R115
八月二十九日

十三時新大久保近江屋にてI氏 Jr と会食。色々と浅草の事を聞く。九月十日頃に油壷の月光ハウスで再会する事とする。月光チームと浅草を会わせるのは直観でしかない。昼なのにしょうちゅうを一本あけて、少し酔い、まだ十八時過の鈴木先生との会食には間があり過ぎるとて、I Jr に従って新宿で映画を見る事になった。「デトロイト・メタル・シティ」なる映画であった。何が何だか解らぬ映画で、途中完全に眠った。かなり深い眠りであった。眠覚めたら、まだ映画は続行していた。完全にC級映画であった。日本の映画も一時代前の香港C級カンフー映画を作るまで力をつけてきたのかの解釈もあろうが、かくの如くの映画でまずまずの観客が集まっている事が不思議である。映画はなすすべもなき時間つぶしの為の時間の埋め草になったのだろうな。だって歴史=現実の方がフィクションよりも面白いのが歴然としてきているのが現代だから。しかし、随分昔、台北で時間つぶしにC級香港映画を観ていた頃を思い出した。あの時間、この時間はいかなる時間なのかな。

十七時半I氏、渡辺と新宿で別れて角で新大久保近江屋へ。メモを記しながらS氏を待つ。

八月三〇日

七時起床。昨夕は十八時より近江屋で鈴木博之先生と会食。その後久し振りに俳句の会発祥の地である池袋のワインバーに出掛ける。事務局だった筈の女将というか女主人に難波先生と間違われる仕末で、あんな事で句会事務局は務まるのであろうか。しかし、流石事務局でもあり、我々の句会が妙見会という名であった事を思い出させてくれたのであった。鈴木会長も幹事長であった筈の私もそれをすっかり忘れていたのである。誠に不甲斐ない事おびただしい。会勢は一向に延びておらず、鈴木会長、難波議長、名前も知らぬワインBarの女主人が事務局長、私が幹事長のマンマなのである。

池袋ワインBarに来たりて、妙見様いきなりボルテージ上昇す。手当り次第に駄洒落、駆句連発し、その勢い止まらず。隣に座したる女客どうやら名をケイコサンと言える、余りのカウンター状のつむじ風に吹き廻され、眠りにつく。幸いなるかな夏の夢、そう明なるかな、駄洒落に対するに仮眠の風体。無視するでもなく、抵抗するでもなく、ただただ嵐の通り過ぎるを待てり。これぞ賢者のひと眠りと覚えたり。我眠れず、凡愚なり。会長一人言葉遊びに忘我の有様なり。恐ろしき人物、例えべくも無い才覚なり。疲労コンパイして池袋駅に脱出せり。誠に異能の人よ、汝、自らの才を制御せざれば周囲の友は皆カウンターに伏せるなり。アア、真夏の夜の、雨と稲妻の光の中の妙見様は駄句駄洒落明王の如くなり。

世田谷村に戻りぶっ倒れる如くに寝たり。

メモを記し八時過羽田へ。今日は北海道十勝行である。

十時前羽田空港17番ゲートでK氏を待つ。今日は十勝に「音の神殿」ならぬ「水の神殿」サイトをK社長と見学に行く。大雪山の大伏流水が自噴している井戸があり、それをビジネスにしたいというわけである。水の神様を設計するわけで、面白いと直観したのだが、何ができるのかはまだ皆目見当がついていないのである。

インナーヒマラヤ巨峰K2を間近に望むムクチナートはヒンドゥーの聖地であったが、そこは水が神であった。多くのドラゴンの口から水が流れ出していた。そのドラゴンの数は実に多かった。バリ島でもそんな場所があったのをうろ憶えにしている。五つ位の棒状ドラゴンのトヨから水がプールに流れ落ちていた。多くの神殿が水と切っても切れぬ仲にあった。あの類のモノを考えねばならぬのだが、作り出す物語りに嘘があってはならぬ。嘘があってはならぬが幻影は作り出さねばならないだろう。水地蔵みたいなモノかな。小さなサイト全体と大雪山の関係が視覚的にどうなっているかどうか、それが重要である。

十時五〇分K氏と共に帯広へ。十二時二〇分着。空港内で豚丼昼食。レンタカーでK氏のキノコ工場・堆肥工場等を見て廻り、十六時過W氏と落合い音更の水の神殿建設予定地の水源地へ。石狩山系下の広大な風景の中にあった。そのうわさの水を飲み、色々と話しをうかがう。十七時過迄。W氏と別れて十八時前帯広駅近くの日航ノースランド帯広へ。チェックイン。十五分、帯広の街へ食事に出る。

二〇時十五分ホテル帰着。二時間弱の夜の散歩であった。北の屋台は満員で入れず、その前の屋台卒業と名乗るチーズ&ワイン屋と十勝ビール。淡々とした夕食であったが、良かった。

さあ、これから夜が長いぞ、明朝は七時四五分にロビーでK氏と会い朝食である。マア、ゆっくり風呂でも使うか。

八月三十一日 日曜日

六時起床。外は濃霧である。そうだったな十勝の天候は朝、霧がかかる事が多かったような記憶がある。この天候では多く動いても仕方あるまい。K氏の農に向けた関心はかなり本格的なものですでにベンチャー・ビジネスの域である。「水の神殿」計画もその総合性の中に位置付けなくてはならぬだろう。計画は彼のビジネスのパイロット、広報である。十勝の後藤、坂本両氏の協力も得なくてはならないだろう。私にとってはヘレンケラー記念塔の次のステップの計画である。先ず第一に物語りを紡ぎ出し得る樹木、草花の選定が大事だ。水と樹は切り離せない。それからスタートさせたい。

八時半朝食了。東京に居る後藤氏に電話して昼の十二時二〇分に帯広空港で会う事とする。

K商事帯広工場。再びキノコ栽培工場、ヘレンケラー記念塔を見て帯広空港へ。十二時二十五分東京よりの後藤氏と会い、短い会食。十三時十五分発の便で東京へ。東京着、十五時前。羽田でK氏と別れ世田谷村に戻る。十六時過世田谷村着。大雨で地下が浸水していた。

浸水した地下室の水中ポンプの位置が解らず手のつけようがない。夜、又、強い雨が降ってくる。全く天候が異常なのは不安だ。ベーシーの菅原正二もそんな風な事をしきりに書いているが不安である。カリブ海の超大型ハリケーン、グスタフも大暴れしているようで、地球は異常気象に本格的に突入したのか、自然をあなどってはならないと凡庸極まる実感を持つが、何となく身に迫ってくる実感となっている。しかし、どうする事も出来ない。

夜、広島の木本君に連絡。「水の神殿」に関して。

九月一日

六時半起床。今日より正常な仕事モードに移す予定。この夏は展覧会も含めて目一杯リフレッシュさせて頂いた。七時半迄新聞を読む。昨夜連絡が取れなかった木本君に八時電話を入れる。

昨日帯広空港の昼食時に後藤氏から聞かされた話だが、ドバイのマネーが北海道の土地の買い占めに動いているそうで、聞いてみれば、さもありなんと思うのだが、洞爺湖サミットのお膝元で、その土台が揺れていたんだな。ドバイにしてみれば砂漠緑化に巨費を投じるよりも、北海道の何がしかを買い占めた方がリスクも負担も小さいのだろう。日本の何がしかの企業がアマゾン農園開発に乗り出しているのと全く同じだから、NO とも言えないだろうし。オイルマネーの狂走は地球自体の仕組みの一部を変更しているのか。実体は知りようもないが、後藤氏としては何処の金であろうが、ドバイよりはまだ国内の金の方が、十勝地方の将来にはましだ、の考えがあるようだ。

十時世田谷村発。研究室へ向う。

R114
八月二十九日

七時起床。馬場昭道和尚から依頼されていたカット画5点仕上げる。宮崎の新聞の、和尚の連載記事の飾りに使うらしい。私の職業画家としての初めての仕事である。流石に和尚は目ざとい。俺の絵らしきの使い方を良く心得ている。

昨日は、十年程昔に刊行された図書刊行会『パタゴニア・エキスプレス』ルイス・セペルベダを読了した。チリ出身の作家で短編集であるが読んで心地良かった。地名や、人名の音の響きが何故か気持よいのだ。何故だろう。訳も良いのだろう。文体の良さは天性のものとしか思えない。軽みと悲愁が自ずから備わっている。ラテン・アメリカの悲哀だ。

七時二〇分『at』の校正にかかる。編集人のT氏よりコメントも届いていた。遅れた原稿に対して申し訳なし。八時二〇分修了。すぐFAXで送る。八時半完了。

今日は午後、浅草のIさんと昼飯、夕方鈴木博之先生と会食の予定。飯を喰う予定だけだ。十時四〇分朝食を終え、今日の用事は全て済ませた。虫にさされてかゆいところにキンカンを塗って、ボーッとしている。

鈴木先生には展覧会に出展していただいた勝手に送りつけたドローイングをお返ししなければならない。その中にはアレがどうしても欲しいという人もいたんだから、世の中何があるか解らない。

R113
八月二十八日

四時過起床。『at』原稿書く。六時半終了。二〇〇字五二枚。昨夜中に書き上げねばならなかったのだが四〇枚で根が切れて、今朝迄持ち越してしまった。『at』編集には迷惑をかけたろう。すぐに新しいFAX機で送附。今頃FAXで原稿送ったりするのも完全な化石状態なのであろうと我ながら笑う。

七時半新聞を読んで、朝風呂を使う。

アフガニスタンで青年がタリバンらしきに殺害された。日本人青年としては有為な誠心を持つ青年だと思われるが、戦争、内戦の非情はそれを平気で踏みにじるものだ。

R112
八月二十六日

十七時半新大久保駅前近江屋にてきしめんを食す。実は昼もここで食事した。まことに変わり映えしない暮らし振りである。難波先生との話し合い迄小一時間あるので、少し準備する事にする。

設計製図教育は大きな曲がり角に来ている。今の教育の方針は基本的に良い建築家を育てようとするものだ。しかしながら、その良い建築家像というのにそれ程の実体が無い。又、社会的にも現実味が薄い。もうすでに私は三千六百人程の学生の設計製図を見てきた事になる。その中で記憶に残る人材は片手にも満たない。その満たぬ片手程の数の人材にしても建築家として活躍するだろうかと考えるならば、それはかなり悲観的である。そんな現実を見据えれば、設計製図教育から良い建築家としての人材を生み出す事は、これは殆んど不可能な事ではなかろうか。

大学教育によって生み出される類のものでは無いのだな建築家は。一般教養、体力、気力、人間関係へのセンス、ある種の政治力、執念らしきもの、それを教育する事は不可能だ。

では何が可能なのだろうかと考えてみる。一個の独立した人材を育成する事は出来ぬ。集団の中で力を発揮し得る人材は教育する事が可能かも知れない。つまり共同設計の形式の中での力の表現といった事は教える事が出来るかも知れない。東大も早稲田もそれ程の違いはなかろう。

等と身のない事共を考えていると、難波先生がやってきた。ヤアヤアとあいさつ。東大との共通課題について話し合う。結論として、今年もやってみようという事になった。早稲田の今年の3年生の力量は知らぬ。風の噂では昨年と比較すればだいぶ小じんまりしているらしい。やれば、今年は東大に負けるだろうと直観する。であるから、早稲田としては負けを承知でやるしかない。

で、課題作成の大半は難波先生にゆだねる事にした。目一杯東大的な、東大生向きの課題にしてくれと頼んだ。コテンコテンに一度やられてしまえば良い。中途半端は駄目だ。一人でも凄い奴が這い上がってきたら実に、それが早稲田建築の人材たり得るだろう。

課題の件決定後、雑談。映画の話し等。難波先生は今、工場の大作をものしているようで、その建築には気力を溢れ返らせているようであった。久し振りに工場建築の名品が生まれる事を期待したい。

八月二十七日

七時半起床、すぐに遅れている原稿にとりかかる。今日中に仕上げるつもりだ。できるかな。少しづつ研究室に送り込む予定である。九時半二〇〇字10枚書いて『at』編集室にFAXするも、機械不調で遅れず。電話で今日中に40枚送るからと伝える。本当にできるかな。マア、やってみよう。

十四時過二十二枚送ったところで『at』のT氏に電話する。今日中に完成させてしまいたい。設計図その他を研究室に頼まなくては。先ずは鬼沼計画の全体図が必要である。渡辺君、T氏と連絡取られたし。

R111
八月二十五日

十五時前世田谷村発。雨で少し計り肌寒い。二週間前の酷暑をなつかしむ。まだ約束の時間には間があいているので、駅近くの安売りコーヒー店で安物のアイスコーヒーを飲んで一服する。コーヒーに趣味があるわけでもなく、店舗室内に選り好みは全くないので、こんな事になってしまう。

もしも、あくまでももしもなんだが、ベーシーが世田谷村近くにあったとする。私はコーヒーはおろか、ジャズにも音楽にもそれ程の趣味の深さの持ち合わせがない。だから、ベーシーには多分行かなかったろう。だから菅原にも会わなかったろう。つまり私はベーシーの客達の中では全く異質の客なのだろう。菅原だって、それを承知で附合ってくれているに違いないのだ。

私の友人達、つまり友であると勝手に一方的に思い込んでいる人達は皆、それぞれに、それぞれの分野で異質な、異形とも呼んでも良い人達が多いような気がする。

まだ少々時間があるけれど、鈴木博之教授の退官記念講義シリーズの私の講義は大いに気合を入れて、準備万端整えたものに仕立て上げたい。

その考えからすると、つまり、どんな形式のレクチャーにするのかを考えるに、私は鈴木博之教授の退官記念を次の段階へのカタパルトとして前向きに考えてみたい。それに広く人生を考えてみるに、六〇才前半で退官は今では実に早過ぎるのであって、鈴木程の異質の人物にとってそれは自明の理でもあろうが、念の為に唐突に言っておきたい。

今度の私の展覧会に於いて私は自発的に連続レクチャーを開催した。千人程の人達が聴いてくれた。二〇回目のレクチャーはウィリアム・モリスとコンピューターで、その前はシニシズムを抜け出る為にというものだった。マア、これが今のところの私の思考の到達点である事には間違いが無い。それを確かめる為の連続レクチャーであった。どの山に登ろうとしているのかを自己点検する為のレクチャーでもあった。

展覧会場のエントランスに「遠視力点検孔」という、人を煙に巻くつもりで置いた芸術作品も、終わってみれば他人の遠視力を点検する為のものではなく、おのずから自分で自分を点検しなくちゃあ、という気持の現われであったのだろう。自分の事は良く解らない。その代り他人の事は良く解るようになった。

鈴木博之教授の英国好みをとやかく言い立てても仕方がない。しかし、彼の中心には深く英国好みがあり、その好みが彼にとって幸いであったのはそれが深く日本の近代建築史の中心と同根同種の世界のモノであった事だろう。

とにかく、鈴木博之教授の退官記念講義シリーズの私の分のレクチャーは、鈴木博之が苦労して種をまきながらも、芽をフキ出さなかったかに見える。日本近代の落穂拾いを徹底的にやってみようと決めたのである。シニシズムを超えるために+モリスとコンピューターのレクチャーを核として、まとめる。世田谷美術館のレクチャーに参加してくれた皆さんは是非共、この講義はお聴き逃しなきよう。望みたい。

十六時半コーヒーショップを出る。十七時過京王稲田堤の厚生館愛児園。K理事長にお目にかかる。ザクロの街燈の設置位置確認、隣の土地を見学、新プロジェクトの概要の説明を受ける。展覧会終了後初の新しいプロジェクトである。

十八時過駅近くの小料理屋で会食。理事長がかなりの落語通である事が判明する。どうやら志ん生系というより円生系が好みであるようだ。洒脱というよりやはり何処か逸脱の自由がある人物だと思っていたが、成程ネと思った。二十一時前迄、語り合う。二十一時半過頃世田谷村に戻る。

R110
八月二十三日

六時過起床。朝食をたっぷりとり、八時世田谷村発。九時東京駅。T社長、渡辺と待ち合わせ。十時前の東北新幹線で郡山へ。車中にて鬼沼計画全般の打合わせ。もうこの計画に着手してから5年になんなんとしている。

十一時半郡山着。車で猪苗代湖畔の現場へ。雨降りしきり、途中山あいに入ると深い霧である。いつもの十割そば屋でうまいおろし大根ソバとおいなりさんの昼食。非常に美味なり。東北随一だな。新潟のソバはここと比べると少しおちる。工夫が足りない。オヤジは欲がなく、十一時開店十五時頃には閉店だからな。この欲の無さが味に良く現れているのである。いなり寿司とのとり合わせも実に良い。満足する。

十三時過鬼沼現場。すぐに前進基地の人工地盤を支える構造のチェック。いささかの補強材を入れるように指示、相談する。人工地盤の上には二〇〇tの土が入る予定で、空中の畑が出現する事になる。基地の前のいくつかの小屋作りの相談。T社長は世田美展覧会期中に現場でドンドン自分なりに指示しているので又も後手に廻った。

本当にこういうクライアントは実に稀であるが、ある意味では非常に良いのだ。美だとか何とかヘニョヘニョした事こちらが言わなければね。

時の谷の農業倉庫のサイトを見る。根切り工事が少し手がつけられていた。下の池も姿を現しており、あと数年したら壮大な庭が出現するであろう。猪苗代湖は霧がまいて幻想的であった。

新しく作られた農作業用遊歩道を歩き、前進基地の鉄の洞穴に戻る。囲炉裏で炭を燃やして、のんびり打合せ。

T社長友人が今夜鬼沼泊となり、ここに宿泊となったので、我々は一ノ関迄足をのばしベーシー訪問の予定を組んだ。次回は作業小屋のとなりの栗の大木の実がなり、落ちる頃に再訪として、十六時半鬼沼を去る。十七時半郡山駅着。十七時五十七分の汽車で一ノ関へ。渡辺同行。展覧会のお疲れさまである。

只今十六時半過仙台である。東北大に通っている時や、七月の鳴子行の時はどうしても一ノ関迄足を延ばしてみるかのエネルギーが湧かなかったが、今日はようやく無駄とも呼べるエネルギーが生まれて、こうして一ノ関迄、帰りの寄り道をしている。今夜は心身共に無駄な空気に肩までつかり命の洗濯としたい。

十九時十三分一ノ関着。TAXIで「ベーシー」、十九時半前ベーシー着。二十四時前焼肉大昌園で夜食をとり、別れる。ホテル蔵泊。

八月二十四日

六時目覚めて一人ボッーとしたり、又眠ったり。外は雨。八時前朝食をたっぷり喰べて、又眠る。いくらでも眠れるな。目覚めて北京オリンピックマラソン競技をTVでみるも、馬鹿ばかしくなってホテルを出る。雨の中を一ノ関駅へ。汽車が出たばかりでホームでメモを記す。

久し振りに訪れたベーシーではどうやら色んな事が起きていたようだ。一つ一つ記す事は出来ぬが、仲々人生は酷薄なものだ。身体には気をつけなければならぬのは山々だが、気をつけても仕方ない。気をつけられぬ身体、運命としか呼びようのない事もある。

一ノ関駅の武骨で荒々しい鉄骨シェルターの下で激しい雨の音を聴きながら、病に倒れた知り合いをしのんで詠める句。

夏の雨 会う友もあり 去るもあり

アッコレは現実の沼に沈みかかっている。危いと自覚しながら。

雨を嵐を例えてみても、生きるも死ぬも又、一夜の夢かと新幹線駅舎洞穴に闇をみるとて日暮し涙を流しけるヒマも無し。芭蕉はやはり余程ヒマを持て余した男であったか。どうやらベーシーの闇には魔者が棲みついてしまったらしい。この闇に取り込まれると人間は自ら劇的な時を迎えやすくなるようだ。用心したい。

十二時半宇都宮通過。世田谷美術館での21回の講義はキチンとまとめなくてはならない。私のターニングポイントであったなアレは。

沢山な傷は勿論あった。しかし我ながらどうしても話したい、語りかけたいという情熱が確かにあった。自分でそのように言ってみても仕方ない事ではあるがね。あるがね、なのは一応解った上で私はそのような相対性主義的姿勢から決別したいと考えたのである。又、そうありらん、ありたし、アリラン峠を越えてゆーく。馬鹿は死ななきゃ治らない、のである。

十三時過東京着。新宿より難波先生に電話を入レル。決めなければいけない事が山積されていて、会う必要がある。来週会う事となり、世田谷村に戻る事とした。十四時過京王駅車中。

八月二十五日

朝は世田谷村で休む。鬼沼計画はT社長と会社の力そのものが頼りだから私の方だけジタバタしても仕方がない。水が高い処から低きへ流れる如くに、自然にその力に沿って流れてゆくのが一番だろう。今夕はK愛児園のK理事長にお目にかかる。色々とこれから先の計画について話を聞く予定。

R109
八月二十一日

終日完休。「死海のほとりで」遠藤周作、読む。

八月二十二日

六時頃起床。古井由吉「夜の香り」読む。少々活字にうえている感があるな。本棚を整理していたら、古いオッというようなモノが続々と出てきた。少しづつ捨てて、身の廻りを読める本だけにしなくては。もう価値がグラグラと変ることもあるまいから。十時過、福田和也「日本の家郷」読む。いきなり寒いような風が吹き巡る秋になった。

R108
八月二〇日

八時頃起床。今日は世田谷美術館での展示物を終日世田谷村に移動、受納する一日である。思う存分に働いてくれた諸作をねぎらいながら、しばらくここに休ませる予定。来年はサンパウロ、ワイマールへと一部巡演する計画もある。九時二〇分朝食。Yさんの祖母が作ったコチジャン(トウガラシ味噌)をいただく。もの凄く美味である。

Yさんは世田美の展覧会の監視員をして下さった方で、毎日声を掛け合ってきた。名残り惜しいとお別れしたが、コチジャンを別れにいただいた。不思議な縁だな。

R107
八月十九日

七時半起床。昨夜は久し振りに本を読む時間ができた。「若林奮 犬になった彫刻家」酒井忠康(みすず書房)を読み続けた。

世田谷美術館暮しを一ヶ月半続けた。その体験を経て読むこの本は殊更なものがあった。何故なら酒井忠康はその世田谷美術館の館長であり、その空間を創り出している御当人、元締めである。

再び読み始めたこの本は初見の時とは異なる印象を持って私に迫ってきたのである。「イケネェ、この人物の前で二十一講にわたる講義を、しかも、マルセル・デュシャン批判やら、図に乗ってクリスト批判までやらかしてしまったのか!??」と毎度の事ではあるが、頭を抱え込みたくなる感に落ち入ったのである。

若林奮は確か自分が学生の頃に、何となく好きだった作家だった。形が格好良かったし、その題名も不可解であるが故にいかしていたような気がしていた。酒井忠康はその若林奮の伴走者であり続けた人物である。(その事を無知な私は今度初めて知った。無知は恐いものだ。)この( )つきの文体は酒井忠康特有のもので、私は早速影響されて模倣し始めているのがおかしい。と、ここ迄メモを附して朝食とする。十時には世田谷の出展物を世田谷村に移す為にスタッフが来る事になっている。

十時五〇分迄展示物を世田谷村に受け容れる段取りと準備打合わせ。私は三階に移動してWORK。

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八月十八日

八時半迄眠る。昨十七日で世田谷美術館での個展が完了した。昨夕は連続講義第二十一講も完投する事が出来た。総入場者数は 15,975 人で、目標の 20,000 には届かなかったが、今の私の力では相応な数字であったろう。講義の参加者が最終日は 170名 程になった。初日 24 名で始めた夜会であったから、努力の甲斐があった。二十一日の会でおよそ 1,000 名程の人に話した事になる。

今度の展覧会は世田谷美術館には多大な労力を割いて頂く事になったが、私としては、カタログ、NHK新日曜美術館でのTV番組作りも含め、更に、ミュージアムショップでの生活用具製作販売も含めて、可能な限りの事をした。満足である。製作した生活用具 50 点程はほぼ完売した。美術館のガレージで市根井君に製作してもらい、私がデザイン、ディレクションしたものだったが、これは面白かった。

ミュージアムショップの方々の協力も得られて、毎日が楽しかった。作ったものが、すぐに売れてゆくんだから。しかし、小さなモノ、500 円〜 1,000 円のモノはすぐに売れるのだが、それ以上の価格のモノにはいささか手こずった。もう少し、周到な準備をしてからはじめて始めていたら、もっと面白くできたなと、いささか残念である。ミュージュアムショップでの展示、即売会は又、機会があればやってみたい。

十一時世田谷美術館、撤収作業の立会い。昼食は青果市場の食堂で。食堂のオヤジさんがナシをサービスにくれた。1ヶ月半通い続けたからすっかり顔なじみになった。なじみになったところで、お別れとは、残念なものがあるが、これが人生だ。

昨夜の夜の講義には佐藤健の一人息子、論も来ていて、話を聞いてくれた。佐藤健との「花咲かハウス」の話しもしたから、丁度良かったのだった。

十五時、私が美術館に居ても、あんまり役に立たぬのが判明したので、一足先に失礼する事にした。

R105
八月十五日

七時前起床。八時半発。九時四〇分美術館着。市根井君にオーダーしていた世田谷村オリジナル・プロダクト、椅子と花立て到着。美術館ガレージで仕上げ作業を見ながら相談する

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八月十四日

七時半起床。トウフを喰べて八時半世田谷村発。九時半美術館着。昨日も大変な人であった。

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八月十三日

五時過起床。椅子のデザインスケッチ四点作る。六時五〇分最後の一点を前橋の市根井君に送附する。

昨夜の約束を果たしてホッとする。昨日は市根井君は早朝四時に美術館着。ミュージアム・ショップに展示販売中の小物群の仕上げにいそしんでいたという。職人さんは盆休みに入ったとは言え、熱心さに心打たれる。展覧会最終の土、日にいくつかの椅子を作って売ってみようかと考え、時間的には今朝アイデアを送らないと不可能となるので、私も少しばかり集中して仕事した。四点送ったものを、作りやすい順に作ってくれれば良いのだが。材料は全て(大半を)世田谷村の旧宅の古材をあてた。昨日、夕方、市根井君は世田谷村に来て二本丸柱、梁材をセレクトして適当な長さに切断して持ち帰ったが、恐らく、もう作業を始めているだろう。

私としても、一時間ほどの短時間で作り上げたアイデアだが、全て良いアイデアである。これ迄椅子は全部失敗してきたが、これは良い。私の体験から生み出された考えが溢れ返っている。と、自画自賛する。

八時半世田谷村発。カメラを忘れて一度戻り、出直す。九時四十五分世田谷美術館着

R102
八月十一日

十九時二〇分再びメモを記す。今日は本当に一日何もしなかった。夕方になってすぐ近くの市民農園に久し振りに野菜の状態を観察に出掛けただけ。市民農園の畑は豊かに実っていたなあ。皆さん良くやっていて、私の比ではない。世田美の展覧会でほぼ一ヶ月私の畑は放置したままになり、当然の事ながら雑草がボーボーと生い茂り、何とも言えない状態になってしまった。畑は人の足音で育つと教えられたが、まことにその通りである。私の畑は怒っているんだと思った。

それでも世田谷村の生垣は生命力豊かに生い茂り、特に猿すべりの樹の花が見事である。この状態は写真に記録しておきたい。

八月十二日

五時半起床。昨夜は良く眠った。展覧会はあと今日を入れて六日。長い一ヶ月半であった。ミュージアム・ショップで木製の小品を、デザインしてはすぐ製作して販売したが、意外に良く売れたのが面白かった。市根井君の力だった。

これを持続してゆく方法はないか一考を要するな。DD通信、まちづくり支援センターと続けてきて、プツリと途絶えてしまっていた路線を誰かに引継いで貰う事を考えたい。今日、少し動いてみたい。

最終日の土、日はショップで小さなプレゼンテーションを試みてみようか。

七時十分三階のテラスの植物に水やり終了。朝食をとり美術館へ行こう。

八時十五分発、バスの姿を見て走る。八時二〇分のバスに乗る。千歳船橋乗換え、九時美術館着。倉庫で市根井さんがすでに作業を開始していた。以心伝心だね。座り込んで話す。大型照明器具が売れてしまったので、新しく四ユニットのアクセサリー小物入れ等を製作して貰った。これはかなり早く売れるだろう。

R101
八月十一日 月曜日

実に久し振りの休日である。今日は一日世田谷村で休む。あと一週間程で世田谷美術館の展示会は修了する。八時過に起床。ボーッとしたり、三階のテラスのプラント・ボックス(ただの木箱とプラスチックの箱)を動かしたりする。そんな事をしていたらプラント・ボックスに日除けをかけてやるアイデアが浮んだりして、今十時過だ。実行に移すか、やっぱりゴロゴロ休むかと思い悩む。

十一時十五分迄大工作業。不ぞろいで直角のないスダレ用の枠を三階テラスに立てる。汗ダラダラ、熱いトタン板のテラスで飛び跳ねながらの作業であった。好きでやってるんだからほっといてくれと独人言を言う。

先日、来館した一ノ関ベーシーの菅原正二からその印象を記したFAXが届いていた。

R100
八月十日 日曜日

七時半起床。八時半世田谷村発。家人が地下の整理をしていて、大量のゴミが地上に溢れ出ている。地下で仕事をするつもりらしい。九時二〇分美術館着

R099
八月九日

六時過起床。今夕は連続レクチャーが無いので、頭を休める事ができる。昨夜で十六講が終了した。あと二講残るのみとなったが、ここ迄来たら、行けるところ迄行ってみるかとも考え、あと三講追加して二十一講までやってみようと、今決心した。五講のプログラムと形式を考えなくては。

八時半世田谷村発。九時半美術館着

R098
八月八日

今日は北京オリンピックの開会式。そして昨日は天才バカボンの赤塚不二夫の告別式であった。TVで見た、タモリさんの弔辞が見事であった。タモリさんにはベーシーの菅原正二に会わしてもらったが、地味で小柄な男だなの印象しかなかった。しかし、出る処に出ればやる者であった。

タモリさんは、菅原言うところのピース&ラブ、つまり義理と人情そのものを大ギャグを介してやってのけたのである。「私もあなたの作品です」の決め言葉も良かったが、何よりも弔辞そのモノを書き記した紙が白紙であった、つまり何も書いていなかった。それがタモリの赤塚不二夫に対する最大の御礼ギャグであった。

やはり、というか案の定と言うべきか、一ノ関からベーシーの菅原が展示会場にやってきた。当然、連絡も何も無しで、サッと見て、「TV良かったよ、アレで良く解るようになった」と言い置いてグレープジュースを飲んで、「又、店開けるから」と東北一ノ関に帰っていった。アハハハ、格好良過ぎるところが玉にキズだけど、こっちも似たような事やっているから、おあいこだ。

七時四十五分起床。今日も暑くなりそうだが、一日美術館だから冷房負けしないようにしよう。

渡辺豊和の遺言全集の目次を読み直し、大笑する。面白い。断然面白いが、少し手直しした方がよいところあり。豊和大兄が遺言全集ギャグ、最後っぺ弾道弾を用意しているというのに、我、新興俳句連盟の活動は一向にブレークしないのは、どうか。いかがなものか。鈴木会長には深いお考えがあっての休止状態なのであろうが、一度真意を問う必要があろうか。「バカ、幹事長が何もしないからだろ、会長がそれで動けるわけないだろう」と叱責されるのがオチだろうな。わが新興俳句協会の作品群を評して「アレは川柳で、俳句じゃないよ」と某巨匠は喝破されたので久し振りに一句、幹事長として。

赤塚去り 入道雲生まれ バカボン

友あり一ノ関より来て アニタ・オデイのライブ盤を置いてゆく

アニタ唄う 恋をしましょう この暑いのに

駄目だ、俺は俳句には向いていない。何をやっても、ヒッチハイク。廃句、廃抗の方向へ行ってしまう。

八時半前世田谷村発、何と美術館に着いたのが十時前であった。東急バスの千歳船橋からの乗り継ぎ便が極めて悪い。時々、遅れ過ぎて間引き運転している風も歴然としてある。しかも、京王バスは二百円、東急バスは二百十円。どうなってんだろうね。千歳船橋で行列して待つおばさんと、コレ、オカシイヨと話し合う。東急バスには何とかしろと言いたい。

R097
八月七日

四時過起床。東の空がほの白く明け始めてくる中でメモを記す。記しておきたい事があるからだ。昨日、美術館に奈良から渡辺豊和が来館してくれた。私が最も信頼する人物の一人である。

いきなり、渡辺豊和は切り出した。「遺言書いてるんや、どうや、面白いか、面白くないか、目次だけでも読んでみて。」冗談も程々にして欲しい、貴兄はまだ七〇才ではないか、と切り返した。勿論。イヤ、俺はどうも早死にするデ、と言う。七〇才迄生きて、早死にはないだろうと思ったが、言い返さなかった。眼が笑っていない。人物は思い込みが激しいから、どうやら自分の人生に関しても結末を勝手に決めているらしい。まことに渡辺豊和らしいと、その話しに引き込まれてしまった。

私が渡辺豊和を敬愛する理由は明快極まる。人物の言説が飛切り独自で、面白く、しかも人物の人生を参照するに、その私的全体性を眺めるに(これは鈴木博之が持ち出した概念である)、キチンと筋が通っているからだ。これだけ同じ事を多少の誤りはあるにせよ、言い張り続けた人物は実に日本では稀なのだ。大方の知識人らしきの言説はほとんどが受け売り住宅である。安手の建て売り住宅とほとんど変わりがない。この一点では渡辺豊和は鈴木博之と同様に言い張り方に筋が通っている。その人生と同様に。極めて方法的に生き抜いているのである。

その建築と同様に。まあ、一種の天才だな。日本独特の。と以前から思っていたから私は渡辺豊和と「 2050 年の交信」なる不完全な交信を私のHPで始めていた。双方忙しくて更新がままならぬところがもどかしいが、これは面白くなるのだ。本格的に。これから。

「俺、ワープロできるようになったで」と言い出したのは、石山よ、アレ、も少し続けてみんか、の指示であるのやもしれない。マア、そんな枝葉末節はどうでもよろしい。

渡辺豊和は言った。「俺遺言書くんや。それ、お前見てくれんか。」面白い、流石、渡辺豊和や、今の時期に堂々と、延々と遺言書くのは実に良いのだ。当然こういう建築を作りたいんや、死ぬ迄に恋い焦がれているのや、というのも言説で描き切ってもらいたい。

渡辺は馬鹿な俗人ではない。そんじょそこらのニセ者ではないから、自分史を的確に把握してもいる。「俺の建築はバブルだった。しかもバブルのおこぼれや。ようやくその事を解るようになった。良く視えるようになったで。」ここまで的確な歴史的事実を言われて、その言に共鳴しなかったら人間として恥だ。

私は言った。

「渡辺さん遺言本一冊書いたって面白くないで、遺言全集にしちまえよ、10 冊位書いてさ」

「オモロイな、それいただきや、全集やる、俺。お前出版の方頼むで」

「仕方ないけどやってみるか。でも何時書き切るんだよ」

「スグや。本位、すぐ書ける」

「しかし遺言全集なんだから、やっぱりキチンとした方がいいぜ。いい加減なもんじゃ、駄目だ。日本建築総批判やってみてよ」

「ヨシ、ヤル。言いたい事は皆書くで。どうせ日本が俺を捨てたんだから、俺だって日本をバッサリ切り捨ててやる」

「何だ、その日本が渡辺を捨てたって言い草は?」

「石山よ、俺はもう十年以上建築作っとらん、建てさせてくれんのや。あいつの建築は金がかかり過ぎるって言われてな、本当は安く作っているのに」

「マア、それは仕方ないよ。建築界に人が居ないだけさ。建てなくたってイイじゃないか。言論で建築建てているじゃないか」

「イヤ、それでも俺は本当に建てたいのや、まだまだ建てたい」

「遺言全集やって下さい。大仕事です、そこに建てたい建築を皆書いたらいい」

「そうか、すぐやってみるで、後は頼むな」

という感じで別れた。

で、それが気になって今朝、四時起きとあいなったのである。これは、やり甲斐がある。だから、本格的にバックアップ態勢をととのえる事にしたい。渡辺豊和の学位論文を審査したのは藤森照信である。であるから、藤森照信を頭にかつぐ。藤森照信だけでは、どっしりした感じが出ないから、鈴木博之先生にも相談して、この両巨匠を軸にして、「渡辺豊和の遺言全集」刊行準備委員会を結成したい。

勿論、この事はまだ二人は知らない。私の盟友達を総動員したい。

只今、五時半。考えている事を記録したので、再び少し眠りたい。今日も、美術館には多くの人が訪ねてくれるだろう。NHKの番組を作ってくれたD氏に感謝したいね。

R096
八月六日

七時三〇分起床。今朝は涼しく、しかも高曇りで雨は降りそうにない。昨日は関東一円を集中的な豪雨が襲ったようだ。ようだと言うのは一日美術館の中にいるので、外の事が全く解らない。大きなガラスが一日結露し続け、外が見えない異常さで、これは初めての体験であった。外の湿度が高過ぎるとこういう事になるらしい。

昨日の豪雨ではマンホールから地下の放流管に降りて作業していた作業員の方々、五名が流された。東京の地下で恐るべき悲劇が発生していた。地下の下水管の中で人が亡くなる。しかも都市を支えるストラクチャーの維持の為に働いていた人が犠牲になるという大矛盾が起きた。都市には魔物が住み始めている。

美術館の入りも良くなかった。そんな雨のせいだったのかと納得する。美術館で仕事をしていると朝の人の動きで人の多少を予想する事が可能なのだ。平日の入場者の少なさは今の私の知名度の低さを物語っている。でも、来場者の質は高いのだと思う事にした。

宮古島のマンゴーを食べて、朝食に代える。そろそろバテて来たな。我ながら無茶をやっているのは自覚しているが、始めた事だ仕方ない。連続講義は十八講まではやり続ける。十八講まで辿り着いたら、その時に二十一講までやるかどうか決めたい。

今日は奈良から渡辺豊和が来る予定である。九時前世田谷村発。九時二〇分美術館着

R095
八月五日

七時前起床。メモを記す。昨夜の映像ゼミには複雑な思いを抱いた。やっぱり、というか案の定と言うべきか、鈴木了二氏と私では世界観、価値観がまるで異るのが、それぞれのレクチャーでハッキリとしてしまった。

マア、これは想定していた事だから、驚く程の事ではないが、鈴木氏の映像は全く映画そのものだったのだ。このやり方で何回も連続させたら徒労感だけが残るだろうが、始めた事だから、しばらくやってみよう。しかし、疲れたよ。

今日は曇天の雨が落ちてきそうな空である。GAのインタビュー原稿に手を入れる。七時四〇分修了。良いインタビューだった。

朝風呂を使い、朝食のメシを喰べ九時世田谷村発。朝メシをキチンと取るようにしているので、体が持っているようなもんだ。銀行に寄って小銭を取得し、バスを乗り継いで世田谷美術館着、九時四〇分

R094
八月三日

五時過起床。早朝の風に身をゆだねている。一ノ関のベーシー・菅原正二から彼が朝日新聞に連載している記事のFAXが送られてきていて、実に面白い。

昨夜の世田谷美術館での夜の連続講義でも話した。鈴木博之と李祖原の地霊に関する対話を再び思い起した。鈴木は李祖原のミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルには地霊は表現されているのかの問いにニューヨークの格子状の均等グリッドを見よ、あれにこれニューヨークの地霊が表現されていて、ミースのシーグラムビルの格子状の姿はそれを深く表現しているではないかと答えた。李祖原はわかった、成程、同意する。私はあなたの言にインスパイアーされるであろうと言明した。

菅原はベーシーの JBL のスピーカーに、今年の一月頃から変調を感じ取っていたと言う。常人の耳には感得できぬノイズが出現していたらしい。ベーシーのオーディオ・システムの地中アースは大地に1m掘り入れた棒から取っている。今度の岩手・宮城内陸地震が発生、その震源地はベーシーから西にわずか 20 km の地点であった。大地震後、ベーシーの JBL はノイズを発しなくなったと言う。つまり、地震の声を菅原正二は JBL から聴いていたのであった。鈴木博之のシーグラムビルにニューヨークの格子を視る知力と、菅原正二のこの感覚は実は同核なのである。

私の展示会「建築がみる夢」のエントランス・ロビーに置いた「遠視力点検孔」はそんな事を言いたかったのだ、と今気付いた。又、一つ得したな。

只今、八時。八時半には世田谷村を発って、美術館で仕事をする予定。朝の風が心地良い。

R093
八月二日

七時過起床。三Fのにがうり、朝顔に水をやり九時前世田谷村発。九時四〇分美術館着

R092
八月一日

七時過起床。曇天である。昨夜遅くサンクトペテルブルグのイフェイから電話あり、サンクト行に関してこちらの条件を伝えた。昨夜の夜会第九講を終えて世田谷村に戻ったのは二十三時頃だった。

今日から八月か。町は夏休みモードに入る。風呂場に自生した草が大きくなって花をつけた。名は分からない。九時過世田谷村発

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