石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年11月の世田谷村日記
 十月三十一日
 十一時研究室。十四時毎日新聞。十七時議員会館の予定。二十九日、北京の李祖原より連絡入り、北京モルガンセンターは順調に進んでいるとの事。こちらもピッチを早めたい。
 十時四〇分研究室ミーティング。十三時十分迄。十四時竹橋毎日新聞。電通と会う。十五時三〇分修了。一Fのソバ屋で遅い昼食をとり、十六時半永田町議員会館。議員会館には沢山花が届けられており、アア、内閣の組閣が終わったんだなと知る。ひろしまハウスの件で議員さんに相談。十八時迄。政治家に頼み事をするのは仲々むずかしいものだ。渋谷を経て十九時過、世田谷村に戻る。夜、北京メディアウォール、他のスケッチを続けた。
 十月三〇日 日曜日
 雑読に次ぐ雑読の一日。文字疲れした。福田和也の「作家の値うち」が面白かった。いまさら言う事でもないが、福田氏はいい度胸してる。
 十月二十九日
 今日は午後再び浜松町に行く予定である。十五時十分浜松町で十勝に帰る後藤氏と農文協の甲斐氏と合流。一時間半程、駅近くの焼鳥屋で話す。十六時半修了。世田谷村に十七時半戻り、コラムの続き書く。十九時四十五分、一人で近くのラーメン屋で夕食のネギラーメンと生ビール小。二〇時半もどる。
 十月二十八日
 朝刊に、仙台のプラネタリウムでカウント・ベーシー楽団のリサイタルの記事と写真あり。一ノ関ベーシーの菅原の仕事である。久し振りに良い話題で顔もゆるむ。プラネタリウムドームの保存運動の一助になると良いのだが。今日は午前中十勝の後藤氏来室。午後、馬場昭道と芝増上寺訪問の予定。
 九時四〇分研究室。十時十勝後藤氏来室。 21 C農村研究会の件で打合せ。後藤さんは沢山のアイデアと素材を持っているし、経験もある。それをキチンと仕事にしてゆく方法をお互いに考えなくては。十五日の会に出席して頂き、提案してもらう事を決めた。フィールドカフェスノーフィールドカフェは一つの指針になり得る。十二時過迄。高田馬場まで同行。後藤さんは点字図書館へ。私は浜松町へ。十三時前浜松町駅構内で昼食。十四時我孫子真栄寺馬場昭道氏とおちあい、芝増上寺近くの明照会館へ。十五時全日本仏教会・世界仏教徒連盟日本センター。事務総長齋藤明聖氏と会う。北京モルガンセンターの件、他。感覚の良い人で、大方の事を呑み込んでいただけたと思う。北京プロジェクトに一つのフォーカスが結ばれる可能性あり。中日関係は仏教が橋を架けるのも良い。十六時半迄。芝プリンスホテル内を通り抜け、浜松町まで歩く。今日は芝を良く歩いた。大寺院はデカイのを実感させられた。提義明氏が執念を燃やしたと言われるプリンスホテルにはいささか失望。こんなモノに日本有数の資本家が執念抱いたのかと、ガッカリした。金(マネー)は結局品性を育てないのか。ホテルの裏庭のバラ園が未完成なのも哀れだった。十七時半東京駅地下で昭道さんと食事して、話しをした。佐藤健が亡くなって何年になるのだろう。仏教界の人脈は皆彼がのこしてくれたものだから大事に育てたい。十九時頃迄。二十時過世田谷村に戻る。
 十月二十七日
 十二時博士論文内公聴会、十三時教室会議。十六時芸術学校会議。二〇時芸術学校長鈴木了二氏と再び会う予定。
 十七時会議、会議を終えて研究室へ戻る。十九時迄雑用、そして雑考。良い考えにまとまらず。こういう時もある。十九時四〇分教員ロビーで鈴木氏と待ち合わせ、すぐに学校を出る。高島屋の上の小松屋で話す。了二氏と二人で話すのは初めてで興味深かった。鈴木氏との話しはもう少し時間をかける必要がある。
 十月二十六日
 冷水隆治さんのNYの個展は数日前に終わったようだ。テーブルの上に冷水さんから送られてきた作品の写真が散らばっていて、今朝フト眼にとまった。仲々良いと思った。今日は夕方、農文協甲斐さんと会う。会う為の準備を午前中にするつもり。
 十六時研究室で農文協甲斐氏と会う。十八時半迄ミーティング。十九時過新大久保近江屋で続行。話し合っているうちに、先が少し視えてきたように思う。二〇時半迄。二十一時過世田谷村に戻る。フリーター諸君、そして学生、若者、老人の何がしかをできるだけ地主になってもらう運動を21 C農村研究会の運動の目標とする。
 十月二十五日
 朝、中里和人との仕事についてプラン。菜園市場巡礼みたいなのが良いと思う。農文協の甲斐氏にも相談。 21 C農村研究会とのつながりも柔軟に進める。
 十一時半研究室。十二時人事小委員会。十三時過修了。十四時半、写真家中里和人来室。 21 C農村研究会プロジェクトに関して。メディアプロジェクトの相談。十五時半修論相談。アベル相談。渡辺O邸打合わせ。何故か、疲れがドッと押し寄せる。津波みたいであった。十八時過近江屋でαインターネット社長若松氏と会食。久し振りに会った若松氏は前向きに今、考え抜いている様だ。思い切った決断をされん事を。二〇時過了。二十一時前世田谷村に戻る。帰りの電車で、第二回農村研究会の記録をチェックする。良い記録になっている。山口勝弘インタビューの記録も大変面白く出来上がった。これの頒布は高額になるぞ。滅多には読めぬものだからナァ。非常に面白いのだ!
 十月二十四日
 朝、昨日一日かけて作成したプランを読み直す。マァ、こんなものだろう。世田谷村十時発。
 十時四十分研究室、ミーティング開始。丹羽、野村他と、昼休み抜きで十六時過迄。石山研のミーティングは仲々むずかしいものがあって、しかし、何となく様になってきていると仮想したい。十七時研究室発。渡辺をともない、グラフィケーション編集室訪問。ル・マルスの田中氏と会う。お願い事を聞いてもらう。十八時半迄。来年の話しをした。一九時新宿高島屋十三階のソバ屋で渡辺としばし話す。二十一時半頃世田谷に戻り、夕食。今日は昨日、考えたプラン通りに動いた。明日も明後日もそれを続けられれば。今日はエンジン全開で二十二時半休む。眠れないだろうな今日も。
 十月二十三日 日曜日
 午前中から午後おそく迄、いくつかの企画、計画の方針をまとめた。頭は流石に疲れた。夕方、屋上菜園に上る。完全な雑草園になっている。山口勝弘の今から受けた考えが、一つにまとまりかかっているのを自覚する。夜、「ある老芸術家の再生・光」の出だし、四枚書く。六〇枚くらい書く予定である。今日は一日中世田谷村より一歩も出ず、仕事に明け暮れした。頭は疲れきっている。こんな日はおそらく眠れないのだと思う。
 十月二十二日
 昨日島崎さんより「We Love Chairs」いただき、それを眺める。丹念な作りの本になっている。山口勝弘さんの今から色んな事の再アッセンブルを始めてみる事を決める。午後、再び多摩プラーザの山口勝弘さんのところへ。昨日得たインスピレーションを確認したかった。山口先生今日はあんまり機嫌が良くなかった。やはり一人で行くべきだな。山口勝弘七十七才、今まさにヒマラヤの峠を登りつめつつある。今世紀の我々の命題を山口勝弘はよく、余りにも象徴的に表現しつつあるのを確信する。まさに芸術家本来の才質を発揚しているのだ。山口先生の考えの中枢と私が構想している開放系技術の考えはやはり同根なのである。
 十月二十一日
 昨日は、山口勝弘先生に会って、別れた後、静かな驚きが襲いかかり、一日それに身を任せた。文章にして残そうと考えたり、形にしておこうと思ったり、色々としてみたが不可能だった。この驚きは、とても大事な事のように思うので、必ず、何かに残したい。少し時間がかかるであろう。芸術家の存在をあんまり、というよりほとんど理解できないでいた。しかし、昨日の山口勝弘は、そんな私にこれが芸術であり、芸術家なんだと、良く知らしめたのである。山口勝弘が病に倒れて、多摩プラーザに自らを幽閉してから何年になるのだろう。何度かお邪魔して話しをうかがった。昨日の感動はそれらが集積してのものだったのかも知れない。ボーッと解らぬままに体験していたモノがある日明晰にその姿を現す事があるらしい。昨日がそれであった。
 エドモン・ダンテス(モンテクリスト伯)の如くに自らを多摩プラーザに幽閉し、身体が不自由になってからの山口勝弘に強い関心はあった。それ以前の山口勝弘は日本には稀な強固なアバンギャルドであった。しかもエリートでもあった。幽閉後の山口からは健全な肉体が去り、現実に所有していた自由も去った。しかし、精神の自由、あるいは自由な精神は山口から去ろうとはしなかった。何者もそれを侵犯する事は不可能なのだった。勿論それは老芸術家の我執とは余りにもかけ離れたものであった。
 山口勝弘は滝口修造氏等の実験工房のメンバーであった。滝口修造の知性の総体が実験工房の枠組みをゆるやかに価値づけていたと思われるが、その、ある種の知性による芸術的倫理観の如き世界観は日本の有象無象の近代運動ではひときわ光彩を放っていた。
 昨日、山口勝弘の部厚いスケッチブックをのぞき見て、私は山口の中に流れ続ける滝口修造的世界を初めて実感した。私が山口勝弘の多摩プラーザの小屋で魅入っている彼の絵と、シルクスクリーンと、そして山口のスケッチブックの多様な記録、そして色んな展覧会のカタログ、つまり大山口のキャリアという歴史が、彼の不如意な今の身体故の極小空間にメディアとして溢れ返っている。空間には(建物の)意味はない。そこに充ちるメディアの光芒こそが実体なのであった。
 幽閉の身体自由な精神は山口勝弘の宿命でもあった。
 怠惰に弛緩した自由は本格的な価値を産み出さぬ事が多い。山口勝弘の表現活動も五体満足の壮年期までは、日本には稀な知的倫理性を備えていたが、やはりアバンギャルドの限界を出る事はなかった。マレーヴィッチの至高主義への共感を度々山口から聞いたが、その至高主義はそのまま、日々の生活、身体からの遊離主義でもある嫌いから逃れられぬ。山口勝弘が身体の自由を失い、多摩プラーザに幽閉されてからの全ての活動に着目するのは、彼の至高のアバンギャルド性が人生の宿命とも考えられる自然な成行きによって開放されつつあると感じたからである。
 山口の今のドローイングは壮年の活力と技術に満ち溢れたものではない。稚拙では無い、古拙でもない。しかし、アア、うまいなと思わせるものでは決してない。どんなアバンギャルドの作品でも身体のエネルギーと五体のテクニックに支えられているものは少なくない。その点、今の山口の作品にはそれが無い。しかし、描く、イマジンする山口の精神の自由はたぎり返っている。それだから、山口の今の作品は精神そのものが画筆をあやつっている如きが明らかにある。
 人間の生命は身体だけに宿るものではない。近代芸術、あるいはより狭義に前衛精神も然り。それは時に病み、傷ついた身体から産み出される事もある。
 山口の多摩プラーザ幽閉生活から産み出されつつある生命の自由への讃歌とも呼びたい連作に着目するのはそれ故である。
 老人の智恵と子供の身体が産み出す、新しい世界がそこにはある。
 生老病死の宿命から誰一人として自由にはなれぬ。
 しかし、山口はその精神の至高力によって、自分の身体をロボット化し、精神の力で、ある身体の未熟状態をパフォーマンスしてみせているのである。
 十八時広尾フィンランド大使館、フィンランドセンターでソタマ教授、栄久庵、島崎両氏と打合せ。十九時過迄。栄久庵さんの道具寺プロジェクト進んでいるようだ。フィンランドのプロジェクトはフィンランドの事情もあり、ゆっくりゆっくりと焦点が絞られてゆく事を願いたい。中国の力を巻き込めると良いが。二〇時半世田谷村に戻る。
 十月二〇日
 朝、馬場昭道さんより連絡。日仏連会談の件。北京が動き始めたので、動く。山口勝弘先生と連絡。今日、午後うかがう事とする。天気が良くて気持良い。
 午後多摩プラザの山口勝弘先生を訪ねる。鎌倉近代美術館の展覧会も間近となり、充実した日々を過ごしているようであった。何を話したではなく、話し終えた後、異様な感動を覚えた。その感は別れた後も持続し、夕方研究室へ行くのも勝手にキャンセルしてしまった。恥ずかしい事であるが、この感動をきちんとした形にしておく必要を痛感したのである。
 十月十九日
 朝、鳴子温泉越後屋主人、鳴子町づくり株式会社の吉田さんと久し振りに電話で話す。私事多忙のようであるがお元気そうだった。鳴子も市町村合併の流れの中にある。役人の数を減らす為の合併と、個々に特色のある地域の力づくりは、行政の合併という形式でしか成立しないのかの疑問は多々ある。十勝の後藤氏、東北の結城氏と話す。杉全カメラマンと話す。
 新大久保で古市氏に会う。十七時過世田谷宗柳で写真家の杉全泰氏と会う。どうやら彼は今、ラオスに関心があるらしい。一年の半分はラオスで暮らしたいとの事。出版で考えているアイデアの相談。人物百人シリーズ。等。再び山田脩二来る。二十一時半迄。色んな相談。淡路島山勝工場の件など。
 十月十七日
 今日は昼から軽井沢の現場へ。朝、思い立って、昨夜書いた「山田脩二展」大巾に書き直し、手を入れる。題目も変えた。「酒仙山田脩二」
 十二時過氷川台S氏宅。車で軽井沢へ。石井同行。竣工検査。十七時過迄。十八時四〇分の高速バスで東京へ戻る。バスの中で石井と少しばかり話す。二〇時三〇分池袋着。二十二時前世田谷村に戻る。写真は真冬にならぬと撮れぬな。樹で何も見えない。
 十月十六日 日曜日
 二〇時、宗柳で山田脩二と会食。考える事多々あり、カバーコラム「山田脩二展」書く。山田脩二の尻をたたくのは、実は自分で自分の尻をたたくのに等しいのだ。
 十月十五日
 今日は目白の自由学園に行く用事がある。十二時前、自由学園、研究室卒業生の結婚式。こういう会はできるだけ避けているのだが、新郎新婦二人共、研究室出身というのだから、仲々逃げられぬ。私の気の弱いところだ。しかも、良い会であった。典型的に俗な風もあったけれど、それはそれで本人達の品格なんだから、仕方ない。関岡英之に会えたのは収穫であった。関岡はKEIO大学卒後、東京銀行。北京支店勤務、その後、何故か知らぬが、早大夜間の専門学校に来て、私の昼の学部授業を聴講、提出させたレポートが飛び抜けて素晴らしくて、私が独断で、大学院にスカウト。これは、彼の人生にとってはどうだったか知る由も無いが、私の先生稼業では数少ないヒットであったのではないかと実ワ自負している。関岡君はその後、いきなり書き手として蓮如賞受賞。もの書きの径に入った。研究室OBとしては森川Kと双璧の書き手で、むしろ森川Kよりも視野はズッーと広い。しかし、銀行員であったからなのか、少々、守りの姿勢が強過ぎて、一歩踏み出さぬところがあった。つまり、他の通常の学生とは全く異なる水準なのだが、言ってみれば気の弱いところがあった。ところが、今は、「拒否できない日本」という本まで書き、本格的な書き手として成長している。夏の選挙では、あの大失敗してしまった、小林興起を応援して、何か文章に書いてしまう様な愚も犯し、その辺りの中期戦略的勘に大きな問題があるのだが、これは他人の事は言えぬ。私だって失敗だらけだ。関岡君は世界を視ようとしているのだが、自分の実人生とそれが結びついていないだけだ。馬鹿だらけの若い奴らは視ようともしない。何も視ない、考えない、馬鹿がとり敢えずは今の経済社会では便利な部品だからだ。マ、そんな事はともかく、長い長い結婚式を終えて、関岡君と少し話したくて。二店ハシゴした。十七時過目白駅で別れる。彼は上野でオペラ鑑賞との事。いいんじゃないですか。人生楽しんで下さい。十八時頃世田谷村に辿り着く。
 十月十四日
 午前中は手紙を書いたりで過ごす。アッという間に十一時になってしまう。今日の午後は何かとあわただしい予定である。芸術学校のスタジオ開設プログラムに関して来週動くつもり。学科の建築研究所のプロジェクトとして、芸術学校のスタジオ開設という形はどうだろう。
 十三時、渡辺打合わせ。同三〇分陸海博士論文相談。再び、渡辺他。石井博士論文相談。研究室は博士輩出だな。博士ラーメンでも室内で出そうかと冗談を言い笑う。十四時結城登美雄、農文協甲斐氏来室。第二回 21 C農村研究会をS棟9F学科サロンで開催、豊田菜穂子氏の「ロシアに学ぶ週末術」小レクチャー。途中、設計製図で小一時間抜ける。石山研メンバーによる新しい農村に参加する人間のライフスタイルの、それぞれのデザインと住まい、の発表。丹羽君のモノがよかった。その後、結城氏甲斐氏のレクチャー。他。十八時過修了。朝日新聞、都丸修一氏参加。十九時新大久保駅前近江屋で総勢七名の会食。次回より少しずつメンバーをオープンにする予定。二十一時過散会。都丸氏に世田谷まで送っていただく。二十二時半世田谷村帰着。農村計画に関しては私も新しく随分学ばなければならぬ。
 月下美人の大輪咲く。
 十月十三日
 朝はさすがにゆっくりさせてもらう。
 十二時過研究室。少々の打合せの後昼食。甲州屋にてとろろソバ。その後、渡辺と打合せ。松下電器富山氏打合せ。十六時五十一号館3Fで芸術学校運営会議。初めて早大芸術学校に参加。芸術学校は戸沼幸市先生と何となく、意見その他が喰い違い、縁を遠ざけていたが、校長も代わり、参加させてもらう事にしたのである。ここの可能性は考えようでは建築学科教室よりも大きいものがあるとにらんでいたので、色々と頑張らせてもらうつもりである。運営会議の後に、鈴木恂、鈴木了二、他の先生と雑談。まともにやりますという意志を伝えたつもり。伝わったかどうかは知らぬ。十八時研究室に戻る。 21 C農村プロジェクトミーティング。アベル、カイ、丹羽太一、野村、渡辺、他。色々な考えが集合しつつあるのは前進だな。二〇時新大久保駅前近江屋で雑談した後、世田谷村に戻る。二十二時頃。横になる。
 十月十二日
 八時起床。もう一時間寝ていたかった。チェックアウトし、八時四〇分Oさんにピックアップされる。九時中村石材工業訪問。十時小郡の中村石材工場へ。大理石の選定及び打合わせ。アンゴラ産の石で良いモノがあったので決めた。十二時前、浄水の現場に戻る。昼食後、棟梁、蔭久氏と打合わせ。出来るだけの事は決めた。十六時迄。談笑し、名残惜しかったが東京へ帰らねばならぬ。福岡空港へ。一人、夕食をとり、十八時三〇分の便を取る。二〇時三〇分羽田着。二十二時過世田谷村に帰る。
 十月十一日
 博多のホテルKKRで七時半起床。眠い。八時モーニング定番の朝食。残念ながら義務そのママに食す。こういう時にある種の虚無感を感じるな。朝食は本当は大事なのだ。八時二〇分現場。十八時過まで、打合わせに次ぐ打合わせ。大工棟梁をはじめとして各職方との打合わせに明け暮れる。私はこんな打合わせを、最良の時間の一つと実感しているのだが、今は私の方にその体力が少し計り不足していて職方さん達には不満であったかもしれない。
 棟梁には申し訳ない事をしたかも知れぬ。今日は六、七種の職方さんと打合わせしたが、まだ足らない。十八時過、カンサイ社長O氏、現場に来られて会食へ。職方さん達にすまない気持ちがあった。が、それはそれ、仕方が無いのだ。O社長は気を使ってくれて、春吉橋近くの「まめ丹」に会食の場を設定してくれた。「まめ丹」のおばちゃんと久し振りに再会。二十二時頃まで食事。先程迄、もう本当に倒れるかと思っていた身体も、何故か倒れず、持ってしまう。何故、持ちこたえられているのかも知れず。O社長の元気さにも助けられたのだろうか。
 二十二時過ホテル帰着。研究室からのFAX受領。
 今日は、体力の限界近くの打合わせであった。O邸は良い建築になるであろう。
 十月十日 休日
 十六時四〇分発ANAで福岡へ。雨雲がたれ込めている空を飛ぶ。秋雨前線だな。それでも西の空は輝いている。中国大陸は晴れているのだろうか。今夜はカンサイO社長と会食の予定。幾つかの計画について話してみたい。昨日久し振りにホームページ用のコラムを書いたが、又もや死んだ佐藤健が出てきてしまい、流石にあわてた。死んだ人間の事を懐かしむようでは危い。しかしながら、死んで居なくなった人間の形は実にハッキリとなるものだ。
 十九時前福岡空港着。Oさんに迎えていただく。暗闇の中、現場を見る。予想通り、というか、計算通りの出来上がりであった。それ位の事が無ければ年を取った甲斐もない。かくの如き、複雑な有機的形態及びスケールを把握できるようになっている自分に、少しホッとする。ハンス・シャローンの建築に外見は近いのであるが、それとは確然として違うところがあるのは意識している。O夫人と夕食、おいしかった。色々と困った事は山積されているのだが、Oさんの現場がよい仕上がりに近づいているのを確認できて、いきなり元気が出てしまう。バカだなァー、我ながら。しかし、その為に生きているんだから仕方ない。この現場は私のこれ迄のキャリアの中でもヨイな。夕食を終え、再び現場へ。夜中にヘイを乗り越えて、内部に入る。全て、予測通り。内部空間も良し。マ、しかし、一作、グランドネスな住宅は残せたかも知れない。
 十月八日
 昨夜は実に十二時間も眠る。が、カゼいまだ抜けやらず。今日は建築学科創設の研究所主催「建築学再入門・市民社会と早稲田建築」講義が午後あるので出掛けなければならない。色々と考える事もあり、早稲田の芸術学校主任を引受けた。スタジオGの共有スタイルからスタートした特別スタジオを設けてみたい。フリースペースとし、それを建築学科の研究所が支援するスタイルをやってみる。学科研究所主催の社会人教育、及び高能力フリーターによるスタジオの創設に焦点を絞る。
 十一時前研究室。レクチャー準備。十二時四〇分本部エクステンションセンターへ。市民社会と建築のテーマはすぐにも連続させる必要がある。
 十月七日
 鼻カゼが抜けない。しばらく禁煙してみよう。柔らかい陽光が差す薄曇りの朝である。
 十一時忍田さん来室。昼食のサンドイッチを喰べながらの打合わせ十五時迄。その後を渡辺に委ねて製図エスキスチェックへ。中川武先生、カイチローMと共にクリティック、チェック。十七時半迄。十八時帰途につく。
 十月六日
 七時過起床。九時前杏林病院。定期検診。検診にしても病院はゆううつだ。
 十二時大学。人事小委員会。十三時教室会議。十五時半修了。丸善原稿書く。十六時半修了。研究室発東大へ。構内で鈴木博之さんとバッタリ会う。今日は欠席との事。十八時、技術と歴史研究会。今回は第十八回で、東北大の五十嵐太郎の「戦争と建築」。彼の研究の軌跡を追体験するレクチャーであった。東大でのディプロマはは原子力発電所、そして密教とデザインの関係とのミックスがスタートポイントだった。それから宗教建築都市、オウム真理教サティアン、他。大本教の建築破壊。そして、破壊と戦争へと視点がスライドし、防空都市、セキュリティー都市へと考えが拡がっていった。才が拡散して焦点を結んでいない印象があった。彼の解釈、説明する事への情熱の素が視えない。推理小説を解説している手付だな。二〇時半修了。東大前宮本で会食。二十二時了。地下鉄を乗り継いで世田谷村二十三時過帰着。
 十月五日
 昨日、加村氏との話しで、彼がインターネットの客は新しい型の客だと実感を述べたのが面白かった。沢木村上両氏のインタビューはその現実から遊離していると感じたのかも知れない。ネット社会の現実は活字社会のファンタジーを超えた闇に在るのではないか。無色透明な闇である。平板な速力だけの世界。マネーゲームの速力によって都市が出現しつつある現在、建築的創造力が出来る事は何なのか。深い闇の中に光が充満しているようなフィールドを求めるような社会の核が在るのを望むが、それは今の建築の型には無い。ひろしまハウスのように創り出さねばならないのかな。
 九時府中八大建設社長西山氏と国分寺O邸現場へ。十時過修了。研究室へ。台北の李祖原より電話。NYの超高層ビル・カンファレンスの件。彼は今、この分野では明らかに現在世界一位の位置にいる、NYがFROM ORIENTを受け入れるかどうか。CYは不思議な形で世界のヒノキ舞台に立つ事になった。十二時ヒマラヤ、カレー。大学周辺での昼食は仲々辛いものがある。十四時打合せ。十六時カイチローM、北京モルガン、アニメーション・ロボット・ゲーム展の打合せ。十九時前修了。カイチローMの五年先の野心をディスカス。まだ、私はキチンとした人間には、しかるべき野心があるものだろうという、言ってみれば架空の前提でモノを考えている。野心というのは古く言えば志、今風に言えば少しの希望かな。カイチローMは典型的な私の、つまり自我に即した執心がうすい。つまり、極めて相対的な価値観を持つから、何かをやってみようというよりも自分の性能を良く生かせればそれで良しとする、余りにも民主的な傾向がある。前近代の百姓のような生き方だろう。資本主義的生命とは少し違う。その本体はそこにある。資本主義社会の良い意味での百姓なんだな。本人は自覚してないだろうが。十九時前、Aさん来室。土地の件で相談に乗る。二〇時過修了。近江屋で渡辺君他と一息つき。二十一時迄。二十二時半過世田谷村に戻る。
 十月四日
 十一時メディアデザイン研究所打合わせ。野村、渡辺同席。農村計画他。ANYのゲラ、まだ手許に来ない。農村計画は早急に一度、絵としてまとめてみよう。都市と農村という単純な二分化の考えでない、複雑な細部=個々人のライフスタイルの集合としてのコミュニティが描けるかどうかがポイントだ。沖縄のスタディが役に立つのではないか。十三時過名古屋の左官事業所加村氏来室。野村同席、左官再生P十六時二〇分迄。加村氏三十八才前向きである。
 打合わせ続く。十九時半新宿、フィンランドの件。二〇時過修了。世田谷村に戻る。夕刊に沢木耕太郎、村上春樹両氏のインタビュー記事あり。読むも共に違和感を覚える。
 十月三日
 室内の連載は少し頁数が足りない感もあるが、切り捨てて、切り捨てて何とか書き続ける。どこまで続くか、自分でも興味がある。ここのところ世田谷村にいる時間が多くなった。日曜の大半は静かにしている。前はほとんど居なくて、我ながら闇雲に動き廻っていた。無駄が多すぎた。マ、動くようになるのか、更に静かになるのか、今はわからぬ。
 十月二日 日曜日
 朝、原口家訪問。小猫のジローと初対面。原口さんのところの猫は拾い猫で、道端で弱り切って倒れているのをどこかの子供があわれんで介ほうしているのを見かねて引き取った。引き取れば情が湧く。何となく風姿に独自な品格があると思い調べたら、外国種のロング何とやらの種の混血らしいと知った由。高貴なんだと言う。会ってみたら、成程可愛いものだ。他人を恐れずに慣れ親しむ。原口夫妻も満更ではない様子であった。我家の猫ニコライはもらい猫である。すぐにニコとジローを私は比較値踏みした。まことに品がよろしくない。マ、そんな程度の者だ、私は。当然、飼い猫はそれぞれのモノが一番に決まっている。
 十八時半、宗柳で会食。NYのグローリアの父親。アメリカでは有名な投資会社の凄腕らしい。日本を買いに来ているのだろう。北京の事が頭をもたげたが話さなかった。家族を巻き込むわけにはいかない。二〇時半、世田谷村に戻る。夕方、アッという間に書き上げた室内連載2回目の原稿に手を入れ、編集部にFAXで送る。まさか、今日は誰も来ていないだろう。今日は何故だか、山本夏彦を何冊か読んだ。懐かしい。宗柳のおかあさんまで世田谷村日記読んでるのが判明。ウーム。
 十月一日
 十一時打合せ。十四時半過修了。十五時半新宿にて打合せ。十六時半、野村と打合せ。彼女の良質な部分に触れるのは必要だ。弟子の成長を実感できないようでは、自分の存在もない。そんな意味では丹羽君ともゆっくり話さなければならない。今朝、再び家内から世田谷村日記止めなさいの忠告を受けるも、反発す。何故こんな恥をさらすのか、自分でも充分に考え抜き、かつ自覚していないが・・・。
2005 年9月の世田谷村日記

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