- 4月の世田谷村日記
- 468 世田谷村日記 ある種族へ
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三月三十一日
昨日の事は記す事はない。沢山考えて、少しばかりの情報も得た。深夜J・L・ボルへスを読みながら不思議な平安を得つつ眠り込む。こんな時に心を全て解放し、ゆだねて読める書物となると、やはりこんな事になってしまう。
6時半離床。新聞を読む。アレコレ考えながら朝を過す。マスメディアの情報も、我流だが大体処し方は少し解ったような気もする。わたしは第二次世界大戦中の日本のメディアの報道のあり方を記録(歴史)でしか知らぬが、それに似通っている風もある。それ以上の事は今は言わぬ。しかし、どのジャーナリストならぬコメンテーター風情が何を言っていたのかは我々は記憶にしっかり刻み込んでおく必要がある。特に原発関係の発言は歴史的に記録しておく必要もあろう。原発事故は明らかな人災である。天災ではない。
山形の長澤社長と連絡。災害でいろいろゆきちがいがあったが、山岳小郡市のプロジェクトの進行を再確認する。長澤さんのところの空気清浄機が世田谷村に届いていたので今日から試運転させていただく。しばらく自分で使ってみて実感としてOKであれば知り合いにもすすめたい。このマイナスイオン発生機はインフルエンザに対する免疫力を高める効果もあると言う。カゼが治ってからの実体験である。
13時過研究室。完全に回復したと思ったが人混みの中に出るとフラフラするような気がする。
すぐに絶版書房アニミズム紀行5、6>の二冊を注文してくれた人達のためのドローイング制作にとりかかる。ドローイングのテーマは「東北山岳都市構想」と「東北山岳霊場計画」の二本立てである。それぞれの紙片にそれぞれの主題を描き込んだ。小さな紙に、小さいからこそ丹念にならざるを得ない。丹念に描くうちにプロジェクトに対する気持が高まるのであった。18時半疲れて作業を中断する。17点しか描けなかった。全てをデジカメに記録する。
明日から発送を始める。すでに多くの注文をいただいているのだけれどゆっくり丹念に作り、送り出す。
研究室を去る。帰途、先日の『日経アーキテクチュア』の「藤森照信本」の対談ゲラを読み直す。わたしは対談は苦手なのだが、何故か藤森さんが相手だと珍しく肩の力が抜けて自然体に近くなり、面白い出来になっていた。藤森さんは時に徹底的に自分本位の男だけれど、それは自己愛とは異なる、何というか品位があって、言いたくは無いが好きな男である。何よりもその徹底した独人が良い。
19時40分烏山長崎屋食堂で夕食。グループの客が大騒ぎしていたけれど、ガマンしてTVに視入る。長崎屋のオヤジもオバンもバカじゃないからNHKになっている。クローズアップ現代-大災害から避難した人々の心のケアー特集を視ながら、これからは東京の、日本の何処に居ても今度の大地震、大津波、福島原発の被災者難民の方々に出会う可能性が大だから、わたしの対人能力、クセもいささか変えないと人を傷つける事になりかねぬと殊勝に反省した。こんな時だ、もう人間だって変えましょう。無理だろうがね。今日が66才の最後の日である。もう人間は変われないのである。こんな事考えるだけでオカシイのである。23時就寝して、再びボルヘスを読む。ボルヘスの短文は勿論全て詩だけれど詩人の傲岸さが一切無くて、変な気取った飛躍もない。ただ在るのは巨大な才質である。神に近い男だな。
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四月一日
7時半離床。昨夜はGSDマイナスイオン発生機を三階にセットして、作動させながら眠った。いずれ効果が生まれるのだろう。わたしのところの清浄機は310×450×210㎜の大きさで発生イオン濃度は200万個ions/cc以上との事である。水に次いで空気もすでに有料になっている都心の高層密閉ビルとまだ自然の空気が残っている筈の世田谷村周辺の外気は次第に同じ状態のモノに近づいてゆくのだろうか。ともあれマイナスイオンにしばらく附合ってみる。
8時半過、我孫子真栄寺馬場昭道さんより連絡ありブラジルの谷さん来日との事。6日にお目にかかる事になった。嬉しい。天性の明るさを持つ人であるので、あやかりたい。我孫子も大震災による液状化現象で大変だそうだ。先日、寺の桜を切って避難所の方々に持っていったそうだ。こんな年には恐らく桜は見事に咲くのであろうな。昭道さん彼なりに頑張っているようだ。
10時、藤森照信さんとの対談に手を入れ終える。手を入れると言ってもわずかな部分で、よくまとまった話しになっていた。
- 467 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十九日
昨日迄の2、3日の状態に似た記憶がある。インナーヒマラヤの秘境ムクチナートからの帰路。ポカラ迄あと2日程の低い尾根筋を歩いていた。ポカラに着けばカトマンドゥには定期便のバスがある。厳しい旅ももう終ろうとしていた。
間近に魚の尾の形をしたマチャプチュレの霊峰を眺め、壮大なヒマラヤの峰々の只中を歩いていた。もう何の危険も無い。普通に歩いていれば、ポカラには辿り着ける。
しかし、どうもおかしい体がフラフラ揺れ続けるのだ。何か変である。しかし、揺れるだけ。他は何も無し。だが、何かの異常があると思い体温計で熱を計った。42℃あった。良くまあ歩いていたものだ。でも歩き続けるしか無い。ポカラの安宿にどう辿り着いたかの記憶は無い。冷たい河を二度程渡り返した記憶がある。安宿では飯も喰わずにブッ倒れた。同行の友人達は皆元気で何処か出掛けた。皆が去りあの時のシーンとした感じに良く似ている。又も世田谷村の3階の吹抜けに面した仕事場を真っ直ぐに歩けないのであった。
世田谷村からはヒマラヤの峰々は眺められないが一瞬、それが現われた。高熱は深い睡眠に人間を降下させるが、時々の記憶をも呼びさます。
石原慎太郎氏がこの災害を天罰だと言って、多くの批判を浴びたが、わたしは同感するのである。石原氏は珍しく良い事を言った。言葉が足りず三陸海岸の人々に対する言と受け取められたのであろうが、石原氏は巨大消費都市東京の人間を含む、つまり我々消費的生活に埋没している人間達への天罰だと言いたかったのだろう。そうに決まっているではないか。だとすればこれは正論である。
熱のためボーッとしていたら小川君より電話があり、出てこい話しがあるとの事。服をたっぷり着てでかいマスクをして長崎屋に行く。会った小川君流石に仰天して、もう帰れよ、帰って寝ろだと、呼び出したクセにマア仕方ない。二件程の用件を相談。すぐに帰って再眠。電話が多く鳴るも出れない。許されよ。
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三月三〇日
昨日も18時より、12時間眠った。その前もほぼ眠っていたから、眠り男であった。眠れるだけでも有難いことではあるが。少し汗もかいたようだ。しかし、この有難いは、我ながら嘘臭い感もある。
昨日、TVを無為の内に眺めていたら、僧侶が初めて災害の現場に立つのを視た。ピカピカの袈裟に白い足袋、福々しい栄養満点の顔であった。何の印象的な言葉も無い。多分TV局のやらせであったのだろうか。わたしの眠れるだけでも有難いの感じは、この僧侶の空々しさに似て、通じるところがあるようだ。この福々しい、ほとんど思考停止の僧侶は僧侶の袈裟を外したら、被災地の民衆の顔に表われているリアルな思考の影らしき、人生の深淵に対面している刻苦勉励の深みが全く視られないのである。一人の僧侶の顔付きだけで普遍を語る愚は承知で、わたしはこの僧侶に日本の僧侶の典型を視たのである。
被災地に僧侶の姿が一切視えぬ異常さについては、すでに千葉県我孫子・真栄寺馬場昭道に伝えている。何やってんだ仏教はと正直な気持もぶっつけた。自分の非力をかえりみずにである。
わたしの数少ない体験からは、宗教が人々の生活に密着しているのはイスラム教が質量共に一番、二番がキリスト教、これは資本主義自体がプロテスタントの精神に礎を置いているのと無関係ではない。三、四が無くて世界で最悪の状態なのが日本の仏教であり、その僧侶の生活であり、不勉強さではないか。
かつて宮崎の大きな寺院で佐藤健が沢山な僧侶達を前に講義したのに立会った事がある。
一. 肉食妻帯
二. 世襲制
三. 不勉強
を彼は日本仏教の堕落の因として挙げていた。居並ぶ僧侶達はうつむいて誰も反論しなかった。なる程僧侶って者はこんなモノなのかと思い知った。肉食妻帯に関してはわたしは坂口安吾の現代の僧院生活だったかの論を支持したい。極度の禁欲生活はとてつもない背理を生み出しかねぬ恐れもある。東南アジアの小乗仏教は日本人には向かぬ。だから、コレワ、今考えるに佐藤は言い過ぎであった。
世襲制はいけない。僧侶には僧侶のやはり資質が必要であろう。喰いつなぐためであったら、堂々と労働者なりサラリーマンなりをつとめあげればよい。北朝鮮の金体制世襲の異常を日本仏教各宗派各寺院各僧侶がやり続けているに等しい。これは三の不勉強に通じる。
私事になるが佐藤健の「酔庵」の命名式に現われ、「健さんこれは泥酔庵の方がいいな」と言い放った松原泰道師の如くの名僧は居ないではない。著作も多く、良く人々に読まれている。わたしは松原師に近くお目もじし、これは仲々の人物だと感じ入ったものだが、今は空也の如き宗教者が出現すべきである。今の日本宗教界、殊に仏教界は余りにも官僚制に近すぎる。しかも世襲の官僚制なのである。落ちるに極まるのである。三陸海岸の町や村に本格的な僧侶、及び寺院の再生を願う。これは三陸海岸にとどまらず、東北地方という広さの中で考えても良い事である。
- 466 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十八日
昼過ぎ、まだフラフラするので横になり、起きて念のために体温を計ったら38.8℃あった。これは昨日、一昨日はもっと高温だったか。あのスピーチの絶句等は身体の高熱から来たものでもあったか。これではとても今夕のXゼミのミーティングには出席できない。難波さんに電話して欠席の旨伝える。残念だが仕方ない。このところの体調不良は高熱からであった。
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三月二十九日
昨日は15時に休み、本日7時迄16時間眠った。汗をかいて眠った。熱は37.3℃迄落ちた。今日も休むべきだろう。
研究室へ。用心して今日一杯休みます。昨日の朝日、日経朝刊の記事を、気仙沼の臼井さん、唐桑の佐藤和則さんのご自宅へ送って下さい。以下のメモをそれぞれに附して下さい。情報が欲しいだろうから、丸々二紙送りましょう。
臼井賢志様
先日は突然電話を差し上げてしまい失礼いたしました。でも生きた肉声を聞けて本当に良かった。私共も気仙沼・唐桑支援計画を立ち上げて何とか力になりたいと念じております。三つ程考えており、すでに行動に移してますがもう少しリアルになったら御相談させて下さい。3月28日附、朝日、日経両紙朝刊に気仙沼・唐桑の人々への気持を書きました。お送りさせていただきます。あの15年間はわたしにとっては人生の画期でありました。何かわずかなりともお返ししたい。
又、御連絡いたします。
3月29日早朝 石山修武
佐藤和則様
気仙沼・唐桑の惨状に言葉もありませんが、何とか少しでも出来る事をと、三つ程の計画を考えております。又、それについては連絡いたします。
3月28日附、朝日、日経両紙朝刊に気仙沼・唐桑のみなさんへの気持を書きました。お送りいたします。
しばらくは一方的に通信を送ります。
3月29日早朝 石山修武
- 465 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十五日
11時世田谷村発、12時研究室。M2アマゾネス達と5分のお別れ。印象深い女性達であった。大災害が彼女達の社会人としての門出になった。出来得れば品位のある知識人として生きて欲しいが、実に困難な径ではあろう。少なくとも簡単ではない。
どうやら生きているらしいと知った、恐らく彼等はその辺は本能的であろうからケイタイのエネルギーもそろそろ確保したに違いないと目星をつけ、臼井賢志さんに連絡。何度か目にようやく鳴る。二人共ほとんど絶句する。生きてましたか、生きてます。電話口でほとんど叫ぶ。肉声を聞いて始めて、何かの感情が噴き出た。臼井賢志さんは臼福の屋号で今や気仙沼最大のマグロハエ縄の船主である。7隻の船、母船の大船団を持つ。気仙沼の心棒である。船は皆外で、アフリカやアマゾン沖でかせいでいるので無事なんだが帰ってくる港が無くなったとの事。でも臼井さんさえ気仙沼にとどまれば何かの可能性は在るだろう。地盤沈下がひどいので国土地理院から地図を取り寄せて、色々と考え始めているようだ。頼もしい。少し落ち着いたら、気仙沼のまちづくりを始めたいと言う。その時は参加するように言われた。どんどん臼井さんに参考資料等送り込みたい。郵便は届くとの事である。臼井さんの住宅は高台に在る。しかし魚町の事務所はやられた。でも、気仙沼の心棒は生き残った。一筋の希望の光は残った。何かできそうだ。こんな時は物材じゃない。人材だ。
勢いづいて唐桑の佐藤和則さんに電話。再び、オー、生きてたか、生きてます。と叫ぶ。佐藤和則は町づくりカンパニーから町長になった。気仙沼市との合併に際しては市長候補として立候補、残念だが負けた。その際は臼井さんと戦ったのである。わたしは、その際は唐桑についた。仕方ないどうしても弱い方についてしまうのは、コレワ、クセだ。でも今は全てが流されたから、わだかまりどころではない。和則さんはガレキの片付けでその先は考えられないようだが、今こそまちづくり組合に起てと肩をたたきたい。和則さんは絶望していると思うけれど、絶望している時間さえ無いだろう。
でも、この二人が生き残ったからこの地域の未来は一筋の光が射したのである。こんな時こそ平時には不要な強い指導者が必須である。
12時半人事小委員会。被災地の生の声を聞いた身としては、何とももどかしい会ではあったが、これも現実である。13時2年生製図に関する会議。14時教室会議、16時教授会。18時半迄、気仙沼・唐桑支援計画の小計画チェック。小さい事でも真剣にとり組むと仲々流れるようには進まない。若い学生はこの際、社会のリアルな風を感じて欲しい。そして負けないで立ち向かってくれ。
20時過世田谷村に戻る。
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三月二十六日
7時離床。メモを記す。最近はメモを記すことによって考えが整理され、アイデアを生むので更にメモ作業はわたしに必須になった。
向風学校安西くんとの計画も気仙沼・臼井さん、唐桑・佐藤さんと連絡がとれるようになったので、よりリアルになった。
山口勝弘先生と連絡つく。震災被災者支援絵葉書づくりへの助力を要請、快諾いただく。3月11日の東北関東大震災から丁度、1ヶ月後の4月11日に被災者の方々に少しでも力になれるように絵葉書を作成しているので、それを買っていただき、支援金を送りたいので、その時には御協力をいただきたい。研究室で今、デザインをすすめている。よろしく願いたい。見本ができ次第、サイトにONするので、予約もとらせていただきたいと考える。来年の3月11日迄続行する。
東北の結城登美雄さんに臼井さん佐藤さん健在を知らせる。又、頑張りましょう
12時過発。西調布へ、私用。14時半過発。15時過至誠館児童福祉複合施設オープン披露会。理事長、副理事長、理事、職員の方々と完成を喜ぶ。感謝状他いただく。挨拶を一言と促され小スピーチ。おわりに、東北関東大災害がおきて沢山の人々を失い、わたしたちの手掛けた海沿い、港沿いの小建築群他も津波に流されたろう。人間の生命も含めて東北で、三陸海岸で失ったモノは膨大である。その時にこの稲田堤の子供のための建築が立ち上がったのである。・・・・・わたしは絶句した。万感胸に迫り言葉が継げなかった。
19時半了。お別れして世田谷村に戻る。20時半ラジオを聞きながら横になる。
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三月二十七日
七時離床。メモを記す。今日は休みたい。気持が疲れた。昨夜は集まった方々の何がしかに、気仙沼・唐桑支援金集めのための絵葉書について紹介させていただき協力を求め、30セット程を予約していただいた。絵葉書のできはかなり良い。明日サイトに紹介できると思うので是非求めていただきたい。1セット1500円送料込みである。売り上げは気仙沼・唐桑地区に送る。
三陸海岸の町々、そして福島等の北関東は大きくとらえれば大消費都市東京を支え続けてきた。東京はエネルギーも食料も、他の何もかもをこの地域に頼り切ってきた。東京はゾンビ都市であった。この構造に手を入れなければ東北の本格的な復興はあり得ない。
鈴木博之先生より連絡あり、目白東京カテドラルのネラン神父がお亡くなりになった。鈴木さんの導きでネラン神父とは淡くささやかなお附合いを短期間ではあったがさせていただいた。ネラン神父のグループの仲介で、カルカッタのマザーテレサにもお目にかかる事ができた。深い体験を得た。91才であったから大往生であろう。神父に大往生は無いかも知れぬ。神の御許にみまかったのであろう。大人物であった。大人物が又、消えたなあ。
盛岡市の中村さんより大部の郵便届く。三陸の大津波で身内の方を失った。三陸町綾里の白浜に廣洋館という旅館の増築を手掛けられた。津波でも奇跡的に残った。今後この残った旅館をどうするか思い悩んでいるとの事である。わたしにどんな力があるのか覚つかぬが、できる事はしなくては。頼まれるのも縁である。
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三月二十八日
七時過離床するも体調悪く、再び横になる。やっぱり、気持の奥深くをやられているのだろう。
朝日歌壇俳壇、短歌詩評にて田中槐さんという方が、今何をどううたうかを論じている。ちなみに俳壇の方は一句も震災を詠んだ句はない。俳句をする人はこういう事に無関心なのだろうか。選句された句に目を通すが、こんな時にこんな句を詠んで平然としている人々の感性を疑う。信頼する金子兜太氏の選句「早春のバックミラーにある棚田」やはり異和感がある。大いにある。俳壇はボケ老人の集りか。そして短歌詩評、田中氏は言う、今それ(大震災)をうたうべきとは思えない。何故なら詠まれる歌が類型化されるからだと言う。まことに恐れ入る説である。短歌も俳句も芸能の世界に属す。歌手、俳優の杉良太郎氏が活動の自粛反対の論を述べているが、これと同様な水準の論である。震災大津波は誰の身にも何らかの傷を与えた。巨大な集団的スケールで。もしも親近者を失くした被災者がこの論を読んだら何と想うだろう。類型化でも定番でも構わないのではないか。むしろ大新聞がこれだけの紙幅をかくなる芸能に与えている、その意味を考えるべきではないか。田中氏の言う事は全く良く解らない。杉良太郎氏の言も身勝手だけの事であろう。
プロ野球の開幕に際してセ・リーグが大変な体たらくを演じた。その事実と田中氏、杉良太郎氏の言う事は同じである。短歌俳句は世に恥をさらした。三流の藤原定家気取りは鼻につく。
- 464 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十四日
10時過世田谷村発。11時過研究室。サイトチェック。沢山のメールが届いているが、返信はしない。いただき放しは研究室の原則なので何があっても崩さない。その代わり石山研の発信の中にそれを反映させていただく。神戸の冷水さんにはいつもながらありがとう。
12時研究室ゼミ。5名の発表を聞き、又同時に石山研の今回の大災害に関する対応のうち、気仙沼・唐桑への支援金送附の計画に関して述べ、院生学部ゼミ生の参加についてわたしの考えを聞いてもらう。幸い学生諸君の同意を得られて、早速作業に入ってもらう。学生諸君は実ワ、千載一遇のまっとうに生きる根底の礎を感じられる機会も得ているのだ。15時半了。
絶版書房アニミズム紀行6、12冊にドローイングを描き込む。又、5、6号2冊一緒に求めていただく方々への葉書大の一品一品のドローイングも一点だけ描く。気合が入っている。三陸海岸の黙示録的悲劇が胸にささり込む故に一点一点のドローイングにとても時間がかかる。これは仕方ない。もの凄いエネルギーをかけてしまいグッタリつかれた。
向風学校の安西君に会う必要発生し、18時半新宿味王で会い、安西君の三陸海岸の町々へのささやかな支援のためのマテリアルを相談する。又、向風学校と共同ですすめようとしている台湾の船会社に日本支援の依頼計画についても相談する。21時了。安西君、S君と別れ、21時半烏山、世田谷村に戻る。
わたしも悪いのだが、どうしてもニュースを得たくてTVを視てしまう。トンデモお笑い番組がやはり堂々と復活していて、当然のように単純に怒る。ダウンタウンDXなるバカ番組やっていた。こんな時に出演している芸人はともかく、それに金を出してるスポンサーを、つまり広告主を忘れてはいけない。見なければいいのだけれど、間抜けだから、つい眼に入ってしまうので残念である。
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三月二十五日
7時離床。小野寺正志さんより連絡入る。気仙沼の古い友人である。共通の友人臼井賢志さん等の消息を尋ね合うが、どうやら生きておられるようだの話ばかりである。まだ気仙沼地域には入れぬ状態である。小野寺さんは故あって今は気仙沼を出ている。故郷は壊滅しました。何も残っていませんとわたしと同じようにTVラジオ情報で悲しむばかりだ。娘さんがアメリカから気仙沼情報をよこしてくれるそうだ。松島の町は何とかなりそうだと言う。東北関東大震災発生から二週間。一週間程の準備を経て、昨日からわたしもようやく少しでも東北に何かをしなくてはと行動を起した。研究室は来年の3月11日迄の一年間支援活動を続ける事を決めた。
昨日のアニミズム紀行6、5・6二冊用のドローイングは全て避難所計画のものである。わたしの頭も身体もようやく創るモードに変換しつつある。
東北の結城登美雄さんと話す。唐桑町づくりカンパニーの主要メンバーは生存しているようだ。気仙沼臼井賢志さんも生存を確認。
しかし、ここ一ヶ月は遺体捜索、他で何も手が付けられぬだろうとの事。東北に生きる立場より、現民主党政権の無能無体振りを彼は激しくなじった。何の対応もいまだになされていないとの事。
東北漁業が完全に壊滅したとの事。三陸の復興はむずかしいだろうとの事。不可能を前提に何が出来るかを考えなければならぬと言われた。唐桑の佐藤和則元町長は生き残ったから、彼を中心に沿岸漁業の船をそして漁師さん達の再組織を始める事はできるかも知れない。わたしに出来ることの一つは三陸海岸の魚を大消費都市東京の微細な部分で引き受ける事くらいか。三陸の魚を直接漁師さん達から買う体制作りは再び考えてみる価値があろう。
唐桑町づくりカンパニー、お魚倶楽部の復興は出来るかも知れない。先ずは、気仙沼の隣りの唐桑の佐藤和則さんとコンタクトしたい。でも今ではない、今は彼は膨大な跡片付けに走り廻っているらしいから、それどころではない。もう少し時がたってからの事である。今はじゃまをしてはいけない。
- 463 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十三日
10時世田谷村発。11時研究室、新潟より研究室入室希望者S君来室。ポートフォリオを見る。入試に関する若干のアドヴァイス。博士課程W氏短い打合わせ。
アニミズム紀行6、4冊にドローイングを描き込む。久し振りなのでスムースにはゆかず、我ながら手こずった。一冊一冊皆全く異なるモノになり、これは今度は大変だなあの感あり。一冊一冊のドローイングを全て記録することとする。これも又全公開するのですきなナンバーがあれば指定して下さい。
12時20分ドローイング中断し目白駅へ。目白駅内パン屋で軽昼食。久し振りのパンでおいしかった。被災地の方々には申し訳ないが、修道士の如くの生活は出来ぬ。
13時45分改札口で向風学校安西直紀に会い、共にGKへ。14時栄久庵憲司さん、小野寺さんに面会。栄久庵さんGK初期に安西直紀の祖父に会い仕事をした事などを実に懐かしそうに語る。安西もこれから日本の為に頑張りますと、実に昔の青年風に応え、わたしも栄久庵さんも笑う。おおらかに笑う。本当に頑張ってくれ。道具寺の話他、栄久庵さん語る。安西君にもこの件手伝ってもらう事になる。15時了。お別れする。
目白でメシ食おうとなったが閉店ばかりで新宿に出ようとなりライオンビアホールへ。銀座ライオンは慶応の連中のよく集まる場所で、安西君も銀座は好きです、と言いやがる。奴は幼稚舎育ちの生粋の慶応で、福沢諭吉研究会であった。大学は0単位退学であり、大学には嘘があり過ぎるとアッサリ中退した。立派である。わたしも生粋の早稲田なので慶応と聞くと、何をコノヤローと本能的に思ってしまうバカをすり込まれているのではあるが、今でも。妙に安西とは気持が通じるところがある。大バカなのだろう。バカが必要なのだ今は。
今度の千年に一度の大災害に際して何ができるかを話し合う。大きな事には手をつけ始めているのだが、毎日少しずつ出来る事もしなくちゃなと無い知恵をしぼる。17時過了。18時半世田谷村に戻る。栄久庵さんからもらった『袈裟とデザイン 栄久庵憲司の宇宙曼荼羅』(芸術新聞社刊、2000円+税)を読みながら眠りにつく。
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三月二十四日
5時半離床。メモを記す。この東北東日本大震災に対して、やはり小さい何かもしたいと考えて、平凡だけど絵葉書を作って売ろうと考えた。その売り上げを気仙沼・唐桑に送りたい。平安であった唐桑・気仙沼の風景他は多くの記録を所有してはいるが、振り返ってはいけないだろう。地獄みたいな現実を越えてゆく道具になるようなのが良い。自分もつたないドローイングを一生懸命描くつもりだけど、自分が今、これは良いなと感じたモノを幾つか絵葉書にしてみたい。山口勝弘先生の「廃墟に昇る太陽」は先ず第一候補だろうな、先生に電話して許可をいただこう。
- 462 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十二日
10時半向風学校安西氏と東北東日本大震災復興の件で話し合う。安西氏も一生懸命動いているが、自分の非力さに泣きたい位の気持になっているだろう。わたしもそうだ。でも何も出来なくとも何かするつもりだ。安西氏はこの件で台湾自由特報の特派員になった。次のステップへ進む。11時過世田谷村発。12時過研究室。エレベーターが停止していて八階迄歩いた。大学の授業開始は5月になった。
12時半日経新聞窪田直子記者インタビュー。今度の大地震と気仙沼唐桑について。14時半了。15時ドレスデン大学ヨルク・ネーニック氏来室。EURO・ASIAワークショップ、わたしのドイツ巡回展について相談。16時半了。
久し振りにスタッフと共にコーリア料理屋へ。19時半了。19時半烏山長崎屋で一寸とした御礼を述べ20時過世田谷村に戻る。岩手県一ノ関ベイシーの菅原正二よりFAX便届いていて一読。泣いた。男がこんな事記すのはみっともないのは知っている。しかし、こんな時に泣く。あの筋金入りの猛者である菅原正二でさえ、悲しいとつぶやくのだ、これを泣かずにいられようか。大の男が泣きたい時には泣かせてやれ。沢山の亡くなった人を想い泣くだけでは無い。東北三陸海岸の風土そのものの意味を直観したのだ菅原さんは。
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三月二十三日
7時離床。メモを記す。鎌田商事北海道支店鎌田郁雄社長より手紙をいただく。北海道音更町の「水の神殿」の大雪山系の地下250mの自噴水が「とかち酒文化再現プロジェクト」の水に選ばれたとの事である。このプロジェクトは十勝のコメと水で地酒造りを目指すものである。今春から十勝のコメの栽培を行い、収穫後の12月に仕込みを始める予定だそうだ。目標は500ml入りを4000本で来年2月の販売開始を目指すようだ。「水の神殿」の水はいい方向へ流れ始めたようで心強い。何か出来ると良いが。
井上雅靖さんより「續・牙青聯話」送っていただく。前作の「牙青聯話」を大変興味深く読んだので早速頁を捲る。就中、グレアム・グリーンとJ・Lボルヘスの出会いが登場して、何故かやはりなあの感あり。何故やはりなのかと言えば、これは単純きわまる。書物を身の廻りに置かぬと不安な人間がいるもので、井上さんもそんな種族である。わたしもそうだけれど恐らく彼よりははるかに書物に対して雑駁なだけだ。ボルヘス程の魔人の頭脳の働きめいた記憶力の凄惨さは毎度、ボルヘスを読む度に思う事だが、その記憶力の神めいた風の故に彼は盲人にならざるを得なかった。井上さんもわたしも、失礼な言い方になるやも知れぬが凡庸な記憶力の故に、それで書物を身近に必要とするのであろう。ボルヘスはブエノスアイレス図書館内でのあらゆる本の位置と、その内容を正確に知っていたようで、我々はそれを知ると自分の無能さに絶望してしまう。
この本は今日一日持ち歩いて読んでしまおうと決める。歩きながら、電車やバスの中で読むに最適な書物であると直観する。この人(井上雅靖)はただのペダンティストであると言い捨てる事もできようが、何かが気持の底におりの如くによどむ感があり、それで読み続ける事になるのである。
10時、研究室へ発つ。今日も八階迄歩いて登るのだ。昔、田辺泰先生が歴史研が17階にあった時、下まで来られて、停電でエレベーターが動いてないのを知り、わしゃ帰るぞと電話してきたのを思い出したりしている。今は八階に居るので中途半端なんだな。
- 461 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二十一日
5時半離床。メモを記す。昨夜は早稲田バウハウス・スクールのOB会から政治家出せたら面白いねの話しも出た。今、一番劣化しているのは政治家の品位であるから、大体品位のある人間が政治へは行っていないだろうけれど、それだからこそ良い人材にはドンドン音がする位に政治の道へ入ってもらいたい。昨夜会場で手渡された紺屋レポート他に眼を通す。建築リノベーションに関するものだ。良い意味でも悪い意味でもサークル的でコレは典型的な疑似民主主義的活動である。京都の町屋文化の如きを作る迄になるのだろうか、大事な主題が欠落しているような気がする。その事実も又大災害は浮き彫りにした。手渡されたので読み印象を記した。
8時半1階ロータスで朝食。ここからのクリーク(お堀)の眺めは好きだ。同じように雨の降る朝、バウハウス・ワークショップを訪ねてくれた毎日新聞の佐藤健記者から癌にやられた、どうやら末期だ、と打ち明けられた処だ。それぞれの場所に、それぞれの忘れられぬ記憶がある。このクリークの風景は原アジアと呼びたい位の深い何かがある。思い込みに過ぎぬのは承知だが、そんな思い込みをさせるリアリティーも又確かに在る。タイのスコータイの朝、静かな仏教遺跡の堀割りと、ブーゲンビリアの花々、壊れて青空に露出して立つ仏像に供えられた香の煙のそよぎ、匂いの如きを想い起こさせるのである。レストランの名もロータスと誰が名付けたのか知らぬがとても良い。ハスの花は今は咲いていないが、その花さえ眼に視えるようだ。パンとコーヒーがとてもおいしい。良い一時を過ごさせていただいた。この平安は佐賀に特有なものだろう。しかし大災害地の空気も又遠のいてゆく。子供連れの若い夫婦が幸せそうにしている。1500km程しか離れていない処で2万人に近い多くの人々が朽ちて腐乱しているだろう。その風は佐賀に迄届いている筈だ。人間の想像力は鈍く酷薄なものだ。
10時チェックアウト。梅木氏迎えに来る。雨の中車で佐賀山間部を案内して下さる。梅の花、桃の花が美しい。有名などんぐり村周辺、松ちゃん(山間の格安地場産品店)、山間体験用施設、わらぶき民家再生等を見て廻る。佐賀の設計家たちも時代に合わせて一生懸命である。梅木氏推奨の山間のそば屋、「木漏れ陽」で昼食。大盛りのそばを食す。県外ナンバーの車が多く集まり、それなりの格好をした消費者たちが群れていた。味は実に都市消費的な味なのであった。
梅木さんより「かろき茶通信」なるパンフレットを渡される。研究室OBの高木正三郎くん等と一緒に、うれし野の裁茶業の青年達と少量多品種の地元高級茶を限定200口で全国に頒布する計画のようだ。面白そうだ。問合せはメールinfo@karoki.jp、ホームページhttp://karoki.jp/、FAX0954-43-0529
わたしも佐賀の連中に負けずに、茶ならぬアニミズム紀行5、6を売らなくてはならない。
16時半前東京羽田着。モノレール、山手線経由で千歳烏山へ。19時半世田谷村に戻る。
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三月二十二日
7時半離床。メモを記す。千葉県我孫子・真栄寺住職馬場昭道さんより電話あり。思わず被災地に僧侶の姿が無いのはどうした事かと文句をもらしてしまう。昭道さんは直載な人だから「本願寺に電話してみる」との事であった。東北の事でわたしが心痛めていると考えて、なぐさめようと電話してきたのに、何してるんだ僧侶は?はなかったなと反省。しかし昭道さんはわたしの知る限り僧侶の中の僧侶である。昭道さんが出来ぬ事は日本中の宗派を問わず僧侶と呼ばれる者は誰も出来ぬだろう。宗教に何が出来るか、寺に何が出来るか、神社に何が出来るかの抽象を問うているのではない。一人一人の僧侶に何が出来るかとわたしはつぶやいている。
昭道さん、こんな時には宗教家は祈るしか無いのも良く解るんだけれど、それだけでは足りないのも歴然としているのだ。昭道さんは宗教家としての直観から「海がやられているのが一番心配だ」と言う。何だそれはと問うと「海が目に視えて汚れているし、陸より放射能の被害も多い筈だ。海は生命の源だから心配だ」と、立派な意見を述べられた。これは我々凡人の考えの及ぶところではない。宗教家の、特に仏教者の考えを説き聞かせていただきたいところではある。
- 460 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十九日
12時京王稲田堤現場。GA杉田さん関君に会う。一時間弱案内する。K理事長に紹介する。2人はスナップ取材を続け、わたしは理事長と雑談。いただいた村田知子さんの絵を持ち帰る。今、考えている地域のコミュニティの核の一つとしての子育て建築、および街路づくりの計画をどこ迄延長させられるか?
15時半烏山長崎屋で研究室の渡邊助教と会い、様々な伝達事項他の打合せ。明日の佐賀でのレクチャーのデータも完璧に準備されていた。楽をさせてもらっている。出来上がったばかりの、至誠館建築のパンフレットを長崎屋のオジンとオバンに献呈する。何故なら二人は長崎の白いタンポポを至誠館に下さるので。17時過世田谷村に戻る。カゼは治ったのか、治らぬのか解らぬママである。アニミズム紀行6(絶版書房、2500円税、送料込み)kの刷り上がりを受け取る。自分で言うのも何だが、5号にいや増す仕上りである。買うべし。18時前よりアニミズム紀行6の口上を書き始める。
18時岩手一ノ関ベーシイ菅原正二より、何か東北をはげますメッセージを書けと言ってきた。勿論、書きますよいくらでも。
19時20分、「アニミズム紀行6」発刊口上書きおえる。朝日東北版、東北へのメッセージ、ベーシイにFAXで送付。 21時半過野菜中心の夕食。おえて小休。01時目覚める。アニミズム紀行6を読んだり、ただ憮然と過ごしたりで休む。
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三月二〇日
5時離床。とても淡いけれど夜明けの空は色づき始めている。こんな時の空の表情はまるで気持の動きのように視える。宙空にも感情がありや否や。
9時40分世田谷村発。11時過羽田空港第2ターミナル。電車モノレール共空いていて流れもスムースであった。12時過佐賀へ発つ。飛行機の少し計りの揺れ等は地震と比べればどうと言うこともなし。機内では何もせずボーッとできた。14時過有明佐賀空港着。佐賀新聞文化センター・梅木氏迎えて下さる。雨の中を市内へ。懐かしい佐賀城跡ホテルニューオータニにチェックイン。このホテルで三年間の夏を過ごした。小さな背負いを一ケ部屋にほうり込んでゴボ天うどんとイナリを喰べに出る。我々が佐賀のワークショプでスタディの対象地としていた兵庫北はベッタリと商業施設に埋め尽くされ、あの貴重なクリークの面影はない。ユニクロと紀伊国屋書店と何がしかが入って人気なのだそうだ。この時間多くのうどん屋が閉じており、一軒開いていた食堂に飛び込む。ゴボ天うどんといなり、うまかった。
16時佐賀新聞文化センターへ。会場には10人程しか人が集まっておらず、こんな時だそりゃそうだろうと思ったがレクチャー開始時には大方一杯になる。レクチャーは佐賀用に用意したもので、基本的にはモノづくりと共同体の再編成へという筋のモノである。用意したデータを基に話しながら、わたしの研究室の蓄積は共同体への夢を潜在的に持ち続けていたのを痛感する。間違っていなかった。レクチャー後幾つかの質問を受ける。18時過佐賀新聞文化センター・福田氏と話す。県会議員の太田記代子さんより資料手渡される。会場で立派な意見を述べられた方である。こういう時には人間の品位が浮き彫りになる。
19時、とても懐かしい焼き鳥屋「おさむ」へ。御主人、オカミと再会。嬉しかった。バウハウスのツィンマーマン学長のお気に入りの店である。まことに気っぷが良い人達の店でわたしも大好きで訪ねたかった。
21時過、了。わたしの為に大きなタイを2匹用意して下さり、人情に触れ心ふるえる。ここにもある種の共同体があるのだがそれに気付いていない人が多い。地元は地元を知らぬのである。ツィンマーマン氏もこの店で何を食べたか憶えてはいないのに、オヤジとオカミさんの気風にひかれて、それで佐賀は良いと今でも皆にドイツで言っているのだから。葉隠れよりもよほど葉隠れですよ、この「おさむ」は。勿論、わたしと一緒の名前なのも素晴らしい。佐賀には又帰ってきたいが「おさむ」に帰る感もある。 雨の中、ホテルに戻る
- 459 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十八日
20時、今日一日休ませていただいたがどうもおもわしくない。熱はないのだけれど、どうにもならぬ。卵おじやとジャガイモのうす味味噌汁を作ってもらい喰べる。うまかった。三陸リアス海岸の人達を想えば申し訳ないが大事にいただく。カゼ薬を3粒のむ。コレが効いて鼻水他ピタリと止まる。
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三月十九日
6時半離床。三陸リアス海岸の町々の復興に関して何かをしなくてはならないの気持は強い。それがハードの世界にとどまっていてはどうしようもない事は歴然としている。次世代にかくなる事は引き継いでゆく必要もある。向風学校安西直紀は台湾自由新報特派員のポジションを得て、台-日の仲介者として被災地救済の大きな仕掛けを作り始めた。日本在住の台湾の方々、あるいは関係者の方々は是非とも向風学校代表安西直紀のところにメールでコンタクトして下さい。三陸救済への計画につながります。
8時、明日の九州佐賀でのレクチャーのシナリオ作り作業。9時了。渡邊助教に連絡。
今日は晴れてとても穏やかな日和だ。被災地の方々も少しは陽光の温もりを得られるだろう。この黙示録的な大災害からわたしが得つつあるものは、共同体の生きるうえでの必然とも言うべきである。地域の総合性とも呼ぶべき有機性は自然と人間、人間と人間の関係から生み出されるが、大災害によって露出される人間本来の美質は決して長続きする事がない。それをさせぬのが近代でもある。人間の相互扶助の必然は近代的日常の中には発見し難いものだから。
それはTVメディア、特に民放の有り様に歴然として集約して現われる。民放のCMはこの一週間自粛されているかに視えるが、二、三日前からいかにもな広告機構や国連難民救済センターのCMが入り込み、昨日くらいから完全に商品CMが復活した。この状況は企業活動の多くがマスメディア=CMと連動しており、しかもそれがこのような黙示録的な災害時には不適切なもの、ジャマなモノである事を企業者もその商品伝達者も知り抜いている事を良く示しているのである。人間の生の尊厳の前にはあらゆるCMはただ不気味な、人間の欲動の表れとし露出してしまう。近代デザインのグロテスクな基本構造でもある。それを近代デザインの宿命として片付けられるわけもない。
11時過、世田谷村発、烏山神社を経て京王稲田堤へ。GA杉田君と会う予定である。烏山神社では、オイ神さんよ、もう少ししっかりしろ、と一言言いたい。神さんも消費ボケで大喰いして眠りこけていたのではないか。本当にしっかりしてくれ。神と仏がしっかりしなければ、こんな時には。
- 458 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十七日
13時、稲田堤で園庭の植栽工事を眺める。今日からセントラル警備のセキュリティ器具の取付け工事が始まり、案の定、伝えていた事が守られていない。担当者が鈍いのか会社がそういう体質なのか。NTTも危うい。コレワいかにも親方日の丸だ。
上原造園は表通り沿いに設けた175㎜の細長い土のラインに花と草を植え終えた。現場で会ったK理事長と喜び合う。とても良い。道ゆく人は喜んでくれるだろう。園庭は5本の桜、5本のなしの樹、黄色の花のモクレン他生垣と二重にして植込まれた。上原さんと話し合う。何か建築に奥行が発生したと思われたからだ。樹木は都市空間に奥行をもたらせるモノなのである。奥ゆかしいとはこの事か。一つ覚えた。
内部にはピアノ他の備品がどんどん運び込まれ始めている。この建築は三陸海岸の多くの知人に対する、子供たちに対する鎮魂の意味を持つな、わたしには。
鼻水がグズグズで涙目になり完全にカゼか何かにやられている。15時半去る。16時過ぎ烏山長崎屋に寄り、白いタンポポをいただく事になる。稲田堤に植える。長崎の被爆タンポポである。花は時に建築の数層倍の物語を伝える。
安西直紀向風学校へ伝えたプロジェクトがうまくゆくとよいが、彼なら途中迄は何とかやるだろう。完全でなくともよいのだ、ヤル、ヤッてみる事が大事。常人に出来ぬことをヤレ。
21時半、九州の藤賢一さんよりTEL、磯崎さんと御一緒でお二人から東北の事なぐさめられる。又、中国帰りの藤さんより何時でも九州に逃げて来いと言われる。磯崎さんもチベットへでも又行くかと笑う。九州の男は本能的に大陸浪人である。日本の枠には収まりきらぬ。
22時、安西さんと再び話す。気合い入れてヤレ安西。ケチなコトやってももうダメだぞ日本は。23時半就寝。早くカゼを直そうと必死で寝る。
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三月十八日
7時半離床。すぐに新聞を読む。知りたい事は何も書かれていない。米国政府は福島第一原発の半径80kmに在住の米国人の避難指令を出した。韓国他も同様。フランスにいたっては国外退去を指示したようだ。チェルノブイリの教訓である。政府・東電共に何かを隠しているわけも無いだろう。そんな事が無い事を祈るが。情報隠蔽は無いとすれば、起こっている事を知らぬという更に最悪の事態なのではないか。ともあれ政府から公表される情報、対応策共に一向に釈然としない。
突然電話があり、トイレットペーパー24巻き送るとの事。
鼻水、せき、涙目回復せず、今日は世田谷村で休みとする。今日の予定は研究室の方で先回りして全てキャンセルとなっていた。
- 457 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十六日
11時過ぎ世田谷村発。京王線はほぼ通常運転に戻っているようだ。12時稲田堤現場。上原造園が園庭に入り植栽工事を進めている。竹と丸太材の垣根および生垣の植栽は終了。二列目の桜、なしの樹の列の植込みに入る。
12時過ぎ向風学校安西氏、南武線稲田堤に来るK理事長とバッタリ会い、紹介する。安西氏を建築案内。園庭テラスで話すも、あまりの寒さに閉口し、室内ホールにしゃがみこんで諸々の件話し合う。その後、全階を案内する。終了後昼食へ。15時了。別れて園庭に戻る。樹木が入って園庭の姿は変わった。4月になれば桜の花が咲いてくれるだろう。この建築には樹木と草花といささかのアートが不可欠である。16時前、去る。16時半冷たい北風のなかを世田谷村に。被災者の皆さんの寒さと比べれば冷たさもない。モヘンジョダロの遺跡の一本の夏ミカンの樹、この樹はキチンと独立して立っているので好きなのだけれど、一つミカンの実が地面に落ちていて、拾ってもらいたそうな顔をしたので、そうか、そうかとと歩み寄り拾ってあげた。ミカンの奴うれしそうにしてやがる。
福島原発は危機的状況だと憶測するが、これは人間の生命と本質的に相反するやも知れぬ。超巨大な現実の露出でわたしも言葉を失う。よくわからない事は書かぬ方がよい。すでに街にはとんでもない情報が流れ出している。
大災害関連でアイデアが生まれ、向風学校の安西氏に送付。カゼの症状が歴然としてきたので休む。モヘンジョダロのミカンをむいて食べたが淡い味でおいしかった。
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三月十七日
6時半離床。福島第一原発事故は二つの逆方向の情報を生み出し始めている。一つは多くの人々が関西九州方面へ家族を東京から脱出させている現象の元になる情報、噂に近いレベルのモノ。東京の各国大使館の幾つかも東京の機能を閉鎖して関西に移動させた。明らかに野次馬ツィッターらしきは無視すべきであろうが、この本能的な逃避行と言うべきは全否定すべきではない。民衆の本能は生き残っているのかも知れない。これもまだよくわからない。
二つ目の動きは、その動きを急速に迎え込もうとする、科学的で定量的な客観性を帯びたような情報。新聞各紙、NHK、民放もそれに急速に流れを合わせつつある。その典型は福島第一原発からの半径20kmと30kmの間の地域の首長が、自分達の地域は安全である、自分達の放射能測定器もそう証明していると強くアッピールし、政府にそれを宣言するように求めた事に表れている。つまり、政府がこの地域を危険地域とみなし、避難と同時に半径20kmと半径30kmの中間地帯の人々には、そこにとどまり屋内から出るなの指示を出したからだ。それに従ったこの地帯の人々はその結果あらゆる生活物資が入手し得なくなった。物流にかかわるトラック運転手他の人々がこの地域に入り込めなくなったためである。科学的定量性を帯びた情報は信用せざるを得ないが、一寸先の未来を一切示せない。
これだけの事になるとすでに問題はそこに集約されつつある。つまり避難するにせよ、とどまるにせよ大きな集団でそれを成さねばならぬから時間もエネルギーも膨大となる。つまり時間がかかるのである。巨大なタンカーは数km先の障害物を避けるのに、更なる遠距離より転舵、すなわち転進のカジを切らねば間に合わぬのを知っている。それに習えば、今の状態は最悪のケースを予測しても、それは正当である。
それで、わたしは今のところ東京にとどまろうと決断している。
11時に世田谷村発。植木屋さんの仕事を眺めにゆく予定である。そうでもしなければやりきれぬ。幻庵のオーナー榎本基純さんが植木屋に憧れ、遂にそうなったのを今になってようやく理解できるようになった。植木屋は生業としては現代、理想的なモノだ。しかし、そうは言っても皆が皆植木屋になるのも非現実的だし、才質気質としても向いていない人種も多い。
民放の体力は尽き始めている。一週間ももたぬのか、民放は企業のCMだけではなく、本当に民衆に株を持たせる等して理想的な民間放送のアイデンティティをこの機に追求すべきであろう。そんな局が一局くらいあってよい。この大地震、大震災の報道にテリー伊藤が顔をのぞかせるべきじゃないだろう事くらい責任者は解るべきだ。社長がボケとる。
- 456 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十五日
22時半再び強い地震に襲われる。震源は静岡、富士宮市は震度6である。伊豆西海岸松崎町は大丈夫だろうな。次第に震源は東海地方に近附いている。東海地震に連結する恐怖が湧く。リアルに恐い。地震学、地球物理学の分野は何をしとるのか。科学工学の世界はある意味では単純だからキチンとやればもっと地震予知等の学問は進むだろうに。次第に思考能力を失い始めているのを自覚。大きな哀しみがケチな論理を包み込んでしまうのである。虚空に沈み込むように、それでも眠ってしまう。申し訳なし。
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三月十六日
4時半離床。福島第一、第二原発の現状をTVで視る。アメリカの報道官はすでに、これはレベル6の危険域に入っていると発言。レベル6はスリーマイル原発とチェルノブイリ原発事故の中間である。
世田谷村からはこんな時でも自販機の照明が光り輝いているのが視える。消費ボケの象徴的風景だ。先ず無数の自販機へのエネルギー供給を停止すべきであろう。点灯しているのは失礼だ。公的な電気のムダ喰いをしているようなものである。
遂にTVの放映を見続けるのを中止する。知り合いの消息、なじんだ町々の現状は、それは壊滅であり、それ以外の何者でもない。民放は再び正体を露出し始めて、CMのみならず、のぞきグセとしか言い様のない視聴率めあての仕事を見せ始めたからだ。10日間位は別のものを流す知恵と見識くらいは持て。
- 455 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十四日
8時40分世田谷村発。京王線は調布迄しか運行していない。10時前調布。南口より現場へ電話、車で迎えに来て欲しいと告げる。駅前広場は長蛇の人の行列である。一時間半程待つ。馬淵建設スタッフ迎えに来て同乗。11時半現場。広島の木本一之さん「ざくろの街灯」最新作を現場に届けて下さる。昨日の午後広島を発ったとの事。高速道路は自衛隊の車で一杯だったとの事。ざくろの街灯の向きを決定する。K理事長の意向で隣りの厚生館愛児園にセットしたざくろの街灯同士がキチンと相互に視え合うように、一部、まてばしいの樹の葉と枝をカットした。まてばしいの樹の名は植木屋さんから教えられた。この樹木はこの土地、厚生館グループの発祥の地の記憶をとどめる唯一の樹木なので残した。このまてばしいの樹の姿形とうまく折り合うように街灯をセットした。13時修了。K理事長、木本さんと昼食。14時前皆さんとお別れして京王稲田堤へ。京王線は計画停電プランにより、今は動いている。しばし待ちほぼ満員の電車に乗る。15時前烏山着。世田谷村に戻る。朝日新聞の大西氏よりTELあり、気仙沼、唐桑の事など、この大災害で壊滅状態になった事などをわたしの視点で書けと言われる。二日程時間をいただくが、すぐ書こうと思い、17時3.5枚強書き終え、渡邊君に送りメール送附を頼む。17時半小休。少し体調が戻ったので夕食にうどんを食べる。カゼ薬を飲んで横になる。薬はほとんど飲まぬのですぐに効いて眠くなる。
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三月十五日
6時過まで眠り、離床。すぐTVをつけ新聞を読む。気仙沼市に再び大火が発生している。消火の手もつかぬそうだ。ボーゼン自失である。三陸海岸は立ち直るのに50年かかるだろう。50年の計を立てるべきだろう。政治家官僚にそのヴィジョン、時間に対する想像力は小さいから、都市計画、建築分野の知恵、しかもヴィジョナリーな知恵が必要になるだろうし、歴史家の知恵も動員されるべきであろう。
ケイタイ電話の交信がキャパシティに達して、古い固定電話の設置を再開するそうである。あらゆる場所から公衆電話が消失した異常を異常とも思わぬ我々が居る。
国難とは言いたくないけれど、古代に連なる日本列島難だなコレワ。原発事故の報道も各局水準が異なるようだ。TBSは最も日和見である。キャスターの発言なぞは考慮に価しないが国家体制に属する学者、研究者の発言は留意し記憶にとどめなければならない。
- 454 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十一日
遅い昼食を世田谷村近くのソバ屋宗柳でとっていたら、大きな揺れが襲ってきた。大きな地震である。客、店の人間全て、しゃがみ込み恐怖の顔になる。わたしも恐ろしかったが、大声で「大丈夫だ、安心しろ」なんて叫んでしまう。何の根拠もないのだが、そう叫ばずにはいられなかった。一旦、揺れがおさまり、宗柳を出て、近くの長崎屋が心配で出掛ける。世田谷村は大丈夫に決まっているから。第二波の震動が来る。倒壊が危ういと思っていた木造二階建て長崎屋は大丈夫であった。オヤジはTVの実況放送を見ながら「これは半端じゃないぞ」と繰り返す。オバンはあわてていない。「長崎の原爆投下体験があれば、こんなコトはどおって事ないよな」と尋ねたら、「アレとコレとは違います」のクールな返事が返されてきた。
17時過、それでも世田谷村が心配で戻る。大きな余震が続いて起きている。まさに建築はシェルター、人間を守るシェルターである事を再直観させられる。
17時半再び大きな余震が来る。こんな風な地震の連鎖は初めての体験である。
夜になって地震による惨状が次第にわかってくる。マグニチュード8.8という日本近代史上最大級の大地震である。気仙沼市は途方も無い大火に襲われている。知人が多い、大変心配である。
太平洋岸は日本全国大津波が襲い、大変な事になっている。これで東海大地震が連鎖すれば日本列島の人工物は巨大なダメージを受けるな。全く自然の力は途方も無く大きく、人間の仕業ははちっぽけである。
夜はラジオを聞きながら眠りに入る。こんな風に眠れる事だけでもありがたい。被災された方々のこれからの健闘を祈りたい。亡くなられた方は膨大な数になるだろう。
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三月十二日
5時半くらいからラジオを聞く。6時半、新聞TVの情報を得る。ラジオの情報が一番速く正確であるような気がする。7時過ブラジルのマリア・セシリアから電話が入る。地震を心配してくれた。ありがたいコトだ。世界中に報道されているのを知る。李祖原、イフェイ・チャンから電話入る。
大地震は三陸沖から茨城沖へ、今日になって新潟、長野、秋田と連鎖して続いている。巨大地震は原発街道を襲っている。幾つかの原発で史上初めて原発緊急事態に対して半径10km以内の人間を避難させた。危ないなコレワ。次第に状況がわかってくる。長野ではがけ崩れで鉄道レールが宙ぶらりんに浮いており凄まじい。
菅総理大臣は「国民は落ち着いて行動して欲しい」とコメントを出した。お前さんには言われたくない。
岩手県陸前高田は壊滅状態と報じられた。決断してXゼミナール3月12日便を書き、13時前に終える。
避難用シェルター+新しい寺のアイデアをスケッチしてしてすぐに模型を作る。17時過終了。
夜、体調を崩し早目に眠る。体調悪化位は我慢すべきだろう。
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三月十三日
7時離床。まだフラフラするが、今日は茅野で藤森照信との約束があるので、出掛けなければならぬ。巨大津波、地震の被災規模は時々刻々加速的に増加している。東北の友人達の顔が思い浮かぶ。
9時世田谷村発。10時あずさ11号でフリー編集者長井美暁と待ち合わせ、一路茅野へ。車内で2時間話し続ける。久し振りに南アルプスの白嶺を眺めるが、山を眺めてる場合ではない。日ハムのダルビッシュ投手がインタビューで「こんな時に野球なんかやってていいのだろうか」と話していた。正直な人だ。少なくとも開幕は遅らせるべきだろう。戦争中に野球やってるバカはいない。それと同じだ。
12時茅野着。市民会館を抜けて、藤森照信の空に浮く泥舟を視る。昔バルセロナで視た木製潜水艦を思い出した。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』の世界だな。面白過ぎるのが問題かな。よじ登り、その卵の中にもぐり込む。空に浮く木と土の潜水艦である。密閉された宇宙卵が空に浮いている。藤森さんしきりに王様やりたいともらす。コレはハワイのカメハメハ大王の別宅に良いだろう。シュールレアリスムの先に行ったな。シリアスさが全くないのが良い。モダニズムの中枢はシリアスなアウラであり、それが現代市民社会、消費社会へも浸透しているのだが、その域を外している。何処に行く藤森照信。日経の藤森本に対談はフューチャーされるから一読をすすめる。藤森さんと対談前に喰べたカレーライスが胸に焼けて不調。帰りの汽車では眠り続けた。
17時過新宿。18時足を引きずるように世田谷村に戻る。藤森さんはカレーや焼肉という食生活を変えるべきであろう。すぐ横になる。
眠る前に視たTVで気仙沼市役所の内部掲示板の行方不明者へのメモの群の中に確実に知っている人物の名があり、暗い気持ちになる。
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三月十四日
7時起床。メモを記す。気仙沼、唐桑の人々、陸前高田の人たちの顔を思い浮かべて気分は沈み放しである。
Xゼミナールではこの大津波、大地震のことはやらねばならない。こんな時には人間の良さが噴出するモノである。
12チャンネルは新大久保特集を流して、6チャンネルはヨドバシカメラのCMを流し始めた。見識を疑う。民放の根性が透けて視える。
- 453 世田谷村日記 ある種族へ
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三月十日
8時世田谷村発。仙川よりバスで杏林病院。8時45分受付にて予約無しの検診を頼む。1時間程待って10時Y先生検診、いつもの通りの薬を薬局でいただく。仙川に戻り大学へ。11時新大久保近江屋まだ開店前で仕方なく隣りの牛丼屋。11時半研究室。13時M0ゼミ。14時M1ゼミ。石井のドリトル先生の庭への考察、佐藤の研究計画が興味深い。今年のM0は仲々の人材が集まってきたが、M1との落差は大きい。そうでなければ研究室の意味はない。石山研のM0は実質的にはM1である。4年の空白期に少し密に学ばせるので、伸びる人間は伸びる。どんどん伸びてくれ。
今年の人材はうまくオペレイションできれば何かを成し遂げるやも知れぬ。石井の提出物、佐藤のモノに関しては良く考えてクリティークを記した方が良かろう。16時半了。17時半烏山長崎屋にて、二人の提出物をじっくり眺めかつ読む。19時過小川君来る。近況を聞く。20時半世田谷村に戻る。
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三月十一日
5時離床。よくよく考えてみれば今年のM1とわたしの年令は丁度45年離れている。戦国時代の青年であれば、下天の夢ではないが一生の時間に値する。であるから、わたしは彼等を少し古いが人間の一生の時間のフィルターをこして眺め考えられるようになったのである。石井の卒計、二つのタワー旧東京タワーと新スカイツリーの相対、そして距離に意味を発見しようと試みたモノと、佐藤の「見えない山」の卒計は共に同様な直観が働いているのが大事である。古代地中海の入口、ジブラルタル海峡にはヘラクレスの塔と呼ばれる二つの塔が海峡を挟んで建っていたらしい。その姿形はどんな図版としても残されていないようだが、クレタ文明、そしてギリシャ文明という今のヨーロッパ社会の原基である地中海文明のゲート、そして守護神の如くにそれは存在したのだろう。至高の、神話にもつながり得る対のタワーであった。少しばかり大仰ではあるけれど、石井の東京の新旧関係に対する視線は、本当はそこ迄届いて欲しかった。いきなり近代ではアルド・ロッシの塔とは言えぬ数本の灯台のネットワークのドローイングがあり、私見ではあるがロッシの傑作であった。地中海に生きる建築家でないとイメージできぬはるか遠い懐旧の情、それをノスタルジーと我々は呼び、あるいはメランコリアとも名付けるのだが、歴史と芸術の母である。石井は想像力をふりしぼって東京がいづれ廃墟になった時のこの二つの塔の姿を描いてみたら良い。「少し荒れた庭」とスタジオジブリ、今の日本人が求めるもの、に折角たどり着いたのだから。スタジオジブリはともかく、この少し荒れた庭というのは廃園であり、廃墟なのではないか。東京を一つの庭に見立てると二つの電波塔の意味合いが浮き上がる筈だ。石井の良さはトトロの家と甲子園スタジアムの緑に眼がゆく、つまり日常性から離れない事でもあるが、一度意識的に離れてみるのが必要だろう。それが意識的なモノであれば帰るも容易だから。
佐藤の卒計「見えない山」、この制作プロセスを見ることは無かったが、早大東大合同課題の際の彼の作品は憶えていた。確かそこいらのしもた屋の外壁に露出したパイプ他に着目したものであった。この人はそういう、どうしようもなく残って露出してしまうようなモノへの趣味があるなと思った。パイプや家の壁に浮き出た影や錆のようなもの迄描き込んでいた。卒計はその視線はブレずに、対象が一気に愛宕山になった。最良の都市史的サーヴェイに接した事は彼を急速に成長させたのだろう。この若者にはちっぽけなモノ、それは人間も含まれるのだが、あるいはすでにそこに在るモノに対する柔らかい視線がある。三年生の時にはそれが弱さにつながるかとあやぶんだけれど、知らぬ間に急速に骨太な論理性を育てた。そして自分らしさも失わずに保持し続けている。再び言うがこの一年間の成長には眼をみはるのである。
ドローイングがとても良い。意図的な手描きである。意識的な手描きであるので、その意識が全てのドローイングに生命力を与えている。彼はこの「見えない山」のドローイングの価値を更に意識化すべきだ。このドローイングは彼の創作家としての出発点になるだろう。
磯崎新の見えない都市の言説は良かったけれど、そのドローイングは言説ほどには良くなかった。磯崎が建築家たちに与えた影響の最大のモノは、さめざめとした視線の大事さであった。我々も、更に若い世代の建築家たちにもその力は及んだ。今の若い建築家たちの依りどころの一つである日常性はその果ての思考の廃墟である。
佐藤のドローイングはその言説よりも多くを語る。先ずは全体の生命力の表現。ドローイングからすけて視えるのは樹木への視線。樹木と建築を同一世界に近づけられないかという直観である。これはメタボリスト、とくに黒川紀章のドローイングが細菌状のモノへの有機性をアナロジーしたモノよりも余程知的である。
しかし、何よりも良いのはそのドローイングが民俗学的な視線を合わせ持つ中で描き込まれている事だ。一見生活学的な水準に堕す如きに視えるが、その水準は超えている。
石井には卒計の成果を自分一人で再編成する事をドローイングあるいはモンタージュで表現する事を、最初の課題として与えた。
佐藤にはそのドローイングから都市的な視野への才質を感じ得たので、わたしの東北地方の計画への参加と、先ずは中国人にもわかる、と言うよりも中国人特有でもあろう大きな鳥瞰的インフラとしての山岳と、その建築の課題を与えた。
7時半過小休。
今日、「絶版書房アニミズム周辺紀行6」が本として完成し研究室に届けられる。わたしと研究室生の年の開きについては先に述べた。教師になって20数年になる。これ迄幾多の人材に接してきた。わたし自身が形式無き形式の如くを追ってきた。つまりはフニャフニャのコンニャクの固まりみたいな人生だ。押されればへっこむし、引かれればふくらむの体である。こういう人間は教師としては学生、とくにモノ心つく院生にとってはやっかいだったろう。乗り超えようと考えても的が絞りにくい。
しかし、教師としてのわたしの形はようやくにして形を成すに至った。それ故、乗り超えるのは容易ではないだろうが、不可能ではなくなった。アニミズム紀行はそんなわたしの最遠投の球であり意志でもある。教師としてばかりではなく創作者としても未知の域に入り込もうとしていえる。今年のゼミはだから力を尽そうと決心している。院生と渡り合う、競い合うばかりではなく、コンニャク体に意図的な穴を開けて、わたしを通り抜ける力を与えてみたいと実に殊勝な事も考えているのである。それに面白い事に彼等の考えている、あるいは自分でも気付かぬままに考えようとしている事の先がわたしにはすこおし視える。その世界はまだ小さなモノに過ぎぬけれど、世界を変える力になる予感さえある。そのドリルの刃のような植物の芽の如きを発見し、養分が与えられればわたしの生にとっても力になるだろう。他者の中に自分を視る楽しみである。
視えぬモノを視たい、そしてその世界の中のモノを想像したい、置き変えたいの困難を若者は思考し始めている。建築空間は空気ではない。場所と歴史(時間)の中に浮かぶ人間の生への柔らかい意志である。それに向けて様々な意匠の戦略図を描きたいと考える。
- 452 世田谷村日記 ある種族へ
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三月九日
アニミズム紀行7、45枚迄書き進める。制作ノート「町の中に小さな径を作る計画01」書く。色々なプランを終日練って終わる。19時世田谷村に戻る。
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三月十日
6時半離床。快晴。定期検診をさぼってしまったので今朝は杏林病院へ早朝出掛け、その足で研究室に向う予定。昨日のように幾つものプランを立案するのは、もうコレワ趣味みたいなモノでそうしなければ病気になってしまう位のものなのだが、以前は立案したらすぐに思い浮かぶ顔に電話したものだが、流石にそれはしなくなった。もうあんまり失敗している時間も無いのでゆっくり暖めてジワリと進めるしか無い。8時世田谷村発杏林病院へ向う。
- 451 世田谷村日記 ある種族へ
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三月八日
11時稲田堤現場。理事長と話す。12時半昼食を御一緒する。13時施主・設計完了検査。越石現場主任以下の尽力により事故も無く無事出来上がったのは努力もあったが幸運であった。何よりも人身事故がなかったのでホッとしている。15時過完了。近藤芳晴理事長、副理事長、他の方々より大旨良い建築になったの言葉をいただく。これで、16日よりの植栽工事、木製彫刻の設置を待つだけになった。できてしまって寂しい感あり。18時烏山宗柳で地域の良識ある婦人グループと再会し、町づくり協議会の実態を報告する。この婦人達が直接、区政に参加するシステムが望ましいのだけれどなあと、つくづく想う。驚くほどに情報通であるし、バランスも取れているのだ。コンピューター社会は基本的には直接民主主義らしきに段階的に進行してゆく宿命を持つが、その個々の判断が悪しきマスコミのセンセーショナリズムに左右されぬような主体の確立が必須であろう。しかし、それは困難極まるであろう。マスコミの情報伝達能力は著しく劣化している。徐々にマスコミ情報対インターネット情報のシンプルな構図が生成されているのは確かであろう。
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三月九日
昨夜は随分沢山な夢を見た。荘子の夢ならぬ実に俗悪な悪夢としか言いようがない。二人の侍が狭い屋敷内で果し合いをしている。額の広いうりざね顔をした見知らぬ人間である。もう一人の侍は影ばかりである。恐らくは藤沢周平の小説をなぞったような夢だった。ただそんな夢を見ながら、これは現代に通じるな、何よりも鉄砲の時代になり、侍は無用になったなぞと理由知りな刀ならぬ観念を振り廻すわたしもその果し合いを眺めながらいるのである。もうひとつ別な夢をみながらどうやらわたしはうなされていた。変な夢であったので記録しておきたいと思ったが、アッという間におぼろになった。アニミズム紀行7に出現した朱色の小さな狭谷の夢は出てこなくなってしまった。
白足袋が大きなビニール袋の中で眠っている。先程そのビニール袋をぶら下げて室内を歩いてやった。ブランコのように振ってやると陶然とした顔をする。ビニール袋の中で眠っている顔はうちに来た時の仔猫の顔である。
アニミズム紀行7、すすまず。どうにもならない時もあるさ。精神病院に対する考えが勝手に拡がっている。何とか建築像にできると良いのだけれど表現手段が見つからぬ。
- 450 世田谷村日記 ある種族へ
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三月七日
14時竹橋の近代美術館。お堀の石垣の美事さに眼を見張る。この石工たちの祖先も渡来人なのだろう。岡本太郎展オープニング。会場入口で栄久庵憲司、小野寺さんに会う。NHK小川アナウンサーと会う。小川さんは今日の会の司会である。14時半開場。栄久庵さん車椅子で先頭切るので、わたしもそうした。やはり岡本太郎の仕事は1970年大阪万博の太陽の塔だとつくづく思う。太陽の塔に関する映像コーナーが設けられていて栄久庵さんは見入った。若い黒川紀章さん堺屋太一等を前に岡本太郎が会議で持論をブチ上げていた。ボクは太郎さんの弟みたいだったんだ、と栄久庵さんポツリとつぶやく。大阪万博は栄久庵さん率いるGKも又、太郎さん同様に飛躍のキッカケになった。黒川紀章さんも同様である。映像には丹下健三の大屋根下でうごめく、デメ、デクのロボットも登場している。
磯崎新さん本人は登場していない。キラキラと健康そのものな時代であった。今日の雪空にはいささかまぶしい感あり。会場のほとんどを栄久庵さんの車椅子と廻ったので、妙に栄久庵さんと太郎さんがダブって視えるのであった。栄久庵さんの道具寺プロジェクトには大変関心があり、フィンランド・フィスカスのパビリオン計画ではわたしも動いた。栄久庵さんは誰も知るように日本のインダストリアルデザインの事実上の始祖であり中心であり続けた。その栄久庵さんの道具寺計画は、メタボリズムを継承し、それを超える思想になり得るものであるとわたしは考えている。そう考えたい。栄久庵憲司の考えの基本は自分の作り続けてきた道具、近代の工業製品に対する深い愛情である。それが使い捨てられゴミになってゆく消費サイクルへのいらだちでもある。道具寺とは要するに道具たちの墓所計画でもある。メタボリズムが生産の時代から消費の時代への予見を表わしたとするならば道具寺は消費の時代へのアニミズムの注入を振舞っていると考えられる。メタボリズムが当時日本唯一の世界への輸出品目であったとすれば、道具寺プロジェクトも又、深く考えるならば世界への共有感覚を持ち得る数少いプロジェクトなのである。
栄久庵憲司の道具自在千手観音像は岡本太郎の黒いグニャグニャの手足を沢山うごめかせているような彫刻「縄文人」と余りにも似ている。この二人はアニミズムに対しての論理的直観の所有者であろう。良く似ている。
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三月八日
7時離床。メモを記し、昨日の岡本太郎展のカタログに眼を通す。岡本太郎の全体像は良く解り、共感するが個々の細部は良く解らぬ。荒川修作の絵、ドローイングはともかく、その建築に違和感を覚えるのと似ているな。
- 449 世田谷村日記 ある種族へ
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三月五日
昨日は昼に西調布へ行き16時半烏山。長崎屋で休み、宗柳で夕食。17時半世田谷村に戻った。
7時半離床。メモを記す。手紙を2本書く。手紙はエネルギーを要する。10時半小休。小川君より連絡あり烏山寺町の計画を着々と進めているとの事。
花田佳明氏から『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』(鹿島出版会6800円+税)が送られてきているのだが、650ページの大部なので仲々手がつけられないでいる。
昼過発、西調布へ。近くのラーメン屋でネギラーメン。近頃ラーメン食べ過ぎだ。気をつけたい。その後、私用で時間を過す。18時過了。19時前世田谷村に戻る。
アニミズム紀行7を34枚半迄書き進める。とても難しい事になってきてしまっている。学ばなくては突き破れそうにない。アニミズム紀行は書き継ぐごとに辛い事になるな。でも自分の直観を信じて行くしかない。
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三月六日 日曜日
5時半離床。東の空が明けそめて、薄明かりが室内に侵入し始めている。点々と色のついた雲が丸味を帯びて浮いている。雲から見ればこちらが薄暗さに沈んでいるのだろう。とにかく世田谷村室内は座ったまんま天空を感じる事ができるのが良い。何をするでもなく、再眠する。9時過再離床。
アニミズム紀行7を書き進めるうちに、小学生の頃の小学校の近くに井の頭病院という精神病院があった事を痛切に思い出すようになった。患者さんとの通常では無かった、ささいな触れあいのような事があったのも。それにことさらな意味があるわけもないが、ただただ思い出したのである。
3才の女の子が九州熊本のスーパーマーケット内のトイレで殺され、川に捨てられた。犯人は20才の大学生だ。最近はこのような不可解さを通り越して不気味な事件が日常のように起きる。日常的に恐ろしい人間の引きおこす事件が連続して起きる。簡単に人間が殺される。単純にこれを人間の劣化現象と片付けるわけにはいかぬ。通勤電車に乗って、老人や身体の弱い人に向け優先シートに若者が男女を問わずドッカと座り込み眼前に老人を立たせている風景は日常である。こういう若者は男女を問わず、平気で人を殺す人間の芽生えであろう。こういう若者に声を掛けて席をゆずりなさいと言うのは度々ある。しかし、そんな時には正直言えば、少なからぬ勇気もいる。いきなりなぐられたり、グサリとやられかねぬ感もないわけではないからだ。
わたしは保育園にも幼稚園にも通わなかった。父母祖父母、時には近隣の人々がその代わりをしてくれたのだろうと想い出す。1950年代は小学生の頃だった。低学生は江森葉子先生という名の女の先生で時々家を訪ねて下さった記憶がある。優しい先生であった。4年生はイヤな男の先生で、5,6年生も神経質なイヤな先生であった。名は憶えているが記す訳にはいかない。男の先生にはよく殴られた。友達もよく殴られた。よく殴られるグループにわたしは属していたのであった。
殴られぬグループはいつも殴られぬのであり、殴られるのもいつも決まっていた。4、5、6年生の担任の先生の専門は社会科のような物だった。二人共、今想えば社会主義的傾向の思想の持主であった。当時はそれがハッキリと解るような時代でもあった。
よく殴られていた悪童グループは男先生にはアナーキストの卵に写っていたのかな。マア、よく殴られたけど、子供たちは今の時代のようにこう迄簡単には殺されたりはしなかった。
松本清張と岡本太郎は今年が生誕100年のようだ。大衆的で非芸術的なところが似ている。
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三月七日
6時半離床。久し振りに新聞を読む。本当は政治の事、日記に書くのは禁じ手にしているのだが、わたしは政治音痴、あるいは白痴であると自覚しているので。
前原誠司外務大臣が辞任した。その是非はともかく、この出来事は民主党に歴然とした派閥、及び派閥力学が育ちつつあり、すでにそれが完成している事実も歴然とさせている。苦学していた頃の付合いだった近所の在日韓国人の焼肉屋の夫婦から政治献金を貰っていた。わたしの研究室にも在日韓国人学生が居て、彼等の考えには深い関心があった。今年の修士設計の発表に於いても彼等在日韓国人のアイデンティティに関するしっかりした考え方が表現された作品が作成されて心ひそかに頼もしくも考えたりしていた。しかし、わたしにとっても身近な問題として在日韓国人の問題はあった。ヒューマニティの問題として前原外相は辞任する必要はない。しかし、外国人からの個人献金を禁じている政治資金献金に関する法律が厳然として在る以上、コレは違法である。末期的ダッチロール状態に陥っている菅政権の主要政治家としての前原外相はそんな初歩的な事は踏まえている筈だ。それでなくして政治家とは言えぬ。それ故、前原外相は菅内閣の行方を見極めた上での、民主党内派閥力学への冷徹な計算により、つまり将来の首相候補としての自分への戦略として辞任したのであろう。そうでなければ政治家とは言えぬのである。更には政界再編の芽がこれでようやく生まれたとも考えられる。
政治家は大衆やジャーナリストには持ち得ぬ冷徹な考えを持ち得る資質をもって、初めて政治家と呼び得るのである。
アッという間に外は雪景色になった。今年一番の積雪になるのではないか。降りしきる雪の中、梅の花にまぎれてたくさんのメジロが芽をついばんでいる。
- 448 世田谷村日記 ある種族へ
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三月三日
7時半離床。今朝も寒いが快晴である。白足袋は三階上部の壁の上に乗って外を眺めている。うちの猫のDNAはガス焼却炉行きの前日に引き取った捨猫である。ビニール袋の中に一緒に居た兄妹は皆焼かれた。野良猫なのに外に出ない。堂々たる野良猫にいじめられるからだ。外に出たいのに出られない。だから良く外を眺めている。上等らしき形而上学的思考をしているわけではない。あらゆるうごめくモノ、すなわち森羅万象のアニマを眺めているのである。うちの猫にアニミズム紀行を読ませたい。
9時過世田谷村発。10時稲田堤の建築現場でK理事長に会う。間もなく藤森照信、長井美暁、宮沢日経アーキテクチュア編集長、カメラマン氏来る。日経アーキテクチュアで藤森特集をするのに引っ張り出された。何処かで藤森さんとのツーショットを撮りたいと言うので、こちらも稲田堤に引っ張り出した次第。まだ工事中で、植栽も、草も無く不本意な状態であるが藤森さんには見てもらってもいいかなと思い今日となった。藤森さんは他人に気を使わないので楽なのだ。案の定、建築の真前で会っているのに、建築見もしないでこの前の磯崎さん家のことさあ、だって。
屋上に上がって二人でワンショット。次に二階テラスでもう一枚。ついでに内部を案内する。日本有数の見巧者なので油断ならない。その後隣りの厚生館愛児園で皆さんをK理事長に紹介しお茶。こうして石山のクライアントと三人で会うのは初めてだなあと言う。建築の十字型のサッシカバーが散在しているのが気になるらしく、教会系の児童建築か?だって。マッタク、世田谷村に路上観察の面々と来た時には赤瀬川原平さんが屋上で廻るルーフファンを見て、イスラム建築だなあと言われて仰天したのを思い出した。しかし、藤森さんの眼はたしかなのであり、気になるところである。11時了。藤森さん一行と別れ、K理事長と植栽草花談議にふける。16日より植栽や巨大牛の彫刻がはいるので楽しみである。
12時前現場を去る。13時大学。14時教室会議出席。16時大学発。近くのコーリア料理屋でスタッフと会食。17時半了。18時半烏山長崎屋中華店でオヤジの話しを聞いて休息。20時過世田谷村に戻る。
山本理顕さんより『atプラス』06送られてくる。「建築空間の施設化」のエッセイが掲載されている。昨年の十一月に発行されたatであるが、以前よりXゼミナールの鈴木、難波両氏からいいエッセイだと教えられてはいたが、何故か読んではいなかった。読めというメモが附されていたのでキチンと読んだ。「一住宅=一家族」システムから「地域社会圏」システムへと副題が附されている。てらいの全くない一直線の論理が記されている。わたしなりに要約すると現在の設計行為は官僚制度のタテ割りシステムの内に管理されており、それは建築家本来の空間デザインの工作力とでも呼ぶべき力、能力の表象の結末ではなく設計業者としてエンジニアとしてタテ割りの官僚制度の端末として排泄されているが如きではないか、と。
官僚制度そのものの勢力についてはR・バックミンスター・フラーが随分昔に指摘していた事であり、そのアメリカ帝国制に対してフラーはG・P=グレートパイレーツ、大海賊なる詩的な存在を作り出した。ヴィジョンとして。山本理顕の論はあくまで計画論、特に突きつめれば平面計画論に収束するのだけれど、それ故にわたしのイメージする空間論とは距離があるが、それは別として山本理顕の提示している問題は近来の建築周りでは稀な社会的明晰さを持ち出色である。
『atプラス』はよく山本理顕の論に光をあてたと思う。同誌には書評の形式で柄谷行人の「アーキテクチュア原論」磯崎新もあり読み応えがある。山本理顕の論は磯崎新の論よりも直載である。わたしにとってより解りやすいと言う事は山本理顕の論はより物質としての建築に近い解りやすさを持つの意味がある。磯崎新はハイパーになっているから、構造体がみえてはいけない、と書評を結んでいる。用心深い。しかし、山本の論が清新に読めたのは事実である。
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三月四日
7時半起床メモを記す。
山本理圏の「建築空間の施設化」で実践的に述べられている地域社会圏システムについて熟慮するに、この理屈は『建築の理 難波和彦における技術と歴史』彰国社(2200円+税)第十章中規模幻想共同体をめぐって—に於ける議論と相対化して考えると、とても面白くなると考える。是非山本さんにも『建築の理』を読んでいただき、難波和彦さんの二〇〇戸の中規模生産の共同体、視えない共同体とでも言うべきに対する意見をいただきたいと思う。
Xゼミナールに於いて、この山本理顕のエッセイ、むしろ論と言うべきであろう、は議論すべきかと考える。Xゼミナールは一九五〇年代日本近代建築再考を今一つの短期軸にしようと相談している。
- 447 世田谷村日記 ある種族へ
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三月二日
昼過稲田堤現場、今日は川崎市役所の工事完了検査と消防署の竣工検査。大きな問題も無くパス。スタッフと建設会社の力である。15時半一足先に去る。厳しい寒波が襲ってくる。
山口勝弘先生と連絡。先生からは山口勝弘、石山の二人展を是非やりたいと言っていただき、心密かにふるい立っている。手紙を下さり、品川宿は生れ故郷だから良く知っているとの事。品川娯楽館という木造二階建の建築というか館があり、そこでやりたいとの事である。江戸時代からあった劇場だと言うので、残っているかおぼつかぬが品川宿の連中に尋ねてみよう。
今更言うまでもないが山口勝弘は本物の中の本物の芸術家である。半身不随の身体になろうと制作を止めぬ。想像力を駆使し続ける毎日なのである。
山口勝弘先生は御自分の手許にある多数のスケッチブックを是非公開したいとおっしゃっているけれど、もう少しアイデアが必要だな。先ずは読者の皆さんに山口勝弘の今を良く知っていただく必要がある。実ワ、何年も前にこのホームページで何回か山口勝弘先生の最近のドローイング、ペインティングを断片的に紹介した事がある。アレはうまくなかったかも知れない。一部のアートに関心がある人々の興味しか引きつける事ができなかった。山口勝弘の場合アートと言ってもメディアアート、ビデオアート、コピーアート、コンピューターアートと常にテクノロジーと併走してきた。その部分はすでに鎌倉近代美術館での山口勝弘回顧展等で紹介されているので繰り返さない。わたしが深い関心を抱くのは過去の芸術家山口勝弘ではない。一度倒れて障害を持つ身となった創作家山口勝弘なのである。今の山口勝弘のほとばしるアイデアそのもの、それが生まれる源泉を探ってみたい。そして、そんな創作家に強く影響を受けて、いささか創作に対する考え方を変えようとしているわたし自身も又、表現してみたいと思うのだ。山口勝弘にはそれだけの価値が今、十二分にある。先生の生き方が我々に啓示するモノは深度があり、鋭く強いのである。
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三月三日
午前3時突然目覚める。山口勝弘先生との二人展は当然コンピューターサイトを使用する。そして的が絞れなかった「絶版書房交信」サイトを山口勝弘先生との交信、およびアイデアの展示場とする事にした。そもそも絶版書房の名のオリジネーターは山口勝弘なのである。先生が自身の仕事場工房の一隅に置いた書棚を古本屋、と言うよりも貸本屋として友人達に開放し、貸した本は二度と返ってこなかった由縁から絶版書房の名を思い付かれたのである。わたしはいたくその話に感動した。そして、すぐに絶版書房の後継を名乗りたい、となり、先生も快く了承されたのである。それで、わたしのアニミズム紀行シリーズを先ずは出版している本屋の名前を絶版書房Ⅱ(ツー)とした。二代目襲名なのである。
であるから、キチンと考えつめれば山口勝弘先生とのコラボレイションはこの本屋を第一の会場にするのは理の当然である。物語とは由縁の代名詞であり、それにつきる。それ故にこのサイト、絶版書房交信内にオリエント・エクスプレスを走らせる事にしたい。
先生が世界で初めてまとめられたフレデリック・キースラーのエンドレス空間の洞穴、トンネル内をそれこそエンドレスに銀河系計画を想いながら走らせようと思う。
わたしは先ず大方のオリエント・エクスプレスのハードを用意しなくてはならない。これは当然、車輌は先生のたまプラーザの自室を車輌としたい。不動の人となられた先生が蟄居される自室は走る。途方もない速力で虚空を走り続けているのである。それ故わたしに出来る事は限られていて現実には閉鎖された四角い箱に過ぎぬ先生の部屋を無限に近く溶融させ、モチの如くに引き伸ばす、それをする事から始める事になるだろう。列車には切符が必要である。読者にも切符を買っていただくのが理の当然なのではあるが、ペーパーメディア『GA JAPAN 109』のインタビューで、ホームページの読者から金をとるようになったら自分で自分を馬鹿〜とさげすむよ、と言ってしまったので、これはしない。でも、違う形で金はいただきたい。無賃乗車は構わないけれど、車内販売は有料だし、あくどくオプショナル・ツアー等も用意して、評判の悪い悪徳旅行社を目指したいのである。
それでは近々、オリエント・エクスプレス内でお目にかかりましょう。
4時、馬鹿馬鹿しくなって再眠する事にする。芸術家と附き合うのは大変なのです。まったく、何やってんだろうね。深夜TVをつけてみた。ニュージーランドの地震で倒壊したビルの下に生き埋めになっている被害者の専門学校の生徒さんの父親が、ようやくその現場を実見する事ができて感慨を述べている。
「現場を見て、一縷の望みも絶たれた。短い人生であったが精一杯生きてきたのを、ほめてやりたいと思う」
えらい父親だなあーとホトホト感心し、胸がつまる。こんな言葉と現実を前にオリエント・エクスプレスでも無いだろうとは考えるのですが、申し訳ない、こんな事しか出来ないのです。と、あやまりつつ横になる。4時過だ。
- 446 世田谷村日記 ある種族へ
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三月一日
昼過現場。ほぼ工事は終り後片付けとクリーニング作業となる。馬淵建設現場事務所にてアニミズム紀行7を31枚迄書く。4時前去る。5時前新宿味王、連絡事項を聞く。半難波和彦さん来る。何故だか今日はわたしをねぎらう会の趣がある。19時前鈴木博之さん来る。20時過例によって池袋魔窟ワインバーへ。完全に定番になっちまったなこのコースは。ポルトガルワインをいただく。伊東豊雄さんが中沢新一とやり始める建築塾は奥深いところで伊東さんらしいなと、わたしは考えているのだが、つまり建築主義者なのだ伊東豊雄は。至上主義者であると言っても良い。その点では磯崎新は明らかに相対主義者であり、相対的思考が強い。それが明らかになりつつある。時間がかかるんだなあ、建築および建築家理解は。
Xゼミナールも建築塾である。伊東さんは恐らくは密度の濃い教え方をするだろうが、Xゼミナールは電子界だからフワフワと薄い密度のない教え方になるのだろう。伊東建築のスタイルはむしろXゼミナールのスタイルに体現されるであろう。と、塾はいくつもあった方が面白いから、Xゼミナールも空中戦でフワフワやりたい。21時過了。難波和彦さんに新宿まで送っていただき、22時過世田谷村に戻る。
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三月二日
7時半起床。伊東豊雄さんからお菓子が送られてきた。先日の伊東事務所創立40周年記念シンポジウム出演の礼である。手紙が同封されてあり、一読、伊東さんらしい真情のこもったものであった。
近くの梅林をブラリと歩いて、梅の花を眺める。今朝はうちの梅の樹には鳥が来ないが、近くの梅林にはむく鳥、うぐいす、めじろがたむろしていて、梅の花の芽をついばんでいる。紅梅には鳥は来ていない。
- 2月の世田谷村日記