石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2014 年 2 月

>>2014 年 3月の世田谷村日記

上海・インド日記 30

2月28日香港空港、15:20分塔機。キャセイパシフィックNRT便。当然の事ではあるが、ゲート周辺、機内の大半は日本人となる。

若い人や、多分香港買い物ツアーの類なんだろう、団体のオバさん達が異常に多い。イヤな事を言うが、実に皆品格らしきが一切無い。

かなりの時間をインド中西部地域の地方都市で、多くのインドの人々と暮らしてきたので、その風貌仕種等には随分慣れた。

日本のオバさん達の服装は皆かなり派手で、何かのファッション誌から抜け出た如くである。ピカリと光りモノも多い。

これが実に似合わぬ。そして、インドの人々と比較していささかみにくいのである。40才過ぎたら自分の顔には自分で責任をとれとはよく言われる。

その伝で言えば、ここに集り、巨大な飛行機に満載されようとしている日本人の大半は、どうひいき眼に視ても非常に下品である。TVのお笑い番組のスタジオにしゃしゃり出てきてゲヒゲヒ笑っている、そのまんまなのである。

勿論インドのホテルのレストランで放映されているインド・ダンスと唄のポルノと見まがうような大衆文化はある。あれはエロいストリップショーが露出されているようではあるが、がしかし人々の大半は朝な夕なにはヒンドゥー寺院に詣でているようだし、出掛けなくともヒンドゥーの信仰は生きているのは知れる。

イスラムのモスクは男性だけの祈りの場所だが、これも又明らかに日本の神社仏閣とは異なる。要するに何者かが生きているのである。何者かとは神なのである。

シヴァ神のみならず、長い鼻のモンスター、名前を度忘れしてしまったがアイツも生きていた。

モスクにはコーランを唱える人々が集い続けている。

要するにインドの都市はニュータウンをも含めて宗教都市なのである。

日本の仏教寺院は大半が死んで枯れている。

あるのは一部の坊主を除いての、葬式仏教の営利だけである。

馬場昭道が顕在化してしまう様では日本の寺院の将来は一切ない。一人の個人の努力は空しくもある。やがて飛行機は買い物ツアーのババア達を満載して成田に着陸する。成田は昭道の真栄寺に間近である。駆けつけて浄土真宗をヒンドゥー教に改革せよと大馬鹿を言い放ってみたい気もするが、昭道さんも痛感しているに違いないのだが、日本仏教は今や末路である。墓石、戒名商売だけが品格もなく団体の買物ツアーのオバさん達の風雅無き物欲の如くに世にまかり通るばかりなのである。

機内放送があり、間もなく成田に到着するようだ。

実に良い旅であった。中国杭州の人達、そしてインド、アーメダバード、バローダ、そしてバローダ・デザインアカデミーの学生諸君、先生方に感謝して、この日記を終ることにしたい。

明日からは世田谷村日記にもどる。

上海・インド日記 29

2月28日10時、香港空港内のレストランで腰かけている。

未だNRT便までは4時間以上待たねばならない。セキがかなり本格的なものになっていて、いささか不調だ。昨日はボンベイ空港の乗り継ぎにビックリした。Jet Airwaysローカル便から国際便に乗り継ぐのに何と一度空港を出てTAXIに乗らねばならない。まことに古いスタイルの雲助TAXIやら自称ガイドが空港出口にたむろしている。

かいくぐってまともな、手配師抜きのTAXIに乗り込み4km程も離れている国際線ターミナルへ。何日も前に上海から到着したまあ馴染みのターミナルである。何の感慨もない。何時間飛んだのだろう。

腰が痛くて、何とまあ座席からズリ落ちて(自分で)床にうずくまって座席を抱いて、それでも少し眠ったようである。

ボンベイ・香港便は超満員で大型の777は人で溢れ返っていた。

変な格好で眠っていたのでベルトが切れた。捨てた。

まだ成田へのキャセイパシフィックはゲートが決まっていない。

昔、五木寛之が空港のトランジットタイムには無国籍の浮遊感があって好ましい、なんて例によって一説をブッていたけれど、セキをゴホゴホして、まずくて高いレストランで何とも言えぬ五目焼きなどをつついているのは浮遊感とは程遠いのである。

先程、杭州プロジェクトのスケッチを少しやった。

良いアイデアなのかどうかの判断がつかぬ。でもこんな時にはいい考えが出てくれるものやも知れぬ。

上海・インド日記 28

2月27日10時BADODARA、ゲストハウス発10時半BADODARA DESIGN ACADEMY着。郊外の平原に平屋建の教室その他が散在しているのどかで平和なカレッジである。インドの都市の喧騒に馴れた身体がここ2日のバローダMSU大学の森の中のゲストハウスに引き続き、更に心も身体もなごむのであった。

やはりわたくしはどんなに突張って見せてもカントリーBoyならぬカントリー老人なのである。

ディレクター他と挨拶を交わし、大きなチーズを乗せたサンドイッチを供される。

儀礼的な事は抜きにして、どうせ今日は夕方迄時間がポカリと空いているのだから、意を決して学生の仕事を見たいと、オープンスペースの多いキャンパス、そしてスタジオを案内してもらう。

案内は昨日までのバローダMSU大学でのワークショップに参加していた女学生がしてくれた。

1年生の作品群がとても良い。コレワと思い1年生(18才)のワンデイ・ワークショップを思い付く。

以前、日本の佐賀での早稲田バウハウス・スクールで試みたことのある課題を出題することにした。

「あなたの母親が病を得た、余命3年と宣告された、その母親の為の家を設計しなさい」

佐賀での日本、ドイツ他の学生(社会人も含む)の反応は素早かった。インドの学生(ほとんど18才)少年、少女の反応は静かなものであった。

しかし、ここの学生の身の廻りには溢れ返るくらいの自然がある。

土、水、石、木 etc に触れながら暮らしているようだ。

彼等の一人は、すぐに自分の気に入りの場所へ行って作業を始めた。

その気に入りの場所とはキャンパス内に、何故かインド人のファミリーらしきが暮らしていて、その草ぶきのShelterがある。そのShelterの下の陽陰に彼は座り込んで土で模型を作り始めていた。

この場所は実はわたくしも訪問して案内された時に一番好ましく思っていた場所であった。母親が、赤ん坊を小さなハンモックでゆらしながらあやしていた。カレッジの中に母親と赤ん坊の暮らしが実に自然に入り込んでいる。

「凄えなコレワ」と実感した。彼もこの場所が一番気に入っていたのであろう。いい感覚してるな、コイツと考えた。

赤土に似たクレイモデル作りに熱中する彼を見て、コイツどんな人間に成長するんだろうと想ったのであった。

今の日本の大学にはこんな場所も人材も全く無い。こんな人間がスクスクと育ったら途方もないコト、モノを考える人間になるのではないか。

いささかの60名程へのクリティックを佐藤と共に終え、キャンパス内の大木の樹陰で横にならせてもらった。そこで休みたいと思ったから。

見事な樹木でNEEM TREE の名であるそうな。このカレッジはこのNEEM TREE のある樹陰をはじまりとして作られた歴史を持つらしい。学校の原点である。

男の学生が走ってネット状の長椅子というよりもBEDを運んできてくれた。

そこで少し眠った。

風が実に気持良い。

NEEM TREEの樹陰は実にデリケートな陽光が差し込み、そして影がつくられる。

暑くなく、実に人に柔らかいのであった。

インドで得た経験で最良のモノであったかも知れない。

色んな事を考えさせられながら、まどろんだ。

最終クリティックを17時半頃迄。幾たりかの学生に、今日の作業を自力で発展させたら、わたくしのところにメールで送るようにと告げる。

昨日来、とても良質な若者に会っている。

何人の若者から通信が届くかな。

別れを告げ、手作りの記念品もいただき満足する。

今、20時過ぎJet Airways社のボンベイ行のフライトを空港内待合室で待っている。

インドの旅は今回はこれで一旦終わりだ。

インドの学生(若者)を本当に好きになりそうだ。

上海・インド日記 27

2月27日、7時過離床。ここ2日間はグッスリ眠っている。インドに慣れたというよりも、バローダの宿舎の環境が気持ちをなごませているのだろう。

今日午前中にバローダデザインアカデミーを訪問して全ての公式スケジュールは終了する。我ながら杭州以来良くこなした。体力、気力ともまだまだ大丈夫のようである。アーメダバードで86才のMr.ドーシにお目にかかり、親しく話すことができて、老いてからの一つの理想的な建築家像らしきもつかむことができた。良い年齢で良い人に出会えて幸運である。

空はだんだん明るくなり始めているが陽光は無い。

インドは暑いの一般論は少し計り誤りで、インドの天候、空模様にも微妙な変化はあるようだ。

昨日、2月26日は11時から18時半迄終日60名程のインド人学生とスタジオで時を共にした。学生達に不思議な親近感を覚え、そうしたいと考えた。学生達はわたくしの言う事を良く聞き分け、ほぼ指示にしたがい、恐らく2日間のワークショップでは最大級の成果をあげた。

わたくしは時にここに集まったインドの先生方の意見をほぼ無視してそうした。その方がインドの学生達のためになると考えたからである。

今、9時20分長駆日本へ戻る荷作りを終えた。ここ2日程充分な睡眠もとれて、ボンベイ、香港廻りの空の旅も何とか乗り切れそうだ。

10時には迎えの方がゲストハウスに来る。

ゲストハウスの広い、何も無い部屋で静かに暮らしているとキチンと身体も休まるし余計なことも考えない。もともと余計な事を考え過ぎる方なので何となく、これ位がよいのかと気が付いた感もある。

7時から、何度か姿形を変えて部屋係の人間がチャイやら何やらを給仕してくれる。ドアのノックの仕方、笑い顔皆違う。

昨夜は全てのグループへの最終クリティックを終え、日本のわたくしのアドレスへメールをする。つまり、それぞれの次の段階へと作品を進めるように指示。学生達の大半は眼を輝かせてその指示を聞いてくれた。どんな続きがあるのか楽しみにしたい。

心尽くしの学生達のインド、民族ダンス、そしてワークショップ修了書の授与式を終え、20時半には部屋に戻り休んだ。

うまいチャイの味にすっかり馴染んだ。飛行機に乗った途端にこの味ともお別れである。

上海・インド日記 26

2月26日の3

インドのバローダに集まった学生達に告げること

1.もしも君達にその意欲があるならば、このワークショップはインターネットを介して続行する。

2.今日の最終プレゼンテーションはそれぞれのチームでまとめて編集し、わたくしの処へ送りなさい。

3.出来得れば、それぞれのチームのプレゼンテーションはまとめて、一つのプレゼンテーションにしなさい。小さな本の形式が望ましい。

4.E-mailなどのコミュニケーションは公表したい。

上海・インド日記 25

2月26日の2

今、メモを記しながら考えた事だが、この実質2日間のワークショップでの学生達の成果は是非ともインターネットで世界中に公表したら良い。

それだけのモノが充分にあるのだ。

昨日(2月25日)は18時30分からわたくしと佐藤研吾のレクチャーを持った。講堂に学生達をはじめとして300名程の人間が集まった。

インドに来てからアーメダバードのCEPT University での講義とクリティークに続いての2度目の講義であった。佐藤は勿論、初めての講義である。彼は全く良い体験をしていると思う。インドで又も腹はこわした様だが随分な力をつけているようにも考える。御本人は知らずとも。

アーメダバードのCEPT University はドーシが建築家としてのアイデンティティーを賭けて設立した大学である。

インドでは名も力もある。それ故、そのワークショップにはアジア各国から多くの学生が集まる。

2月22、23のクリティークは仲々それ故に面白かった。

CEPTにバングラディシュから来ている男子学生の作品、Floating Cityなどは圧巻であった。特にそのバンブー他で作られた都市の姿のイメージドローイングなどは、これも又、日本人学生の現状を考えればまぶしい位のエネルギーを感じることが出来た。

彼なんかは将来どのような人材として育つのであろうか。

それも又、教師の才質にかかわる問題なのであろう。

他人事ではなく、このワークショップのインド学生達の成果は自分自身の問題でもある。だから、きちんと形にしなくてはならない。

上海・インド日記 24

2月26日、今バローダの大学にいる。6つの大学が共催するワークショップの会場である。天井高の高い直方体の部屋の天井には大きな扇風機が総計15ヶゆっくりでもなく、速くもなく廻っている。学生は8グループに分かれてWORKしている。総勢60名程か。今13時前、最初の中間講評を一人で8グループ毎にやって終わったばかりである。11時に始めてほぼ2時間かかった。

佐藤研吾はわたくしの代理で他の大学へ表敬訪問している。表敬訪問とはどうやらこのタイプのワークショップの義務らしい。

昨日2月25日はわたくしも表敬訪問を一校こなした。風格のある学長さんと共にランチを食し、おまけに何だか凄い表彰式まで付き合った。誰が表彰されるのかと思ったら、わたくしと佐藤が表彰されてしまったようだ。立派な木枠に納められた賞状までいただいてしまった。とても良い体験だったが、予定では全ての大学に表敬訪問がセットされていた。これはかなわん、わたくしは学生たちとのワークショップには関心があるけれど、学長さん達とのランチやディナーにはそれ程関心があるわけではない。

それで、主催者にかなり強く自分の意思を伝えて、可愛そうに佐藤研吾が代理で出掛けたのが実情である。どうやら、インドでは珍しく金も集められてのワークショップであるようで、集めた人間の義理と面子もあるのであろう。中国社会のモノの考え方と良く似ているなと思った。あんまり両国は仲の良い間柄ではないけれど、それは根底に面子を大事にする国民感情があるからではないか。

先程ひとわたり、学生達とのコミュニケーションとも考えているショートクリティックを終えての印象だが、とてもレベルが高い。3年生くらいが選抜されて参加しているようだが、日本の早稲田などのレベルよりもむしろ知的には高いのではなかろうか。それぞれのこの地方の大学から選抜されてきているという事情もあろう。要するに出来の良い学生が集められている。

そんな事情はあるとしても、インドの学生達のひたむきさには日本の今の学生達はひどく影が薄いものとして感じられた。大昔に付き合った飛騨高山の建築学校に集まった学生達を、より頭脳のレベルを上げたような感じなのである。そうなんである。わたくしはインドのここバローダで高山建築学校を想い出しているのである。

教師はもうイイヤ、ゴメンこうむると思っていた矢先のことではあった。

このインドの大学の先生方は、今二人だけ付き合って学生と同じテーブルでランチを共にしている。

他のお偉方は会場にはいない。

この日記は英語では無くて日本語で書かれている。インターネットは実感としても、知識としても日本よりはインドの方が進んでいる。

だから多くの人がわたくしのページをのぞくであろう。それ故、あだおろそかな事は書けぬ。

が、インドの学生達の接してみた印象は驚く程に優秀である。先生達はその知的好奇心に充分に対応できているとは思えない。

恐らく短い一瞬とも言えよう体験でそんな事を言う資格はあるまい。

が、しかし直観としてそう思うのである。

子供達、あるいは学生達の資質は教師の資質によっても大きく左右されるのである。

インドの建築学生が良い教師(天性としての教師)に出会ったならば、彼らは何処まで飛べるであろうか。窓の外には豊かな緑が拡がっている。今泊まっている大学構内には朝、鳥や猿やリスが多くやってくる。

上海・インド日記 23

2月24日疲れは抜けぬが、明日のBODODARAでの講演会の準備をしなくてはならない。今日は午後にドーシ事務所でドーシの模型を作り続けている人間2人に別れのあいさつもしたい。全く素晴らしい2人の職人であった。カタロニアのフェリックス・マルティーンを想い出す。ヘンリー・ムーアの巨大彫刻を実際に彫り続けている凄い人間であった。

9時半レストランで朝食。入口でウェイターにルームナンバーを伝えようとしたら声が出ないのに気付く。ノドが恐らく疲労でやられたのであろう。

一人で部屋にいると声が出ないのもわからない。

朝食はヨーグルト、フルーツ、エッグオムレツ、コーヒー。流石にインドの香辛料は避けた。声も出ないんだから。

ボーッと一人でレストラン内のスクリーンを見る。

マア何とも不思議な映像である。インド映画はミュージカル仕立てで、筋書き(ストーリー)とは無関係にいきなり歌と踊りが始まるのは良く知られている。

それが更に過激となり、もう全て踊りと、歌は付け足しになっている。

女性のダンサーはほとんど裸に近い。腰を振り、胸をつき出し、まるでシヴァ神の現身の如くで、セクシー極まりない。視ている自分が恥ずかしくなる位である。しかもインドの女性ダンサーは日本や欧米のそれと異なりモデル状の人工の細身ではない。ブルンブルンと豊満なのである。

口をあんぐり開けて視ていたら、のどに刺激物が入り込み更に声が出なくなるのではないかと思う。

しかし、昨日のMr.ドーシは良かった。86才だそうだけれど、あんな風に年を取れたら幸せだろう。

11時に下のロビーで佐藤研吾と会い、明日のレクチャー他の準備をする予定。彼の疲れは直ったかな。

上海・インド日記 22

2月23日、日曜日、今日は休日。しかし、9時ホテルに迎えが来て出発。朝食は抜いた。書きたくはないがホトホト疲れている。

CEPT Univ.主催のフォーラムの最終日である。9時半フォーラムスタート。

内容は少し飛ばして、明日記すことにしたい。

11時半Mr.ドーシ来てフォーラム参加。いきなり会場に緊張感が張るのを感じた。やはり、カリスマの力なのであろう。「今日、君と昼飯を食べる予定だよね」と言われる。12時半ラジーフの自宅へMr.ドーシ他と。ラジーフの家はラジーフスタイルの良い家であった。Mr.ドーシは驚いた事に故吉阪隆正と実にうり二つの顔で、すぐそれを言う。「タカはパリ時代(ル・コルビュジエのアトリエ時代)に一番の友達だったよ」との言。吉阪隆正は私の学生時代に、研究室は異なっていたが良く教えていただいた、とても実は親近感のある先生であったが、ドーシの持つ雰囲気は全くドンピシャリと同じであった。吉阪は60代前半で若死にして、ドーシは今86才である。

「彼は居なくなったが、生まれ変わって私がいるのかな」とMr.ドーシが笑う。そうとしか思えない。実に同じフィーリングの持主なのであった。たちどころに好きになった。ヨガのトレーニングのせいか、とても年を感じさせない。

吉阪隆正と話している感じなのだ。

ラジーフを交えて様々な相談をする。これは巡り巡って何かの縁としか言えないと痛感。美味な昼食とインディアンアイスクリームのデザートの後、わたくしの作品集に彼は見入った。ひろしまハウスの仏足の話し、ブッダの足の下に暮らすんだねとすぐに共感してくれた。世田谷村にも異常な関心を示し、特にわたくしのドローイング、銅版画には満面の笑みで応えた。ようやくインドで直観で通じる人間に出会えたのだ。

別れて、フォーラム会場に戻る。熱心なクリティークが続いている。クリティークに参加し、17時頃終了。ドーシのGUFA(フェローセメント製の建築)を眺めながら休みチャイ。

夕食を食べに出掛ける気分にも身体も言うことがきかず、結局飯田寿一君の家で彼の手料理をいただく事にした。佐藤もわたくしもそろそろ身体は限界状態である。

全く中国を含めて休みが取れていない。

21時ホテルに戻る。

上海・インド日記 21

2月22日のプレゼンテーションを終え、近くのMr.ドーシの有機的Shelterに入り休む。表に出てお茶を飲んでいたらヒロミ・サラバイさんとバッタリ会う。ヒロミさんは昨夜のわたくしのレクチャーで幾つかの疑問点ありとの事で、実に自在にそれを言ってくれた。サラバイ氏に嫁いだ日本人女性であった。「では又」とお別れする。

何処かでひと休みしようとCEPT Univ.を去り、近くのヒンディー寺院に上がり込む。古い寺院ではなく、今に生きる生身の寺院である。

太鼓や鐘の音がにぎやかに鳴り響き、とても開放的なエネルギーに溢れる。今の、これも又、アニミズムそのものだなと実感した。

スケッチを数点得る。

空腹となるも、いささか身体も疲れ、なんと佐藤研吾もゲッソリと疲れを見せ始めた。

「疲れたか?」

「イヤ、大丈夫です。でも腹が疲れた」

「そりゃあ、君疲れていると言うもんだぜ」

の会話があり、それなら好物のカツ丼でも喰おうと、本来なら行きたくもないアーメダバード唯一の日本料理屋へ。

メニューを見たら、わたくしも胸やけがして、わたくしはうどんをオーダー。

佐藤はいかにもまずそうな、でもやっぱりカツ丼を飯田君はやはり量の大なるカツカレーを食す。

飯田君は常に質より量をとるのが習性の人と知る。アーメダバードの日本人は恐らくストレスも大きく、自然とそうなるのであろう。

21時半ホテルに戻る。シャワーを使い、疲れをおして日記を記しようやく本日現在までを記すことができて、今23時40分。

横になろう。なってどうにもなるものではないが立っているよりはマシなのである。日本を出てから12日目が過ぎようとしている。

良くまあ、我ながら身体も気分も持ち堪えていると思う。

上海・インド日記 20

13時前、CEPT Universityへ。途中アート専門の本屋に寄り、昨日訪問したペインターの村関係の書物を購入する。

ヨーロッパ人が客として溢れていた。

13時半ランチ、ミーティングの後、アジア各地の学生諸君の作品発表、そしてクリティーク開始。

仲々、発表作品の質は高い。

わたくしは4点に関して発言する。

1.Sohil Soni , Baiwant Sheth School of Architecture.Mumbai

2.Joseph James Alanchery , Department of Architecture.Thiruvanthapuram

3.Nishtha Banker , CEPT University.Ahmedabad

4.Niket Dalal CEPT University.Ahmedabad

4.Niket Dalalの作品Floating Settlements Bay of Bengalはとても良かった。バングラディシュの、ベンガル湾上のFloating City案である。特にそのエレベーションと言うよりも集合の形態は船のモビリティーを使用した、実に自由なエネルギーに満ち溢れ、これは東京の学生には求めても得られぬ才質であると痛感する。

こういう学生(若者)の自由な表現力は貴重である。どんどんのびていって欲しいと考えた。キャラクターも良く実に自由だ。

Nishtha Bankerの作品のイメージ、コンセプトも素晴らしいが、リアルな作図になると少し不自由さがあり、そのギャップが私にはとても興味深かった。

上海・インド日記 19

2月22日10時半、マナ・サラバイ邸見学。二川幸夫、二川由夫両氏も撮影に勿論訪れているそうだ。少し疲れてサラバイ邸の一階リビング・サロンスペースのソファーに座り込み、スケッチを一点得る。ル・コルビュジェはインド・アーメダバードのこの家は建築を空に持ち上げずに大地に密着させている。庭と連続したその自然なつながりが心地良い。ボールト状の天井を注視する。この現場はMr.ドーシが全て視て、図面も全て描いたそうだ。コルビュジェはシンプルな基本設計的な略図であったと聞く。当時マナ・サラバイは綿紡績工場の経営で財を成し、インド唯一の財閥をなしていた。広大なサイトがそれを物語っている。その記念館もサイトに在る。

妹島和世、西沢立衛両氏も見学に来るらしいとの知らせもあったがすれ違う。伊東豊雄さんもアーメダバード来訪の予定ありとの事で、日本の建築家も良く動いているなと感心する。

上海・インド日記 18

遅い昼朝をモスク前のイスラム料理の屋台でとる。これが何とも美味であった。2人で60Rpの安さであった。

オートリキシャをつかまえて再びホテルに戻った。ホテルのロビーで少し計りの準備を再びする。17時KURULA VARKEY DESIGN FORUM会場CEPT Universityへ。

現学長、チャヤ氏の後6月から学長となる予定らしい、Pratyush Shankar他と会い挨拶を交わす。

18時レクチャー会場へ。キャンパス内の大きな講堂へ。いささかのコンピュータ調整の後、わたくしのレクチャー始める。Pratyush Shankarの紹介に続いて、用意のアニメーション放映。小スピーチの後1時半のレクチャーをなす。会場は超満員であった。時に笑いも取り、マア上出来であったのではないかと自己満足する。終了後、早々に飯田、佐藤両君と会場を去り、飯田宅で三人でとり敢えず、ホッと打ち上げ会。22時半ホテルに戻りバタリと横になって24時休む。眠ったような眠れぬような夜となった。

上海・インド日記 17

2月21日11時、佐藤ホテルに来る。今日のKURULA VARKEY DESIGN FORUMでのレクチャー他の打合わせをロビーでする。

東京で組んで来た内容を若干修正する。

修了後サルケージROSAモスクへ。アーメダバードの複合モスクの典型である。入口を入ると左手にSULTAN MEHAMUD BEGRA他の聖廟あり、三つの巨大な石棺が安置されている。天蓋の緑色金糸の布シェルターが美しい。モスクの内に布のシェルターを見るのは初体験である。石棺にも三つのおおいの赤色布地(模様入り)がかけられていて、華やかな感じ。廟のすかし彫りの窓からは広大な長方形の池があったが、今は干上がっている。池の周囲には処々に階段がつけられている。

遠くに女性達の居宅や処々の場の小建築が視える。シャーは石棺の内に眠った後にも、後宮であったのか妃達他の女性の姿を眺めたがったのか。誠に現世的な配置である。シャーの聖廟に対面して妙になまめかしい、しかも大きな廟がある。内には小振りな石棺が安置され、これにも鮮やかに色めいた布でくるまれている。廟の頂部には大きな花の黄金が金色に鮮やかである。これもシャーの愛妃の安置場であるのか、実になまめかしいモスク内の廟である。モスクの中庭は小振りとは言えぬ、しかし広くはないスケールであった。アーメダバード、旧市街の金曜モスクの中庭の広がりは無い。広い池の反対側に現在は小さな水浴場(プール)が作られ、多くの人々が手、足を洗っている。モスクの中庭を出てシャー達の聖廟と王妃の?聖廟との間の舞台に座り込んでスケッチをする。たちまち多くの人々に囲まれてスケッチどころでは無く退散し、近くのベンチで休む。

佐藤研吾が現われたので、王妃の廟前の舞台で丁度、一人の男が太鼓をたたいて、派手なパフォーマンスをしている後ろでスケッチしろとそそのかす。彼は今日いささか疲れがほとばしり出ている感があったが仕方ネェーなという感じで座り込み、つまり太鼓たたきの男のすぐ後ろでスケッチを始めた。わたくしは120メーターくらい離れたベンチに静かに座り込みいかな事になるかと観察する。

佐藤はたちまち凄い人だかりに囲まれる。

この男は疲れていても、どうやら人々から注視されると意外にも勇気リンリンというか、疲れも吹き飛んだ様子でスケッチを続けた。人々の注視が力になるとは仲々に良いではないか。やはり表現者に向いているなと感心しながら、わたくしは近くに小さな娘を座らせて、独り脇に立ちすくみ、黒いヴェールで顔をつつみ何かを叫びながら、恐らく喜捨を求めている女性を誰からものぞかれずにスケッチした。つまり、佐藤をおとりに使い、群集を彼の許に集めて、独り自由の身になったのである。我ながらまことに悪い性格である。アラーの神もイヤな顔をして、何処かで一部始終を眺めていた事であろう。

黒いヴェールの女性の足許の娘には異常な位の喜捨が集まっていた。

それに対して、太鼓たたきの男は群集を皆佐藤に取られて喜捨する者は無し。太鼓たたきはうらめしそうに佐藤を振り返り、何か言いたいそうな素振りとなる。ついに立って佐藤にアッチへ行けと言ったかどうか、それにもめげず佐藤はスケッチをまっとうしたのでした。誠にあっぱれと言う他は無い。

「でも、俺には誰も金をくれなかった」と図々しい言葉を後でもらしたのであった。そんな喜劇模様の芝居がモスク内で演じられ続けた。空はすっかり晴れ渡り、カーンという音もきこえようという位。

上海・インド日記 16

この日(2月20日)は24時近くまでホテルで飯田寿一さんと遅い食事をして、禁酒なのにわたくしの10階の部屋でコッソリウィスキーを飲んで語り合った。良い一日であった。

上海・インド日記 15

村の家々は散在していて、わたくしの足では隣家に行くのも大変そうな位。風景は何とも言えぬ、人間の手が行き届いた、しかも自然なモノになっている。まさにMAN-MADE NATUREだなコレワ。

丘の上の家に着く。水牛が数頭、ヤギも多い。犬やニワトリも多い。動物達が人間と共にいるのを実感する。風景が実に柔らかいのである。

木造の大きな家に入る。

と、これはビックリ実に立派な中央に石をしきつめた細長い土間というより、砂利の細長い中庭があった。その中庭に装飾のついた列柱が並んでいる。見事だ。家の両端の壁に三方向を囲むように見事な壁画がある。しかも長い家の両端に2ヶ所もある。

ここにも勿論ペインターが居た。実に人の好さそうな柔和な男であった。

男が紙を一枚くれと言う。

それに絵を描くと言うのだ。ヘェーと思い用意する。

ペインターは型木らしきを持って来てそれで輪郭を取りながら動物を描き始めた。成程こうやればある程度の絵の量産が村の中で成立するかと感心する。描き終わった絵は、コレワ欲しいなと思って、居合わせているドライバーに、「買えないか?」と尋ねた。実に品格の無い言葉であった。答えは「飛んでもない」

「あなた達に見て貰って、嬉しくって、それで描いているんだ」

ガツーンであった。

これが絵描きの原点だな。

赤い猫か、山猫かの絵がそうして出来上がたった。

ここの家に泊めてもらって一週間もいたら、現代民俗学、芸術学、芸能学の宝庫であろう。素晴らしい体験であった。金では売らないモノ、手渡すモノ、ありがとうの意味を表す表現なのだな、これ等のプリミティーフ達の絵は。売らないし、金のやり取りは無い。むしろ何かへの奉納の意味が強いのであろう。

これが今に生きていた。

頂いた絵は大事に持ち帰った。

子供達が沢山見送ってくれた。

その後、先住民族博物館を見学。貧しいけれども立派な博物館であった。ここでもスケッチを数点得た。

20時にアーメダバードのカントリーホテルに帰着。

インドの先住民とはどのような種族であるのか。アーリア人に侵略されたドラヴィダ族とは言えない。もう少し若かったら調べるのになあと残念。

上海・インド日記 14

何度も道を尋ねたりして、それでも昼過ぎにGold Villageに着く。美しい村である。ゴミ一つ落ちていない。都市の汚濁から遠い感のするところだ。

道のかたわらに目的の壁画の描かれている一軒があった。壁画はコンクリートとレンガ造の家の一階の一室に描かれていた。

これはプリミティーフ(素朴画家)達のまさに原型である。子供の無心の絵のような、エジプトの象形文字の群のような、動物達と人間や馬車や、狩の風景やらが壁一面に描かれていた。構図なんていう概念は全くない。年に2回の村の収穫の祭りに際してペインターがそれぞれの家の壁に描くもののようだ。

銃も描かれているから新しいものでもある。聞けばこれは最も新しく去年だったかに描かれたものだそうだ。

ペインター達の作品をスケッチしていた。色がどうしても必要なので色鉛筆で描いていたら、ポスターカラーのビンをお母さんが持ってきてくれて、これ使えと言う。色がちがうの警告であったのか?

近くにペインターの家があると聞いて出掛ける。

木の扉をノックし続けたら若い男が一人出てきた。中老の男がもう一人ベッドで昼寝をしていた。

二人共にペインターであるようだ。勿論この家にも壁画があった。

壁画には必ず神棚(神様)が描き込まれていて何かの記号状の朱だいだいの丸い点が描き込まれている。その廻りに馬を中心とした動物達と人間のアラベスクが描き込まれている。

若い方のペインターが、村長の家の絵を見るかと言うので車で行った。若いペインターも同行してくれた。

上海・インド日記 13

2月20日

約束通りTAXIドライバーが7時30分にカントリーホテルにやってくる。屈強そうな男だ。もう一度、行先値段の事など確認。走り始める。アーメダバード市内の猛烈な喧騒を抜けて郊外へ、そして高速道路に乗る。凄いスピードで走るが不思議に不安感は無い。プロのドライバーなのだを知る。真赤な気仙沼日ノ出凧のような太陽が空にポッカリ。11時アフマド・シャーモスク遺跡に到着。一人250Rpを払う。何しろこれは世界遺産である。しっかりかたわらに水洗トイレもついている。実にしっかりとした遺跡である。インドの小学生達が300人程大型バスを連ねて見学に来ている。モスクの中を走り廻っているがうるさくはない。背の低い子供達がモスクのドームの下にさざ波の如くに動いている感あり。隣りの八角形の沐浴場(池)の小階段に座りスケッチする。

この頃はスケッチすると気持が落ち着くような気がする。

少し計りイスラム建築の描き方にも慣れてきた。

やはりミナレットの細身の塔と天空の取り合わせが根本なのを知る。モスクは天空と呼応する建築なのだ。遠くの岩山の山上にヒンディーの建築のシルエットがある。ヒンディーとイスラムの争いと共存がインドの近代史の現実であるのだろう。ガンジーはヒンディー教徒に殺された。昼食をドライバーを交えて新しいコンクリート構造、ガラスの多い近代的なレストランでとる。うまいカレーであった。チャイもいただく。ドライバーと佐藤が行先のGold Villageの在処を確認している。まだまだ遠いようだ。しかし行けるようである。道が凸凹道となった。大きな池(湖)がありそこにもイスラムの遺跡が散在していた。

いくつかの村や市場を通り抜けてドンドン走る。

上海・インド日記 12

モスクの中庭にまたも入り込む。外の生命力の騒乱と、この内の静寂の対比は何かと再び感じ入る。スケッチする。佐藤も描き続けているようだ。良い時間を過すことが出来た。

リキシャをつかまえてスタジオ・ロードのスタジオ・シネマ近くのドーシ事務所へ。ドーシ事務所で飯田さんに再会。明日の打合わせと、映像その他の送受信の相談。

18時カントリーホテルに戻る。今日のメモを記し、20時半佐藤、飯田とホテル2階レストランで夕食。23時ホテルの外の庭でタバコを一服する。やはり疲れているのかな。二人と別れて部屋に戻り、又、メモを記す。

沢山記録しておきたいけれど仲々書きとめられぬ。自分の能力の小ささを想う。残念。

24時前、ベッドに横になる。

明日は7時過に遠出のTAXIが迎えにくる予定。

今日はドーシ事務所のラジーフと話せて良かった。メールが入り東京では渡邊が頑張って世田谷区の仕事を進めている様である。東京に帰ったら仕事に忙殺されるだろう。それに備えて体力を再生させたい。何しろ、アーメダバードは禁酒なので身体の具合はすこぶる程ではないが良い様だ。この禁酒状態がいつまで続けられるのか?

上海・インド日記 11

チャールズ・コレアのガンジー記念館は良い建築であった。とても多くの来館者で人が溢れている。建築はその人々の様々な動きの額縁の如くであった。人間というそれ自体が集団の表現体をそれこそ生き生きと浮き上がらせている。

同一の単位として分節された屋根を頑丈な躯体が支えている。群体としての屋根の重量が骨太な躯体で支えられる。人間達が自在に動き廻る自由を、その重力を覆う屋根を支える揺るぎ無さが心地良い。

この天をも支えるという如くの重量が人間の動きの自由を実に保証しているのである。

アルド・ファン・アイクのアムステルダムの孤児院を知ってか知らずか今は知らぬが、この重力の支え方は見事であった。この重さへの安心感は今の建築が失いつつあるものだ。夢中でスケッチする。人間あっての建築なんていう解りやすいヒューマニズムを超える崇高さがある。見習いたいがこの重さへの感性はわたくしには失くなっているか?寂しい事だ。

ガンジーの資料を見て廻るうちに、ガンジーのしていた眼鏡が急に欲しくなった。闇雲である。

飯田さんに言って、この眼鏡手に入らぬかと我ママを言う。ヨシ探しましょうとニュータウンの眼鏡屋を3、4軒当るも、無し。オールドタウンの何軒目かでようやく似た奴を見つけて買った。馬鹿な事に夢中になっていたので疲れも感じない。これはコレアの建築が買わせたな。

フライデーモスク前のチャイ屋台でチャイを飲み、階段に座って人々の動きと声の入り混じったエネルギーをしばし眼鏡をかけるも忘れて眺め入った。凄いな人間の生命力は。

上海・インド日記 10

2月19日11時半ドーシ事務所までホテルから歩いて到着。丁度RAJEEV KATHPALAのレクチャーが山場のナーランダ大学プロジェクトに差し掛かる寸前である。RAJEEV氏は実質的にナーランダ大学プロジェクトを責任遂行している建築家である。ドーシ事務所の責任者と言って差し支えない。多くのヨーロッパ他の国の学生が聴講している。勿論インドの学生他も多い。

講義がひとわたり済んだところで改めて紹介され、何か意見をと言われたので、ナーランダ大学計画の歴史的意味について等少し計りを話した。

その後、ラジーフと話す。日本からのナーランダ・プロジェクトへの参加を考えている組織、団体があるので、是非それを実現したいと申し入れた。

それは素晴らしい、是非すすめてくれとなる。

オフィシャルなペーパーを某組織に送ることが次の段階である。コンタクトを始めたいという挨拶状の送附である。非常に具体的なアイテムを考えているので帰国してすぐ進めたい。

ビハール州のナーランダ大学の壮大なキャンパスの中に日本からの営為を加えたいと思う。オリジナル・ナーランダはそもそも仏教大学として古代実に世界的な存在であった。中国西安からの僧玄奘の旅は後年西遊記としてまとめられ、スーパーベストセラーになった事は良く知られている。その壮大な史実を再びなぞろうというものだ。今度は日本の木造技術をナーランダ大学へ送り届けられれば良い。頑張ってみたい。

写真家の鬼頭志帆さんと共に飯田さんと4名で昼食へ。昨夜飯田さんの処のカレーが美味だったのでそれを喰いにゆこうとなる。カレーの後、チャールズ・コレアのガンジー記念館へ。

上海・インド日記 09

ホテルの2階のレストランで、カレーを避けながら、それでも皆カレー味のような食事をとる。コーヒーがおいしい。たっぷりミルクを入れてくる。ただし時間がかかる。外はまぶしい位の光だ。9時半、チャイ風のコーヒーをもう一杯たのんで、このメモを記している。10時半には飯田君が迎えに来て、ラジーブのレクチャーを聞き、彼と色々と話をすることになるだろう。

昨夜、彼に大方の概要を話したのだが、ラジーフがすすめているビハール州ナーランダ大学の計画、特にその森の計画が良いので、それに参加してみたいと考えていた。釈迦が歩き廻ったラージギルの今は町に接したナーランダ大学の広大なキャンパス。それは一つの都市なのだが、シンガポールが中央の図書館建設の金を出すことになったそうだ。

ラージギルの町からキャンパスのエントランスは導かれている。そしてエントランス一帯は森の計画である。わたくしの考えは、この森の創出と、その中に幾つかの日本の木造技術で宿舎や修行場そして作業場などをつくれないか。そしてベトナムで進めている鐘楼などを建てられぬかである。

今日はその話をラジーブにしてみたい。

頼んだコーヒーがなかなか出来ないので、もう一度言ったら、今度はすぐに来た。今、10時前である。

上海・インド日記 08

2月19日7時離床。カントリーイン・アーメダバードの10階で目覚めた。良く眠れた。昨夜はVASTU SHILPA CONSULTANTSの飯田寿一さんと20時にカントリーインロビーでお目にかかり、ナーランダ大学全体計画のその後のこと等を聞く。ドーシ事務所に彼は居るので実際を良く知ると思われる。ナーランダ大学プロジェクトはインドでも有数の大プロジェクトで、それだからこそのマネジメントの困難さに対面しているようだ。しかし動き出している。明日実質的に計画を取り仕切っているラジーフ氏に会うので、更に尋ねてみることにする。

飯田さんはそのラジーフ氏の旧宅を数人の日本人とシェアして暮らしている。大柄で丸顔の日本人には珍しい好人物である。大方の外国で会う日本人は用心深くて縮んでいるのが多いので目立つ。

夕方はレストランのカレーはイヤだなと正直に言ったら自宅での手作りカレーに招いてくれた。22時半過ぎまで、おいしい、それほど辛くないカレーに舌鼓を打つ。

佐藤研吾は彼の家にアーメダバードではお世話になることになっている。

わたくしのレクチャーは21日の夜なので、それまでは色々と勉強させていただこうと思っている。

21日にはマナ・サラバイ邸にうかがう事になっている。アーメダバードに来てル・コルビュジエとルイス・カーンは外せないと言われた。そりゃそうだなと従うことにした。

昨日の地中の井戸の空振りに懲りて、より本格的な井戸の見学は止めようとも考えたが、やはりアレは見た方が良いとの飯田さんのおすすめであったから、もう一件面白そうな民俗アート村の表現活動は是非行くとして、それでスケジュールは一杯である。アーメダバード周辺はワークショップ開催中にも時間を割いて出掛けることは可能だろう。と書きながらあれこれと想いを巡らせている。独りでTVを見ずにいるから心地よい手持ち無沙汰で、そして10時半には飯田さん、佐藤がホテルに来ることになっている。

今日は長い一日になりそうだ。中国の一週間とは別の時間が流れている。

上海・インド日記 07

今、19時過ぎ、ホテルでこの日記を書いている。洗濯、昼寝をして少し疲れもとれた。

午後は、30数年来、気になっていたダーダー・ハリの地中井戸をリキシャで動いて見た。

あんなに憧れていたのに、サラリという感じで失望した。

凄い地中空間なのだが、やはり水が失くなっていては、本来の生命が失せてしまっているのだ。

井戸の廃墟、涸れて干からびた奴はミイラみたいなものである。

スケッチもしなかった。

こういう失望を何と表現すればよいのか?

車で2時間ほどのところに在るという大きな方の地中井戸はもう見るのを止めようかと思ったり。

いきなり言うが、左官は水の職人である。湿式工法を邪魔者にして近代化=工業化は水の在り処を普段触られる世界から消してきた。都市は居ながらにして白昼の廃墟、ガラガラと干からびたミイラになってしまったのだが、中国杭州でやるプロジェクトは左官職の使い方が決め手になるな。水の精を思わせるまでの表現にしなくてはならない。

ところで、アニミズム紀行3だったかに書いたガキの頃の赤い地下水脈の夢は、あれは何だったのか?あの夢の中の地下水脈の肌触りは、あれは素晴しかったと思う。

上海・インド日記 06

道端で座り込んで飲むチャイはやっぱりうまい。味も良いが、外で飲むのが生き生きとさせてくれるのだろう。

東京のカフェテラスでコーヒー飲むのとは全く別次元である。何故なんだろう。

ジャマー・マスジッド前のレストランの看板出している店内のチャイはやはりまずい。そう思う自分の感覚は少しもデフォルメされていない。ここまで来てそんなウソはつけない。いやウソつくほどに間抜けじゃない。

やっぱり気候と大きな関係がある。インドの大方では外が内であり、内が外だからか?つまり街頭そのものが理想の建築の状態を顕現しているのだろうか。美や汚れはそれほど問題じゃあない。

上海・インド日記 05

8時半頃、オールドタウンのジャマー・マスジッドへ。この街を代表するモスクである。

丹念なつくりではなく、荒いけれどモスク中庭の広さがとても良い。70m×120m位か。真ん中に池があり、東屋がある。

日射しは強くはないが、キリリとしている。モスクの中のどこまでも異教徒である我々も入ることが出来る。おおらかなんだなあ。しかし、モスクはやはり排他的であることが、そしてモスク内の何とも言えぬ静寂が生命である。

中央の池のある長方形の東屋じゃなくって、そこに座っている老人がヤケに格好良いのでスケッチする。一般的にインドアーリア系の老人は皆かっこうのスケッチの対象になりやすい。

80㎝くらいまで接近しての間近のスケッチであった。描く方と描かれる方、双方に微妙なカケヒキがある。描かれる方は意地悪をしてポーズを変えなくともよいのに変え続けるし、こちらもそれにめげずに密着戦を続けた。最近、建築描くより、人間描いた方がズーッと面白いのだ。生きて動いているからだ。それがわかるのはやはり間近に視る必要がある。

上海・インド日記 04

アーメダバード2月18日6時着。Naoki Akaike君他インド人学生2名迎えてくれる。若い。一気にこちらも若返る感あり。風は暖かく、インドだなあと感心する。草木の勢いが日本や中国と違うのだ。いつもインドに来る度に思うことだが、まだうまく言葉に出せない。早朝の清々しい中を街に入り、ホテルCountry Inn & Suites By Carlson Ahmedabadに着くも、時間が早過ぎて荷物を部屋に入れるのはダメだとホテルカウンターの人間が言う。こういう融通のきかぬところがインド人一般にはあるようだ。でもイライラせずに、さいですかとホテルロビーで荷造りをし直して気分が良いので街へ。

休まなくて大丈夫ですかと気遣っていただいたが、そう言われるとヨシ、休まずにヤルぞという気になってしまう。24、5時間の飛行機乗継ぎはこたえているが、それを言ってはおしまいよ、と何がおしまいなのかも知らず、何をヤルでもなく大判の画用紙を持って出る。タクシーは使わない。街中をゆくにはリキシャで充分だ。勿論オートリキシャ。Akaike君の値段交渉他を観察して、これはアーメダバードは穏やかな都市なのを知る。外国人観光客の多いアグラ等のハゲタカ運転手の群れはいない。実に淡色をしていて拍子抜けする位だ。アーメダバード大丈夫かなといぶかしむ。どうしてもインドに来るとこの手の話になってしまうのはやむを得ないのだ。値段のやり取りの中にその都市の人々の生活の実相が隠されている。

上海・インド日記 03

2月18日、離床ならぬ無理な体勢で横になっていたのを、普通に座っている状態に戻す。2時15分である(中国時間)。4時間15分ほど飛んだか。あと1時間15分ほどでムンバイか。

成都は西安よりもだいぶん経度にして西に位置しているようだ。少し眠っているうちに飛行機はヒマラヤを越えたのか。地球の自転方向とは逆の方へ飛行機は飛んでいる。運動の摩擦が発生しないのだろうか。

そう言えば、機内食を一回抜いているので身体が軽くて調子は悪くはない。

杭州計画のスケッチをする。小さな庭を建築に付属させるアイデアを形にしてみよう。

3時45分、ムンバイ空港着。ここではアーメダバード便への待ち時間が5時間ほどもあるので、のんびり席を立つ。入国手続き荷物検査をしてドメスティックラインへ。深夜なのでかかる時間は早い。職員も眠いのであろう。

アーメダバードへの便はAir Indiaで職員の態度は例によって一転する。インドのローカル便の手続き荷物検査はとても厳しい。

預ける荷物をゼロにしたかったが、どうしてもダメで、佐藤の分と二個を預ける。インターナショナルはルーズでローカルは厳しい。

建築の世界と同じだな。中国杭州プロジェクトは中国のローカル(郷土建築)から学び、それをインターナショナルにしようと試みようとしているのだけれど、固有の価値と普通の価値とはあんまりクロスしないのが現実だ。余程の力業が必要であろう。

6時半、ローカル便の待合いロビーCOSTA COFFEEでコーヒーを飲み軽いスナックを食べる。

インド時間3時である。流石に眠い。今日はほとんど24時間ほとんど不眠状態である。旅は体力だな。ロビーで横になれる妙なロングチェアまがいを見つけて横になる。グッスリ眠ってしまうとヤバイが体力はほぼ限界である。

5時15分、眠い眼をこすりつつ搭機。まだ暗い。

機内に中国人の姿は無く、どうやらインド人ばかりだ。当り前だ。眠い。

上海・インド日記 02

17時、上海発CA 429便、ほぼ満席である。流石にインド人の顔が少なくはない。成都近くでかなり揺れた。

21時、成都着陸。ムンバイ行きの客は別コースの空港内バスに乗せられる。前よりこれが合理的となり、急ぎ足ではあるが出国手続き、そして荷物検査とすすみ、ムンバイへの乗継ぎ便CA 429便に乗継ぐ。

機内は英語、中国語が半々くらいか。皆おしゃべりである。

22時(中国時間)departure。

上海・インド日記 01

上海より成都までのフライト中に日記の形式を上海・インド日記に切り換える。中国をインドから眺めたり、インドを中国から眺めたりの検証が出来るかどうか覚束ぬけれど試みてはみたい。

二度目の杭州ではクライアント集団及びその友人たちを介して杭州ピープルと言うべき種族らしきがあるのを知った。

実に知的で穏やかな人達である。わたくしが杭州の仕事にピックアップされたのは、仏教や禅を知る人が望ましいとのことからであった。

仏教や禅を知る人とは、これは恐らく最近、日本やインドの精神世界にいささか関心が深まり、そのことを知ってくれての事ではあろう。

今日2月17日から2月28日までインドの、半分仕事、半分勉強の旅であるが、良く吸収したい。

もう若くはないが受容力は若い時に比べて我ながら増大している。又、自分で言うのもおかしいけれど決断力も大きくなっている。

全ての旅は無限の可能性との遭遇の旅でもある。良い時間と人に会えますようにと祈りたい。

杭州と上海では随分色んな人に会えて何よりであった。

成都へは上海から2時間ほどのフライトである。進行方向左前方にヒマラヤの山々が遠望できる筈だが雲が厚い。杭州も雲の下である。

上海・杭州日記16

只今、2月17日16時25分、上海空港国際線成都行きCA 429便ゲートC 94でサンドイッチを齧ったところ。成都からはムンバイ便まで乗継ぎが1時間しかない。いつも駆け足となる。 先程14時まで、上海の趙事務所で諸々の打合せ。インドでの講義の映像チェックもする。少し組み直したい。今度の杭州のミーティングも趙さんは良くやってくれた。アジアでの仕事に大変有能な人だと再確認する。マネジメント能力が大きい。14時趙事務所を発ってタクシーで上海国際空港へ。Air Chinaにチェックインする。

機内は暖かい。インド用に夏の服装に着替えているので快適である。

上海・杭州日記15

2月17日

7時離床。上海巴黎春天新世界大酒店36階。

昨夜は蘇州市から2時間半走り続け19時前上海HOTEL着。荷を降ろして近くの日本料理屋へ。趙さんが明日からのインド行を配慮してくれて和風料理となった。

21時過、散会。ホテルに戻り休んで今日となった。 今日は昼に趙事務所へ。14時には発ってインドへの便、すなわち成都への便が飛ぶ国際空港へ行かねばならない。7日間の中国での仕事は充実していた。皆、趙さん、クライアントそしてドライバーのお蔭様である。

杭州のクライアント集団はわたくしにとっては望外の、理想的な出会いであったと振り返る。

それぞれの人々の大方の背景、人間模様他把握せねばならぬ事も少しつかむ事が出来た。

まだまだ大変だろうが、このプロジェクトには全力を尽くしたい。

実に多様な個性の集まりである。

2月14日には雅会という中国茶道の集りにも出席できて、多くの人々と知己になる事も出来た。

恐らく雅会の参会者の中にはわたくしの設計する特別な集合住居に住んで下さる人々もいるのではないか。建築を介して、多様な人々と知己になる事くらい人生の楽しみは他にない。楽しみを尽くしたい。

それには尽きぬ努力が必要なのは言うまでもない。

命がけでやり抜くしか無いのである。

上海とアーメダバードの気温差はほぼ25度位か。今、これから荷作りをしなければならぬのだけれど、飛行機の中は寒いくらいだし、ムンバイでの長い時間待ちの空港内もエアコンで寒いだろうから、ほぼ今のまんまの服で行こうと、今決めたところである。

上海・杭州日記14

見学後、職人達と別れ、蘇州博物館へ。16時半近くで入れないだろうが、外からでも観ようとする。I.M.ペイが中国風屋根と対決した建築である。I.M.ペイの建築は理路整然とした近代の成果ではあるが、表現力、すなわち表情が乏しい。やり過ぎでも駄目だけれど律気過ぎてもいけない。建築は難しい。

博物館近くの現代住宅の商業的分譲モデルハウス・センターへ。

金のかかった立派なものだが、やはり固いデザインで、趙さんの知り合いの建築家の手になると言う。中国は様々なマーケット分野に建築家達が進出しているな。販売センターのプロモーションビデオを観る。

我々の仕事も宣伝、広報のプロモーションも重要であろう。幾つかのアイデアが頭の中に浮かんでは消える。誠に忙しい。

雨の中を上海に向けて発つ。

上海・杭州日記13

2月16日、少し寝過ごし9時離床。すぐ身仕度をして別棟のレストランへ。佐藤先着。昨夜はどうやらクライアントとクラブへ行ったらしい。

すぐに変更案の打合わせとアイデアの伝達。作図作業をしばし。10時過修了。今日は杭州を去り蘇州へ行くので荷作りに部屋へ戻る。

かなりな雨の中を蘇州へ走る。

14時半蘇州の郊外レストランで芝匠:百年伝統の技術名師、周園昌さん他と会う。趙さんが探し出してくれた中国伝統工匠の集団である。

世界各国職人らしきは皆同じ顔をしているなと感服。遅い昼食後、彼等のセンターへ行くも今日は日曜日なので入れないとの事。

彼等集団の仕事を見たいと、市内を走る。蘇州はIT部品産業の興隆で大都市へと発展との事。人工は600万人。

彼等伝統職人集団が作っている分譲住宅群を見学する。

左官技術が見られない。瓦職が中心のようだ。部分部分にいかにもな装飾が露出しているが、技術(能)水準はそれ程高くないように見受けた。木工と作庭を押さえればコストは何とかなるかも知れない。しかし、壁仕上げのニュアンス作りの伝達は難しそうである。

困難なニュアンスの部分を小さく限定しておいた方が良いかも知れない。ヒサシ部分と瓦との取り合いディテールは細心の注意を要する。

上海・杭州日記12

今回は二軒隣り合わせで建てられているうちの別の一軒へ。内部はブッディズム、チベット仏教関係の調度品でまとめられている。

打合わせ開始。昨日来のクライアント達のプレゼンテーションに対する意見を聞く。いささかの変更をしなくてはならぬが、至極もっともな点が多く納得した。

打ち合わせ終了後、用意された契約書にサインする。もう仕事は実質的に進行していて、中国での設計の仕事では契約前の作業は信じられぬとは聞かされていたけれど、趙さんの存在とわたくし自身の直観から、わたくしには自然な成り行きであった。時には人間は常識に反して自分の考えを頼りに進むのも悪くはないと思う。わたくしも様々な体験を経て、時には自分の信ずるところを行っても良い年令でもあるのだ。

この仕事は話のあった当初からやってみたかったのでなおさらの事ではある。虎穴に入らずんば虎児を得ずの風もある。

しかし、杭州でのクライアント集団の面々との附合いから、わたくしは彼等を信用して良い、信用するに充分な人物達であるとの判断もしたのだ。これが無ければ仕事に没頭することも出来ないのである。

契約書調印の後記念写真。そしてこのクライアント集団独自の山荘サロンのオリジナル特別精進料理をいただく。ワインとお茶(伝統茶)の組み合わせに納得する。杭州の「集」に少し馴染んできたか。

趙さん夫妻、クライアント、そして佐藤等は何処かへ飲みに行き、わたしは独りで西湖国賓館へ戻る。21時半室で今日の打ち合わせに対応すべく色々と考え、スケッチする。

夜半CCTVのオリンピック番組を眺めながら横になる。

上海・杭州日記11

2月15日、7時離床。眠れたようなあんまり眠れなかったようなウトウト気分である。日記を記す。沢山色々な事があって、記録しておかないと忘れてしまう。忘れてしまっては惜しいのである。さて、今日はいかがなりますやら。

9時前レストランへ。10時過、杭州市内の大ホテルへ。林海鐘さんと待ち合わせ。彼のホテル内ギャラリーで開催されている山水画展を観る。

山水画に関しては宋時代のモノが最高峰である位の知識しか持ち合わせがない。広い会場を一巡し話しも聞く。林海鐘の中国の伝統そして山水画への情熱は大きい。

「今の都市文化は中国本来の伝統を皆壊している」と言う。

「今の建築は見苦しくてイヤだ」と厳しい。

本物の保守主義者であるようだ。

しかし東山魁夷の絵に共感し、京都は素晴らしいという辺りは怪しいところもある。

李祖原に会わせたら、大激突になるであろう。

彼は都市文化の表象としての建築、そして中国文化の拠り所を目指している。

ホテル3階の客室に特別な彼のアトリエがあり、ウーム、彼も都市文化を享受しているのではないかとも思ったり。この人物とはじっくり話し合えば必ず激論になってしまうだろう。

しかし、いただいたカタログの中にはオッと想うようなエネルギッシュな生命感が横溢している絵もあり、ゆっくり眺めてみたい。

11時半辞す。12時西湖周辺の街へ。散歩して家並みを眺める。雨樋の処理に眼がゆく。

昼食後、クライアント・グループの拠点のひとつである森の中の家へ行く。前回杭州に初めて来た時に歓迎会を催していただいた処だ。

上海・杭州日記10

少し遅れて杭州連横記念館に着く。立派な木造中国建築群である。連横は表門表示によれば愛国史学家とある。杭州は国民党の勢力が強いエリアである。蒋介石を愛する人々もいるようだ。中国は大きい、ディテールには大きな物語りが埋蔵されている。奥まった処に一軒の桜閣があり、そこが古式茶道の会場であった。

すでに多くの人が参集していた。「鳥人」とも再会を喜ぶ。万科の王海光会長とあいさつ。

万科は中国最大級のディベロッパーで、安藤忠雄、隈研吾と仕事の附合いがある。我がクライアント代表あいさつの後、王さん立派なスピーチをする。我々のクライアントの今度のプロジェクトの意味を明快に述べた。納得する。中国のお茶会始まり、顔見知りの茶のディレクターと禅の話し等。故佐藤健から学んだ事が今になってとても役に立っている。

会場にはすでに顔見知りとなった人々の顔もチラホラ。

前回お目にかかった女性から大きな手作り菓子の長箱をいただく。

鳥人と、となりの席であったので再びゆっくり話す。この人物も底が深い。会場には中国琴のライブの音も流れ、雅であった。

わたくしは南面して畳に座して空の移り変わりを楽しんだ。

短いスピーチを促される。鳥人の家に負けたくないから頑張ると述べ会場の温かい笑いを得た。クライアントのリーダー一人の夫人の74才の母上の見事な唄も聴く。

伝統歌劇団のスターのようだ。毛沢東の前でも何回も唄い踊りしたらしい。お茶は幾種類も供された。

なかでもお茶の虫喰い葉を使った茶が独特な味、香りで甘酸っぱく、少し古めいたカビの匂いがして、これを愛でる中国人の感性の幅を感じさせられた。日本にはこの類は無い。虫喰い葉だけを集めて煎ったお茶とは不思議な世界である。茶席終り間近、杭州中国美術学院の中国画家、彼には前に会っている、寒山拾得の人と秘かに名付けた人物も来る。

明日10時に彼の展覧会を訪ねるのを約す。

18時過、杭州市内のレストラン、唐寧街八號にゆく。

杭州市最高値のレストランだそうだ。クライアントの中心人物二人の奥様達、先程の人間国宝の夫人の一人の母親も出席。一人は杭州TVの凄腕ディレクターのようだ。彼女は昔、TVドラマ西遊記の妖精役(妖怪ではない)の人気役者であった。西遊記は今、わたくしも少しずつ西遊の旅を重ねており、西安から敦煌、タクラマカン砂漠の入口、そして三蔵法師が辿り着いたインド・ナーランダから、中印国境近くまで旅をしたと話した。何か縁があるな。今度のプロジェクトも西遊記のひとつの章なのかな。

21時半了。美酒美人美食でいささか眼も腹も一杯である。今日はバレンタインデーとの事でクライアントは女性達全てに大きな花束をプレゼント。わたくしも趙夫人からチョコレートの小箱をいただいた。気遣いの名人達である。20時国賓館に戻り、お湯も使わずベッドに倒れ込むも、仲々眠れず。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記09

2月14日9時朝食。今日はパンにする。少し計り胃が疲れてきている。10時敷地にて再再チェック。もう一度特に周辺状況を頭にたたき込む。桂花林を歩く。乾隆帝40年頃の物語りがあるようだ。村長もそう言っていた。敷地の反対側の裏路地を歩く。山地なのに日本の海辺の村の感あり。何故だろう。

杭州の美術学校副学長宅を訪ねるも留守であった。名刺を置いて去る。

再び村長宅にてクライアント、ローカルアーキテクト他集まりミーティング。

話題はディテールに及んでいる。13時前桂語山房にて昼食。

新作料理の店であり、美味なり。そこかしこにモダーン日本風(和風)の匂いあり。趙さんより小さな庭の可能性についての短い話しがあり印象に残った。その可能性が今の案からは消えている。中央の道路にそれらしきを再アレンジしてみようか。13時半了。雅会へ向う。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記08

2月14日、そうか昨日の会話に現代中国女性の話し他が多く出たのは、今日がバレンタインデーであったからかと気付く。

相変わらず常識にうといと反省。8時前離床。雪は上がったけれど曇りである。昨日の寒さは半端ではなかった。

今日の午後は国民党のホールらしきで中国古来の茶道の会「雅集」に出席するようで楽しみだ。

洗濯しながら、昨日からのメモを記す。

中国の悠久の歴史中でやはり毛沢東による文革は大いなる伝統破壊の出来事であった事。それに批判的でもある人々が多い事など、中国の現実を少しは知るようになっている。

洗濯に熱中していて、自分を洗濯するのを忘れていた。

干し物で一杯のバスルームで入浴。

陶器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記07

2月13日12時過、六合満覚村村長宅へ。会食。

村長は強力なリーダーシップで1600人の村を統率する人物。

この人物を味方にしなくては計画は覚つかぬ。奥さん孫娘も同席。

娘さんは小学校の宿題に日本人の生活習慣と考え方の宿題が出ているそうだ。地下のワイン蔵の各種酒の値段を聞いてビックリ。文革前は富豪でゼロからのやり直しで苦労したそうだ。

13時半、西湖前のヨーロッパ風会館の一室でのプレゼンテーション。15時迄映像を使いながら説明する。冒頭で昨夜聞いた村長と桂花の関係を話す。プレゼンテーション後、打合わせ。

村長よりこの計画を支援するという言をもらう。前回一緒であったTV会社の撮影クルーと再会。18時迄打合わせ続く。

大きな変更はどうやら無さそうである。明日14日朝にサイトに模型を持ち込み周辺民家との関係などを実地検分することとなる。

18時半過、計画のリーダーの一人でもある社長宅で夕食となる。社長宅というよりも36才で亡くなった奥様の実家のマンションのようだ。

社長がブッディストになったのはその事も関係しているのかと思い当たる。

若いけれど、色々な苦労をしているのだろう。手料理、ワインをいただく。

社長の義理の弟さん、趙さん他も同席。

社長より日本の禅と中国の禅の違いを尋ねられる。

7月に前回お目にかかったチベット仏教赤帽派の教皇が仏堂完成祝があるので同行せぬかと尋ねられる。行きましょうと答えた。杭州との附合いが深まるのは面白そうだ。21時過了。

21時半、国賓館へ戻る。

青銅器スケッチ 上海博物館にて

上海・杭州日記06

2月13日

9時国賓館レストラン朝食。佐藤、昨夜の乾杯攻めにもめげず登場。心なしか顔色青い。食事を終えて、今日のプレゼンテーション準備作業をレストランロビーで。暖房あれど足元からシンシンと寒い。日本から持って出たプレゼン資料の手直し。修了11時半。特にビジネス・モデルを中心に修正する。

パブリック施設としての茶館に桂花館機能を入れた。

村長との昨夜の話しで、サイトの桂花(金木犀)36本は車の無い時代に広東省から持ち運んだもので、とても大変であったと聞いた。

12時前、プレゼンテーション、リハーサル修了。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記05

2月13日8時離床。外は雪景色である。すぐに日記03-05を記し、チェックする。

今日は13時半からプレゼンテーションで村長も出席との事なので準備しなくてはならない。佐藤とたしか9時に国賓館レストランで待ち合わせで、午前中は準備に追われるだろう。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記04

17時杭州駅着。前とは異なる駅で杭州には3つの駅があるようだ。クライアントグループの一人が迎えてくれる。

駅構内をエスカレーターで昇り降りして駐車送迎エリアに出る。

もの凄いでっかいリムジンで顔なじみになったドライバー来る。

聞けばアメリカ製のリムジンだそうだ。何しろデッカク、しかも急坂も登り降り出来る戦車みたいにいかつい。

18時前杭州西湖国賓館にチェックイン。今回はわたくしは趙さんが設計した棟に宿泊。荷をおろしてすぐに発ち歓迎会へ。クライアントの経営する健康料理店へ。2階の社長事務所でおいしい茶をいただく。室内は自然材でまとめられ、チベット仏教風のしつらえである。茶馬古道の興味深い本を読む。歓迎会始まる。クライアントの大方の顔がみえる。25名位のにぎやかな会となった。

すもも焼酎らしきワイン出る。昔、日本の長野菅平の開拓者の家で、正橋孝一さん手作りのものを飲んで、ブッ倒れた事があり、用心してカンパイを続けぬようにした。佐藤研吾はそれと知らずに乾杯乾杯の連続である。大丈夫かね。

しかし、今日は彼の誕生日であり大きなバースデーケーキも用意されていた。気配りは隅々まで行き届いている。

サイトの隣家でもある村長さんも出席。あいさつを交わす。

この人物はこれからの計画にとって重要である。

疲れ切る前に、わたくしと佐藤、そして村長と再びリムジンで会場を去る。21時西湖国賓館に戻る。雪降りしきる。

すぐに横になる

早く休めて助かった。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記03

2月12日8時半離床。9時ホテル2階のレストランで朝食。チェックアウトして、近くの趙事務所へ。打合わせ。

11時上海博物館へTAXIで。1階の有名な青銅器のコレクションを見る。何度見ても感動する。夢中でスケッチに没頭する。大判のスケッチ6点を得る。紀元前1500年程の昔の造形物である。全てがアニミズムの表現である。造形にとてつもない生命力を感じる。スケッチしていると元気が出るから不思議だ。昼食を抜いてスケッチに没頭。13時過迄。14時前趙事務所に戻る。小休してTAXIで発つ。15時半前上海ステーション。雨降りしきる。15時半の新幹線で杭州へ発ち、今車内でメモを記している。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記02

2度程夜中に目覚めたが、それでも7時半迄眠った。趙さん作成のスケジュール表では旧正月2月15日に合わせて、中国伝統の<雅集>がクライアントにより開催されるとの事。本格中国茶道を知ることができそうだ。楽しみである。

今日2月12日は午前中趙事務所でプレゼンテーション準備。冒頭に少し附け加えたい。昨夜指摘があった英略字表記は全て漢字に直す。東京との通信がスムーズにいくかの実験ともなる。インドのレクチャーデータが今朝入っている筈である。

人間の慣れとは面白いもので、前回あんまり眠れなかった上海のホテルもとり敢えずは眠った。

9時にホテル2階のレストランで佐藤と待ち合わせているので、それ迄しばしプレゼンテーションの改修イメージを作りたい。昨日の上海は5℃で風は冷たい。

星の子愛児園増築棟スケッチ 上海にて

上海・杭州日記01

2月11日13時半前、羽田空港中国東方航空、上海便機中。佐藤が厳重に一つにまとめてきた模型のラッゲージは、やはりどう考えても2つに分けたほうが荷物として扱いやすいので、そうした。幸い機内の棚にスッポリ納まった。14時前、滑走路脇にはまだ雪が残っている。

離陸前に眠りに落ちる。

16時前、星の子愛児園増築棟の基本アイデアからまとめて、佐藤にエレベーションスタディーたのむ。隣席だから伝達は楽である。

上海着は日本時間16時45分との事。

上海空港には趙さん手配のドライバーが迎えに来た。新空港にて趙さん合流。前と同じホテルにチェックイン。すぐに夕食へ。すぐ近くの上海小南国へ。

まだ中国(上海)は春節ペースが14日くらいまで続くのだそうだ。レストランの従業員の数も少ない。法政大学教授高村雅彦さん同席。趙夫人同席。彼女は東京に中国語学校を進出させるべく準備中らしい。食後皆と趙事務所へ。スペインからの特別なワインをいただく。

用意してきた杭州計画案を拡げて小プレゼンテーション。明日、色々な意見が聞かれるであろう。23時半、わたくしは一人一足お先にホテルに戻る。佐藤は残る。それも役目である。日本と1時間の時差があるので上海時間22時半過、風呂を使い横になる。いつも旅の初日はフルタイムで動くのでいささか疲れる。

星の子愛児園増築棟 上海にて

上海・杭州日記 TOPスケッチ


今日より中国、印度への旅です。

スケッチを1日1点ONしますが、日付通りにこの絵は1ヶ月前程の最初の杭州の旅に際して得たもので、1ヶ月昔のものです。

杭州で進めることになる仕事のサイトで描きました。

確約はできませんが毎日更新してインドからはday by dayな現在進行形とします。

2月11日

石山修武

世田谷村日記 ある種族へR258

2月11日4時離床。地震あり。まだ荷作りはやっていない。インド、アーメダバードの気候イメージが仲々つかめない。

日本は寒い、上海、杭州はより寒い。そしてアーメダバードは暑い。

しかし心身共に暑さよりは寒さがこたえるのは、ロシアのソチの映像他で解る。対暑さのシャツ、下着他はインドで調達しようと、決めた。

スーツ、タイは持たぬのも決めた。インドでのスピーチ、データは上海でプリントアウトしたい。4時半再び横になる。パスポート、チケット、金さえあればそれで良いと割切る。

6時再離床。荷作り、スケッチ用具他を整える。佐藤研吾が中国、インド共に同行するので彼のパソコンから日記他は多分途切れることなく送信できるだろう。渡邊大志は保育園の2題、他、「飾りのついた家」組合、NPO法人設立準備の為TOKYOに残すので、全ての仕事はとどこおりなく連続する。

夜が白々と明け始める。

8時荷作り終える。わたくしは大半が衣料。書類、図面、模型は佐藤が全て持つので大変だろう。それでも模型はコンパクトにして2分割した。

これは一人ではとても無理な旅だ。朝食をとり、9時過世田谷村を発ち羽田へ。

世田谷村日記 ある種族へR257

2月10日7時半離床。難波和彦さんより電話があり3月24日13時より四谷東長寺での鈴木博之本葬の打合わせを明日鈴木杜幾子さんとするので、今日下準備のために会いたいとの事。難波さんも実に義理堅い人物である。わたくしは明日昼過の便で上海なので、今朝の花小金井吉元医院行きを終え、昼に大学に戻り、では13時に、研究室に来てくれる事になった。雪道が凍てついているので急ぐのは危ない。今月一杯の長旅であり、しかも寒い中国から暑いインドへまたがった旅でもある。荷造りを今日中にしたい。しかし難波さんが言うのだから、これは是非そうしなくてはなるまい。9時過ぎ定期検診のため花小金井へ発つ。

10時半吉元医院、問診のみ。全てとは言わぬが、内臓はとても良いとの事である。体内脂肪に難ありという事で、執拗に原因を問い続けられた。最近夜半に急に甘味をとりたくなり、眠る前などに果実を食していた事を突きとめられた。そんな事言ったって、みかん、洋ナシ、リンゴ少々の他愛ないモノであったが、事実は事実として述べた。「ソレダナ」と先生は言った。眠る前に果実は食うなと宣言された。

納得できなかったが、仕方ない。それでは眠る寸前の果実は今夜から止めよう。

11時了。花小金井駅近くのラーメン屋で早速勧められぬ類のラーメンは流石に避けて、モヤシラーメンを食す。

多分、6時間程寿命を短縮しているのであろう。

12時半研究室、打合わせ。13時、難波和彦さん来室。

鈴木博之本葬の打合わせ。会場の東長寺は120名程のキャパシティーなので、ひろく声を掛けぬ事を確認。

歴史家との別れの会は密やかな集まりが似つかわしい。

その後、再び中国杭州プロジェクト他をスタッフと打合わせ。16時前研究室退出。16時半千歳烏山薬局で吉元医院に処方された明日からの旅に用意された20日分の薬を用意してもらう。17時過向山、大坪両氏と「飾りのついた家」組合の雑談と、しばしのお別れの会。

K.C.ヒマールでナンを食べて別れる。20時半世田谷村に戻る。21時半夕食了。明日からの旅の荷造りは明早朝にしようと、22時横になる。

インド、デリーのMr. Ramanathan からのメールを読む。

ナーランダ大学のProjectはインドのみならず最大級の国家的プロジェクトであろうが、それ故に最大級の困難に対面しているのではなかろうか。世界のいたる処の困難さに大きな共感とわずかなりともの連帯の気持を寄せる。

世田谷村日記 ある種族へR256

2月9日8時半離床。一面の銀世界。梅の花とそれに降り積もった雪の区別がつかぬ。今日は日曜日だが午後、昨日雪で不可能になった伊藤アパートでの左官職との打合わせに出掛けなければならぬがいささか大変だな、しかし、行く。昨日、中国杭州でのプレゼンテーションの一応の目処をつけたので今日はあと何本かの鈴木博之への雑誌向け追悼文を書き切らねばならぬ。意を決して10時半GA用のものから始める。12時前書き終え、日経アーキテクチュアへのモノ書き始める。鈴木博之も死んでから知らなかった苦労をさせるな。追悼文作家の如くの有り様である。でも陽光が差してきて空は明るい。積雪の反射もあるのだろう。

九州より長澤社長から電話あり、仙台便はようやく再開との事。「すだれ発電」の件、更に鋭意努力を続行するのを確認する。

13時過、昼食を挟んで日経アーキテクチュアへの鈴木博之追悼文を了えた。

14時前世田谷村を発つ。新宿、目黒、洗足を経て、伊藤アパート現場着15時。すぐに左官職との打合わせを始める。若い職人だったが素直で呑み込みは早そうだ。エントランスの壁の仕上げが特色の建築なので、細かく鏝の流し方まで指示。我がスタッフはその辺りの経験は素人に近い。左官を知らぬ世代である。それで職人頼りになる。職人は設計者の力を見抜くのである。

それで日曜日の打合わせとなった。半分はスタッフ教育なのだが、伝わっているかどうかは知らぬ。マニュアルは無い世界で頼りになるのは感覚と機略縦横の融通性である。外壁取付けの「飾りのついた家」組合作品番号7、8、9、21の作者、中村未歩さんも現場に来て自分の作品が取り付けられる壁を見ていた。建築物に取り付ける装飾としては人間の触れたりする可能性に対してホンの少しの問題もあり、若干の修正作業もしていただくべく、我々も作業場他の準備を行なった。16時、作業を続けるスタッフ、「飾りのついた家」組合会員中村未歩さんと別れ現場を去る。

17時過千歳烏山、長崎屋へ。世田谷野球倶楽部監督以下の面々とおしゃべり。

今年も4月に南烏山2丁目の桜の樹の下で花見をしようとオバンを初め皆と相談して決める。

4月5日には安西直紀の両親の家で恒例の花見もあり、丁度その頃が桜の咲き具合も良かろうとて、では4月6日、日曜日に連日のムシロをしいての烏山ドブ族の花見の宴をしたいと思う。

長崎屋のオバンは長崎原爆の被爆者であり九死に一生の大人物である。オヤジも諸々の病をかいくぐり、もう死ぬかと考え別れの花見の宴を皆で用意したのが、この花見の始まりであったが、ヒデェオヤジで何を隠そうまだピンピンして生きている。

実にしぶといオヤジなのだ。

ここの桜の樹は樹齢60年を超える名木である。そこらの人間よりも余程年を積み重ねた風格がある。

実ワ、この桜の木7本の保存を訴えるの小さな事にも死んでしまった鈴木博之に加わってもらい、随分な力になってもらったのだった。

だからこの桜の樹と花には、わたくしは殊更な思い入れもある。烏山の連中にはそんな事は言わずもがなであるのは勿論だけれど、この桜の樹の花も鈴木の応援があったにもかかわらず、今春でお別れになると思われる。再開発の為に伐られるようだ。残念だが仕方ないと言わねばなるまい。

花よりダンゴは近代の常である。それ故、今年の4月6日の烏山の花見の宴は鈴木への感謝を込めた宴ともなるだろう。そうしたい。皆にも通じなくとも、その辺りの事は少し計り話したいと思う。

一本だけでもここの桜の樹が保存されれば、毎年のようにその事を思い出すことができるだろう。

思い出すって事はとても大事なことである。それが文化の質を決めるのであるから。歴史というのはその小さな事実の積み重ねである。イヤハヤ、又書かんでも良い事を書き始めてしまった。反省。

世田谷村日記 ある種族へR255

2月8日12時半研究室。13時構造設計家梅沢良三さん来室。

保育園2件、京都の件の打合わせ。いつもの様にすぐ答えが提示される。

小気味良い打合わせである。14時半了。15時安西直紀さん来室。秋田県マタギ・スクールの件。沖縄宮古島渡真利島の子供キャンプの件の相談。これはじっくりやりたいものだ。中途半端は危ない。途中、上野の中沢さんに連絡。2月18日の並木茂士さんお別れの会に、わたくしが残念ながら上海からインドへ向かう機上なので出席できず、安西直紀さんを代貸しで出席してもらうことの了承を得る。気がかりであったので胸をなでおろす。別れも大事なのだ。様々な話題に話しは展開した。17時半ひとまず研究室を去る。

雪降る中を用心深く歩きながら新大久保駅まで歩く。裏道は積雪で歩けなくなっている。10年振りという感じの大雪だなあと話す。上野アメ横の摩州さんの店は正月大成功の商売だったそうで喜ばしい。今も中国の春節がらみで商売は再びのピークなのだそうだ。

アメ横での健闘を再び祈りたい。

大雪の中を駅裏のタイ料理屋クンメーに。「飾りのついた家」組合で予約していた、全く素晴らしいタイ製額縁の組合への仕入価格を決めた。クンメーの社長もここで20年頑張り、事業を着々と拡張している。会ってみたいものだ。

安西直紀さんと久し振りに充分に話し合う。わたくしの若い友人の重要人物である。友人は大事な財産である。鈴木博之去り、安西来たる感あり。

21時半了。実に6時間半の歓談であった。山手線は大雪の為大幅なダイヤの乱れあり。雪の降り込むプラットホームでしばし待つ。23時前世田谷村に戻る。やはり世田谷烏山は積雪量が新宿とは違い多い。クツにすべり止めをつけていたので雪道の歩行はしかし楽であった。 

世田谷村日記 ある種族へR254

2月8日9時離床。天気予報通りの、どうやら大雪になるのだろう。最近の予報は良くあたる。鈴木博之が永遠の不在となり、しかしこの不在は本人からすでに5年前から知らされていたようなものである。歴史家の予報も又、良く当ってしまったのだ。

しかし、5年にわたる病魔との闘いは、これは長い。鈴木博之は対面している問題を正視する人間であったから、自分が抱え込んだ病も同様にした。

「俺の癌からは逃げられない」

研究と同じように、良く調べ、追究した結果、鈴木は言った。同じ種類に属するのであろう同病の方々のブログを読み続けたりもしたのだ。良くそんな事までするなと唖然とした。わたくしはそんな恐ろしいとも言える事実に対面する勇気はとても無い。この、逃れられぬ問題にまで対面しようとするのは自分に対する好奇心でもあるのだと知りもした。

「俺と同じ種類の病気の人達のブログは途中でみんな途切れるんだよ。やはり死んじゃうんだな」

歴史家を友人に持った事は、わたくしにとってどのような事であったのか?そして、これからもどのような事であるのだろうか?鈴木と同じように、これも又逃げる事、迂回する事もできぬ事実だから良く良く考えてみたいと思う。降りしきる雪を眺めながらそう思う。死者はこうやって、ほんのしばらくは生き残る生者の思考の中でよみがえり続けるのだと想う。それが実感として身にしみてくる。

鈴木博之は覚悟を決められる人であったが、又、決してあきらめて中途にすることも、できなかった人でもあった。この雪を降らせている空の何処かに居て、同病の人々のブログを読み続けたように、わたくしの通信日記も読み続けるにちがいない。だから、今度ばかりは形の上では不在となったけれども、この日記は続けることにしたい。盟友の死である。一年程休止しようかとも考えたが、今度は一切休まず続けたい。

10時20分、「飾りのついた家」組合日誌64を書く。朝日新聞の大西若人さんが2月2日付のASAHI GLOBEを送ってくれた。安藤忠雄の大きな記事があって、以前取材された安藤忠雄作ジャスパー・ジョーンズのエピソードが記録されている。

ところで鈴木博之の死に際し、安藤忠雄の示した義理堅さと呼ぶを超えた誠心誠意もまた驚くべきものであった。この事はやはり記憶にとどめたい。まだまだ追悼文を何本か書かねばならぬが、当然これは書く。いささかの疲れも昨夜の熟睡でどうやら消えた。

今日予定されていた左官職との打合わせは大雪のため明日に延期されたが、午後構造設計の梅沢良三さんとの打合わせがあるので、出掛けることとしよう。雪ですべって、スッテンコロリンは避けねばならない。

世田谷村日記 ある種族へR253

2月6日16時前、研究室を発ち渋谷経由三軒茶屋へ。17時前世田谷区役所三軒茶屋分室理事長応接室で保坂展人世田谷区長、他と会う。すだれ発電の件相談する。18時了。世田谷線で下高井戸経由千歳烏山へ。19時長崎屋で向山一夫さんと会いすだれ発電の件打合わせ。あんまりのんびり構えているわけにはゆかなくなった。腹を据えなくては。20時半了。21時過世田谷村に戻る。目一杯の一日であった。鈴木博之の死が、じいっとしていると堪えるような気がして、動き過ぎているか、用心しなくては少し身体をいたわらなくては。

深夜2時半迄、新聞社への鈴木博之追悼文を幾つか書く。明けて2月7日、6時離床。原稿に手をいれる。

7時45分世田谷村発大学へ向う。今日は修士設計の発表日である。発表を聞きながら、幾つかの新たな追悼文依頼が届き、すぐに書く。きついけれど鈴木博之に恥をかかせるわけにはいかない。

昼食を挟んで18時過迄発表会に附合う。

18時半頃、研究室に戻り、今日発表の修士達にいささかの印象、そしてクリティークを述べる。

その後、保育園2題、中国杭州プロジェクト打合わせ。21時半迄。明日は大雪の天気予報で少し計りスケジュール他を変更する。天気にさからう事はない。グッタリとなり地下鉄に乗る。本を読んだり、スケッチしたりする気にもなれず。22時半世田谷村に戻る。流石に一日放っておいた日記を記した。

鈴木博之追悼で日記も休もうかと思ったけれど、今が一番大事な時である。頑張ろうと考えて記録する。

少し休んでソチオリンピックでもTV観戦しようかと思うが、もう12時前であり。横になるのが賢そうだ。

世田谷村日記 ある種族へR252

2月6日12時、新宿区四谷四丁目、萬亀山東長寺にて盟友鈴木博之密葬。御家族、親族だけの密やかな葬儀であった。安藤忠雄夫人、難波和彦、石山も出席。

鈴木博之は2月3日朝に亡くなった。肺炎であった。5年前の胸部癌の発病以来、実に立派な病との闘い振りであった。その間病の素振りも外に見せず、東京駅駅舎の復原活動、国立近現代建築資料館創設、新国立競技場国際設計競技の開催、審査等に従事していた。日本の近、現代建築、特にその文化的世界の明晰な思想的バックボーンであったと言って過言ではない。

彼を失い、建築思潮は液状化現象にしばらくは陥るであろう。代わりになる者が全く居ない。単騎衆愚を対手に論を張り、行動し創造的活動を成し、時に支援した。

建築史家として、人間として、友として実に立派な最期であったと言わねばならない。

15時前研究室に戻り、鈴木博之逝去の報を磯崎新他、幾たりかに伝える。

世田谷村日記 ある種族へR251

2月5日昼前、馬場昭道さんより連絡あり、金子兜太さんの句、書が届いたとの事である。待望の一点一句だ。94才の巨匠の、これは有難い有魂の一点だ。ベトナム五行山の鐘楼建設への力になる。すぐに真栄寺に飛んで行きたいけれど、昼過ぎの「生きもの・魂倉」の撮影の約束をしてしまった。今日は無理かな。

13時烏山神社、大坪さんと「生きもの・魂倉」撮影。

志村稲荷の社前に奉納する形で撮っていたら、拝礼に来た女性が、マアと言って撫でさすってくれた。どうやらすでに人々に受け容れられている。生きている如くの風がある。大坪さん、佐藤、藤森も来て本格的な撮影となる。14時半了。烏山組二人と昼食会。組合の諸計画について相談。大昌苑で夕食も一緒した。

ここ数日のいささかの気持と身体の疲れをいやす。18時別れて世田谷村に戻る。

明けて2月6日。寒い。曇天で陽光は無し。

昨日「生きもの・魂倉」の写真撮影に烏山神社にやってきた佐藤・藤森の二人を眺めていた向山、大坪つまりおジンと言うべきか初老なんだろうの二人組が言った。

「アクの無い人達だなあ」

アクが無いとはまことにうまい事を言う。

確かに向山、大坪二人は佐藤、藤森と比べれば実に俗アクなアクの固まりなのである。

そうか、二人ばかりではない、俺もそうなのだと痛感する。このアクというかアカみたいなもんですな。洗っても、洗っても、もう落ちぬ不潔たらしいもの。これが佐藤、藤森には全くネエの。これは世代的なモノばかりとは言えない。両名の個性なのだろうか。そしてこの個性は向山、大坪の存在感らしきを鏡に写してみれば逆反射して浮き上がってくるのである。

アニミズム紀行7にも書いた事だが、わたくしの小学生の頃、東京郊外にはドブと呼ばれる排水路があり、ドブ川もあった。黒くどろりとした汚水が異臭を放ちながら覆いもなく、道路脇を流れていた。つまり、生活はアクやアカと共にあった。今はそのアクやアカはほとんど皆、ドブではなく、下水道に流れ込み、生活の場からは視えぬようになった。

インフラの整備は近代そのものの骨格でもあった。だから佐藤、藤森のアクの無さ、アカも視えぬ人間らしきは、実に近代の完成形なのかも知れんなと思わぬでもない。

タントラ風に言えば、この人たちの身体には下水管という排水パイプは勿論、張り巡らされてはいるが、ドブのどんよりとしたたまりらしきは無いのである。

烏山くんだりを自転車を引張って歩く大坪さんや、大声で笑う向山さんの二人連れの影は、まさにドブ川の、かすかな匂いがするのである。これは面白いことに気がついたなとイヒヒと笑う。

5日程したら、中国、インドへ旅立つから、しばらく向山、大坪両名のアクにはお目にかかれないが、3月になったらどっぷりと、又川の流れのようにの美空ひばりではなく、ドブの流れのようにお附き合いさせていただく、ドブ族の暮らしが展開しそうなので実に楽しみなのである。

そうか、はからずも書くドブ族というのは、今はネイティブ近代日本人、あるいはアジア人なのかも知れない。アパッチ族や、ナバホ族といったネイティブアメリカンに際立つ種族のアイデンティティーと同種な族なんだろうか。

そうかドブ族を名乗るのも面白いかなあと思いつく。烏山地方のドブ族とは、仲々良いのではあるまいか。

烏の羽飾りなんかつけて、烏ノースウェスト地区の酋長、大坪ヨシアキラ、そしてギター抱えた渡り烏、サザン地区代表の向山カズオーネなんてのも非常によろしいのではないか。

下らない事書いていたらもう9時か。

こんな事でも書かねば気持がまぎれぬ事もあるのだ。

世田谷村日記 ある種族へR250

2月4日8時半東京ステーションホテル。Xゼミナール。安藤忠雄さんトンボ返りで大阪に戻る。Xゼミナールに関して細々とした、でも重要な事務的なこと等を決めた。わたくしの早稲田退職記念の会にも厳しい日程をかいくぐって、出ますよとの事。9時半終了。別れ、千歳烏山、烏山神社へ。志村稲荷新年会。志村棟梁と会う。佐藤研吾も出席。寒い。例年のようにたき火をしていたら、お巡りさんやってくる。神社の神事でお稲荷さんに油あげを焼いているのだとたき火番が説明していた。神社の境内の神事のたき火は許されて然るべきであろう。周辺住民の神事に対する感覚の無さ、それ故の警察への通報の内に在る今の市民感覚の方が余程警告に値する。大坪さん、向山さんも出席する。近隣の附合いの中に志村稲荷の中心が在るのは何か頼りになるなと感じる。雨が降り出して去る。

京王線の電車の中で志村稲荷ならぬ、ネコのお墓のプライスについて話し合う。

13時過研究室。市根井立志さんより、木製の素晴らしい骨ツボと容器の第二作が届いていた。「飾りのついた家」組合の重要な作品=商品である。販売価格、他の議論にも熱が入る。富山の藤江民さんより素晴らしい作品、他が送られてくる。これはいいやと一同感嘆する。良い作品が集まり始めると組合の力になるなと実感する。15時、稲田堤の星の子愛児園増築の打合わせをして、気になっていた世田谷区の保育園新築に関して、地主に問い合わせたら、「そりゃぁ、とっくに良ござんすよ。皆大賛成ですから」との事。志村棟梁の言である。世田谷区は保育園の増設が何をさておいてもの課題なので、区民の方々の役にも大いに立つであろうから、良かった。

だいぶん前に作成していた計画案を引っ張りだして早速再検討を始めた。渡邊大志に今ある案の再構築を依頼する。

16時山梨より山田社長、他隣家の向山さんと共に来室。株式会社ヴィンテージファームの将来ヴィジョンをうかがう。大体この会社、および社長の考えが呑み込めてきた。わたくしに出来る事があるやも知れぬ。

世田谷村日記 ある種族へR249

2月3日、今日は何だか、何を記録する気にもならないので、残念ながら怠けたい。そういう時もあるのだと生意気を言う。

夜更けになる前、若い友人安西直紀くんから、連絡をもらう。

今度の都知事選に出馬すれば良かったと、悔やんでいると記されていた。本人よりもわたくしの方が余程残念であったのだ。類まれなる星も、機を逸してしまえばただの無数の砂利の一つに過ぎなくなる。余りにも多くの傍観者、野次馬まがいを蹴飛ばして、気違いと思われようと、出る時にはやはり頭を出すべきである。

そのような星に生まれている者はなおさらな事だ。惜しい。

世田谷村日記 ある種族へR248

2月3日8時離床。磯崎新の東京新宿ICCギャラリーでの展覧会については世田谷村日記R235にすでに記した。Xゼミナールにも報告し、大方の意見は同じであった。もうアレで良しと考えていた。週刊ソラリス第3号、特別寄稿・岡崎乾二郎、「海に浮んだ光の泡」が何処からか送られてきて読んだ。

岡崎乾二郎は美術家であるから、どんなに力を振り絞っても美術業界の住人であり、その囮からはそれ程自由ではない。いくらシャルル・フーリエを引いて説いても、行動の形式は建築家、それも上等だとされる階層の者達とそれ程の違いはない。批評は常にと言って良い程にそんな自分の自閉した世界を見据えずに展開されるのが、上等下等の区別なく常である。

岡崎乾二郎は有形無形に磯崎新のそれこそ俗世の影響圏にあったので、その批評の大方は磯崎新をまだ御神輿の如くにかついでいる。そう言う俗世の義理への配慮は充分に感じられはする。

が、しかし余程岡崎乾二郎もこの展覧会には失望したのであろう。そのむしろ絶望感と言うべきが批評の全体の基調音である。義理の世界はとてつもなく強いのである。理性的であり、それを前提とした知的批評の言語界、それは閉じたうたかたの社交と飛ぶべきだろうが、そんな柔でそれこそ一瞬の内に蹴散らしてしまうのが常である。岡崎乾二郎は妙にそんな俗世間の小ざかしい配慮はこの際捨てるべきであったとわたくしは思う。展覧会は確かにサーカス小屋の興業の如くであったが、むしろ磯崎新の見え隠れし続けて止まぬ「廃墟」への、隠しようの無い同化への傾斜が歴然としていた。それならばその自らの廃墟の中で悠然と遊べばよかったのではなかろうか。年端もいかぬ半端な若者を集めて面白くも、クソも無いトークショーなぞはいまだ若気のウソの固まりではないか。

しかし、岡崎乾二郎のこの批評の短文は、そんな世俗の、しかも強い義理の世界の衣をすかして読めば的確である。作家(建築家)の老化と肉体自体の廃墟化を自ら鏡像として目の当たりにしている磯崎新の建築観を鋭くついていると言って良い。しかし、この展覧会で示された廃墟はつくばセンタービルの中心に作られた空虚そのものの廃墟ならぬ空虚と何変わるところがあろうか。磯崎新は万人に共通した身体の廃墟へと成熟しようとはしていない。

死はある種の成熟した人間にとっては絶対の廃墟、つまり建築の至高点であるが、それに通じる充足をもたらせるのではあるまいか。

一見新しく視え、考えられもするコンピューターエイデッド都市、ソラリスの海はいかにもな新しさの中に死への成熟、すなわち文化であるが、それを感じさせぬのである。廃墟にあるのは、誰でもが感得できよう死そのものの無窮の悲しみ、つまりは時間への絶対の畏怖なのである。

万人は死に向けて、繰り返し、繰り返し生きているのである。そして、世界は生者ばかりではなく、それを絶対量においては超えるであろう死者によっても作られ続けている。

12時半、世田谷村を発ち、研究室に発つ。

世田谷村日記 ある種族へR247

何か忘れてるなの感しきりにする。アッ、昨日午前中に世田谷村近くの世田谷文学館にクラフト・エヴィング商会の「星を売る店」展を見に行った事を、日記に記すのをスッカリ忘れてしまっていた。おかしな展覧会を自称する程それほどおかしな展覧会ではなかったが、「飾りのついた家」組合が狙っている方向に、良く似た部分もあり面白かった。その間のことは日記に書き忘れた分を「飾りのついた家」組合日誌62に記したいと考えた。

2月2日10時世田谷村発。東京ステーションホテルのXゼミナールの会へ。11時25分、安藤忠雄、鈴木博之、難波和彦各氏にお目にかかる。Xゼミナールの本格的な講座、記録本など相談する。13時前了。14時過ぎ世田谷村に戻る。小休する。

19時「飾りのついた家」組合62クラフト・エヴィング商会展示会「星を売る店」を書き終える。

今日も暮れるか。

21時15分。気がせかされてアルチ村日記1224を書く。

これは何者かに書かされたなの実感あり。

世田谷村日記 ある種族へR246

2月2日8時離床。又、猫のことだが、これは彼等の遊びでもあるのだろうが、デカ黒とチビ白は時折追い駆けたりで世田谷村の2階を走り廻っている。バタバタと言うには遅すぎる、ビューという位の音がする位に全力で走り廻る。世田谷村の2階は小さな体育館状であるから、これは明らかに猫たちにとっては運動場なのであろう。こいつ等は外に出ないから、全く良い運動になっているのだろう。

基本的にはデカ黒が白チビを追いかけ回している。ところが、わたくしの見るところケンカしたら白チビは黒デカより、もしかしたら強いのではないかと思われるフシがある。デカ、チビと言っても、もう体はほとんど同じ位で急速にチビ白が大きくなりつつある。世田谷村に来たばかりの頃にはチビは手のひらに乗る位の大きさであった。その記憶があってまだチビと呼んでいるに過ぎない。いずれチビはデカよりデカくなるだろうとの予測もある。でも、そうなっても奴等の追いかけ、追いかけられゲームは何の変りもないであろう。体の大きさが逆転してもである。

チビ白は人に懐きやすい性格である。体をすり寄せてきたり、テーブルの上で顔をなめたりする。「ヨセ、人に見られるじゃネエか」

とそれこそヨセばいいのに照れたりもする。しかし、最近デカ黒の性格の隠れた美質にホーッと思う事がしばしばあるが、それは又。猫日記になる恐れが充分にあるから。

今日は日曜日であるが、曇りで寒い。昼前にXゼミナールの会合に出掛ける予定である。

世田谷村日記 ある種族へR245

2月1日、おおよその、これからのわたくしの態勢らしきがほぼ固まってきたので、それを春からの中心メンバーに伝える。伝えながら、これはうまく行きそうだと確信する。言葉で形にするのは大事なことだ。研究室で使い続けた佐賀、早稲田バウハウススクール以来の大テーブルは世田谷村に新しく設置する1階のベジタブルハウスの中に持ってゆく事とする。表面はいささか傷ついたが、小さな歴史が在るので。モリスの家の使い方に関しても大坪さんと更に話し合ってみたい。浅草仲見世にも拠点を持ちたいが先の事になるだろう。

15時半学部卒業設計発表会に出席。わたくしは藤森君の卒計、他一名の相談に乗ったので、それは見てみたかった。17時半会場を去る。佐藤研吾と新大久保クンメーで食事して中国、インドの件を話し合う。19時半修了。20時半世田谷村に戻る。少し計りの読書、何時頃であったか眠りに落ちる。

世田谷村日記