2011 年 6 月
- 532 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月三十日
千川よりバスで杏林病院。地下階で採尿、採血を終え、9時診察室待合いロビー。担当医はまだ診察室に入っていない。15分遅れの告示があった。『時代と記憶』平岡敬、読む。10時検診了。尿酸値高い。薬局で薬を受け取り、金を払う。健康と医薬代は比例するとエンゲルスが言ったかどうか、まさに病院化社会は仲々シンドイのである。
バスで千川へ。11時半新大久保近江家で昼食。「お茶でよろしいんですか?」と店の人間にいぶかしがられた。医者から尿酸値高いぞ、このまんまでは痛風、腎臓もやられるぞと脅されたばかりなので「お茶でヨイ」とキッパリ言い放つ。昼間からビール飲めるか!えばる事はない。12時研究室。1時間程休み。諸々の打合わせの後、18時前発。
19時広尾の磯崎新宅。久し振りである。諸々の話しをうかがう。
主に企てようとしているプロジェクトの数々の話しであった。過去を振り返る話しは一切無かったのが見事である。福島遷都論には驚かされた。相変わらず驚かす事の名人である。天皇行幸論は磯崎新の和様論の究極だろう。流石に今度の大震災に於ける天皇皇后の被災地巡幸の意味を適確に考えていた。磯崎新の新局面はこれらの一群の思考だろうと直観する。
磯崎新の天皇論は一度聞きたいと考えていたので実に面白かった。福島遷都論は天皇プロジェクトと呼ぶべきものであった。わたしも礼儀であるから、今考えている2つのプロジェクトの話しをする。一発で理解される。案の定であ
る。 23時過迄話し、名残りは惜しいがお別れ。
雨上がりの濡れた坂道を広尾まで歩きながら考える。面白かった。
地下鉄、JR、京王線を乗り継ぎ24時過世田谷村に戻る。明日は研究室にデータが届いているだろうから、福島遷都計画をコンピュータでビジュアルとしてゆっくり眺めることも出来るであろう。
-
七月一日
昨夜はやっぱりあまり眠れず、8時離床。山口勝弘先生より葉書届く。
「三陸レクイエム」が仕上ったので見に来るように、要するにその知らせである。行かねばなるまい。
今日も暑くなりそうだ。朝食をたっぷり喰べて、9時半世田谷村を発つ。
-
七月一日 つづき
9時半世田谷村発。10時半研究室。10時40分大学院レクチャー9講ナショナル・ロマンティシズム―地政学について。12時10分了。
打合わせ。磯崎新さんよりデータ着信していて再生。昨夜は余りにもデータが重くて画像が切れ切れで、音も無く総体が理解できなかったが、これはクリアーで理解可能である。基本的にArt世界のPost津波、福島第一原発での、宮川淳流に言えば存在しない事の不可能性についてのProjectである。
Project自体はソフトバンクの孫正義氏が復興会議とは一線を画す形での民間の会を立ち上げ、新生会議の議長は元首相の細川護煕氏である。磯崎さんも主要メンバーである。
14時朝日新聞編集委員大野正美氏の取材。「ひろしまハウス」と「気仙沼・唐桑の計画」について。15時半了。
雑用をこなす。17時過東京ガス・アトリウムへ。
- 531 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十八日
モヘンジョダロの遺跡を通り抜けようとする。ビワの樹の王を眺めるに老人が一人竹竿で実りに実ったビワをたたき落としている。そうしないと、間もなくカラス共にみんな喰べられちまうのでまことに正しい処し方である。ごっそりビニール袋に入れて原っぱから出てきたので待ち伏せて、「甘いですかね、それ」と猫なで声を掛けた。「甘くておいしいよ、一つ持ってく?」と狙い通りの会話となり、ビワの樹の王の黄金の実をひとつ手に入れた。一つだけというのが良い。「もう一つくれ」と言えば何かが崩れるのである。ビワの樹も嬉しかろう。
10時過研究室。打合わせ。10時40分学部レクチャー。12時了。前橋の市根井立志さん来室。打合わせ。市根井さん自身のデザインによる本棚を受け取る。彼はデザインも上手になった。木工では何でも出来るだろう。広島の木本さん他も含めて共に良い仕事をしたいものだ。
13時新大久保近江家で松村秀一先生と昼食。雑談。剣持昤の規格構成材方式の現在での可能性について若干の議論をする。石山研の開放系技術の考え方を次世代に継承してゆく事も考え始めているので、どうしてもわたしには必須な議論なのだ。
「石山さん元気そうじゃないですか」と意外そうな顔付きだったので。そのいかにもな意外そうさがイヤで、「こんな時に又太ったようで、先生少し鈍いのでは、俺の方は有事には元気なのだ」と返した。しばらく、太っているから鈍いのか、鈍いから太るかの言い合いをする。何やってんだか。しかしお元気そうで何よりだ。タフになられたな。少なくとも男はタフさを演技できるかどうかは大事だから!別に他意は無い。15時前了。別れて新宿へ。少しの打合わせを経て16時半烏山へ。地元の人と過す。18時半世田谷村に戻る。
-
六月二十九日
8時離床。9時過研究室よりFAX、鈴木博之先生にアドバイスをいただき、10時過返信。朝のやり取りは実がある。
10時半小休。
14時研究室気仙沼WORKチェック。14時40分加藤先生、北園先生来室。演習Gスタジオへ。18時迄スタジオで院生、学部4年生のスタディーを個別に見る。それぞれの学生個人の資質をほぼ把握できたので、あとは自由に走らせたい。来週はガラス工場の見学だそうだ。
19時前加藤先生と新宿味王にて第1回の「設計教育を考える会」の準備会。次回メンバー他を決める。20時半了。21時過世田谷村に戻る。気仙沼へ少しづつ計画案を送付している。
-
六月三十日
5時離床。メモを記し、明日の大学院レクチャー9講「ナショナル・ロマンティシズム」のシナリオづくりにいそしむ。6時了。小休、新聞を読む。8時半世田谷村発、杏林病院へ、今日は2ヶ月に一度の定期検診である。病院恐怖症はすでに消えた。逆に病院好きになっている風も我ながらある。人間は慣習の動物だな。白足袋は自動車恐怖症で、車の中に入れようとすると気が振れた如くに暴れまわり、コレはネコ科の動物である本性を露出する。本当に凄い暴れ廻り方をする。幸い白足袋は家の外恐怖症でもあるので、一番恐れている外の道路で車にひき殺されるという街のネコ特有の事故らしきに会う確率は極めて低い。しかし、時々2階の窓際に座り込んで外の街やら空を熱心に眺め続ける姿を最近は良く見かける。
何年も前に世田谷村の南の保存緑地になっている、実のところただの畑に白足袋くんらしからぬ遠征を試みた事があり、いささかの騒ぎになった。
人間と同じに時にはむしょうに何の目的もない旅に出たくもなるのではないか。
白足袋がある日、ズタ袋を背負って旅に出る姿を想像するに勝手ながら哀切を感ずるのである。その時はやはり餞別をズタ袋につめてやるのだろうか。
室内の植物群に水をあげる。3階のテラスのゴーヤは日照りでやられた。屋上からネットを垂らしてゴーヤをはわせ日射を防ごうと考えたのだが、肝心のゴーヤが育たない。それでも水をやる。ひんぱんに面倒みなくては大地から切離した植物は育たぬ。そうだろうな。
室内の植物に大きなペットボトル3本分の水をあげた。
わたしにも水を与えなければいけない。朝のささやかな風が室に吹き流れ実に心地良い。風に敏感になったのを知る。
- 530 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十七日
11時40分 世田谷村発。千歳烏山で長澤社長等と会い、近くの栄寿司へ。昼食。13時半京王稲田堤、厚生館福祉会・近藤理事長に紹介し、雑談。15時過了。稲田堤で別れる。
16時半目白駅で小休、コーヒー他。17時前GKプレゼンテーションルームへ。17時過、中西進先生レクチャーを受ける。
中西進先生の著作には前から興味を持っていたが、レクチャーの冒頭からガツーンと面白かった。
アニミズム紀行4(すでに絶版)で述べた、と言うよりも辿り着いていた、海の、メラネシアのマナについて触れられたからである。
マナとは宗教人類学者、宗教民俗学者が発見したメラネシア、つまり環太平洋文化圏の原アニミズム概念である。アニミズム紀行4を読めと言い放ちたい。中西進先生はこのマナと日本語のモノとが類縁性を持つとおっしゃった。驚きである。この日記にも一番多く登場する、モノ、もの、の言葉の源がマナであると言ったのである。
本当かねー!と絶句し、後で質問したら、中国表意漢字の「物」を介して連結していると明言された。
わたしが栄久庵憲司の道具論に関心を持つのは、それがメタボリズムの正統な後継概念であるからだ。日本と言うよりアジア独自の思想性を持ち得ると直観するからなのだが、日本のIDの元祖の径を考えるならば、それがアメリカンモダニズム→ブッディズムへのルーツ探しへの自己批評としての道具論、道具寺プロジェクトへと展開しているのを知る。
その点に於いて中西進先生の言うように21世紀の日本、そして東アジアの創造的主体を予見しているのである。
中西進先生のレクチャーは恐らくは、2011年3・11の津波を体験しての創造的直観から生まれた。つまり、メラネシア=海からの視点の可能性である。
わたしのアニミズム紀行に対しても大きなインスピレーションを与えていただいた。アニミズムを巡る旅の正当性を再び確信したのである。
モノ、物の深奥が海の、海洋文化圏の思想、マナと連結している可能性があるのだ。
面白いな日本の古典万葉研究家の巨人がマナに言及するとは、学問は仲々のそれこそモノである。
大変な勉強になった。
19時過中西進先生レクチャー了。質疑を終え、中西進先生去る。栄久庵さんにお別れの挨拶をしてGKを去る。20時過烏山、ひろしまお好み焼屋で中西進先生のレクチャーを復習する。いやはや幾つになってもかくなる勉強は実に楽しい。先程、栄久庵憲司さんも「相当先にいってるなあ」と実感を述べたのも良かった。
『こころの日本文化史』中西進、岩波書店(1800円+税)は買って読まなくては。
21時半世田谷村に戻る。本を読みながら寝る。
-
六月二十八日
7時過離床。今朝は薄陽が射している。平岡敬『時代と記憶』影書房、を読み続けているが、地方の時代の内実が良く解る。平岡さん(元広島市長)はかつて中国放送の社長も務めていたのでTVの裏も表も知り抜いている。そんな人物のメディア論を介しての地方新聞の役割の言説は解りやすい。
平岡敬さんがカンボジア・プノンペンの「ひろしまハウス」に汗をポタポタ垂らして積んだレンガの壁は2階に残っている。守るのではない、平和は汗をかいて作り出すのだ、が広島市長時代の平岡さんの思想の骨格である。表現者の役割はその思想を形にして、解りやすく人々に呈示する事だ。
新聞の役割の言説は解りやすい。
市長退任後もヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクトの続行でカザフスタン共和国の旧ソ連原爆実験場周辺での被爆者医療に従事されている姿には全く頭が下がる。
今年、ひょんな事から世田谷区長選に保坂のぶと氏が出る事になって、秘かに支援したいと考えたのはそんな平岡敬氏への敬愛の気持があったからである。ただし「世田谷式生活・学校」の中には平和を作るという項目を入れるつもりは無い。世田谷区はそれ以前の、より身近な生活の中で考えねばならぬことを優先すべきであろう。
- 529 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十四日
10時20分研究室、レクチャーデータチェック。10時40分大学院レクチャー第8講フィリップ・ジョンソン、ニューキャナン・ガラスの家。今年はガラスの家と桂離宮を相対化しての考えを述べた。又、数寄屋、囲い、茶席に於ける命名性の意味=情報についても少し考えを進めた。
12時過了。研究室に戻り雑打合わせ。14時半了。昼食へ。16時半了。烏山にて雑用を済ませ18時過世田谷村に戻り、WORK。
-
六月二十五日
2時半離床。メモを記す。今夜も月下美人、一輪咲き匂う。しかし、月下美人とは良く名付けたものである。堀口大学に月下の一群というフレーズがあったようだが、短い一言で何かを言い切ってしまっている。花の名前にはそんなモノが少くない。若い頃に、20代であったか、大枚をはたいてそんな本を(絵入りであった)買って手許に置いていた記憶がある。その本は今は居ない。本を持つ、私有するという意欲がメッキリ失せた。昨日も未読の本を一冊若者にあげた。所有していても読まぬのが眼に見えるのだから、そうした方が合理的である。本も世間の廻りモノ、巡りモノの一つだ。知識も本来そうであるべきだろう。と無い知恵をドローンと振り絞って記しているのが我ながら笑えるのである。深夜ですぜ、マッタク。笑えますな。
4時半再離床。今朝は8時前東京駅発の電車に乗らねばならぬので、もう眠らない方が安全だ。マッタク御苦労なことではある。
世田谷区長・保坂展人の就任報告会で小スピーチをしなくてはならぬのでその準備をする。当然「世田谷式生活・学校」について話す事になるのだが、来年に予定しているクリーン・エネルギー・大バザールの概略も発表したい。世田谷村、および世田谷村日記が少しばかり社会性を帯びる事になろうか。
5時過、すでに昨夜満開であった月下美人は花びらを閉じ始めている。しぼみ始めた花も又良い姿ではある。早朝の雲の色そして形の変化振りは実に見事で、見あきる事がない。と、一生懸命眠り込まぬようにただただ書き続けているのである。まことに御苦労様である。その御苦労振りを我ながら笑えるけれど、一人で笑うと疲れるので笑わないのである。
6時半世田谷村発。眠い。7時半東京駅地下5階総武線ホームで難波和彦さんに会う。やがてすぐに村松映一さん合流。予定通り7時53分発の電車で千葉へ、3分の乗り換えで8時39分の銚子行へ。飯岡着10時。今日の審査の対象である、「あさひミレニアムシティ第1期」の設計者・井口浩さんの車で海岸沿いを走る。津波の被害が随所に残る。
旭市は2〜3mの津波であったようだ。大きな海岸堤防もなく、海岸砂丘の地形だけでその圧力に耐えたようである。しかし、震源が少し南下していたら更に内陸迄津波は浸入していたのであろうか。天保水滸伝飯岡助五郎ゆかりの地を過ぎて、ミレニアムシティ着。ミレニアムシティとデッカイネーミングに比して、小さな個人住宅程のモノである。ミレニアム民宿である。隣地に各種動物の避難所の如くがあり、まるでオーストラリア産B級エンターテイメント映画「MADMAX」の雰囲気である。
何となく、うら哀しい。
井口さんはこの手のモノを幾つか手掛けているらしい。
妹の長男が旭で農業の真似事に従事していると聞いていたので、今朝電話しておいた。彼が現われて、話を交わす。妹の長男はこの辺りでトマトときゅうりをビニールハウス群で作り、それを都知事選で落選したワタミ社長のところに納附しているとの事。農協に納めるよりは良いのだそうだ。
11時過審査了。妹の長男とも別れて飯岡駅に。千葉、しかも外房は何かしらモノ哀しい場所だ。12時19分の電車に乗り、東京へ。車内で弁当とビールを得る。帰りの電車は雑談に花が咲く。
わたしの今日の審査の印象は、建築としてはどうかと思うが、これは環境という概念の空疎さが歴然として露呈したもので、一人井口さんの責任だけではない。これがミレニアムシティを名乗るならば、我家である世田谷村はミレニアムビレッジである。わたしには恥の意識がわずかなりとも残っているのでパラダイムシフトとかコネクトハウジング、ネットワーク都市の誇大広告まがいはとても言えぬのだ。井口さんにはそれを平気で言い抜けるところの勇気と厚顔がある。わたしとは別人種だと痛感するのである。
早朝の見学で眠かった不機嫌さがにじみ出るのであった。
井口さんにインドのアシュラム行きましたかと聞いたら、オーロビルですか、いえ行ってませんとの答えであった。
南インドの密林を拓いて環境共生都市を作ろうとしている、環境教とでも言うべき集団の仕事はそれでもその壮大さにアナクロな価値がある。
南インドを訪ねて、その宗教的集団の本殿とも言うべきの内に入り、地下の大きな水晶球に光が射し込むらしいメディテーションルームに辟易し、かつ仰天した経験があるけれど、アレと比較したら、井口さんがディベロッパーとして事業化しようとしているのは、環境テーマミニパークの趣きであり、ガラスの温室内の茅葺き小屋は自然食レストランにして、高価なソバでも喰わせたらどうかと正直思ったのだった。
14時東京着、村松、難波両氏と別れ、研究室へ。
15時研究室。気仙沼に送附する図のチェック他。思い立って今夕の会の為のプレゼンテーションのシナリオを組み変える。大人数の会なので、「ひろしまハウス」をプレゼンテーションの冒頭につけ加える事にした。修正を終え、17時研究室発。新宿より小田急線で成城学園前、紫田くんと会う。18時、砧区民会館成城ホール着。大きなホールである。司会の森原さんに分刻みのスケジュールの説明を受ける。大熊由紀子さんに紹介される。
18時30分「保坂展人区長就任報告会」始まる。400名以上の超満員であった。区長のここ2ヶ月の報告に次ぎ、わたしの15分のプレゼンテーション。大熊さんプレゼン。宮台真司さん遅れて終了真際にスピーチ。21時過修了。
沢山の人にお目にかかりいささか疲れて、懇親会はパス。
バスで千歳烏山へ。ネコのエサを買い求めよっこらしょと運ぶ。22時遅い夕食を家人と。23時ヘトヘトのまま世田谷村に戻る。長い一日だった。
-
六月二十六日 日曜日
5時半離床。昨夜はかなり疲れていたが、どうやらそれは抜けた。どうして疲れが抜けてくれたのか良く解らない。昨夜は世田谷区の2人の副区長、多くの区会議員、他にお目にかかり、良かった。副区長の板垣さんとは面識があったがこれから先、色々と相談に乗ってもらいたいものだ。政治家の集会は当り前の事だが極めて政治的配慮の上に成立している。昨夜の会もそうなのだろうと思いはするが、その骨格はわたしには良く視えない。視えても仕方ないのではあるが、政治家の思想の仕組みと、わたしの考えの仕組みとは何かが大いに異なる。
それは何なのかは気になるところだ。
19時前、日経連載コラム一本書いて、小休。ある程度年を取ってから山本夏彦翁に文章の手ほどきらしきをしていただき、わたしの書くモノは建築家達の書く悪文の域は我ながら抜けた。
でも何か足りない。それでこの半年のコラム連載を喜んで引き受けた。山本夏彦さんの言葉、近代日本語、しかも都市の、東京言葉への蘊蓄はわたしには無い。それ故にコラムのサビと言うべきを持ち得ない。山本さんのコラムの中心は日常茶飯事の中の言葉の故郷性であった。故郷性とはアイデンティティーの事である。山本夏彦さんには確固たる道具としての言葉があった。それ故にコラムに驚く程の細部が織り込まれた。わたしにはそれが無い。それが無い時代に育ったからだ。つまり短い故にコラムには常に核になるモノが必要なのだ。何とか、この半年の間にそれを身につけたいと、少年のような大志を抱いているのである。7月6日に始まる日経のコラムを時々のぞいていただきたい。刻苦勉励の有り様が手にとるように視えるだろう。
22時横になり読書。
-
六月二十七日
5時半離床。3階の床に落ちていた大塚英志『不良債権としての「文学」』を読む。最近、磯崎新の『atプラス』08・瀕死の建築を罵倒した(週刊ポスト・書評欄)ので名前を覚えた人物である。この小論も磯崎新批判と根は同様である。大塚英志に対しては磯崎の論に対して「殺してやりたい」と迄言い放ったので、何らかの形で罵倒してやろうと機をうかがっていたのだが、それでこの『不良債権としての「文学」』を手中にする事になったのであろう。
この文章はある女性の文学者らしきの大塚英志への批判に対する反論の形式をとっている。その骨格は女性の文学者らしきの、1・素人は文学に口を出すな、2・文学の基準として売り上げを持ち出すな、の2点に対する反論である。
大塚英志への批判を繰り返している女性文学者の名を記さぬのはわたしが彼女の論らしきに殆ど関心が無いからで、無関心なのに触れるのは失礼だと考えたからである。むしろ記す必要が無いと考えた、が正しい。それ位に大塚英志の小論は立派なモノであった。現在の文学の置かれている状態を、先程記した2点に集約しているからである。詳述は避けるが、磯崎新は思わぬところからキックを喰ったと言うべきであろう。まさに素人が大磯崎のスネを蹴ったのである。この当りの事はこれから書かねばならぬ。atプラスの「溺死の建築」評に一部記すつもりなので後廻しにしたい。
新聞を取りに下の郵便受けに歩いたら、ポストの中に何と嬉しや、『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』平岡敬・影書房(2500円+税)がひっそりと投げ込まれていた。元広島市長平岡敬さんはプノンペンの「ひろしまハウス」建設の仲間、というより名リーダーであった。共にカンボジアでレンガを積んで汗を流した仲である。早速封を切って本を取り出す。これは流し読み出来る本では無いのが、すぐに解った。じっくり読んで読後感を送らねばならない。福島原発事故後の日本社会を考えるに必読の書であるのは確かだ。日本社会と言えるのはやはり広島市長としての確然たる‘つくる平和’への実績があるからだ。
7時メモを記し終り、明日の学部レクチャーの準備をしてから新聞を読む事にしよう。9時過ひと仕事終えて小休する。
- 528 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十三日
12時世田谷村発。13時研究室、気仙沼、唐桑、シュツットガルト、十勝、そして世田谷式生活・学校、それぞれのミーティング。打合わせがリアルになり始めて、かなりのエネルギーを費やす。17時了。小休。名前を失念したが、多分余りにも悪意に満ちていたので意図的に忘れたのだろうが、フランスの高名な哲学者が日本人は紙と土の粗末な家に住みながら、印象としては灰色の文化の衣をまといながら、計画する事には、それの考えを巡らせるのには異常な関心を集中させる民族であると、述べていたのを思い出す。こんな時の自分はまことにそうなのだなと、思わざるを得ないのである。計画マニアだな。17時45分研究室発。18時新大久保・近江家。
伊藤毅先生と会食。久し振りにお目にかかった。話が弾む。伊藤毅さんは最近沼沢地の研究にいそしんでいるらしい。沼である。その理由が海と大地の間のどちらもの状態の基本的な性格を持つからだと言う。つまり生命の源であり、融通無碍なる海と、固定して変わることの少ない大地の中間に在ると言うのである。「随分原理的な考え方をするようになりましたね」と率直な印象を述べたら、「そうなんです。ここ2、3年その傾向が強くなって、イデーとしてのグリッドからでしょう」と率直な答えが返ってきた。原理的思考へ向いがちな建築史学者としては彼の先輩の鈴木博之さんがいるけれど、お互い嫌だろうが、その点に於いて相似形である。同じ穴のむじななのである。いやはや世界は面白いもので、どうしてもその傾向を帯びてしまうのであろう。沼の代表はヴェネチアのラグーンであり、オランダの干拓地に興味を持っているそうだ。琵琶湖疎水工事への関心から運河へと思考を展開させた鈴木博之さんの、これも相似形であり、どうやらその先にどうしても歩を進めようと試みているのを知る。先輩後輩の宿命的な構図だな。しばらくはお二人の展開を興味深く眺め、かつその思考のトレースを追いかけてみたいと考えた。もう一度先生のバスティード研究は読み直してみる必要がありそうだ。バスティードは沼地への、つまりは水と大地の双方性へのプロセスであったのかと、そうしたら又別の読み方が出来るのかもしれない。グリッド→バスティード→沼沢の研究展開プロセスは興味津々だな。都市の、それこそ原理的根源へと沼へ、巨大な沼へと降下しているのである。
鈴木博之の都市は『都市へ』、『近代とは何か』他の著作で明らかであり、藤森照信の都市も又、『明治の都市計画』他でほぼ全貌が視えてきている。中川武のアンコールワット研究は古代アジアの都市へと向っているのだろうが、先日身近に聞いたアンコールワット論は伊藤毅のグリッド論の射程がより遠いの印象があった。又、伊藤毅さんは小さなインフラの連鎖イメージについても述べられた。つまり現代への関心であろうか。このような関心の拡がり、軸性は教師としては設計教育へと向わざるを得ないのではないかと、これは勝手に深読みしたのである。
アッという間に2時間が経ち、20時了。新大久保のプラットホームで別れ、21時前世田谷村に戻る。わたしの開放系技術論は今秋のシュツットガルト展で少しは展開するけれど、史学者達の頑張りと比較すればかなりの貧状である。のんびりはしていられないと痛感する。
-
六月二十四日
5時半離床。メモを記す。そうだ、昨夜は世田谷村内の月下美人の大輪がひとつ咲き誇り、馥郁たる芳香が部屋に満ち溢れた。
世田谷村内の月下美人の樹は育ち過ぎて3メートル位の高さになった。今年は花をすでに5つ、6つ程咲かせたのだが、皆頭上はるかで眼の楽しみも、香りの痛切さも手中にする事ができなかった。昨夜の一輪は今年最大の奴で、しかも床から30センチメーター、一尺と呼んだ方が良いか、の位置で咲いた。それで香りを満喫できた。世田谷村内の風の流れが南から北上へと流れているのを知る。何故なら今は広間の北側、台所の北の開閉する斜めのガラス壁の開閉装置が故障して開かずに、風の流れが3階の北の開きにまかされているからだ。自慢じゃないが、家は冷房無しである。それで思い切り風通しは良い風の棲家なのである。南の梅の木が巨大に育ち、こいつはもう50年以上の樹齢である。南からの視界を防いでくれるようになった。それで夏は南の窓は全開にできるのだが、家人が全開を好まず、通り風のリクツを述べいつも少しばかり開けている。そこからの朝の風は我ながら素晴しい。ビールの最初の一杯みたいなモノである。その風が昨夜、月下美人の大輪の香りを家全体に流し込んだのである。
三陸海岸唐桑・佐藤和則さん、松村秀一先生に連絡。唐桑・気仙沼住居計画の歩を進める
- 527 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十二日
14時前シュツットガルト展打合わせ。シュツットガルト展を唐桑の計画に結びつけるアイデアが出たので筋道がはっきりしてきた。筋道とは仕事としての意味とも言うべきか、わたしの中の価値観である。『atプラス』の表紙の仕事で描き込んだ、わたしの母の家のプロジェクト、これは母の死によって宙吊りになったが何とか別の形で実現したいと考えているのだが、この考えを唐桑の家に適用できるのではないかと思い付いた。それ故に、石山研シュツットガルト展→唐桑の家→母の家の循環の道筋が視えてきた。
自分達の仕事の中に筋道=道理らしきを発見する事くらい嬉しい事はない。東北三陸海岸、気仙沼市唐桑の被災者である二人の友人達のために、それは結局自分自身の誇りを賭けるにつながるのだが、力を尽してみたい。
14時50分北園、加藤両先生と演習Gスタジオへ。個々の学生の資質をどれ程見極められているかがこの演習の極みである。18時過了。
二人の先生と新宿味王で会食。「設計製図を考える会」をゆるやかに組織することを決めた。
20時半了。21時半世田谷村に戻る。
-
六月二十三日
5時半離床。メモを記す。今日は夕方に東大の伊藤先生にお目にかかる予定が入っている。明日の院レクチャーのシノプシスを作り直しにとりかかる。フィリップ・ジョンソンのガラスの家に関してのレクチャーである。
8時15分了。新ヴァージョンにレベルアップした。これを使ってどう話せるかだな明日は。来週はナショナル・ロマンチシズムに関してのレクチャーになるが、これもステップUPしよう。学生は毎年違うので同じレクチャーで差し支えないのだけれど、自分自身が新鮮でありたいから、院レクチャーは少しでも更新する。
- 526 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二十一日
10時半研究室、サイトチェック。10時40分、学部レクチャー、毛綱モン太・反住器、渡邊豊和・1・1/2、安藤忠雄・住吉の長屋、伊東豊雄・シルバーハットについて。わたしの1975年の幻庵についても触れる。デュシャンによる目的不明の20世紀芸術についても、わたしの能力の範囲で述べる。学生にどれ程通じたかは知らぬ。しかし、出来得る限り通じるような平明な言葉の中で述べた。誰か一人位は関心を持ったかも知れぬ。12時過、渡邊(詞)博士論文審査分科会。2度目の会である。佐藤滋、入江正之、古谷誠章各先生出席。13時前了。研究室打合わせ。14時過昼食に出る。新大久保クンメーにて昼食。
16時前了。16時半烏山に戻る。18時世田谷村に戻る。夜、久し振りに電話で磯崎さんと話す。新居に移られたとの事。
-
六月二十二日
8時離床。カラリと晴れたとは言えぬがユルリと晴れている。梅雨が明けてカーンと音のするような陽光が射してくる時が好きだ。大学院のレクチャーで建築と光について学生達に話しているけれど、勿論、講義の内容のような事を切れ目なく日常で考え続けているわけもない。そんな事をしていたら日々のささいなディテールは失くなってしまう。日々の暮しはもっと普通に面白いものなのだ。
若い頃は気取って木枯らしの吹く冬の始まりを好んでいたけれど、今はやはり夏の光を待ち望んでいる頃が好ましい。
-
六月二十二日つづき
唐桑の家プロジェクトは具体的な手がかりを得た。気仙沼市に合併される前の町長であった佐藤和則さんに電話する。我々は佐藤さんをリーダーとして1988年から6年間、唐桑の小鯖湾を舞台に「唐桑臨海劇場」を自力建築して、運営し続けた。それはわたしにとっても研究室にとってもかけがえの無い経験であった。3.11の津波は小鯖の小さな湾岸の全てを呑み尽くし、流失させた。
「臨海劇場」の記憶および、それはそれは美しかった小鯖の記憶は絵葉書プロジェクトに延々と記録し、展開しているので御覧になっていただきたい。
劇場の自力建設の中心メンバーであった、鈴木、梶原、両氏の家、家財全て流された。
我々はその悲しみを共有したいと考えた。我々は東京に居る石山研究室のメンバーである。あの二人は劇場を自分で作れた一員だったのだから、流された家をもう一回自分で作るのは可能ではないかと、単純に考えたのである。勿論、一人では何も出来ない。しかし力を寄せ合えばそれは可能だ。で、ビルディング・トゥギャザーを、日本語で言えば協同の自助建設を試みてみようかの入口に立つ事にした。
プノンペンのひろしまハウスの日本東北三陸海岸唐桑版である。多くの人々の参加を近日中に呼びかけたい。リアルなプログラムを早急に作成し公開する予定である。
先ずは佐藤和則さんから鈴木、梶原両氏に打診して頂く事になった。
もう自力建設を相互扶助でやるしかない。日本国政府に頼るべき者は居ない。
- 525 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十九日 日曜日
昨日、ミーティングで生まれていた三陸海岸・唐桑の家の具体的なイメージが新宿への京王線車中で更に明快になる。鳥取から帰る迄にもう少し整理して、唐桑の佐藤和則さんに相談してみよう。ドイツ・シュツットガルトの力が必要である。連絡を急ぎたい。16時20分天王台駅。16時半過、真栄寺。受付で5000円払う。今日は第1回致孝山真栄寺修道会である。泊まりがけで何やら学習するようだ。講師は信楽峻麿師(龍谷大学元学長)である。20数名の参加者のようだ。開校前に信楽峻麿先生と仏教文化研究所所長ケネス・タナカ氏に紹介される。タナカ氏はアメリカ西海岸で仏教研究をされている。
18時、クオーンと鐘楼の鐘の音がしてどうやら修道会とやらが始まるらしい。18時半勤行「正信念仏偈」了。昭道さん、挨拶「やっと24年目にして修道会を開く事ができた」。どうやら講師は昭道さんの龍谷大学での最初の授業の先生であるらしい。19時前食事。皆の自己紹介の後、19時半、信楽峻麿先生の講義始まる。仏教に関する講義は佐藤健のモノ以外は殆ど初めてである。
只今20時半、信楽先生は親鸞の悪人正機説を説いておられる。鎌倉時代の親鸞の足取りを武家社会の勃興との関連で述べておられる部分は興味深い。話しを聞き終わり、静かな共感があった。日本仏教史学と史学との近接の精神を感じたからである。
しかし先生は親鸞学と呼ぶべきの権威である。わたしには近寄れぬモノも多かった。わたしは親鸞さんには帰依しようとしていないからだ。求道らしきは己を捨てて帰依する自分を投げ出してゆかぬと、どうにもならぬのは知るのである。
しかし、かくなる学問も又、進化しているのを直観的に嗅ぎ取る事はできた。
予定通り22時講義了。いささかの質問らしきをさせていただく。
23時前質疑了。庫裏の台所で先生を交えて、6人程で飲む。
24時過全て了。就寝。清水さんの隣りの床で眠ろうとするも、清水さんのいびきで仲々寝つかれず。モンモンとする。
-
六月二十日
5時、たたき起こされる。寝不足でボーッとしている。今日は一日大変だなあ。真栄寺境内の掃除を皆で。5時半迄。朝の読経。皆さん読経に慣れた方々ばかりで、読経のハーモニーは仲々のものだ。わたしも、モゴモゴと真似事。しかし全然、読経の調べの中には入ってゆけぬ。音程その他が狂っている。
6時、イモがゆの朝食。6時半了。小休。7時再び信楽先生の講義始まる。先生は85才であるが、頭脳明晰、かくしゃくとしておられる。
7時45分、講義の途中で抜ける。真栄寺の長男に天王台駅まで送ってもらう。天王台より日暮里、浜松町を経て、10時前、羽田空港着。メモを記し、今10時半である。11時村松さん、松川さんと共に鳥取へ飛ぶ。12時15分鳥取空港着。木谷さん、竹中工務店広島支店の方々と会う。車で鳥取市内へ、昼食をとり、13時40分尾崎呉服店、着。審査。
竹中工務店広島支店設計の尾崎呉服店は小規模ながら複雑な構成の複合建築である。保存された都市内別荘風の数寄屋、そして蔵、改築された住居、書庫、新築の呉服店、質屋、ギャラリー部。最も重要な中庭部の構成になっている。わたしは見学前から最も重要なのは中庭部分の出来だろうと考えていたが、これは残念ながら期待外れであった。
しかし、これは設計者の意図、クライアントの意図と、勝手な目星をつけてきたわたしの考えの相違である。保存修復された数寄屋は素晴しい。特にディテールの奇想がいかにも数寄である。装飾性の勝った数寄屋か。テクスチャーの妙も軽やかである。書庫、子供部屋のデザインはモダーンで適正なものだ。クライアントの好みが良く表われている。総じて、オーナーの尾崎さんの好みが良く表われている部分の出来が出色である。
先代の尾崎悌之助は鳥取を離れず、しかも広く世界の芸術を愛した名画家である。その好みが表われた寝室、他の装飾性が最も重要であろうか。尾崎悌之助のおおらかな奇想、自由闊達が表現されている部分はとても面白い。現代建築への意味も充二分にあるところだ。小さな通りに面した商店部分、書庫部分は極めて標準的な水準のデザインである。部分的にスタッコ仕上げが施されているところ等はクライアントの好みが良く表現されていた。しかし、当然の事ながら、商店3階部の尾崎悌之助作品常設ギャラリーで接する事が出来た、幾つかの絵画は実に新鮮で素晴しいモノであった。
この鳥取を離れなかった画家については少し勉強してみたい。
14時40分了。村松さん、木谷さんと県庁へ。三代目上田左官職に再会。わたしのワイマール・バウハウス展のゲーテチェアの、ゲーテ像を鏝絵で製作してくれた左官職である。他に鳥取の左官業組合の方々。
鳥取県知事にお目にかかる。一、二の提案をする。アトは木谷さんがまとめてくれるだろう。
15時40分尾崎呉服店に戻る。木谷さんの鳥取民藝美術館他を見て、17時過鳥取空港。レストランで一服し、18時20分発羽田行で東京へ。19時30分東京着。村松さん、松川さんとお別れして、浜松町、東京、新宿を経て、21時半前世田谷村に戻り、すぐに横になる。尾崎家の方々より、いただいた『画筆を捨てず』尾崎悌之助今井書店、を読みふける。
鳥取民藝美術館の吉田璋也も又然り、鳥取には大事な人物が居るのを知る。
-
六月二十一日
6時前離床。昨夜は尾崎悌之助『画筆を捨てず』を読みながらいつの間にか眠った。日曜日、月曜日と忙しい日々であったが、忙しいなりに充実していた。あわただしくメモを記し、手を入れ7時小休。このメモを記録するのも、それなりのエネルギーを要する。
- 525 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十七日
9時半世田谷村発。10時半研究室。10時40分大学院レクチャー。イギリス型ハイテク建築。J・パクストンからノーマン・フォスター、セインズベリー視覚芸術センター迄。12時了。研究室打合わせ。16時前迄。小休。
いささか長い17日の前半の日記を読み直す。恐らくは随分と大事な事に気付かされているのだと知る。設計者の家は棲み手によってさなぎから蝶へと脱皮される事がある。生きられた家の論理立てではない。鈴木邸を初めて訪ねたのは安藤忠雄さんが東大教授に着任した時で、それで押しかけた。確かに三宅一生さんも一緒だった。
あれから何年の歳月が流れたのか。今ようやく鈴木邸は夫妻とネコによって何だか別種のモノへと棲み変えられつつあるようだ。モダニズムの家が棲み手によって、別種の次元へと明らかに有機化(うまい言葉がまだ発見出来ない)されている。住宅設計論は今やそれ程の意味は持ち得ない。しかし、この辺りのニュアンスにはまだ考える余白がありそうだ。
18時研究室を発つ。烏山でひと仕事して20時前世田谷村に戻る。夜、石山研シュツットガルト展に新しくつけ加えるプロジェクトを考える。ワイマールのバウハウス大学とシュツットガルトではまるで都市の趣が異なる。ワイマールはドイツでも特異な場所だ。あの小さな盆地状の場所、中心に大きな墓所の森を抱え込むゆるやかな凹地が、ワイマール文化を生み出したのは間違いない。シュツットガルトはポルシェの工場他がある工業都市である。石山研のワイマール・バウハウス大学展はワイマールに対して考えられていた。少しの修正が必要であろう。
-
六月十八日
5時半離床。メモを記す。10時前世田谷村発。烏山区民センター前の広場へ。30名程の人々がオレンジ色のハンカチ風を首に巻きつけて、張り切ったおばはんインストラクターに従って、どうやら実に変テコリンな身振り、手振り、足振りまわしたりをしていた。何をしてるんだと、しばらく見ていて、ようやくラジオ体操なのを知る。年寄りが多いのでブリキの人形体操みたいだ。中国や台湾の朝の街角や公園の中で太極拳の型を、まさに気の流れの如くにゆっくり踊るが如くの姿を随分見た事があるが、アレとはだいぶ違う光景だ。ギシギシとぎこち無い。日本的市民はまだ都市の広場になじんでいない。
フト見れば知り合いの原口さんも何かギコチなく動いている。
「何やってんだ?」
「何やってんだと、言われたってホラ、体操です」
「ヨセ、みっともないぞ。恥を知れ」
「・・・・・・・・・・・」
更に見廻すと、デカイ腹をゆすって小川クンも又、手足をピョコピョコ動かしているではないか。原口さんに、
「小川から来いって言われたんだろ」
「ハーイ、人力車にも乗れって、300円で初乗りしてくれって」
「他にも、何か売りつけられたか」
「ハーイ、テレカも少々、今時テレフォンカード全く必要ないんですけど」
インストラクターのオバンの前を通り過ぎて、小川クンのところへ。
「オマエ、何やってんだ。妙なモノ、首に巻いちゃって、いい年してガールスカウトじゃあるまいし」
「もうすぐ、品川から人力車くるよ。レンタカー借りてな。1万5千円かかった」
危い、何か寄附しろとか、言われそうだと気付き、すぐに小川クンから離れる。ホント、油断もスキも無い男だ。
11時半研究室。渡邊(詞)の博士論文仕上がりをチェック。審査分科会で先生方から指摘された点をうまく修正して、仲々良い仕上がりになっていた。ロスアンジェルスのアフォーダブル住宅建設の可能性についての論文である。これからの日本への多民族流入、格差社会の現実に対面するに、とても良い研究になった。
渡邊(詞)は一皮むけたな、この数週間で、嬉しい事だ。
12時了。柴田より「世田谷式生活・学校」の進行状況を聞く。良くやっている。その後、気仙沼、唐桑の打合わせ。気仙沼の臼井さん、唐桑の佐藤さんと連絡する。リアルタイムで色々な事が動いている。
この空気をどうスタッフが感じ取るか、それを感得する大きな機会だが、さてどうなるか。日々、刻々と育つのだよこんな時には人間は。それが、膨大な被災者の皆さんに対する責務だ。最良の、それ故に最も厳しいフィールドに立っているのを知りなさい。
15時、学部3年生設計製図公開講評会。今年も、この少年少女達がどのように大人になっていってくれるのか楽しみである。設計製図は早稲田建築教育の中枢であるのを若い先生方も腹の底に秘められたい。
それだけだ。中川武先生も今年は少し心配された様で冒頭出席された。
18時、中途退席する。新宿で佐藤(研)と相談。21時了。22時過世田谷村に戻る。
-
六月十九日 日曜日
6時前離床。そういえば今日は日曜日であった。白足袋がかしこまってわたしの方を視つめている。何を考えているのか?恐らく何も考えてはいないのだろうが、実のところは解りようが無いのである。白足袋はわたしにはあんまり懐いていない。猫は人には懐かぬものだとよく言われるが、家人には明らかにわたしよりは懐いているようだ。つまり、こいつは人を視ている。身の廻りの人間を明らかに差別しているのである。
身の廻りの人間といってもほぼ3名のみである。それを上中下と三分割して差別している。白足袋の基準は1にエサを与える人かどうか、2に遊んでもらえるかどうか、それだけで決められている。わたしはエサもやらないし、遊んでもやらないし、彼の便所の片付けもしてやらない。それ故カーストとしたらアンタッチャブル、不可触賤民のポジションになるのは当然である。
それで世田谷村には妙な格差社会が出現してしまったのである。わたしはこの村では実に言葉少く、卑屈に生きているのである。恐らくこの日記(メモ)が長々しく持続しているのはそのストレスである。
8時半、屋上に上りゴーヤのためのネットを垂れ下げる。薄日射すが曇天、九州地方は大雨の連続である。
15時前世田谷村発、我孫子・真栄寺へ向う。
- 524 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十六日
昼過、世田谷村発。千歳烏山駅で人身事故があり、小型消防車、救急車等がサイレンを鳴らして駆けつけている。集団としての人間は浅ましくも残酷なもので、ほとんどの人間がギラギラした眼で事故現場をのぞこうと踏切内に押し合っている。
アッケラカンと笑っている女学生もいる。独り独りの人間の気持の中では見知らぬ他人の死を哀しむ事があっても、集団になるとそれが表現されない。
好奇心ギラリの猿になるのだ。解り切った事だがそんな人間達の一人に尋ねてみる。「何があったんですか」初老の男が生き生きとして答える。「飛び込みですよ。ホラ、あんな処まで引きずられていったんだ。ホラ、人間視えるでしょ」連れ合いなのだろう、女性が、「見ていたような事言って、ただの想像ですよ」と冷静だ。
以前、気仙沼、唐桑に通いつめていた頃。大船渡線の一ノ関で投身自殺にでくわした。車輛の一番前に座っていたら、トンネル内でドスンと大きな音がして電車が急停止した。小さな運転席をのぞいたら、運転士さんが真っ青な顔をして、ブルブル震えていた、「どうしたんだ」「いきなり人が両手を挙げて立ち塞がったんです。電車を止めるみたいに。ブレーキかけても、とても間に合わなかった」「大丈夫ですか?」「大丈夫じゃありません。お客さん申し訳ないけど、しばらく話し相手してくれませんか。これから一人じゃとても運転できそうにありません」「代りの人は来ないのですか」「代りは送れないそうです。一ノ関迄わたしがやらなければなりません」「そうですか、わたしで良ければ、脇に居てあげますよ。何の役にも立たないけれど、それ位はできます」「お願いします」
そうして、わたしと運転手はしばらく二人で声を掛け合い、協力して電車を動かした。
そんな事もあった。
どうしても、何もかもが気仙沼・唐桑の記憶へと連結されてゆく。
絶版書房通信を書く。『定家明月記私抄』堀田善衛、についての雑感である。アニミズム紀行の先を描いている。
18時前、東上線ときわ台駅で難波和彦さんを待つ。
18時15分難波さんと落ち合い、常盤台の閑静な住宅街のゆるい坂を歩く。鈴木博之邸到着。今日はXゼミミーティングを鈴木邸で行う事になった。鈴木邸のその後を視てみたいと考えたからである。家の周囲の緑がたっぷりと育ち、植物との共生が良い。世田谷村の放逸さと対極である。
キチンと緑のメンテナンスがなされているのを知る。玄関アプローチの道路側のネットには黄色のバラの花のツルがビッシリ張り巡らされている。緑も全てがキチンとしているところがいかにも鈴木さんらしい。植木屋も定期的に入っているのであろう。
最近の世田谷村の樹木を見て、「あんたの処の庭は熊谷守一の庭だな」と言った意味が良く解った。要するにほったらかしの非人工を言いたかったのだろう。残念ながら黄色のバラはすでに散っていた。
来年の連休には黄色いバラの壁を見にくる事にしよう。
内部もキチンと整理されていて、これ又、世田谷村とは正反対である。猫のグラにもあった。世田谷村の白足袋より少し小さいが腹がだいぶんたるんでいる。ぜいたくをさせ過ぎているのではないか。椅子の上に飛び乗るのもヨイコラショの感じである。
キノコソバをいただき、ゼミは結局雑談になってしまった。雑談は多岐にわたった。又、来週にしようとなり、20時了。鈴木令夫人にお別れを述べて去る。
池袋を経て新宿で難波さんと別れる。21時過世田谷村に戻る。家も庭も時間が経つと人となりを表現するな。
世田谷村は内も外も荒野だな。ハラッパである。モヘンジョダロではなくってハラッパです。下らん洒落を垂らさずに反省せよと天の声がする。
-
六月十七日
6時半離床。小雨、肌寒い。昨夕の鈴木博之邸訪問は実に興味深かった。家は棲み手が作るものだというのを本能的に知らされた。
鈴木さんは今本格的な庭園論に取り組んでいるらしい。小川治平衞の庭を考え続けているのは知っているが、それが彼の家にどう反映するのかに関心があった。史学者は認識者の極みである。しかし鈴木さんは現代建築の行方にも深い関心を持ち続けてもいる。それは保存と再生の可能性という形でも表現されている。そこのところが一筋縄ではいかぬのだが・・・。
それはさておき、鈴木家の庭の樹木の刈り込み方は彼の近代和風庭園論に近いのであった。品格が無くなる前の状態まで人工的に刈り込まれているのであった。幾何学になる前の状態である。樹木は大きく育ち、モダーンな設計の家の姿を隠してしまう迄になっている。又、ひさしの無かった家には金属製のきゃしゃなフレームが新しく付けられており植物のツルをからませる準備に入っていた。今、流行のゴーヤではなく、恐らく他の種類のツルを考えているのだろう。屋上でこっそり何か植物らしきを育てているのをわたしは風の噂で知っているのだが、何を育てているのかわたしの家みたいに喰べられるモノをというさもしさは無いだろう。
昔、西早稲田にわたしが勝手に白骨邸と呼んでいた住宅があった。家の外を狂おしい程に白いフレームでおおい尽し、そのフレームに赤バラのツルをからませていた。赤いバラにおおい尽された家は赤バラの丘の如くになり、まさに住人は赤バラの生霊かと思わせる程であった。2階にテラスがあって、そのテラスに姿を見せた住人は白衣を身につけ、額に眼帯鏡をつけた医者であった。もう、それだけで一遍の小説を読んでいる如きの高みに駆け上るのであった。
鈴木家の玄関まわりの壁は家をおおい尽す程の黄色のバラ。何故黄色なのか。意識家の鈴木であるから、当然何かの意味がある。あるいはフランス美術史の夫人の考えでもあったのか。何故、黄色のバラであるのか。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の良き読者である鈴木の事だから、自邸と書庫を修道院の図書館に見立てて、それで黄色のバラなのかも知れない。
書物と関係がありそうだ。まさか、ジョン・ウエインの「黄色いリボン」ではあるまい。
又、山田洋次の「黄色いハンカチ」でもあり得ない。ナルシスの「黄色い水仙」である訳でもない。と謎は深まるばかりなのである。
イギリス文化を深く愛する鈴木博之の事だから、女王陛下のバラ好みと何か関係もありそうだ。
女王陛下は伝統的に英国王立園芸協会の総裁であるし、英国王立バラ協会というのがあって、その会長でありや無しや。
しかし、何かで覚えているな。女王陛下が黄色いバラを身につけていた、そんな記憶が無いわけではない。
恐らく、そのあたりであろうか。
しかし、藤森照信の家のタンポポといい、鈴木博之宅の黄色のバラといい、建築史家は黄色い花が好きなようだ。
- 523 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十五日
9時45分世田谷村発。11時前京浜急行新馬場より歩いて品川宿交流館。しばらくして堀江新三さん現われる。7月10日の「世田谷式生活・学校」の件打合わせ。続いて、「絵葉書プロジェクト」安藤忠雄さんより依頼のあった「桃・柿育英会」の件依頼。
12時了。品川経由で研究室着13時。雑用その他。14時半北園、加藤両先生来室。14時40分スタジオGへ。このスタジオは大学院学部生を含めて早大建築学科の最高の水準のスタジオである。我々教師陣も情熱、エネルギーを注いでいる。15時中川武先生、演習Gへのレクチャー。「保存の文化、あるいは文化の保存」とでも呼ぶべき、高度なレクチャーであった。保存という文化的価値(意味)を広く説かれた。
中川武先生はライフワークとしてカンボジア・アンコールワットの遺跡保存に取組まれており、その体験を踏まえたレクチャーをしていただいた。気持ちが入っていた。16時15分中川先生レクチャー終了。すぐにスタジオGの参加学生のスタディー途中経過の中間発表。
何人かの今時点でクリティークの対象としてとるに足ると考えられるモノの発表と若干のクリティークを始める。今年は大学院生のWORKに見るべきモノ、考えるに足るモノが出現して、わたしも気持及び思考はいささか高揚せざるを得ない。高いポテンシャルを持つ思考者が出現する事によってドングリ状の院生他のレベルは引き上げられるものである。そう信じたい。
17時過東品川へ向けて、Gスタジオを抜ける。渡邊(大)、佐藤(研)同行。北園、加藤両先生に残りは任せた。地下鉄で渋谷経由品川へ。TAXIで東品川の運河沿いに今日オープンしたZEALのレストランのパーティーへ。入口で堀江新三さんに会う。様々な人に紹介される。品川区での堀江さんの実力を見せつけられる。向風学校・安西直紀さん来る。屋根なしの平船に乗って風に吹かれて運河巡り。バルセロナ港の船巡りを思い出したが、バルセロナよりはズーッと良い。水門や橋、そして火力発電所の巨大煙突などのドライで荒々しい光景と水の柔らかさが何とも言えぬ調和を見せていて、四角くなりがちな心が解放されるのである。20時頃了。堀江さんと別れて、天王洲アイル駅へ。空腹となり、飯だ飯だとなり、東京駅に向うも知り合いの店は満員であった。少しは客足が持ち直してきたのだろう。喜ばしい事だと、新宿へ。変り映えもせずに味王へ。話しが弾み、22時過了。安西さん等と別れ、烏山へ。23時過世田谷村に戻る。
-
六月十六日
7時半離床。今日は少しゆっくりとしたい。昨日の堀江さんとの話しで品川の方から目黒区へ話しをつけてくれる事になった。何とか世田谷、目黒、品川を連結できると良いのだが、どうなりますやら。小川君と連絡。何やら考えて動いているようだ。小手打ちの小川の面目である。
9時半、明日の大学院レクチャーのシノプシス作り終え、研究室に送附する。
- 522 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十四日
10時半研究室。10時40分学部レクチャー、12時前了。研究室打合わせ。気仙沼送附の図面等、佐藤(研)と。気仙沼・臼井氏より1991年のロンドン・ジャパン・フェスティバル、V&Aミュージアム、ハイドパークへ出演した気仙沼八幡太鼓の子供達の写真が送られてきた。ハイドパークには10万人の人々が集まったのだが、その記録は今、気仙沼にとって大変に貴重なものになったと考える。絵葉書プロジェクトの前半の華として編集したいので、小倉に依頼する。柴田は昨日は芦花公園商店街を巡ったらしい。思いっ切り苦労しているようだ。「世田谷式生活・学校」の協賛金集めは苦労するだろう。
手紙を書いたり、他の雑用16時了。小休する。
17時研究室発。18時前神田宮崎料理「岩戸」。馬場昭道、大住広人両氏と会食。
二人に「絵葉書プロジェクト」、「気仙沼安波山計画」の経過を説明。大住さんは70才になって死を想うようになったと語る。笑わせるぜと僧侶とわたしがせせら笑うのであった。大住氏大いに喰べ、かつ飲む。だから新聞記者あがりは品が無いのである。何が死が恐いだ、痛そうだからだって。てやんでーと別れて帰った。20時45分、又会えると良いな。
22時前世田谷村に戻る。わたしも満腹である。宮崎料理はクセが無いので腹にすべり込むのである。
-
六月十五日
7時半離床。昨夜の大住広人さんの「絵葉書プロジェクト」へのアドヴァイスは参考になる。要するにカラー写真よりも手描きの絵の写真、あるいは白黒の写真の方が感に入るぞ、ズーッと感じが良いと言った。元新聞記者の意見は鋭い時がある。早速検討したい。先ずはわたしが絵を計画案等を描く事だ。皆にも描かせよう。いいモノはどんどん絵葉書にしたい。
今朝は品川宿の堀江新三さんに会うので、そうはゆっくり出来ない。でも朝メシだけはキチンと喰べよう。昨日は朝昼抜いてしまって、やはり良くない。
- 521 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十三日
東京駅着、9時半前、村松映一さん、竹中工務店設計部マネージャー桑原さんと会う。桑原さんとは昨年の、この審査会で仙台でお目にかかった。
10時45分発福島迄村松さんとおしゃべりする。色々と参考になる。12時45分福島着。竹中工務店東北支店・葛和久さんに会う。TAXIで創業明治23年、隠れ里御山角屋へ。
4名で昼食。雑談、東北のこれから等について。14時了。再びTAXIで、400年の歴史を持つ曹洞宗寺院、長楽寺座禅堂を訪ねる。
去年、同じ竹中工務店設計部の作品である関西の寺院を見学したが、どうしてもそれが眼に残っていて、比較してしまうのであった。
あの作品はいかにも竹中工務店らしい手練れの設計であった。それを良くないという審査員もいたが、やはり設計施工を旨とする日本独自の大組織体としては、それは未来への径なのだと考えて、わたしは、わたしの好みとは全く異なるけれども、押した。同じ竹中工務店のこの東北の小寺は、うまくバランス良い作品であるのだが、設計施工の、それこそ日本の有意味なゼネコン設計部の価値が少々、薄味に表現されていたのであった。設計施工の利が内部仕上げに於いて少なからず不充分さを呈しているように思う。禅堂に於いて僧が対面する壁は最も重要な壁で、その仕上げが少々安易であった。2階の主階である禅堂よりも、むしろ1階の多目的なサロン風の部屋が良かった。境内の緑、他の環境と上手に溶融している。しかし、その1階の床の仕上げ、周りの小テラスの素材選びは、竹中工務店らしからぬところがあり残念なものであった。資材職人調達他は設計施工ではお手のモノの筈である。いささかもの足りなかった。しかし、帰りがけに駐車場側から眺めた長手のエレベーションは設計者達の意欲が瑞々しく伝わってきて、生垣の緑の上に無窓の白い座禅堂が浮く光景は見事であった。
早稲田建築学科では3年生の第4課題を一昨年、竹中工務店の設計部長、及び当時副社長であった村松映一氏と共に、学生に課した。その際に彼等の多大な建築への情熱、要するに大棟梁、匠の伝統を背負った、設計施工者の意気地を実感したのであったが、この小建築にはそれが充分には表現され切っていなかった。わたしは、基本的には設計施工は日本の前近代からの伝統を継承した形式であり、世界的な視野から考えても巨大な中国の建設マーケットを考慮に入れても充二分以上の可能性があると考えるに至っている。しかし、それは大分昔の、設計施工を挙すという論とは異なるのである。日本の建築生産の伝統の接続を考えの中に包含しているのである。念の為にモノ申す。
14時40分見学了。14時50分過福島駅へ。15時05分のやまびこで東京へ向け発つ。帰りも2時間、村松さんの興味深い話をうかがった。
17時過東京駅着。お別れして、新宿経由京王線烏山へ。18時半烏山。広島お好み焼き屋で一服して、19時過世田谷村に戻る。研究室に連絡して、東北のWORKのスピードを少し速めるように指示する。今日は福島で、福島なりの空気を感得した。TAXIの運転手さんの話は大変参考になった。6月20日は鳥取に行くので、鳥取の方々にも会えると嬉しい。
わたしの世田谷村近くの定番になりつつあるメシ屋は、一にそば屋宗柳、二にラーメン屋長崎屋(ここは中華食堂と名乗っているが、やっぱりラーメン屋だ。ちなみに、伊豆松崎町の友人達はこの店はヨセと言っている。健康に良くないと言うのである。たしかに油が良くない。が、オジンとオバンの人柄が良いのだ)、そして三、広島お好み焼き屋になってしまった。以前はイタメシ屋とか何とか屋とか、焼肉大昌苑とか、ネパール料理とか色々あったのだが、面倒臭くなって、今はこの3店のみ。シンプルになった。
この広島お好み焼き屋は、一番情が通わぬ処で、それが良い。客も好みではなく、全く会話が発生しようがないのが、ハンフリー・ボガードである。しかし、健康にはこの店は宗柳と並んでよろしいようだ。店の元気の良い兄ちゃんもそう言っている。何しろ素材を鉄板で焼くだけだからシンプル。わたしの場合マヨネーズは全て拒否しているし、中華メンもイランと最近は言い切っている。トマトでもモヤシでもゴーヤでも、ただ鉄板で焼くだけなのである。しかし、バーベキューではない。
又、客層も客単価も実にマチマチ、チグハグなのが良い。18才くらいの少年少女から75才〜80才のジイさんバアさん迄。少年少女たちは1000円以内、中年は3000円くらいか。いずれにしても安い。宗柳はいささか高い。長崎屋は、実に安い。言うのもはばかる程だ。その位の巾の中で近くでは小じんまりとひっそりと暮している。勿論、大半は家で食しているのではあるが。
24時就寝。
-
六月十四日
7時離床。曇天だが雨は落ちていない。薄暗い曇天である。
今日は夕刻、馬場昭道、大住広人等に会う予定。絵葉書プロジェクトのコンセプトはやはりコミュニケーションだろう。買っていただいた絵葉書が多く使用されて沢山の人に気仙沼、唐桑の記憶が伝えられれば、と思う。
- 520 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月十日
10時半研究室。10時40分大学院レクチャー、「光と建築」第3講。ルイス・カーン、ブリティッシュアートセンター(ニューヘブン)。振り返って考えてみてもこの建築の光との遭遇は刺激的なものだった。こんな光の状態を考えられるのはやはりジューイッシュしかあり得ないのではないかとさえ考え込んだのをまだ鮮明に憶えている。12時了。打合わせをこなす。「世田谷式生活・学校」の運営は苦闘しそうだ。15時、時間がポッカリ空いたので『アニミズム紀行6』7冊にドローイングを描き込む。このドローイングは我ながら気に入っているので大判の紙に描いてみようかと考える。
日経連載コラムの筋道を考えるが、途方に暮れるばかりだ。様々な連絡をすまして、16時研究室を発つ。17時前京王稲田堤、至誠館なしのはな保育園、至誠館さくら乳児院着。近藤理事長にお目にかかる。屋上から、一階まで見て廻る。保育園はほぼ定員通り、乳児院は少しづつ乳児が暮し始めている。園庭の緑が気持よい。
理事長と夕食へ。様々な話しが弾んだ。19時半了。京王稲田堤でお別れ。20時過世田谷村に戻る。読書しながら眠り込む。近藤理事長の事業はすでに川崎市ではトップ級になり都内進出を考えようかと意欲的であった。世田谷式生活・学校にお誘いしようかと秘かに考えた。川崎市人口144万人、世田谷区88万人である。
12時前目覚めて、メモを記す。01時過小休。深夜TVでボーッと日本女子陸上を眺めている。どうやらうまく眠れそうにないな今夜は。眠れぬまんまに、日経のコラムを一本書いた。03時10分了。頭が冴えて、更に眠れそうにないけれど、横になってみるか。
-
六月十一日
7時半離床。典型的な梅雨の天気。家の中が少しジットリしている。コンピューターで村上春樹のカタルーニャ・バルセロナでのスピーチの全文を読んだ。村上は小説作家の仕事を科学技術の「効率」に対する「非現実的な夢想家」としてハッキリと打ち出している。
日本の大震災、津波によって破壊された原子力発電所の事故をヒロシマ、ナガサキの第二の核爆発としてとらえ、それをつまり原子力発電の効率を認めてきた我々の非を指摘している。
「非現実的な夢想」の共有こそが、原子力の平和利用という「効率」への唯一の対抗手段であると述べている。
このスピーチはカタルーニャ・バルセロナでなされてたスピーチとして最良なものの一つであろう。
カタルーニャこそ「非現実的な夢想」の王国であるからだ。
スペイン市民戦争、そしてピカソ、ミロ、ダリ、カザルスという芸術の巨人の輩出、アントニオ・ガウディの建築。それ等は皆「非現実的な夢想」の自覚の涯に生み出されたものであり、物語りであった。
わたしは村上春樹の小説はどうも好きになれないままである。
しかし、過日なされたエルサレムでのスピーチ、そして今度のカタルーニャでのスピーチは共に心を揺さぶられる力がある。村上春樹のスピーチは時と場所を計算し尽くした社会性の結晶になり得ている。
本能的に時と場所に受容的であろうとする、それこそ彼のスピーチの基軸になっている無常観の表現たり得ていると考えた。
-
11時半研究室。アニミズム紀行5、6のドローイング。中版の画用紙に気仙沼安波山計画ドローイング。北海道十勝ヘレン・ケラー記念塔増築計画ドローイング。15時半迄続ける。空腹になり、渡邊(大)、佐藤(拓)とクンメーへ。タイ風スキ焼鍋を喰べる。ただの薄味の野菜鍋であった。羽黒山の帰りにイオンで喰べてしまったイオン風ヤス焼きならうスキヤキ風を思い出す。
どうも世の中全般に薄味が広まっているようだ。故郷の備前矢田でオジイさんオバアさんと喰べていた頃、しょうゆ味コッテリ、砂糖ブチ込み、玉子ドボドボのスキ焼きが懐かしい。18時了。研究室に戻る彼等と別れて烏山へ。長崎屋ラーメン食堂に「世田谷式生活・学校」第二回のチラシを30枚程置いて帰る。Mさんが居たのでS区議にも参加他を頼む。
20時前世田谷村に戻る。
-
六月十二日 日曜日
6時半離床。10時半日経コラム2本目書き終る。連載が始る前に幾本かストックしておかぬと乗り切れぬの予感がある。向風学校・安西直紀と話す。日中の未来を考える会を立ち上げたいとの事だった。
昼過ぎ宗柳、長崎屋を廻り「世田谷式生活・学校」のチラシを置く。ソバとラーメンのハシゴである。マ、仕方ないだろう。世田谷村でゴロゴロしているよりはマシだ。
15時世田谷村に戻り、ゴロリ。18時再び日経コラム3本目い挑むも書けずに19時小休。
-
六月十三日
7時離床。新聞を取りに降りるも郵便受けは空っぽ。今日は新聞は休刊であった。
今日は福島行である。出発迄少しばかり時間があるので、日経コラムに再挑戦。8時半3本目を書き終える、書ける時は書けるのだ。
急いでメシを喰う。9時過発、東京駅へ。
- 519 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月九日
9時半世田谷村発。京王線八幡山よりバスで長徳寺へ。10時半長徳寺竹柴住職に6月5日の「世田谷式生活・学校」開催会場提供のお礼のあいさつ。「盛況でしたね」のねぎらいをいただく。
11時半長徳寺去る。近くの真言宗豊山派、幽谿山密蔵院観音寺に寄ってみる。石山の家の宗派であり、気になっていた。大寺である。小石川護国寺の末寺であるようだ。多くの保存樹が境内にあり、本尊は不動明王のようだ。不動さんには今興味があるのだが、今日はお目にかかる時間がない。
桜上水まで歩き、新宿を経て13時前研究室。いささかの打合わせ。
15時過、北海道帯広、全国視覚障害者情報提供施設協会・副理事長後藤健市さん来室。ヘレンケラー記念塔のクライアントである。食文化の分野で活躍している。いくつかの相談。「世田谷式生活・学校」で構想しているクリーンエネルギー、世田谷グランドバザールへの協力を依頼する。他、諸々の相談。ヘレンケラー塔(星山荘)の増築計画も相談。17時了。
佐藤(研)、柴田と打合わせ。今日、入った情報を伝え対応できるように情報の整理。18時了。研究室を去る。19時前烏山。商店街まちづくり協議会長事務所を訪ねるも空振り。明日に出直す。長崎屋に寄るも満員で、おばんにおじんの容態を尋ねる。入院10日だそうだ。
広島お好み焼き屋で一服。今日は家人が仕事で夕食は外食せよの命令である。20時過世田谷村に食べ切れなかったお好み焼きを持ち帰る。
絵葉書プロジェクトの展開コンセプトを考える。明日の大学院レクチャーのいささかの予習。
-
六月十日
寝過して、8時半離床。昨日、ひょんな事で毎日新聞の萩尾記者と話した。岩手県の被災地に居ると言う。一年間棲み着いて連載記事を本社に送り出すそうだ。仲々やるなあと考えた。被災地に棲み着くという発想が良い。萩尾記者は佐藤健の最期迄病院でみとり、その口述の聞き書きを続けた人である。遊軍記者の伝統をかろうじて守っている。
健闘を祈りたい。
9時半世田谷村発研究室へ。
- 518 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月八日
9時過世田谷村発。10時過研究室着。佐藤(研)に依頼していた気仙沼・安波山計画の平面図作図を見る。大方良し。他に幾つかのヴィジュアルマテリアルの製作をたのむ。やがて気仙沼市より依頼していた航空写真が速達で到着。震災後のものである。
12時半階段教室、ロビーで自著本にサインをしている安藤忠雄さんのところへ。今日は早稲田での講演会である。古谷先生がアレンジした。凄いスピードでサインをしている安藤さんと、それでもキチンと密談する。気仙沼再生の件である。作成したばかりの図面他を渡す。
こうやって大勢の人の前でする密談は完全に密談として成立するのである。学生達は何を話しているのか全く関心がない。30分程で用件を果す。
それにしても安藤人気というモノは相変わらず凄いモノだ。安藤本の売れ行きの現場と、サインを悪びれずに大速力でやってのける技は呆気にとられる程だ。遂に別次元に踏み込んだな安藤さんは。鈴木博之先生が安藤忠雄を遊行聖、一遍上人に例えたが、その通りである。被災地救済の金集めの箱を脇に、売れに売れる安藤本の印税も又、義援金に当てるようだ。アッケラカンとして笑える位にお見事である。
でも、群れ集る学生達の誰一人として安藤忠雄にはなれないのも又余りにも自明な事ではある。だって学生として大学教育の枠の中に入ってしまったのだから。枠の外でたった一人でトレーニングする勇気はすでに無いのだから。別の径を歩かなくてはならないのである、第2の安藤になりたい学生は。しかし、それは限りなく不可能に近い。
13時別れる。
研究室に戻り、WORK。14時渡邊(大)、佐藤(研)と気仙沼の件で打合わせ。それぞれの担当他を決める。
14時半北園、加藤両先生来室するも打合わせ続行。何も秘密にする必要はない。
15時前、地下スタジオへ。演習G。わたしは6人のXグループの個人指導。渡邊助教を含めた他の3先生はYグループの個人指導。
仲々、皆良くやっている。
18時前了。研究室に戻る。
北園、加藤両先生と地下鉄で南新宿味王へ。19時会食、相談。20時半了。別れて世田谷村に戻る。深夜迄読書。
-
六月九日
4時過離床。メモ他を記す。5時過一段落。今日は世田谷DAYにする。世田谷式生活・学校の下支えのために動く。昨日、安藤忠雄さんの勧進聖の実力振りを目の当りにして、これは敵わないなと思いつつ、馬鹿者なので俺もやるぞーと思ったのでした。本当にバカだ。これはしかし死ななきゃ直らないのである。
昨日、渡邊(大)、佐藤(研)に絵葉書プロジェクトの基本的コンセプトを考えるように指示した。又、今秋の石山研のドイツ巡回展、シュツットガルト展の新しい目玉を、大震災、大津波、原発破壊、風評被害からの再生のフレーム内で考えるようにともに指示した。
絵葉書プロジェクトは更に展開させる事の中でその意味を再吟味すべきであろう。実行しながら考え続けたい。
6時前、小休する。
- 517 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月七日
9時過世田谷村発、10時過研究室。雑用、10時40分学部レクチャー、12時了。気仙沼・唐桑の件に次いで5日の「世田谷式生活・学校」の問題点等を討議。
13時半博士課程学生打合わせ。14時過、柴田君と共にりんかい線ビッグサイトへ。ビッグサイトとは良くつけた名だ。デザインも大まかで荒々しく、まさに米国中西部の都市の雰囲気である。ビル風が強く、歩きにくい。15時頃健康機器フェアー会場着。長澤社長のGSDコーナーに向う。
フェアーには沢山のメーカーがそれぞれの新商品、商品をマーケットに押し出そうと一生懸命だ。会場を一廻りするに、これは玉石混淆である。水関連、地場ベンチャー等の努力作、珍品が入り乱れている。いかにも怪し気なモノも少なくないが、それだからこそ活気もあるのだろう。
GSDのマイナスイオン発生機は空気ビジネスに属しようか。水と空気が有料になって資本主義は新しい局面に入ったという識者もいるが、大震災、津波後は津波の光景にも似ている。時代は災害の光景をなぞろうとするのか。
NPO・小さなアリの手の方々に紹介されたり、柴田君は会場に「世田谷式生活・学校」のチラシを配ったりの暴挙と言うか、勇気ある無駄をトライしたりである。長澤さんより、スイス、イギリス、カナダの混成チームの日本へのシベリア材角材ログハウスの売り込みチームに会わされる。
皆、今大災害を機に日本市場に乗り込もうとする人々である。いかがわしくはないが、誠に荒っポイ。
17時半会場を去る。柴田君と東京駅八重洲へ。18時半過ぎ「小樽」着。清水店主と会い雑談。柴田君は35才の特異なキャリアを持つ人材だが、年をくっている割には汚れていない。逆に言えば現実社会のやり取りにはうとい。「世田谷式生活・学校」のこれからを相談する。20時頃食事了。去る。研究室に戻る柴田君と別れ新宿を経て世田谷村へ戻る。21時半着。読書他。24時横になる。
-
六月八日
6時半過離床。メモを記す。再び梅雨空。流石に産経、東京新聞求めての散歩には出ず。昨夜の読書を振り返る。新聞もTVも大震災、そして政局の高揚感が引き潮になり始めているのを感じさせる。こんな時に自分も引いていってしまっては大変だ。津波と同様に(体験したわけではないが)引き潮のエネルギーの方が凄まじいモノがあると言うから、これに流されては元も子も無いのである。
8時石山研のサイトをのぞく。
- 516 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月六日
夕刻、世田谷村に戻り、気仙沼の件で安藤忠雄さんと電話で相談を続ける。『atプラス』08の山折哲雄、大塚英志のエッセイを読む。山折哲雄の宮沢賢治の農民芸術論をひいての論は、言い尽くされた感もあるように思われたが、妙なリアリティーがある。東北大震災に対面し、阪神淡路大震災では一向に言葉に出来ず、復興に際しても、又、ベンベンとした真の知恵が視られぬ繰り返しに堕したのを、又今度も繰り返さざるを得ないのかの悲哀を感じたのだが、山折哲雄は冷く暗い科学に対する宗教を考えている。無常ではなく地獄に突き抜けた如くを目の当たりにしたと、その直観の総体が重要だろう。大塚英志の論は冷静だが、シニシズムの枠のまま、つまり文化的なフレームはむしろ現状容認であり、何の救いも無い。今の文学とは何なのかと冷く暗くなるばかりである。理知的にも写る思弁的方法が科学的方法の模倣でしか無いのではないか。今度の津波による原発破壊は冷く暗い科学工学の限界を示していると考えられ、山折哲雄の論は読み方、接し方自体の変容さえ必要なのではないか。読む主体としてのわたしの内部を少し変化させる必要がある。読まれる言説の客観化、客体化だけが問題なのではないのではないか。批評の対象が何処に向うのかも問われている。
21時前気仙沼の臼井賢志さんと何度か連絡を取り合う。気仙沼の人達も夜遅く迄重要な会議の、あるいは作業の連続なのだろう。身につまされる。22時前鈴木博之さんの三陸海岸復興計画のヴィジョンについて思うところあり連絡。雑談となる。
24時過横になり読書を続ける。
-
六月七日
6時離床。庭に降り、生ゴミを大量にコンポストに入れ、土をかぶせる。
昨日植え込んだサンショウの小樹、他はどうやらついた様だ。水やりがうまくいった。
産経、東京新聞を買いに散歩。コンビニでは成人向けとサインがついたエロ漫画群をすり抜けて新聞コーナーに辿り着くのだが、このエロ本の群を眺めるにこの光景は消費欲の極なのか、人間本来の未進化つまり猿の状態の尾てい骨であるのか考えさせられる。
毎日、サイトに稿を寄せてはいるが、わたしにはまだ活字メディアに肩をいからせるというか、構えてしまう変なクセがあるようだ。もうすぐ日経新聞の連載が始まるので今から気が重い。週一の3枚チョットのコラムだが半年続くので、キツクなるだろう。隠しテーマを設定しなければ毎週辛い想いをしかねない。
それ故にこのサイトでの平安コラムは2011年一杯休止する。読んでいただける人がいればコラムは日経新聞を読んで下さい。
今日は出来れば15時前には研究室を出て、健康機器フェアーへ出掛けられれば良い。
- 515 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月五日 日曜日
6時半離床。昨日は12時前研究室。気仙沼・唐桑WORKに没頭していたら、丁度気仙沼商工会議所会頭・臼井賢志さんより、資料の入った速達届く。復興構想会議副議長・安藤忠雄さんへの手紙も入っていたのでメモを附して大阪の安藤事務所に送附する。事は急を要する。
20時前迄WORK、気仙沼・唐桑の件の他「世田谷式生活・学校」、絵葉書プロジェクト第9弾、第10弾準備等。今のところは着々と進んでいる。石山研の、あるいはわたしの20年、40年の歴史を掘り起して、被災地の方々の気持の中にあるやも知れぬ、あるだろうと想像する平安への祈りをヴィジュアルとして、沢山の絵葉書として表現している。来年の3月11日迄は続ける。
今日はいよいよ「世田谷式生活・学校」がオープンする。どれ程の人達に集まっていただけるか楽しみである。
14時前世田谷村発。上北沢・長徳寺14時40分。研究室の人間が会場の準備をしてくれていた。チラホラと人が集まり始める。
長谷見雄二先生、保坂展人世田谷区長集まり、15時半開校。超満員となった。
石山「世田谷式生活・学校」の目的とスケジュール。
保坂展人区長、何故国政から区政へと転じたか。の話し。
そして長谷見雄二早大教授の「都市と災害」。
長谷見先生の話しにわたしは初めて接した。技術系思考の強い先生かと一方的に思っていたが、先生のレクチャーは歴史観を色濃く反映したもので大変に興味深いものであった。人の話しは聞いてみるものだ。質疑応答を経て、予定通り18時修了。
保坂氏の車で烏山宗柳へ。長谷見先生と三人で会食。保坂区長の話しを聞く。国会議員の忙しさとは比べものにならぬ程に今は忙殺されているとの事。20時半頃了。お別れする。世田谷村に戻る。長谷見先生より茨城県産のすいかと、トマトをいただいた。
-
六月六日
6時半離床。昨日の「世田谷式生活・学校」に於いてのわたしのあいさつの草稿にいささかの手を入れて、このサイトに公開する。読者の皆さんへの参会の呼びかけであると考えていただきたい。「世田谷式生活・学校」の内容は適宜講義録としてまとめる。
今日も新聞を買いに出る散歩へ。さわやかな梅雨の合間である。
- 514 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月四日 土曜日
8時前離床。すぐ新聞を買いに散歩に出る。梅雨の合間のうすい青空と風が気持よい。昨夕は気仙沼、唐桑に関していくつかのアイデアを得た。又、情報も入った。頭の中のダイナモがゆっくりと回転を始めた。ようやくと言うべきか。朝の散歩の間もそれは動き続けている。モヘンジョダロの遺跡の花々を通り過ぎても、頭の中で計画案をチェックし続けている。でも、これでは散歩にならないな。
モヘンジョダロの遺跡の中は車は走らないので、上の空で歩いていても安全ではある。机の前に座っている時よりも、歩いている時の方がモノを考えられるような時もあるものだ。
産経・東京二紙を買い求めて帰る。愛猫と暮すオヤジさんとあいさつを交す。
保坂展人さんに電話、明日の確認をしなくてはならない。保坂さんも民主党に入党しなくて良かったな。もしも民主党から世田谷区長に出ていたら、今頃は大苦労されていただろう。時に天は絶妙な贈物を人間にくれる事があって、それが保坂さんには区長役であったとそう思う。わたしにとってもピンホール程の穴が壁に開けられたのかも知れない。そう思って大いに「世田谷式生活・学校」は展開させてゆくつもりだ。
表紙を担当している『Atプラス』より、磯崎新の論に関してレビューをせよ、30枚書けとの依頼が来た。これは依頼というより、書けよなの命令に近い。気の弱いわたしはそれ故に喜んで引受けた。
『Atプラス』の磯崎新の論に関して、と言うよりも磯崎新を巡る一連の発言に関しては、わたし共のコンピュータサイト上の「Xゼミナール」他(この世田谷村日記に於いても。日記は思想です)で、やり取りもあった。鈴木博之さんは岩波の『思想』誌上での伊東豊雄・山本理顕両氏の対談も含めて、この一連のメディア上の小トピックは磯崎新のお膳立てであるから、それに留意しながら対した方が良い、が主旨であった。
わたしの考えを述べれば、よしんばそうであったにせよ、伊東・山本の対談は余りにも建築設計界、と言うよりも建築家の小世界すなわち建築村の小世界に終始していて、特に建築の社会性に関しては余りにも狭小である。つまり水準が低いが率直な印象である。その意味では、いずれ整理はしたいが磯崎新の思考の広さの価値が改めて露出しているのである。
磯崎新の宣言の一つでもある「ヒロシマ」ドローイングと今の東日本の大震災、大津波の光景がピッタリとオーバーラップする事自体がそれを証明している。
その辺りの事をよりクリアーにして、論を立てるつもりである。
Xゼミナールでの論旨とペーパーメディアの双方で沈滞している建築家世界に小石でも良い、投じたい。
- 513 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月二日
電車が遅れて10時10分院推薦面接会場着。
12時面接終了。会議室で食事、合否判定。中途で退席して研究室で打ち合わせ。再び会議へ数名の先生方と相談、学生に関するネガティブな問題。詳細は書けぬが、早稲田の建築教育の中心は設計製図教育である。担当教師もそれを念頭に努力している。特に若い教員達はそうしている。その努力を踏みにじらせるような事があってはならない。
15時、研究室に戻り再び打合わせ。修了後、アニミズム紀行5、6へのドローイング描き込む。やはり、どうしても震災、津波の光景が出現してくるのは我ながら自然である。良いドローイングが描けたと思う。18時空腹になり、佐藤等とクンメーへ。日経のアンケートへの記入、明日のレクチャーの確認。他いささかの相談。21時了。22時過世田谷村に戻る。
内閣不信任案は菅首相の退任示唆によって否決された。
その退任時期を巡ってこれからもドタバタが続くのであろう。
往生際が悪い人間である菅直人は。
-
六月三日
7時前離床。やはり新聞を読まざるを得ない。被災地再生のドローイングを描くリアリティーへのわたし個人の、あるいは研究室の情熱とこの政局のまだまだ続くであろう混乱は無関係でありながら実はリアルには関係がある。
今日の院レクチャーのディテールチェック、確認して9時半世田谷村発。
10時過研究室。講義室に向う通路で高等学院時代の同級生、電気の松本隆教授とバッタリ会い立ち話し。東日本大震災、福島原発事故の事がやはり話題になる。やはり彼も政治家の無能無体振りには憤りを感じているようだ。電気の教授だからどうしても話しは原発に関する学者の、これ又体たらくへの批判もある。
10時40分院講義。ミース・ファン・デル・ローエの建築と光。12時了。入江先生に連絡して今日の学部3年の製図授業をのぞかせていただく事にした。各先生独自の課題で不可侵な部分もあるのだが、後期の東大との合同課題もあり、今年の学生の水準は把握しておきたい。又、若い先生方、TAの様子も見ておきたい。
12時40分、6月5日の「世田谷式生活・学校」の小レクチャーのための準備にかかる。
14時前気仙沼の臼井賢志商工会議所会頭より連絡入り、非常に具体的なプランが示された。すぐに動かねばならない。
15時前、世田谷式生活・学校の為の作業了。製図スタジオへ。3年生の製図授業を見る。16時過出る。16時半研究室発。
- 512 世田谷村日記 ある種族へ
-
六月一日
右足は良くなったが、まだ足を引きずる。引きずりながら12時40分京王線八幡山で石井、小倉と待ち合わせ。バスで三つ目の八幡山一丁目へ。
長徳寺、竹柴俊雄さんを訪ねる。6月5日の「世田谷式生活・学校」開催のごあいさつと、事務局二名による会場下見と、打合わせをした。
石井の卒業高校が本願寺系の学校だったので竹柴住職と話しが弾んだ。御縁としか言い様がない。14時半了。住職とお別れして、帰りは桜上水駅迄歩く。若い二人の事務局に6月5日に来校していただく人の身になってもらう為に、行きは八幡山駅からバスで三つ目の八幡山一丁目へ、長徳寺からの帰りは13分程かけて歩いてもらった。
現在100名程度の申し込みであり、まだ少しばかりの余裕がある、是非御参加いただきたい。
15時過、大学演習Gスタジオへ。北園、加藤両先生により、すでにスタジオは始まっていた。
わたしもすぐに6名程の学生のWORKをみる。6名共に良くやっている。それぞれの人材に合わせた能力開発を実施している。院生、学部4年生のスタジオである、結果は問題ではない。スタディのプロセスをじっくり見てやりたい。17時半、スタジオを去る。
研究室で気仙沼、唐桑打合わせ、続いて世田谷式生活・学校打合わせ。19時過了。地下鉄で新宿南口、味王へ。スタッフと会食、打合わせ。21時了。皆と別れ、22時世田谷村に戻る。
-
六月二日
6時過離床。こぬか雨。今日は内閣不信任案が国会に提出される。どうなるか、どうやら情勢は必迫しているようだ。
今日は時間をとれれば『アニミズム紀行』5、6共にドローイングを描き込まねばならない。被災地支援絵葉書プロジェクトが大変大きな支持を得ている陰に隠れてアニミズム紀行の旅は、もちろん地味な動きになっている。しかし、日々着々と歩いてはいる。わたしの右足も中々治ってくれないが、それでもゆっくりと歩いてくれれば良い。今日のアニミズム紀行ドローイングは力を入れたい。9時前世田谷村発、大学院推薦面接会場へ。