石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2011 年 5 月

>>6月の世田谷村日記

511 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十一日

10時40分学部レクチャー。12時了。打合わせ。13時博士論文審査分科会。14時了。気仙沼、世田谷それぞれの雑打合わせ。明日のスケジュールを決める。16時過研究室発、烏山へ。17時小川くんと会い雑談。小川くん、烏山地区での人力車イベント構想及び、菅首相批判、小沢一郎待望論をおおいに語る。人力車は20年くらい昔に、伊豆西海岸の松崎町町役場で森秀巳さん等がやってのけているので、わたしには何を今更という感もあるが、小川くんはそれとは知らずおおいに語るのだった。

長崎屋のオヤジは入院してしまったようだ。

六月一日

うす曇りで肌寒い。6時離床。新聞を読む。朝日、読売、産経、東京を読み比べるに意外や意外、論調は朝日が菅内閣に一番批判的だと受け止められる。主筆他の人事交代がそうさせたのかも知れぬ、と新聞評論家顔をして深読みする。我ながら、マ、下らない。読売は論外、キチンとした政治記者とデスクを持つべきだろう、読売新聞ジャイアンツの応援、販売促進と政治社会面のレベルが同じでは大新聞の名がすたるだろう。と一人で勝手にカツを入れる。産経は実にまともな政局らしきになると腰がふらつくようだ。独自の取材網がやはり弱いのだろうか。やはりもう少し販売部数を延ばさなくては力が出ないか。東京はこんな時には頼りにならない。とも角内閣不信任案提出はどうなるのか。被災地の現在を身近に痛感する今は、やはり菅首相交代しか無いのはハッキリしているのに、この点では烏山の小川くんの一見阿呆臭いへ理屈と剣道部らしき右翼的勘の方が余程しっかりしている。

9時半、気仙沼、唐桑計画のマスタープラン(ソフト)の基本案を作成。今夕の研究室ミーティングへのたたき台である。

石山研だけで対応できる問題ではないので、Xゼミ、他いくつかの人脈を総動員したい。

今、東日本大震災に関しては、実に多くの人材が対応しようと努力しているようだが、それらの多くがゆきあたり的で場あたりな即応的アクションでしか無いように思われる。

石山研としては、速力を重視しながらも考えの筋道がしっかりした提案をしたいので、骨太なチームを作らねばと考えた。

510 世田谷村日記 ある種族へ
五月三十日

6時過離床。メモを記す。台風は何処へ行ったのやら。しかし飛行機はどうやら飛びそうだ。今日は金沢なのだが、空も人間もどんよりしているのだろうなと気が重い。7時過世田谷村発、9時過羽田空港第1ターミナル。JAL小松行便ロビー。のり巻きといなり寿司の朝食をとる。村松映一審査委員長と落ち合い、9時55分発小松空港へ。分厚い雲の中を飛ぶ。11時過小松空港着。アトリエ・天工人佐々木さん、金沢工業大学生と共に迎えて下さる。佐々木さんとは初対面である。村松さんは旧知の間柄らしい。流石、設計部門ながら竹中工務店副社長迄登りつめた人物である、不思議な人脈を持つ。

佐々木さんの住宅作品を見学する前に腹ごしらえしようと、国道沿いの北国風とでも言おうか、回転寿司屋に寄る。これがうまかった。佐々木さんより、被災者向けの木製モービルハウスのアイデア図面を渡される。日本中の心ある設計者が多く、被災地の問題に取組もうとしているのだな。心強い事だ。

12時半、山下保博さん設計の宮下智裕邸に到着。宮下さんは金沢工業大学の教師である。小住宅である。アルミニウムを構造体として使ったものとしては、恐らく日本で4番目くらいのモノらしい。丹念な設計である。難波和彦さんの箱の家と似ているようにも思われるが、違うところも多い。構造は佐藤淳さんとの事。早稲田、東大の合同課題でお目にかかり、発言を聞く佐藤さんとはだいぶん違う印象で驚いた。構造設計家の個性のちがいも又、興味ある問題である。

色々と説明をうかがうが、説明よりは実物の方が良いのであった。2階の余白部というか、うちのモノと比べれば誠に小さな屋上の苗床程の土厚100mm程の草花園が良く、土のメーカーの名前を教えていただく。

こういうところは仲々良い。又、周囲の垣根状のアイデアも良く、村松さんは自宅近くに何か作るらしく、恐らく参考にされるのだろう。家も良いが周りの工夫と設備が仲々良いのであった。

14時過見学終了。勉強になった。宮下氏と別れて金沢駅へ。

宮下さん、金沢工業大学院生とお別れ。

村松さんと金沢駅前の裏表見学。変なモノが出来ていた。新幹線開通の事業なのであろうが、実にバカ気ている。これから先、かくの如き駅前広場事業が日本中で繰り拡げられるのであろう。不気味である。

金沢から米原への特急が大幅に遅れる。25分遅れで白さぎ12号という名の特急に乗る。村松さんと缶ビール2本開ける。米原に遅れて到着、帰りの新幹線をアレンジし直す。

そして只今、19時頃名古屋を18時に発つのぞみで、ウィスキーを飲んでメモを記している。村松さんもチビリとやって何やら学習している。20時前東京駅着、お別れして新宿経由で烏山へ。21時半世田谷村に戻る。何故か右足が痛く足を引きずるようである。羽黒山の石段下りのダメージが今頃出たか。それにしても、凄い石段であった、羽黒神社は。

五月三十一日

8時前起床。右足の痛みおさまらず。天気は良い。梅雨の合間の青空か?動きたくないが、そうもゆくまい。東北の件、世田谷区の件他キッチリ進めなくてはならない。この足の具合では9時過に世田谷村を発たぬと講義に間に合わないな。マ、仕方ない。

509 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十七日

15時前総武線信濃町駅で村松映一委員長と待ち合わせ。日建設計の中本太郎部長、矢野雅規さんと会い、明治神宮外苑東京芸術学舎(研修棟)見学。日建設計らしからぬ、大まかで標準化された建築ではなく、随所にマニアックなこだわりを秘かに込めた良い建築だった。日建でもこういうものが出来るんだ。しかし、ディテールはノーマン・フォスターのコピー的なところがある。あっても良いが、フォスターの絶頂期のイギリス型ハイテクの精華は無い。玄関エントランスのカエデの古木、他の外苑の樹木がキチンと守られているのも良かった。16時見学了。信濃町駅前のコーヒーショップで村松さんとおしゃべり。17時前お別れ。新宿を経て、19時前世田谷村に戻り、研究室のサイトチェック。Xゼミナールへの寄稿が難波さんのサイトにONされていた。34年前にわたしなりに描いた安藤忠雄の思想性である。今もその考えを修正する必要はいささかも無い。

五月二十八日

2時に目覚めてしまい、エイ起きてしまえとメモを記す。朝までTVを横目で眺めて、発言は聞かず顔ぶれを見物する。馬鹿馬鹿しくなって3時再び横になる。こんな日は陽が差してからが長いのだ。

7時半離床。食事、9時過発。小雨の中を研究室へ。もう梅雨に入ったのだろうか。10時半富沢氏夫妻来室。富沢氏設立の自然エネルギー関連NPO法人に加入する。奥様も健康機器関連のNPO活動を始めているようで説明を受けたが、わたしの方の理解力不足でどうしても理解できず、こちらの方はわたしはお断りする。解らないモノに参加はできない。11時半了。気仙沼スケッチ。13時一段落するも14時迄スケッチを続け、空腹となり昼食へ。新大久保タイ料理屋にてスケッチ作業続ける。佐藤加わりスケッチを渡し、宝船のミニレクチャーを受ける。若い人の情報収集能力は見上げたものだ。あとは編集能力をみがけば良いのである。

17時半了。18時半世田谷村に戻る。今日はスケッチ作業に集中したが、スケッチ(エスキス)作業は我ながら速くすすみ楽である。

五月二十九日 日曜日

4時目覚め、4時半離床。メモを記す。ぬか状の雨。やはりもう梅雨なのか。バルセロナとマンチェスターユナイテッドの試合を何気なく見始めたら、これが面白い。メッシ、ルーニーと言ったスターの個人技以上に、凄い速さと組織力が展開され続けてよどみが無い。フットボールはズブの素人のわたしでも解るくらいのものだ。6時新聞を読む。新聞は面白く読める必要は無いとは思うが、朝日、毎日、読売の記事は、記者がこう迄つまらなく書けるかの見本帖の如くである。昔、大新聞であった頃のおごりだろうコレワ。6チャンネルの時事放談で増田元知事と学者の浜さんが対談している。政局らしきの前兆に対して、お二人ともに「古い政治、今はそういう事をやっている時ではない」の、これ又つまらぬTV受けのするだけの、いかにもな俗な評論を行っている。学者と評論家はいつの頃からだろう一緒くたのボロ雑巾になってしまったのは。と言うわけで、TVと新聞見ているだけで面白くなくなり、雨の中を東京新聞と産経新聞を散歩がてら買いに出る。変な散歩である。コンビニで二紙を求め、戻る。宗柳のオヤジには残念ながら会えなかった。こんな朝には呼びとめてもらって、お茶でもどうですと願いたいのだが残念である。

戻って二紙を読む。朝日よりは面白かったが、やはり宗柳のオヤジが言う通りに底も浅いようではある。東京新聞は一面トップで小沢一郎の陸山会の政治資金に関する裁判を取り上げていて、大見出しは「裏金めぐり火花」である。産経の一面は「『解散風』嵐の予兆」である。一時代前は新聞の政治部記者を経て政治家になるケースがあったけれど、これからはそれは望めないのだろうな。

11時過、安藤忠雄さんより連絡あり、少し前に出した手紙への返礼と何がしかの相談である。何かの時に彼は頼りになる。今の国会の政治家よりは余程実行力がある。

気仙沼の白井賢志さんと連絡、今後の方針について話し合う。来週は本格的に作図作業を始めたい。先ずは地元の意志の確認である。第一に地元、現場の人々の考えをベースにしなければならない。

唐桑の小鯖湾を初めて訪ねた25年前の午後遅くの事をまだおぼえている。漁船が10隻程岩壁に泊っていた。気仙沼の見送り岩壁の900隻弱の壮大さは無い。でも、ひっそりと穏やかに、夕暮間近のおだやかな光の中にたゆとうていた。人影はほとんど無く静かだった。自然に道端に座り込んでいた。何かに心打たれるとそういうクセがあった。今でもある。今はでも、疲れて座り込むことが多いのだろう。何かに心打たれたのだった。カーンと音がひびくくらいに静かで、そして寂寥感に満ちていた。平安の極みの哀しさであった。

その小鯖が今は津波で壊滅した。ここの風景は1986年頃に、わたしが初めて訪ねた頃の、あの美しさに戻す事が一番なのではないか。

それをどうすれば良いか。考えをつめてみる。

17時過ザンザ降りの中世田谷村発。18時前新大久保近江家着。早過ぎたと思ったら難波さんがすでに待っていた。時間を間違えたらしい。

18時半鈴木博之さん現われる。台風が近付いているらしく、なんとなく話もはずまず。19時半には切り上げてしまった。句会なんていう洒落が通じぬ時と気分があるのである。お互いに年も一人前にとったわけだから、こんな時はとりつくろわず、帰ろうか、が一番なのである。20時半前世田谷村に戻る。家人もビックリして、どうしたの頭でも、イヤ、身体でも悪いのかといぶかしむ。こういう時もあるのだと言い放ち、言い放たなくても良かったのだが、サイトを開きXゼミ鈴木博之11信を読む。これは鈴木博之さんの計画論である。等高線に関する考えは期せずして今やろうとしている計画案に適合しており、ホッとする。500Kmに渡る長い長いエリアの個別性と普遍の関係を整合させようとするのには大変な才とエネルギーの集合が必要だろう。

508 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十六日

14時研究室打ち合わせ。原発大国フランス人のニコラスが加わったので言葉が再び困難になった。わたしの英語はひろしまお好み焼き、あるいは長崎チャンポン風のズサンなものだし、日本の、しかも被災地に関するデリケートなプロジェクトを話し合うのに英語ではやはりおかしい。であるので、どうしてもポイントだけ英単語が入るという妙なスタイルになった。タモリの天才的芸であったベトナム人、中国人、韓国人、日本人の四人麻雀の如くである。本当は英語でやるべきなのだろう。

15時、はりゅうウッドスタジオの芳賀沼整、伊藤実香両氏来室。芳賀沼さんとは東北大学のエレベーター等で二度程スレ違っていたそうだ。何処かで見覚えのある顔だと直覚した。先日、秋の宮で会ったマタギの菅さんよりも余程マタギみたいな人物である。聞けば実家は製材所であるそうな。囲炉裏であぐらをかいて岩魚を焼くのがとても似合いそうである。

東北の被災地関連のプロジェクトに関して相談。

17時前了。難波和彦さんの紹介であるが、難波さんは面白い人を紹介して下さった。

再びプロジェクトミーティング。少しづつ実質的な相談になっている。6月5日の「世田谷式生活・学校」の準備作業。チラシを印刷したり、メールを打ったり雑用。明日の院レクチャーのデータを最終チェックする。19時半了。数名で近江家へ。皆はどんぶり物、わたしはさつまあげのつつましさである。先日の気仙沼、唐桑行の労をねぎらう。

絵葉書プロジェクトが快調に進行しているのだが、そのお蔭でと言うべきかアニミズム紀行5、6の売行きはそれ程快調ではない。

これで「世田谷式生活・学校」の講義録の出版まで始めたら、アニミズム紀行シリーズは沼の底にひっそりと沈むやも知れない。が底の方でさんしょう魚の如くにブツブツとあぶくを立て続けるのも、それはそれで良いのだろう。『現代思想』6月号が送られてきて、わたしも小インタビューを寄せている。鈴木博之流に言わせれば、これも磯崎新の周到な布石、と言うことになろうか。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。

故小野二郎、ウィリアム・モリス主義者を自称していらしたが、その小野二郎の柄谷行人評。「あいつは生意気な奴なの凄くね。でもそれがいいの」を想い出す。柄谷さんが、亡くなった中上健次と新宿のBarでカラオケやってる時の事である。磯崎さんはカラオケはやらない。大体あの人が歌を唄うなんて姿は想像もできぬ。昔、鈴木さんがピンクハウス(レッドハウスに非ず)というBar、じゃなくてただのあばら屋の酒宴で促され、渋々歌った英語でのビートルズのイエスタディも急に思い出す。つまり両氏ともに、カラオケはやらない。ゴルフも野球も銀座もやらない。同じ種族である、その点では。というのがわたしの恥ずかしながらの「思想」なのである。趣味は思想の質を規定し、時にそれを包括する、と言うのがウィリアム・モリス主義者であった小野二郎から学んだ事ではあった。

でもナア、その小野二郎と若き鈴木博之が新宿御苑前の小さなBarでレーニンだったかを巡って厳しいやりとりを延々として、決裂してしまった戦場をわたしはあきれて横で眺めていたのを思い出す。男の限界を視た。イデオロギーが趣味なんだな。争うのも趣味なのである。

そう述懐しているわたしにも、いささかの詠嘆趣味がある。21時前、近江家を去る。21時半過世田谷村に戻る。

五月二十七日

6時過離床。メモを記す。このメモも趣味としか言い様がない。しかし、10数年続くと一見思想風な様相をかもし出そうとするところが我ながら怪しいのである。詠嘆趣味のとどのつまりは俳句である。磯崎新の父君は俳句では相当鳴らした人物であると聞く。いつだったか、わたしが「鈴木博之と俳句の会、妙見会を結成した」と言ったら、「何言ってんだ、お前等のは川柳程度だ」と一蹴された。磯崎新は意外や意外、ワビサビなのかと一瞬思ったのである。正統俳句は結局芭蕉ですからね。これは間違いない。定型短詩は芭蕉によって極められた。マウント・エベレスト(チョモランマ)が登頂されて登山というスポーツ領域が終ったのと同じだ。

モダーン・ジャズがジョン・コルトレーンによって極北迄登りつめて、あとは焼野原と全く同様なのだ。面白い事はモノ皆全て終ってから、わたしは生まれ育ったのである。コレは仕方ないやね。と詠嘆するのである。5月29日日曜日には鈴木、難波両氏と近江家でお目にかかる。この会は「Xゼミナール同人としてではなく、句会妙見会定例の会とされたい。と先にケタグリを打っておきたい。しかし、この震災である。キチンと論を尽さなくては不誠実でもある。何しろ、一刻一刻をキチンとやりたいものです。

9時半世田谷村発。院レクチャーへ。10時半研究室。10時40分院レクチャー、ル・コルビジェとクセナキス。12時10分了。

Xゼミナール19信を書く。14時前了。すぐに難波さんのページに送り込むように指示する。

14時20分研究室発、信濃町へ。

507 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十五日

昨夜は、23日からのメモを記し、12時過に就寝。グッスリ眠った。7時半離床。12時半前新大久保近江家で妹と会い昼食をとりながら相談。13時半了。別れて研究室へ。21日〜24日の東北行の成果を踏まえて打ち合わせ。フランスのニコラスが帰ってきたので早速チームに参加させる。

14時半北園、加藤両先生来室するも打ち合わせ続行する。14時50分演習G。時間が惜しいので演習の合間に佐藤にニコラスへ秋の宮のサイトをレクチャーさせる。18時了。二人の先生とTAXIで新宿南口へ。味王で小会食。気仙沼の話し等をする。19時半了。二人と別れ、20時半前世田谷村に戻る。

五月二十六日

6時半離床。メモを記し、新聞を読む。明日の院レクチャーの構想を練る。第3講が俊乗坊重源の大仏様のいささか長講であったので、第4講は日本から出て、光溢れる地中海キクラデス諸島サントリーニ島へ飛ぼう。少し明るいレクチャーとしてデザインする。

今日は6月5日の「世田谷式生活学校」の準備を集中してやらねばならない。8時半、レクチャーシノプシス作りとり敢えず終了する。

506 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十三日

7時半起床。メモを記し、シャワー。8時半ホテルロビーで朝食了。すぐに出発。一関より東北道で古川を経て鳴子へ。10時鳴子。早稲田桟敷湯で吉田さんとお目にかかり、温泉につかる。空が青い。10時半前発、秋の宮へ。

道を間違え、40分も遅れて約束のマタギ料理屋「きのこ屋」へ。12時45分着長澤社長をだいぶ待たせた。マタギの菅詔悦さんの話しを聞きながら会食。ありとあらゆる山菜をいただく。

食事を終え、二手に別れる。渡邊、佐藤は社長の土地に残り、土地検分、およびスケッチ。わたしはマタギの菅さん長澤社長とサイトの前面川沿いの長さ1.5km程の細長い土地を見る。

又、その延長の川沿いの土地をつぶさに見る。山岳都市構想の中心の一部である。前回来た時よりも断然気持良く、何か出来そうだの気持が沸く。川の流れが素晴しい。川の流れと共に在る町並みが頭に浮かぶ。と言うよりも更にリアルに細部を想い描く。

一度上のサイトに戻り、更に上の状態を見るべく発つ。今年で閉鎖する予定の湯の又温泉、湯の又大滝を見学。マタギの菅さんの足はやはり速く、イヤな予感がする。湯の又より少し戻り、上の開拓集落へ。小さな寂しい集落である。

随分前の町長がラグビー場やサッカー場そしてテニスコート等を何の目的も成算もなく作ってしまったとの事だ。全て使われず廃墟となっている。自然の力による廃墟ではない。人間の無為による廃墟である。呆然として去る。2ヶ所程地熱の蒸気が噴き出ている処を見る。発電するには少し温度が足りないそうだ。

今は三菱マテリアル、他が地熱発電に再挑戦しているらしい。

もう少し情報が欲しい。

山を下り、渡邊、佐藤等と合流し、再び川ののリサーチ。「川原の湯っこ」と言われている、川原に温泉が湧み出ている場所を見る。マタギの菅さん相変わらずスタスタと行く。どんどんと行く。

今日のおわりにと、菅さんの山菜の里、わらび園を歩く。良く手入れされた山菜園で、ここ迄するのに10年かかったと言う。山と川を知り抜くマタギにしてそれだけの年月がかかる。

ヘトヘトになって菅さんのお宅でお茶をいただく。そう言えば、昼にいただいた煮リンゴ、そしてしいたけ茶は信じられぬ位の美味であった。

今日はマタギの菅さんと共に森を歩き、随分気持ちを立て直す事ができた。

やっぱり気仙沼、唐桑ショックは深い。気持ちが傷ついている。秋の宮の森と川に助けられた。

17時前、失礼する。又、お目にかかりたい人物であるマタギの菅さんは。

今夕はこれから出羽三山、羽黒神社の宿房辺りに宿泊するつもりだと長澤社長に言ったら、呆気にとられた顔をされ、甘い、バッキャじゃなかろうかバカにされる。ヨセ、わしの良く知る金山町の良い温泉に泊まれ、オレも一緒に泊まってやるからと今夕は金山泊まりとなる。昔、銀山で栄えたところだと言う。途中、名水を飲んだりと寄り道をしながらも走りに走って金山町の立派な牧場ホテルに18時到着。今日も目一杯であった。

社長と同室にチェックイン。すぐに温泉にとび込み疲れた身体をいたわる。19時1階食堂で夕食。ビールがうまい。長沢社長おおいに語る。

最後迄残って食堂で飲んでいたが遂に追い出される。長澤さんしぶとく部屋に渡邊、佐藤を呼びつけて、ドンドン語り、かつ飲む。わたしはお先に横になる。いつの間にか眠ったようだ。社長の若い二人への叱咤激励は続いたようだ。元気なんだなあ、オジさんは。

五月二十四日

フッと目覚めたら隣りのベッドで社長がグーグー眠っていた。4時半であった。再び眠り、6時離床。バッと目覚めた社長と共に朝風呂へ。

7時朝食。たっぷりといただく。7時40分ホテル発。一路新庄へ。社長の生地は戸沢村だが新庄には自宅がある。鳥海山、月山、葉山の雪が美しい。社長の自宅へ寄り、しかし、あがらず、新庄のGSD社前でお別れ。本当にお世話になった。

国道47号を最上川沿いに走る。途中、戸沢村の韓国建築の道の駅に寄る。仰天建築だが、プランは仲々良い。最上川の屈曲点の素晴らしいロケーションに建ち上がっている。戸沢村は韓国のある村と何か協定か、姉妹都市となっているそうで、それでこんな事になったそうだ。

どんどん羽黒神社に向う。10時過羽黒神社頂上駐車場着。

歩き始める。空気が心地良い。気仙沼の津波被害の印象はそう簡単には消す事ができない。恐らく忘れることは出来ないだろう。気仙沼で毎日あの光景を視ている人々の心中はいかばかりか。

今日は美しい川や森そして空の中を動いているが、自然の治癒力は大きいだろうが人間の内に発生した闇も又深いだろう。恐ろしい事だ。

今朝も、ホテルの浴場で一緒になった人に、

「被災者の方々にこんな処でゆっくり休んでいただきたいですね」

と声を掛けたら、モグモグと口ごもっていらっしゃる。オヤと思い、

「どちらからいらしたんですか?」と聞いたら、

「名取です」との事。

地名の位置イメージが解らず、

「どれくらい時間がかかったんでしょうか」

「5時間かかりました」

今度はわたしが口ごもる。もしや被災地の方なのではないか。

「全部流されました。何もかも・・・・・」

長澤社長が割って入り、

仙台近くで一番ひどくやられたところですねえ」と絶句。

まさに何人かの人々と連れ立って、被災地から心身をいやしに来ておられたのだった。人間はあんな光景の中に居続ける程に強い生物じゃない。

その意味では早急に被災された方々、及びその廃墟の中で仕事をしている方々、自衛隊、警察、消防団、青年団、保育士、現場の役所の方々、他現場を離れられない人々、そして復興工事にたずさわっている方々の休憩所を作らねばという考えは今の状況の真中を当てている。秋の宮温泉郷にできるだけ早くそんな場所を作らなくてはならない。何を見ても、キレイな空を眺めても、被災地の光景がフラッシュバックする。

羽黒神社の力強い建築をスケッチしたりで、わたしたちも休養する。

石段を降り始める。こんな凄く、厳しい石段であったかと唖然とする位の下りであった。頂上の神社にオバアちゃん達も杖をついて上ってきていたが、良くもマア、こんな石段を登ってきたものだと、そんな事に感動した。一念というのは凄いものだ。下りの石段の余りのしんどさに音を上げて途中、二の坂と呼ばれるところにある茶屋で一服、餅と抹茶等いただく。うららかな田園平野が眺め渡せる。カンボジアのアンコール、トンレサップ湖周辺の田園を眺め渡したのを憶い出した。

昼過ようやくにして下の五重の塔に辿り着く。素木作りの良い建築である。塔の隣りに在る樹齢1000年の爺杉(じじの杉)を見上げる。塔と同じ、否それ以上の感動を覚える。堂々たる樹木の精を感じ、手を触れて、めくれ落ちていた樹皮をいただく。

塔と1000年の大樹に風が吹き渡り、向者かは知らねども精霊を感じた。

羽黒山入口の山門にようやく辿り着く。

山頂の駐車場に置き去りにした車を、門前に1台たまたま在ったTAXIで取りに行くのを、道端に裸足になって座り込んで待つ。カンカン照りの日射しが気持良い。何てことない門前のつまらん光景であったが、とても休まるモノがある。

13時過門前を発ち、お目当ての巨大茅葺きの宿房を探すも見当らず。しょうがないとばかりに羽黒山一番札所の黄金堂を見学。本尊は阿弥陀で、阿弥陀が鏡を持ち抱いているという不思議なものであった。

門内に閻魔様の石像が三体立ち並んでいた。修験道というのは面白い世界だ。

よし湯殿山へ行って宿房を探そうと走る。1時間走り、途中宿房探しはあきらめて湯殿山神社へ登ろうとするも、6月1日迄奥宮は閉山であった。走る周囲には残雪が残り、冬の豪雪をしのばせる。沢山のトンネルが新設され土木工事の興隆を感じさせる。月山も道路だらけで、さぞかし死霊の方々もうるさい事だろう。山は静かにしてあげないといけない。

死者は皆、山に帰るのだから。特にこの出羽三山地域では。

帰途につく、空腹でスキ焼きを喰べようと山形を目指す。15時半過山形有田の何と巨大スーパー・イオン内にスキ焼き屋があるとの事でマア入ろうかとなる。イオン風のスキ焼きであった。ただし安い。スキ焼きならぬヤス焼きである。

東京に向けて、走りに走り、21時半過大学着。22時半世田谷村に戻った。

505 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十日

19時前烏山・小川宅へ。玄関先で94才の父君にお目にかかり、チラシ400枚をお渡しする。父君はキリスト教徒で小川くんとは似ても似つかぬ高潔な人格者である。母君も庭に面した廊下で、ゆり椅子に座りくつろいでおられた。小川宅の近くにはうっそうとした大樹が何本も立つ家があって、実は動物病院の候補地として目星をつけている。オーナーとは会議で何回か会った。今夕、久し振りに眺めるに、誠にドリトル先生動物病院には適地なのだ、誠に。ドリトル先生動物病院も動かさなくてはいけない。

ひろしまお好み焼き屋で軽い夕食を一人で、20時過世田谷村に戻る。研究室よりFAXあり、坂田明の原発関連情報のオリジネーター情報であるが、何が本当なのか、デタラメなのか良く解らぬのが事実だ。原発破壊などという人類が対面するほとんど初めてにも近い(公開されているのは三回目だ)ケースなので、全ての人間が間近に大事故に対面している。科学者、技術者でさえも盲目状態なのだと思う。

原子力発電所被災に関する新聞、TV、政府、東電からの情報は全て同じで、全てが怪し気である。かと言って、市民系の告発系とも呼ぶべき市民的良心によるマイナー情報も、その根拠はいかにも覚つかぬ。全てが信用できない。

五月二十一日

5時半離床。荷づくり。コンビニへ買い物。風呂。朝食。7時前渡邊助教来る。弁当を持って世田谷村を発つ。7時半大学にて荷物、人を拾い、東北道に乗る為に池袋へ。ガソリンを入れて首都高に乗る。

えんえんと走り、12時前仙台の休息エリアで弁当、わたしはオニギリ半分とオレンジ、キウイ。

予定通り、13時半前、一ノ関ベイシー着。店主菅原正二に再会。

義援金を手渡す。

やられた蔵の2階を視る。土壁が落ちだいぶんやられた。ヨシ、ここで展覧会をやろうと決める。

コーヒーを飲み、ビールはお断りしてベイシーを発つ。教えられた通りに再び高速に乗り、水沢インターで降りる。太平洋側の山際迄走る。この山の向うは地獄だ。15時頃、今日の目的の一つである奥の正法寺に着く。門前に車を停める。

山門と石積みの階段が圧倒的である。地面に座り込んで大判のスケッチ。6Bの鉛筆で描くもどうしても上手く描けず。描く手が鉛筆に慣れていない。マア、いいさ上手くなくても。

フランク若松が死ぬ前にどうしてもわたしに見せたいと、案内してくれた場所だ。

こんなに凄かったかと改めてガクゼン又茫然。エネルギーが溢れ返っている。階段の石積みにも。

階段をよじ登り、本堂へ外から。やっぱり内ものぞこうと、鐘楼横の案内所へ。入場料を払い内へ。カマドと囲炉裏の2つの火がゴーゴーと燃える台所が、これが良かった。火の力である。煙が建築内部を黒く力強く育てている。ここは修験道の感あり。

薄暗い座離を通り抜け、緑を辿り本堂へ。側から本堂の山のような屋根と架構の妙を眺める。草屋根もいいが、架構が結構だ。本堂内部で拝礼。向うの禅堂をのぞく。

もどり、釈尊の巨大な涅槃図の脇より開山堂に上る。ここは初めてだ。「奥の正法寺・成立と展開」求める。16時見学了。もう一、二度来たいものだ。隣りの黒石寺を見て、水沢駅方面へ。北上川の橋が落ちていて遠廻りする。

あんまり迷うこともなく、水沢駅隣りの増長寺に辿り着く。菅原が地図を描いてくれた。

フランク若松の墓を探す。若松家の墓をみつけるも、最初の墓参と印象が全く異る。

間違って他人の墓参りも洒落にならぬと、確認。どうやらこれだった。ベイシー店内のひまわりの花々。わたしの心向けの紅バラ一輪。それはそれは見事な荘厳となった。美しかった。墓石と花が。タバコを一本若松に吸わせて、墓に水をかけて、掃除をする。

何故だろうか、心が晴れる。水沢駅のトイレで小用をいたし一ノ関へ。22kmで帰りは高速に乗らず下の道をゆく。

18時ベイシーに戻る。フランク・シナトラ、カウント・ベイシー共演の1950年の凄い奴を聴かせてもらう。

他にもどんどんシナトラを聴かせてもらう。フランク・シナトラのフランク若松をしのぶライブになった。OKである。心身共に非常にスッキリした。中華五目ソバなるものをいただく。

20時半、明日も早いので失礼する。駅前サンルートの和室部屋にチェックイン。高級飯場風である。21時過少し腹を作ろうと、喰いに出る。一ノ関の駅前は安飯屋ばかりで何処も悲惨そうであったが、とりわけ悲惨なところが選ばれて入る。

やっぱり悲惨であったが、今はそんな事ブツブツ言っている時ではないとメシを一膳喰う。食べたいモノは全てアリマセンだって。立派だ。

22時前、ホテルの部屋に戻り、シャワーをあびて、休む。

良い一日であった。

五月二十二日

4時半、薄明りの中メモを記し始める。渡邊、佐藤は良く眠っている。若いな。5時半メモを記し終る。

昨夜、いただいたマイルス・デイビスの画集『帝王』を腹ばいのまま眺める。マイルス・デイビスは絵も描いていたんだ。

空腹になり、小休する。今日は気仙沼、唐桑である。気を引き締めなくてはならない。

しかし、昨日は実に私的だが、わたしには記念すべき一日であった。研究室の5.21であった。マ、研究室の再生記念日と名付けたい。人間と物体の関係が明快にケイジされた。

フランク若松と正法寺、そして菅原やわたしと言う具体的な人間関係が一つの物体を介して在るという事実。

7時ロビーを急ごしらえで朝食カフェテリアに変えた。やっぱりロビーで朝食。超シンプルな和食。味噌汁+メシ+3菜程のモノ。ザンザ降りの雨の中を長グツにはき代え、7時半一路気仙沼へ向う。径別れのケヤキ等見覚えのあるルート。9時過気仙沼市役所着。商工会の場所を確認して、海沿いに廻る。市役所周辺はすっかりガレキ他が片付けられていた。魚町、海の道辺りは凄まじい津波の爪跡。臼福本社はかろうじて建っていた。元市長宅の男山は3階の気仙沼市街のランドマークであったがペシャリと1階建てに切れ落ちていた。海の道は全滅。

黒く焼け焦げた船の群と、石山研デザインの小シェルターの残ガイ、カモメの街灯等が痛ましい。大きな船が幾つも桟敷上に打ち上げられている。

9時気仙沼商工会議所へ。2階へ上り、しばらくして臼井賢志商工会議所会頭に久し振りに会う。復興支援金を手渡す。研究室OB・OG諸君、そして研究室の絵葉書プロジェクトで得た金の一部である。しばらく会頭室で話しを聞き臼井さん案内で気仙沼被災地を見学する。魚市場の屋上から湾の状況の説明を受ける。その後、魚市場より東の地区を案内され、息を呑む。声も出ない。何と言うべき、全てが巨大な廃墟と化している。ムキ出しの破滅した物資群。暴力により、更に暴力そのものと化した鉄や建材のグニャグニャな裸形群。物資が号叫、絶叫し、まさに吠えている。恐ろしい風景である。

こんな風景は、昔にイランのクルド族難民キャンプでしか見た体験が無い。臼井さんの説明もドライでクールで淡々としており、余計に現実を浮き彫りにする。鹿折地区に廻る。巨大な船が、5、6セキ、ゴチャ混ぜに打ち上げられている。ガレキの山の上に横たわる巨大な船。周辺では白い防災服のパトロールが遺体を捜索し続けている。セキとして声も出ず。この世の風景とは思えず。

このガレキの砂漠状の内にはまだ多くの人々が横たわっている。

ビョービョーと音にならぬ風が吹きすさぶ。

お願いして安波山に上る。臼井さんは安波山お色直しの100年計画の会、会長でもある。

会の成果でもある竜の道を登る。展望台より気仙沼湾を眺める。

安波山を鎮魂の山としようと決心する。

臼井さんにその旨伝え、同意される。山の姿の計画図を早急に送附する事を約す。安波山だ中心は。雲の如くの霧が気仙沼湾にとぐろを巻いている。巨大な竜が息をしているのである。多くの人々の叫びでもあろう。早くこれを鎮めなければならない。

臼井さん、南の地区も見ましょうとうながす。更に、海寄りの地区へ走る。岩井崎へ。何も無い。何も残っていない。高橋工業の社長一行が茫然とたちすくむのに出会う。荒野の巡礼の群のようである。岩井崎は潮吹き岩礁の健在、高遠さんの遺作・力士像の健在を確認し、臼井さん喜ぶ。臼井さんも先端までは震災後初めてである。大きな杉の樹がブチ切れ、折られて、白く生身をムキ出している。チリ津波の慰霊碑を見る。

昼食を臼井さんと一緒に。今でも2日に一度は黒服の日々だそうだ。葬式の連続の日常なのを知る。13時臼井さんに別れを告げ、唐桑半島へ向う。

只越よりバイパスを降りる。旧知の万兵衛屋計画地には何も残っていない。基礎だけが薄く地面にへばりついている。

海沿いの巨大な堤防も大きく破壊された。小さな湾毎に廃墟が現れる。急ごしらえの避難住宅を見る。これに住み暮すのは辛かろう。

被災された方々と何事も無かった人々の生活格差は残酷なモノになりそうだ。

昔なじみのGIGIで唐桑の佐藤和則さん、ブティック鈴木、電気のカジワラ、議員の戸羽さん等に再会。26年振りだそうだ、アノ臨海劇場運動から。皆、一様に老けた。勿論わたくしも。

ここでも支援金を手渡す。小さな金でお恥ずかしいが、受け取っていただく。

コーヒーをいただき、小鯖湾へ。記憶に残る道を下る。

小鯖も一変していた。何も無い。廃墟である。この地区は6名が行方不明だとの事。津波の際の一秒一刻が運命を別けたそうだが、よく避難対策が講じられていたので、犠牲者の数が少なかった。

臨海劇場の跡に立つ。ここにも何かをしなくてはならない。

人間の意地を見せなければ。

小鯖の山腹の小神社に上る。息が切れる。神社内の御神体を拝ませていただく。何とか御縁があり続けますように。あの美しく、人々の顔も和やかさに満ちていた浜も、今は廃墟である。好きだった、エビスさまの小石像も海に消えた。

臨海劇場の旧カツオブシ工場のオーナーであった亀谷さんの息子さんにごあいさつ。亀谷さん宅の一階迄津波は押しよせた。GIGIに戻り、17時前、皆さんに別れを告げお別れ。何かが出来ると良いが……どうだろうか。

再び、バイパスを経て、一ノ関へ走り続ける。途中、少し室根山方面に入り込んで、寄り道、西の空に光が指し込む中を18時ベイシーに戻る。

今日はジャズは聴けぬと思っていたら、流石菅原さんカラヤンのマーラー、交響曲第七番を静かに鳴らしてくれた。強い酒を少し飲む。

外へ飯に行こうと菅原さんの発案で、サンルート近くの顔なじみの料理屋。たっぷり和食をいただく。22時前了。名残りは惜しいが菅原さんともお別れ、ホテルの室に戻り、すぐ休む。

1時目覚めて、メモを記す。今日中に記しておかぬと気が抜けてしまう。2時半了。明日のために眠ろうとする。

五月二十三日

7時15分目覚める。今朝は晴れている。メモを記す。

今日は12時に秋田県湯沢市の秋の宮温泉郷マタギ料理の小屋にて、長沢社長と待合せをしている。一ノ関から2時間少々で行ける筈だが、念のためにここを9時発とする。渡邊、佐藤両名はグッスリと眠っている。昨日の体験が余程強くあったのだろう。ホテルの小窓から見上げる空は東北の青さである。快晴だが光が弱い。

504 世田谷村日記 ある種族へ
五月二十日

5時半離床。朝食をたっぷり食べて、9時20分世田谷村発。色々と考えながら動き、10時20分研究室。10時40分院レクチャー3、転形期の建築。

12時半過迄。授業時間が12時10分迄なので、オーバーし、昼休みに教室に入りたい学生が12時くらいからガタガタドアを開け立てするので鍵をかけさせた。昼休みの時間を授業延長でシェアーしたわけで、これは仕方がない。レクチャー終えて廊下に出たら、ワンサカ学生がたむろしていた。まことに早稲田は人間が多い。

13時45分研究室に戻ったら、新進の小説家三砂君が美人の新妻を伴い来室して待ってくれていた。新婚のアイサツらしいが、すぐにコレは新妻を見せびらかしに来たとのだ知る。

三砂君は『室内』の編集人、発行人であった山本夏彦さんの弟子みたいな人である。500枚位の小説をすでに数本書いていて、いずれ必ず世に出るであろう才である。

それはとにかく、新妻は横浜生まれ、KEIO大学で絵巻物研究の才媛で、しかも美人。三砂君には勿体ないのは一目で解る。世の中は不可解な非対称の群である。

幸せそうな二人を前に話す事もない。

絵巻物と三砂かあ、全く理解出来ぬ組合わせで、新妻は恐らく源氏物語を研究し過ぎて、三砂君の頭の毛がいささか薄く、頭皮がテカリ気味なのを光源氏さまと見誤ったのだろうと思われる。

長沢社長と連絡。明日からの気仙沼、唐桑、水沢、一関行の途次に秋の宮でやはりお目にかかりましょうとなる。

これで帰途のルートは全く不明となる。スタッフに秋の宮のサイトを見せて、更に奥の山岳伽藍、及び山岳都市構想予定地を社長と共に廻る事になろうか。

15時打合わせに入る。

503 世田谷村日記 ある種族へ
五月十九日 つづき

13時、長崎屋で小川くんと「世田谷式生活学校」に関して打合わせ。小川くんとわたしはことごとく考え方が異なる。なにしろ高校時代の同窓生で奴は剣道、わたしは山登りと趣味は全くちがっていた。そのままズルズルと同じ大学に進んだが、学部がちがうので全く顔を合わせる事はなかった。社会人になっても全く縁がなく、40年程が経ちバッタリ会ったのが烏山駅前商店街周辺まちづくり協議会であった。奴は油会社に務めた後、何故か独立してどうやら小さな商社の如くを経営しているらしい。実体は良く知らない。マ、同じ高校だから心配ないだろう、位なものだ。

何しろ剣道やっていたから、商売も小廻り君で、多分得意技は小手打ちであったのだろうと思われる。

どんな仕事らしきを考え出しても、必ず自分のところの商品をからめようとする。しかも小口でというところが商人としては立派で、しかし大商人にはなれないところだ。

コイツ奴と思う事しばしばであるが、実に良いところ底の底で信用できるところがある。94才の父親と90才の母親の介護を妹さんと二人でこなしている。奥さんにはどうやら逃げられた。逃げた女房にみれんは無いが〜♪とバカ言っている、バカだ。なにしろその親の介護が充分に出来なかったわたしには、まぶしい。負い目で、奴を見てしまう。

今日も打合わせは、ことごとく柔和にと言うわけにはいかなかったが、わたしがイヤ味で「お前、親にレトルトのカレーばかり喰わしてんのはまずいんじゃないか」と言ったら、「イヤ、俺の料理も美味なんだが、妹のが時々出来が悪くてな、それでレトルトになる。あのカレーはうまいんだ」とすぐに小手を打ち返してきた。

「時々、ここのラーメンでもレバニラ炒めでも出前してもらったら」と言ったら、長崎屋の被爆オバンがやり合いにからんできて、

「おとうさんが、あれじゃね、出前は出来ないよ」

「オヤジがどうした」

「冗談じゃないわよ、一緒に高尾山どころか、駅迄だって歩けるもんですか。昨日の休みだって、来いというから来てみたら何人かで集まってカウンターにビールの行列のパーティーよ。歩けないくせに、ビールの行列だけは走るみたいなんだから」

うまく聞き出せていないのだが、この仲の良い老夫婦は理由があって近くに別居しているらしい。

何しろ近隣の附合いはデリケートなのである。

どうして別居してんのとは聞くバカ、聞かぬバカなのだ。どっちもバカだ。

いずれおいおい解るだろう。解ったってどうにもならない。

他に客の居なくなった店内に宗柳のオヤジさんがブラリと来た。

宗柳のオヤジも色んなストレスがあってここに20分30分息抜きにくるのだ。

そのオヤジに、

「きのうだったか、喰べた半天丼のメシ、少しパサパサしてたぜ、自分で作ってないんじゃないか」とわたし迄小手を打つ。

一人で全部を作り切るのは不可能と知りつつである。

「イヤー、まいった」とオヤジ、去り、わたしも去ったのでした。

実に下らない人生であります。

502 世田谷村日記 ある種族へ
五月十八日

14時研究室。サイトチェック。福島の建築家ハガヌマ氏と連絡。秋の宮温泉の小計画とつなぐ。14時40分演習G、18時前了。コーリア料理屋で気仙沼、唐桑他東北行のスケジュールを再チェック。大幅に修正する。臼井賢志さん、佐藤和則さんと連絡。それぞれ訪問の日時をお伝えする。2日分のスケジュールはギッシリとなった。20時了。21時世田谷村に戻る。

五月十九日

5時半離床メモを記す。6時半再眠、起きたら10時であった。

中途まで書き継いでいるアニミズム紀行7を読み直し、展開を考案する。20日の院レクチャー3講のシナリオを小修正。3講はもう定着になっている鎌倉再建の大仏殿についてだが、この問題の今日的意味をわかりやすく説こうと考えた。

絵葉書プロジェクトは第4弾まで完売した。研究室の小さな歴史としても驚くべきスピードで広く支持されていると言わねばならない。明後日に最初の義援金を気仙沼・唐桑に届けることができる。多くの皆さんの代理として届けられるのはいささか誇らしい。

新しい5弾6枚組、6弾6枚組のデザインも決ったのでページにONしている。

又、これ迄の1〜4弾のシリーズも記録としてONした。

501 世田谷村日記 ある種族へ
五月十七日

9時20分世田谷村発。昨日程ではないが、今朝はトボトボと歩いてモヘンジョダロを通り抜ける。廃墟に咲く草花の鮮やかな色が眼にしみる。何故か京王線電車は超満員。ヘトヘトになって新宿を経て新大久保へ。トボトボ歩いて大学へ。渡邊助教より絵葉書プロジェクトの校正をせよと言われ、キャプションのチェック。レクチャーデータをチェック。10時40分学部レクチャー。今日は静かにしろと怒鳴らずに済んだが、反応は鈍い。5人位がキチンと聴こうとしてくれれば良い。後半、声が少しかすれる。12時了。チョッとした打合わせ、サイトチェックの後、今日も早退。再びトボトボ新大久保迄辿り着く。これで歩かなくなったら本当にガックリするのだろうと思う。

14時烏山宗柳に降り出した雨の中を駆け込む。かけそばと半天丼の定番。今日の半天丼のメシはパサパサして珍しくうまくなかった。かけそばの汁も少ししょっぱかった。こちらの味覚が弱まってるのか。

14時半世田谷村に戻り、バターン、キューである今日も。首まわり、体の節々が痛む。こんな事書いてもロクな事にならんのだけれど、記録としては大事なのだ。

伊藤毅先生の都市史研究会より、『年報都市史研究⑱』送られてきていたのを読み始める。

表紙の絵柄が凄いのにひき込まれた。ピエール=ドニ・マルタンという画家の画で、1715年9月12日、高等法院におけるリ・ド・ジュスティス(親裁法廷)を離れるルイ15世、という絵が表紙になっている。1789年のフランス革命の84年前の都市と王権そして民衆の、それぞれの近世の孕むエネルギーが描かれていて、視ていてあきる事がない。ルイ16世がこの市民のエネルギーに伏してギロチンで斬首された。それをすでに予感させている。

19時過起きてメモを記す。夕食を取り、21時過Xゼミナールを書き始める。すぐには書き切れないだろう。鈴木博之さんの論考を読んですぐに想い起こしたのが、小林秀雄の無私の精神に登場する実行家である。それ故、再読する。短文なので数回読み直す。小林秀雄という人は立派な人だったと心からそう思った。それに突掛かった柄谷行人や中上健次もえらかったが役者がちがうんだな、まだ。

五月十八日

7時過離床。体調持ち直し始める。10時過Xゼミナール草稿6枚書く。余りにも問題が広いので、これから先は応答があってから、さらに進めたい。根をつめて書いたので、いささか疲れた。小休する。

500 世田谷村日記 ある種族へ
五月十六日

ひどく体調悪し。休もうと思ったが大事な会議があるので重い足を引きずり出る。烏山駅迄がヤケに遠い。歩数を数える感じ。新大久保駅から大学迄は更に遠い。辿り着けるのか。昨夜真栄寺でコップ持つ手が震えていたのを思い出す。昨日から調子が悪かったのか。

大学10時半着。雑用。11時古谷主任、入江、渡辺仁史先生と会議。12時前了。明日の学部レクチャーのシノプシスを作る。「絵葉書プロジェクト」打合わせ。絵葉書プロジェクトは研究室の東北再生計画である。絵葉書の中にその計画案が差し込まれている。何とか打合わせをこなす。13時半、ついに早退することを決める。再び足をひきずり、新大久保迄歩く。ようやく辿り着いて電車に乗る。烏山駅から世田谷村迄よく辿り着けた。

3階に上る気力もなく、ソファーにぶっ倒れて眠る。少し良くなり、3階で本格的にぶっ倒れる。21時鈴木博之さんに電話。やはり話題は岩波の「建築家の思想」となる。鈴木さんとわたしの意見は開きがある。XゼミナールⅣに鈴木さんは投稿したようだ。楽しみである。岩波という化石化した領域にネットで対抗しようというのだから面白いのではないか。こういう事があると少しは体調も良くなるような幻想さえ生まれる。ところで、鈴木博之、磯崎新の確執はここ迄深いのかと想いをいたす。これはもう歴史的な確執である。岩波は鈴木、磯崎を対談させるべきであった。

五月十七日

3時過変な夢を見ていて目覚めた。何故か安藤忠雄さんと対談している夢であった。安藤忠雄さんが自分のところの建築の周囲に農園を作り始めて、それについて聞いている。住吉の長屋の中庭に、今だったら野菜植えますかと問うているところで眼が覚めた。変な夢であった。余程建築家の思想が気になっているのであろう。夢の記憶をメモして再び休む。

7時再離床。まだ体の節々が痛む。休んだ方が賢明であるが、今朝は学部のレクチャーがある。一度休んだら恐らく歯止めなく休講の連続になってしまうだろうから無理してでもやっつける。

福島原発は一号機二号機三号機全てが炉心融溶を起こしている事が確実になった。こういう事態が明らかになってから皆がやはりそうだったのかと言い始める。当初メルトダウンはあり得ないと言明していた原子力保安院他、あるいは学者先生達は今どの顔下げているのであろうか。政権の周りは原子力発電推進派の謂わゆる御用学者しか居ないのであろう。権力の周りに群がる人間のメンタリティは皆同じだという人間性把握の初歩が出来ていないのではないか。京都大学にはこの様な事態を予測していた学者がいて50歳過ぎて助手だそうだ。東大で万年助手であった宇井純さんを想い起す。ユーチューブで原発問題討議の朝までTVを御覧になれる。このエライ京大助手とゴーマン極る原子力発電安全神話の元凶である東大教授のやり取りと見聞きする事ができる。

499 世田谷村日記 ある種族へ
五月十四日

福島県の相馬農業高校等が夏の甲子園高校野球の出場を目指して、福島県内の被災で充分な練習が不可能な学校三校の連合チームを作るようだ。高校生も大変な苦しさに対面しているが学校も両親も知恵を寄せ合って、ひねり出した工夫だろうが、素晴らしいことである。苦難の時に生み出された連合体だ、コレワ。本当は高校野球の原点じゃないか。野球の強過ぎる学校は実は異常である。弱い学校のほうが正常なのだ。でも連合して少しでも強くなって野球専門学校みたいなところを倒したりするあり得ない奇跡みたいなのは見たいな。

山本理顕さんから岩波の『思想』2011年5月号が送られてきて、遅ればせながら読んだ。「建築家の思想」がテーマの号である。伊東豊雄、山本理顕両氏の対談を軸に、磯崎新の対談への批判とも言うべき、「建築=都市=国家・合体装置」の構図である。伊東豊雄、山本理顕の対談は不幸な事に3・11の震災津波の直前になされている。原発事故も含めた津波の現実が二人の対談を相変わらず建築を中心に据えて世界の現実とは異なる小さな世界の世間話しの如くに視せてしまっている。残念である。磯崎新の論考はそれに比して現実に対して周到で拡がりがあり、さながら古めかしい例えではあるが伊東・山本の論旨は天動説の如くであり、磯崎の論がまっとうな地動説のように写るのである。異端審問に際しガリレオはそれでも地球は廻っているとつぶやいたとか、つぶやかなくともガリレオは脳内で自ら辿り着いた宇宙の構図を描く事は止めなかったろう。別に磯崎をガリレオに例える愚を犯そうとするのではない。むしろ磯崎は神秘主義者と枠付けされるアタナシウス・キルヒャーに例えたくもなるが、少なくともこの岩波の小冊子が描き出してしまった構図はわたしと同世代である伊東、山本の思想と呼ぶべきなのかは知らぬ思考の拡がりが、繰り返すがいささか心許ないものであるという事だ。水準と言わずに拡がりと指摘したが、磯崎の思考世界の拡がりはネット社会をとらえており、伊東山本のそれはあいも変らず建築村共同体の内部の思考であり続けている。内藤廣の論考はこの中で出色である。岩波風思想の枠組みの中に在るが、伊東、山本の対談を圧倒してしまっている。全てを津波のせいにできるものではないだろうこれは。

五月十五日 日曜日

7時過離床。11時半世田谷村発。新宿、日暮里を経て常磐線天王台へ。TAXiで我孫子真栄寺へ。13時半過到着。すでに読経は始まっていた。14時、姫路市の浄土真宗本願寺派不動山善教寺の結城思聞(旧姓松倉悦郎)氏の講話始まる。結城さんはもとフジTVのアナウンサーで坊さんに変身した方である。流石元アナウンサーらしく人をそらさぬ話術の持主であった。真栄寺の聴衆は二百名弱。本堂は満員である。16時了。控室で結城さんとおしゃべり。ベーシーの菅原と同級生であった。菅原は早稲田ハイソサエティオーケストラ。結城さん(松倉)はナレオ・ハワイアンズのメンバーだった。昭道さんより「絵葉書プロジェクト」の紹介があり、小スピーチ。アッという間に百セット程がはけてしまう。新たに四百部の発注をいただく。結城さんのところにも百部。18時庫裏二階で会食。

今日会食に集まったメンバーはタクラマカン砂漠間近の天山南路のシルクロードを旅した人たちであるらしい。名残り惜しいが19時半失礼する。昭道さんに天王台迄車で送っていただき、お別れ。

帰りの電車の中では新宿まで結城さんと宗教談議に話しがはずむ。稲門仏教会ってのがあって月に二回集りがあるそうだ。新宿で別れ22時前世田谷村に戻る。何故かとても疲れて倒れ込むように休む。身体のフシブシが痛い。

五月十六日

6時半離床。まだ疲れ抜けず。どうやら疲れは朝風呂にたっぷりつかってしまうのから来るのではないかと思いあたり、今朝は朝風呂パスとする。

497 世田谷村日記 ある種族へ
五月十二日

12時世田谷村発。九州宮崎県綾町町長の件は直前に保坂展人秘書森原氏に伝える。12時半杏林病院。胸部レントゲンを経て採血へ。レントゲンの検査の、わたしの順番待ち確認票がイシヤマオサム放射線、単純、0250番なのであった。放射線はまあ解るとしても、単純というのが妙に気になるのである。非常に気になる。何なのだろうか、単純という記号は。わたしはこの病院では単純という暗号でコンピューターに整理されているのであろうか。いささか憮然とするのだった。しかし、馬鹿という暗号でないだけマシだとあきらめるべきなのであろうか。今日は4部門を巡るのである。心電図をとって、院内レストランで昼食。チリメンジャコパスタ、スープ野菜サラダ。コーヒー。只今14時半待合室でメモ。

世田谷式生活・学校」の8月の講座は、東大名誉教授難波和彦先生の映画の中の市民と、ただの不名誉男山田脩二さんの写真家から瓦屋へ、そして炭焼き骨壷焼きへ、とする考えが出てしまった。病院での悪夢か。良い組み合わせではないだろうか。

16時検診。レントゲン、心電図共に異常ナシとの事。薬局で薬をもらい金も払って、16時半過発。17時過仙川より新宿へ。18時前新大久保駅前近江家でビールを飲んで時間調整。18時半韓国料理屋でGSD社長・長澤氏、国際事業部張美玲さん等と会食。20時半了。別れて小川氏と烏山へ戻る。21時半世田谷村に帰着。

五月十三日

6時離床、今日も小雨。震災後2ヶ月経ち、被災者の方々も地域全体も巨大な虚無と徒労感の最中にあるのではなかろうか。東京にいるわたしだってその中に引きずり込まれるのは自然だろう。ポーの大渦巻はまわり続けている。

福島原発の一号炉の炉心溶融が確認された。原子炉も又、大渦巻なのだ。

496 世田谷村日記 ある種族へ
五月十一日

京王線八幡山駅よりバスで八幡一丁目下車。すぐ近くの長徳寺へ。立派な浄土真宗の寺である。竹柴俊雄住職にお目にかかる。「世田谷区民のライフスタイルを考える会」主催の「セタガヤ式生活学校」の第一回集会を心よく受け入れて下さる。縁があった。馬場昭道さんを介して、亡くなった新聞記者佐藤健、そして、又これもすでに居ない松原泰道、松原哲明さんとのお附き合いもあるそうだ。立派な本堂での講義集会は今の理にかなっている。初回をお寺で開催できるのは好運であった。12時話しを終えてお別れ。歩いて12分で桜上水駅へ。新宿を経て新大久保。駅前近江家で昼食。空腹だったので親子丼セット。

13時半研究室。幾つかの連絡。スタッフとセタガヤ式生活学校の相談。14時半北園、加藤両先生来室。製図室にて演習G。20名程の参加学生である。今年も保存再生を主題とした課題。19時過了。研究室を発ち地下鉄で新宿南口味王で「セタガヤ式生活学校」のディテールを渡邊、佐藤とつめる。21時半過了。別れて22時半世田谷村に戻る。

五月十二日

7時半離床。小雨。気候の変化が激しい。中国大陸の巨大な開発が地球の気流を変化させているのではあるまいか。我孫子真栄寺にお礼の電話。「お寺使ってくれてありがとう」と逆に御礼を言われてしまった。しかし、長徳寺、真栄寺の如くの寺は稀なのである。大方の寺々はまさに葬式仏教の惰眠を貪っているのではないか。色んな事情はあるのだろうが坊さんの大方は実に考える事をしないし、出来ないのが現実である。長徳寺、真栄寺両寺に出会えたのはまさに地獄に仏だな。

石山研サイトをのぞいたら、昨夜、「セタガヤ式生活・学校」の知らせがすでにONされていた。勿論、世田谷区民以外の方々にも広く参加をしていただきたい。詳細はサイトに

495 世田谷村日記 ある種族へ
五月十日

10時半研究室。10時40分学部レクチャー。12時了。すぐミーティング。14時『現代思想』編集長栗原さん贄川さん来室。インタビュー。15時過了。16時「日本ツリーハウス協会」会長小林さん他来室。北海道の物件の相談に乗る。17時了。18時近江家で打合わせ。20時世田谷村に戻る。

世田谷区長保坂のぶと事務所より連絡あり、世田谷ライフスタイル・スクールへの区長出席は6月5日午後可能との事。百名以上の人間が集会可能な場所を探し出さねばならない。世田谷烏山妙高寺にあたってみようと連絡するも、明日朝は住職は都合がつかぬようだ。場所はなんとかするとして、6月5日日曜日午後セタガヤ・ライフスタイル・スクール第一回の講師は、6月より日本建築学会副会長就任予定の早大教授長谷見雄二先生の都市防災が1時限、2時限を「品川宿まちづくり協議会」会長堀江新三さんの生活と緑をセットしたい。

五月十一日

七時半離床。すぐにセタガヤ・スクールの件で烏山寺町妙高寺に連絡するも住職はあまり乗気ではない。すぐに見切りをつけて別ルートを当る。場所探しでバタバタして、まだ良い結果を得られず。只今9時過。朝食をとり小休。セタガヤ・スクール1年分のスケジュールを再考案する。まだ何か足りない。

今朝は昨日とうって変って実に肌寒い。10℃気温が低い。10時馬場昭道さんより連絡入り、桜上水近くの長徳寺で引受けてくれるようだとの事。ありがたい早速竹見住職に連絡してかけつける事とする。10時過長徳寺へ。

494 世田谷村日記 ある種族へ
五月九日

12時半研究室。馬場昭道さんより連絡あり宮崎県綾町町長前田氏と連絡する。WORK。15時北園、加藤両先生来室演習Gの打ち合わせ。課題方針を決める。17時前了。地下鉄で新宿へ。味王で両先生と会食。19時半了。20時過世田谷村帰着。

五月十日

6時前離床。薄曇り。昨日ようやく手にしたアイデアを頭の中でもんでみる。東北の被災地の再生だが、再生プランのベースにはやはり膨大な犠牲者の鎮魂とも言うべきが在る筈である。二万五千名になんなんとする死者、行方不明者の無念さ悲哀を歴史にはっきりと刻み込まねばならぬだろう。海に山に天空に哀しみは満ち満ちている。

これ迄神社の境内に、第二次世界大戦の巨大な鎮魂碑が建立されているのを何故か得体の知れぬ違和感を持って接してきた。戦後を生きてきながらである。しかし、神社の森自体に境内そのものに鎮魂の意味があるのを最近知った。国破れて山河ありとは良く言ったものだ。自然そのものの生成変化の中には死者の悲哀が満ちていたのである。法然さんが辿り着いた境地である山川草木みな響きありの知覚五感は、すなわち響きとは悲哀の声でもあった。

気仙沼で市民達と共に「海の道」を作った。唐桑半島では小鯖湾に「臨海劇場」をこれも又皆と一緒に作った。共に、勿論、今は跡形も無い。

気仙沼と唐桑に森をつくる。森の中には小さな寺と神社がある。森だけではない草花も人間の手で植え込むのが良いだろう。そのささやかな、巨大な宇宙程にも大きな生者も死者も含めた悲哀を共にする森を、そして祠を作りたい。日本中の、世界中の人々に声を掛けて作り出してみる。

幸い、わたし共にはカンボジア・プノンペンの「ひろしまハウス」建立の小史が手中にある。「ひろしまハウス」は多くの人々の参集を得て十年程をかけて建立した。アレを森の形とちいさな社の形式を借りて再現すれば良い。

そう決心したので始める。森づくりは南方熊楠の神島をモデルにしたい。熊楠は社寺合祀を否定したが、神社の森も、寺院の森も共にあっても良いのではないか。昨日5月9日に室根山、安婆山、小鯖湾のリサーチを研究室生に依頼した。山を海を力まかせにではなくまさに自然とうまく折り合いながらデザインしてみたい。近日中に多くの人々に、自然な形で、小さな形式を始まりにして呼び掛け始める。

そんな事を決心したら、再び間近の烏山神社の森がとても大事なモノの様に眼に映るのだった。世田谷村の小さな小さな林だって考えてみれば気仙沼や唐桑に、そして松崎町にだって通じているのだ。風や、虫や、鳥が様々に種や胞子を運んでいるのだから。森はそう考える意識の中に生まれるものでもある。実のなる、いざとなったらその実を食べられる樹の森が良いな。亡くなった方々への供物。

493 世田谷村日記 ある種族へ
五月七日

13時過研究室。来週火曜日迄の若干の作業を依頼。13時半小会議室。入江古谷両先生と相談。14時半了。いささかのWORK。15時半研究室新入生歓迎会。今年は少しは酒を飲む男子学生がいるようだ。わたしは18時過一人抜ける。19時過世田谷村に戻る。

TV局の取材の件で川合花子さんに連絡する。やはり川合さんはお断りになった。TVに出る人と出たがらぬ人が世の中には居る。恥を知るっていう事だろう。でも時々恥はかいてみるのも良いのだが、川合花子さんはお年の事もあり、面倒臭い事は避けるのが自然であろう。

五月八日 日曜日

3時半離床。J・L・ボルヘス「円環の廃墟」を読む。メモを記し、再び「バビロニアのくじ」にかかる。ボルヘスの結晶のひとつである伝奇集中の傑作と言われるものだが、1941年11月10日ブエノスアイレスにて、の刻印がなされているホルヘ・ルイス・ボルヘスのたった2ページのプロローグそして昨日だったか、一昨日であったか記した「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の手引きが無いと、これ等は頭脳内で消化される事はないだろう。この書物はそれこそ消滅しつつある、ある宇宙系の星々の如くが構成されているのを知るのである。建築よりも余程確かな構築体である。ARCHITECTUREへ、だなすでに。凄えもんだ。恐れ入り谷の鬼子母神、飛んで火に入る夏の虫、アラアラ、ババアの立小便である。ショーベンハウエルではなくショーペンハウエルかグレアム・グリーンだったか、いみじくも「ボルヘスは旅に価する」とわざわざブエノスアイレス迄ボルヘス自身の実体に会いに行っての感慨も又、つくづくそう感じたのであろう。

ハーバート・クェインの作品の検討が「円環の廃墟」の解説の形式をとっているのを知り、更にこの言葉の構築物は建築を超える建築であるのを確信して、いささか冷えた体を温めようと朝風呂に入る。6時だ。

新聞を読む。今日もコンビニに産経東京二紙を買いに出る。早朝の雨上りの澄んだ冷気が気持よい。モヘンジョダロの廃墟に咲く月見草他の草花も美しい。8時40分、10日の学部レクチャーのシナリオ作成を終え、研究室に送附する。

夜である。何とも柔らかい風が二階のガラーンとした部屋に吹き渡り、世田谷村は今が一番良い季節だ。このひとときの平安が大地のひと揺れで、一気に地獄に変転してしまうのを、その一端のとば口を我々はすでにのぞき見ている。

五月九日

2時目覚める。二階に降りて、「夢の本 序 ギルガメッシュの物語り、家宝の果てしない夢」を拾い読む。3時再眠。最近夢を全くみない。8時半再離床。9時前、我孫子真栄寺馬場昭道さんに電話で相談、東北の被災地の方々の受け入れ先に関して相談。宮崎県は原発が無いので、その点では安心な場所である。水と緑で有名な綾町の町長さんと話し合ってみるという事になった。綾町はたしか昭道さんに連れられてうかがったことがある。

避難所で暮している方々もほぼ二ヶ月を経て先の事をアレヤコレヤ考えている最中であろうか。東北から九州は遠いと言えば遠い。けれど国境を越えるわけではない。なかには受けいれてくれるなら九州へ行ってみようかと考えるひともそろそろ居るかも知れない。福島の原発からの避難の方々には考えていただいても良いのではないかな。

492 世田谷村日記 ある種族へ
五月六日

10時過研究室。院レクチャーデータチェック。修正を何ヶ所かする。10時40分院レクチャー。12時過半迄。相変わらず遅刻し図々しく教室に平然と入る学生が多い。仕方無いのかな。でもこれはいけない。こういう大学は辛い。

14時より研究室ミーティング。16時半了。抜けて新宿南口長野屋食堂で打ち合わせ。18時半前了。食堂から大阪安藤さんと電話で話す。気仙沼行きの様子を聞く。流石、いい勘をしている。臼井さん達と会って話したそうだ。烏山へ。

九州佐賀の話しは困難にブチ当った。原発からの距離がネックになるとは、全く新しい計画の壁が出現しているのを実感する。

20時過世田谷村に戻る。浜岡原発の2年間の停止が決まりそうだ。理由が東海地震の起きる確率である。自然災害の確率とテロを含む人災による原発事故の確率は人災の方がはるかに上であろう。中長期のエネルギー政策が示されずに停止というのはいささか唐突ではあるが、英断であるやも知れぬ。恐らく日本中の市民住民、つまりは消費者が原発の問題を真剣に考えようとするのはほとんど初めての事ではないか。わたしだって例外ではない。日本中でそもそも充二分に安全に暮せる立地はあるのだろうか。

五月七日

三時半に離床。J・L・ボルヘスの「八岐の園、トレーン、ウクバール、オルビス・ラルティウス」を読む。これまで読んでも弾き返されていたのだが、少しは入って行けるようになった。剽窃の観念が成立していない文学世界を仮想し(それは大変な能力を必要とする)、まさに架空の世界を、失われた物体を複製する如くに創作しようとしている。ブエノスアイレス国立図書館の館長として、その蔵書の好ましいモノの大半を読破し、記憶するという異常な能力が見せつけられている。わたし等の無能な人間には恐ろしいモノを見せつけられているような感が襲ってくるばかりであるが、この恐れ畏怖の念こそがほんとうの創作に対する驚きであるのだろう。本当にゾーッとするな深夜に。自分の脳味噌の低性能振りをなげくばかりだ。

しかし、コンピューターの検索能力はJ・L・ボルヘスの異常さを軽々と手許に引き寄せるテクノロジーであるやも知れぬ。その検索には想像力と飛躍が求められようが。検索は剽窃であり模倣でもある。文学の文学、あるいは詩的にボルヘス流に表現するならば、イスラムの夜の中の夜を意識的に目指した方法は身近にする可能性が無いでは無い。江戸川乱歩が小栗虫太郎を西欧的ペダントリーとポジティブに評価したのを思い起すが、その水準をはるかに超えた処にボルヘスの世界は在る。推理小説の純文学に対する圧倒的な人気の秘密もボルヘスは完全に理解していた。考えてみれば推理するは想像するに同じである。それは坂口安吾も解ってはいたのだが、安吾の想像力は構えは壮大なのだが、その屋敷の中に入ってみると全部土間で何にも無いとは教祖小林秀雄が言い抜いた通りである。と、どうしてもわたしの創造、つまり検索は日本へと戻ってきてしまうのである。でもボルヘスが読めるようになったのは収穫である。

『atプラス』の最新号が送られてきた。表紙のドローイングはわたしのディレクションで研究室のS君の作図である。キャップテン・クックの南海の海洋地図の作図法を下敷きにして、秋の宮計画の初期計画案が描き込まれている。松浦武四郎の北海道地図の描法とキャプテン・クックの世界地図(部分)の描法と並ばせてみて、キャプテン・クックを選んだ。初歩的にJ.L.ボルヘスの方法を模倣していたのを知るのである。第2特集の扉にもわたしのドローイングが差し込まれているので御覧頂きたい。

S君には『atプラス』08の特集「瀕死の建築」中の、磯崎新の久方振りの大エッセイ「建築―不可視から不可侵へ」を読み通すように依頼する。彼に一度短く抄訳してもらって脳内で整理してから全文を読んだ方が良さそうだから。これも検索の一種である。東日本大震災をキッカケに沈滞し切っている建築界に大いに論を戦わせる機運が湧き上るのを期待したい。この期に及んで議論百出せねば建築は終わりである。

宮本常一先生の歌集『自然に對ふ』を手にする。宮本先生が病床で整理され親友である重田堅一さんに贈られたものである。その原本(原稿)を影印したものだ。宮本常一先生の手描きの字句に触れる事が出来る。先生の描かれる字に触れて驚いた。川合健二の字に実にそっくりなのである。小さくて、決して達筆とは言えぬ。むしろ悪筆の部類か。原稿用紙のマス目に実に小さく納めようとしている字である。川合と宮本は良い友人であったが、その字体を眺めるに同じような気質を持っていたのかも知れぬ。

491 世田谷村日記 ある種族へ
五月五日

6時半離床。昨日は昼過ぎから半分休みがてら研究室スタッフと会い「世田谷区民のライフスタイルを考える会」世田谷スクールの具体的なプログラムを考えた。今朝になってようやく9月まで6回分のスクールのプログラムが出来上がり、早速各講師候補に依頼の電話。大方の了解をとりつけた。どうせやるならば画期的なスクールを立ち上げたい。

世田谷村を出たり、入ったりを繰り返し、世田谷スクールの実現にむけて段取りする。佐賀県の力を借りて3年間続けた「早稲田バウハウス・スクール」は今振り返って考えれば、建築という専門領域に閉じこもり過ぎていた。40年昔に体験した「高山建築学校」も、校主倉田康男の趣味もあって、思想哲学コンプレックスがあったのだが、その過ちを繰り返さぬようにしたい。しかし、市民社会、区民社会という得体の知れぬ人々を相手にしなければならぬので、覚悟しなければ。

五月六日

6時半離床。今朝は新聞は休刊。石山研のサイトをのぞいたら、昨日誰かがページを動かしてくれたようで生き返っている。東日本大震災被災者支援「絵葉書プロジェクト」は第3弾まで完売し、第4弾を印刷中、生産が追いつかぬ異常さの中にある。世間というモノは実に神秘的と言うべきか。

8時前、今朝の院レクチャーのシナリオを再々点検する。レクチャー開始が震災のため一ヶ月遅れたのと、大震災、原発事故後でもありやはり緊張せざるを得ない。この大震災大津波原発事故そして世界的な風評被害の現実と、レクチャーの関係は二通りしかない。

 1、大震災とは無関係にこれ迄通りの考えを院生達に伝える。

 2、この震災に反応してレクチャーを組み立て直す。

1は堂々として院生達の動揺を鎮めるだろうが、それ程わたしの考えは不動のモノではないから、これはやはり捨てて、2を選ばざるを得ない。この5年間程わたしの院レクチャーの主題は「転形期の建築」であった。それ故、大震災に及んで、まさに転形をせざるを得ぬに際し主題を変更する必要もないのではあるが、やはり転形の現実に院生達もまざまざと対面する現実がある。その只中にある。それ故に、レクチャーは転形期の認識を超えて、いかに行動、思考すべきかを話さないと彼等を考えさせる事も出来そうにない。で、これ迄の定番レクチャーにいささかの手術を施し、大手術と言うべきかな新しい形式のモノにデザインし直した。今日が初回である。うまくゆくかどうかは解らぬ。スリルだ。9時過世田谷村発大学へ。

490 世田谷村日記 ある種族へ
五月二日

7時過離床。6日に始まる院レクチャーシナリオの手直し。8時半世田谷区長と電話で話す。

久し振りに屋上に上りラヴェンダー、ローズマリー、雪柳の小枝を手折る。世田谷村の屋上はすっかり外国産勢に押されている。高曇りだが日差しは強い。チリチリと裸の腕が焼ける。小半時草に埋もれて過す。下に降り、山吹の樹の花を三階のヤングシャキャムニ像に供花。知り合い他の健康を祈る。健康と言っても福島原発他があるからより複雑である。恐らくわたしも放射能を浴びている。

屋上で花を切っていたら、とてもささやかなアイデアが浮かんだ。早速実行に移すのを決めたが相手がいる事だどうなるか。12時前外出、「世田谷のライフスタイルを考える会」の打合わせ、近くの子育てセンターの4階を見学。その他話し合う。ウサマ・ビンラーディンの死を知る。19時半世田谷村に戻る。

五月三日

5時離床。新聞を買いに出る。ウサマ・ビンラーディン、パキスタンで殺害の報を読む。全紙報道論説皆同じである。これは怪しいぞ。情報が平板に過ぎる。一階つまり地面に降りて少しだけ片付け。世田谷村は地上5Mの2階が生活フロアーである。庭のど真中の梅の樹の上端を2階から眺めているのが常日頃である。つまりうわの空の中に暮しているのである。地面に接する部分がない。そんなところで暮している。久し振りに降りた庭は雑草がボーボーと生い茂っている。大きな便座が転がっている。夜陰に乗じて何処かの品位に欠けた人間が投げ込んだものだ。こんな事を書くと自転車や車で世田谷村に粗大ゴミを捨てにくる更に下品な人間が又出現するやも知れぬが、深夜、いささかわたしは頻尿気味で、夢遊状に庭にさまよい出る事がある。その夢遊状態の中で、常に持ち歩いているおマルの中の小便やクソをどうやらブチまけてもいるらしい。夜陰に乗じて世田谷村に便座を投げ込む人間に、わたしが夢遊状態で汚物を投げ捨てぬとも限らぬのである。御用心の程を。

又、少しずつ畑仕事らしきを再開しようと考える。

17時45分地下鉄大江戸線赤羽橋にて難波和彦さんと待ち合わせ。18時東京タワー真下芝とうふ屋「うかい」にどしゃぶりの中着く。木造和風の大きな料理屋で沢山の人が訪れている。奥まった離れに辿り着いたら、安藤忠雄さんがすでに座っていた。彼はいつも待ち合わせは一番早くやってくる。出来そうで出来ない事をやる。すぐに鈴木博之さん来る。今日は何とはなく集まった。皆おそろしく健啖で凄い速力でトーフ料理他が片付けられてゆく。わたしは食べるのはそんなに遅い方ではないのだが常に最後尾である。安藤さんは政府の東日本大震災の復興計画会議副議長だから差支えない範囲で色々と話しを聞く。実にリアルである。

明日、東北新幹線一ノ関からヘリコプターで気仙沼に行くと言う。それではと言う事で臼井賢志さん、カネダイの佐藤さんに是非声を掛けてやってくれとメモを渡す。20時過了。別れて難波さんと地下鉄で帰る。新宿で気仙沼に電話して明日安藤さんに声を交わすように伝える。何だか腹の調子が悪くて新宿駅のトイレに駆け込む。マ、大丈夫かと電車に乗るも怪しく、笹塚で降り、さらに桜上水でも降りてトイレに駆け込む。絶対の危機とは言わぬ、悠々と駆け込んでゆったりとトイレで過した。22時過世田谷村に戻る。

五月四日

5時半目覚め、6時過離床。今朝も定期購読の新聞にあき足らず、コンビニに東京産経二紙を買いに出る。店で猫と暮すオジキに会いあいさつ。猫は家でグッスリ眠っているそうだ。帰り径又も宗柳のオヤジにバッタリ。お茶飲んでって下さい、で又も図々しくシャッターを開けたソバ屋に上がり込む。ビールと卵とじおじやとつけモノが出て、有難く涙こぼるるなんであるが、そんな素振りは見せず、新聞を読む。オヤジと新聞談議する。早朝であるから、オヤジの頭はさえている。わたしの頭はサッポロビールで少しやられている。

「オヤジがですね、朝日新聞読めよと言ってたんで、朝日とってたんですけど、二、三年前オヤこれは違うと思ったんです。社説読んでですね。それで別の新聞読もうと決めました」

「オレもね、最近つくづくそう感じてね、それで産経、東京を毎朝、買いに出てるのよ」

「産経、東京は部分としてピリリとしたモノはあるんですけど、全体としては薄っぺらなんですよね」

「そうか、そうですか。俺も大体そういう印象だなあ・・・・。オヤジ、さえてるねえ」

「イヤア、又、冗談も程々にして下さいな」

と、サッポロビールのアトに焼酎のソーダ割りまで出てきてしまい、これで朝は全滅になるなと考えつつ、いただく。

八時前世田谷村に戻る。

我孫子真栄寺住職馬場昭道さんと「絵葉書プロジェクト」に関して相談。絵葉書プロジェクトは発注に対して生産、つまり印刷が追いつかず、いささかの齟齬が発生しているが、何とかフォローしたい。

「世田谷区民のライフスタイルを考える会」のスクールに難波和彦先生に参加していただく事を決断する。すぐに電話して相談。

「世田谷区と映画というテーマでレクチャーしてもらえませんか」

「イヤー、それは難しい」

「市民生活と映画ではどうでしょう」

「それなら、なんとか、考えてみましょう」

となる。難波和彦東京大学名誉教授は池辺陽ゆずりのコチコチ人間であるから、恐らくは市民ケーンとか戦艦ポチョムキンとかの話しをされるのだろうが、それはそれで面白い。Xゼミの机上のロジックだけではない実行の世界で一度、相まみえてみたい。

九時小休に入る。

絶版書房アニミズム紀行6、および5も絵葉書どうように御愛顧の程を願う。

世田谷村日記