石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2003 年10月の世田谷村日記
 九月三〇日
 七時起床。屋上に上る。富士山、丹沢、秩父の山並が美しい。東京も捨てたもんじゃない。ビルの谷間にTOKYOタワーが細々と視える。隣の見苦しいのはアレは森ビルだろう。二階の食堂で育てているパキラの樹、手に入れた時は一メーター二、三〇だったのが今は4メーター少しの天井に届くまでに成長した。十時研究室。十七時日本フィンランド・デザイン協会理事会。新宿オゾンで。二十一時前迄続く。

 九月二十九日
 深夜三時半。眠くなってきた。又眠ってみようか。一人で夜中に起き出して、手持ち無沙汰でいると、昔ばかりを思い出す。今朝は群馬の森田さんに連絡して、長八美術館のお色直しの件を相談したい。もう一度、人物達に松崎町に集まってもらい、市町村合併で旧松崎が生まれ変る幕明けとしたい。文化、歴史は人間が作るのであって、風景が作るわけじゃない。しかし、自然との折合いの中で、人間の生活自体が在る事も意識しなくてはならない時代でもある。三時四〇分眠ろう。五時過、東の山の端、空が白々と明けなずんでくる。眠ったような眠らぬような。
 今日は夕方、東大で難波さん鈴木さんにあって歴史と技術研究会の概要を決めなくてはならない。庭園技術を介して造園技術保存のデータバンク作成から始めるのはどうかな。提案してみよう。六時四〇分温泉につかる。貧乏性で、温泉場にくると、何度も何度も温泉につからないと損する感じがあるんだナア。我ながら本当に小人物である。しかし、体は本当に休まった。有難い。八時に森さんが来てくれる予定。
 九時蓮台寺発踊り子で東京へ。十三時前研究室帰着。群馬の森田さんに電話。長八美術館の件伝える。
 十三時半千村君、お母さん来室。千村君は自分でデザインを学習して、自分の家の設計に役立てたいと言う。それでは、という事で十月十二日より、千村君にデザインのレクチャーをこれから一年ほどして差し上げる事にした。休日を利用して、子供にも解りやすく住宅のデザインを学習する。プログラムを組んでみる。私のリフレッシュにも役立つだろう。
 十八時東大難波研究室。鈴木博之先生も参加。技術と歴史研究会発足準備の会。議論風発。二次会、三次会へ。鈴木先生戦闘意欲大いに大。心強い。
 二十二時四十分過新宿京王線。難波先生に新宿まで送って頂き、今、烏山へ戻る途中。鈴木先生より森川嘉一郎ヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナー担当決定を聞く。磯崎新の荒技だ。嘉一郎もこのチャンスを生かしてもらいたい。

 九月二十八日
 七時よりオフクロに色々と言われる。しかし強気の連続であった母も流石に弱気を言うようになった。早く世田谷村に居ろと言うのだが、こんな家に住めるかとまだ言い張っている。年をとって、こう言うところに住めばキット長生き間違いないのになぁ。亡くなったオヤジの所蔵していた本があって、それを先ず引き取る為の書庫を作る事になった。その書庫のプランやディテールまで指示するのだから、たまらんよ。この人、生まれ変わって建築家になったら成功するだろう。世田谷村のオフィス部分の上に書庫を乗せる事になった。九時、東京発踊り子で伊豆松崎町へ。車内は満席ではないがにぎわっている。行楽シーズンなんだ。オヤジの書庫は鉄板でやってみようか。十一時十分までオヤジの書庫のスケッチ。なんとなく、まとまりかかる。気が付けば伊豆高原辺りか。秋日和だ。十一時四十五分蓮台寺。森町長公室長と共に婆娑羅峠を越えて松崎町へ。カサ・エストレリータで商工観光課長、産業建設課長他の皆さんと打合わせ。十五時半終わる。伊豆の長八美術館故依田敬一さんの礎石の基壇に座って、遅い午後の光を浴びている。ここには様々なモノがあって、それにまつわる物語りも又、極彩色に彩られているから、私にとっては、無言劇を見ているようなモノだ。空気がざわめいているのだ。
 小邨の小林のところにより、サンセット・ヒルへ。いつもの宿直室にチェック・イン。温泉に入り、一休み。職人共和国便り第二幕あくかな。十七時二〇分森さん迎えに来て、焼き肉大門へ。二〇時二〇分サンセット・ヒルに戻る。森さん、小林さんと共に食事したがお互いに当然の事ながら年を経て流石に節度は持つ様になった。四〇才前に初めて松崎町を訪ねた頃は毎晩一時二時まで飲んで騒いでいたのだから、マア、若い頃のハシカだったんだと良く解る。沼津に入院している藤井晴正とも電話で話す事ができた。あと一ヶ月は入院していると言うから、一、二度訪ねなくては。本当は傷を負った友人の姿を眼の当たりにするのは恐いんだよね。ここのところ友人を続けて失っているから、会いに行くのに自信が無い。ハンマの傷の行方がはっきりしてから会いに行くのが正解であろう。森夫人に車で宿舎まで送ってもらったのも何となく良かった。私の六〇才記念、つまり青年卒業式は松崎町でやる事にした。藤井晴正幹事長でやろうか。
 深夜三時起きてしまう。昨夜は二十一時過ぎに寝てしまったんだから、これも仕方無いだろう。二〇年来の附合いになった松崎町も市町村合併の波に揺れている。これからの地域創造の核は文化・芸術の育成につきる。私も伊豆西海岸とは実ワ、高校生の頃からのお附合いで、随分育てていただいた。何か出来るとしたら、その事でお返ししたい。近藤さんからお借りした蔵の生かし方も含めて。第二ステージの伊豆西海岸再生を考えてみようか。ハンマも海の仕事を続けられるかどうか、解らないし。陸の仕事を作る必要があるのかも知れない。山本夏彦、佐藤健が亡くなってもう一年になるな。

>>世田谷村スケッチ日記 九月二十八日
 九月二十七日
 九時銀花世田谷村取材。十二時半まで。明日は久し振りの松崎行、沼津にケガで入院中の藤井晴正の見舞にも行きたい。十五時設計製図公開講評会。二〇時半終了。二十二時より打合わせ二十三時終了。翌〇時十分世田谷村に戻る。オフクロが来て自分の部屋で寝ていた。明日は又、説教されるんだろう。

 九月二十六日
 珍しく六時前起床。建築のエスキススケッチしようと思って起きたのだがペンを持って紙の前に身構えたら、全く手が動かない。描くものが無いわけではないのだけれど、どうやらこんな時は言葉で思考した方が良いのだ。スケッチは無意識の不自由さの内に自由そのものである意識(方法)を発見する手段なのが最近解ってきた。今朝の頭・手の状態は言葉向きだなと考えて、山口勝弘電脳ギャラリーの金閣を書き継ぎ始める。早朝の光が差し込み始める世田谷村の食堂でこんな時は何より楽しい。地震が連続している。不安定な大地にもともと揺れながら暮らしている民族だぜ、我々は。昨日、工作社の山本伊吾さんより「夏彦の影法師」送っていただいた。手帳 50 冊の置土産の副題がある通り、山本夏彦の日記、手帳の、息子さんによる公開である。山本夏彦さんを知っている人間にはこれ程面白いモノは無い。知らない人にも面白いであろう。頭が乗って、十一時迄山口勝弘電脳ギャラリー書いた。無駄が一番面白い。他に〆原稿沢山あるのにナァ。今朝の地震は北海道のマグニチュード8の大きな地震だったのが解る。十勝のヘレンケラー塔は無事か。十四時研究室配島工業社長。中国へ行っていたらしく、中国の建材の余りの安価振りに仰天する。日本の建設価格の根底を揺する事になってゆくかも知れない。中国に木製品は無理だと思っていたが、原材をロシアから輸入して、それを加工しているらしい。進行中の朝山邸の総工費に関して話し合い。なんとかしてもらう事になった。十六時半、中国より李祖原到着。やっぱり主が増えると研究室は活気づく。九州の忍田さんよりメールとFAX入る。段々、最適解に近付いている。二十三時世田谷村。

>>世田谷村スケッチ日記 九月二十六日
 九月二十五日
 十時研究室。何も出来ない間に日々が流れているような不安に包まれる事がある。マ、不安は不安として危機感に育てながら、やってゆくしか無い。研究室の民族雑居状態を足が地についたモノにしてゆかねばならんだろう。十一時中国の国内移民の居住を調査してきた陸海の報告を聞く。山口勝弘電脳ギャラリー「金閣寺」書く。十三時教室会議。入江主任体制となる。主任にもっと力を集中させる体制にしなくてはダメだ。小さい学科なのだから。十五時教授会。大学内の政治ゴロみたいなのが大学そのものをダメにしている。

 九月二十四日
 十二寺十五分ホテルニューオータニ。シャープ・デザイン・コンペ表彰式。磯崎さん、喜多俊之さん等と出席。十五時半終了。式後磯崎さんとお茶。批評と理論の連続シンポジウムのまとめに関して。色々なアイデアを話し合う。十七時過ニューオータニ発。研究室へ。二件程打ち合わせ。十九時迄。

 九月二十三日
 朝、ゆっくり新聞に目を通す。昨夕の朝日新聞だったかに、亡くなった倉本四郎さんの大きな囲み記事が出ていた。書評家としてスタートされ最近は作家として活躍し始めていた。私も二、三度本を取り上げていただいた。バラック浄土からの附合いであった。葉山にも呼ばれて行って、痴呆性老人介護施設の建設反対の片棒かつぎまでさせられた憶えがある。建築家なのに建設反対の片棒をかつがせるとは流石に倉本さん、勘がいいなと思ったりもした。その際の集会での私の弁論は仲々さえていたと自慢できるものだった。俺は建設よりも非建設の方に向いているなと自覚しながら会場に居た。その会の後で呑んだ倉本さんに、アナタたちは運動には向かない、素人だと大言壮語して、明るく口惜しがらせたのも懐かしい。それ以来お目にかかっていない内に突然亡くなられた。どんどん血も情もある友人達が居なくなる。血も情もは我ながら、いささか古いが、そうとしか言い様が無い。

>>世田谷村スケッチ日記 九月二十三日
 九月二十二日
 十時研究室。若干のオペレーション。昼食は西谷先生とソバ屋ですきやきうどん。小泉首相人事についておしゃべり。西谷さんは明後日より、しばらくシカゴなので、うらやましい限りだ。半年の在外研究で顔も晴レ晴レしている。

>>世田谷村スケッチ日記 九月二十二日
 九月二十一日 日曜日
 一九九五年八月十六日の究極の家スケッチに重ねてエスキスする。手を動かしているうちに、手が描いてしまう偶然の重なりの中からアイデアが生まれてくる事がある。まして八年前のスケッチの上に重ねてスケッチするのだから、八年という時間のへだたりも又味方してくれる。いくつかのアイデアを得る。いつか、時を待てば実現できるだろう。午後小田急デパートに家具を見にゆく。遅い昼飯のウナギを喰べて帰る。台風が近付いていて雨、寒い位の一日だった。小泉自民党総裁の内閣改造人事が面白い。この人は機を見るに敏だな。勝海舟の如き合目的な思考を貫くところがある。大きなヴィジョンは感じられないが、その場、その時をくぐり抜けるのには自由な才を発揮するんだな。

>>世田谷村スケッチ日記 九月二十一日
 九月二〇日
 朝、徳子、友美から昨夜の柄谷行人・磯崎新等の会の話し聞く。行きたかったのだが学科の件があって、残念だった。しかし二人の話から、柄谷行人の振舞、磯崎新・浅田彰・岡崎乾二郎の話し等、面白く知る事ができた。柄谷行人独壇場であったようだ。元気らしくて良かった。十一時半歯医者。友美と車で一緒に行く道中で、昨日の磯崎新のマレーヴィチに関するレクチャーの概要を聞く。よく整理して話してくれたので理解できた。マレーヴィチの黒と白のイコンの下にはマリア像が描かれていた話は初めて聞いた。磯崎さんは相変わらず知的好奇心旺盛だな。歯医者、知美共々終えて、多摩プラーザの山口勝弘を訪ねる。マレーヴィチの話しの話しを聞いて、その足で遅れて生まれたシュプレマティストの許を訪ねるのも面白い。人生は面白い偶然の集積だ。しかし、磯崎さんのレクチャーにあったというマレーヴィチデザインの高層ビルの上のレーニンのイコンの話し、そのイコンに対するマレーヴィチの意識の仕方の話しは面白い。
 十四時半多摩プラーザに山口勝弘訪問。山口さんはマレーヴィチの黒の下に封印されたマリア像の事は知らなかったと言う。やはりとても関心を示され、再三その話しにテーマが戻るのだった。山口さんはマレーヴィチの黒と白のマリアはブラック・マリアに違いないと言うのだった。十七時半世田谷に戻る。自民党総裁選は小泉首相が再選。

 九月十九日
 七時起床。「歴史と技術研究会」の骨子をボンヤリ考える。技術、特に建設技術と歴史の関係を考えながら、それを現代にいかに持ち込めるか。批評と理論小委員会と双子形式の研究会として発足させられぬか。人間(メンバー)は難波さんに任せよう。保存・再生技術のような事から入れると良いのではないか。歴史的事物と先端技術の共存イメージを示せるかどうか。広島県の方々のカンボジア視察が決まったようで、ひろしまハウスが前向きの支援をいただけるようになると嬉しいのだが。こちらはこちらで努力したい。広島の平岡敬さんから、カンボジアの絵葉書が完成したとの事で送っていただいた。こういう積み重ねを沢山試みてゆこう。完成予想図を平岡さんに送らねばならないのだが、中々難しい。すぐ送りますと言った切りになっていて、これが私の悪いクセだ。十六時半過、千駄ヶ谷へ。加納西谷佐藤入江新主任と機械山川先生と会食。学部再編の件。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十九日
 九月十八日
 昼前研究室。山口先生よりお手紙いただく。留学生海日汗相談。博士を取得したら早くモンゴルに帰りなさい、子供がもう四才になったそうで、東京で育てていては駄目だ。こんな都市でモンゴルの子供が丈夫に育つわけがない、早くモンゴルの空気を吸わせよ、といささか乱暴ではあったが私の考えを述べた。ドイツ、ワイマールより留学生、デービッド来室。セバスチャンに続きタフそうな奴だ。早速プロジェクト担当を決める。台湾中原大学卒の留学生、両親と共に来室。研究室は民族のゴッタ煮状態を示してきた。陸海も中国調査旅行から帰った。十九時、台湾の陳さん一家と新宿で会食。その後車で家迄送っていただく。藤森照信から絵葉書が送られてきて、夏はスコットランドで巨石文化巡りをしていたらしい。縄文から巨石文化へ、遡行の旅だな。

 九月十七日
 六時文春の書評昨夜書き切れなかったのを書く。迷走している世の中で、ガイドブックをつくるのは勇気がいる事だろうが、マこの類のガイドブック建築MAP東京2には害がない。七時過修了。そういえば昨日丹羽太一の友人の千村君からメールがあって一度研究室に来ると言う。家でも建てるのかな。
 十時研究室。一つ打合わせ。室内長井顔を見せる。宮崎の藤野忠利さんより手紙・写真送られてくる。現代っ子ミュージアムの建築再生展の準備にそろそろ取りかかろう。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十七日
 九月十六日
 七時四十分起床。なんと阪神優勝で道頓堀に飛び込んだ人間らしきが五千六百人いたという、何ともはや末世だね。十時研究室。十三時迄打ち合わせ。夜週刊文春、書評書く。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十六日
 九月十五日
 今日は連休らしい。十一時前世田谷村発。研究室へ。秋になって快晴が続いている。十四時研究室発。谷中の古書ほうろうへ。アオキさんと今春のプノンペン以来の再会なるか。外は暑い。JR山手線の片側六つの扉、三人掛シートの車両は良く良く見れば囚人護送者であるな。いかに大量の人間を効率良く収容し排出する事だけが考えられている。西日暮里下車。千駄木、谷中はアッという間に変わった。大通り沿いは中層マンションが乱雑に建つ。典型的なバブル後の東京の風景だ。侘しい。古書ほうろうの前のつけめん屋でしょう油ピリカラつけメン食べる。侘しい。古書ほうろう訪問。プノンペンですでに顔なじみの夫妻がカウンターに居た。照れ臭くあいさつしてすぐ本屋を巡る。きちんと考えられて、整理され、彼等の意欲もそれなりに表現されている。えらそうに言う立場には無いが、良い古本屋であった。R・カイヨワ、エリアーデ、チョムスキー等四冊買い求める。値段も合理的で、我家の近くの古本屋見たいに暴利をむさぼっていない。むしろ安い。私はいささか古本屋の嗅覚は働くので、断言できる。ここはおすすめできる。店内に休息コーナー、試読コーナーも設けられ工夫している。是非一度皆さん行ってみて下さい。今夜は〆切原稿抱えているのでゆっくり出来なかったが、一度夫妻とメシでも喰いたいものだ。
 阪神タイガースの優勝が決まりそうで、自民党総裁選の報道はそっちのけで、TVはタイガース一色。これじゃ北朝鮮の報道、その他を笑えないと思う。しかし、ジャイアンツ優勝よりは余程イイ。二十一時前室内原稿書き始める。高橋悠治の事から書き始めて、結末は解らない。未定のママに書く。何とか書き終えたのが翌一時半前。こういう時は眠れぬのを知っているので少々読書で頭を休める。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十五日
 九月十四日
 十一時過、護国寺桂昌殿。GKデザイン機構代表西澤健氏告別式。榮久庵憲司さん弔辞、流石に痛切であった。突然の死であったようだ。西澤さんとは度々GK関係の会でお目にかかった。弔辞にもあったように少し、土の匂いがする朴とつな人柄の方であった。榮久庵さん率いるGK王国の大番頭であったように聞くが、榮久庵さんにとっては痛いだろう。明後日から海外出張だと秘書の小野寺さんから聞いたが、何もなければ良いが。十三時告別式、焼香を終えて、すぐ帰宅する。今日は日曜日だ。

 九月十三日
 十時半大学面接。十一時半ナカミツ建材、中島氏来室。打合わせ。十三時入江主任、西谷先生相談。十五時十勝打ち合わせ。十七時北九州、忍田さん来室。打ち合わせ。十九時半迄。二〇時過新大久保駅近くのタイ料理屋で会食。二十二時前了。
 京王線四人掛中一人もケイタイ、ピコピコ無し。ただし、目の前に立つ男二人がピコピコ人であった。ピコピコ人の特色は、どう考えても電車の中にまでピコピコ持ち込む程忙しい、せっぱつまった如くの人間らしからぬが、ピコピコやっているんだナア。

 九月十二日
 七時四五分起床。目ざめる時間に振れが出てきた。流石に朝の京王線車中でケイタイピコピコ族は少ない。夜に多いと言う事はやはり、ピコピコの殆どは私事なのだろう。私事を他愛なしとするかどうかは価値観の相違だ。郊外から都心の旧来の目的地へ向かう時にピコピコは出現しない。目的から解放される時間に多く、ピコピコは発生する。私語の拡張現象か。十時過大学。十四時日経取材。十五時半鉄骨打合わせ。十七時TVプロダクション元太田氏来室。相談。高田馬場で会食。太田君はNHK国宝探訪で知り合った人間で、TV番組作りに独自な夢を持っている人である。こういう人が延びて、力を持って欲しいと、つくづくと思う。
 二十二時前京王線新宿。今夜は四人掛けの席に、一人ケイタイ、ピコピコ(男)。この男が同時に好調レモンなる缶ジュースを飲む。座っている私の前に立つ女が、ケイタイ、ピコピコ。しかし、今夜はまだ狂気の沙汰ではない。前に立つ、ピコピコ女の隣に立つ、少しばかり年を経たワニならぬオバさん、異様な事に雑誌「室内」を三冊まとめて、かかえている。これは室内編集の女なのかといぶかしむが、その気配も無さそうで、どういう女性なんだろう。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十二日
 九月十一日
 六時前起床。ゆっくり新聞を読む。自民党野中広務の引退表明をどうやら冷ややかに各メディアは受け取めているようだ。時代は動いているのかな。昨日鈴木先生に送って頂いた資料に眼を通す。歴史というのは、特に近代史は面白い、実に。八時過までスケッチ。十時大学。「建築史の先達たち」読了。十九時過まで、打合わせ。二〇時四〇分京王線。今日は目前の七人掛けの内、四人全部女性がケイタイピコピコ族。勿論全員非美人。本当にケイタイ女は美とは縁の無い人が多い。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十一日
 九月十日
 建築史の先達たち、まだ読み切れない。ブツブツに切れた時間で読んでいるからかな。十一時大学打合わせ。十四時GA杉田君来室、小さなインタビュー。十五時半忍田邸打合わせ。十七時半難波和彦先生来室。十八時過新大久保駅前そば屋で会食。五年後のアイルランド旅行のディテールをつめる。そのアイルランドの旅の為に「技術と歴史」研究会を東大難波研究室主催で設立する事になった。二十時半過世田谷村に戻る。鈴木博之先生にお願いしていた資料が届いていた。

>>世田谷村スケッチ日記 九月十日
 九月九日
 朝、昨夜の読書の続き。日本建築史の創生は工部大学校辰野金吾がイギリスにヨーロッパ化=近代化を学びにおもむいた際に、バルジス師より、日本建築を問われ、答えに窮し、ロンドンでヨーロッパの建築を学ぶのも良いが、先ず母国の建築を知るべし、とさとされたのが、始まりだった。それを伊東忠太が辰野金吾から聞いた、というような事が発端であったようだ。つまり、近代化の為にヨーロッパに西洋建築史一般を学ぶことの必然から、日本建築史の必然が生まれたという事だ。これは今に続いてもいる。
 十時大学、配島工業、大工さん、板金屋さん打合わせ。十二時終了。十四時東武緑地、中川さん打合わせ。建築設計は雑事の固まりだ。十八時世田谷妙高寺会館打合わせ。十九時世田谷村来客。

>>世田谷村スケッチ日記 九月九日
 九月八日
 五時過起床。家内に運転してもらい、富士山へ。聖徳寺現場で富士ヶ嶺造園のオヤジさんと会い、短い、アッという間の打合わせ。オヤジから松タケ、いただく。三町歩(九千坪)のオヤジの土地を見せてもらい、本栖湖ホテルでコーヒーの後、世田谷に戻る。十時十五分世田谷着。十二時二〇分大学。スケッチ。十三時三〇分から二十一時四〇分迄連続打合わせ。飯も食えなかった。
 二十二時二〇分過京王線新宿。空腹である。太田博太郎「建築史の先達たち」読む。そもそも建築史学の草創期の事情を知りたいと思って、友人にすすめられた本だ。面白い。

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 九月七日
 朝四時迄、ポール・ヴィリリオの情報エネルギー化社会読む。半分読んで休み。書かれている速力が仲々馴染まない。恐ろしく俗論であるような気もするが。次女友美の読書傾向を介して少々、今風の世界に入り込んでみる。昨日、山口勝弘先生から、感動的なファクスが入っていた。こういう交信の存在はポール・ヴォリリオの言説を少々疑わせるに足るな。九時過起床。ポール・ヴォリリオの速度と政治読む。TVで総裁選の猿芝居を見ながらであるが、政治家達のTVメディアでのライブは、政治家の人格、品性を露出させている。つまり、ヴォリリオ風にいえば、政治家はメディアの速度に耐え切れぬ存在になっている。かく言う私も昨晩読んだメディアにすでに侵蝕されているのだな。ハダ寒いくらいの日曜日である。十三時寺町妙高寺打ち合わせ。十五時戻る。テレコムスタッフの方来訪。NHK土曜フォーラムの取材の下見。セルフビルドの原稿。静岡、清水市の井木ガレージを書く。十八時半書き終える。一人で居る世田谷村は静かで虫の音が耳にしみる。二〇時頃、気が付いたら月下美人の大輪一つ咲いていた。強い香りが部屋に充満して漂う。長女徳子アメリカより帰る。又、ニワトリみたいにうるさい女が一人ふえて、私は身の置き処がなくなるな。二十一時四〇分宗柳で夕食、かけそば、そぼろ御飯、だて巻き卵、ビール、食して戻る。

 九月六日
 今日は取材があるので世田谷村の片付けをジタバタやる。この乱雑降りはチョットやソットのものではないが、家の者全員の性格が良く表現されている。前は見るのだが後を見るのが不得意なのだ。片付ける、守る、そういう事に誰も関心がない。時々の取材は家の中の整理整頓に取っては有難い。十時半銀花編集部青戸さん来る。色んなおしゃべりする。十三時二〇分まで。青戸さんは、伊豆の長八美術館以来の附き合いの人だが、最近は御縁が無かった。久し振りで楽しかった。十五時研究室M1ゼミ。ファンタジーと社会背景。それぞれ、SFが描く疑似リアリティ、これは外れて惑星ソラリスと二〇〇一年宇宙の旅に移ってしまった。イギリス幼児文学、 ex AAミルンとくまのプーさん。ハリーポッターの商業的成功の意味。ディズニー文化とイギリス・ファンタジー文学。という四つのテーマについての発表があった。良く調べてはいるが、身近なテーマ(それが結局発見出来ぬ事に問題がある)に引寄せる、つまり自分の問題として考えられぬ空虚さが露出してしまっている。良いテーマだと思うのだけれど残念。前回の3Dフェイズ、アポロ十三号、南極昭和基地等と連続して考える事が出来たら良かった。二十一時三十分過京王線。今日は七人掛けの席にケイタイ抱いているのは学生男一人。明日は休みだ。原稿書くぞ。

 九月五日
 六時五〇分起床。昨日書いた「現代の特質」読み直す。今度は大丈夫かな。十時大学。家内が桜楓会の仕事で目白に出掛けるので新大久保まで一緒だった。朝食はおにぎり二ヶ。
 山口勝弘先生より、FAX通信あり。金閣寺の資料送られるのを待っているとの事である。先生少しヤル気出てきたな。十三時昼飯冷し中華。自由じゃないな、俺の昼飯は。カルティエから送られてきた冊子読む。芸術の側面からのアジア文化論。フェノロサから浅田彰まで、多彩だ。企業誌であるから日本に対してシニカルな観方は極力ひかえられてもいる。十四時過、TV番組制作会社来室。世田谷村とエネルギーに関して。十六時半朝山さん来室。♯5住宅打合わせ。担当させていたスタッフは力不足過ぎて外す。仕方無い。邪魔は邪魔なのだ。二十一時半、京王線桜上水通過、七人掛けの座席7人中4人がケイタイで遊んでいる。五十前位のオバサンがピンクのケイタイで十分以上遊んでいるのには驚いた。しかし、残り三人は文庫本を読みふけっているのも、不思議だナア。

>>世田谷村スケッチ日記 九月五日
 九月四日
 午前中世田谷村で原稿書き。十一時半修了。渡辺保忠先生の「工業化の道」についてのエッセイ。工業化の道について書くのに、前振りが長くなって、結局本題は一、二枚になってしまった。私のエッセイの全ての特徴だなこれは。書きながら、田辺泰、渡辺保忠両先生を懐かしく思い出した。焼魚、納豆、鳥肉の唐揚げ、御飯の昼食を一人で食べる。晶文社からもらった五十嵐太郎の戦争と建築読む。パラパラと読むのが合う本だな。しかし博識である。晴れてはいるが暑くはなく、良い風が吹き込む世田谷村で、午後は本格的な書く事に当ててみようと決めた。塩野七生のイタリア遺聞を二、三拾い読み。これはパラパラじゃなくって、短いけれども拾い読み、をする。TVをつけてみたら、ひどい時代劇をやっていてあわてて消す。仕事の前に、少し本を読みたい。十八時「現代の特質」を再び書き始める。今度はやっつけてしまおう。

 九月三日
 十一時過京王線車中。左隣りの学生が分厚い漫画本を、カン入りコーヒー飲みながら読んでいる。ヘッドホーンしてるから、何やら音楽も聴いているのだろう。斜め向かいの女の子がケイタイをピクピクしている。そのケイタイにはデッカイ、マスコット、ケイタイと同じくらいの、アレは不二家のペコちゃんらしきが垂れ下がっている。ペコちゃんがペコちゃんぶら下げている図だな。しかし、車中で化粧している女に全く美人が居ないのと同様、ケイタイ車中で使う女に美人は皆無だな、皆、風俗関係者に見えてしまう。ケイタイはある種の自己露出型のマスコットなんだな、すでに。自己露出の自己許容度によって品格がおのずと知れるのだ。  十二時研究室、幾つかの打ち合わせ。十八時迄。スケッチ少々。プノンペンの渋井さんから連絡があり、ひろしまハウスでの音楽会は難しいだろうとの事。別の場所を探す必要があるかも知れぬ。日本での寺院での催しの可否と、カンボジアでのそれとが異なる事情があるのは理解できる。
 雷が鳴りひびき、雨が降り始める。秋なのに、梅雨明けの感じ。二十一時五〇分京王線桜上水辺り。雨その他で電車が動かず、新大久保駅のソバ屋で足止め。

 九月二日
 九時半頃京王デパートの地下階をいつもの通り歩いていた。そうだなあ、身長百五〇センチメーターに満たぬ様な八〇才前だろう老女が一人ゆっくりと歩いていた。背中に趣味の良い小さなバックパックを二つ背負って、おまけにシースルーの黒のショルダーバックも小いきにかけて、細身のステッキをついていた。その姿が誠に魅力的で、顔を思わず振り返ってみたら、女性なのに孔子みたいな顔をしていた。ゆっくり歩いている速度と姿が本当にピッタリとしていて良かった。何者なのだろう。山口勝弘先生に電話する。自画像シリーズを始めたので見に来いと、お元気であった。十時研究室。十時半梅沢良三先生来室。十勝その他の構造の相談。相変わらず梅沢さんの打ち合わせは速い。オーストリアの学生来室。来年よりの入室希望者である。
 研究室のH・P編集者である丹羽太一の初めての編集雑記を今日初めて読んだ。不思議なもので、今、常日頃丹羽太一と同じ研究室という空間に居て、生活、勉強、仕事をしていても、私達は濃密なコミュニケーションは仲々発生しない。それはある種のわずらわしさを生み出しかねないからだ。学生達のディスコミュニケーションとは程度が違うが、私だってディスコミュニケーションの安楽さは時には好ましい。
 丹羽の編集雑記を通読して、彼が私のやっている事、やろうとしている事を客観的に把握しようとしているのを知った。これは私に対する質の良い批評である。同じ室に居ながら彼の文章をコンピューターで読む事で、その事実を理解するという、面白い狭間を、日常空間の中に発見することが今日できたのだ。要するに、山口勝弘の日常報告のようなものの内に、丹羽はワークス・フォー・マイノリティーのもう一つの枝を視たのである。指摘されてみなければ、余りに自明な事過ぎて、フッと通り過ぎてしまうところであった。ともあれ、編集者である丹羽の視点、思考が本格的に加わる事で、ようやく私のH・Pはチョッピリ厚みを増し始めたように思う。
 十四時晶文社島崎勉さん来室。書き下ろしの相談。いよいよと言うか、そろそろなのか、書き下ろしで一冊の本をまとめなくてはならぬ時だ。「秋葉原感覚で住宅を考える」をはじまりにして、ここ十年の総まとめを試みたい。年末までに百枚書くノルマにした。開放系技術論を中学生でも読めるような書き方で、まとめられないかと考えている。十五時早稲田大学事業部来室。コンバージョンの件。十六時大成建設来室、又もコンバージョンの件。二十一時前、曙橋より都営地下鉄線で烏山へ。彰国社でコンバージョンの座談会を終えて。今日だけで三件のコンバージョンに関する来客取材であった。今、私がやっているコンバージョン物件を介して一番大事な事は私のところがユーザー=消費者達の組織者の役割を果たそうとしている事だろう。二十二時過世田谷村に帰る。月見草と雑草をかき分けて家に。短い、たかだか十数メーターのまさに廃園の雑草の小径を帰るのだけは、贅沢だと思うね。
 TVニュースが自民党の総裁選の経過を伝えている。反小泉に結局、藤井、高村、亀井の3名が立つことになるらしい。それぞれがそれぞれの主張をTVで述べていたが、それを紹介する女性アナウンサーの方が品格、知性共に優れているように感じられた。この三名は猿だな。しかし、政局は揺れるだろう。我々には予測もつかぬ事態が起こるのではないか。小泉首相は少なくともマスメディアの使い方、共調の仕方を本能的に知っている。この三人はそれさえも知らぬのがTV画面から一瞬の内に伝わってくる。

 九月一日
 十時研究室ミーティング。研究室の方向性を示すために現代に関しての歴史的雑感を述べる。我ながら熱が入り、四十五分の演説になってしまった。研究室内のディスコミュニケーション状態を大正時代に始まりをもつ都市サラリーマンの大衆性、それを基盤とした大正デモクラシー、大正ロマンの女性原理らしきものとの類似から始めて、説いた。 スタッフ、学生は何の為に私がかくも吠えているのか、不可解だろうとは考えたが、でも吠えてしまった。
 昭和の世界大戦の参入は大正期の余りの平板な平和に因があった。その歴史を参照すれば二〇〇三年現在の混迷と平和は再びそのようなクライシスを呼び起こす因であると考えざるを得ない。大正後半期、日本が政治・経済両面に於いてパリ講和会議以来の二〇世紀的世界システムに適応できなかった事を思い起こさねばならぬ。今の日本の混迷は湾岸戦争以来、九・一一NYテロリズム、アフガニスタン、イラク戦争と続く二十一世紀的無秩序に全く対応できぬ事から起きている事である。北朝鮮の核の問題は深刻な問題である。いついかなる戦争が起きてもおかしくはない。オウム真理教事件の危機体験を経ているというのに、実に我々は政治に鈍感な民族である。十五時半ミィーティング修了。今日が最期の全体参加スタイルの会合であった。教育は膨大な徒労の上に築かれるか、と君子の振りをしてみたくもなる。
 博士課程の三名の論文相談。流石に博士課程の論文相談は少々ハードだ。中国の庭園研究、モンゴルのゲルのオリエンテーション、日本の家政学的住居学、それぞれ面白いテーマなのだが、私のテーマとは皆少々離れている。モンゴル民族史とコスモロジーなんて面白そうだけれど、もう手を延ばしている時間は無い。GA・HOUSES原稿書く。
 山口勝弘先生のところで撮ったスライドの現像が出てきた。良い感じでとれている。言うも恥かし、俺は写真上手いのかも知れない。早速一葉選んでコメントを附してみる。
 二一時四〇分、京王線新宿駅、電車の中で立って発車を待っている。隣のサラリーマン風男二名、OL風女性二名ケイタイをピクピクさせながら、しゃべくっている。別の人間とメールしながら会話している。ケイタイの使い方の話しだ。座席に座っている人間もほとんど皆ケイタイをピクピクさせている。この人達はここに居ながら、ここに居ない人達なのだ。車内通勤空間のリアルさはそれによって遊戯空間に変化している。なじめない。世田谷村に帰る。雑草が生い茂る中をかきわけて玄関へ。草の匂いが息づまる程で少々元気を取り戻す。

2003 年8月の世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
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