1月の世田谷村日記
400 世田谷村日記 ある種族へ

十二月二十九日

五時四〇分発。まだ暗い。新宿、浜松町経由羽田第一ターミナル。七時過着。搭乗手続きをして、ゲートで長谷見先生と会う。朝食を食べそこねた。

七時四十五分発。那覇十時四〇分着。すぐ乗り継ぎ十一時の便で石垣島へ。

長谷見先生にブータンの話しを聞くのも面白かろうと考える。先生は先日ブータンに行ったばかりである。先程機内でスケッチしてみたが、頭で考えていた事とまるで異なるアイデアを描き始めたのは我ながら驚いた。那覇、石垣島間は一時間のフライトである。台湾まではもう近い。もう十五分で石垣島に着く。気温は20℃だそうだ。コートはいらないな。

十二時石垣空港着陸。バスで空港事務所へ。長谷見先生は石垣島へは二度目である。早大学院生の頃西表島で新種のヤマネコが発見されたと聞き船で鹿児島からやってきたそうだ。日本最南端の与那国島まで行き、すぐ隣りの台湾を眺めたそうである。レンタカーを借りて、石垣島の中央部西海岸の野底を目指す。空腹となり石垣島港に面した八重山そば本店夢乃屋で昼食。ゴーヤそば。

石垣島は200年程昔に大津波に襲われ、島の大半を洗い流されたと聞く。

石垣市には古い建築はほとんど残っていない。大半が新しい沖縄風である。

海沿いの道ではなく野底への最短距離の島の中央部の道を選んで走る。かつてと言ってもそれ程の昔ではなく、沖縄本島北部地区で「生命と環境」と題したワークショップを開催した事があり、それに関連して沖縄の長寿の方々を50名インタビューして廻った事がある。その時に沖縄は良く歩き廻った。それ故、何とり立てても無く見慣れた、畑と原野が続く風景である。

しかし、人の姿がない。三十分程走り、野底着。犬を連れて一人だけ歩いていた老婆に野底の公民館の場所を尋ねる。

公民館は4つあるぞと言われて、確認すると兼城公民館との事。

すぐ目の先であった。

道を左へ海岸へと折れると、人家がチラホラと数軒あり、道端に渡辺先生が立って待っておられた。渡辺先生宅の前で、久し振りのあいさつ。

奥様の御病気もあり、お宅は見るにとどめる。お隣りは大阪の方の別邸のようでコンクリート打放しのエキゾチックな家で、辺りは石垣島を好む人の、宅地として用意されている場所のようだ。渡辺先生宅の前にはブルドーザーが入って地ならしをしている。人影は全く無い。先生の車に先導していただき少し離れたカフェへ。海を間近に眺められる良い店であった。先生と打ち合わせ、相談を一時間半程する。

渡辺仁史先生は奥様の御病気の介護生活をここ野底の海間近の家で続けられている。今も二時間だけ介護の手を離せる状態として相談の時間を取っていただいた。

ここ野底に来て解った事が一つだけある。誰も渡辺先生の今の生活を想像もましてや簡単には理解できないと言う事である。わたしはそういう理解の仕方をする事としたのである。

人間の生命は何よりも尊い。それを自覚する過程を全ての人間は生きているようなものだ。

三時半渡辺先生と別れる。先生にすすめられた海沿いの道を石垣市へ。長谷見先生と何か一つだけ見て帰ろうと相談し、国指定重要文化財、宮良殿内(メーラドーヌジイ)へ。立派な石垣に囲まれた屋敷である。スケッチする。

津波でさらわれなかったほとんど唯一の伝統建築のようだ。庭が石は中国風で全体は和風なのが興味深い。

レンタカーを返して空港へ。十七時前空港着。石垣島に来てほとんど何もみていないなと、空港内の小さな売店で石垣島見物。長谷見先生素早く月桃餅なる手造りの台湾ちまきに似た、草の葉に包んだ美しい餅を求める。最後に残された一つであって、わたしは残念であった。長谷見先生は意外に素早いなと考えた。

十七時四〇分、石垣島を発つ。眼下に宮古島を眺めるも、計画地の渡真利島は識別できず。

十九時前那覇空港着。東京迄のフライトが三〇分遅れとの事で、空港内で沖縄ソバを立ち喰い。十九時四十五分那覇空港発。機内で長谷見先生の話しを沢山うかがう。

二十二時羽田空港着。浜松町で長谷見先生と別れ、新宿経由で二十三時半過世田谷村に戻る。白足袋迎えにも出ず。

十二月三〇日

七時過離床。流石に石垣島は暖かったなと思い返す。東京はうすら寒い。メモを記す。

昨日のスケッチを見返す。

白足袋が何処かに隠した神隠しの万年筆がようやく出てきて、机の上に乗っていた。

キツネの仕業であったか。

399 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十八日

十一時半新大久保近江屋でたっぷり、地鶏親子丼セットの朝昼食を食す。非常に満足する。

十二時過研究室。ロンドンで仕事をしているOB石井君来室。ロンドンカレッジの学生作品を見る。何ともはやのものである。これがAAスクール等の末期であるかと想うと何の希望もない。P・クックも指針を完全に見失っているとしか見えない。ハイテク思い付き欲情断片集でしかないのである。

その後、学生の卒計の相談を受ける。もっとウームであった。辛い。この若者達は何処に行くのか。

しばしの休み。十七時イタリアのグライター教授来室。

いつもの通り、世界情勢の把握に対する議論。

その後、来月のわたしのバウハウス大学・ギャラリーの展覧会の話題。キチンとしたクリティークを依頼する。

十八時、地下鉄で新宿味王へ。又、日本の状況のヒドサを再確認するのみ。グライター先生は今、イタリアの大学に居るのでイタリア好みの難波先生加わる。

で、突然、ニーチェ研究家のグライター先生がXゼミナールに加わる事になってしまった。これから先、何が起るか解らなくなって楽しい。李祖原もXゼミに加わりたいと言うし、他にも何がしかがいる。Xゼミは面白くなるかも知れない。

二十時過会食了。皆と別れる。二十一時過世田谷村に戻る。明日は五時起きで、石垣島行きである。誰も起こしてくれる人間が居ないのだけれど、起きれるのか不安である。

十二月二十九日

五時離床。メモを記す。五時五十五分の電車に乗るべく準備。今日は一日中飛行機に乗ってる感じだな。しかし、仕方ない義務だ。

398 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十七日

八時前、余計な電話をする。メメズショックである。年の暮れである。何でもいいから無事に暮れてくれと思うばかり。

九時河野鉄骨河野君来る。共にM邸へ。道々、来年の話し等する。九時四十分M邸にて打ち合わせ。十一時終了。来年は頑張りましょうとなる。

玉電で下高井戸へ、元区会議員S氏より声を掛けられる。昼食を取り、十二時半京王稲田堤。至誠会厚生館へ。近藤理事長に年末のごあいさつ。今年もお世話になりっぱなしでした。建設中の建築の銘板が陶芸家の方より届いていて共に見入る。その後、先生方と一緒に建設中の建築の内部を案内する。カンボジア産のレンガ積みの壁他、気に入っていただけたようでホッとする。

十四時半星の子愛児園メンテナンス現場で工事業者さんと打ち合わせ。十五時半熊谷組と打ち合わせ。来年早々のメンテナンス工事の日程等を決める。

十六時過了。今夜予定していたスケジュールがキャンセルとなり、烏山へ向う。

十七時過ぎ、又もかと我ながら思いつつ長崎屋ラーメン店へ。

又もオヤジの高尾山の話しを聞きながら夕食。そろそろ油モノは中断しないと体に良くないなコレワ。

十八時半世田谷村に戻る。白足袋ひっそりと迎える。

十九時、今日は少し疲れた。横になる。乱読する。

十二月二十八日

七時離床。アニミズム紀行7の構想を練る。二階の板張りの広間に座して、室内に射し込んでいる朝の光を眺めている。どうもうまくゆかずにスケッチに切り変える。

木本一之さんとざくろの外灯の打ち合わせをしなければならない。

広島山中の木本さんと電話で、ざくろの外灯、及びタロいもの葉の照明器具に関して打ち合わせ。木本さんとの仕事も来年はもう少しうまくやってゆきたい。

協同して下さっている方々には、今年は不甲斐なかった、来年は何とかしたい。

洗濯とモノ干し。南の戸を今日は全開放する。この状態が世田谷村は一番良い。

397 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十四日

十二時半地下スタジオ、学生の製図を少しばかり見る。

十四時前研究室。長谷見先生にとっていただいた石垣島への航空券を受け取る。

まさに年の暮れ、二十九日に日帰りで石垣島で介護休暇を取っている渡辺仁史先生を訪ねる事とした。石垣島は遠い。渡辺先生も大変だろうが、建築学科も置かれている状況は並々ならぬ程に大変である。先生方のそれぞれが大なり小なりの危機感をお持ちであろうが、私的な危機も又、公的な危機と共に人間としては重要な危機ではあるが、話し合ってきたい。

十五時半新宿南口長野屋食堂で昼食。味王に寄り、明日の難波先生提案の忘年会の確認を。味王は娘さんの友人達がたこ焼きパーティーをしていた。良い光景である。オカミさんにタコ焼き一緒にいかがとすすめられたが、照れて断わる。子供達と一緒にタコ焼き喰ってたらグッタリと疲れたであろう。

今日の午後は休ませていただこうと決めて十八時世田谷村に戻る。

母が亡くなり、中途になってしまった「母の家」の展開方法を考えに考え抜く。母の形見と思ってキチンと社会化したい。

十二月二十五日

七時過ぎ離床。メモを記す。昨夜考えた超小型建築をスケッチブックに移す。住宅とは呼ばぬ、超小型建築である。

八時電話連絡数件。九時半河野鉄骨河野君世田谷村に寄る。

来年の話しを道々しながら、M邸へ向う。十時過M邸打合わせ。十二時迄。

十三時研究室。諏訪太一君来室、小川君と会う。十四時半了。研究室OB柳本君来室、連続して小川君と会談。十五時半了。研究室を小川君と共に去る。十六時新宿南口長野屋食堂でキンピラゴボウを喰べて時間をつぶす。小川君しきりに現政権批判を繰り拡げる。床屋談義そのままであり、長野屋にはそれが良く似合う。ここはまだ謂はゆる労働者風の方々が一杯のメシを喰べに来るという光景がある。食堂のオカアさんが映画館の最前列で村上春樹の「ノルウェイの森」を視たようで、最前列だからのけぞって右へ左へ首を廻し続け大変だったの話しを聞く。その話しがオカシクて腹を抱えて笑った。ハルキ読んでるのと尋ねたら、読んでるわけないでしょだって。健全である。

十七時過小川君と別れて、すぐ近くの味王へ。

十八時鈴木博之先生、難波和彦先生出現。Xゼミ忘年会となる。

十九時半例によってTAXIで池袋魔窟ワインバーへ。魔窟は妙ににぎわっていて調子がいささか狂う。ここはシーンと凍てつくように人が居ないのが良いのだけれど、それはコチラの都合であって、仕方ない。

二〇時半頃了。新宿迄送ってもらい別れる。二十一時過世田谷村に戻る。白足袋迎えにも現われず。薄情な奴だ。

十二月二十六日 日曜日

八時離床。何だか年末は忙しい日程になっているので、今日はそれに備えてゆっくり休みたい。

白足袋がわたしの顔も見ずに目の前を通り過ぎる。アイサツくらいしろよと言いたい。

十時過烏山神社を経て、永福町河北リハビリテーション病院へ。十一時半より十二時半迄。1階のリハビリトレーニングルームを見学する。必然的無為である現代である。ここは。

十三時過近くの大宮八幡宮に参拝、見学。源義家ゆかりの武蔵国八幡一之宮である。

境内をじっくり見学する。良い神社だが、ここにはアニミズムの気配はまるで無い。全てが政治的に抽象化されている。十四時半勉強を終える。

永福町駅迄歩く。明大前経由烏山へ。十五時過長崎屋で遅い朝昼食。

実は、今日、病院で色々話していたら、先日わたしがメシを呑み込んでもどした件、正直に言って吐いた件なのだが、あの時には冷蔵庫に収納されていた妙なカルパッチョ状のモノを共に食したのだが、アレは釣りのエサ、海釣りのエサであったことが判明した。つまり、わたしがもどしたのはメメズやボウフラの類と砂らしきを食した故であったのだ。家内から、不徳の娘が信じられない、オヤジはメメズを喰ったらしいと報告を受け、娘も家内も、思はず吐きそうになったと言う。

それを聞いて、わたしも何日か遅れで再び吐きそうになった。

何でわたしがメメズを喰わなければならんのだ。何故こんな目に会わねばならんのだと、しみじみ長崎屋のオヤジとオバンに、本当にシミジミ述べたら、二人とも笑いころげて床に倒れそうにしてやがる。オバンは涙を流しながら、生野菜をサービスしやがる。民衆は皆酷薄である。

しかし、釣りのエサのビンづめを喰べて、もどしたと言うより、仲々うまいものだと感じたのが、メメズであった、ボーフラであったとは、わたしは自分の感覚に不安を覚え再び吐き気をもよおした。人間辛いことばかりである。

世田谷村に戻り、諏訪太一君に連絡する。諏訪君はメメズを喰べて根性を入れ替えるべきだろう。期待している若者が飛ばないのを見続けるのも辛いのである。

十七時過川合花子さんより電話をいただき、色々と心遣いをいただく。

魚の釣りエサを喰べてしまった話しをして「川合健二さんも恐らくそんな事があったんでしょうな」と言ったら笑っておられた。「何もわかってない人でしたから」だって。そうにちがいないとは言え、やはり魚の、しかも釣りのエサを喰べてはいけないと思う。今日はメメズで暮れた。

十二月二十七日

七時前離床。昨夜は超小型建築のスケッチを続けた。その後久し振りに堀田善衛「定家明月記私抄」を読む。わたしはそれをしないけれど近代建築様式=普遍化様式はすでに良質な部分は定家の如くに表現の表現の袋小路に入り込んでいるのは眼に視えている。

定家の作詩法は歴然として詩の詩、すなわち多くの作品としての詩の小史の上に成立している。実見、実体験の上には成立していない。

作品群の網の目の上に架構されている。

詩評としての詩である。そう考えていたので定家を少し勉強したいと考えたのである。

定家の生モノを感じる感性はわたしには無いので、信用できる批評から入ろうと当然堀田善衛から入った。

396 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十三日

九時発、河北リハビリテーション病院に寄り、西早稲田観音寺へ。今日は母の四十九日である。近くの大学のカフェテリアで軽朝食。妹夫妻と子供達と会い、住職の読経他焼香の後、納骨。母も先に逝った父の隣に納まって喜んでいるだろう。十一時過了。すぐ近くのリーガロイヤルホテルへ。昼会食。終了後新宿で別れ、十四時半松陰神社M邸へ。打合わせ、十六時過迄。十七時烏山へ戻り、長崎屋にもぐり込む。またも、オヤジの高尾山論に耳を傾ける。オヤジは今の天皇と同年同月日生れである。と言う事は今日が誕生日であったか。

このオヤジ、三浦さんと言うのだが、話しを聞けば聞く程に好人物である。わたしは、この人物の如くにはなれそうにない。十九時前世田谷村に戻る。昨日、手をつけていたXゼミナール、難波先生への返信を書く。

十二月二十四日

七時過離床。白足袋は南に端座し、何やら陽光を見つめている。自炊の朝メシを呑み込んだら、ノドにつまりそうになり少しばかりもどした。

自炊くらいヤレと言ったS教授をうらむ。自炊して死にそうになったらどうするんだと、つぶやくのであった。一人で大騒ぎして、十時半Xゼミを書き終える。

395 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十二日

十時四十五分星の子愛児園にて園長先生と打ち合わせ。メンテナンスの件。来週月曜日に熊谷組他に来てもらう事とした。十二時半、社会福祉法人厚生館現場へ。至誠館さくら乳児院至誠館なしのはな保育園新築工事現場へ。カンボジアより待望の穴明きレンガが到着して積み始めていた。とても良い感じである。狙い通りである。建築は屋上ペントハウス迄外形ボリュームの全てが姿を現わした。

4階建屋上庭園、2階テラス付きの都市型福祉の建築である。この一年間力を注いだので、ようやくここまできたかの実感あり。あと三ヶ月少しだ。頑張りたい。担当の渡邊大志助教はこの現場でとても成長した。クライアントに御礼を言いたい。馬淵建設の輿石所長以下、電気、設備も良くやってくれている。十七時過迄打ち合わせ。

その後現場の慰労会。調布の居酒屋で和む。それぞれの現場のなあの感深し。二十一時過了。二十二時世田谷村に戻る。

十二月二十三日

七時過離床。今日は休日らしいが、わたしのスケジュールは休日モードではない。休日モードと言っても、アニミズム紀行7を書くという事なんだけれど、生きるのに休みも何もありはしない。ナア。

394 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二十一日

今朝は昨夜炊いておいた飯で、自炊する。これを自炊というのはあやしいけれど、冷蔵庫内にあった、カルパッチョ風のツケモノ、梅干し、らっきょう、もう一品の洋風つけもの、の取り合わせで、上味で二杯喰べた。

ワイマール、バウハウス・ギャラリーでの石山展の準備が急ピッチとなる。間もなく、展示品を収納したコンテナはヨーロッパに到着する予定だ。

烏山神社に参拝、三名のジジババがかち合い、お参りの順番をゆずり合う。パチンと拍手を打ち、ムニャムニャと祈り、チャリン。と小銭をほうり込む。

気持もひとときではあるが晴れて、実にホンの五秒程ですがね。

電車に乗り、永福町、バスで河北リハビリ病院。私用。十二時半迄。故障した人々がリハビリにはげんでいる。最近は我ながら病院慣れしてしまい、キョロキョロ観察していたら怒られた。

十四時前、研究室。すぐにメール他に目を通す。コミュニケーションがどんどんうすくなっているな。メールでは伝えられぬモノがあるのだが、これは仕方がない事だろうか。

沢山な連絡が入っていて、処理し切れない。少し間を置くしかない。

追いかけられてアニミズム紀行5に二〇冊程ドローイングを入れる。

今日、十二月二十一日付の日付をつけたドローイングより、キルティプールの終の棲家のイメージを描き込んだ。図柄を大巾に変えた。同じような絵柄を二〇〇点程度描き続けたので、手が少し慣れてきて新鮮な感じがやってこなくなったか。

ドイツからの留学生ゴードン君の両親、弟さん来室。ドイツの家族はキチンとしているな。明日から京都、奈良へ旅するとの事。M2の修士設計をみる。

アニミズム紀行6を書き上げ、全てスタッフに手渡したので、やっぱりホッとしている。何号迄続けられるか、わたしの能力次第であろうが、ようやく迷いも少なくなった。アニミズムという一般的には危ういだろう世界、今の時代には???の固まりに視えるであろう世界に、わざわざ振り込んでゆこうと言うのだから、実に自分でもいぶかしんだのではある。四〇代、五〇代の体力のある年令の、失敗が許される年令ならいざ知らず、六〇代も半ばを過ぎての言挙げに、わざわざアニミズムはないだろうとは考えたのだが、修正できなかった。自分でも驚いているのですがね。

しかし、最近の隣りの神社通いは、別に天皇制とは無関係だし、神様との交信をしている感じも無い。ただただ身近な人間達、勿論自分自身も含むのだが、その生命の横溢を祈るだけなのだ。生命がまっとうされる事を祈るだけです。この状態、この気持の中心をわたしはアニミズムと呼んでいるだけだ。そして、この日常は確実に物との関係への信頼とも言うべき深い関係があると考えている。

十九時過長崎屋に寄ったら案の定小川君がラーメンを喰っていた。

小川君今日は自分の検診であったそうな。これから父親の介護だそうだ。

お前帰ってもネコだけかと言いやがった。二〇時過そのネコだけの世田谷村に戻り、メモを記す。

二十一時前、スケッチを始める。

十二月二十二日

一時半、アンリ・フォション『ロマネスク彫刻』とイタロ・カルヴィーノの『視えない都市』をごちゃ混ぜにして読んでいたら、大変心地良いのであった。

でもこんな事して喜んでるってのは、要するに眠れないという事ではないだろうか。と他人事のように言うが、これは今日の仕事は辛いであろう。

二時過再び横になる。

七時四十五分離床。昨夜は激しい雨が降ったが、今はあがって薄陽が射している。八時過電話を何件か。十時発烏山神社を経て京王稲田堤星の子愛児園へ。今日は終日至誠会現場関係の打合わせ他の予定である。

393 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二〇日

烏山神社を経て、発。都内某所にて、アニミズム紀行6、前書き部二枚書き加え、最終部十行程書き加える。何とかこれで一巡して大団円とは言わぬが小団円となる。円卓のホームレスである。都内某所なんて気取る間もなく、烏山長崎屋なのである。タンメン、ギョーザを喰べながらまとめた。今日の二枚+一枚で形はととのったと思う。

アニミズム紀行6は、創作論であると言い切る。

開放系技術論ノート2でもあるが、技術論の上位に創作論を据えている。当り前の事である。創作とは喜びも悲しみも幾歳月な者と、強大ではあるが人間の生の動物性をしか規準としないグローバリゼーションのメールストロームの端に位置する岬の灯台守の如くなのだ。今は岬の灯台守は技術の進歩で不要だが、人間の精神の中ではやはり小さな灯台守が必要ですからね。

アニミズム紀行6の大タイトルは「創作論」小さくサブタイトルとして開放系技術論ノート2とする。

今日は他に何も記しておく事は無い。

十二月二十一日

七時過離床。短いメモを記す。日記らしきを記し続ける事への疑問は相変わらず時々頭をもたげる。しかし、アニミズム紀行をこれに代るものとして記すにはわたしの能力が不足している。毎日アニミズム紀行を読めるモノとして書く力は今のわたしにはない。いつかはそうしたいと考えてはいるが。

白足袋は南の木の床にたたんで置いてある布団の上に丸くなって眠りこけている。こいつには今朝四時頃だったか起き出して、カンヅメの食事を与えた。ミャーミャー鳴いて、晩メシを与えるのを忘れたのに気付いたからだ。随分と引っ張り廻されている。しかし、同じ生き物だから仕方ない。

東北地方の広域計画を作り始める。

392 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十八日

十一時過烏山神社を経て、宗柳にて朝昼食。松陰神社前、M邸現場へ。M夫妻と打合わせ。十五時河野鉄骨河野さん打合わせに加わる。テラス、外構工事他の件。わたしの小さな私事で最後の仕上げが遅れたので、年末ネジを巻きたい。十七時了。三軒茶屋、渋谷を経て大学地下スタジオへ。十八時前20名程の学生に小レクチャーと製図の相談。20時了。新大久保駅前焼鳥屋で遅い夕食。二十二時前、世田谷村に戻る。

十二月十九日 日曜日

八時過離床。制作中のアニミズム紀行6の一部を読み直す。九時半20枚程を読了する。やはり、わたしは建築が好きなのだナアと、いまさらながらの当り前の事を思う。

十一時過アニミズム紀行101枚半、書きおとす。

描きたいモノは、新しく姿を出しつつあるが、それはアニミズム紀行7を待ちたい。

十一時半小川君と待ち合せて長崎屋へ。店は閉まっていたが、何とか開けてもらい入り込む。十三時四〇分了。十四時半世田谷村に戻る。

昨夜、ジョン・キーツに関する本を読み、ジョン・キーツがシェイクスピアに著しく影響された作家である事を知った。シェイクスピアは100万人の心を持つ劇作家と呼ばれたと言う。創作家に必須と思われる自我であろう。友人から聞いてもまだ理解できなかった、ネガティブ・ケイパビリティーという概念をようやく、自分なりに理解できるように思って嬉しかった。しかし、世間は様々な人格、知性が存在するが、その本来の生の意味らしきと、わたしの生の意味を結びつけられるような存在は少ない。しかし、それは各々、万人の共有する自問ではあろう。

アニミズム5、6号の対のおすすめ文を書く。

十八時前、宗柳へ夕食。白菜鍋と五穀米、つくね、ひとり暮しで野菜が不足しているので、こんなメニューとなる。しかし、自家菜園生活も現実ではこの体多楽なのだから、あらゆるイデオロギーはもろい。

炊飯器で米を炊くという、それだけをおこたっているだけなんだけど、それが出来ないのだ。情ない。マア、繰り返しの決心だけど、明日早朝ごはんを自分で炊いてみよう。一人になってみると、パンはどうもいただけないな、何故かは今のところは良く解らない。

宗柳ではメシを待つ間に、ボソボソとアニミズム紀行7の構想をスケッチしてみた。

十九時世田谷村に戻る。夜はWORK。

十二月二〇日

七時半離床メモを手直しする。寝床でジョン・キーツに関する本を読んだが、ネガティブ・ケイパブリティは日本語に訳すと受容的能力らしい。キーツはシェイクスピアにその才質を透視したようで、これはキーツ自身の言葉でもある。キーツに限らず詩人は外界(現実)のケイオスが全てであり、そのケイオスの只中に泳ぎ入り身を任せる事から表現を成し遂げるのである。決して自身の強い自我、内なる何者かを信ずる事によって表現を成すのではない。要するに、シェイクスピアは100万人の自分を持っていたのである。

アニミズム紀行6は自分でもわからず、シェイクスピアから始めていた。それは読者にいは少し唐突に過ぎるようなので、少し前に書き加えようかと考えたりする。

でも、ジョン・キーツがら切り出しても殆ど誰も解らないだろうから、さてどうしますか?

白足袋はしあわせなんか、しあわせという観念があるのか、無いのか?空腹になると、ミャーミャーとメシを促し。満腹になると、のびをして口のまわりを白い足袋手でぬぐい、キバをむいてあくびをして、何処かに姿を消す、の連続である。しかし、奴から眺めればわたしもそんな風に視えているに違いないのだ。赤塚不二夫のニャロメの猫が◯×△♪〜の、わけの解らぬ記号を乱発していたのは、赤塚なりに、あれは猫言葉、猫電波でもって猫の気持ちを表現していたんだナアと、今にして思う。

391 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十七日

十時、烏山神社に寄り、研究室へ。十一時前研究室、C.Y.LEEに連絡。十一時半より、十三時迄M2修士設計相談。久し振りに地下スタジオへ。3年設計製図中間講評会。清水建設設計部の先生方と古谷、石山、若い先生方出席。十六時迄、その後何点かを見てクリティーク。昨年の竹中工務店の先生方と対称的に清水建設の先生方は学生達に自由にやらせるのを、社風なのかな、それが現われていたような気がする。良く言えば自由、悪く言えばサークル風。昨年は第四課題の中間講評会に出たら、学生の作品が皆竹中風になっていてビックリしたし、ゼネコン設計部の体育会的底力を感じた。今年はその点ではモヤーッとしていて、わたしとしてはどうなのかなと感じたが、中間講評時にとやかく言うのは差し控えたい。十七時半地下スタジオを去る。近日中に、一度学生達の仕事振りをわたしなりに見てみたい。

十八時新宿南口味王でF氏と会う。仲々微妙な相談事であった。

十九時過別れて二〇時烏山長崎屋でラーメン。二十一時世田谷村に戻る。色々と踏ん張りどころである。

十二月十八日

六時過離床。五時頃にいちどボンヤリ目覚め、昨日の夢の続きをみてやろうと試みるも、そんな事ができるわけもなく失敗。あたりまえですね。

八時馬場昭道さんと話す。

うちの白足袋は何かにもぐり込むのが好きだ。一番が紙袋、そしてビニール袋これにもぐり込み、しかもそれをブラ下げて歩いてやると陶然とした顔になる。

今は、使わなくなった熱帯魚入れのガラスケースの中にもぐり込んでいる。

おタクではなくっておハコ族である。猫にもそれぞれの好みがあるのだなあ。

アニミズム紀行6を書く。十一時アニミズム紀行100枚に辿り着く。小休。

390 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十六日

昼過ぎ研究室。十四時過よりアニミズム紀行6を書き続ける。何とか96枚迄辿り着いた。ようやくにして、まとまりそうである。101枚でストップしたい。

十八時半過発。近江屋へ。今日はXゼミの忘年会である。鈴木博之、難波和彦両先生と鴨鍋をつつきながらの忘年会。と言っても簡単に忘れられる年ではないのである。四方山話しや、ギラリとする話しも交えて談論。修了後例により、池袋の句会妙見会事務局の魔窟Barへ流れる。ワインと念入りな小さいパンを食し夜は更けるのであった。二十二時過了。別れる。難波先生に新宿迄送っていただき別れる。二十二時二〇分。京王線で烏山、世田谷村に戻る。二十三時。すぐ眠る。

十二月十七日

四時半目覚め、横になったまま読書。五時再眠。8時前離床。今朝も妙な夢をみた。わたしは自転車の後ろに小さな頃の息子を乗せて走っている。カンボジアのナーリさんが現われてこのメシ屋に入りましょうと言う。アッという間にわたしは北海道に居て、巨人軍の原監督が主人の車屋につとめ始めている。原監督が全く見知らぬ女と話し始め、遠くの雪山が山火事になり、それなりに美しく紅く光っている。もう帰らなければ、と飛行機のチケットを探し、クシャクシャなのを何とか探し当てる。原監督が俺が飛行場まで送ってゆくよと言って、小さな車の前の座席にきゅうくつに座る。走り出して、夢は途切れた。

わたしは巨人軍は好きではないし、大体野球に関心がない。おまけに原監督ニモ全く関心が無いので、鼻をつままれた様な実に変な夢だった。

フロイトならどう判断するのだろうか。一番不思議なのは全く知らぬ女の表情が妙にリアルであった事だ。

しかし、昨夜の池袋の魔窟Barでの会話も、もう遠い夢のようである。

どうやら、わたしがフロイトになり代り無細工な分析をするに遠い山火事がポイントか。昨夜はXゼミの面々と話した事がかなりシリアスだったので、その不安が壮絶な山火事となって現われたに違いない。やはり知的な人間と会って話せば、どうしたって今の建築および建築教育そのものが置かれている状況認識はシリアスにならざるを得ない。

でもその中につかり切っていてはどうにもならない。今朝の空は晴れ上がって空も高い。寒いけれども陽光は輝いている。アニミズム紀行6も、もうすぐ書き終える。何とかやれるであろう。

389 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十四日

アニミズム紀行6、82枚迄すすむも苦しむ。東京駅十五時三十五分のひかり、十八時前、米原。車両は走るがアニミズムの旅は動かず。米原駅改札口に学生さん二人迎え。

滋賀県立大学へ。布野修司研究室へ。十八時三〇分講義。講義は1部2部に分けた。1部は近作。2部は転形期の建築。鎌倉期再建東大寺大仏殿、重源の建築。

二〇時了。その後懇親会にて質問他。学生の大方は素直で人柄が良い。ここでも女性が元気だそうだ。ベトナム春巻がおいしかった。学生達の手作りだそうだ。二十二時過二次会出席、二十四時過迄。彦根キャッスルホテルへ。風呂も使わず、ベッドに倒れ込む。

十二月十五日

七時起床、フラフラしながら風呂を使う。支度して七時半ロビーへ、チェックアウトして、迎えの学生さん2名の車で米原駅へ。学生さんは寝ていないと言う。わたしもあんまり眠っていなくて今日のスケジュールが心配である。

久し振りの他大学でのレクチャーであったが、『群居』時代の旧友、布野修司さんに再会できて良かった。アジアの都市論を中心に着々と成果をあげているようだ。

三〇分弱で名古屋着。予定より一本前の新幹線に飛び乗ったので八時三〇分迄時間が空き、駅構内でキシメンを食べる。九時坂井さんと予定通り会い、INAXライブミュージアムの立花さんと共に車で瀬戸市へ。予定では電車で移動であったが、車で助かった。十時頃瀬戸市着。凄い寒さの中を歩く。予定では散策とあったが、散策どころではない。しかし寒さが身体をひきしめ、瀬戸の町の歴史の酷薄さを体感する。瀬戸の焼物を作り続けた大量の道具を傾斜地の造成の仕上げに使い続けた、それ等の調査である。瀬戸のグランドキャニオンを眺め、感無量。

瀬戸本業窯の水野半次郎さんの話しをうかがう。とても興味深いが、何しろ寒くて身体にガタがくる。坂井さんの健脚がうらめしい。しかし、わたしもコレでヒマラヤ歩いていた身なのかと我ながら情けない。 しかし、昨夜ほんの少ししか眠れていないので、こうなのか、つまり快調に歩けないのか、ただ寒さに弱いのか等とグズグズ考え込みながら歩き続けた。

十二時過うどん屋で昼食。常滑市へと移動。車の中でウトウトと眠って助かった。十四時前常滑着。瀬戸の寒さよりは大気は少しぬるんでいるが、それでも寒い。ここは海風が吹きつけるので、町全体がコールタール等で黒く塗られていて、それが大がらな町の風景の調和をもたらせている。ここでも常滑の土管等を再利用した傾斜地造成を見学。焼物は何処でも登り窯から始まるので当然傾斜地が選ばれる。それ故見学は登り降りの連続である。仲々良い運動になる。しかし、常滑は土管坂などで観光客が多く見られた。大きく見事な登り窯近くでINAXライブミュージアムの後藤さんと会う。ドンドン町なかを歩く。暗くなる前にライブミュージアムへ。後藤さんにタイルコレクションを案内していただく。大変見事なもので、疲れも忘れて見入る。遠くペルシャを想う。タイルの歴史も凄いモノがあるな。日本の近代建築史の中の焼物、フランク・ロイド・ライトと常滑の関係なども教えていただいた。企業の活動が常滑のまちに溶け込んでいる。後藤さんはタイルを語らせたらとまらない好人物であった。

十七時過常滑駅より名古屋へ向う。十八時過名古屋駅で坂井さんと別れのぞみに飛び乗り、二〇時過東京駅着。二十一時前、新宿味王にてひとり晩メシ。しかし、疲れた。二十一時半頃世田谷村に戻り、ブッ倒れた。今日はよくブッ倒れたなあ。

十二月十六日

七時半離床。明方、変な夢を沢山みた。やっぱり疲れていたんだろう。すぐにメモを記す。アニミズム紀行6は手がつかない。もう少しだから頑張らないといけないのだけれど、こんな時もあるのだ。

山口勝弘先生より、大変な力作イカロス・シリーズのDVD2巻送られてくる。全く頭が下がる。

疲れたなんて言ってられないな。先生が前向きな間はわたしも休まないぞ。

388 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十三日

永福町よりバスで河北病院十一時二〇分着。ステッキで歩いている人も居れば車椅子の人も、寝たきりの人と、様々な障害者老人百態である。暖冷房完備で世田谷村より余程快適だが、何かが、重要な何かが欠けている。病院建築は危い方向に向っているとしか考えられない。機能の充分だけで他に何も無い。人間は機械に適応すればよい部分ではない。一人の人間は宇宙程に神秘に満ちた生命体でもある。

20世紀の失敗は科学を神の如くに信仰するのを人に強いた事にもある。教育がそれをシステムとして支え、一方向に進めた。文学・芸術はそれに対して無力であり、宗教は更に無力どころか、むしろ科学の神の補完要素となったのである。

母の死や多くの知り合いの現実、介護生活の現実や、多くの死と接して、わたしは死は生の終り、停止であるとは思えなくなった。

東北地方に壮大な墓地の計画を始めた。墓地だけではない、温泉付き寺院、神社、そして少し離れて病院介護施設とホスピス等、生と死の連続した精神の(精神は温泉や料理を欲するんだな)そんな、霊場の如くを設計する。

十九時烏山の超高級中華料理料亭ラーメン400円の長崎屋にて小川くんと会う事になる。

長崎屋での会話。

「おかあさんは長崎の原爆投下の時は何処にいたの?」

「何言ってんの、被爆の中心ですよ」

「エーッ、それじゃ御家族は?」

「父も母も亡くなりました」

「エーッ、そうなんですか、知らなかった。良く生き延びましたねえ」

「・・・・・」

「それで長崎屋なんですか?」

「マ、駅前でやってた親威の店が長崎屋だったんで・・・」

「御両親は原爆の直撃死ですか?それでおばさんはどうして生き残ったの」

「それがネェ解らないの、50メートルも離れていなかったの、両親とは」

「・・・・・」

戦後65年、時間は途切れる事を拒否している。それを伝えられるのは生な人間だけだ。歴史家は彼女、彼等のつぶやきの細部に耳を傾けることをして欲しい。

長崎屋のオヤジの言。オニヤンマはムカシトンボと言ったんです。ムカシトンボとは何も言い様のない見事な命名だな。

十二月十四日

八時頃離床。寒い。メモを記す。今日は西へ動く。アニミズム紀行6は80枚でストップしたまんまである。又、汽車の中で書き継ぎを試みてみようかとは思うのだが、どうなるか。今更新しいネタを作り出せるとも思えないし、手持ちのネタも無尽蔵じゃあないのは勿論だ。アニミズム紀行は書き続けられる迄書き続けるつもりなのだが、そんな事を考えれば少しは貯蔵品は残しておくのが賢いのだけれど、生憎そんな芸当はわたしには出来そうにない。99枚まであと19枚、何を書くかが視えていない。

387 世田谷村日記 ある種族へ
十二月十日

六時二十分離床。荷作り。七時二十分発。八時半東京駅。四十五分やまびこ乗車発。アニミズム紀行6、80枚迄仙台の手前で中断。十一時五十五分古川着。長沢社長、他迎え。車で鳴子へ。十二時過鳴子で早稲田桟敷湯・吉田氏に会う。十二時半別れ。十三時過秋田へ入り、秋の宮着、長沢さんの土地見学。三十分山の味、きのこ屋にて、これぞ山菜料理をいただく。熊汁もいただく、沢ガニ、岩魚、ゼンマイ他、7品以上。住人の菅詔悦さんは三代目のマタギである。湯沢市議会副議長由利昌司さん同席。温厚な徳のある人である。腹一杯食べて苦しい。美味地獄だ。この料理とマタギは宝だな。

ここ迄着くのに、それはそれは美しい雪景色の中を走ったのも夢のようだ。十五時過秋田県湯沢市役所着。

阿部副市長、次いで齊藤市長にお目にかかる。

十六時過市役所発。もう何処を走っているのか、頭の中の地図は消失。

十七時山形県新庄市、長沢社長の地元である。ポーキーベア、子供服の会社でこれも経営しているとの事。コーヒーを一杯いただいて休み、すぐ発。

十八時半頃天童市、焼肉店牛縁(ゴエン)。牛4500頭程の農場も長沢さんはやっており、そのアンテナ・ショップである。

長沢さんの牛肉のブランドは極勝(きわまさる)と言う。

滅法旨かった。しかし長沢さんは喰わせ過ぎで、もうわたしは天プラ等の顔も見たくないのであった。しかし、地鶏の玉子かけごはんと冷メンまで喰べてしまった。体こわすぞコレでは。

二十一時、了。近くの天童温泉ホテルへ。温泉に入る気力、体力なし、すぐ倒れて寝た。

十二月十一日

五時半起床。温泉につかる。ホッとする。再び眠り起きたのは八時半。九時前朝食。九時二十分ホテルの車で天童駅まで送っていただく。九時五十分の奥羽本線にて山形へ。

山形で仙山線に乗り換え、只今十二時前仙台近し。十二時過仙台駅、ベイシーの菅原さんに電話する。明朝、那須塩原行とするのを決めて、中島和尚に電話する。不在。十三時過一ノ関着、TAXiで地主町ベイシーへ。少し早いので近くのソバ屋で一人昼食。十四時過ベイシー。

何変りなくベイシーはコケの化石みたいな風が流れていた。菅原さんは全く変りが無い。「やがて死にます」と言われる。「モチロンです」と答えて、あとは何も話す事なし。店内には沢山の客がつめかけている。妙にベイシーの音もモダーンJAZZも、ちったあ解るような気分になっている自分に驚く。つい先日、マイルス・デービスのバンドの、ジミー・コブ(ドラマー)がここでライブをやった。82才のドラマーであるが、圧巻だったそうだ。

スーパー・ドラマー、エルヴィン・ジョーンズは毎年末にベイシーでライブを行うのを常としていた。わたしは一度も聴けなかった。エルヴィン・ジョーンズと比べるまでもなく、ジミー・コブはテクニシャンなんだそうだ。菅原さんがチューニングしたドラムセットを一切変えずに演奏したと言う。それは大変なコトであるらしい。

エルヴィンは殆んど天才であったが、しかしヤマハのドラムセットを晩年使ったと言う。アレが唯一の傷だと菅原さんは言い切った。

ドラムスにも物神性があって、エルヴィンはシンバルには最期までこだわってトルコ製のジルジャンという奴を使い続けたらしい。

十六時半、少々つかれて、TAXiでホテル蔵へ。少しばかり眠る。ベイシーで時を過すのは本当はエネルギーが必要なのだ。

十九時ベイシーに戻る。又、わざわざ疲れに行くようなものだ。円テーブルに座り、動かず、音も聴いているような、聴き流しているような。ウツラウツツのママ過す。この時間に見た夢の事は絶版書房通信に書く

二十時半ねばっていた客が帰ったのを期にT夫人の車で近くのおじや飯屋へ。菅原さんはわたしと同類で不思議な知り合いが少くない。

そう言えば、今日は牧師かと想わせる黒マント、トンビの男がいて、前衛書道家であった。おじや飯屋のオヤジも怪人であった。二十二時四十分了。ホテル迄送ってもらい別れた。

二十三時シャワーも使わず、又もブッ倒れる。

十二月十二日

今日は日曜日らしい。七時那須塩原の中島和尚に電話通じる。

昼前の訪問を伝える。これで今度の旅は円環を閉じる事になる。

ベイシーとの附合いは、まだ四半世紀チョットだが、菅原さんもわたしも良く生き延びていると想う。アト10年はやろうぜと言われた。15年はやりたい。八時過チェックアウト。

駅迄歩き、八時二十七分の汽車にかけ込む。記憶していたダイヤと、新幹線が青森まで開通したので大巾にダイヤが変化している。九時十三分仙台で乗り換え那須塩原へ。

一昨日の東北三県駆け巡りの旅がもう遠い日のようだ。明後日の滋賀県立大学でのレクチャー概要を考える。十時二十六分那須塩原、中島和尚迎えて下さる。

太田原市、長遠山護法寺十一時過着。のびやかな田畑の中の良い寺である。遠くに太平洋側の八満山系の山並みを望む。重く閉ざされた感じのない平野である。中島和尚とじっくり話す、十四時半迄。中国との仏教交流会の件、秋田秋の宮の件、他。昼間より般若湯(日本酒)いただく。

明年一月五日東京にて再会することとする。よい日和であった。

十五時前那須塩原迄送っていただき、お別れ。

待ち合い室でメモを記す。これで今回の旅の全スケジュールを終えた。

東京迄眠ってゆこう。

十五時半の汽車で東京へ。車内でボーッと半眠半空。

十六時四十五分東京着。中央線、京王線を経て烏山へ。

十八時前、長崎屋着。オヤジとオバンからお帰りなさいと言われてとまどう。寒かったでしょうとオマケが付く。誰がどうわたしの東北巡業をタレ込んだのかと問えば、勿論小川くんなのであった。これではまるで柴又のとらやダンゴ店ではないか。

書けば諸子より、しかめ顔が帰るばかりであろう。

まことに面目ない。

しかし、こんなに暖かく長崎屋のオジン、オバンにしていただいても、何かいたたまれないのである。特別にナマコをいただいても、ゆずこしょうを供されても、何故かいたたまれないのである。何故か?

それ以上の事を考えるのは必要であるが、書く事はしない方が良いのである。

十九時過長崎屋を出て、世田谷村に戻る。白足袋迎えにも出ず。短かい旅であったが、この三日間はちょっとしたものであった。

二十一時横になり休む。

十二月十三日

八時半離床。いくつかの電話連絡をすませる。どんよりとした曇天である。東北の曇り空よりも、東京の曇り空は軽々しいな。東北の曇り空はこれでもかという圧力があってわたしは好きだ。

十時過ぎ烏山神社を経て、河北リハビリ病院へ。

386 世田谷村日記 ある種族へ
十二月九日

八時四十五分仙川よりバスで杏林病院、今採血を終えて四階の待合いロビーで検診を待っている。気が小さいので早く来過ぎた。採血では採血の女性スタッフに血管が出ませんどうしましょうか?と尋ねられる。どうしましょうかと言われても、血管に出て来なさい、あなたは包囲されてますと叫ぶわけにもゆかず、とまどっていた。あまりに女性があきらめ顔なので、いつも普通にやってるんですがね、と少しプレスをかけたら、手をこすったり、なんだりしてどうやら出てきたらしい。前に何度か下手な採血者に当って、ブスブス針は突込まれるは、採血出来ないわで、思わず叫びたくなった事もあり、その記憶がよみがえった。どうしても血を抜いてやろうと言う情熱がうすいのではないか。上着も脱がされた。どうして上着を脱ぐのと採血は関係あるのであろうかといぶかしみもしたが、マアこちらは血を抜いていただいている弱者の側だから、あまり事を荒立てても仕方ないと、ただただ何も言わなかった。しかし、血管出ませんと、どうしましょうと叫ばれたら、叫ばれた当人だって、オカシイのか、何かあったか?血管陥没病か?と不安になるではないか。病院は不安な人間が来るところだ。その不安をいや増すような言動はそんな病人の不安の原理に対する想像力が欠けているのではなかろうか。

あんまり想像力豊かな人間が採血者になって、ウワーッ真っ赤ですね今日はアワが五つ視えます五星旗みたい、あなた中華人民共和国の体制どう想います、とか紅バラ白バラのバラ戦争の話しになったり、紅しょうがの紅は何故あんなにカナディアン・サンセットなの、なんてワケのわからぬ事言われたら、病院は一気に精神病院になってしまう。患者が正常で医者とスタッフが異常であるというプロットはG.K.チェスタートンの小説にあったような気もするが、すでにわたしの精神は病者風に病院になじんでしまっている。

十時二〇分担当医による定期検診修了。尿酸値以外はOK。藤塚さんから元気付けに贈っていただいたコッテリ味のビールは沢山は飲めないな。

十三時前研究室にて雑事。十三時人事小委員会。石垣島で介護休暇を取っておられる渡辺仁史教授と電話連絡する。人それぞれ皆それぞれの困難に対面している。わたしは渡辺仁史先生の私世界を最優先する生き方を尊敬している、本当に。しかし、大学という小社会ではその理念は通用し得ない事もあるだろう。十日程後に石垣島でじっくり話したい旨を伝えた。

十五時教室会議を抜けて、ベーシックシステム社、社長他と会う。

十六時前M2、修士設計相談、その後、学部学生卒計の相談。

アベル・エラソ中国より来て短い相談。十八時半コーリアメシ屋でスタッフとメシ。二十一時過烏山長崎屋で夜食。オヤジ、オババと再び高尾山談議。二十二時前、オジジ、オババのお二人を疲れさせてはいけぬので去る。世田谷村に戻る。

十二月十日

六時起床。荷作り。今日から東北出張だが、白足袋の姿が視えぬ。気になるなあ。夜明けの空はいつも美しい。毎日異なる。汽車でアニミズム紀行書き継ぐつもり。乗物は良く仕事がはかどるようになった。その分、景色に対する感受性が確実に鈍くなっているのだろう。

385 世田谷村日記 ある種族へ
十二月八日

十一時洗濯。及び物干し。少し洗濯物がたまっていたので世田谷村は満艦色に華やぐ。洗濯機に乾燥機能はついているのだが、お天道さまに干すのが一番合理的だ。それに物干ってのは仲々に楽しみもある。ピシリと布部を張りつめて、洗濯ばさみの数量をにらみながら南に幕を張っているようなモノなんだな。家の場合は。配した色の配布までは工夫しないけれど。

十一時半発、隣りの烏山神社に寄り、しみじみと観察する。勿論、参拝もする。

アニミズム紀行6で社寺境内の空虚の価値他を書いているので、視ている自分の立っている位置が少しは解るような気がする。十二時半前、京王稲田堤、建築現場定例会。クライアントも含め細部の打ち合わせが続く。

十八時了。渡辺助教と烏山へ、宗柳にて白菜鍋他。五穀飯を二椀食べる。アニミズム紀行、72.5枚迄すすむ。二〇時了。世田谷村に戻る。

しかし、旅という旅はなにやかやとしてきたけれど、それでも毎日の暮しが旅であるなんてイヤ味な俗論は決して吐かぬけれど、それでも今、色んな事情で世田谷村にてほぼ白足袋と共にひっそりした暮しになり、まことに日々が旅そのものになったのである。

十二月九日

五時半過離床。すぐにメモとアニミズム紀行6にかかる。七時前76枚半ばまで辿り着き小休。アト23枚である。今週中に何かと辿り着きたい。早朝の空模様は実に美しい。七時五十分半定期検診、杏林病院へ向う。

384 世田谷村日記 ある種族へ
十二月七日

十一時発。十二時他研究室院生の留学の手伝い。特異な才を持つ学生は仲々日本には居づらくなる現実がある。書類の余白にピーター・クックへコメントを記す。十三時日本ツリーハウス協会小林会長他来室。ツリーハウス建設希望者が急増していて、法的な対策を講じたいとの相談をする。

すでに80件を国内外で実現しているが、構造その他法的規律の問題を本格的にクリアーせねばならぬ状況だと言う。構造を樹に負担をかけぬようにして、ハウスと樹木を分離するしかないとアドヴァイス。北海道の物件の構造を協力しようとなった。石山研で以前ものした秩父でのツリーハウスと同様な考え方で、きちんと独立基礎の上にサポート柱等を構え、小さな人工床を支えるしかないだろう。

しかし、彼等はくったくもなく前向きでまぶしい位である。

十五時太田出版『atプラス』編集者他3名来室。来年より、『atプラス』の表紙を担当する事になった。わたしのドローイングも別回路で陽の眼を視る事になりそうだ。

十六時、東工大院生来室。修士論文で世田谷村に触れたいとの事でインタビュー。素直な学生で良かった。

十七時、元『室内』編集の三砂氏来室予定も現われず、浜の三砂じゃない、浜の真砂の時間泥棒石川五衛門じゃネェかと内心ののしるも、十八時出現。彼は今は銀座の有名文具店に勤務している。小説家である。今年も群像新人賞に応募し落選した。120枚も書いて陽の目も見ないという理不尽さであるが、毎年2000名程が応募するのだそうだ。建築設計でいうコンペ、競技設計である。話しを聞いて、あきれた。どうやら審査員というのが小説書き道楽、およびそのドロップアウトの面々で、恐らくそれ程に飛び切りの才質を持つ人々ではないようだ。これは推測だから間違っているやもしれぬ。

建築のコンペも、審査員次第で、要するに審査員が審査されているようなものだが、その審査員を決めるのが委員会方式であり、これは明らかに二流三流の行政下請け組織である。三砂君の予定では5年位かけて芥川賞を取ると決めている。

芥川賞をとると何が良いのかと問えば、原稿料が上がるのと書く場所が増える事らしい。今時小説なんか読みふけるのは小説オタクしかあり得ないだろうと皮肉を言うに、評論はもっと少いと言う。

そうか、自分の書いている『アニミズム紀行』のマーケットは極微なのかを思い知らされて、ギャフンである。それでも三砂君は初志貫徹で進むのである。バカだけれど偉い。初志貫徹は青の洞門を掘る如きだが、コツコツやれば願いはかなうだろう。

毎日、出勤前に6枚書くノルマを課していると言う。ヘエ、ワタスは10枚ですよとえばる。ヒェーッだって。6枚はアマチュアよ、とイキがりながら、又も味王へ。今日初めての食事をして、お互いの小説に関してのウンチクを傾け競技して、二〇時過了。

二十一時過烏山、長崎屋はもう店の灯りを消していた。世田谷村に戻る。

十二月八日

六時寝台のかけ布団にドサリと白足袋が乗り込んできて目が覚めた。

こいつは、いつもは何処に眠っているのかは解らない。世田谷村は広大な荒野みたいなものだから、野良猫のスピリッツを失なわぬ白足袋は、それこそコソコソと何処かにもぐり込んでいるのだろう。

布団に遠慮なく乗り込んでくるとは、余程コイツ、根性おとろえたかと、シッカリしろと、つぶやくも、やはり寒さに耐えかねたのかと、それは仕方ないだろうと思い直して、頭をポカリとなぐってやった。ミャーとも言わず安心して丸くなっている。白足袋を3階、正確には4階に残し、3階(普通には2階)に降りて、先ずこのメモを記す。少し字を書くのに慣れて、アニミズム紀行6にとりかかる。うたた寝しながら白足袋と丸くなりながら思い付いたのを書きとめるのである。ロクな人生じゃないな。

八時半、アニミズム紀行6、70枚迄辿り着いた。何処迄、書くかを計り始める。

写真家の藤塚光政よりゴッソリ、ビールが送られてきて、何事かと思ったら元気出セとの葉書きも届いた。そうか、相当メゲていると友人達は考えているのかと知る。

昨日、伊豆松崎町の森秀己さんの母君が亡くなったの知らせが安良里の藤井晴正さんから入った。皆友人達が同じような境遇に会っているのを知る。

もう何年も介護生活に明け暮れていた森さんの声は、しかし、やるだけの事をやったの明るさがあった。彼は母君の介護生活に生活を集中する為に役場の職も捨てたのだから。

「これからは、何処にでも行けますから」と言う事は、3年間ズーッと何処にも動かず母君に附き切りであったという事なのだ。

偉い人間がいるものだな世の中にはと痛感する。

世田谷村の庭をおおい尽していたクズの葉がようやくにして茶黄色に色めいてきて間もなく落葉である。このクズの葉の旺盛極まるエネルギーを夏のシェルターに何とか使いたかったので、冬にツタの根の何がしかを少し移動させたいのだが、身体が動くかどうか。

先日鈴木博之夫妻宅には黄色のバラが5株、壁をつたっていると聞き、世田谷村のクズと黄色のバラか、どうも家はヨーロッパ風にはなりようが無いと痛感したのである。まだ実見していないが黄色いバラというのが良い。紅いバラだったら、オットねという感じだったな。

383 世田谷村日記 ある種族へ
十二月六日

朝、中国に滞在中の安西君より電話あり、動き廻っている。気をつけろと言う。言ってもダメだろうが、少しは役立つだろう。

昼過、永福町河北リハビリテーション病院。先客あり。十三時半過発。十五時前研究室。途中バスが長いのでアニミズム紀行6を書く。わたしの頭は記憶万全型ではなく、チカチカ思い付きが飛び廻り、その思い付きさえアッという間に忘れてしまう体のものなので、長いモノを書くのは実に苦しいのだが、いつもスレスレに壊れるなコレワの寸前に、ブリッジが架けられて、スレスレにつながるのである。

6号もなかばにしてようやく、アニミズム紀行5で描いたキルティプールの終の棲いのディテールの意味が自分でも呑み込めていたような具合である。

十八時過アニミズム紀行6、59枚迄書く。農文協のS氏が先程現われて話してゆく。この出版不況の只中をそれでも頑張っているようで、仲々の営業熱心で感心する。東北の結城登美雄さんと連絡。回復されたようで心強い。

絶版書房通信書く。何とかアニミズム紀行6の目途が立ってきた。わたしも販売促進に力を入れなくては。

十九時半河野鉄骨専務と打合わせ。短時間で終える。二〇時発。地下鉄で新宿へ。味王で昼夕食。二十一時前了。二十二時世田谷村に戻る。

十二月七日

七時過離床。絶版書房通信書くつもりで、一枚目から読み直し、60枚に辿り着いたのは十時半であった。60枚でとどこおりそうなので、頑張りたい。

382 世田谷村日記 ある種族へ
十二月四日

八時四〇分烏山神社を経て、大学創成入試会場へ。建築学科創成入試は九年目を迎える。毎年独特な人材を確実に得ている。わたしの研究室の主要メンバーも構成している。九時十五分、準備会。九時四十五分開始、途中の休憩に研究室で修士設計を見る。昼食を挟んで十五時半了。合否判定前に再び修士設計を見る。ここのところ、わたしの方の考えている事が少しヴァージョンアップしているので、学生達の考え、言う事がいささか若過ぎるな、幼いなと見えてしまうのも確かだけれど、やはり良い人材には思考の水準を下げたくない。自然に厳しくなるのである。

十七時合否判定了。地下鉄で新宿三丁目へ。味王にて一服する。

二〇時前烏山に戻り、中華料理長崎屋で上味のラーメンをいただく。一人でラーメンすすっていたら、その姿にオヤジがものの哀れを感じたのであろう。いきなり、上等なナマコと、ビールを一本食べな、飲みなと供される。イヤハヤ参ったと言うべきか、申し訳ないと言うべきか、いただきビールを断われる訳にもいかずありがたくすする。

オヤジは京王線終点の高尾山に入れ込んでいて、高尾山日本名山論をわたしに聞かせる。時々、テーブルやカウンターの隅を借りてアニミズム紀行6を書いていたので、わたしを売れない物書きだと踏んだようで、一応擬似知識人だとにらんだのであろう、仲々の論を立ててきた。

1、京王線一本直通で行き帰り三時間で登って帰れる。
2、足の悪い人、体の弱い人でも、つまりは誰でもが登山、入山できる。(ケーブルカーが完備されている)
3、登れば大自然に包まれる。大きな樹木に触れられる。それに比べれば富士山は何だ。アレは登れば汚いだけだ。富士は見る山、高尾山は登る山。

以上の三点である。

毎日新聞の(であった)佐藤健が高尾山に大きな関心を寄せていた。日本で唯一の大都市に直結した山岳霊場、修験道の庭だと言っていた。

稀有なところだとは聞かされていた、そしてその論旨はほぼ長崎屋のオヤジと同じなのであり、わたしは懐かしく思いながらオヤジの顔を見ていた。ヒマラヤ廻遊から帰ったばかりの頃、二十年くらい昔か、佐藤健とわたしは一夜高尾山論を闘わした。わたしは、ヒマラヤの峰々の巨大さを言いつのり、アレは神みたいな大きさで、アレを知ってしまったら、富士山なんてのは地ぶくれの砂山である。高尾山は逆立ちして登れるぜ、とやった。酒が入っていて、オーッ、言ったな明日やって貰おう逆立ちで高尾山登山、となった。わたしは謝って、高尾山は名山ですと言わされた。そんなバカな記憶もあり、高尾山は忘れようにも忘れられぬ山となったのである。

アニミズム紀行でいずれ考えてみたい。

しかしながら、長崎屋のオヤジは八十才前にして仲々の人物である。知識とは異なる知恵があるのだ。

二十一時過世田谷村に戻る。

十二月五日

六時半起床。メモを記す。アニミズム紀行6は書き始めずに、今朝はドローイングとする。十一時過、六点を得る。ようやく二〇〇八年の作業を再開させているのが自覚できた。建築への想いやみがたし。十二時洗濯、物干しを終え、昼食を長崎屋へ。オヤジ不在、昨夜飲み過ぎでまだ起きて来ないとの事。変に気を使わせて悪い事したな。他は記す事も無い。

十二月六日

記す事も無しと昨日は記したが、それを言っちゃあおしまいなので、やはり記す事とする。六時半離床。すぐにアニミズム紀行6にとりかかる。ようやく52枚迄辿り着く。建築のスケッチ、つまりわたしの言うドローイングと、文章を書くのとでは全く苦労の仕方が異なる。どっちが辛いと言えば、勿論文章書くのが辛い。正直に言えば、書きたくて書きたくてしようがなくて書き続けているのではない。何かにせかされて仕方なく書いているので、仲々にしんどいのである。

九時、小休する。50枚は昨日のノルマであったけれど今朝になってようやくクリアーした。毎日、連続して10枚づつ書き続けようと考えたのだが、これはハードである。この日記だって全く書けない時もあるのだから。何がしかの他人の眼を意識しているから、どんどん不自由にならざるを得ない。

しかし今更、誰にも見せぬ日記なんてわたしには有様が無い。スケッチには今朝は取り組めそうにない。人間のできる事には変なリズム、音の無い音楽性とでも呼びたいモノがあるようだ。若い頃は何でも何時でも出来ると思うような事があったが、実にバカであった。

出来る事はわずかだと年々歳々知るのである。

白足袋が南の窓、というかガラス入りの移動壁の木枠を爪とぎに使い始めて久しい。奴はわたしの木やらも試験台として使ったが、結局木製の窓枠を爪とぎのベストな道具として決めたようだ。

お陰様で世田谷村の南の木製建具はボロボロに毛ば立ってきた。サルヴァドール・ダリが未来の建築は毛深いモノになるであろうと予言したのは良く知られるが、家のはまさに毛深いのである。今や。しかし、ダリの様な芸術家が好むような毛深さではなく、ただただ白足袋の爪とぎによってギザギザに毛深いのである。

ある種の荒涼たる趣きがあってこれも良い。と言うよりも、これをしないと白足袋はストレスだらけになって苦しむのだろう。猫一匹の健康と引き換えならやむを得ないと考える。

しかし、もしかしたらですが、白足袋はいかにも自然な処に拾われて来たとしか思えない。ここで一番充足しているのは奴だ。しかし、彼の孤独は深いものがあるな、何しろ一歩も自分では外に出ないのだから。家の構想がそうさせているのでは恐らく無い。白足袋の出生とその後の記憶がそうさせている。

381 世田谷村日記 ある種族へ
十二月三日

十二時FAX入り、星の子愛児園へ。今朝の大雨で建築に問題が生じたとの事。アニミズム紀行6は30枚辿り着いた。

十三時星の子愛児園に到着。手塩にかけた建築なのでキチンと最後まで見守りたい。施工の熊谷組のメンテナンスに対する対応は不愉快極る。この辺りで全てを切り換える必要がありそうだ。創建後九年経つが、熊谷組には建築に対する愛情が感じられない。十五時前、点検を終え、事後等を考えつつ去る。建築はメンテナンスが要でもある。

十六時前、烏山中華料理長崎屋で席を借り、アニミズム紀行6を書き継ぐ。40枚に辿り着く寸前に、小川君現われ38枚で中断する。その後、ソバ屋宗柳にて席を借り、何とか40枚迄辿り着かせた。自分では高揚しているのだけれど、客観的に視ればささいな事であるにちがいない。

二〇時前世田谷村に戻る。何とか40枚迄に辿り着いたアニミズムの旅ではあるが、我ながら良い処に辿り着き、旅の中の旅を続けられそうで一筋の光が得られそうだが、それと同じ位に痛苦であるのも当り前の事ではある。

最近、世田谷村に近い処で色々な附き合いが始まって、意図した事ではあるが、少々身近過ぎて息苦しくなる感もあり、人間は様々な意欲を拡げたいと思う身勝手さの固まりではあると痛感するのである。

身近な世界をしっかりしたいと思い、それが実現しつつなると、これではいけないと思う者なんである。バカだ、コレワ。

明日は創成入試で八時には世田谷村を発たねばならない。日記に記して、頭脳に念じている。今は目覚まし時計も無く、たたき起こす人も居ないのである。白足袋は今朝、ズルをして二度の朝食を得たのを知るので、いくらギャーギャー鳴いてもわたしは知らんのである。二十一時前、賀状欠礼のあいさつ、書き続ける。

今日はアニミズム紀行17枚迄研究室に送付した。

新しいエスキス、スケッチ集中作業のために画用紙を買い求めるも今日は手をつけず。明早朝から始めたい。

十二月四日

六時半離床。予定通り大きな紙にエスキス、スケッチを描き始める。

七時半中断、まだ何を描いているのか視えてこないが、アニミズム紀行6に書いている事が力を及ぼしているのだけは、かすかにわかる。言葉や意味、解釈にとらわれている内は、飛び切りなモノは現れない。

アニミズム紀行6を47枚迄書き継ぐ。

380 世田谷村日記 ある種族へ
十二月二日

十時烏山神社を経て、徹底的にこもり、アニミズム紀行6を書く。

今日で30枚書き上げる決意であったが、十七時現在20枚迄しか書けていない。

十二月三日

六時半起床。七時アニミズム紀行6を続行する。十時27枚まで辿り着く。生活がシンプルになる。アニミズム紀行を書きながら、諸々の計画を立て、デザインに手をつけるという単純さに辿り着いている。

M邸の打ち合わせを河野鉄骨としたいのだが、まだ連絡待ちである。山形行きも、盛り沢山にデザインした。来週からは沢山の人と現実に対面する。

379 世田谷村日記 ある種族へ
十二月一日

十時半、烏山神社を経て京王稲田堤へ。至誠館建築現場定例会。4階の壁まで建ち上がり、何とか年末には屋上まで含めて躯体は建ち上がる予定は守れそうだ。ほぼ全体のボリュームを把握できる状態になった。わたしにとっては面白いプロポーションの建築である。これだけ四角いオフィスビル状の建築に取り組むのは久し振りだ。マツダ横浜のR&Dセンター以来かな。しかし、あれは横浜港に開いていたので、形態は海に向けて開くモノとした。今度は多摩川の向う、川崎市の町の中に設計したが、仲々条件が厳しかった。それで四角い、ラーメン構造をベースとする事にした。3、4階は構造設計の梅沢良三さんの提案もあり、鉄骨梁とのハイブリッド構造とした。平面構成の必然から北へキャンティレバーを飛ばしたが、それもデザインの主役ではない。これは何も出来ないかと、負けそうになったけれど、何とか諸制約の枠内で少しづつ盛り返していった。微妙なニュアンスの中で何とか石山研らしさが出せるだろうの域まで持ってきた。現場も厳しさの中で、フレキシブルに対応してくれている。

現場を4階まで見て廻る。

小栗虫太郎の『白蟻』に挑戦。今日もアニミズム紀行6と苦闘しているので、読むモノもほとんど、その頭で読むことになる。偶然の事であったがボルヘス、虫太郎、バタイユとそろってくるといささか我ながら危い感もある。

十二月二日

七時前起床。昨日ベーシーの菅原正二さんからFAXが入っていた。新聞連載の「ワルツ・フォー・デビー」、短文を読む。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を30数枚読んで、気分が悪くなっていたので、実に清々しく読めた。

門前仲町にあったジャズ喫茶タカノのマスター高野勝亘さんを書いている。わたしはベーシーと知り合って、門前仲町には行こう行こうと考えながら遂に行き切れず、高野さんは亡くなった。何故行かなかったのか、言い訳がましいがベーシーへの義理だったんじゃないかと思うのだ。

ジャズ喫茶は1960年代に最盛期を迎えた、日本独自のスタイルである。栄えれば、当然滅びるのは世の常である。今は化石状態になっている。ケータイを持たぬわたしの情報事情と同じだ。いずれ間もなく、亡びる運命にある。亡びるモノには得も言えず価値があるモノが少くはない。

大方、文化的特質が色濃いモノは滅亡しやすいモノなのだ。

東北一の関、ベーシー、そして店主菅原さんもその文化的一族である。

それも又、わたしにとってはベーシーは文化のメッカ、それも敢えて言うが日本文化の聖地のひとつである。わたしは巡礼するような気持でベーシーを訪ねるのである。メッカはやっぱり一つであった方が解りやすい。二つになるとまぎらわしい。ジャズファンではない、ジャズ喫茶の店主ファンであるわたしとしては、それで本能的に門前仲町を訪ねるのを避けたのである。ジャズファンでは明らかにわたしは無い。大体耳が悪い。ジャズ喫茶店主ファンなんてのは、これ故、日本にはそれ程多くはいる筈もない。

小さな種族にメッカは一つで良いのである。

・・・・・しかし、「ワルツ・フォー・デビー」を読んで、なんで「ワルツ・フォー・デビー」なのか何の説明も無いのが、いかにも菅原さんらしいなと思ったのだが、やはり、門前仲町には行かなくて良かったと考えたのである。

行ってたら、ベーシーには行かなくなっていただろう事を知るからである。菅原さんのベーシーに流れ続ける音は、実はすでに音であって音ではない。彼が言うように「言いたい事は全てスピーカーに喋らせたのだろう」と高野さんを評して書く言葉は、実はつつしみ深く、しかし矜持を持って自分自身をつぶやいているのである。

11月の世田谷村日記