3月の世田谷村日記
445 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十八日

制作ノートを記して、新宿へ。17時味王の開店前の階段でカンボジアのナーリさんに会う。お互いの近況を報告し合う。別に大した報告ではない。マア、ボチボチ人の径に外れぬ事をやってます位の事である。17時半過開店し店に入る。ナーリさんにそろそろカンボジアを卒業してアフガニスタンを終の棲家にしたい旨を告げられる。アフガニスタンに行かれたら、時々会うこともできなくなるよな、と言ってもせんない事ではある。ナーリさんによれば、アルカイダも健在であると言うし、それは仲々に大変な事なのだ。

問いつめればナーリさんのカンボジアからアフガニスタンへの移住計画は進んでいるようで、それはともかく、我友ナーリさん(※絶版書房、アニミズム紀行3参照)の決意は固く、なんとも切ないものである。

18時半、向風学校代表安西直紀加わる。安西直紀は、近い将来、政治家への径を歩むと我々に宣言した。まことに喜ばしい。今は政治家はあまりにも小粒である。安西直紀は慶應大学0単位退学という輝かしいキャリアの持主である。大学教育は無意味であるという直観だ。そうした一面では正しく、逆の面では性急な判断ではあった。が正しい判断であったとも思う。彼のような生れ育ちを持つ者にとっては、である。向風学校はわたしも創設に参加しているので、安西には大きな政治家への径を歩んでほしいと思うばかりである。まだわからないが今の政治家とは異なり、小粒ではないのは良く知るのである。21時前了。新宿駅で散会。ナーリさんとは又、いつ会う事ができるのか知らぬ。21時半前世田谷村に戻る。

大柄な政治家の生誕を待ちたい。大げさだな、今日の日記は。しかし、正直なところである。

三月一日

ナーリさん(アニミズム紀行3に登場)は何故あんなにヒョーヒョーとして、元気でいられるのだろうか。本人を眼の前にしたら、とても言えたものではないけれど、この人物は品格としたら明らかにわたしより上である。雛壇に座らせて拝みたい位のものである。友だからわたしには見栄を張って悪いところは隠しているんだろうけれど、それでもたいした者だ。フーテンのナーリと呼ばれる程にほとんど何の仕事もせずにブラブラしている。でも昨日聞いたら大金じゃないけれど金はためましたから、それでアフガニスタンに行くんです、と言っていた。どうやって金をため込んだのかは一切言わない。悪い事はしてないのだろうと思うしかない。

もう74才であるから、いつどうなってもおかしくはない年だ。それに異国での独り暮らしだから、いつもこれが別れになるやも知れぬと思って会うのである。昨夜もそんな気がして、何か書き残せよと言ったら封筒を破った紙片にアフガニスタンの地図を描いてくれた。形見としていただく事にした。正真正銘のフーテンであるから、最期は遊牧民族の知り合いのところがいいんだとの事であった。来年の春にはプノンペンから移住すると言う。どうしてプノンペンには居られないの、と尋ねたら、どうしても馴染めないんだとのこと。フーテンの寅には月見草と、やっぱり電信柱のない日本の屋並みが似合うけれど、フーテンのナーリさんには砂嵐と荒涼たる月が似合うのだ。

デラシネだとかノマドとかインテリゲンチャンは洒落のめすけれど、ナーリさんには遊牧民になりそこねたヒッピーのリアリティがある。言いようもない哀切が背中に貼りついているのである。日本くらいイヤなところはないという、言わざるを得ない哀切である。これは辛いだろう、本当は。

444 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十六日

憶い出したが、昨夜は夜ばったり宗柳のオヤジに街で会い、二人で飲んだのだった。オヤジから色んな話を聞けて良かった筈なのだがほとんど忘れてしまった。それぞれの家にそれぞれの歴史があるもんだ。それ故世田谷村に戻ったのは23時頃だった。

9時過世田谷村発、10時半前早大大隈講堂。学芸出版の企画に対応、他原稿チェック。11時公開講評会。学部卒計共同設計、14作品の発表を全て見て、聞く。早稲田建築の卒計は意匠、構造、材料施工、環境(設備・防災)の各系が三名一組となって自主テーマに取組む。この方法は全国に先駆けて行なっているものだが、今年はその成果がようやく現れてきた。学生の作品、発表は仲々良かった。むしろ先生方の評価方法に問題があるかもしれない。「東京再考−8.25kmの都市ミュージアム−」が面白かった。スカイツリー、東京タワーの新旧2つの情報タワーの8.25kmの距離間、あるいは双立する意味そのものを情報化しようとするもので、もう少し考えを展開すると将来の建築像の総合性を考えるヒントになるであろう。他の作品も全て水準が高く見応えがあった。

次いで修士論文13題の発表を聞く。入江研究室の「アルヴァ・アアルトのフリーフォームに関する研究−アルヴァ・アアルト・家具・ドローイングを通して−」板橋真敬が良かった。構造系、「沸騰水冷式によるアルミニウム合金構造への耐火性能付与に関する研究」新谷研、今井大樹も興味深かった。

「市街地防災性能を有する歴史的市街地再構築の提案−伝統建築物改修仕様の開発と効率的な面的整備手法の検討−」中嶋綾乃の実践的密度も素晴らしかった。総じて修士論文は各系が系の専門領域の穴に閉じ込もりやすく、他領域との交差がしにくいものであり、建築本来の総合性の壁になりやすい。その意味では各系、各研究室のそれぞれの成果を教員全員で聞くのは大変良い事であると思った。

修士計画13作品も著しいバラつきがあるが、これも又、一時期の低迷振りを抜け出しつつあると実感できたのは良かった。

石山研は4作品を発表したが、これに関しては発表の機会を得なかった研究室の全6作品に対する綿密なクリティークをこのページに公開し広く世に問いたい。修士設計は修士論文に要するエネルギー、他が投じられる必然がある。又、知恵も必要となる。世界への視野も必要となろう。

予定時間をかなりオーバーし昼食を挟んで19時半に終了。わたしは先約があったので懇親会は失礼した。ミャンマーより人が来てイラワジ計画で打ち合わせであったが、今日は結果として延期となってしまった。22時前世田谷村に戻る。

二月二十七日

久し振りに朝はゆっくりする。10時半世田谷村発現場へ。11時過京王稲田堤建築現場。今日も馬淵建設の輿石所長他スタッフ、及び石山研の渡邊が現場チェックしている。今年になって休日は一日も無いが、こうしなければ工期が間に合わぬのだ。しかし条件が厳しいと頑張るものなのだ、人間は。しかし各階、職人の姿は流石に少なかった。

一階テラスに座り込んでレンガ積みの園庭を眺めていたら、いきなり得体の知れぬ寂寥感がやってきた。これはいかん、と振り切ろうとするが、いかんともしがたい。9年前に死を覚悟した佐藤健の、最後の旅を共にした。タクラマカン砂漠の入口でもある敦煌の空港に降りたって、空港の前の小さな車寄せの向こうのポプラ並木を眺めていた。小さなつむじ風が吹いてポプラの落葉を砂と共に吹き上げた。それをボーっと眺めていたら、背中に人の気配がある。振り返ると佐藤健がそのつむじ風を眼光鋭く眺めていた。しばらく並んで眺めていた。風を。

そんな事を想い出したのである。不思議なものだ。死者は思い起こす度に甦る。小さな園庭にポプラ並木の向こうに広がっていたタクラマカン砂漠が視えるのだった。そしてテラスには佐藤健が座っているのだった。

早々に現場を去る。13時半烏山宗柳で昼食。長崎屋で一杯昼間から飲り、世田谷村に戻り、寝てしまう。流石に夜半目覚め、学芸出版よりの読書本の構想を練る。書評本を今更書いても仕方ないし、建築関係図書にそれ程の魅力があるのは少い。つまり、本にまとめるだけの評を書かせる本は少い。それを読ませるものとするには工夫が必要である。今日の体験から、実物の建築と書物へのつながりの旅の形式をとろうと決めた。書物や旅がいかに実体としての建築に反映されているのかを書き起こしてみたい。困難ではあろうが困難なことに取り組まなければバカバカしいだけなのである。とすると、最新作の稲田堤の建築から入るか、処女作と言われている幻庵から入るか、そして建築と連なる書物は何になるか。『建築の世紀末』鈴木博之になるのか、J・ボルヘスの『夢の本』になるのか、あるいはポルシェで走り廻っている二川幸夫の『GA日誌』になるのか、面倒臭いから、その3冊を一度に書いてしまうのか、それは面白そうだけれど、わたしの方にそんな力量があるとも思えないし……。でも、建築と書物を巡る形式にする事だけは決めたい。編集者から提案されたものとは大きく逸脱するけれど、それは仕方ない事であろう。

二月二十八日

6時半離床。メモを記す。雨である。又、寒い日に戻った。8時に現場へ発とうと思ったが気になって久し振りにイヤなTVをつけてみたら、衆院予算委員会を中継していたのでしばし凝視する。政治家も建築家も著しく小粒になった。わたしも小粒であるが、少しはピリリとしたい小粒の一人であり、一匹である。首相の顔もヤジを飛ばしている議員の顔も皆、貧相である。TVはそんなディテールだけを報道すれば良いのだ。もっと貧相極まるキャスターやらコメンテーター、無能になりつつある新聞記者の右へならえのヘリクツなぞには接したくはない。こんな時勢にはTVは現場中継だけしろと言いたい。

ニュージーランドの日本人専門学校学生が埋没している現場の救出作業が映し出されている同じ時にお笑いタレントの三流ギャグ悪ふざけを垂れ流しているのはどうした事か。

この災害で痛々しいのは、大地震に遭遇した日本人の方々の年令の若さそのものである。多くが外国で語学研修中の、希望に満ちた、しかも行動に移そうとしている人材であった。まことに無念であろう。

443 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十五日

8時40分世田谷村発京王稲田堤現場9時半。何件かの指示。10時半現場発。11時半研究室。佐藤滋先生、古市徹雄さんと相談。12時半学生面談。13時発。14時過稲田堤現場にとんぼ返り。細部の決定をいくつか。内部を見て廻る。オリジナル照明器具が入った。乳児院の子供たち、先生方にはあたたかい家になるようにと思ってデザインした。小さなモノに頼って生活するような事が人間にはある。丹精をこめたので外部の低いレンガ壁の流れが建築につながる力の流れが生まれてくれた。これで、なしの樹、桜の樹が園庭に植え込まれ、アルコーブのテラスに巨大な親子牛の彫刻がくれば全体はざわめいてくれるだろう。建築の足許まわりに雑草、草花がゆれてくれれば建築は生きてくれる。

17時過K理事長と夕食へ。近くの洒落たイタメシ風料理店さくらへ。野菜を自分で作っているようである。ホワイトレバーをパンの小片に乗せたのがうまかった。21時半了。京王稲田堤駅で別れ22時過世田谷村に戻る。

二月二十六日

5時過起床。メモを記す。今日は現場に行けぬのがつらい。さりとて学部・大学院の学生達の卒業計画、論文の発表会であるのでこれは立ち会いたい。

さくら乳児院、なしのはな保育園、川崎市子育て支援センターの複合建築である至誠館建築は施設の正式名称は長いけれど、わたしも決して短くはない体験、経験の多くを注ぎ込んだ。子供たちのみならず、多くの人に体験してもらいたい。

442 世田谷村日記 ある種族へ
二月ニ十四日

9時半過世田谷村発。京王線人身事故でダイヤ混乱。10時ジャスト法政大学55年館ピロティ部の待ち合わせ場所に到着。大江新、鈴木博之、難波、佐々木睦朗、桐原DOCOMOMO委員と共に大江宏先生設計の法政大学55年館/58年館を見学する。

1958年完成のこの建築については若い頃の印象と今日の印象はかなり開きがある。その開きが何処から来るのか考えてみたい。建築には感動した。何処からこの感動が来るのかは、それ程に単純な径筋ではあるまい。大江宏先生からは、建築を考えるのには出来るだけ遠廻りして、うかいして考えるようにと教えられた事がある。少しばかりはそれが出来ているやも知れぬ。全く出来ていないかも知れない。自分では解らない。構造設計家佐々木睦朗さんと共に見学したので、面白い視点も教えられた。実に楽しかった。11時半頃見学了。この間の事はXゼミに記したい。Xゼミもだいぶん考えが蓄積されてきたので、内容をヴァージョンアップできたら良いな。工夫したい。その工夫のアイデアに関して難波さんと相談してみるか。皆さんと市ヶ谷近くのソバ屋で昼食をとり、別れる。

14時京王稲田堤の現場へ。今日は現場に立ち続けるのは少しばかりキツイので、折りたたみ椅子に座ってレンガ積みを見守る。道をゆく通学の子供たちが穴空きレンガ壁に好奇心を持ってくれるのが嬉しい。夕刻、K理事長とお茶。風間の壺をいただく。

17時半烏山長崎屋で休む。18時半、烏山センター2F区民ホールにて、久しぶりにまちづくり協議会に出席。区役所のスタッフも毎回数名出席しているが、仲々わかりにくい会である。しかし、もう少し我慢して出席だけは続けよう。20時過了。世田谷村に戻る。メモを記す。23時横になる。伊藤毅研究室編『地域の空間と持続』読む。東大伊藤研のエネルギーには驚かされる。

ニ月二十五日

6時半離床。エジプトのムバラク政権崩壊に端を発する中東の独裁政権動揺の連鎖は凄惨である。インターネット、ケイタイの新しい情報インフラがこの状況を点火した。燃えやすく冷めやすいのが特徴だろう。メールのコミュニケーションの特徴はメッセージが短い事である。高度に複雑な内容は伝わらない。わたしの電子ページの文章、すなわちこのメモも内容はともかく、できるだけ長く書こうとするのはその故である。

ニュージーランド、クライストチャーチの地震の行方不明者の皆さんの大方は若く、彼等彼女達の無念さを想うと胸がつまる。強くて柔らかい建築がどうしても必要である。わたしの今の現場でもレンガの塀の部分が多いので鉄筋の補強にぬかりは無いか連日視廻っている。レンガ積み職人は皆誠実で良い仕事をしてくれているが、念には念を入れるがわたしの役割でもある。

441 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十三日

11時前、至誠館現場。12時半昼食。K理事長、越石、渡邊各氏と。13時半現場にT氏に来ていただきサウジアラビアの件概要を聞き対応を相談する。申し訳なかったが現場での立ち話になったが、対応は素早くしようとなる。外構工事の低いレンガ壁を全て把握できた。プノンペンの「ひろしまハウス」での試みを、複雑に洗練させた。この方法はカンボジアでしか成立しないのではないかとも考えていたが思い切って試みて良かった。園庭の土と、入るであろう緑、K理事長の指示でなしの樹、さくらの樹が15本入る。この地域の歴史が樹木に反映されているのである。江戸時代の桜並木、周辺のなし畑の記憶を園庭に集約しようとしたに違いない。各所の外構ディテールもできるだけコンクリートを避け土を残すように配慮した。道路を通る児童たち子供たちの姿、身の丈の動きを観察し続けたので、レンガの塀のデザインは自信がある。完全ではないがそれに近い。越石監督、職人さん達の考えも取り入れ、渡邊も学んだであろう。デザイナーの頭だけではどうにもならない事が多い。現場の知恵はどしどし受容したら良い。でも根底の筋だけは曲げぬのが大事だ。

17時半理事長、越石監督と共にJR南武線武蔵小杉へ。北海道釧路料理店で鎌倉からかけつけて下さった理事さんと共に会食。ねぎらっていただいた。アッという間に21時半となり、武蔵小杉で皆さんと別れ、理事長と南武線に。プラットホームに突然倒れた人がいて、これからあの人の家族共に大変だろうなの言葉が身にしみる。身体は大事にしなければ。しかし気をつけてもどうにもならぬ時もある。運を天に任せるしかない。明朝、隣りの神社にお参りしよう。22時半世田谷村に戻る。

二月二十四日

6時半離床。メモを記す。昨夜のふろふき大根はうまかったなあ。あの一品は烏山宗柳に勝るな明らかに。又行きたい。

ニュージーランド、クライストチャーチの地震で倒壊した建築の瓦礫の内に数十人のあるいは数百人の人間が埋まってしまっている。建築は人間の生命を守る為のモノであるのに人間を傷つけるモノにもなるのを実感する。一人でも多くの人間が救出される事を祈る。昨夜、武蔵小杉のプラットホームに意識不明で倒れていた人の生命無事ならんことも願いたい。人間の生命を守り、育くむ柔らかい建築、都市を目指さなくては。

梅の樹にむく鳥、メジロが集り梅の芽をついばんでいる。梅の花や小枝がゆれて美しい。樹の構造は良く出来ているが、地震で折れる樹もある。樹木だって上手に構造ができているのと、下手にできているのがあるのだろう。9時前世田谷村発。市ヶ谷、法政大学へ向う。

440 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十二日

モヘンジョダロの遺跡を抜けて、稲田堤の現場へ。10時着。職人さん達がどんどんわたしに直接相談してくれるようになった。11時半現場発大学へ。12時半研究室サイトチェック他。13時研究室ゼミ希望者、大学院入室希望者面接。良い人材を得られた。頑張ってみよう。人材無くして教育無し。人を育てるのもレンガ積むのも同じ事だ。ゆっくり段々形になる。14時研究室発。渡邊助教と再び稲田堤へ。15時着。エントランスの銘板取付けにK理事長共々立会う。道端で外構のコンクリート打設を管理していたら、自転車に乗った親子連れが自転車をとめて話しかけてきた。わたしのサイトをのぞいて下さっている人のようで、この春から、作っている園に入園されるとの事。我々の建築にも興味を持って下さっているようで嬉しい事であった。子育てに頑張っているお母さんにもわたしの読者がいるのは力強い。しばらくは現場にいるので声を掛けていただきたい。

淡路島の山田脩二さん現場に現われる。このカンボジアのレンガとベトナムのタイル、要するにメコンデルタの土の味を見てもらいたかったので良かった。この現場には淡路瓦は使わなかったけれど、屋根を架ける建築がきたら、山田脩二の瓦でやってみようと決めている。中国の灰黒のレンガ、カンボジアの朱色レンガ、ベトナム、メコンの朱タイル、淡路瓦などを組み合わせたら、人間の生命の活力にはとても良い建築ができるに違いない。それは作ってみたい。山田脩二さんをK理事長に紹介する。理事長は焼物に深い愛情を持つ人なので気が合ったようで良かった。明日はT氏がサウジアラビアの仕事の件で打合わせたいと言うので、この現場に来ていただき、現場で打ち合わさせていただく事にした。わがままをさせていただき申し訳ないけれど、わたしの建築への情熱、エネルギーもこの現場でのレンガやタイルが発生させる力で蓄熱させたいのでお許しあれ。本当に実感するのです、建築からエネルギーが伝わってくるんだなあ。子供達にも先生方にもお母さんお父さんにもそうであって欲しいものです。16時半山田脩二去る。

17時、急に寒さが身にしみて、体力がガクリと落ちるのを感じ、わたしも去る。人間気持のエネルギーだけでは生きてゆけない。18時烏山長崎屋ラーメン店でタンメンを喰べる。オヤジさんは明日は病院だそうで、イヤダイヤダとつぶやく。イチゴやら何やらをいただき、オヤジとオバンと話しているうちに、大した話しではない、長崎の白アリは強烈だと言うような話しである。白アリの話しから、オヤジの大工時代の話しになり、客の一人と大工技術の議論が始まり、じゃあ、こちら専門家なんだから話し聞こうじゃネェかとなり、わたしもこりゃまずい話しになったとは思ったが、それなりに威儀を正してウムウム、と議論両成敗となった。ここでは、わたしが一番空虚な存在だな。先生と呼ばれる程のバカは無し。20時世田谷村に戻り、すぐに布団にもぐり込む。カゼをひいたりは今はできないのだ。

ニュージーランドで地震があり、日本人が大勢行方不明との報道あり。多くが語学研修の方々のようである。複雑で得体の知れぬ世の中になったけれど、心から無事を祈りたい。

山口勝弘先生より便りあり、二人展、山口勝弘、石山、二人展の企画を本格的にすすめなくてなならない。山田脩二に相談してみるかと思い付く。どなたか良い知恵ないだろうか。先ずは場所だな。

二月二十三日

3時前に目覚めてしまい、メモを記して再び眠る。疲れは引いてくれたようだ。

7時半過離床。山口勝弘先生より便り届く。二人展に向けて頭脳が活発になられたのかも知れない。次の夢はトンネル技術をハイブリッドさせたオリエンタルエクスプレスの開設であると記されている。

これは天下万民の、今風に言えば高齢社会の市民の皆さん(わたしも含めて)に知らしめるべきだと考えた。山口勝弘先生の事は度々、断片的にわたしのサイトで紹介してきたけれど、そろそろ筋径をつけて再構築しなければならない。近いうちに山口勝弘先生の了解をとりつけて公開してゆきたい。サイトの名前はオリエントエクスプレスとしたい。

439 世田谷村日記 ある種族へ
二月二十一日

11時研究室。学務。13時現場。大体仕上ってきた。補修工事等を視る。延床1660㎡の建築だが、隅々まで把握する事ができた。左官、レンガ積み職をねぎらう。15時K理事長とお茶。彫刻家長嶋栄次さんの作品写真を見る。大きな親子牛と人間親子の像がやってくる事になる。楽しみだ。表通り側の外構工事にかかり、最終段階である。16時半現場を去る。高円寺へ。

夕食をとり、18時難波鈴木両先生と会い、座・高円寺18時過、伊東豊雄事務所設立40周年記念会場。沢山の建築関係者で溢れ返っている。18時半過、藤森照信聞き手で磯崎新と共にインタビューに応じる。わたしの役割は伊東さんにフォーカスを戻す役割。予定時間20分では何も話せないのを知る。それに冒頭の伊東豊雄の北島三郎のまつり、カラオケに仰天してシンポジウムは爆沈の感あり。二部三部と密実なプログラムであった。

修了後、パーティは失礼して磯崎新、鈴木博之、藤森照信と広尾の磯崎宅へ車で。久し振りにと言うよりも、このメンバーで磯崎新と話すのは初めての事であった。翌日1時半迄。藤森に車で送ってもらい、2時過世田谷村に戻る。

二月二十二日

7時離床。昨夜と言うよりも今朝のシャンペインがまだ残っている。伊東豊雄さんの建築塾構想は本気のようだな。昨夜は早稲田の尾島俊雄名誉教授にもお目にかかり、学園の近況をかいつまんで報告した。建築も大変だがその基底を作る建築教育の現場も仲々大変である。伊東さんの健闘を祈りたい。9時過発現場へ。

438 世田谷村日記 ある種族へ
二月十八日

9時半過、烏山神社を経て京王稲田堤建築現場へ。10時過、さくら乳児院+なしのはな保育所+児童家庭支援センター、複合施設の工事は最終段階になってきた。今日も外構工事、つまりは園庭工事、及び「ざくろの小径」の工事にピタリと張りつく。昼過、K理事長と昼食。再び現場に戻り、16時半迄、冷風の中を立ち尽くし、隅々まで視る。「ざくろの樹の外灯」の位置を決める。厚生館愛児園の小さなエントランスに置かれた「ざくろの樹の街燈」と呼び合うように、つまりそこに独特な関係が意識されるように配慮した。又、園庭に残した樹木ともハレーションを起こさぬような寸法を決断した。

子供たちの園庭の足洗い場の大きさ、位置、そして、ぐるりと庭園を囲むカンボジアのレンガの低い塀によって作られる空間のハダざわりと言うべきを、ほぼ決定する事ができた。わたしとしては庭園のデザインを意識してなした。いずれ、本格的な庭園、公園をデザインする機会を得たら、この体験は大いに役立つだろう。園庭に出来得れば少しばかりの高低差を作りたいと考える。わずかでもよい。

何年か前にメキシコのグアダラハラでバラガンの初期建築と庭のデザイン、時にその地面のテクスチャーを体験したのを少し生かせたかとは思う。バラガンの外構デザインは密度が濃くて素晴らしかったと、今にして思い起こすことができる。小さな石を埋め込んだりはこの庭ではしない。方法的にしない。その代わりにK理事長の雑草、雑花に対する考えをデザインに編み込んでみたいと考える。

この建築では外部を具象的に内部化するのを、これから一週間全力を尽して試みてみる。

16時隣りの厚生館愛児園二階でK理事長とお茶を共にする。一日中外に立ち尽くしていたので体の芯まで冷えて紅茶がおいしかった。16時半現場を去る。17時烏山長崎屋ラーメン店でカキフライを食べ休む。19時世田谷村に戻る。少し赤味がかった満月が東の空にブラ下がっている。明日は現場が早いので今夜は早く寝よう。

J.ボルヘス「円環の劇場」読む。愚かな思い込みではあろうが、今つくっている建築の庭園にはほんの少しばかりではあるが世界各地で体験した、例えばアンコールワットやシルクロード、インド亜大陸の古代建築群の記憶がしみ込んでくるようになったと自覚している。これはやはりベトナム、カンボジアの材料を多用した事から得られている。素材、材料は建築の基本だが、我々の手にするモノは意外な程に少い。アニミズム紀行7の一部を読み直す。

二月十九日

6時前離床。東の空は明けそめている。そりゃそうだろう西の空から明けそめてもらったら困りはしないけれど、天気予報は困るだろう。飛行機会社も困るであろう。それはともかく、7時半世田谷村発。8時過京王稲田堤、乳児、幼児、子供のための、総じて子育ての施設のための建築現場へ。早朝から現場は動いている。わたしも外構工事を中心に施工をチェックし、指導する。園庭部が全て把握できるようになったここ数日のわたしのデザイン再考は重要である。図面にて外構工事の数十枚の指示は勿論すでにしてある。施工図も仲々綿密なものができ上がっている。しかしながら現場での再考は必須なのである。図面は、テクスチュアーのニュアンスが伝達できない。手触り、匂いの類いである。形態とは全く別系統で人間の気持に訴えかけてくる大きな要素である。むしろ形態の持つ力よりも巨大な力を持つものである。

これ迄、建築の外構工事、今のわたしの考え方に於いては庭園デザインに於いて、残念ながらエネルギーを注ぎ切る事は出来なかった。やはり建築を主として、それに注意を注ぎ切ってきた。しかし、色々と考える事もあり、この「さくら乳児院、なしのはな保育園、子育て支援センター」複合建築の現場では、それを改め、建築内部と同様に建築外部へのデザインにエネルギーを注ぐ事をした。それがここ連日の密実な現場通い、むしろ現場への張り付き状態になった。正直なところ、都市内での庭づくり状の現場は初めての体験である。わたしは大した経験も知識も無かったので、それであらゆる他事をしりぞけて、庭師の如くに、恐らくは、庭師もそうしているが如くに現場に張りついたのである。今日、明日がその山場なのである。直観的に。この数日、あるいは二週間程の体験はわたしの未来にとっては重要な体験になるのである。わたしの意識的な庭師としての体験である。ボルヘス的庭師である。

外を内部にのコンセプト、コンセプトと呼ぶのは恥ずかしい位の、身も恥じらう位の気持だなコレワ。その気分で外部を見て廻り、職人の手間代をプラスマイナス、ゼロにするバランスの中で頭の中に工夫を重ねる。一部を輿石現場監督に伝える。昼迄、細部まで視る。昼食は一人で近くの牛丼屋で。これはまずかった。今日はK理事長は千葉県木更津にスタッフの皆さんと出張なのである。午後、16時迄、現場に張りつき、そして去る。今日も身体力として精一杯であった。眼前の課題をクリアーできずに、他に何を成し遂げられようか。

17時前烏山長崎屋ラーメン料理店で休む。ささやかな馬鹿馬鹿しい、しかし健康な休息である。ボルヘスも良いけれど、長崎屋のオヤジも仲々に良い。18時半世田谷村に帰る。

二月二十日

5時前、離床。その前に明日の伊東豊雄事務所創立40周年記念シンポジウムでの発言内容について、あれやこれやと考える。藤森照信が司会で磯崎新と1970年代について話すことになっているのだけれど、磯崎さんはそんなシナリオに簡単に乗るような人ではないから、何が起きるか解らないのでヨロヨロしない様に何がしかの対策を講じておく必要があるのだ。わたしはわたしなりの意見を言うしかないけれど、時にその場の空気に流されてしまうクセもあるので。短い時間になるのだろうがキチンとしたい。藤森照信がどんなカジ取りをするのか知らぬが、そのカジにも従わずにやるしかないだろう。

大振りなムク鳥が梅の樹に何羽も寄り集まっている。梅の花には小さなホオジロの方が似合うな。

今日は午前中は現場に出ずにゆっくりしたいと考えていた。久し振りにTVを視ようかと、寝ころんで機械を眺めた。流石に民法の番組には耐えられないし、報道番組のコメンテーター、キャスターの類いも視るに辛いのでやはりすぐに止めた。10時過世田谷村発。11時前現場。12時過現場事務所で休み、ウトウトしながらメモを記す。寒くて体にこたえる。午後も現場園庭を徘徊する。遂に手を出して園庭の仕上げの一部を自分の手で描き込んでしまう。全てをこうする、つまり自分の手を直接入れ込む事が不可能なのが建築である。つまり建築とはスケール、つまり大きさの問題なのであり、それを作る為に必要な費用の問題でもある。単純に思考を還元にすれば、単独の表現者だけでは出来ぬところに建築の面白さがある、と突きつめればそういう事である。15時K理事長、厚生館愛児園の皆さん千葉よりバスで帰る。17時過現場を去る。17時半、烏山長崎屋中華料理店で一服し、18時半世田谷村に戻る。今日は厳しい寒さで体力をいささか消耗した。現場に身体をさらし続けていたからなあ。でも寒風でも外の風は身体には実によろしい。いつ迄耐えられるのかは定かではないがね。

今日は床仕上げの左官工事に特殊をするに、道具がなければ、道具を作れば良いのを渡邊に手を取って教えたのだが、伝わっているか覚つかぬ。表現にセオリーは無い。勇気をもって自由になせ、を教えたのだが。

437 世田谷村日記 ある種族へ
二月十七日

10時前現場。外構工事レンガ積みの方法を大変更したのを、又少し変更する考えを伝える。この変更はレンガの数量、手間に影響しないので比較的容易に受け入れられる。小さなレンガの塀のデザインなのだが、重要なので、念入りにギリギリまで考え抜いた。ベトナム産のタイルがギリギリの数量になってきたので、職方、親方にどんな変形した切れ端も全て捨てずに取っておくように指示する。足洗い場、ざくろの樹ホールへの小入口土間、職員用出入口の土間は切れ端をバラまいた様に仕上げるしかないだろう。その際には立ち会わないといけない。玄関ホールが仕上がってきて、過不足なくうまくいったと思う。過ぎたるは及ばざるが如しは、わたしの場合は身にしみているから。12時前現場を去る。

13時前研究室。メモを記しサイトチェック。14時大会議室にて入試空間表現の採点。18時終了。今年は問題が難しかったので採点も難しかった。終了後弁当を食べながら採点委員で雑談。19時過ぎ千歳烏山長崎屋ラーメン店に顔を出し、20時前世田谷村に戻る。

川合花子さんより送られてきていたみかんをいただく。川合健二さんは奥さまの花子さんと自宅の畑でみかんの樹を沢山育てていた。農薬の害が大きく報じられる大分以前から川合さんは自分達の食べるモノは基本的に無農薬であった。みかんの一つ一つは大きさが異り、小さく、しわが多い。店で売っているミカンと姿と味も全くちがうのである。この味が全くちがうと言うのが良く良く考えれば恐いものがある。

二月十八日

7時前離床。暖かいが天候は急変しやすい、油断できない。春はまだ遠そうだ。今日の稲田堤の現場は外の工事はできないな。

436 世田谷村日記 ある種族へ
二月十五日

烏山神社を経て11時前「さくら乳児院なしのはな保育園」現場。雪どけで園庭は条件悪く工事はとどこおったが、沢山の人間が良く動いている。内部造作工事急ピッチで進む。K理事長も毎日現場に来られる。エントランスに設ける坂本好二氏作の焼物の銘板を再度見る。凄い作品で精気に溢れている。これで顔が仕上がるだろう。理事長と昼食を共にする。色々と教えられる。焼物、絵画彫刻草花樹木と多彩な芸術的好奇心が横溢している人物で刺激を受ける。年は取っても気持はいつも吸収モードでいたい。優れ者には率直でいたいものだ。

14時半現場発。15時半研究室。ツリーハウス協会スタッフに図面模型渡し。16時半新宿長野屋食堂で食事。19時世田谷村に戻る。

二月十六日

7時過離床。今日は大学キャンパスは入試で、わたしは年長者となり試験監督はお役御免である。終日現場で過ごすつもり。保育園や幼稚園児たちが先生に連れられて町を行列を作って歩く、散歩している光景に会うことがある。大きなベビーサークル状の山車に乗って町をゆく姿はほほえましくも少し可哀そうな光景でもある。自動車や心ない大人達から守らなければ、子供たちはすでに町を街路を自由に走り廻れない現実を知るからである。

至誠会厚生館愛児園には前にも述べたように園内に「ざくろの小径」が作られている。子供たちにとって親と手をつないで歩くというのはかけがえの無い時間であると言う。それが自動車やオートバイ、暴走する自転車から守られた安全な径であればその共に歩く時間はたとえようも無いものになるであろう。園内の「ざくろの小径」はそんな考えによって作られた。丹念に草木が植え込まれ、様々な彫刻、オブジェ等もセットされている。その考えに共感し、我々もささやかながら、オブジェクトをデザインしたりもさせてもらった。「ざくろの外灯」も設置されている。この「ざくろの小径」をもう少し街中へ伸ばせないかを考えられないかと思う。K理事長の考え、感性を街の中へ伸ばせないか。今日、理事長にお目にかかれたら、先ずはわたしのコンピュータサイトに「ざくろの小径」のコーナーを開設して、広く皆さんにこの考えのあることを知っていただこうと考えている。恐らくはK理事長は恥ずかしいから止せと言うだろうが、これは広く知っていただくべきことだろうと考える。思想がモノに表現されているので、解りやすいメッセージにもなるだろう。

伊豆半島西海岸・松崎町の、なまこ壁通りにストリートミュージアムを構想したことがあった。宮城県気仙沼市で臼井賢志氏等と海の道作り運動にも参加した。全て中途半端になっている。「ざくろの小径」は肩ひじ張らずに頑張ってみようかと思う。

10時過、烏山神社にて御岳白山を拝み、稲田堤へ。11時前現場。処々を見て廻る。理事長も見て廻っていて、自然に会う。昼食を共にする。めぐり会いだなコレワ。17時過迄現場。全ての細部チェックを頭に入れる事ができた。と言うのも幻想かな。しかし、1500㎡、4階、屋上付きの建築のあらゆる細部に、どんな職人が、どれ位取り組み、どんな問題が発生するであろう事の全てを把握することができた。処々で指示、及びアドヴァイス。現場監督の輿石君と同じ位には現場を把握できたかも知れない。これが建築設計の醍醐味であろうか。

18時前、K理事長と共に夕食へ。様々に話し、教えていただいた。久し振りに日本酒八海山をしたたかに飲んだ。この建築のエントランスの170mmのすき間の土にどんな草を植えるかで面白い議論をする。たんぽぽの花、レンゲの花をまたいで建築に母子、父子、他が入っていただくか、どくだみの花のラインをまたいで、建築に入り込んでいただくか語り合う。良い話しが出来た。利休の茶室、織部の茶室の路地の話しよりも、余程上等な話しができたように考えた。今の時間に、現代と言うのかな、クライアントと共に力を尽くした建築の入口、つまりエントランスに、なんとか雑草をまたいで入っていただく工夫をこらしたいと思ったのである。さてさて、いかがなりましょうか。

エントランス壁に設置する、石川好二さん製作の珠洲焼き、銘板の作品はこの建築の見処の一つであるが、その足許に、どんな草花を配し、子供達や親御さん達に、その草花をまたいでいただくか、接していただくかの、デザインも又、実に大事な問題であると理事長共々考えたのである。現在という時間も、その時々にそれ程捨てたものではないと想う事もあるのだ。

21時過K理事長と稲田堤駅で別れる。良い時間であった。明日も現場で力を注ぐのを決めた。本当は現場に住み暮しても良い位の気持なのだが、実に仕上げの1週間くらいはそうした方が良いだろう。バカと言われても、命がけで建築は仕上げてみるのが本当だろう。22時前、世田谷村に戻る。いささか酔った。

二月十七日

7時半離床。薄曇りである。寒い。2階から眺めるに街の処々に残り雪がある。9時過現場に向う。

435 世田谷村日記 ある種族へ
二月十四日

7時過ぎ離床。今もそれは無いわけではない。この早朝も寝床でボルヘスを少々読みかじって、絶望した。こんな風に言葉を使える人物がいて文章を残しているのを知って、何をオメオメとクズ文を日々書き残しているのかの感慨が襲来してきた。こんな深刻な想いに沈み込むのは一度や二度ではない、度々ある。

友人と、同じ雑誌に併行の連載、あるいは隔月の担当制で時評を受け持った事がある。最初は毛綱モン太との雑誌建築での「異形の建築」。次に鈴木博之との都市住宅誌での時評であった。わたしは無防備なところがあって、これは心しないといけないとは今は考えるようにはなった。

しかし時すでに遅しである。毛綱にも鈴木博之にも実ワ、ボコボコにされた。なにしろ読み比べられるのである。赤裸々に。毛綱の博識と独特な文体、そして鈴木博之の論理性には、連載当時よりいや増して年を経る毎に、とんでもない事をやらかしてしまったと後悔つのるばかりなのである。実に活字は残り続けるのである。建築と同じに。昨日も『建築は兵士ではない』を再読して、その感に打たれた。エッセイも古典になり得る質が表現し得るのを実感したのである。それに35年以上も前に、すでにこんな事考えていたのかと慄然としたりさせられたりするのでもある。10年や20年で主張したりが変わってしまう人間は信用ならぬが、それにしてもこんな細部を視ていたのかと新鮮に驚かされたりもした。この日記の文章だってそんな眼で素早く検証しつつ読み、かつ記さねばならないと、これは実に度々考えてはいるのだが能力がともなわぬので出来ない。ボルヘスばかりではない実に身近な処にも、絶望させられる人物は少なからず居るものだ。マ、少なからずと言っても本当は少ない。

建築は兵士ではない、何をいかに模倣するかの論を読むに、30数年前とは異なる実感を得た。文中、鈴木が引くヒッチコック、ヴィンセント・スカーリーといったアメリカの歴史家とは違う地平、と言うよりもフィールドで鈴木が悪戦苦闘していた、そして今もしている困難さを実に身近に感じ得たからだ。

鈴木の論旨を35年の時をへだててわたしなりに乱暴に要約するとこうなる。国際建築様式への潮流は建築を兵士の如くに取り替え可能な機能主義的部品の如くに、つまりシステムの歯車として考えようとしてきた。それはアメリカの先住民文化を空白として当然とらえる、フロンティアの開拓としてあるいは似せて顕現した。ヨーロッパの遅れてきた新思想として、むしろシステムとしてそれはアメリカに上陸して、実に容易にそれを席巻し得た。アメリカン・ボザールあるいはシカゴ派などの先住民的文化は他愛なくひねられた。

というような論旨を鈴木の立場、日本の建築史家としての位置に振り返って眺めるならば、更に日本の建築史家がよって立つ基盤の困難さは極まるのである。それはそれは極まるのである。

現在日本は建設のみならず経済全般が大不況である。さすがの大衆もそれを肌で感じざるを得ない。むしろ大衆がその風向きを歴然と直観している。1970年代のオイルショック以来と言うべきか、より国際間の相対的力量が露出しているネガティブな革命と言った方が良い歴史が誰の目にも明らかな程に鳴動しつつある。自民党の55年体制をひっくり返して民主党政権にしたのも大衆であり、マ、それでしかなかったのも歴然としている大方にも理解し得る昨今なのである。

今日も12時過から16時過迄、「さくら乳児院なしのはな保育園」の建設現場に張り付いていた。ギリギリにわたしの出来る事を考えつめれば、わたしにはこれしか出来ぬ。建築は竣工間近で、いわゆる仕上げ段階である。子供達の眼になって、保母先生方の眼になって、手になり代って建築全体をチェックしなければならない。わたし自身が固執する美学なぞはまことに小さな部分にしか過ぎない。でも、それも確実にある。それ等を勘案して様々な指示、アドヴァイスをしなくてはならない。で、そうした。外構のカンボジヤ産レンガ積みの基礎が出来つつある。この建築は先にも述べたが至誠会の「ざくろの小径」の歴然たる思想を延長したモノでもある。それは外構工事のレンガの塀の出来上がりに左右される。外構工事の隅々にまで眼を光らせた。なんとかなるであろうの確信を得た。

いささか疲れて16時半烏山長崎屋ラーメン店にて本メモを記す。18時終了。

世田谷村に戻り、至誠会厚生館福祉会の、ざくろの小径、K理事長の小々のこだわり、の資料を読む。良い機会を与えられ稲田堤の一角に、三つの児童施設を設計する事ができた。でき得ればこの半径300m程の地域を児童を育む場所として少しでもデザインをすすめられるように工夫努力したい。

この建築にはK理事長の発案で彫刻家の長嶋栄次さん、画家の村田知子さん等の作品が融合される予定で、それも楽しみである。実物大の牛と仔牛の木彫も建築に組み込まれる。建築はあらゆるモノに対して大きな受容的力を持ちたい。

アニミズム紀行5で記したキルティプールの終の棲家の壁のデザインと今建設中のさくら乳児院なしのはな保育園のデザインが通底している事を「制作ノート4」に記す。

二月十五日

8時前離床。北のガラス屋根から視える烏山神社の小さな森は雪景色である。北の空は淡いすきとおったブルー、水色というのかなそれが薄く漂っていて神々しい。考えるにこの淡いブルーは神官の袴の水色に似ている。白足袋が南の猫の縁側に出て、梅の樹につもった雪を眺めている。こいつに白梅に白雪がつもって重なった少し妙な姿の味がわかるのかな?と思って感心したら、なんて事はない梅の樹にきたむく鳥を、あわよくば狙っていたのである。猫に花鳥風月の感興がわかるわけもない。動くものだけに関心があるのである。しかも喰べられそうなモノにだけ。動くといっても空ゆく雲を白足袋が見上げているのを視た事はない。空を見上げていれば、そこには鳥か、虫が飛んでいる。猫はリアリストである。

434 世田谷村日記 ある種族へ
二月十日

12時過研究室ウォーラル助教と打合わせ。やるべき事、つまり日本人的に言えばキチンと教育に関して汗をかいてから様々に主張しろとアドヴァイスする。国際化は必然であるが、その中で日本人教師の美質も又自覚しなくてはならぬ。

鳥取の木谷さん来室。上田左官職へのドイツみやげゲーテの小像を手渡す。上田左官職はワイマールのわたしの展覧会にゲーテの鏝絵を供して下さった職人である。14時半遅れて教室会議へ。16時了。二川幸夫さんと電話で話す。「さくら乳児院なしのはな保育園」の件。

16時半、2011年最初の研究室ミーティング。修士課程を卒業する6名のアマゾネスは私見ではあるが実に早稲田建築学科の設計製図の危機的状況を救った6名ではあった。前年までの設計製図の水準は落下に落下を重ねており、とめようもなかった。わたしも流石に危機感を感じ腹を決めて、一課題だけは本当に全力を尽そうと考え厳しく指導した。その生き残りがアマゾネス6人組であった。わたしも本格的に子供達の設計製図に附合った。そのアマゾネスの修士設計の大方は群を抜いて良いモノであった。その事をわたしなりにねぎらったのであるが、人生は長い。修士設計なぞはささいな、地袋程度の関門に過ぎぬ。良く生きてもらいたい。19時前了。散会。

20時前、烏山長崎屋ラーメン店。オヤジ、オバンとくつろぐ。やはりオバンは長崎原爆投下の爆心地、たまたま防空壕に用事があって一人だけ命をとりとめた。オヤジは爆心地から10kmはなれていたと言う。共に被爆者手帖の持主である。実に知的な、ムヅカシイ事、理屈は一切言わぬが、本モノの庶民の知性の体現者である。かくなる人物達が本物の日本人だと、思う。21時前、別れて、世田谷村に戻る。

いわゆるインテリの趣味なんだろうなコレワと自省しつつ、昨日に続きベンヤミンを読む。ベンヤミンはユダヤ人として亡命行の途次ナチスに引渡すぞとピレネー山脈で、つまりはフランス、スペインの国境で脅かされ、服毒自殺したというが、長崎屋のオバンとオジンの強さと比較すれば、実に残念なものがあるのだ。自殺はいけない。殺される方がまだましだろう。強いでっせ民衆は、ベンヤミンよりも余程。ベンヤミンの言う散漫な好奇心という民衆の本性も、それを前提に全てを考える知性が無ければ無為な堂々巡りを続けるばかりであろう。

二月十一日

8時前起床。雪が降っている。アニミズム紀行6の完稿ゲラが上がってきたので目を通す。10時半小休。アニミズム紀行6は注釈、カット、共に充実してきた。アニミズム紀行5で描いたキルティプールの丘の終の棲家の模型までスタッフが作成してくれて小カットの注釈として入っている。

12時発、西調布へ。14時用件を終え京王稲田堤へ。15時前「さくら乳児院なしのはな保育園」現場。雪が激しい。今日も休日ではあるが現場は内装工事が主体なので周辺住民に迷惑をかけぬ配慮をしつつ作業続行。避難用スロープがセットされている。ステンレス鉄骨の色を気づかっていたのだが、これもうまくいっていた。ベトナム産のタイルの貼り方に関して指示する。カンボジアの「ひろしまハウス」現場では気にならぬ精度の問題も日本ではやっぱり気にせざるを得ず、それを解決する施工法をオペレーションした。内部に若干の問題点を発見した。明日現場で相談したい。16時現場を離れる。17時前烏山長崎屋にて焼魚を半匹喰べて18時前世田谷村に戻る。絶版書房通信7を記す。

二月十二日

8時前離床。寒い。雪が積っている。今年初の雪景色である。絶版書房通信7を書きおえる。絶版書房Ⅱのマニフェストである。民主党政権のマニフェストはアドバルーン、しかもすでに落下しそうなモノに過ぎぬし、宣言の数々は極めて危ういものではあるが、それでもかくの如き試みには宣言が、小さくささやかなものでも必要なのだ。9時半了。アニミズム紀行6の目次、つまり14章全てのタイトルを再考する。

11時半世田谷村発。烏山神社を経て12時過「星の子愛児園」メンテナンスチェックに続き、京王稲田堤「さくら乳児院なしのはな保育園」現場。二、三気附いた事を輿石現場監督に伝える。これからの仕上げは一日一日が気が抜けない。スタッフでもある渡邊助教にアニミズム紀行6の完稿ゲラを渡す。キチンと目次の項目と言うかコンセプトそのものにも気を配って、頭も使った。明日の日曜日も現場は動いているので又来るよという事で13時過ぎ去る。わたしが居ない方が仕事ははかどるのである。14時過烏山長崎屋ラーメン店にて絶版書房通信8を書く。15時40分了、去る。世田谷村に戻り、制作ノート2011年Ⅰを書く。もう一日中何かしてるなこの頃は。一時間位何もしない、考えない時間があった方が本質的な力の維持のためには良いのだけれど。

鳥羽耕史『一九五〇年代』河出ブックス、1300円、読む。昨年の暮に出た本である。鳥羽氏は気鋭の運動史研究家である。前作『運動体安部公房』一葉社、も渋い本であった。渋いというのは派手な立居振舞いはわずかだが、良いという事。奇異な印象であるやも知れぬが、この本の読後感は今の時代の考えてみれば不可解な時間の速力に対して鳥羽氏のそもそもの思考対象に注ぐ視線の不動性、じっとした微動の速力が、その事自体がとても貴重なもののように思える。文学を中心とした運動に焦点を当てている研究者であるが、近来の日本には稀な、再び言うが渋い研究者である。最新作では対象を映画(記録映画)に拡げている。氏の記述の基底にはベンヤミンを感じる。コンピューターの出現と流布によって明らかにベンヤミンの「複製技術時代の芸術」他の論考は古色蒼然としている。がしかし鳥羽氏の思考の微動の速力を感得するならば、ベンヤミンは本当に化石と化したのかの感が襲いかかるのである。ベンヤミンが言う大衆の散漫な視線に対して氏は少しばかり異和感をお持ちなのかも知れない。

二月十三日

8時前、離床。厳しい寒さが去って白足袋も南の窓ガラスの外にある40センチ程の猫の縁側とも言うべきに出て顔を洗っている。満開の梅の花に見ほれているのかも知れない。雪とみぞれに乾き切った空気の中の汚れもいささかぬぐい去られ気持の良い大気になっている。

しかしながら猫と梅の花は似合わないな。猫に合うのは何だろう。三島由紀夫には紅バラ、しかも香港フラワーのバラが似合う。フーテンの寅さんにはハイビスカス、村上春樹には柳の樹と相場は決っている。ウチの白足袋には、猫には花は全く合わない事だけは確かである。

11時発、11時40分「星の子愛児園」を経て京王稲田堤「さくら乳児院なしのはな保育園」建築現場。K理事長と現場内で会う。一階から四階まで案内する。「子供が喜ぶぞ」と言っていただく。輿石現場監督と三名で昼食。渡邊助教は二階テラスのベトナム産タイル貼りにはりつく。こんな時に現場の職人さん達との機微を身につけなくてはいけない。内部の隅々まで見て廻った。沢山な子供等が、先生方が暮し始めるのも間もなくである。この建築が家になる子供達も居るので身がしまる。15時前現場を去り、烏山長崎屋ラーメン店へ渡邊君と。小川君も来る。17時散会。世田谷村に戻る。

『建築は兵士ではない』鈴木博之、鹿島出版会、を読む。1980年出版のこの本は30年経った今現在読んでも十二分に面白い。その時々の時評的なエッセイも充分刺激的に読めるのだが、フッと身の廻りの事を書いた様な、例えば「町の小公園には陰がない」や、そうとばかりは言えぬ「土地神」などが今は面白く読めた。この事については、少しまとめて又考えてみたい。

433 世田谷村日記 ある種族へ
二月九日

11時大学石山研卒論ゼミテーマ説明会。わたしは20代の頃の自分の幾つかの体験の話しをする。インドのカルカッタの路傍で人間の死ぬ有様を少なからず見た事。オイルショックの頃シルクロードから日本に、当時は成田空港が開港されておらず、まだ羽田空港だけが国際空港だったのだけれど、羽田空港上空に辿り着いたら真暗で、油が不足していて灯火管制されていて、これは日本はもうインドみたいになるのかと思った事など、つまり今の日本の体たらく、学生諸君の先行不安等は別に取り立てて騒ぐ程の事では無い事等を話した。好きな事をきちんとやっていないと人生は悔いが残るばかりな事もふくめて、金儲けばかり、つまりグローバライゼーションの波に巻き込まれぬ生き方、価値観はあるだろうという事などを話した。余計な事であったかも知れぬが話したかったので話した。卒論テーマの詳細は渡邊助教が説明した。今年の卒論テーマはわたしの教師人生でかなり煮つめたものである。良い人材が集まると良いが。12時半中川武教授とうどん屋で昼食。色々と建築学科教室の将来に関して相談。13時建築史研究室の修士論文発表を聞く。4人程の発表を聞く。来年は計画系四研究室、歴史系二研究室の修士論文は合同発表会としたい旨、中川先生と相談する。

14時抜けて、15時半京王稲田堤、「さくら乳児院なしのはな保育園」建築現場。ゴードンは今日中国経由ナホトカよりシベリア鉄道でドイツに帰国するので、この建築を見て帰国するように告げていたのでニコラスと共に見学。囲い足場幕ともに大方取り外され全体が姿を現し始めている。繰り返し言うが多彩な建築である。わたしの建築の小さな歴史の中では一番オーソドックスで、しかる上に一番多彩な性格を持つものになっている。内部は簡素にまとめる。

16時過現場定例会了。輿石現場監督にどうだと聞いたら、しびれますと答えた。金と工程に苦しんだ監督にそう言わせたのは嬉しい。いいですねではない。しびれますだからナア。これにはしびれた。内部を見て廻り18時現場を離れる。19時千歳烏山。長崎屋ラーメン店に寄るも休日。オバンが友人と二人でいたが、今日は休みでーす、すみませーんと言われ、仕方なくすぐ近くの広島お好み焼屋で小川君と小食。小川君は今日も95才の父親と91才の母親の介護生活であるが、息抜きで附合ってくれている。

20時世田谷村に戻る。メモを記す。21時過小休。読書。ワルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』。ベンヤミンのこの古典的著作は何度もの再読に耐え得るが、やはり新しく読む度に古色蒼然と化石の如くになる。書いてあること自体がベンヤミンの言う芸術の礼拝的傾向に近似していく。歴史の酷薄さだろう。技術に対する思考、ベンヤミンの場合は映画技術なのだが、映画自体がコンピューターの出現と世界制覇の前では表現形式としては古い形式になり始めていて、それこそ良質と考えたいモノ程映画のための映画という礼拝的姿勢の中で作られ、享受されていると言う現実がある。そして大衆だけはベンヤミンの時代と相も変わらずに散漫過ぎる観客であり続けている。

朝、3時半まで熟読する。

わたしが記録し始めているアニミズムの旅はベンヤミンのアウラと建築史都市論分野での鈴木博之の地霊論と、これは明らかに近親関係にある。共に近代に於いて消え去りつつあるように視え、ベンヤミンの場合は古代に於ける魔術の、儀式の道具として持ち得ていたモノとしているが、彼はソビエト連邦が崩壊する以前のマルクス主義者であったから、仕方ない。ベンヤミンのアウラ理解はベンヤミン自身の消失へのマルクス主義的了解と、詩魂を持ち続けた自身のそれへの接近の自覚とのアンビバレンツの懐の中にしなくては現代の意味は無い。

4時15分再び休む。

二月十日

8時40分離床。石山研の最新作「さくら乳児院なしのはな保育園」のニュアンスは多彩と評し得よう。多彩は字面通り色彩感の豊かさであり、使用材料の多彩さから来るものであるが、それはベンヤミンの言う大衆の散漫な建築への関心の水準のアナロジーである。わたしはこの建築の設計者なので作品として絵や彫刻を凝視する。そうすると一種のアニミズムを感得したいと言う願望を意識する。せざるを得ない。精霊の如きモノ。よりクリアーに断じればモダニストには無い建築物の表情に対する集約された親近感を自分の作る気持の中に意識できる。この意識は明らかに方法的な姿勢に近いモノだと自覚できる。アニミズムと呼ぶとモダニズムデザイン教育を受け続けた人々には理解不能だろう。むしろベンヤミンのアウラ。消え去ってしまったアウラへの意識的なノスタルジー。哀愁、故の呼びかけの気持がある。深層心理の自己分析は役に立たぬが、創作論の位置からはそう考えざるを得ない。その気持はどうやら「幻庵」時代からズーッと持続してきたものであるので否定するわけにはいかない。否定してしまったら自分の生の中心を否定する事になる。わたしの仕事の一つの軸は開放系技術であるが、それによって得られる、達成される開放系デザインの中枢はアニミズム的世界である。

幻庵、開拓者の家→ひろしまハウス→さくら乳児院なしのはな保育園、には一つのニュアンスが通底しているのだ。そう考えるとこの建築はわたしの、研究室の代表作と言う事になる。今迄、いささか多様な表現の振幅があり過ぎたきらいがあったが、この建築は極めて普通の骨格を採ったので、むしろ表現としてそんな性格が溢れ出た。歳をいささか取り、それ故に気づかなかったのだが、やはり必死であったのだろう。

432 世田谷村日記 ある種族へ
二月八日

9時世田谷村発。10時、昨日に引き続き修士論文、計画発表会。入江研、石山研の発表を見聞きする。入江研のアルヴァ・アールト論は良かった。石山研は全てある水準をクリアーしていて良かった。早速6点を全てコンピュータ・サイトに掲示して諸兄姉、世界中の学生諸嬢君の資に供したい。昼食時に入江、古谷両先生と新しい二年生の製図プログラムについて相談する。近々石山研6点の修士計画にはサイトでクリティークを詳述する。

16時半過了。審査先生方の見識が浮き彫りになるところである。しかしこれは非公開。

17時過ぎ新宿味王へ。ゴードン、ニコラス両名他と会食。ゴードンは明日高野山経由シベリヤ鉄道を経て一ヶ月後にドイツに帰国する。又、秋には会えるだろうが、しばしの別れである。とても優秀な学生であった。いささかのこれからの進み方についてのアドヴァイス。良い建築家になってくれると良い。20時半了。21時半世田谷村に戻る。

二月九日

8時過離床。今日も学務他で忙殺のスケジュールだがこなしたい。午後遅くには稲田堤の現場定例会に少し遅れて出席をする。さくら乳児院なしのはな保育園の建築がある水準を超えるだろうと考えるので、広く世に問いたい。10時世田谷村発。今日は早稲田歴史研の修士論文発表を聞くつもりであるので楽しみである。系の壁は可能な限り外す、しかし研究室の伝統すなわち個別性は際立たせるというのが理想ではないか。私見である。早稲田建築教室は広く世界に普遍を求め、同時にいかに強く個別を求めるかを教育上方法化せぬと埋没する。

431 世田谷村日記 ある種族へ
二月七日

10時修士論文計画審査会。渡辺仁史研の発表より始める。昼食を挟んで古谷誠章研。17時半迄。その後短時間日本ツリーハウス協会依頼の物件のチェック。初心者の作図指導はまことに厄介である。プレゼンテーションの図は容易に描くのだけれど、実物の設計作図が出来ない。しかし、自分の若い頃を思い返してみたら似たようなものであったかな。

京王稲田堤の現場へ急ぐ。担当の渡邊大志助教と19時前現場着。隣りの厚生館愛児園の園庭より、西の幕の外れた面の仕上がりを夜陰の中に眺め上げる。K理事長と出会い会食。クライアントも喜んで下さっているようでホッとする。21時了。理事長と稲田堤まで歩き別れる。22時前世田谷村着。

道路を挟んで二つの建築を手掛けさせてもらったのは初体験で、厚生館愛児園の屋上にデザインした鉄のオブジェクトがようやく生きてきた。建築の息は長い。

430 世田谷村日記 ある種族へ
二月五日

小栗虫太郎の「聖アレキセイ寺院の惨劇」を読了してから12時半世田谷村発、13時過京王稲田堤「さくら乳児院なしの花保育園」建築現場。もうすでに外部足場及び幕は外されているかなと考えて出掛けたのだが、京王線高架から眺めるにまだ建築はクリストの如くに幕の中であった。工期遅れの心配が襲いかかる。現場着、すぐに見て廻るに、南西の足場は外しかかっている。3月中旬の竣工を前に仲々のハードな工程であり、馬渕建設の現場監督が大丈夫ですと断言しなければ、危いなの工程である。ここは馬渕建設ならぬ現場監督を信頼したい。私はいつも組織よりは個人なのだ。社長よりも現場責任者なのである。

現場を見て廻るに外の建築の姿に関しては興石現場監督は良くやっている。ほぼわたしの考え通りに仕上がっている。南面の足場はわたしが見ているうちに除去され、屋上附4階建の建築の姿はほぼ現実のものとして把握できたのである。建設設計の醍醐味である。図に描いたモノと立ち上がったモノとの必らず在るズレをどう直観するか。それが建築家の才質でもあろう。良い建築ができそうだ。

18時前、烏山宗柳にて山形の長澤社長、横倉部長さん等と会食。リンゴを一箱いただく。21時前世田谷村に戻る。『UP』を読む。関心があるので「世論調査による政治に思う」松原望、「はじまりとしての山懸有朋」鈴木博之、を先ず読む。

二月六日

7時前離床、メモを記す。気まぐれに江戸川乱歩の小栗虫太郎推讃を読む。2度目だが推理小説には素人ながらいい批評だなと解る。虫太郎のG・K・チェスタトンとの類似の指摘はいわずもがな、原始的な暗合の魔力への惑溺、他の指摘も江戸川乱歩の非ユークリッド世界への渇望を想わせて楽しい。やはり乱歩は巨人だな。

11時過発。京王稲田堤へ。「さくら乳児院なしのはな保育園」現場。日曜日だが馬渕建設興石所長以下全員出ていた。南東の足場がほぼ外れて建築の半分が外気に触れた。自分で言うのもなんだけれど実に多彩な生気溢れる建築である。カンボジアから運んだレンガ、ベトナムの床タイルのテクスチャーと色がきいている。勿論きかせたのだけれど。この多彩さは幻庵以来だなと実感する。来週水曜日には全ての保護幕と足場が外れるので、楽しみである。この感じは予期していたよりも、つまり想定外の新しさを生み出している。内部は少し色彩は押え気味が良いので心しよう。ここ一ヶ月は気が抜けない。

プノンペンの「ひろしまハウス」を東京に運んだ。東京の荒涼たる植民地風景に一輪のロータスを。いいモノを作りそうになっている時は我ながら気障な事を平気で書くな。これを言うのが生き甲斐でもある。許されたし。

世田谷村に戻り休む。

次の作品の構想を練らなくては。ここにとどまるわけにはいかない。

バウハウス・ルーフライトギャラリーには間に合わなかったけれど、次の巡回展にはメインの展示として最新作のこの建築をつけ加えたい。23時就寝。

二月七日

7時前離床。梅の花がほぼ満開。しかし香りが部屋のなかに漂い込んでこない。わたしの嗅覚が衰えているのかも知れない。樹下に立つ、大地に立って香りを感じる能力を確かめなくてはいけないなこれは。勿体ない、視覚だけで感応してるのは。

9時世田谷村発。今日明日の二日間は修士論文・計画の発表審査会である。学生諸君に新しい感性知性の兆しを見たいと毎年期待するのだが、果せない。

二月六日

7時前離床、メモを記す。気まぐれに江戸川乱歩の小栗虫太郎推讃を読む。2度目だが推理小説には素人ながらいい批評だなと解る。虫太郎のG・K・チェスタトンとの類似の指摘はいわずもがな、原始的な暗合の魔力への惑溺、他の指摘も江戸川乱歩の非ユークリッド世界への渇望を想わせて楽しい。やはり乱歩は巨人だな。

11時過発。京王稲田堤へ。「さくら乳児院なしのはな保育園」現場。日曜日だが馬渕建設興石所長以下全員出ていた。南東の足場がほぼ外れて建築の半分が外気に触れた。自分で言うのもなんだけれど実に多彩な生気溢れる建築である。カンボジアから運んだレンガ、ベトナムの床タイルのテクスチャーと色がきいている。勿論きかせたのだけれど。この多彩さは幻庵以来だなと実感する。来週水曜日には全ての保護幕と足場が外れるので、楽しみである。この感じは予期していたよりも、つまり想定外の新しさを生み出している。内部は少し色彩は押え気味が良いので心しよう。ここ一ヶ月は気が抜けない。

プノンペンの「ひろしまハウス」を東京に運んだ。東京の荒涼たる植民地風景に一輪のロータスを。いいモノを作りそうになっている時は我ながら気障な事を平気で書くな。これを言うのが生き甲斐でもある。許されたし。

世田谷村に戻り休む。

次の作品の構想を練らなくては。ここにとどまるわけにはいかない。

バウハウス・ルーフライトギャラリーには間に合わなかったけれど、次の巡回展にはメインの展示として最新作のこの建築をつけ加えたい。23時就寝。

二月七日

7時前離床。梅の花がほぼ満開。しかし香りが部屋のなかに漂い込んでこない。わたしの嗅覚が衰えているのかも知れない。樹下に立つ、大地に立って香りを感じる能力を確かめなくてはいけないなこれは。勿体ない、視覚だけで感応してるのは。

9時世田谷村発。今日明日の二日間は修士論文・計画の発表審査会である。学生諸君に新しい感性知性の兆しを見たいと毎年期待するのだが、果せない。

429 世田谷村日記 ある種族へ
二月四日

絶版書房通信6を書いて、12時過世田谷村発。12時35分西調布、私用。13時半了。14時半烏山長崎屋。Xゼミナール、更にもう一本絶版書房通信7を書く。18時前了。アニミズム紀行の旅の最初の峠が視えてきたような気がする。まだまだ低い峠だけれど、これを越えないと次には進めない。

世田谷村に19時戻る。気持ち悪くて途中で投げ出していた小栗虫太郎に再挑戦。「白蟻」はどうも受け付けなかったが妙に気になってこれで別れるのは惜しいと思っていたのだろう。二篇目の完全犯罪を読み始める。これは読み易い。坂口安吾の言う探偵小説、今で言うミステリー、推理小説的方法は広くはコナン・ドイル、理論的つまりは狭義に於いてはアラン・ポーによって開創された。「モルグ街の殺人」「黄金虫」のデュパンは明らかに「バスカビル家の犬」のシャーロック・ホームズよりも論理的で鋭い。偏差値はデュパンの方が高そうである。しかし読者数、支持者は圧倒的にシャーロック・ホームズが多い。それは大衆が持つアニミズム的深層がそれを支持するからである。アニミズムは洋の東西を問わず、広くそれこそグローバルに民衆の深層に生き続けている。近松、西鶴、芭蕉がその鏡像であったように。

二月五日

7時前離床。メモを記し、小栗虫太郎に再び取り組む。「完全犯罪」「夢殿殺人事件」の二篇を読み切る。

小栗虫太郎の推理小説が貴重なのはそこに登場する人物像の関係がコスモポリタンな、虫太郎のコスモポリタンたらんとしている願望が表現されているところにある。二篇共に虫太郎の品が悪くはないペダントリーがにじみ出ていて、それが共に密室殺人事件の謎解きに拡がりを見せている。密室の完全閉鎖という、脱出不能の神秘主義を、やはりアッサリ合理的科学主義で解明するというミステリーに必然な手法をとっている。

「白蟻」をわたしは途中で放り投げたけれどこれはイヤーな感じがあり、一般的にはアニミズム的光景である。樹木と人間が同化する神秘的世界が延々と呪文の如くに、御詠歌の如くに述べられてゆく。これが実にわたしには耐えられなかった。耐えられなかったのはわたしの中の近代主義によるものだろう。

そんなわけで、虫太郎の残り二篇を読み切ったら、又、「白蟻」に戻ることにする。イヤーなモノの中にはイヤじゃない可能性がある。

428 世田谷村日記 ある種族へ
二月三日

13時過大学。14時前中川武先生と会い建築学科の将来等について雑談。14時教室会議、合否判定会議。修了後、中川、佐藤滋両先生と相談。建築学科が何の問題も無い時には意志の合意なぞ必要はない。バラバラでも何とかやってゆける。しかし建築学科への入試志望者数が眼に視えて減った今年からはそんな事は言ってられない。ジタバタするのは愚であるが、全く動かないのも大愚ではある。

16時研究室に寄り日本ツリーハウス協会の仕事の手伝いに関して打合せ他。修了後発。神田岩戸へ向う。道々考えを巡らす。歩いている時には何故か良く考えられるのだ。新宿戸山公園の土手に沢山の野良猫が集まっていて、それにエサを与えているオバさんが居る。野良猫の冬は厳しいだろう。戸山公園の土手は元百人町の射撃部隊の射撃訓練に使われていた歴史がある。都市の中の人工の土手である。梅の樹や小木が役所によって植え込まれ眼には美しいが使われてはいない。この類の場所は野良猫のエサ場として公認したら良い。反対する人も多かろうが、都市に放置されているペット類の出自の大半は人間達の気まぐれからである。新大久保駅の途中にある児童公園、ここには小さな男の児と、小ちゃな女の子とが並んで座っている妙な味がある、彫刻とも言えぬ抜けた味のある物体があるのだが、ホームレスの人達が以前はチラホラ昼から酒を飲む姿もあった。流石に冬にその姿は見当たらなくなった。ここにも野良猫にエサを与える人間が居て、猫が集まっている。ここに集まる猫は毛並みも良く、体格もしっかりしていて、うちの白足袋よりも余程品も良い。白足袋と親しくなってから、街の中の猫にも眼がゆくようになった。この者共は寒い夜は何処で眠っているのであろうか。うまく何処かにもぐり込んでいてくれると良い。昔、カルカッタに初めて行った時に道端に死んだ人が少なからず転がっていたのを思い出す。ヤセて小さい猫はひろって帰りたい位だが、やり出したらキリが無い。ウチは野良猫には良い家になるだろうがな。そろそろドリトル先生動物園倶楽部会員の皆さんに第3信の会報を送らねばいけないなあ。

17時半前神田岩戸。我孫子真栄寺住職馬場昭道さん先に着いて待っていた。今年初めてお目にかかる。岩戸のオバちゃんもオジさんも誠に良い人柄で顔を見てるだけでホノボノとしてしまう。

「宮崎はのろわれてますよ。牛の次は鳥ですからね」

「明石家さんまじゃない、東国原知事がのろわれているんじゃないの」

と明るく不気味な会話もあった。良質な庶民つまり民衆のユーモアの中には闇がある。

20時前迄、たっぷりと御馳走になる。フグと野菜鍋、おわりに鍋おじや。おわりに出てきたお新香が泣けてくる程にうまかった。昨日のXゼミの集りでもそうであったが、どうも最近会食すると妙につかれる、しかも気疲れではなく胃疲れの気配があり、食べ過ぎると疲れるのである。大食は元気の証しだとの誤解が我々の世代にはある。明らかな間違いである。改めなくてはならない。次は半分の量にしなくちゃなあと、確か前回も話し合った。松崎町の友人、山田脩二、藤野忠利さん等の声も聴けて良かった。昭道さんはブラジルに寺を作るのも面白いだろう。色々とやらねばならない事は多い。

20時前了。神田駅で別れる。21時世田谷村に戻る。山本伊吾さんより送られてきた『意地悪は死なず』山本夏彦、山本七平対談ワック株式会社、読む。山本夏彦さんは工作社。山本七平さんは山本書店と、共に出版社を興し経営していた。夏彦さんはインテリア雑誌、七平さんは聖書関係の出版物という妙な取り合わせである。しかし、ここ迄言い張れたのはメディアから干し切られても俺は言うぞという覚悟があり、その覚悟故の出版社経営であった。わたしのホームページと絶版書房だって志は同じなのだが、スケールが小さいだけである。アニミズム紀行に広告取ったら面白いかなあ。長崎屋ラーメン店とか。しかしこの本は良く読むと山本夏彦さんが常に押し気味に終始していて、現場の情景が手に取るようである。大変な人間に接しさせていただいていたのを知り油汗が出る。

二月四日

7時前離床。メモを記す。『意地悪は死なず』に限らず、世田谷村には山本夏彦の著作がいたるところに散在している。コラムという形式はネットメディアに適している。しかし山本夏彦さんは決してネットには手をそめないだろう。速力が山本さんの文体とはしっくりしていない。忘れる速力がね。山本さんのコラムは仲々忘れる事が出来ないのである。山本夏彦さんを山本夏彦たらしめたのはやはり『年を歴た鰐の話』中央公論であろうが、あのショヴォの翻訳の仕事の光と闇がその後の山本夏彦のコラム他の骨格を作ったと、今は知るのである。山本さんは思春期とも言うべき年頃をパリで過したわけだが、その経験は岡本太郎と同じであった。しかしその表現は著しく異なる。資質と言えばそれ迄だろうけれど、岡本太郎のポピュリズムと山本夏彦の大衆性とはだいぶ質がちがう。岡本太郎の大衆性はその表現の過度な発散性、だって爆発だったんだからその表現は。それによって稀薄になっているが、山本夏彦の言葉による表現は内にこもる収縮性によって質が重く残るのである。造形分野も言語分野の違いは無い。

金子兜太さんと山本夏彦を会わせたら面白かったろうに。もうそのチャンスは無い。しかし山本夏彦の近代的知性は金子兜太のアニミズム的知性感性と、どう接近し得たのか、あるいはダメだったのかは知りたいところではある。

427 世田谷村日記 ある種族へ
二月二日

9時世田谷村発。10時大会議室。卒計講評会。昨日製図室で一作一作見た失望感とは少しは異なり仲々良かった。

長い絵巻き物のような図面全てと模型を間近にしながら、であったからである。昼食の30分を挟んで18時迄。 一点大きな可能性を持つ計画があった。東京タワーとスカイツリーの二つの電波塔の新旧のタワーの関係に都市や別次元のインフラストラクチャーを視ようとしたものである。

イタロ・カルヴィーノの「視えない都市」を想わせる計画である。現代都市は建築や道路という眼に視えるモノで成り立っているのではない。古来そうであったわけで殊更に現代といいつのる事はないけれど、その仕組みが明瞭になっているのも事実である。

それをこの作品は二つの新旧の電波塔の関係を明示する事によって示している。東京タワーの日本独特な耐震構造の具現と擬洋風近代デザイン、つまりエッフェル塔のコピーであるという事実。

スカイツリーの和風アールデコ的コマーシャルデザインのデザインそのものの中に潜んでいるそれこそインフラストラクチャーを更に考究してゆくと現代デザインの意味そのものが浮上してくるのである。

建築学科への入学希望者数がどうやら微減している。全国の大学の建築学科と比較すればまだましのようであるが、これは不況好況というような景気の変動の問題ではない。深く文明文化の動きと連動しているのである。

日記に記すのは適していないけれど、我々が赤裸々に対面している学科自体の問題は実は深く、視えない都市の現実に通底しているのである。

18時半新大久保近江屋。鈴木博之さんと会食。わたしのワイマールでの諸々の報告と鈴木さんの明後日よりのアイルランド、ロンドン出張の旅の壮行会(古いネェこの言葉)を兼ねた。難波和彦先生30分遅れで到着。

工場建設現場が忙しいとの事。Xゼミナールのこれからを含めて相談。

ジョサイヤ・コンドルの師であるバージェス設計の住宅がロンドンにあり、その住宅をレッドツェッペリンのリードギタリストの、名は失念したがアーティストが所有しており、しかも彼はバージェスの作品にぞっこんホレ込み作品の追いかけを始め、そのページをコンピューターサイトに開くまでに至っているそうだ。そのページが実に地味でしぶいのだそうである。視えない都市がここにも出現している。

例によって池袋の魔窟ワインBarへ。鈴木、難波両先生にiPodならぬ、何とかで中島みゆき、吉田拓郎の何かは名曲だぜコレワの会話に夢中でわたしは置いとけぼりをくらった。建築分野のみならず日本有数の知性であろう鈴木難波両先生が何故、中島みゆき、拓郎如きにはまるのか、

わたしは憮然とするのである。共に大衆に受容される作家であるのは歴然としている。村上春樹や椎名誠と同じである。藤沢周平はまだわかる。

海音寺潮五郎、司馬遼太郎もわかる。歴史小説の良質なものを大衆が愛するのはわかる。わたしも含めて大衆はノスタルジィが好きで、つまりは歴史が好きなのだ。生きている人よりも死んだ人を愛する傾向が強い。死んだ人は今更モノ言わぬし、生きている人よりも付き合うのに安心だからである。

さてそろそろ失礼しようと21時過魔窟Barを退却。鈴木さんのイギリス行は近代建築アーカイブの設立準備である。大仕事だな。難波先生に新宿迄送ってもらい、23時前世田谷村に戻った。

二月三日

7時過目覚め、離床。庭の梅の樹にうぐいすが来て、花にもぐり込んでいるが、まだ鳴かぬ。メモを記す。昨夜、魔窟Barから新宿へのTAXIで難波さんと建築が対面している事態を話し合ったが、ジタバタする事もできぬ位に事は深刻である。むしろ学生達が対面せざるを得ぬ現実よりも教員各自がそれをどのように認識しているかの問題がはるかに大きいのである。歴史家の鈴木先生は言わずもがなジタバタするなと言うのだろうが、やはりジタバタせぬともピクピク位はしなければならない。早稲田の中川武先生と一度ゆっくり話し合ってみる必要があるな、コレワ。

常ならぬ非常の時は歴史家がキチンと仕事しなくてはならないだろう。

しかし、今の建築学生はうらやましい。本当に。しっかり歴史を眺めてみよ、文明が今の日本のように衰退しようとしている時に建築の名作名品が生まれる事実も又、歴然としてあるのだから。チャンスがあり過ぎる位にあるのだ。少なくとも、10年単位でモノを考えられる素養だけは身につけられたし。若い世代は。

426 世田谷村日記 ある種族へ
二月一日

12時半研究室OB李君来室。近況報告を聞く。彼は在日朝鮮人学生で、わたしがことさらに留意していた者であった。つつがなくやっているそうだ。その後、ネットワークフィールドの全部をチェック。石山研のコンピューターメディアはかなり複雑になってきているので、全てのチェックにはかなり手間取る。学芸出版のかねてよりの書評本の進行について担当者より鋭いチェックあり。しどろもどろ。でも頑張ってやるつもりである。「読みたくないダ本」というタイトルもいいかなと考えたりもする。

「GA JAPAN」の二川由夫インタビューのゲラ送られてくる。不思議なもので、GAは二川幸夫、由夫親子共にわたしにはクールな眼差しを注ぎ続けているのを、ゲラから読み取るのであった。でも、後半は面白いインタビューになっていた。これは買って読むべきであろう。ペーパーも時に面白い。

13時過、卒業計画採点。ダ作続きでグッタリする。これは建築教室の卒計に対する制度から来ているもので学生に問題があるわけではない。16時了。研究室に戻り雑用。17時研究室発。新宿南口味王へ。たっぷり、台湾ちまき等を喰う。19時半世田谷村。

二月二日

5時前離床。今日は朝から夕方迄卒計講評会である。全教員出席の許に行なわれる。先生方がどのようなクリティークをされるのか、それが楽しみだな今年は。5時20分再眠。ガッと何かする気持になれない。勿体ないんだけれどな時間が。

1月の世田谷村日記