東日本復興応援プロジェクト

石山修武研究室

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坂田明・冬の銀座ライブ

坂田明・冬の銀座ライブ

日時:2012年2月25日(土) 18:30開場 19:00開演

奏者:坂田 明(サックス・クラリネット奏者)
入場料:4,500円(コンサート代、三陸海岸被災者支援絵葉書代)

■ 概要

サックス・クラリネット奏者・坂田明氏による気仙沼復興支援ライブを開催致します。
本コンサートの入場料の一部は義援金として直接気仙沼にお届けします。
ご来場の方には三陸海岸被災地支援絵葉書を1セット(6枚)差し上げます。
また、会場には俳優・仏師滝田栄による地蔵願王菩薩像、地蔵像を収めるための御堂の模型
三陸海岸被災地支援絵葉書プロジェクトによる「絵葉書巻物展」、ブラジルの子供達
による気仙沼応援のための絵画作品が展示されておりますので、ご来場の際には是非ご鑑賞ください。

■ 主催

気仙沼商工会議所/東日本大震災沿岸被災地商工会議所連絡会/東急不動産

■ お問い合わせ:

早稲田大学石山修武研究室
TEL:03-3209-2278 (FAX:03-3209-8944)
Email:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp

■ 会場

銀座TSビル2F

   東京都中央区銀座5-2-1
   東京メトロ丸ノ内線、日比谷線、銀座線 銀座駅C2、
   C3出口すぐ。JR有楽町駅下車 徒歩3分。

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谷広海氏講演会「気仙沼復興へ ブラジルから期待する」


1月28日の谷広海氏講演会は盛況のうちに終了致しました。

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谷広海氏講演会「気仙沼復興へ ブラジルから期待する」

谷広海氏講演会「気仙沼復興へ ブラジルから期待する」

日時:2012年1月28日(土) 18:30~21:00

  講師:谷 広海(ブラジル日本語センター理事長、ブラジル盛和塾世話人)

■ 概要

東日本復興応援プロジェクトfrom銀座「気仙沼応援絵画展」に展示されるブラジルの子供たちの作品を提供していただいた、ブラジル日本語センター理事長の谷広海氏に気仙沼復興についてお話をしていただきます。

■ 主催

気仙沼商工会議所/東日本大震災沿岸被災地商工会議所連絡会/東急不動産

■ 後援

駐日ブラジル大使館

■ お問い合わせ:

早稲田大学石山修武研究室
TEL:03-3209-2278 (FAX:03-3209-8944)
Email:ishiyamalab@ishiyama.arch.waseda.ac.jp

■ 会場

銀座TSビル2F(入場無料)

   東京都中央区銀座5-2-1
   東京メトロ丸ノ内線、日比谷線、銀座線 銀座駅C2、
   C3出口すぐ。JR有楽町駅下車 徒歩3分。

■ 谷広海氏略歴

1940年1月1日 宮崎県宮崎市生まれ
1962年     日本学生海外移住連盟、
        第3次団員としてサンパウロで実習
1964年     早稲田大学政経学部卒業
1967年     アラゴアス連邦大学法科入学
1972年     同大学卒業、弁護士、不動産業者資格取得
1989年     タニ・プラザ・ホテル(4星、67室を開業)
1993年2月   サンパウロにてブラジル盛和塾
        (稲盛和男氏の実践経営塾)
        開講代表世話人に就任
1996年     カー・オークション店開店。1年後、閉店し現在賃貸中
2002年     ブラジル日本語普及センター理事長に就任、
        現在にいたる
2004年     同センターをブラジル日本語センターと改称
2008年     ブラジル龍馬会初代会長に就任、現在にいたる

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「気仙沼応援絵画展」

東日本復興応援プロジェクト from 銀座

「我孫子の5つの小学校の子供たちによる気仙沼応援絵画展」

我孫子の小学生からの500点を超える気仙沼応援の絵画作品を展示いたします。
期間:2011.12.11〜2012.2.8
場所:銀座TSビル2階(地図はこちら
チラシ(pdf)はこちら

[ イベント ]

日時:2011年12月18日(13時〜)
作品を描いた子供たちによる発表会を、展示会場にて行ないます。


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東日本復興応援プロジェクト from 銀座

■「くじけるな気仙沼展」

宮崎県宮崎市「現代っ子センター」の子供達の気仙沼応援の絵

展示会場の様子

「現代っ子センター」とは

■「気仙沼・唐桑復興支援絵葉書プロジェクト 絵葉書巻物展」

石山修武研究室

<アクセス>

銀座TSビル:東京都中央区銀座5-2-1銀座TSビル2F / 地図はこちら

<主催>

気仙沼商工会議所 / 東日本大震災沿岸被災地商工会議所連絡会 / 東急不動産 /
宮崎市・現代っ子センター、子供達の気仙沼応援の絵展実行委員会
<協賛>宮崎県真栄寺

チラシはこちら

<略歴>

□宮崎・現代っ子センター

2.5歳児から小・中・高校生・一般が、一つの空間で「型にとらわれない自由な発想、思い思いの自由なアート」を描く施設。藤野忠利1973年に宮崎市松山1丁目9番26号でスタート。1979年、日仏児井川童画展およびルーブル装飾美術館(パリ)にて現代っ子センター展を開く。同年、ルーブル装飾美術館こどもアトリエ「カポラッソセッシアトリエ」と交流。1980年「元永定正展」、絵本『もこ もこもこ』(文・谷川俊太郎/絵・元永定正)。1981年「松谷武判展」『流動』鉛筆の黒の中の黒。1982年、現代っ子センターハワイサマースクールにて児童画交流。1983年、堀尾貞治展、水を撒くパフォーマンス。1987年、「桜島の火山灰で絵を描こう」20㎡の布に100人で描く。1988年「日本一大きいこいのぼりに描こう」20㎡の布に300人で描く。同年、現代っ子センターエジプトサマースクールにてギザからアブシンベル神殿へ行く。1991年から翌年まで、宮崎アートシンポジウム「20世紀の美術の流れ」。1996年「1000人のアーティストと藤野忠利の仕事展」(宮崎県立美術館)。1998年「日本におけるフランス年・日仏友好交流展」(宮崎県立美術館)。1999年、関西の前衛芸術「具体」作品を中心に展示する「現代っ子ミュージアム」開館。

□藤野忠利(ふじのただとし)(1936―)

 現代っ子センター代表

 宮崎市生れ。1961年、立命館大学経済学部卒。1962年、具体美術協会のピナコテカ(絵画館)へ行って、白髪一雄の足で描いた絵を見て度肝を抜かれて、弟子入門を申し込む。1973年、現代っ子センター設立。1999年、現代っ子ミュージアム(設計:石山修武)で開く。

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「くじけるな気仙沼展」2


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「くじけるな気仙沼展」

「現代っ子センター」の子供達の作品

宮崎県宮崎市「現代っ子センター」の子供達の気仙沼応援の絵



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無題4 −石山修武

絵葉書プロジェクト、第2ステップ、明日の気仙沼・唐桑に関してだが、基本的には拡散させずに更なる集中を試みようとおもう。

というのは、今秋シュツットガルト美術アカデミーで石山修武建築展が開催されたり、サンパウロ大学から何をお手伝いしたら良いかの問い合わせがあったりしたりで、若い渡辺さんは国際的に展開しましょうとの意見がある。わたしも国の外の力は欲しくてたまらない。

が、しかし考えるにここはジーッと同一点に座り込んでWORKを深堀りするにこした事はないの結論に到達しようとしている。

それには具体的にどうしたら良いか。

第1にこれは絶対にしてはならぬ事を外してはならない。

気仙沼、唐桑の人々、友人達の手をわずらわせてはいけない。まだまだ彼等はそれどころではない。

第2に目的をはっきりさせた方が良さそうだ。

気仙沼はいずれ報告するが、唐桑で何を支援するのかを今はハッキリさせるべきだろう。

これ迄、絵葉書プロジェクト他で皆さんからいただいた支援金の一部は唐桑に届けた。そして更にその一部が唐桑まちづくりカンパニーを継承しているらしき若者のコンピューター器機の充実に当てられているようなのは、知らされて知っている。

最近、唐桑元町長・佐藤和則さんとの相談の中で、我々が提案していた、鈴木さん、梶原さんの個人住宅復興よりも、地域の集会所、公民館が流失してしまったので、それが欲しい事を告げられた。

それもそうかなとおもった。

鈴木、梶原のお二人は家を失くしたとは言え、自分達だけが支援されるのは尻込みしたのである。そういう人達なのだ。自分だけ良ければ良いの人達ではない。

いつも、みんなの事が頭にあり、消えない。

それでその集会所建設の資金集めに取り組むことにした。

予算は随分な額になるだろう。

でも不可能な額では無さそうだ。それを全部絵葉書プロジェクトで集めるのは不可能に近いだろう。

でも先ず、絵葉書プロジェクトによって、その事を皆さんに先ず知ってもらおうと考えた。

それをしてからの次の展開であろう。


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無題3 −石山修武

「唐桑の家」のスケッチを進めている。

山口勝弘先生から届いた手紙に、これは時に古代文字の如くで仲々判読困難なところがあるのだが、山口先生らしからぬエコマークと読めもする文字があった。

エコマークとは何と山口先生らしからぬなといぶかしんでいた。でも今日になって再読するにそれはエコではなくエンドレスの意の表示であるのが判明した。俗な無限を表す記号を山口先生なりに改竄したものであった。やっぱりダテや酔狂でアーティスト張ってんじゃないなと納得した。∞の記号もいやで、そりゃそうだろう。その感じは解る。それを分解し、みみずの動きの如くに抽象化したものらしい。

ウムウムとうなずく。

何故なら、こっちにもウムウムの理由があるからだ。

その手文字らしきのエンドレス記号が昨日ようやく辿り着いたわたしの唐桑の家の基本図形に酷似しているのである。チョッと見にはそうとは見えぬだろうが、作者には解るのだ。こういう作業は山口先生の方が有利である。純粋に自分の考えの中でアイデアを昇華できる。

わたしの方は何の制約も無いスケッチであろうとも、やはり唐桑につくるという制約がある。

先程、唐桑の佐藤和則さんと電話で話して、幾つかの建設予定地の話しを聞いた。聞いた途端にわたしのスケッチはジワリと縮みがちになる。

でも、唐桑の一度は同じ夢を見ようとした仲間たちの為でもある。そう簡単に縮むわけにはいかないのだ。

でも不思議だ。

83歳の不動のアーティストの考えの中に生み出された「三陸レクイエム」のマークらしきと、わたしの「唐桑の家」の初期スケッチが酷似している。

このスケッチは近々、絵葉書プロジェクトの新段階のモノとして発表するだけではなく、唐桑の家の広範な資金集めの道具としても使いたい。

8月18日

石山修武


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無題2 −石山修武

どうやら本物の不動さんになられた山口勝弘さんは、今エンドレスマークを想い描いているらしい。

8月11日の日付が入った封書が今朝届いていて、そう書いてあった。左手が不自由な先生は手紙を書くに用紙が押えられないので、どうしても紙片に対して字が傾く。その傾いた感じが何故かとても良い。精神の弛緩をいささかも感じさせずに、しかも不完全なモノに視える。

自然に不完全である状態が表現されている。

研究者としての山口勝弘の最良のモノは勿論フレデリック・キースラー研究である。

先生が何故キースラーに関心を持ったのかの動機は良くは知らぬ。おいおい調べてみたい。でも、先生の手書きの、緊張感に満ちた通信に触れるうちに、どうやら、ここに表現されている不完全さに奥深いところで共感、あるいは気持が共振したのではなかろうか、と思い付くに至った。たった今、思いついたのだ。そうだこんな風に正直に書いてみたかった。

フレデリック・キースラーのエンドレスハウスのヴィジョンはその具体物(模型)はいざ知らず、そのネーミングの中にキースラーのユダヤ神秘主義の骨格が示されていたと、とりあえず言ってはおく。なにかインチキ臭いけれど。

キースラーのエンドレスハウスの事は山口先生が描いているらしいエンドレスマークから連想した。これは自然な連想である。実力相応だ。

描かれようとしているらしいエンドレスマークは、これは当然どんなモノであれ「三陸レクイエム」展のシンボルマークになるのも自然であろう。

先生の手紙には昨日夢に出現したエンドレスマークと記されていた。

先生は夢なんて見る筈がない。でも先生は嘘は書かない。だって書く必要がないからだ。眠りの半覚醒の意識の中で、主題をなぞっているのだとおもう。先生の知覚は強靭なモノである。一切の中途半端な解釈が入り込むのを決して許さない。その事では何度かわたしは痛い目にも会っている。その何度かの痛い目によって、わたしはホンの少し、わたしの俗な解釈好みをようやく嫌うようになった。山口不動のお蔭様である。

俗な解釈好み、その俗臭をようやく知るようになったので、この度は山口不動の力を借りて、その径をもう少し先に歩いてみようと考えた。わたしはわたしの俗物振りが嫌いなのだ。コレワ本当の事である。それがこの何の目的も無く書いている文章の極小の目的である。

空論をひねり廻してもらちがあかぬ。

さて一歩を踏み出す事としよう。読者ぐるみで。でも安心してなさい。読者の皆さんを危ない目に会わせようとするのではないから。

自分自身に課そうとする小実験なのであるから、馬鹿馬鹿しくなるかも知れぬが、本当に実害はないと思います。

ただただ、書く文章の文体そのものを変えられないかなと思い始めているだけです。

とここ迄書いて、やっぱりイヤになって全てを没にしようと考えたが、それも又実験としては不正直なモノになってしまう。こんなにイヤな事を書いているのをとり敢えずはゴミの如くにブチまけるのも一つの方法だろうと考え直したのである。

しばらくはこんな書き方が続くのであろうが、不才故である。なんとか山口不動の葉書きの域の最下層くらいには辿り着く努力はしてみるつもりである。

でもなあ、唐桑半島の友人達は山口勝弘さんの描くモノや言葉にはほとんど関心を持たぬだろうな。

その間の溝は深い。ただ、山口さんの今の行き方は共感するだろう。先生の中のアニミズム=マナリズムとも言うべきを引き出せたら光栄だ。マナリズムは民俗学、宗教学に属する言葉で、メラネシアに広く在る深奥のモノに対する感性の構造らしいのだが、まだ良くわたしには理解できていない。モノ、もの、ものの気、もの狂いのモノの語源ではないかと先日聞いた記憶がある。海からの視点あるいは思考の原点かもしれない。

山口勝弘先生

8.11日付のお手紙いただきました。

勝手に山口勝弘不動明王と独言しておりますが、先生の葉書、手紙の字体、レイアウトの歪みなどなどは不思議にわたしを励まします。

再生する人の現実そのものであるからだと知ります。わたしが励まされる位ですから、被災地で、親や子供を失ったような人々のより鋭敏な感性には、より深く何かを感じさせるでしょう。

沢山、葉書き下さい。勝手にコンピューターにそのままONしたい、そして多くの無明の中に在る人々に触れてもらいたいと思います。

まことに勝手なお願いですが、サラリと引き受けて下されば幸いです。

お願いいたします。何もことさらな内容で無くとも、日々の先生の呼吸みたいなモノで結構です。

石山修武

8月16日


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無題 −石山修武

TOPページの山口勝弘さんの石山ドローイングのページに随時書き継いでゆこうと思います。編集ものんびりでよろしいですよ。エッセイとも言えず、コラムでも無く、作家論でもない。

いささか暑さにへこたれて、しばらく世田谷村に沈澱していました。ボーッとしているのがどうしても出来ず、手近にあった本を読み狂いました。まさに狂夏というべきか。

面白いもので、次第に読みたいと思う本が少なくなってくるのに気付きました。皆、一度ならず読了した本の数々です。でも何かが鼻についてくるのです。書いている内容うんぬんと言うのではなく、その文体そのものが鼻についてくるものが余りにも多い。そして、どうやら文体そのものの方が各種作家、随筆家、思想家、創作家達の内実を露骨に表現してしまっている事に気付いたのでした。

勿論このような事はすでに多くの人間が言ってきた事です。

代表的なのは小林秀雄でしょう。本居宣長について書かれている事は大方それに近い。と、こう書いてしまうとボロ批評風になってしまうし、山本夏彦のコラム群の価値も文体そのものに昇華されていたことは言うまでも無いでしょう。

小林秀雄の膨大な著作の中では小片の「徒然草」がそれをコラム風に言い切ったものです。

そんな事を考えている中で、ただただ流れる如くに描き、書いてみたいなの気持が自然に湧き出たのでした。

そのきっかけは多くの読書に疲れて、フッとのぞいた石山研究室のページの、日記は再読しませんでしたが、冒頭にひいた山口勝弘さんの似顔絵とも言うべきに眼がとまったからです。

くたびれて宿借る頃や藤の花、の心境だったのかな。

正直に言えばそれに近いし、より気取って自意識を少し混ぜれば、余りにも暑さ疲れで横になり過ぎて、する事もなく読書三昧の小さな旅の涯に辿り着いた境界線、率直に言えば峠のようなもの、その峠からのぞいたのが自分自身で描いた山口勝弘さんの肖像であった。

以前、石山研のトップページ他の背景色はブルーでした。

コンピューターでは本当に好ましい色を表現するのは不可能です。

本当に好ましい色はやはり手で作るしか出来ない。

以前使った背景の青は編集の丹羽太一さんの発案でした。

でも彼は身体的条件で絵の具や色鉛筆他で、本当に好きな青を作る事ができなかった。その無念さがあのブルー(青ではない)に表れていたと思います。

丹羽太一さんのブルーはわたしにはとても物悲しいブルーとして眼に映ったのです。丹羽さんは山口勝弘さん同様に車椅子の人です。失礼な言い方になるやも知れませんが、その身体の哀しさがブルーに表現されていた様に、今は思います。

しかも、コンピューター時代の選ぶしかないブルーです。

作る青ではない。

勿論、作る青と言っても、基本は絵の具と筆ですから、これも又選んでいるに過ぎないのですが、でも人体の小宇宙の一部である手と、気持により細妙に関係しているのは確かでしょう。

あまりにも平坦なブルーの物悲しさが辛くって、何年か前に赤にしてくれと丹羽さんに頼みました。丹羽さんは少し悲しそうな顔をしましたが受け入れてくれました。どうやら丹羽さんは自分の境遇と川の流れをアナロジーする意識を持っていた。川の流れはよどみもあるし、浅瀬もあると言うような。ミラボー橋の下のセーヌを詠んだフランスの詩人や、日本の川の流れを、利根川みたいな流れを唄った美空ひばりのようなものでしょうか。

どんな川でもよいのかも知れませんが、やはりその川は時間との類似という人間のそこはかとない無常の諦念、あきらめの気持の中に流れている川のように思いました。

本能的に変えた赤でしたが、2011年7月3日付のサインがある山口勝弘さんの肖像画、漫画と言っても一向に差支えありませんが。これがページにONされて初めて、ブルーから赤への変化が功を奏したと解る事ができました。 つまり、ああそうだったのかと心底知ったのでした。

今の背景の赤もそれ程良い赤ではありません。

本当ははもっと渦巻くような、そうですね不動明王の背負う炎の赤の如くが欲しいのですが、その色を出す努力にはそれ程の意味はない。不動明王の背負う炎といったってそれぞれが違いますから。

ここで不動明王が登場するのは、わたしの山口勝弘さんや丹羽太一さんへの一方的な思い入れからでしょう。イメージなんて洒落たヨーロッパ産のものではない。思い入れで結構。

つまり、お二人共にそれ程自由に自分の意志では動けない身体です。そのような体は今に特有なものではない。昔から無数にあったでしょうし、我々も常に刻一刻そのような現実に投げ入れられるやも知れない。

彼等の身体内の川、神経と呼ばれる小宇宙状の川はそれこそ神秘としか呼びようの無い大河です。

つまり、山口さんも丹羽さんも今の傷ついた地球の似姿として生きていると思われます。

実に現実の不動明王なのではありますまいか。

そんな気持もありまして、今秋から冬にかけて考えている、山口勝弘展(私も参加するつもりですが)にはお願いして丹羽太一さんにも参加してもらいたいと考えました。二人不動明王とは豪華極ります。

何をどのようにしてお願いできるのかはまだ不明です。

大体、一関ベイシーにはエレベーターが無い。あの二人の不動明王を2階に運び上げるのは困難です。階段が狭くて曲がっているから。

とすれば、作者不在の展覧会になってしまう。これはあり得ない。何とか、あの2階に山口不動、丹羽不動他の来迎を得たいものです。


石山修武研究室の読み物