石山修武 世田谷村日記

3月の世田谷村日記
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 二月二十九日
 十一時過研究室。宇宙服ハウス(仮)のパンフレット作りの相談。十三時卒計、修士論文、修士設計の合同公開講評会。修士論文は極く一部を除き各系の水準は仲々のものであるように思った。途中、抜けて打合わせ。再び戻り、若干修士設計の求められるべき水準に関しての意見を述べ、十八時四〇分退席。

 十九時新宿で鈴木了二氏と二度目の会談。合同ゼミの件。芸術学校の将来の事もあり、仲々微妙な時期なのだが、敢えてやろうと考えたのは、三年越しの計画にそろそろ結論を出したいと思ったのと、お互いに個人の意志を最優先させようとの了解があっての事だ。もうケチな事は出来る年じゃないけれど、フットワークを重くする必要もない。

 三月一日 土曜日
 七時過起床。春だ、今日から本格的なWORKモードに切り換える。十時銅版に取り組む。十一時前白井版画工房より新しい銅版が大小とり混ぜて届く。総数二〇枚。これで思う存分彫れるぞ。

 十五時過、両国駅で待合わせ。駅前のカフェテリアでビールを一杯。十五時半向風学校の安西直紀君等と国技館へ。長い行列の半ばに並ぶ。今日は、マット界のマイスターとも呼ぶべきドリー・ファンク・ジュニアの引退試合なのである。諏訪太一君より、当然来るでしょ、みたいな強い語調でお誘いを受け、気の弱い私としては、WORKモードはどうなってしまうのだろうと思いつつも、やはりそうなんだろかと思いつつ、それでも国技館までやってきたのであった。

 私はプロレスは西村修が創設かつ所属していたと言う無我ワールドしか知らなかった。安西直紀、諏訪太一、両君が導師であった。しかしながら彼等はどうやら相当高度な、ほとんどマニアックなプロレスファンでもあった。無我、及び西村修は安の定日本のプロレス界ではほとんど孤高な存在であった。

 全日本プロレスはプロレス業界第二の勢力なんだそうである。行列は国技館から両国駅迄長蛇に延びた。無我の後楽園スタジアム、ガラガラの風景とは少し計り様相が違うのであった。

 十六時入場、ゲートで手荷物の検査が形だけある。場内へのビール、喰べ物等の持ち込みは禁止されている。館内の売り上げを守る為だ。しかし、当然、安西君等の指導もあり、我々は少なからず持ち込む。

 入場すると、いきなり又も長蛇の列である。ドリー・ファンク・ジュニアと西村修が一枚 5000 円の赤いTシャツにサイン会なのであった。同行の人々は一人二枚三枚と買い求めている。友人達に依頼されたとの事である。

 上段のマス席に座る。リングまでは距離があるが、見通しは良い。国技館は仲々良く出来ているのだ、と安西君の解説が入る。ちなみにチケット代は 5000 円である。

 試合は全部で八試合。ドリー・ファンク・ジュニアの引退試合は七試合目である。仲々、良く訓練された試合が続き、七試合目。ドリー・ファンク・ジュニアは御年六十七才で、流石、寄る年波を感じさせ、新潟のジェンキンスさん(北朝鮮から帰還)の如き風貌なのだった。建築界で例えれば磯崎新、二川幸夫がリングに上がっているようなもので、プロレス界と比べれば建築界のスター達は息が長いな、とうぶん引退は無いだろうなと感慨深い。

 ドリー・ファンク・ジュニアの引退のテンカウントを全員起立して聴く。この儀式は良い。あしたのジョー、力石徹世代の私としては不覚にもしんみりしてしまうのであった。馬鹿だねー。世田谷美術館のM嬢のまだ見たいの声をなだめつつ、最終試合はパスして両国駅へ。一万人弱の群衆の混雑だけは避けたかったのである。

 新宿南口味王で遅い夕食を取り、二十一時半頃散会する。今日は銅版一点に手をつけただけであったが、ドリー・ファンク・ジュニアという往年の名レスラーの姿を垣間見る事が出来て良かったのである、と思いたい。三月からの仕事モードは初日から挫折した

 三月二日 日曜日
 七時過起床。畑に生ゴミを埋めて、水仙とグラジオラスの花をしゃがみ込んで眺める。十四時迄銅版に取り組み、小品二点を完成させる。大きめのモノ一点も仕上げる事が出来た。十五時迄世田美WORK。十五時半ロビーの空間を把握したくなり、世田谷美術館へ。寸法を確認する。メインテーマをユーモラスに表現するアイデアを得たが、少し寝かせておこう。どれ程の強度を持っているアイデアかまだ解らぬ。十六時世田谷村に戻る。

 ドローイング三点仕上げる。チョッとWORKモードになってきた。十八時過小休。余り根をつめると眠れなくなるからな。昨日、国技館で安西君からもらった写真は何気ないものだが、これは良い。彼はドキュメンタリーを作らせたら相当な処まで行くだろう。が、政治家になるのが一番じゃないかな。

 十九時過更に銅版小品二点仕上げる。どんどん手が動いて止まらない。休まねば。もう一点、韓国の僧舞いの記憶を彫った。六点を彫り上げるが、これが限界だろう。

 R425
 二月二十八日
 十五時半教授会。十六時半退出、渡辺と待ち合わせ、五反田へ。十七時半五反田でT社長と定例会。福島県猪苗代湖畔の鬼沼計画プレゼンテーション。現在大きな模型で作っている中央ホール建設の件で打ち合わせ。大方の了承を得た。凄い建築を実現できそうで胸が高鳴る。良かったナァと、誰の為にでもない不可思議なつぶやきを発する。こういう事が無ければ、生きている甲斐はないのだ。T社長は来週よりインド行の予定。赤裸々にビジネスがインド方面へ移動しているのを痛感する。

 十九時過打合わせ修了。地下のいろは寿司で夕食。二〇時半迄。歩いて五反田駅へ。二十一時半世田谷村に戻る。

 二月二十九日
 七時起床。昨夜、T社長と決めた宇宙服ハウス(仮)の製作だが、もう少し工夫しなければいけない。何か足りない、大事なモノが。今日、デザインに手を入れてみる。

 ストーリーのある画像も作成してみようと思う。映像・情報・環境研究会の枠を使った仕事にしてみるか、と考える。十時半発。

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 二月二十七日
 十二時研究室。鬼沼センターホールの 1/10 模型がほぼ出来上がっていた。良いモノになりそうだ。十四時打合わせ。十五時OB、U君来室。相談に乗る。鬼沼計画他の作業を続ける。十七時過世田谷美術館N氏等来室。室内外で進めている作業を観る。レイアウト等を相談。十九時迄。近江屋で相談を続ける。二十一時迄。二十二時前世田谷村に戻る。

 二十三時就寝するも、眠れず、翌一時起きてメモを記す。TVでラリベラ窟院を見る。二時再び眠ろうとする。

 二月二十八日
 七時三〇分起床。八時四五分発、杏林病院へ。

 九時四〇分採血検査、十時半内診。十一時半検査了。大過なし。病院には慣れたが、ここに来ると今は病院化時代なのを痛感する。マイクで名前を呼ばれると、何となく後ろめたい様な気持ちになるのが、我ながらおかしい。しかし、老若男女入り乱れて、実に多くの人間達が病院に集まるものだなあ。チャチな劇場より、実は余程深い劇場の性格がある。

 十三時過大学。グアダラハラ、モデルを抽象化する作業開始。

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 二月二十六日
 十三時半、「開放系技術・デザイン論」を書き始める。しかし、すぐ外出。二〇時世田谷村に戻る。別に何をしたわけでもないが、何か大事な事をしたのである。打合わせの間のわずかな時間に、山口勝弘先生からきた便りへの返事を書いた。メディア・デザイン等という極めて怪しい新領域も、山口さんとの具体的なやり取りを介すると、少し直接的に理解できるような風がある。この分野に手をのばしてみようか、止めようか、思案のしどころである。二十一時WORK了。休む。

 二月二十七日
 変な夢を見て、余りの馬鹿馬鹿しさに驚いて眼覚めてしまう。三時前であった。夢というのは、カンボジアのナーリさんが雪男に扮装してアメリカのトレッキング部隊の前を横切ってみせている情景だった。遠くにK2の巨峰が見えていたから、ムクチナート辺り、ムスタンへの径だった。アメリカ人達はビックリ仰天するどころか、雪男のナーリさんをつかまえようと追いかけ始めた。もう騎兵隊の感じで、凄いスピードなのである。危うしナーリさん。逃げろ、逃げろ、どんどん逃げろと、叫ぶ。すると騎兵隊は私にも向かってくる。あわてて私も逃げた、ナーリさんに「うつけ者、お前のせいだぞ」なんて文句を言っている。アメリカ人達はいきなりライフル銃を撃ってきた。ライフルと愛馬なんて鼻唄を歌っている者もいる。「アメリカの奴等本気ですぜ」とナーリさんもいささかあわてている。「だから言っただろう、アメリカ人に冗談は通じないんだから」逃げながら、ナーリさんにまだ説教つづけている。いつの間にか雪男ナーリさんと私はラバに乗って逃げている。カリガンダキの黒い河をどんどん上に逃げている。アメリカ人は人数も増えて、七、八〇人の部隊になり、雪をけ散らして追いかけてくる。ムスタンの城壁も越え、ヒマラヤの峰の上まで逃げ込んで、酸素不足で余りの息苦しさに眼を覚ました。全く馬鹿馬鹿しい。汗かいていた。

 こんな夢見てしまうんだったら眠りたくない、としばし読書。四時再び眠る。八時起床。十時過迄書類作成。

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 二月二十五日
 研究室で鬼沼計画のセンターホールのモデルチェック、他。今日からオフィス棟、研究棟のモデル制作に入る予定。湖南町 25 ha の計画全てを同時進行させ、かつ模型にするのは仲々骨であるが面白い。

 ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーの家づくりの道具他を再現したいと思っていたが、今日、初めてスタッフにそのロジックらしきを伝える。ロビンソン・クルーソーの家づくり、環境づくりと、沖縄宮古島N島N氏の島づくり=自由の王国づくり、そしてアポロ 13 号のブリコラージュを明快に結びつけてみせるのが、六月末の展覧会の目的の一つであるからね。

 十八時半新大久保近江屋で、プノンペン「ひろしまハウス」のその後の報告を開く。十九時二〇分迄。二〇時半世田谷村に戻る。

 二月二十六日
 四時過起床。昨日は流石に銅版画疲れで早く寝てしまい、早朝目覚める。世田谷美術館のN氏等がカンボジアの「ひろしまハウス」を訪ね、昨日東京に帰られた。「ひろしまハウス」以降の仕事を世に問うのが世田谷美術館の展覧会での目的の一つである。その為には「ひろしまハウス」をキチンと整理棚に仕舞い込まなくてはならない。

 幸い、二川幸夫の「 GA JAPAN 」に次いで平良敬一氏の「住宅建築」が6月号でまとめてくれる事になった。三月末には写真家の大橋富夫氏が撮影にプノンペン迄行って下さるようだ。大橋さんの写真でどうとらえられるか、楽しみにしたい。

 幻庵開拓者の家伊豆の長八美術館から「ひろしまハウス」まで、ようやくにして脈絡がついてきた様な気がする。又、未来のメキシコ、チリ、その他でのプロジェクト、宮古島での計画、等への道標としても「ひろしまハウス」は重要なものになる。少し長い論を書いてみようと思う。

 先はまだまだ遠い、体を大事にしながらやり切ると決心。五時過ぎ再び眠る。しかし、カンボジアの友人ナーリさん、彼のワールド・ツアーの夢はチョッとしぼんだようだが、今度はヒマラヤ計画を考え始めているようで心配である。なにしろ、雪男のぬいぐるみを着て、アメリカ人のトレッキンググループの前方を横切るという、要するにアメリカ人を小馬鹿にした下らないもので、しかしどうやら本気で何がしかと考え込んでいるらしい。本当に馬鹿者だ。馬鹿がロバに乗って走ってる感じだな。でもね、我々も又、凡庸な馬鹿者でしかないという現実を考えれば、彼の馬鹿振りは清々しいな。うらやましいよ。

 九時再起床。三月に出版される予定の「セルフビルド」は中里和人氏の写真と共著である。前書き部分を書きおろして、川合邸を一部書き直した。もう、これで良しとしたが、まだまだ書き加えたいものもある。六月出版の世田谷美術館の展覧会カタログには一冊の書きおろしも執筆中なので、それと合わせると全体が良く視えると思われるようになった。自分でも期待しているので読んでもらいたい。

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 二月二十二日
 夕方以降、グアダラハラ、鬼沼WORKにつく、二十一時前迄。渡辺、吉田とキムチを食べて世田谷村に二十三時半戻る。何と物事の進み方が遅い事よ。

 二月二十三日 土曜日
 六時四〇分起床。三階テラスの自作鳥のエサ台に残飯を供する。すぐにデッカイカラス来て大口でついばむ。この辺りの制空権はカラスが握ってしまっている。梅の花の満開の中にはウグイスが来てつぼみをついばんでいる。つまり花の中はウグイスの世界らしい。

 私の小屋を三階テラスに作り始めるかなと考える。春になってもう少し暖かくなってからが良い。

 十時半研究室。模型チェック。十一時教室会議、今年の入試の件。十四時半迄。鬼沼モデル作りに十七時過迄立ち会う。スケッチ数点。今晩は銅版に取り組んでみるか。情報・映像・デザイン研究会主催の連続ゼミナールの企画にとりかかる。

 十七時四〇分世田谷村に寄り、西調布へ。十八時三〇分N先生宅。北風が寒い。何人かの知り合いに再開して感慨深いものがあった。皆普通の庶民であるが、それぞれが生死をかいくぐってきており、実在感が在る。その子供達の何とも言えぬ生命力を眺めてみると、何故か力が湧くな。二〇時半、近くのラーメン屋で夕食。タンメンとチャーハン喰べ過ぎる。二十一時半世田谷村に戻る。

 二月二十四日 日曜日
 八時過起床。まだ春一番が吹き荒れている。今日も寒いか。小さな畑には出られないな。

 NHK日曜美術館、陶芸家楽吉左衛門の茶室を観る。贅を尽した水底の茶室である。利休の茶室とは本質的に違うなこの人の考えは。安田侃、川俣正の仕事も紹介されていた。安田侃さんの作品集をやむに止まらず引っぱり出して見入る。フォロロマーノで開催されている安田侃の野外彫刻展は素晴らしいものだろうと感じられる。

 作品集に納められた、イサム・ノグチの安田にあてたエッセイを再読すると、以前よりよく解るようになっていた。私も少しは成長しているのか。ユーモアとアイロニーは芸術家にとって時に重要ではあるけれど、必然ではない。内的必然のみが芸術家の本質だ。と、そんな事をイサムは安田侃さんに言っている。

 十五時過銅版画一点彫り上げる。十九時四〇分銅板の二枚目を彫りおわる。夕食後三点目の銅版画に取組む。二十三時二〇分修了。一日、三点の銅版を彫ったのは初めてだな。何故彫れたのか不思議だが、他は何もできなかった。

 二月二十五日
 〇時三〇分4点目の銅版を途中迄彫って、今日のWORKを終える。1時過休む。今日は一日銅版画家だった。普段の頭の別の部分が働いた風がある。これだけ彫るともうスポーツだね。

 七時過起床。昨日彫った銅版を見直す。何を彫ったのかはそれ程の問題ではない。これを彫るのは純粋な出鱈目ではない。つまり抽象ではない。刃物の刃や鉄筆を持つ手の動くままというわけではなさそうだ。具象そのものの形が記号の如くに出現しているし、その事の意味は左程の事ではない。内的必然という程のものではない。全て偶然に任せて、それに頼り切る程の自信が無いからだけなんじゃないか。九時十五分銅版四点目を完了。四点目はこれで良しと終わりにしたのだが、何をもってこれで良しとして彫るのを停止したのかは定かではない。

 銅版を彫るのは、建築の事考えたり、あるいは筆で何か描いたりするのとは決定的に違う。銅の板を切り刻む、彫るという力が必要な事だ。このほとんど最小限ではあるのだが力が必要となる事が、指先の抵抗感となり脳髄に伝わって、神経細胞を刺激している。筆で描く時には墨汁の匂いが刺激するように。十一時前世田谷村発。

 R420
 二月二十二日
 昨夕新宿で友人S氏とバッタリ会い、味王で食事する。S氏とはいつか何かを一緒にやってみようかと話していたので、今春からスタートさせる事にした。二十二時前世田谷村に戻る。

 九時前起床。生ゴミを畑に埋めて、ひととき畑で。梅の花が満開である。十時半、今日から始まる石山研ゼミの準備了。十一時過世田谷村を発つ。

 十二時半大学、十三時研究室ゼミ十五時過迄。M2,M0共に来週迄の課題を作り、散会。今年はうまくゆくとよいが。グアダラハラと訪メキシコのスケジュールを調整する。

 WORKをつづける。世田谷美術館のN氏他が今日からカンボジアの「ひろしまハウス」を訪問している。OB宮坂君来室、タフな営業マンになった。

 十六時過ヒンネルク他打合せ。ヨーロッパの人間にネイチャーへの感じを伝えるのはとても難しい。こんな時に自分の東アジア人を自覚する。

 R419
 二月二〇日
 午後、研究室。沈思黙考すれども知恵は湧き出ない。そりゃそうだろうと我ながら思う。手が動いてないんだから。十六時過より模型作りに立ち会い、具体物を見ながら答えを求める。二〇時半近江屋で一服、雑談する。二十二時京王線代田橋通過。世田谷村に戻る。

 二月二十一日
 山口勝弘先生より葉書届く。「光る苔の絵が出来上がった」と書かれてある。私の苔への考えが山口先生の脳内でいかにチカチカと発光しているか楽しみである。又、映像による山口先生と石山の紙芝居のイメージも書かれている。これは何処かで実験したら面白いだろう。

 プラネタリウム状の空気膜ドーム内、あるいはスクリーンに面して、山口先生とその場その時に浮かぶイメージをOHPで交互に映しながら、同時に描く。その場で描いたものに、その場、その時に感応していく、その変転の有様がライブで画像になってゆく。演じる方はキツいだろうが、観客は面白いかも知れない。

 宮古島のN島=N邸計画を世田谷美術館の宙空に浮かばせてみようと思い色々な工夫を始めている。N氏よりヨットの帆を借りる事が出来そうで4枚程をつなげると、ほぼN邸の屋根と同様なものになる。原寸大のシェルターを体感しながら、宮古島の海と島の計画を理解していただくのは面白いのではなかろうか。

 グアダラハラ市への案はほぼまとまったが、この全長1 km 程の計画中、ラテンアメリカ・カルチャー・メディアセンター部のモデルの巨大なもの、それも作りたいと考え始めている。これ等も宙に浮かばせたい。

 午前中、世田谷美術館N氏と連絡、天井からの吊り下げ荷重について相談を始める。展示と言えども、ディテールが、細部が全体をつかさどる。

 R418
 二月十九日
 十四時過月光ハウス。N氏と歓談。油壺ヨットハーバーは静寂に包まれ、トンビが舞っている。十九時迄、会食の後二十二時半世田谷村に戻る。

 二月二〇日
 八時半起床。十五時前研究室、脳内モデルの考えが仲々まとまらずモヤモヤしたまんまである。これを突破しなければどうにもならぬ。
 広島のプロジェクトはどうやらうまく進みそうも無い状況のようだ。関係各氏の健闘空しかったか。しかしまだ解らないぞ。希望は最後まで捨てずに行く。サンクトペテルブルグよりの連絡は少し遅れている。イフェイも闘っているのだろう。

 R417
 二月十九日 火曜日
 昨日の午後は一時より打合わせ、相談が続く。大学院推薦面接を行う。良い人材を得たので、今年は気持ちを入れて進みたい。早速金曜日午後よりゼミを開始する。十八時アベルと打合わせ。グアダラハラ行のスケジュール相談。二〇時過迄鬼沼ホールの模型作りに附合う。立ち会っていると、やはり良い方向へ変化する。大きな模型の潜在力だな。二十二時過世田谷村に戻る。夜気が冷たかった。
 明けて十九日七時前起床。まだ脳内モデルのアイデアまとまらず。手を動かしていないと駄目だコレワ。九時二〇分、「セルフビルド」の川合邸の項の書き足し、と建築社会特論の小草稿書き上げる。

 川合さんに関しては、書く度に、いまだ未知の部分が出現する。あの人は天才であった。十時迄、枇杷の木を切ったり、で南の梅の樹の風通しを良くする庭仕事。こんな畑仕事まがいも、川合さんの影響だな。

 十一時過、サンクトペテルブルグのイフェイより電話あり、上海ミーティングの結果、TOKYOチームのポシビリティがすでに地域を限定されたとの事であった。今、上海から帰ったばかりで夜中なので、明朝つまり昼頃メールが送られる事になる。タフじゃないとグローバリズムに対応できないね、全く。

 少しばかり、脳内モデルのアイデアがリアルになり始める。モデルと言っても三次元に立ち上がるので、マテリアルが何よりも問題となる。マテリアルをどの次元で設定するかの仮説モデルが必要となるから、仮説をいかに仮設するかの問題となるわけだ。つまり必然的にヴァーチャルにならざるを得ない。

 高橋悠治の「好きなもの」小エッセイを読み直す。何を言おうとしているのか、解るようになってきた。
 十二時N氏月光ハウスへ発つ。

 R416
 二月十五日
 十七時世田谷美術館N氏等来室。十八時講談社S氏来室。展覧会、カタログ等の打合わせ。十九時半、席を韓流館に移し、打合わせ続行。次女友美、シカゴS氏へのコンタクト状況他報告あり。二十二時頃世田谷村に戻る。S氏より「地球に一人で生き残ってしまった時に、それでも作り始めるシェルターのようなもの考えられないんですか」の問いあり。ウーン、それが考えられる位の才があれば、今頃こんな事してないよ、と一人言。

 二月十六日 土曜日
 六時四〇分起床。朝食をとり、大学本部へ。今日は地獄の入試試験監督である。
 不幸中の幸いで、今年は主任監督予備なる、全く閑職で、ただただ、控え室で試験監督が誰かブッ倒れる等のアクシデントを待つ役割である。あんまり早く到着してしまうと、当然先生方の中には本日役務欠席の強者もいる筈で、本監督に繰り上げ当選させられる恐れがあり、ギリギリに滑り込む深謀遠慮を働かせた甲斐あり、四、五名の方々が予備役から繰り上げ当選となり、ガックリ肩を落としているのを尻目に、控え室で何もしない役を守り通した。もしも、繰り上げられたら、恐らく教務主任のT氏に泣きついても逃亡兵を決め込む覚悟までしていたのである。

 お蔭様で十五時迄に原稿十枚書き上げる。第七章のラテンアメリカの二分の一を終えた。途中、小休して間近の観音寺を学内から眺める。いい建築じゃないかと思った。早稲田キャンパスの建築には無い死のイメージの影があるよ。寺にはそれが必須だろう、と今は思う。寺は死者の為の場所でもあるから。十七時半、馬鹿馬鹿しく幽閉された時間を修了。原稿に集中できて良かったけれど。観音寺に寄って、帰ろう。

 観音寺に寄り、歩いて新大久保駅へ。三十分歩く。十九時過世田谷村。

 二月十七日 日曜日
 七時半起床。寒いけれど、快晴。今日は入試空間表現の採点である。早稲田建築独自の試験で、それぞれの若い人間の表現能力を見たいという教室の意志の反映であり、早大建築の人材確保へのアンテナでもある。十三時世田谷村発大学へ。

 十四時採点開始。例年この空間表現の採点は楽しみにしている。出題も意がこらされており、仲々美事だなと感心していた位だ。今年の問題はいかにと思っていたが、これが仲々高級で受験生諸君は苦しかったろう。しかし、いい問題だった。恐らくは、日本の大学の入試では最高級、最高雅だと自慢できる。これに対面するだけでも文化的価値は計り知れないものがあるので受験生諸君はおおいに受験されたい。

 採点修了後先生方と弁当をつまみながら、色々と相談。これから先の事等を相談する。十九時過ぎ世田谷村に戻る。

 二月十八日 月曜日
 七時半起床。快晴なれど寒い。午前中、メモを記しながら、講談社S氏より言われた脳内モデルの原寸具体化案への思案をこらす予定である。生ゴミを埋め、コンポストの位置を動かす、少し計りの土掘り作業。しばし陽だまりの中に身を置きボーッと過ごすも、何のアイデアも湧かず、馬鹿馬鹿しくなって家の中へ。試しに朝風呂でもつかってみるか、更にボーッとして、考えが湧くかも知れない。今日中に何とかしなければ。

 R415
 二月十四日
 十二時前まで雑務、雑用。少し休んで出掛ける。午後研究室で打合わせ。あんまり刺激の無い打合わせである事は仕方が無いのであった。無いモノねだりはイカン。十七時過南新宿で息を抜く。二〇時過世田谷村に戻る。

 伊豆西海岸松崎町の森秀己さんが三月末で役場を退職するとの報を受けた。森秀己さんは伊豆の長八美術館を始まりとする松崎町の町づくりの中心的存在であった。人間の情、そして個人の意志の力が、まだ集団の夢を形成し得る端子になり得た時代の背景を背負っていた個人であった。

 森秀己の事は書いても、書いても書き尽くせぬものがあるのでこれを機にまともに書き尽くしてみようと思う。凄い人材が、又前線から消えるな。

 二月十五日 金曜日
 八時起床。昨夜来苔の件が頭の中をグルグル廻転寿司の如くに巡り、とめどなくなる。行きづまり、宮崎の藤野忠利さんに私信を書く事にした。藤野さん相手の独白で考えている事が鮮明になるかどうか、小さな冒険だな。

 十一時半二〇〇字十七枚書いて一段落する。色々と鮮明になってきて少し光も視えた。そうだ苔は現代っ子ミュージアムを拠点に考えれば良いのだ。

 R414
 二月十四日
 昨日の午後はたまプラーザの山口勝弘先生を訪問した。
 山口先生はお元気であった。相変わらず制作への情熱は巨大であり、圧倒される感あり。高齢な芸術家、しかも障害とも対面しながらの事でもあり、凄まじいパッションだと言うしか無い。八〇才の先生に対面しているだけで叱咤激励されているように感じてしまう。六〇代はまだガキだと再び自覚する。

 先生の新作は「砂時計とミイラ」「ペルセポリス炎上」等多数あり、一部を写真に納めさせていただく。砂時計とミイラのペインティングを視させていただいた途端に、これで世田谷美術館の私の個展「建築がみる夢」への砂時計出展は無いなと悟る。だって、先生の頭の中ではもうこの作品で完成してしまったのだから、今更砂時計の装置なんか作って展示したって仕方ないのである。

 「先生、もう砂時計は必要ないですね。」
 「ああ、あれはもういらないよ。」
 と、あっさりしたものであった。
 「でも、ドームはやるつもりだ。」
 「今、一番やりたいのは何でしょうか」
 「金閣寺炎上十二羽衣をやりたい。」
 記していても、読者には何の事やらさっぱりだろうが、山口先生の思考回路は大方理解できるようになっているので、私には少し解る。これはメッセージである。金閣寺炎上という名の作品の形を指しているのではない。会話していて、山口勝弘先生の言葉に触発されて、私の頭脳の内に何やらパーッと明滅すれば、それが作品なのだというわけである。

 つまり今の山口勝弘先生は実験工房の瀧口修造の如き役割を私に対してして下さっているようだ。有難い事である。

 帰りがけに宮脇愛子さんにお目にかかる。お元気であった。
 世田谷に戻り、頭を休める。
 やはり、超一流の芸術家との時間は楽しみを尽くす感があるが、同時にエネルギーを燃焼する、まさに炎上してしまう感もある。

 九時起床.随分変な夢を沢山みた。やっぱり昨日の余韻があったのだろう。山口先生に御礼の電話をする。

 R413
 二月十二日
 午前中から午後にかけて雑用に次ぐ雑用。十五時より卒論のテーマ発表会。石山研は今年度は主題を絞り込んだ。大方の人材の把握がようやく出来るようになっていたので極めて現代的なテーマを用意したのである。良い人材が集まるのを期待している。来週の月、火を面接日として、火曜日からゼミを開始する。ゼミは修士迄も包含した独特なスタイルとする。

 二月十三日
 七時半起床。今日はNさんの月光ハウス訪問の予定であったが氏の都合が悪く、ポッカリ空白の時間が出現してしまった。世田谷の滝のつららの写真を撮ったり、ゆったりとする。そうだ、こんな日にはいきなり山口勝弘先生を訪ねるのもいいかと思いつく。

 エクスナレッジの出版する本に五十嵐太郎が私の二〇代の作品幻庵を技巧をこらしたマニエリスムだと評している。中谷礼仁の本を読んでの事だろうが、この利口だが平凡な解説家の眼は全く信用ならないのが知れる。その焦点深度の浅さによって。幻庵、開拓者の家、そして、プノンペンのひろしまハウスの間には三〇年の歳月が流れているが自分でもそこには一つの軸があるように思っている。そこ迄感じろとは言わぬが、余りにも安手な手さばきで、五十嵐と同世代のコンビニエンスストアの陳列棚に並べ立てる手つき、そのものを批判したい。こんな解説の方法にどんな意味があるのか。実物を見ないでの印象批評は批評家が自分の何者をも賭けていないのを露呈するばかりだ。つまり高見の見物って奴だ。

 坂口恭平の「TOKYO 0円ハウス、0円生活」の書評書き終える。短文だけれど面白く書けた。共同通信社へ送る。

 R412
 二月十日日曜日
 昨日十九時迄修論発表会。渡辺仁史研の論文の水準が総じて高かった。修士設計は低調。二〇時より研究室で卒業する修士達と小パーティー。十年後の彼等、彼女等の姿を想う事は楽しいような、シリアスなような。それぞれの径をそれぞれに歩くだけなのだが、沢山の起伏がある事からは逃れられない。体にだけは気をつけて欲しい。翌一時前世田谷村に戻る。再び雪が降り積もっている

 十時過起床。畑は再び雪に埋まってしまった。K氏に電話、世田谷カタログ原稿依頼、三月初めに内容を調整する事になる。これで出版物の大枠は大方決まってくれるかもしれないとホッとする。

 十三時半世田谷村発。十四時過研究室。鬼沼時の谷ゲストハウス・ギャラリーの模型作りの相談他。渡辺、李と。1.8 メーターX 1.8 メーターの模型を作る事にする。内部を体感するのに最低限の大きさである。この建築の空間的特質は大筋に於いて、プノンペンのひろしまハウスを踏襲しているのが了解できた。うまく進めば良い作品になり得るだろう。

 二月十一日月曜日
 休日である。午前中、久し振りに畑に降りて、生ゴミを埋めてボーッと陽だまりに座り込む。鈴木、難波両先生に電話して、少人数共同ゼミを持てないだろかと相談する。今日は終日世田谷村でしなければならぬ事が多い。三階の屋根裏部屋に引き込もる。

 十九時過、二件のWORKを終え小休。流石に夜は早く休んだ。

 二月十二日
 一時過ぎ起き出して、読書他。やっぱり頭だけが疲れた日は良く眠れないものだ。体も動かして身体の細胞も刺激してやらねばバランスがとれないのだな。八時半起床。十時世田谷村発。

 R411
 二月八日
 十時修論発表会。十六時迄。石山研は女性の論文が出色であった。修士設計は課題を与えて競技設計の如くにした方が良いのではないかの印象あり。若すぎる観念、思い込みを客観的に自己分析する力が欠けているものが多い。

 グアダラハラ、モデル作りを二十二時迄。二十四時過世田谷村に戻る。

 二月九日
 七時過起床。今日も一日修士論文の発表会である。
 何十もの発表を聞くのは辛いものがあるが、義務だ、聞こうじゃないか。最近はテーマそのものの取り出し方に知性が感じられぬものが多い。自分が取り組もうとしている主題を自己批評する能力が一様に弱い。特に修士設計の初歩的な誤りが目につく。

 曇天である。今日は修論発表後、グアダラハラ計画のモデル作りの目途をつけたい。進めている案に愛着も湧き始めた。自分の作っているモノが好きになれない位に不幸な事はない。  九時世田谷村発。大学へ。

 R410
 二月七日木曜日
 七時半起床。再びの雪景色。畑に出られず。昨日のメモを記して九時前世田谷村発。長井さんより資料届いたので世田谷美術館カタログ第六章の半分迄すすんだ。もうこうなれば意地であと二〇日で一冊書きおろすぞ.編集のS氏の反応も悪くはない。昨夜シカゴにメールを送る。外国人女性のクリティーク・ライトもほぼ二名決まり、本格的にヴィジョンを示せる枠組みも整えた。

 十時研究室。T工務店打合わせ。十一時OB、I君来室。十二時打合わせ。十三時特別選考制度入試面接。十四時教室会議。十七時過迄。その後人事小委員会。十八時竹内ラウンジで池原義郎先生、宮本忠長先生にごあいさつ。十八時半よりメキシコ・グアダラハラ市計画WORK二十一時迄。二時間程頑張って、とり敢えずのレベル迄引き上げる。明日の昼にもう少しつめてみるが、1 km 程の都市軸のデザインに一つの主題を押し込むのは難しい。二十三時世田谷村に戻る。

 二月八日金曜日
 六時半起床。メモを記し、色々と算段する。今日、明日は修士論文の発表会で終日つめ込みっ切りになる。石山研は女性の論文の出来に期待しているのだが、どうなるか。

 展覧会カタログの準備にかなりの時間を割いている。外国人の女性によるクリティークも、主論文共々ベストの人材を得られそうで、クリティーク負けしないようにせねば。

 今朝は快晴で数日振りに畑に降りて、生ゴミ処理。少し計り土も掘り返す。霜柱が三 cm 程も土を浮かせている。椿の樹の下に残り雪。
 十時前大学。

 R409
 二月六日
 十一時前研究室。京王線途中で書き始めていた、早稲田建築原稿を書き終える。古市徹雄氏に連絡、今日の卒計の講評に同席していただく事にする。学内、教室内だけでの講評にはおのずからなる限界がある事はすでに自明の理である。

 十二時四十五分、大入り進行録14、三枚書いて丹羽君に渡し、十三時一階大会議室へ。卒計採点講評会。二十一時迄。
 五十八組、全作品のプレゼンテーションを建築学科全教員で講評。落伍者が居なかったのが収穫であった。全体のレベルは残念ながら低い。共同設計である事を冷静に考慮して、早稲田の外に出せるのは数点であろう。古市先生の客観的な観察も同様であり、今や早稲田の卒計は決して日本の学生水準としてはかんばしいものではない。ましてや国際水準には程遠い。勿論、この結果は教師の責任である事は言うまでもない。来年は久々に学生の人材に恵まれているから、ひとふんばりしてみたい。良しとするモデルを作らないと、学生も目標が無いままだろうし。

 入試の状況を見ても、やっぱり早稲田建築は背水の陣だな。危機感を全教員が共有できるかどうかが全てである。二十四時過世田谷村に戻る。長井さんから資料届く。ありがたい。

 R408
 二月五日
 十一時過研究室。打合わせ。卒計採点。十三時過打合わせ。十三時半より十八時迄打合わせ。加藤先生と会食後世田谷村へ。

 二月六日 水曜日
 カゼ薬を飲んで寝たら、はしたなくも九時迄眠ってしまった。薬に弱い体質である。再び小雪が舞っている。畑の雪がまだ消えないので畑仕事はできないままだ。九時五〇分世田谷村発。今日から、少しWORKをハードにする積もりだが、今日は卒計の発表会と最終採点があって切ない。

 JABEE対応という事で面倒くさい採点表を渡されたが、要するにコレは教育のグローバリゼーション・ラインだな。マア仕方の無いところではあろうが、本当は私学の建築学科、しかも東アジアを拠点とする学科としては、戦略的にその上を一気に構えなければ、長い眼で考えれば再び植民地化の、深く文化の植民地化を逃れられまい。

 英文の石山及び石山研紹介が必要になり用意しているが、こんな事、はるか昔にしておかねばならぬ事であった。GAのテキスト、幾つかの国際会議の記録以外に、英文のものが余りにも少ないのに我ながら驚く。

 R407
 二月四日
 十一時半ニーチェ読了。今度初めて読み切ったと言える位に読めたのは何故なのか。十二時半、世田美カタログ四章を完成させる。十三時三章四章をK社に送付。十四時世田谷村発。コーヒーショップで五章十一枚書く。十八時迄。世田谷村に戻り整理。十九時幾つかの連絡。二〇時食事。二十二時より読書。結局、今日は一日字を書いていた。こういう日にはスケッチが全く出来ない。明日は文字はストップしたい。
 終日、原稿に取組んでいたら、苔計画に少し計り足掛かりが見えてきたので、原稿の一部を安西君にも送る。もう少しで、開けてくるだろう、全体が視えてくるに違いない。

 二月五日 火曜日
 二時、起き出して読書。文字を書き過ぎて、頭が勝手にグルグル廻り、良く眠れないのだ。三時十五分再び横になる。八時起床、グアダラハラ計画スケッチ。九時半迄。十時前早稲田建築原稿。朝食後十時半世田谷村発。

 R406
 二月二日 土曜日
 八時起床。畑へ。九時迄生ゴミ埋め、コンポスト移動、土起こし。昨日書いた第三章ひろしまハウスに若干手を入れて、第四章にとりかかる。以前に書いたモノをリメイクして、二十三枚分にまとめる。少し削って、これで四章はいいだろう。「砂時計とミイラ」の章と仮にしておく。十四時世田谷村発。

 十五時研究室。GA展用のN島計画モデルチェック。十七時前発。新宿南口味王へ。向風学校安西直紀、渡辺と打合わせ。二〇時了。二十一時世田谷村に戻る。向風学校の第一回の講義録。」癌になったプロレスラー 西村修・死と共に生きる」をようやくにしてまとめる事が出来た。講義録のブックデザインは愛知の山本君にお願いする事にした。まとめるのはかなり大変であったが、見た事もない様なモノに仕上がるだろう。内容は途轍もなく面白い。一部二千円でお分けするので申し込んで下さい

 二月三日 日曜日
 十時起床。夜から雪が降っていたようで、外の風景は白一色。GA原稿を書く。午後、宮本常一「風の人」佐田尾信作・みずのわ出版読む。宮本常一先生没後、様々なお弟子さん達が、色んな所で活躍されているが、玉石混淆だな。それも又、宮本常一先生らしい。

 佐々木睦朗先生より立派な本「 SUPPORT AND RESIST 」届く。世界的なエンジニア達と伍して、仕事を世界に展開しているようだ。
 現代建築の上澄みの主流は、イギリスを生誕地とするハイテクスタイルの建築と、アメリカのマーケットが生み出した、市場主義型スタイルに大別できると思うが、佐々木氏はその双方をフォローできる才質の持主である。
 しかし、双方共に技術を支えるMONEYの力が表現されるのを旨としており、基本的にはコマーシャル建築スタイルの範疇に属さざるを得ない原理的特性を持つ事が、歴史的にはどう評価されるのか、いささかの疑問を感じざるを得ない。

 夜、ニーチェ、「<永劫回帰>という迷宮」読む。

 二月四日 月曜日
 七時半起床。読書を続ける。晴れて陽光が積雪に反射してまぶしい。GAに原稿送り、Nさんに連絡。

2008 年1月の世田谷村日記

世田谷村日記
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