石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年10月の世田谷村日記
 九月三〇日
 今日で九月も終わり。毎日がまばたきする間のスピードで過ぎ去って行く。
 李祖原と打合わせ。胡倩の修論のテーマは面白そうだ。十五時より製図。李、鈴木了二、森川K、川上氏と共に。十八時八大西山社長、村瀬氏来室。打合せ。左官再生の件。十九時頃新大久保で会食。西山氏と村瀬氏は高校時代からの登山部仲間である。五〇年位の附合いになるのかな。ハタ目に見てもその関係は良いものだ。李は明日、台北に戻る。彼とは打合せの連続の一週間であった。お互いに御苦労様。
 九月二十九日
 再び李祖原と議論の連続。北京モルガンセンターよりファイナル工事進行スケジュール送附されてくる。今度はこちらが頑張らねばのプレッシャーがリアルに重くのしかかる。二〇〇七年六月に外側を全て完成させるスケジュールだ。つまり北京オリンピック一年前である。O邸現場渡辺打合せを挟んで、午後もズーッと李祖原と話す。昨日、話し過ぎて、私はのどがいがらっぽくて調子いささか悪いが、李は今日もタフである。彼の持続力は驚くべきものがある。ある日、こざかしい事考えついてみても、それを何年も持続させる力こそが問題なんだ。十八時前、研究室発。早稲田リーガロイヤルホテルへ。李も同行。建築学科教室主催の村松映一さん竹中工務店代表取締役副社長就任祝賀会。百数十名を超えるOBが集まった。池原義郎先生に久し振りにお目にかかる事が出来た。
 九月二十八日
 午前中から十九時前まで、李祖原と七時間ぶっつづけでミーティング。北京Pその他。その間に気仙沼の昆野武裕氏、ワイマールのコーネリア、ピーター来室。十九時過新宿でフィンランドの件打合せ。
 今日は一日中ほとんどCY・Leeと議論していたので充実した一日だったが疲れた。北京の Mr. Kとも話した。彼とも長い附き合いになるのだろうか。
 九月二十七日
 九時再会した李祖原と打合わせ。北京の件他。十一時半打ち切り、Sさんとの待合わせの場所へ。十二時過発。軽井沢の現場へ。十五時前、軽井沢着。現場で打合せ。十七時過修了。棟梁が良い仕事をしてくれた。軽井沢で夕食をごちそうになり、帰京。練馬で別れ大江戸線、京王線を乗り継ぎ、二十二時半頃世田谷村に戻る。
 九月二十六日
 六時起床。新聞読んで、一人で食事して、七時前出る。新大久保駅で渡辺と出喰わす。朝早いミーティングもたまには良いと思って早出を試みた。犬を連れた甲州屋の面々にも途中会った。皆、色々に工夫して生きてるナァ。八時より北京ミーティング。
 九時半ミーティング修了、作業に入る。プロジェクトの骨子をビルボードとして表現する方法に取り組む。今夜李祖原来日する予定なので、出来れば議論したい。早く、この状態から離陸したいが、仲々助走状態から脱するのが難しい。ファイナルの工程表さえ明示されれば突き進むのだが、北京は近いようで遠い。マツダ店舗開発機構野口社長と連絡。ロシアの件。自動車会社の世界戦略はデカイ。これも又、簡単には動かぬ。
 九月二十五日 日曜日
 終日沈没して、読書。体力は欲しくないが、気力は欲しい。しかしどうやら、二つは結び付いているらしい。そんな俗論にも真がある。
 九月二十四日
 ひろしまハウス、ヘレン・ケラー記念塔、星の子愛児園、ツリーハウス、国連プロジェクト、富士嶺観音堂、西早稲田観音寺、マザー・テレサ死を待つ人の家。今日、午後の設計製図レクチャーの素材である。自分なりに筋道は明快に立っていると思うのだが、学生に通じるかは不明。でも、これは伝えなくてはならない。十八時半終了。スタッフと打ち合わせ終え二十二時半世田谷に戻る。
 九月二十三日 秋分の日
 十六時研究室。北京Pミーティング。十七時半修了。
 九月二十二日
 穏やかな曇天。K氏昨日香港より北京に戻ったと李祖原より連絡あった。オリンピックサイトの現場が再開されるのを待つだけだ。二十一世紀型農村研究会、第一回の記録が出来上がる。友岡君の努力で四十ページの面白いモノになった。参加希望者に頒布する。
 モルガンセンターのK氏にTEL。どうですか?ビジネスは?ノープロブレム、全て上手くいっている。今週中に工事スケジュールは知らせましょう。政府のバックアップも OK で中日ビジネスのモデルとしてやる事の了解もとったとの事。全く、繰り返すが、動じない人物である。十三時過休み明けの教室会議。修了後陸海の博士論文審査分科会。その他。深夜迄。
 九月二十一日
 北京Pでは我ながら困難な問題に取り組んでいると思う。もっと楽すれば良いのにと思うが、コレは直らぬクセだから、仕方ない。今朝はおだやかな光が満ちている。十時半よりゼミナール。
 アンコールワットより今朝帰日した中川武先生と昼食。十四時過北京ミーティング。十七時前迄。台北の李祖原と連絡。仲々中国組はタフだな。見習いたいが、難しいだろう。あの動じなさは並のものではない。
 西調布で用を済ませ、二十二時半頃世田谷村に帰る。
 九月二〇日
 久し振りの曇天で気持ちよい。山口勝弘さんからの幻のFAXはついに手元には届かなかった。届かなかった事が山口さんからのメッセージであったのだろう。高齢の友人を持つと。次第にこういう事が多くなるのだろうと思う。何かの想いを送ったその気持ちだけがリアルにあって、実際に送ったかどうかは二の次なのだろう。品格があるよね、こういうズレには。会いに来いと言う事だろう。

 山口勝弘は今、多摩プラーザに幽閉されているのだと、自分で言っていた。今流行のニートだな。自分への意志だけは激しい。しかも身体は不自由なニートだ。若いニート達は、この老ニートの激しい意志に一度でも接したらよい。自分で自分を幽閉する事の不自然さを納得できるにちがいない。
 十六時過迄、北京Pミーティング。中国に関しての日本の投資はすでに冷え切っているという話しも入ったが、長い眼で見れば、やはり中国との関係は重要である。その後、渡辺・石井と現場のミーティング。無駄話し。少しづつ、育ってくる人もいる筈だ。

 九月十九日
 午後、用事があって成田空港へ。朝は数冊を乱読する。鎌田慧から辻邦生まで。辻邦生のモノは二度目の通読だったが、少し理解が進んだ。安土往還記で辻邦生が書きたかったのは信長とキリスト教宣教師達との間にあったある種の共感だった。理にかなう事への意思の有無への自覚である。安土城の炎のページェント、そしてその炎の安土城の聖堂への噴流とも言うべきクライマックスの情景は生身の辻邦生の穏やかさ、沈潜静寂をいささか知る人間にとっては余りに激しく、余りに熱いが、それが辻邦生の核なんだと良く解った。西行花伝に流れるものも、その激しさだ。軽井沢の辻邦生の夏の家は磯崎氏の夏の家に隣接してある。辻さんが亡くなってから初めてその中に入った事がある。印象的だったのは、その内のほのかな暗がりの連続であった。謂わゆるモダーンな建築には無い暗さである。闇と呼ぶ程に大仰なものではない。しかし歴然とした暗さが在る。樹々の緑の向こうに浅間山が見えた記憶がある。この、ほの暗さの連続は磯崎と辻を結びつけるものであった。今ようやく、その事が良く解る。
 九月十八日 日曜日
 山口勝弘先生と電話で話す。元気そうであった。午前中墓参り。その足で三軒茶屋の保坂展人の選挙報告会へ。保坂邸は故毛綱モン太設計である。会は社民党支持者で溢れていた。年寄りの女性達にはある種の品格がある。旧社会党の浅沼稲次郎(山口二矢に刺殺された)、鈴木茂三郎といった指導者時代の名残りが漂うのである。背を丸めて会場にたたずむ老女達にはその歴史が匂う。しかし、男達がかもし出す雰囲気は圧倒的に良ろしくない。何しろ品位が無い。マイナーサークルのパーティーの印象しか無い。保坂だって衆議院議員なのだ、レッキとした政治家である。それが、こんな負け慣れした連中だけのサークル的パーティやってては駄目だ。先ず、とり巻きを一変しなくては、社民が戦う姿勢を示さなければ、何の価値もない。フリーター、ニート、障害者、そして差別を意識する女性しか、支持基盤が今無いとすれば、それをもっと明快にして、党の再組織化を進めるべきだろう。
 九月十七日
 九時二〇分新宿で打合せ。十一時過五反田で友岡社長と打合わせ。十四時過迄。友岡氏は私のクライアントであるが、率直な意見を述べた。趣味の悪さは少し直していただかないと附合えない。お互い、ある程度の年令に達している人だから、あんまりガツガツするのはコントロールしたい。趣味は思想なんだ。十四時半研究室。コンビニ弁当の昼食。十五時公開講評会。十九時半迄。新鮮さは伝わってこない。二〇時半迄、先生方と談笑。バウハウス建築大学からの学生とおしゃべり。今日は二次会は参加せず、お先に失礼して帰る。久し振りに、目一杯な一日であった。今日は午前中に会った友岡社長の心中察して余りある。社長業は本当に孤独なのだと思う。
 九月十六日
 設計の課題に現代の避難所としての寺(聖堂)、ホスピス等の機能の複合施設を課す事にした。敷地は東京女子医大隣の神経精神科棟を含む一帯。リノベーション、コンバージョン、新築共に全て認めるというもの。仏教界、キリスト教界等宗教界の協力を得て、展覧会他の実現に向けて組織化してみようかと、フッと考えついた。
 広島の木本君と久し振りに電話で話す。木本君は一人で山の中の作業所で鉄と対面、格闘している。偉いな。私なんかは東京のアブクだな。私だって細々と銅版と絵はやはり続けたい。木本君のたゆまぬ歩み方というのは何が支えになっているのかなと時々考える。木本一之、十牛図の歩みだな。
 午後九州O邸渡辺と打合わせ。松下電器産業富山氏空調打合わせ。地球環境も大変な事になった。打開できるのかなーと話し合う。このプロジェクトは各方面のプロフェッショナルが集まったので面白く進められている。
 十八時過室内長井氏来室。十月号より始まる連載の打合せ。その他。十月から始まる連載はチョット気合いが入っている。出だしは、ミッキー・スピレーン風にやってみた。古いネェー、我ながら、今更、マイク・ハマーだものね。しかし、今更この年で、どうなったっていいんだもんね、の覚悟なのだ。李祖原に読ませたいものだ。二〇時より、近江屋でスタッフと一息つく。
 九月十五日
 複合機能としての「寺」の可能性を考えてみる。これまでも考え続けてきたし、まとめる時期だろう。学生の課題にも出してみる。税金による公共投資としての建築とは土台が違う、しかも共同体の見えない核になり得るような。
 九月十四日
 風さわやかな朝。秋だな。十時半ゼミナール。十三時半左官再生プロジェクトの予定。
 ゼミ修了後、左官教室小林氏、水戸の根子左社長根子氏と会談。左官職再生計画のはじまりだが・・・。全国には数万の左官事業所がある。その十分の一を組織化できれば、途方もないネットワークが出現するのだが、それを直観的に把握し得る人材が業界にいるか、どうか。IT屋であればすぐに動くだろうが、たちどころに各事業所の人的ポテンシャルに関してクールにつかみ取ろうとも、するだろう。この計画は職人の脱近代的組織化の問題である。マア出来るかどうか解らないが、取り組んでみるつもり。修了後、小林さんと食事。十七時半迄。
 九月十三日
 朝府中八大建設西山社長と会う。昼過ぎに研究室に戻り、午後モスクワの件で大学と打合わせの予定。日本の選挙も変なところがあるが、アメリカのニューオリンズの洪水も変なところを浮き彫りにした。白人黒人有色人種の根深過ぎる差別の問題だ。全く、事件というのは世界の切断面を一瞬の中に露出する。
 十二時前西山氏と府中でソバを喰べながら「寺」の話し。良い寺をそろそろ手掛けたいので二人で、どうしたらいいんだろうなとつぶやき合う。O邸のメンテナンスは施主の理解もあり、上手くいっている。オリジナルよりグレードを上げて再生するだろう。
 九月十二日
 一夜明ければ、世はなべて事もなし。でも、しかし、この選挙での我々の集団的ブレ方は危いところがある。しかし、歴史の節目になる大事件である。
 伊豆西海岸松崎大沢温泉ホテルの依田博之氏から、手紙、資料届く。井伏鱒二、三浦哲郎、山口瞳各氏の大沢へのエッセイも送られてくる。今和次郎と大沢温泉との縁も解った。今和次郎は東奥義塾で学んだとの事。東奥義塾はモスクワの若松氏の祖父の創設と聞いているから、多分若松氏と今和次郎は何処かでつながっているのかも知れない。随分前になるが青森に馬の博物館を作りたいという人が居て、呼ばれて行った事があるのを思い出したりもした。あの時も今和次郎の話しが出た記憶がある。
 三人の文士の大沢温泉に関するエッセイは三様で面白かった。高校時代同級生に文士の息子が多かった。井伏君もその一人で実に父親と瓜二つの顔をしていた事などとりとめもなく思い出した。
 九月十一日 日曜日
 午前中投票へ。投票所にはこれ迄にない人の集まりや行列があって何か変だぞの風がある。世田谷文学館で紅茶飲んで一休み。十九時よりTVの前に釘づけになり、選挙速報。開票と同時に出口調査が報じられ、地崩れ的な民主敗北、小泉自民大勝が報じられる。そのままアレヨ、アレヨという間に勝敗が決してしまう。
 九月十日
 午前中休む。山田脩二に電話、昨日の鈴木君のお別れ会の事。もう少し、静かに送ってやりたかった。彼だって早く忘れられてしまいたい位の悲哀の中にいたのだろうから。御両親、兄妹の方々にもお目にかかったのだが、皆さん彼と顔がうり二つで驚いた。家族というのは不思議なものだ。十六時研究室にてモスクワの若松氏と打合せ。モスクワ、世界貿易センター内に研究室の開設準備室開設完了。
 十七時半古市 Jr 来室。彼は我々の世代が作り出した人間の典型の一つタイプだ。彼と対面すると、ある意味では自分達が創り出した世界の一部と対面している様な気さえする。二〇時過まで。もっと話してみたかったが、切り上げた。
 今晩から明日にかけて衆議院選挙の結果への序章で狂騒の時になるだろう。今回の選挙騒動で興味深かったのは政治家達それぞれの品位見識というよりも、TV、新聞を介して知る事ができたジャーナリストも含めた、日本の一定な知識人達のそれが露出された事だろう。改革の表面的な意味だけが問われ続けたが、本来は保守の意味こそが問われなければと思うが・・・。保守という概念こそが革新的な価値を持ち始める困難な時代になった。まさに建築が対面している問題と同一なのだ。
 九月九日
 十一時過、五反田桐ヶ谷斎場、鈴木隆行君別れの会。鈴木隆行君へのお別れは昨日のコラムに書き残したので、もう死顔は見なくても良いかもと思ったのであるが、ふん切りがつかないでいる。
 五十二才といえばウィリアム・モリス主義者を自称していた小野二郎と同年である。小野二郎と比べれば無名のままに彼は死んだが、死んでしまえば無名有名は関係ない。ただ誰がどのように、鈴木君を記憶しているかだけが、生き残る。歴史というのは膨大な死者の記憶の集積であり、記憶装置の全体的呼称だ。マ、こんな無駄な事メモしてるよりは体動かした方が今の身体には良いから、やっぱり死顔見るのに出掛けようか。しかし、葬式に行くのも結婚式に行くのも、考えてみれば同じ事なのだ。結婚して子供が生まれるからその子が成長して、やがて死ぬんだから。誠に馬鹿馬鹿しい事ではある。
 午後、たまたま鈴木君の別れの会で会った新建築の佐藤君と一緒に研究室に帰る。十四時海光君のインタビューらしきと対面。十六時、照明デザイナー長町志穂さん来室。九州O邸の照明打合わせ。二十時前修了。近江屋で会食。二十二時過おわり、二十三時半世田谷村に戻る。〇時半ねむる。
 九月八日
 台風去り、空高く澄む。昨日の疲れが残っているが、元気を出して研究室に行こう。
 九月七日
 朝、ANYの開放系技術ノート、とりあえず中断する。書き続ければ際限がない。昨夜、講談社Sさんからいただいた中沢新一の「アースダイバー」読む。この人は才人だ。才人、才に溺れなければ良いが。台風十四号が日本海にまだ居る。アメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナ他の地球の災害は異常なように思うが、本当は古代からこういう事は繰り返されているだけで、ただ我々は情報通信の進歩でよくそれを知るようになっているだけかも知れない。
 今日は午後、結城、甲斐両氏と第一回の農村研究会
 十五時過、結城、甲斐両氏来室。第一回二十一世紀農村研究会開催。討議参加者は石山を含め三名、他、サポーター五名程。第一回の研究会は最小人数でスタートさせようと、そして、それぞれのメンバーの個人の歴史を介して、どうして事を始めようとするのかの、率直なそれぞれの土台みたいなものを話してみよう、それなくして、会は成り立たぬとの考えがあったので、そのようにした。沢山の参加申し込みがあったのだが、第一回は梅干しの種を固めようという事だ。多くの参加希望者には申し訳ない事をしたが、先ず主催者サイドの気持をゆるやかに確認したかった。来る者は拒まず、去る者は追わずの原則は初めから決めていたので、気を悪くしないでいただきたい。二十二時過ぎまで。良い始まりの集りだった。
 二十三時半世田谷村に戻る。
 途中で、山田脩二が何かの取材の人を引連れて乱入したのも面白かった。しかし山田さんは変わらぬ人だな。元ダムダンの鈴木隆行氏、死去の報入る。彼は、短い人生であったが、精一杯生きたと思いたい。しかし、哀しい。彼は、良い仕事師だった。
 九月六日
 昨日は午前中北京Pミーティング。夕方より丸の内でミーティング。二十二時迄。本日は十三時半広島大学学生来室。好青年であった。石山研ゼミ。学生と久し振りに接する。学生というのは時々しか会わぬと、その成長振りに新鮮に驚く。ところがいわゆる先生は、それが無い。いわゆる先生である私は、誰かからそんな忠告を受けたが、その言を意識しながら話しを聞いてみたが、やっぱり俺は鈍いのか、あんまり変わっていないとしか思えなかった。十七時S氏来室。北京P、出版事業の件。李祖原より連絡あり。二〇日過にファイナルスケジュール確定との事。
 九月四日 日曜日
 あと十五年何とか生き生きとやってみたいが、その為に何を土台に据えねばならないか。十五時研究室打合わせ。
 九月三日
 Kさんに二時間弱車で送っていただいた。Kさんは十九才になる障害を持つ子供さんを持つ。だから車はBOXカー、それを改装して自分の運転席の隣に寝たきりの子供の頭が位置するようにしている。今日はその子の姿は無かったが、この車の室内の風景は圧倒的なリアリティーがあった。Kさんは生まれながらの障害児を産んだ時絶望の淵に沈み切ったというのを前に聞いた事がある。Kさんは今四十六才。そんな絶望を乗り越えて、実に他人に親切に、献身的な生き方の筋を通しているように思う。Kさんには敵わないな。夕方世田谷村に戻り「開放系技術論ノート」を書く。思いがけずはかどった。
 九月二日
 午前田代邸。午後、北京・スペシャルカー打合わせ。夕方よりNさんの予定。
 昨日は左官事業所の現状をうかがえて良かった。職人世界全体にはもう何も出来ないけれど、せめて左官職の世界にだけは何かの方法を残しておきたい。日本全体を把握するのは不可能だが、幾つかのルートが視えてきたのが収穫。早速、実行に移す。
 十時前田代邸、私の仕事ではないが、築十六年の建築の診断の如きを行う。色んな人の意見を聞かなくては。十二時前迄。研究室に戻り、左官再生計画をまとめる。野村に引き継ぎ。十五時松本孝之氏来室。スペシャルカーの件。十六時迄。
 九月一日
 今日は午後、左官教室の小林澄夫さんが来る。左官職にアジアの紙素材を供給し、内装・メンテナンス総合事業者として再生できないかのアイデアを聞いてもらう。日本の左官職事業所の現状をレクチャーしていただく予定。
2005 年8月の世田谷村日記

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