2月の世田谷村日記
425 世田谷村日記 ある種族へ
一月三十一日

一日身体を休めた。ようやく正常以上に眠れるようになった。

二月一日

9時前離床、10時絶版書房通信書きおえる。11時世田谷村発。昨日後半の事は、アニミズム周辺紀行ならぬ絶版書房通信にるる書き述べた。雑文である事は自覚しているが一日の時間には限りがある。空を眺めたり、風のそよぎに触れたりの時間も欲しいのである。世田谷村日記は最近少し長くなった。費やしている時間も、長くなり、必然的に何時書くかもかなり定型のリズムが生まれてきている。我ながら雑文を書く速力が速くなってしまっているのも事実で、長目のをしばらく続けてみようとは考えている。ワイマールの旅もいささか長かったので、これは後にワイマール紀行として独立させ、一部手を入れてストックする予定である。

424 世田谷村日記 ある種族へ
一月三〇日 日曜日

9時迄眠り込む。今年はダメかと想っていたが庭の梅の樹が花を咲かせた。少し寂しい咲き方であるがそれでも美しい。ドイツに比べれば日本の天候はまことにゆるく、これではゲーテは出現しまいが、芭蕉みたいなのがやっぱり出るのである。井筒俊彦さんみたいな人物がより輩出すべきだろうな。芭蕉は芭蕉で、あれで仕方ないのである。天気は良いし、肉もソーセージも喰べていないんだから。

命二つの 中に生たる 桜かな

芭蕉の句である。20年振りに再会した年下の友人との邂逅を詠んだ。中に生たるは、いきたると読む。しかもその友は芭蕉との再会後、伊賀上野に戻り侍を捨てて俳句の道へ、つまり芭蕉の径を歩き出した。ゲーテとシラーも凄いけど日本も仲々ですよコレワ。

フットボールはナショナリズムをかきたてるな。

11時半世田谷村発。13時建築学科地下スタジオで3年生第四課題公開講評会。建築学科計画系全教員、清水建設より5名、昨年見て頂いた竹中工務店の先生方も多くみえて良い雰囲気になった。

バウハウス大学シュツットガルト芸術アカデミーの両建築学科では学生の作品レベルをしっかり見て来た。教師、学生共に仕事空間他は圧倒的にバウハウスが良い。ヴァンデヴェルデ設計のオリジナルを大切に使い、インターナショナルスタイルのガラスの箱を新設して、そのコンビネーション、及びスケールがヒューマンで良い。何が早稲田の建築学科と違うと言えばバウハウスの歴史がキチンと大きな廊下や各所にディスプレイされ、日常的に学生はスクールの歴史に触れる事ができる。グロピウスデザインの部屋でグロピウスデザインの椅子に座り教師と相談する事もできる。

シュツットガルト芸術アカデミーのキャンパス空間は市が手掛けたらしく香気に欠けるが、早稲田よりはるかに良い。何しろ人数が少くヒューマンスケールなのが良い。早稲田建築は将来何とかして現キャンパス近くに小キャンパスを独立して作らねば、国際基準からはるかに立ち遅れるだろう。シュツットガルトでは学生は隣りのヴァイセンホーフ・ジードルンクを毎日体験できる。ミース、コルビュジェ、シャローン、オルタ、ベーレンス他の実物を教材として学習できる。

学生達の作品はバウハウスの1年生のモノが廊下に展示されていたが、原理的に皆同じであり、基本的な造形のセオリーの枠が教えられているのが解る。シュツットガルトはバウハウスより少人数、東大と同じ一学年60名。学生は早稲田より自由にやっている。学生は日本人同様にシャイだ。

以前から早稲田建築の3年生の製図は世界的に見ても独特なモノがあると考えていた。3年製図のプログラムをエディションした方が良い。キチンと世に問う事をした方が良い。英文も混じえた方が良い。講評会は18時終了。その後懇親会。その後、清水建設の先生方、古谷先生と二次会。21時頃了。京王線で眠ってしまい、終点近くまで行ってしまい、戻り、世田谷村には23時前になってしまった。マア今日は仕方ないだろう。

一月三十一日

11時離床。よく眠った。昨日松崎町の森さん、ハンマ、トシちゃんが三人で世田谷村を訪ねてくれたようだ。ドイツ帰りを知っていたのだろう。友あり遠方より来るも会えず、春になったら松崎町へ行こう。松崎町でのわたしの仕事は今、ワイマールのバウハウス大学ルーフライト・ギャラリーで展示されている。大人になってからのわたしの故郷は伊豆西海岸松崎町だからなあ。

423 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十八日

4時に目覚めて、メモを記す。6時迄かかる。荷作りは昨夜のうちに終えているので、他には何もすることが無い。このホテルはベッドルームにバス、及び洗面が囲われる事なしにムキ出しに開放されていて、妙なんだけれど一人で泊る分にはこれで全然かまわないのである。しかし、便所だけはやはり小部屋になってるのはどうしてなんだろうか。アッそうなのか、一人で泊まるとは限らぬだろうからだな。二人で泊ったら、やはりクソくらいは一人でしたいのであろう。納得のプランだなコレワ。というわけで、これからバスルームならぬバスアルコーブを使うのである。

アニミズム紀行5に描いたキルティプールの丘の、わたしの終の棲家のプランも、これに近い平面を持つけれど、もう少し骨格がしっかりしていて、本格的な建築になっているけど、ここは建築になっていない。しかしキルティプールの家の平面図はアニミズム紀行の8号くらいには発表したいものだ。

しかし、昨夜のギョーザスープは美味極まったな。ほとんど鬼気せまると言うか、春風駘蕩と言い直すか、思い出しても口の中に唾液がジワリである。

8時半過食事を終えて部屋に戻りひと休み。あんまり眠れなかったのに良くこれ迄もちこたえたのは朝食をきちんとたっぷり喰べ続けたからだろう。朝食が命の素であるな。通りに出て、このホテルがどんなホテルなのかを観察する。仰天した。バットマンの城みたいなのを両翼につけて、真中が三本のイミテーションタワーがM型トライアングル、つまり鋭角のマクドナルドマークのような、何とも言えぬ、城塞ファンタジースタイルであった。どうりで朝食に降りたら、働き盛りの農協風オヤジジェントルメン及び青年がスーツの胸に例のクラブ紋章をつけてガヤガヤいたんだな。ダイハードのブルース・ウィリス、あるいは建築家のノーマン・フォスターみたいなオヤジがゴロゴロしておった。土の臭いがして仲々いいと思った。でも凄いところに泊めたなカイ・ベックは。若いのも皆体育会の匂いがした。この連中はJC、青年会議所のグループかも知れぬ。団体を好み、くったくが無く、健康そうなところもいかにもそれらしいと決めこむ。ドイツの人間も日本の人間も団体を好むところは同じである。

9時15分カイ・ベックホテルに来る。この連中は何者かと尋ねたら、何かインシュランス関係の連中じゃないかとの事。イヤ、これはドイツ青年会議所シュツットガルト支部だろう。11時フランクフルト空港着、搭乗手続きをして、ボディチェック、荷物検査をかいくぐり、11時半出発ロビーで待つ。カイは石山展のシュツットガルトへの巡回アレンジをするとの事。13時前ベルリンからの野田さん達と再会する。帰り便も例のアパート2階建のエアバスモンスターであった。北京、東京へ毎日飛んでいるようだ。

只今日本時間1月28日夜10時40分。バルト海上空を飛んでいる。フィンランドのプロジェクトも今のところ急展開する見通しも薄く、好きな国なのに縁が無かったかな。フィスカースのサイレンス・パビリオン計画は実現させたいが日本仏教界の力が不可欠ではある。工業デザインと仏教を結びつけるというアイデアは出色だと自分でも考えているし、GKの栄久庵憲司氏との縁もあったが、どうも弾みがつかぬままに時が流れている。日本の国力も落ちているし、どうやらこのプロジェクトも中国仏教界の力を借りねば不可能なのかも知れない。西安プロジェクトがキイになるやもと考えた。バウハウス大学と組んで中国大陸に本格的に入り込むのはリアリティがあるな。

一月二十九日

6時半目覚める。旅の終りに初めてグッスリ眠る事ができた。これで疲れが解消できると良いのだけれど。

今度の旅は随分大きな収穫があった。ツィンマーマン学長の力もあり日独友好150周年のウェーブに乗る事ができた。わたしの展覧会もこの一年ドイツ各地を巡回するだろう。2008年の世田谷美術館での展覧会に注いだエネルギーがようやく実を結び始めたと言えるだろう。成程展覧会というモノはこのような力を持ち得るのかと実感した。ツィンマーマン学長との旧交を暖める事もできた。彼はわたしには無いポリティカルセンスの持主だから共に中国に対する戦略を立てる事ができる。その相談とプログラムも了承をとり付けた。大きな網だが大魚を得るには必須だろう。ワイマール文化の中核であるアニミズムを感得できた。アニミズム紀行の射程がのびたのである。ゲーテの今に通じる巨大さ、私的全体性とはこの事を言うのだとわたしなりに腑に落ちた。バウハウスの隣りの墓の森に眠るグロピウスのアニミズム表現モニュメントを見た。共にXゼミナールで話題にしたい。やったぜとピクピク動めく自分の鼻が視えるようだ。シュツットガルトでヴァイセンホフ・ジードルンクを視て感動した。全く、困ったもんだと思う位にわたしは建築マニアなんだと自覚し得た。オルタのが一番シャローンが次。コルビュジェ、まあまあ。ミース鈍重、ベーレンスの細部はライトだ。その逆かな。グロピウスは脱落。これもXゼミナールでやりたい。

何より良かったのはシュツットガルトのギョーザスープ。ドイツ文化を見直した。ドイツにも新大久保近江屋はあるのだ。

7時半前、日本海上空。あと1時間程でNRTに着く。何処かでソバを喰べたい。かけソバに半天丼の組合わせで、シュツットガルトのギョーザスープに対抗したい。あのスープはうまかった。ツクヅクスープであった。ホトホトスープでも、ナルホドのカルチャースープでもあった。カイ・ベックに感謝したい。

8時半NRT着。11時半烏山長崎屋。タンメン、ギョーザ、続いて宗柳でかけそばと半天丼を食し、堪能する。15時世田谷村に戻る。眠る。24時半目覚めて、フットボール日本オーストラリア戦をTV観戦。仲々の熱戦で、長友選手は良く献身的に走り廻り日本は1対0で勝利。ゲーテが今に生きていたら恐らくサッカーにも熱中して新しい戦術作りに没頭しているに違いない。02時再眠する。

422 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十七日

八時朝食。ワイマールは雪景色である。九時四十五分カイ・ベック、ホテルロビーに来る。野田氏等とはここで一端お別れ。十時バウハウス大学学長室へ。ツィンマーマン教授政府要人との会議延びていて、三〇分程、わたしの展覧会場で待つ。朝の光が入り展示は美しかった。十時半ツィンマーマン学長と会談。中国の件他。そろそろ年だから大がかりなアイデアを実行する。十二時迄。

ツィンマーマンさんとはいつも良い話ができる。十年以上の信頼関係を築いてきたから。十二時過カイ・ベック近くの小教会に案内してくれる。外部は小振りでとても良い。バウハウス創設時のメンバーがインスパイアーされ、マニュフェスト・ドローイングを残している。それが展示されていて、とても良い。ワイマールバウハウスの再評価を歴史家はするべきだろう。ワイマール盆地が一望の許であった。この盆地がワイマール共和国、その文化を育てた。

バウハウス大学のゲストハウスでカイ・ベックの八ヶ月のベビーと奥さんをピックアップしてシュツットガルトへ向う。三時間半のロングドライブである。途中色んな話をカイと続ける。この青年の才質をわたしは見抜いていたけれど、見誤ってはいなかった。実に誠実で、しかも内に情熱を秘めていて、デリケイトである。三百KM以上ほとんどの行程が雪景色であったが会話に明け暮れた。再び沢山の風車発電を見る。日本は海岸線が長いし、周囲の海も浮ブイを使って風力発電を充足するべきである。

十六時、ポルシェの工場を通り抜けてシュツットガルトに到着。ポルシェ・ミュージアムを見る。大仰な身振りのデザインで良くない。ポルシェらしく無いね。ARCOTELにチェックイン。二時間弱眠る。この眠りで助かった。やはり疲労はしてるのは仕方ない。

十八時カイにピックアップされてシュツットガルトユニヴァーシティへ。雪が本格的に降り出した。ワイゼンホフのジードルング会場が大学の隣りで、それを見学。感動した。ミースファンデルローエ、ル・コルビュジェ、オルタ、ハンス・シャローン、ベーレンス他の1925年代の名作住宅が見事に生き延びている。たそがれの雪の中で背筋が凍りつくような緊張感に襲われる。全て、実にフレッシュで建築が生きている。特にオルタの建築は素晴らしい、ハンス・シャローンの住宅はベルリンフィルの強烈さは無いが、実に小粋でこれも良い。建築の初期近代建築にシャローン流の衣が着せかけられて、実に生命力を表現している。いずれXゼミナールでとり上げたい。

ル・コルビュジェとミースは何時でも何処でもコルビュジェであり、ミースである。ここの場所はとてもデリケートな地形であって、その細妙さを生かすというよりは、やはりそれぞれのスタイルを表現している。それ故に巨匠と呼ばれるのだろうけれど。対象的なのがオルタとシャローンで彼等の作品は場所の持つ微妙な精気を良く生かしている。オルタのデザイン力は凄いな。傾斜地の、この丘の力を見事に表現している。ハンス・シャローンがこんなにイキであったとは。スケッチしたかったが残念ながらホテルにスケッチブックを置いてきた。

再びここを訪れる事は比較的容易であろうが、雪の、この瞬間、淡いたそがれの中で見る事は二度とあるまい。やはりと言うべきだろうが建築の持つ力、そして住宅の持つ力は圧倒的である。どの家にも灯りともされていて、そこで人間が生きている、それが凄い。これ等が八十年以上昔のものであるとは!我々は何をしているのか。降りしきる雪の中で凍りつくような感動があった。昔、イェール大学でルイス・カーンのブリティッシュアートミュージアムを体験して棒で頭を殴られたように、たたきのめされ、チョッと勉強し直した。今夕は雪の中でボコンボコンに凍りつかされている。いいさ、又勉強すれば。建築やってて良かったなあ。

十九時シュツットガルト大学で講義。一時間半のコンパクトなモノである。学生の反応は解らない。昨日のバウハウス大学の聴衆の年令層よりも若いので、仕方あるまい。わたしだって学生時代は何も解らなかったからな。十年経って思い出してくれる奴がいれば良い。カイ・ベックは今年の秋にここにわたしの展覧会を巡回させようとしていて、その会場も見学した。いくつかのドイツ文化圏を巡回するといいと思う。

今度の旅の全てを終え、いささかグッタリしてカイ・ベックとシュツットガルトの町へ降りる。途中ジェイムス・スターリングの美術館を通り過ぎた。ワイゼンホフの建築群と比較すると、少しばかり残念なモノがあるなあ。J.スターリングはもう少し生き延びるべきであった。早死した分をノーマン・フォスターが引き継いだんだろうが、フォスターだってセンズベリー以降は正直あんまり感心しない。いいモノ作らなくてはやはり駄目だ。

シュツットガルトの古い町並み、と言っても近代のものだが、その一角のレストラン、Weinstube Frohlich,に入る。ここのギョーザがうまいんだとカイが言う。周囲は怪しいBarやクラブが多く、飾り窓の町、女性らしきも姿を見かけ、ホントカヨの感じであったが‥。この店のギョーザスープは絶叫する位にうまかった。ギョーザと言っても中華風のギョーザではなくって、むしろベトナム風春巻きがすき通ったスープの中に浮いている感じであった。わたしが、ドイツで喰べた諸々の歴史では断突にすぐれモノであった。

磯崎新がワイマールを訪ねた時、エレファント・ホテルでアイスバーンをオーダーした、ベリースペシャルなオーダーだったけれど、何を考えたんでしょうとカイが聞くから、磯崎さんは多分、ゲーテかシラーを読んで、それでそいつを知ったんだろうと言ってやった。彼は食を舌で味わうのではなくって頭で喰べるんだ、しかし、そのアイスバーンよりはこのギョーザスープの方が数段うまいに違いないと、わたしは断言した。

続いてカツレツとポテトサラダの大皿。わらじみたいなカツレツであったが、肉は薄く、これも美味であった。わたしは常々、ドイツからの友人達に、いい国なんだけれど、喰いモノがねえ。ハニービールとソーセージではなあ、ドイツに食文化はあるのかねと、不満を洩らし続けてきたが、このギョーザスープ&カツ丼ならぬカツレツ、ポテトは凄かった。わたしはカイに、ドイツに文化はあったな、と重々しく宣言し、かつこれ迄の暴言の数々をわびたのである。シュツットビアもよい。日本で言えば新大久保の近江屋か、鳥山宗柳の味である。ドイツはゲーテもニーチェも偉大であるが、ギョーザスープも偉大である。たらふく喰ベて、それで二人で60ユーロというのも素晴しい。ベリー、パラダイスである。二十四時ホテルに戻り、すぐ倒れて眠った。雪が降り続いている。明日フライトは大丈夫なのかな。

421 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十六日 

七時朝食。今朝もたっぷりといただく。石山展オープニング、スピーチ他の準備をしてから、九時過ゲーテミュージアム。ゲーテが住居としていた館をそのまま博物館にしたものである。沢山の部屋を巡るようになっている。後で日本大使館の方から聞いたのだが、ワイマールの図書館にはゲーテが二千冊の本を借り出した記録が残っているそうだが、ゲーテの館の圧巻はやはり彼のスタディルームと書庫であろう。書斎近くにはゲーテがコレクションした珍稀な鉱石群も残っている。

スタディルームは実に機能的で、ゲーテが合理主義者でもあった事を示している。しかし他の数々の部屋はゲーテがイタリア等からコレクトしたウームと考え込まざるを得ないようなモノ、絵画で溢れ返っている。中には明らかに中国のモノであったり、エジプトのモノであったりが混じっていて、ゲーテのエネルギッシュな収集癖を物語っている。ゲーテは何もかも自分でデザインしたようで、鉄製の大きな暖炉はいかにもワイマール風な装飾が施されていた。グランドフロアーにはゲーテハウスに関する小映像パビリオンもある。ゲーテの使用した馬車も、馬小屋ならぬ馬部屋と共にある。館の中を馬車が通り抜けられるように設計されていてゲーテの考えの機能性をつくづくと思い知らされる。

しかし、圧巻は隣接のゲーテテーマパークとも言うべきで、ゲーテが関心を示した世界が精密にその発明らしきと共に数階にわたり展示されている部分である。ゲーテは人間の眼の、つまり眼球のメカニズムに異常な関心を寄せていたようで、恐らく眼球の解剖学的分析を、レオナルド・ダ・ビンチの如くに行っていたようで眼球の模型も、考えた眼鏡や、顕微鏡もあった。ゲーテの色彩に関する研究は良く知られているが、その研究の徹底振りは凄まじく、まさに彼のまごうかたなき天才振り、万能の天才振りが示されている。何しろ異常な好奇心の固まりである。本当にわたしは凡才であり、しかもそれで良かったなとつくづく感心してしまう。これは、ゲーテは眠るヒマも無かったであろう。あるいは何故、眠らねばならぬのかのメカニズムも考えたに違いない。それ等が統合されてゲーテの錬金術への関心にもなったのであろう。知の統合体への強い意志を感じた。

ゲーテは親友であったシラーの頭蓋骨さえ身近に所有していたようで、シラーの知への関心がそこ迄ゲーテを駆り立てさせたのであろう。そんな異常な才を持ちながら宰相としてワイマール共和国の切り盛りを政治家としてもやってのけたのだから、現実家でもあった。実行家でもあった。実にゲーテ自身が錬金術士的現実家のコスモロジーの体現者であったのだ。絵も描いたが、これはレオナルド・ダ・ビンチには敵わなかったが、絵画の研究は後の数々の画家の画集に影響を与えたようだ。ターナーやドイツの青騎士の連中にも力を及ぼしたと言うから、凄い。モンスターである。ホトホトゲーテと呼びたい。こういう人物は当然女性にも異常な関心を、コレクターの如くに持つのが自然であり、英雄天才色を好むとは良く言ったものである。

十一時バウハウス大学の学食でグッタリと休みコーヒー。ゲーテ疲れである。十二時、展覧会場の最終チェック。カイ・ベック他の頑張りでパーフェクトに仕上がった。

再びバウハウス大学の食堂に戻り、昼食。十四時半、バウハウス大学ツィンマーマン学長と再会。互いの健在を喜ぶ。ワイマールTV局の取材にツィンマーマンと共に応じる。十五時半了。

皆と、カイの手掛けたオリジナルバウハウスのランチルームで休む。三〇坪弱の小さなガラス屋根の小屋である。創立当時のバウハウスは学生二〇名教師十名で皆、ここで昼食を共にしたと言う。小さな共同体であったのをつくづくと知る。昨日見たグロピウスのイッテン風モニュメントに関する小冊子があったので購入する。

ホテルに戻り、三〇分程休み助かった。十七時半再び展覧会場のギャラリーへ。人が三々五々集まり始める。

十八時ツィンマーマン学長のスピーチでオープニングレセプション始る。ツィンマーマン学長のスピーチはとても丁寧で、親愛の情に溢れていた。佐賀でのワークショップ以来の附合いである。次にわたしのスピーチ。スタッフが用意してくれたモノをキチンとやった。続けて、わたしの今回の展覧会での作品発表に関してのレクチャーを一時間弱。良い反応があったと感じる。ホッとした。何年も前からツィンマーマンにやれと言われていたのでようやく義務を果せた。終了後、シャンペーンパーティ。ロンドンからも観にきてくれた人もいて、良かった。二〇時前、ツィンマーマン他バウハウス大学の先生方、他とエレファントホテルへ移動。エレファントホテル地下のレストランで食事。このレストランはアンダルシアのメスキータ内部のコピーで仰天した。総勢二〇名程の会食であった。日本人大使館の文化担当者と話す。ベルリンでの講演の話し他であった。

二十二時了。コリントホテルまで雪の降る中をツィンマーマン学長と色々と話しながら戻った。明日、十時に再び会う約束をして別れる。良い一日であった。

一月二十七日

再び三時に目覚めてしまう。思い切って起き、昨日のメモを記す。四時過までかかった。ワイマールに着いて4日、5日めを迎えるが、まだ時差に苦しむ。体力が落ちているのだろう。昨日はわたしのヨーロッパでの単独での初めての展覧会が無事オープンして良かった。大方の反応も良いと思われ、肩の荷を下ろしている。アト、一日であるので何とか乗り切りたい。四時半前、再び横になる。眠れると良いのだけれど。

420 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十五日 

七時朝食、ホテルのレストランでたっぷりいただく。大変おいしかった。八時カイ・ベックとロビーで会い、バウハウス大学へ。5F大ギャラリーで少しばかりの仕事。その後隣りの広大な歴史記念エリアを見学。墓地である。カイに言はせればワイマールで最も興味深い場所であると。沢山の墓の中心の一つはゲーテとシラーが眠る教会、その小建築はロシア正教スタイルとドイツキリスト教会堂が併在している。金色のロシアン玉ねぎ型のトップを持つ小塔群との併存には驚いた。こういうところで眠るのはゲーテ好みなのかな。さらに、なだらかな斜面を登ると、焼場を持つ小教会、そしてワルター・グロピウスデザインのモニュメントが、一番高いところに秘かに鎮座している。この記念物の造形には仰天した。何処にも後に言うバウハウススタイルは無い。この記念碑は暗殺された大公の事跡を記念して建立されたものと聞く。大地のエナジーを象徴的に表現したまさにドラゴンの生命力を表現している。森の、墓地の中に生息するドラゴンで、しかも平面的には内に空というか、俗には小広場のようなスペースを囲い込んでいる。抱き込んでいると訳した方が適確であろう。今に類似を求めればダニエル・リベスキンドをより象徴的にしたものか。世田美の野田さんはダニ・カラバンのユダヤ主義を想わせると評した。いずれにしてもバウハウスの標準化、普遍化主義とは似ても似つかない。初期バウハウスでのヨハネス・イッテンとワルター・グロピウスの確執は有名だが、ここではグロピウスは完全にイッテン風なのである。歴史も又生き物のようなモノである。それに対する人間達の対応でいかようにも変幻自在になるものだ。スケッチを二点、ロシア風小聖堂に共に眠るゲーテとシラーの墓所もスケッチした。

死んだ若松とのロシアの旅を痛烈に思い出す。ヴァン・デ・ヴァルデの墓を探すも見当たらず。それ程に広い墓域であるここは。まさにワイマールの心臓だな。バウハウス大学に戻り展示をチェック。そのままゲーテハウス他の見学、またゲーテのテーマパーク好みの事例を確認に出掛ける。小トリップである。ヴァン・デ・ヴァルデが好んだ遺跡の隣りにゲーテ・デザインのローマの遺跡風の、まさに作られた遺跡。その足許に何とウィリアム・シェイクスピアの像があった。ゲーテがシェイクスピアを崇敬していた結実である。その隣りに、実に奇妙な木の幹の表皮に似せた、まさに樹木の家とも呼べる、楕円形の平面を持つ小建築。

ワイマールの王の妃がつくらせたもので中に何があるのか誰も知らないと言う。恐ろしい程の情念が古典的アニミズムとして結実している。ここにもワイマールの地霊が露出していた。川を渡りゲーテハウスへ、更に初期バウハウスが作成したコミューンのマスタープランに基づくモデルハウスを視る。P・クレーの家だった家を見て、グルりと廻り、ゲーテ・デザインの池と洞穴を見る。ゲーテの錬金術的思考が表われている。十二時となり、朝から四時間歩き放しで流石に小休し、昼飯とする。

うまい黒ビールを飲む。再びバウハウスギャラリーに戻り、ほぼ出来上がった展示会場を見る。少し修正する。

ヴァン・デ・ヴェルデ設計のバウハウス校舎にはそれこれ近代建築の歴史が充満している。このメモには書き切れぬ。いつか消化してアニミズム紀行として記したい。十五時ホテルに戻り休む。

十八時半、ロビーでウルフ・プライネースに再会、カイとディナーへ。諸々の積る話しを。ウルフはバウハウス大学に務めている。十ヶ月前に生まれたばかりの子供を亡くしたそうだ。言葉も無い。二十二時ホテルに戻り、彼等と別れる。シャワーを使わず横になった。随分色んな事を体験した一日である。感謝したい。何やら身体にエネルギーが満ちてくるのを感ずるが、明日は知らぬ。

一月二十六日

三時に起きてメモを記す。昨日を記録するのに四十五分もかかってしまう。でも記録しないと夢と同じで忘れてしまうのだ。記録したって忘れるのだから。しかし多くを忘れないと人間は生きてゆけぬのだろう。

今日はバウハウス大学でのわたしの展覧会のオープニングである。オープニングスピーチとレクチャーを再チェックしなければ。明日はシュトゥットガルトへ移動する。今日一日のワイマールを楽しみ、学びたい。

記し忘れていたが、エレファントホテルの内を昨夜はゆっくり見学した。トーマス・マン、アインシュタイン他きら星の如くの二〇世紀の巨星に愛されたホテルである。最も愛したのはアドルフ・ヒットラーだけれど、その記録は消されている。消されている事が、それ故にことさらに重い。

五時前、絶版書房通信を三枚書く

419 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十四日 月曜日

成田空港九時二〇分。ルフト・ハンザ711便チェックイン。日本酒のみやげを買う。ドイツの友人には日本酒党が多いのである。ドカーンと思い切りエキゾチックな日本酒をセレクト。ゲートロビーで沢山の人が集まってフラッシュなぞもビカビカたかれている。事故かな、と思ったら、わたしの乗る便がルフトハンザ、成田就航50周年のセレモニー便であり、エアバス380-800なる新型怪物クラフト、と言うかボーイング747ジャンボよりはるかにデッカイ奴がフランクフルト便に就航するそのエアバスが東京号とネーミングされたものなのであった。東京都知事石原慎太郎さんどうぞ、と司会がスピーチを促しているので、誰が代読するのかと眺めたら石原東京都知事御本人であった。

わたしのワイマール行も日独交流150周年事業の一環であるから、今は何かと日独のセレモニーが重なっているのだろうか。旅の始まりに石原慎太郎都知事のスピーチを聴くとは縁起が良いのか、どうかは知らぬ。しかし、この人物は謂はゆる日本人の規格からは大きく外れた才質の持主であるのは歴然としている。スピーチを英語に訳した日本人男性の訳がわたしが聞いてもだいぶん怪しくて、ニュアンスが表現されていなかったら、石原知事はキチンと通訳しろと叱った。あわててドイツ人女性が通訳を代り今度はキチンと通訳したら、今度は文句つけなかった。随分省略していたけれどなあ。恐らくは羽田空港の国際化は石原都知事の力もあったのだろう。空港は実に大事なんだと、いいスピーチであった。都知事も東京オリンピック招致に成功していたら、羽田と都心をトンネルでコネクトする位の事はやったかも知れない。環状8号は完成させたろうし。オリンピックは都市大改造の現代ではほとんど唯一のチャンスだから。もう一度チャレンジしたら良いのに。新型エアクラフトは総2階建のアパートみたいな飛行機である。

日本時間十二時過日本海をシベリアへ。ドイツ時間十時、NRTを発って十時間くらいかな。機内に持ち込んだアニミズム紀行6のゲラ全てに眼を通し終り、若干の補足、修正作業をおえる。自分で言うのもおかしいがだいぶん読み応えがあって頭にコタエた。これ以上頭を使うと、今晩ワイマールで眠れないのは確実なので仕事は休止する。当然の事ながら、これまでのシリーズ中では最も理解しやすいのではないか。我ながら少しは満足できる出来である。しかし、飛行機の中のゲラ校正、原稿書きは異常にはかどる。だって座席にしばりつけられて他に何もできないんだから。あと、フランクフルト迄三時間四〇分程のようだ。

眠ろうとしたが眠れない。この総二階建のエアークラフトは巨大で全く揺れない。

アニミズム紀行7を少しだが書いた。ルフトハンザの最新鋭の飛行機の飛行情報のスクリーンを眺めているが、映像はアラブ首長国連邦のエミレーツ航空のソフトの方が良い。名古屋空港から飛び立ち中国上空を一直線にシルクロードの空中版の如き、旅をしている風があった。ルフトハンザのソフトは質実ではあるが面白味に欠けるな。エミレーツのはアレはソフトに金がかかっていたな。西へ西へと中国大陸、チベット、シルクロードカスピ海、死海と下天の地形も表現されていて、本当にその景色の中を飛んでいる感もあったが、この新鋭機はエンターテイメント性が欠けている。エミレーツは機体内の天井にギャラクシーまであったけど。ロシア上空を飛ぶ時はコサック風にやってくれと言いたい。

只今、ドイツ時間十三時、あと一時間弱でフランクフルトに着く。

予定通り十四時過に着陸。広い空港で随分歩いてゲートへ。ゲート出口に変更があり、迎えの人に会えるかといぶかしむも、少しの努力で会った。ワイマールへ三時間のアウトバーンを飛ばす。ドライバーはワイマールがホームタウンでイイ人物であった。高速道路沿いには沢山の風力発電機のプロペラが廻っていて、この分野の日本の立ち遅れをいつもながら痛感する。ワイマールに近づくと雪景色になった。重苦しい曇天である。十七時見覚えのあるワイマールの町に到着。ホテル・ドリントも何度目か。丁度ホテル前でカイ・ベックと会う。チェックインして荷物を置いて、すぐ近くのバウハウス大学へ。ヴァン・デ・ヴェルデ設計の旧本館5Fの大ギャラリーに行く。私の展覧会場である。何人もの人達がディスプレイ作業中である。作業してくれる人達にあいさつ、礼を言う。ギャラリーの大きさは、わたしの展示には丁度ピッタリである。しかし石山展の基調音がバウハウスと全く違う性格を持つのはギャラリーに入った途端に直観した。これで良い。

カイとビールでもヤルかと町に出る。二〇年前、十年前と何も変わらない町である。そうこうしているうちにベルリンで二日程過した野田さん、スタッフがワイマールに到着。合流してレストランへ。エレファントホテルを眺めて、近くの広場に面したレストランへ。

カイ・ベックの印象も、わたしの展示物はバウハウス・スタイルと異なるのが明らかで、それが良いのだとの事であった。二十六日のオープニングが楽しみである。二〇時野田さんは眠り始めるし、全員それはそれは眠いのは解っているので切り上げる。ホテルに戻り横になり、すぐ眠りに落ちたが、十二時前に目覚め、眠れぬママにこのメモを記している。日付は進まぬが、ほぼ二日分の時間を過している。

一月二十五日

二時過ぎまでメモを記すが、どうも頭が鈍い回転のままでロクなメモになっていないのを重々知るのだが、時差だ仕方ない。今度生れ変ったら時差解消ジュース、あるいはティーをインチキすれすれのところで踏みとまりながら開発らしきをして売り出し億万長者になってやる。毛ハエ薬とか脱毛除け飲料とかもサギすれすれのモノだろうから、あれ位なら監獄に入る事もないのだろう。マ、次の転生は地獄はイヤだけど監獄位ならイイか。やっぱり機内で九時間程アニミズム紀行6の校正をやったのが効いてしまっているのだ。時差と校正ボケのダブルパンチである。しかし、バウハウスの得も言えぬ空気と、わたしの展示とのバッティングも良いパンチになれば良いが、ローブローにならぬ事を祈りたい。祈っても眠れないのである。三時前、あきらめて横になる。眠らないぞと決めたら眠れるかも知れない。

五時半起床。熱いフロに入る。どっと眠気が襲うが今眠ったら今日が一日ダメになるとガマン。七時ホテル内レストランへ。

418 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十三日 日曜日

十一時過発、下高井戸経由松陰神社前十二時半M邸へ。明日からドイツに出掛けるごあいさつと若干の打合わせ。十三時半了。十五時烏山に戻り、長崎屋でヤキソバ。

十六時過世田谷村に戻り、少し計りの荷作り。

二十三時眠れず、考え過ぎで、楽な本を読もうと、紀野一義の『禅、現代に生きるもの』NHKブックス、気持悪くなる程俗っぽくて、しかしその俗臭プンプンたる空気が具体的で仲々魅力的である。でも、とても読み切れるモノではない。

明日は六時起きで、半には世田谷村を出たい。

一月二十四日

六時離床。六時半発。コンビニで買い物。NRTへ。

417 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十二日

十二時半JR原宿駅。ここに来る迄に新大久保駅迄、大久保通りを歩いていたら、とても自由に歩けない程の、まさに人ゴミ。TVカメラも入って、韓流通りはゾロゾロと女性が多いが、それにくっついて歩く男も多く、これはまさに廻遊性を帯びた通りになっている。

原宿駅には明治天皇と昭憲皇后の、ありきたりな新年の和歌が、掲示されている。新大久保駅にはホームに落ちた日本人を助けようとして亡くなった韓国の人間の碑がホームへの階段に埋め込まれている。恐らくは、そんな事もここが急速に韓流タウンとして、ファッション化した一要因になっているのやも知れぬ。

十四時半、明治神宮境内を歩き廻り、北参道より代々木へ。色々と考えさせられた。それはXゼミに記す予定。いささか疲れて新宿を経て千歳烏山へ。

十五時四〇分、烏山長崎屋にて昼食。オヤジはどうやらオバンに怒られて、ふてくされて寝ている模様だった。年をとると、はるかに女性は男性より強い。身体に於いても気力に於いても。この厳然たる事実はこれから、強大に現実世界に反映されるであろう。それを思想家らしきは希求されたし。リアルな思想と言うべきは、それを含まざるを得ないだろう。

とするとですね、卑弱い男性は、更にはより弱い知的男性らしきは益々イリュージョンを求め(昔はそれをイデアと呼んだのだろう)、強い、プロレスラーの如き女性はリアルな、現実界を支配するグローバリゼーションを加速するのであろう。

つまり、資本主義というのは、更にはグローバリゼーションは、女性の価値観によるリアリズムなのではないか?

マア、しかし、それはともかく、世の中は、たおやめとは言わず、ものの婦の、ズリ足、スリ足、ジャンプ無し、そんな価値観でこれから相当の世紀を展開してゆくのでありましょう。これ迄、男の観念性で長い世紀、すなわち近代をやってきたのだから、バランスとしては良いのでありましょう。長崎屋にてオバンとオバンの友人らしき達の余りにもエネルギーに満ちた会話を聞きながら、実感として。今、革命が起きているのであるね、女性による。本当のリアリズムの何かに過ぎない可能性が大である。

十九時半、絶版書房通信2011年の2書き終る。8枚も書いてしまった。こちらもエネルギーをドブに捨てていて、実に楽しいのである。楽しい振りは少くともしている。ネットの読者も銭を捨てよ、どんどんペーパーメディア、本に捨てよと言いたい。銭は持ち続けても仕方ないものである。

二〇時、わたしもふてくされて寝る。実はアニミズム紀行5は600冊刷った。残部100代になったら、残部実数を公開する。まだ少し届かないのである。絶版書房通信2011年の2、読まれたし。ついでに、GAとAtプラスも、何しろペーパーメディアを手にすべしと言いたい。いつか御利益あるぞ、喜捨と思え。人生は喜捨できるかどうかですぞ。ネットでただのモノ読んでばかりでは体に悪いぞ、と言いたい。

一月二十三日 日曜日

六時半離床。昨夜は夢も見ずに眠った、とは断言できぬ。どうやら夢は必らず見ているのだけれど、それをすぐに忘れているのが本当の事なのだろう。人間が生きてゆくのに眠りは必須な時であろうが、とすれば3分の1は夢を見ているのかも知れない。3分の1のリアリズムである、夢は。

メモを記し、アニミズム紀行7にかかる。ワイマールに居る間にアニミズム紀行6のゲラに手を入れ切り、図版他もチェック、再考する予定とする。

十時過アニミズム紀行は27枚迄はうような進み方である。研究室よりFAXでデザイン画らしきが送附されてきた、眺めるにウームという感ありあわてて赤を入れる事とするが、基本的な事を指摘しなければならないと実感。メモ、絶版書房通信を先ず送附する。

416 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十一日

16時半研究室発。スタッフの何がしかに3日後にワイマールでとお別れ。皆はベルリン廻りでワイマールだそうだ。17時半烏山長崎屋で小川君と会う。色々と話しを聞く。18時半世田谷村に戻る。明日の中川武研の博士論文審査のため論文に目を通す。23時就寝。

一月二十二日

7時離床。続いて論文を読む。日本建築史中、禅宗様式の木割りの、特に寸法体系の研究である。目を通して全て理解できるわけもないが、面白いのも事実である。建築意匠に関心を持つ者として、禅宗様式の不可思議さは、所謂、和様に対するその擬中国風、つまりエキゾチックなキッチュ振り(日本人から眺めた時の)にある。そんな観点から見れば詳細な木割り寸法の研究の本論と同じ位に、序文、結語が大事なような気がする。

大体、日本建築史の通史的な書物で、禅宗が栄西によって持たらされ、その枝葉として禅宗建築も持たらされたの如くに受け取られる記述も多いが、誰が考えても僧侶がその全てを輸入できるわけもなく、やはり相当数の職人集団が存在していた筈であり、その様な恐らくは事実であろう事は日本建築史の通史を書き変えさせえない。

そんな雑朴な印象を持ったが故に、序文と結語を充実させてもらいたいと感じた。日本建築史の学問としての存在意識に通じる問題でもある。

12時大学中川武研究室の論文審査。述べた通りの意見を申しのべる。最近の研究者は雑読量が少ないな。文化とはある意味では体験の巾でもある。袋小路文麻呂にならぬように健闘されたし。

しばらく東京を離れるので、午後は明治神宮の森と表参道に出掛けてみようと決める。恐らくXゼミでは難波さんから又、反論らしきがあると想われるので、その反論への反論のためのネタを仕入れておきたい。

わたしは明治神宮の森を歩く、難波さんは書物に踏み入る。とハッタリをかましておこう。こうでも書かぬと本当に歩きに行きそうにないので自分で自分を跳飛ばしているのである。しかし、明治神宮の森は広そうで疲れそうだ。

研究室メンバーに北海道のツリーハウスのすすめ方を指示して、重い足を引きずるようにして明治の森へ向う。

415 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十一日

9時半発。10時半研究室GA二川由夫、杉田さん、他新人編集者と会う。二川由夫さんは貫禄ついたな。幸夫さんに似てきたがオヤジさんよりエレガンスである。マ、オヤジの野生そのままでは世の波をまともに喰うだろうし、賢明な成熟だろう。

12時過までGAインタビュー。

『atプラス』の表紙デザインあがってくる。表紙の小コメントも。昨日、INAXギャラリーの冊子への草稿ゲラを読んだが、年々歳々大口をたたくようになっているのを自覚する。今日の『GA JAPAN』インタビューもそのきらいがあるなと自覚しつつしゃべっていたが、これはクセでもう直らないであろう。

ワイマールでのあいさつ及びレクチャーのマテリアルを予習する。スタッフが手際良くやってくれて、何の手を入れるまでもなく助かる。

13時外出、私用。14時半研究室に戻る。

15時ワイマール、マテリアル最終チェック終了する。

読売新聞より取材を受けた鳥取県の鏝絵左官上田さんの大きな記事が送られてくる。上田征治さんを、伊豆の長八ならぬ、フランスの素朴画家アンリ・ルソーにたとえて絶賛したのが合わせてONされている。上田征治さん力作のゲーテの鏝絵がはめ込まれた家具もワイマール・バウハウスに送っているので、話題になってくれたらいいな。職人さんは誉めても、いくら誉めても誉め足りぬ者なのだ。

誉めて嬉しい花一文目である。

414 世田谷村日記 ある種族へ
一月二十日

11時研究室。ツリーハウスクリエーションの穴見くんと会い相談。北海道、他のツリーハウスの件。ツリーハウス協会には相当数のアテンドが舞い込んでいるようで、これは藤森建築の比ではなかろう。又、失礼ながら難波先生の箱の家の客筋とも異なるようで、わたしは矢表に立つつもりはないが好奇心もあり。キチンと附合うつもりである。変種の茶室であるなコレワ。

その後雑事を終え12時教室会議。将来計画委員会の報告を聞く。再び雑事を挟み、教室会議続く。16時前了。ちょっとした相談を終え、研究室に戻る。

ワイマール・バウハウスでの石山展が迫り、色々となさねばならぬ事が輩出している。ドイツではシュトゥットガルトのカイ・ベックの大学でもレクチャーをしなければならず、少しハードかも知れぬがこれも又、キチンとこなしたい。

Xゼミ難波先生の草稿を読む。箱型の論だなコレワ。印象としての箱型商業論である。しかし流石にキチンとしているので、しっかり応答したい。

難波さんの論は自分の世界らしきを捨象しているところが、わたしには不可解でもあり、又実に面白いところでもあるように思う。

17時半地下鉄新宿味王へ。今年初めての味王だそうで、しばらく烏山の長崎屋に通っていたので、失礼した。

あやまる事は無いとは考えるが、わたしの気の弱いところだ。

残念である。

20時過世田谷村に戻る。小川くんより連絡あり長崎屋からであった。わたしの人生も超縮み傾向である。いずれ座ったきり、寝たきりになるのであろうが、それは楽だろうなとつくづくと、つくづく法師の鳴くが如くに想うのである。

平家物語り風である今夕の気分は。

21時過横になって、ゲラその他を読む。

一月二十一日

4時半離床。すぐにXゼミナール石山14信を書き始める。7時40分Xゼミ草稿7枚と少し書き終る。

今日中にサイトにONしたい。明日よりスタッフはワイマールでの展覧会のためにドイツへ。わたしも月曜日には発つ。ワイマールからXゼミに送信できたら良いなと思う。

413 世田谷村日記 ある種族へ
一月十九日

昼前、烏山神社を経て芦花公園駅より新大久保へ。

13時過近江屋にて六車さん、安西くんと会う。色々と相談。

16時過ぎ散会。新宿で別れる。17時過長崎屋を経て18時世田谷村に戻る。今日はそれだけ。

一月二十日

5時半目覚め、アニミズムの旅に想いをはせる。今朝も夢をみた。二つの建築が一軸上に間に道路を挟んで建っている。どうやら共にわたしが設計したもののようである。わたしの見慣れたデザインボキャブラリーが散見されるけれど、コルビュジェのラ・トゥーレットらしきがオーバーラップしている。ラ・トゥーレットが出現してしまうのは残念である。

しかし、広く傾斜のついた屋上は完全に庭園化していて、しかも滔々と河が流れていて、これは凄かった。

夢も一種の映像である。とすれば、これも建築の一種である。夢の記憶術あるいは再生能力が必要だな。7時過アニミズム紀行7をつづき記す。

9時前、苦しみながら25枚迄書く。小休し朝食。

412 世田谷村日記 ある種族へ
一月十八日

朝食を終え、11時烏山神社を経て、烏山北口バス停へ、三鷹行のバスを探すも無し、オウム真理教アーレフ近くのバス停よりバスにて吉祥寺に向う。三菱育英会学生寮、烏山病院、公園通り、旧日産公園、現ジブリ公園、井ノ頭公園を抜け吉祥寺駅へ。万助橋ふもとにわたしのガキの頃あった大きな洋館は小割にされて宅地になっていた。今日はある目的があっての小旅行であるので、50年〜60年程昔の事を思い出しながらのバスである。小田急バスは京王バスより何処の路線でも10円高いのはけしからん。京王バスは良くやっている。吉祥寺より中央線にて一駅三鷹駅到着。

アミニズム紀行7の旅がゆきづまり(6号は編集作業中)、とうとう1950年代の旅に出る事にしたのである。三鷹駅南口を古くにわたしの住んでいた家へ歩く。北口は母の終の家があった武蔵野市縁町であり、母が亡くなった病院がある。

北口は銀行3軒がビルを建てて壁を作っている。これもいかんな不愉快なり。駅前通りは、これは60年代であったかブルーシャトーで一世を風靡したブルーコメッツの三原綱木というリードギターの兄ちゃんのたしか電器屋があって、彼も良く見掛けた記憶がある。

すぐ斜め左の道に折れ、1950年代に米兵相手のBARがあったところは呑み屋の雅居ビル、三鷹文化劇場という映画館だったところは駐車場になっていた。

すぐ右に折れ、小学校時代の友人N君の家、これは変わりなくあった。

わたしの家があった本町通りは全て5、6階建てのビル、マンション。

大きな地主の家があったところは12階建てのアパートになっている。

わたしの家はとり壊して小駐車場である。母が所有していた。

小学校に通った道を記憶だけを頼りに歩いてみる。

角のサウナ銀河は見覚えがある。右に曲り全く記憶の残らぬ通りを歩く。

良くマア母は駅近くと言って良い処に土地を買えたな。

毛網の葬式があった寺を左に折れる。友人の居た長屋街は八幡大社経営の駐車場になっていた。神社は空地をまだ持っているのだな。

三鷹第三小学校東入口の信号を右に。ハッキリ記憶にあり、同じモノである家二軒を過ぎる。急に記憶が飛び見知らぬ処へ。

小学校は移転してしまったかといぶかしむ。井ノ頭病院という精神病院のたたずまいが著しく変化していたからである。そして驚いた事にわたしがアミニズム紀行7で書き始めていた、わたしの通学路であったドブ川がまだあった。深いコンクリートと鉄骨で補強されていた。水門もあった。

左に折れ直し三鷹第三小学校へ。鉄扉越しにのぞき込む。恐らくこれは監視カメラで監視されているだろう。大越先生という校長先生宅が校庭に接してあったところは小公園になっていたようだ。校庭に接して住んでいた校長は立派であったなと思う。

学校の北側を歩く、と知らぬ中学校(第七中学)へ出る。ここは麦畑であった。

右へ折れ井の頭病院へのゆるい下り道を下ろうとするが、恐らく大造成がなされてほぼ平坦になっていた。これもいかんなあ。ここはゆるい下り坂であった筈である。

再び懐かしのドブ川に出る。わたしの実に懐かしい六軒長屋の家があった集落はこのドブ川をさかのぼったところにある筈である。

ドブ川には沢山橋が作られている。11の橋、10の橋と背番号が振られていて、恐らく野球好きの役人がした事であろう。

しかし、何とこのドブ川はレッキとした仙川であった。京王線烏山駅の次が仙川駅で、いまも仙川は流れているのだが、どうやらそれに流れ込んでいる支流なのだろうか。わたしが良く遊びで落ち込んだドブ川は仙川であった。しばらくコンクリートと鉄柵で固められた仙川沿いを歩く。ガキの頃の風景は見事な位に消えているが、一ヶ所都市の農業推進協議会の看板が立つ広い茶畑が昔の地形をわずかに残していた。

しばらく歩く。どうしても風景は思い出せない。

というより記憶はハッキリしているのだが、今が違い過ぎるのだ。何となく記憶に近い傾斜に近い地形を発見。仙川も記憶通りに折れ曲ってくれている。この辺りの小さな丘上にわたしが通った銭湯があった。女風呂との境いにガキが抜けられる程の穴があいていて、もぐり込んでキャーキャー言われたモノである。

銭湯への坂の中程に小さな祠があった筈だが、これはわたしの記憶ちがいか。

とそんな具合に午後遅くまで周辺を歩き廻る。実に面白い旅であった。神明神社、井口院を巡り、そんなモノがあったんだな集落のヘリに。歩いて八幡神社へ。ここは太宰治がすたこら幸ちゃんと死んで墓がある。三鷹は玉川上水という時々人が飛び込んだり、事故死した上水があったのである。いささか疲れてグッタリするも収穫も多かった。この旅の事はアミニズム紀行7に記す。Xゼミナールで始めている1950年代の事とも通路が開けるのではないだろうか。1950年代は歴史の曲り角であったのを実感する。

15時半、タイムトリップを一段落させて八幡神社前よりバスで仙川へ。京王線仙川駅で仙川流域の地図をチェックする。京王稲田堤の建築現場へ。16時過着。指示しておいた仕上げの仕上がりをチェック。良く出来ている。色合いも良し。

18時前、烏山に戻り、WORK。宗柳にて一服して世田谷村に戻る。歩き廻って疲れたけれど良い疲れである。

21時就寝ぐっすり眠る。

一月十九日

4時起床。すぐにメモを記す。アニミズム紀行7がようやくすすみそうである。

変な夢を見た。わたしは山中、眼下に集落を見下ろす。崖の上に住んでいる。恐らく奥多摩の終点永川駅に真近い岩に間近いのであろう。

そこに松崎町の森さん、ハンマ、トシ坊、小林くんが遊びにくる。

恐ろしい程の崖の上の洞穴状にいるので、あんまり、先に出るなよとわたしは彼等に注意している。彼等は遠くからやってきているのでゆっくり眠らせてやりたいのだが、近くの家はあまりにも不便であり、彼等はゆっくり出来ない。

崖の上の家から下へ降りるのも大変な恐怖である。

たしか、この夢の景色は二度目であるような気がしてならぬ。

何だろうなこの夢は。別の夢、朱だいだい色、関東ローム層の大峡谷の雪のナゾが解けたので、それをアニミズム紀行7に書き始める。

5時40分である。

7時、21枚少し迄書いたところで又、停止する。3時間集中したので疲れはしないが小休した方が良い。再眠。10時前離床。

411 世田谷村日記 ある種族へ
一月十七日

10時過モヘンジョダロの遺跡にて、顔知りのジイと美猫のカップルに会う。猫は会う毎に衣装を代えて登場する故、これは彼女にとっては毎日のファッションなのか。しかし誰の目にもウチの白足袋より、美猫であるのは確かである。白足袋は全くの鈍重な猫である。マ、仕方ないか。

11時前、至誠館建築現場、4階東壁の壁を使って一部仕上げのニュアンスを試行。仕上げ職と共に大方を決定する。昨夜考えていた仕上げの方法を現場で微調整する。これは我ながら上手な方法になったと思う。

4階の足場上で試み大方の、つまり職人さんに可能な事を確認する。しかし、わたしの指定というか、欲しい仕上げのニュアンスは若過ぎる職方では不可能な事もすぐに歴然として、現場でわたしの望む以上の仕上げ方を若い職方を外す事を決めて、そう指示する。親方クラスの仕上げ職人はわたしの言うニュアンスを呑み込み、実行する事が可能なのを知ったが経験のない素人クラスの職方では、これは不可能なのである。

馬淵建設現場監督立会いのもとにその大方のルールを決める。わたしの今度の建築ではとても大事なニュアンスの伝達であった。

職方は昼食を挟んで休んだが、わたしはフル活動して現場のすみずみ迄歩き、大方のフィーリングを頭にたたき込んだ。

5階屋上でしばしポカーンとする。屋上のカンボジア産のレンガが、ここに東南アジアのニュアンスの空間を持ち運んでくれているのを感じる。

13時半、再び仕上げ職にわたしの建築の仕上げのニュアンスを一部伝える。伝えてどうなるものでもないかも知れぬが、伝えぬよりはマシなのである。

現場で充足した時間を過し、15時半去る。調布で雑用、私用の後、16時半烏山長崎屋にて遅すぎる昼食。今日は烏山ソバ屋宗柳が休日で宗柳のオヤジがラーメン屋に来ていた。

どうやらオヤジは昨夜酔払って飲み屋でサイフ他を紛失し、幸いな事に、それが現われ、そのサイフ他を長崎屋で手渡されるところに立ち会ったようであった。

それ故、というかマア幸せな事にオヤジのサイフが出てきたのを、オヤジが祝い、わたし及び届けてくれた飲み屋のオバンはオゴリとなって、わたしは非常に幸せであった。オヤジには何回もサイフを失くして欲しい。

ところで、途中、道端で女性二人が野良猫をかまっており、それをのぞいたら、実にエレガントな薄いグレー系統の、女優で例えれば、あのグレース・ケリーみたいな猫なのであり、又も、わたしはうちの白足袋を何故面倒みなければならんのか、不可思議な怒りに身を打ちふるわせたのであった。こんな上品そうな、うれいにさえ満ちた猫が駐車場の脇で不遇な境遇を送りながら、何故、ウチのブタヘビー級猫がエラそうに飼い猫でいるのであろうか。

人の世ならぬ猫の世は不条理に満ち溢れている。

一月十八日

6時離床。すぐに依頼原稿にとりかかる。10時前、10枚完了。面白いモノが書けたような気がするが、どうか。

去年の暮の瀬戸、常滑小旅行の成果である。小休する。

410 世田谷村日記 ある種族へ
一月十四日

12時半大学地下スタジオ。3年生第四課題銀座のオフィスビル、採点。

建築教室の、特にデザイン、計画の教師陣更に特にわたしと清水建設設計部首脳陣との建築設計そのものに対する価値観にいささかの開きがある。しかし、スーパーゼネコンと呼ばれる日本独自の設計施工会社の設計の考え方との開きの、それ自体開きの価値を意識して始めた試みなのである。開いてもらわなければ、教官としても困るのである。開いていると言っても同じに建築を愛し、設計の径を歩んでいるのは同じである。

60点程の学生の作品全てを見る。Aを6点セレクトした。採点を続けているうちに清水建設の設計スタッフ(といっても皆部長・マネージャークラス)の方々と、佐藤滋氏等教室のメンバー達との呼吸も合ってきて、大きな完全なスレ違いもなく、採点をまとめる事ができた。やはり、学生の課題作品とは言え、モノを前にした議論は良いものである。

モノを前にしない空理空論であったならば抽象的で実りの無いスレ違いも出現したであろう。しかし、図面や模型を前にした時に、全く理解不能なギャップはそれ程にあり得ようがない、と実感した。

良い採点であった。

16時、わたしは採点の大方を終えてスタジオを去る。17時半烏山長崎屋で、夕食。食堂のTVで菅首相の内閣改造記者会見を見てしまう。どうにもイヤなモノを見てしまった。男の卑小さ、ズルさ、腹の底をのぞいてしまうような気持にさせられるなこの人物は。

この首相は若い頃、女権運動者、彼女は筋が通っていたが、あの市川房枝氏を支えていた時期があったように記憶するけれど、あの頃が一番輝いていたな。

18時半世田谷村に戻る

どうやら大層な寒波が明日から襲来するようである。明日の星の子愛児園のメンテナンス工事はどうなるのかいささか気になる。雪がくるのかな。

一月十五日

7時半離床。朝食を喰べ、10時京王稲田堤星の子愛児園熊谷組メンテナンス工事に立ち会う。

園長先生と話す。12時至誠会さくら乳児院・なしのはな保育園現場、馬淵建設現場事務所に寄り、13時西調布に寄り、N先生河合親子皆さんとあいさつ、すぐ去る。13時40分烏山長崎屋にてたんめんの昼食。15時30分品川、京急線新馬場。駅前でコーヒーとホットドック。16時近藤君と会い、16時15分品川宿交流センターにて安西直紀、近藤君と話し合い。17時近藤君去る。

18時向風学校催事始まる。人見太郎さんの「私は何故、稲作を志したのか」を聞く。

人見太郎さんは自動車会社に務めたが、退社。小規模の稲作にとり組み始めている人物である。

要するに素人でも米が作れるのだという事であった。今流行のグリーンツーリズムの一例であろうが、面白かった。

米作りはエンターテイメントである。司会者の話しなぞはほとんど米作りサークルのギャグであり、お百姓さんが聞いたら、あきれ果てるであろうが、知らぬと言う事は凄い場を作り出すものだなあと痛感する。

わたしも結城登美雄との21世紀農村研究会などでほんの少し農と食の問題はかじっていたし、諸々の体験があるので、レクチャーは喰い足りなかったが、稲作が区民農園の、日曜菜園のノリで出来るのかと言うのは実に面白かった。

しかし、当事者達にその自覚が無いと、これはただの農と食の自作自演ギャグになっちまうなの印象である。向風学校も頑張っているが、もう少し勉強した方が良いとこの学校のオジキとしてつぶやく。しかし、今の若い世代は何をやってもエンターテイメントになってしまう。あるいはなり得ると言うのは注目しなければならない。

20時前了。参会していた小川さんと共に帰る。二次会は失礼した。21時前烏山に戻り、再び長崎屋に寄り、くつろぐ。今日は品川宿でまちづくり協議会会長の堀江新三さんと会えなかったので、目黒川水系計画に関しては仕残した事もあったけれど、良い一日であった。23時世田谷村に戻る。

一月十六日

8時離床、メモを記す。

まあ今日は休日であるから頭を少し休ませようとTVで政治番組をチャンネルを転々としながら視て聴く。これは昨日の米作りレクチャーのエンターテイメントにもならぬ何にも誰の得にもならぬ情報ではある。マスメディアは本質的なレベルで役割を終えているのではないか。

アニミズム紀行7、16枚でストップしてすすまず。長距離の走り方をまだ自覚していないのを痛感する。止まってしまったらおしまいだからなあ、わたしの創作らしきの全部も。

午後外出。17時半戻り。

一月十七日

2時前起きて依頼原稿3枚迄書く。

8時40分離床。依頼原稿のつづき。快晴である。しばらく雨、雪をみていない。

4,5枚迄すすみ。時間切れ。10時20分世田谷村発。

409 世田谷村日記 ある種族へ
一月十三日

烏山神社を経て12時研究室。雑用、M2修士設計相談。

13時博士論文審査。15時前了。15時半発。私用にて過す。

17時半長崎屋で夕食。19時前世田谷村に戻り、WORK。21時半小休をとる。

一月十四日

6時離床、寒い。アニミズム紀行7、15枚迄すすめて小休する。

目黒川水系に関する企画書の作成にかかる。

向風学校安西さんに送附して修正を依頼。

9時過朝食の仕度。

早稲田野球部OBの六車氏と話すに、どうなっとるんだ都知事選は、と怒られた。何故わたしが怒られるのかは全く不明だが、何か怒る原因があるのだろう。しかし氏の出身母体の毎日新聞もどうなってるんでしょうね。TBSTVなどでグズグズ、コメントらしきを垂れ流しているコメンテーターもロクな意見を持たぬし、ジャーナリズムだって人材不足の劣化状態ではないだろうか、とわたしも無関係な意見を言う。こういうのを言わぬでもなし、と言うのである。

しかし、それが宿命とは言え、新聞、TVは、ハッキリ大衆迎合状態にしか過ぎないなあ。

新聞発行部数、TV視聴率は権力の証だから、ジャーナリズムもハッキリと権力体質になっている。野党精神では今や全くないのである。

408 世田谷村日記 ある種族へ
一月十二日

12時半、現場。内側の大方を視る。やはりカンボジア産のレンガが決め手になるな、この建築は。13時より消防署のチェック。わたしは少し時間が空き、アニミズム紀行7を現場事務所で書きすすめる。14時半過13枚書いてストップ。気になって現場のエントランス部をチェックに出る。15時現場定例会。17時20分了。5階屋上がとても良い空間に仕上がっている。18時前稲田堤でスタッフと別れ、同30分烏山。今日は長崎屋が休みなので小川君と広島お好み焼屋で打合わせ。19時半了。

帰りがけ宗柳で夕食を喰べようとのれんをくぐったら、何とここで休日を過していたようである。

半天丼とかけそばの夕食をとる。ヨセヤイというのに長崎屋のオヤジ、オバンから今日はダメとおごられてしまった。嬉しいような無念なような。マ、仕方ないのだろう。20時40分世田谷村に戻る。

タイガーマスク現象というのが世間に起きているようだ。無名の善意の群が露出しているのである。養護施設の子供達へのランドセルプレゼント続出で、総数325件になれなんとしている。

ダテナオト名または矢吹丈名での日本版足長おじさんの群である。伊達直人さんは一躍時代のヒーローである。

大人に、色んな形で傷つけられた子供達への善意が無名の形でマスメディアに露出しているのである。善意のマスクである。一種の喜捨、ドネーションであろう。一時的なアブクみたいなブームであると冷笑するのも簡単だが、それは余りにも寂しい事なのである。

かくなる一時的ブームはもっとあって良い。

一月十三日

8時過離床。3階のデスクでメモを記し、昨夜のWORKの延長、アニミズム紀行7にかかる。10時、11枚になったところで休止。

ボーッとして過す。新聞、TVを読まない、視ないを心がけてはいるが、あんまり極端なのも危い。時々スルリと入り込んでくるようなのが良いな情報というのは。

407 世田谷村日記 ある種族へ
一月十一日

烏山神社を経て研究室へ。12時過修士設計、博士課程学生相談。設計作業の若干の打ち合わせ。13時半2年設計製図講評会。日本女子大住居学科との合同課題である。早稲田の2年生は小器用な設計に自閉しているように感じた。2年生には2年生のやるべき基礎体力作りがあるだろうに。18時前了。

近江屋で所用、夕食。途中難波先生に電話してXゼミの進み具合を相談。今やってるから、2、3日待てと言われる。何とか充実させたいものだこのゼミは。先ずは密実な核を養成して、それから展開できたら良い。19時半烏山長崎屋。91才の元気なお婆さんに出会う。お祭り好きな江戸っ子だそうだ。21時世田谷村に戻る。渡辺助教提案の研究会案他を検討。24時就寝。

一月十二日

8時離床。3階のデスクでメモを記し、昨夜のWORKの延長、アニミズム紀行7にかかる。10時、11枚になったところで休止。

朝食の支度にかかる。こんな簡単なお菜でメシが喰えるのかと自分でも考え込む程に簡素なメシ。山盛り一杯の御飯、海苔3枚。千枚漬け1枚、京のしば漬数切れ、桃屋のごはんですよの、のり。要するにつけ物とのりだけである。

数件の電話。12時過世田谷村発烏山神社を経て京王稲田堤の至成会建築の現場へ向う。

406 世田谷村日記 ある種族へ
一月七日

11時、庭に降りてクズの葉のツルを何本も何本も切断する。親指2本分ほどの太さに育ったモノもあり、しかもそれが螺旋状にくねりからんでいるので仲々厄介であった。切り口は、冬だと言うのに緑に生命力が溢れており、これではからまれた樹の力はやはり衰えるであろう。11時半了。烏山神社に参り、研究室へ。12時半新大久保近江屋で地鶏カレー南蛮そばの昼食。13時半研究室。雑事、M2修計、卒計を見る。

14時『atプラス』編集スタッフ来室。表紙のドローイング渡しと小インタビュー。

14時半修了。雑用を終え、15時半発。京王稲田堤へ。至誠会「さくら乳児院なしのはな保育園」建築現場事務所。現場を見る。5F屋上にあがる。カンボジアのレンガのパラペットが屋上にも積み上げられていて心地良い。屋上より、間近に星の子愛児院のクジラドームが眺められる。この屋上は良い場所になりそうだ。

17時過「厚生館愛児園」へ、K理事長にお目にかかる。新年のあいさつと、石川県の焼物師名人80才の坂本好二氏の話をうかがう。

驚くべき事に世田谷村の隣りの白山神社の大元の、白山に関わりのある方である。石川県のすず焼きの話し。不思議な縁を感じる。

その後、料理屋に移り、焼物の話しが続く。面白かった。しかし、焼物の世界に入るのにはわたしは時すでに遅きに失しているそうである。20時半過、腹一杯いただき了。京王稲田堤駅で理事長とお別れ。

21時過寒空の中を世田谷村に戻る。楽しみは尽きなかったが、少しつかれた。体力はやはり落ちている、仕方ないなコレワ。24時前就寝。

一月八日

4時半目覚め、6時離床。昨夜のK理事長の話を整理する。考えがまとまらぬままに、明けそめる南の空を眺めるに、梅の樹に水が入ったペットボトルがブラ下がってひどく目ざわりである。

昨年の夏、生い茂り過ぎたクズの葉のツルを建築にまとわりつかせる為に凧糸に結びつけて、クズの葉のツルめがけてツル釣りの如くに投げたのが、冬の寒空に何とも間抜けな風情でブラ下がっているのである。南の空の景色がこの空に浮いたペットボトルひとつで汚いものになってしまっている。良い考えがひねり出せぬのはこの景色のせいであるなと思い込み、意を決してコートをはおり、下に降りて、菜園用の細いポールを2本、2階に持って上がる。ガムテープでその2本をつなぎ3.5M程の長さにして、空中のペットボトルをたたくも落ちず、先っぽにカッターをくくりつけて、まきついた凧糸を切りにかかる。外から眺めれば実に馬鹿げた姿であろう。今度はうまくいって、梅の樹の上にひっかかっていたペットボトルは地上に落ちた。実につまらぬ人生である。

我ながらイヤ気がさし、朝風呂に入る。

13時長崎屋ラーメン店で民主党区会議員K氏、小川君と会う。世田谷区、目黒区、品川区を横断する目黒川計画の件で話し合う。烏山寺町の目黒川水源地と品川宿とを結ぶ話し。

NPO活動が母体の区議のようだがお手並み拝見したい。地方選挙が近いから、少しは動くのではないだろうか。これで動かねば民主党はタダの税金ドロボーである。今が政治家の使い時であろう。

終了後、世田谷村で昼寝。18時まで眠ってしまう。

20時研究室スタッフに烏山駅で絶版書房6の行方不明になっていた20枚の原稿を渡す。イヤ、ハヤ色んな事があるもので、20枚の原稿はわたしの旅行カバンの中に眠っていた。年は取りたくないもので、スタッフに迷惑かけてしまった。

川合花子さんより、川合さんのミカン畑のミカンが送られてきた。川合健二さんの自慢のミカンである。無農薬の、実に昔のミカン。1944年生まれのわたしが小さな頃食べていた、つまり1950年代のミカンにはもう農薬は入り込んでいたのだろうか、そうだとしたら、川合さんのミカンは昔も今も初めての味であるのかも知れない。

一月九日 日曜日

昨夜は23時半に横になったのだが眠れず、トマス・ピンチョンの『スローランナー』、山本兼一の『火天の城』2冊を読んだ。今日の5時前で読んでしまった。明方ようやく眠りにつき、8時半離床。デューク・エリントン&コルトレーンを聴く。冬の晴れた朝に聴くのは良い。でも、こんな大音量で聴くのは世田谷村初の出来事である。TVを視ない事、新聞を読まぬ事にしたのでこんな事になった。午前中銅板を彫り始める事とする。

11時過ぎ銅版彫りを中断、小休とする。どうも彫るものが皆建築らしきになってしまうなあ。坂田明の「赤とんぼ」聴く。

包丁切り讃岐うどんをゆでる。12時過ぎ素うどん2人前を食す。えばる事はないが純粋な素寒貧な素うどんである。

12時40分発。烏山、千歳船橋を経てバスで世田谷美術館へ。

佐藤忠良展のオープニングは昨日であった。マ、仕方ない。

14時向風学校安西直紀さんとロビーで打ち合わせ。展覧会を一緒に観る。15時半了。安西さんに千歳烏山まで送ってもらう。16時、福岡産の万能ネギを一束買って世田谷村に戻る。昼のうどんにネギが欠けているのが無念であり、再挑戦を試みるも、今度はうどんが無く、秋そばをゆでる。無残にも失敗する。

17時過長崎屋で原口、小川両氏と会合。目黒川の件。18時半終了。

世田谷村に戻る。品川宿の堀江さんと連絡。トマス・ピンチョを読みながら眠る。

一月十日

5時半離床。氷点下の温度にまで下がってはいまいが、寒い。三芳村からの米を研いで炊飯器でたく。手がちぎれる程に冷たい。6時半南東の空に色がつき始める。

7時35分2011年度の初モノ、銅版画1点をほぼ仕上げた。

8時過世田谷村発。永福町河北リハビリテーション病院へ。9時着。

10時前発TAXIで世田谷村へ戻る。10時過帰着。家内の1日試験退院である。

すぐに外出。雑用を経て14時過再び世田谷村に戻る。

合い間を縫ってアニミズム紀行7を4枚書く。形式として思考の旅の形をとって始めた事だが、これは実に大変な事を始めてしまったと、今頃になって気づく始末である。

旅は日々、月々、年々その内的あるいは外の風景の移り代わりがある。あって初めて旅となる。変化が無ければ旅にならない。ジィーッとして動かぬ定住者の思考すなわち内的深化という精神論になってしまう。毎回新しい視点を呈示しようとするのだが、それが、予想していたとは言え大変である。

17時、新制作ノート2011年之2を4枚書く。

18時半、さて今夜は何を読みながら眠るかな。

スティーブン・キングの『ナイトフライヤー』にしよう。

一月十一日

6時過離床。3階でメモを記す。

8時半アニミズム紀行7、8枚迄進み中断小休する。

思いがけぬ事を記し始めている。やっぱりTVと新聞に接しないでいると感覚の何かが再生するのだろうか。

朝食を作って食べる事にしよう。

405 世田谷村日記 ある種族へ
一月六日

11時45分銅版画2009年2010年に制作して残しておいたものに手を入れる。モヘンジョダロのビワの樹の王に触発されて彫ったものは完璧なので手を入れず。3点に手を入れた。時差が入って思いもかけず良いモノが手中に入ったように思う。

パステル画も6点ためてある。そろそろまとめても良いかなと思う。

朝食はメシを炊き、ノリとつけものを食べた。幾つか電話して、今日の仕事はおわり。銅板に彫り込んでいる世界がわたしなのか、つまらない記録をメモしているのがわたしなのか、どちらもわたしなのだろう。

十二時四十五分長崎屋にて絶版書房交信2011年の1を書く。

レバニラいためライスを食べる。オヤジとオバンには悪いけれど全く体には悪そうである。16時前、8枚書き終える。良い休息になった。

十六時世田谷村に戻り、至誠会近藤理事長に電話する。絶版書房交信に書いた件つまり考えた事を実行する為に明日の夕食を共にさせていただく事になる。

3月末から4月初めにかけて、至誠会の私共の設計になる建築で展覧会を試みてみたい。勿論、理事長の判断次第だが。

16時半より、色々と妄想にふける。銅版画制作と、パステル画、油絵等は止めたいと思っていても、止められないので、これは何とかつじつまを合わせなければならない。つじつまを合わせなくとも構わないという程にわたしはゴーマンな人間ではない。何処かで一本路でつながっているに違いないのである。しかし、なんで銅板なぞ彫っているのだろうというのは、わたしにとってもなぞである。そのなぞは決して平板ななぞではないと思いたい。15時20分、千夜千洞記の一部を書いて、休みに入る。

18時ちょっと前、何と又、空腹になってきたが、飯は食いに外出はしないと決めている。うちのサイトの千夜千洞記の原稿を5枚書き終わった。これは少し異常だな。でも今日は休ませていただいた。

研究室に原稿を送信。あとは研究室の面々の判断に任せたい。千夜千洞記は読んでもらいたい。と言うよりも、読んでくれ。

今日は全休であるが、絶版書房交信と千夜千洞記だけは記すことができて、わたしも満足はしてはいないが、充足寸前である。若い人も同じなんですよ、このリアルな世界は。

18時半夕食を自分で作り、食べて、つまらない夕食であったけれど満足する。何か文句あるかと言いたい。誰も文句言ってるわけではないけれど。

恐らく、19時過ぎには寝てしまうのであろう。

一月七日

7時過離床。白足袋が寝床の毛布と掛布団の間にもぐり込んできて、ゴソゴソ動くので目を覚ました。足の方にもぐったので足が動かせないのであった。ウーロン茶を飲む。やはり水より温かい茶の方がいいやね。

イヤな事に気付いた。どうやら庭の梅の樹が全くつぼみをつけていないのではないか。昨年はクズのツルが庭中をおおい尽し、世田谷村はゲゲゲの鬼太郎宅の如くになった。親友は世田谷村は熊谷守一の家みたいになったなと言う。熊谷守一は池袋にあった自宅の庭を自然に任せる如くにして、その庭を周遊して一歩も庭から出なかったと言う。そんなに広い庭ではなかったと記憶している。天狗の腰かけとかの場所も命名して楽しんでいたらしい。ゲゲゲの鬼太郎の家と熊谷守一の家とは同一種族なのかな。

梅の樹がクズの芽に寄生されて精気を吸い取られているとしたら、どうすれば良いのか。冬の間にクズのツルを切り倒すべきか。ツルを残せばゲゲゲ路線、梅の花をとれば熊谷路線である。

庭に降りて先ずクズの根がどうなっているのかを見てみよう。

404 世田谷村日記 ある種族へ
一月五日

バウハウスギャラリー展のための草稿を書き進めていたら、11時40分に小川君から電話があり、長崎屋でメシ喰ってるから来いよと言う。断るわけにもゆかず、12時長崎屋でギョーザ、ラーメンを喰べる。これがわたしの気の弱いところだ。

さんざん小川君の持論である菅首相無能論、小沢一郎待望論を聞かされる。長崎屋のオヤジは反小沢なのでケンカになりそうだ。菅首相の無能は衆議一決である。小川君は小沢命の人だから執拗に小沢一郎を持ち上げ続ける。オヤジは「ダメ。コイツはもうおしまい」を繰り返す。「だって、小沢以外に誰がいるんだよ」「ダメ。コイツはもうおしまい」「菅なんて何も出来ネェよ、小沢しかいない」「ダメ。コイツはもうおしまい」「ヨシ、民主党ここ呼べ、オレが問いただす」という訳で近々、民主党の区会議員を長崎屋に呼び出す事となった。

13時15分別れて、世田谷村で原稿書き。修了分を研究室に送附。

14時原稿再開。14時半バウハウス用の全ての原稿を修了する。16時半研究室。17時中島教師さん来室。少し遅れて安西直紀さん来室。中国の件打ち合わせ。どうなりますやら。18時半中断してTAXiで新大久保駅へ。この寒い中を歩かせるわけにはいかぬ。タイ料理屋クンメーへ。辛いタイ料理で汗かきながら食す。やはり近江屋の方がわたしには合ってるな。20時了。中島さんは那須塩原まで帰らねばならぬ。

新宿駅で両氏と別れる。21時前世田谷村に戻る。

今日は目一杯我ながら働いた。明日は木本君との共働作業の今年の計画を立てる予定。

一月六日

8時前離床。メモを記す。

昨日地下室にしばらく眠らせておいた銅版画10点を久しぶりに陽光にさらした。いいなと思ったのが数点ある。木本君との仕事の先を考えるにはやはり銅版を少しやってからの方が良いか。

403 世田谷村日記 ある種族へ
一月四日

11時30分世田谷村発、12時半研究室。サイトチェック、Xゼミを読む。流石、鈴木、難波両先生であるな、良い流れになってきたように思う。わたしも負けずに考えてゆきたい。

山上都市之図のドローイングを渡し、図版としてレイアウト作成を頼む。15時過明日のミーティングの為の資料4部作成終了。研究室発。

16時長野屋食堂で小食(昼朝食)。17時過烏山長崎屋。ラーメンとギョーザの夕食。オヤジに刺身をごちそうになる。18時半世田谷村に戻る。

『atプラス』の表紙の為のドローイングの基本方針を考える。明日早朝に描く予定。ドキュメンタリーにリアルな運動らしきを描いてみるつもりであるが、いざ描き始めてみないと何とも言えない。

Xゼミのクリティークはやはり鈴木博之先生に本筋をお任せした方が良いのではないか。わたしと難波さんはプロジェクトをXゼミに発表してゆくのが本筋だろうなやはり。いきなりそうするのは大変だろうから、少しづつそうしてゆきたいと思う。先ずはわたしからそのサンプルを提示してみたい。

夜半馬場昭道さんより連絡が入り、明日の打ち合わせ、葬儀が入ったため出席できぬとの事。残念だが僧侶のつとめだから仕方ない。

一月五日

7時前離床。すぐに『atプラス』の為のドローイング作りに入る。10時半迄かかってようやく修了。母の家を群体化した塔状住宅群のスケッチとした。昨夜考えたのとは違うものになったが、わたしとしては自然である。

空腹ではあるが、休まずバウハウス展のための原稿にかかる。

402 世田谷村日記 ある種族へ
一月二日

箱根駅伝を9時前までTVで視て発。烏山神社に参る。今朝も10人程の人。車椅子の方々が3名。京王線は満員である。正月早々皆さんよく動くな。他人の事は言えないけれど。

10時半研究室。スタッフとあいさつ。李祖原の息子のリチャード・LEEより中国西安の法門寺の国宝、ブッダの指の資料が送られてきている。

早速南無の会中島和尚に会い、渡す事とする。

研究室に1月1日に手掛かりをまとめたプロジェクトを伝達して進めてもらう事とした。

Xゼミナール13信難波先生のページに送附する。

アニミズム紀行5、15冊にドローイング入れる。新年なので図柄を一新「山上都市之図」とする。東北の計画のための頭ならしである。しかし、頭ならしなんて言い方をしてるけど、筆で何冊にも図像を描くってのはいささかのエネルギーが必要で、それなりの成果が無い訳もないのである。ここ数年に考えていた何がしかが表出されてくるのを実感する。今日の日付が入った15冊は良いドローイングが入っている筈だと思う。手慣れたものでないのが我ながら良い。

14時前、仕事を終え新大久保のコーリヤ料理屋へ。外階段に行列して待つ。正月なので和食屋は皆休みである。コーリヤ料理を食す。16時過了。17時世田谷村に戻る。

一月三日

4時半目覚める。5時半離床。メモを記し、スケッチ。昨日アニミズム紀行5に山上都市之図を描き込んだが、その続きの作業を行う。8時小休する。

小包が届く。石垣島の渡辺仁史先生から立派な泡盛である。先生に余計な気を遣わせてしまったな。真栄寺馬場昭道さんより、電話あり、明後日の会合の中島教師さんとの中国法門寺の件の確認。日本仏教会、中国仏教会の実質的な交流を具体化する計画である。慎重に着実に進めたい。ここ数ヶ月のプランを練る。14時半山上都市、部分スケッチWORK中断する。少し具体的な戦略が視えてくる。やはり頭の中だけで、あるいは言葉をメモするだけでは、わたしの思い描いている世界は手許にはたぐり寄せられない。昨日からアニミズム紀行5にドローイングを描き込んでいた山上都市之図は手を動かしているうちに、やはり温泉付寺院、宿坊(旅室)の大伽藍のスケッチとしてランディングしたのだった。15時作業を中断する。

16時発渋谷、表参道を経て難波さん宅へ。途中道に迷い、表参道青山通り交差点交番にて尋ねる。その指示によって歩くも更に迷い、ようやくあった公衆電話から電話する。迎えに来ていただく。鈴木博之先生も一緒であった。

難波邸が記憶より細長いのに驚く。佐々木睦朗さんと共に新年の祝宴。

奥様手作りの料理をいただき雑談。しかしカルパッチョだけは魚釣りのエサを食べてしまった記憶がよみがえり、どうしても手が出ず。難波さんのところの猫は小さくて実に可愛いのにビックリ。白足袋は実に巨体のデブ猫である。仏壇の隣りに妙な仏像があり眼をひいた。奥様の父君が西安で求められたものだと言う。まさか本物のガンダーラ仏ではあるまいが、まがいにしたら良く出来ている。しかし顔付きが少し甘いな。かつて佐藤健の「酔庵」にガンダーラ仏の頭があり、奴は本物だったら1500万だぞとえばっていた。いい顔していたのでクレと言ったら、コレだけは駄目だと断られた。記念に何か欲しいものだとトイレに行ったら中に小物がゴチャゴチャ置かれていたので、青いヒトデ風のモノを一つ失敬した。言わぬと泥棒になるなと思い、コレ、もらってゆくからとキチンと断わる。

20時半了。駅迄送っていただき別れる。

21時半世田谷村に戻る。白足袋迎えにも出ず。今度難波さんの家に行ったらこの猫ちょうだいと試しに言ってみよう。

一月四日

驚くべき事に9時前迄熟睡してしまう。太陽がすでに高く、お天道様に申し訳ないとはまさにこの事だな。メモを記す。昨夜、Xゼミナールに鈴木博之さんも寄稿されたとの事で楽しみである。今年はXゼミを少し本格的に育てあげたい。昨夜、鈴木さんから『私の「写字生」体験記』木田元(有隣)を渡されたので読む。手書き文字や紙の本への木田元先生なりの挽歌のつもりだとされて書かれたものだ。

木田元先生には高山建築学校で親しくしていただいたが、木田さんが活字文化への挽歌だと記すのだから、本当にそうなのだろうと身にしみる。技術の変化が何処まで人間の気持を変えるのか、今はそれを視つめている時代なのか。

401 世田谷村日記 ある種族へ
十二月三十日

12時世田谷村発、どうやら昨日の疲れか足が重く余り歩きたくない。新宿南口長野屋にて研究室忘年会。15時了。味王に行くも主人、おカミさん共に不在で皆と別れる。16時烏山長崎屋にてあいさつ。すぐに去る。16時半世田谷村に戻り横になる。21時アニミズム紀行7のスケッチ。こんなモノであろう今年は。

京王デパートの地下にいつも大行列ができている店があり、今日は行って帰っての2列で100名くらいが並んでいる。この暗い時勢に何だろうといぶかしんでいた。マア何かの菓子屋であるのは確かめていたが、今日はパンフレットをもらった。パンフには品不足にて12月から1月初旬にかけては記載商品だけとするという、かなり強気の内容である。株式会社原田ガトーフェスタハラダとある。洋風薄手せんべいである。グーテ・デ・ロワ、グーテ・デ・ロワ・ホワイトチョコレートという名である。他にグーテ・デ・プリンセス、グーテ・デ・エスポワールと何だこの無国籍振りは。並んで行列している人々もアメリカン、フレンチ、ジャーマニイ文化が入り混じり、洋風信仰の強い人々なのであろう。

このデパ地下一帯の大方の店はこれに類する、言ってみればディズニーランドである。団子屋も和風せんべい屋も何となくひっそりとしている。他人はとも角、わたしの愛用店は新大久保近江屋、新宿味王、長野屋食堂、烏山長崎屋、宗柳の5店である。和食ソバ屋、旧日本的食堂、旧ラーメン屋、和食ソバ屋であり、レストランテとかましてやクリエイションズとかは足を踏み入れることはない。

昔は気取って散財もした。ワインなどガブ飲みして、何もうまくなかった。ラベル貼がしたりもしたが今は全く関心もない。それで一向に差し支えなし年の暮。

十二月三十一日

8時半離床。4時半に目覚め本を読んで再眠した。7時半頃、アニミズム紀行7のテーマを決める。螺旋運動の中で深く沈降してゆきたい。

昼過ぎ、買い物に出る。しょうがと卵を買う。モヘンジョダロを抜け、ビワの王の樹を眺め、オヤ、長崎屋ののれんが出ているなと驚き、ブラブラと歩く。大昔河に面していたと言う烏山神社の社を北の窓から眺める。

世田谷村のあるところは太古小さな河、あるいは東京湾の内陸深く迄入り込んだ海の水に面していたと想われる。

江戸幕府は玉川上水のみならず、多くの土木工事を行い江戸の住民に必要な水を確保したようだ。

今年品川宿まちづくり協議会と結びつける努力をした烏山寺町の高源院の水源地もそうだし、烏山上水の大工事もその一例であった。世田谷村の隣りの神社を考えると意外や意外、極く自然に太古よりの引き継がれてきた霊的なモノは今の時代の都市のベースになっているのである。

江戸の都市計画は陰陽道、気の流れ、崇徳天皇のたたりへの怖れから決められた要素が多々あった。疫病の流行への怖れ、大災害、天変地異への怖れは今も何変わるとこはない。

昼食はパスタとなる。14時文房具屋へモンブランのインキを買いに出る。Xゼミを書くつもりだ。食後、再び買物に出る。裸足にサンダルで流石に冷たい。クツ下はくのが面倒くさいだけ。Xゼミ5枚迄辿り着き休む。

二〇一一年一月一日

昨日は烏山神社のお神楽がテンテケ、ずーっと続いて何だかバリ島のプリアタン村に居るようであった。

7時起床。すぐに烏山神社、白山比咩大神(はくさんひめのおおかみ)に初もうで。10人程の人である。世田谷村の前の道で初日の出をおがむ。7時半3階のデスクに陽光指し込む。デスクの北側に居るチベット・ジョカンテンプルから来たヤング・シャカムニの座像に陽光が指し、金銅仏光り輝く。山口勝弘先生より頂いた、廃墟の上に輝く太陽の紅朱にも光があたり、中の金色が輝く。毎朝、この時間にはこんな光景があったのか。良い元旦である。

Xゼミの続きにとりかかる。9時10枚迄辿り着いたところで休止。今日は正月だ。少し休もう。すでに朝の光の神々しさはどこかに失せた。

11時40分プロジェクトスケッチを14段階のコマにまとめて明日の研究室での打合せにそなえる。雑煮を食べ、14時昼寝する。16時夕食。19時半眠りにつく。

一月二日

6時起床。メモを記す。Xゼミナール13信読み直す。30分弱かけて読み直した。随分書いたんだ。年越しの原稿だものな。東南の空がうす朱とうすい青に色ずんでくる。朝の光は良いなあ。

東北秋の宮物語り絵図作りにとりかかる。柳田国男の遠野物語りを参照する。遠野物語りは全てアニミズム世界であるが、秋の宮物語りはそのアニミズムが現代に於いてどのような形で生き延びているか、そして再生するのかの物語り=デザインである。

12月の世田谷村日記