2、足の悪い人、体の弱い人でも、つまりは誰でもが登山、入山できる。(ケーブルカーが完備されている)
3、登れば大自然に包まれる。大きな樹木に触れられる。それに比べれば富士山は何だ。アレは登れば汚いだけだ。富士は見る山、高尾山は登る山。
以上の三点である。
毎日新聞の(であった)佐藤健が高尾山に大きな関心を寄せていた。日本で唯一の大都市に直結した山岳霊場、修験道の庭だと言っていた。
稀有なところだとは聞かされていた、そしてその論旨はほぼ長崎屋のオヤジと同じなのであり、わたしは懐かしく思いながらオヤジの顔を見ていた。ヒマラヤ廻遊から帰ったばかりの頃、二十年くらい昔か、佐藤健とわたしは一夜高尾山論を闘わした。わたしは、ヒマラヤの峰々の巨大さを言いつのり、アレは神みたいな大きさで、アレを知ってしまったら、富士山なんてのは地ぶくれの砂山である。高尾山は逆立ちして登れるぜ、とやった。酒が入っていて、オーッ、言ったな明日やって貰おう逆立ちで高尾山登山、となった。わたしは謝って、高尾山は名山ですと言わされた。そんなバカな記憶もあり、高尾山は忘れようにも忘れられぬ山となったのである。
アニミズム紀行でいずれ考えてみたい。
しかしながら、長崎屋のオヤジは八十才前にして仲々の人物である。知識とは異なる知恵があるのだ。
二十一時過世田谷村に戻る。
六時半起床。メモを記す。アニミズム紀行6は書き始めずに、今朝はドローイングとする。十一時過、六点を得る。ようやく二〇〇八年の作業を再開させているのが自覚できた。建築への想いやみがたし。十二時洗濯、物干しを終え、昼食を長崎屋へ。オヤジ不在、昨夜飲み過ぎでまだ起きて来ないとの事。変に気を使わせて悪い事したな。他は記す事も無い。
記す事も無しと昨日は記したが、それを言っちゃあおしまいなので、やはり記す事とする。六時半離床。すぐにアニミズム紀行6にとりかかる。ようやく52枚迄辿り着く。建築のスケッチ、つまりわたしの言うドローイングと、文章を書くのとでは全く苦労の仕方が異なる。どっちが辛いと言えば、勿論文章書くのが辛い。正直に言えば、書きたくて書きたくてしようがなくて書き続けているのではない。何かにせかされて仕方なく書いているので、仲々にしんどいのである。
九時、小休する。50枚は昨日のノルマであったけれど今朝になってようやくクリアーした。毎日、連続して10枚づつ書き続けようと考えたのだが、これはハードである。この日記だって全く書けない時もあるのだから。何がしかの他人の眼を意識しているから、どんどん不自由にならざるを得ない。
しかし今更、誰にも見せぬ日記なんてわたしには有様が無い。スケッチには今朝は取り組めそうにない。人間のできる事には変なリズム、音の無い音楽性とでも呼びたいモノがあるようだ。若い頃は何でも何時でも出来ると思うような事があったが、実にバカであった。
出来る事はわずかだと年々歳々知るのである。
白足袋が南の窓、というかガラス入りの移動壁の木枠を爪とぎに使い始めて久しい。奴はわたしの木やらも試験台として使ったが、結局木製の窓枠を爪とぎのベストな道具として決めたようだ。
お陰様で世田谷村の南の木製建具はボロボロに毛ば立ってきた。サルヴァドール・ダリが未来の建築は毛深いモノになるであろうと予言したのは良く知られるが、家のはまさに毛深いのである。今や。しかし、ダリの様な芸術家が好むような毛深さではなく、ただただ白足袋の爪とぎによってギザギザに毛深いのである。
ある種の荒涼たる趣きがあってこれも良い。と言うよりも、これをしないと白足袋はストレスだらけになって苦しむのだろう。猫一匹の健康と引き換えならやむを得ないと考える。
しかし、もしかしたらですが、白足袋はいかにも自然な処に拾われて来たとしか思えない。ここで一番充足しているのは奴だ。しかし、彼の孤独は深いものがあるな、何しろ一歩も自分では外に出ないのだから。家の構想がそうさせているのでは恐らく無い。白足袋の出生とその後の記憶がそうさせている。
十二時FAX入り、星の子愛児園へ。今朝の大雨で建築に問題が生じたとの事。アニミズム紀行6は30枚辿り着いた。
十三時星の子愛児園に到着。手塩にかけた建築なのでキチンと最後まで見守りたい。施工の熊谷組のメンテナンスに対する対応は不愉快極る。この辺りで全てを切り換える必要がありそうだ。創建後九年経つが、熊谷組には建築に対する愛情が感じられない。十五時前、点検を終え、事後等を考えつつ去る。建築はメンテナンスが要でもある。
十六時前、烏山中華料理長崎屋で席を借り、アニミズム紀行6を書き継ぐ。40枚に辿り着く寸前に、小川君現われ38枚で中断する。その後、ソバ屋宗柳にて席を借り、何とか40枚迄辿り着かせた。自分では高揚しているのだけれど、客観的に視ればささいな事であるにちがいない。
二〇時前世田谷村に戻る。何とか40枚迄に辿り着いたアニミズムの旅ではあるが、我ながら良い処に辿り着き、旅の中の旅を続けられそうで一筋の光が得られそうだが、それと同じ位に痛苦であるのも当り前の事ではある。
最近、世田谷村に近い処で色々な附き合いが始まって、意図した事ではあるが、少々身近過ぎて息苦しくなる感もあり、人間は様々な意欲を拡げたいと思う身勝手さの固まりではあると痛感するのである。
身近な世界をしっかりしたいと思い、それが実現しつつなると、これではいけないと思う者なんである。バカだ、コレワ。
明日は創成入試で八時には世田谷村を発たねばならない。日記に記して、頭脳に念じている。今は目覚まし時計も無く、たたき起こす人も居ないのである。白足袋は今朝、ズルをして二度の朝食を得たのを知るので、いくらギャーギャー鳴いてもわたしは知らんのである。二十一時前、賀状欠礼のあいさつ、書き続ける。
今日はアニミズム紀行17枚迄研究室に送付した。
新しいエスキス、スケッチ集中作業のために画用紙を買い求めるも今日は手をつけず。明早朝から始めたい。
六時半離床。予定通り大きな紙にエスキス、スケッチを描き始める。
七時半中断、まだ何を描いているのか視えてこないが、アニミズム紀行6に書いている事が力を及ぼしているのだけは、かすかにわかる。言葉や意味、解釈にとらわれている内は、飛び切りなモノは現れない。
アニミズム紀行6を47枚迄書き継ぐ。
十時烏山神社を経て、徹底的にこもり、アニミズム紀行6を書く。
今日で30枚書き上げる決意であったが、十七時現在20枚迄しか書けていない。
六時半起床。七時アニミズム紀行6を続行する。十時27枚まで辿り着く。生活がシンプルになる。アニミズム紀行を書きながら、諸々の計画を立て、デザインに手をつけるという単純さに辿り着いている。
M邸の打ち合わせを河野鉄骨としたいのだが、まだ連絡待ちである。山形行きも、盛り沢山にデザインした。来週からは沢山の人と現実に対面する。
十時半、烏山神社を経て京王稲田堤へ。至誠館建築現場定例会。4階の壁まで建ち上がり、何とか年末には屋上まで含めて躯体は建ち上がる予定は守れそうだ。ほぼ全体のボリュームを把握できる状態になった。わたしにとっては面白いプロポーションの建築である。これだけ四角いオフィスビル状の建築に取り組むのは久し振りだ。マツダ横浜のR&Dセンター以来かな。しかし、あれは横浜港に開いていたので、形態は海に向けて開くモノとした。今度は多摩川の向う、川崎市の町の中に設計したが、仲々条件が厳しかった。それで四角い、ラーメン構造をベースとする事にした。3、4階は構造設計の梅沢良三さんの提案もあり、鉄骨梁とのハイブリッド構造とした。平面構成の必然から北へキャンティレバーを飛ばしたが、それもデザインの主役ではない。これは何も出来ないかと、負けそうになったけれど、何とか諸制約の枠内で少しづつ盛り返していった。微妙なニュアンスの中で何とか石山研らしさが出せるだろうの域まで持ってきた。現場も厳しさの中で、フレキシブルに対応してくれている。
現場を4階まで見て廻る。
小栗虫太郎の『白蟻』に挑戦。今日もアニミズム紀行6と苦闘しているので、読むモノもほとんど、その頭で読むことになる。偶然の事であったがボルヘス、虫太郎、バタイユとそろってくるといささか我ながら危い感もある。
七時前起床。昨日ベーシーの菅原正二さんからFAXが入っていた。新聞連載の「ワルツ・フォー・デビー」、短文を読む。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を30数枚読んで、気分が悪くなっていたので、実に清々しく読めた。
門前仲町にあったジャズ喫茶タカノのマスター高野勝亘さんを書いている。わたしはベーシーと知り合って、門前仲町には行こう行こうと考えながら遂に行き切れず、高野さんは亡くなった。何故行かなかったのか、言い訳がましいがベーシーへの義理だったんじゃないかと思うのだ。
ジャズ喫茶は1960年代に最盛期を迎えた、日本独自のスタイルである。栄えれば、当然滅びるのは世の常である。今は化石状態になっている。ケータイを持たぬわたしの情報事情と同じだ。いずれ間もなく、亡びる運命にある。亡びるモノには得も言えず価値があるモノが少くはない。
大方、文化的特質が色濃いモノは滅亡しやすいモノなのだ。
東北一の関、ベーシー、そして店主菅原さんもその文化的一族である。
それも又、わたしにとってはベーシーは文化のメッカ、それも敢えて言うが日本文化の聖地のひとつである。わたしは巡礼するような気持でベーシーを訪ねるのである。メッカはやっぱり一つであった方が解りやすい。二つになるとまぎらわしい。ジャズファンではない、ジャズ喫茶の店主ファンであるわたしとしては、それで本能的に門前仲町を訪ねるのを避けたのである。ジャズファンでは明らかにわたしは無い。大体耳が悪い。ジャズ喫茶店主ファンなんてのは、これ故、日本にはそれ程多くはいる筈もない。
小さな種族にメッカは一つで良いのである。
・・・・・しかし、「ワルツ・フォー・デビー」を読んで、なんで「ワルツ・フォー・デビー」なのか何の説明も無いのが、いかにも菅原さんらしいなと思ったのだが、やはり、門前仲町には行かなくて良かったと考えたのである。
行ってたら、ベーシーには行かなくなっていただろう事を知るからである。菅原さんのベーシーに流れ続ける音は、実はすでに音であって音ではない。彼が言うように「言いたい事は全てスピーカーに喋らせたのだろう」と高野さんを評して書く言葉は、実はつつしみ深く、しかし矜持を持って自分自身をつぶやいているのである。