石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
2005 年12月の世田谷村日記
 十一月三〇日
 十時前まで眠りこける。午前中は世田谷村で 21 世紀農村計画のプログラム作り。十四時研究室。幾つか打合わせ。二〇時四〇分迄。二十一時前近江屋ミーティング。渡辺が急速に育ってきている気配あり。数少ない希望か。十数年前大学に来て、幾たりかの人材を得たような気分はあるが、しっかりした手応えはまだない。建築よりも人間は、はるかに複雑であるから。モノ(作品)を残すのを価値とするか、人材を残すのを大きな価値とするか、普通に考えれば、人間に決まっているだろうが、残念なのは人間は人間を作品として創る事は不可能である事だろうか。宗教家、特に日本型の禅の世界では師たる者、弟子に面授、教伝するのは一つの定理であるらしいのだが、大学教育という極めて俗な大衆的世界ではそんな事は常識的にはあり得ないだろう。しかし、何とか面授の法に乗取って、キチンとした弟子を持ちたいとは願う。それが研究室内に居ようとも、木本君のように外に居ようとも、どちらでも良いのだ。粘土をこねて作品をつくるように人間の気持だって作ってみたいのだ。異常な夢であるのは自覚しているのだが、大学に来てしまったうえには、それが出来なければ生きてる意味の半分は無い。又もや考え過ぎだナァ、これは明らかに。
 今日で十一月は終わってしまった。俗な言い方ではあるが、時は風の如くに流れてゆく。何もしない、出来ないママに時間は流れてゆくばかりだ。明日から違う世界を書けるようにしたい、とここ数年思い続けている、ばかりなのである。誠に残念、きわまる。
 十一月二十九日
 九時半世田谷村発。十時調布駅南口。八大建設西山社長と落合う。十時十五分高山さんの家、点検。高山さんはファン・ワークスというという会社を自分でおこして、活動を始めている。ファン・ワークスの会社概要などをきく。面白い仕事である。十四時過、弁当買って研究室で昼食。十六時α社長若松氏娘さんと来室。十七時前橋の大工さん市根井さん来室。新作の椅子を見せてもらう。市根井さんの仕事振りのペースは仲々見事だ。彼の住宅も良いモノになっている。GA杉田君に連絡。新しい世代の大工が工夫しながら作った生活の器である。十八時半皆去る。ドッと疲れが出て、しばしボーッと無為の時間を過す。我孫子の馬場昭道より「室内」連載、面白いと電話が今朝入った。私のHPの連載コラムも段々面白くなっているのに、こちらも、面白いとか言ってくれ。しかし、まだ充分に面白くはないのだろう。横浜トリエンナーレに関しての感想は我ながら面白くかけているのだが、丹羽編集長のスピード感にずれがある。二十二時世田谷村に戻り、フィンランドの連中とコンタクト。二十二時半、マティアスよりTEL。明日は彼等は余りにも早発ちで会えぬ。
 十一月二十八日
 朝フィンランドのラウティオラ教授へFAX。今日のスケジュールを伝える。十一時半研究室。
 十一時半研究室。十二時陸海。十三時半法政大学渡辺真理さん。十五時半軽井沢Oさん打合わせ。十七時半フィンランド、ラウティオラ、カテイネン両氏と打合わせ。インターン、交換留学、北京パビリオンオブサイレンスの件。進めようという事になる。二〇時過高田馬場文流で会食。二十一時半修了。二十二時半世田谷村に戻る。
 十一月二十七日 日曜日
 七時起床。十一時前宮脇愛子さんと絵本の話しする。昼前鎌田君等と富士ヶ嶺へ。川口湖インター近くの「砂場」で昼食。十四時半観音堂着。富士山が大きく、雪も少々かぶり絶景である。十八時頃発。途中渋滞に会って二十一時過世田谷村に戻る。今日はエスキスがはかどった。二十二時前我孫子馬場昭道氏、α社長若松氏と連絡。休日は仕事になる。
 十一月二十六日
 八時起床。フィンランドの連中は独特なフィーリングを持ってるな。人口五百万人でスカンジナビア半島に位置する地政学的状況を良く生かしている。しかし最近の建築は総じて良くない。ナショナル・ロマンティシズムをこえるものが出てきていない。アメリカン・インターナショナリズム、つまりグローバリズムに呑み込まれているようだ。
 九時四十五分大学。十時卒論発表会。昼食三〇分はさんで二十一時前迄。一人一人に講評するのはさすがにハードである。石山研は一人をのぞいて低調であった。二十一時前世田谷村に戻る。  鈴木博之先生より久し振りに電話いただく。韓国から帰って、すぐカンボジアだそうだ。元気なんだ、と安心する。来春にはプノンペンのひろしまハウスを見てもらえるか。来年は歴史研の発表も聞いてみるつもり。絵本プロジェクトを芸術学校のスタジオで、一部すすめてみたらどうかと思い始めている。ファンタジーとメディアは時代の軸になり始めているように思うのだが、先走りし過ぎているかも知れない。
 深夜、「年を歴た鰐の話」再々読。口惜しくて泣きたくなる本である。六〇をこして、どんなに低い背を勢一杯のばしてみても、これには届きそうにないのが口惜しい。山本夏彦のはしがきも、吉行淳之介、久世光彦のあとがきも、徳岡孝夫の解説も、皆ぐるになって一つの物語をでっちあげているような気さえする。やっぱり、シオポール・ショヴォは仮空の作家で、山本夏彦が原作者で訳者のふりをしてみせているにちがいないのだ。そうだとすれば、ルイス・キャロルよりも余程現代そのもののノンセンスなのだと思うが、そう思い込む事にしたい。
 十一月二十五日
 六時に目覚めてしまう。昨日受け取った山口さんからの便りを、スペースメディテーショントリップのはじまりにしてみよう。東北の結城登美雄さんより連絡いただき、新潟市長が十二月の 21 C農村研究会出席との事。千村君からも利根町の石川ダーチャのビニールハウスの写真がルノワールの絵に似ていて良かったとのメイルが入っていた。千村君とも随分お目にかかっていないので会いたい。フィンランドよりマティアス・ラウティオラ教授が来日しているので今日コンタクトする。再び眠る。
 十時半新宿で渡辺と落ち合い、十一時ヒルトンホテルでミサワ社長と打合わせ。昼食を交えて話す。十三時半迄。十四時大学戻り。打合わせ。十五時半広島より来客。ひろしまハウス打合わせ。十六時四〇分迄。アンコールワットの中川武教授に紹介。ひろしまハウス計画をより広いスケールでつかまえるようになれば良い。 十七時半大学発。池袋へ。フィンランドからの人達に会う。十九時前、共に新大久保近江屋に戻り会食、語り合う。ラウティオラ教授、カテイネン、ハリ、ヘーゲン、皆、プロフェッサー・アーキテクトである。仲々、アーキテクト教育はフィンランドでも困難であると言う。
 十一月二十四日
 今朝一時間半程を含めて、昨日から「芸術はゴミか」カバーコラム二○枚書く。その内八枚はあんまり面白く書けたので、堀尾貞治の真似して、百円コラムとして売り出す事にした。続きを読みたい人だけ百円払えというわけだ。これで私もアーティストの中に入ったな。
 次回十二月十五日の 21 C農村研究会は盛り沢山になりそうで少し整理しなくては。
 正午、人事小委員会。その前に雑打合わせ。十三時半迄。その後、保坂展人事務所の方、ひろしまハウスのことでインタビュー。非力な社民党に微力ながらテコ入れするかと考えているのに、保坂議員は解っていないんじゃないか。キチンとした野党魂を持てと言いたい。雑用その他。十五時Sさん、十六時修士論文ミーティング。その後再び雑用。十八時八大建設西山社長来室。十九時前、近江屋で会食。西山氏、少し元気無いので励ます。本当はこっちの方が励まされなくてはならないのだが、それはそれ、西山社長も六十八才、もう世界中を巡って、山岳スキー競技をする体力がなくなるのは当たり前の事である。二十一半世田谷村に戻る。山口勝弘先生より便りが届いていた。
 十一月二十三日 休日
 カバーコラム、堀尾貞治横浜トリエンナーレ書く。面白いのが書けそうだ。私のサイトは0円ショップであるな。工夫しなくては。
 十一月二十二日
 昨日は午後藤野忠利さんと打合わせ。具体派の歴史など聞く。今朝横浜のホテルの藤野氏と連絡、昼前に会う事となる。
 ワシントンホテルで昼食。タクシーで山下公園ピアの横浜トリエンナーレ会場へ。トリエンナーレはディレクターだった磯崎さんが退き、代わりに川俣正がディレクターをつとめている展覧会だ。全体の印象は驚く程に貧しく乱雑なものだった。大学の美術部、サークルの学園祭の趣きであった。それが狙いなのか。ただ、堀尾貞治さんの百円均一アートが面白かった。十七時堀尾さん藤野さんと近くの中華街まで歩き、夕食。堀尾さんを絵本プロジェクトシリーズに参加してもらう事にする。ワシントンホテルで藤野さんと別れ、二○時過世田谷村に戻る。
 十一月二十一日
 薄曇り。寒い。今日は宮崎から藤野忠利さんが来られる予定である。山口勝弘さんと連絡。藤野さんとのコラボレーションの了解を得る。藤野さんは現代っ子ミュージアムのオーナーだ。絵本は思わぬ展開をしそうだ。させなくては。もっと大がかりに。土曜の公開講評で考えていたのも、その事だ。今の学生諸君は、要するに幼児期に良い絵本、物語り、ファンタジーに出会っていないのだ。感性の、つまり品格の自由なあらわれは幼児期にあるだろう。今の小学校、中学校の先生に、高校も大学も、それを期待するのは不可能である。藤野さんは横浜トリエンナーレの具体の連中に会いに来ている筈だから、具体からも一人選手を出してもらおう。
 十一月十九日
 八時起床。九時四〇分大学。広島木本さん、他連絡。山口勝弘の聞き書き本「スーパーGiGieの旅」でき上がり、読む。無茶苦茶面白い。読者も是非買って読んだらいい。十五時製図公開講評会。二〇時迄。沢山課せられる科目と共に設計課題に取り組むのは学生は大変だろう。もう少しデザインをスタートさせるのは後の方が良いのだが。しかし、頑張るしかない。野心のある若者は。先生方とその後談笑して二十二時過散会。二十三時半過世田谷村に戻る。
 十一月十八日
 七時過起床。利根町と連絡。今日打合せとなるも、ウチのスタッフと連絡取れず。世田谷で待つ。待ち切れず、一人で発つ。
 十時半新宿で渡辺、十一時前西日暮里で野村と落ち合い、十二時前、取手へ。利根町佐藤さんと待ち合わせ、昼過、利根町農協で利根町長井原正光さんと会い、共におにぎりの昼食、井原町長は利根町百人スクールのメンバーだったので良く知っている人物だ。佐藤さん達の前町長リコール運動が功を奏して、井原町長登板となったいきさつがある。町長との農協のがらんとしたテーブルも無い部屋でのおにぎりの昼食は大変美味であった。特に大根の煮込んだのがうまかった。昼食後、町長のビニールハウスでのイチゴ栽培を見て、周辺の土地見学。その後、役場へ。五階建の町役場は竜ヶ崎市との市町村合併を数年後に控えて、当然お荷物になる。立派で無用の大きなロビーもあって、これを高級高齢者用マンション、そして利根町農園付で販売し、ロビーを農産物の市場にするアイデアを話し合った。今ごろ市庁舎を建てようという馬鹿な地域があるとは思えぬが、それでも建設されるであろう箱モノを他の農業施設に転用する方法を考察しておく必要がある。野村にそのプランづくりをオーダーする。町へのプレゼンテーションを次回の 21 C農村研究会で行う予定も作る。学校も二つ余り始めているので、その転用も考えなくてはならない。十四時町役場を去り、泉光寺下の百笑園を見る。このプラン作りは渡辺にオーダー。泉光寺の小山のデザインも話した。コウモウ神社を見る。何度訪れても、この神社のあるたたずまいというか、風景は良い。小さな神様が幾たりか棲みついている感がある。コウモウ神社より、奥宮まで行き、奥宮下の角田家へ。屋敷見学。ここは良い学校になる。小さな市場にもなるだろう。矢尻塚を遠くに見て、石川さんのダーチャへ。利根帳最高の場所である。幸い、石川さん夫妻や近所の方々も、今日引越したばかりのビニールハウスで一服しておられた。いつお目にかかっても、石川さんは素晴らしい。上品な風格がある。定年まで水道局に(間違いかも知れない)勤め上げ、それから丹念な百姓仕事に転生した人生の見事さが、その畑の隅々まで溢れ返っているのである。これ程の菜園は世界に無い。ロシアのダーチャなんて実に笑わせてくれる位のものなのだ。ビニールハウスでお茶をいただき、つけもの、黒豆の煮モノ、ブドウ、ミカン、他、全て石川さんの産物をいただく。実に心が和むんである。帰りには、沢山の農産物を、いつも通りにいただく。いちじく、青梗菜(青菜)、カブ、白菜ツケモノ。黒豆煮、丸大根、柿、ミカン etc. etc. 。運び切れぬ位にいただく。嬉しいね。本当に。佐藤さんの家に寄り、いただいた農産物を別ける。終了後、我孫子真栄寺へ。馬場昭道氏を訪ねる。十七時着。連絡もせずに行ったのだが、珍しく昭道さんは寺に居た。昨日まで京都との事。十八時に何処かで講演会との事で、その準備中であった。十七時半真栄寺発。十八時我孫子市白樺文学館へ。志賀直哉の住居があった手賀沼沿いの場所である。大事業家が運営と聞く。副館長渡辺貞夫さんと会う。館内を案内していただく。地下にオーディオルームあり。立派なモノだ。日本一のべーシーのモノと比べると、大人しいものだ。別に私がえばる事はないのだけれど、十八時三〇分、昭道さんレクチャー。仲々面白かった。武者小路房子さんの話しを中心に、彼の故郷宮崎の「新しき村」に関して。私と昭道さんは彼によれば二〇年位前に出会ったのであるが、今、私が 21 C農村研究会を始めようとしているのも、因縁だなコレワ。武者小路等、白樺派の新しき村と、我々の 21 C農村研究とは距離があるのだが、似ていない事はないのだ。昭道氏レクチャー二十時修了。その後、館のスタッフ、ボランティアメンバーと会食。二十一時過迄。二十二時過日暮里、二十三時半、世田谷村に戻る。今日は面白かった。
 十一月十七日
 八時利根町長島さん佐藤さんと連絡。 21 C農村研究会で学習農園計画を進める件について。
 十一時大学。 21 C農打合せ。十三時教室会議。人事小委員会。十六時芸術学校会議。双方の会議でバウハウス大学とのトラベリング・ユニバーシティ計画を報告。了解を得たと、了解したので早速公けに動く。十七時半研究室に戻り、渡辺と北京計画他打合せ。台北のCY・LEE、北京の郭浩伝と連絡。北京、台北、東京と次第に良いトライアングルになってきた。これでモスクワが動けば面白くなる。二十一時前世田谷村。「年を歴た鰐の話」再読。
 十一月十六日
 第四回の 21 C農村研究会の進め方を今日甲斐さんと相談しなくては。利根町佐藤さんと連絡。利根町をケーススタディの一つとしたい。石川さんのダーチャもあることだし。午前中、色々と連絡についやす。十四時半大学。昨日の会のチェックと次回の会の相談。そして来年八月迄の展望についてミーティング。十七時過迄。 21 C農業の中の、フリーター的若者と高年齢者を対象としたビジネスモデルを作らねばならない。森正洋先生の佐賀新聞追悼文書く。十八時了。十八時半α社長若松氏モスクワより戻ったとの事で近江屋でビール飲む。オイルビジネスの展望が開けたようで心強いが、何しろ相手がロシアだ。中国同様近代初期のカオスの中に全てがある。二〇時了。二十一時過、世田谷村に戻る。佐賀新聞にFAX送附。室内編集部三砂君から借りた「年を歴た鰐の話」レオポール・ショヴォ原作、山本夏彦訳、読む。こういう空気を持つ書物を一生に一度だけでも作ってみたいと思うが、十六歳で武林無想庵に連れられてパリに行き、二度自殺を企てたという山本夏彦と比べたら、私は全くミジンコみたいな者であるから、作れないだろうが、作ってみたい。山口勝弘さんとの絵本をこんな風に出来ないものかと考えてしまう。
 十一月十五日
 八時起床。今日は第三回 21 C農村研究会の日。
 十二時四十五分大学。十三時 21 C農村研究会。全国から四十五名の参会を得た。まだまだ十五名位に絞ろうとの予定がここまでふくらんだ。全員の自己紹介一時間の後、結城登美雄レクチャー。食と農村。石山研スタッフ、学生のプレゼンテーション。農文協甲斐氏レクチャー。北海道十勝後藤氏レクチャーと続き、質疑応答の後十八時過修了。五時間の長丁場の会となった。十八時半新大久保駅前近江屋で懇親会。二十名程参加。二十二時修了。二十三時世田谷村に戻る。
 十一月十四日
 九時半、研究室にて三沢千代治氏と打合わせ。十時四〇分了。その後雑打合わせ。十五時修論ミーティング。何も修士はないな。チリのアベルにチョッと見るべきものがある。十七時過、清水建設大山氏来室。十八時前、古市氏と新宿へ。高島屋十三階小松庵で会食。二〇時半迄。新プロジェクトに関して相談する。二十一時過世田谷村に戻る。
 山口勝弘さんより元気な電話あり、ホッとする。
 十一月十三日 日曜日
 昨夜は一人でワインを飲んでしまった。朝いささか体調が思わしくない。正夫おじとほんとに久し振りに話す。十時、大阪の渡辺豊和さん来宅。色んな話しをする。渡辺さんはここ十年建築を作っていないと言う。いいじゃないのそんな事。ゴミを垂れ流すのも生き方、そうしないのも生き方である。午後よりシンポジウムがあるとの事で、十一時四〇分近くまで送り、別れる。宗柳で一人昼食。オヤジが焼き魚をごちそうしてくれた。
 十一月十二日
 七時起床。八時過発。今日は建築学科入試特別選考。九時過研究室。十時面接開始。十五時三〇分修了。十六時三〇分判定会議。
 森正洋先生と亡くなるの報、佐賀新聞梅木君より入る。無念なり。大好きな方だった。又、現代日本にかけがえの無い人物が居なくなってしまった。肩を落とす。月並みだが、古武士の風格がある人であった。早稲田バウハウス佐賀で言葉に表せぬ程お世話になった。
 十八時合否判定会議了。森正洋先生亡くなるのいささかの(予想はしていたけれど)哀しみを静めようと、クンメーでビール飲む。二〇時二〇分現在桜上水駅。実に沢山の人が森正洋先生亡くなるという事とは無関係にうごめいている。そんな当たり前の事が、でも変だよねコレワ。変だと思わぬ方が自然な状態は本当は異常なのだ。こんな馬鹿な感情を抱く人間が出現したのは何時の頃の事だろうか。世界という観念と孤独という観念がいつの頃に人間の気持ちに定着したかという事だろう。それが近代のはじまりなのだろうか。二〇時四〇分頃世田谷村に戻る。佐賀新聞梅木君よりFAX入っていて、森正洋先生の通夜、葬儀の日程を知らせてきた。
 十一月十一日
 七時起床。昨日は良く歩いた。という感が残るって事は最近いかに歩いてないという事だ。要注意だ。今日は朝、山口勝弘さん訪問。絵本の話しをまとめる方向を見つけたい。銅版画一枚(ヒマラヤを歩くアンモナイト)持参する。十時前多摩プラーザでTVディレクター矢野氏渡辺と落ち会い、山口さん訪問。絵本の話し少し進展する。これは私にとって絵本づくりだけの事ではない。山口勝弘先生も真剣に取り組み始めてくれている。進もう。十一時過迄。十二時前、多摩プラーザ駅のコーヒーショップで矢野氏と話して散会。十三時前うどんを食べて研究室に戻る。
 十五時三年設計製図採点。前期の流れからはチョッとは持ち直したかな。十八時迄。二十一時前世田谷村。 バウハウスとのトラベリング・ユニバーシティー計画は来週から早速学生募集を開始する。
 十一月十日
 昨日、室内編集部三砂君より送ってもらった山本夏彦さん処女作「年を経た鰐の話」冒頭部を読む。山本さんらしい本だなコレワ。十時表参道、浜野安宏事務所。
 関岡英之君が文芸春秋に主論文を書いている。興味深い。山口先生と連絡、明日訪問を決める。
 十時浜野氏と打合わせ。表参道を原宿まで歩いて帰る。北京Pは表参道全体のスケールだな。十二時過研究室。打合わせ。十三時教室会議。内公聴会等。十六時前迄。グライター・バウハウス建築大学教授来室。トラベリングユニバーシティの件。十七時共に東大へ。十八時前、技術と歴史研究会。内田祥哉先生にお目にかかる。一九時四〇分迄レクチャー。内田先生これ迄の作品を介して、今建築をどのように考えているかについて、プレストレストコンクリートの仕事を中心に話された。J・プルーベがメタルでやった仕事を、コンクリートでやっていたのだと思った。型枠の地域での使いまわしを試みたかったという実感は、考えようではプルーベが工場を持つ必要を感じたのと同じである。生産的地域主義への芽があったのを考えさせられた。レクチャー後、宮本で会食。内田先生八十三才。元気だ。実に足早に歩くのにも仰天した。二十二時三〇分修了。内田先生と京王線桜上水迄一緒に帰る。二十三時三〇分世田谷村帰着。内田祥哉先生の仕事を私なりに要約すると、少量多品種の生産スタイルを潜在的に志向していた仕事であったように思う。
 十一月九日
 朝、山口さんに連絡。原稿送る。
 午前中、研究室に出掛けなくてはと思っている最中に、山口先生よりFAXの返信が届く。予想通り大きなスレ違いを露呈しはじめた。どんなスレ違いか。コレが仲々面白いのだ。私が考えたのは、山口勝弘、七十七才になって、身体が不自由になり、そうした人間の更なる自由って事だ。
 身体壮健の頃の山口さん、つまり倒れる前の山口さんは、典型的な日本のエリート芸術家だった。啓蒙家でもあり学者で制作も続けるインテリゲンちゃんでもあった。
 その山口さんがアカデミーの俗にもまみれず、孤高であり続けたのは、日本の、移入され続けたそれこそモダーンアートの底の浅さ故でもあった。
 建築家の世界と酷似している。

 山口勝弘のそうしたモダーンアートの渦中のキャリアの中での到達点が「ヴィトリーヌ」だった。命名は瀧口修造である。
 「ヴィトリーヌ」は確かに優等生的作品としてはマウント穂高岳位に凄いものだ。要するにその物体を視る人間の位置の変化によって、物体が変化して見えるって事を、物体を介して示した。精緻な制作能力、すなわちディテールへのこだわりがそれを支え抜いた。私も実見して、これは見事だと実感した。マテリアルの選び方、組み合わせ方にクラフトマンシップが溢れていた。
 しかし、世阿弥の能の道具である能面の無表情、静止と比較したらどうなのか、解らぬなとも考えた。新しい素材、新しい先端的な技術的イメージを借用している考えの寿命はそれ程長くないのではとも思ったのだ。  山口さんは理の人であり、知の人であったから、自然に相対的思考を身につけた。何が新しく、何がもう古いかを良くかぎわける事が自然にできるのだ。それが山口さんを支えたのだが、正直、何か物足りぬモノがあった。アートは教養の総合なのかの疑問と同じである。もしも、現代に於いてもアーティストという者が、アスベスト公害と歴然と異なる意味を持って立ち現れるとしたならば、それは何を精神のフトコロにしまい込んでいるからなのか。それが知りたいのである。
 要するに、倒れて体が不自由になってからの山口勝弘は本物であり、それ以前は、どうなのかって事を考えているわけだ。時間が無いので、今はこれ位にしておく。
 昼、新宿で渡辺君と打合わせ。その後、永田町、霞ヶ関界わいを徘徊する。二〇時過、世田谷村に戻る。

 十一月八日
 早朝少しばかりエスキス。十時研究室打合わせ。十一時前ワイマール・バウハウス建築大学グライター教授、数名の先生、十五名の大学院生を連れて来室。今日は秋葉原とディズニーランド見学だそうだ。十一時過より森川嘉一郎君の秋葉原レクチャーを共に聞く。十二時半途中で失礼して西調布へ。十四時過昼食を取り外苑前へ。十六時ときの忘れものギャラリーで綿貫さんと打合わせ。話しがはずみ十八時迄。山口勝弘さんとの絵本づくり他について。十九時近くのレストランで冷えたビールを飲んで散会。二〇時世田谷村に帰る。
 絵本の原稿九枚書く。
 十一月七日
 昨日とはうって変わった暖かい陽光が差し込む朝。
 十時研究室。渡辺とコーヒーを飲み無駄話し。十五分北京ミーティング。三〇分丹羽、野村他と他の打合わせ。十四時迄。十五日の 21 C農村研究会の準備が気がかりである。北京の計画と 21 C農村Pが両極の惑星として計画されているのを解ってくれと想うばかり。しかし、わからん方が自然なのだ。十六時新宿、塩野君と打合わせ。塩野君は山口勝弘との絵本のシノプシスまで作ってきてくれた。今朝山口氏に送った私のモノとは随分ちがったものであった。今の子供達(ガキん児共)には、もう少し酷薄な骨格を持つ物語空間の方が良いように思う。十九時世田谷村に戻る。福田和也氏が毎日新聞に論を張っている。この人の論は広い裾野があって驚く。
 十一月六日 日曜日
 終日世田谷村で作業、読書。読書の傾向がいささか堂々巡り状態になっているので要注意だ。しかし再読に耐えられる本は少ない。他人事じゃないなコレワ。
 十一月五日 土曜日
 十一時木本君来宅。二階南端の床で日差しをあびながらデレデレと話し、赤ワインを飲む。十二時半宗柳で昼食、相も変わらずデレデレと話す。ズルズル、デレデレのイタリア南部的日常だな今日は。十五時半に木本君が何処かに帰る。室内長井嬢と連絡、長井君私の連載原稿に対しての意見を述べる。馬鹿ヤローと思いつつも、そこは私も紳士だ、ウムウムとか言って、ムッとする感じを押し隠したのである。宮崎の藤野忠利さんより連絡いただく。
 十一月四日
 今日は広島の木本君との打合せが楽しみだ。ゆっくり話してみたい。
 十三時研究室木本君打合せ。九州の物件のオリジナル製作部分について話し合う。十六時半迄。その間、色んな雑事あり。広島の木本君とは長い付き合いになるだろうが、良い作品を良い形式の中で作ってゆきたい。「室内」編集長山本伊吾氏より電話いただき、連載原稿はアレでマア良いので続けろと言われる。父君山本夏彦さんにも二〇年位こんな事は言われた事がないので少々気も動転する。疑心暗鬼に陥りそうだが、しかし、今度の「室内」の連載は我ながら気合いが入っているので、ホッとした。ある種の賭けみたいな連載だからなあ。しかし、私としても、どうなろうとも死んだってイインだもんねの気分なんだから。十七時過、木本君と新宿で食事。十九時半迄。二〇時過世田谷村に帰る。
 十一月三日 休日・文化の日
 鈴木博之、二川幸夫両氏が叙勲と新聞報道他で知る。鈴木さんは似合うな勲章が。二川さんも似合わないようで似合うんだな。両氏にお祝いの電話をする。鈴木さんは少し照れて、「ジイさんがもらう賞でね」と言い、二川さんは「俺は元気だ。死なないゼ、ガハハハ」と言った。まぶしい位に年を取らないねこの人は。何処かに異常があるんじゃないか。足の骨か、気持ちの骨か折った方がいいぜ全く。室内原稿書く。何とか仕上げる。家内に読ませるにかなり不評で、頭にカーッと来たが、少しばかり書き直す。十五時、メディアデザイン研究所横田さん、インタビュアー今村創平君来宅。 10 +1の取材らしい。今村君との完全なスレちがい振りには呆然とした。こういう人間が今の建築ジャーナリズムでは通用してるのか。若い人には誤解されているんだな大方。それでも屋上に上がったりで、十七時修了。家の中で何冊か面白そうな本を発見して読みふける。馬場昭道の「ラダック紀行」も読み直してみると仲々味わい深い。
 十一月二日
 つくづく思うのだが、近頃日々の動きの半径が小さくなった。しかも、直線的になった。他人のそれは知らぬが、我ながらそう思う。しかし、それ以前の事を考えると、あきれ返る程に無駄な動きばかりしていた。あの憮然たる過労な無駄が少なくなったと考えるほうが健全なんだろう。
 十一時前研究室。渡辺と打合せ。その後雑打合せ。十三時半TVディレクター矢野氏打合せ。錯綜としたいくつかの物件の話しをした。来週一つの物件現場で打合せとなる。久し振りにあったので、沢山話し過ぎて矢野氏には迷惑だったと思うが、仕方ない。十六時エクスナレッジ長島氏相談。その後、幾つかの雑打合せ。十九時前、近江屋でαインターネット若松社長と打合せ。氏は明日からモスクワとの事。二十一時半迄。二十二時二〇分世田谷村に戻る。遅過ぎる夕食を取る。
 十一月一日
 十一月はたそがれの国。はるか昔、悠久に近い大昔、子供の頃読んだレイ・ブラッドベリの短編集のタイトルだ。日本風に言えば幽明界を同じくするかな。
 北京の仕事にフォーカスが視え始めた。それで朝、山口勝弘さんに電話して会いに行く事にした。イマジナリウムの概念設定はもう良い。やっぱり山口さんも私も何か遠い標的があると考えが膨らむタイプなのだ。その標的の是非を問うのは上手じゃない。「超ジジイとオジさんの夢」と題した仕事を作ってみよう。
 十四時多摩プラーザの山口勝弘さんと会う。リハビリのマッサージの日だっだらしく、時間があんまりないので色んな話しをごった煮にして話す。北京の件、プラネタリウムの件他。絵本プロジェクトについて大きな関心を示された。これは早速すすめてみる。先ず身体の事から絵にしていただくのが良いのかな。スーパージジイをドンキホーテにボンクラオジンをサンチョパンサに仕立てた筋書きはいかがであろうか。スーパージジイの決して閉じ込められる事の無い想像力を、ドンキホーテの槍の如くに描ければ面白い。
2005 年10月の世田谷村日記

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