石山修武 世田谷村日記

石山修武 世田谷村日記 PDF 版
新・世田谷村日記
 十二月十八日 日曜日
 十時発。丸の内で今日は会があり、久し振りに家族親戚が集まる。グルジアのナターシャ夫妻、ニューヨークのフレッドともあいさつ。十七時世田谷村に戻り、すぐ眠ってしまう。
 十二月十七日
 朝、馬場昭道より電話。十三時半新宿で室内長井さんにマテリアル渡し。十五時研究室。修士設計、論文ゼミ、他。十八時半修了。チリからの留学生アベルと新宿で夕食。アベルは三〇才。すでにチリで住宅の実作があり将来への野心も明確にある。要するに若いラテンアメリカの建築家である。これ位の若い奴を教えるのは面白い。
 アベルは母親と十五才までキューバで暮らしていた。エルネスト・チェ・ゲバラが去ったキューバである。キューバの記憶は今も強く心に残っていると言う。一度、キューバには僕も行ってみたいと考えている。リオデジャネイロのガブリエルにも又会ってみたい。皆、エルネストを心の奥底でいまだに愛している若者達だ。イデオロギーではなく、精神として。二十一時半、世田谷村に戻る。
 十二月十六日
 十二時学科将来会議。十四時設計製図中間講評会。十七時半迄。十八時半渡辺と磯崎アトリエへ。十九時半磯崎さん宮脇愛子さん他と神楽坂寿司幸。二十一時過了。二十二時半世田谷村に戻る。宮脇愛子さんに絵本の件で手紙を書く約束をする。
 十二月十五日
 十二時、農村研究会。八十五名の参加者。
 農文協甲斐氏事例報告。淡路島山田脩二淡路百景。利根町佐藤さん百人スクール。石山研野村、丹羽、渡辺、提案。結城登美雄、甲斐、高野孟、利根町長、座談。のプログラム。山田脩二に初めて接した人は驚いたろう。皆どう思われたか知らぬが、山田さんに来て貰って良かった。いずれ、お百姓さん達に参加していただくようになったら山田さんは不可欠な人材だ。十六時半修了。利根町の方々にはおにぎり、おそうざい、おしんこ等用意していただき、御礼も言えず失礼した。町長さんも、いきなり座談に参加していただいた失礼を大目に見ていただきたい。
 新潟市長篠田昭氏、市政創造推進室高橋建造氏参会。研究会終了後研究室で話す。利根町に引き続き新潟市が 21 世紀農村のケーススタディの場になってくれると良いな。十八時新大久保近江屋で懇親会。佐賀新聞の梅木君も遠くから駆けつけてくれた。いずれ佐賀でも 21 世紀農村のひな型を試みたい。
 修了後、新宿池林坊で、山田、甲斐、梅木と少々飲む。山田脩二絶好調の半日であった。
 一月は趣きを少し変えて、場所を利根町に変えてみるのも良いかなとフト思ったりした。二十三時半世田谷村に戻る。
 北海道十勝で高野氏と坂田明が隣人であったのを初めて知る。結城さんは明日から沖縄だそうで、忙しい日々を相変わらず送っているようだ。体をいたわっていただきたい。
 研究室の連中も良く準備してくれた。
 十二月十四日
 十二時研究室。打合わせ少々。十三時頃淡路島の山田脩二氏来室。明日のレクチャーの準備の後、いささかの、まじめなインタビュー。脩ちゃんと真面目に話したのは何十年振りだな。面白かった。兵庫県立美術館の「山田脩二の軌跡」展カタログの為に十枚程書くので、チョッと聞きたい事があった。いいのが書けそうだ。
 二十一時過、次女友美アメリカより一時帰国。やはり顔を見ると安心する。
 十二月十一日 日曜日
 山田脩二の軌跡、兵庫県立美術館カタログの為の原稿書くも、うまくゆかず、七、八枚没にする。山田の事だ。十枚二時間で書いてしまおう、というのが何ともはや、うまくいかなかった。構えたわけではない。勿論淡々として書こうと思ったのが上手くゆかなかった。少しばかり考え込んでしまう。ホームページのコラムスタイルを新しいスタイルに代えたのが、こんな風に響いてきてるのか。ウェブサイトの方は何のとどこおりも無く進んでいるのだが。
 夕方、佐藤論よりTEL。佐藤健の会は今年は四人位でやりたいという。もう三年になるな、健がいなくなってから。
 十二月十日
 七時半目覚める。昨日現場に居た時、無数の視線が動いているのを実感した。見学者の眼、隣のマンションからの眼、前の道路からの眼、眼、眼。これが都市内建築が対面する新しい事態だな。ドライに言えばセキュリティ。空間の詩として言えば、夜も昼も千の眼を持つ事への対応。
 個人の自由の確保は密閉された箱以外にないのかって言う事でもある。
 九時ホテルレストラン朝食。十時過Oさんにピックアップされ、十時二〇分現場。昨日に引き続き蔭久、馬場棟梁と打合わせ。塗料屋さん色出し、他。十二時過Oカンサイ社長現場へ来る。山中で寿司の昼食。カンサイ、ビジネスの将来を示す小冊子の提案。やってみて下さいとの事。山中のオヤジさんから磯崎さん上海からの帰りに寄られた話等聞く。山中は良い店になっていて、今や、福岡の名所だそうだ。福岡場所では横綱朝青龍まで来ているとの事。十四時現場に戻る。打ち合わせ続行。十七時過迄。名残りは惜しいが疲れた。福岡空港十八時。十八時四〇分の便で東京へ。機内でなにがしかの原稿書く。二十二時前世田谷村に戻る。
 十二月九日
 八時四十五分世田谷村発。十時前羽田空港。MSP(マツダ店舗開発機構)野口社長と会う。十時三〇分福岡へ。十二時過福岡空港着。機内ではグッスリ眠る。O夫人迎えて下さり、昼食後、現場へ。淡路島の山田脩二氏と会う。タイル屋さんと打合わせ。塗装屋さんと打合わせするも仲々距離がある。アトム部長氏と打合わせ。家具屋さんと綿密な打ち合わせ。他、十八時迄。寒い。十九時前ホテル、チェックイン。O夫人とまめ丹へ。夕食。二十一時過了。二十一時半ホテルに戻る。設計、施工共に上手く行っているのだが、仕上げの微妙さに関して大きな不安が頭をもたげる。工業製品の仕上げに関しては選べばそれで終わりなのだが、現場でニュアンスを作り出さねばならぬ部分を残すのが私の方法だから、その部分でのニュアンスの合意を作り出すのが仲々に困難なのだ。
 それぞれの現場で、材料の加工具合の最終的な加減、職人さんの技量との合い加減との組み合わせ、微妙な色出し、光沢の具合、等を決めるダイゴ味こそが現実の建築デザインの特権であろうと思われるが、どうだろうか。オフィスの中のデスク上ですべて決められるような事だけで出来てしまうのは、生きた建築にはならない。
 一つの材料の加工具合のニュアンスを決めるのにも無限に近い、例えば光の変化との適応性等の変幻への読みは、現場に立たなければ、そして読み切る力を使い切る努力をせねば得られない。まだ私などには得られぬ体験ではあるが。
 建築が他の何よりも面白いなにかがまだあるとするならば、それは個有の現場=場所=時間を持つという事、それに対する個有の想像力を駆使し得るという事ではなかろうか。二十三時前、眠ろうとする。
 十二月八日
 李祖原との東京の四日間は要するにグローバライゼーションの現実と対面する個人の意志の可能性って事だろう。北京モルガンセンターのオーナー部活伝の現実は対アメリカ資本との戦いと妥協の戦略の最中にある。山本伊吾の「室内」に連載を始めているが、段々北京モルガンセンターの件は書ける事が絞られてくるかもしれない。できるだけの事はオープンにしてゆく決意でやっているのだが、中国大陸は余りにも巨大な渦巻き星雲である。山本伊吾は首相靖国参拝賛成論者であるが、一度連載で文句つけてみようかしらん。  カバーコラム連載の一コマを百円たたき売り有料にしてみたら、ポツリ、ポツンと反応があった。横浜トリエンナーレの堀尾さんの百円アートには及ばない。残念である。読者もケチだナァ。ポツリ、ポツンの購読者は手厚くもてなしたい。
 来週から週刊渡辺劇場がサイト上に登場するようだ。第一回は三島由紀夫の金閣寺を演目とするらしい。
 私のスーパーGiGie山口勝弘も素早く動かしたい。
 十二時大学人事小委員会。十三時教室会議、他十六時前修了。打合わせ他。二十一時前了。近江屋で打合わせ。二十二時前世田谷村に戻る。来週に近代能楽劇場開催の為のシナリオ打合わせ、他諸々の準備が始まるようで、楽しみである。
 私の百円コラムもアーティスト堀尾貞治の真似ではあるが、爆発的に売れているようである。アーティストには負けたくないな。しかし、堀尾氏の如くに一万件売上げは仲々努力が要るだろう。
 十二月七日
 九時研究室、ミサワ社長、李祖原とミーティング。十時修了。十時半、グッド・ラックと台北に帰る李祖原を送る。名古屋カムラ社長来室。左官再生プロジェクト、と言うよりも左官ガンバレ計画打ち合わせ。十三時迄。さぬきうどんの昼食後雑打ち合わせ。十九時迄。少々疲れて赤ワインをふくむ。近江屋で雑談の後二十一時世田谷村に戻る。
 十二月六日
 十一時名古屋左官業加村氏来室、左官再生プロジェクトの件を予定していたが、私のミスで、明日だった。十一時より研究室で李祖原と話す。昼食のサンドイッチをはさみ、十七時迄、ぶっ続けで話す。面白かった。十七時過α社長若松氏来室。ロシアのビジネスの話し。十八時新宿で李、若松両氏と会食。二〇時半迄。二十一時世田谷村に戻る。
 十二月五日
 朝ミサワ社長に連絡。
 十一時李祖原。ミサワ氏との打合わせは七日となる。十三時古市氏来室。共に昼食。十六時迄。修士論文ゼミ。ようやく焦点が合い始めた。二十二時世田谷村。
 十二月四日
 日曜日  十六時十五分新宿で李祖原と待ち合わせ。十七時六本木グランドハイアットホテル、磯崎新氏と会う。Barで話し始め、近くのうまいソバ屋に移り、二十一時十五分迄。磯崎さんは昨日ヨーロッパ、上海から戻ってきたばかりなのに相変わらずタフで、精神もはずんでいた。李祖原もタフだが、磯崎氏のタフさとは異なるスタイルの強さであるな。
 典型的なコスモポリタンになりつつある磯崎と、民族主義(中華主義)者、東方主義者と言っても良い李祖原のちがいであろう。日本も台湾も大陸の端に位置する島国であるが、それでも地政学的相違、歴史の違いが大いにある。その相違から来るものか。李祖原は幼年期に中国大陸から台湾に移り、やがてアメリカに学んだ台湾のリーディングアーキテクトとなり、今、再び中国本土に仕事の場を移し始めている。磯崎は台湾と同じ位の大きさの九州に生まれ、幼年期を過ごした東京で学び、日本のリーディングアーキテクトとなり、今は世界を巡る日々である。李祖原の眼から視た磯崎像というのは面白いかも知れぬ。
 十二月三日
 午前中、ANYの原稿ゲラ校正。山口勝弘インタビュー校正。山口勝弘インタビューはとても面白い。もう一つ入れて第二冊目を作れるだろう。一冊目の「スーパーGiGieの旅」山口勝弘インタビューの評判も良いようだ。徹底的に私的な対話世界からいきなり広い世界、宇宙が視えるような本になってゆくと良い。  午後、来日した李祖原教授と研究室で再会。北京モルガンセンターの進行過程を聞く。結論は、なにしろ北京市ともめにもめている計画のようで、今はモルガンセンターオーナーの郭活伝と北京市長の政治的攻防になっているとの事。李祖原は当然ながら、全体を見渡していて、問題は無いとの事。ただ、北京モルガンセンターのサイトが二〇〇八年の北京オリンピックサイトのまさに背景なので、二〇〇米のタワーをカットダウンしろとかの、北京市の政治的思惑と厳しく対立している最中であるとの事。日本サイドでは北京モルガンセンターについて余り思わしくない情報が流れているが、それは仕方のない事だろう。李祖原にとっても中国本土で最重要な仕事であるし、彼の未来もかかっている。色々あるだろうが前に進めるだけの事だ。李と共に北京の郭活伝と電話で話す。勿論、ノープロブレムだ。おまけにドントウォリーなんて言われてしまう。十七時前新宿で李祖原と会食。十九時修了。帰りがけに李のパートナーであるアンにバッタリ出会い、再び李と、ヤアヤアという事になった。明日、又ね、と別れる。
 十二月二日
 朝九時ブルータス取材。井出君、カメラマン山田君来る。早速屋上に上る。インタビューと写真撮影。若い人と話すのも仲々良いものだ。空もおだやかで、和やかな時間であった。今夜李祖原来日の予定。
 午後研究室。夕方渡辺と新宿で雑談。二十一時半世田谷村に戻る。渡辺が考案しつつあるバーチャル舞台装置のプロジェクトは面白そうだ。建築デザインのある側面を拡張してゆく芽になるかも知れない。彼のチームはいい勉強になるだろう。期待したい。最低六件位の演劇空間をデザインする必要があるだろうな。
 十二月一日
 朝杏林病院定期検診。午後研究室。十六時中央工学校講演。十九時前修了後、生涯学習室石井さん、田中氏と会食。中央工学校は田中角栄ゆかりの専門学校の名門である。色々と努力されているのに驚く。早稲田の芸術学校も見習うべき点が多いと感じた。何か共同で出来ると良い。二十三時世田谷村に戻る。
2005 年11月の世田谷村日記

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