「午後だよな、帰るの」
「さいです」
「うあんまり無理しないで、早くニッポンに帰ってらっしゃい。一緒に釣りでもして余生を過ごそうぜ」
「何をおっしゃいます、その気も全く無いクセに。お言葉だけはいただいておきますがね」
「イヤ、イヤ本当にね。お互いに無理は禁モツですよ。つまらん見栄はらずに、ニッポンに帰ってきたら。マ、実につまらネェ国だけどよ。世界中何処行ったって、つまらなくない処はもうあるまいが」
「兄弟分のGから、ナーリよ、ちんどん屋だけにはなるなよと言われたのが耳に痛えんですがね」
「アノ、バカ、ワールドツアーか?自動車会社から車と金くすねて世界を廻ってのバカ計画。地雷撤去のワールドツアーね、アレは確かにちんどん人形だよな。やらんで良かった」
「アタシもカンボジアとこちらと、行ったり来たりになると思いますがね」
「無理するなもう。バカがカンボジアで勲章もらってぶら下げてるって言うじゃネェか。勲章なんぞブリキだぞ、早く捨てちまいな。どうせはした金で貰ったモノにちがいあるまいがね」
「マア、そうですがね、しかしこのブリキが意外と役に立つんですがね。この前、シエムリアップ(アンコールワット)でフンセン直下のジェネラルに会いましたが、ミャンマでも役に立ちますゼ、あのミャンマのプロジェクト、Gが助けられると思いますがね。そう言ってるような気がしますね」
「先走るな、俺には俺のやり方があるんだから。マア、それは別にして、そろそろデッカイ遊びをしたいもんだなあ。遊ばないとなあ、いずれお互いにくたばるからなあ」
本当に、ソロソロ、デッカイ命がけの遊びをしなくてはならないね。しかも、あれもこれもと言う訳にはもういかない。キチンと絞り込まなくてはならない。
その絞り込みのプロセスをセルフドキュメントにしてみようか。
十七時過、母いよいよ別れ近い。妹、孫達の多くが集る事ができた。
わたしも、身近に居る事ができて、幸いである。
十九時研究室に連絡して、明日、明後日のスケジュールをキャンセルし、調整する。しかし、母はしぶとく戦うから、予定は不確定であろう。それの方がありがたい。
十九時十五分、気のせいか、ゆったりとした呼吸になり、少しは楽そうだ。交代で小休をとる事にした。母は世田谷村に戻る事にした。
大広間でさんさんと陽光を浴びさせてやりたいと思う。
廻りに誰もいなくなった。母の顔を描く。十九時五〇分了。2点描いた。
二〇時二〇分
共有スペースで小休する。母は頑張っている。
スクリ―ンに各種数字と波形が刻々と写し出される。その変化が生命のあかしなのだが、先程描いたスケッチは勿論それとは異なる生命の形が表われている。
母の眼は光り、何を透視しているのか。
描いた線に何者かが乗り移っているのだろう、筆が走った。脱力しつつ走った。しかし、病院という所は奇妙な場所だ。以前、山口勝弘先生が過している介護病院で、老婆達の合唱を聴いたのを夢の如くに思い出す。
二十三時二〇分、母は完全に平安な状態に戻る。凄い生命力である。今日が山ですと言った医者の予告を裏切り始めていて、嬉しい限りだ。疲れて共用スペースで横になる。二日位ここで眠る事になったら良いのに。ぜいたくは言わぬが、今日を乗り超えたら先ずは小さな拍手を。
二十四時、医者の予告を見事に裏切り今日を生きぬいた。見事ですよ母さん。
〇時四十五分。母息引取る。日を越して、しかもズルズルともがかなかったのが天晴れであった。妹とその息子、わたしの娘そしてわたしの四名がみとった。有難いことである。
二時過母と病院から世田谷村に移送する。車中の母につきそう。
三時母と共に世田谷村に戻る。母を母の部屋に寝かせる。オヤジの仏壇の前でキチンと納まった。葬儀その他の相談を妹夫妻と。
四時前に散会。わたしは三階少し眠る。手足が冷たくて眠れない。病院で裸足で歩いていたからか。二階には母が横になっている。
七時起こされる。葬儀屋との打合わせ。西早稲田観音寺へ連絡。二〇日に十一日の通夜告別式の日取りを決める。親族だけの密葬とする。
雲ひとつ見えぬ快晴である。南の窓を全て開放する。生垣のさざん花を折り、母の枕辺に供する。三階のチベットからのヤング・シャカムニ像にも久し振りに花を供え、線香を供する。良い日和でなによりである。九時半烏山神社に母ゆく、の報告と御礼参り。
十時研究室、鳥取の木谷氏と会う。上田征治左官の力作、ゲーテ像を受け取る。仲々美事な仕上がりであった。細妙な鏝使いにより、文豪ゲーテの肖像が浮き彫りにされている。日本左官の器用さが良く表現されていて、ドイツの人々も驚くであろう。左官技能の中でも鏝絵は脇道の芸だと思われている。しかし、現今の建築仕上げの状態を考えつめるに、わたしは伊豆の長八を始祖とする左官の鏝絵世界にはギリギリに追いつめられている左官技能が生き残る術がある。と考えての、左官の装飾職人への径を拓こうと考えたのである。
どうなりますか。22日には市根井さん製作の家具に組み入れて、コンテナに積み込みワイマールへ送ることになる。
十時四〇分、院講義「特論」。院生がザワついていて乗れなかった。30分、40分と遅れて講義に出てくる学生の気持がわからない。十二時了。
十四時研究室発、京王稲田堤、現場定例会へ遅れて出る。現場は4階の床まで進んだ。少し工事が遅れ気味なのが気がかりであるが、なんとか現場は頑張ってくれるであろう。十六時三〇分途中で抜ける。私用を経て、二〇時半世田谷村に戻る。
七時起床。夏の酷暑が夢幻の如くだ。実に寒い。地軸の少しの傾きがこの寒暖の変化を生み出しているのだが、実に地球自体の存在形式はデリケートきわまるのを知る。同様に人間の生命も微細なあらゆる要素の組み合わせで成り立っているのも知りつつある。
白足袋は相変わらずメシをねだる時だけミャーミャーと、まさに猫なで声をあげてすり寄る。メシを与えれば、一目散のどこ吹く風。この猫はまさに白足袋の名の通り手足の先が白い。その特色によって他の兄弟と仕分けされて、拾われた。他の兄弟、ビニール袋につめられて捨てられていた4匹はガス室で焼却された。保健所の。
手足の先が白いだけで彼は生き残った。そして白足袋と名付けられ、今わたしと二人で暮している。家内のリハビリ生活を見舞ったら、室に猫の写真集があった。妙なモノを支えにしたがるな人間らしきは。
九時前発。M邸現場へ。
十一時研究室、ミラノのマーシャ来室。ゴードン、ニコラス、市根井さんとバウハウスギャラリーに送付するオブジェクトの打合わせ等。非常に面白いモノが出来つつある。
十三時坂井さん来室。常滑・瀬戸取材の件。坂井さん面白い視点を持っておられ、この話には乗って大丈夫だと考えた。十四時過了。研究室を発ち、大久保、中野を経て三鷹。陽和会武蔵野病院、十五時半。
母は生きている。やっぱり、わたしの母である。キチンとしぶといのである。
眠っているのか、夢を見ているのか、母が生きている証しは各種電子測定器のデジタル表示でわかるのだが、前日よりは楽そうであり、ホッとしたり、悲しかったり。
先程、ゴードンが持つカメラに関心を持ち、それライカ?と尋ねたら、イヤ、ソ連製の1960〜1970年頃のモノだと言う。ソ連製のカメラは初めて見たが、非常に良いデザインである。ライカのコピーかと尋ねたら、イヤちがうライカとは対極的なコンセプトから生まれたとゴードンは言う。ライカがプロフェッショナルで高価であるとするならば、このAmoはパーソナルでそれ故安価なものであると答えが返った。ドイツ人はロジカルである。勿論アナログカメラだ。
そんな事を想える程に今日の午後の母は極限の状態ながら、平安である。凄いな人間の生きる力というのは。しかし、母は今、人工的に支えられた生を生きている。機器と薬品と共生しているのである。が、それでも生きているというのは有難い事だ。祖母の小田春代の顔に母の顔は生き写しになっているのも、宇宙のひろがりに似たDNAの精妙さを実感する。母は電子機器と共に生きているし、我々は宇宙とともにある地球に生かされているのであり、今の母と健常であるやも知れぬ我々は原理的には似たようなものなのだ。
十八時宗柳にて今日初めての食事をとる。白飯とソバと白菜鍋と小一品。
一日一食だと言ってイキがったら、それ位の方が大喰いしないからいいかもと言われた。
研究室よりFAX入り、明朝鳥取の木谷氏が上田征治左官製作の「GOETHE」を持参との事である。職人の仕事は速いな。楽しみである。山本伊吾氏より、山本夏彦著『とかくこの世はダメとムダ』送られてくる。今夜はこの本で時を過せるか?
「ばんめし」珠玉のコラムである。何故珠玉か?
夏彦翁の奥様が入院され、翁は自然に独居状態になり、朝食はパンになり、他は外食となった。誰も居ないと知る自宅に電話をして、誰も出ないのを知り、火事を出していないのを知る。わたしの場合今は、その電話が鳴るのを恐れている日々ではある。それは母の安否を知らせるモノだからである。山本翁は言う。しかし我々は書生の時にこうであった。それを繰り返しているのである。荷風山人の如く、大黒屋のかつ丼を喰べて死ぬのであると。これは今のわたしの宗柳の白菜鍋とメシの晩飯の状態と余りにも酷似していて、読んでシーンとしてしまった。人は時に、他人の文章を自分の身に写しながら読み、身につまされるのである。
夏彦翁のコラムでは何度か、この誰も居ない自宅に電話するくだりが出てきたように記憶している。
この「ばんめし」は見事に磨き上げられる寸前の荒けずりではあるが、それ故により一層胸を打つものがあると感銘した。
こういう文章を読めるところが活字本の良いところだな。これは発光するネット媒体で読んでも味はかみしめられぬ。
七時半起床。九時には発ちたいと考えていたので、洗濯や風呂の時間を考えて七時には起きようとしたのだが、30分遅れた。この夏には、五時くらいに平気で起きていたのを想えば、良く眠れているのか、それとも起きれないのか、よくわからない。大きな時間の渦巻きに巻き込まれているような気がするが、何とか蛇行しつつも乗り切りたい。一直線に乗り切れるものではない事だけは良くわかる。
八時半、洗濯と風呂をすます。人間は衣服を発見してから洗濯という仕事が発生した。沢山色んなものを身に付けるようになったのでその数量も膨大である。
アダムとイブはいちぢくの葉一枚であったので、洗濯は楽だったろう。しかし、あのいちぢくの葉はどうあって洗ったのか?イブが洗うのをなまけていたとしたら、かなりくさいイブであったろう。
イブとは言わずとも、紫式部や清少納言はどうやってあの重そうな服を洗っていたのか。香を焚いたり、は臭いモノ隠しだったのだろうか。
九時発。
烏山神社を経て、新大久保近江屋で朝昼食。十二時半地下スタジオ。十三時学内講評会。上位10点を全教員で講評。他11点を若手教員、非常勤講師で講評。今年は4点程良い学生作品が得られた。応用問題を解くという早稲田的スタイルの枠にはまらぬ人材を育てたいと考えていたので、少し手応えがあった。東大との合同課題も四年目に入る。
東大建築学科の良いところもイヤという程に知るようになった。
その良いところというのが、学生の良質な部分が本能的に問題提起型思考をしようとしている事で、それを稚拙であると簡単に片付けてはならぬ。むしろ、時代の本質を突く論理性を持つと受け取った方が良ろしい。
ただそれを器用に表現できぬだけなのだ。で、わたくしもそれを痛感したので、前3回、3年の体験を踏まえてその問題に意図的に取り組んでみた。上位4点はその成果である。
十八時過地下スタジオを去る。新宿味王で夕食をとり、ナーリさんと話す。二十二時前了。二十三時半世田谷村に戻る。
九時半から烏山神社参拝。素人っぽいカメラマンらしきが、参拝者の写真を菊の花を構図に入れて撮ろうとしている。こんな程度の、つまり菊とお参りみたいな人間にとられてたまるかと考え、眼光鋭くにらみつけたら、スグにコソコソと立ち去り、石碑を写したりしている。
気の弱い奴だな。一流にはなれないなコレワ。早朝に元ヤクザの書いた本を読んでいたので、それなりの眼が飛ばせたのだろう。面白かったが、バカをした。
駅に行く途中、極度にO脚の老女が乳母車にすがりながら歩くのに会う。土方巽も顔色無し、純粋幾何学的O脚である。道路の風景がキリコどころのたかが芸術ではなくなる。超高齢社会の現実が凍りついたドキュメントそのものを視た風がある。Oという字がO脚という身体に化けて街を歩いていたのだった。不具の記号ではない、歴然として日本土着の身体形なのだがそれが幾何学的抽象の域に凍結していたのである。
十時井の頭線永福より歩いて十時二十分河北リハビリテーション病院へ。家内の交通事故による手術後のリハビリを見舞う。良い病院のようで安心する。石山という名の医師が担当である。救急病院での手術とリハビリの連結が双方共にうまくいったようだ。烏山神社の神様のお蔭であろう。十一時半、病院前の手打ちラーメン屋で朝食定食とラーメン。八百円で朝昼を兼ねた。病院の周辺は緑が多く、病院からは見事に緑化されたテラスを持つ家が眺められた。
方南町よりバスで新宿西口、新宿三丁目より地下鉄副都心線で西早稲田、地下スタジオへ。十三時より、私自身のWORK。十四時学生の発表に立ち会う。21組60名の作品説明を聞く。東大との4年目、4回目の合同課題である。4年前の第1回と比較すれば早稲田のデザイン、プレゼンテーションの技術は進歩した。しかし思考能力はそれ程に深化する筈もない。進化するのは知識の蓄積だけなのだ。しかし、それが文化の本質だろう。
十九時、ウェールズ・プロジェクトの件でMichael Nixon、Elen Bonner両氏来スタジオ。来年の一月に何人かの友人とともにウェールズを訪問する予定がある事を伝えた。ニクソン氏はピーター・クックの良き知り合いだそうで、それならば様々な関係を深めようとなった。ウェールズ訪問の際は極上モルトを用意してくれと頼む。二十時了。
二十一時スタジオを去る。二十二時前世田谷村着。帰りの京王線車中で若い女性から席をゆずられたのがショックであった。人生二度目の体験である。疲れが姿形に表れていたのだろう。反省。今日は食事は一回だけだった。カゼはまだ抜けない。
七時半起床。メモを記す。九時過烏山神社に参る。今日は本殿の扉が開けられ、中にうすい青色の座布団がしきつめられている。何かの会があるのだろう。準備中のおじさんに声を掛けて去る。今朝は幾何学的O脚老婆には会えなかった。昨日のアレは夢だったか。
明大前、吉祥寺を経て武蔵野陽和会病院。コンコンと眠ると言いたいが、酸素マスクをかぶり必死に息を続けようとしている母に会いにゆく。一生懸命息を続けようと、体をふるわせているのが辛い。もう、いつ何が起きてもおかしくないと再び言われる。早く楽にさせてやりたいとも思うが、精一杯生きようとしているのに、それは出来ない。意識はもうとうに無いのだが、耳許で母さんと伝えるも、もちろん反応なし。わたしは、気持のうえでは何日か前にお別れをしている。
母に庭の草花を持っていったら、「あの花いいね」と言ったように感じた。あれが別れだった。
でも、しかし、一分一秒でも母らしく戦ってもらいたい。やさしさと強さが同居している人である。
突然、眼を開いて何か言い始める。タンを抜く装置を入れているので言葉にはならぬ。長く居ると母の意識が疲れるのだと考え、去ることにした。わたしが居るより、一分一秒の長命が良い。
眠りつづける母にさざん花の枝を一折り。気持の中で。気持の中では病室中に、さざん花の生垣を作ってやりたいのだが、生木は禁止なんだそうだ。
十二時過ぎ烏山駅、Oくんに電話して昼食を共にする。土佐料理のランチ。Oくんが小笠原ナーリさんの唐津小笠原家と近い天草のOである事を知る。どおりで親父がキリスト教なんだ。天草四郎だからね。そりゃそうなのだ。歴史の道理そのものである。
十四時過世田谷村に戻り、小休。少し休みたい。十八時過迄グッスリ眠る。二十四時再び眠る。
九時四〇分地下スタジオ、久し振りに学生の設計製図を見る。良くやっている。十時学科会議室卒論発表会。石山研他の発表に立ち会う。幾つか良いモノが会った。昼過ぎの昼食後、少し抜けて再び製図スタジオへ。設計製図を見る。十四時半再び卒論会場へ。十八時頃全研究室の発表修了。各研究室優秀論文決定。石山研は石井、小倉の論文が選ばれる。順当だろう。
十九時地下スタジオへ。渡邊、ゴードン等とバウハウスギャラリー展の打ち合わせを少し計り。その後、目一杯学生の製図を見る。全ての学生作品をチェックして頭に入れる。重労働ではあるが当然の義務でもある。底の方から伸び上がっている学生もあり、それを見るのは楽しい。育っているなの実感がある。二十一時迄。その後、若い先生と新大久保駅前のラーメン屋で夕食。二十三時前了。二十四時前世田谷村に戻る。
八時、電話が鳴りヒヤリとする。最近は様々な事が続き、電話が鳴るとギクリとする。前橋の市根井さんからのFAXであった。一球一脚、ゲーテの顔入りチェアーのアイデア他が送られてくる。市根井さんは独り身で、それが堂に入っており、まことにうらやましい限りである。時々ハッとするような考えが送られてくるようになった。この仕事なんとか咲かせたい、花を。
鳥取の八頭町、上田征治さんより柿送られてくる。先日、知り合いになった鏝絵職人である。冗談で「柿送ってよ」と言ったら、本当に送ってくれた。今はゲーテの顔に挑戦して下さっているのだろう。誠にかたじけない。
十一時世田谷村発。宗柳で朝昼飯、かけそば半天丼の定番としたが、カゼの為味覚が狂っていて上味ではなかった。十三時前京王稲田堤、建築現場定例。熱もあったので、すぐ抜けようと考えていたが、一旦出てしまえば、気になる事もあり、結局十六時四〇分迄。打ち合わせの途中連絡が入り、プノンペンのフーテンのナーリさんが突然来日との事。帰って休もうと思ってはいたのだが、フーテンと糸の切れた凧には適わない。十七時半新宿味王で待ち受けていたナーリさんと会う。もう絶叫したい位の馬鹿話の連続で、熱も沸騰する趣きあり。
「何しに来たの日本へ、嘘つくなよ。本当の事言ってくれ」
「ヘエ、しかし大きな声では言えねえんです、実ワ・・・・・・」と、声をひそめる。
これは流石のわたしにも書けない。いずれ笑い話として書けるであろう。しかし、バカにはバカの一途があるからな。何をするかわからないのである。
又、会おうと、別れた。二〇時過。二十一時前烏山神社に参拝して、世田谷村に戻る。フーテンのナーリさんが日本に来てしまったので、再び波乱の日々になるのだろうが、わたしのカゼは根深そうで、とてもあのバカエネルギーにはたちうちできそうにない。
二十一時十五分、ナーリさんにいただいたトンデモ本を読みながら、眠りにつこうとする。鼻づまり、ノドもガラガラでいささか辛い。
六時四十五分起床。流石にと言うべきか、当然と覚悟すべきか、カゼの直りがイヤになる程に遅い。恐らく昨日はわたしの眼は熱で充血うるみ眼であった。会った人には迷惑をかけた。
ナーリさんの話を聞きながらも眼はうるんでいたので、彼は自分の話に感動したと勘ちがいしたにちがいない。危いなア。それで突っ走ってしまったらと思うと・・・・・・ですね。と口ごもる。
今日は卒論の発表会である。午前中だけでも出席せねば。1日はこの体調では無理だろう。
歩く速力も遅くなっているので八時四十分烏山神社を参拝して、卒論発表会場へ。
昼に今日は休むと決めた途端に前橋の市根井さんが大学で作業中との連絡入る。十三時に烏山まで来ていただく事にした。夕方にはO氏と会う予定ともなり、鼻をズルズルしながらの半休みとなる。
十三時前、下にトラックが着いて、市根井さんとバウハウス大学ギャラリー出展予定の家具、3球4脚、2球2脚、1球1脚等について現物を見ながらの打合わせ。下に降りる階段で、やはり少し計りの疲れを感じたのだが、市根井さんは元気そのもので、エネルギーに押される。しかし、依頼していた幾つかのタイプの二股の木片も持ってきて下さり、その一点一点をチェックして、スケッチした。今晩中にデザインしなければならないな。十四時前終了。宗柳で昼食とする。
宗柳はおばさん達で超満員、世田谷うまいモノ会のオバハン達であるらしい。オバハンも元気で、うらやましい。十五時前修了。世田谷村に戻り、市根井さんと別れる。世田谷村には乗用車よりも2tトラックの方が良く似合うな。
バウハウス大学ギャラリーでの展覧会に、一点二点日本の大工さんと左官職人が協同した家具を出展したいというアイデアが生まれ、あと、1週間そこそこの時間しか無いけれど、何とか努力してみたい。鳥取の木谷氏に相談してみるか。というわけで、十六時鳥取民藝美術館の木谷さんに連絡して、鳥取の左官の協力を依頼することになった。隈研吾先生より連絡あり、なにがしかの事情で東大との合同課題の公開講評会は少しの延期とする事にした。十七時過、烏山お好み焼屋でO氏と会う。
久し振りに会ったOさんしきりに政治の話しに話題を向けようとする。大の大人がこの振舞いは何かあるなと憶測した。どうしたんだOくんと切り込んだら、
「もうどうにもガマン出来ないから選挙に出ようと思う」と珍しく決然として言う。
「衆議院か?」と尋ねた。
「イヤ、俺は馬鹿じゃないから力量は自覚している。地元、世田谷をキチンとして、それで死にたい」と殊勝な事言う。
「区会議員か?」
「そうだ」
「何票とれば勝てるんですか?」
「3500票あればいいだろう」
「微妙だな1500票くらいだったら何とかなるだろうが、3000こえるとな…あと選挙まで時間はどれくらいあるんですか」
「来年の春だ」
「それなら、何とかなるかも知れない。でもOくん、君金無いんだよな」
「全然無いんだ」
「それは、むしろ良い。半端な金持ってる奴より、ズーッと良いかも知れない」
「味方になってくれるか?」
「仕方ないだろう、何かの縁だ応援するよ」
というわけで、変な事になりそうだ。
二〇時了。世田谷村に戻る。白足袋にメシをやる。イヤハヤ何か妙な忙しさに巻き込まれそうだ。しかし、仕方ないのだ。O君は無所属世田谷倶楽部を作って出馬したいと言うが、どうやって倶楽部を作れば良いのか?しかし彼は都会議員にも国会議員にも全く関心がないところが強みである。世田谷村、人間一人、猫一匹応援したい。
八時過起床。依然カゼ気味である。九時前寺町高源院の住職と話し29日、品川宿まちづくり協議会の堀江会長等の訪問を決める。
母意識失くなる。1分1秒でも長生きしてもらいたい。しかし、人間は必ず、確実に死ぬ。1日1日の時間を刻みながら生きているのに気付くのに、いささか遅かったが、気付かぬよりはマシだろう。気付いても、キッチリやり過ぎて体をコワシたりがせきの山だろうし。まことに人間はどうしようも無いところのある生物だ。昨夜は汗をかきながら寝て、しかしカゼは抜けない。
世田谷村の東の隣地に住宅2軒の施工がすすんでいる。セキスイハウスである。わたしの菜園の陽当たりは極端に悪くなるなあ。それに、それが菜園づくりの唯一とも言える醍醐味でもあった、朝の光をあびながら、鍬をふるい、小椅子に腰かけてボーッと時を過す事も出来にくくなってしまう。セキスイハウスの陰で休むのは耐えられない。
八時ホテルロビーで木本一之氏、T氏と会い、レストランで朝食。メシだけは三度三度良く食べたな4日間。M氏合流して九時広島市役所へ。広島市民局で会談。十時半了。十一時過広島駅へ木本氏と。駅内のお好み焼屋でビール。腹一杯でもう何も入らないと思っていたら、木本氏も、もう何も入らないと言う。しかし、眼の前に食物が出てきたら、二人共良く喰べてしまった。イヤシイというか、胃袋世代である。木本氏と別れ十二時四十四分の、のぞみで東京へ。ひたすらボーッとしていた。十七時前東京着。中央線車内でバッタリ、軽井沢の施主Oさん夫人に会う。十七時半新宿味王で夕食。頭は動かぬが、胃袋は動いているようだ。十九時過了。二〇時前、気になっていたのでコンビニでネコのえさを買い求め、世田谷村に戻る。
白足袋はもしや4日間メシを喰えず、倒れているのではないかと不安であったが、フラフラしてはいたが大丈夫であった。広島市役所のOBの方から、ネコは一週間水さえあれば死なないと聞いて、少しは安心してはいたが、その言も確かなモノでは勿論ない。一週間メシ抜きで8日目の朝倒れたという話も聞いた事がない。白足袋は最悪4日間メシ抜きであった可能性がないわけではないが、それにしては骨と皮にはなってない。誰かが食を与えたのかも知れない。不明である。
かつて、わたしが一日二食きちんと与え、娘も一日二食与えていた事がある。流石に白足袋はブクブク太り、白豚の様子になってしまい、オカシイ、オカシイといぶかしんだ事もある。猫はもう結構です、腹八分目がよろしいとは言わぬ。与えられたモノは皆とぼけて喰べるからな。わたしも胃は猫状態であったな。タップリ、メシを喰わせ安心して眠る。
九時迄眠った。郵便物に渡邊豊和氏の本『古代日本のフリーメーソン』あり。朝から夢見心地になるのも悪くはないと思ったけれど気力なし、読み通せなかった。キチンと読んで読後感は記したい。しかし、豊和さんは世界でも奇異な怪人建築家になったなあ。わたしは怪人好みだが、そんなわたしでも豊和さんは飛んでいる。年を経てなおますます飛んでいる。自身が光速で飛ぶ飛行体となり宇宙から地球を眺めているようなところがある。しかし、トルコのエトルリア遺跡ナムルート・ダキに関するモノは興味深い。E・H・ローレンスのエトルリアに関する論述とは似ても似つかぬが、豊和さんの想像力の壮絶さには時間の哀しみの如くがある。詩人なのだ彼は。
福岡のTさんより便りあり、「オリンピックの時に言っていたクルーズの時代がやってきています」とあった。オリンピックの時と言うのは福岡オリンピック招致活動の事で、磯崎さんの下で我々は随分勉強させてもらった。Tさんは中国と日本を行き来するデベロッパーとなり、世界の最前線で苦労されている。こういう人物や豊和さんのような詩人だけが、時代の閉塞状況を切開できるのだろう。十二時前、今日は休むと決める。休息が必要な年令である。
十二時過京王稲田堤、現場定例会。十四時半途中抜ける。十五時半過ぎ地下スタジオ。十六時、李祖原来。打合わせ。十七時四十五分発、地下鉄で四谷三丁目。十六時半T社A氏I氏と会食。李と別れ、新宿南口味王で二次会、安西氏加わる。二十二時半了。二十三時世田谷村に戻る。
六時起床。荷作り他準備、八時前発、新宿経由羽田空港へ。国際線がオープンしてモノレール車内の光景が変化している。十時過鳥取行便の待合いロビー。十一時発機内で眠る。十二時過鳥取空港着。「全国・鏝絵なまこ壁サミットinとっとり2010」の皆さん迎えて下さる。
マイクロバスで鳥取市街へ。吉田璋也の民藝美術館を見学、童子地蔵堂が面白い。たくみかっぽう店で食事。カレーの余りの見事さにビックリ。美味であった。食事後地元の左官職上田征治さんの仕事を見て廻る。最後に見た八頭町北山山根邸の蔵の鏝絵がアンリ・ルソー等の素朴画家達を思わせ秀逸である。明日の講義の内容を少し変更しようと決めた。午後遅く市内に戻り、吉田医院を見学。良いモノであった。吉田璋也の才覚に驚く。
片山東熊設計橋本平蔵担当の仁風閣を見学。鳥取の地力らしきを感じる。倉吉市のホテルにチェックインし、十八時半長い町屋風料理屋で交流会。もちしゃぶという面白いモノを食した。
二十一時過了。二十一時半過ホテルに戻り、ブッ倒れた。
五時起床。風呂、シャワーをゆっくり。元気を取り戻し、メモを記す。人の名前を覚えられなくなっていて、やはり会う人毎のメモが必要だな。昨夜いただいた生田昭夫さんの『倉吉考』に眼を通す。吉阪隆正が献辞を寄せていて、吉阪さんらしい文章である。
今日も一日、ギッシリのスケジュールのようである。洗濯する。旅に出ると我ながら小マメである。八時前ホテル一階で朝食。九時前部屋に戻り小休。昨夕、依頼した本日の講義のデータ組み変えが出来たとの連絡が木谷氏より入る。我侭をして申し訳なし。九時十分ロビーでデータチェック。少しは良い講義ができるかも知れない。
九時半ホテル発。十時半前琴浦町光鏝絵の里見学。吉田貞一左官他3名昭和の左官の力作群である。昨日の上田征治さんのモノとは異る作風だが、根本は似ている。町役場の方々案内して下さる。左官職の古老の案内がとても良かった。十一時半迄集落を歩く。韓国の河回村をフッと思い起した。再び倉吉へ。十二時半市民ホール。シーザ・ペリ設計と聞く。これはコンペ公害の代表例。丹下健三の倉吉市庁舎も今は見る影も無い。倉吉の山並、風景、まち並みに合致したモノというキツいコードをかけるべきである。建築家はその正統な保守性に対して堂々と戦うべきなのだ。
十三時昼食を終え、控室へ。十三時半平井県知事のあいさつに始まり、シンポジウム開催。40分程の基調講演「職人のワザによるまちづくり」。日本各地の事例報告。松崎町役場の方の報告もあった。なつかしい。
その後、写真家の藤田氏、カリスマ左官らしき挟土氏との鼎談「これからの左官文化」。十七時半修了。十八時ホテルセントラルパレスに於いて交流会。大盛会であった。二〇時前抜け出し、部屋に戻り、休む。
六時起床、メモと荷作り。今日は広島迄汽車で行く。
七時一階で朝食。今朝はパン。駅伝の選手らしきグループと左官衆で一杯である。あわただしい2日間であった。木谷清人氏にはお世話になった。鳥取に良い工芸運動が再興される事を望みたい。
八時広島市役所T氏とロビーで。すぐ前の倉吉駅へ。八時十七分の特急に。スーパーはくと4号。
スピードを落とさずにカーブを曲れるハイテックカーであるとの事。車中談論がはずみアッという間に姫路へ。新幹線のぞみに乗り換え十二時前広島着。TAXIで国際会議場。弁当をいただき、小休。十四時講演会&シンポジウム、「環境に配慮した広島の住まいづくり」。十七時、TAXIでダイワロイネットホテルへ。着替えて、十八時前、交流会会場へ。平岡敬前市長等と再会。
二〇時過了。T、木本一之両氏と焼鳥屋へ。二十一時過了。ホテルに戻りすぐ眠った。のどが痛い。カゼ?
六時半起床。フロ。メモを記す。八時ロビーでT氏等と会う。体の節々が痛い。やはりカゼだ鼻水までズルズルの感じ。しかし、この4日良くもったな。アトもう少し頑張ろう。
烏山神社を経て十一時前、早稲田STEP21。ロビーで Mr.李と会う。雑談の後、早稲田リーガロイヤルホテル・ロビーで中川武先生と会う。共に昼食をとり、十三時井深ホール。十三時半、シンポジウム開始。中川武先生主催の「早稲田建築とアジアの未来」。李の存在が際立っていた。十七時修了。大隈会館にて小パーティ。李とわたしはすぐに抜けて去る。STEP21にて話し、別れる。烏山宗柳で独り柳川なべを急ぎくらい、十九時半世田谷村に駈け戻る。
十九時半NHKで金子兜太が出演する番組が始まるのだ。馬場昭道より必らず見てよと言われていた。画家熊谷守一の庭と金子兜太の秩父の庭は一度実見したいと常々思っていた。熊谷守一の庭は今はもうない。池袋に80坪程のしかし鎮守の森の如しであったらしい。熊谷はその庭から一歩も出る事なく満足して暮していたらしい。一歩も出ないというのはお話で二歩位は出たのであろう。しかし庭の一部に天狗の腰かけの名の座り込む場所を作ったりして楽しんでいた。
それと比べればTVで視る金子の秩父の庭は大きく、近くの山並みと一体化していた。金子の、あるいは金子夫妻の人間の器の大きさを感じさせた。熊谷の庭は壺中天であり、金子の庭は天に通じる風の如しだ。この庭の草木の一つ一つを夫妻は育てたと言う。秩父に生きた夫妻の面目躍如たるものがあった。
昭道氏も画面に出てきて、何かしゃべっていた。俗臭が少し消えて仲々良い顔であった。日本の坊主の俗臭はたえられぬモノがあるからなア。名僧になっていただきたい。
しかし、俳人金子兜太91歳の域に達するのは大変だろう。昭道さんは故森繁久彌の一周忌の行事に僧侶として参加している。それを考えるならば、昭道さんは駅前寺院シリーズに登場する僧侶を自ら演じているのである。車寅次郎の帝釈天の御前様は今のところ無理だから、アレに登場するタコ社長が得度した感じになっていただきたい。
六時起床。白足袋のメシのカンヅメを買いに出る。世田谷村はシーンとして寒い。メモを記し、今日の予定他を考える。明日からの小さな旅で講義を2本しなければならぬので、その準備を少し計り。十一時過烏山神社を経て、京王稲田堤現場定例へ。
洗濯物を干して、出掛ける。冬物のコートの所在が不明で、何となくホームレス風の姿である。十一時再びラーメン屋でホウレン草入りラーメンを食べる。入口ドアのガラス越しにO君がきちんとしたダークスーツを着用して歩くのを発見。「オーイ、O」と大声を上げそうになったが、思い立って止める。何となく、自分の姿に残念なモノを感じたからである。O君は94歳の父君と母君の介護に追われているのだが、一向にその疲れを外には見せない。えらいな。やはり学生時代に剣道部で本格的に鍛えてきた身体の強さが今に出ているのだろう。
十二時半地下スタジオ。明日の国際シンポジウムのコメント用のデータをチェック。学生製図を見る。十六時李祖原来室。ゴードン、ニコラスと話し合い。十七時発、神田岩戸へ。十八時前岩戸にて仏教伝道協会Y氏、馬場昭道氏、李祖原と会談。李には飛び切りの精進料理が用意されていた。日本仏教界と中国仏教界との正式交流の実現に向けて話し合う。
中国側には再び Mr.K が登場してくるようだ。十九時半安西直紀参会。彼が具体的に準備事務局として動くことになる。二〇時半了。神田でY氏、馬場氏と別れる。二十一時過新宿で李と別れ、二十二時前世田谷村に戻る。
七時前起床。すぐに昭道さんに電話するも外出しているとのこと。キチンとした坊さんは朝早くから働くけれど実にそうだなコレワ。日中友好両国仏教界の共同事業の実現に向けて、先ずは準備会の構築を急ぎたい。
八時入浴後、明後日よりの鳥取、広島への準備。
八時半修了。小休。九時前迄昨夜の件について諸々の相談。九時半発烏山神社を経て、早稲田STEP21へ、十一時ロビーで李祖原と会う。
八時過迄眠り込む。白足袋もわたしの寝床で丸くなって眠りこけている。十一月はたそがれの国はSFの詩人と名高いレイ・ブラッドベリィのものである。少年の頃、GKチェスタートンのブラウン神父、つまり小柄で丸っこい姿を思わせる神父が推理を巡らせる話しに夢中になったものだ。GKチェスタートンの描く世界は少年の直観ではポーのデュパンの世界とは別世界だとも思ったのを思い起す。イギリスの伝統、そして国の歴史からたぐり寄せられる現実、すなわち、たそがれである。若いアメリカの、明晰な思考法とは異なる匂いがたち込めていたのである。日本も出来ることならば品格良くたそがれてもらいたいな。
グラナダのアルハンブラ宮殿はたそがれの名品である。様式が完成されて腐乱し始める寸前に輝く一瞬の美でもある。
神社参拝後、病院巡り。電動バイクにブッ飛ばされて、複雑骨折手術を経た家内は驚くべき回復力を示し、サークルを使って今日初めて歩いた。やっぱり、神頼みはするものである。他の友人諸氏も大丈夫であるから安心されたし。しかし、白山御岳の神は効能がある実に。
夕方、乃木神社を訪ねる。別にここに頼み事は無いので手は合わせない。この神社の格式は明らかに烏山神社よりも高いように想われるが、軍神乃木大将を祭っているのだから、個人の幸せを祈りたい人々には無関係であろうな。大江新太郎の設計である。しかし、今のわたしには烏山神社の無格式が懐かしいのである。高麗犬なども妙に出来が良くて、生意気である。そんなにおどかしなさんなよと蹴飛ばしてやりたくなるのである。
だいぶん昔に亡くなった木島安史の水無瀬神社は小さくて、日本浪漫派の哀れを想い起させる名品であったけれど、実見はしていない。いつか見てみたい。どのような経路でああいう仕事が来たのだろうか。
十八時前、日本料理屋神谷、清水建設、役員W氏、K氏と会食。古谷先生加わる。3年設計製図第四課題の相談。二十一時了。二十一時四〇分世田谷村に戻る。
今日も八時過まで眠りこける。夕方、李祖原と共に仏教伝道協会の事務局に会う予定が急に入ったため、ひとつ小旅行をキャンセルする羽目になったのだが、仏陀の導きであろう仕方がない。李は仏教徒である。
わたしのような無宗教者とは異なる価値観でモノ事を決めているのだろう。中国の国宝1号が西安、昔の長安にある。仏陀の小指である。日本に多くある舎利とは異なる。ナマの指なのだ。それが中国の国宝1号である事はほとんど日本に知られていない。その国宝1号を収蔵する寺院を李が設計した。200メーターの高さがある彼特有の巨大建築である。ほぼそれが完成した。李は自分の代表作になると言明する。
わたしも近い将来、宗教を問わず珠玉と言われるような新しき寺を設計すると決めている。プノンペンのひろしまハウスはその為のステップでもあった。それで、日本の仏教界の何がしかを、この中国の国宝1号と結びつけようと考えた。日中関係は今、良くない。将来もあやうい。仏教は日中関係のか細いブリッジになり得るであろう。今夕はその準備会である。