2011 年 7 月
- 551 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月三十日
8時45分離床。頭が痛いのが自分には珍しい。シクシクしているのだ。昨日、保坂展人区長の秘書より、世田谷区自然エネルギー協議会を設立するのでメンバーになれとの連絡があった。「世田谷式生活・学校」の展開とも連動できるので、喜んで引受けた。区長も秋から本格的に動き出すのであろう。ソフトバンクの孫正義氏の自然エネルギー制度、路線とはひと味違う市民エネルギー的なポリシーを作らねばならぬだろう。ファンドを創立すると言うのは良いと思う。
第4回9月からの世田谷式生活・学校はしばらくそのプロジェクトに集中させる事も決めた。
孫正義氏のアイディアの根本はスケールである。遊休農地、塩田、他の高効率の再使用を空前のスケールで成そうとする事にある。多くの自治体がすでに賛意を表明している。
この考えは正しくもあるが原理的に巨大な欠陥が在る。
やはり、巨大発電所の立地同様に地方の空地を利用して発電装置を作り、それを都市に送電するという根本的な欠点がある。最大の電力消費は大都市である。遠くから電気を送電する送電ロスは実に計り知れぬものもある。送電施設のインフラも大変である。送電塔の林立は日本本来の自然風景を破壊している現実もある。それ故に、都市は都市内に発電装置を所有すべきであろう。
先ずは世田谷区をベースにして、その原理のモデルを作ってみる。
恐らくは孫正義氏の巨大クリーンエネルギー構想は大きな矛盾にブチ当たるのではないか。エネルギーはもっと小さく細妙な極微システムの集積によるアメーバ型のイメージになるのではないか。
頭が痛いので横になる。ここ2、3日色々と考え過ぎたからだろう。
過ぎたるは及ばざるが如し。昨日昼間に難波和彦さんに小時間お目にかかった。今度の世田谷式生活・学校でのレクチャーにホンの少しだけ注文をつけた。失礼だったかも知れぬが、わたしだって少しは違う難波さんを視たいのだ。
明日は大地震関連のシンポジウムに出席する。手を抜きたくないのでいささかの準備をする。
フーフー眠っていたら、午後、明日のArts CHIYODA(元練成中学校)14時〜16時の、データが修正後送られてきた。又、今年の東京大学との合同課題の案も送られてきた。大方良い。気仙沼・唐桑共に随分踏み込んだ計画になっているが、東京の人達にそれが解るのか。しなくても良い事をやるような気もするが、浅田彰がキチンとするだろう。『atプラス』09に書いたエッセイの、少年版ではある。暑ければ暑いで文句を言い、夏の寒さにも文句を言う。たいした者ではないな人間達は。しかし、微妙なところで季節の変化に変調が視える気がする。大変な事だろうなコレは。乗り切れるかな人々は、空調を使わないで、つまり電気を大量消費せぬようにして。フーフーがフラフラになる。おかしいぞこれは。
夕方、気仙沼の臼井賢志さんと話す。臼井さんは案の定三陸海岸復興協議会の会長になった。気仙沼だけではなく、実質的に三陸海岸全体を見なければならなくなったのである。一世一代だな臼井さんは。
それ故、銀座計画は気仙沼、唐桑のみならず三陸海岸全域にわたる事になった。臼井さんの力である。
-
七月三十一日 日曜日
離床できず、頭痛つづく。念の為体温を計ったらどうやら完全に発熱していた。今日の午後のシンポジウムへは何とか出るつもりだが、不調である。珍しい事なので、体温計を2本使い計り比べる。38度5分になったらキャンセルするとデータ作成の渡邊助教に伝える。
どうやら、ここ数日のどうにもならぬ不調振りは発熱にあった。咳をすれば頭がズキズキ痛いし、頭を動かせばこれ又痛い。高血圧で死ぬかと心配になり、血圧を計る。これは70〜124で正常のようだ。まだ脳溢血にはならぬようだ。
この身体の変調の原因をかえりみるに、バンコク迄の中古のエアークラフトの過剰冷房ではなかろうか。ほとんど冷凍庫に収蔵されて、6時間を飛んだ。吐く息だって白かったやも知れぬ。バンコクに着いたらワァーッと暑気が襲ってくると考えていたら、意外や意外涼しかった。気持は亜熱帯へ、身体はシベリアの状態ではあった。しかし同行した若者はピンピンしているようで、キッと鈍いのであろう。
しかし、タイ航空の飛行機は殆ど皆古くなった。ボーイング747を使っている航空会社がまだ世界にあったのかと思う。空調が殆どコントロール不能なようで、乗客は皆冷凍ミイラ状なのであった。あの一日でわたしの身体は今に続く変調をきたしたに違いない。
中国の新幹線まがいの事故と言い、タイ航空といいどうもナショナルフラッグの乗物はその国の状況を反映してしまうようだ。
メモを記していたら肩や手の関節部に小さな痛みが走る。今度、南廻りのフライトで飛ぶような事になったら、タイ航空の747は避けるべきだろう。
一時期アメリカのナショナルフラッグであったPAN AMの末期状態の頃、その飛行機がさびて、内部も荒れていたのを憶えている。
であるから、わたしはわたしのこの身体の不調を中古飛行機熱と名付けたいと思う。鉄道と異なり、飛行機だけはできるだけ新型が良いらしい。
12時世田谷村発。13時20分地下鉄銀座線末広町で渡邊助教と落ち合う。近くの3331 Arts Chiyoda 到着。まさに到着であった。浅田彰さんに久し振りに会う。14時シンポジウム開始。浅田彰、五十嵐太郎他のメンバー。30分弱、気仙沼、唐桑計画について話す。声はいささかかすれ、背筋に悪寒走る。義務を果して、コーヒーをいただいてすぐに帰る。
一気に烏山迄辿り着けそうにないので、途中新宿味王に寄り、渡邊助教に夕飯を喰べてもらう。データ作成他の御礼もある。19時過世田谷村に戻り、ひっくり返った。
-
八月一日
8時半離床。まだ頭痛は続く。流石、年令を感じさせてくれる。一向に良くなっていないのだ。
昨日のシンポジウムでは山口勝弘先生の「三陸レクイエム」の話しをすれば良かったといささか反省。どうやら今も若い人達は完全に縮み志向のようで、昨日のわたしの話は恐らくホラーの如くに受け取められたのではないか。
山口勝弘先生の現在をわたしはアートそしてアーティストの現在と受け取めていて、それを冒頭に話せば良かったな。次に何かの機会があればそうしよう。
今日も外出は出来ないなコレワ。
庭のクズの葉が中央をおおい尽くし、2階からは外界が視えぬ位になった。エコハウスだとか、エコロジーとかの言葉の響きが嫌いだが、少しゆずって今の我が家はクズハウスである。これなら良いな。クズに乗っ取られつつある家。ゴミではない、あくまでもクズである。
まあ要するにゲゲゲの鬼太郎の家みたいになりつつある。水木しげるさんも金子兜太さんも南方の戦地からの復員者である。
桁外れに大きな自然エネルギーを五体に受け入れて帰還した。それが両氏の作風によく表われていると思う。分野は違うがわたしには同じに感じられる。汗をビッショリかきながらメモを記している。
こうなると日記も意地で記しているとしか言い様がない。
- 550 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十九日
8時離床。寝過ごした。遠藤周作『眠れぬ夜に読む本』(光文社文庫495円+税)を眠らないで読み通してしまったからだ。遠藤周作に対しては『死海のほとりで』他の信仰と生と死に関する真当な書物の大方は読んだ。第三の新人と呼ばれた吉行淳之助、安岡章太郎等の中では最も好ましい書き手だと考えていたが、どうしてもかくなる狐狸庵先生モノが好きになれずにいた。何故なのか考えた事もなかった。先日、本屋をのぞいたらこの文庫本がまとめて置いてあるのが目に入り、手にした。読む気にもならず捨てておいたが昨夜遂に読んだ。この人物は亡くなる前にはやっぱり随分死後の世界について考え、色々な手掛かりを得ようとしていたのが知れる。ユングやニューサイエンスを読みすすんだようだ。カトリック信者であったから、やはり絶対の神、そして救済の問題から離れられなかった。どうしてそれでは俗受けのする狐狸庵モノを残したのか。人物の謂わゆる純文学モノを読み続けた読者の少なからずは、ハシゴを外されたような気分にもなったろう。本来ユーモアの気質に欠けた人間のユーモア位暗く陰惨なものはない。作家だって家の事情とか、経済問題も大いにあったろう。純文学の売り上げだけではとても喰っていけなかったのでもあろう。良く言われた如くに、真当すぎる問題に取り組んでしまったストレスを、こういうジャンルで気を抜いて、発散させねばならなかったというのは多分当たってはいない。
それでも何故遠藤周作の本を手に取ったのかと、自問すれば、若い頃に鈴木博之さんに言われて、ネラン神父に会い、それでネラン神父がカクテルをふるう、エポペ2なるBarの設計を手掛けたからだ。ネラン神父は目白の東京カテドラルの司祭であり、日本有数のカトリック者であった。日本で信者が一向に増えないのを考えた。サラリーマン達と附合うのが一番だの結論に達した。それで新宿に神父としてBarを開いた。
大柄で真直な実に正直な人であった。遠藤周作さんと比べるまでもなく正直そうな人であった。それでも本当のところは解らない。
そのネラン神父をモデルにして遠藤周作が書いたのが『おばかさん』であった。
ネラン神父は今、東京カテドラルに眠っている。遠藤周作さんが何処に眠っているのかは知らぬ。
ネラン神父のエポペの導きがあり、わたしはカルカッタに出掛けた。そうしてマザーテレサにお目にかかる事も出来た。マザーの死を持つ人の家の清掃から背中を流したりの活動の真似事も少しした。これはとてもわたしの手に納まる世界ではないのはすぐに知った。本当の信仰が無ければ、ハンセン氏病人のただれた背中を素手で洗い流すことは出来ない。わたしは立ちすくみ、鉄パイプのベッドの清掃班にしていただいた。
その後、その体験が尾をひいて、色んな仕事をした。ヘレン・ケラー記念塔や、他の数々もその体験の産物であったのを今では良く知るのである。そんなわけがあって、遠藤周作さんはネラン神父や、マザーテレサの世界の人間だと言う考えがある。でも大きさが異なる。
わたしは畏敬するばかりで、マザーの手を頭にいただいたばかりだった。家人にはその小柄な身体に抱いていただき、声を掛けていただいた者もいる。恐らくその感覚は無意識のうちに一生を左右するのだろうと思う。
遠藤周作の本がやっぱり、煮え切らずに、再び山本夏彦の『とかくこの世はダメとムダ』(講談社)を読む。山本夏彦のフランスでの武林無想庵らとの中学生の頃の生活は凄惨なものであったろう。遠藤周作のリヨン留学等とは辛酸のなめ方の桁が違う。
山本夏彦の夏目漱石に対する辛辣さも、自身のパリ時代をかろうじて良くかいくぐったの自負が底にあるのではないか。漱石がロンドンでノイローゼになったのは良く知られている。夏彦さんは何回か自殺を試みたそうで果たせなかった。
そんな体験を経ての、とかくこの世はダメとムダである。
- 549 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十八日
8時離床。昨日は午後遅く世田谷美術館の野田さんにお目にかかり、山口勝弘「三陸レクイエム」展について相談に乗っていただいた。一人で自問自答する時間が多くなり過ぎると、時に陰鬱になる。そんなものだ人間は。それに耐えきれる強さがあれば良いが、残念ながらわたしには無い。それで独言を誰かに聞いてもらう必要が発生する。昨夕の野田さんはそんなわたしのわがままの犠牲者であった。
「入場料5000円ですか!!!」
と先ず野田さんは絶叫した。その途端にわたしは、これは5000円以外にあり得ないと決心してしまった。
恐らくは閑散として人気の無い、暮の一関ベイシーの、これまで非公開であった2階屋根裏部屋(これは絵葉書プロジェクトの第何弾かですでに絵葉書にしているが、知る人は少ない)。暮はいつもはベイシーでは、ドラムスの巨匠であったエルヴィン・ジョーンズのライブが常であったが、そのエルヴィンはもう居ない。それ故、エルヴィン・ジョーンズになり代り、山口勝弘のレクイエムが登場するのである。
ベイシー店主菅原正二は用心深い男である。エルヴィン・ジョーンズの空前絶後のドラムソロのベイシーでのライブ録音は当然とっているだろう。それ故、展示場の階下ではそのアフリカの地鳴りの如くのドラムスの音が鳴り響く事になるであろう。で、わたしとしても遠慮深くはするけれど、新しいプロジェクトの幾つかを、片すみに展示させていただくつもりである。それで、ベイシーのコーヒーが飲めて、ベイシーの音も聴けるのですぞ、5000円は安いのである。出血サービスである。
2011年9月11日には平泉世界遺産決定を祝して毛越寺庭園にてカウント・ベイシー・オーケストラのフルオーケストラライブが菅原正二の手によってなされる筈であり、それ迄は彼はそっちの方で頭が一杯であろうから、細部はそれが終了してからつめる事にして、2011年12月11日にオープン(日曜日です)、2012年1月11日水曜日にクローズいたします。開館時間はジャズ喫茶ベイシーの通常営業時間とします。自然光だけで視ていただく事になるでしょうから、午後〜夕方迄の展示になりそうです。1日の入場者数は勝手ながら数名に限定させてもらいます。
10時メモ終了、小休。
- 548 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十七日
昨日は早目の昼食を宗柳でとり、ふと気になって12時頃長崎屋に顔を出した。オヤジは明日退院との事で、常連の、ほぼ老人達が男女6名程でオヤジ退院の前祝いとやらで大いにテンションが上がっていた。町の小店やら自分の家からのオカズをズラリと並べて何やら飲んだくれている。うちでは視られなくなったTVも相変らずつまらん映像をたれ流している。
「センセイ、久し振りじゃねえか。やっと夏休みか」
と声がかかる。本当、恥ずかしながらここではわたしはセンセイと呼ばれてしまうのである。
「イヤ、自分勝手に休みを決め込んでるんだ」
「何言ってんだよ、我々は皆もうズーッと休みですぜ。他にやる事ネェーんだから」
6人程の老人の中で、少し顔色がさえなく、冷やし中華を皿に顔をつけるようにしている殊更な男がいて妙に気になる。75才くらいかなと思い尋ねれば60才だと言う。心配だねこの人は。そのブヨーンとした様子を見ているうちに、思い出した。
「この頃、メタボの小川はくるのかね」
と小川の悪口を始めようとしたら、噂をすれば何とやらで小川くんがやってきてしまう。
「南相馬に行ってきた」
と偉そうに言うもんだから、返す言葉で
「俺はカンボジア行ってきた」
と張り合った。剣道部のやさぐれ剣士だから、これは勝負あったと思ったのかそれで話しは切れた。高校のクラスメートだから、話しはどうも子供のケンカみたいになる。
「オバンは体頑健だネェ」と長崎原爆被爆のオバンに声をかけると
「何言ってんの、わたしズタズタよ」と顔色が暗い。常連の連中が色々と教えてくれて、オバンはオヤジどころでは無いくらい、実はやられているようだ。老人世界では何処でも女性が男性より圧倒的に強い。何とはなく物悲しくなって裏口からコソコソと逃げ帰った。そんな一日であった。
岩波新書『原発を終らせる』石橋克彦編、を読み切る。
9月の「世田谷式生活・学校」でわたしは世田谷式エネルギー消費生活(仮題)の本格的レクチャーを開始する予定で、少しずつエネルギー問題=大量消費生活問題に取り組むつもりで、そのスタディーの一端である。もう少し、広範に勉強してから読後感は述べたい。
これは我々の「Xゼミナール」が始めようとしていた1950年代の日本の研究に迄辿り着かねばならぬのはすでに知っているのだが、今のところ余りにも自分の非力ばかりを痛感するばかりだ。
今朝は6時離床。新聞各紙を読み、メモを記す。
ウェブサイトをのぞいたら、研究室の面々がトップページを大幅に更新してくれていた。
プノンペンの国立博物館でスケッチしたクリシュナ像(5世紀)の断片的復元像である。今回で2度目のスケッチである。短時間で描いたものだが、何年も前に円念に時間をかけてスケッチしたモノより出来は良い。
クリシュナはヒンドゥーでは歌舞芸能の神である。ネパールの祭では主役の一人として登場する。それが神殿の一部をアトラスの如くに支えようとしている像である。
ヴェネチアの港の入口にアトラス像があり、苦しそうに、いかにも辛そうに地球を支えている。あれと比較すれば、このプレアンコールのクリシュナ像がいかに楽々としかも踊るように巨大な神殿の一部を支えようとしている独特さが解る。古代インドの神殿はマドライの祭りに残されている如くに、モバイルした。巨大な山車を象にひかせた。その動きのエネルギーらしきを古代人は感得していたのである。
山口勝弘先生の「三陸レクイエム」とわたしの研究室の「気仙沼・唐桑再生計画」の合作展を一関ベイシーでやる事を決めた。昨日、日経コラムを書きながら考えてはいたが、ふん切りがつかなかった。東日本大震災へのプロテストというか、プレゼンテーションは出来得ればナマモノは東京ではやりたくない。東京という消費の海では何をやっても音も、大きさもよくは聴こえぬ、そして視えぬ津波に流されるだけだ。後にはそれこそ何も残らない。
私の知る限りでは、これはやはり被災してようやくの事再生した、ベイシーの2階で開催するにこしたことはない。
時は年内、暮間近が良いだろう。2011年12月11日から2012年1月11日というのはどうだろう。
早速、山口先生、そしてベイシーの菅原正二さんに連絡をとってみよう。
できれば、それこそ日本中の「ある種族」群のサポートもいただきたい。これは前売り券の形で力をいただく。勿論、ベイシーのレコード演奏ライブの数々も聴けて、階下でコーヒーも飲めて5000円というのはどうだろう。坂田明や渡辺貞男のライブよりも安いではないか。
9時半過山口勝弘先生に電話する。快諾していただいた。ここ5〜6年だろうか、10年くらいにもなるかも知れぬ、闇雲な山口勝弘詣で、ようやく結果とも言うべきを得たような気さえする。小さいけれども、それ故の本当の芸術家の魂を山口勝弘、菅原正二の2人を介して体験してもらう。
大きな余震が三陸を、そして東海大地震がこの東京を襲わぬことを心から祈りたい。
10時小休。
- 547 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十五日
12時気仙沼・唐桑の打合わせ。唐桑計画も取り敢えずはゲートをくぐった感あり。『atプラス』の最終ゲラ上り、少し省略されたが納得した。本当にギリギリだったようだ。表紙の方はうまく納まったかどうか。
14時過昼食に出て、そのまま烏山に戻る。18時世田谷村に戻り、読書。乱読に次ぐ乱読を重ねて、爽快なり。
-
七月二十六日
6時半離床。新聞各紙を克明に読む。そんな風に読むと記者の本音、実力らしきも浮き上がってくるから不思議である。当然こちらの誤読が前提だが、そんな風に読むと面白い。
山口勝弘先生より暑中見舞いの葉書が届いていたのを発見。7月10日付のものであった。頭を一分刈りにしてほとんど出家の身です、とあった。しかし、絵の具がようやく届いたそうで、再び制作にいそしむのだろう。ホトホト感心する。昨夜、久し振りに『ゴッホの手紙』(小林秀雄)を読んだけれど、今の山口先生は『カラスの群れ飛ぶ麦畑』を別の形で病室で描き続けておられるのだと、そう思う。つまらぬ人々からは笑われそうだが、そう確信するな。
ビンセントとは違い、しかも他人との距離感がキチンと測定されている。
ゴッホの手紙はたとえ肉親であろうとも、送り付けられた側は迷惑極まったろうと思う。あの兄弟は弟テオの忍従とも考えられる忍び方も異常だった。兄の狂死後、1年程で後追いの如くに、これも又狂気したのも、充分にうなずけるのである。
絵の具がようやく届いたの、山口先生の報に、アルルで弟テオからの絵の具、キャンバスの送付を半ば命じているビンセントの、エゴイスト振りとは異なった仙人振りの如くを感じたのであった。
やはり先生は東洋の智者だ。こうして、そこはかとなく手を動かしてメモを記していると、次第に何かを書いて、あるいは描いてみたいの気持が生まれようとしてくれる。すでに、いきなりの衝動の如くは突発しないのである。ゆっくり草原を歩いて足慣らしをしているようなものであろう。今日も、これから日経コラムをせめて一本は書くつもりだ。涼しいうちに書き切れるか。今、8時半。
10時書き上げる。頭は疲れていない。もう一本ゆくか。
空腹になり朝飯の算段にかかる。
- 546 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十四日 日曜日
7時過離床。今日からアナログ放送は終りで、全て地デジTV放送になるようだ。一方的なやり方が気に入らぬので、我家は当然今日からTV無しの生活に入る。カンボジアのウナロム寺院ではBBC、CNNの報道番組を視ていたので、日本のTVとの落差が余りに大きいのも再認識したし、今更何の未練もない。
18時過日経コラム、5本目を書き終える。ひどく時間がかかった。
肩に力が入るとコラムはうまくいかないものだ。
-
七月二十五日
7時前離床。新聞各紙を丹念に読む。TVの姿が消えたので、その分新聞を読む時間と読み方が少し変わった。新聞もじっくり読むとかなりほころびが目立つ。再び昨日書いた日経コラムに手を入れる。手を入れれば入れる程に良くなってくるような気もするが、どうか。1990年代の大方を費した「ひろしまハウス」建設のプノンペンでの体験が10年程の経過を経て今頃になって身についてきたようにも思う。少なくとも身体感覚はプノンペンの方に適してきてしまっている。凄いものだな人間の身体の順応の遅さ、鈍さの速力は。このギャップを少しでも今に活かせたらと思ったりもする。
今日は『atプラス』のゲラの完稿が出てくる筈であり、最後迄手を抜かずにキチンとしたい。
プノンペンの朝の5日間程をかけた原稿で、わたしにとっては大事なものである。
- 545 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十二日
10時40分過ぎ大学院最終レクチャー。当然、質問疑問を聞く時間に当てる。無為の時間なり。12時半前了。いつか、キチンと聴こうとする知性を持った若者たちに出会いたいものだが、それはかなわぬ夢であろう。でも待ちたいものだ。わたしの教師人生も残り少ない。豚の群ではなく、一人でもよいから、深く語りかけたい。無理だろうな、コレワ。
13時以降、いささかの仕事。さまざまな連絡事項を処する。気仙沼の臼井賢志さんからの連絡に対応する。鈴木博之先生の講義・クリティークを8月3日に設定する。鈴木先生もスケジュールが立て易くなったようである。忙し過ぎるのも人間、問題だな、コレワ。
ブラジルのマリア・セシリアから、唐桑計画への協力を取りつけた。『atプラス』の原稿修正のやりとり、日経夕刊原稿のストックのゆとりもなくなってしまった。
18時前、新宿南口・味王にて難波和彦先生と会食。20時過ぎ了。烏山に戻る。21時前世田谷村に戻り、読書に時をつぶす。
カンボジアではCNN、BBCニュースを見終わり、とうに眠りについている時間だ。でも、勿論ウナロム寺院の蚊帳付きのベッドでも、とてもすぐには眠りに陥れなかったのも正直なところである。近代人が21時に眠りにつけるかってーの、まったく。どちらが本当の、あるやも知れぬ常識なのかは不明である。
-
七月二十三日
7時離床。涼しくてよく眠れるのだが、夏らしくない。ぜいたく言ってるなコレワ。昨日、日経夕刊コラムの4本目のゲラに手をいれて、これでストックは全て使い果たした。
気仙沼の臼井賢志さんから言われて、銀座の二丁目の交差点、SONYビル前の銀座TSビルに気仙沼復興計画をアッピールするスペースをデザインしている。昨日は外壁への提案、今日は内部の2つのスペースの提案の素案を気仙沼に送る予定である。幾人かの気仙沼人が前向きに困難と立ち向かっている。それだけで気仙沼は大丈夫なのである。これからの困難の日常化、慣れというべきが心配であるが、それも気仙沼人たちは平然と乗りこえてくれるであろう。午後は集中して気仙沼・銀座計画に取り組む。9時、大学院一般入試のため大学へ発つ。
カンボジアで描いた絵をドカーンとTOPページに出してやろうと思い付く。いい絵描いたからな。見ていただきたい。
- 544 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二十一日
8時過NRT帰着。プノンペン空港では、台風のためバンコクからNRTへの便の発券は出来ぬと言われた。バンコク泊りになるかと覚悟したが、バンコクの空港に1時間程で着いてみれば、何の問題も無いと言われ、ほぼ定刻通り飛ぶ。飛行機は揺れもせず、24時過の離陸後すぐに空席のあった座席に移り、皆完全に横になり熟睡できた。5時起き出して、ウロナム寺院で書き終えた『atプラス』原稿39枚に手を入れる。7時過了。8時過NRT着。
小雨が降る他は全く台風の影響はなし。
プノンペン情報よりはバンコク情報が正しかったようだ。カンボジアはプレアンコール期の6世紀に素晴しい石彫群を残して、後は眠ったままだから仕方ないだろう。しかしプレアンコールの石彫は圧倒的であった。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーのヒンドゥー三神のうち、ヴィシュヌ神が殊更に敬意を払われていたようで、彫像も良かった。当時の日本はいまだ古代であり、彫像の形式さえ生まれていなかった。
ハリハラ像には圧倒されたのを憶い出す。プノンペン国立博物館のプレアンコールの部屋は世界でも一流の展示物が並んでいるのを今回も実感した。
10時新宿着。朝食を京王地下モールのソバ屋でとり、『atプラス』編集者に表紙ドローイングと原稿を渡す。表紙はバンコクの世界最大の中華街ヤワラーで描いたモノ。いつもながらヤワラーの凄惨極まるエネルギーを描いたものだ。
東日本大震災の破壊の自然エネルギーの極に対抗するにはヤワラーのアナーキズムしかないと考えて、わざわざヤワラ—に出掛けて描いたのだ。原稿も我ながら良く書き切った。磯崎新の「瀕死の建築」を含む最近のプロジェクトに対するレビューである。
磯崎新の震災プロジェクトにはそれなりの力で立ち向かわなければならない。それが礼儀である。出来不出来はとも角、これが目一杯である。
今度の『atプラス』は買って読めと言う。
長野屋食堂のオバンに帰国のあいさつをして烏山へ。宗柳で昼食をとり、世田谷村に戻る。白足袋迎えにも現われず。
やはり何やかやと疲れていたのであろう、すぐに横になりやすむ。
-
七月二十二日
7時目覚め離床。やはり良く眠った。メモを記す。ほぼ1週間を休止した。しかし、この1週間は振り返るまい。おいおい書き留めておいた方が良かろうと考えた時には断片的に記す事にしたい。
ただし、絵は何枚も残せたので、これは何かの形で発表したい。
成田空港に着陸した時の感じ「シケたところに帰ってきてしまったな」。
実際天気も湿り気味、空は暗く、空港は貧乏の極みのローカル空港である。いつもながらの繰り返しの感慨ではあるが、昨日のそれは感極まったの自覚あり。
9時半過世田谷村発。大学へ。今朝は大学院の最終レクチャーである。
- 543 世田谷村日記 ある種族へ
- 七月十四日
午前中、ユニクロ他で買い物。12時世田谷村に戻り、すぐに発つ。13時研究室。INAXリポートの面々待っていて、すぐに撮影。13時半古谷先生来室しロングインタビュー。綿密に準備されたインタビューであった。今迄話した事が無い事まで色々と話した。16時迄。雑用の後、17時研究室を去る。18時半世田谷村に戻る。
20時気仙沼の臼井賢志さんと気仙沼再生に関して幾つかの打合わせ。30分程話し合う。川合花子さんよりお電話いただく。お元気そうでなによりである。
-
七月十五日
4時半過離床。早朝の冷気が心地良い。今日からいささか集中して考え、そして描きたいと考えている。その為に思い切って穴蔵の如き場所に身を隠すことにする。恐らくこのメモも一週間程中断することになろう。
6時20分世田谷村発、成田空港へ。
- 542 世田谷村日記 ある種族へ
- 七月十三日
10時半研究室。11時『atプラス』編集者来室。彼は夏カゼをひいて、この取材が一週間程延びたので、珍しく照れ臭そうであった。病み上がりの身は何となく照れくさいものなのだ。表紙デザインのデータ渡しとインタビュー。
「唐桑の家」について考えを述べた。その後磯崎新さんのプロジェクトに関しての話題に移る。磯崎プロジェクト・福島遷都計画は今度の『atプラス』に大々的にフューチャーされる。わたしの「唐桑の家」プロジェクトはそれに対するクリティークとしても機能するように、同じ号にプレゼンテーションする。原稿の全てを今週中によこせと病み上がりは迫ってきた。流石である。編集者としては当然である。しかし、病み上がりで少し迫力に欠けた。「それはデケンよ」とわたしは平然とうそぶいた。どうしてだ?の二の矢を彼は射たなかったのが不思議だ。実はこのプロジェクトはわたしにとっても大事なもので、それを作り上げるのにキチンと5日程の雲隠れ日程も作っていた。どうしても今週中によこせと言い張られたら、「じゃ、明後日に渡すぜ」と居直れたのだが、やはり病み上がりはその迫力が無い。惜しい事をしたな彼は。わたしはかってM新聞の日曜コラムの連載で書く気がなくってズルズルしていたら、老編集者から「コラーッ、M新聞の輪転機止める気か!!」と怒られた。それは仲々凄味があった。それ以来わたしは大方のペーパーメディアの本当の〆日を先ず適確に知るようにして、必ずそのギリギリにはすべり込ませる気合いを身につけたのである。あのM新聞の老編集者は山本夏彦さんの知り合いだったらしくて凄えおっかなかった。
その点、病み上がりの青年はいまいちであった。彼は磯崎新の後輩筋の人材で確かに頭は良さそうだが、夏カゼをひくようではまだ鼻垂れ小僧なのであると、今日徹夜して書こうかと思っていたわたしは今日もゆっくりできるなと安心したのである。青年は用心されたし、すべからく。
青年を老獪に撃退してから、日経夕刊コラムの3本目のゲラを手に入れる。2、3行をけずるのが難しくって面白いところでもある。
13時半、清華大学大学院へ進んだ研究室OGに会う。彼女は段々中国人らしくなってきた。なにしろ元気な大口を図太くたたくのである。ファンドを作って三陸沿岸に金を投入したいと言う。
かくなるホラは気持の良いものがあり、やれるもんならやってみよと応えた。しかし清華大は外せよ、大学の先生では出来ることではないぜとわたしだって凄んだのである。予定をオーバーして15時前まで。北園、加藤両先生来室。地下スタジオへ、演習G。
18時半迄。
17時半渡辺(大)佐藤(研)と地下鉄で新宿味王へ。夕食をとりながら、幾つかの相談。この青年達も夏カゼひきやすい種族であるので、少しショックを与えてきたえる必要がある。
21時了。22時前世田谷村に戻る。
-
七月十四日
5時半離床。色々と雑用。そしてメモ。8時了。
紅しょうがを酢につけたものに少々塩を混ぜたジュースというか飲み物をたっぷり飲む。酢は身体に良いと言われるが、それに少しの塩が入り込んでいるのが良いのだろう。おすすめしたい。9時朝食。
- 541 世田谷村日記 ある種族へ
- 七月十二日
13時30分建築会館。第39回日本建築士会連合会賞最終審査会。村松映一委員長の許、スムーズに議論が進み、4点の最優秀賞、他を選ぶ。16時前了。暑くてたまらないねえと審査員皆で会食。17時過了。皆さんと別れ帰途につく。19時過世田谷村に戻る。雑読に次ぐ雑読。深夜2時迄。
-
七月十三日
7時過離床。書きたくもないが今日も暑そうだ。
昨夜は『ラダック紀行』馬場昭道(鉱脈社)をはじめ、何冊かの本を渡り歩いた。ラダックには遂に行けそうにないなと、あきらめながら読んだ。寂しいモノである。先日美術作品の記名性について少しばかり記した。書物についてもそれは言えるなあとつくづくと考える。
知り合い、友人達の本に読書の極点はある。人間はおのずからなる限界がある。世界中の人々全てとは知り合いにはなれない。自分で選んだ人の本を介して知るのがほとんどである。そして書いた本人を知る書物と知らぬ書物とは又、別モノなのである。人間の究極の好奇心はやはり人間そのものである。これに勝る深い面白味は他にあり得ない。
だから真栄寺の馬場昭道を知るからこそ、彼のラダックの旅を読みその眼、その気持になり代ってもらい、わたしもラダックの旅をするのであり、それを介して人間昭道をも更に知るのである。
他の知り合い、友人達の書物も又然り。書物はより深く生身の人間を知る道具でもある。
日記も夏バテである。休みたいが一度休んだら二度と再びやる事はないのは自分で良く知るので・・・・・記し続けている。
- 540 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月十一日
15時大林組の方々来室。本年度3年生設計製図第4課題について相談する。興味深い課題が話し合われた。16時了。遅い昼食へ。
19時前世田谷村に戻る。
『悩むことはない』金子兜太(文藝春秋)952円+税、読みふける。真栄寺の馬場昭道さんより手渡されたモノである。まえがきに代えて、に全ての金子兜太さんの情が尽されている。流石に定型短詩、俳句の名手である。短文の集積であるが見事としか言い様がない。金子兜太さんに関して唯一の疑問符であった兜太さんの根深い軍人好みらしき、例えば小野田少尉への深い関心などに代表されるのだが、その軍人らしい軍人への共感らしきモノへの疑問符があったのだけれど、この本を読んで一部氷解した。兜太さんは戦時、日本銀行から海軍主計中尉としてトラック島に従軍。恐らく米軍がトラック島上陸ではなくサイパン島上陸を企てていなければ亡くなっていた運命であった。そのトラック島での体験、多くの印象深い友人達、全て軍人である。その体験が戦後、一番最後にトラック島から復員した兜太さん、皆を先に帰して一番最後にってのがいいやね。普通できるものではない。どうやら兜太さんはその時から死んだ同僚軍人への気持をしっかりと自分の中に組み込んできたようなのである。
それ故に兜太さんは軍人だからといって何となく毛ギライする戦後日本人の借り物の民主制とは一線を画すのである。
-
七月十二日
昨夜は眠ったり、又目覚めたりで「悩むことはない」を朝方3時に読了した。良い本であった。7時半離床。どうせ今日も暑いのであろう。
世田谷式生活・学校に意見が寄せられ始めている。区長のあいさつが長過ぎるとか、会場での石山研の院生らしきの子供っぽさにあきれるとか、仲々手厳しいのである。しかし、3回目のスクールでは改良したい。
- 539 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月八日
18時前神田岩戸着。やがて馬場昭道、谷夫妻現われる。小野田少尉の奥様も現われる。谷さん大いに語る。日本の被災地復興は民間だけで、金がなくてもやれるが論旨である。やっぱり登り龍のブラジル在住の人間の超ポジティブな楽天的なアイデアである。作れば売れる、がその根幹にある。銀行、ゼネコン、投資家が一体となって被災地にドカーンと巨大複合建築を建てればヨシの考えである。最初はあきれて、この人何言ってんだろうといぶかしんだが、海外からの投資を募れの考えはわたしも考えているので同意できる。谷さんはブラジル日本人会の中心的人物であり、恐らくは成功したブラジル日本人の典型であろう。その考え方は成長する国家の地力を感じさせまぶしい。
しかし、谷さん、今の日本で、しかも東北でその考えは簡単には通用しないのです。東北には東北の、三陸海岸には三陸海岸の網の目の如くの事情がある。ここに今のブラジルのようなグローバライゼーションの方法は適さないのである。と言ってもそれとは別の方法とは考えてもみてもそれは困難極まるのだ。「唐桑の家」プロジェクトで、しかしその一端を示したい。20時たっぷり宮崎料理をいただき了。神田駅で皆さんとお別れ。世界中からお手並はいかにと注目されているな、今の日本は。しかし、谷さんとはいい議論をした。そのスーパーポジティブな考えの中枢を考えてみたい。21時過世田谷村に戻る。
-
七月九日
7時半離床。メモを記す。今日は致孝山真栄寺でわたしの「気仙沼・唐桑報告の会」があるので、いささかの準備をする。気仙沼・唐桑地域の再生に関する行動を皆さんに話すのにわたしは日本の敗戦(第二次世界大戦・太平洋戦争)から話し始めなければならない。小学生の頃わたしは原っぱで遊んでいた。今のICU(国際キリスト教大学)が在る辺りである。そこには戦闘機を格納する掩体壕が残り、工場の残骸も残っていた。それがわたしの戦後の焼跡に繋がる唯一の記憶だ。それは子供心にも強い印象を残した。何かがあって、巨大な事が起きて、その終りとしての光景なのだという畏怖の如きものだったのだろう。
その後の若い頃の主にアジアの旅の連続はその光景への驚きから導き出されたものなのを、今にして、2011年3.11の津波が作り出した光景を体験することで、キチンと解る事ができた。というような話しから始めようと考えている。わたしにとっても今日の会は自己の再発見の旅になるのだろうと期待している。
9時半過小休する。
10時半発、11時新宿で石山研メンバーとおちあい、常磐線天王台へ。TAXIで新木、真栄寺12時過到着。昼食の、手作りのおいなりさん、冷麺をいただく。美味なり。13時45分本堂にて話し始める。100人程の方々が集まって下さった。ほぼ考えていた事は話せたように思う。浄土真宗の寺院で親鸞さんの話しに触れたのは我ながら無謀であったやも知れぬ。聴き苦しかったらお許しいただきたい。
15時半前了。ズーッと立って話したのでいささか疲れた。少しばかりの休息をとり16時半20名程の信徒の皆さんと本堂で会食。皆さんの話しをうかがう。真栄寺の信徒の方々は皆人間として水準が高いなと実感する。
19時頃了。陽が暮れかかる頃皆さんとお別れ。会談中に鐘楼の鐘が打たれ、その妙音と話しが相まって、いささか感に入った。あれは録音しておくべきだった。天王台駅迄昭道さんに送っていただいた。21過新宿で石山研の皆と別れて、21時40分世田谷村に戻る。
-
七月十日
5時離床。メモを記す。ブラジルXパラグアイのフットボールゲームを見ながら。涼しい風が流れて、疲れをいやしてくれる。今日は「世田谷式生活・学校」の第2回スクールの開校日である。注意深く刈り取った筈のクズのツルが何故か凄い勢いで沢山のびて庭の中空をおおい始めている。細身の蛇のようにユラユラ先端を揺らせて、まとわりつく相手を探している様はこの種の生命力の強さを感じさせる。あと1mで家に届くのもいる。
8時谷さんより電話。ブラジルに帰るあいさつであった。谷さんは日本を遠く離れ、ブラジルで刻苦勉励され成功した。そんな在ブラジル日本人として谷さんは今の日本が歯がゆくもどかしいのだ。彼に言われた事は忘れずにわたしも及ばずながら努力する。又、会えると良いな。
12時半世田谷村発。途中ブラブラ雑用をして、13時過ぎ千歳烏山北口農協の会場へ。13時45分開始。保坂展人世田谷区長来場。石山あいさつ、保坂展人区長小スピーチ。次いで品川宿まちづくり協議会会長・堀江新三あいさつ。協議会スタッフの話し、品川宿に於ける祭りを中心としたまちづくり。安西直紀スピーチ、佐藤(研)スピーチ。小休の後、第2講、世田谷美術館学芸員・野田尚稔講義。世田谷美術館収蔵品のアンリ・ルソーから始まり、岡本太郎も登場する講義であった。16時半修了。会場には100名以上の方々が集まって下さった。反省すべき点は多々あったので3回目は修正してゆきたい。
17時踏切を越えて広島お好み焼屋へ。芳賀牧師もいらした。講師の先生方の労をねぎらう。20時前了。皆さんとお別れ、世田谷村に戻る。
-
七月十一日
7時前離床。今日も暑い。昨日は練馬で41℃の暑さであったようだ。こう暑い日が続くと流石に気だるい。
- 538 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月八日
7時過離床。昨日はプノンペンのNさんとようやく連絡がとれた。やはりパキスタンに出掛けていたと言う。終の棲家とするらしいアフガニスタンへはどうしても入れなかったらしい。アフガンは厳しい情勢なのだろう。人心は荒涼としているのだろう。パキスタンでも随分ひどい目に会ったようで、まいった、身体はボロボロですと珍しく沈んでいた。声もかすれていた。カンボジアに帰ったばかりだと言う。1週間電話をかけ続け、どうにもつながらなかったのでとりあえずは良かった。終の棲家をネパールのキルティプールにしてくれればありがたいのだけれど、自分の都合で他人の人生をとやかく考えてはいけない。が、しかしNさんはアフガン入国及び定住をあきらめないだろう。なんとかキルティプールに目的地を変えてもらえないか話してみたい。
致孝山真栄寺馬場昭道住職より連絡があり、ブラジルの谷さんが来日しており、被災地の件で何か考えがあるらしいので今日会えとの事である。昨日サンパウロ大学のマリア・セシリア先生に共同支援プロジェクトの連絡をしたタイミングであったので、勿論お目にかかる事にした。ブラジルの日本人会他の力がいただけたらありがたい。本日夕刻会う。
9時半世田谷村発。
10時半研究室、10時40分大学院レクチャー。山岳寺院の意味について。12時半迄。もう少し磨いたら本格的な講義3本分くらいになるだろう。雑打合わせ。14時大学院社会人特別選考に関する相談を受ける。14時半過了。15時前小休。
15時半一関ベイシーいわく、2011年9.11は毛越寺でカウントベイシーオーケストラの大ライブをやるそうだ。フルオーケストラで、平泉が世界遺産にもなったから、やるしかないでしょうとの事であった。
17時前発。神田岩戸へ、ブラジルの谷さんに会いにゆく。
- 537 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月六日
13時新大久保近江家で葛、他と昼食。葛には演習Gへの再挑戦をすすめたが、案の定中国清王朝に於けるJ・コンドルに似たイタリア人の存在を検索してきた。それには驚かぬのだが、そのイタリア人の清王朝へのプレゼンテーション図面の銅版画が旧三菱、東洋文庫にコレクションとして在るところ迄探ってきたのには驚いた。コンピューターの検索機能には著しく格差があるのは知っていたが、目の当たりにした。この才覚は拡張するとどうなるか楽しみである。
20時世田谷村。日経夕刊コラム、プロムナードに取り組む。風室内に吹き渡る。
-
七月七日
6時前離床。小雨、涼しい。どうやら梅雨明けは例年通りの20日位かとの事である。猛暑の梅雨も辛いが、ジトジト雨もイヤだと我儘をつぶやく。自然に逆らうのも意味は無いけれど、自然は時にイヤーなものである。津波は地獄と同じだし、梅雨も地球の自転、公転の働きがもたらせるモノだから、地球は人間の母船でもあるが、火の船、燃え続ける避難船でもある。
宇宙を巡る宝船でもあるし、泥船でもある。その両義性は常に忘れぬようにせねば。
明日の院レクチャー・10講「山岳寺院の意味」シノプシス作成。8時40分了。小休する。全く新しいバージョンに改変したのでうまく話せるかどうか楽しみである。ようやく、日本の山岳寺院について説き続けてきた出口が視えたような気がする。
11時前研究室。11時に予定の来客が風邪の為キャンセル。
ポッカリ、60分の時間が空く。今日のスケジュールを少しばかり改変する。又、「唐桑の家」に関してXゼミナール、及び磯崎新にプレゼンテーションしてみようと考えた。
『atプラス』最新号の表紙として考えていたのは「唐桑の家」プロジェクトの思考の流れを図化したものである。それをそのまま磯崎新のプロジェクトに対する批評として提出してみたい。論旨は『atプラス』にエッセイとして提出する予定だ。
12時中川武先生来室、下の会議室でいささかの相談。12時了。再び「唐桑の家」プレゼンテーションについて考究する。
13時設計製図の会議。いささかの意見を述べる。14時教室会議。
渡邊(詞)の博士論文、無事通過する。彼も終盤努力したから良かった。
16時過教室会議退。研究室でいくつか打合わせ。17時半、鳥居が努力してXゼミ22信・磯崎プレゼンテーションを全て動くようにした。音も出る。どうしたのか知らぬが何故か感心する。
磯崎新のプレゼンテーションも音と動きが無くては?ばかりがつのるのだ。
しかし、音と動きが入ると、別物になるってのも奇妙な事ではある。
その事が妙に笑えたりするな。何だろうコレワ。
18時前迄、磯崎動画を楽しむ。
- 536 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月五日
10時40分学部レクチャー。第10講。12時前了。学部生に建築の専門的素養を伝えるのは極めて困難だ。14時、柴田くん他と新大久保ラーメン屋へ。一般的には酷な事だろうが、柴田くんの非力を咤る。他のただの凡庸な学生とは異なり、彼は35歳の学生である。今、考え方を改めないともう一生変る事はないのである。それ故、咤るのである。ブタの尻を蹴り上げる愚をしているのではない。依頼している件位はキチンとヤレと、ただそれだけの叱責である。世の中には普通以上の努力による可能性があるのを知りなさい。
15時烏山に戻り、商店街で7月10日の世田谷式生活・学校のいささかの宣伝。久し振りに長崎屋のオヤジに会う。オヤジは下田病院に腰骨の治療で通院との事。早く直して高尾山に一緒に登ろうぜと励ます。
「高尾山を案内して色々説明してあげないと死ねません」だと。
間近な世界でも具体的な生活は複雑で皆容易ではない。
-
七月六日
4時半離床。涼しい朝だ。山口勝弘先生のお元気な時と今の車椅子生活とを比較して考えた時に、誠に自分勝手な物言いなのは良く良く自覚しながらも、今の不自由な身体を振り絞っての表現活動の方が余程輝いて眼に、そして知覚にも写るのである。
芸術に於ける記名性について考えざるを得ない。
ありとあらゆる表現活動は、表現する主体である生身の人間に帰属する。その生身の人間の身体が滅した後でさえ、その関係は続行する。表現が芸術として宗教的営為(儀式、典礼の具としての位置)から自立した時からそれは加速さえした。わたしが最近の山口勝弘の右手だけで成される手描きのペインティングを素晴しいと確信するのも、山口勝弘先生が半身不随の不自由にとらわれているという生身の現実を知るからであろう。しかし、完全な情報社会でもある今、誰が芸術の自立性なぞを信じる事ができるだろうか。
芸術作品の価値は自立した作品の力として自律するものではない。それは記名性によって産出される関係性の小さな全体である。
磯崎新が最新のプロジェクト(Xゼミナール22信参照)で結論の如くに言明している「自然に根拠を求めない自律的発生論」とは、要するにルネサンス的人間復興論ではあるまいか。
山口勝弘先生は俗に言うアーティストの絶頂期をテクノロジーアートと共に過された。単純にテクノロジーアートとは呼べぬが、代表作と言われるヴィトリーヌも又、色濃くテクノロジーの背景を暗示させるものでもある。
7時半小休。コンビニに新聞二紙買いに出る。極小散歩である。
- 535 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月四日
14時銀座ライオンで鈴木博之さん、難波和彦さんと会う。Xゼミナール。生ハム、野菜サラダをつつきながら話しは弾んだ。ここは銀座の改変が進み薄っペラな今風ファッションに建築も、内部空間も変化してしまった中では、重厚な内部構造、そして装飾が組み込まれ、いかにも鈴木好みかと思われたが、鈴木さんは殊更にそれには触れず、心ここに在らざればの風で、明治の元勲山縣有朋と小川治兵衛の庭について話し続けるのであった。
わたしの方からXゼミナールへの磯崎新、「アーティスト/アーキテクトは災害(事件)をいかに作品化(プロジェクト)するか」について話したが、それは近衛文麿と支那事変そして日本の低迷への歴史へと読み変えられ、小川治兵衛の庭を最期に眺める山縣の想いに今を重ね続けるのであった。磯崎の言う制度設計に関しては、制度設計の失敗、不可能性の故に近衛の歴史的失政が生まれたのであって、何を今更制度設計なのだろうかの考えを述べられた。
鈴木博之は小川治兵衛の庭を通して日本近代の全体性=歴史=制度を透視しようとしているのを改めて知るのであった。17時過了。
新宿で雑用を経て、20時半世田谷村に戻る。
-
七月五日
6時半離床。日経夕刊コラム『プロムナード』をまとめて何本か読む。半年間紙面で附合う他の執筆者のコラムを知っておきたいと考えたから。わたし以外は皆、文学者、作家である。
Xゼミナール、磯崎新のプロジェクトの音声、動画が上手く表示出来ない。
8時半小休。
- 534 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月二日
2日後半のメモを紛失したようだ。手違いでダブるかも知れぬがその際は失礼する。
15時「棲(すみか)」取材。菅平の正橋孝一さんの家、川合健二邸他について。40年近い昔の事だが昨日の事のように想い出はよみがえるのだった。16時半了。17時半長谷見雄二先生と共に新宿へ、地下鉄で。味王で会食。先日の世田谷式生活・学校での講義のお礼、ついでに長谷見先生の話しを大いにうかがう。先生は本格的に歴史への関心、及び現実の動態そのものと災害、天変地異との深い関係について考えを進めているようだ。大いに話しは愉快であった。20時半名残りは尽きぬが終り。お別れして世田谷村に21時半戻る。
-
七月三日 日曜日
早朝、世田谷村に風吹きわたる。まことに良い風で心身に心地良い。宮沢賢治は末期の際、こう記した。ゴボゴボと血を吹き上げながら、それでも、何と良い風でしょう、と。それ位に世田谷村に朝吹く風は浄土の風の如くであると、わたしは血を吹き上げぬが、ホラを吹き上げるのである。
まとまった考えを記そうと努力するも果たせず。13時過世田谷村を発つ。14時半田園都市線たまプラーザ駅。渡邊(大)佐藤(研)と待ち合わせ。15時前、山口勝弘先生の部屋を訪問。多くの作品の写真をとらせていただき、話しをうかがう。久し振りにお目にかかったので、いささか緊張した。会うのに緊張せざるを得ない人を年上の友人として持つのを誇りに思う。16時半了。引き続き宮脇愛子さんの部屋を訪ねる。愛子さんの最近作の記録もさせていただいた。
18時過渋谷。焼き鳥屋で疲れをいやす。本物の芸術家とお目にかかるのは、実に楽しいが、同じ位に実に疲れるのだ。19時半了。20時過世田谷村に戻る。
21時過、横になり『時代と記憶』平岡敬、を読み継ぐ。
-
七月四日
2時過目覚めてしまい、再び『時代と記憶』読み続ける。
実に重い本だ。特に第二部朝鮮半島へのまなざし、は読み続けるのに苦しい位である。ヒロシマの朝鮮人被爆者の問題をジャーナリスト平岡敬が足を使って書き抜いている。広島市長としての平岡敬ではなく、原平岡とも言うべきの重い告発がある。福島原発事故の日本の未来に対する暗い、余りにも暗い影が覆い尽くし始めている今、この本が出された事はある意味で事件であるが、沢山の人に読んでいただきたい。ヒロシマのジャーナリストの原点だろうなこれは。3時過再び横になる。恐らく眠れはしないだろう。
6時半離床。昨日の山口勝弘さん訪問で一番大事だったのはこのやり取り。
「先生、これからの展覧会にはテクノロジーアートはお出しにならぬのですか?」
「出しません」
「全て手描きのドローイングをお出しになるのですか?」
「そうです」
この会話の意味は重要である。ビデオアート、コンピューターアート、コピーアート、メディアアートの全ての分野で先駆的存在であった山口勝弘である。その山口が人生のまとめの表現になるやも知れぬこれからの展覧会に一切のテクノロジーアートは出品せぬと決めている。
山口勝弘程の知性である。それには大きな根拠があるに決まっている。考えてみたい。
9時半「Xゼミナール、磯崎プレゼンテーションに接する前に」書き終る。もう行ける処迄行くしか無いな、コレワ。小休する。
- 533 世田谷村日記 ある種族へ
-
七月一日
地下鉄で新宿へ、歩いて新宿パークタワー。中2階での「池中蓮華」栄久庵憲司さんのオープニング・レセプション。その後、1階スペースの展示を視る。浅いプール(池)を干し上げて、闇の中「道具寺」のイメージドローイングが壁に映写され、池に白い造花の蓮の花が乱れ咲く。ロボットの鳥が動き、蝶が羽を動かす夢幻世界が作られていた。ファンタジーとキッチュが薄皮一枚に同居しているのであった。
再び歩いて新宿へ、味王で夕食。カンボジア行を決める。
栄久庵憲司の展示、山口勝弘のまだ視ぬ「三陸レクイエム」、磯崎新の震災プロジェクトのいずれにも、わたしは勝手に戦後の最良の世代(焼跡世代)の哀切の感情が流れに流れていると痛感する。彼等の必死なプレゼンテーションに通じているのは深い哀しみではないか。磯崎新のプレゼンテーション中に登場するソクーロフの焼身自殺のシーン、磯崎はそのソクーロフの絶望にかぎりなく近い哀しみを理解、共有しようとしなかったと自省を述べているが、その感情に近いモノが三者に通底していると、わたしは感じている。
その悲哀とも呼ぶべきが何に向けて注がれているのかを感じ取りたいと思う
21時半頃世田谷村に戻る。
-
七月二日
8時前離床。『Atプラス』の表紙、および原稿の下準備にかかる。11時半考えをまとめる。12時世田谷村発。13時前研究室。雑用。今朝電話して、明日山口勝弘先生の「三陸レクイエム」を拝見しにゆく事にした。14時過、スタッフに表紙ドローイングのディレクションを渡し説明。
Xゼミナールに磯崎新の福島・三陸プロジェクトでもある「アーティスト/アーキテクトは災害(事件)をいかに作品化(プロジェクト)するか」を投稿する。磯崎新のマテリアルは来週月曜日にはONする予定だ。