石山修武 世田谷村日記

4月の世田谷村日記
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 三月三〇日
 十一時過秩父武甲山を南に眺める高台に到着。エスキス2点を得る。十六時前研究室。打合わせ。十九時半迄。二〇時過新宿駅京王線烏山駅で架線にビニールがからむアクシデントでダイヤが乱れて、待たされている。ビニールが春風でフワリとケーブルに引掛ったのだろう。それで、ざっと一万人位の人々の生活が変調をきたしているのだから、誠に現代社会の仕組みはもろい。しかし、ビニール一枚で良かったと思わなければならぬ。能登半島震災がダイレクトに原発を襲っていたら、という架空の想定は、むしろビニール片が春風に運ばれて、という変異よりも余程リアルな取り返しのつかぬ事故への確率を内に持っている筈である。とすれば我々はビニール一枚よりも薄い船底を持つ巨大船に同乗しているお互い様の境遇なのではあるまいか。京王線ビニール事件に出喰わして詠める句。
 春風に ビニール飛んで 夜寒かな
 ビニール飛び 電車止まりて 人動けず
我ながら俳句作はピクリとも成長せず。こりゃ駄目か、凡句連続して下降エレベーター。
 三月三十一日
 七時起床。八時前真栄寺に向けて発つ。昭道和尚、藤野両氏も銚子から今頃走っているのだろう。途中首都高速渋滞で、十時三〇分真栄寺。満開のしだれ桜の下で会う。和尚は会席の席を見事にしつらえて下さっていた。相談をしばし。佐藤健を記念の桜も駐車場に育ち、ここは花や紅葉に故人をしのぶ良い寺になってきた。金子兜太のびょうぶ、石山の昔の百号の絵などを桜の花の下で眺める。十二時過名残り惜しいが去る。十四時三〇分大学。若い先生方の会。建築教室の将来への改革等の相談。十七時半コーリア料理屋で会食。二十二時過散会。
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 二十九日夜、北京七星モルガンプラザプロジェクトから世田谷美術館展覧会まで、ここ一年、つまり二〇〇八年夏迄のWORKの段取りをようやく今日決める事ができた。やっとドローイングにかかる事ができる。
 三月三〇日
 早朝真栄寺に電話するも昭道、藤野忠利双方共にすでに出掛けたとの事。マア、二人共風の又三郎みたいに流れ動く人たちだ。何とか今日中につかまえなくては。坊さんと、アーティストの二人組で動いている姿を想像するに、まさに風そのものだな。十時前、秩父に向う。
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 三月二十九日
 八時起床。八時半発杏林病院へ。久し振りの定期検診である。異常は無い様だが、自分としてはあるような気もしているので気分は良くない。大丈夫です健康ですと言われれば、それはおかしいと思うし、ココが良くないと言われれば言われたで気にする始末で、どうしようもないのである。昼世田谷村に戻る。色んなプロジェクトの行方を考えると、ドーッと重圧を感じるが、突きつめれば今はドローウィング、ペインティング、モデリングの主題を考えるにつきるという結論に達した。困難なのはその主題なのである。独人になり切って考えてみるしか無いなコレワ。
 午後、それにかかり切る。十八時半、ネパール料理屋で一応の答えを得る。ギリギリに考えた事だから、今の自分にはこれ以上のモノは無いので、マ、コレでやってみる。必死に考えた数時間は、これまでで初めての事だな、と思う。今晩からドローイング作業に取りかかる。同時にそれのリアライゼーションを考えるが、現実的には 50 %ほどの計画はすでに現実とのつながりを持つものばかりであった。夢は現実からつむがれるものだ。
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 三月二十七日
 十四時半。京王稲田堤「星の子愛児園」園長先生他にプレゼン。十五時過修了。研究室へ向かう。北京モルガン他打合わせ。
 三月二十八日
 午前中、世田谷村にて北京ワーク。北京の李祖原と連絡。十三時三○分研究室。北京打合わせ。十四時長井さん、日経BPインタビュー。十五時半了。九州玄界島震災復興住宅プロポーザル第三次通過、具体化を急速に進めなければならぬ。十七時前研究室発、神田岩戸へ。十七時半岩戸。今夕は幾たりかの旧友に会える。新潟市の農村計画を進める。中国大陸は北京を中心とした五大都市、日本は農村、及び非中心、非都市に取り組むという筋書きをリアライズしてゆくつもり。岩戸は店名の通り宮崎県人が愛用する店である。東国原知事の誕生で話題としては明るい情報が流布しているが、現実の宮崎県は仲々大変だろう。凍てつく現実から脱出する方法はあるか。農、林、水の充実による田園の創生しかないのでは。スポーツ日本清水さん、宮崎現代っ子ギャラリー藤野忠利さん、我孫子真栄寺馬場昭道さんと会食。楽しい時を過ごした。二十二時迄。二十三時前世田谷村に帰着。
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 三月二十六日
 十三時半加藤先生、輿石研助手とデザインと技術ゼミ打ち合わせ。十五時前、鬼沼計画「時間の谷」エスキス了。十六時鬼沼、北京、打ち合わせに入る。十八時三〇分修了。計画がリアルな段階に入る毎に打ち合わせがハードになる。しかしシンプルなハードさで、肉体労働と同様だ。
 三月二十七日
 八時過起床。十時半迄グズグズと過す。宮崎の現代っ子ギャラリーの藤野忠利さんより便りあり。具体の人々の評価がますます高まる中で藤野さんの大入パフォーマンスもハツラツとしている。星の子愛児園より依頼された西壁のスクリーン(絵)のアイディアが出そろったので、明日の予定を今日にして十四時半プレゼンテーションとなる。世田谷美術館展のためのドローイング、テーマ考えるも仲々まとまらず。チョット頭デッカチになり過ぎているな、我ながら。無い知恵を絞る愚を犯している我ながら。
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 それ故に北京モルガン七星プラザのプロジェクトは、二〇〇八年北京オリンピック以降も続行してゆく必要がある。中国大陸のセンタープロジェクトとして、又キーステーションとして位置付けられよう。日本をリアルな場所のステージとして想定するプロジェクトはそれに対抗すべきポテンシャルとして位置付けたい。個人の深化の方向である。研究のベースとしては自分を含めたマイノリティへの視線がある。私的な夢のドローイングの続行を含めて、作業を深化・拡大してゆく必要がある。双方向、対立的に進行してゆくエネルギーをかろうじてではあろうけれども横断してゆくベクトルがしたがって必然となる。これが開放系技術の体系性を目指したアイデアとなる。従って、ウェブサイトの編集もその軸に沿って少なからず修正しなくてはならない。十二時半世田谷村発。研究室へ。「ときの忘れもの」ギャラリーでの二回の個展を基礎にして、ドローイング作業をすすめる。
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 三月二十六日 月曜日
 八時過起床。昨日は終日世田谷村で休養した。二〇〇七年の今を考えるに、私の生まれた一九四四年当時、つまり敗戦そして戦後当時の日本の状況と類似性があるような気がしてならぬ。戦後日本の単一の目標は経済成長であった。一応の成果を得たが一九八〇年末にバブル経済の崩壊の末路となった。その後の十年間とそれ以前の十年間は崩壊の準備段階と、崩壊のその後として位置付けられよう。第二次世界大戦後と同様である。今は中国の急成長、インドの近代化に伴い日本が大東亜共栄圏、つまり当時のグローバリズムを唱えてアジア大陸に単独で力を拡張してゆく可能性は無くなった。日本は一九四〇年代と同様に島国として封じられ、内的成熟を促される状況となっている。今世界に類似する国は台湾であろう。日本は鏡像として台湾を視なくてはならぬ。その間の考えを省略して、今持つべき個人としての私の持つべき目標は二方向に分化されざるを得ない。グローバリズムに順応してゆく方向と内的成熟の方向である。グローバリズムに沿う方向の計画と内的成熟を促す方向の双方を持つ必要がある。六〇才の只中に入り込んでいる年令から言っても当然の事である。グローバリズムのメイルストロームの渦中に対面するならば、それは中国の今が最適である。どうせ巻き込まれるならば最大級のそれが望ましい。同時に内的成熟を表現せざるを得ない。それは日本という島国の現実が最適だ。
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 三月二十四日
 十四時過新宿小田急線にて成城へ、山口先生には十五時前に会えるだろう。世田谷美術館「世田谷時代1946 - 1954の岡本太郎」展会場で山口勝弘さんにお目にかかる。この展覧会の太郎さんの交友関係の最終セクションに実験工房の面々が取り上げられており、山口さんもかなりの点数を提供されていた。山口勝弘さんは岡本太郎とは十八才の時からの附き合いであったそうだ。ジョルジュ・バタイユ、マルセル・モース等の考えと直接触れたパリ帰りの太郎さんに触れた、当時の十八才の気持は存分に振れたであろうと想像する。今は、パリ帰りの芸術家はすでに漫画的存在でしかない。が、ナチズム侵攻、パリ陥落寸前からの脱出船での帰日であったのだから、その太郎さんはやはり存在自体が一種の歴史性を帯びて山口さん等若い芸術家達の眼に写ったのは自然な事だった。山口さんはお元気で、小声で「今ね、美術館設計してるんだ」とおっしゃる。「エッ、先生、場所は何処?」と尋ねる凡人の私に「ウーン、月面だよ、月、月なの」とこともなげにおっしゃる。プラネタリウム計画も様々に展開しておられるようで、それが現実のギリシャなのか、夢うつつのギリシャの地なのか、こちらには区別がつかぬのが本当に面白い。私の中の芸術家風は、八〇才の山口勝弘と比べればまことに俗臭プンプンたるものでしかない。小型バスで多摩プラザに帰る山口さんを見送る。今度はいつ会えるか。
 岡本太郎展オープニングセレモニーのスピーチを聞いて、世田谷村に戻る。朝、昼メシ共に抜いていたので空腹の極み、宗柳で渡辺等と会食となる。
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 三月二十三日十五時前研究室。鬼沼計画北京計画、他打合わせ。十九時修了。
 三月二十四日
 八時起床。十時十五分大学八階サロンで輿石、加藤両先生と第一回の研究会、及びゼミ打合わせ。素材と技術に関して複合的な視点から考えられないかの研究である。現実の建築は全て重力を持つ。重力は実存する素材が持たらすものである。そして建築物の質は現実には素材の組み合わせに対する工夫が生みだす事を直視しようという、すごくシンプルな考えをベースにしている。石山研の研究目的が非素材世界、つまり情報世界へと傾いているので、どうしても必要になった。輿石、加藤両先生にはお世話になる。十時半第一回デザインと生産技術、ゼミ及び研究会。参加学生は6名。まだ休み中なのでゼミの存在も知られていないのだろう。参加自由、枠無しなのでより多くの学生の参加を望みたい。急な連絡入り、山口勝弘先生に会う為に十三時四〇分研究室を発つ。山口先生には機会があれば可能な限り会っておきたい。
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 三月二十三日
 九時起床。鬼沼他エスキス。都知事戦本格的に開幕、福岡オリンピック招致に加勢した身としてはオリンピックの行方に関心がある。見届けたい。さらにJOCの対応も見届けてゆく。現段階ではJOCの対応は又も無残であるとしか言い様がない。東京オリンピック招致が不可能になった時点でJOC竹田会長は当然退陣するべきであるが、それもウヤムヤである。石原慎太郎都知事は招致不可能になった場合、任期満了を待たずに退任すると明言している。
 世田谷村からの風景が一転してしまった。南七〇メーター前方にTime社なるイエローボードが大きく建ち、一時間百円の小型駐車場が出現した。南の風景に初めて原色の商業カラーが出現した。その原色のビルボードが村からの風景を変質させた。巨大な球状ガスタンスが山並みの如くに眺められる風景よりも何故か傷害を想わせる原色だ。
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 三月二十二日
 紫明二〇号が送られてきた。表紙のドローイングは山口勝弘さん。多摩プラザの室で見た「宇宙の自画像」である。携帯電話とインターネットによる今世紀の人間の行動様式と、山口さんの現在の車椅子生活をいささか自嘲気味(本人が言う)に描いたものだ。岡本太郎を調べていると、その交友関係(師弟ではない)に時々山口勝弘さんが登場する。若い元気な山口勝弘である。芸術家達は厄介な人達ではあるが、建築家達よりも、その上澄みの人達には商人の気質が薄いのが良い。
 十三時研究室、世田谷美術館展二〇〇八打合わせ。十九時前まで。北京モルガンの途中報告を聞く。三年掛かりで進めてきた計画もいよいよ大づめである。二〇時過世田谷村に戻る。モルガンファミリーの来日予定決まる。四月からの三ヶ月は大変だな。世界一の日本食レストランの件、日本を代表する十店程のアレンジを依頼済。
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 三月二十二日
 昨日二十一日は終日世田谷村で幾つかのプランを考えたようなボーッとしていた様な、間の抜けた一日であった。若い人達の意見は聞いていて面白く楽しくもあるが、歴史は繰り返すの伝の通りに、現実への直視力が欠けてもいるようで、そのまま受け容れる事は難しい。石山研の若い人達と世田谷村の若い人達の意見が際立って異なり、エネルギーを生むようになると面白いのだが。同じ考え方だけの混在ではそれを望む事が不可能だ。
 今朝の新聞各紙にグランドキャニオンのガラスの展望台の写真入り記事が出ていた。ネイティブアメリカンの居住地の施設はネイティブアメリカンの意見が反映される筈だが、この三千万ドル(三十五億円)の展望台は入場料二十五ドルでカンボジアのアンコールワットへの一日入場料と同額のようだ。事故が起きなければ良いが、千数百メーターの空中に浮くスリルが目玉で、ネイティブ系のスピリッツとは無縁なものであろうが、頼まれれば設計しただろうから、簡単には批判できない。昼過ぎ研究室へ。
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 三月十九日九時起床。手紙を書いたりで午前中は過ごす。
 午後研究室北京プロジェクト、世田谷美術館での来年6月からの展覧会に関してミーティング。山田脩二より突然電話入り十七時半打合わせ中途で出る。風の噂では、山田脩二は炭焼き行脚に明け暮れしているうちに自分で自分を焼いてしまい、現世からは煙となって消えたと聞き、アアこれでもう深夜の乱入はないなとホッとしていたのだが、それは夢であった。近江屋で会食。山田大円は精気はつらつとしてまだ当分くたばりそうになく、ガッカリする。まったく、現世に居続けて欲しい人程早くゆき、居なくなっても良い人が残り続けるという現実の真理を山田のツヤの良い顔にまざまざと視てしまった。二十一時過世田谷村。
 三月二〇日
 世田谷美術館での展覧会、最初のたたき台が出てきたので、研究室に送る。「夢と建築」悪夢、白昼夢、予知夢、夢の共有の四つのセクションをグルグルと連続させるという案。この展覧会は 60 才代の私の枠を決定づけるものになるだろうから、真剣に取り組む。 60 代のスタート として考えている。
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 三月十八日 日曜日
 九時前起床。十時発、四〇分西早稲田観音時。母、妹夫妻と会う。十一時三〇分武蔵野市レストランで昼食。母親祥江は八十六才である。世田谷村に母の部屋をしつらえてあり、妹も兄と一緒がイヤなら、自分のところに一緒でと言うのだが、一向に一人暮らしを止めようとしない。しかし、恥をさらすが、流石にそんな状態ではなくなってきてしまった。年老いた母の面倒も見ないでほおっておける程、俗な非情さの持主ではない。しかし、母は気が強い。それだけが取り柄の人だ。他人の言う事は聞かない。自分の思う通りに生きてきた人なのだ。亡くなった父親も彼女に引っぱられて生きてきた風もある。おまけに、母は金もないのに普請道楽のクセが抜けない。私の世田谷村に来たって、ここ変えろ、ああせい、こうせいとうるさいだろうし、うるさいだけではすまさぬ人だから、大火種になりかねない。驚いた事に、今は自分の終の住居のスケッチまでしているらしい。異形な人である。正直ホトホト困った。早稲田バウハウススクール佐賀で、学生達にそれぞれの母の終の住居を設計せよなんて課題を出していた事なぞも脳裏に帰去したりする。遂に私も母の終の住居に対面しなければならぬかと考え始める。午後、何故かランボー作小林秀雄訳「地獄の季節」を読み始める。なんで、母の終の住居問題と地獄の季節なのかは全く解らない。父が亡くなった時、私はバルセロナからの帰途にあり臨終には立ち会えなかった。死後硬直を起こす寸前に父に対面した。母はオロオロして泣いた。そんな事どもを、今日はまざまざと思い出したのだった。人間の記憶する力は、その時々によって余りにも異なるが、あの体験は峻烈で忘れる事が出来ない。
 親より先に死ぬ事は最大の親不孝であると言う。それだけは今のところどうやら回避できるやも知れぬが、まだ解らぬ。母の行末の現実に直面し、ここしばらくは母の終の家とキチンと附合わねばならぬなと覚悟する。
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 三月十六日
 十六時世田谷美術館へ。N氏、学芸部長T氏に何も展示していない各室を案内していただく。途中よりW、I参加。大まかな基本方針は頭の中に作成できた。美術館内外を巡り、十七時過了。十八時過新大久保近江屋へ。十八時半伊東豊雄さんと会食。久し振りに話しを持てたのだが、実に楽しかった。今年中のベトナム旅行を約し、二〇時四〇分頃了。
 三月十七日 土曜日
 昨日は伊東豊雄さんと本当に久し振りにゆっくり話しをしたのだが、伊東さんは建築に対して若い頃と変わらぬ気持を持ち続けているなの印象を得た。それ故に、まだまだ進化するだろうと思う。お互いに生きてゆくスタイルも別になっているし、生き方そのものの形が違ってもいるので、話しが出来なくなっているかなとも考えたが、それは杞憂であった。建築の未来がどうなるのか、それは解らない。少なくとも伊東さんと私は異なる未来を思い描いているだろう。しかし、これから七〇才、八〇才を迎えて、生きてゆくスタイルの方が重要で、伊東さんはその事にも充分な考えを持っているようだった。昼過西調布へ、肩の治療。その後は休みに当てる。体調はボロボロだ。
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 三月十五日
 十六時前新大久保駅前近江屋。十六時過渡辺他集合。雑事打合わせ。十八時過迄。世田谷村に戻る。
 三月十六日
 十二時起床。昨夜は眠れぬままに乱読。頭の中は暗黒星雲状態となる。写真家大橋富夫氏は中国・チベットの集落撮影に取り組んでいるようだ。まだまだお元気で、やりたい事に集中しているようでうらやましい限りだ。写真家の幾たりかは、画家と同様に年令を感じさせぬ人がいるのに驚く。体と眼と指先を動かし続けているからだろうか。幸運な事に、何人かの写真家を知り合いに持つので、彼等の事を近々論じてみたい。写真はそれ自体の表現形式によって、そのまま建築、空間批評たり得ている。いつも一方的に批評されているのは面白くないの気分もある。大橋さんは独特の光への感性の持主で、雨の大橋、曇りの大橋と呼ばれていた如くに、柔らかい光の中に対象をくるみ込むのが特徴である。フェルメールの絵画に通じるものがある。チベット民家の内部の写真、囲炉裏の炎の近くに座る女性を中心に、小さな窓から指し込む光、炎の光、共に女性の横顔のニュアンスを豊かに写しとっている。室内に漂う微細なホコリの粒子や、煮込んでいる鍋の湯気や、その匂いまでがこちらに伝わってくるのが実に大橋流である。大橋さんも数々の経験を経て、人間と建築と光の交響曲状態を撮ろうとしているのが伝わってくる。女性の髪をたばねている赤い布の光が全ての中心である。様々な光は微妙に動いている。炉の炎の光、小さな窓からの光は多方向に拡散して小劇場のスポットの如きである。しかし、女性は動かない。横顔の肌の色、黄銅色にきたえぬかれた色の輝きも永遠を思わせるように固定されている。赤い布と顔の光にフォーカスが集中されているのが知れる。光は動き廻っている。人間は動かない。様々な光の中に分厚い木の床の肌の光、土壁の土の光、置かれていたり吊るされていたりする物の光が点在してる。チベット東部の外は柔らかい光に満ち溢れているに違いないのだが、大橋はその光を抑制して、女性の髪の赤い布の光を中心にそれを再構成している。女性は炉の炎を見つめている。小さな炎の光は炉の内壁に反射して赤い布の光とバランスが取られている。これらの事を写真家は一瞬のうちにつかみ取り、切り取っている。これは絵画では不可能な事だ。写真という技術がなければ成し遂げられぬ技である。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
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 三月十四日十一時過、半分眠りながら駅迄歩き、完全に眠って本八幡経由津田沼の千葉工業大学へ。今年は東大、芸大、東工大、千葉工大の卒業設計を見て講評する機会を得た。早大を含めて五校を見る事になる。学生諸君の卒計を振り返るに、良質なものの何がしかには、時代の風情としか言い様のない、寂寥感が漂っている気がする。完全に生産主体の社会構造から消費というまだ得体の知れぬ構造へと移行している、その中で何をすれば良いのか、何を考えれば良いのか考えながら立ち尽くしている感がある、それが無いものにはリアリティーが全く感じられぬとも言える。千葉工大の卒計は力量は他に劣らないが、テーマが少し古ぼけている感があった。
 翌十五日は流石に昼まで眠ってしまった。昨日は講評会終了後みかんぐみの曽我部氏等と会食。古市氏夫妻に世田谷迄送っていただいた。
 三月十五日
 十三時起床。今日一日はゆっくりさせてもらい、WORK他の組み立てを考えたい。午後遅く研究室に向かう。研究室のサイトをのぞいてみる。順調に動いている。
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 三月十三日
 八時半起床。5Fラウンジで朝食。十時ロビーでT氏、(株)エトー社長、野村他と会う。今日は玄海島の第三次公開審査で、船で玄海島まで行く。福岡オリンピック招致計画以来ズーッと気になっていた島である。我ながら執念深い。昼過の船便で玄海島へ。玄海島は私のスタッフの野村は二度目の訪問であった。福岡大震災の記憶も生々しく、玄海島の風景は凄惨である。人間の営みは、自然のそれと比較するならば微小極まるが、しかれども営みには必ず小さな結果がある。研究室OB野本君に再会。玄海島へ発つ。災害で荒れた風景の玄海島に辿り着く。十四時半石山研プレゼンテーション。時間が少々足りなかった。十組程のプリファブメーカー等に抗してのプレゼンテーションであった。四〇分程でプレゼンテーションは時間切れ。まだまだ提案したい事は山程あったのに・・・残念極る。波止場の待合室周辺でスケッチ何点か。福岡着十八時頃。福岡港着後、野本、野村と福岡空港へ。福岡に残る野村と元々福岡の野本と会食。中華料理の空港バージョンであったが、淡々として楽しかった。二〇時四五分福岡発の便に乗り込む。満席である。DUBAI、MOROCCO以来、途切れる事なく旅は続いている感がある。しかし、体力がそろそろ途切れそうだ。二十四時前世田谷村帰着、すぐ眠りにつく。
 三月十四日
 十時半起床。まだまだ眠い。今日は午後古市徹雄氏の招きで千葉工大の卒計講評に出掛ける。体調不充分ではあるが出掛ける。
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 二十二時過グランドハイアット。チェックイン後福岡市内でT氏と会う。色々とアドヴァイスを受ける。T氏も本格的に中国ビジネスに取り組み始めているようで、中国人の南京ショッピングセンターの女性支配人他に紹介された。福岡オリンピック招致での対東京敗北の余波はジワジワと大きい。有能な人間の多くが日本を脱し始めている。日本は大きなチャンスを失なったのだが、まだそれを誰もと言って良い位に知らない。今日研究室にラテンアメリカ・オリンピック計画へのインビテーションが届いていたが、やってみようかと思う。久し振りに福岡で、福岡人の典型人物と会い、三月十三日〇一時迄ゆっくり話せたのは良かった。T氏はさぞかし迷惑であったろうが。
 只今、十三日〇二時、もう眠らなくては明日が大変なのだが、今頃モロッコとの時差がやってきたらしく、全然眠くならないのである。眠れぬ原因とて、地球が自転している宇宙的風景を思い描いてはみるが、まるで様にならぬのであった。
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 三月十二日
 十七時半研究室発。十九時過羽田空港。待ち合いロビーにて昼食兼夕食の弁当を喰べる。いきなり忙しい時間になってしまった。二〇時〇五分の便で福岡へ。機内でANAの翼の王国読む。実に他愛の無い事がつまっている。何にもイヤな感じ、イイ感触も残らぬところがミソなのだろう。これ読んで旅に出ようという人間が居たら余程のセンチメンタルな人間だろうな。モロッコで会った老人グループの日本人団体はオバサン主体であったが、こんな広報誌にはだまされないわよ、の不敵な顔だましいの持主ばかりであった。あの老女たちはジックリそれぞれに勉強して、ツアーも選び抜き、珠玉の時間を過ごしていたのだろう。ビーチサンダルでディナーレストランを歩いていたオバア等はイカシテた。しかしながら男は皆元気無かったな。年取っても見栄を捨てられないからだろう。自戒したい。機内誌を読んで、モロッコの老女ツアーを想い出したりしているうちに、二二時近く、福岡に間もなく辿り着く。福岡はこんなに時間がかかった所だったかしらね。日本の飛行機代の高いこと、世界では桁外れであるな。機内誌に金かけるより千円でもコストダウンしろと言いたい。
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 三月十二日
昨夜、世田谷村に戻り、九時半迄熟睡。30時間程かけてFEZ、DUBAIより帰った時差も解消。今晩より福岡へ、明日の玄海島災害復興プロジェクトの第三次審査、及び住民への公開説明会に望む予定。日本は春めいてはいるが、モロッコよりも寒い。モロッコで気持ちを一新できたので、月並ながら今日からフル稼働したい。下の畑の野菜も大きく育っていたが、垣根の一部が壊れていた。イスラムの旅ではスケッチブック二册を描いたのでHPに掲載してみるつもり。モロッコのITカフェで石山研のページをのぞいてみた感じを大切にしたい。世界中の人々がコンタクトしている現実を忘れないようにしよう。英文のページの充実を段階を踏んで実現しなければ。世田谷美術館N氏と十六日に会う予定を組む。十三時過研究室、野村と玄海島計画の件打合わせ。十五時新潟市役所来室。北京の件。午後遅く福岡F氏と連絡。夜の便で福岡に飛ぶ。
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 三月一〇日。今日でイスラムの旅は一段落である。沢山イスラムを身体にしみ込ませた。三時半起床。四時半過ホテル発、TAXIでFEZ空港へ。六時の便でカサブランカへ、ドバイ廻りで東京への長い旅である。渡辺がこちらで買い求めた完全なアラブ人の服装で帰途につこうとしているので、それは空港でつかまるよと初歩的な注意をして着替えさせた。若い人は自然にアラブに来たらアラブ風になるから恐い。ノーマルとアブノーマルは紙一重の境界しか無い。六時半過カサブランカ空港着。カサブランカの南、大西洋の島が気仙沼で良く聞いた名前、ラス・パルマスである。マグロを追って随分遠くまで彼等は来ているんだ。片足の船長フリントみたいな怪物がいたっておかしくはない。が、大英帝国海軍の海の物語り対気仙沼の鮪ハエ縄漁では異種格闘技だな。
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 今度の旅には丹羽君を出発点とする、新人類シリーズの草稿を持って出たが、これは一枚も追加が書けていない。ドバイ東京間で進めるか、何とかしなくては。昨日フェズのメディナ(旧市街)で多くの重度障害者に会った。何かが、触発されている筈だ、私の中に。渡辺豊和氏への返信は今すぐ書くつもり、ライブだなウェブは。
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 古都フェズで感じ入ったことがある。メディナと呼ばれる旧市街地の迷路状バザールで一番にぎわい、イモを洗うように人の群れているゾーンがあって、それは電気、電子街であった事。秋葉原、新宿西口はイスラムの旧市街にも出現していたのである。今回の旅には渡辺君がパソコン持参で同行した。メクネスのホテルは四ツ星の立派なものだったが、コンピュータ回線はまだ備えられていなかった。しかし、ホテル近くのネットカフェで接続可能だった。ネットカフェは街中いたるところにあり、多くの人間が男女年齢を問わず利用している。モロッコの旧都、イスラム宗教都市のネットカフェで石山研のページをのぞくのは仲々新鮮なものであった。東京を出る時にはまだ無かった渡辺豊和との交信ページも出現しており、仲々良いものであった。豊和氏はイスラム教に入信されて、モスク改革運動の闘士として人生をまっとうするバーチャルタイムをこれから描いてゆく予定なのだがイスラム旧都で体験する彼の曼荼羅都市は実にリアルな世界であった。JUST NOW 三月九日早朝五時前。昨日は早朝六時より古都フェズを動き廻った。ほとんど人影もないイスラム旧市街は朝の闇と光の狭間にシュール・リアリスティックな姿を垣間みせてくれ、この体験は忘れ得ぬものになるだろうと肝に銘じた。古い、まことに古い、マア芸術的感興であった。今日は旅の実質的には終わりの日である。最後はコンピュータの世界に遊ぶ事にしたい。何処か、モスクに近いネットカフェにでももぐり込んで、コンピュータの迷路に踏み迷う事にしよう。 実に、ウェブサイトの現実とイスラム旧市街の迷路とは同質上に並走しているというのが、この旅で得た実感である。
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 ここからは遠い東アジアの日本を想えば、イスラム建築にかろうじて比較できるのは曼荼羅であろう。曼荼羅の図像は二次元的平面でイスラム建築は三次元立体である違い(その違いは圧倒的である)は歴然としているが、通ずるものはある。曼荼羅の起源は古代インドの瘋神論、アニミズムにあるようだが、この思想を立体化、建築化できなかったのが、民族の悲哀だな。日本の僧侶の頭の弱さであり、原理の追求力不足であった。高野山の根本大塔が曼荼羅の立体化されたものとは言われるが、あれは仏像という安易なイコンの配置だけでそれを表そうとしているところが大いに力不足を否めぬところだ。日本の古代神道はメディア的ネットワークと酷似していて興味深いが、アレはブッ飛び過ぎていて、全く現実にリアライズ出来ない。神社建築は要するに皆同じ形式で良く、何の工夫も育たなかった。ただただ呼び名だけがデティールまで考え抜かれたところが面白いだけだ。神道家、神主にも人材が不足していたのだろうか。神道都市、曼荼羅都市は遂に日本には出現し得なかった。せいぜい宗教都市と言えば天理市位なのだから残念極まるのである。宗教家、団体に原理表象の原則表現へのエネルギーが不足しているのである。空海なぞも立派な人であったが、どうも原理的なものを立体化しようとする意志が全く欠けていたとしか思えない。二次元曼荼羅と秘儀に明け暮れていた限界がある。と、イスラム神学をかさに着て、不そんな事を言う。ほどほどにデッカイ宗教的建築を作りたい、と切に思う。今なら出来るんだけどナァ。宗教的建築とは原理的建築の通俗訳である。
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 イスラムの古代都市を形成する原理は神学である。イスラム建築様式も又、神学と数字によって構築される。最も原理的な機能は密度濃くデザインされ、人間の日常生活の如くに非原理的なものは非原理のままに表現されるのである。王の廟(墓)、神学校、モスク等は原理的なものの代表であるから、徹底した密度の重力をもって表現される。権力の記念、神学という超システム、そして神学の体現そのものを機能するものだ。これらの配置とその建築化、表現が都市の構造を決定する。イスラム神学と現代資本主義は馴染まない。9.11 のテロリズムに見る通りだ。それ故にイスラムの都市は神学の体系による旧市街地と資本主義的新市街地に分離する。新市街地に見るべき建築は無い。見る価値のあるものは旧市街地にある。
 良いイスラム建築は、メディアとしての建築である。建築の内外が全て神学=コーランによって埋め尽くされている。イスラム的装飾はイスラム文字、文言の数学的象徴だ。それ故にイスラム建築はイスラム教徒にとってはコーランそのものなのだ。建築は凍れる音楽だ、の抽象的アナロジーではない。まさに直接的に言語そのものの固まりである。その意味から考えれば、イスラム建築はビルボード建築なのである。ただ、資本主義社会の典型的表象物である、看板広告類とイスラム建築の違いは、それに投入される原理的工夫の密度そのものである。イスラム建築の良質なモノ、例えばフェズの神学校などは、メディアとしての建築をそのまますでに体現しており、圧倒的な充足がある。イスラム文字の読めぬ、そしてイスラム神学を知らぬ私にも、それが理解できるのが設計、デザインの圧倒的な力量なのだろう。三月八日の早朝にそんなことを考えた。
 R117
 昨日は、ローマ時代カラカラ帝のヴォルビリス遺跡都市、イドリス朝イスラム聖者の町ムーレイ・イドリス見学後旧都メクネス。ジュリアス・シーザーとクレオパトラの故事を思い起こすまでもなく、エジプトとローマは深い歴史的関係を持っていた。歴史的関係とはローマの権力を中心にした力関係の運動だ。エジプトだけではなく、その力関係の運動は砂漠と平原の民族であったアラブの遊牧民そしてユダヤの民を包含しただろう。シシリヤのギリシャ時代の遺跡に海洋交易民族であったフェニキア人の影を見たように、壮大な大草原に忽然と現れるムーレイ・イドリスによって滅ぼされたローマ時代の遺跡にも、古代アラブ民族へのローマの影を見るのである。カラカラゲートから一直線に延びる力強い道は、軍隊のパレードを主目的とするローマの力の誇示への実利性そのものである。騎馬、ラクダの自在な運動を軍事力の素としていたアラブにはローマの戦車をベースとした直線舗装道路の必要はなかった。この直線舗装道路はローマの実利精神の複写なのだ。泉(井戸)を中心に小神殿や祭祈場が原則なき原則のもとに集積している都市の中心部分は今に連なるアラブ、イスラム都市の形成原理である。その混成系の中心にグサリとローマの力の軸が突き刺さったのがローマの属領都心の構造だ。王カラカラはローマに招かれてそれを学んだのか、あるいはローマ式の戦車部隊がここに駐営したのであろうか。いずれにしても、モスクという建築様式が出現する以前の都市の形式であったのは歴然としている。大草原の落日に向けて建てられた神殿、祭祈建築群、そして凱旋門がローマの影響の結節点である。
 視覚的価値に敏感であり続けたキリスト教文明と優れて聴覚的であるイスラムの聖都ムーレイ・イドリスは岩山に囲まれた凹状の更に二つの丘に挟まれた凹状の底部に建てられてモスクを中心に展開されたイスラム都市である。ここにはイスラム都市の典型でもある壮大な突塔ミナレットは見当たらない。その土地の形状そのものがダブルに凹部をなしており、コーランの拡声器としてのミナレットを必要としなかったのであろう。ここでのイスラムの祭礼時のコーランは谷間より湧き出て、それこそ天に迄、ひびきわたる如くにひびくであろう。聖なる都の中心はコーランの増幅器を中心にしている事によって聖都たり得たのだ。只今、三月七日早朝六時、又眠気が襲ってきた。
 R116
 マイナーなイスラム諸国の旧市街地はバグダットのような自爆テロに遭遇しなくとも、ゆるやかに自爆していると言わざるを得ない。そして、その自壊は建築デザインの自爆にも通じているのである。イスラム都市の新市街地の四ツ星ホテルの一室(今はIT用設備が無い為に三ツ星に降格)、深夜に起き出して、眠れぬママによしなし事を書いている。しかし、イスラム都市で得た直観はどうやら正しいと思われる。と自己満足する。満足したら案の定、眠気が襲来した。三時半だ。無理せず横になろう。昨日は全くハードだった。六時再び目覚める。
 R115
 恐らく、こちらの時間で三月六日の深夜二時半位と思われる。昨日は連続三〇時間不眠状態で動いたようだ。時差その他にまだ充分に身体が反応し得ていない。
 昨日を要するに、イスラム都市の新旧地域を体験したという事。DUBAIの超高層ビル群、そして巨大リゾート開発に代表されるイスラム都市の超近代化、グローバル・マネー化、そしてモスク、バザールに代表されるイスラム旧社会保持の問題。この対立と矛盾が今、世界を根本的に揺り動かせている。DUBAIはアラブ首長国連邦というオイル産油国の金満国家、似た国としてカタール、レバノン、サウジアラビア、イラン等のオイルメジャー国家がある。それに対して、産油の無いマイナーなイスラム諸国、アフガニスタン、パキスタン、モロッコ、アルジェリア、エジプト、インドネシア等の国家群がある。メジャー産油国は一様に都市をグローバル化、資本娯楽主義化している。その方向が決められ突き進んでいる。建築家達のメジャーもその動きに同調している。注目すべきはイスラムの産油に関してはマイナーな国々だ。
 例えば、今、大騒動の中心のイラクを考えてみる。毎日のように 9.11 に連続した自爆テロがバグダットで繰り返されている。大方の自爆地がモスク、神学校近くのバザールであり、商業地域である。対米国のイスラム神学的姿勢は当然の事ながら神学内部の宗派的対立を引き起こした。自然な理である。だからスンニ派がシーア派を狙うのはそのモスクであり、神学校である。あるいはその周辺の旧市街である。油のあまり出ない、つまり貧しいイスラム諸国の旧市街地を考えてみる。これは今のイラクの、油があっても余り出なくさせられているイラクの旧市街地、モスク、神学校のある町、コミュニティーを考える事にこれは通じる。
 R114
 砂漠と対面しながら数句ひねり出せし句。頭の中と同様茫然自失状態である。

わびさびも 古池もなし アラビア砂漠
ちょこざいな 句作笑えり 砂の海
五七五 埋もれてさびし 砂の涯
さりながら 松尾はやはり 鳥取の砂

わけもなく突然、アルチュールの乱暴氏を想いながら詠める句。

程々の 詩くらい助平な ものはなし

字余りで・・・反省、をつけ加える。
 今日はまだ三月五日の昼前である。

 R113
 モスクの主調色である、ペルシャン・ブルーと呼ばれる「青」は何を模倣した「青」なのだろうか。砂漠の空の青さだろうと考えてきたが、どうもそんな平板な即物性は馴染めない。モスクの形式はそんな平板さを超えている。あの「青」は海の「青」すなわち地球の「青」に近い水準のものではあるまいか。モスクの抽象性は現代建築の一部が追い駆けている抽象性の深さとは格段に、その深度が異なっている。それを考える入口は「青」という色に、一つはある。今度ムスリムの幼児を間近に見たのは初めての事だが、実に可愛いものだ。が、しかし、幼児は皆同じと言うわけではない。彼等はその姿、形、色、声、動きにやはりムスリムらしさを背負っている。誠に厄介である。ムスリムのモスクをイスラム様式を使わずに考えることが出来たらどうなるか。案の定、「音の神殿」プロジェクトはムスリムのモスクの形式をその出発点で取るだろうな。東京を離れると色々と、すぐには役に立たぬ事を考えられて有難いが、少し計り我ながら上ずっているね。というわけで砂漠を眺めながら句作を試みる。全く、砂漠と俳句は似合わないのである。だってアラビアのロレンスだよ。「砂しぐれ 砂また砂の 涯もなし」なんて句を詠む姿を想像してごらん。噴飯モノであろうける。
 R112
 砂漠について思うのは、それとの接し方がスケールによって全く異なることである。例えば、はるか上空から砂漠を見おろせば、それは抽象の極みとして眼に写る。一万メーター上空からの砂漠は音もなく、匂いもない。一切の動きが消えている。六千米の空からの砂漠にはいささかの動きの気配が感じ取れる。人の動く道筋や風紋などが眼に入る。二千米からの砂漠はさらに動きにディテールが加わる。砂丘の凸凹に有機的関係が感じられたり、砂の色合いが極細な、しかも際限のない多様さを持つのが知れる。一気に地面、砂に着地して今度は人間が動いてみるならば、そこには小さな植物の茂みが細妙に生殖し、小生物が時に生きているのを知る。人間の生活が、砂地に侵入し、その鉱物の聖地とも言うべき域を犯しているのも知る。つまり、砂漠が私達に教えるのは、スケール、あるいは接し方の距離の違いで、それは無限に姿を変えるということだ。ガルフ海に面した部分でのドバイの海上への展開事業はその全体が人体の大幅な移植、整形作業のようなもので、その全体が二千分の一位のスケールで見ると、多く有機的な形態を持たせようとしているのは、その移植整形手術の如き大建設作業への本能的な怖れがあるからであろう。砂漠の民と一般的には呼ばれるイスラムの民族の海に対する観念の如きものは、コーランに詠み込まれているのだろうか。今度の砂漠の旅では、出来るだけモスクを訪ね、コーランの響き、例えそれがミナレットからの拡声器からのそれであるにせよ、生身に接してそれを感じ取ってみたい。モスクでのコーランの斉唱、その響きからこれ迄感じ取ってきたエロティシズムは異常に官能性を帯びており、海への観念、ありとあらゆる生物は海に始源を持つというDNAの記憶から来るものであるように直感する。モスクでのコーランの集団的詠唱は深い海底からの響きの如きものに聴こえる。それとも、砂漠は年老いて死を迎える海なのだろうか。
 R111
 DUBAIまで 550 KM 。闇の中を相変わらず飛んでいる。一体夜は明けるのだろうか。真夜中から、もう半日闇の中を時速 700 KM で飛び続けている。地球の自転方向と、ジェット気流に逆らいながら。天井が抜けて星空のある機体は最新型のエアバス 340-500 アラブ首長国連邦のエアークラフトらしくピカピカでゴージャスである。インテリアにもオイルマネーがネットリとしみついて、トロピカルオイルダラーなんである。早朝DUBAI 着。アジア大会を終え、次はオリンピック招致に向けて動くDUBAIは仰天するくらいの変わりようである。中国の開発状態とアラブの都市開発状況は酷似している。ゴージャス、エクセレント、ラグジュアリーの三本立て、のエンターテイメントなのである。アフリカ北部をヨーロッパと結ぶ物流基地の意味合いは残るであろうが。しかし、現実の世界はオイル、オイルマネーが世界をコントロールしているのがここでは良く解る。日出ずる国と思い込んでいた時代もある日本からオイル出ずる国へ旅し、理解せし事也。DUBAIの太陽は白い。今の季節はサハラ砂漠からのシロッコ(砂嵐)で微細な砂ぼこりが辺りを覆い尽くし、昼間の霧状態である。モヤって何も視えぬ。アラビア海沿いの大埋め立て地、超高層ビル街も全てがミラージュ(蜃気楼)の如くである。このオイル出ずる国から日本はもうすでに都市建設を終えてしまった老年期の国なのだろう。
 R110
 すでに五時間半程飛んでいるようだ。エミレーツ航空 EK315 便。東京駅からのぞみで名古屋まで走り、七番線ホームできしめんを喰い名鉄の電車に飛び乗り中部エアポートまで辿り着いたところまでは記憶がはっきりしているのだが、二十三時離陸の飛行機に乗ってから、すぐ眠りに落ちたようだ。眼がさめたら、機内の天井一杯の星空であった。そんな馬鹿なと思いはしたが、確かに機体の天井に満天の星空がある。いつの間にか、機体が消えて、座席が宙を飛んでいるらしい。しかし成層圏はマイナス 50 °Cで、酸素も、もうほとんど無いに等しいのだから、自分が生きているのはおかしい。さすれば、今、このメモを記している人間らしきは誰なんであろうかと、考える。変なところに入り込んでしまったようだ。 NLANZHOU 北方を飛んでいる。もうすぐチベット上空のようだ。チベットなら何が起きてもおかしくはない。ウトウトと眠るでもなく、覚醒するでもない星々の群の中に入るうちにウルムチ上空。ウルムチにキムチ状星雲が出現とのアナウンスあり。本当かね。キノコ星雲というのは聞いたおぼえがあるが、キムチ星雲は初耳である。実に不可思議エアークラフトなり。赤光のうず中に入る。キムチの中に入ったのだ。唐辛子の赤の匂いが鼻をつく。まさか機内食はキムチ餃子ではあるまいな。タリム盆地上空をカラコラム山脈に向けて飛んでもハップン、歩いて五分。インナーヒマラヤのカモメ、カランコロンの澄んだ虚無僧の声明を聴いたような。そんな、まさか。まさかの、まさかり、かついだ金太郎。とすればここはヒマラヤに非ず。箱根山か。非ず、非ずの真夜中のカウボーイ。マルチン・ブーバーが赤チン塗ってヨカチンチン、踊り踊るなあーら、ヨイショTOKYO音頭。ああ、いけない、いけない。まだTOKYOの汚れが抜けていない。と忙しかった昨日を振り返るのだった。蝶ちょうが一匹ダッタン海峡をこえていった。そうだった。あの海峡いまいずこ。と思うまもなく、雪国ならぬペシャワール上空。ペシャワールの密造銃の鋭い黒い光を思い出す。トンネルを♪抜けると、そこは 80 Mの向かい風、偏西風の壁を時速 779 KMで飛んでいるのかな。あとドバイまで 220 KMのところ迄やってきた。パンを焼く匂いがするシルクロードの成層圏ルートである。これは。スチュワーデスはスンナリ腰の人は少ないが、それでもスンニ派なのであろうか。
 R109
 三月四日
 十七時過打合わせ終了。J・グライターとは四月のワイマール・バウハウス・コロキアムで再会を約す。輿石、加藤両先生とは初めての研究室共同研究ゼミ、卒論のテーマを話し合って、素材を中心に学生に案内を出す概要を決めた。デザインと生産技術研究会の概要を話し合う。十七時半研究室発東京駅へ。何処かで頭をイスラム・モードに切り換えないと、イスラムまでTOKYOを持って行ってしまいそうだ。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R108
 三月二日
 二十一時前西調布N先生肩の治療。麺大鉢でネギラーメン、ここは美味。谷崎の東京をおもう陰翳礼讃読みながら、眠りにつく。
 三月三日 土曜日
 九時前起床。ゆっくり朝食をとり、十一時四〇分世田谷村発。十三時東大公開講評会打合わせ。槇文彦、青木淳両先生他。十四時安田講堂東大、芸大、東工大卒業設計公開講評会。安田講堂は超満員だった。十八時迄。その後懇親会他。六角先生他と鍋料理。二十二時迄。二十三時世田谷村に戻る。若い学生諸君の卒計に触れ、面白かった。しかし、ギクリとするようなのは無かった。
 三月四日 日曜日
 十一時西早稲田観音寺。えぞ菊でラーメン食べて十二時半研究室。十三時バウハウス建築大学グライター教授と打合わせ。十四時輿石先生、加藤先生と打合わせ。十七時過ドバイへ発つ為に東京駅へ。中部空港からドバイへ飛ぶ予定である。
渡辺豊和X石山修武 二〇五〇年の交信
 R107
 三月一日
 十時過研究室。T社来室。北京の件。十一時半了。昼食サンドイッチ&ミルク。十四時中川、佐藤両先生教室相談。四〇分教室会議。十七時迄。実質的な議題が多く話し合われた。二十時半迄研究室ゼミ他。近江屋経由世田谷村。
 三月二日
 八時過起床。十二時迄ボンヤリする。過日の学会での対談ゲラチェック他。ワンシートプロジェクトの次の計画のネーミングを「地図を設計する計画」と名付ける事を決める。十三時前村発。十四時農文協甲斐氏他、ダーチャ協会他の件。十六時ミーテング、地図計画の大枠を決める。十七時半古市氏来室。
 R106
 二月二十八日
 二月も終わりだ。十二時半研究室。十三時大教室、公開講評会。各系の先生方が全て発言されて良かった。十八時迄。十八時半大隈会館。教室関係雑打合わせ。二〇時半迄。修了後会食。大変みのりの多い会であった。建築教室の現状認識に関して大事な話しが多く出た。二十四時前世田谷村に戻る。今日は教室の次世代の先生方と短い時間ながら話しが出来て良かった。総合的戦略無き営みは無に帰する定理を、どれ程の人間が知り、共有できるかが、学科の力量である。建築はまだ風通しが良く、その定理を基に動ける可能性も大だ。
 三月一日
 七時半起床。春三月。冬眠を終え再び前進する。と、そんなにイキがらずに暖冬で眠ってはいられなくなったと言う。 BLOCK#2 City/Media/Theory/Architecture 、全てヘブライ語で書かれているので全く読めないがページから匂ってくるフィーリングには共鳴する。このメディアの感覚は石山研で作り始めたペーパーメディアに近い。
2007 年2月の世田谷村日記

世田谷村日記
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