺の二男だから、お寺がまだ大事にされているであろう地方の、それも名のある寺の生れ、育ちでもある。であるから、お寺はあって当然だという気持があったかも知れない。あったであろう。それで周辺住民の寺院建設反対運動、署名運動がおきてしまい、難しい立場になった。反対している人々の姿はわたくしも実見したが、それ程の、反対の理があるとも考えられない。マア、しかしこじれてしまったのである。

昭道さんが、これ、仏教では法難というらしいが、この難局をどう乗り切るのか、彼のいささかの正念場かも知れない。

175 世田谷村日記・ある種族へ
三月十一日

八時四十五分発、仙川よりバスで杏林病院九時半。採血の後検診。異常無し、のようだ。只今十時半内科検診へ廻っている。待ち合いロビーでWORK。こういう時は意外にはかどるのだ。

十一時半、制作ノートを待ち合いロビーで一本書く。面白かった。内科の担当医がいなくて、ちょうど良かったのである。十三時昼食をとる。昼メシをキチンと喰えるのは久し振りだ。腹がくちくなると、眠くなった。

十九時、突然その気になって書き始めたコラム一本書き終える。大きな貯蔵庫を又一つ開けかかっているのを感じる。止まらなくなって「絶版書房だより」も一本書く。コラムも、だよりも共につまるところ新しき寺、についてである。いい寺を設計したい。

三月十二日

六時半起床。今朝は寒いけれども晴れているから暖かくなるだろう。世田谷村は天気に敏感なのである。つまり外気に対して密閉していない。ピカソがパリに出て、貧乏暮しをしている時期、洗濯船と呼ばれるアトリエで暮していたようだ。何かの本で写真を見たが、家らしきに洗濯物が万艦飾であり、なる程なあと感じた。晴れた日の世田谷村も洗濯船である。まあ、これ程に洗濯物が良くもあるなあと驚く程の光景が出現する。家に乾燥器が無い事を表現しているようなものだが、太陽エネルギーで洗濯物を干すか、あるいは室内で電気エネルギー等を使って干すかのちがいである。高級マンションには洗濯物は出されていない。何故だ?周りを見るに、こんなに洗濯物を干しているのはどうやらうちだけのようだ。洗濯物の露出は前近代性の表れなのであろうか。それとも自然(太陽)エネルギーと共に生活しようとする感覚の表れなのか。モノは考え方次第であるが、そのギャップは大きい。

後年画業に成功したピカソは幾つもの大きな城に住み暮すようになる。ダンカンがその光景を撮っているが、もう洗濯物らしきの姿はない。百万の富を得たピカソは、もう洗濯物をどうしようかなんて事に気をわずらわせる必要もなかったのであろう。生きるリアリティも小さくなっていたのではなかろうか。

でもなあ、自分の排泄物(ウンコ)は一応自分で便器を頼りにはしているけれど、始末しているではないか。洗濯物は自分が作り出している、いはゆる汚れ物である。それへの対応は人間の生活の必然であり、生きている事の表現なんだから、わたくしは洗濯物を外に干すのは自然なサイクルなんだと思う。変なへりくつを記しているなコレワ。

しかし、フラードームには洗濯物は似合わない。エスキモーのイグルーでは洗濯物はどうしているのだろう。大草原のパオではどうしているのだろうか。極寒の地の洗濯物は想像しにくい。太陽エネルギーの豊かなエリアの特徴であると考えれば納得もできるか。しかし、パリは決して温暖の地ではないから、ピカソは相当に、それなりに貧しかったんだなあ。芸術家は金を持ったら、作風も変わるのもわかる。

174 世田谷村日記・ある種族へ
三月十日

八時四十五分過四ッ谷駅。九時、雑打合わせ。十時迄。十時半過地下鉄にて研究室。すぐにアニミズム紀行5のドローイングにかかる。十四時迄ぶっつづけに没頭する。でも充実していた。

至誠館理事長K氏より連絡あり、全体の進行状況確認の他にプロジェクトの玄関の陶器タイルについて他。この焼物についてはとても関心があり、淡路島の山田修二さんのモノを一度検討してみたい。しかしながら、理事長は能登の人だからなあ。

宮古島プロジェクトのスケッチをしながら、アニミズム紀行5のドローイングを続ける。もうクタクータである。

十八時過ギブアップ。十九時前、新大久保ガード下ラーメン屋で、研究室の面々の電話対応の品評会をしながら一服。全く、ヒマだな、わたくしも。二〇時了。二〇時四〇分世田谷村に戻る。スタッフは今日も一日、至誠館プロジェクトの近隣説明まわりであった。いい勉強になっている筈だ。かくなる仕事はわたくしはとうに卒業している。

しばらく荷ほどきもしていなかった、宮崎の具体派のアーティスト藤野忠利さんから送られてきた最新のパッケージを開ける。オーッ、額にも入れられていない、児童画の如きペインティングの中に仲々のモノがあるではないか。キチンと仕上げられた作品らしき、立体画らしきオブジェクトも仲々良いが、この、あっけらかんとした落書きまがいが出色であった。藤野さんは何をやっても器用なところがあって、それが難点なのだが、このペインティングは良いと思う。

只今、二十一時今日も又、ドローイングに没頭してしまった。それでもようやく、アニミズム紀行5の予約には追いつく事が出来た。ドローイングなんて気取った事を言ってるけれど、ようするにさし絵画家の如くで、自転車操業なのである。

伊藤毅先生より、「年報都市史研究<17>遊廓社会」送られてくる。いつもながら豪華な装丁である。自分でも意外なのだが、こういう冊子は意地でも隅々まで眼を通すのである、わたくしは。近日中に印象を述べたい。述べるぞ絶対に。しかし理論としては古いんだよね、このテーマは。面白いところはほとんど全て喰い散らかされているとは思うのだが、都市史の諸賢がどれ程の者なのか、どーれという感じです。失礼!

本格的に宮古島・渡真利島プロジェクトをスタートさせたのだが、イヤハヤ、何とも考えがまとまる方向へ一向に進もうとしないのである。この頃はやたら本を読んで、エスキススケッチも膨大にしていたので、我ながら調子は良いと考えていたのだが、何ともムツカシイものだ。でも、イヤなんだなあ、程々に流してしまうのは。繰り返しはどうしてもイヤだ。繰り返し、反復を方法的姿勢と呼び始めたのは、実に最近の事ではないか。昨日と今日が不連続は不安も確かにある。厳然としてあるのだけれど、連続し過ぎるのも、同様以上に不安である。人間として生きるという本能にかかわるなあコレワ。

三月十一日

二時半に、フッとではなく、意識的に目覚めさせた自分を。我ながらやったねという感じである。昨日来、考え始めていた宮古島プロジェクトで、もしかしたらというアイデアが浮いたのである。これはむしろ制作ノートにでも記した方が良いのだろうがまだ日記でもいい。

二〇〇八年の世田谷美術館の展覧会に出品した第一案は、中心に空虚を持たせた円環の案だった。実ワ、スペインの闘牛場のコロセウムがオリジンであった。カーンと陽光だけが溢れ返る空虚が中心にある。そこに巨大なハンモックが揺れていて、N艇長が揺れている。ここ迄は良い。でも全体の形が強過ぎてイヤだった。それに既視感がある。これは許せない。だから、これを作るわけにはいかないと考えていた。

でも仲々、抜けだせない。何故なら単体の建築イメージに依っていたからである。昨日、アニミズム紀行5のドローイングをしながら、それからどうやって自由になるか考え続けた。スケッチブックに一つ小さなアイデアが浮いた。

それがなんとアニミズム紀行5で作ったわたくしの終の棲家のイメージをそのまま円環と組み合わせてみたら、というモノであった。それが夜になって寝ていても続いた。つまり頭の中でスケッチを続けたのである。これは珍しい事であった。わたくしはスケッチは紙の上でないと出来ない。しかし昨夜は頭の中で出来たのである。何がおきたのか。

それで、幾つかの図形を得た。建築としての円環は解体され、渡真利島に融和した。円環は残した。しかし、建築形式を分離させて残した。これを捨てるわけにはいかない。空虚は空虚として確然として残した。しかし、巨大な天水受けのリングとした。直径 33 メーターの天水受けのリングだ。これに陽光発電を組み込んで、建築的諸機能の媒介的役割、つまり散在する諸機能をつなぎとめる機能を持たせる事にしようと考えついた。

しばらく、このアイデアを展開させてみる。これは自力でやる。しかし、独人で黙々とやっていても面白くない部分もあるだろうから、何か研究会みたいな、オープンゼミみたいなのをやってもいいかと思い付いた。前から考えていた事ではある。

前に東大でやっていた技術と歴史研究会みたいなのを、もう少し的をしぼって続けていけないかな。幸い難波先生も東大を退職されて自由になって、少しナンバ先生になるチャンスであろうし、一度相談してみよう。こんな事いきなりネットに記してさぞかし難波先生驚くだろう、でも、それ位自由にやって良い年令である。場所は青山学院大学なんて良いのではないか。ブッとばされるか?

173 世田谷村日記・ある種族へ
三月九日

昼に研究室で猛烈努力、絶版書房アニミズム紀行5にドローイング作業。他に何も手つかず。こんな事でいいのだろうかと思いつつ、しかしやらねばならない。アニミズム紀行5の発注数に到底、作業が追いついていないのだ。もう、スタッフと、口もきかずに十八時迄、黙々と作業。とてつも無い冊数にドローイングを入れ続ける。研究室の皆も何となく呆然としている様子がヒシヒシと伝わってくる。

疲れて合間にサイトをのぞいたら、アニミズム紀行5が中里介山の音無しの構え、机竜之介のデストピアらしきに論じられていたり、モダナイゼーションの中心でもある核家族の問題に例えられたりで、と言ってもホボ二名だけなのだが、何となく、少しは一石を投じたかの感あり。でも、二人だけなのだなあ、論じてくれているのは。でも、この二人は・・・変だ!ゆがんだ宝石であろうか。ユイスマンスだな。机竜スマン。こんな風に書くと、圧倒的に嫌われるのだろうと思うのだが、好かれたくない気分もないではないのだから仕方ないのである。

二〇時近江屋で一服し、二十一時半世田谷村に戻る。

三月十日

七時起床。八時発。うっすらと雪が積もっている。近頃の東京の雪景色は美しくないな。マしかし、こういうのを美しいと思う人も居るのだろう。美にも色々ある。美しいモノを視に、何とかやってゆこう。美しいモノを視た、哀しい。当り前の事だが美はそれぞれの気持が反映している鏡にすぎない。イヤに内省的である。今朝は。

172 世田谷村日記・ある種族へ
三月八日

動きながら、それでも作業する。最近はこれに慣れた。2時間集中してアニミズム紀行6を一気にまとめた。アニミズム紀行5は 2025 年の静かな、時に死を待つ人を想わせるユートピアの建築を表現した。それに対して6号では、南島宮古島の渡真利島計画での開放系デザイン、技術を表現した。図版をそろえて、なるべく早く出したい。詳細なデザイン図を入れたい。

21 世紀農村研究会の大会の為の冊子も必要なので、その分は7号になるか、あるいは別立てで送り出す事になろうか。

二〇時四十五分世田谷村でWORK。二十四時就寝。

三月九日

六時起床。薄暗い朝である。今日も寒い一日になりそうだ。九時K社と連絡。相談。せちがらい世の中になった。このせちがらさに呑み込まれてしまったら人間までせちがらくなってしまうが、それだけは避けたい。こんな世の中は5年 ~ 10年は続くだろうから、身体を対応させてゆくしかないだろう。

政治、経済は共にそんな世の中、決して社会とは言わない、まあせいぜい世間だが、その世間に埋もれきっているばかりで、打開策あるいは方法の端緒さえ示せないまんまだ。政治の世界、経済の世界に恐らく打開する勇気を持とうとする人材がいないのだろうと憶測する。経済界にはそんな才があるわけもないが、せめて政治は、幾たりかの身を捨てる位の気位を持つ人が欲しいような気もするが。不可能を幻想しているのだろう。これは、朝のセンチメンタリズムである。我ながらバカバカしい。こんなこと考えているヒマがある位なら、アニミズム紀行5のドローイングを入れ続けていた方がマシである。追いかけられている。

でも、恐らく外からの圧力、ショックで我々は変化させられるのだろうとは予測する。中国だろうな。歴史は繰り返すのである。本当は主体内からの変化が必須だが、歴史はその不可能をも示している。

171 世田谷村日記・ある種族へ
三月六日

十一時過研究室。打合わせ。アニミズム紀行5へのドローイング、打合わせの合間に 20 冊をやった。打合わせの断続はあったが、ようやくリズムをつかんできた。設計の方も何とかモノになりそうなのでやり抜きたい。十八時了。新宿南口味王で一服し、二十一時過世田谷村に戻り、読書&WORK。二十四時過休む。

三月七日

驚いた事に、十時迄眠りこけてしまう。夢はみないほうなのだが、明方妙な夢をみていたようだ。しかし、夢というのは忘れるのも速い。手紙を一本書いているうちに昼になる。

ボーッと頭を空白にして休ませるのも必要らしいのは知るようになった。しかしながら、本当にボーッとする位に困難な事はない。それで本を読んでしまう。つまり、読書は頭を空白にする為に成そうとしているのかも知れぬ。何日か前に最近はいい読書しているのだ、なんて書いてしまったけれど、今日になってみれば、それ程の事はないか、と考え直さざるを得ない。かと言って、ボーッとしながらエスキススケッチしたって同じ事。昨日、絶版書房アニミズム紀行5にドローイングを入れ過ぎたのだろう、スケッチする気にもならない。

要するに手持ち無沙汰なのである。こんな時間に実に弱い。オロオロしてしまう。誰かに電話でもしてみようか、等と考えたりもするのだが、された方もただ迷惑なだけだろうと考え、止める。そうこうしていると、案の定一ノ関ベイシー、菅原さんからFAXが入った。こんな時には電話の鳴り方でアッ、一ノ関だと解るのである。菅原さんも余程、手持ち無沙汰なのであろう。菅原さんは 40 年間、レコードを廻し続け、JBLのスピーカーの工夫、手入れに常人にはとうてい理解不能な情熱を傾け続け、アンプ、ターンテーブルレコード針の保持に気を配り、その果てにモダーンジャズを中心にそのサウンドを聴き分ける、と言ってもこれも常人の域ではないので、この表現は正しくないかも知れないが。そうして、ベイシーなる稀代のジャズ喫茶の闇の中で、変な何かをつくり出し始めている、本人はいやがるであろうが、創作家なのである。

しかし、その本質は桁外れの手持ち無沙汰にあるのではないか。すなわち、手持ち無沙汰こそ、何かの母体なのであると、ヘリクツを記す。本当に手持ち無沙汰である。菅原さんからのFAXは本人に内緒で絶版書房だよりに掲載する。その品格を味わっていただきたい

三月八日

六時起床。八時迄、読書&スケッチ。もう読書とエスキススケッチをごちゃ交ぜにしている。読書したって、いきなり知恵がつくものではないし、知恵がつかない読書は、何の為の読書か?なので、長めにしたってしょうがない。長い時間の読書は若い人の特権であろう。65 才は手持ち無沙汰でも、先を急ぐのである。

やりたい事は山程とは言えぬが、ヒマラヤ程ではないが、日本の南アルプス位はある。何故、南アルプスかと言えば、あの山並みは、ボーッとだだっ広くて全く焦点が余人には視えにくい事が特徴である。こんな風にメモを記し続けている役得は、今ヒマラヤ程ではないと書いてしまい、フーッとイヤな感じが襲いかかってきた。つまり、我ながら縮み始めているのではないかと感じたのである。それで、そんな事自分に対して言わずに、もう少しヤローと思い直したりするのが取り得なのである。まだ、手持ち無沙汰が続いているようだ。

170 世田谷村日記・ある種族へ
三月五日

十時半研究室。十一時学生相談2件。ドローイング3冊。前橋より市根井さん来る。十三時打合わせ。再び市根井さんを交えて打合わせ。十三時半アニミズム紀行5ドローイング。十五時、設計打合わせ。十八時夕食へ。今日は朝、昼を喰べていなかった。十八時半新大久保ガード下ラーメン屋でレバニラいため等。学生相談ラーメン屋で。今日が色々と学生にとっては決断せねばならぬリミットなのである。おかげで、スタッフは大学院事務室とガード下ラーメン屋をいったり来たりで書類を作成、申し訳ない事をしたが、レバニラいためも生きるため。

二十一時迄、研究室で作ってもらった、ル・コルビュジェのマルセイユのユニテの屋上の資料を眺めて、考え込んだり、シャンディガールを見直したり、それらのペーパーの裏や空白にスケッチしたり。その間に自転車で走り廻る学生と相談したりで過す。へんな取り合わせの時間であったが、かえってこんな時にハッとするようなアイデアが出るものなのだ。学生も大変だろうがわたくしも仲々大変です。二十二時半世田谷村に戻る。

三月六日

六時起床。すぐスケッチにとりかかる。今朝の打合わせ迄にスケッチ渡すから、とスタッフに約束してしまったので、それは守らなければならない。深夜迄作業を続けるスタッフよりも創作へのエネルギーが少なくなってしまったら、もう何も指揮出来なくなるのは眼に視えている。気合いを入れて作業を始めたら、何と三〇分程でほぼアイデアがまとまってしまった。これでよし。早起きする必要もなかったかとも思ったが、六時にとりかかったから、すぐにまとまったのだろう。それに昨日のラーメン屋のテーブルにペーパーをめいっぱい拡げて、図々しくやっていたWORKもきいているようだ。全く、面白いものだ。

これも、昨日決めた事だが、四月十七日の土曜日の午後、世田谷美術館でNTT出版よりの「生きのびるための建築」に関して、レクチャーを行う事になった。世田谷美術館・NTT出版の共催である。多くの方々の御来場を願いたい。

夢中になって、スケッチしたりメモしたりを続けてたら、九時になっていた。十時には発ってアイデア持って打合わせだ。今日は張り切るぞ、何しろアイデアがあるからね。

169 世田谷村日記・ある種族へ
三月四日

十時半大学。サイトチェック。アニミズム紀行3「ひろしまハウス」の残部がようやく5部になった。四百十五部を皆さんに買っていただいた。残り5冊のみである。本当に早く絶版にして下さい、と言いたい。

新しいアニミズム紀行5はよいペースで売れてくれている。と言っても一日、五〜十冊のペースで、読者の皆さんはわたくしのドローイングを入れるペースをこのメモでチェックしていただければ販売実数は把握できるだろう。

十一時、二〇一〇年度石山研ゼミ受講希望者第一回ミーティング。良い人材が集まって、やはり胸ふくらむ想いがある。研究室は人材次第だからな。十四時過教室会議。十五時半了。

実務打合わせ他。その後、絶版書房アニミズム紀行5「キルティプールの丘に我生きむ」12 冊にドローイングを入れる。色鉛筆で描いているのでとてもエネルギーと時間がかかる。何とか、打開策を考えなければ、とてもやり切れぬかも知れない。

再び、設計他、実務打合わせ。十九時過研究室発。新大久保近江屋にてオアシスの一服。F氏より連絡入り、ジタバタする。新宿南口長野屋食堂にて再びF氏からの連絡を待ち、二十一時過、今日はこれ迄と帰る。二十二時過世田谷村に戻り、遅い夕食。二十三時横になり、読書。今日この頃は我ながら異常だなと思う位に、イイ本に没入している。本の名はまだ書かないのだ。いい本は面白い。

三月五日

五時半目覚めるも起床せず。昨日、至誠館プロジェクトの模型が出来てきた、その姿を思いおこし、あれやこれやと考える。こういう時には手も動かさず、頭の中でアレヤ、コレヤと考えるのだけれど、面白いかも知れぬアイデアが浮かんでは消えたりを繰り返す。恐らく、これ迄こんな風にして数限り無く得たアイデアを忘れてしまったのだろうなと思うと、ほんとに残念だ。ああいうのを全てとは言わずとも何らかの形で記録しておいたら、わたくしのみならず、少なからぬ人々にも面白かったかも知れない。これからは出来るだけそうしよう。このメモもその一端になり始めているのだけれど、言葉の記録が主だから、考えの何%が残されているかもあやうい。

例えば京王稲田堤のプロジェクトを考えている時に、いきなり宮古島計画のディテールのアイデアが入り込んできたりする。こういうのは皆人それぞれにちがうのだろうけれど、その、いきなり入り込んでくるのが何故なのかがどうしてもわからない。その瞬間のミステリーが一番面白いはずなのだが。ほんとに久し振りにコラムを一本書いてみようと思い付く

168 世田谷村日記・ある種族へ
三月三日

昼に事務的な打合わせ。後、雑用で動く。記す迄の事はなし。どうもこの私的メモの形式が少し計りの変容を期さねばならぬ事態に対面している。私的スケジュールの公開は控えるべき理由がハッキリとあるし、他人との関わりも全て公開すべきものではない。情報社会の危うさが充満している。もう一人のわたくしや研究室、スタッフ達、そして世田谷村さえもどうやら勝手に独人歩きを始めているようなのだ。

セリーヌの「夜の果ての旅」読む。侵入してはならぬモノが、しかし侵入してくる。セリーヌは耳鳴りに苦しんでいたらしいが、わたくしの耳鳴りは、わたくしを苦しめる程のものではないが、決して良い力を及ぼしているとも思えない。 「夜の果ての旅」はアニミズム紀行5 の旅とは全くちがう世界を描いている。トロツキーがセリーヌには希望がないと、革命家として否定したのは歴然としており、よく理解できる。しかし、実に魅力的な文体であり、引きずり込まれざるを得ない。中上健次はこれにやられたな。これが造形に入ってきたら眼も当てられぬ事になるだろう。

三月四日

六時起床。WORK。読書。どうもセリーヌは毒だな。死に至る病の気配さえある。それに比べると美術書は別世界なような気さえする。いい、悪いではない。

九時三〇分発。大学へ。

167 世田谷村日記・ある種族へ
三月二日

こうしてメモを記したり、少しかしこまって本としてまとめたり、ドローイングを描いたり、設計をしたり、模型を作ったり、現場に行ったり、色んな人々と打合せをしたり、実物を作ったりの全ては、これは一つの旅なのだなと、一日休みをとってつくづくとそう考える。小さなドローイングも、大きな実物も創作の現場では皆同じだ。と、そういう風に考えられるようになった。歳はとってみるものだ。

チョッと前までの、わたくしの旅といったら、アニミズム紀行5 で描いたヒマラヤの国ネパールであったり、アジアハイウェイやらシルクロードだったりであった。さいはての国々やラップランド、シシリアだったりした。まだ見ぬ国があると言う♪という新諸国物語りの詞にうたわれた如くに、まだ見た事の無い何かがあるに違いない、の強い好奇心の行末としての旅である。

時は巡り、沢山の経験をした。又、今は旅らしい旅をしなくても、沢山の情報を得る事も出来る。そんな意味では動かぬ旅、身体を動かす事の無い、今日の休みの日の旅も又、今の自分にとっては別の、リアルな旅ではある。想いを一日巡らせてあきる事が無かった。

友より手紙あり、又嬉しからずや。アニミズム紀行届いた、読んだの便りであった。ある種族へ、と附記しているように、私の作るモノやこのメモは、ある人間の族らしきを想定しているのだが、この友はその種族の中でも殊更なものがあり、どう読んでくれるか、どう眺めてくれるかは実は気になっていた。お世辞を書く人間ではないので、どうやらハードルは少し初めて超えたようだ。これ迄のこの人間からの評価はそれ程かんばしいものではなかった、実わ。ここは納得できるというような事を書いてくる事は、他はどうもね、という事でもある。今までのところ、わたくしの憶測するところでは、彼のアニミズム紀行の評価は、マア連戦連敗とまでは言わずとも引分け位であったが、ようやくライト前ヒット位打てたかなという感じである。いつか、この人間に成程ね、と言わせてみよう、と考えてやってきたので、今日は少しは良く眠れそうだ。

ただ、彼によればアニミズム周辺紀行はわたくしのライフワークになるかも知れぬと記してあった。覚悟しろと言う事なのか。もうすでに覚悟は決めているのだが。

三月三日

八時起床。昨日、良い便りが届いたせいか、今日は暖かく、ようやく春になった。まあ、全力疾走はもう身体に良くないから、お互いトボトボと行きましょうと、トボトボは元気ないから、コツコツか。コツコツは偽善者ポイからトントンがいい。今更トントン拍子はあり得ないが、トホトホよりは増しであろう。

昨夜、家の中でメガネを2回見失なって、だいぶ時間をかけて探した。最初は卓上TVの裏の小さな暗闇の中に発見した。2度目はどうしても解らず、一人で猫のようにクルクルと探し廻った。郵便受け迄2度外に出たので、そのルートも勿論たどった。遂に発見できず、仕方ない、眼鏡なしで本読もうと横になったら、全く不自由なく読めるではないか。何のための老眼鏡なのかと考えつつ眠りに落ちたのである。今朝、それでも探したがやはり無い。猫の白足袋が何処かに隠したかと問いつめるに、我ハイは知らぬぜよ、との事である。それにこ奴はまだ若いので老眼鏡には興味がないだろうとも推理したのである。

神隠しにあったかとも憮然としつつ、新聞を取りに外へ出た。その間も下を見つつメガネ探しの旅であった。玄関というか、もっとざっくばらんに呼べば、ただの入口なのであるが、そこのコンクリートの土間に戻った。行きには気付かなかったが、光の具合なのであろう、クツとクツの間に、何と眼鏡がひっそりと居るではないか。良くぞ、踏みくだかれずに無事でいてくれた、と役に立っているものか、どうかは定かではないが、ともかく無事を喜んだのであった。

早速、眼鏡をかけて、色々と読んでみるに、一夜眼鏡無しの裸眼で読書した眼にはすでにどうやらレンズの度が合っていないのである。人間の身体は実に千変万化とみずみずしいものである。

一日丸休みすると、わたくし迄も急に老人風のメモの仕方になっているのに驚く。年なりに生きてゆくのが一番自然ではあろうが、流れにサオさす生き方もわたくしの自然であろうから、やっぱり流れに抗したり、流されたりの繰り返しが一番なのだろう。

166 世田谷村日記・ある種族へ
三月一日

絶版書房アニミズム紀行5開放系デザイン、技術ノート1 キルティプールの丘にてわれ生きむ 10 冊にドローイングを入れる。何故かボーッとして、体調もいまいちで早退。まだ明るいうちに帰るのも我ながら不気味で、新宿南口階段下の長野屋食堂で一服する。顔なじみのお母さんと無駄話し。お母さんのイタリア旅行の話しを聞く。これが良かった。

「団体だから楽だと思ってさあ、それがとんでもないのよ。朝5時半にスーツケースに荷物つめて廊下に出しとけって言うじゃない。もうそれが気になって夜も眠れないし。TV見ようとしたら、お金とられるかも知れませんよって旅行代理店の人が言うし、それでもう、一人で何もする事もなく、部屋でモンモン」

あらためて、この長野屋食堂をゆっくりと眺め返してみるに、何しろ安い、量が多い、そしてうまい、のである。おすすめは肉どうふ。定食はどれも千円とチョッと高めだが、質量共に凄い。私はカキフライ、単品とアレヤ、コレヤと小ライスが好み。それから、ウィスキーの水割りがペットボトルにつめ込まれて 600 円というのもある。ビールは大ビンである。

ただし、女性が一人で入るのには少し勇気がいる。フーテンの寅さんが例の帽子に切符をはさんで、フラリと入ってきて、「オイ、ネェーちゃん、熱カン一本、イヤ面倒クサイから二本。それに金ピラゴボー」なんて言うのが、まるで眼に浮かぶようなのだ。

勿論、早々と切り上げて、世田谷村に戻り、本を読みながら眠る。

三月二日

昨夜は爆眠星・フラーだった。早朝起きて、酒井忠康の「彫刻家との対話」読み終える。この人の本は若林奮に関する「犬になった彫刻家」に続いて二冊目であるが、前の本の特異な体験があったので、スーッと入れた。謂わゆる美術専門書なのだけれど、専門書の固苦しさもこなれていて、かと言って、深みが全く無い大衆向けでも、もちろんなく、その本としてのポジショニングが融通無碍で極めて良いと感じた。3800 円であるが、年に二、三冊はこのクラスの本を買うべきであろう。

3800 円といえば、昨日書き忘れてしまったけれど、きっとそれ位に疲れてたんだ。

昨日、NTT出版のK君が「生きのびるための建築」の表紙デザインが出来たので持ってきてくれた。美術館での夜のレクチャーを多くの人の手を借りて本にしたもので、ここまで作り込むのに2年かかった。表紙は仲々、知的な感じで、これ迄の私の本とは一味ちがう表情を持つものになっている。デザイナーに感謝したい。

K君は本作りとしてはしつようなタイプで、私が文中ゲーテのファウスト冒頭の一部に触れているのを、更につきとめて、ファウスト第二部のなかのメフィストフェレスのせりふがそれに近いと調べて、少しばかりの文章の変更を求めてきた。ミース・ファン・デル・ローエの神秘主義的側面に触れた部分で講義中重要なポイントなのである。

いきなり、こんな事を記すのは、酒井忠康の「彫刻家との対話」(未知谷)中、第一章のイサム・ノグチからパブリックアート、そしてパブリックアートの一隅と名付けられた消えた庭、若林奮についての再びの考究中に、しかも、主文の注記の小群の中に池内紀「ゲーテさん、こんばんは」集英社文庫で、著者はグノーム(地霊)について、そのメフィストフェレスのせりふを踏まえて述べているの指摘がある。

思いもよらぬ糸で、思考のつながりがあるのを感知した。私はイサム・ノグチとすれちがった。四国のイサム家に連れていったのは川合健二であった。

イサムはちょうど来日していたB・フラーを飛行場迄見送りに出ていたのであった。あの時に、イサムに出会っていたら、私は恐らくは庭師になっていた。若林奮とは会う機会は遂になかったけれど、彼の失くなってしまった造園作品「緑の森の一角獣座」が恐らくは今言挙げされているパブリックアートとは全く異るDNAを持つものであろうと、酒井の文章の行間から知るのである。

しかし、若林奮の森の中の庭の作品はそのスケール、強度に於いてイサムの思考には及んでいなかったのを痛切に感じる。それは恐らく近代日本の宿命であり、日本の近代アートの宿命でもあるのだろう。しかし、本というのも細部に神が宿っているものなのだな。

2月の世田谷村日記