R091
七月三十一日

八時世田谷村発。九時大学、学部学生への補講十二時前迄。十四時教室会議。十五時前、退出。十六時過世田谷美術館

R090
七月三〇日

昨日は十一時〇七分鳴子駅より古川へ。古川より新幹線で十四時過東京駅。世田谷美術館十五時半着。「なるご夜語り」幽左雁著。幽さんは本名遊佐厳。鳴子在住のライターである。昨夜の宴席でいただいた本だが、面白かった。「・・・こうした話は、その昔、鳴子温泉がまだ名も知られない山あいの湯治場だったころ、温泉地としてのイメージをつくり出して広く宣伝しようと、湯守たちが知恵をしぼって創作した”伝説”といわれています」とあとがきにある。幽左雁氏もその伝統を踏まえて創作民話風のもの語りを書き続けているらしい。千二百円で頒布している本だけれど、鳴子にとっては一つの財産になるのではないか。早稲田桟敷湯で、遠野で語り部に遠野物語りを語ってもらっている如くに話してもらうのも一興ではなかろうか。眠らせておくには勿体ない素材だと思う。

今朝は少しゆっくり眠って八時頃起床。もう七月も明日で終りか。時の流れは速くなる一方だな。九時過世田谷村発。バスを乗り継いで美術館へ

R089
七月二十九日

三時前、目覚めてしまい、昨日のメモを記す。鳴子早稲田桟敷湯下の大正館の一室である。昨日十年振りに再訪した早稲田桟敷湯は仙台の佐々木君吉氏の健闘もあり、早稲田湯開湯六〇周年事業に合わせて良く補修され、見事な状態になっていた。自分で言うのもなんだが、近頃の建築には無い生命力があった。

昨日のつづきになるが、十時半世田谷村発東京駅へ。新幹線古川駅を経て陸羽東線鳴子駅十五時前着。途中水田の稲の緑が目にしみる。空も青く、白い入道雲が湧き登り、久し振りに東北の美景を実感する。鳴子駅に吉田氏、高木君等出迎えてくれる。高木君は鳴子早稲田桟敷湯の担当者であった。

駅から桟敷湯までの道のりの風景はいささか変化していた。建物や住宅が消え、空地や何だか解らぬ休息所の如きものがあり、まあしかし、前よりものんびりした風景になっていた。

早稲田桟敷湯は補修もあり、見事な状態になっていて、嬉しい。内で少し計りの打合わせをして、大正館で休む。十六時過アトリエ海の佐々木氏の車で、越後屋吉田氏からうかがっていた寺を見学。その後滝の湯迄散歩して十六時半桟敷湯に戻る。

滝ノ湯の改修は良くない。以前の趣きの良さが壊されただけだ。保存再生はキチンとした歴史家・建築家のチームで、どんなに小さなモノでも取り組ませるべきであろう。こういうやり方をしていたら町の地域の財産はどんどん改悪されていってしまうばかりである。

十六時半過予定通り小講演を早稲田桟敷湯の上桟敷で。三〇名程の町の方々が熱心に聴いて下さった。しかし、鳴子の将来は過酷な位に厳しいものがあろう。小レクチャーの如き講演後、質問がいくつか。ベーシーの菅原の知り合いだと言う鳴子ホテルの女主人とあいさつを交わす。

早稲田湯を掘り当てた、大澤光雄、郷原清、石井英二、三氏とお目にかかる。八〇才の大先輩達である。十八時半大正館で宴会。二〇時半過修了。何だか疲れてすぐ部屋に戻り眠ってしまった。

只今翌二十九日三時十五分。メモを記し終り、又そろそろ眠りにつこうか。しかし、早稲田湯を掘り当てた三氏から、「長生きして下さいよ」と言われたのは、ショックであった。長生きしそうもない顔に見られてしまったのか。明朝は六時位に起きて、町を歩いてみたい。

六時四十五分起床。すぐに湯泉につかる。雲の流れが速い。空のブルーの輝度が東京よりもはるかに高い。東京にはある意味では青空は無いのかも知れない。ブラブラ歩きに出発しようか、又、横になろうか。

早稲田桟敷湯の坂を登り、滝の湯迄ブラブラ歩く。七時半の開湯を待ち、町の人達五、六人が待っている。顔見知りの人も居る。温泉神社隣の滝の湯はやはり名湯である。白く自然に濁った湯が身体に気持よい。湯内では町の人はおしゃべりだが、ここの人は湯に入ってる時間がとても短い。湯の強さを知っているのだろう。外に出たら知り合いの塗り師後藤さんとバッタリ。八時前、大正館に戻り、朝食。八時半早大放送研究会インタビュー。九時迄談笑。

R088
七月二十八日

七時前起床。今日は鳴子行である。鳴子早稲田湯六〇周年を記念する催事に出席する。

昨日七月二十七日は早朝から美術館へ。五百人をようやく超える人数が来館された。少しづつ来館者数は増加している

R087
七月二十五日

六時過起床。三階のテラスの西洋あさがお、ニガウリに水をやる。この酷暑に南のテラスで陽光にさらされて生き延びる植物は本当に大変だろう。水くらいはねぎらってやりたい。

世田谷村の朝は誠に気持ち良い。風がそよりと吹き流れ涼気が風と共に動く。昼はうだるのだろうが、私は美術館で仕事をしているので、今はわからない。しかし、昨日の美術館も冷房はきいているのだろうが、流石に外の暑気を感じさせる位に、空気がよどんでいた。

朝ドローイングに取り組もうと考えるも、体の方がいう事をきかない。今朝はさぼろう。昨夜の美術館内レクチャーは自分では満足のゆくものでは決してなかった。五講迄来ると、前回迄の復習に時間を取られてしまい、その部分でどうしても気分が乗り切れないのだ。今日は、冒頭部分に少し工夫をこらしてみるつもり。12 回、毎回はつらつと話したいのはやまやまなのだが、それには、それなりの工夫(デザイン)が必要なのだ。しかし、何とか 12 回を話しきり、出来れば 18 回位までのばしてみたい。

話したい、語りかけたいことがまだまだあるという事は、表現したい事がまだあるという事につながる。この過激なレクチャー・シリーズは私の自己開発である。

R086
七月二十四日

五時半起床。曇天。昨夜、サンクトペテルブルグのイ・フェイから連絡あり、八月末にサンクトに来いと言う。黒海の真珠Projectが動いているようだが、頭は今のところ世田谷美術館の 12 のプロジェクトで一杯である。どうしたものかな。準備した企業チームとは相談しなくてはならない。

今日も、美術館の分室でWORKを続ける予定だが、チリの計画が動いたので、それに時間を割きたい。昨夕の朝日新聞夕刊に大西若人氏の展評が出た。大衆的前衛の見出しが大きく、これがしばらく私のトレードマークになるのだろうなと思った。腹はくくっているので、それで良いが、益々、金とは縁がなくなりそうだ。

今夕の世田美ナイトレクチャーは第五講。「現代若者の一つの傾向について」ドラキュラの家を介してニート、フリーター、ホモセクシュアルについて考えてみる。昨夕の第四講の参加者は五〇名を越えた。少しずつ、話しを聞いてくれる人が増えているのは嬉しい。この受講者の面々は大事にしたい。

八時迄三階の南のテラスに朝顔の苗を植えて、ネットをかけ、棒をさし、すだれで日陰を作ってやったりして過ごす。汗をかいた。

八時四十五分世田谷村発。バスを乗り継いで美術館へ。今朝はD氏がTVカメラ撮影の不足分を撮っている筈だ。D氏もマア、しつように頑張っているナア。

R085
七月二十三日

五時起床。メモを記す。

昨日は午前中大学で雑用を済ませ、四回分の世田美での連続レクチャーのシナリオ及びシノプシスを作る。十三時大方の作業を終え、データ作りを依頼。研究室ゼミナールの方針のたたき台を作る。十五時研究室ゼミナール。

世田美での展覧会の報告と分析。M2はグローバライゼーションの中の迷宮の研究。モノ作りはKさんの家の設計。M1はテーマは決らず、モノ作りは家畜小屋の設計。M0は夜の広告の研究と、モノ作りは宇宙船のデザインとなった。十七時修了。韓国料理屋でキムチを食べて、世田谷村に二〇時戻った。

今日は再び世田谷美術館でWORK。十八時過より夜の連続レクチャー。4回目「数学と建築の初歩的考察」の予定。

五時半、ドローイングにかかる。七時前ドローイング作業了。効率良く浅草モバイルをつめる事ができた。

七時十五分手紙を一本書き、朝の仕事をおえる。八時半世田谷村発美術館へ。美術館日記につづく

R084
七月二十一日

今日は休日なので、美術館は月曜日だが開館される。七時半起床。昨日よりは涼しい。八時四十五分世田谷村発。バスを乗り継いで美術館へ。九時半美術館着。以降、美術館日記へ

二十時頃世田谷村に戻る。今日は来場者がようやくにして自分の想定数に近付いたので、疲れて足は重いが、足取りは軽いのだった。

七月二十七日の坂田明の展示会場でのライブは、まだ少しゆとりがあるようで、夜七時開演なので、来てもらいたい。坂田明と私が何故友なのかが知れるでしょう。 早々に横になり、眠る。世田谷村では何の仕事もできぬくらいに疲れて帰るな毎日。

七月二十二日

六時過起床。昨日のメモを記す。今日は美術館休館で、学校に行く。ゼミの態勢を整え直さないといけない。私がこれ迄考えてきた事の大半は、今度の美術館の夜のレクチャーで語り尽くせるので、ゼミでは次の段階の考えを述べ、学習できれば良い。

映像ゼミの準備もきちんとしたい。のだが、何が出来るのか心許ない。

今度の世田谷美術館の展覧会は予想通り、私の岐路になる事は歴然としてきたが、リスクの大きさは予想以上に大きい。それが、美術館で実感している事の中枢だ。

八時前、明日二十三日、そして二十四日、二十五日、二十六日の世田美での連続レクチャーの構想を再点検する。明日のレクチャーが極めて設計の中枢とも思われる。数学と生命(デザイン)に関するものなので、これを解りやすく説ければアトはうまくゆくだろう。佐渡宿根木の集落とクセナキスを関連づけて説こうというのだから、大変な事は大変だ。

R083
七月二〇日

七時前起床。曇天で涼しい。今日は午後に我孫子の真栄寺で清水さんと、小田実の事を話さなくてはならぬので、美術館通いは休み。 昨夕、十六時前に美術館を発ち、南青山のときの忘れものギャラリーへ。十七時着。私の新作銅版画のオープニング・レセプションであった。何人かの人達に会えた。パーティー後近くの中華料理屋で食事。長井さん等古い友人、新しく知った人が入り混じって楽しかった。刷り師の白井さんと話して、次は何をやるかと思いを馳せる。二十二時頃世田谷村に戻った。

小田実とは数度しか会った事もなく、毎日の担当記者でもあった清水さんに、小田実自身の事は語っていただくしか無い。私は佐藤健を通した小田実像とでも呼ぶべきを話す事にしたい。

九時過世田谷村発。日暮里より常磐線。天王台十一時前着。今日は小田実と佐藤健の供養だ。少し汗をかいて歩いてやれと考えたのが大間違い。三〇分位で真栄寺につくだろうと思っていたのが仲々つかない。夏のカンカン照りで、巡礼みたいになってしまった。車はビュン・ビュン通るが、人は一人も歩いていない。見慣れた風景の道の筈が、いつもは車で楽していたから、歩いて見る風景とは全く異る。だんだん不安になる。間違いようが無い道を間違ってしまったか。道端の農家らしき家々の庭の花が仏壇の供花にも似て見えてくる。

真夏の白昼、仏壇の中の道を歩いている幻を見たり、変なところに迷い込んでしまったと思ったり。妙な事になったぞ、コレワ困った。しのぶ会へ向うのが、しのばれる事になるのだろうか。

と、クラクラしていたら、突然、バーッと駆けてくる人がいる。「先生、何してるんですか、おなつかしい」と声を掛けられた。ほとんど奇跡に近く、私の教え子であった笠井健一さんが車で通りかかり、男が一人テクテク歩いているぞこの暑い中とばかり、顔を見れば石山ではないか、何と。と、言うわけで車を停めて声を掛けたのだった。イヤハヤ、持つべき者は教え子である。道路マップを調べてくれたり、世田美分室に真栄寺の電話を尋ねようとしたり(私は手帖迄忘れていた)迄していただいた。笠井君の奥さんが気をきかせて、近くの人に聞いてくれて、その寺はもう少し国道を行ったところにあるらしいと言う。そうか、この道で良かったのか、しかし、想像以上に遠いな、もう四〇分は歩いたのに。「どうぞ、車に乗って下さい送りますから」となり、車で真栄寺着十二時過。

もう、すっかり、充分この出来事で供養はすませた気分となり、昭道さん奥様のおいしい、そうめんをいただく。汗もようやく引いた。只今十二時四〇分。

十三時半本堂で小田実追悼の読経に引き続き、講演会石山、清水、馬場と各人三〇分程話す。十五時三〇分迄。控室で休み、NHKの室山さん等と談笑。佐藤健の奥様も同席。十六時過より本堂で宴席。久し振りに美術館から解放されて気分はリラックスする。十八時迄。昭道和尚に天王台まで車で送ってもらい、M氏、Sさんと電車で東京へ。

只今、十九時半京王線笹塚通過。鳥山、宗柳にて夕食の予定。二十一時前世田谷村に戻る。二十二時よりETV特集「マキノ雅弘」観る。矢野さん頑張っていい番組作ったな。

R082
七月十九日

七時前起床。今日も美術館展示室分室でWORKの予定。明日は真栄寺で小田実をしのぶ会があるので、美術館通いは休みとなる。他人目にさらされながらのWORKは出来る事と出来ない事はあるけれど、さらされている事を何とか力に出来ぬものかな。

今夕、世田美では向風学校のレクチャーも開始される。キチンと目を配らないと、バラバラになってしまう可能性もなくは無い。何故、向風学校がここで開かれるのか、説明できる主旨を書かねばならない。午後一時からはこの展覧会の企画担当者N氏の講堂でのレクチャーもある。今日は美術館は充実するだろう。

朝食、水浴びの後、九時バスを乗り継いで美術館へ。以降、美術館日記へ

R081
七月十八日

流石に朝起きるのが遅くなってきた。七時半起床。今日はNHK新日曜美術館の方々が夕方美術館に来る。髪の毛がボサボサにのびているので、これはいかんなと思い、切ってもらった。昨日も終日美術館の分室で作業。佐賀からの来客、新潟からの来客など対応する。分室の展示が説明不足だったので手を入れた。十七時から、研究室から来たデータを整理し、連続レクチャー第三講のシナリオを整えた。今回の話しは自分でも初めてのテーマなのでスリルがある。十八時二〇分閉館後の展示会場で講義。「ドロップ・シティその後 アメリカの夢」。B・フラーを再生させた読者達、編集者達、そしてヒッピーからジャンプしたビル・ゲイツの事。北京モルガンの話し等。三回目なのでようやく自分でもこなれてきたようだ。

受講者は女子高生から、大阪から来てくれたオジさん迄色とりどりの四〇名程。ようやく軌道に乗ってきたか。しかし、今夕は夜TVの録画取りで開講できず、残念なこと、このうえなし。十二講迄のプログラムは決める事が出来た。閉館後の美術館は本当に良い空間になる。是非体験されたし。

丹羽太一君。トップページ、変えて下さい。今、二十三日の美術館レクチャーのチラシ、データ送るので、参考まで。あるいは明日の向風学校のレクチャー。世界の孤児院の子供達の笑顔の裏にあるモノを、TOPページにしたらどうか。すぐにやって下さい。

安西君より「笑顔」の写真のデータがすぐに届く筈です。これでいきましょう。ついでに日曜日のトップページは二十三日の美術館連続レクチャーのチラシのデータにしましょう。

又、明日十九日は午後一時半から美術館の野田氏による石山展及び石山作品の解説、講演があるので、 それも情報として出して下さい。

R080
七月十七日

七時四十五分起床。曇天。昨夕の美術館連続講義「錆びたポルシェとノアの方舟」川合健二考の参加者は二十五名。夕方美術館に駆け込んでくる人もいて、やりがいがある。こういうスタイルの講義は聴き手の気持ちといかに共振するかに尽きるから。

今夕の美術館連続レクチャーは「ドロップ・シティその後、アメリカの夢」B・フラーとその読者、そして編集者達、で、朝その準備をする。昨日話したマテリアルとアニミズムも自分にとっては新しいテーマであった。クロード・レヴィ=ストロースのブリコラージュをアポロ十三号の地球帰還に見ようとした事と、アニミズムが、それも鉱物質系のアニミズムが連結する。つまりブリコラージュすると突破口が視えるのではないかと考えたのだが、いかがか。

今夕は三夜目で、第一回、第二回の復習をしながら、その積み重ねの上に話しを展開させたい。

九時バスで美術館へ向かう

R079
七月十六日

六時前起床。六時よりTV番組撮影。すこぶる工房の代島さん頑張っちゃって、銅版画を彫っているところをどうしても撮りたいと言う。それでついついOKしてしまった。代島さんはとことんやってるから、こちらもついつい情にほだされてしまうのだ。本当はこんなところ他人に見せたくはないのだが。

八時前修了。少し眠る。

アッ、イケネェ十時を廻ってしまった。今日は子供達が沢山美術館に来る日だった。十時半美術館、ウワーッ、百人以上の子供達が走り廻っている。理想的な風景である。厚生館愛児園の子供達、他の小学生達に色々と話す。

十一時半一段落、今夕の「石山修武・真夏の夜の夢・十二講」第二講の準備。今日は「錆びたポルシェとノアの方舟」川合健二考である。昨夜のレクチャーはいきなりスタートしたのだが、二十四名の参加者があった。

R078
七月十五日

七時四〇分起床。今朝は午前中大学、学部講義。午後遅く美術館への予定。夜は美術館、夜のレクチャーをやり始める

R077
七月十三日 日曜日

七時過起床。今日も美術館出勤である。

猫の白足袋が食後、二階の南側の床からボーッと外を眺めている。何を視ているのかな。九時発美術館へ。

七時十四日

昨日は世田谷村に二〇時頃戻り、すぐ眠った。眠りは浅かった。美術館暮しが長くなり、頭の働き方が少し変だ。眠りながら考えがぐるぐる廻っている風がある。六時半起床。いよいよ、明日十五日から今度の展覧会、最大級の試みを開始する。まだ誰も知らない試みである。美術館の野田氏にも相談していない。野田氏もこの日記を見たらビックリするだろう。

明日から、先ずは第一段階の12のレクチャーを世田美で行う。「石山修武・真夏の夜の夢・連続十二講」と題す。展覧会のタイトルが「建築がみる夢・石山修武と12の物語」となっている。カタログ・合本共に12の物語を書いた。しかし、実はもう一つアイデアがあった。十二回の物語る会を実行してみようという、自分には何ともキツーイ、アイデアであった。当初の構想は二十四回のレクチャーであったが、体力に自信が無く、先ずは十二回とした。うまく峠を越える事が出来たら、本当に二十四回やってみる。能力の限界に挑戦してやろうと決めた。

第一回は明日十五日十八時半より、世田美展覧会場で

「バラック浄土・伴野一六邸異聞」地球を漂流するモノと住宅

第二回は七月十六日

「錆び付いたポルシェとノアの方舟」川合健二考

第三回は七月十七日

「ドロップ・シティその後 アメリカの夢」B・フラーと読者、そして編集者達

第四回は七月二十三日

「数学と建築に関する初歩的考察」佐渡宿根木集落に学ぶ

第五回は七月二十四日

「現代若者の一つの傾向について」ドラキュラの家を介して、ニート、フリーター、ホモセクシュアルについて考えてみる

第六回は七月二十五日

「サティアンが予告していた事」グローバル・スタンダードと建築スタイル

第七回以降十二回迄は七月十九日に示す。受講料は無料であるが、入館料は支払う事。五時三〇分迄に入館して開講を待つ事。

今日はこれから九時過に休館の美術館に出掛けて、TV番組の撮影である。全く休みがないが、体調は良い。連続レクチャーはやり通してみる

R076
七月十二日

五時起床。ドローイング五点。二点は考えがまとまる方向性を発見する糸口となった。三点はカオスのまま。李祖原と鈴木博之の味王での議論に触発されているのが解る。更に、都市史の伊藤先生のグリッド論のレクチャーを思い起した。伊藤さんも大変な事考えていたんだ。

六時過終える。メモを記す。

昨日午後美術館で向風学校安西直紀と打合わせ。八月五日に安西君が李登輝元総統との会見が決まったので、その壮行会、報告会を含め四回にわたり向風学校レクチャーと向風学校総会を世田谷美術館の私の展示会場で行う事になった。

しばらく、向風学校は動いていなかったので、ようやく本格的な再始動の糸口をつかめた。七月十九日にレクチャー。七月三〇日に壮行会。八月十四日レクチャー、八月十六日報告会のスケジュールとした。

勿論どなたでも参加可能なので是非御参集されたし。いずれの日も五時半美術館集合、時間厳守。六時十五分開始の夜会である。

何故に安西直紀が李登輝閣下に会はねばならぬのか、本人より考えが述べられるだろう。日中台、つまり東アジア共同体構想を聞くことが出来るのか、はたまた、稀代のバカ本「睨むんです」の乗りであるのか、風の噂によれば安西は都知事選に打って出るらしい。ただし、すぐにではない、十年先の話しだが、今回の出来事はそれへの準備体操の趣向があるとの情報もある。誠に怪しい情報である。

R075
七月十一日

八時起床。諸々の連絡後、九時半発大学へ。十時四〇分大学院レクチャー。十三時前研究室発。十四時美術館。安西直紀向風学校代表と美術館ナイトレクチャーシリーズに関して打ち合わせ。

R074
七月十日

坂田明、美術館内ライブ・リハーサルに聴きほれた後十八時四〇分、坂田の車で大学迄送ってもらった。道々、色々と話し込む。坂田は一廻り大きくなったな。うらやましい。研究室で雑用。二〇時半学科会議室で会議。二十二時頃迄。二十三時過世田谷村に戻ったのが昨日の事である

本日、六時四〇分起床して、昨日の美術館日記を記し、今この世田谷村日記を記している。読者はダブル日記でややこしいだろうが、私も実にややこしい。

青木淳氏より彼の展覧会のカタログ送られてくる。私の展覧会は建築家達にはほとんど知らせを出していなかったので、青木さんには私のカタログをお送りしなくてはいけない。仲々、建築界から足を抜くのも大変なのだ。青木淳展に関しては足を運んでからきちんと批評したい。抜く足もあれば、運ぶ足もあるのだ。と訳のわからん事を独人つぶやく。

今日は午前中、病院に行って定期検診、午後は美術館に行って、仕事をする予定。明日十一日も、午前中の大学院講義をすませた後、午後は美術館で仕事の予定。十二、十三の土、日は共に終日、美術館石山研分室で仕事の予定である。

八時前、向風学校安西直紀と話す。昨夜、台湾の李登輝事務所より連絡があり、李登輝が安西に会うと言ってきたとの事。流石、李祖原だな。キチンとアレンジしてくれた。持つべきものは良い友である。安西直紀と向風学校 IN 世田谷美術館について話す。彼だったら千人単位の出来事を巻き起こす事位容易な筈である。

宮古島の渡真利さんに電話する。今、TIDA 号で海上に居るそうだ。久しぶりに明るい声と、潮風迄電話から流れ出す感があった。八月の宮古島市長美術館来館の件他、話し合う。宮古島市長も月光 TIDA 計画に参画する事になるだろう。着々と、世田谷美術館での展「建築がみる夢」は実現に向けて歩を進めている。

九時半杏林病院。採血他検査。「尿酸値高いですね。ビール飲んでますね。酒止められないのなら、ビールは止めて焼酎にしなさい。マッタク」

「先生、忙しくてヘトヘトになると、つい、すんません」

「煙草は止めてるんでしょうね」

「イヤ、モチロンです、煙草なんて、とんでもない」

という会話であった。

この病院は何の文句もつけようがなく、担当の医師も大変すぐれて、人柄も良いのだが、六階のアイ・クリニックの受付と予約係が無愛想極まり、おまけに、高飛車の冷血振りで、私、大嫌い。アイ・クリニックなんてもんじゃない。無愛想クリニックと変名せよと言いたい。

こんな処で眼の検査、例の、「左、右、下、上」なんてする位なら、自分の家に視力検査表作って、自分で検査した方がズーッとましだ。

R073
七月八日

十二時二〇分大学。講義準備。十時五〇分より十二時迄学部講義。ときの忘れもの用のカタログ二〇冊にサイン。銅版画三〇数点にサイン。修了後浅草計画の企画書を持って研究室を発つ。新大久保近江屋で朝昼食をとり、上野経由浅草へ。雷門で番組制作D氏と落ち合う前に、仲見世壱番屋社長I氏と事前打ち合わせ。やっぱり生の打ち合わせを、ダイレクトにTVカメラにとられるのは辛いところもあるのだ。

十六時過D氏と雷門で会う。カメラを廻しながら再び壱番屋迄歩き、I社長と「ヤアヤア」となる。すぐに店を抜けて裏の舞扇屋さんへ。ここは夫人経営である。二階で打合わせ。修了後、D氏と小休ビールを飲み、神田経由で世田谷村に戻る。今日は少し休ませていただく。

七月九日

五時起床。今朝は取材、インタビューがあるので、あわてて下の畑の草取り。思い切り、蚊に刺されまくる。展覧会の準備にかまけて、畑に全く手が入らなかった罰である。こんな事でもない限り畑の草取りはしなかっただろうから、マア良かったかな。タロイモの他は当然全滅であった。久し振りに草の香に触れたが、蚊のかゆさでそれを楽しむなんて事は一切無し。五時四〇分、ほうほうの体で退散する。かゆみ止めのキンカン塗りまくり、風呂に入り、家中の窓を開け放ち、風を入れ、ようやく一息つく。

日記を二本立てにしてからどうもうまくいっていない。読むのに大変だとか、日付が間違っていたぞ、とか、入ってくるのは悪評ばかりだ。しかし、八月十七日迄だから立てた方針は貫いてみよう。要するに記録する体力の問題に帰するのだ。一人で二つの場を生きなければならないのだから。と、思わず大袈裟な感慨にふける。悪いクセだ。

R072
七月八日

七時十五分起床。メモを記す。昨日十時三十二分の汽車でT社長、TV番組制作D氏と郡山へ。サミットのテロ対策で全てのゴミ箱が閉鎖されている。不便だが、我ながらつまらぬゴミを持ち歩く、ゴミ発生源であるのも痛感する。

郡山より車で鬼沼現場へ。途中、いつも寄る十割ソバ店で昼食。うまい!大雨注意報が出ているそうだが天候は持ちそうで、コンクリート打ちは決行する事になる。しかし、現場は山一つ向うで、小雨だそうだ。D氏重そうな荷物を三つも一人でかつぎ、大変そうだ。プノンペンでは三脚騒ぎ(三脚失踪)があったので一人で全てまかなう決意なのだ。今日は運転までD氏任せとなる。

十二時過現場着。雨も上がり、天気は持ちそうだ。いつものように、長グツにはきかえて、現場へ。農園部分に大分手が入っていて、野菜が出来始めている。

十三時過前進基地の人工土地のコンクリート打ち、24 立米のコンクリートを金属デッキの上に打つ。「畑を作るのに、掘り起してみたら岩がゴロゴロ出てきて、皆手作業で取り除かなくちゃならない。こうして人工の床を作って、畑にした方が合理的だ」と相変らずT社長はリアリストだ。

しかし、木場の社屋の屋上に作っている畑はようやく青々と茂り、野菜も出来始めたようで、何人かの社員が関心を示し始めたようだ。兄さんの専務と二人で始めた事だがようやく社員の眼も畑作りに向いてきたとの事。何事もやって見せ、成果を見せないと皆は動かないのだな。

時の谷の現場、光風水塔のサイトにも上る。今日は風がなく、遠くに見える布引山の大型風車群はピクリとも動いていない。

炭焼き小屋に戻る。今朝の五時半に火を入れて、今日は夜通し火を絶やさぬそうだ。しかし、炭焼の現場の人間は楽しそうだった。「建物より面白いです」だって。

畑を見て廻る。気持良い。トマト、とうもろこし、カボチャ、レタス等々が育っている。世田谷村よりも良い状態である。家は庭木を切らないと日当りが良くないのだな。やはり。緑の見た目よりも、陽当りの実利なのだ野菜は。野菜はリアリストである。

コンクリート打ち、ほんの一部を残して終了。ほんの数 mm 平均の厚みが増えたのだろう、打ち残しが出たのは。コンクリートの上には土を載せて畑を作るので頑丈ならばそれで良い。コルゲートパイプから突き出した斜材もうまく働いていた。十八時過終了。現場を去る。関組のチーフは今週末に子供と世田美に行きますとの事。今日は一日、天気がもってD氏も嬉しそうだった。時の谷の倉庫の方針もほぼ決定された。

二〇時頃の汽車で東京へ。車内で話しが弾む。T社長は来週から中国行との事。取引先が中国、インドへと主軸が変り、ハードなようだ。しかし頑張るな社長は。鬼沼計画は全て社長、専務以下の頑張りにかかっているので力一杯頑張っていただきたい。二十二時世田谷村に戻る。

八時昨日のメモを記し終る。

R071
七月六日 日曜日

八時過起床。昨日は二〇時帰宅後、ドローイングを二点。「それぞれのヴィジョン・パビリオン」今日から展示を開始する具体美術の作家五名 VS 実験工房山口勝弘のヴィジョンのクロスを、そして「お母さんと子供達のヴィジョン」の交差を表現するパビリオンの為のドローイングだ。ようやくドローイングするゆとりが生まれた。九時世田谷村発美術館へ。今日はどんな人に会えるかな。

七月七日

七時起床。七夕なのに生僧の雨だ。今日は猪苗代鬼沼の現場行。雨だけれど、コンクリート打設に立ち会う。TVカメラは炭焼きの模様を撮るようだ。新日曜美術館のドキュメント「建築がみる夢」の撮影は執拗であり、時に辟易するが、メディアも又表現の一部であり、しかもTVはマスメディアの象徴だ。辟易なんてしてられない。しかし、今日はT社長、私、そしてカメラの三名で、しかも私もT社長も運転しないから、カメラのD氏が自分で運転しなくてはならず、だから必然として、運転中はカメラを廻せないのである。アハハ、その間にT社長と大いに面白い話を沢山してやろう。

昨夕は、久し振りに美術館のN氏と呑んだ。芦花公園駅近くで。N氏はズーッと休み無しの過労状態で、それを見ていると私も疲れたなんて言ってられない。昨日は展覧会開催から最大の入場者数であったが、まだ目標には達していない。色々と工夫をこらしたい

八時発、東京駅へ。

R070
七月五日

五時起床。酒井忠康著「若林奮 犬になった彫刻家」読む。一筋縄にはゆかぬ本で、時間をかけてゆっくり読まなくてはならない。

驚くべき事に、家の風呂場に樹が生え始めた。つまり、世田谷村の下から一枚目のスラブに設けてある風呂の床からニョッキリ、何かが芽を出して育ち始めたのである。巨きな草なのか、樹木であるのか、まだ判然としないのであるが、いささか驚いている。

石ケン水にも汚水にも、めげずにニョッキリ芽生え、二〇 cm 程に育っている姿を見ると、とても切り取ったりしようとする邪心等湧く訳も無いのである。凄い奴だ。

世田谷村の風呂場はいささか広い。二槽のヒバの浴槽のうち、大きい四角い平面のモノは健在だが、オムスビ型の二十四時間焚き薬草入りで考えた小さな方は割れ目が広がって使い物にならなくなってしまった。作って貰った風呂桶職人が悪いのではない。色々と努力したけれど仕方が無かったのである。

とすれば、今、生えてきた植物はこの亡くなった風呂桶の生れ変わりなのかもしれないぞ。大事にしてやらなくては。しかし、この過酷な条件の場所によく芽を出した。えらい。

ここ一ヶ月計り、展覧会のアレヤ、コレヤで全く畑の手入れを怠けている。当然、雑草が茂り放題で見る影もない。かと言って、疲れきった体で畑をするのも不自然極る。明日、日曜日の午前中、一、二時間畑の手入れをしよう、と手帳に畑とスケジュールを書き込んだ。何かチョッと変だなコレワ。

八時十五分、世田谷村、世田谷美術館双方のメモを記し終える。時間も労力もかかるな全く。九時過、世田谷美術館に発つ。美術館に出勤するの感じだナ。

R069
七月四日

七時四〇分起床。昨日のメモを記す。昨日十二時過仙台着。寸前までメモを記していた。坂口先生が迎えてくれて、車で東北大学へ。今日は最終の講評会である。最終提出者は十三名。何人かが脱けていた。名を記す事は控えるが、何人かの学生の作品にエネルギーとパッションを感じる事が出来た。4年生位というよりも学生時代に必要なのはそれにつきるのだ。東北大学建築学科の学生達の気風には現在の東京の学生達に流れている、着地点を見てしまっている小ざかしさが比較的薄く、ひたむきなところがとても良かった。ほんの数ヶ月、たった四回の附合いであったが、なんとなく友情さえ感じてしまったのである。

総評では彼等に対する希望を述べた。スクスクとはゆくまいが、着々と成長してほしいと心から思った。

十八時より坂口先生、五十嵐太郎先生等と会食。会場まで歩いていたらアトリエ海のSさんが追いかけてきて、姿を見かけたので、との事。早稲田桟敷湯の補修工事をして下さっているとの事。二〇時過迄会食。二〇時二十六分発の汽車で東京へ。二十四時前、世田谷村に辿り着いた。

今日は雨だ。世田美の客足はどうかなと気になる事仕切り。明日、土曜日より本格的な広報活動をする予定である。長丁場だ着々とやれば良い。

九時半世田谷村発十時半大学研究室。大学院レクチャー準備。十時四〇分院レクチャー。フィリップ・ジョンソンのニューキャナンのガラスの家について。

ガラスの家はミースのファンズワース邸のまがいとしてとらえられる事が多いが、情報化時代の建築モデルとして考える事の可能性について話す予定である。

R068
七月三日

朝十時東京駅、十時〇八分の汽車で仙台へ。ところが、プラットフォームを一本間違えて待ってしまい。駅の表示は十一時〇八分の汽車になっている。丁度一時間先なのだ。若い駅員に「君この表示板間違ってるぞ」と指摘したら、「十時〇八分は隣のプラットフォームです。もう出発しますよ」と言われ、「そりゃどうも」とアタフタと隣のホームに駆け下り、又駆け上がり、ようやく、当初予定の汽車に滑り込んだ。

実ワ、昨日七月二日もこんな事があった。

世田美の会場に安藤忠雄さんが駆けつけてくれた。「TAXI待たしとんのや、ここ足の便悪いな、この足で東大の駒塲に行かな、ならんのや。遅れるなと鈴木博之先生に言われとんのや」と会場を駆け廻り、去った。私も李祖原と共に鈴木博之先生と夕食をとろうかと考えていたので、向風学校安西直紀代表の車で駒塲へ。安藤忠雄さんの東大新入生歓迎記念レクチャー会場に行く。

安藤さん「やりにくいわー。帰りなはれ」と言うが、今更おめおめとは帰れない。李祖原連れて来ちゃったんだから。それでも十六時二〇分から二時間弱のレクチャーは面白かった。安藤さんの話芸だな、コレワもう。時に笑わされ、時にウムと思わせる芸の域に達している。その骨格はしかも実にシンプルなのである。

李祖原と良く似ているのだが、李祖原はエジプトの建築に対する深い関心をベースにした巨大建築を目指しているのに対し、安藤さんは市民社会の都市をストレートに語りかけるところが違うのだ。

修了後、安藤さんは大阪に戻り、我々は新宿に行こうとなった。井の頭駅で明大前乗りかえ、京王線新宿へ。笹塚で新線新宿に乗り変えると、東口、味王に近いので乗り換えたのがポカだった。私は滅多にしない事をしてしまった。電車の棚に重いリュックサックを乗せて、それをすっかり忘れてしまった。ポケーッとしていたのだ。それも鈴木博之、李祖原両大家の前でポケを見せてしまった。一生の不覚である。

新線新宿の事務所で、すぐに忘れ物をした旨を伝えたら、その電車はまだ京王線新宿のホームにいるのと事。連絡して探してもらう。

「ノープロブレム、大丈夫です」と虚勢を張ったら、鈴木博之教授がたちどころに、

「何が入っていたの」

「えー、財布、現金はなかったけれど、カード、それに手帖といささかの書類です」

「何言ってんだよ、プロブレムだよそれは。すぐ京王線に走った方がいいよ」

李祖原も

「カードか、それはプロブレムだ」

とオロオロしかかったところで連絡が入り

「それらしき物体がありましたの知らせが入りました」

との事。二人の大家につきそわれて京王線新宿へ。駅長室に行く。

ホッ、黒いリュックサックと再会。身分証明書の呈示を求められた。何と中にはパスポートまで入っていた。カンボジアに行った時のマンマのリュックだったんだ。それでも無事回収。チョッとしたアポロ13号事件であった。

相当俺はボケてる。疲れから来るのか、それだったら回復出来るけれど、年令による自然ボケであったら、こりゃ大変だぞと痛感する。

味王で、鈴木博之先生に李祖原がストレートな質問をいくつか、昔通りの面白い会話が続いた。二十一時半頃迄。世田谷村に二十三時過戻り、バタリ。

R067
七月一日

十時四〇分より講義。十二時迄、三〇分程待ってD氏、K氏と共にたまプラーザ山口勝弘さんの室へ。途中世田谷美術館に寄る。シーンとしていた。こういう日に本当は見てもらいたい。いい展覧会なんだから。K氏の荷物を広島迄帰るトラックに積み込む。十四時たまプラーザ、山口勝弘先生の室で挨拶。宮脇愛子さんと共に福砂屋のカステラを頂く。十五時四〇分辞す。再び世田美へ。広島に帰るK氏を送る。本当に御苦労様でした。世田美エントランスで、何と上山大峻前龍谷大学学長にお目にかかる。京都からお越し下さった。

上山大峻先生は八年前の大谷探検隊の足跡を辿るという本願寺のプロジェクトの代表の一人であった。亡くなった佐藤健の最期の旅になった西域へ、敦煌への旅を御一緒した。私のこれ迄の人生で一番辛く、不可思議な旅であった。なにしろ佐藤健は旅で死んだら本望だと覚悟していたのだから、そうはさせないぞ、日本に連れて帰るぞと、こちらも覚悟していた。末期癌であった佐藤健は、それでも砂漠を歩き、砂丘に登ろうとした。足許はすでにおぼつかなかった。そんな旅に附き合って下さったのが上山大峻先生であった。

その方に私の展覧会のウィークデイに、しかも今日は私は休もう美術館には顔を出すまいと決めていた、夕刻にバッタリであった。

幾つかのプロジェクトを説明して案内し、お別れした

十七時過磯崎アトリエ近くでD氏と別れる。まだ約束の時間には間があるので、大通りに面した、カフェのテラスで蜂みつ入りホットミルクを飲みメモを記す。李祖原は一人でここ迄来れるかなとチョッと心配している。

磯崎アトリエの坂を下る。アッと思ったのだが、李祖原がすでにアトリエ前に立って私を待っていた。十八時前アトリエへ。すぐに磯崎新の部屋へ通され、会談。李は北京モルガンの報告、磯崎新からはボローニャ及びカタールの仕事について。カタールのカンファレンスホールはフィレンツェステーションのアイデアが再登場していてビックリする。

フィレンツェステーションの案は誰が見たって、一等になったノーマン・フォスターのものより、はるかに良く、まだ視た事のない建築になり得たのだが、それを誰よりも知っていたのは磯崎なのだろうと思った。

夕食はミッドタウンの安藤忠雄設計のミュージアム附属レストランで。仲々良く出来た建築であるが、驚きは無い。食事は四名中三名、私も含めてベジタリアン宣言をしたので実に健康的な食事であった。会話は面白かった。

修了後、李と別れ私は地下鉄大江戸線で新宿へ。二十二時過世田谷村着。

七月二日

五時起床。メモを記す。ようやく、キチンとした記録を記すゆとりが出来てきた。我ながら大した度胸の持主じゃないなと思う。

しかし、今度の展覧会には精力を使ったなと自覚する。

藤野忠利氏からの時計が仲々腕にしっくりとして具合が良い。幸運も持ってきてくれたら良いのにな。六時再眠する。

R066
七月一日

七時四十五分起床。昨日は十三時李祖原が研究室に来室。十六時頃まで話し込む。北京モルガンセンターのほぼ完成写真を見て、これは李のキャリアの、今のところ最高のモノだと感じた。胡錦濤中国国家主席も大変気に入っているそうだ。北京オリンピックの背景に巨大なドラゴンのシルエットが浮かび上がり、恐らく昇り龍、中国の象徴になるのではないか。オーナー Mr. 郭(マイルス・K)も簡単な径ではなかったが、「お目出とう」を送りたい。一度、展覧会中に世田美に来ると良いのに。

今日一日は午前中学部講義、十二時半ピックアップされて新日曜美術館の為の取材で、山口勝弘先生の室を訪問する。その足で夕方、李と磯崎アトリエ訪問する予定である。

今日から、禁煙、断酒、断肉を試みるつもりだが、初日から磯崎X李の夕食になった。李は完全な菜食主義者で意志も強いが、私はダメかも知れない。でも本能的にやる必要がありそうだ。

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