2011 年 9 月
- 598 世田谷村日記 ある種族へ つづき
- 九月三十日 つづき
色々とやりくり工夫して11時半研究室へ。ところがメキシコのホセよりの依頼のカルロス教授との約束が突然キャンセルとの事。バカヤローのメールをホセに送る。でもメキシカンなんだから仕方ないな。しかし、頭にきて急に空腹を覚え昼食に出る。と、突然陣山計画に面白いアイデアが浮かび、早速テークノートし研究室に送附。もう今日はこれでおしまい。明日の大江宏シンポジウムの最終準備にかかる。大江先生には大変世話になった。キチンとしたい。
モヘンジョダロの遺跡に彼岸花が乱れ乱れ咲き美しい。若い母親が一輪手折ってまだ小さな娘に持たせ写真を撮っている。小さな子供に彼岸花を持たせて記念写真を撮るのは良い光景なのか、無神経なのかは知らぬ。お盆に迎えた死者を送る花なんだけれど。やっぱり小さな子供に彼岸花は似合わない。
- 597 世田谷村日記 ある種族へ
- 九月二十九日
11時、研究室にて大林組設計部の方々と3年設計製図第4課題の打合わせ。大林組の今の最大の売りの一つであるスカイツリーを巡る課題を考えて来ていただいた。品川駅前再開発の課題と2つに分かれるがとても良いバランスの課題になりそうだ。
12時、研究室スタッフと打合わせ。世田谷計画、気仙沼計画を中心に。シュツットガルト展覧会の展示物に関しても急速にリアライズさせねばならない。
13時、日本デザイン機構の方々来室。新しく始めるトークサロンの第1回プレゼンターを依頼される。勿論、喜んで引受ける。皆さんに絵葉書プロジェクトの絵葉書を買っていただいた。アニミズム紀行6、8冊にドローイング描き込む。その後再び打ち合わせ。15時半近江家に遅い昼食を佐藤と。色々と話す。こんな時間も若い人には役に立てば良い。
16時過、烏山長崎屋ラーメン店で日経プロムナード「李祖原2 気仙沼へ行く」書き上げる。5枚になってしまい、1.5枚を削らねばならぬ。
19時前、削り終り、世田谷村より研究室にFAX送附。これで1本のストックができるか。
研究室のサイトをチェックする。打合わせの結果が反映されているかどうか。
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九月三十日
6時離床。TVを捨てたら新聞を良く読むようになり、又世田谷村のコンピューターの前に座るようにもなった。何かしらに対面していないと駄目なのだな。もっとボーッとしている時間を持ちたいが向いていないのだろう。
日経プロムナード「李祖原2 気仙沼へ行く」の原稿を最終修正、文化部窪田さんにFAXする。
明日の法政大学での大江宏先生に関するシンポジウムのおらさい。大方の発言シナリオはだいぶん前に決めていたが、磯崎新、大江新さんとの同席なので、いささか緊張する。今日の午前中はやはり何処かにこもって大江宏先生の事を考えてみたい。
午後はメキシコのホセからの連絡でメキシコの方と会う時間が約束されているようだ。
安西直紀さんより、絵葉書プロジェクトの写真にどうだろうとウナロム寺院でのスナップ写真が送られてくる。朝の光が横なぐりに僧院に射し込み、床に列柱の影を写し出している。右端に若い僧侶がその光と影を見入って立っている。とても良い写真だ。是非次のシリーズに使わせていただこう。
列柱といってもロマネスクの僧院の中庭に林立する確然とした様式を持つ列柱ではない。針金のような鉄筋が入ったヒョロヒョロの、いかにもカンボジアのコロニアル様式まがいの、実物はとても建築とは呼べぬ類なのだが、それはさて置き、光が素晴しい。光がつくる影も良いし、半分シルエットが欠けている僧侶の姿も仲々よいのである。
日本浪漫派のイデオログであった保田與重郎の残した「日本の橋」の冒頭の下り、旧東海道本線の車窓から眺めた熱海だかの貧しい小さな橋、ローマの橋の壮大さ、美には及びもつかぬ日本の橋を思い起こさせるのであった。この写真には建築は写っていない。光と影と人間が写っている。安西くんは建築にはほとんど関心が無いが、その光と影と人間が一瞬作り出したドラマ、超越的なものを垣間見せた瞬間に感動して、この写真を撮った。
中里和人の死の影を想わせる写真も良いけれど、安西直紀のそんな七面倒臭さとは無縁の生の瞬間の写真もよい。
彼の感覚は今のところ、文には表現されぬが、写真には時にハッとさせられる。
- 596 世田谷村日記 ある種族へ
- 九月二十八日
どうも頭脳が良く廻らぬ状態の中で『現代思想』の原稿15枚迄辿り着かせる。調子悪い、大幅に書き直す必要があるだろう。夕方、研究室スタッフと交信して何とか一心地着く。気仙沼安波山計画の一次案をまとめることができた。安波山という山を荘厳するデザインとしてはよいレベル迄持ち込んだと思う。20時前小休とする。これ以上七面倒臭い事を考え続けると夜眠れなくなるのは眼に視えているのだ。
- 九月二十九日
5時半起床。日経夕刊プロムナードのストックが底をついてきた。昨夜新しいモノ「李祖原Ⅱ被災地気仙沼へ行く」を書くことに決めたが、書き出しがどうしてもうまくゆかず今朝に持ち越している。
『現代思想』原稿もアニミズム、マナについての核心に入りそうで困難を極めた。意を決して再び取り組むも今朝はヤケに筆がすべるのである。抽象的な思考を具体的な人物、気仙沼の大船主にして商工会議所会頭、東日本大震災沿岸被災地商工会議所連絡会代表でもある臼井賢志さんと、盟友李祖原について書き始めているからだ。これならアッという間に30枚位ゆくなと感興が乗ったが、用心して17枚迄で筆を置く。乗り過ぎると危いのはもう経験で知り抜いているのだ。全く書くことは難しい。設計と同じだ。乗らないと名作は生まれぬし、乗り過ぎると落とし穴に落ちる。6時40分小休して、絶版書房交信28を書く。少しずつ、読者との交信の気配があるので頑張りたい。7時過了。もう2時間が過ぎている。時間は駆け足で音も無く去るばかりだ。我々は時間の背中しか視る事が出来ない。とこれは疲れて詩人になってしまった。アブナイ、アブナイ。
書き忘れたが昨夜は本棚から知り合いだった書評家倉本四郎さんの『本読み・妄想12番』洋泉社、を引っぱり出して読みふけった。
この本にも妙な精気が満ちているなと、倉本さんを懐かしむ。
彼は数少ない理解者であった。
- 九月二十九日
- 595 世田谷村日記 ある種族へ
- 九月二十七日
13時研究室、気仙沼安波山計画、2012年5月5日祭礼計画打ち合わせ。気仙沼・臼井さんと連絡。安藤忠雄さん連絡。アニミズム紀行6、5冊小品1点ドローイングを描き込む。16時了。スタッフと夕食ではない、遅い昼食を新大久保タイ料理屋で。17時半了。19時烏山長崎屋で世田谷区会議員杉田光信氏と打ち合わせ、2012年の世田谷区、クリーンエネルギー、緑の市に関して。20時半過了。世田谷村に21時戻る。
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九月二十八日
5時半離床。昨日大方を決めた気仙沼安波山計画を少し手直す。スケッチ2枚研究室に送附する。チリ建国200年祭の準備の為にチリに出掛けた時に、砂漠の広大な廃墟のかたわらの岩山、砂山と言った方が良いか、に残されていた古代の巨大な人文字をまざまざと思い出した。
京都の大文字もアニミズムの典型的な表現であるが、気仙沼の安波山計画はそれをはるかに超えるモノになるだろう。東北は京都の文化を歴然と乗り越えるべきだ。それには古層の掘り起こししかない。
7時半スケッチWORK他修了して小休する。
せっかく起きてしまったのだからと、午前中書きかけの原稿を7枚までのばし、やっぱり疲れて再眠する事にした。本当に、眠れれば良いのだけれど。
屋上に上り、台風で痛んだ柵等を修繕する。
『現代思想』原稿9枚と1行迄進めて小休。9時半である。
おだやかな秋の陽光が部屋に降り注いでいる。
- 594 世田谷村日記 ある種族へ
- 九月二十六日
11時過西武線野方南口。商店街を抜けて一階にローソンの入っているビルの2階、野方WIZギャラリー。まだ準備中であったが頼んでアール・ブリュット展を見せてもらう。知的障害者と呼ばれる種族の表現群である。20数点の作品を丹念に見て廻る。一言で言えば息づまるような感を持って見た。謂わゆる芸術家の芸術作品はホッと息を抜けるのだが、彼等の表現にはそれが無い。
人間本来の内的な荒野を見せつけられているのだ。12時半疲れて発つ。
高田馬場を経て研究室へ。途中、古市徹雄氏に会う。ブータンの首相に会うのだとの事。福島の被災地の事はやらないとハッキリしている。福島県出身なのだが、原発事故の町の、そして村の再生は建築家には重荷過ぎるのだろう。
13時研究室、気仙沼安波山計画ミーティング。14時日本植木協会青年部、田中穂光さん仙台より来室。安藤忠雄さんのアレンジである。(株)ガーデン二賀地代表取締役である。安波山の植栽について討議する。桜の樹はとも角、藤の樹と花は再考を要するようだ。頂上の神社の境内にしぼった方が良かろう。考えを再整理して、気仙沼の臼井さんとも相談して基本的な計画図を送附する事とした。
15時半了。その後研究室スタッフと打合わせ大方の方針を決める。
驚いた事に代島治彦さんからメールあり。代島さんはアール・ブリュットすなわちアウトサイダーアートのNHKでの番組を丹念に作り続けていた人物である。奇遇だなと今朝を思い起す。メールはテレビマンユニオンのプロデューサーが気仙沼・唐桑の被災地に取り組む石山の番組をつくりたいとの件。さてどうしたものかな。地域の人々を奮い立たせるようなモノになるのならとも思う。来年の5月5日をクライマックスにしたモノは作れるやも知れぬが・・・・・・・。
清流出版より、写真家中里和人の最新写真本、『グリム』送られてくる。日本各地の手描き看板絵をコレクションした写真集である。美しく、怖く、愉快な路上アートと腰巻きにある。確かに美しく怖い。しかし決して愉快ではない。中里和人さんはチョッと、どころではなく怖い世界へ突入し始めているなの実感がある。プリミティブな手描き看板が時間の経過により薄汚れ、さびて、ボーッとはげてゆき別のモノへと変身してゆく恐ろしさが表現されている。
中里さん自身も何となくあの世の人の風があり、それが不気味な魅力なのだけれど、今迄の写真集にはそのアウラが燃焼不足であったが、これは本当に恐い。グリムと名付けたのはまさに当りである。夜旅とかの、あの世の人なんだが、ちょっと青臭くもあった、その青臭さが抜けて実に怖いのである。こんなに怖い写真集は滅多にないだろう。おおコワ。
清流出版2500円。入手すべきだなコレワ。
中里和人さんは遂にイタコになったのである。野ざらしの看板の中に閉じ込められた人物やら、動物やら何やらの、つぶやきや叫びを随分たったであろう時間の中から呼び出している。
この本に横溢している霊気とでも言うべきは、まさにアニミズムである。時間の精霊を中里和人は撮った。
『グリム』に関しては世田谷村日記に書き流すのは余りにももったいないので、絶版書房通信にも書き残す事とする。通信28として「グリム」書き終えた。2、3日後にサイトにONされるであろう。
- 593 世田谷村日記 ある種族へ
- 九月二十四日
7時前離床。涼しくなり流石に良く眠れるようになった。
現代思想から頼まれていた自然のインフラストラクチャーについての原稿、今日明日で書いてしまおうと決心。
絶版書房通信25を書くつもりになったが小休する。今日は昼に李祖原夫妻が台北に帰るので、HOTELでサヨナラだけは……と思うが実ワ体が重いのだ。でも人生は義理と人情である。出掛けよう。10時過世田谷村発。
11時step21で李祖原さんと会い、これからのスケジュール、段階毎の主題等を討議する。12時過夫妻羽田へ迎への車で発つ。
13時過烏山長崎屋で一服し小休。15時過世田谷村へ戻る。
18時過小川くんと会い、ドリトル先生動物倶楽部のリアライズに関して相談するが、彼は全体を把握しない。できないのではなく、しない。同じことか。
実ワ、わたしだって、言い出しっぺなのに明快な道しるべは無いのだ。
ボソボソと話して別れる。彼は94才の父親と91才の母親の介護に戻るのだ。大変な日常を送っているのだからケチはつけられぬのである。
しかし、青森から千葉にいたる長大な東日本大震災の、人間達はいざ知らず勿論大変な苦況であるが、動物達の現状はどうなのであろうか。
アニミズム紀行の作者としては当然のことながら気配りをしなくてはならないのである。
今朝の東京新聞にだちょうが1羽福島の路上を歩いていたという写真が掲載されていた。それを見た記者がペットフードを投げ与えてくれたらしく、その固形ビスケットをついばんでいるだちょうの写真であった。
人間達の一方的な欲望で連れてこられた野生の動物達、そしてペットとして飼育されていた犬、猫、鳥、カメ、メダカ等の生物達の今はどうなのか。
アフガニスタンの如くのプレモダーンの荒野では日本はない筈である。
ほぼ完成されたモダーンな社会に於いて、人間の欲望のままに飼育されていた動物達の生命に対して、どんな配慮がなされているのだろうか。
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九月二十五日 日曜日
現代思想の原稿書き始める。5枚迄で一端休止。
12時宗柳にて渡邊、佐藤両君と会う。気仙沼・唐桑行の報告がてら、シュツットガルト展の打合わせ。長崎屋に移り雑談。15時半世田谷村に戻る。
24時もそもそ起き出して、メモを記す。すっかり習慣になってしまいメモを記さぬと寝つきが悪いようだが、今日は別に記す事も無し秋の夜。
せっかく起きてしまったのだからと、午前中書きかけの原稿を7枚までのばし、やっぱり疲れて再眠する事にした。本当に、眠れれば良いのだけれど。
眠れないだろうと、下らぬ事を書きつけて我ながらあきれるばかりである。今日、相撲は千秋楽。誰が優勝したのだろうか。TVがないと困るのは実にそれ位の事である。TVを捨てて、わたしのライフスタイルは画然と変化したのである。長崎屋方面では、あの家は貧乏でそれでTVが無いのだとの明るい噂がすでに流れているが、これは当然自分で流しているのであって、おかげでお彼岸には大きなおはぎを恵んでもらったりで、非常に清貧の日々を送っているのである。脱TV、脱肉食の2つだけで人生は変わるな確かに。李祖原の完全ベジタリアン振りにはとてもついてゆけぬが、ベジタリアンまがいはなんとか続けてみる事にしたい。酒も完全に止めた方が良いのは自覚しているのだが、お茶で無駄話が弾むかと考えれば自信がない。少しづつでいいや脱酒はと決める。あんまり強く決心してしまうとロクな事が無いのである。もう寝よう。
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九月二十六日
7時前離床。現代思想原稿書き継ぐ。新聞に知的障害者の人々等のアール・ブリュット展が中野区野方の商店街で開催されているのを知り今朝出掛けてみようと決める。又、長崎県が貨客船で上海と結ぶ「上海航路」を開設するようだ。面白い。孫文が清王朝を倒した辛亥革命から100周年。長崎県出身の梅屋庄吉は現在の金で一兆円に相当する金を孫文に供した縁からだそうだ。
- 592 世田谷村日記 ある種族へ
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九月二十二日
李祖原さんは一人で自室で特製ベジタリアンフードを食しているので、わたしも一人でホテルのレストランで野菜とメシを喰らう。眼下の漁船群が美しい。これが気仙沼である。8時半ロビーで臼井さん李さんと会う。今早朝考えた事をメモにしたのを臼井さんに渡す。李さんにも読んでもらう。いいんじゃないのの感じ。もうこれで走ってしまおう。迷惑はかけぬ。阿部長商店の代表取締役に紹介される。
臼井さんが唐桑まで行くと言うので御崎神社まで連れていってもらう。
唐桑元町長佐藤和則さんと会い、李さんも交じえ4名で御崎神社に参拝する。ここは海の神を奉じる神社で、気仙沼を出港する船は停めて神社に向けて漁師達も手を合わせると言う。臼井さん気仙沼に戻る。
しびたちを経て小鯖へ。亀谷さんにあいさつ。亀谷さんも大船主でこの辺りの大人、実力者である。前回はお目にかかれなかったので良かった。
早馬山の展望台に上り、李に地勢を見せる。GIGIに寄る。佐藤和則さんに絵葉書プロジェクト唐桑支援金第2回目を手渡す。又、唐桑の家の計画案を簡単に説明する。今は気仙沼の了解を得なくては何も動きませんと、唐桑自立論者の佐藤氏は乗り気ではなさそうだ。それなら気仙沼から説こうと決心する。支援金は唐桑の子供達のために使うらしい。
気仙沼迄の道々色々話しをうかがう。色んな苦労があるようだ。お互い様である。気仙沼商工会議所の駐車場でお別れ。いづれ東京で苦労話を聞いてくれとの事である。いつでもいいよと応じる。酒は飲まないよとは言わず。
商工会議所会頭室で再び臼井さんと。安波山植樹祭を2012年5月5日(旧暦3月27日が本来の伝統だとの事)と決める。
この日をわたしの方も気仙沼計画の始まりとしたい。
凄い祭りを作り出してやる。李祖原にも台湾で頑張ってもらわねば。世界一の海神祭をやるぞ。
臼井さん一関まで送るというので、車中色々と話しながら行く。もうこむずかしい事はグジグジ考えない事とする。2011年5月5日である。
12時半一関駅前で臼井さんとお別れ。ベイシーに電話するも不在で、仕方なく駅前のラーメン屋で李と昼食。菜食主義者がラーメンというのもおかしいのではないかと、正当な疑問を李にあびせるも、ノープロブレムだと彼も言い張る。でもおかしいよ。全然論理的ではない。ラーメンの油スープは動物性のダシまみれではないか。どうも彼のマスター導師が直接言葉をゴロゴロ持っているような坊さんで、まるでマフィアのボスみたいな人なので、絶対に怪しいのである。
いつか李祖原の菜食を改宗させてやろうと心に決める。
李はラーメンと玉子、わたしはつけ麺で、全てチャーシューはよけた。チャーシューなしのラーメンは実に味気ないし、すでに肉身がスープに、にじみ出てるぜと再び李にもの申すが、ノープロブレムだと言う。プロブレムに決ってる。大体前回日本に来た時は卵をダメだと言っていたような気もするし。やはり導師が怪しい。
スケスケラーメン後幸い菅原さんがベイシーに登場しているようなのでTAXIでベイシーへ。李にはスゲエ変な奴だけど俺の友人だとだけ言った。
ノープロブレムだ。ベイシーで菅原さんと再会。流石に突然なのでビックリしていた。李祖原の事は知っていたけれど、初対面である。李は菅原が何者であり、ここが何なのか全く知らない。がどうやらノープロブレムであるらしい。
菅原正二さんには何も伝えず、李と2階を見て廻り、2012年の5月5日にここで小さな展覧会をやるからドローイングを描けと言う。勿論気仙沼計画のドローイングである。ノープロブレムである。安藤忠雄さんにもスケッチを出してもらわなくては。解説は鈴木博之で、それは小さな本にしてしまうつもりだ。絶版書房と通常の出版社のジョイントにしたい。
菅原さんも、マア仕方ネェーなの感じである。山口勝弘さんの展覧会はその前にやってしまいたい。
1階片づけて、つまりベイシー休んでここでやるかと言うので、2階が良いと言い張る。この辺りのニュアンスは解りにくいであろうから詳述はせぬ。
15時44分の新幹線で東京へ。流石につかれた。
再び車中で李さんと議論。変な英語の大声でのやり取りで乗客もいぶかしんだであろう。
19時過東京着。新宿でお別れして、20時半世田谷村に戻る。
東京は台風で大変だったようだ。
すぐにブッ倒れて休む。
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九月二十三日
6時半離床してメモを記す。この2日間で色んな事が前へ進んだ。銀座東急での気仙沼支援物産販売も何とかなるのだろう。石山研の大入袋通信販売も本格的な準備に入ろうと思う。絵葉書が重くなって、魚産物、特産品になったと思えば良いのである。 気仙沼行の間に、廣瀬英男さんよりの頼りが届いていた。
アニミズム紀行をきちんと読んで下さる方もいるのだと心強い。
10時過世田谷村発。11時高田馬場安西直紀。11時15早稲田step21にて李祖原さんと会い、短い打合わせ。昨日迄の気仙沼、唐桑行きのおさらいとこれからの再確認。中国人日本留学生の大量動員は安西直紀さんの担当とする。近くの大隈重信老御愛用の植板のまずいそば屋で昼食。近江屋と比較したら格段にまずい。仕方ないだろう学生相手なんだから。
新宿で安西くんと別れ烏山へ。15時長崎屋でお彼岸のおはぎをいただく。
ここの中華料理はともかく、おはぎは格段のものである。
夕方、世田谷村の隣りの烏山神社の縁日にぶらりと出掛ける。今年は全ての出店、屋台が境内に納められ、周囲の路上にはみ出す事は禁じられたようだ。それで境内はギッシリと濃密な祭りの気配が圧縮された。大変な数の人々、主に子供達が溢れ返っていた。
小学生低学年くらいまでは実に嬉しいだろう。ケバケバしくってキラキラしてて、怪しくて博徒さん達の腕の見せどころだ。どこかにフーテンの寅さんが居てもおかしくはない。
おさい銭をあげてお参りする。三陸海岸のまちや村に早くこんな光景が復活したら良いなと遠く想いをはせる。絶版書房通信に書いた祖父の寿太に連れていってもらった岡山の山の中の神社の縁日を思い出す。長い参道があって遠かった。七人衆の縁日と呼ばれ不受不施の転ばずを秘かにまつった祭礼であった。祖父に買ってもらった、ろうそくの灯りでポンポンと音を立てながらたらいの水の上をゆく小さなちいさなブリキの船の形や色を、ほのかに憶い出す。
絶版書房アニミズム紀行1に書いた、片山鉄道備前矢田の北向き観音へは祖母の春代が、わたしの高校受験に際しては人知れずお百度を踏んでくれた。朝、まだ暗い内にあの急な石段のつづら折りを登って、大きな岩の洞穴の中にある祠にお参りを続けてくれたと聞かされた。
今、隣りの神社から聴こえてくる祭礼のおはやし、たいこのほのかな音はそんな事共を憶い起こさせるのである。
祭礼は死者との交信を今でも呼びおこし続ける。ノスタルジイを冷笑してはならぬ。追憶はセンチメンタルなモノと片付ける近代主義的な思想は下品だ。ノスタルジイは歴史の源泉であり、人間の思考をひらき続ける神秘の扉である。人間はいつも2つの扉に対面する。1つは追憶の、そしてもう1つは冷たい現実の酷薄のと、ルイス・キャロルはアリスの中でけいれんする如くに書きつけている。
ノスタルジイに逃げるという考えが大方の知性にはあるがそれは明らかに間違いだ。現実を酷薄とする思想くらい薄ペラなモノは無い。平板さは時に耐えられぬのは、その辺りに深奥があるのではなかろうか。
- 591 世田谷村日記 ある種族へ
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九月二十一日
8時15分早稲田STEP21、20分李祖原さんと会い、共に東京駅へ。李さんの驚くべき速歩に息を切らせて追う。9時56分やまびこで北へ。世田谷の保坂展人区長の会でお目にかかった熊沢先生にバッタリ会う。仙台に講演との事。高齢者ケアーの問題は時代の中心である。先生の見識、経験が上手く活かされることを望みたい。車中で再び李祖原さんと気仙沼計画に関して議論を続ける。一ノ関に11時半着。臼福の武山さん迎えて下さる。車で気仙沼へ。車の中でサンドイッチの昼食。李さんと共に居ると実に理想的な食生活になる。武山さんに頼んで気仙沼にはバイパスから大型船を残したパーク予定地側から入ってもらう。だいぶんガレキは片付いたようだが、後片付けらしきはそれ程眼に見えて進んではいない。李祖原、初めて被災地の光景を目の当たりにする。商工会議所で臼井さんに会う。李祖原の気仙沼新生都市構想を極めて要約して説明する。臼井さん程の人の想像の域を超えたものであったようだ。でも臼井さんは理解したと思う。臼井さんの車で魚市場、その周辺、そして安波山を案内していただく。
李の地形、地勢、スケールの把握力は見事也。15時半ホテル観洋にチェックイン。部屋で小休。ウトウトする。18時臼井さんとロビーで再会。臼井さん「今日の提案は余りにも市民の日常生活の感覚をとび超えているので、あのまんま市民に説明できない」と述べる。当然であろう。
臼井さんより気仙沼で市民の皆さんに直接語りかける、そして話し合う会を持ちたいと提案あり。20年前の「まぐろの貯金箱」と「海の道」の市民集会を思い出した。安藤忠雄、李祖原、鈴木博之、石山が参加するように言われた。タイミングとしては大事であろう。ひと晩考えてみたい。安波山の植樹祭は来年の3月11日以降の春先が良いのではないかの意見である。
メモリアルパーク等も少しづつオーソライズされ始めているようだ。18時臼井家の知り合いの方が心を尽して作って下さった李さん用のベジタリアン夕食、そして明日の朝食が届く。それをキープしてレストランへ。大変立派なベジタリアンフードでゆうに三人分はある。三人共ウーロン茶である。酒はもういい、あんなモノは若い時にやり抜いたからの負けおしみ。私には立派な魚菜食がたっぷりと出るも、喰べ切れず。食事を終る頃に臼井家の長男、臼福本店代表取締役専務、壯大朗さん現われる。彼は小さい頃から良く知っているので、40才になって元気溢れる様子を実見できて、実にホノボノとしたのである。人生だなコレも。
銀座東急の気仙沼物産販売の件も壯大朗さんは正々堂々と対応しているようだ。
21時頃了。ホテル観洋に戻る。窓から見送り桟橋の船の灯りが美しい。陸の光景は破壊されたままだが、漁船の活気だけは取り戻されつつあるような気もする。
明日22日朝8時30分に臼井さんと再会を約束してお別れ。
今日は臼井さんに石山研究室の「絵葉書プロジェクト」で得た気仙沼支援金の第二回目をお渡しできたのもホッとしたことであった。研究室の連中が良く頑張ってくれてとにかくここ迄続ける事ができた。絵葉書を買って下さった皆さんにも御礼を申し上げる。
しかし、絵葉書プロジェクトも何とかもう一段階パワーアップしたいのだが、その方法が見つからぬ。
ホテルの一階の温泉に再びつかって疲れを取る。
唐桑の連中には明日会えるだろう。唐桑で何ができるかは気仙沼よりも余程難しい。
メモを記して24時横になって休む。眠れると良いのだけれど。
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九月二十二日
4時過目覚める。突如アイデアが出現する。李祖原の構想を実現する為の、更なる構想である。
安波山の植樹祭を国際的なスケールで実現する。台湾の馬祖海神グループ300名、日本各地の中国人グループ1000名を気仙沼に集結する。
海の道全長にドラゴン・海神市を実現し、それを楽しんでもらう、が骨子である。これで今朝8時半からの朝の打ち合わせが空振りにならないですむだろう。唐桑の御崎神社も使えるやも知れぬので、午前中に下調べする事とする。
世界遺産となった平泉も中国人観光団のコースに含められる可能性もある。黄金の御堂と黄金のミイラというのは中国人の趣味にも合うだろう。
食べ物が、つまり食事をどうするかが最大の問題である。安波山の植樹祭には安藤忠雄さんの力をもらわねばならぬし、ドラゴンストリートでの国際集会には李祖原の参加が必須である。学生向けには最高度な学術的集会も設け、これは鈴木博之さんに仕切っていただく。
つまり、建築のハードが優先するのではなく、祭りの復興を優先させる。その祭りが国際化、中国(台湾)人を含め、射程に入れるという事だ。これでOK、また眠ろう。5時10分である。
- 590 世田谷村日記 ある種族へ
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九月二十日
10時半研究室。李祖原さんに献本の『アニミズム紀行5K』にドローイングを入れる。11時より18時まで李祖原と気仙沼計画のディスカッション。彼がランチの間に絶版書房アニミズム紀行5、10冊にドローイング入れる。18時過TAXIで新大久保近江家へ。鈴木博之先生、李祖原さんと会食。李さんがパーフェクトなベジタリアンなので極く極く自然に全員菜食となり、飲み物はウーロン茶となる。これを続ければ確かに健康には良いだろう。聞けば李さんの父親は103才迄生きたと言う。この人の顔色、他をじっくり観るに長生きするだろうと想わせる。
しかし、今日の議論は執拗を極め充実していた。エネルギーも要した。仲々面白い結論を得て気仙沼に行く事ができる。
東北農村計画研究会—唐桑の家—東北山岳都市計画—ドリトル先生動物園計画とアイデアも又輪廻するものだ。
気仙沼の人間もビックリするだろう、楽しみだ。李祖原さんとの議論のほんの一部はトップページの東北計画に紹介してゆく。
世界一であった超高層ビル「台北101」や「北京モルガンセンター」そして峨眉山頂の大仏、西安の巨大寺院を建立した男でないと出来ぬ計画となろう。
20時前会食了。お別れして世田谷村に20時半戻る。メモを記し、朝書きかけの絶版書房交信23を完成させる。明日は8時に李祖原を宿舎でピックアップせねばならぬ。早朝メモを記す時間もあるまい。
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九月二十一日
5時40分離床。昨日得たアイデアを頭の中で再検討する。やっぱり気仙沼を国際的な魚食都市にするにはこれしか無いなと確信する。
李祖原さんを呼んで良かったと思う。
今日は気仙沼・唐桑行である。台風が来ているようだが何とかなるだろう。台風下の被災地を訪ねるのも良し。丸々二日間の李祖原との旅はハードだろうがきっと何かを得られるだろう。
しかし、都市のヴィジョンを説き続けた昨日の李は仲々格好良かった。やはり天才的な勘を持つなと痛感した。安藤忠雄さんと通じるモノがある。鈴木博之さん共々、共に協同の機会を得られそうでそれが何より楽しみである。
昨日よりわたしもベジタリアンを真似ているが酒も肉も魚も食さぬのが随分と生活のスタイル自体を変えてしまうのを思い知った。
ほとんど外食できない感がある。6時40分世田谷を発つ。
- 589 世田谷村日記 ある種族へ
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九月二十日
5時半離床メモを記す。明け方珍しく夢をみた。勿論変な夢で、しかも俗っぽいモノであったような記憶があるが、すでに夢の前半は忘れてしまった。今日は10時半に李祖原さんに会い、打ち合わせを夕方迄続ける予定。夕方、鈴木博之先生も加わるだろう。その間にアニミズム紀行5にドローイングを描き込まねばならぬ。明日から李祖原さんと気仙沼行である。
久し振りに涼しいというよりもはだ寒い。小雨が振っている。
東北農村計画研究会—唐桑の家—東北山岳都市計画—ドリトル先生動物園計画とアイデアも又輪廻するものだ。
今朝の新聞1番は毎日新聞13版22面希望新聞の「三陸物語」萩尾信也記者。萩尾さんは知り合いである。故佐藤健記者の絶筆となった生きる者の記録、つまり死ぬ迄の記録を最期は口述筆記となり、それを記した男だ。クセのある我の強い男で昔風の一匹狼というかはぐれ犬タイプの新聞記者である。我が強いので他人の言う事はあんまり聞かぬのが難点だ。三陸物語は萩尾さんから、
被災地に住み込んで記事を書くんだの話を聞いていた。でもその記事は今日初めて読んだのだった。
今月末には毎日新聞社から出版されるようで(『三陸物語—被災地で生きる人々の記録』1575円)連載は好評であったのだろう。前の連載であった盲人の方々を追った記録は面白くなかった。萩尾さんの我が邪魔をしていて鼻につくところがあった。
それに毎日新聞の、東日本大震災の報道ページを希望新聞と名付けたのがわたしには,顔をそむけさせるところもあり、ほとんど読む事が無かった。今日偶然のように初めて読んだ。
手のぬくもり①とあるからこれから盲人の方々の被災地でのルポルタージュが始まるのであろう。
- 588 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十九日
昨日は12時半前に東海道線大磯着。湘南電車にて。対面式座席の前に座ったサングラスの男、坊主男でまるでヤクザだが、短パンである。ヤクザは日本では短パンは身につけぬのではないだろうか。しかも小学生低学年らしき娘を連れている。娘は肥満児である。この子連れヤクザ風が、しかも本を読み始めた。漫画ではない。盗見するに小さい字がビッシリつまった書物である。何の本を読んでいるのか非常に気になったが、カバーがしてあるので書物の名は解らない。思い切って本をいきなり取り上げてみたい欲望にかられるが、湘南電車の中の朝の殺人事件の記事になっては困ると、踏みとどまる。1972年カリフォルニア、サンウェカーの英文文字が入った、薄いレモンイエローのTシャツを着ている。
今日の午後会うだろう日本ツリーハウス協会長の小林さんに似ているなと気付く。派手なペンダントは魚の骨みたいな形をしている。ビーチサンダルばきだ。元サーファーか。それにしてもサングラスの黒の濃さが異常で全く眼の動きは見えない。アーノルド・シュワルツェネッガーのターミネータークラスの不気味さである。これでよく本が読めるなと、更に気になる。余程目が強いのだろう。サーファーだな、やっぱり。と夢中で観察しているうちに12時半前大磯駅に着いてしまう。謎の子連れヤクザサーファーと別れるのはつらかったが仕方ないと一本しか無いプラットフォームに降りる。とても良い風が吹いている。今年一番の風である。
穴見さんが改札口で迎えてくれる。ランドクルーザーに乗せられて近くの小山へ。今年で3年目のツリーハウス建設ワークショップでのレクチャー会場へ。先程会ったような気もする小林さんに再会する。もう長い付き合いになるが不思議な男である。上半身裸で真っ黒に日焼けしている。こりゃ絶対にサーファーである。サーファーが何故山に、森に居るのであろうか。全国から25名程の受講者が今年も集まっている。6日間を4回、すなわち24日で24万円の参加費だと言う。
きちんと年間参加した人間にはツリーハウスビルダーの免状が手渡されるらしい。いつも女性の参加者が多いのに驚くが今年も多い。
女性は元気を持て余しているな。
例年通りビーチ系の青年料理係がうまいカレー麺らしきとコロッケ、キャベツの昼食を供してくれる。
13時レクチャー。「ツリーハウス—自然と共生するモノ」。
3年目だからときちんと気合いを入れて話す。
質問もあり、15時了。再び駅迄送ってもらい、東京駅へ、地下鉄東西線に乗り換えて17時早稲田へ。渡邊助教に気仙沼の資料を届けてもらう。李祖原夫妻に会う。李祖原と一時間程打ち合わせ。
21日22日の気仙沼行のスケジュールを伝える。
李さんは完全な菜食主義者でいつもディナーに苦しむのだが、さっぱりと夕食は付き合わぬ事とした。それの方が李も良いのだ。もうかれこれ30年の附き合いだから妙に気を使う必要はお互いに全くない
「体の調子はどうだ」
「今夏の暑さに少しバテたが、今は大丈夫」
「お互い年だから、それは疲れるさ」
と、どちらがどちらでも無い会話をして別れる。部屋で座禅を組んでいるのが一番楽なのだろう。わたしのみるところ世界で超一流の建築家の中では唯一のブッディストである。
20時世田谷村に戻り、23時迄唐桑の家のスケッチをすすめたのが昨日の一日であった。今日も何かの休日であるらしいが、終日李祖原と議論の時間を過す一日になる。わたしにとってもエネルギーをほぼ全開にしなければならぬ日々になりそうだ。
唐桑の家の研究室の仕事を見たが、これは朝のうちにやり直しを命じなければダメだ。勿論わたしは答えを持っているのだがあるところまでは自力で辿り着かせたいが、やはりスケッチを送っておこう。
7時離床、今朝の新聞一番は毎日新聞13版26面の声。岩手県気仙沼町の仮設住宅で暮している63才の中野ひろ子さんの言、「この年で家を再び持つことは現実的に難しいと思います。家が欲しいなんてぜいたくは言いませんが、中古でもいいのでミシンや暖房器具が欲しいですね」。
東北人の美質がにじみ出る。唐桑の家計画なんとか頑張りたい。
10時半早稲田STEP21にて李祖原さんと打ち合わせ。
12時半高田馬場で渡邊助教、平山と路上の打ち合わせ。
16時半世田谷村に戻る。
唐桑の家の進行図面をチェックする。ようやく唐桑の家、気仙沼計画、東北山岳都市構想、前進基地計画の脈絡がはっきりと視えてきたのでホッとしている。径が視えなければ歩いても仕方が無いから。わたしの年令では。
絶版書房通信22を書く。
- 587 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十八日日曜日
昨日、梅が丘の保坂展人事務所でのミーティングを経て、夜半、シュツットガルトのカイベックに文面を作成、渡邊助教より送附する。世田谷は着々とすすめる。
大部の宗教学辞典を久し振りに読みふける。文章が悪くて頭が痛くなる。どうして学者連中はこう悪文なのであろうか。
7時離床。今日も晴れている。日経夕刊プロムナード「とんびのシンタロー」への読後感が読者からきちんとした封書で送られてくる。やばい都知事からの抗議文かと思い封を切れば、月光ハウスの並木さん、文中ではN氏の同級生からであった。
並木さんの武勇伝で早稲田の高等学院の修学旅行が中止になったわけではない旨の切々たる文面である。この時代の学院生達の愛校心は凄いモノがあるなと痛感する。私の先輩筋にあたり、私の担任の先生は木村時夫先生、本庄昭三先生だとも書いてあり、イケネエーこれは学院迄調べたな、と解る。並木先輩は退学騒動であったが、実はわたしも停学騒動があった。学園祭に葬式の道案内を道々に貼りつけ、院長に呼びつけられ、「お前早稲田にうらみがあるのか」と怒鳴られた。6ヶ月の停学だと言われたが、我々の展示室に来られて、路傍の石とか耳無し芳一の耳とかが展示されているのを御覧になり大笑いされて、ふざけるのも程々にしろとさとされて、さたやみになった。
実はNさんとわたしは似た者同志なのであった。
それにしても旧い学院生達の早稲田好きには深いモノがあると思う事しきりである。
若い友人の安西君にしても慶應の幼稚舎からの慶應生で、大学は0単位退学だけれども福沢諭吉研究会の代表なんだから笑わせる。月光ハウスの並木さんのところでもし慶應出身だとバレたら、お前あっち行けと言われるのであろう。
愛校心もフェティシズムの一種だろうが、深くはアニミズムやも知れぬな。これは冗談である。
冗談も程々にしないと又先輩達にさとされるかも知れぬ用心用心。しかし、わたしは群れるのは好まぬが愛校心だけは人一倍強い。家系で馬鹿息子も学院4年大学8年と早稲田に12年もお世話になった。その間ヨット部でも並木さんにお世話になり不逞の輩入門をした。
しかし、ああいう並木さんみたいな豪傑は今の早稲田には皆無だな。残念だが仕方あるまい。時代だ。
今日は午前中に大磯迄出掛けてツリーハウス協会のワークショップでのレクチャー。昨夜少し準備して今年の話は少しばかり進化させる積りだ。夕方は東京に戻り、李祖原夫妻と会う。
これから無茶苦茶忙しくなるだろう。
忙しいのも辛い、ヒマなのも辛い、程々が良い。
時代は程々である。
- 586 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十七日 土曜日
5時前離床。東の空は明るくなり始め、南に黒い雲が、低く北に流れる。黒い魚の群れのようだ。昨夜は沢山の人達と沢山の電話のやり取りをして過す。大半が仕事がらみの件であった。しばらく内向きの時を過してきたような気もするので、エネルギーを要した。人間の生にはリズムがあるようだ。内から外へ、そんなに単純ではなかろうが季節が廻るのであろう。秋の宮の東北山岳都市計画、打開の径を拓くつもりで着々と手を打っている。唐桑の家で得たアイデアが秋の宮に飛んだ感あり。
仕事の内容は絶版書房通信20、21に記した。
アニミズムの旅と奥深いところで連関している。
南の空も北の空も薄桃色にそまり見事な空模様になってきた。うちは座しながら空の全体が眺められるのが良い。
日経夕刊プロムナード連載「三陸海岸唐桑の友」の最終チェック他メモを記す。6時「東北山岳伽藍都市構想」を記し一段落。
1時間で随分な事ができるものだ。新聞を読みながら休息。昨日N社長に送った山岳都市のベースキャンプ案はきちんと理解されただろうか。
台北の李祖原さんと連絡、明日の再会を約す。森原さんと11時に保坂展人事務所で会うこととする。
- 585 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十六日
わたしの今朝の記事No.1は毎日新聞14版国際、「三毛猫2600kmの旅」、米国西部コロラド州ブルームフィールドで5年前に行方不明になった三毛猫がニューヨークのマンハッタンの街角で発見されたと伝えられた。AP通信。体内に埋め込まれたマイクロチップにより識別されたと言う。大きな写真も出ている。手足の先と胸から恐らくは腹にかけて白いところはうちの白足袋にそっくりだが、顔だましいが全くちがうのである。根性がありそうだ。中部の砂漠地帯を歩く姿を想像すると空前絶後である。
しかし、長距離トラックのドライバーがなぐさみに拾い、ニューヨークで放した可能性もあるな。それにしてもニューヨークの冬をどう生き抜いたのか、ニューヨークには野良猫が多いのか気になるところである。
この記事は産経新聞、15版東京の湾岸プロムナード、「サメの顔の船」より良い。サメの……は写真は良いが文がまず過ぎて読めない。写真報道局の方が書いているが、それにしても、写真だけの方が良かった。そんなわけで猫対サメは猫の勝ちである。
散歩がてら他人の家の庭や垣根を眺めている。
そばや宗柳のすぐ近くにMさんの家があり、朝顔が見事である。
朝顔のつる用ネットやよしずばかりではなく、庭樹にも巻きついて壮観である。朝顔の家。小さなガレージの天井に金属製のハシゴが沢山収納されているのを見ると高い処に登るのを苦にしない人の家か。江戸趣味のある人なんだろう。つつましやかでしかも桁が外れている。
それに比べるとうちはやっぱりゲゲゲの家方面である。クズの館あるいはクズノタウチマーラーとでも呼ぶべきか。周囲の人々がどんな噂をしているのか聞いてみたいところか。早朝に尾長ドリも含め多くの小鳥は来るのだが、このクズの森の下に何が眠っているのやらは知らぬ。とても今は入り込めないのである。
そういえば隣りの土地に建築工事が始まったが、工事関係の人々がやたらに愛想が良く、ほとんど敬礼スタイルであいさつするのは、やはり恐がっているのであろうか。まさか怪人二十面相の館とかの噂が流れているのではないか。
モヘンジョ・ダロの草原の草が造園屋さんに全て刈り取られてしまった。周辺の人々の声を恐れての事だろう。好きなツユクサも皆刈りとられてしまった。
でも道端にわずかに残った群もあって、コレは仲々に良い。子供の頃の原っぱにはやっぱり凄いエネルギーがあったのだなあと想い出す。
山口勝弘先生より封書届く。もう先生の頭の中はベイシーでの展覧会でいっぱいのようだ。李祖原が気仙沼にゆく時にベイシーに寄り、打ち合わせしなくてはならない。
- 584 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十五日
TVを捨てたので、新聞各紙を眼を皿のようにして喰い入るように読む。今朝の一番は日本経済新聞37面スポーツ欄の「チェンジアップ、奪三振そこにある伝説」豊田泰光、である。
楽天の田中将大と日本ハムの斎藤佑樹の対戦に、あまり興味をそそられなかった、という出だしから良い。そして田中将大の三振奪取数がいかに現代では注目すべきものなのかをとつとつと説いてくれる。豊田は中西太と対でたしかショートを守っていた。エラーをしそうな予感があるとマウンドの大エース稲尾のところにスタスタと歩いて、「俺のところに打たすな。三振をとれ」と言ったらしい。
稲尾はその通りに処していたと言う。全く、男共のドラマだね、と思う。
中西、豊田、稲尾はわたしがガキの頃のベーゴマでの重鎮であった。あの鉄の小片で形づくられたベーゴマの遊びは凄かった。ガキが皆、やすりやらで自分の持ち駒を作り直していたのだから。
昨日、日経文化部の担当者から適確な指摘を受けた。すぐに対応した。
昔、山本夏彦さんから、書き直せと言われたり、ここがおかしいとか、ディテールを書き込めとか、今想えば実に厳しい指導を受けた身としては、編集者との関係は重要なのは知り尽くしている。
今の若い人という言い方は好まぬが、それでも言えば若く志のある人は可哀想でもある。キチンと叱ってくれる人がそれ程多くは居ないのだから。特に、文章は人を表わすから。30才代の中頃までにはみがいておいた方が良かろう。
わたしは40才、正確に言えば厄年を越えた頃に山本夏彦翁が、「石山さんの文は最近急に良くなったけれど、年をとってから文章が良くなる人は実に珍しいのだ」と言っていると風の噂で聞いて、「そうなのか」と随分元気づいた記憶がある。
今思い返せば、翁はそう吹き込む事でわたしにハッパをかけたのだと知るが、それでも力になったのである。今度のコラム連載は心に期するところもある。もう一皮むけてやろうと考えているのだ。
山本翁が天上に居るか地下世界にいるのかは知らぬ。恐らく地下世界の小さな村外れの祠か何かに日暮らし座り込んで相も変わらずコラムを書き続けているのであろう。
時にふれ、わたしのコンピュータに妙な解読不能なモノがまぎれる事がある。又、道を歩いていて、地面に落ちた紙片が風に吹かれてスルリと生き物の如くに動くことがある。
これ等はキット山本翁の地下世界幽冥界からのコラムなんだぜと思ったりもする。
生きている時から死んだ人と達観していた人だから、それくらいの交信技術は持っているに違いない。
- 583 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十三日
21時世田谷村の室内、月下美人が11もの大輪の花を咲かせた。わたしの予想を裏切って、それを超えて11輪の花を咲かせた。その11輪が今、月の光を浴びて風に踊っている。これは凄い光景である。
天空を見上げて鏡面の月を眺め、同じ視界に踊る月下美人の群舞に見入る
あまりの妙にスケッチを1点。今日の記録にこれは日記に残したい。
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九月十四日
最近は熟睡できるのが明方になってしまい、それでどうしても起きるのが遅くなりがちである。5時半頃の天空の美しさを見上げる楽しみを失い始めている。スタンダードな都市生活者の域に戻り始めている。昨夜の月下美人の豪奢は今朝はすでに失い。しかし今日も3つの花が咲く用意をしている。
昨日書いた日経夕刊コラム「風の道」今朝読み返すに、解りにくい。大幅に手を入れぬといけない。たった3.5枚のモノだが一切の手を抜かぬ。山本夏彦翁のコラムの域に達するのは難しいが、少し年を取って、山本翁とわたしは歩く方向が違っているのを解るようにはなった。山本さんは若年の頃の無想庵との長期パリ滞在の他、成年となりいきなり老人となった。そして旅をしなくなった。
旅をしてもロバはロバであるの寸言は自身の体験を踏まえていた。わたしの日経夕刊コラムの連載は今日発表されるモノで11回を迎える。次回で連載の折り返しである。
1週間に1本の連載は今のわたしには丁度良いペースだし、3.5枚のボリュームも才質に合っているような気もする。
わたしのコラムは山本夏彦翁のモノと比べれば随分と青くさい。
山本さんのは枯れ過ぎている。山本さんは驚くべき記憶力の持主だがわたしのそれは月並みだ。山本さんの語彙は豊かで、特に戦前の日本語を知っていた。わたしの語彙は貧弱である。・・・・・との自己批評は多いが、今心して取組まぬと一生山本さんのコラムの後塵を拝するままに終ってしまう可能性も大きい。まさにそうなるであろう。それでは20年近くを山本翁に文章指導をしていただいた恩に報いる事はできない。24本中、1本位はコレワというモノを残しておきたい。
- 582 世田谷村日記 ある種族へ
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九月十三日
昨夜遅かったので朝遅く目覚めた。小川くんから足の調子が悪いのでここしばらく会社に出られないとの事。気をつけてくれと心から伝えた。94才の父と90才の母の介護をしながらの仕事だから大変なのだろう。わたしの両親は私の介護する間もなくみまかった。妹には大変な迷惑をかけた。究極的な介護はアニミズムの世界だろうと考える。小川くんの健闘を祈りたい。まさかわたしが小川くんの介護チームを作らねばならぬ事にならぬように。でも彼がそんな状態になったら、何とかしなければならぬだろう。
一人の、個々の人間の生命は何よりも尊い。
昨日は雑事の合間に日経夕刊「プロムナード」の新原稿を書こうと努力したが、遂に出来なかった。長田弘の小文に感銘を受けこれではいけないと考え過ぎたのである。まだわたしにも向上心があるのだと苦笑いする。でも、いいモノを書きたい。描きたい。つくりたい。
昨夜は満月、十五夜であった。うちの月下美人がそれに合わせて6輪咲いた。月の光が李白の詩の如くに家に差し込み健気に咲いた月下美人を照らし出していた。
月は鏡であり、その光には生命力が無い。黄泉の国の光である。
大きな反射鏡の光に月下美人が白く爛熟した香りを放っている。たった数時間の華ではある。相当なナルシストだなこの6つの花は。一瞬の時間に自分の姿を写し出している。
今日も数輪が咲くであろうが、月の光は次第に欠けてくる。昨日の6輪とは異なるのだ。
若い頃に開高健のたしか『眼ある花々』の短編集を読みふけった記憶がある。パリの街角のゼラニウムだったかに寄せて、ああ今夜もリルケが苦しんでいる、の断片があった。でも開高健はサントリー文化の一翼を荷なう才人でもあり、コピーライトの名人であり、それでも充分に喰えた。しかし、それが開高健の作品の深い傷でもあった。年を経て想い返すに、あの美文は時に読むにたえぬ。資本主義下の藤原定家だな。
- 581 世田谷村日記 ある種族へ
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九月九日
18時過、白金高輪台。MISA SHINギャラリーでの磯崎新展、及びパフォーマンス出席。磯崎さんが出演する、しないの情報が流れ、どうやらこれがパフォーマンスらしい。
高橋悠治さんに久し振りに会う。
磯崎さん19時にギャラリー前の通りに出現する。ごあいさつをして、伊東豊雄、難波和彦両氏と近くの居酒屋へ。わたしは今日はウーロン茶とする。しばらくして鈴木博之夫妻も参会。四方山話。
地下鉄を乗り継いで22時半前千歳烏山。
世田谷村に戻る。
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九月十日
午前中、いささかの連絡をこなし、今日の「世田谷式生活・学校」のレクチャー予習。12時半には会場へ入る予定とする。月下美人が再び花を咲かせそうで、何とそのつぼみの数が20くらいある。これが一度に咲いたらクラクラどころではなく人間の感覚は麻痺してしまうな。美人も集団になるとグロテスクに近づく。
12時半三軒茶屋しゃれなあど5Fの「世田谷式生活・学校」の会場着。仲々解りにくい場所であったが皆さんは各種電子機器で容易に辿り着くのであろう。
ロビーで気仙沼計画の打合わせ。渡邊、佐藤両君と。
又、本日の私の「世田谷式クリーンエネルギー」のレクチャーのディテールレクチャーを受ける。レクチャーだって一人で全てができるわけではない。多くの情報が組み合わされている。
14時定刻通り、話し始める。今日の来場者は140名程。初回よりも多かった。会場にはいつもとは異なる、造園、植木関係業界、電気工事業界の方々の姿も多かった。
15時半前了。保坂展人世田谷区長の第2講開始。
16時過了。質疑応答。
16時半全てを終えて、研究室の面々あと片付けへ。わたしは来て下さった芳賀繁浩牧師、日本キリスト教会東京中会議長、豊島北教会牧師、安西直紀さんと小会食へ。
すぐに別れ、世田谷村に戻る。
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九月十一日 日曜日
日経新聞朝刊、文化欄「夜と空と雲と蛙」長田弘、が凄い。本当に久し振りに、草野心平以来と言って良い。詩人の力を堪能する文章である。読者の皆さんにも一読をおすすめしたい。
今日は9.11、3月11日の東日本大震災、そして原発事故から半年が経った。この日に長田弘に書けと依頼した編集長もえらいが、長田弘さんはその期待以上のモノを記した。
3月11日以後今日迄出会った表現のなかでは飛び抜けて素晴らしいものである。視覚的な世界も含めて。わたしは何度も読み直し、自然に涙した。あまりの構築の妙に。長田弘さんは「抒情の変革」以来の、わたしはファンではあるが、この「夜と空と雲と蛙」はまさに絶品である。詩人を名乗る人間には知性の不足を乱暴な身振りや、パフォーマンスそして気取り(ペダンティックだけのコト)で厚化粧している類が少なくないが、この小文は繰り返すが詩人の本来の力を表現してくれている。
『旅の話』鶴見俊輔、長田弘、晶文社1993年を書棚から引っぱり出してみる。ディスコミュニケーションへの旅を拾い読む。
鶴見は言う。「ユダヤ人とアラブ人の子どもたちが見た千ほどの夢のなかに、平和へのあこがれを感じさせるものが、まるでない。——認識中心のいい方しかされていないユダヤ人とかアラブ人そしてテロリストとか」
長田は言う。「人が個人であり得ない。一人の『わたし』があり得ないというのが、イスラエルに住む人々が直面している難問であってイスラエル人がいて、パレスチナ人が、個人はいない。あるいは個人である事ができない――明治の日本の富国強兵策をささえたのは、純化された記憶としての『故郷』で、神島二郎さんは『第二のムラ』と呼びましたが、純化された記憶というか、曖昧さ、猥雑さのないにせの現実というのは、いつでも民族国家というものの落とし穴だなあと思う」
鶴見「それが、『大和は国のまほろば』であり、大東亜戦争への道です」
司馬遼太郎さんとは歴然と異なる視界が示されている。
更にはグロスマンを引きながら長田さんは言っている。
「パレスチナ人の幼稚園の先生たちが『私たちってふつう自分たちのことを笑い者にするんです』——イスラエル人を笑い者にして笑うんじゃなくて、自分たちアラブ人を笑いものにして笑うんだと。占領地のイスラエル人は自分で自分をコケにできない。自分を笑い者にする能力をもっているかどうかというのも、文明の成熟をはかる物差しですね」
鶴見「そうです、——それがちょっとした希望ですね」
長々と引用したけれど、この本には私が不十分に書き散らした『atプラス09』のテキスト「自然——根本のインフラストラクチャー」のなかで、弱者の歴史うんぬんに触れているところと完全に共振しているのである。
又、単独旅行者とディズニーランドに於いて、鶴見は、梅棹忠夫が「アニミズムは死んでいない。『砂漠は生きている』をご覧なさい。あれは擬人化であり、アニミズムがあれを動かしているんだ。アニミズムはキリスト教によって滅ぼされるものではないし、自然科学によって置き換えられるものでもない」梅棹忠夫の見方、これは凄いと思った。
建築界、設計業界程度の平板な知性にアニミズムへの関心は解るまいと、ほぼ自分で自分を笑いながら、それでもアニミズム紀行を書き継いでいるわたしだけれど、味方は極上なのがキチンと居るのだ。
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九月十二日
6時半、今日は新聞は休刊だが、もしや一紙くらいはと思い、コンビニ迄モヘンジョダロを通り抜けて散歩する。すずめが沢山いた。紫露草も朝露にぬれながら美しい。スポーツニッポンを買って戻る。残念ながら読む処はほとんど無い。しかし相撲の記事が異常に小スペースしか取られていない。昨日夕方長崎屋でTVを観たら観客席もガラガラだった。八百長問題、日本人力士の不甲斐無さ、スター不在が複合しての不人気であろう。野球と共に10年後には消えているかも知れぬな。力士の不甲斐無さを言う前に親方連中の知恵の無さ、品格の無さも又凋落の原因であろう。長崎屋の常連の人々の、これは意見である。長崎屋にはTAXiの運転手の皆さんが集まっていて、彼等の眼を通した世間が語られている。
横綱を乗せたら車の前が持ち上がったとか、歴代の横綱の素顔とか。TAXiは社会の切断面が視えるんだなと知る。
昨日が初日で、その前夜というよりも明け方、新宿二丁目でまげを結った力士を明方3時に乗せたけど、アレで相撲取れるのかね、アレでは相撲はダメだよとの言もあり。
- 580 世田谷村日記 ある種族へ
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九月八日
11時より14時前迄、渡邊助教等と打合わせ。気仙沼関連計画、世田谷式クリーンエネルギーに関しての作業をチェックする。
世田谷式ライフスタイルのスクールが2日後に迫り、そのレクチャー内容の点検も兼ねる。世田谷区長には事前に内容を送附するように指示する。世田谷区への提案は良くまとまっていた。研究室の諸君に礼を言う。
江戸時代の町並み形成と植栽(植木屋さん)業との関係など良く調べた。
最後がアンコールワットの乳海攪拌で終るのだが我ながらうまく説明できるのか、スリルである。
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九月九日
早朝起きてメモを記す。
明日の世田谷区でのレクチャーの下準備を続ける。
少し内容を盛り込み過ぎているので、つなぐのが仲々むずかしい。
造園植栽団体、電気工事関連団体の方々も受講して下さるようなのでキチンと頑張りたい。
月光ハウスの並木さんに連絡して、次週のコラムをチェックしていただく。チョッと危ないなと思うところがあるからだ。
「これでいいですよ」の連絡入る。しかし、少し手直しする。
来週水曜日の日経夕刊「プロムナード」を読んでいただければドタバタの理由が知れるでしょう。
- 579 世田谷村日記 ある種族へ
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九月七日
夕方、鈴木博之、難波和彦両先生と新大久保近江家で会食。なべて世は事もなし。別れ際に日経新聞夕刊を買って御二人に渡す。丁度水曜日でわたしのコラムが出ているので帰りの電車で読んでくれと言う。
21時過、烏山商店街を歩いていたら、長崎屋ラーメン店のおじいとおばあが連れ立って歩いている。一パイ入っているようだ。いささか疲れていたが、ちょうどいい処で会った、店は定休日なんだが寄っていけと真暗な長崎屋に連れていかれた。ヨセヨセと言うのにビールととうもろこしが出る。どうやら今日の日経夕刊を読んだらしい。「故郷」と題しておじいとおばあの事書いたのだから、読んで自然なのだが、読んでくれたらしい。すばやく切り上げたが、おじいは、これ2階に上がって一人で又読みますだって。日本中で一人だけわたしのコラムをジックリ読んでくれる人が居ることになった。
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九月八日
早朝より、電話連絡を続ける。何か事をおこすのは沢山の意見の相違、軋轢をかいくぐる事と同じで、実に簡単な事ではない。メール、FAX送附してそれでOKというわけにはいかぬのである。わたしも心しなければならない。11時に烏山南蛮茶房で渡邊等と会う事にする。わたしの進め方も少しブレーキをかけた方が良い。
- 578 世田谷村日記 ある種族へ
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九月六日
夜、新宿で安西直紀さんに会う。水上温泉に中国人留学生を250名程集めたそうだ。しかし大赤字だったとの事。安西さんらしい。留学生とは言え中国人から金を取るのは難しいのだろう。水上温泉のバックアップ態勢はどうだったのか。町や県から補助金をとったのか等は不明。
やがて(株)リヴァンプ副社長・湯浅智之さん見えて、安西さん同席で気仙沼in銀座プロジェクトの件話し合う。若いがとても穏やかな好人物である。
結論として気仙沼の意向に添うように計画を練り直すと言っていただいた。是非そう願いたい。
安西・石山チームは気仙沼産のネット販売を行いたい旨を話す。
明日、気仙沼の臼井さんに相談して是非具体化したい。
夜遅く世田谷村に戻る。いささか酔って階段の踊り場で眠ってしまう。やがて目覚め、本来の寝所で眠る。
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九月七日
馬場昭道さんの電話で起こされる。
築地本願寺の役員の方に気仙沼銀座の件、後援依頼の書式を今日中に送らねばならぬ。目的、場所、日時等を明記。
日時は9月15日記者会見、10月1日オープン、2012年8月末迄。
安藤忠雄さん(東大特別栄誉教授、文化勲章授章者)、鈴木博之東大名誉教授等の名前をいただいている旨も附す。
築地本願寺は銀座にとても近いので是非震災復興そして鎮魂の為だと思って名を頂きたいと記す事。
三陸海岸被災地商工会議所議長、気仙沼商工会議所会頭・臼井賢志の名で作成して下さい。
これは渡邊君担当。
次に三陸気仙沼物産のネット販売に関しての企画書を9日迄に作成する事。何処に人材を置くか等だが、当面は石山研のサイトで始めるのが良いのではと思う。
福袋、大入り袋の形式で10000円、7000円、5000円、3000円、1500円のモノを考案する。
袋の色、形式の担当は太田さん+M1女子の小倉さんが適していると思うが、相談してみて。シンボルマークは石山デザインの宝船で当面走らせたらどうか。
コストは抑えよ。徹底した海の民のシンボルとせよ。
このデザインも9日に気仙沼に送る。その日に地元の会議あり。
以上、素早く対応して下さい。
安西さんから今日中に安西案が送られてくる筈です。すり合わせも頼みます。
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九月七日つづき
築地本願寺への依頼状は臼井賢志さんが当然チェックされるので、本日夕方迄にホテルイン酒田駅前にファックスして下さい。ホテルのルームナンバーとFAX番号は臼井さんより石山に入りますので転送します。馬場昭道さんのところへも送る事。昭道さんのところのFAX機は壊れていたような気がする。確認して下さい。
先程の気仙沼宝船(ネーミングいいのないか)は気仙沼・唐桑復興計画のシンボル(物語)の一つにしたいと考案中です。
15日の記者会見は変更になったそうです。
- 577 世田谷村日記 ある種族へ
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九月五日
夕方台北の李祖原さんより電話とメールが入り、9月17日に来日するので宮城県気仙沼市に行くとの事。8月17日付の日経新聞夕刊「プロムナード」に書いた事が現実化するやも知れぬ。
日本の設計屋さん達、コンサル達とは全く違うスケール感と現実感覚を持つ建築家なので面白いと思う。なによりも、それは面白いと言ってくれる気仙沼人の度量の広さ、そしてこれも又現実感覚。そのぶつかり合いは気仙沼の10年、20年、30年先を考える可能性の核になるかも知れない。
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九月六日
早朝、天空の雲の動き変化が大きい。
昨夜絶版書房通信「クレヨンしんちゃん」を一つ書いた。通信もほぼ日記ペースで更新されている。アニミズム紀行5の完売、すなわち絶版がようやく目に視えてきた。販売促進の一助となればと考えて設けたコーナーだが、買ってくれ、買ってくれと言い続ける才覚、根性はわたしには無いようで、それでこんなスタイルになっている。今更我ながら変えようが無いのであろう。
東京にいると精霊=自然の中枢であるマナの存在を感受することは少ない。天空の動き位に抽象化されてしまう。
日本の今年は大災害が連続している。荒野には精霊が満ちているのである。自然、わかりやすく言えば森である。それを切り崩して都市も集落も出現した。人口増加がそれを成したと言うのは平板な唯物論者の言であろう。人間の誰でもが持つ悲哀の深い感性は古来成してきた森すなわち精霊=神殺しへのおののきだろう。その代替物として芸術らしきが生まれたのだ。恐らくは、その事を書く為にアニミズム紀行は続行してゆく筈だ。
世田谷村に発生したクズの葉の山は台風の影響下の強風で一気に成長を止めたようだ。クズの紫のブドウの房のような花が咲き乱れて生命力の頂期を想わせてはいたが、流石のクズの葉も一部はすでに枯れ始めている。
会う人毎にと言うのは大ゲサであるが、猫は帰ってきたかと尋ねられる。日経夕刊「プロムナード」にうちの猫のこと「白足袋の遠い旅」を書いた故である。帰ってないと答える。猫死んだらしいねと言う失礼な人には、死んではいないと答える。
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九月六日 つづき
絶版書房通信に通しナンバーを打ちたい。今年の9月1日つい先日ですが、それからのモノで良いのでそうしましょう。今朝送った「クレヨンしんちゃん」が06と言う事になります。ほぼ1日1通信書く心積もりでいますので編集よろしく願います。最近のトップページの動きは仲々良いなと感心しています。建築は重くて動いてくれぬからせめてこのサイトは動かしましょう。
- 576 世田谷村日記 ある種族へ
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九月四日 日曜日
11時半銀座東急ビル。SONYビルの大通りをへだてた向いの阪急デパートが入っているビルの1階足許廻りを観て廻る。
臼井さん会議に入り、今日の東急側との会議にオブザーバーとして出ますかと言われ相談して今日は止めておこうとなった。会議が終る迄みゆき通り角のカフェで食事して待つ。
「がんばっぺ下妻」のノボリが立つカフェである。土浦ぜいたくカレーセット、ダージリンティー付980円をいただく。JA常総ひかり下妻市果樹組合連合会が興している。マア、イベントの一環であるらしい。
何しろ人通りが少ない。茨城県共催の事業のようだが、都市と農水産地を結ぶという考えは良いのだが・・・。
学生さんが「石山さんですね」と声を掛けてきた。昨日ネットに今日ここに来ると書いたのを読んでくれたのかも知れぬ。すぐにここで何かやるからボランティアで来てねとは流石に言えなかった。
臼井さんにも余程の事をしないと気仙沼の為にはならぬ可能性があるだろうと言わねばならぬ。数寄屋橋交差点、ソニービル前の立地と考えていたら大間違いを犯すなコレワ。
やがて臼井さん、東急の方々来る。あいさつを交わすがまだわたしの立場がはっきりしていない。
聞けば随分と考えにへだたりがあったとの事。
しかし、9月15日の記者会見、10月1日オープン、来年の8月15日迄のスケジュールだとの事。これは余程の知恵を働かせないといけない。臼井さんもわたしも、一目散に走る無尽蔵なエネルギーがもうあるわけではない。最短距離で目的に辿り着かねばならない年令である。立ち寄った渡邊助教も交えて話す。
お別れして、もう一度、1階2階会場の概略を頭に入れて帰途につく。渡邊くんと相談しようと考えて千歳烏山のラーメン屋長崎屋へ。運悪く店の近くで96才、90才の両親介護の小川くんに会ってしまう。もうこれは打合わせにはならぬ。小川くんの結婚相談所での武勇伝を聞く時間とはあいなった。久し振りに笑う。
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九月五日 月曜日
朝メモを記しながら頭を巡らせる。勿論気仙沼銀座計画について。場所で人を集められぬのなら人で集めたい。諸者の皆さんのお知恵をいただきたい。
気仙沼の臼井さんと電話で話す。ガウディ風の地蔵堂の絵を描けと言われる。
四国の鎌田社長より電話あり、北海道音更町の「水の神殿」に本殿を作りたいので設計しろとの事。
連続して異世界通信が入った風あり。
- 575 世田谷村日記 ある種族へ
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九月三日
明日9月4日日曜日に銀座東急ビルで気仙沼の臼井賢志さんに会う事とした。9月6日に三陸海岸被災地支援の件で安西直紀アレンジでY氏に会う。気仙沼の臼井賢志さんはこの銀座の件はスケールの大きな話題にしなければ成功は覚つかぬ事。ひとときの散発的なパフォーマンスにしたら何もならぬ事、それでは地元の反発を買いかねぬであろう事等を話した。気仙沼・唐桑をはじめとして三陸海岸で生活を続ける人々は営々と大変な苦労が続くであろう事は目に視えている。その筋道の中に三陸銀座を位置付けたい。 2万数千名の犠牲者、行方不明者がいて、いまだに行方のわからぬ人が膨大に居る事を忘れてはならない。
1、 鎮魂、祈りの場を設けるのは必須ではないか。
2、 商いの原点は神社、仏閣の縁の下等で物々交換した市が始まりであるから、その枠組みは反映させる。つまり、世に言う販売促進、マーケティング等の手法の外にスタンドポイントを置く必要もあるのではないか。勿論、それを排除する事もなしに。
3、 以上を踏まえて、このプロジェクトは資本主義的常識の外にフレームを持つ必要がある。そのフレームは「ボランティアの先にあるモノ」だろう。銀座、三陸海岸市場はそれこそ全国からのありとあらゆるボランティアをつのりたい。三陸迄は遠いし辛い、銀座ならば寄れるかもの人々で良い。あるいは喜捨も歓迎する。気仙沼の消えたマグロの貯金箱の、あるいは唐桑臨海劇場の気持ちなのではあるまいか。
以上を要約すると、
銀座市場内に(組織的にも具体的な場所としても)ボランティアのゆるい組織化セクション、すなわち従来とは別系の広報セクションを設けるべきだろう。
明日、早速先ずは臼井賢志さんに話してみる。
我孫子、真栄寺馬場昭道さんに築地本願寺の協力が得られないか相談してみたい。やはり全国区となると本願寺になるだろう。
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九月三日つづき
世田谷区議の何がしかに連絡を入れて、公明党の杉田議員の9月10日参会を約す。クリーンエネルギーの実現に関しては公明党の協力が不可欠なように直観している。区議に一人一人会う労力もいとわぬ感じだな。
都市部でのキチンとしたプロジェクトも又、大半が政治がからむ。からまぬプロジェクトは無力なだけだ。その意味では、今三陸と世田谷でプロジェクトをおこそうとしているが三陸の方がシンプルなような気がする。
銀座プロジェクトのコミュニケーションシンボルは石山の宝船シリーズの中から選びたい。
今朝記した事をつきつめると、そういう事に落ち着くのだ。
東京の大学生のボランティア組織を安西直紀さんに動いてもらう事が必須だなコレは。
- 574 世田谷村日記 ある種族へ
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九月二日
安西直紀さんよりのメール読む。数両日私用で研究室に出向けぬ。しかし、かえって客観的に色んな事が視える。でも物事は冷静さだけでは一切動かぬから、そこのポイントでの視界と足の方向が大事だ。
9時絶版書房通信書きおえて送付する。
絶版書房をなんとかしたい、のここのところ一念である。
かなり面白い事をしている自覚はあるのだが、例によって過ぎたるは及ばざるに同じの、井の中のかわずだな、コレは。
- 573 世田谷村日記 ある種族へ
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九月一日
世田谷区の活発な市民団体「いち」の方より、「世田谷式生活・学校」の第4回のチラシが届いていない旨の連絡あり。時すでに遅し29日がリミットであったそうだ。わたしがいけなかったが、折角応援して下さるのだからキチンとしなくてはならない。「いち」の新聞に広報を出して下さるそうなので、チラシを送らなかった失礼をわびるメモと共に送るように。簡単なメモは送ったようだが、それには時間が洩れていたそうだ。担当の名前も記す事。
第4回の「世田谷式生活・学校」は石山の世田谷式クリーンエネルギーに関するかなり具体的な提案と保坂展人世田谷区長の話しの二本立てである。
いよいよ本格的にすすめるのでふるって御参加願いたい。
研究室の面々には、もう一度世田谷区内の全市民団体にメールを送るように。区議にも全員送るようにしてください。他に気付いた事があればキチンと相談して実行して下さい。わたしは全てをチェック出来ぬから、その先は任せます。恥をかいても、叱られてもわたしの責任ですから節度を持って自由にやれ。
このサイトですが、TOPページが少し古びています。すこしでも動かしたい。少しずつが肝要です。
世田谷区内の造園、植木屋さん達の業界の方が一人でも参加して下さるようでしたら、レクチャーのはじまりに三陸海岸気仙沼・唐桑の「安波山鎮魂の森」計画を2、3葉だけ出したい。世田谷区の方々は区長は皆さん御存知だろうけれど、石山は知らぬ人が大半だから自己紹介代わりです。9月10日のレクチャーシナリオ担当よろしく願います。
絶版書房『アニミズム紀行5、6』に関する短文を書くので、これはやはり絶版書房通信にONしてください。