5月の世田谷村日記
489 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十八日

17時半研究室発。18時半烏山宗柳。上海から戻ったばかりの長澤社長、中国人スタッフ、小川さんと会食打ち合わせ。長澤社長は実行力のある人物なので、それだからこそ非常に実質的なアイデアが生まれた。こういう時の打合わせは躍動感があって楽しい。中国人女性スタッフは実に美しい日本語を話す。面白い人達と巡り会ったな。色んな事が廻ってゆくのを予感する。21時前了。中国みやげの鉄観音をいただく。最近の上海の興隆振りには長澤社長も話しながら眼をまん丸にする位だから余程なのだろう。大震災大津波後の日本のいかんともしがたいであろう衰退振りと中国の活況振りの厳然とした落差は見据えるべきだろう。でも長澤社長の如き事業家はその落差そのものの中からビジネスチャンスを生み出してゆくのだろうと期待したい。

四月二十九日

3時に目覚めてしまい仕方なく起きてメモを記し、視たくもないメジャーリーグのゲームをボーッと眺めている。いずれアメリカもゆっくり衰退してゆくのであろうが、どうやって昇龍の中国と折り合ってゆくのか、それとも激突するのか、中国のエネルギー資源政策の行方次第なのであろう。4時過再び横になる。眠れるかな?

7時半離床。昨夜の会合で得たアイデアの実施に向けての具体化への連絡をいくつかする。福島の原発大事故の被災者支援と世田谷の関係についての小さいけれど試みてみたい事が生まれている。

今日は休日である。夕方に友人との会があるので出かけるが、午前中ゆっくりと平安コラム「磯崎新と名付けられた多頭の鏡像」という早目に修正しなければならぬタイトルをつけたものの2を書く

朝食、昼食をはさんで午後15時までかかってしまう。気楽に断片的にやろうと決めてはじめた事ではあるが、やはり肩に力が入ってしまうのは仕方がない。

17時半過世田谷村発。18時半新宿南口味王。鈴木博之、難波和彦両氏と会食。諸々の話。20時半了。21時過烏山長崎屋に寄る。明日3時に「世田谷のライフスタイルを考える会」の件で区議S氏と会う設定がされたのを伝えられる。長崎屋の会だな。ラーメン喰べて22時過世田谷村に戻る。

四月三十日

6時半離床。新聞を読む。書かれている事に納得がゆかず、と言うより怪しいと感じ、コンビニに新聞を買いに出る。朝の散歩だ。東京新聞産経新聞を求める。帰りがけに宗柳のオヤジに「お茶飲んでかない」と声を掛けられ仕込み中の店に入り込む。お茶がわいてないんでとサッポロビールをすすめられる。

「朝のビールはキクんだよな」

「でも一番うまいんですよ」

「そうそう、ではいただきます。魚釣りは最近どう」

「イヤ、そんな時間が無くて」

と、ベラボーにうまい竹の子のつき出しをいただき、店の新聞も読みふける。今朝も全紙踏破である。

「新聞は一紙にかたよると別の国に連れていかれちゃうよな」

「そうですね。社説なんかまるで逆方向ですからね。最近の朝日は怪しいです」

「オヤジもそう思うか、でも読売も同じ位に変だろう、それで東京、産経を買うんだけど、これも又かたよってるんだナア」

「読まなきゃいいんですけどね。でも新聞は政治面だけでもういいですね。コッテリとした政治面読みたいな」

「ご冗談を」

とまことにたわいないグズグズ話して、おあとがよろしいようで。

そういえば昨夜、ヘロドトスと内田百閒の話しが出て、ヘロドトスはチョッと脇に置くが、鈴木、難波両氏はどうもお好きではないようであった。マアしかしそれは解る。東大の先生が内田百閒いいな、と考えるようなら日本は更に危い。二人共に内田アレルギーだし。朝のビールで駄洒落を飛ばし、いい気持になって世田谷村に戻る。今日の一日は長そうだ。

14時40分世田谷村発長崎屋へ。世田谷区議S氏と会う。長崎屋常連のMITA氏のアレンジである。17時過了。18時世田谷村に戻る。

岩手県一関ジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二に電話する。大震災でダメージを受けたベイシーは見事復活していた。復活といっても、ベイシースタイルのサウンドシステム(オーディオ)を介して良いサウンドが再生しているという事ぐらいの事なんであるが、変人としてではあるが、これは仲々大変なエネルギーが掛けられているのである。実ニ、文化なんですね。東北の神話的なジャズ喫茶が復活するというのは、実に東北独自の文化が再生するに同じなのですね。文化ってのは、ささいな事に価値を発見して、それを大事にしたいと考えるような、思考の中から生み出されるのだとう思うのだが。

明日から5月だそうだ。こんな時にはいつも気持を切り換えようと思うのではあるが出来たためしは無い。

五月一日 日曜日

1時半突然目覚める。今日から5月である。石山研サイトをチェックする。少しづつ良くはなっているが、手を入れようと決める。トップページつまり表紙だが、これが最近良く見られているので、更に手をかけてやろうと考える。絵葉書プロジェクトは第3弾まで進み、第2弾までは完売した。絶版書房と同じで刷り増しはしないので第1弾第2弾はいずれプレミアムがつくだろう。そう願いたい。第4弾に予定している6枚組のレイアウトに手をいれようと小文を書く。この組には「再生」のアイコンになるべきパーツとして敬愛する山口勝弘さんと岩手県一関市ジャズ喫茶ベイシーの菅原さんの写真を差し込んでいる。

3時前作業終り、再び横になる。わたしの場合は再生じゃなくて再横だ。果報は寝て待てとも言うではないか。先程又もかなり揺れた。

5時半離床。新聞を読む。朝日新聞は今日から主筆が代った。余りにも片寄った民主党容認路線が少しは変るのだろうか。しかし政治面の行間からにじみ出る気配は相変わらずだ。やはり今日も産経、東京新聞を買いに行く。今日は宗柳のオヤジに会う事もなく朝ビールもなく戻る。山本夏彦さんが『豆朝日新聞始末』を書いたのを思い出す。夏彦さんは産経支持者であった。やはり文士としての趣味からだったか。産経には随所に文士にも似たエキセントリックな風がある。

13時半大学院レクチャーの初回ガイダンスの概要をまとめ、シナリオ作成する。今年は大震災後のレクチャーである、少くともマンネリにはならぬようにはする。

夕方より雑読にふける。

488 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十七日

9時大隈講堂。まだ先生は一人も来ていなかった。控室でメモを記す。部屋はほの暗く新緑の樹洩れ陽が美しい。9時半ガイダンス始まる。ガイダンスと言ってもそれぞれの先生の世界観とは言えぬ迄も建築観、人生観が述べられるというもので今年は大震災のまだ余震の続く只中でもあり仲々聴き応えがあった。12時半了。中川武先生と近くの定食屋へ。人事の件で意思の疎通を計る。13時過了。別れて20分程歩き、研究室へ。すぐにミーティング。17時半了。アニミズム紀行6、6冊にドローイングを描き込む。何日か時間をあけると手が仲々動いてくれない。18時半中断して地下鉄で新宿味王へ。スタッフと夕食。相談して息を抜く。途中N氏に久し振りに電話したら、政治に随分入れ込みましたねと言われた。世田谷区の事を言っているのだろう。日記を読んで下さっている方々にはそう映っているのを知る。知ったからとは言え何かを変えるというわけではない。それ程器用ではないのは仕方ない。

無いものねだりは良くないけれど都市計画家建築家達が多く東北へ乗り込んでいるようだ。何も考え方を変えないで被災地復興案を差し出そうとしても再びもとのもくあみになるのは眼に視えている。一ヶ月やそこらで考えが変るものなら、その変ってしまう考えの本体とは、正体とは何であったのかと疑うのである。21時過味王を去り、皆と別れて烏山へ。22時過世田谷村に戻る。スタッフに渡された新潮新書の怪書を読む。原発にかかわる本なのだが、今は感想を記す気にはなれない。やっぱり1950年代に今の日本の多くの青写真が描かれていたのだけは間違いない。

四月二十八日

4時半離床。メモを記し、新聞を読み再眠する。少し早く起き過ぎた。8時再離床。9時我孫子真栄寺馬場昭道さんより絵葉書プロジェクト追加発注百部の指示あり。すでに第2弾迄は完売しているので、第3弾の予約に廻すこととする。昭道さんは真栄寺と言うよりも仏教界としてこのプロジェクトに参加してくれているのが良く解り頭が下がる。

ディズニーランドが再開されて多くの人が入場しているようだ。それはそれでいいとしか言い様がないが、ウォルト・ディズニーはアメリカの国策として原子力の平和利用計画の一端として機能していた。ディズニー社は原子力潜水艦ノーチラス等の物語のプロパガンダの強力な道具でもあった。それはアメリカ原潜の原子炉を作成するジェネラル・ダイナミックス社のキャンペーンでもあったという歴史的事実は知るべきであろう。この大震災大津波原発事故は今当然の如くに疑いもせず受け入れている現実を考えなおす良いチャンスでもある。しかし自分自身の生活の一部になっている電気エネルギーをダイレクトに考える事はとても困難だ。小まめにスイッチを切って節電するのは大事だけれど、その先を視なくては希望がない。

四月二十八日 つづき

12時過研究室。大震災、大津波後の磯崎新さんよりのメールを昨夜読了したので電話する。話したい事は諸々あるような気がするが、とても電話では伝え切れない。連休明けにお目にかかりましょうとなる。磯崎さんの頭脳の中を直接のぞき込んでみたい気がする。恐らく言葉になりようのない次元の思考、しかも身体化された世界への出入りを繰り返しているのではないか。いつだったかもう定かではないがヴェネチア・ビエンナーレで空中浮遊をボスニア・ヘルツェゴビナからの四人の行者達に試みさせた磯崎新を忘れられぬが、実はアニミズム紀行5のはじまりはスウェデンボルグの身体からの魂の遊離をモデルにして書いたのだが、それに近い状態に達しているのではないかと予測する。

ああいう知性は論理的にその域にまで突入すべく頭脳、身体、細胞が用意されているのだ。個別の典型である。それが言語の力をもって普遍を演じようとしている。

芸術家の魂が思想家、構想家、実行者としての能力を照射して止むことをしないのである。

打合わせがキャンセルされて時間があいたので平安コラム、磯崎新、多頭の鏡像そのⅠを書く。事のはじまりはいつもこんな風に突然始るのである。

14時40分、了。すぐにサイトにONする様に頼む。連休はサイトがあんまり動かぬかも知れぬのでわたしなりのささいな努力である。自分で言うのも愚ではあるが。

15時富沢氏来室。シンガポール、サウジアラビア2件の経過報告を聞き、石山研からの依頼事項を伝える。フットワークの良い人である。

16時過了。

487 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十六日

烏山宗柳にて安西直紀さんと昼食。目黒川プロジェクト打合わせ。14時半下北沢へ。木下泰之区議と会う。16時過了。下北沢駅で安西さんと別れ、17時半烏山へ。長崎屋にて「世田谷区民のライフスタイルを考える会」の下準備する。無党派じゃあなくて党派会派横断的なイデオロギーに対してルーズな、自由と言うべきかの区民の会を作りたい。今日の杉田区議とのミーティングから少し知るのは会派対立の姿でもあった。どうやらリベラルは何時の時代でもサークル活動を好むようだ。先ずは区議抜きで会らしきを立ち上げて、それに区議達をはりつける形が望ましい。

明日は早朝から動かねばならないので早々と横になる。金子光晴の『ほりだしもの』読みながら眠りにつく。一昔前は詩人も豪気を備えていた。

四月二十七日

5時40分離床。静かな朝だ。今朝は新入生ガイダンスで大隈講堂で新入生に小スピーチをする。その大方を考える。今年は大震災で授業開始がほぼ一ヶ月遅れた。学生達もさぞかし不安の只中にある事だろう。こんな時こそキチンとしたスピーチをしたいものだ。この学年は1995年の阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件等のオウム真理教事件の際には二、三歳であった筈だ。そして今度の大震災である。巨大な事件二つに挟まれた世界史でも稀な世代である。その事を自覚せよと話すことにしたい。しかし、学生達を人材として考える、一人一人が材であり才であると考えねばならぬのを実感している。建築は壊れればまた作り直せるが、一人の人間の生は一度きりだからな。

8時過世田谷村発。大隈講堂へ。

486 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十五日

世田谷区長選当選を果たした保坂のぶとさんに会いにゆく。早目に色々相談しましょうと話す。今日すでに引継ぎの事務を終え、27日に初登庁との事。ハードだな。

18時三軒茶屋キャロットタワー前広場で辻立ちの初報告会に立ち会う。原発代替エネルギーの試み、被災地支援、市民参加、情報公開を軸とすると表明する。わたしもあいさつさせられた。19時前了。世田谷線、京王線を乗り継いで世田谷村に戻る。20時お好み焼き屋で夕食。まちづくりの会合に出ていた小川くん合流する。22時了。世田谷村に戻る。

四月二十六日

6時離床。新聞をコンビニに買いに出る。朝の空気が気持良い。三紙を買い求める。戻り、メモを記してから新聞六紙を読む。今日も各紙共思い切り偏向しているな。読み比べるとそれが良くわかる。でもこんな時には読んだ方が良い。大地も政治も何もかもが揺れ続けている。

TVを視ながら新聞を読みメモを記しているのだけれど、TVに、佐藤亮輔・気仙沼漁協組合長が出ている。懐かしい。早く気仙沼に出掛けたいが、まだ準備が少しととのわないのだ。充分に体制をととのえてから出掛けないと、皆さんに失礼になるのは知り過ぎている。

少し気持をのびやかにしないといけないな。廻りの条件はととのいつつある。わたしの方の対応のための道具がもう少し欲しい。

時々思い起こすのはネパールのカトマンドゥに時々宿泊していた宿の、裏庭。大樹がそよいでいて、地面にはゴミが散らばっている、リスが数匹チョコチョコと動いている。ネパールの人々が数人、小枝を歯ブラシ代わりにかじって朝の身づくろいをしている。工事現場のような、廃墟でもあるような風景へそれがつながっている。どうと言う事のない山国の普通の朝の一刻なのだが、そこから眺められるキルティプールの、小建築の計画につながる景色でもある。

マン・メイド・ネイチャーがドイツ・ワイマール・バウハウス大学ギャラリーでの石山研展覧会の主題であった。展覧会は秋にシュツットガルトへと巡回するが、秋の巡回時には3・11大地震・大津波後の幾つかの計画をどうしてもプラスしなくてはならない。それには今続行中の絵葉書プロジェクトは重要で一つの軸にする。三つのプロジェクトが含まれる。

世田谷村から世田谷区への提案も、その提案のスタイルからきめなくてはいけない。世田谷村をひとつの提案拠点にすべきであろう。これはわたし、及び石山研の考え方だけではいけない。多くの人々、とキレイ事は言わぬが花だが、少なからぬ人々の意見を反映させる必要がある。常設の展示スペースが欲しいところである。町の中で、誰でも立ち寄れて、三陸被災者支援絵葉書プロジェクトの如くに多くの人間にわかりやすく、双方交流(コミュニケーション)可能な方法が望ましいのだが、先ずは場所が欲しい。何処か良いところはないか。

485 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十二日

昼過ぎ研究室。打ち合わせ。13時半小会議室で会議。14時半了。研究室で再び打ち合わせ。15時半広島の木本さん来室。17時半研究室発、地下鉄で新宿南口味王へ。木本さんが広島へ帰るので別れの会。こんなに日々大地が揺れると、又いつ会えるやも知れぬ。木本さんにここしばらく考えていた事を伝える。彼はわたしの知り合いの中でも最も誠実な人間の一人である。本当はメタルアートなどやらせておくよりも村長さんや町長さんなぞをやっていれば立派に務めあげるだろうに。しかし、かくの如き朴訥な人物が工芸、アートに心をひかれてしまう、そして何が何でも突き進むという不思議なドラマが生まれてしまうのである。

木本さんにはまだ本人が気付いていない美質がある。祈るような気持らしきが深く眠っているのである。厚生館の「鬼子母神像」はわたしのディレクションはともかく、彼の傑作誕生の芽にはなっていると確信するのだが、わたしの努力不足もあり彼に次の仕事の展開を促せぬままである。情ない。木本一之の才を開花満開させる、してもらうのもどうやらわたしの大事な仕事になるだろう、とそう覚悟するのである。19時研究室の面々合流、20時散会。新宿駅で木本さんと別れる。21時過世田谷村に戻る。

四月二十三日

6時半過離床。新聞をじっくり読む。何故こんな本が世田谷村に転がっているのかは知らぬが、阿部昭の『あの夏、あの海』を昨夜は読んでしまった。無駄な時間を使ったかも知れぬが、まだ文学が多くの人間達の支持というか、今で言えば消費の淡い欲望の対象として、他にそれ程多くの対抗商品も無かったから、商品として顕在し得た時代の、コレワ文学だろうと思った。昭和47年の出版であるから、わたしが28才の頃の本だ。定価が880円でハードカバー、しかも箱入りである。今なら文庫本の値段だ。

オリジナル三陸被災者支援葉書に何通か便りを書いて、10時となる。

強く雨が降っていて外へ出る気分になれぬ。12時前外に出る。久し振りに長崎屋へ。12時半小川くんと会う。13時長崎屋前に世田谷区議会区長候補保坂のぶとさん来る。「どうです、なんとかなりそうですか」「何とかなりそうです」の会話を交わし、何十人もの人垣が出来る。保坂さん気力充実に視える。何とかなるやも知れぬ。

長崎屋でささやかな選挙運動する。マアどうなるかはわからんが可能性は大いにありそうだ。

内田百閒を読む。何故だか読みたいと思ったから。冥途、旅順入城式、昇天、特別阿房列車と読み次ぐ。内田百閒は時々忘れた頃にフッといきなり思い出して手にとる。妙に、何故に妙なのかをとても言葉に出来そうにないのだが、内田百閒の書き残したのはそんな、とても言葉に出来そうにない人間の生の意味の無意味の廻りをグルグルとそれこそ特別阿房列車の旅のように途切れる事なく続けている旅のようなものだ。

四月二十四日 日曜日

昨夜は内田百閒を読みながら眠ってしまったのだが、今日も一日良く大地は揺れるのであろう。こんな時には内田百閒はいいみたいだ。特別阿房列車は何度読んでも無意味そのもの、だからこそ今には意味がありそうだ。考えてみれば福島第一原発大事故の最中の人間社会の混乱は、それこそ科学技術の最先端の一つであろう原子力の平和利用の意味がそのまんま無意味を引き起こしてしまう巨大過ぎる宇宙の虚空の如き無意味に通じる列車、特別阿房列車そのものではないか。

特別阿房列車は全く意味のない、ただの言葉の連続である。全く意味のない東京大阪往復の旅を微に入り細をえぐり描いた蛇が尾をかみ、呑み込む風なのである。ただ列車に乗りたくて、それで借金をしてあーだこーだと旅の工夫をこらすのだが、その工夫自体に全く意味があり得ない。何故なら東京から大阪へ行って帰るという旅そのものに全く目的が無い。人間の月旅行、宇宙開発みたいなモノでもある。山本夏彦は何用あって月へと言い、ロバは旅をしてもロバのままだとも言ったが、月旅行には少なくとも未知への好奇心はあった。しかし、内田百閒の時代(内田は夏目漱石の弟子であった)にしても大阪にはもう未知は無かったし、もともと大阪往復そのものに全く意味がないのが自覚されているのだから、実に妙なのである。妙にオカシイのである。アッハッハとは笑えないのだが、グズグズと、良く考えてみればマア仕方ネエか、生きるって事はこんなモノであるかと知るオカシミが棲んでいるのである。被災されてまだ渦中にある三陸海岸や福島の方々には今は劇薬でとてもおすすめ出来ぬが、良く良く考えれば、高みの見物、遠巻きのヤジ馬に過ぎぬ我々、東京住民の大半にはおすすめしたい読物なのである。

8時40分、芦花中学に選挙投票へ。風は冷いが陽指しは強い。世田谷村の周りは公社の共同住宅が整備され、特にオープンスペースには緑が増えて、そんなに悪くない景色になってきている。我々が一般的に美しいと考える風景の美はある程度のまとまり、スケールを持つモノである事が普通だから、平面的にもある程度の面積が確保されている公的な場所が増加するのが前提で、風景の美にとっては私的な戸建住宅にはそれは担えないのは歴然としている。

芦花中学の周辺は二つの老人施設があり、ここもほぼ公的なスペースに変換されていてそれなりに美しい。ここもやはり建物の美ではなく、ある程度ゆったりとしたオープンスペースの樹々の緑や草花の美が出現している。投票所には三々五々パラパラと人が投票に来ている。改めて投票所前の立看板を眺めたが区議会議員候補者の数は実に多い。こんなに必要ならば身内、あるいは知り合いを束ねて一人位は議員にした方が良いなとツクヅク考えた。

投票にはゆっくりと行き帰り30分程であった。道々内田百閒であればこの行き帰りをどう描いたであろうかと考え続けたが、わたしには周りに起きている事の細部を視る眼が無いので、百閒先生にはとてもなり代わる事は出来ぬのであった。残念無念である。

投票所から戻り、世田谷村の屋上点検。少し手を入れたいが、もう少しあたたかくなってからにしよう。朝食の親子丼を食べて、竹中労『山上伊太郎の世界』白川書院1976年を読む。竹中労の書いたものにはどうしても馴染めなかったが、今ならどうかと興味があった。マキノ雅弘メモワールのマキノ雅弘のインタビューを初めて面白く読めた。マキノ雅弘の語りのスピードが刺激的である。「浪人街」なる映画は一度視てみたいものだ。

小津、黒沢直前の映画にあったのかも知れぬアナーキーさ、カオスが懐かしいと言いたいが、実は知らぬ。津波がもたらせた気持だろう。

15時半キルティプール計画のスケッチを終える。一部に短文を添えて研究室に送る。アニミズム紀行5で添附したキルティプールの丘のマスタープランがようやく役に立ってきた。少し疲れたので休む。

ソファーに横になり『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』キネマ旬報社3200円+税、2007年読む。マキノ雅弘を集中して読んだので現代アメリカ映画で解毒しておこうと考えたのだが、浪人街のマキノとナッシュビル、MASHのアルトマンはスケールはまるでちがうが似てるなと思った。不思議なものだな、本は本を呼ぶものだ。18時読了。

21時地方選開票速報はじまる。世田谷区議長選は保坂のぶとが出口調査では優位である。が大変な接戦である。23時20分、保坂のぶと当選確実となる。ヒヤヒヤしたが良かった。これで区政も少しは変わるやも知れぬ。闇夜の一灯だな。

四月二十五日

6時40分離床。新聞を読む。喰い足りなくて駅前のコンビニに東京新聞他を買いに行くも、東京新聞は売り切れであった。他のコンビニでようやく求め、ほぼ全紙を読み比べる。随分と報道各社の焦点の違いが歴然としていて、情報の出し手としての公平さ客観性が保ち得ているのか疑問を感じる。ちなみに一面トップに世田谷区長選を大見出しにしたのは毎日、東京両紙。朝日は世田谷区長選は東京版である。産経は菅政権批判、朝日は菅政権保全擁護が歴然としている。

保坂事務所に連絡して今日会ってお祝いを述べるつもり。これからが大事なのだ。

484 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十一日

10時半岩手県一関ジャズ喫茶ベイシー店主菅原正二さんより速達で頼んでいた写真届く。早速開封、ゾクリとする程のいい写真だ。2001年9・11の直前のNYでのトミー・フラナガン最後のレコーディングの際の写真である。そんな小さな神話的物語りを背負って、でも人間は誰も写っていない。流石菅原さんはセンスが良い。良すぎる位で論証性を一気に超えてしまう。9・11のラスト・レコーディングの誰も居ない写真の凄さを絵葉書プロジェクト第4弾で楽しんでもらえれば嬉しい。絶版書房通信で早速書いて研究室に送付する。

12時過世田谷村発。13時半前品川インターシティB棟3階で稲門建築会会長村松映一氏と会い大林組へ。設計本部長小林照雄氏、設計部長賀持剛一氏と会談。設計製図第四課題の打ち合わせ。第一回の竹中工務店、第二回の清水建設に続き今年は大林組と教室の共同で3年生の一つの課題を進める事となるが、教室の先生方も相当気合いを入れていただかないといけない。千年に一度と言われる大災害の年である。今年の設計製図はことさらに大事である。14時半前了。

品川駅で村松さんと別れ京浜急行で青物市場へ。品川宿をブラブラ探訪し、15時平野屋店頭で品川宿まちづくり協議会長堀江氏と会う。二人で1万円の商品券を売りながら、色々と雑談。飛ぶように1万円の商品券が売れるのには驚いた。今日で三日目の発売だが初日には一千万円売り上げたと言う。わたしも何故かオバちゃん達にイラッシャイ、アリガトーなんて販売の手伝い。商品券販売は皆商店街に金が戻ってくるのが有難いのだそうだ。成程ね。品川区商店街連合会事務局長、平川勝之さんに紹介される。16時堀江さんと別れ、16時半東京駅八重洲口「小樽」で清水さんと久し振りに会う。途中電車の中でヴァンコロジー社長津田和彦さんに声を掛けられる。清水さんとは短い時間ではあったがじっくりネパールの事、アフガニスタンの件等を話し合った。清水さんも少し弱気になってるようで別れ際に「又、来て下さいよ」だって。言わずもがなである。18時「小樽」発。東京駅より烏山へ。19時半世田谷村に戻る。京王線車中でキルティプールの小建築のスケッチを夢中でする。清水さんとネパールの話しをしたお陰様であろう。実にわたしは単純である。

駅前で産經新聞を買って、朝日新聞と読み比べながら読む。

四月二十二日

7時頃離床。昨夜上山大峻さんの『金子みすずがうたう心のふるさと』読了する。上山先生は敦煌学者として高名な方であるがこのように慈悲の情にあふれる本を書くとは、それに感入った。学者は、例え仏教学者であっても慈悲よりも知恵に傾きやすい者であるが、上山先生は故郷山口県油谷町の力を借りてこのような境地に達せられたのだと感じる。地図を見ると仙崎という処は青海島と長門市に囲まれた仙崎湾を抱いて実に独特な地形を持つ、実に宗教的な、ウーン表現するに窮するが仏の掌の内の如くの海を胎内化している場所のようだ。こういう処で生まれ育った人はやはり心の中に特別な世界を、特異な地形とでも呼ぶべきを育てる事になるのであろう。金子みすずは幼少の頃から自死する22才にいたる迄、そして上山大峻さんは老境にいたってから。それ迄抱き続けた故郷の独特な美を金子みすずに託して表現するにいたったのであろう。この場所は一度訪ねてみたいとさえ考えた。

山口県と言えばダダイストを根に持つ中原中也を思い起こすが、考えてみれば中原と小林秀雄の悪縁とも呼ぶべき宿縁も又、小林の知恵と中原の慈悲と呼べるかどうかの哀しみの関係をおもいおこさせる。中原の故郷は彼の詩にあるようにサラサラと流れる河の砂の音が聴こえるような山里であったようだが、中原中也の詩の質と金子みすずの詩の質の違いは故郷の原風景が持つ力の相違から来るものかと考えさせられた。

483 世田谷村日記 ある種族へ
四月二十日

10時過、アニミズム紀行5、同6で書いたキルティプールの小建築のエスキスをする。アニミズム紀行6で示した小さな模型の案を少し変更した。だいぶん良くなり始めている。12時前了。世田谷村を発ち13時前研究室。渡邊助教と今日午後の件打ち合わせ。エスキスを渡し模型製作を依頼する

15時半過、山形よりN社長そしてスタッフ、小川君他4名来室。東北秋の宮計画他の打ち合わせ。N社長はビジネスとしてダイレクトだし、わたしもダイレクトに応じる。17時半了。近くのコーリヤ料理屋で続き。19時半頃、社長他を残し、失礼する。20時半世田谷村に戻る。N社長はまさに現場の実行家であり、リアルな経営者であるが、ほとんど仕事は動かぬままにいると聞いた。それが現実なのであろう。緊張して動かねばならぬ。体調もようやく復活した。しかし何があるかわからない。

四月二十一日

5時半起床。自分で書いた「平安コラム9」を読み直してみる。新幹線が動いたら奥州市に出掛けて正法寺を再訪したい。フランク若松の墓参りもしなくては。わたしには不義理なところがあって若松の墓参りは一度だけ行っただけだ。もっともフランクに会ったのは二度だけであった。でも奴はそれこそ生命がけでわたしみたいな小人に凄い建築を見せてくれた。正法寺みたいなのを作りたい。作らねば。作れるか。

6時新聞を読む。9時気になって伊豆松崎町の森秀己さんに電話する。ハンマ(藤井晴正)の船は大丈夫なのかを問う。彼の船は大船渡に良く入港していたのだ。何日か前に海へ出たが大津波の時は伊豆安良里に入港していたので大丈夫との事であった。安堵の胸をなでおろす。しかし、今年の秋のサンマ漁は大丈夫かどうかはわからないとの事であった。ハンマの船は北はオホーツクから親潮に乗って南下し三陸沖までを漁場としている。大自然と共に生きているのだが漁労長をつとめるハンマはそろそろ大ベテランの年令である。無事と好運を祈りたい。伊豆は地震はないそうだ。日本列島のディテールは神秘的ではあるな。地中の事は神のみぞ知るか。

今度の大震災大津波で大騒ぎの渦中であり、先は誰も見えていないとは思うが、これからの建設産業(設計業も当然含む)の姿は様変わりすることだけは確実であろう。今日は午後稲門建築会長の村松映一氏と今年の3年生の第4課題に関して大林組の設計の方々とお目にかかるのでその辺りの事も伺いたいと考えている。日本のスーパーゼネコンと呼ばれている大建設会社の動向は知りたい。今年の課題は難しいものになりそうだ。

482 世田谷村日記 ある種族へ
四月十九日

11時研究室。OG、Y近況報告に来室。11時半ミーティング。三陸海岸被災者支援プロジェクトのうち絵葉書プロジェクトの第2弾が売行き良くてほぼ一週間で完売してしまった。予約を今日で打ち切らせていただく。続いて第3弾のデザインにかかる。第3弾には淡路島の山田脩二さんの素晴しい写真が一点組み込まれる予定である。13時前、第3、第4弾のデザイン12点ほぼ決定する。今日から予約を受け付けさせていただく。驚く程に順調な、と言うよりも予想以上のハイペースの支援の拡がりである。普通の人たちの気持には凄いモノがあるのだな。政治家はそのコモンセンスのかけらでも煎じて飲めと言いたい。

13時半向風学校代表安西直紀さん来室。品川宿まちづくり協議会・大竹幸義さん、水と緑の環境ネットワークの会・原一宏さん来室。目黒川プロジェクト打合わせ。16時前了。17時半散会。佐賀県で梅木さん精力的に動いて下さる。

18時半新大久保近江屋で鈴木博之、難波和彦両氏と会食。お互いの近況報告。こんな時だ、あまり意気上る話しも出る訳がない。これ程毎日大地が揺れるとどんな人間でも安定した考えのままではいられぬようで、むしろわたしは成程ナァと思った。こんな時ほど歴史家の考えを聞きたくなるものだと難波さんと、鈴木さんの執筆欲を促したり。心細い時は人間どうしても他力にすがるもので、それが自然であろう。自然と歴史は何処かで通底する。20時了。21時前世田谷村に戻る。

四月二十日

7時離床。昨夜はわたしのキルティプールの終の棲家の事をアレコレ考えた。少し設計変更する事にした。

カトマンドゥ盆地のスモッグは夕刻の南風で吹き払われ、夜は星々がさんざめく空になった。友人のクリシュナ老も去り、黒檀の黒い鏡面を眺めている。鏡面にはいつも見上げてるシヴァ神殿が写り込んで、その内に居るシヴァ神の黒い像も又視えるのだった。シヴァは踊る。やっぱり大地震はこの神が引き起したものだったかと時空は歪む。恐らく夢を見ているのだ。最近は夢の中を通って現実の様々に辿り着く事がある。

残念ながら現実のわたしは非力極るので何にも出来ないままだ。終の棲家は小さい建築なのにまだ手がつけられていない。この計画、小さな修道院の修復と小ハウスの建設を思い付いたのは、実に現実的な理由からであった。パタンの王宮の一つを修復工事している日本工業大学の先生から、そのリアルな修復工事費を伺ったからだ。わたしでも手の届くような額のように思えた。でも先生は全生活を王宮修復に賭けていた。先生には時間があった。わたしにはそれが無かった。勿論金も無かったのだが。現実の俗世から本当に姿を消すくらいの度胸無しには成し遂げられぬ事ではあった。当然、わたしは俗人である。クリシュナ老やツバメの言葉を聞き分ける瓦職人ばかりを友として生きているわけもない。現実の友人も数少いけれど居るのだ。友人にはやっぱりエバリたいじゃないですか。実際に友人をキルティプールに案内して、ホラ、これ黒檀なんだぜ、世界が写るんだ、シヴァ神だって踊るのだ、なんて言ってみたいじゃありませんか。しかし、相当頑張らないと、とても時間の不自由、金の不自由には追いつけネェなと、頭を上げて山月を望み、頭をたれて故郷を想うのであった。アニミズム紀行5のつづきの夢である。

481 世田谷村日記 ある種族へ
四月十八日

13時大久保近江屋にて馬場昭道さんと昼食。偶然古谷主任と会い、ちょっとスケジュール調整。三陸海岸被災者支援絵葉書15セット昭道さんへ。他雑談。14時半了。雑用で都内を動く。18時半世田谷村に戻る。平安コラム書く。大きな山の如くの北野経王堂、奥州正法寺、フランク若松の小さな物語りを記したが、うまく書けたかどうか。少し肩に力が入り過ぎてコラムにならなかったかも知れない。

馬場昭道さんからもらった『金子みすずがうたう心のふるさと』上山大峻著、読む。上山大峻さんとは共にシルクロードを旅した。敦煌学者として著名な方だと聞くが、この本は立派な本だと思った。自照社出版1,000円税別である。

四月十九日

七時離床。昨夜から雨が降っていたのは知っていたがまだ雨は上がっていない。研究室にコラム原稿送付。北野経王堂の図版も送る。東京新聞よりのキャプションを添付してONしてもらいたい。一週間に2本のコラムをノルマにしようとしているが仲々キツイ。7月からは半年間日経新聞にコラムを書くので、コラム漬けになるな。

8時半前、我孫子真栄寺住職馬場昭道さんより電話あり。昨夜も何処かで檀家の皆さんと話し合っているらしい様子の電話があったのだけれど、絵葉書プロジェクトに真栄寺も正式に共同者として参加したい旨の申し込みと早速100セットを至急送るようにの指令がきた。これで第2弾も完売で、早速第3弾に取り組まねばならない。

アニミズム紀行5、6もこれ位売れてくれれば良いのだけれど、そんなケチな事言ってるヒマも無い。早速三陸海岸被災者支援絵葉書プロジェクト第3弾作りをしなくては。被災者の皆さんの今を想えば苦ではない。

480 世田谷村日記 ある種族へ
四月十七日 日曜日

6時半離床。新聞を読む。朝日新聞のOPINION、ザ・コラム西井泰之の「モノ買う人々の正体」が面白い。往年の名車スカイラインGTRの開発責任者桜井真一郎の言を引いて、心血を注いだ作品のようなGTRは売れずに会社と妥協して作った商品だったケンとメリーのスカイラインは売れた。だから好きじゃなかった。と古いかも知れぬがモノ作りの心情を吐露したと言う。コンビニと自動車とそれ等が象徴する消費社会を支える原発の構図。わかりやすく消費社会の枠を説いている。そのコラムのカットに野又穫の絵が使われていて、それがわたしのアニミズム紀行5で描いたキルティプール、終の棲家に良く似ているのにビックリ。全体の形が鋭い切妻になっているのは、わたしのキルティプールの家より良いのであった。でもわたしのキルティプールの家はヒマラヤの峰々を背負っているからな。

7時半フジサンケイグループのフジTVの各党幹事長クラス登場の討論番組を眺めながらメモを記す。亀井静香氏が復興実施本部を主導しようとしている。復興会議はスタートに於いて復興税を唱えて政界から反発を受け低空飛行に陥りそうだ。どうなることやら。

10時世田谷村発。明大前経由下北沢、向風学校代表安西直紀と会い、11時過保坂のぶと世田谷区長選挙事務所へ。保坂のぶとさんに会い選挙応援するぞと宣言。11時半保坂のぶと選挙戦出陣式。区議他の応援演説を経て、国民新党代表亀井静香氏、保坂のぶとの支援を表明する。妙な構図だが味方は味方である。亀井氏の演説は良く人心をつかむ。少なくともつかもうとしている。今の時期には亀井的政治家の位置感覚の方が信じられるような気もする。世田谷区長選は今の政治状況の鏡の如くの状態である。色々と臭い政治的状態はよく知っている。でも、わたしは目黒川プロジェクト他の理想を求める為には保坂のぶとしかないなの結論に達したので、そうする。

安西直紀を保坂に紹介して、選挙支援に関わるのを伝えたのは極めて政治的意味があるのだが、保坂がそれを理解し切ったのかは知らぬ。それは政治家の器である。

亀井静香演説の後、去る。広島よりの木本一之さん合流。近くのラーメン屋で生ビール。その後、地下のタイ料理屋で木本、安西、石山で昼食。良く喰うのである皆は。わたしは金を払うだけで実に寂しいが、これは廻り廻った義務だから仕方ないのである。何を話したか忘れたが楽しかった。15時過了。別れる。16時前世田谷村に戻る。

石山研サイトのトップページ、最上段のメッセージポイントに、向風学校、及び石山が世田谷区長選で保坂のぶとを応援するのをキチンと表現してもらいたい。

三陸沿岸被災支援、三陸ジャズ喫茶連盟代表菅原正二についで、世田谷区でも向風学校は保坂なおと支援、向風学校顧問(オジキ)の石山も保坂のぶとを支援を決めました。のキャプションをトプページにONして下さい。

四月十八日

6時離床。新聞は読めば読む程に?が多くなるばかりだ。特に政治面の空白が歴然としている。TV報道のベースは新聞にあるのは明白だから新聞はキチンと報道してもらいたい。TVよりも活字を信用するのではない。新聞記者の在野精神を信頼したいのだ。何かが大きく歪められて報道されているのを感じる。TV報道人に在野精神=本来のジャーナリズム、の香りを嗅ぎ取る事は出来ない。新聞人が頼りだ。

我孫子真栄寺の馬場昭道さん三陸沿岸被災地支援絵葉書とり敢えず10セット引き受けてもらう。

479 世田谷村日記 ある種族へ
四月十五日

11時半研究室、東北プロジェクト打合せ。三陸海岸唐桑・佐藤和則さんより便り届く。佐賀新聞文化センター梅木さん動き、佐賀県より三陸海岸諸市町村および福島よりの移住者受入れの具体策を示せの連絡入る。リアルに計画を進行させる算段を打合せ。一定の結論を得る。

13時研究室ゼミ。『atプラス』編集スタッフ来室して次号表紙デザインの打合せ。若いスタッフであるが考え方はしっかりしていて面白い。わたしの表紙イラストはヴィジュアルの価値だけではなく、動き、時間的プロセスの表現でもありたい。運動とは言わぬが、その考えを述べた。

M0、M1に与えた、世界史の中の大災害と思考の変化に関して、それぞれの能力に応じたリポートが提出され、それなりに充実していた。全ての院生に対応するのは中々にこちらのエネルギーも要するのであった。16時半了。

17時半研究室発、新大久保近江屋へ。向風学校安西直紀、渡邊助教、M1・Sと目黒川プロジェクトの準備過程の打合せ。世田谷区長選に関しても安西くんと打合せ。若い人は良く食べて、それを眺めているだけでも明るくなる。20時過ぎ了。21時前世田谷村に戻る。年齢とはいえわたしは小食になった。我ながらエレガンスになっていると馬鹿な自己満足にひたりながらも悲哀も襲いくるのであった。

四月十六日

7時前離床。駅前のコンビニに普段読まない新聞を買いにゆく。時々全紙に眼を通す必要がある。モヘンジョダロの遺跡の桜はみな散り果てた。遺跡の片隅に一株、菜の花の大きい株があり、子供の背丈より大きい。その株が見事な黄色い花をつけて美しい。わたしの好きなビワの樹の王ももうすぐ実をたくさんつけるだろう。

10時世田谷村発、私用。14時半戻る。昼前に食べたとろろそばがおいしかった。保坂のぶとさんに連絡、明日の世田谷区長選の事務所開きに向風学校代表安西直紀と出席のこととする。地元世田谷区が抱える問題は大きい。この際、区長選は旗幟を鮮明にする。非民主非自民非社民非共産非公明となると、どこからも弾き出た保坂となるのである。前区長が引退し、五人の新人が乱立する区長選は激戦区となった。

東京新聞の「歩いて楽しむ京都の歴史」山田邦和が眼を引いた。北野経王堂の復元図の図版にビックリ。この巨大建築は知らなかった。ありし日の、つまり足利義満が創建した北野の経王堂は正面幅58M、奥行48M、高さ26Mの巨大建築であった。これは江戸期再建の現在の東大寺大仏殿に匹敵する。しかも図版から考えるに屋根の大きさが山のようで唐招提寺金堂を異様に大きくした感じである。図版に感動してしまった。東京新聞に何故京都の今は亡き巨大建築が登場しているのかは知らぬ。この図版だけでも東京新聞は大した事をした。しかし筆洗という一面のコラムの質は平板で読むにたえない。

478 世田谷村日記 ある種族へ
四月十四日

11時半研究室。三陸海岸被災地復興支援絵葉書第2弾50部を受け取る。他打ち合わせ12時半発。地下鉄で渋谷経由田町建築学会。13時半日本建築士会連合会審査委員会。一次書類審査。村松映一、櫻井潔、鈴木博之、竹原義二、難波和彦、出席。旭市にオヤオヤ、しかしこれは見てみたいと思うのが一つあった。15時半投票、集計、現地審査のスケジュールを決定。16時半了。散会。竹原義二さんに絵葉書10セット渡し関西で売っていただくことになった。ありがたい。17時過新宿に鈴木さん、難波さんと出る。長野屋食堂でキンピラゴボウ、湯豆腐。味王に移りXゼミ会合。電話で山本理顕さんと話す。鈴木、難波両氏に絵葉書売りつける。30部はとりあえず世田谷村で一次販売する。世田谷村で200セットは売る予定である。読者諸兄姉も御用心、わたしに会ったら必ず絵葉書売りつけられますよ。19時過散会、20時頃世田谷村に戻る。

Xゼミ石山17信で示した塔状立体群の骨子は旧友大野勝彦が示そうとした生産単位としての社会的箱、つまり商店にも学校にも住宅にもなり得る社会的ユニットというユートピア的ビジョンを下敷きにしている。それに加えてエネルギー、水のインフラストラクチャーに関する考え方を段階的に自立型の考え方へ近づけようとしている。地中に埋めた部分にエネルギー調整小装置と天水受け、井戸ポンプがある。天水受け、及び浄化槽装置に関してはすでに富士ヶ嶺観音堂で実施している。あの屋根に太陽光発電と風力発電そして浄化槽にバイオマス要素を組み込めば、あの観音堂は完全に自立できる。

四月十五日

六時離床。メモを記す。サイトをのぞくも石山研サイトは何故か接続できず。今日平安コラムが更新される筈だが、核廃棄物とネイティブアメリカンの関係については、鎌田遵氏の『「辺境」の抵抗』御茶の水書房、核廃棄物とアメリカ先住民の社会運動に詳しいので関心のある人は読まれたら良い。核開発の先進国アメリカはその核廃棄物処理に於いて大変な闇を抱え込んでいるのを知るだろう。

福島第一原発周辺地域の未来はどうなるのだろうか。すでに先例はアメリカにある。

又、東北地方で地震があった。岩手県沖が震源地で一関は震度3である。ベイシーも気が抜けないな。ところで、石山研のサイトだが、トップページ(日本文)のXゼミの見出し用ヴィジュアル横並びの三点中、真中の新しい村のドローイングは今日中に別のモノに更新されたし。同じ新しい村のプロジェクトで良いが、絵柄の違うものをONしたい。ドローイングはまだ沢山素材を作ったのでそれを使いましょう。小さなひとコマでも動かしていると、それに気付いてオヤと思う人が必ず居るものです。

477 世田谷村日記 ある種族へ
四月十三日

12時研究室。小打合せ。ドリトル先生動物園倶楽部と仮に名付けている動物病院のドローイングを描く。東北復興計画と少々異なり、気分ものびやかに描ける。何よりも色彩が明るく鮮やかになるのが自分でも不思議だ。でも、デザインとしては実に困難極まるのである。ハードルが高い、棒高跳びのヒーロー、ブブカでも飛べぬ位に高い。だから面白い。アニミズム紀行6に10冊10点描き、ミーティング。今日描いたドローイングを基にすぐに模型製作をオーダーする。自動的にすすめられる、つまり参考例などは皆無とは言わぬが希少である。少し余力があったので更に5冊程に描き込む。

ドリトル先生動物園倶楽部会報No.3が仕上ってきて打合せ。こうやってまとめてみるとわたしの仕事の中には沢山動物、鳥たちが登場していたのだな。19時前研究室発。20時世田谷村に戻り、メモを記す。

昨日から本格的に第1弾の三陸海岸被災地支援絵葉書6枚組セットの、予約して下さった皆さんへの発送作業を研究室で開始した。お陰様で第1弾の絵葉書はすぐに全て売れてしまった。1年間の長丁場になるので、2弾目以降も是非買っていただきたい。順次絵柄のクオリティは上がってゆく筈です。そう心がけている。気仙沼では400tの大型漁船が国道に乗り上げ、それを撤去するだけで数億円かかるらしい。保険金を除いてです。そんなのが数百隻ある。それを考えると、わたし達のしている事は誠に極微小ではあるけれど、それでも必ず役に立つ。絵葉書を買って使って下さい。気仙沼・唐桑の、今は歴史になった姿を記憶にとどめて下さい。

22時過横になり読書。

四月十四日

七時半離床。すぐに地震が来る。三陸海岸被災者支援絵葉書プロジェクトの第1弾はアッという間に予約完売した。これから振込んでいただくお金は三陸唐桑町は元町長(今は気仙沼市に合併された)の佐藤和則さんに、気仙沼市は商工会議所会頭臼井賢志さんに送ります。お二人共長年のまちづくりを介しての友人で信頼できます。すぐに役立てられると思います。出来ればこの地域の子供達の何かに役立てられれば良いなと考えていますが、その気持は伝えるにしてもお二人に任せたいと考えています。

世田谷村の庭に水仙が白い花を咲かせた。東に住宅が二軒建ってしまい朝は陽陰になってしまうのだが草花は強いな。

476 世田谷村日記 ある種族へ
四月十二日

13時前新大久保駅前近江屋にて妹と会う。いささかの相談と昼食。13時40分了。地震に気をつけましょうと声を交わして別れる。14時前、研究室。短い打合せ。Xゼミのヴィジュアルを決定する。平安コラム7、3枚書く。東北山岳都市のドローイング打合せ。少し面白くなってきたがまだまだだ。又、地震が来る。17時半研究室発コーリヤ料理屋へ。動物病院プロジェクトの打合せ。コーリヤ料理屋は満員でにぎやかである。19時過了。20時過世田谷村に戻る。

福島第一原発の事故状況はチェルノブイリと同レベルの7と公表された。我々は未知の荒野の入口に立ちすくんでいるのだ。並々ならぬ困難に対面しつつある。キチンと自分で考えて自分で対応しなくてはならない。多くに巻き込まれてはならない。

四月十三日

8時離床。サイトをのぞく。難波さんのページにXゼミナールの石山信がONされている。初めてXゼミのページにヴィジュアルが登場したので言葉の逃げの無さを嫌うタイプの人には気が休まるかも知れない。ドローイングの説明他不充分なところもあるが、これ位のルーズさから始めるのも良い。Xゼミナールのメンバーの、勿論多くの読者からの御批判をあおぎたい。

我々のサイトに戻り、トップページにXゼミナールに投稿したドローイング3点がONされているのだが、何のキャプションもないので、これは読者は何のことやらわからないのではないか。左より、それぞれ都下武蔵野市売建立体群イメージ。新しい村=新移民農園、売建立体群イメージ模型、のキャプションを附加して下さい。

又、新しい村つまり国内難民農園のことなのですがこのドローイングはまだ多くあるので時々更新したい。

又、Xゼミナール石山最新信を佐賀の梅木さんに伝信して下さい。

平安コラム更新して下さい。

風は冷たいが、ようやく春めいた陽光の強さになってきた。しかし今朝も地震がすでに二度程襲来している。いかんともしがたいなコレばかりは。依って立つ大地、つまり地球が変調をきたしているんだから。でも地殻変動の大方が環太平洋に集中しているのも不思議なものだ。西欧とアジアの歴史の違いもこんなところに起因するのかも知れないな。11時妄想を断ち世田谷村を発ち研究室へ。

475 世田谷村日記 ある種族へ
四月十一日

11時半南蛮茶房にて小川さんと会う。南相馬町長との面談の模様を聞く。13時前別れる。安西直紀さんと短い連絡の後、いささか動く。16時半世田谷村に戻り、平安コラム、3.5枚を書く。

枝野官房長官より正式に「復興構想会議」の発足が記者会見で発表された。安藤忠雄さんが主要メンバーとして入っている。菅総理大臣の肝入りというか、私的組織のようにも視えるが、菅総理退陣後もキチンと継続して機能するのだろうか。しかし、安藤さんは勘がいい人だからある意味では腹をくくったのだろう。つまり。政府トップは誰でも良い、飾り位の考えでいるに違いない。

17時過又も大きな揺れ。福島県浜通り、深度10㎞、マグニチュード7.1である。こう連日大地が揺れると、平常心を言い聞かせようとする近代的理知らしき枠内の自分が愚かに思えないでもない。地球はまさに生霊そのものか。

19時半、ドリトル先生動物園倶楽部報No.3を白足袋の力を借りて書く。こんな時にこそ、この倶楽部の運動らしからぬ遊びそのものこそしっかり続けなくてはと、白足袋がしっぽを振ってそそのかす。それ位わかっているさと、負け惜しみで言い返した。実は奴がいなけりゃ、そんな気持も湧き出さなかったのが本当の事だ。猫に助けられた。ドリトル先生動物園倶楽部は年4回の会報を送信することを旨としています。決して不本意な中断はしないので随時入会して下さい。

20時10チャンネルに気仙沼の臼井賢志さんの長男の臼井荘太郎さんが出演して正論を、気仙沼人らしい意見を堂々と述べている。若い頃の賢志さんそっくりだ。千葉我孫子の馬場昭道さんから電話で教えられた。

22時頃、山田脩二さんより電話あり。東北三陸海岸宮古からであった。昨夜は気仙沼市で野宿したとの事。唐桑にも寄ったとの事。

「何にも無くなっちゃってる。映像とはまるで違うんだな。カメラマンの無力さを感じるよ。早くカメラマン止めて良かった。カワラも何処でも無惨だった。今日は宮古まで来て、小さな部屋を見つけてやっとシャワーを使えた。勿論、淡路から千㎞以上車で来たんだ。ガソリンまきちらして。明日は福島の山の方へ行ってみる」

と一方的にしゃべった。山田脩二さんは実にその感性が素晴しいのだけれど、流石にこの大震災、大津波には言葉もないようである。

四月十二日

6時過離床。新聞を読み、メモを記す。昨夜は山田脩二さんから電話をもらって驚いた。一関ベイシーの菅原正二さんにしても淡路の山田脩二さんにしても世間では変人の種族に入る、入れられるのであろうが、わたしにとっては凄玉なのである。こういう時には彼等のような自分の価値観を日常生活の判断基準にして生きている人間達の考える、生き方が頼りになるのではなかろうか。

7時40分、三陸海岸にいる山田脩二に連絡。宮古のホテルを出て、今浄土ヶ浜の海岸を歩いているとの事。盛岡まで北上するらしいので岩手一関のベイシーに寄ってみてくれと依頼する。

今日も良く揺れる日だ。

475 世田谷村日記 ある種族へ
四月九日

雨模様の中、11時半研究室。すぐにアニミズム紀行6にドローイングを入れ始める。今日は「新しき村・国内移民計画」を描く。昨日のWORKを経て少しずつ理想形がまとまり始める。9日付の日付のあるドローイングは我ながら良いと思う。受け取られた方は視入っていただきたい。16時、10冊に10点描き込んで休止。今日はこれ迄とする。機が熟してきたような気がするのでXゼミの原稿を書く。6枚18時前了。渡邊助教等にXゼミへの投稿を依頼する。「atプラス07」、2月号の表紙のドローイング、オリジナルとその後製作した模型の写真、そして本日描いた国内移民村=新しき村=21世紀農村計画を集約した計画案になるだろう。18時過簡単な指示を終え、研究室を発つ。19時過世田谷村に戻る。今日で禁酒禁暴食3日目で、我ながら良く仕事をしている。修道僧みたいだ。

東北一ノ関ベイシーの菅原正二さんに電話がようやくつながる。

「おとつい(4月7日)の地震は余計な奴だったが、まいった本当に。ようやく例の奴の後始末を終えようとしたところに、震度6強のが又、来て。又、全部オジャンだ。もうカンベンしてくれという感じです。どうしていいやら、又、片づけても又来るかも知れないし・・・・」

「ウーン、東京でもね、おとつい(4月7日)の余震は実に恐ろしかった。東海大地震が来る予感もあったから、東京にも来るだろうな」

「東京やられたら、もう打つ手はないなあ。地下鉄は水びたしになるから、危い。乗らない方がいいよ」

「ウン、乗らないようにするよ」

と、かなりお互いに見通しの無い会話を交す。でも正直なところだ。わたしの軟弱さはさておき、菅原正二が見通しがつけられぬ、不安だと言うのだ。実に足許がゆらぐ感が襲来する。しかしである。しかしながら菅原にしても、卑弱なわたしにしても、お互いの不安、気持の揺らぎを拙劣ながらも共有できる間は大丈夫だろう。今、我々は不安の中である種の共通の感覚、あるいは共通意識を育て始めていると考えたい。これを形にしなければ。できるだけスケッチを描いて、できるだけ他人に渡したい。

四月十日

6時半離床。新聞を読む。絶版書房通信4月10日版を書く。4枚だけど、コレワ時間がかかった。10時過修了して休む。小川さんは昨日一部禁断の地でもある相馬市に入った筈だ。TVを視たら南相馬市は自主避難の圏内というグレーゾーンに入っており、この地域の人々の苦渋は大変なモノだろうと察する。

昼頃、ひっそりと岩手県一ノ関市のベイシー店主菅原正二さんよりFAXが届いていた。岩手ジャズ喫茶連盟の三陸沿岸支援の呼びかけであった。いわゆる「行政」とは無関係の地下組織なので岩手県とは無関係であるらしい。わたし共のサイトに掲示して知らせたい

15時世田谷村近くの芦花中学小学校の投票所へ。都知事選の投票。道々の花や桜の花に視入る。烏山周辺では桜は今日が満開である。近くのモヘンジョダロの遺跡中、枝垂れ桜の濃い紅の花が見事である。かたわらの夏みかんの樹も実をつけて、その色の取り合いが絶妙である。雪柳の白い花も桜の花とは違う良さがある。世田谷村の西の生垣の大輪の赤い椿の花の小枝を折ってガラス器に生けた。

文藝春秋5月号、東日本大震災を近くの本屋で買い求めて読む。生々しいが、うまくまとまっていない。20時より全国地方選挙開票速報をラジオで聞く。予想通り民主党惨敗である。現政権下での東日本大震災復興計画推進は不可能になったと考えるべきだろう。

四月十一日

6時半離床。新聞を読む。日本は今笹舟の嵐の中にあるが如くに揺れ動かされている。船長は嵐の海を知らぬ、又想像力に欠如している。情報時代すなわち民衆の鏡としての政治家の才質に著しく欠けている。昨日の統一地方選、特にわたしが選挙権を持つ東京都知事選では、東国原、渡辺というオモシロ劇場の芸人風立候補者が落選したとは言え共に100票万以上の票を集めた。宮崎県人には悪いが、宮崎と東京は劇場としてもキャパシティが異り、宮崎の宣伝家風情がそのまま東京で通用するわけが無いとは考えていたが、それでも20代30代の不動票をかき集めた、この明石家さんまじゃない東国原の政治家としてのこれからは要注意になるかも知れない。情報時代の民衆、つまりは内閣支持率報道に動かされ、動く民衆のアレは鏡なのだ。しかし、居酒屋チェーンの成功者と共に落選してくれたので良かった。この二人が落選することだけを今度は願ったからだ。寂しく貧相な選挙であった。

研究室へ。Xゼミナール、絶版書房、コラム、日記と四本のマテリアルが今日ストックされます。Xゼミナールは図版入りのページにして難波さんに送って下さい。そして図版をキチンとレイアウトしてXゼミにONされる日に、我々のサイトのトップページに同時ONして下さい。今週の半ばくらいになるのかな。

トップページに三陸海岸支援の絵葉書プロジェクトがズーっとONし続けるのは望ましくない。絵葉書プロジェクトの第2弾ページはOKですが、少し計りのコメントを付け加えたいと思います。10時半には送ります。又、岩手一ノ関ベイシーからの記事は出来るだけ早くサイトにONして下さい。何処にONするかは工夫して下さい。任せます。

今年の夏は長い夏になりそうです。夏の終わりに、そして冬の始まりに品川宿、目黒川、烏山寺町周辺で、この絵葉書プロジェクトの巡回展をやってみようと思います。少しずつ考えておいて下さい。

473 世田谷村日記 ある種族へ
四月七日

8時40分仙川杏林病院、採血を経て9時15分4階待合いロビー。二度程定期検診をパスしたので、今日から再びキチンと検診には通いたい。二ヶ月に一度だから苦ではないのだが、気がゆるむとこうなってしまう。このところ体調が思わしくなかったので、今日は相当言われるかも知れぬ。

「東北山岳都市」「東北山岳生霊院」「東北漁港再生計画」「新しい農村=移住者を中心として」「生物の病院」「水に関する諸々の計画」の6計画を同時に走らせたい。

Y先生検診、案の定数値が悪く、ビシリとおどかされる。初心に戻れと言われた。初めは本当に数値の上がり下りにビクビクしていたから、確かに酒も飲まなかったし。お酒勿論止めてますよね、と言われ、しどろもどろにハイなんて答えてしまった。次回は重量級の諸計測を伴うモノになった。大震災、大津波は我が魂に及ぶどころの、形而上学どころか、身体にしみ込んだのである。厳しく自己管理しなくては。10時半了。事務手続き、薬局を廻り11時過終了。バスで仙川へ。新宿経由新大久保近江屋で昼食。研究室12時40分。13時人事小委員会。14時教室会議。16時了。絶版書房アニミズム紀行6、7冊にドローイング描き込む。18時半中断して、地下鉄で新宿南口味王。プロジェクトに関して打合せ。この大震災は極めて多面的にかつ大きく日本社会をきしませ始めている。

今日、気仙沼の臼井賢志さん、唐桑の佐藤和則さんと再び連絡を取った。石山研OB・OGが精力的に集めてくれた大震災被災者支援金の振込み先について相談。臼井さんは気仙沼商工会議所会頭でもあるので、商工会議所に直接送附し、迅速に被災者に手渡されるように、あるいは子供達の役に立つようにと思うが臼井さんに一任したい。

唐桑の被災死亡者は百名程度だと佐藤和則さんは言う。今日から電気がきた。唐桑は平地が少なく、皆高い処に住んでいるから、死亡者がせめてもの少なさですんでます。金は佐藤和則さんの個人口座に振込む事となった。送る金は手際良く使用されるであろう。彼の義侠心とリーダーシップは地域随一である。

21時半世田谷村に戻る。23時半、マイナスイオンを発生させ横になった途端に大きな揺れ。ラジオをつけると青森から茨城にかけて津波警報発令。くり返しくり返し海から離れて、決して戻らず高台に避難するようにとラジオは叫んだ。3・11のマグニチュード9の大揺れの時よりも、余程わたしには恐ろしかった。マグニチュード7.4、震源は宮城沖深度40kmとの事。何も解らなかった、つまり事態を把握できなかった3・11の時よりも震災の結果情報、その悲惨さを知っていたので恐ろしかったのだろう。鈍いわたしでも、本当に暗い気持に陥る。揺れが数分で納まっても不安で眠れず。

四月八日

7時過離床。すぐに新聞を読む。岩手県一ノ関ベイシーは再び震度6の揺れに襲われた。流石気丈な菅原正二も肝を冷やしているに違いない。

山口勝弘先生より葉書いただく。春の絵を描いたそうだ。負の遺産を大切にしましょう。津波で陸に上がった船などは作品として大切にして津波博をやりましょうと書かれている。芸術家とはまことにケンノンな者であるなとヒヤリとする。確かに陸上に大型船が乗り上げたり、民家の上に乗り上げたりの光景は非日常の極みであり、視方によれば自然の力によるクリスト的風景でもあるが、作品として、あるいは津波博覧会を開催しようという発想は今のわたしには全くない。

山口勝弘先生と比べればわたしは実に市民的常識の中に住み暮している。あるいは先生の発想(思想)はテクノロジーアーティスト、メディアアーティスト特有の反応であるやも知れぬ。

宮城県石巻市の津波被災者の集団土葬の映像に接して息を呑む。身許不明者の遺体を集団として仮土葬するのだが、巨大な穴を掘りお棺を並べ土を埋め戻す。骨になったところで掘り出し本埋葬するというのだがリアルではない。遺体が腐乱して環境衛生として良くないの理由からである。絶句する。ワイマールのブッヘンバルトの光景、強制収容所のモノと同じではないか。

11時に烏山南蛮屋コーヒー店で小川さんと会い、生物の病院を始動させる。彼は今晩より被災地巡りだが余震その他心配である。今は何が起きても不思議じゃない。

472 世田谷村日記 ある種族へ
四月六日

11時半、烏山で小川さんと会う。福島県相馬の避難所にマイナスイオン発生機を十台設置とやらで生き生きとしている。人間は火事場が発生すると力を発揮する者でもあるらしい。小川流政情分析も独特なさえとは言わぬが、偏見と独断に満ちてきていて聞いていてあきない。山形まわりで福島に入るそうだが、話している間はほとんど切符取りの為のケイタイにかかり切りであった。東京山形の飛行機便は取れたが早朝過ぎて、深夜便の高速バスにトライしてようやく山形から手を廻して取った。しかし、車で東京から動いてしまう愚は避けているのは賢明である。それで無くとも欠乏している被災地のガソリンを喰べてはいけない。マイナスイオン発生機を送ってくれたGSDの中国人張美玲さんと連絡がついて御礼を述べる。この機器は避難所にもとても有効なのではないか。インフルエンザへの免疫力も生まれると言う。もう少し使用してみてわたしも動いてみる。小川さんは「菅首相の退陣を求める市民の会」なる市民運動の会を首相の選挙地盤で始める思い付きを披露した。市民運動家から出発した菅首相のスネを蹴飛ばしてやろうとのアイデアは面白い。主要メンバーは韓国料理屋のオバンらしい。安西くんはヒントにしたら良いと、わたしも思い付きである。

石山研の震災被災者支援の6枚組絵葉書、これはホームページのトップページに全てがONされているのだが、その売行きが大変良ろしいようだ。これは嬉しい。もうすぐ第一次の販売は終了するとの事なので、まだ参加していただいていない方は早目にどうぞ。第二次販売は次のバージョンで切れ目なく持続してゆく。

18時半、少し早目であったが雑用をすまして世田谷村に戻る。読書と構想づくりにふける。何十年振りだなこんな虚心坦懐状態は。23時半、マイナスイオンの緑のランプを眺めて眠りに入る。

四月七日

6時半離床。今日は東北もとても暖かくなるそうで、皆さん自然の暖を少しでも取れたらと思う。中国大陸では揚子江の大ダム建設等により、百万人単位の国内難民が生まれている現象があるのだが、国土の広さなりの相対スケールで日本にも国内難民が確実に発生するだろう。その対策だってキチンと考えるべきなのに。今、各地に分散して避難している方々の大半、そして現在以上の数の方々が故郷の海岸沿いの地域に戻れる、あるいは戻りたいと考えているのかどうか疑問でもある。

8時過定期検診のため杏林病院へ発つ。

471 世田谷村日記 ある種族へ
四月五日

15時銀座裏路地で盛岡冷麺食べる。16時和光6階の「江里康慧・江里佐代子展 仏像と截金」へ。会場で上山元龍谷大学長とお目にかかる。馬場昭道、ブラジルからの谷夫妻等と会う。江里康慧に紹介される。現代仏師を代表する一人であるらしい。仏像は高級現代工芸なんだな。昭道さんのところの仏像も江里氏の手になるとの事。平安仏所、パラミタミュージアムの場所も持つ。古来仏像はこのような工芸家の集団の手によって生産されてきたのである。ミャンマーの大寺院のパゴタの頂部の宝飾が沢山のダイヤモンドで作られていると聞き驚いた事があるが、仏像ひいては寺院はそんなモノでもある。金目のモノがやはり有難がられるのである。高価なモノが良いモノなのである。小野田少尉、あの、時を越えた帰還兵の奥様にお目にかかる。昭道さんの人脈は広い。しかし、金銭の集合が仏像となり寺院になるという現世利益的システムにはチベット仏教の中心でも垣間見たし、仏道は末世なのだ。親鸞上人はいざ知らず、シャカの考えと正反対の考え方である事は誰の眼にもハッキリとしていよう。シャカは捨てよと確信に満ちて言い切った。日本の現代仏教は拾いまくっている。二千年以上昔に捨てた人がいれば、二千年後に拾いまくる人もいるのだ。しかし、仏教の人間達は・・・・合掌と呼ばわって全てを水に流して、ノンシャランアッケラカンとしてしまう悪いクセがある。それだけはイヤだ。

神田岩戸迄TAXi二台で走る。小野田さんも交え谷さんと旧交を暖める。岩戸はうまいが何しろ腹一杯になり過ぎる。谷さんは残りモノと言っても珍味美味をキチンと折づめにつめさせた。小野田さんの美しい日本語を使う人・・・の言が新鮮であった。明日谷さんは天皇に会うそうだ。

19時半お別れして、20時半世田谷村に戻る。昭道さんよりいただいた、仏教伝道協会大住広人著、『まことしやかに さりげなく』1800円+税を読む。映画監督松林宗恵の一生伝である。

松林宗恵氏には生前何度かお目にかかり、食事を共にさせていただいた。この監督の代表作は昭和56年の「連合艦隊」であり、世に知られているのは、森繁久彌の社長シリーズである。多作の人であった。現代仏教の良きも悪しきも丸呑みにした人間であった。

四月六日

7時離床。メモを記す。8時過東北の長澤社長と電話で話す。昨日は相馬市の避難所を巡っていたようだ。実行家の実質的な行動は見事だ。東北の計画が一歩進む気配あり。昨夜T氏より連絡あり、シンガポールの件。わたしの予想通り事態は展開しているようだ。遠いところのプロジェクトの政治力学は意外によく視えるものなのだ。日本には力学自体が存在しないのが残念だ。

470 世田谷村日記 ある種族へ
四月四日

13時研究室。メール他チェック。沢山の連絡が入っている。少しの打合わせの後、絶版書房アニミズム紀行6、及び小独立ドローイングを描く。小品4点、アニミズム紀行6、12冊に描き込む。山岳都市、山岳霊園のイメージが少しずつ進行する。恐らく膨大な量のドローイングを描く事になるであろう。18時半疲れて中断。韓国料理屋で一服。20時過世田谷村に戻る。2通の返信をしたためた。

四月五日

7時離床。意を決して杉田君より依頼されていた『GA JAPAN』へ、東日本災害への考えを急遽まとめた。対象読者の顔があんまり浮かび上がらず、まとまりの無いモノになった。10時過、いったんまとめて、メモを記す。11時いったん了。小休止。少しばかり原稿に手を入れなおし、GAに送附。

昨夜、考えついて向風学校・安西直紀さんに伝えた非広告機構版のCM作りは本格的にやれば面白いだろう。山本夏彦翁は広告とはサギと同類だと喝破していた。広告屋さんの大半も又サギ師なのである。今大災害に際して大量に流されたエセ人道主義的広告イメージは実に腐肉を喰うハイエナの如きであった。安西君はわざわざ国会議事堂に迄出掛けて、あのエリ立てトカゲならぬエリ立て宝塚スミレ組のレインボー女史の真似をして白いスーツで写真を撮るというナンセンスをやってのける行動力があるのだから、是非、何処かの企業の赤裸々CMを作成してみたらいかがか。

いいえ、こだまですのナレーションにドーッと児玉誉士夫がかぶって出るとか。アッ、ロッキード事件の児玉はもう忘れられているか。悪い冗談と だしてきた。メモを中断する。

469 世田谷村日記 ある種族へ
四月一日

13時世田谷村発。14時研究室。雑用他。14時半、2件打合わせ。わたしの考えの大筋を述べる。絶版書房アニミズム紀行6、2冊に「山岳都市構想」「山上の生霊寺院」のドローイングを描き込む。量産体制に頭も身体もどうしても入れないので、2冊で休止。腰を据えた長丁場を覚悟した。

色んな東日本大震災義援金支援、支援活動支援の依頼が舞い込んでいる。全てに対応したいのは山々であるが、研究室にそれ程の余力体力があるわけではない。支援活動は、気仙沼・唐桑の、今のところは子供たちへの支援に絞ろうと考えている。他はしたくても出来ないし、わたし共の活動スケールとしても合理的ではない。研究室の活動としても個人的にも支援は気仙沼・唐桑のわたし共の独自な人的なパイプを介して行いますので、ご理解をいただきたい。それの方が支援のスピードも速いだろう。今の政治システムは愚鈍に過ぎる。

18時半地下鉄で新宿南口へ。エスカレーターが駅舎内で停止しているので、病み上がりの身にはいささか辛い。味王で夕食。ご馳走になった。今日はわたしの67才の誕生日であった。W先生とは40年弱、S君とは恐らく45年程の年齢の開きがある。そろそろ、今までの体験の良い部分も悪い部分も含めて、最も最弱年とも言える20代30代くらい迄の人間に伝えてゆく努力もしなければならない。

23時半、マイナスイオン発生器のコントロールランプの緑の小灯を眺めながら眠ろうとする。

四月二日

7時離床。寝ていても起きていても同じような生活となったら人間としては楽なのだろうが、他人の眼を気にする俗人と言うか、普通に生きる市民としてはやはり何かセコセコしていないと気がすまぬ、安心できないのが現実である。憮然とした朝を過す。何をするでもない。考えもまとまらぬ。身体のバネも跳躍力も無い。何とかしなければとあせる。13時発。津波被災の歴史他を読みながら、明大前、渋谷を経て都立大学へ。渡邊助教等と安西直紀宅へ坂道を登る。安西宅の桜の名木はまだ一分咲きである。咲くのを桜もためらっているのであろう。色も今年は淡いようだ。安西直紀の御両親と長く話し合えたのが良かった。18時前失礼する。安西、渡邊は被災地の支援絵葉書他の話しを集まった人々にした。19時半世田谷村に戻る。

四月三日 日曜日

8時半頃離床。被災地の方々はどんな日曜日を過ごしているのだろう。日曜日つまり安息日である。60年昔に我々は米国との戦争の敗戦占領の憂目に会った。占領下の日曜日という休日の慣行はその時(60年前)に極めてアメリカ文化的な背景を持っていたのだろう。アメリカ資本主義の根底にあったプロテスタンティズム(キリスト新教主義)の中枢である。日曜日は神と共に安息する。そして我々も日曜日は休息していた。少くとも歓楽に励む事はしなかった。わたしの幼年期である。家族も地域も皆が休息していた。皆が何処かにレジャーらしきを楽しみに出掛ける事もなかったし、デパートや繁華街に買い物や浮かれ歩きを試みようともしなかった。家に休息していた。

あれから60年の歳月が経ち、我々は休日、ましてや安息日を失った。全てとは言わずとも殆どが歓楽日に転じたのである。消費社会の実体とはそういうモノである。しかも我々は自らの内から歓楽消費を求めているばかりではない。歓楽させられ、消費させられているのでもある。消費生物化した。

今関心があるのは明治時代の休日の風景、そして江戸時代の休日のありや、なしやでもある。知りたい事は多い。人生は短い。

16時半、デヴィット・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』の一部を再読了。モダンなものの経路を歩もうとする人々は、それぞれの時代は、どれ程、存在によってではなく、生成によってその時代の豊かさが得られたかどうかを判断されることになる。しかしそれ以上のことに関しては、わたし(デヴィット・ハーヴェイ)は同意することが出来ない。という結語にようやく納得する事が出来た。が、しかしこんな時にはあらゆる言説の力はそれ程に強くはない。言葉を失いそうになる時、それは必ずあるものなのを知るが、その時我々は、すでに神を持たぬ日本人でさえ(東京人と言った方が良いか)何かに祈ろうとする。一人じゃないみんなが居るガンバレ、ニッポンなんていう消費主義的低劣な広告主義でさえもその気配はある。自己演技ではあるけれど、それが内在されているのが怖い。しかし、年寄り優先席にドッカリ座り込む若者(バカ者)が一向に席を立とうとしない鈍さは世界遺産モノでアレはバカなりに頼もしいので中国産のパンダに代って世界の動物園に輸出すべきだ。

先日、少し慣れた暗い夜景の新宿がとても新鮮で胸にしみたので、念のために写真をとって記録してもらった。これは60年代の暗さだ。こんな気持が持続できるのかの自信も無かったから。この深い哀みの気持はいずれ消してしまえば良い類のものではない。長い時間に耐えてさらに強いものに育て鍛えるべきものである。

四月四日

8時離床。マイナスイオン発生器のおかげ様なのか良く眠れる。その分読書量が減るのが困るが。こんな時(大災害に直面した時)には書物はハードなモノしか受付けぬのを知ったのは小さな収穫である。ぬるい本は読むにたえられない。同様にドローイングがすすまないのにも実に困る。こんな時には深い処で自分の才質が試されているのを本能的に知るからである。あーだこーだ勝手な事をメモに記しても、こんな時程その全てが自分の身に襲いかかって来るのである。それこそ津波のように。

今日は『atプラス』誌に表紙デザインのスケッチを渡さなければならぬのだが、勿論出来ていない。方法は二つしかない。これ迄自分の描いてきたドローイングの今に即して適切なものを渡すか。それでも何か描くか。第一の方法しかないだろうな。チリのペルー難民のためのプロジェクトの為に描いた「チリの動物たちと農民のための劇場計画」のドローイングと、今年になって描いた「東北山岳寺院都市」のドローイングを、組み合わせていただくしかないのではないか。

今の東北の事態に呼応するモノとしては、アノ二つの素材しか強度として無理であろう。不思議なモノで、チリ建国200年祭の時に描いたあの小さなドローイングはプリミティブな人間や、動物、そして宇宙にに対する共感が溢れ返っていたように思うので、今の状態にでもわかる人にはわかってもらえるだろう。こんな時には気取った抽象性は余りにも非力だし、作る気持にも卑しさがつきまとうのである。作ったモノはダメだ、自然に生み出されたような正直さだけが頼りになる。その上に東北の寺院都市、山岳都市のドローイングが浮いている様な図柄が良いのではなかろうか。後でその構図のアイデアを研究室に送附する事にしたい。

3月の世田谷村日記