- 2月の世田谷村日記
- 143 世田谷村日記・ある種族へ
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一月三〇日
十五時製図スタジオ。三年最終課題公開講評会。竹中工務店村松映一氏をはじめとする設計部四名の先生方、建築教室、中川武、西谷章、入江、古谷、後藤等十名の講評陣。三年学生の 18 作品を講評。私見だが、早稲田建築三年の設計製図力は恐らく日本では断突で、国際的にも悪くはない。今年から第四課題にゼネコン設計部の指導者達早稲田OBの力を寄せていただく事になった。竹中工務店設計部の皆さんは大変なエネルギーと情熱をもって取り組んでいただいた。予期していた以上の成果が得られたと思う。
これからの建築がどうなるのかを思い描いていないと、実は良質な学生の指導、特に設計製図の指導は不可能である。圧倒的な現実に対面しているゼネコンの、設計部中枢の方々を先生として迎えて、まさにそのヴィジョンこそが重要だと言う事である。建設産業の中心に在る彼等先生方だって、我々と同じように思い悩む現実があるだろう。学生の現実も深く考慮しなければならぬのも又、あまりにも当然である。その学生の居る現実、歴史的な時間の持続の中での現実は我々も共有するものでもある。
講評及びその周辺の事は設計製図のヒントに記す。
終了後、学生とパーティ。打ち上げ後、竹中の先生方と教室の先生方とでコーリア料理店で会食。労をねぎらう。稲門建築会長としての村松氏の立場に便乗させていただき、熟慮の上に始めた事だが、この講座を中心に良い会として発展する事を望みたい。それは次世代の若い先生方の役割である。若い先生方は社会の現実と対面する事が少ない。その意味合いでも、将来にわたり、増々必須な事となるだろう。
教室は開放的に柔軟に進化するべきだろう。そう望みたい。二十四時前世田谷村に戻る。
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一月三十一日
アニミズム紀行5「開放系デザイン・技術ノート1、キルティプールの丘に我生きむ」最終校正ゲラに手を入れる。設計製図のヒント書く。アニミズム紀行5はスタッフの頑張りもあり、仕上がりは格段の進化を遂げた。乞御期待である。
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二月一日
六時前起床。読書。新聞。新聞を二紙読むのだけれど、何ヶ月か毎に新聞社を変えている。今日から一紙変わり、やはり毎度のことだが、変りバナには違和感がくる。それだけ、各紙の影響を強く受けているという事なのだろう。TVも民放各社の報道は新聞各社によっているところが大きいから、それなりの色はあるのだろうが。私みたいな視聴者レベルでは見分けがつかぬ事の方が多い。
- 142 世田谷村日記・ある種族へ
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一月三十日
昨日、午後沖島勲氏と会い打ち合わせ。そう簡単にとんとん拍子に進むものではない。色々な工夫が更に必要だが、こういう件、つまり写真漫画による表現みたいな事はスピードが大事だろう。十六時過了。で、十八時前から新大久保近江屋で鈴木博之、難波和彦両先生と会食。鈴木先生に引っぱられるようにして、池袋の魔窟ワインバーへ。鈴木先生と別れ、難波先生と新宿味王へ。深夜帰宅した。
今朝思い起こせば、昨夜は私には印象深い一夜になった。鈴木、難波両氏に共に、私のサイトに眼を通して下さっており、しかもすでにサイトを介して、私を視て、考えておられるようなのだ。現実の身体と感性そして思考をしている対面している私をそのサイトイメージを介して、眺め、考えているようなのだった。
自分で引きおこした事ではあるが、友人たちでさえそうなのかとそれをハッキリ、身にしみたのは初めての事であり、並々ならぬ事ではある。若い言い方にはなるが、現実の私はここに居て、又、ここに居ないのである。
そういう、サイトの私を鈴木さんはやはり冷徹に視ている。かなり危ないなと考えているのが良く伝わってきた。難波さんは自身で、ブログをやっているから私とは同じようなサイト種族である。難波さんはリアリストでもあるから「ブログをやり出してから原稿依頼が減った」と言う。又、驚いた事に池袋の魔窟ワインバーの経営者迄、我々のサイトの事を知っており、しかも過日、そのサイト記事がきっかけで、客が尋ねてきたそうだ。しかも、そのお客は難波さんの箱の家のクライアントになり、石山さんより安心して頼めるからと言ったらしい。
つまり、サイトから、そういうイメージが実に多くの人間に伝わっている現実がすでにある。
おぼろに覚悟はしていた事だが、昨夜は実に身にしみたのであった。この現実からはやはり何とか抜け出さないと、サイトの読者には失礼な話しだが、俗に沈むな。
ともあれ、考えさせられた。
しかし、私だって、御両人の中島みゆき狂いには少し計りどころか、おおいに違和感を感じるのだが、御両人ともそれには反省の色を見せずに、私に入信をすすめるのだった。
- 141 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十九日
近頃は早朝に起きて、エスキスしたりFAXしたり、メモしたりを三、四時間続けているので、僕の方からのアウト・プットはほぼそれで修了してしまう。昨日はその後、早大野球部OB六車氏と話したり、沖島監督と連絡したりで記す迄の事はない。皆、私用とプロジェクト作りで動いた。
昨日、スタッフに相談まじりで指示した、最重要な件はこのサイトの名称を変更しようという事であった。
このサイトは対外的には早稲田大学のマザーを使用しての、石山修武研究室のタイトルで発信している。それを二月一日より、TIAT+石山修武研修室を送信元とする事とした。
普通は何だこれはといぶかしむ事になるだろう。
これは形式としては我々のサイトを介しての活動をTIATという新しい母体に属させるという事です。ではそのTIATという何かという事になりましょう。これは今、言うのは野暮なので、野暮極まれりとなるので、記さない。
ただし、TIATというXはプロジェクトを生み出す母体なので、具体的なプロジェクトを通して、それの意味がいずれわかるような仕掛けになっている。勿論、それは石山、個人や石山修武研究室では不可能な事をやる母体なんです。
2010 年二月段階ではサイトのトップページの幾つかのコマ割りの内容を見ていただく事で、読者の皆さんにそれを感じ取っていただければと考える。
三月にはTIATのプロジェクトの一端を公開し、又同時に何らかの形での参加を求めてゆくつもりです。でも、核心は「ARCHITECTUREへ」です。二月一日をお楽しみに。
- 140 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十七日
十一時過、研究室でミーティング。21 世紀農村研究会プロジェクトとアニミズム紀行6のジョイント方式について、等々。久し振りにスタッフと絶版書房に関しての議論をする。
私のメディアへの興味の原点らしきは、どうしても、1960 年代後期、むしろ末期と言うべきだろうが、アーキグラムの独自の販売による、まさに、アーキグラムという折りたたみ式のペーパーメディアであった。一年だったか、二年だったか先輩のチーム、VOSという日本版アーキグラムとも言うべき連中が、「石山、これは凄いんだよ、この連中は自分でこの図形を印刷して売ってんだから、10$ だったかな、払えば誰にでも送ってくるんだから」とガキだった私に教えたのだった。
恐らくはその記憶が私をして、自前のメディアというか、印刷物への異常な好みを育てたのだろうと思う。その後、まだ若かった磯崎新のところで、アーキグラムのピーター・クックにも会わせてもらい、やっぱり、結構、民主的な兄貴じゃん、なんて痛く感じ入ったりもしたのだった。考えてみれば、磯崎はそういう類の国際的な交流にはひどく気前が良かった。自分を捨てて場を用意した。
身内の議論の内容は仲々興味深いものがあったので少し間をおいて、そうだな明朝にでも記すことにしたい。
安田侃さんにアニミズム紀行3のドローイング。S氏の依頼である。その後、アニミズム紀行4、20 冊ドローイング。十七時了。ラーメン屋で一服後、宮古島計画、B伽藍計画のエスキス。共に場所は日本なのだが、生産、流通はその枠を外している。勿論、21 世紀農村研究会のプロジェクトもそのシステムの上にのせている。二十一時了。二十二時半世田谷村。
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一月二十八日
六時半起床。薄曇り。昨日の議論を思い起こす。スタッフとは皆年がはなれているので、遠慮の無い議論にはならない。それは仕方がない。で、私としては彼等の沈黙や、表情等から多くを聴き取る事になる。
勿論この無言の会話は実に私達のサイトと多数の読者との無言の会話と酷似している。サイトの反応を私はヒット数の数字でしか読み取ることが出来ぬ。しかし、スタッフは多くをしゃべらずとも、息使い、表情、そして沈黙という言葉が伝わる。
で、私が感じ得たのは、私共のサイトの動きと絶版書房の動き、既存ペーパーメディアの動き、それ等の動きをもう少し歴然とした関係のデザインの仲にとらえなければいけないと、そんな事であった。つまり、スタッフにもう少しというか決然と、サイトを動かす意志を伝えないとダメだなと思った。
スタッフとしたら恐らく先ずは、私が何故このような事に血道をあげているのか、当然いぶかしんでいる。これは私も解る。解らなければ馬鹿だ。
当然、もっと建築設計の仕事を沢山やって欲しいと、まだ考えているだろう。当たり前だ。私だってそれの方が自然なのだ。でも、やりたい事にそむいてまで、それをヤル事は私には出来ない。世間の状態、つまり建設不況の現実はここでは関係がない。私はそういうタイプの人間じゃない。不況なんて事より、どう生きるかの方が大事だ。もう少し自分に正直だ。
やりたい事がグルグルと渦巻いて、今の時代で言えばクルクルと回転していないと、上手に生きられない。どう、ひっくり返ってもワビ、サビ、エレガンスには背を向けてしまう。
ここで唐突に言う、ワビ、サビ、エレガンスというのは今の日本のグローバリゼーション下のフラットなデザインの傾向を言っている。ああいうデザインはやりたくない。つまり、今の日本のメインストリームのデザインは、エレガンスな意匠をまとったホンコンフラワーだと考えてしまう。こう考え、感じてしまう自分というのは仲々マーケットには馴染まないのは知っている。仲々どころか厳然として馴染まない。馴染まないどころか、すでにシステムとしてマーケットは許容しない風がある。それを自分は自覚する。この自覚から色んな戦略を立てざるを得ない。そう簡単に消去されるわけにはいかない。何もしないでいわば消去されるのは眼に見えて解る。
それで、恐らく私はサイトを 10 年程前に開いたのだと、今にして思うのである。私のサイトは多くの人に自分を知らしめたいと言うより前に、サヴァイヴァル、自助本能の端末として浮上したのです。
だから、そう簡単にはサイトの動きを止めるわけにはいかない。この動きをイージーなもの、手を抜いたり、投げやりにしたり、そうしたら自分は消去されてしまう。例によって思い込みは強過ぎようが、私にとってのサイトはそういうモノ、つまり生き物のようなモノ、ようするにアニマなのです。
だから、TOPページが動いてない、生き物になってないと言ったり、色々と工夫してくれと言い続けている。 当然、このスタッフとの議論らしきは、こうやってすでに公表されている。これは下らぬ自己顕示欲でも何でもない。すでに我々はこうやって読者の多くと交信しているのです。この感覚がとても重要なような気がする。
私が、もう中継みたいにしたいというのは、それだからだ。本当に生で中継映像流すことだって容易なのは知っている。でも、それは私はやらない。そこにデザインの意志が入らぬからだ。
とここ迄メモして、只今、八時。今日はこれから出掛けて一日中、外廻りになる可能性がある。小休して、移動しながら、サイトについて、絶版書房について、時間を見つけて書き続けてみる。トップページのまさにアニメーションのアイデアがあるので、別便にて研究室スタッフに送る。
- 139 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十六日
昼過、アニミズム紀行5ゲラ校正渡す。図版レイアウト、チェック。
5は1 - 4の積み重ねの上に建つ架構である。開放系デザイン・技術ノートと題した意を汲んでいただければと思う。編集にもう少し時間がかかるだろうから、二月初めの発売、発送になるだろう。
アニミズム紀行6をほぼ書き終えた。6の冒頭を、5の連続にしたくなかったので、農村計画案をもってきた。GA ギャラリーの HOUSE 展に出展するプロジェクトである、その成り立たせ方の概要を、経済的必然から考究したものである。東北の結城登美雄とのコラボレーションの初期的成果でもある。
GA ギャラリー・HOUSE 展に出品するモデル及びドローイングは、割り振られたスペースの問題もあり、小さなモノだけれど、ここ数年のとまどいらしきものを振り切った単純明晰なものとなった。atプラス二月号のインタビュー共々、体験していただきたい。
夜、T社に図面渡し、打合わせ。
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一月二十七日
六時過起床。新聞を読み、再び横になる。ここのところ、この日記の読者数が増えているのを知らされたが、その原因が一向にわからない。サイトというのは得体が知れぬものだ。これを使ったコミュニケーションは徹底してやるか、全くやらぬかのどっちかだ、というのは確信するようになった。今はただ止め時ではない。止める時はキッパリ止めてサイト上からは完全に姿を消します、私。
八時四十五分小休。昨日、サイトの TOP ページの進行を伝えたのだが、どうなったかな。私は世田谷村では一切コンピュータには触れない。いくつもパソコンが転がっていて、のぞくのは容易なのだが、それをしたらおしまいよ、という何かが働いているのである。情報には、それは小説、批評、日記の類も含めて一切の深み、つまり透視図法的世界が無い。全て表面であり、その表面を深く入っていっても、(そのつもりになったとしても)又、次の表面に出会うだけなのだ。
だから、本当は私の、我々の、サイトは今のトップページだけでも良いくらいなのだ。
理想を言えば、トップページの何の意味も無い、分割されたマン画のコマのような複数ビジュアルが毎日、動いて変化しているだけなのが、最も現代にはフィットするに違いないのである。つまり、何かの中継というような。
ようやく、最近、この日記、サイト、絶版書房、ペーパーメディア、実作の日常の回路が自分の頭の中で視えてきたような気がする事もあるようになった。すぐに消えてしまうけれども。
自分にとっては恐らく何の意味も無いのだろう、と理解し得るようになったのである。意味=価値らしきを求める方がおかしいのだ。
これはスクリーンの上を滑って遊んでいるのだろう。その遊びの振舞いらしきが自分で気に入っていると思うしかない。だた、恐ろしいのは、遊ばなくなったら、どうなるのかを考え込んでしまう時だ。
昔は、何の為にあんな事やってるのかと尋ねられる事もあった。その都度考え込んでみたりもしたが、結局答えは無かった。今は、尋ねられたら、「あなた何故今息をしているんですか」とトゲトゲしくなく尋ね返すだろう。何故、生活しているの?と聞き返すのはトゲがあるでしょ。答えられっこないんだから。
せいぜい、メシ喰う為です、金欲しいから、位しか答えられぬだろう。生きてくってのは、それくらいの事なんだなぁ。でも、それぞれに生まれてきちまったんだから、死ぬのは勿体ないと思うしかない。で、それぞれにチョコチョコとした工夫やら意匠らしきをして生活しているわけで、私も、そんな工夫の一つとして、このサイトの遊びがあるわけだ。
絵描きが絵を描いたり、彫刻家が何か、何の役にも立たぬモノを相も変わらず作っているわけだが、近代の芸術らしきは、どうやらみんな怪しい。足の無い幽霊みたいなものだ。私のサイトは芸術だと全く思ってないところ、それだけはとり得なのかも知れない。
- 138 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十五日
十時半、研究室模型チェック。少しの手直しだが大事なポイントで、スタッフはそこを考えて欲しい。資料を持ち十一時半発。明大前で昼食をとり、十三時十五分久我山駅改札口で映画監督沖島勲氏と待ち合わせる。近くの喫茶店で十六時迄話す。何か一緒にやりましょうとなる。監督は絶版書房の試みに興味を示して下さった。それは面白いねと言ったのは、マア、ベーシーの菅原と監督くらいかな。率直に、直観的にである。中身に対してではない。まだ内容は発展途上なので、中身もイイネと言ってもらうのには時間がかかるであろう。
アニミズム紀行3、4を読んでいただき、ひろしまハウスのDVDを差し上げた。映画監督に映画らしきを差し上げるのは暴挙に近いが、仕方ない。話しているうちに、アニミズム紀行5を読んでもらうのが良かったと直観したが、これは今日初校ゲラに手を入れているので不可能。アニミズム紀行7あるいは別冊にて沖島勲アニミズムの旅をやる。つげ義春の「長八の宿」から入り、道、クラマの森とつづく、映画仕立ての紀行とする。
十八時半迄、中華料理屋で話し続け、少しばかりの光明を得た。やはり人間は実際に会って、話してみなければわからないものである。
二十一時半、世田谷村に戻る。
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一月二十六日
六時起床。アニミズム紀行5開放系デザイン技術ノートI「キルティプールの丘に我生きむ」の校正ゲラを手に入れる。
これはこれで良いと思う。キルティプールの丘のデザインサーヴェイの記録のレイアウトと、注の入れ方に工夫が必要だろう。しかし、2003年のキルティプール・ワークショップに多くの人間達に参加していただき、あの時のドキュメントをサーヴェイ図に残しておいたのが今頃生きるとは感無量である。
僕の当時のスケッチブックにも数点のキルティプールスケッチが残されている筈なので、それも組み入れてもらうと、更に良くなる筈だ。沢山あるスケッチブックから探し出すのは少々大変かも知れないけど。九時小休。
- 137 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十三日
二十四時前、沖島勲監督夫妻に送っていただき世田谷村に帰る。人は会ってみなければ解らないものだ。沖島勲さんは深味のある人間であった。どう深味があるかと言うと、この人は例えば僕が「建築の分野も映像に関心を持つ人間が少なくはないですよ」と話したら、キチンと、それは良く解らないからアナタがモノじゃなくって映像と言うのはどういう事ですか、と尋ね返す知性の持主である。普通は、ああそうですかで終ってしまうのだけれど、そう尋ね返されると、僕も頭をフル回転させなくてはならず、「例えば、雲の形みたいなモノかな、あれは水蒸気の粒子の集りなのに形があるように視えますから」と答えねばならず、それに対しては沖島氏はウームと考え込んで、恐らく同意も反論もされなかった。
多分、この人にはチベット高原での雲と陽光と、その影の体験から文字の誕生のインスピレーションなんか話しても通じるなと思った人だが、初対面では失礼と考えたのであった。
「又、会いましょう」と別れたが、あれはおざなりのアイサツではないと思ったので、僕もゼヒと返事した。面白い夜であった。
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一月二十四日 日曜日
七時半起床。昨夜の沖島勲氏との出会いを一瞬はんだくさせる。あの人物には尋ねておかねばならぬ事があるような気がする。
何か用件を作ってすぐに会ってみようかとも考えたのだが、流石に自制してやめた。こういう所は我ながらつまらぬ大人になってしまったと思う。
朝おそく、というよりも昼近く、決めていた通りに、アニミズム紀行6の冒頭を書き加える。十七時半迄かかり、14 枚程はかどる。
昨日、移動の合い間の貴重な時間に、アニミズム紀行5のタイトルを、「アニミズム紀行5 開放系デザイン・技術ノートI キルティプールの丘に我生きむ」、とする事を決めた。それで必然的に6号は、「アニミズム紀行6 開放系デザイン・技術ノート 副題」とする事にした。
研究室のスタッフとFAXでやり取り。若いスタッフもそれなりに頑張っている。農村計画の件をアニミズム紀行6で書いていたのでこちらのイメージも少しは形になりそうで、書いたばかりの草稿を送附したりした。仙台の結城登美雄氏とも連絡し、農村計画をジワリと進める。ここ数回の GA HOUSE 展に断片的に出展し続けてきた HOUSE PROJECT は今年出すものが一番良いというか明快になってきたと思う。何しろ、唯物論的にグラツイていない。 徹底的な非デザインのデザイン、すなわち私の言い続けてきた開放系技術デザインに、かなり近づいてきているのを感じたのである。
もう今日は、これでリミットであるので小休とする。
二十一時小休。今日は農村計画の基本を再確認できたのと、それと併走してアニミズム紀行6の組立てを大巾に変え得たのが収穫と言えば収穫だ。けれども・・・なんとかアニミズム紀行を映像空間の水準に仕立て上げられないかと、ボーッと疲れてTVを視ながら考えている。
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一月二十五日
六時半起床、WORK。八時半小休。昨夜沖島勲の話し、「沖島勲怒濤の語り」YKKプロダクションを再読した。深いところで僕が感じているところとかなり似ているところがあると痛感。何故、昨日一日がかりで引っかかっていたのか、今朝ようやくわかったような気がする。沖島氏の映画作り、および日本昔話しの長大なシリーズの根底にあるのは、やはりアニミズムなのである。又、その映画作りの方法は恥ずかしながら、絶版書房の方法と酷似しているのだという核心に今朝たどり着いた。絶版書房で沖島勲監督インタービュー又は石山と対談をDVDで出す事を検討したい。 九時過発。十時半研究室。昼過沖島勲監督連絡。
- 136 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十二日
車内でメモしているので、集中はしているが乱雑にならざるを得ない。小刻みになるのはやむを得ない。
要するに、atプラス・インタビュー、NTT出版世田谷美術館での講義録で話した。私のアウトサイダーとしての原点、すなわち原野に戻ろうということである。
世の中がこんな状態になって、白昼の廃墟、原っぱ状になっている。こういう中でこそ、原っぱで駆け廻ってきた私のキャリアを生かす、最後のチャンスである。
こういう状態の中でも、ジィーッと辛抱強くガマンして、耐えてゆくのが当然メインストリームの王道としての生き方だろう。ウーンと強い者だけが生き残るだろう。
私は、原っぱ、白昼の廃墟の中に自覚的に戻ろうとする。
その意味では、つまりは原っぱに戻るといういささか情緒的な言い方にはなったが、昨年始動させた絶版書房は私のこれからの活動を多くの人々、可能な限り建築デザインなる超専門領域から、つまるところは原っぱへと解き放つ為の私の道具の一つである。
これから先、第二期原っぱ状態になった日本を自身の生活の基盤にしてゆくのを前提に、どのように生きてゆくのか、それは 2008 年の世田谷美術館の展覧会で、気持らしきは充二分に表明した。美術館カタログ、及び講談社版カタログ双方に記録されている。
図像として、アイデアとして記録されていないのがあって、その一つがネパールのキルティプール計画だが、これは物語として、ジュニー・シェルチャンとの事などを記録した。それ故アニミズム紀行5はそのプロジェクトの続編を記した。
基本的には第二、第三の「ひろしまハウス」を作り続けたい。二〇二五年、今から十五年後であるが、ネパール、カトマンドゥ盆地のキルティプールの丘に風力発電装置群と私自身の「終の棲み家」他をつくる計画である。私の家は当然の事ながら自給自足自助の建築となる。
十七時前、大学。竹中工務店の先生方と、製図の採点方について打ち合わせ。初めての試みなので綿密な意見の交換を続けた。十八時村松氏参加、更に打合わせ。修了後、早稲田通りの料理屋で六名の会食。二十四時前、世田谷村帰着。
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一月二十三日
六時前起床。「沖島勲怒濤の語り」YKKプロダクション発行、読む。「怒る西行」という散歩ムービーらしきのDVDを見ても、正直わからず、こんなにわからないのも不愉快だからと、手近にあったパンフレットを読むに至った。
沖島勲監督については知識が無かった。どうも、知識を土台にして映画に入るという、典型的な悪しき教養人らしきが露出したようだが、今さらそれを変えようとしたって、変えられぬのは解り切ってもいる。
自分の映像への関心は完全に頭から、つまり観念から生み出されているので、実際の映像作品らしきに触れても、わからないというのが本音である。
沖島勲氏のような、いい、つまり全く時流におもねらぬ作家の作品を見ても、わからないのだ。映画というのは頭でわかろうとするモンじゃないというところまでは、何とか理解できるのだが、その先がモウロウとしてしまう。イメージ(映像)と言語はずれたフィールドなんだと思うしかないなコレワ。でも、口惜しいので、もう少し、本当にわかっていないのかを知る努力をしてみたい。
昼前、世田谷村発。西調布へ。
- 135 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二十一日
十時四十五分。厚生館。理事長と打合わせ。十二時四十五分の昼食をはさんで打合わせ。その後、建設工事の下準備の為に大いに動く。建設不況下の各建設会社の動向情報を得る。十七時過、N食堂でスタッフと打合わせ。二十一時半世田谷村。
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一月二十二日
六時起床。ここ数日の情報整理、他。早朝の連絡可能なところに連絡後、八時過発。
メモ。背中を押されるように動いているが、もう沈思黙考の時ではない。今早朝の打合わせでは、やはりここ最低二年間の建築の氷河期は避けようがない。これは歴史の宿命であるから、ジタバタしても仕方がない。これは建築関係、建設関係者の全てに共通の考えでもあろう。
私にとっての大事は、私はこれ迄建築の世界では少数派どころか、アウトサイドに近い道を歩き続けてきた。それが、この建設不況であり、恐らくは不況という表現だけではない構造的な転形期なのだ。インサイドすなわち主流(メインストリーム)が瓦解するような自体に対面している。
atプラスの二月号ゲラを読み直し、NTTの連続講義録のゲラを読み直して、実に深い感慨を持たざるを得なかった。私のこれ迄の活動はここたかだか二十五年間に集中している。四〇才以降である。それ以前の一点は今振り返っても特異点(幻庵)であったから、そう考えて間違いではないだろう。二十五年間の私の小史は、やはり完全に時代のメインストリームとはまるで異なっている。
この違和感を、この二年間で、はっきりと露出させるか、メインストリームの崩れの中に、まぎれて隠れるようにしのぐか。私自身を生かすも殺すも、どうやら取り得る道は一つしかないようだ。それが明快になった。
- 134 世田谷村日記・ある種族へ
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一月二〇日
十時過研究室。至誠会施設設計作業にかかる。昼飯抜きでぶっ続け二〇時半迄。なんとか書類一式と図面一式を2案まとめる。
不思議なもので、スタッフと一丸になって、精力的に仕事をすすめていても、コンピュータを相手にでは、音もなく、眼にもさほどには写らず、昔製図板の上で悪戦苦闘していた、動きや熱気が伝わり合う事もない。つまり空間にエネルギーらしきが横溢しないのである。モノを作るのにコンピュータは、無くてはならぬものではあるが、根深いところで人間の本来の熱気らしきを消してしまう宿命を持つものらしい。コンピュータで作図するスタッフもスクリーンに向っているから、傍らに立って座って、ここをこうするぞ、こうしたいと伝えても、人間と人間のフェイス TO フェイスになりにくいのである。
これは何か工夫しないと、モノの力は衰えてゆくなと実感した。二十三時、世田谷村に戻る。
「atプラス」の特集「活動へのアート」インタビュー、ゲラが出てきたので眼を通す。「石山修武インタビュー、生き延びる技術としての建築(アート)」という主題で話している。atプラスの編集はとても手際良くまとめてくれた。自分で言うのもおかしいが面白く仕上がっていると思うので、2月号を読んでもらいたい。
絶版書房アニミズム紀行4の残冊が 7 となり、アニミズム紀行3は残冊 12 である。度々やかましいと思われるむきも多かろうが、買ってもらいたい。選挙運動ではないけれど「最後のお願いにやって参りました」である。
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一月二十一日
一時、atプラスのゲラを読みながら眠り込む。六時過起床。昨日は煙草を吸い過ぎてだろうか、余り熟睡できず。再びゲラを再読する。NTT出版の「世田谷美術館、夜の講義録」の第一刊分は全てK氏に渡したが、もう一度の最終稿は気合を入れねばと思う。atプラスのインタビューといい、絶版書房アニミズム紀行、NTT出版の講義録といい世田谷美術館の展覧会がキッカケであるから、やはり、あの展覧会は私にとっても転形期の象徴であったのか。大事な事はみんな過ぎてから気付くものらしい。
学芸出版からの書評本についても、作業を進めるべきだろうか。良本悪本というのも仲々しんどくて、書評での正直な批判がどれ程、数多く人間関係をそこねてきたかの歴史は知っているから。
十時過、発。厚生館へ。ところで、絶版書房アニミズム紀行5の表紙デザインが決まり、タイトルは「キルティプールの丘にて我生きむ」と、スタッフの西行好みが濃厚なモノになった。「キルティプールの丘にて我死なむ」のタイトルにするわけにはいかないが、二〇二五年の終の棲家の計画についての書き下ろしなので、これも又読んで頂ければ幸いである。2月に予約を開始する。最悪の出版事情を知り抜いて、しかも魔の2月に五百部を限定で出す。世の中と、逆へ、逆へと生きたがる自分はもう直らない。行けるところ迄行くのだ。
- 133 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十九日
昼前、研究室。厚生館、仮称。至誠館なしのはな保育園+さくら乳児院複合建築の計画を再度見直す。幼児施設としては画期的な複合建築なので気合が入っているのだが、前例が無い故の模索もある。
十三時、NHK、TV取材。十五時NTT出版K氏来室。打合わせ。仮称「転形期の建築」講義録1、2の発売は三月となる。
その後、スタッフとミーティング、至誠館の建築について。再び2案をつめ直す事とする。十九時基本方針を決め、作業に入る。夜半迄WORK。
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一月二〇日
六時起床。至誠会施設。デザインWORK及び基本的な考えをまとめ、送附。九時修了。九時半発。
- 132 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十八日
九時四〇分研究室。今日のプレゼンテーションの図面チェック。A、B案共まずまずまとまってきた。十一時過発。新宿経由京王稲田堤。十二時厚生館愛児園にて近藤理事長面談。十二時半近くの寿司屋で昼飯を共に。十三時半、星の子愛児園にて、厚生館グループ各園長先生、他総勢6名にて打合わせ。
十六時半、基本方針ほぼまとめる。ここ迄たどり着くのに意外に長かった。しかし、やりがいのある仕事なので、最後まで頑張る。真赤な西の陽光を浴びながら、皆さんと別れる。新宿経由神田へ。
十七時十五分神田岩戸にて、まだ時間があるので図面チェック、スケッチ。十八時馬場昭道、ブラジルの谷さん、スポーツニッポンのSさん集まる。フグを喰べる。谷さんは今話題の稲盛さんのブラジル清和塾代表なので、どうしても話題はJAL再建だとか民主党政権の行末だとかの生臭い話しに終始する。谷さんにとってはブラジルでの日本語教育の実践を長らく続けてきたので、その持続のために各方面の力が欲しくて、それでワザワザ二日間だけの来日となった。
少し遅れてNHKのM氏参加。皆、昭道さんの人脈である。様々な人の話しを聞き、今や日本社会が全く先行霧中なのを身を持って知る。非力でとても日本語教育の世界の事迄よくわからないのだが、ブラジル日系人の二世三世他の日本語教育はとても重要なのは良く解る。解るような気がする。何か出来れば良いのだけれど、今の政治状況では要が視えないのだから、どうしようもないかも知れない。
二十三時半世田谷村に戻る。山田脩二、伊豆松崎町より電話あるもスレちがい。昭道さんのオゴリで、フグ刺、フグ鍋で腹一杯だ。
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一月十九日
六時目覚める。昨夜の話しを振り返り、考えついた事があるので、九時昭道さんに連絡。横浜に居る谷さんと話す。今夜、ハワイ経由でブラジルに帰るハードなスケジュールである。昔の、といったら失礼なのかな、日本人は根性があるな。
昨日はそんなわけで、厚生館、馬場昭道さん、共に木本一之のメタルアートの売り込みには失敗してしまった。カタログみたいに資料は持って出たのだが、それをテーブルに拡げるチャンスが無かった。セールスマンとしてはほぼ無能である。しかし、こういうモノを売るのは難しい事だなあ。どうも、先生顔が何処かにしみ出してしまっているのを自覚していて、それから自由にならなくては信用されぬようだ。
- 131 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十七日 日曜日
六時起床。新聞を読み、グダグダと雑想する。昨日、NTT出版のK君にすでに渡したと考えていた、世田谷美術館の夜の連続講義録、第十一夜の分、K氏に渡したと言い張りながら、内心、コレワ俺のところに眠っているかも知れぬと直観していた。昨深夜探したら、やっぱり私のところにあった。どうしょうもネェな俺はと痛感し、やはり私にも真情はあるようで、早朝から幸いながらも、見つけてしまった第十一章「ルイス・カーン」の光という、これは仲々、しぶといというか大事な章のゲラに手を入れ始める。凄い時間がかかる。六時間程かけて、とりあえず初段階の赤を入れる。でも面白かった。
そろそろ終わるかなと思った瞬間に、淡路島の酔仙山田脩二から電話が入ってしまう。不幸な事に、今東京に居るのだと言う。仕方ない、十三時過烏山、宗柳で山田仙人と会う。当然、山田はもう朝からベロベロである。でも、珍らしくまともな話をして十六時前迄。これから伊豆松崎町に行くというのを、しばし待て、松崎の友人達もそれぞれに年をとって、昔のように自由ではないぞと、いう話になり、近くの寿司屋に移る。寿司屋といっても百円寿司のレベルですよ、勿論。急に二人とも気持だけは大きくなって、何とか三昧である。あの猫はバカだとか、この犬はマヌケとかどうだとかの、下らない話しになり、双方ともにやっぱり正直辟易として十八時前別れる。お互いにどうしょうもないバカだ、つくづくそう思う。
十八時半、伊豆松崎町のソバ屋小屯の小林より電話入り、山田ハンどうしてますとの事であった。松崎町のCIAレベルのネットワークは今も凄い。ソバ屋宗柳から話しが行ったのか。
山田脩二によれば、写真を見せた広島の木本一之君のメタルワークの中の一点はとても良いと言う事だ。写真で見ただけの事なのだが、山田自身が写真の人でもあるのでコレは信用するに値するという事で、この一点を少し値段を高くする事にした。モノの値打ちすなわち金に関しての値踏みは、ギリギリの判断で、しかも、非通常の世界を貫きたい。これは木本君の命がけである。
今日も一日、グローバリゼーション下からの脱落感の中で生活を営むことをした。いささか不安だが、つづけてやってみたい。
しかし、山田脩二は底の底迄、俗で、時に天空に飛ぶ迄に高尚な人間なので、まことに附合いやすいのである。この人物は言葉のない坂口安吾だな。安吾のようにヒロポンも何も不要な、さめ切った意識の中に、今はもう不在な古代人の人間性、民衆の姿を内在させているのである。しかし、私の言う民衆とは、今の市民社会の消費型の普遍性の幻想とは大いに異なるのである。
今日は阪神・淡路大震災の日である。気持の中で合掌する。自然の力の恐ろしさを忘れない自分を作りたい。無理だろうがね。
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一月十八日
六時起床。寒い。新聞を読んで、このメモに手を入れる。どうも山田脩二に会った後は言葉がすべり過ぎで、自分でも危い事を記しているので用心しなくてはならない。今日はもう山田は松崎町への鉄道の途中なのであろうか。アレは典型的な漂泊の人なのだ。心ある人はうらやましくてたまらないのだけれど、皆山田程の気力・体力を持たぬから指をくわえて眺めるばかりなのだ。「俺は死ぬの全然恐ろしくないから」とポツリともらした事があり、アレは仲々凄かった。今 70 才であるから、アト 10 年くらいは元気に生きるんだろうと尋ねたら「イヤ、怪しいものだぜ、意外と早いかも知れない」、しかし、本人が何と言おうが、どうしても山田が仏になる姿なぞ想像もできない。畳の上でゴロリと横になり、アラアラずい分眠りが深いね、オヤ、もしかしたら・・・と思ったら、アー良く眠ったと起き上る風のくり返しなのではあるまいか。
つまらぬ事を朝からメモしているが、我ながら不思議である。九時発。研究室にて図面を受けとり、打合わせ後、京王稲田堤へ廻り、打ち合わせ。夜はブラジルの谷さんに会う予定。
- 130 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十六日
早朝『atプラス』のインタビュー原稿のゲラに手を入れる。『atプラス』は数少ないハードなペーパーメディアであるから大事である。キチンと手を抜かずにやる。しかし、ペーパーメディアの未来はどうなってゆくのか。今、キリリとした事を言っている人々は皆ペーパーで育った人達だから、そのペーパーが育てた遺伝子を信頼する、という抽象性の中にしか現実はないのかも知れない。
昨夜は、広島の木本一之氏の金属オブジェ(17万円〜22万円)を絶版書房で売ってみようという妄想にかられ、十名弱の人々に電話をしまくった。時々、こういう残り火みたいな愚行を犯す。電話がいった人々はお許しあれ。
しかし、木本一之氏のメタルオブジェを売るのも、アニミズム紀行を売り続けるのも、考えてみれば同じ事なので、騒がしくない程度に根気良くやり続けてみる。
十一時研究室。進行中の計画案チェック。十三時、加藤助教、助手と三年設計製図採点の結果を見る。竹中工務店の先生方と少し考え方がちがう部分があり、三〇日の公開講評会でその点はきちんとクリティークしたい。十四時半了。研究室で再び図面をチェック。改変作業、十七時半迄。
- 129 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十四日
早朝、鮮烈な、鮮烈というのも陳腐だなぁ、キーッという、キーッと鳴くわけがないモズが象徴派詩人を意識してる筈もなし、しかし何故キーッ、あるいはギーッと鳴くのか、それが唄っている、詩人が詩をモノすように唄っているのかも知れず、実に世界は不可思議だと、この場合は宇宙というべきだろうが、一円にもならぬ事を考えているうちに杏林病院についた。ともかくモズの声を聴いた。
すぐに採血。上手な技師で痛くもなくスムーズである。私の定期検診は血糖値検査と、その数値を中心に、血液検査は実に様々な人体の内部の光景を数値として表わすので、それに伴う内科検診である。意志も弱く、克己心もなく、運動は歩くだけ。食事も自分の好き放題、酒も飲み続けている現状では血糖値は 80 なんて正常値に下るわけもなく、120-130 をいったり、きたりしていて、だからもう来なくても良いと医者も言わぬし、私も二ヶ月に一度位は定期検診も良いだろうと考えている、つまり膠着状態に落ち入っている。病院恐怖症であった私は今は病院愛好者に変身したようだ。
アト十年もしたらアニミズム紀行81杏林行なんて事になっているかも知れぬ。アニミズム紀行は描き、書き続けられる間はやる覚悟だが、どうなる事やらと病院の待ち時間にメモしている。九時半である。
十時、血糖値検査の結果と検診。数値は昨年よりも良く、先生はビール止められないのなら、こういう類のビールなら良しと、友好的アドバイスを下さる。実は正月休みを間にはさんで、様々に悪くなっていると予測して来たので、正直拍子抜けする。内科検診までの一時、NTT出版の講義録に手を入れる。最後まで残したミース・ファン・デル・ローエのバルセロナパビリオンの章である。ミースの言葉にならぬ神智的傾向について。この章は難しいけれど、キーである。
十時四〇分内科、聴診、検診、血圧チェック。何とかクリアー。でも別にホッとしたりもしない。何か歴然と悪い処が出て来た方が自分はヤレるような気もするのだ。バカだ。十一時過、近くの園芸屋で、天春というブランドの大根の種を入手して、一端世田谷村に戻り、又すぐに発つ。この大根をいつ畑にまくか。
十四時、NTT出版講義録第十章に手を入れおわる。これで、とり敢えずは一段落か。編集者K君と相談しなくてはならない。バウハウス大学の6月の展覧会に際する出版物の件も考えねばならず、私の周りは完全に情報空間世界に突入した。しかし、実物の建築を手放すという愚を犯す事はしない。
絶版書房より「建築批評もどき」を出版するのを考えている。批評というのも古いから、別の呼称にするやも知れぬが、一巻送料込みで 1650 円で先ずはやってみたい、と考えている。出来るかどうかは定かではない。
夕刻、広島の金属造形家木本君と新プロジェクトに関して相談。木本君の山里の工房は雪に埋もれ、除雪車に来てもらい、工房迄たどり着いたという。全く、何処の誰もが苦労している。私の力不足で木本君に充分な仕事も提供できずに歯ぎしりするような日々だが、何とかしたい。ああいう稀有な人間を埋もらせてはならない。ギリギリのところで、何とかひねり出してみる。今夜は眠らずに考えてみる。飛び切りの考えが生まれるわけもないだろうが、ポテンヒット位は何とか打たなくては。李祖原の巨大建築に木本君を参加させようか。それ以上のアイデアが生まれるかな?さあ、どうか。
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一月十五日
朝、鈴木博之氏に電話。つまらぬ相談にかこつけて生声を聴く。昨日の朝はモズのキーッを聴き、今朝は鈴木氏の元気そうな声を聴く。広島の木本氏に連絡、昨夜考えたことの一片を伝えるが、木本氏は雪深い山里の寝起きで、恐らく何の事やらわからなかったろう。この、わかってないだろうなというのが木本氏の持味なのである。鈴木氏のように眼から鼻に、耳から脳に走り抜けるような人間ばかりだと、実に世界は巨大な歯車機構の如くになり、グニョグニョとは廻っていかないのである。
木本氏は恐らく世界とは自分の金属工房の中と外の盆地である。中国地方の山里であり、修行していたドイツの山里、つまり全て実体験したモノの世界なんだろう。一方鈴木氏には世界と言ったら、昔の岩波の世界ですかの、アイロニカルな反応から、私的全体性の世界にいたる迄の様々に意匠された抽象世界がある。つまり、朝という毎日の体験も、鈴木氏は太陽と地球の自転の関係からくると考えての体験だろうし、木本氏は今朝も雪雲が厚くて鳥も飛ばぬナァの朝なのであろう。つまり、私の朝は私の朝であって万人の朝ではない。と今日も一円にもならぬ事を考えて一日が始まるのである。
昨日、絶版書房の残冊が3、4それぞれに 12 冊 9 冊である。アニミズム紀行5は五百二十冊を送り出す。いよいよ本格的な苦労が始まる。
- 128 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十三日
昼過ぎ研究室。サイトチェック。絶版書房アニミズム紀行3号残部12冊、4号残部9冊になっている。もう少しだ。紀行5の表紙マテリアルどうなったか?厚生館のプラン見る。農村計画のプラン。GAギャラリー出展の模型確認等々。八大建設来室野村対応。十八時退。世田谷村に戻り、諸々のFAX他。
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一月十四日
六時半起床。短時間WORK。農村計画。アニミズム紀行6を書きながら、宮古島計画をすすめる。大高正人氏よりポンピドーセンターでのメタボリ時代の大高正人氏の作業のまとめの相談を受け、野村を推薦する。記す必要も無い事だが、メタボリ運動の中の忘れられようとしている一面なので敢えて記す。大高氏の坂出市の人工土地のプロジェクト、農村計画、他都市計画の一変形とも呼ぶべきプロジェクト群は対社会性に於いて、とても重要であった。前川国男が都市計画への発言を丸ノ内の大正火災ビルの景観問題のみに自閉されたのとは対称的であった。メタボリが「都市へ」の志向を強く持っていた中で、大高正人氏等の所有していた「都市から」の発想が何処から生み出されていたのかは、ある崩芽の可能性として大事なモノかも知れない。
我々の農村計画も、あるい意味ではメタボリのモビリティへの着目にルーツの一つがあるのかも知れない。近代史への視点をおろそかにしてはいけない。農村、あるいは農の都市化は例えば丹下健三門下の浅田孝等の環境センターではどのように考えていたのだろうか。川合健二は浅田孝と近かったのだからその辺の事をもう少し聞いておけば良かったな。浅田孝が川合を丹下健三に引き合わせたのは間違いない。川合自身が言明していた。川合とメタボリの人々との思想的関係はどのようなものであったのだろうか。又、川合は彼等の思考をどのように考えていたのであろうか。
ポンピドーが 60 年代のメタボリに大きな関心を寄せているのは自然であろうが、黒川紀章とは別の細部があった事は日本の建築近代の中からは知らしめねばならぬ事である。野村の健闘を望む。
又、農と食と環境あるいは都市との関係を我々の研究室のテーマとしてより顕在化させる必要もあろうか。近日中に研究室で相談したい。
今朝は八時半に世田谷村を発ち、私の定期検診日である。定期検診をしている事で健康の保全に安心してはならぬのだが、どうも最近はそのきらいがある。
このメモも用心しないと、その日のうちに、その日の事を記しかねぬ如くになっている。間違っても、明日の事を記すような夢見がちに陥らぬよう自制したい。アニミズム紀行5、6号は夢見がちではないが、すでに明日を記しているから、日記メモとは異なる記録はすでに走らせているから。
- 127 世田谷村日記・ある種族へ
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一月十二日
十時半研究室。通信チェック、サイトチェック。厚生館連絡、他雑用。十四時四谷打ち合わせ。十七時研究室戻る。厚生館設計打合わせ。十九時迄。回転寿司で一服して二十一時世田谷村。
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一月十三日
山口勝弘と日本伝説浦島太郎展
二〇一〇年一月十一日〜一月三十日(土)午前十一時〜午後六時
信濃橋画廊 大阪市西区西本町一の三の四陶磁器会館地階
TEL&FAX 06-6532-4395 shina-g@orion.ocn.ne.jp
開催の知らせ届く。
この画廊は淡路島で屋根瓦を製造する山口一族の孫同士です。との事。山田脩二ダルマ窯との協力作品を展示との事でもある。亀ロボット及びスケッチと図面他が発表されている。
喜こばしい。やっと新年になった。朝の光の中でスタッフとFAXのやりとり。最近は大体、朝六時から十時迄の時間でその日の大方の仕事を了えてしまい、後は俗事にて過す感じだ。
- 127 世田谷村日記・ある種族へ
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一月九日
十三時過、遅れて学部二年生、日本女子大学住居学科、早大建築学科、共同課題合同講評会出席。若干の断片的発言をする。両校より多くの設計製図教員が参加した。
二年生の設計製図で何を、どのようにして指導するのか、あるいは指導しないのか、課題の作り方、“作られ方”に関して考えさせられた。ないものねだりは不毛ではあるがとても大事な問題なので「設計製図のヒント」に記す。学生諸君と共に設計製図教員の方々にも読んで欲しい。今の学生に、特に低学年の学生に設計製図は制度的なほころびを見せている。その大半の因はむしろ教員を含む、教育システムにある。
十七時了。懇親会の後、先生達との会食。考えるところあり、女子大のA先生のクリティークを批判する。やらぬでも良しなのだが、意図的にやった。ヒントに書く事がその意図である。初心者の設計教育は建築論、社会論のエキスが集中されるべきであろう。それは教員達の教師としての初心(もしあればの事だが)をのぞく相互の想像力に帰する問題であるとも言える。
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一月十日
朝から設計製図のヒント書く。これは義務でする。危機的状況をすでに越えてしまっているな、設計製図教育は。こんな時に即効薬なんてあるわけもないのだ、最低限教師陣はそれを自覚していないとどうにもならぬ。若い先生にも、このヒントにはおいおい参加してもらうつもりであるが、どうなるか。
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一月十一日
朝、渡辺君より依頼していた原稿が届く。若い人は、しかも何かをまだ設計でなしたいと考えている様な人間は、身の廻りにいる学生達との間のとり方がとても難しいだろうと憶測する。
離れ過ぎても、現状を追認するばかりだろうし、入り込んでも益の小さい同化を示すだけである。壊しながら、同時にアッセンブルするような手付が必要なのではなかろうか。とても困難だろうが。しかし、設計製図の指導を介して、自己の構想をきたえてゆく位の事は考えないと。大半の教師が自己消費として設計教育しているから。それで目減りする一方になってしまう。
今日は休日で、一日私用で過ごす。寒い曇天であった。
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一月十二日
六時前起床。新聞を読み、読書。他、いささかのWORK。地下を見廻る。ちょっと考えがあるのだ。九時半過発。研究室へ。
- 126 世田谷村日記・ある種族へ
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一月九日
早朝、昨夜 50 枚迄書き進めたアニミズム紀行6原稿の、組み合わせを大幅に変えて冒頭の 10 枚を読み直してみる。少し手を入れて、マア何とか読めるようにはなったようだ。私事で逆に時間が得られ、年初の一週間程でアニミズム紀行5を書き上げ、6のあら方をすすめる事ができた。自分の中で何故こういう事をやっているのか、こういうモノを作ろうとしているのか、納得し得ないと、エネルギーが集中できぬようになって久しい。いつの頃からか・・・・。年令も 65 才になり、世に言う老人である。いつ迄生きるかも、その納得次第であると覚悟もした。それで、アニミズム紀行という長大な旅行記を記し始めた。出来れば意識が無意識、偶然の思い付きをコントロール出来る間は続けたい。
アニミズム紀行5は書いて、そして描いてとても自己充足した。次の6は何故か苦しんでいる。書いているフィールドは5の方がむしろ苦行を想わせるし、6の方が平安で、少なからず俗なユートピアを描いているが如きなのだが、作業は全く逆になった。面白いモノだ。
昨夕、ドイツ・ワイマールのバウハウス建築大学のツィンマーマン学長より電話があり、一年越しで、ようやく予算がとれたので、6月に、バウハウス・ギャラリーで石山展をやりたいが、どうかの事であった。研究室OBのカイ・ベックが協力してくれると言う。2008 年の東京・世田谷美術館の展覧会の続編をやってみようと決めた。バウハウス・ギャラリーならやってみる価値もあるだろう。
厚生館グループK理事長より電話が入り、施設設計が急転、現実的に急がなければならなくなった。当然ながら、この建築もアニミズム紀行の対象、旅の途中の大事な一里塚になるだろう。アニミズム紀行8くらいになるだろうか。
アニミズム紀行5で設計した私の終の家の色彩は、どうやら敦煌の砂漠中で遭遇した中国二世紀の豪族の地下墳墓の色の記憶がアッセンブルされたのに気付いた。考えている事は必ず私的な歴史の中から掘り起こされてくる。昨日、中国山西省の五台山の寺院の映像を見ていて、それを確信した。それ故に、このタクラマカン砂漠の地下墳墓を、工夫して表紙としたい。
- 125 世田谷村日記・ある種族へ
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一月八日
六時半起床。すぐにアニミズム紀行6書き進める。時折スケッチをおり込みながら進行させる。スケッチが無いと宮古島、新渡真利島のNさんの家の細部が書けぬので、書くことが設計そのものになっている。それが面白い。今朝は中国の造船所からの部品運輸計画まで詳述してしまった。
昨日、30 枚迄たどり着いていたが、どうもうまくいってないような気がして、捨てなくてはならないかも知れないと考えていたのだが、そのディテールを書き、描いているうちに何とか逆転できそうになってきたのであった。神は細部に宿るのだな。
九時四十枚迄辿り着く。まだ山場を迎えていないが、何とかなりそうだ。時間のあるうちにストックをしておきたい。
アニミズム紀行は、率直に「時間の倉庫」「水の神殿」にしようとほぼ決めた。前ばかり向いていても片手落ちになる。自分の中ではすでに過去のモノになりつつある物についても、キチンと記録しておく。
アニミズム紀行5では二〇二五年、アニミズム紀行6は二〇一五年の、つまりは過去にはなっていない、手つかずの時間(それを未来と、もう呼べないのだが)を描いていて、自分の生身の身体の時間との関係がいささかスリルだ。
- 124 世田谷村日記・ある種族へ
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一月七日
十時過、アニミズム紀行6、30枚まで辿り着く。少し頭を休ませる。妙な状態になっては困る。まだ、アニミズム紀行7の形は視えてこない。
十一時厚生館理事長先生と連絡。幼児用複合施設はいよいよ大ヅメである。これがアニミズム紀行7になるやも知れない。
アニミズム紀行5で描いた如くに子供の世界は重要なゲートだ。山口勝弘先生は今、浦島太郎の世界に遊んでいるらしい。淡路仙人山田脩二によれば、淡路島は風強く、たまらぬ程凍りついているという。ベーシーの菅原は当然変わりはない。妙見会のS教授も変わらぬ事であろう。
一時間程、ある建築のエスキス、スケッチを続ける。どうやら、鬼沼の時間の倉庫の次の段階ステージが視えようとしているのが、おぼろに解る。このスケッチ・イメージで音楽ホールいけるんじゃないだろうか。
- 123 世田谷村日記・ある種族へ
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一月五日
昼、研究室。サイトチェック。その他諸々。絶版書房は、3号 14、4号 15 冊残冊となる。5号、印刷屋さんとスタッフ、打合わせ。6号エスキス。すすめる。あと一週間で6を書き上げてしまおう、というプランが湧き上がる。出来ないワケはない。建築をつくるスピードよりも、このスピードよりも、このスピードの方がより現代的だよなと、本当にそう思う。
十七時研究室発。新大久保駅前ラーメン屋で、絶版書房インタビュー。3本程をこなす。我ながら若干狂気じみているが、今は自分の想いになすがママにするのが良い。十九時了。ラーメン屋の入口に近い自動扉のすぐ間近で長時間いたので、冬の凍風が吹き込み、体のしん迄氷ついた。今の時代風で良かったんじゃないか。
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一月六日
やってしまおう、と決意してアニミズム紀行6を書き始めた。植村直己について何故か書き始めてしまって、自分でも途方に暮れ始めている。うまく、宮古島計画まで辿り着けるのか不明である。勝手に仮設の大寺院、大建築の設計に取り組み始めたのに等しい。十時、四枚。四苦八苦である。
- 122 世田谷村日記・ある種族へ
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一月四日
十四時新大久保駅で石山研スタッフと会い、簡単な新年の会食を兼ねて、仕上げたばかりのアニミズム紀行5を渡し、読んでもらう。近江屋が正月で開いておらず、近くの居酒屋に行くが、昼の時間でランチだけだとの事。十四時四〇分追い出される。本当、ホームレスだねと笑う。仕方ない、時々、絶版書房インタビューで使っているラーメン屋に行く。400 字 74 枚の生原稿はそんなに早く読めるものではなく十六時半過まで。マ、正月だという事で、新宿南口味王で、上海ガニをスタッフに食べてもらう。
スタッフがアニミズム紀行5をどう読んだかは解らない。書いた私の骨組みと、いきなり読めと言われて読む側の大きなギャップもあるだろう。
私としては、5号にしてようやく、何回か続けられるだろう形式をつかんだような気がしている。少なくともメディアと実物をとかし込んで、何がしかにプレゼンスさせる方法にはなるだろう。
日々の一刻をアニミズム紀行化し、旅行記としたい。当然この日記もその形に少しずつ近づけてはいってみたい。うまくゆくかどうかは知らないが。5号は五百部 - 六百部を刷ろうという事にした。印刷屋さんをいじめたらいけないが、双方、ギリギリの努力をしなくては。
GAギャラリーのHOUSE展はアニミズム紀行5で示した私の終の棲まい計画を出展したい。幾つかの住宅デザインをすすめてはいるが、それらのモデルにすべきものを示すのが先決であろう。形とか、平面形のモデルという意味ではない。私のどうしてもモノを作り続ける事の切迫した必要性、意味といったものを、鼻につかぬやり方で示したいと考える。鼻につかれたって、はじらむ年令でもないし。
夜半、スタッフより、ていねいな再読後感が送られてくる。私なりに要約すれば、読んでもらいたい読者を少しは拡張しなくてはならないが、読者、すなわち、ある種族探しの方法をキッチリ考えた方が良いという事だろうか。
今、こうメモしているのも、そういう事につながれば、ありがたい。
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一月五日
十時研究室に通信。アニミズム紀行6のエスキスは、昨年の暮にアニミズム紀行5のシナリオをエスキスした時に出来ていたのだが、三つに分けていた最初のプロジェクトが正月の数日の間にふくらんでしまい、その一つの計画だけでの一冊となった。
押し出された、二つの計画は一つにまとめられそうだから、そうする。1、宮古島月光・TIDA計画。2、二〇一五年及び二〇一二計画である。6までは、はっきり視えている。その先が欲しい。
- 121 世田谷村日記・ある種族へ
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十二月三〇日
世田谷村日記に「ある種族へ」と、ネイティブ・アメリカン向けの如くの意味深な飾り言葉のようなのを付け加えて久しい。と言ってもたかだか数ヶ月だけど。ある種族へと付け加えたのにはチョッとした意味がある。先ず第一にコンピュータのサイトに公開している、つまりは不特定多数の顔の視えない人々に対している現実にもかかわらず、私にはこういう人達にのぞいてもらえたあらなあ、読んで、眺めてもらえたら、という想いがあった。
他の何よりも、時代におもねる事の少ない、今の時代にいささかの疑問と、批判精神といったら大ゲサ過ぎてコンピュータのサイトには似合わぬが、まあ、しかしそんな考え方、感じ方、ひねくれ方、ねじれ方をしている人々に出来れば接してもらいたいとは、私の方では考えていた。
昨日は向風学校代表の安西直紀と夕方迄話し合った。話し合ってすぐどうなるというものではないが、大事な事であった。安西直紀と彼の周辺にいる、いささか得体の知れぬ人々、これは先ず私の「ある種族」の典型であろうか。そして残念な事に彼等の大半は私のサイトに接していないだろうと思われる。アニミズム紀行もほとんど読んでいないのは確かだ。彼等は自分が興味を持つ事には大きな関心を寄せ、しかも行動に移そうとするが、興味の無い事には殆んど見向きもしないのである。
安西直紀とは二つの事を共にしてゆこうとイメージを作り上げ、その全てではないが、端緒、つまり入口について議論をした。
一つはキルティプールの保存と再生計画。二番目に宮古島月光・TIDA計画。
他にも相談すべき事はあったのだが、面と向って、安西の言動、振舞いを見て、止めた。まだその時期ではない。
一、キルティプール計画は、恐らくは私自身の終の計画である。来年から、その終りに向けて、十年かかるのか、二〇年三〇年かかるのかは知れぬが、意識的に行動を積み上げてゆく心づもりがある。一、二年でできる事ではない。
その入口として、再びキルティプール・スクールを開校する。ひろしまハウスレンガ積みツアーと連動させて、カンボジアとネパールのトラベル・ワークショップを開催した経験が我々にはある。カトマンドゥ盆地のトリブバン大学との協力関係、キルティプール地方局との関係は再構築しなければならないけれど、可能である。
安西氏の向風学校もこの計画に是非共参加されたい。トリブバン大学及びキルティプール女性の家でのキルティプール計画展示会開催をスタートとする。その為の資金を作らねばならない。
二、宮古島計画は子供のための合宿サバイバルスクールからスタートする。無人島で一週間、生き残る為の生活体験である。これは比較的容易であろうから、一月中に準備をスタートさせたい。今日のニュースでは民主党の小沢幹事長が、米軍普天間基地の移転先を宮古島の民間飛行訓練飛行場でどうかと、発言したそうだ。事実とすれば宮古島は来年騒乱の最中であろう。チャンスでもある。考えてみれば、月光チームのオーナーである並木氏もある種族のもう一方の極である。外洋ヨットの種族はR・B・フラーのGP(グレート・パイレーツ)に等しい、筋金入りの越境者魂が備えられている。
昼前、私の畑に出て、ネギを土に埋める。レタス、キャベツ、小松菜を少し計り採取。
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十二月三十一日
六時過起床。まだ薄暗い。新聞を読む。宮古島市下地島空港へ米軍移転の民主党小沢幹事長発言が波紋を呼んでいる。この下地島空港の真近の素晴しい珊瑚礁の海で双胴船ヨットTIDAに何日かを過した事がある。その間の事は「建築がみる夢」講談社に記した。私の唯一のと言っても良いぜいたくな海上生活であった。
我々の宮古島市渡真利島計画は米軍基地移転問題と無縁ではない。あの海域から遠望した宮古島市神島の神々しい姿は眼に焼きついている。神島は私には荷が重い。重過ぎる。機会があれば訪れて、神の山と共生し続けているであろう人々の生活の一端に触れるだけで良しとしなければならない。米軍移転の問題も当然ながら私には荷が重い。神島程ではないけれど。何故、神島程ではないのかの理屈は言わぬが、それでも私には米軍移転の問題に関係してゆく力も時間の手持も無い。
ただただ渡真利島計画に大きな関係を及ぼしそうなのは予感している。
大みそかの朝だ。話を少し飛躍させる。南方熊楠の紀伊半島、田辺湾、神島の自然保護運動が日本近代のエコロジイ(熊楠はエコロギィと記した)運動の始まりだが、我々の身の丈に合っているのは渡真利島である。渡真利島はもともと無人島で名前も無かった。渡真利さんのお父上が島の手入れをし続けてきた。この島には動植物学者に調べてもらえば、実に貴重な種が在るらしい。不勉強で申し訳ない。この島を一つの世界モデルとして構想できるだろうというのが我々のアイデアの根本である。
世界モデルなんていうと抽象的なまんまの程々の知識人特有の空想に過ぎないと考えるのが普通だ。できるだけ多くの人間に伝わりやすい夢という風に言い直しても良い。この島に自給自足の技術を適用して、それを広く世に知らせるという事である。植物や動物、昆虫、魚、鳥、空、風、海と一緒に暮す、暮せる事を実験するステージ、スタジオにする事だ。
十時前、九州宮崎現代っ子センター代表藤野忠利氏に電話。渡真利島で子供のサヴァイバル教室開けないかの相談をする。どうやら、子供社会も格差が生じていて、最近は豊かな家庭の子供達と、そうでない家の子供達がハッキリ分かれてしまい、これは良くないんだけれど、いかんともしがたく、豊かな家の子供達を大人数でなければ考えてみても良いという事であった。
今、考案中の全国版農村計画でも、そのスピリチュアルな世界の中心には子供の森が必要だろうと考えているから、宮古島計画とはネットワークを組めるだろう。さて、次はキルティプール計画のシナリオである。
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二〇一〇年一月一日
六時半頃起床。快晴である。新聞を読み、七時前アニミズム紀行5、「終のすみ家へ」書き始める。十一時前小休。朝昼食。賀状の整理をして十四時街に出る。烏山駅前の食品スーパー、ドトールコーヒー、ケイタイショップ、パチンコ屋以外は皆閉店である。世田谷村隣の烏山神社は行列が道路に溢れひと曲りする位の大繁盛。区民農園は人っ児一人おらず。ま、そんなところである。十六時前、再びアニミズム紀行5、書き続ける。必要に応じてスケッチをしなければならず、かなり綿密な作業となる。
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一月二日
六時四〇分起床。アニミズム紀行5にかかる。今朝も快晴である。東の空が黄金の光を放っている。仕事を終日続行、十八時半アニミズム紀行5、31枚迄書く。これ以上書くと夜眠れなくなるだろうと、小休。食事。上手く進んでいるのか、変な世界に突入しているのか定かではない。二〇時過三十三枚半迄書きすすめ、疲れて横になった。書きすすめた文中の主人公も丁度眠りについたので良かった。
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一月三日
頭が疲れ過ぎて、やはり深くは眠れず、一時過に目覚め、書いたモノを読み直してみる。直さなければならぬところもあるが、予想以上に面白い。四時迄書き続け四〇枚少し迄辿り着き。再び横になる。八時半再起床、すぐにアニミズム紀行5のつづきを書く。朝食をはさんで十四時前迄続ける。五十一枚迄辿り着く。それなりに書けているような気はするのだが、どうなのか。生きて辿り着けるかどうかは知らぬけれど、二〇二五年迄の旅、終の建築と社会像への旅を描いてみた。私の率直な理想とも言うべきモノ、何かの像を描いてみた。
十八時半六十三枚まで辿り着く。絶版書房の一冊のとり敢えずは限界枚数だが、もう少しだけ書く必要がありそうだが、休みを必要とする。恐らく今夜も頭は眠らぬ夜になりそうだ。
書いた、描いた物体、建築をどうしても何らかの形に実現したいと熱烈に願望している自分が居る。
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一月四日
七時半起床。アニミズム紀行5を読み通し、66枚迄つづける。スケッチも数点。十時半迄もう少しすすめて、出掛けよう。実に面白い。
- 12月の世田谷村日記