12月の世田谷村日記
378 世田谷村日記 ある種族へ
十一月三〇日

十一時二〇分、いささかの電話連絡を終え、小休する。烏山神社を経て十三時前研究室。雑用をすませ、十五時前M2修士設計相談。それぞれの資質にかなりの格差あり。良い学年のはずなのだが、変なモノも混じっている。

絶版書房通信を一本書く。ベーシーの菅原正二と久し振りに電話で話す。元気なようで、心からホッとする。生命なりけりです。人生という言葉は嫌いだ。十七時計画系人事小委員会。十八時修了。

十九時新宿東南口、味王にて古市さんと会う。極端に異なる才質の人間と会うのは心から面白い。でもコミュニケーションには必要以上のエネルギーを使うのである。二十二時過世田谷村に戻る。

ワイマールのカイ・ベックよりバウハウスでの展覧会の、宣伝用フライヤーの文章を明日中に送れの連絡入り、すぐやっつける。

来年のワイマール行きは、鈴木、難波両先生とのウェールズ行きの前に片付けてしまいたい。イギリス行きは鈴木先生の仕事の手伝いであるが、しかし、今日ウェールズから七面倒臭いスケジュールが入っていて、両先生とモルトウィスキーを飲る時間は少しばかり少なくなりそうである。

十二月一日

〇時目覚め20分ボルヘスを読む。「目覚めとは夢をみていないと夢みる別の夢であり、わたしたちの肉体が怖れる死は、夢と人が呼んでいる、あの夜毎の死だと感じ」詩法と名付けられた、ボルヘスの中枢だなコレワ。荘子の蝶と同じ言葉が、更にわかりやすく繰り返されていると言えよう。

六時再び目覚め、七時ボルヘス『創造者』読了。

しかしながら、ボルヘスを読みながら、コレワ敵はないのあきらめも又襲来し続けた。このように言葉の断片を光と陰の中に組み合わせる技術をわたしは全く持たない。

それ以前にひとつ、ひとつの言葉の質がまるでちがうんだな。影響されようが無い。

八時、幾つかの電話をかける。アニミズム紀行6を書く。エスキス、スケッチだけはボルヘスのようにやりたいものです。九時三〇分少し進んで小休とする。

今日はもう十二月か。光陰矢の如しである。

377 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十九日

十時二十分世田谷村発、烏山神社を経て、北烏山の寺町へ。十一時前高源院で品川宿まちづくり協議会会長堀江新三氏等と会う。

やがて、品川宿の面々フルメンバーが集り、高源院住職と会談。目黒川水源地を案内していただく。本堂にお参りする。

住職に烏山の景観と地下水を守る会に寄った方が良いとうながされ、案内していただく。称往院副住職、烏山の景観と地下水を守る会、松永聖弘さんに紹介される。烏山寺町地区の水利に関する歴史的なレクチャーを受ける。大変論理的でわかりやすい。その後、緑の会館にて再レクチャーを受ける。十三時迄。皆と別れて堀江さん等と品川宿へ。

品川駅で安西直紀さんを拾い、品川宿、そば屋吉田家へ。そばをご馳走になる。立派なそば屋で池田店主に紹介される。

堀江さんより、面白い計画を打明けられ、それやりたいと手を挙げる。

又、目黒川源泉の烏山寺町と太平洋への流出口、品川宿との中間の目黒辺りは向風学校の安西君がまとめる事になり、まだ何が出来るか解らぬが、目黒川遡行プロジェクトらしきを立ち上げる事になった。

十五時過散会、安西君と少しばかりの打合わせをして、十六時過品川駅で別れる。十七時過ぎ烏山、タンメンを喰べて十八時前世田谷村に戻る。

Mさん御夫妻より花届く。『田中角栄全記録』に目を通す。品川宿のまちづくりは堀江新三の許着々と積み重なっている。外国人の安価なゲストハウスが上手に運営されている等は大変な事だと思う。

十一月三十日

六時寝床でJ.L.ボルヘスの『創造者』を読む。100頁迄読んで六時半起き出し、二階で頼まれた原稿に取り組む。八時了。

どうも小栗虫太郎の『白蟻』には入ってゆけなくて、30頁でとまったマンマ。ボルヘスは読みやすく(理解しているとは言えぬが)速いスピードで進むのが勿体ないくらいである。読み比べるに小栗虫太郎の博識振りはボルヘスの足許にも及ばぬのがすぐに解ってしまう。しかし、誰がブエノスアイレス国立図書館長を二代続けたDNA、そして二代続けた盲目の読書家の悲劇の総体に敵うものがあろうか。ボルヘスはシェイクスピアをも、お前は何者かであろうとしたが何者でも無いと言い放っている。恐ろしい、しかも悲哀極まれる人物が居るものだ。

アニミズム紀行6、書いたモノを再び読み直す。どうやら、今度は大丈夫そうである。と言っても一気に書き抜ける程のエネルギーが今はない。コツコツと積み重ねるしかないだろう。一番苦手なのだ、このスタイルは。でもそうするしかない。

376 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十七日

六時目覚め、読書。七時起床。アニミズム紀行6を書く。秋に書きためていたものを全部捨てた。捨てないと、どうしようもない壁に当たったまんまなのを知るからだ。自分の頭のピンチは知るのである。色々と思案をこらして、少し書き、どうもうまく無いと止めたりの二、三日であった。やっぱり、創作論を骨格にしなければ自然では無いのに気付いた。当り前の事に気付くのに時間がかかった。

しかし、書き始めたモノは自分でも思いもかけぬでだしであった。シェイクスピアと織田信長がほぼ同時代人である事は前から知っていた。俊乗坊重源の大仏様を少しかじったので、その世界史との通時性を調べるために、日本史と世界史の単純な比較スタディをチョッピリだけやった事があって、その時に気付いた。

ハムレットという復讐劇と忠臣蔵のそれとの比較は小林秀雄のエッセイを読んで、成程ねと感じ入ったが、ハムレットの陰々滅々たる多弁振りは、忠臣蔵が歌舞伎として書かれたよりも200年以上も昔の事であるのに異な感じを持った。ハムレットの多弁振りがより近世的であると決めてかかっていたからだろう。

アニミズムとハムレット、そして織田信長の敦盛がどう書き得るのか、正直言っておぼつかぬが、とり敢えずサイは振ってしまった。

どうなりますか?当然の事ながら、アニミズム紀行はようやくにしてチョッと旅行記のスタイルをとり始めようとしている。アニミズム紀行5で描いたわたしの終の棲家をスタートに、チョボチョボとヨタリ、ヨタリと木枯しの旅に出ようとしている。それで、出来ればアニミズム紀行5から読み直していただきたいのである。アニミズム紀行4迄は手許に残した10部程を別に絶版している。

九時過ぎ市根井さん世田谷村に来る。今日の午後は難波和彦さんの東大退職祝いの会が東大製図室で開かれる。200人以上の方が見えると言う勇ましい会らしく、気が引けるが、コレは行かずばなるまい。

十二時中華料理長崎屋にて市根井さんと昼食。餃子、ラーメン、小ライスの豪華版? 流石に餃子は喰べ切れず市根井さんにゆずる。こんな時に悲哀を感じる。新宿西口地下で古書展をやっていてブラリとのぞいた。小栗虫太郎、ジョルジュ・バタイユ、J.ボルヘスの本を求める。偏向してるな。ジョン・キーツの本もあったが、重くなるので明日も又、来ることにした。

十五時前東大隈研究室で小休。山本理顕さん等と会う。十五時難波和彦さん東大退職を祝う会。鈴木博之さん冒頭であいさつ。わたしも、小スピーチ。わたしとしては最大級の親愛を込めたつもりだが、大方は解らんだろう。伊東豊雄さんとしばし話す。オプコードの野辺さんも工務店の方々と一緒に見えていた。箱の家のクライアント、施工者の皆さんも多く、難波的民主主義を見た想い。小栗虫太郎本を抱えた身としては、やはりいささか居心地が悪いのであった。

途中、鈴木先生と抜けて、旧鈴木研究室で話す。こういう対面は幾つになっても照れるけれど、落ち着く。

しかし三時間のパーティは長い。箱の家シリーズみたいだと、つぶやく。キチンと居残り、あいさつを続ける難波先生を残し、少し歩いてチャンコ鍋へ。構造設計家の佐々木睦朗さん、山本理顕さん、伊藤先生、等と談笑。

途中で、鈴木先生と二人抜けて例の、妙見会事ム局の池袋魔窟ワインバーへ。話し込んでフッと帰るかと思う頃難波和彦さん来る。一人であった。ガヤガヤと来るわけないだろうと思っていたが、良かった。何時頃だったか、別れ、世田谷村に戻ったのは二十三時過だったろうか。酔ってはいないが、記憶がしっかりしていない。

小栗虫太郎を読みながら、二十四時休む。

十一月二十八日

六時目覚めるも再眠、八時半起床。メモを記す。九時四〇分品川宿の堀江さん、烏山の小川さんと明日の高源院訪問のスケジュール決定する。

十一時過河北リハビリテーション病院。十二時過発。新宿西口、古本市にてジョン・キーツ詩選購入、他。ライオンビヤホールにて昼食、しばしくつろぐ。十五時烏山中華食堂長崎屋で小川さんと会う。雑談。十七時前世田谷村に戻る。

白足袋しきりに懐いて、猫体をすり寄せてくる奇態を示す。余りの寂しさに耐えかねての事であろう。が、白足袋には、お前男だろ、しっかりせよ、と言う。せんない事を言ったな。年若い猫が、わかるわけもなし、秋の暮。

十八時過ひとり夕食。昨日、友人から登山やってたんだろう、自炊しろ、と叱られたので明朝から試みる。確かに今は山登り状態ではある。この機会に料理らしきに取り組んでみるか?と思い付きを。多分ダメだろう。自分の喰うモノ位は自分で全てとは言わず作ろうとするのが、本当だろうな。何が開放系技術だ口先だけではないかと、実にそう考える。

十九時、小栗虫太郎の『白蟻』を読む。先ず、江戸川乱歩、甲賀三郎等の讚より。江戸川乱歩の解説が良い。G.K.チェスタトンとの類似性等は小栗が怪奇小説作家の域では無い事をとらえていた。非ユークリッド幾何学の世界をユークリッド幾何学をもって描こうとしているの評が解りやすい。

若輩の頃夢野久作に入り込んだ事があったが、小栗は敬遠した。その、無意識の判断は正しかったと思う。小栗虫太郎の文体は異常である。殆ど病いの域だな。しかし、予感していたとおり、虫太郎が描こうとしていたのは推理小説の形式を借りた、アニミズム世界であろう。まだ全編を読み切ってはいないが、と言うよりも、とても長くは読めないのだ。虫太郎の虫のような、蛇の動きや感触に似た読みざわりの如きがあって、気持ち悪くて長くは読めない、30頁も読むとグッタリしてしまう。

十一月二十九日

七時起床。小栗虫太郎は30頁でストップ。舞台は、わたしも良く知る秩父と南佐久の境界、双子山近くである。双子山は坂本集落を南に小振りではあるが特異な双塔の岩山で、二十才のわたしは岩登りのトレーニング場にしていた。両神山の怪峰の北面を常に黒いシルエットとして眺める陽光に溢れる明るい場所であった。南面は。

何故小栗虫太郎が彼の稀代の作品と自負する空間の舞台にこの辺りを選んだのかは知らない。しかし、実在の場所に非実在の空間を埋め込む作業には、このリアルな場所から得るイメージが決定的なものなのは良く解る。秩父の北辺より眺める八ヶ岳の雄大さは日本の中でも、阿蘇山、大雪山と並んで有数なものだ。富士山も入るかな。入れたくないが。

虫太郎は双子山の峠には登ってはいないだろう。恐らく坂本集落から西の志賀坂峠から佐久へ抜けた。峠からのあっけらかんとした明るい、際限の無い山岳の裾野の風景、後ろに犬神の伝説のある両神山、前に太古爆発して頂が千切れた八ヶ岳を望む。その一眼の時空の狭間からこの小説の発端をたぐり寄せたに違いないのである。壮大な地形、歴史の把握力である。先ず、その地形に生霊の存在を感得したのであろう。そう、この日本の推理小説の独立峰は、その根底にアニミズムが捉えられているのは間違いがない。古樹木と交わる女人の姿、南アジアの疫病へのペダントリー趣味、博識の根には原始宗教への関心が明らかである。

九時前小休。今日は十一時に烏山寺町で人と会うので、いささかの準備がいる。そろそろ御飯も炊けたか? 今日から自炊する。おかずは、とり敢えず梅干しだけからスタート。

375 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十五日

十二時過リハビリ病院発。病院前で朝昼食をとり、方南町よりバス、新宿西口を経て十三時半大学。雑用。

研究室に山本伊音氏より、『山本夏彦とその時代1』WAC社1619円+税、送られてくる。1は「茶の間の正義」である。のぞくとすぐに山本翁の陰々滅々たる語り口が溢れ返っており、懐かしさ極まる。考えてみれば、変なジイさんを好んでいるなと再び痛感する。

十六時シンガポールのT氏他来室。次なる試みの話しをする。このほこりムンムン立つうさん臭さが良い。もうもうたる煙の中、砂ぼこりの中から人馬が現われる。つまり仕事が出現する風もあり、完全に騎馬民族の戦い風の様相を呈している。走り抜けたい。

十八時前、研究室を抜けて近江屋へ。夕食。さて明日から何をするかねと研究室スタッフに問うも、応えなし。当り前だ。応えられるわけも無い。でも、わたしは、ハッキリ視えてきているから大丈夫。十九時前、了。十九時半頃烏山で一服し、十八時前世田谷村に戻る。白足袋迎えにも現れず。薄情な奴である。

アニミズム紀行6はアニミズム紀行5で描いたわたしの終の棲処をはじまりに、それから生まれた幾つかのプロジェクトの核を描いてみる事にする。半年かかったな、次への展開に進むために。全く、骨身をけずるな。

十一月二十六日

七時半起床。すぐにアニミズム紀行6に手をつける。

九時烏山神社を経て大学へ発つ。十時、設計製図第4課題、清水建設設計部による出題に立会う。冒頭少し計りのスピーチ。

十二時前出題作業了。昨年の竹中工務店設計部とは随分何かが違うのに驚く。それを良しとするのが本来の目的である。予定を又、大幅に裏切っている。

十三時より、宗柳、長崎屋にてアニミズム紀行6を書き続ける。少しは進んだ。十六半小休して世田谷村に戻る。

374 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十四日

昼に向風学校代表安西氏と会い、幾つかの相談。十四時半別れ、私用。夜Xゼミを記して過す。こういう日も良いのではないか。二〇時就寝。

十一月二十五日

七時起床。良く眠れた。もう少し骨休めしたいところだけれど、今日から動きたい。

新聞を読まなくなって久しい。時々、ソバ屋で眼を通すだけの日々である。TVはもう視ないと決めていたが、そこ迄する事も阿呆臭いと反省して、メモを記しながらTVをつけて、バカバカしくなりながらもみてしまい、やはりバカバカしくなるのです。わたしのアルコール禁止宣言みたいなものである。固意地張っても我ながら笑ってしまう状態になる。

八時半Xゼミナール、東大早大合同課題・4を書き終える。東大のデータが手許になく、キチンと手中にしてから書き続けることとする。わたしにとってすぐには利にならぬ事ではあるが、製図教師の役得であると考えたい。 常に最若年の人材が感じている時代の風を共に感じる事ができるのだから。その代償として、わたしはズーッと成熟してゆくのが難しくなるのだろう。これも又仕方ないか。

九時過ぎ前橋の市根井さん来る。諸々の打合わせ。ゲーテチェアに鳥取の鏝絵はきちんと納まったそうだ。昨日すでに横浜港からドイツに向けて荷は出ていると思われる。

十時前世田谷村発、河北リハビリテーション病院へ。

373 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二十二日

十一時世田谷村を発つ。烏山神社に参り、本郷三丁目へ。東大赤門近くのそば屋で朝昼食十二時三〇分了。東大建築製図室へ。十三時合同課題講評会開始。東大早大の目ぼしい作品とクリティークは、わたしのサイトの「Xゼミナール」のコーナーで詳述する。今年は仲々良い出来であったやも知れぬが、当事者なので、それは把握し切れていない。

早稲田の学生もこの課題を期してきたえあげているが、東大も地力があるから仲々、ブッチ切りというわけにはいかない。今年も冷静に眺め渡せば五分五分であると言わねばならぬ。十七時半過クリティーク修了。伊藤先生の研究室で休ませていただき、懇親会。東大早大学生と話し合う。2年前のこの課題で知り合った東大生とも再開できて楽しかった。

十九時過東大製図室を去る。市ヶ谷で地下鉄を乗り換え、二〇時過千歳烏山着。空腹でネパール料理屋にもぐり込み、モモ他のチキンカレー、ナン等を食す。二十一時半食べおわる。二十二時前、世田谷村に戻る。白足袋だけが迎えるというまことに、しょうじょうたる、びょうびょうたると言うべきかの、マ、さびしさ極まるの帰りなんであった。仕方ネェな。

二十二時二〇分、何となく横になって休もうとするが、どうするかね。

十一月二十三日

今日は休日である。昨夜は充二分に眠った。七時半起床。すぐに昨日の東大早大合同課題の講評をXゼミに書き述べる。総評のみをここに記すが、この両校の合同課題は4年目にして成果が少しづつ得られているように思った。この少しづつというところが大事である。設計教育は容易なものではない。それぞれの教員が力を尽して、それで眼に見えぬ位にジワリと前進するか、しないか位の重量感があるものだ。設計製図教育はコンピューターを駆使する時代になっても、建築教育のそれこそインフラストラクチャーなのである。

又、わたしはかねてより建築史教育と設計教育を融合させるべきだとの持論を持つ。その是非はとも角、わたしは今でも持っている。

日本の建築家達は基本的に建築教育、そして設計教育によって生み出された存在である。パラディオが建築家たり得た文化的状況から生まれ得た者ではない。それ故に明晰な思考能力を持つ日本の近代建築家の数々は、例えば堀口捨己の如くに、分離派建築運動等に身を投じてきた。分離派すなわち歴史、風土からの分離であった。この精神の傾向は明治維新以来の欧化政策、そして和魂洋才の文化の型として結実した。東大建築教室はその中枢であり、早稲田建築教育はその補完的存在であり続けた。

今の両校の学生諸君はその伝統=歴史の流れの中に存在し得ている。と又もや話が大きくなってしまうので続きはXゼミナールで。

十一時四〇分宗柳でO君と会い昼食。十三時中華料理長崎屋でギョーザをつまんで別れる。十四時頃帰り、小休。

Xゼミナール、東大早大合同課題講評を書く。十九時第1回を書きおえる。3、4回になるかな。

十九時過豊橋の川合花子さんより電話いただき、お互いに近況報告。花子さん91才になられたそうだ。お元気な様子で気持が明るくなる。まだまだ若いんだから石山さんらしく生きなさいと励まされて、年甲斐もなくシーンとする。その通りです。本当に川合健二、花子さん御夫婦との出会いはわたしの一生を決めたな。

二十二時前、Xゼミナール合同課題講評2を書き始める。二十三時前、中断して休む。

十一月二十四日

七時起床。Xゼミ原稿書く。八時半一段落。お茶を一服。一〇時二〇分、2、3を書きおえる。陽光が指し込み再び清々しい。さて、わたしの事をやりたい。

372 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二〇日

十時渡辺助教、他二名、そして市根井さん世田谷村に来る。未完の書庫よりワイマール展へのマテリアルを運び出す。開拓者の家の模型が出てきたのが良かった。市根井さん世田谷村の風呂場、階段室を点険。家内のリハビリ用対策を考えていただく。man made natureのテーマのもとオリジナル椅子四点、世田谷村、ひろしまハウス、開拓者の家、ミャンマー・プロジェクト、鬼沼計画、宮古島計画、グアダラハラ・プロジェクト等を2トントラックに積み込む。

バウハウス・ギャラリーでの展覧会が来年二月中旬に終了するので、出展するマテリアルが帰国次第、三月に1週間程のA3ワークショップを再開しようと決心した。

日本でA3ワークショップ主催のman made nature展及び何がしかを開催する。十三時前メモを記し小休。

アニミズム紀行6をまとめ始める。一度、書きはじめたモノは捨てようと決めた。惜しくはない。まだアニミズム紀行5が完売していないが、man made nature展を機に展開をはかりたい。当然6は5をベースとした大展開編となる。文体も語り手の主体も改変が必要であろう。わたしの頭は持続を望むのだが、手がそれに反せよとそそのかすのである。無い頭をひねくり廻すよりも身体にゆだねてみよう。それで読者に嫌われれば、ままよ、それ迄である。それで良い。

先程、淡路の山田脩二より電話があって、相変わらずの仙人振りであった。彼は、わたしの母が亡くなったのを知らぬ。わたしも別に伝えようとも思はない。少しだけだが気分に開きがあったのは仕方の無い事ではある。まったく、世間は仕方のない事だらけである。

十四時過、葬儀屋来る。母旅立ちの支度して世田谷村を発つ。二泊した。小さくなった母には棺が少々大き過ぎる。父の時はどうであったかもう定かではない。十五時息子達と世田谷村を発ち、西早稲田観音寺へ。

岡山、神戸から親族集まり、十八時通夜。十五名程のささやかな会であった。難波和彦、鈴木博之両先生、建築学科主任古谷誠章先生参会して下さる。かたじけない。

他に、みずきちゃん親子、H氏等が寄って下さった。

読経後、会席。遠方よりの親族は観音寺泊りとなる。本物の通夜になった。

二十時半娘と共に観音寺を去る。

二十一時過世田谷村に戻り、すぐ眠る。

十一月二十一日

七時起床。一度五時に目覚め東南の空の美しい変化を一瞬眺めたが、夢も見ずに眠った。朝の陽光の美しさは例えようが無い。

七時四〇分烏山神社。友人、家族、親族の長命を祈る。

帰りがけ世田谷村の南の生垣の赤いさざん花を一枚。世田谷村の小林に今朝は鳥の声が多い。それにしても、実に色々な事があった秋ではあった。

昨夜の通夜ではXゼミ主催の通夜みたいな形になったな、と変な事を考えた。

今日で一段落である。明け方、渡辺豊和さんのトンデモ本、古代日本のフリーメーソンを三〇分程読んだ。こういう時にはすんなりと入れるかと思ったのだが、やっぱりヨセヤイ豊和さんの感じであり、我ながらホッとする。渡辺豊和の人間は深く信用するのだが、この無我夢中振りにはどうしても入ってゆけないのである。わたしが無意味な正常、つまり近代人である証しである。

マッタク、ギザのピラミッドとサッカラのピラミッドとA点なる渡辺ポイントを結ぶ、聖二等辺三角形が世界をおおい尽す夢通信の規準三角形であるなんて、なんて事言うんだろう。しかもそのA点には古代史上紛失されたとするモーゼの十戒の石版やアークが埋まっているやも知れぬとはヨセヤイと思わずつぶやくのである。いい人なんだけどなあ。しかし、渡辺豊和は自分で短命の家系であると宣言していて廻りをホッとさせているようだが(モチロン、コレワ、冗談です、と断りを入れぬとネット社会では何を言われるか解らない)、わたしのにらむところ彼は長命を全うし、九〇才を超える時には、「ジツハナ、ワタスはモーゼの生まれ代りなのよ、信じられんだろバカタレ、ワタスのオヤジは白系ロシヤの血を引いているのは歴然としてるんだから、それを辿ってゆくと、イスラエル、今のネ。そしてシリア、死海のほとり、ついには出エジプト記のモーゼにきっちり辿り着くのじゃ」と宣言し、世間を呆然とさせる、と言ってもわたしだけであろうが、そうなるのはどうやら宿命であるらしい。

しかし、本格的に変な人だな。「古代日本のフリーメーソン」渡辺豊和・著、学研。読んでみたら良い。面白いぞ。現実と思っている資本主義社会が馬鹿馬鹿しく視えてくるのに驚くかも知れない。そうなると妙に心が軽く自由になるのである。

九時小休し、久し振りにTVを視る。法務大臣がトンデモ発言をして、民主党はいよいよサークル政党である事を暴露しているようだ。しかし、国民が選んだ政党である事は確かでもあり、さすれば国民はサークル悪党がお好きという事になる。大衆は馬鹿では無いと、自分も含めて思いたいが付和雷同を好む事も確かである。

法務大臣のトンデモ発言と渡辺豊和のトンデモ本とは正反対の意味がある。

トンデモ発言は国民を不安と不信に落ち入らせるだけのものだけれど、渡辺豊和のトンデモ本は読者を一種の非資本主義的自由、軽みに誘導する力はある。この種のトンデモ本の元祖は、うろ覚えではあるがデニケンの宇宙人論が最初に近いセンセーショナルな本であり、とても沢山の読者をつかんだものだと思う。

その意味からは、このトンデモ本が多くの読者の手に取られる事を望むのである。

この本にはいくら付和雷同者が続出しても、深い害はあり得ない。高級なエンターテイメントであると考えたい。

それにしても固苦しさが増すばかりの建築界から渡辺のトンデモ本が生み続けられているのは実に喜ばしい。ただし渡辺に坂口安吾ばりのファルスの意識があるか、つまりは道化としての意識があるかどうかはいまだ不明である。だとすれば惜しい。

こういう時代は笑い抜けるしかないのかも知れないと考えれば、渡辺の存在は実に軽くて自由なのが歴史的価値である。

今日は昨日と比べれば雲が多いが、陽光は輝かしく、まるで年明け、元旦のような日和である。

十一時世田谷村発。十二時前西早稲田観音寺。十三時告別式。及びくり上げの初七日の儀式。十四時前了。祭壇の花を棺に納める。岡山の親戚はこれで西へ帰る。お疲れさまでした。残りはマイクロバスで西落合の火葬場へ。到着と同時に炉へ入れる。ここでは一日四〇体位を焼くらしい。小1時間別フロアーで待つ。観音寺住職と諸々の話し。骨壺に骨を納め、十五時半観音寺に戻り、散会。娘と二人世田谷村に十六時半戻り、仏壇の前の小机に骨、他を納め、線香を一本。

十七時過、全ての儀式を終える。4日間の精一杯であった。人間誰しも通過しなくてはならぬとは言え、ホトホト疲れた。

東大、伊藤毅先生より、世田谷村に花届く。丁度、母の骨が帰ったばかりのタイミングで、イヤハヤ嬉しかった。

十八時頃、近くの宗柳へ。ひとりで白菜鍋、つくね、小ライス、刺身、そして、せいろそばを喰べる。久し振りに腹十分になる。

今日、初の食事であった。しょうちゅうのソバ湯割をも二杯いただき、今夕を最後のアルコールとするあわい決断をするが、マこれは無理な話しである。わたしは克己心が強くない。しかし、ビールはやめよう、と思う、と宣言したい。長生きしなくては勝負にならないのだ。十九時前世田谷村に戻り、ソファーに横になるつもりが、本格的に眠り込んだ。

二十二時起床。母の部屋には花が溢れている。明日は雨になるようだ。

二十三時二〇分N先生一行三名来村。お線香をあげていただく。

二十三時五〇分御一行去り、これで全て母との別れの儀は終了。ありがたい事である。

十一月二十二日

八時前起床。薄曇りなり。今日は、石山研の模型等が新旧合わせてドイツ、ワイマールへの船出の為に旅立つ予定である。

@水の神殿 2010、北海道、A時間の倉庫 2010、福島猪苗代、B宮古島プロジェクト 2010、2008年、沖縄、Cグアダラハラ計画 2008年 メキシコ Dミャンマ、仏教大学計画 2008年、ミャンマー、Eグランモール計画、横浜、Fチリ、計画 2008年、バルパライソ、Gひろしまハウス、プノンペン、2003年、カンボジア、H世田谷村 2001年、東京、I幻庵 1975年、大海、J開拓者の家 1985年、菅平、K椅子、6点、他、総計25点を出展する。

わたしのアニミズム紀行のバウハウス、ワイマールへの旅立ちである。旅の記録である紀行が、又旅に出る。恐らく三月には東京に戻るであろう。

そのタイミングを見はからい、A3ワークショップを再始動させる。

今日はこれから東大で第四回の合同課題講評会が開催される。若い学生諸君が何を感じているのかを知る良い機会だ。もうそろそろこれは解り得ない感性だなと解るモノが出現しても良い頃ではないか。

完了した計画、進行中のモノ、他整理してみて、今この時期にわたしのエネルギーそのものをチューンアップして排ガスをコントロールすれば、あと十年は走り抜けられるだろうと考えた。何があるか解らぬから一日一日を大事に生きたい。生命なりけり、なんである。

371 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十九日

七時過、十一時と2度に渡り葬儀屋さんと打合わせ。N先生御紹介の葬儀屋で良い人物なのだが、それでもどうしても話しはビジネス・ライクになってしまう。コレコレセットでなんぼだになる。仏教界はこの問題に切り込まねば、何の為の仏教だ。

母の通夜も告別式もわたしが設計した西早稲田の観音寺で行う。父が亡くなった時にはこの寺はまだまだ古い寺のままであった。母の葬祭が、新しい寺の、わたしの身内の儀式としては、わたしにとって初めての経験である。

現代の仏教寺院が葬祭中心の場になって久しい。現在に新しい寺を実現したいとのわたしのの考えも久しい。幾つかの経験を積んできたけれど、そろそろ良い形式を考え得るのではないかと、うぬぼれてはいるのだが・・・。

十一時半宗柳にて朝昼食をひとりで食す。昼より空は雲が多くなってきたが陽光の輝きは弱くなっていない。流石に疲れたのだろう、午後は来客も無く、二階でウトウトとして暮した。頭の中を空っぽにするチャンスだと考えた方が、良いかも知れぬ。

二十一時過、妹の亭主I氏の子息等との宗柳での会食を終える。人間の結び付きは驚異的な程の神秘に満ちている。この神秘こそ歴史を創る原動力なのを、わたしは今は知るが、実に平凡な日常の中にその根はあると言いつつ去る。日々の人間への感受性こそ全てである。チョッとの時間であったが、Iファミリーとの話しは良かった。母のお陰様である。

二十二時、ホトホト疲れて休もうとする。

十一月二十日

六時半起床。お茶をいれたり、でアッという間に七時過である。

生垣のさざん花をいささか切り、室内に飾る。今日は世田谷村から母が旅立つので、赤いさざん花を少し計りと野の花を。

日独交流150周年を記念する、バウハウス・ギャラリーの展覧会への、世田谷村に保管してある諸々の模型群も今日荷出しをする。

ワイマール、バウハウスでのわたしの展覧会のタイトルは「man maid nature」サブタイトルが Samples by opentechnology とする。わたしも次のステップへと旅立つ事にする。良い門出になってくれるのを願いたい。

八時前烏山神社へ参拝。少なからぬ男女が参拝しているのに毎回出会い、驚いている。日本人の中にまだ神仏は生きているのかね。と、自分はさておいていぶかしむ。本当に身勝手な奴だ。神社の小さな林には鳥の声が満ちていて、ネパール・カトマンドゥの朝を想い出す。

十時には研究室スタッフ、前橋の市根井さん等、来村するので、彼等とワイマール展その他を打ち合わせしたい。ワイマール展を、とり敢えずは軸にして全てを動かしてゆくのが自分には触りやすくて良い。先ず今日は Man maid nature 椅子シリーズの展開方法と部屋シリーズへのヴァージョンupについて無駄話しをいささかしてみたい。

何はともあれ、一歩を踏み出す。

370 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十八日

十時松陰神社前、M邸。

十一時発ち、三軒茶屋、渋谷経由副都心線西早稲田駅。十二時人事小委員会。次期稲門建築会長の件、学会長選挙の件、他リアルな討議が続く。

勿論、学内人事の件も。十三時二〇分迄。後の教室会議は欠席させていただき、私用。

私事にかまかけながら、計画を練る。忙中閑あり、一番大事な時間だ。早朝に、今日カンボジア、プノンペン・ウナロム寺院に帰る、鎌倉の小笠原ナーリさんに電話した。
「午後だよな、帰るの」
「さいです」
「うあんまり無理しないで、早くニッポンに帰ってらっしゃい。一緒に釣りでもして余生を過ごそうぜ」
「何をおっしゃいます、その気も全く無いクセに。お言葉だけはいただいておきますがね」
「イヤ、イヤ本当にね。お互いに無理は禁モツですよ。つまらん見栄はらずに、ニッポンに帰ってきたら。マ、実につまらネェ国だけどよ。世界中何処行ったって、つまらなくない処はもうあるまいが」
「兄弟分のGから、ナーリよ、ちんどん屋だけにはなるなよと言われたのが耳に痛えんですがね」
「アノ、バカ、ワールドツアーか?自動車会社から車と金くすねて世界を廻ってのバカ計画。地雷撤去のワールドツアーね、アレは確かにちんどん人形だよな。やらんで良かった」
「アタシもカンボジアとこちらと、行ったり来たりになると思いますがね」
「無理するなもう。バカがカンボジアで勲章もらってぶら下げてるって言うじゃネェか。勲章なんぞブリキだぞ、早く捨てちまいな。どうせはした金で貰ったモノにちがいあるまいがね」
「マア、そうですがね、しかしこのブリキが意外と役に立つんですがね。この前、シエムリアップ(アンコールワット)でフンセン直下のジェネラルに会いましたが、ミャンマでも役に立ちますゼ、あのミャンマのプロジェクト、Gが助けられると思いますがね。そう言ってるような気がしますね」
「先走るな、俺には俺のやり方があるんだから。マア、それは別にして、そろそろデッカイ遊びをしたいもんだなあ。遊ばないとなあ、いずれお互いにくたばるからなあ」

本当に、ソロソロ、デッカイ命がけの遊びをしなくてはならないね。しかも、あれもこれもと言う訳にはもういかない。キチンと絞り込まなくてはならない。

その絞り込みのプロセスをセルフドキュメントにしてみようか。

十七時過、母いよいよ別れ近い。妹、孫達の多くが集る事ができた。

わたしも、身近に居る事ができて、幸いである。

十九時研究室に連絡して、明日、明後日のスケジュールをキャンセルし、調整する。しかし、母はしぶとく戦うから、予定は不確定であろう。それの方がありがたい。

十九時十五分、気のせいか、ゆったりとした呼吸になり、少しは楽そうだ。交代で小休をとる事にした。母は世田谷村に戻る事にした。

大広間でさんさんと陽光を浴びさせてやりたいと思う。

廻りに誰もいなくなった。母の顔を描く。十九時五〇分了。2点描いた。


二〇時二〇分

共有スペースで小休する。母は頑張っている。

スクリ―ンに各種数字と波形が刻々と写し出される。その変化が生命のあかしなのだが、先程描いたスケッチは勿論それとは異なる生命の形が表われている。

母の眼は光り、何を透視しているのか。

描いた線に何者かが乗り移っているのだろう、筆が走った。脱力しつつ走った。しかし、病院という所は奇妙な場所だ。以前、山口勝弘先生が過している介護病院で、老婆達の合唱を聴いたのを夢の如くに思い出す。

二十三時二〇分、母は完全に平安な状態に戻る。凄い生命力である。今日が山ですと言った医者の予告を裏切り始めていて、嬉しい限りだ。疲れて共用スペースで横になる。二日位ここで眠る事になったら良いのに。ぜいたくは言わぬが、今日を乗り超えたら先ずは小さな拍手を。

二十四時、医者の予告を見事に裏切り今日を生きぬいた。見事ですよ母さん。

十一月十九日

〇時四十五分。母息引取る。日を越して、しかもズルズルともがかなかったのが天晴れであった。妹とその息子、わたしの娘そしてわたしの四名がみとった。有難いことである。

二時過母と病院から世田谷村に移送する。車中の母につきそう。

三時母と共に世田谷村に戻る。母を母の部屋に寝かせる。オヤジの仏壇の前でキチンと納まった。葬儀その他の相談を妹夫妻と。

四時前に散会。わたしは三階少し眠る。手足が冷たくて眠れない。病院で裸足で歩いていたからか。二階には母が横になっている。

七時起こされる。葬儀屋との打合わせ。西早稲田観音寺へ連絡。二〇日に十一日の通夜告別式の日取りを決める。親族だけの密葬とする。

雲ひとつ見えぬ快晴である。南の窓を全て開放する。生垣のさざん花を折り、母の枕辺に供する。三階のチベットからのヤング・シャカムニ像にも久し振りに花を供え、線香を供する。良い日和でなによりである。九時半烏山神社に母ゆく、の報告と御礼参り。

369 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十七日

十時研究室、鳥取の木谷氏と会う。上田征治左官の力作、ゲーテ像を受け取る。仲々美事な仕上がりであった。細妙な鏝使いにより、文豪ゲーテの肖像が浮き彫りにされている。日本左官の器用さが良く表現されていて、ドイツの人々も驚くであろう。左官技能の中でも鏝絵は脇道の芸だと思われている。しかし、現今の建築仕上げの状態を考えつめるに、わたしは伊豆の長八を始祖とする左官の鏝絵世界にはギリギリに追いつめられている左官技能が生き残る術がある。と考えての、左官の装飾職人への径を拓こうと考えたのである。

どうなりますか。22日には市根井さん製作の家具に組み入れて、コンテナに積み込みワイマールへ送ることになる。

十時四〇分、院講義「特論」。院生がザワついていて乗れなかった。30分、40分と遅れて講義に出てくる学生の気持がわからない。十二時了。

十四時研究室発、京王稲田堤、現場定例会へ遅れて出る。現場は4階の床まで進んだ。少し工事が遅れ気味なのが気がかりであるが、なんとか現場は頑張ってくれるであろう。十六時三〇分途中で抜ける。私用を経て、二〇時半世田谷村に戻る。

十一月十八日

七時起床。夏の酷暑が夢幻の如くだ。実に寒い。地軸の少しの傾きがこの寒暖の変化を生み出しているのだが、実に地球自体の存在形式はデリケートきわまるのを知る。同様に人間の生命も微細なあらゆる要素の組み合わせで成り立っているのも知りつつある。

白足袋は相変わらずメシをねだる時だけミャーミャーと、まさに猫なで声をあげてすり寄る。メシを与えれば、一目散のどこ吹く風。この猫はまさに白足袋の名の通り手足の先が白い。その特色によって他の兄弟と仕分けされて、拾われた。他の兄弟、ビニール袋につめられて捨てられていた4匹はガス室で焼却された。保健所の。

手足の先が白いだけで彼は生き残った。そして白足袋と名付けられ、今わたしと二人で暮している。家内のリハビリ生活を見舞ったら、室に猫の写真集があった。妙なモノを支えにしたがるな人間らしきは。

九時前発。M邸現場へ。

368 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十六日

十一時研究室、ミラノのマーシャ来室。ゴードン、ニコラス、市根井さんとバウハウスギャラリーに送付するオブジェクトの打合わせ等。非常に面白いモノが出来つつある。

十三時坂井さん来室。常滑・瀬戸取材の件。坂井さん面白い視点を持っておられ、この話には乗って大丈夫だと考えた。十四時過了。研究室を発ち、大久保、中野を経て三鷹。陽和会武蔵野病院、十五時半。

母は生きている。やっぱり、わたしの母である。キチンとしぶといのである。

眠っているのか、夢を見ているのか、母が生きている証しは各種電子測定器のデジタル表示でわかるのだが、前日よりは楽そうであり、ホッとしたり、悲しかったり。

先程、ゴードンが持つカメラに関心を持ち、それライカ?と尋ねたら、イヤ、ソ連製の1960〜1970年頃のモノだと言う。ソ連製のカメラは初めて見たが、非常に良いデザインである。ライカのコピーかと尋ねたら、イヤちがうライカとは対極的なコンセプトから生まれたとゴードンは言う。ライカがプロフェッショナルで高価であるとするならば、このAmoはパーソナルでそれ故安価なものであると答えが返った。ドイツ人はロジカルである。勿論アナログカメラだ。

そんな事を想える程に今日の午後の母は極限の状態ながら、平安である。凄いな人間の生きる力というのは。しかし、母は今、人工的に支えられた生を生きている。機器と薬品と共生しているのである。が、それでも生きているというのは有難い事だ。祖母の小田春代の顔に母の顔は生き写しになっているのも、宇宙のひろがりに似たDNAの精妙さを実感する。母は電子機器と共に生きているし、我々は宇宙とともにある地球に生かされているのであり、今の母と健常であるやも知れぬ我々は原理的には似たようなものなのだ。

十八時宗柳にて今日初めての食事をとる。白飯とソバと白菜鍋と小一品。

一日一食だと言ってイキがったら、それ位の方が大喰いしないからいいかもと言われた。

研究室よりFAX入り、明朝鳥取の木谷氏が上田征治左官製作の「GOETHE」を持参との事である。職人の仕事は速いな。楽しみである。山本伊吾氏より、山本夏彦著『とかくこの世はダメとムダ』送られてくる。今夜はこの本で時を過せるか?

「ばんめし」珠玉のコラムである。何故珠玉か?

夏彦翁の奥様が入院され、翁は自然に独居状態になり、朝食はパンになり、他は外食となった。誰も居ないと知る自宅に電話をして、誰も出ないのを知り、火事を出していないのを知る。わたしの場合今は、その電話が鳴るのを恐れている日々ではある。それは母の安否を知らせるモノだからである。山本翁は言う。しかし我々は書生の時にこうであった。それを繰り返しているのである。荷風山人の如く、大黒屋のかつ丼を喰べて死ぬのであると。これは今のわたしの宗柳の白菜鍋とメシの晩飯の状態と余りにも酷似していて、読んでシーンとしてしまった。人は時に、他人の文章を自分の身に写しながら読み、身につまされるのである。

夏彦翁のコラムでは何度か、この誰も居ない自宅に電話するくだりが出てきたように記憶している。

この「ばんめし」は見事に磨き上げられる寸前の荒けずりではあるが、それ故により一層胸を打つものがあると感銘した。

こういう文章を読めるところが活字本の良いところだな。これは発光するネット媒体で読んでも味はかみしめられぬ。

十一月十七日

七時半起床。九時には発ちたいと考えていたので、洗濯や風呂の時間を考えて七時には起きようとしたのだが、30分遅れた。この夏には、五時くらいに平気で起きていたのを想えば、良く眠れているのか、それとも起きれないのか、よくわからない。大きな時間の渦巻きに巻き込まれているような気がするが、何とか蛇行しつつも乗り切りたい。一直線に乗り切れるものではない事だけは良くわかる。

八時半、洗濯と風呂をすます。人間は衣服を発見してから洗濯という仕事が発生した。沢山色んなものを身に付けるようになったのでその数量も膨大である。

アダムとイブはいちぢくの葉一枚であったので、洗濯は楽だったろう。しかし、あのいちぢくの葉はどうあって洗ったのか?イブが洗うのをなまけていたとしたら、かなりくさいイブであったろう。

イブとは言わずとも、紫式部や清少納言はどうやってあの重そうな服を洗っていたのか。香を焚いたり、は臭いモノ隠しだったのだろうか。

九時発。

367 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十五日

烏山神社を経て、新大久保近江屋で朝昼食。十二時半地下スタジオ。十三時学内講評会。上位10点を全教員で講評。他11点を若手教員、非常勤講師で講評。今年は4点程良い学生作品が得られた。応用問題を解くという早稲田的スタイルの枠にはまらぬ人材を育てたいと考えていたので、少し手応えがあった。東大との合同課題も四年目に入る。

東大建築学科の良いところもイヤという程に知るようになった。

その良いところというのが、学生の良質な部分が本能的に問題提起型思考をしようとしている事で、それを稚拙であると簡単に片付けてはならぬ。むしろ、時代の本質を突く論理性を持つと受け取った方が良ろしい。

ただそれを器用に表現できぬだけなのだ。で、わたくしもそれを痛感したので、前3回、3年の体験を踏まえてその問題に意図的に取り組んでみた。上位4点はその成果である。

十八時過地下スタジオを去る。新宿味王で夕食をとり、ナーリさんと話す。二十二時前了。二十三時半世田谷村に戻る。

366 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十三日

九時半から烏山神社参拝。素人っぽいカメラマンらしきが、参拝者の写真を菊の花を構図に入れて撮ろうとしている。こんな程度の、つまり菊とお参りみたいな人間にとられてたまるかと考え、眼光鋭くにらみつけたら、スグにコソコソと立ち去り、石碑を写したりしている。

気の弱い奴だな。一流にはなれないなコレワ。早朝に元ヤクザの書いた本を読んでいたので、それなりの眼が飛ばせたのだろう。面白かったが、バカをした。

駅に行く途中、極度にO脚の老女が乳母車にすがりながら歩くのに会う。土方巽も顔色無し、純粋幾何学的O脚である。道路の風景がキリコどころのたかが芸術ではなくなる。超高齢社会の現実が凍りついたドキュメントそのものを視た風がある。Oという字がO脚という身体に化けて街を歩いていたのだった。不具の記号ではない、歴然として日本土着の身体形なのだがそれが幾何学的抽象の域に凍結していたのである。

十時井の頭線永福より歩いて十時二十分河北リハビリテーション病院へ。家内の交通事故による手術後のリハビリを見舞う。良い病院のようで安心する。石山という名の医師が担当である。救急病院での手術とリハビリの連結が双方共にうまくいったようだ。烏山神社の神様のお蔭であろう。十一時半、病院前の手打ちラーメン屋で朝食定食とラーメン。八百円で朝昼を兼ねた。病院の周辺は緑が多く、病院からは見事に緑化されたテラスを持つ家が眺められた。

方南町よりバスで新宿西口、新宿三丁目より地下鉄副都心線で西早稲田、地下スタジオへ。十三時より、私自身のWORK。十四時学生の発表に立ち会う。21組60名の作品説明を聞く。東大との4年目、4回目の合同課題である。4年前の第1回と比較すれば早稲田のデザイン、プレゼンテーションの技術は進歩した。しかし思考能力はそれ程に深化する筈もない。進化するのは知識の蓄積だけなのだ。しかし、それが文化の本質だろう。

十九時、ウェールズ・プロジェクトの件でMichael Nixon、Elen Bonner両氏来スタジオ。来年の一月に何人かの友人とともにウェールズを訪問する予定がある事を伝えた。ニクソン氏はピーター・クックの良き知り合いだそうで、それならば様々な関係を深めようとなった。ウェールズ訪問の際は極上モルトを用意してくれと頼む。二十時了。

二十一時スタジオを去る。二十二時前世田谷村着。帰りの京王線車中で若い女性から席をゆずられたのがショックであった。人生二度目の体験である。疲れが姿形に表れていたのだろう。反省。今日は食事は一回だけだった。カゼはまだ抜けない。

十一月十四日

七時半起床。メモを記す。九時過烏山神社に参る。今日は本殿の扉が開けられ、中にうすい青色の座布団がしきつめられている。何かの会があるのだろう。準備中のおじさんに声を掛けて去る。今朝は幾何学的O脚老婆には会えなかった。昨日のアレは夢だったか。

明大前、吉祥寺を経て武蔵野陽和会病院。コンコンと眠ると言いたいが、酸素マスクをかぶり必死に息を続けようとしている母に会いにゆく。一生懸命息を続けようと、体をふるわせているのが辛い。もう、いつ何が起きてもおかしくないと再び言われる。早く楽にさせてやりたいとも思うが、精一杯生きようとしているのに、それは出来ない。意識はもうとうに無いのだが、耳許で母さんと伝えるも、もちろん反応なし。わたしは、気持のうえでは何日か前にお別れをしている。

母に庭の草花を持っていったら、「あの花いいね」と言ったように感じた。あれが別れだった。

でも、しかし、一分一秒でも母らしく戦ってもらいたい。やさしさと強さが同居している人である。

突然、眼を開いて何か言い始める。タンを抜く装置を入れているので言葉にはならぬ。長く居ると母の意識が疲れるのだと考え、去ることにした。わたしが居るより、一分一秒の長命が良い。

眠りつづける母にさざん花の枝を一折り。気持の中で。気持の中では病室中に、さざん花の生垣を作ってやりたいのだが、生木は禁止なんだそうだ。

十二時過ぎ烏山駅、Oくんに電話して昼食を共にする。土佐料理のランチ。Oくんが小笠原ナーリさんの唐津小笠原家と近い天草のOである事を知る。どおりで親父がキリスト教なんだ。天草四郎だからね。そりゃそうなのだ。歴史の道理そのものである。

十四時過世田谷村に戻り、小休。少し休みたい。十八時過迄グッスリ眠る。二十四時再び眠る。

365 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十一日

九時四〇分地下スタジオ、久し振りに学生の設計製図を見る。良くやっている。十時学科会議室卒論発表会。石山研他の発表に立ち会う。幾つか良いモノが会った。昼過ぎの昼食後、少し抜けて再び製図スタジオへ。設計製図を見る。十四時半再び卒論会場へ。十八時頃全研究室の発表修了。各研究室優秀論文決定。石山研は石井、小倉の論文が選ばれる。順当だろう。

十九時地下スタジオへ。渡邊、ゴードン等とバウハウスギャラリー展の打ち合わせを少し計り。その後、目一杯学生の製図を見る。全ての学生作品をチェックして頭に入れる。重労働ではあるが当然の義務でもある。底の方から伸び上がっている学生もあり、それを見るのは楽しい。育っているなの実感がある。二十一時迄。その後、若い先生と新大久保駅前のラーメン屋で夕食。二十三時前了。二十四時前世田谷村に戻る。

十一月十二日

八時、電話が鳴りヒヤリとする。最近は様々な事が続き、電話が鳴るとギクリとする。前橋の市根井さんからのFAXであった。一球一脚、ゲーテの顔入りチェアーのアイデア他が送られてくる。市根井さんは独り身で、それが堂に入っており、まことにうらやましい限りである。時々ハッとするような考えが送られてくるようになった。この仕事なんとか咲かせたい、花を。

鳥取の八頭町、上田征治さんより柿送られてくる。先日、知り合いになった鏝絵職人である。冗談で「柿送ってよ」と言ったら、本当に送ってくれた。今はゲーテの顔に挑戦して下さっているのだろう。誠にかたじけない。

364 世田谷村日記 ある種族へ
十一月十日

十一時世田谷村発。宗柳で朝昼飯、かけそば半天丼の定番としたが、カゼの為味覚が狂っていて上味ではなかった。十三時前京王稲田堤、建築現場定例。熱もあったので、すぐ抜けようと考えていたが、一旦出てしまえば、気になる事もあり、結局十六時四〇分迄。打ち合わせの途中連絡が入り、プノンペンのフーテンのナーリさんが突然来日との事。帰って休もうと思ってはいたのだが、フーテンと糸の切れた凧には適わない。十七時半新宿味王で待ち受けていたナーリさんと会う。もう絶叫したい位の馬鹿話の連続で、熱も沸騰する趣きあり。
「何しに来たの日本へ、嘘つくなよ。本当の事言ってくれ」
「ヘエ、しかし大きな声では言えねえんです、実ワ・・・・・・」と、声をひそめる。
これは流石のわたしにも書けない。いずれ笑い話として書けるであろう。しかし、バカにはバカの一途があるからな。何をするかわからないのである。

又、会おうと、別れた。二〇時過。二十一時前烏山神社に参拝して、世田谷村に戻る。フーテンのナーリさんが日本に来てしまったので、再び波乱の日々になるのだろうが、わたしのカゼは根深そうで、とてもあのバカエネルギーにはたちうちできそうにない。

二十一時十五分、ナーリさんにいただいたトンデモ本を読みながら、眠りにつこうとする。鼻づまり、ノドもガラガラでいささか辛い。

十一月十一日

六時四十五分起床。流石にと言うべきか、当然と覚悟すべきか、カゼの直りがイヤになる程に遅い。恐らく昨日はわたしの眼は熱で充血うるみ眼であった。会った人には迷惑をかけた。

ナーリさんの話を聞きながらも眼はうるんでいたので、彼は自分の話に感動したと勘ちがいしたにちがいない。危いなア。それで突っ走ってしまったらと思うと・・・・・・ですね。と口ごもる。

今日は卒論の発表会である。午前中だけでも出席せねば。1日はこの体調では無理だろう。

歩く速力も遅くなっているので八時四十分烏山神社を参拝して、卒論発表会場へ。

363 世田谷村日記 ある種族へ
十一月九日

昼に今日は休むと決めた途端に前橋の市根井さんが大学で作業中との連絡入る。十三時に烏山まで来ていただく事にした。夕方にはO氏と会う予定ともなり、鼻をズルズルしながらの半休みとなる。

十三時前、下にトラックが着いて、市根井さんとバウハウス大学ギャラリー出展予定の家具、3球4脚、2球2脚、1球1脚等について現物を見ながらの打合わせ。下に降りる階段で、やはり少し計りの疲れを感じたのだが、市根井さんは元気そのもので、エネルギーに押される。しかし、依頼していた幾つかのタイプの二股の木片も持ってきて下さり、その一点一点をチェックして、スケッチした。今晩中にデザインしなければならないな。十四時前終了。宗柳で昼食とする。

宗柳はおばさん達で超満員、世田谷うまいモノ会のオバハン達であるらしい。オバハンも元気で、うらやましい。十五時前修了。世田谷村に戻り、市根井さんと別れる。世田谷村には乗用車よりも2tトラックの方が良く似合うな。

バウハウス大学ギャラリーでの展覧会に、一点二点日本の大工さんと左官職人が協同した家具を出展したいというアイデアが生まれ、あと、1週間そこそこの時間しか無いけれど、何とか努力してみたい。鳥取の木谷氏に相談してみるか。というわけで、十六時鳥取民藝美術館の木谷さんに連絡して、鳥取の左官の協力を依頼することになった。隈研吾先生より連絡あり、なにがしかの事情で東大との合同課題の公開講評会は少しの延期とする事にした。十七時過、烏山お好み焼屋でO氏と会う。

久し振りに会ったOさんしきりに政治の話しに話題を向けようとする。大の大人がこの振舞いは何かあるなと憶測した。どうしたんだOくんと切り込んだら、
「もうどうにもガマン出来ないから選挙に出ようと思う」と珍しく決然として言う。
「衆議院か?」と尋ねた。
「イヤ、俺は馬鹿じゃないから力量は自覚している。地元、世田谷をキチンとして、それで死にたい」と殊勝な事言う。
「区会議員か?」
「そうだ」
「何票とれば勝てるんですか?」
「3500票あればいいだろう」
「微妙だな1500票くらいだったら何とかなるだろうが、3000こえるとな…あと選挙まで時間はどれくらいあるんですか」
「来年の春だ」
「それなら、何とかなるかも知れない。でもOくん、君金無いんだよな」
「全然無いんだ」
「それは、むしろ良い。半端な金持ってる奴より、ズーッと良いかも知れない」
「味方になってくれるか?」
「仕方ないだろう、何かの縁だ応援するよ」
というわけで、変な事になりそうだ。

二〇時了。世田谷村に戻る。白足袋にメシをやる。イヤハヤ何か妙な忙しさに巻き込まれそうだ。しかし、仕方ないのだ。O君は無所属世田谷倶楽部を作って出馬したいと言うが、どうやって倶楽部を作れば良いのか?しかし彼は都会議員にも国会議員にも全く関心がないところが強みである。世田谷村、人間一人、猫一匹応援したい。

十一月十日

八時過起床。依然カゼ気味である。九時前寺町高源院の住職と話し29日、品川宿まちづくり協議会の堀江会長等の訪問を決める。

母意識失くなる。1分1秒でも長生きしてもらいたい。しかし、人間は必ず、確実に死ぬ。1日1日の時間を刻みながら生きているのに気付くのに、いささか遅かったが、気付かぬよりはマシだろう。気付いても、キッチリやり過ぎて体をコワシたりがせきの山だろうし。まことに人間はどうしようも無いところのある生物だ。昨夜は汗をかきながら寝て、しかしカゼは抜けない。

世田谷村の東の隣地に住宅2軒の施工がすすんでいる。セキスイハウスである。わたしの菜園の陽当たりは極端に悪くなるなあ。それに、それが菜園づくりの唯一とも言える醍醐味でもあった、朝の光をあびながら、鍬をふるい、小椅子に腰かけてボーッと時を過す事も出来にくくなってしまう。セキスイハウスの陰で休むのは耐えられない。

362 世田谷村日記 ある種族へ
十一月八日

八時ホテルロビーで木本一之氏、T氏と会い、レストランで朝食。メシだけは三度三度良く食べたな4日間。M氏合流して九時広島市役所へ。広島市民局で会談。十時半了。十一時過広島駅へ木本氏と。駅内のお好み焼屋でビール。腹一杯でもう何も入らないと思っていたら、木本氏も、もう何も入らないと言う。しかし、眼の前に食物が出てきたら、二人共良く喰べてしまった。イヤシイというか、胃袋世代である。木本氏と別れ十二時四十四分の、のぞみで東京へ。ひたすらボーッとしていた。十七時前東京着。中央線車内でバッタリ、軽井沢の施主Oさん夫人に会う。十七時半新宿味王で夕食。頭は動かぬが、胃袋は動いているようだ。十九時過了。二〇時前、気になっていたのでコンビニでネコのえさを買い求め、世田谷村に戻る。

白足袋はもしや4日間メシを喰えず、倒れているのではないかと不安であったが、フラフラしてはいたが大丈夫であった。広島市役所のOBの方から、ネコは一週間水さえあれば死なないと聞いて、少しは安心してはいたが、その言も確かなモノでは勿論ない。一週間メシ抜きで8日目の朝倒れたという話も聞いた事がない。白足袋は最悪4日間メシ抜きであった可能性がないわけではないが、それにしては骨と皮にはなってない。誰かが食を与えたのかも知れない。不明である。

かつて、わたしが一日二食きちんと与え、娘も一日二食与えていた事がある。流石に白足袋はブクブク太り、白豚の様子になってしまい、オカシイ、オカシイといぶかしんだ事もある。猫はもう結構です、腹八分目がよろしいとは言わぬ。与えられたモノは皆とぼけて喰べるからな。わたしも胃は猫状態であったな。タップリ、メシを喰わせ安心して眠る。

十一月九日

九時迄眠った。郵便物に渡邊豊和氏の本『古代日本のフリーメーソン』あり。朝から夢見心地になるのも悪くはないと思ったけれど気力なし、読み通せなかった。キチンと読んで読後感は記したい。しかし、豊和さんは世界でも奇異な怪人建築家になったなあ。わたしは怪人好みだが、そんなわたしでも豊和さんは飛んでいる。年を経てなおますます飛んでいる。自身が光速で飛ぶ飛行体となり宇宙から地球を眺めているようなところがある。しかし、トルコのエトルリア遺跡ナムルート・ダキに関するモノは興味深い。E・H・ローレンスのエトルリアに関する論述とは似ても似つかぬが、豊和さんの想像力の壮絶さには時間の哀しみの如くがある。詩人なのだ彼は。

福岡のTさんより便りあり、「オリンピックの時に言っていたクルーズの時代がやってきています」とあった。オリンピックの時と言うのは福岡オリンピック招致活動の事で、磯崎さんの下で我々は随分勉強させてもらった。Tさんは中国と日本を行き来するデベロッパーとなり、世界の最前線で苦労されている。こういう人物や豊和さんのような詩人だけが、時代の閉塞状況を切開できるのだろう。十二時前、今日は休むと決める。休息が必要な年令である。

361 世田谷村日記 ある種族へ
十一月四日

十二時過京王稲田堤、現場定例会。十四時半途中抜ける。十五時半過ぎ地下スタジオ。十六時、李祖原来。打合わせ。十七時四十五分発、地下鉄で四谷三丁目。十六時半T社A氏I氏と会食。李と別れ、新宿南口味王で二次会、安西氏加わる。二十二時半了。二十三時世田谷村に戻る。

十一月五日

六時起床。荷作り他準備、八時前発、新宿経由羽田空港へ。国際線がオープンしてモノレール車内の光景が変化している。十時過鳥取行便の待合いロビー。十一時発機内で眠る。十二時過鳥取空港着。「全国・鏝絵なまこ壁サミットinとっとり2010」の皆さん迎えて下さる。

マイクロバスで鳥取市街へ。吉田璋也の民藝美術館を見学、童子地蔵堂が面白い。たくみかっぽう店で食事。カレーの余りの見事さにビックリ。美味であった。食事後地元の左官職上田征治さんの仕事を見て廻る。最後に見た八頭町北山山根邸の蔵の鏝絵がアンリ・ルソー等の素朴画家達を思わせ秀逸である。明日の講義の内容を少し変更しようと決めた。午後遅く市内に戻り、吉田医院を見学。良いモノであった。吉田璋也の才覚に驚く。

片山東熊設計橋本平蔵担当の仁風閣を見学。鳥取の地力らしきを感じる。倉吉市のホテルにチェックインし、十八時半長い町屋風料理屋で交流会。もちしゃぶという面白いモノを食した。

二十一時過了。二十一時半過ホテルに戻り、ブッ倒れた。

十一月六日

五時起床。風呂、シャワーをゆっくり。元気を取り戻し、メモを記す。人の名前を覚えられなくなっていて、やはり会う人毎のメモが必要だな。昨夜いただいた生田昭夫さんの『倉吉考』に眼を通す。吉阪隆正が献辞を寄せていて、吉阪さんらしい文章である。

今日も一日、ギッシリのスケジュールのようである。洗濯する。旅に出ると我ながら小マメである。八時前ホテル一階で朝食。九時前部屋に戻り小休。昨夕、依頼した本日の講義のデータ組み変えが出来たとの連絡が木谷氏より入る。我侭をして申し訳なし。九時十分ロビーでデータチェック。少しは良い講義ができるかも知れない。

九時半ホテル発。十時半前琴浦町光鏝絵の里見学。吉田貞一左官他3名昭和の左官の力作群である。昨日の上田征治さんのモノとは異る作風だが、根本は似ている。町役場の方々案内して下さる。左官職の古老の案内がとても良かった。十一時半迄集落を歩く。韓国の河回村をフッと思い起した。再び倉吉へ。十二時半市民ホール。シーザ・ペリ設計と聞く。これはコンペ公害の代表例。丹下健三の倉吉市庁舎も今は見る影も無い。倉吉の山並、風景、まち並みに合致したモノというキツいコードをかけるべきである。建築家はその正統な保守性に対して堂々と戦うべきなのだ。

十三時昼食を終え、控室へ。十三時半平井県知事のあいさつに始まり、シンポジウム開催。40分程の基調講演「職人のワザによるまちづくり」。日本各地の事例報告。松崎町役場の方の報告もあった。なつかしい。

その後、写真家の藤田氏、カリスマ左官らしき挟土氏との鼎談「これからの左官文化」。十七時半修了。十八時ホテルセントラルパレスに於いて交流会。大盛会であった。二〇時前抜け出し、部屋に戻り、休む。

十一月七日

六時起床、メモと荷作り。今日は広島迄汽車で行く。

七時一階で朝食。今朝はパン。駅伝の選手らしきグループと左官衆で一杯である。あわただしい2日間であった。木谷清人氏にはお世話になった。鳥取に良い工芸運動が再興される事を望みたい。

八時広島市役所T氏とロビーで。すぐ前の倉吉駅へ。八時十七分の特急に。スーパーはくと4号。

スピードを落とさずにカーブを曲れるハイテックカーであるとの事。車中談論がはずみアッという間に姫路へ。新幹線のぞみに乗り換え十二時前広島着。TAXIで国際会議場。弁当をいただき、小休。十四時講演会&シンポジウム、「環境に配慮した広島の住まいづくり」。十七時、TAXIでダイワロイネットホテルへ。着替えて、十八時前、交流会会場へ。平岡敬前市長等と再会。

二〇時過了。T、木本一之両氏と焼鳥屋へ。二十一時過了。ホテルに戻りすぐ眠った。のどが痛い。カゼ?

十一月八日

六時半起床。フロ。メモを記す。八時ロビーでT氏等と会う。体の節々が痛い。やはりカゼだ鼻水までズルズルの感じ。しかし、この4日良くもったな。アトもう少し頑張ろう。

360 世田谷村日記 ある種族へ
十一月三日

烏山神社を経て十一時前、早稲田STEP21。ロビーで Mr.李と会う。雑談の後、早稲田リーガロイヤルホテル・ロビーで中川武先生と会う。共に昼食をとり、十三時井深ホール。十三時半、シンポジウム開始。中川武先生主催の「早稲田建築とアジアの未来」。李の存在が際立っていた。十七時修了。大隈会館にて小パーティ。李とわたしはすぐに抜けて去る。STEP21にて話し、別れる。烏山宗柳で独り柳川なべを急ぎくらい、十九時半世田谷村に駈け戻る。

十九時半NHKで金子兜太が出演する番組が始まるのだ。馬場昭道より必らず見てよと言われていた。画家熊谷守一の庭と金子兜太の秩父の庭は一度実見したいと常々思っていた。熊谷守一の庭は今はもうない。池袋に80坪程のしかし鎮守の森の如しであったらしい。熊谷はその庭から一歩も出る事なく満足して暮していたらしい。一歩も出ないというのはお話で二歩位は出たのであろう。しかし庭の一部に天狗の腰かけの名の座り込む場所を作ったりして楽しんでいた。

それと比べればTVで視る金子の秩父の庭は大きく、近くの山並みと一体化していた。金子の、あるいは金子夫妻の人間の器の大きさを感じさせた。熊谷の庭は壺中天であり、金子の庭は天に通じる風の如しだ。この庭の草木の一つ一つを夫妻は育てたと言う。秩父に生きた夫妻の面目躍如たるものがあった。

昭道氏も画面に出てきて、何かしゃべっていた。俗臭が少し消えて仲々良い顔であった。日本の坊主の俗臭はたえられぬモノがあるからなア。名僧になっていただきたい。

しかし、俳人金子兜太91歳の域に達するのは大変だろう。昭道さんは故森繁久彌の一周忌の行事に僧侶として参加している。それを考えるならば、昭道さんは駅前寺院シリーズに登場する僧侶を自ら演じているのである。車寅次郎の帝釈天の御前様は今のところ無理だから、アレに登場するタコ社長が得度した感じになっていただきたい。

十一月四日

六時起床。白足袋のメシのカンヅメを買いに出る。世田谷村はシーンとして寒い。メモを記し、今日の予定他を考える。明日からの小さな旅で講義を2本しなければならぬので、その準備を少し計り。十一時過烏山神社を経て、京王稲田堤現場定例へ

359 世田谷村日記 ある種族へ
十一月二日

洗濯物を干して、出掛ける。冬物のコートの所在が不明で、何となくホームレス風の姿である。十一時再びラーメン屋でホウレン草入りラーメンを食べる。入口ドアのガラス越しにO君がきちんとしたダークスーツを着用して歩くのを発見。「オーイ、O」と大声を上げそうになったが、思い立って止める。何となく、自分の姿に残念なモノを感じたからである。O君は94歳の父君と母君の介護に追われているのだが、一向にその疲れを外には見せない。えらいな。やはり学生時代に剣道部で本格的に鍛えてきた身体の強さが今に出ているのだろう。

十二時半地下スタジオ。明日の国際シンポジウムのコメント用のデータをチェック。学生製図を見る。十六時李祖原来室。ゴードン、ニコラスと話し合い。十七時発、神田岩戸へ。十八時前岩戸にて仏教伝道協会Y氏、馬場昭道氏、李祖原と会談。李には飛び切りの精進料理が用意されていた。日本仏教界と中国仏教界との正式交流の実現に向けて話し合う。

中国側には再び Mr.K が登場してくるようだ。十九時半安西直紀参会。彼が具体的に準備事務局として動くことになる。二〇時半了。神田でY氏、馬場氏と別れる。二十一時過新宿で李と別れ、二十二時前世田谷村に戻る。

十一月三日

七時前起床。すぐに昭道さんに電話するも外出しているとのこと。キチンとした坊さんは朝早くから働くけれど実にそうだなコレワ。日中友好両国仏教界の共同事業の実現に向けて、先ずは準備会の構築を急ぎたい。

八時入浴後、明後日よりの鳥取、広島への準備。

八時半修了。小休。九時前迄昨夜の件について諸々の相談。九時半発烏山神社を経て、早稲田STEP21へ、十一時ロビーで李祖原と会う。

358 世田谷村日記 ある種族へ
十一月一日

八時過迄眠り込む。白足袋もわたしの寝床で丸くなって眠りこけている。十一月はたそがれの国はSFの詩人と名高いレイ・ブラッドベリィのものである。少年の頃、GKチェスタートンのブラウン神父、つまり小柄で丸っこい姿を思わせる神父が推理を巡らせる話しに夢中になったものだ。GKチェスタートンの描く世界は少年の直観ではポーのデュパンの世界とは別世界だとも思ったのを思い起す。イギリスの伝統、そして国の歴史からたぐり寄せられる現実、すなわち、たそがれである。若いアメリカの、明晰な思考法とは異なる匂いがたち込めていたのである。日本も出来ることならば品格良くたそがれてもらいたいな。

グラナダのアルハンブラ宮殿はたそがれの名品である。様式が完成されて腐乱し始める寸前に輝く一瞬の美でもある。

神社参拝後、病院巡り。電動バイクにブッ飛ばされて、複雑骨折手術を経た家内は驚くべき回復力を示し、サークルを使って今日初めて歩いた。やっぱり、神頼みはするものである。他の友人諸氏も大丈夫であるから安心されたし。しかし、白山御岳の神は効能がある実に。

夕方、乃木神社を訪ねる。別にここに頼み事は無いので手は合わせない。この神社の格式は明らかに烏山神社よりも高いように想われるが、軍神乃木大将を祭っているのだから、個人の幸せを祈りたい人々には無関係であろうな。大江新太郎の設計である。しかし、今のわたしには烏山神社の無格式が懐かしいのである。高麗犬なども妙に出来が良くて、生意気である。そんなにおどかしなさんなよと蹴飛ばしてやりたくなるのである。

だいぶん昔に亡くなった木島安史の水無瀬神社は小さくて、日本浪漫派の哀れを想い起させる名品であったけれど、実見はしていない。いつか見てみたい。どのような経路でああいう仕事が来たのだろうか。

十八時前、日本料理屋神谷、清水建設、役員W氏、K氏と会食。古谷先生加わる。3年設計製図第四課題の相談。二十一時了。二十一時四〇分世田谷村に戻る。

十一月二日

今日も八時過まで眠りこける。夕方、李祖原と共に仏教伝道協会の事務局に会う予定が急に入ったため、ひとつ小旅行をキャンセルする羽目になったのだが、仏陀の導きであろう仕方がない。李は仏教徒である。

わたしのような無宗教者とは異なる価値観でモノ事を決めているのだろう。中国の国宝1号が西安、昔の長安にある。仏陀の小指である。日本に多くある舎利とは異なる。ナマの指なのだ。それが中国の国宝1号である事はほとんど日本に知られていない。その国宝1号を収蔵する寺院を李が設計した。200メーターの高さがある彼特有の巨大建築である。ほぼそれが完成した。李は自分の代表作になると言明する。

わたしも近い将来、宗教を問わず珠玉と言われるような新しき寺を設計すると決めている。プノンペンのひろしまハウスはその為のステップでもあった。それで、日本の仏教界の何がしかを、この中国の国宝1号と結びつけようと考えた。日中関係は今、良くない。将来もあやうい。仏教は日中関係のか細いブリッジになり得るであろう。今夕はその準備会である。

10月の世田谷村日記