石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2011 年 8 月

>>9月の世田谷村日記

572 世田谷村日記 ある種族へ
八月三十一日

朝、昨日書いた日経夕刊プロムナード「トンビのシンタロー」と幾つかの依頼事を研究室に送附する。これで日経の連載は今夕の「ヒマラヤを越える鶴」を除いて3本のストックができた。何時何が起きるかわからないので、こういうのは余り多過ぎぬ程度に留めておいた方が良い。

今日は6時に起きて、写真をとったりでWORK。早朝4時から淡路島の瓦マン山田脩二さんがNHKラジオで40分のおしゃべりを2日連続でしているようだが、4時は早過ぎる。一番熟睡している時間でもあり、わたしは聞かなかった。家人によれば聞いた事があるような話だったとの事。そうだろうな。それでわたしも聞いたような気になった。

いきつけのラーメン屋でいつだったか「ハーイ、ガンの人、手を挙げて」と話しがあいなった事があった。「ハーイ」「アイヨ」と明るさをよそおった手がバシバシあがった。

手をあげられなかったのはわたしともう一人の男だけだった。実はギョッとしたが、少しの気遅れの後に、「そうなんだ、ここは荒野のガンマン達なのだ」とつまらぬ洒落で切り抜けた。しかし多くの特に高齢者の方々の大半が、病気持ち、ガン持ちなのを歴然として知った。

ガンマンの洒落は、これも又ガンでお先にいっちまった佐藤健オリジナルのものである。ガンと知った時に「オレ、夕陽のガンマンだぞ」とわたしを威嚇した。よせば良いのに「イヤー、たそがれのガンマンでしょう」と言い返すのが精一杯であった。

しかし、民衆は強い。最近のオジイもオバアもオジン、オバンも皆ガンをいきがれるようになった。それ相当の強い演技力と見栄えもあるにちがいないが、佐藤健はアト5年位生きていたら違う世界が視えて、それをルポルタージュしていたのではないかとチョットだけ残念である。

ガンマンと言えば先週、院生の一人にホラ話しの一つとして(ホラーとも自分では言っている)、「真昼の決闘」、「用心棒」、「リオ・ブラボー」の3点はDVDでもいいから観るようにと言っておいた。「真昼の決闘」は「OK牧場の決闘」よりも良い。OK牧場の決闘はフランキー・レインだったかの唄が妙に俗っぽくて、それが後の「夕陽のガンマン」を頂とするマカロニウェスタンに流れた。

黒沢明の「用心棒」はジョン・フォードの古典を下敷きにした日本版西部劇であった。しかし、風の描写のアニミズムあるいはマナリズム、すなわち風の精霊とも言うべきの活写がアメリカのものより圧倒的な深さを感じさせた。

三船が村外れの小さな阿弥陀堂(地蔵堂)の中で風に舞う枯葉を包丁で射止めるトレーニングをする場面は秀逸だった。

あれに匹敵するのは「ビリー・ザ・キッド」しか無い。死を覚悟したビリーが小舟にあお向けに横たわり河を下りゆく。やがて大海に辿り着くであろうことなどは南海への補陀洛信仰にも似て、アメリカ、あるいはネィティブアメリカンの世界のアニミズムを感得させるのであった。

「リオ・ブラボー」は生前の佐藤健とわたしが毎年暮には必ず繰り返し見た映画である。何が良かったかと言って、「ライフルと愛馬」が良かった。ディーン・マーチンすなわちジョン・ウェイン一家シナトラ一家の小政の絶妙なイタ公風鼻唄に、飛行機事故で無残な死を遂げた、エルビス・プレスリーになれなかった男リッキー・ネルソンのデュエットには泣けてきた。

「酔庵」という天王台の佐藤健の別宅で、畳に寝ころんで我々もデュエットしたもんだ。本当バカであったが、何か物悲しい程にいかった。大の男が二人でライフルと愛馬ですからね。放浪の癖が根深くあったのだろう。果たせぬ、果たしてはイケない夢としての放浪である。

で今日はその3本の名画に関して、言い伝えた学生の面接試験をすることにした。

1.「ライフルと愛馬」を唄えるようになったか?

2.リッキー・ネルソンがライフルをジョン・ウェインに投げたのは左手か右か。その銃の形式は?

3.3本の名画(名画です)の中で何が一番好ましく21世紀中葉への展望があるか?

の3問である。

571 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十九日

民主党代表選は昔風蚊取り線香の容れモノ氏が代表となった。昨日は蚊取り線香のブタと記したが流石に一国の首相となる方にブタは失礼なので言い変えたい。他の候補よりマシだと思うが、どうかな。

世田谷式クリーンエネルギーの実現に向けてはいずれ国の力を借りる必要もあるだろう。9月10日の「世田谷式生活・学校」ではわたしとしても力を入れた市民生活とエネルギーの考えを広く皆さんに聞いていただけるように準備中である。

八月三十日

早朝よりWORK。今朝の大気は気持よい。庭のクズの葉の山に沢山の蝶や蜂、黄金虫らしき他が群れ集っている。とても良い景色だ。

10時過研究室に2つのオペレーションを送付して小休。

570 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十八日 日曜日

TVを捨てたので、でも市井の隠を気取るには余りにも我ながら俗人ですから、ラジオで日曜討論番組を聞きながらこのメモを記している。

明日の次期民主党代表選挙を巡って5人の立候補者が空疎とも考えられる議論を続けている。おそらく、これも又俗中の俗論であろうがかくの如くの人物風情が首相になってしまうのかと憮然たる想いだ。皆さんの考えも大体似たりよったりだろうか。こんな風に感じ方が国民レベルでまとまってしまうのは実は深く危ないのだが。代表選よりも幹事長人事が焦点のようだ。

向風学校の安西直紀さんより、銀座の東急ビルの件で連絡あり。彼とは、初めて真当な事に取り組む事になるやも知れぬ。

チョッと考えが浮かんだので消えぬうちに連絡する。

午後、一本日経夕刊コラム書く。10本目になるか。

八月二十九日

早朝久し振りにコンビニに新聞を買いに散歩がてら。涼しくて気持ち良い。アッという間に紫露草がモヘンジョダロに咲き誇っていて美しい。

この草は何故かわたしの好きな草で、花の大きさ、色、姿全て好ましい。野草を知るかの如くの書き方だが、実にこの草くらいしか名前を知らぬ。もう少し草木の事は知りたかったが、すでに遅しであろう。

東京、産経、読売の各紙を買って帰り、定期購読の各紙と読み比べる。今日は民主党代表選挙なのである。

選挙前から不毛の匂いプンプンである。

ひんしゅくを買うであろうを承知で各候補者への寸評。

かっこマン前原、蚊取り線香のブタ野田、かいらいほおまつ海江田、グリコのマブチ、宇野似の鹿野、宇野似の宇野とは知らぬ間に何故か首相になり神楽坂の芸者でほとんど知らぬ間に消えた人の事。

各新聞の個別性、それなりの意見はほとんどうかがえない。

社説も大方似たりよったりで、こんな時には小さなコラムに光るモノが出るもので、そうでなければ新聞は闇だ。

各紙読み比べてみると、わたしには日経の「春秋」が一番うなづけるのであった。春秋氏が言わんとしているのは、上記わたしのザレ事に似て、それを上品にちょっと廻り道して言っている。

要するに女で2ヶ月で首相を辞めた宇野と、海江田をダブらせて、元々首相に似つかわしくない人物はいかがなものかと言わんとしている。しかし、殆どのマスコミが反小沢でこり固まっているのとは少しばかり距離がある。つまりチョッとはましな諧謔性を持ち、ユーモアとは言えぬまでも、フッと息をついている風がある。結びで春秋氏はこう言う「荷の重さに耐え、政治への信頼を取り戻せるか」

耐えられぬを知り、取り戻せぬのも知るからこう記している。

政治家に多くを期待できぬ現実を前提にした大枠を持つ議論はあり得ぬのか。

端的に言えば地方自治、分権の強化しか現実を抜ける方法はあり得ないのではなかろうか。

そんな考えを持つに至った。

9月10日の「世田谷式生活・学校」は4回目にして本来の目的に向けて実践的活動に踏み込む。

世田谷式クリーンエネルギーへの区民レベルでの合意形成のほんの小さな入口として機能させたいと考えている。

10日は保坂展人世田谷区長も出席、かつ考えの一部を表明されると思うので、わたしのレクチャー、呼びかけはともかく、是非多くの方々に参加していただきたい。

569 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十五日

待ち合い室みたいな場所で短い時間で書いた日経夕刊コラム3.5枚がどうしても気に入らなくて夕方遅く烏山宗柳で書き直した。自分で自分にダメを出したようなものだ。どうやら無理矢理日常性、あるいは日常生活に基盤を置かねばと考え込んでいたようで、それが良くなかった。

家からTVが姿を消したという出だしから間違っていた。テレビがどうのこうのというのは実はわたしの本心ではない。たしかに、民放系特にTBS、NTVのキャスターの大半は視聴率第一が大半だが、それだけでTVという機械まで捨てる必要は全く無いのである。TBSは毎日新聞をベースにしているようだが、わたしは嫌いだ。かつて毎日新聞には佐藤健記者という友人がいたので良く訪ねた。彼は謂わゆる遊軍記者で社内では独立していた。それはともかく、毎日新聞の良き伝統であった政治部記者の能力他も最近は急速に落城寸前まで落下した。看板であったベテランも客員編集委員とやらで全く今や切れも状況判断の透微した冷めた視線も感じられぬ。TVにジョロジョロ出ている奴はよりひどい。ジャーナリストの誇りはみじんも感じられない。こんなヘボジャーナリストまがいに民衆がだまされるわけもないが、彼等は元々、自身の内の民衆像にこびているだけの人材なのだから、要するに発言、意見は繰り返すが視聴率次第という事になる。CMと何代わろうや。

佐藤健もわたし同様だらしのない人間ではあったが、ただ自分が新聞記者であるという誇りだけは凄まじいものがあった。毎日新聞に帰属しているという自負だけではない、ジャーナリストであるという自負であった。

そんな彼を想い出すたびにTVにジョロジョロ出ている新聞記者くずれの面々の心底を視てしまうような気さえする。彼等がたまに書く新聞記事のひどく内容の無い事は眼をおおうばかりでもある。毎日、毎週とは言わぬ。一生に一度で良いから命がけでジャーナリストとしての持論、自説を展開せよと言いたい。

八月二十六日

日経夕刊コラム、最新のモノ全て書き直し始める。折角書いたが、駄目なものは駄目だ。昼過ぎには終るだろう。

予定通り12時前に書き直しを完了。全部やり直したのが我ながら良かった。正直に言えば書き直す前のものとは論旨がほとんど正反対になってしまったのである。3.5枚とは言え、こりゃあ仲々な世界だなあと思う。12月末迄にもう一段階自分なりにレベルアップしたいとは考えるが文章は難しい。小休して3時前到着で大学に向かわなければならぬ。

568 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十四日

日陰をたどりつつ新大久保駅から研究室へ。大久保通りは一変した。韓国というよりも、よくは知らない韓流ブームとやらで表通りには若い娘達、オバハン、バアさん迄もが溢れ返っている。彼女達にインタビューらしきをする、恐らくはニセTVカメラ・グループも多い。全く女性はTVカメラらしきの前に立たせられるだけで上気し、発情するようだ。話は違うが小川君までも最近は妙に韓国にイカレていて、人の顔を見れば「オトセヨ」とか言う。遂には済州島まで一人旅をしてしまった。「何してきたんだ、カジノか女か」と尋ねたら少し怪し気に視線を外し、「ヨットと馬です」と言う始末である。60代後半の男が一人でヨットと馬をするのかねと疑うが、小川君の場合は両親の介護生活をキチンとこなしている立派な一面もあるのでいいのじゃないか。

大久保通りでは介護されそうなバアさんまでもが、韓流とやらのヤニ下った韓国芸能人のブロマイドやらグッズやらを求めて行列しているのだから、これはシュールレアリズムをくぐり抜けた、ババア革命なのではないか。この通りに今や行方不明となったカダフィ大佐が「死か勝利か」と叫んで現れても全くおかしくはない光景なのである。

バアさん共はああいう暑苦しいのには見向きもしないだろうけれど。

そんな新大久保を娘とババアの群をかき分けて歩き、11時半より研究室で絶版書房のアニミズム紀行5,6号のドローイング描き込みに没頭する。

よく集中できた。

22点に画を描き込む。

今日描き込んだのは我ながらドローイングではなくって絵である。

何が違うかって、全く何の観念も入らずに(そんな事はあり得ないが)想うがままを描いた。タイトルは「唐桑宝船」とか「海」とかしたが、なまじのデザインが入り込まずに気持の動きだけを描いた。決して妙に美しくもなく、格好も悪いけれど好ましいモノが描けた。何より、自分自身にエネルギーが少しずつ湧いてくるのが良かったのである。2時間半で22点を描き込み、精魂つき果てた。

14時過、シンガポールの富沢さん来室。ドイツ出張の情報を聞く、15時了。今日はもう抜けガラだと思い、しかも新大久保までの20分を歩く気力もなく、恥かしながらTAXIで新大久保ガード下近江家へ。

おいしいソバを久し振りにいただく。

スタッフも良く我慢して附き合ってくれた。一人でソバと焼酎を昼からやってればこれは完全にホームレスのジジイですからね。

そう思われぬ為のカモフラージュ役の数々である。

17時過了。今日は水曜日なので日経夕刊を買い求めて、書いたコラムを読みつつ帰る。世田谷村でも日経は定期購読しているのだけれど、今日のコラムは一刻も早く紙面で読みたかった。

コラムは3枚半程を書いているが、今のわたしには丁度良い長さのように思える。やっぱり日記に記している文章とは使っている頭の総量がちがうのが我ながらおかしい。この日記だって大変な量の人々が毎日読んで下さるのだが、皆さんタダ乗りだからな。少なくとも日経の夕刊は70円であるし、わたしも稿料をいただくから、それだけ緊張するのである。

八月二十五日

朝、久し振りに致孝山真栄寺住職馬場昭道さんより電話あり。盆以降何処かに姿をくらましていたのは知っていたが、中央アジア迄足をのばしていたとはいささか驚く。お寺にとって一番忙しいお盆を乗り切ってのシルクロードだからなあ。

ウズベキスタン、タシケント、ブハラ、サマルカンドの一週間であったそうな。

他人の旅を話す程馬鹿らしい事も無いが、あまりのうらやましさにやはり記しておくのである。

昨夜戻ったばかりの住職はまだいささか興奮気味であった。

「サマルカンドのモスクのタイルの色は、早朝4時からの空の群青色の変化が全部入っとるね」と時々この人はアーティストになるところが好いのである。ラダックザンスカールの高山植物に語りかける人だから。

昭道さんも天空そのものが伽藍であるのを知っているんだなあと知った。

早朝の天空の色の変化はまさに空間そのものだ。空間は虚であるという恐らくは真理らしきに真向から、それだけで異を唱えられる。人間の身体で感得し得る宇宙だろうなあ、アレは。決して虚無ではない。頭脳で考えてしまう虚無を人間の身体が裏切るのだ。仏教の無量寿光とはアレですよ。イスラム教には偶像は存在しないが、偶像よりも余程ハッキリとした空間がモスクには存在する。その空間とは天空の、宇宙を人間があるがままに感得した人間の内部世界の一瞬であり、永遠でもあろう。

私がカンボジア・ウナロム寺院の早朝の天空をこよなく愛するのもそれだ。

驚く程の速力で変化する光の色の総体に空間の涯を視るのである。幻視ではなく、それが現実なのである。

日本仏教の視覚的本体は特に浄土真宗では阿弥陀=光であり、それが須弥壇の、そして阿弥陀仏の黄金という色に辿り着く。この黄金はモスクのタイルの千変万化と同じなのであろう。

世田谷村の中心には吹き抜けとしか言い様のない空白がある。天井は朱色であり、自分で黄色や紫の点描を施した。

壁には山口勝弘さんからいただいた「アンダルシアの夕景」という小絵画をかけている。

モダニスト山口勝弘も一度倒れ、すなわち死んで再生してからの天空の変化を描いたものである

屋根裏に朱、黄色、紫の点描を描き込もうとしたのは、まだ意識されていなかったわたしのアニミズムの旅であった。

実は今朝、わたしの天井画らしきと、山口勝弘さんの絵がほとんど同じなのを発見したのだ。脳内の変化も又驚異である。

567 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十三日

13時、15時それぞれ研究室にて打ち合わせ。ようやくにして体力気力が少しづつ回復してきたので何とか対応できた。年を積み重ねて、色々な体験を得ているが実に思いがけぬ出来事もあるものだ。

16時過修了。いささか疲れて研究室の皆とコーヒーを飲んで休む。

17時半新宿で遅過ぎる昼食をとり20時過世田谷村に戻る。涼しくはなったが眠りがプツンプツンと途切れてしまう。

八月二十四日

6時ノソノソと起き出して新聞を熟読する。熟読する程の世間ではないなと7時再び横になり、8時過最起床。メモを記す。絶版書房のアニミズム紀行に相当数ドローイングを描き込まねばならぬのだが、仲々気持も身体もそれに向き合おうとしない。人間のキャパシティはわたしの場合自分で考えている以上に小さいものだ。この絶版書房の本にドローイングを描き込むのは何か特別な事でもあるようで、紙片にスケッチを描いたりとは全く別物であるのを痛感してしまう。簡単なようで実に難しいものだ。

世田谷村の周りの道路が紫の花片で色づいてしまった。クズの花が一斉に咲き、そして落花したのだ。このクズの花の色というのは美しいと単純に言えないような気がする。見方によってはまがまがしくもある。花や草の美しさはやはりそれを観る人間の一瞬の思考の中に生まれるのか、と我ながらジジイ臭いコトを考えて恥かしい。

『アニミズム紀行7』が40枚程書いて停止している。又少しづつ書き進めたい。

昨日インドのプロジェクトの下調べを研究室の面々に依頼した。この下調べというか検索能力はわたしとは桁外れに大きいので出てくるものが楽しみでもある。下調べが無いと想像力もへったくれもピクリとも動きようがない現実もある。

真白な紙に自由な考えを描きつけるなぞは考えてみれば若い時からも一切無かったような気がする。

566 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十二日

わたしもいささか停滞休養の夏であったが、新聞を読むに社会もどうやらそのようである。政治が最も体たらくのようだが、わたしの政治観はどうにもトンチンカンそのものらしいのを自覚するので記さぬ。

盛岡の中村さんより、岩手県一関市ベイシーでの展覧会に協力したいのメールをだいぶ前にいただいているのを、今日遅ればせながら読んだ。早速御礼の電話を入れた。有難い事である。

我ながら日記が内々の事になり過ぎているので、TOPページの変更を考えてと伝える。小さい事のようだが、わたしには大事なことなのだ。

シュツットガルト美術アカデミーへワイマール・バウハウスより研究室のマテリアルが移動間近だ。どうしても気仙沼、唐桑の復興計画をヨーロッパの人達に見てもらいたいのだが、余程用心してかからぬと理解されにくいだろう。

我々の仕事はそんなに簡単に多くに理解されるものだとは思っていないが、理解してもらうように努力は重ねたい。どうもわたしには孤立を好むクセが強過ぎるのは、重々承知の上での事だけれど。展覧会そのものの意味はコミュニケーションをつくる事にあるのだから。

八月二十三日

6時半に起き出して、新聞数紙を読みふける。TVを捨ててしまったので新聞が今やわたしの世間との唯一のパイプである。 昨日、ある食堂で久し振りにTVを見たけれど、著しくつまらなかった。世の人々も皆興味あってTVを視ているのではないなと実感した。ニュースキャスターやらの人々の顔も、まだやってるのか君達という感じだったな。

新聞記事に記者名が記されるようになって遅ればせながら良かったとおもう。これからじっくり読みこなして記者のそれぞれのクセとか好みまで辿り着けたら面白いだろう。

日経夕刊「プロムナード」の担当者から微細ではあるが注文がつき始めて、ああようやく一人読者を得たなの実感あり。

昔、山本夏彦翁から書き直してくれと言われて、くちびるをかんだり、うまいぞとおだてられたりで、アレは随分きたえられていたのだとつくづくおもう。

565 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十一日 日曜日

台北の李祖原さんと連絡。日経夕刊コラム「プロムナード」に三陸海岸復興のコトを書いていて、最新のモノに李祖原さんの事を書いた。新聞は読んでくれたようで、気仙沼の件は意欲があるとの事であった。三陸海岸再生の為に、打つ手は何でもありだと考えている。政府、自治体の力もすでに限界が視えてきているようにおもう。どうなりますか。

八月二十二日

雨が降っている。気温も猛暑の日々からガクリと10℃程下がっているではないか。

クズの葉の勢いも心なしか、おさまっているようだ。雨水を得て休養中なのかな。

2階の斜材から3階の斜材にのびようとしているつるの一部の先端が行き場を失くしてもがいている感じ。からまりにくい場所に登りつめたのだろう。クズのつるもつるなりに大変なんだろうな。

不思議でも、何でもなくって、この日記(メモ)も書かなくてもよい日があるのだけれど、このところスレスレに何やかやと書き続けている。書き続けている素は何だろうともいぶかしむが、良くはわからない。10数年続けているので身体になじんでしまったと言えば、それは嘘になる。

世間体と言えば、それは逆で、こんなメモを白々と世間にさらし続けるのはむしろ恥の世界だろう。

まあしかし、突然休止したら休止したで色々とうるさいのかも知れぬし、全くそれはそれで素通りされるのも自然である。

それもしゃくにさわるから、という位の理由しか考えつきません。ただ、自分の行動を逐一メモして残すスタイルはそろそろあきたので少しづつ変化させてゆく。

564 世田谷村日記 ある種族へ
八月十九日

正午、渡邊助教と烏山で打合わせ。12点の絵葉書プロジェクトになり得るドローイングを渡す。絵葉書プロジェクトは震災後5ヶ月経った今が正念場にさしかかった。これ迄は1980年代〜1990年代の美しかった気仙沼、唐桑の人間や風景の数々を世に送り出してきたけれど、思い切ってこれからの気仙沼・唐桑への夢へと切り換えたいと考えた。夢といっても、何の根も葉もない類の夢ではない。良く考え、又相談した上での計画である。暑くて眠れぬ夜の幾たりかををかけてその計画をスケッチし続けた。その中から多くの人々に受け容れられるだろうと思われる図柄を12点選んだ。

渡邊助教に依頼したのは、これ迄の12回3万枚弱にならんとする絵葉書シリーズの積み重ねとの整合性をチェックしてくれが第一点。次にその整合性はとも角も、これを機会にこの小さな試みをもう少し中位迄のスケールにレベルアップするにはどうしたら良いかの戦略を考えて下さいが主目的であった。

実ワ、一昨日以来、絵葉書プロジェクトのパワーアップを狙って絵馬販売、高僧書跡とか色々と無い知恵を絞ったのだが、無い知恵はいたしかたなく、放り出しての相談と相成った。

知恵が出なくって、他人に頼むなんて事は失礼だとは考えたが渡邊助教にも良い頭の切り換えになるとは考えたのだ。

どれ程泥臭いアイデアを出してくるだろうかと楽しみでもある。

八月二十日

朝、絵葉書プロジェクトの件で意見を聞かねばと考えていた馬場昭道さんに電話するも、不在。何処かに出掛けているようであった。お盆の超過密スケジュールをこなして後の休息が必要だろうに全く呆然とするがの如きの行動力である。

先日、一関ベイシーの菅原正二さんが、彼は今、9.11の平泉毛越寺でのカウントベイシーオーケストラの集客活動に励んでいるのだが、その菅原さんが「石山さん、やっぱりアナログが一番ですよ」と教えてくれた。コンピューターでピコピコやるのも良いが、電話とか、直接会って話すとか、FAX、あるいは手紙が一番だと言う。

そうだろう事は解るのだけれど、アナログ派の巨匠菅原さん(御承知の通り彼の店ベイシーはアナログの究極の音を出し続けて40年になる)はアナログのコストが異常にかかるという事を忘れがちなのである。

その点、コンピューター、メール他はほとんど0コストに近い。0コストに近いから、やっぱり附き合いもそれなりに薄く、平べったくなってしまうのは、仕方の無い事なのであろう。

くだくだしい日記になりかかっているので、ストップする。

563 世田谷村日記 ある種族へ
八月十八日

早朝、唐桑の佐藤和則元町長に電話する。集会所の考えを進めてみたい旨を伝える。唐桑は今気仙沼市に合併されて行政としては気仙沼市に属する。公民館、集会所等の移転先も何もかもまだ何も決まっていないとの事。住民の意志が優先されるでしょうとの事。唐桑の昔の三陸津波記念館を建て替えたらどうだろうかと佐藤さんは言う。でも文化財としての価値があるようですんなりゆくかどうかとの事である。

昨日、集会所の案を一つ作ったのだが、この案は文化財の保存再生向きの案ではない。アレはもうひとつの案件に向けよう。

短い話し合いであったが、唐桑・三陸津波記念館の再生、そしてより地域の人々の生活に密着したものに作り直すのも大変良い事だと考え、早速資料他の送附を依頼する。

佐藤和則元町長も津波後5ヶ月程を経て、ようやくにして冷静に前を向いて考えられるようになっていると、失礼ながら感じた。心強いことである。

気仙沼も唐桑もわたしとしてはゆっくり、ゆっくりと牛の歩みの如くに、しかし不退転でやろうと決めている。10年位かかるんではないかの直観もあるが、すぐに手を打たねばならぬ事も多い。しかし、最後は気仙沼人たちの、唐桑の人々の集団的な意志の形が全てを決めるだろう。又、そのような考えを提出しなければ深い価値は何も無い。

562 世田谷村日記 ある種族へ
八月十七日

クズの葉のツルの先端が3階テラスの斜材に届こうとしている。ツルとしてはこの先の延び所を発見する正念場であろう。

3階の斜材にとりついてしまえばあとは屋上に迄辿り着くのは容易である。どうやら、クズの幹はDNAとして昨年、一昨年の記憶をベースにして今年の計画をたてているようだ。今、わたしがいささか必死で試みて「無題」として書きはじめている作文と同様である。

山口勝弘先生の今を一番感じてもらいたいのは、実は唐桑半島の友人達である。家も何もかも津波で流された友人達の、それぞれの日々を想えば言葉も無い。何が技術だ、何が芸術だと、東京でキャピキャピ騒いでいる人達もそれなりに一生懸命なのだろうが決定的に何かが欠けている。

このコンピューター上の一種の記録を唐桑の友人達は多分読んでいない。イヤもしかしたら、この前届けさせていただいたささいな支援金の一部でコンピューターの整備をしたいと佐藤和則元町長から連絡があったので、その担当の若い人は読んでいるかも知れない。

わたしが今一番語りかけたい、そして考えを聞きたいと思っているのは唐桑の友人達なのだけれど、まだ話す言葉を知らぬのだ。

わたしのこの日記はまだ彼等の気持に届き得る平明さと素直さを持たない。

最近になって、わたしはようやくにして『アニミズム紀行』を書き続けているのかを少し知るようになった。まだ理由のわかりにくい飛躍があるだろうが、アニミズム紀行の終りに近く、終りというのはわたしがモノを描き、又、記せなくなる日がいづれ来るだろうが、その終り近くにわたしの気力がまだ残されていたらわたしは「唐桑物語り紀行」を書き、そして描いてみたいと思う。何処に行くのかアニミズム紀行といぶかしんで下さる読者も少なくはないと思う。その方々には津波に度々、度々と言っても有史以来千数百年だけれど、やられてきた東北の海辺の寒村の人々の、それでもここに居たいと言う気持の深さを書ければと思う。

津波後の小鯖湾を訪ねた時(小鯖湾に関しては『atプラス 09』にいささか紹介している)に小さな岬の先端にあった恵比寿さんの石のやしろの姿がないのに気がついた。今は市会議員の戸羽さんに尋ねたら海の底でしょうとの事だった。長靴で海底をのぞいたけれどその姿を確認できなかった。この恵比寿さんのやしろの姿はいずれ「絵葉書プロジェクト」のキリの良い時に御紹介したいのだが、なにぶん記録が多過ぎて発掘できるかはわからない。

561 世田谷村日記 ある種族へ
八月十六日

三陸海岸被災地支援の「絵葉書プロジェクト」が12弾迄到達した。もうそろそろ皆さんの関心は薄れるだろうと予測していたけれど、意外や意外に支援の力は持続している。ありがたい事ではある。しかし、まだ5ヶ月程しか経っていない。これから先が苦労であろう。我孫子・真栄寺の馬場昭道住職をはじめとする浄土真宗の多くの寺院他の力をいただけたのは大きい。伏して御礼申し上げる。

又、お陰様でわたしも親鸞上人の勉強を少しづつ始める事もできた。親鸞上人の東日本、北関東での布教活動は、やはり平安、鎌倉期の天変地異、そしてそれを一つの因とする武士階級の勃興と切り離しては考えられぬもののようだが、しかしその歴史の事実を知る事が今、現在の日本列島が恐らくは揺れ動き続けている現実にどう対応すれば良いのかを考え実行する事とは別物であろう。

真栄寺から今年も梨を送ってもらったので、先程御礼の電話をしたら、案の定昭道さんは早朝から飛び歩いているようで、帰りは夜遅くなるとの事。勝手な想像だが絵葉書セットを持ち歩いて、機会ある毎に人々にすすめてくれているのだろうと思う。

「わたしは単純だから、難しい事は良く解らんのよ」が昭道さんの口癖であるが、それを言いながら仏前で手を合わせてただ「南無阿弥陀仏」を唱える彼の背中は年々歳々大きくなっているの実感がある。

やはり飛び抜けた実行家であるな彼は。

友達達の後姿が次第に大きく視えるようになったのは、恥ずかしながらわたしも少しはマシな人間になったかと思うが、わたしには昭道さんのようなシンプルな行動の基盤が薄い。

都市仏教の実践が彼の行動の基軸である。

宮崎県の大寺の後続を長男さんにゆずり、一人北関東に出てきた。我孫子に檀家無しで新しい寺を開設した。父親ゆずりで寺院運営の才質もあり、苦労はしたが、それは見せずに真栄寺をキチンと築き上げた。この先何をやるのかが見モノである。

彼とわたしを会わせたのは亡くなった佐藤健である。このラインはわたしの宝物であると次第に自覚しつつある。

若死にした佐藤健の分迄本当は頑張らないといかんのだが、どうも人間の大きさが欠けているようだ、わたしには。

絵葉書プロジェクトに是非御参加を!

560 世田谷村日記 ある種族へ
八月十五日

ここ2、3日は書くべき事は無いので記さぬ。

あっても読者の皆さんとの関係の糸は細い。細い糸の為に無理して書く程の事もない。

ここ数日考え込んでいた小計画について今朝少しばかりを記した。トップページに随時掲載したい。

13日に一関「ベイシー」菅原正二さんより、9月11日の毛越寺ライブの岩手日日新聞記事が送られてきた。

その一部を要約して記す。

「9月11日午後5時より平泉毛越寺で開催されるカウント・ベイシー楽団毛越寺ライブは以下の通り:

 バンドリーダーの故ウィリアム・カウント・ベイシーと義理と人情の関係にある一関ジャズ喫茶ベイシー店主の菅原正二の実質的主催である。サントリー、JR東日本が協賛する。

 コンサートは9月11日午後より開場。6時開演。於、平泉毛越寺。

 入場料は5000円。予約は一関観光協会=0191-23-2350。あるいは直接ベイシーに。FAX=0191-26-3640。ベイシーにはFAXがベターでしょう。」

この毛越寺のカウント・ベイシー楽団ライブが成功してもらわないと、わたしと山口勝弘さんの小展覧会の開催も覚束なくなるので、9月11日に時間のある人は是非訪ねてみて下さい。みどころ、聴きどころは、カウント・ベイシー・オーケストラの磨き抜かれた音でしょうが、楽団と菅原正二の現代には稀な関係も感じてもらえれば、それにこした事はないのです。

559 世田谷村日記 ある種族へ
八月十一日

13時大学院9月修了者修士計画、論文発表会。15時修了。暑い中、クラクラしながら歩くのは大変だった。夜、安藤忠雄と電話で気仙沼の件話し合う。

八月十二日

8時半離床。今日も暑そうだ。

9時前気仙沼の臼井賢志さんと昨夜の安藤忠雄さんとの話しも含めて相談。気仙沼人私案の形で鎮魂の森ゾーンのプランを描いてもらう事にした。魚町(屋号町通り)に関しての情報をいただく。

何しろ、ここは気仙沼の顔で先立つモノは金である。

唐桑の佐藤和則さんと連絡とれた。鈴木、梶原両氏ともに我々のお二人、二家族のための住宅建設プロジェクトの話しを、どうも二人だけと言うのはと、お断りになりそうだ。勿論、古い友人達であるからこそ、わたしはそうなるだろう事は眼に見えていた。

佐藤和則さんから、公民館が皆やられてしまったので、そういうモノはどうだろうかの提案があった。小さな「ひろしまハウス」みたいなものだな、この提案は。

山口勝弘先生とこれも又、電話で話す。意を決して

「先生、一関のレイシーではなくて、ベイシーですよ」と伝える。

「アッ、そう、レイシーね」だって。こりゃダメだ。

暑くなりそうである。

酷暑の中、建築士会連合会の審査評、4点を書き終える。

作者は一生懸命読んでくれるだろうから、手を抜かずに書いた。事務所に送附する。

12時半、カンボジアの友人に電話する。

「イヤー、いただいたお守りがきいちゃって、キチンと飯がノドを通るようになりました。ビンビンです。凄いですぜ、あのお守り」

との事であった。取り敢えずは良かった。ラオスに用事で行く事になったようだ。あんまり無理をしないほうが良いのだが、カンボジアの暑さの中でジイーッとしていたら、それこそ死んじまうだろう。と、暑い世田谷村で、暑いカンボジアに思いを飛ばして、思いだけでも涼ませようとする。ラオスか、暑いだろうな。

558 世田谷村日記 ある種族へ
八月十日

12時、東京駅丸ノ内北口、丸ノ内ホテル7階ロビーで気仙沼の臼井賢志さんと会い、相談。同30分過、安藤忠雄さん加わる。13時過了。鈴木博之さん三陸海岸の文化財の件で臼井さんに紹介する。これから先三陸海岸の文化財他の保存、再生の問題は大事にしなくてはならぬ問題となろう。

臼井さんと別れ、安藤、鈴木、難波各先生方との昼食会。やはり安藤さんの話しがリアルで興味深い。15時過了。では皆さんお元気でとお別れする。

念の為に渡邊大志助教がロビーで待機してくれていたので、東京駅地下で食事。新宿駅で16時過別れ世田谷村へ。寄り道して18時半世田谷村に戻る。

八月十一日

9時前、気仙沼の臼井さんと連絡。

シュツットガルトのカイ・ベックより連絡が入り、どうやら、石山修武展のワイマールからシュツットガルトへの巡回が11月に正式決定となった。どうしても東日本大震災へのプロジェクトを追加展示したいので具体化を考える。

山口勝弘先生に電話するも、のんびりした声で話されるので、とても「レイシー」の件は話せないのであった。「レイシー」ではなくって「ベイシー」ですよと言うのにも骨が折れるのである。

今日も暑い。昨日は東京は35℃迄気温が上がったようだ。

電話があって、山口勝弘先生の弟さんからとの事。ギクリとする。何か又、先生やってくれたかと思ったのだ。日経コラム「再生する人」への御礼であった。ホッとする。

先生はシングルである。だから御兄弟、妹さんは大変なのだろうと思う。わたしも「レイシー」問題くらいでヘナヘナしているようではいけないと反省。

しかし、先生がポスター制作にかかってしまう前には「レイはベイの誤りです、レイシーではなくってベイシーです」と伝えなくては。

又、ベイシーは音に対する自負山よりも高く、ほとんど無限の域に達しているので、「音はいりません、無音にします」とも伝えなくてはならぬのである。

唐桑に連絡するもつかまらず。

557 世田谷村日記 ある種族へ
八月九日

7時半離床。すでに暑い。早朝の天空が美しいもへったくれも、この暑さには飛んでしまう。ちょっと気取った風情は暑さの前には夏の犬だ。ゼーゼー青色吐息の意である。昨日は2件案件を片付ける事ができた。明日、東京駅で気仙沼の臼井賢志さんに会う。三陸復興に臼井さんは粉骨砕身されている。わたし達も出来るだけの事をしたい。

東大との合同課題について、早稲田の若い先生に乞われて、隈研吾さんと連絡、通信のやり取りを経て、ほぼまとまったとわたしは考えている。隈さんは隈さん風にサラリと処理してくれた。このサラリが隈流だなと思った。

山口勝弘先生より大きな封書いただく。

先生はスッカリ、ベイシーでの展覧会に乗り気になって下さり、ドンドン、それこそ津波の如くのエネルギーで構想を展開しているようだ。

ベイシーがレイシーになっていたりで、とてもベイシー店主菅原さんには見せられぬ内容である。菅原さんも又、ヒョッとしたら山口勝弘を上廻るが如くの筋金入りの人なので、この二人は会うと問題を起こしそうだ。

山口勝弘のビデオなんか見たくも無いだろうし、わたしとしては徹底的に音無しの展覧会にしたい。

ベイシーの2階で音を出すなんて事は考えぬ方が宜しいのだ。

正直に言って、開催の意向はベイシーに伝えてはあるが、ディテールは未定である。

山口先生は開催日程が決まったら知らせよ、ポスターを作るからと言ってくるし、全く本物のアーティストは津波ですぜ、もう自分の世界に没頭して貝になっちまうのだ。これは小事件だが大変な事になりかねないのである。

なにしろ山口勝弘の頭の中に入り込んでしまった「レイシー」なる不可解なモノを先ずは追い出さねばならないのである。

菅原さんに会って、「アッ、レイシーさん」これで全てはおシャカなのである。

菅原さんにしてみれば、なんだこのクソジジイ、カウント・ベイシーのべの字も知らぬ、ダラスあたりのホットドッグ屋の田舎ジジイじゃねえかという事になってしまう。

しかし、山口勝弘の頭も、一度入ってしまったモノを簡単には追い出せぬ類のアフリカ、マサイ族みたいな風もあり、絶対にレイシーさんで押し通してしまうだろう。

常識人のわたしは間に入ってオロオロ族になるだけのクタビレ損になるのは眼に視えてもいる。悪い予感は必ず当たる。

で、先ずどれ位の金がかかりそうなのかをカウント始めたい。

東北地方(三陸海岸にこだわりません)で一人、二人実行するに手伝ってくれる人がいたらありがたい。名乗りを上げて下され。

伏して頼む。

556 世田谷村日記 ある種族へ
八月六日

昨日と今日で日経夕刊コラムを2本書いた。なんとなく、これ以上書いてはいけないと考えコラム書きはストップ。

我ながら、この数日凄惨極まれりの乱読。大小含め18冊程を読み抜けた。内容は記さぬが華だろう。かくなる読み方をすると今、自分がどの世界に安住しようとしたがっているかが良く解るのだ。他には何の意味もあるまい。大体大方の書き手であってもそれぞれが明確に何に向けて歩いているか等、書いている時にはほぼ解らないのではなかろうか。例え、こむずかしい理論書の類であってもだ。

八月七日 日曜日

5時過離床。今朝も朝焼けの壮大さがあるが、少しふやけていてそれ程美しくはない。毎朝出来がちがう。昨日、日経夕刊コラムへの反応の手紙を送ってくれる方々が何人かいた。読んでくれる人がいるのだな。

11時過世田谷村発、経堂へ。12時半経堂すずらん会館。都内なのに町外れの感じのある会館であった。経堂駅から5分なのに、こういう処があるんだ。控え室で山田脩二さんスライド整理にいそしむ。やがて難波和彦さん来る。13時半定刻通りに、「第三回世田谷式生活・学校」開校。7-80名の参加者であった。第一講、難波和彦さん「映画の中の市民」。市民というよりも、家族像についての一般的な考えを述べられ、箱の家の紹介、最後にアンドレイ・タルコフスキーの映像の一部が紹介された。第二講、山田脩二「淡路瓦師、炭焼き師、印画師」の生涯。難波さんのレクチャーともっと劇的に際立って対比的になるかと期待していたが、やはり講演というスタイルの不自由さもあり、実にお二人とも淡々と水の流れのようにサラサラと流れるのであった。山田脩二さんは実存の人である。実存主義的な色合いが濃厚だけれど、そんな事にはお構いなしの人である。得度して僧になっているが僧侶の口振りは似合わない。そこらの土を焼く陶芸家の口付きも、ましてや写真家の語りも似合わない。

要するに実存としか言い様のない座りの悪さが真骨頂なのである。

そろそろあきらめて、何処かの壺に入って納まった方が生き易いと、余計なお世話も考えるが、他人様の心配している余裕はこちらにも無い。

質疑応答を経て、16時半予定通りに終る。

たまにはいいだろうと考えて、懇親会を持つ事にして、近くの料理屋へ。

二次会に流れて、烏山宗柳へ。20時半全て終わり、散会する。

八月八日

7時半離床。5時半に起きて朝焼けを堪能したいと考えたが、今朝は天空の具合が良くなくて平凡な朝の空であった。考えてみれば、毎朝感動してりゃあくたびれるものな。

新聞をじっくり読むも、読みモノが無い。こうして淡々と流れてゆくのが現実なのだろうが仲々辛いものがある。

メモを記し、10時朝食と小休。午前中は色々と連絡物件をこなさねばならない。

555 世田谷村日記 ある種族へ
八月五日

昼前、気仙沼の臼井賢志さんと電話で話し合う。10日に東京で会う事とした。ようやく身体が元に戻りつつある。まだフラフラするがこれは元々人間が頼り無いので仕方なかろう。

13時20分、苦労して日経コラムの7本目を書きおえる。まだ少し手を入れなくては完稿にならない。

昨日、毎日新聞に鈴木博之さんが「都市の呼吸」の連載で、やはり東日本復興の「等高線の思想」を記しているのを読んだ。

その記事の隣りに石井正己氏の「何をもって復興とするのか―柳田国男の視点」の出足は面白し、が尻切れトンボであった。とても良い論点を持っているのに残念。

若い者に今週はボーッとしててくれと言われて、甘えさせてもらっているが実にコレが一番苦しい。

ズーッと天井を見上げていればと思うが、うちには天井がない。

少し首を傾ければ天が見える。雲が色々とうごめくので、これはコラムに書けるなと想ったり、苦労してる私を尻目に全く自分勝手にこれ又、空を眺めている白足袋を見て、コレもコラムになるなと大変なのである。6本位頭の中で出来てしまった。全くの無駄である。

しかしながら、少しの熱に妄想をつくるのも、キチンとした論を組むのも、猫の想いに眼をやるのも全てコレ断片である。まだまだ急速に拡張しているらしい宇宙の断片である。と、もっともらしい事をつぶやいて再び眠りにつこう。

554 世田谷村日記 ある種族へ
八月四日

5時半いったん離床。体温を計るも、その結果は記さない。

昨日家人が体温、血圧を記しているのを見て、これはおかしいと言った。良く良く考えてみればそうだと納得、細かいデータは記さぬ。誰が他人の体温を知って楽しめるだろうかとも考えた。代りに白足袋の体温を計ってそれを記すかと考えたが、そんな事を実行する元気はとてもない。

9時、どれ位振りか、シャワーを使い頭を洗う。頭の状態が昨日から悪く、それは頭のかゆさから来るのではないかと思いついた。ただその頭のかゆさが頭蓋骨の外部のかゆさなのか、内部のかゆさなのか当人には不明なのだ。

で、先ずは外から洗ってみた。少しはサッパリしたので内部洗いは次に持ちこすことにする。

昨日は、午前11時半に世田谷村から大学地下スタジオに車で連れていってもらい、院・学部4年混合の学生の作品を見る。15時鈴木博之先生来られ、講義。その後、学生作品のクリティークにも参加してもらう。1点飛び抜けたモノがあった。鈴木先生もそれには関心を持たれたようだった。

18時に修了し、鈴木先生と別れ、再び世田谷村迄車で送り届けてもらった。もう、ただの物言うポンコツであった。

世田谷村に、絵葉書プロジェクト、最新版20部送って下さい。

553 世田谷村日記 ある種族へ
八月三日

7時半離床。昨夜は実に良く眠った。すぐに熱を計る。オッ36度9分迄落ちているではないか。自己努力では良くやった。しかし、これは仮に落ちているので又、上がるのが良く解る。中古冷凍庫エアークラフトのダメージは大きいのだ。うちの冷凍庫中の食品も皆カゼをひいているな。食品もとれたモノをすぐに食べるのが一番なのだろう。

熱を取りあえず37℃まで下げたので、今日のクリティークには出掛ける事に決定。念の為に9時にもう一度熱を計って、それで渡邊助教に電話することにした。

今日も水曜日で日経夕刊コラムの5本目「プノンペンで」が掲載される。昨夕最終チェックもすませた。今、わたし達のホームページのトップ(表紙)に先日の一週間程のプノンペンでのスケッチがONされている。

それは今日が最後である。ウナロム寺院の西の僧房から眺めたメコンの朝焼けがONされる予定だ。もし出来得ればその「メコンの朝焼け」のスケッチと共に今夕のコラムを読んで下さると嬉しい。

孔子は「市井隠」をいった。賢者は自然の中に、竹林や桃源郷に隠れるのではなく市井にひっそりと暮らすと言った。

この壮大極まる朝焼けに接する度に不思議な感動があった。わたしは賢者ではないが、俗人のアウトサイダーであろうか。しかも俗人の中のホトホト臭気漂う俗臭もすぐかぎ取る、イヤなタイプの俗人である。俗人であるから見られぬモノを視たいの渇望が強い。今日のホームページのトップはその気持が良く表われている。

552 世田谷村日記 ある種族へ
八月二日

5時半目覚める。ボーッとしている。熱を計る。39℃これはいかんぞ。しょうがネギスープを飲む。うまい。8時半再び熱を計る。38℃。このママ、熱が引いてゆくとはとても思えない。5日だったかの鈴木さんの講義は何とか聴きたいが、この調子では解らないな。今日は1日、布団にくるまって汗びっしょりになって眠らねば。

汗ビッショリになって朝食のおかゆを食す。ようやく、これはいけない、治すぞの気持になってきた。治す以外の事は何もせぬ事である。

18時半、熱は何とか37℃中頃迄落ちた。今晩〜翌朝まで汗かいて眠れば何とかなるかも知れない。しかし、とても歩けないので誰かに世田谷村迄11時半頃来てもらい、12時過にスタジオへ、ざっと学生の作品を見て、3時からの鈴木先生のレクチャー、及びクリティークに備えるというアイデアを作る。学生達も頑張っていたから、それ位の事はするべきだろう。

この項目は渡邊助教に伝える事。明朝再び連絡したい。

熱いネギスープをフーフー飲む。

世田谷村日記