R136
九月二十九日

十一時半T社長来室。鬼沼計画打合わせ。大変な金融経済の激震にもかかわらず、社長は孤軍奮闘している。私も見習わなくてはいけない。鬼沼計画時の谷の中心的な建築の着工時期を決める。又、前進基地のチムニーハウスの計画変更も決定する。大変な仕事だけれど日本の意欲ある中企業の社長の苦労と比較すれば、我々の苦労は多寡が知れているのだ。十四時過迄。

M0ゼミ。学生の指導も勿論一生懸命やっているが、午前中の企業の方向性うんぬんの話しと比べれば天国のゲームみたいなものだな。でもキチンとやる。アベル打合わせも同様の趣きあり。水の神殿、渡辺君と打合わせ。チョッと面白いアイデアが出たので伝達する。

十八時、学部三年設計製図第一回ミーティング。サイト調査を踏まえて、三人一組、全グループ二〇組の発表を聞き、図面を見て、クリティーク。予想していたよりも皆真剣に取り組もうとしているので、ホッと胸をなでおろす。二〇時四十五分迄。余り長く製図室に居ると、かえって自由な討論が出来ぬだろうと考えて、早目に抜ける。新大久保近江屋で一服し、二十三時世田谷村に戻り、遅すぎる夜食。これは体に良くない。

九月三〇日

五時過起床。メモを記す。「設計製図のヒント」2を記す。七時迄かかってしまった。こりゃ大変だが、学生達に毎日更新するからのぞくようにと言ってしまった手前やらなくては。水の神殿のスケッチをする。八時十五分、一段落、小休。ようやく、本格的にのってきた。九時研究室にFAX第一便。

R135
九月二十八日 日曜日

昨日十五時から学生製図講評会。今年も東大との共通課題をひかえているので、当事者の学生達のエネルギーはどれ程のものなのか見たかった。講評会は先生方のクリティークというよりも、解説を聞いている方が余程、良く解るという体で、オヤというものは、これは才質の光りがあるぞと感じられるのは、一,二であった。マア、今年は引分け位がいいところかな。

課題自体は実に東大向けの内容で、そこのところを早大生は頭に入れておく必要があろう。自分達の良いところをハッキリ自覚できるかどうか、がポイントである。しかし、無為に負けるわけにはゆかぬし、昨年は良い成果を得た小史がすでにあるのだから、私としても力を尽すつもりである。

明日、夕方に早速第一回のプレゼンテーションを学生に強いたので、私も計画のサイト位は見ておく必要があるなと、当り前の事に気がついた。学生の課題のサイトに出掛けてみようと思い立った。学生の課題のサイトであろうと、なかろうと、そこに何かイマージナルなものを与えようとするキッカケである事に変わりはない。

過ぐる年、上野から常磐線電車に乗って車窓の風景を眺めていた時、フッとクロード・レビ=ストロースの「悲しき熱帯」を想い起こしたのを思い出す。東西線西葛西駅前の学生課題のサイトに関しても同様な想いをすでに持たざるを得ない。まだ地図でしか見ていないが現場を見ても、殊更な何かを得る事はあるまい。ここにインド人を想定した知的労働者の何がしかの都市イメージを抱けというのがこの課題の主旨である。

十二時過東西線西葛西近くのサイトを見学に出掛ける。サイトの印象、考えた事等は別項に「設計製図のヒント」と題して記すので学生は参考にする様に。

途中、九段下乗り換えを失敗したり、急行が西葛西に止まらなかったりで、時間をロスしたが、十五時に世田谷村に戻った。コロッケが食べたくなって、コロッケ屋に寄ったが閉店していた。残念。

近所のソバ屋宗柳で夕食。オヤジは顔色も良く元気だ。味は相変らず素晴しい。これだけ美味だと憂いも少しは晴れる如き気もするな。

九月二十九日

五時半起床。沖縄の海神に関する写真集を眺めて、昨日始めた「設計製図のヒント」1、に手を入れる。一ヶ月半程の連載であるが、広く日本中の学生達に読んでもらえればとても嬉しい。勿論、先生方にも。これは私なりの設計教育論ノートでもある。

六時過新聞をとりに降りる。世田谷村は上下動がかなりダイナミックで、長生きしたら大変だろうなと思い始めた。

『at』 13 号編集後記に、新大久保の路上に住んでいた黒い老婆の話しが小さく出ていて、それであの路上生活者の老婆の事を思い出した。人間は大事な事を忘れやすい。あの老婆は本当に今何処に姿を消したのか。

R134
九月二十六日

十三時前研究室。アベル打合わせ。バウハウス新学生顔合わせ。アベル仲々物わかり悪し。ラテンアメリカだなあ。ツーカーという訳にはいかないのは当然だが、もしかしたら私の方が余りにもまだ日本的なのかも知れない。十五時より、二時間遅れでM2ミーティング。十八時出。近江屋で「水の神殿」他相談。

渡辺君がフッともらした、二〇冊限定で出版、販売した「山口勝弘本」の事が頭に残った。百冊単位で八〇ページ位の小さな本を限定版で続々と出すというのは面白いかも知れない。十日で一冊作れば月に三冊、一年で三十六冊となる。総発行部数は三千六百か。チョッと少ないな。石山研のサイトの総ヒット数が四十五万/月で、一年間五百四〇万が現状だ。その1%が買う意欲を持ったとして五万四千、0.5%として二万七千である。と馬鹿な計算を京王線車中にて繰り広げる。二十一時烏山駅着。

九月二十七日

総合芸術文化誌「柴明」送られてくる。山口勝弘先生が毎回表紙の絵を担当されており、能を中心とした芸術文化誌である。太田出版季刊誌『at』送られてくる。今号には私も寄稿した。世田谷美術館の展覧会が縁である。表紙に鬼沼計画の一部が顔見世している。柄谷行人が「世界共和国へ」に関するノート(9)を書いている。雑誌は今大変だろうが頑張っている。九五〇円+税で良くこの内容のモノ(良い質を)市場に出せるものだと驚く位だ。

柄谷行人が私の展覧会のカタログ『建築がみる夢』講談社に小文「石山修武と私」を寄せてくれていて、結びにNAM(柄谷行人がその運動の理論軸であったが、理論編集にエネルギーが費やされて、実地のフィールドを持ち得なかった心残りのあるもの)について、いずれNAM的協同をする様な日がくる事を望んでいると書いている。読んでギクリとしたのを昨日のように思い出す。「世界共和国へ」を良く理解できる頭脳細胞の働き方を私は持たないが、こういう論を延々と書く人間の意志の形式は解るような気がする。宮沢賢治が法華経じゃなくって、マルクスを読んでいたら、どんな表現活動をしたんだろうと、馬鹿な空想をしたりする。プノンペンのナーリさんに手引きしてもらっていつか柄谷行人とラオスあたりで何かできると良いな。ラオスは気候が年寄りには良いし、食べ物も限りなく自然食に近い。日本だけで運動らしきを実行する事はもう不可能であると覚悟して、それでも断念する事はせず、日本とラオス(アジア)の同時存在的自己の可能性という如きを表現してみるのも良いのではないか。

マルクスのドイツ・イデオロギーは少しだけかじった歴史が私にはある。あれに出てくる交通の概念には理解し切れぬながらひどくひかれたし、今もひかれ続けている。だから、柄谷行人の「世界共和国へ」を読むと、そうか、彼は多国同時存在的ライフ・スタイルを示唆しているのかと、私などはそう短絡して動こうとするのである。本当に、近いうちに柄谷行人とはラオスあたりの計画についての考えを聞いてみたいものだ。

ネパールは身体に厳しいし、食事も仲々良しとは言えぬ。独人なら行けるけれど、誰かを巻き込むわけにはいかない。年を取ってからの動きは先ず気候、次に食事、それから人間関係ということになるだろう。

十二時前、食事。朝昼飯なのでたっぷりと食べる。世田谷村の食事は完全に近く安全である。ただし、自給のモノは今のところ無し。

十三時発。今日は午後学部学生の製図講評会がある。先生方と情報デザイン・コースの枠組みに関して相談しなくてはならない。

R133
九月二十六日

六時起床。新聞を読む。小泉前首相引退だそうだ。昨二十五日の夕方は近江屋で古市徹雄氏と会食。久し振りにファミリーにもお目にかかった。

新聞と言えばこれも昨日の夕刊、毎日新聞の一面にトキが大自然に放たれたという写真が非常に大きく掲載されていて、息を呑む程に美しかった。

二羽のトキが空に大きく舞い、その宙空は大きく空白であった。つまり新聞の一面トップに大空白が見事に出現していた。これを良しとしたデスクは余程度胸の座った人だろうと、写真と共に、良しとした人物の姿さえ遠くに視えるような気がしたのだ。一面トップに見事な空白がキチンと表現されている。一面トップは新聞の顔だから、デスクはこの写真に何を託そうとしたのだろうか。

変な意味付けは愚の骨頂であろうが、ジャーナリストの直観で、この空白をトップに据えたのではあるまいか。久し振りに大新聞にジャーナリストの意志の如きを、しかも洗練の極みを感じたのであった。これはネットでは出来ない。紙面の広がり、つまり空間らしきが必要だから。新聞はその大きさをもっと上手に考え抜いて使わないと、ネット社会に埋没してゆくだろうから。

ようやく、このサイトに日記他をある程度キチンと記してゆく気力、体力が戻ってきた。何をサイト如きで大仰なと考えるだろうが、私なりに考えがあってのサイト運営だから、この大仰振りは仕方が無い。今の私はサイトで社会とつながっている。

イカルスと水中ポンプの連載も、そろそろサイト論のようなものに進展してゆくし、これにはN出版からの大部の本の進行状況、他も記してゆきたい。要するに情報によって形づくられている空間らしきを、ここに表現してみたいのだ。

北の斜めのガラス部分から、神社の森が風に揺れ動いているのが見える。森という程に大きくはなく、まさに小さな神社の森の一部なのだが、この森が揺れ動いている風景は既に世田谷村の内で定位置を確保した。私が二階の食卓のテーブルに北を向いて座り、作業する事が多いので、自然にそうなった。

世田谷村の建築には謂わゆる開口部らしきが全く無い。ガラスの壁、しかも皆動いてしまうから。そこが箱型の建築と大きく異るところだ。だから開口部という枠なしで外の風景とつながってしまう。窓から見える風景ではなく、ガラス越しに見る風景になる。

ネットの限界はそこにスクリーンという枠がある事だ。枠の中に、中へと意識が縮んでゆく。つまり、私はネットによって社会につながっているという幻想を持つのだけれど、読者の皆さんは私を、あるいは私らしきの世界をのぞいているという変な構図がそこにすでに出現してしまっている。私が社会につながろうとする気持は、だからとても抽象的な世界なのだ。観念の遊びに近いものかも知れぬが、それが枠付きのスクリーンの中でリアルに動いているところが実は不気味なのである。

それ程大きな景色ではないが、神社の森がガラス越しに揺れ動くのを眺めていると、小学生の頃、夜小学校の校庭の仮設スクリーンで見た映画を思い出した。風の又三郎という題の映画であった。少年が一人、河原に立って、ドードド、ドードド、ドードド、ドー、甘いリンゴもすっ飛ばせ、すっぱいリンゴも吹き飛ばせ♪と唄うと、それこそ川をとり囲む山の森全体が、ドーッと揺れ動いていた。そんなシーンを思い出したりする。今、眼の当たりにしているガラス越しの神社の森のざわめく動き、とその映像の記憶が頭脳の中で重くリアライズされている。頭の中の記憶の映像と、今、そこにある森が確かに同時に何処かに存在している。実に不思議な空間だなコレワ。映像は光によって伝達されるが、記憶やイメージは内から、脳内から自発的に生み出されるとしか、今は言えない。

何かを作ろうとして作り出す如き、例えばドローイングのたぐいだが、紙に記しながら発展、散逸してゆく、それらの形象群は、これは明らかに、脳と手と描く道具から生まれてくる。極めてテクニカルなモノである。イメージらしきとは別世界である。イメージってのはもっと恐ろしいモノだ。

R132
九月二十五日

五時起床。九月十九日の難波先生のHPを昨日研究室の人間がプリントアウトして渡してくれたので読む。実は昨夕も読んだので再読である。

難波先生がホーチミンでのワークショップの時間を割いてプノンペンのひろしまハウスに出掛けたのは知っていた。又もや鍵がかかっていて中に入れないところまで、つまり十八日の日記までは何日も前に読んでいた。何とか中に入れたのかな、ナーリさんが不在なんてそんなに無い事だから、どうかしたんだろうか、等と心配したりもしていた。浅草のナーリさんの親戚の方々ともお目にかかっており「アイツが帰って来ないので、本当に幸せです。平和です。」なんて話しも聞いていた。

難波先生がそのフーテンの寅の御当人ナーリさんに、ひろしまハウス及びかつての私の宿泊所で会った模様を知り、何故か何度も繰り返して読んでしまった。ナーリさんと難波先生が一緒に、ひろしまハウス前のコーヒー屋でコーヒー飲んでいるところや、ナーリさんの三階に上がって、恐らくカンビール飲んで、手作りの料理を喰べているところ、恐らく扇風機がブーンと廻って、外の陽光の強さと内の暗がりが、妙に身体になじんでいるだろう事などを、読みながら、その空間を痛切に感じ取っていた。この感じ取っている空間は現実のそれよりも実はリアルである。

そうなんだよなあ、ひろしまハウスはとも角、ナーリさんと難波先生があそこで一緒にメシを喰ったというのは、本当に面白い事だ。出来れば一晩泊まってもらいたかった。そしてあの蚊帳をつったテラスの寝台で眠り、メコンの朝焼けをボー然として眺めて貰いたかった。ナーリさんのところ(ひろしまハウスではない)の三階のテラスはマア、アジア随一の壮大な朝日が眺められるのだから。

鈴木先生も書いてくれた様に、あそこは妙に人間を何処か遠くに行けと、そそのかすような力があるのだ。ナーリさんはそれで日本に帰らないマンマ。本物のフーテンの寅さんになってしまった。恐らくは難波先生も又、アジアの寅さんの、アフガンやネパールその他の信じられるわけの無いホラ話しを聞かされ、ナーリさんはナーリさんで久し振りに思い切り日本語が使えて、本当に嬉しかったのであろう。二人で妙にしんみりボソボソ話し合っている処を想像して私は心から笑った。そして、しんみりしてしまった。

正直なところ、「ひろしまハウス」は懐かしく思い出す事はもう無い。でもネェ、ナーリさんと、あそこからの朝焼けは胸が痛む位に懐かしいのである.他人の日記の文章を読んでクダクダしく書くのも恥ずかしいし、この文をまさかナーリさんが読まぬ事を祈るばかりだが、やっぱりなあ、建築、建築、デザイン、表現、テクノロジー、歴史とかなあ、ホラ吹いてもですね、とどのつまりは人間と人間が作り出す小さなモノ語り位面白い事はないのである。と早朝の世田谷村のガランとした中でメモっているが、世田谷村とナーリさんの処が似ているなんて難波先生の話しはそう思い込む難波さんの人間の方が面白いのである。

全く、ナーリさんと難波さんがあそこでメシ喰ったかと、これは二人を知らぬ人には全く、何が何だか解らぬマンマなのだろうが、二人を知る何がしかの人間にとっては、一幕の芝居より余程面白い出来事なのである。箱男とフーテンの寅、メコンの風に吹かれて、メシを喰う、の巻なんである。

ところで昨日夕方N社K氏が来室して、世田谷美術館講義録を出版する形式について提案があった。講義録は全部で 616,000 字になっているそうだ。誰もが知るように今は出版大不況である。いかなN社でもキチンとビジネスにしなくてはならない。色々と知恵を巡らせなくてはならない。二分冊、同時出版しかないかな。

そうだ、京都行こう、じゃない、コレでは電通的馬鹿だ。典型的な馬鹿だ。ナーリさんのところで、又、レンガを積まないで、夢を積み上げる会でも試みてみようかと、フト思い付いた。「立ち上がる伽藍、義理と人情偏」というのはどうだろうか。あんまり、良くないなコレワ。馬鹿だ俺は。

難波先生ナーリさんに会う、を書いていて、なんと二時間も過ごしてしまった。完全に無駄な時を過ごした。無駄だけれど、心身共に壮快になった。

七時過。新聞読もう。折角、遠いプノンペン、ウナロム寺院に思いを馳せて、清々しい気持になりすぎた。麻生組閣の馬鹿馬鹿しさ等読んで気持を再び汚くしよう。

新聞を読み、TVものぞく。内閣支持率が間もなく出るのだろうが、私は仰天する位に低いと直感している。前例がない位に。

R131
九月二十四日

十一時過、更に黄金町バザールについて考えた。私の一九八八年から一九九三年迄の六年間の、東北の寒村唐桑での大漁旗劇場の運動は黄金町バザールと同様な祭りのデザインであった。県や町からの補助金も殆んど無かった。皆無ではなかったが。しかし、たったそれぞれの年に三日間の祭事ではあったが、印象としては黄金町バザールとは異なるモノがあったような気がする。

唐桑という地域の人間の生活を結果的に歴史的に、政治的にも、勿論社会的にも表現した祭りになったと思う。十年を経てそう思う。そこには、アーティストと呼ばれる人達は当初の黒テントの連中以外は全く居なかった。黒テントの連中も二年目からはあんまり必要ないと唐桑の連中が主張して、あんまり出る幕が無くなる有様であった。実際にそうだった。このような住民参加型の祭り、催事の行きつく先は専門家から素人への権限の委譲が必然的に起こらざるを得ない。つきつめて考えようとすればそうだ。

黄金町バザールでは極く一部を除いて、深いところでのそんな風な方向性はあんまり見受ける事が出来なかった。敢えて偽悪の評を装えば、大方の表現、展示はアーティストらしきが限りなく無自覚に市民に近づいてゆくというベクトルの中にあって、それ以上のものは無かったと思う。もしかしたら見逃している愚が私の方にあるやも知れぬ。前記、北川氏のモノは例外である。

それは、単純に言えばここに劇場的なモノが入り込んでいないからだ。あるいは全体のコンセプトとして市民社会の儀式、祭礼としてのアート(共同の)が想定されていなかったからではないか。演劇的な要素は恐らく軽いパフォーマンス状に実現しているのではあろうが、それは儀式の域迄は恐らく到達していないだろう。いよう筈もない。

例えば、ここに、一、二の骨の通った演劇集団をセットし得たら、事態は局面を変えたのではあるまいか。

昔の唐十郎の状況劇場の如くは黄金町にはピッタリであったろう。今、それを望む事は不可能であったとしても、定期的な小屋掛けはそんなに困難な事では無かったろう。演劇、又は文学の時間性と同時にある別種の即物性を持ち込む事はできたのではないか。それに応えようとする小劇団はそれこそ無数に存在するだろう。もしも、来年へ、そして明日へ、この動きを持続する為にはその要素、骨格が必須なのではあるまいか。つまり、黄金町の時間軸に対する想定枠がハッキリしていないきらいがあるので、このままでは一過性の活性化運動に終わりかねない。確か、横浜の大学には現代演劇に理解を示す人材もいた筈だし、それは不可能な事ではないだろう。

昨日、O氏との帰りの道中に、石山さんだったらどうしますか、とストレートに聞かれた。すぐには答えられなかったが、一夜明けて、何となく、こうしただろうという考えが断片的に出現したので、無駄を承知で書き記しておく。町づくり、地域づくりは今、想定し得る最大の総合芸術である、とは民俗学者宮本常一門下生の言であるが、時代は益々、というよりも、イヨイヨ、その様相を深めてきた。視覚芸術の優先は総合性から逆行しているかも知れぬのだ。

R130
九月二十四日

昨日十三時京浜急行黄金町でO氏、カメラマンと会い、黄金町バザールを見学する。横浜トリエンナーレとも連動した大きなアート催事への何がしかのコメントを求められていた。何故、私が引張り出されたかと言えば、どうやらY美術館の方の推挙らしきがあったらしい。

世田谷美術館での展覧会の影響であろうか。美術畑は素人同然である。しかしこの催事は、謂わゆる町づくりの性格がとても強い。町づくりと言うよりも、眼に視える形での都市計画の力とでも言おうか。様々なスケールの行政の意志が強く反映されている。

黄金町の戦後は良く知られるように、麻薬、売春、他の無法地帯の側面を持つ。地域住民にとっては(その当事者達にとっても)その歴史から抜け出す事は大変な問題であったろう。それぞれの生きる権利は当然あるのだから。健常な市民ばかりに基本的人権があるわけでもない。しかし、このバザールを支えた健常な市民達の、この状態のママではいけない、との常識も良く理解できる。理解しなくてはならない。

つまり、この黄金町バザール、と極めて商業主義的にも感じられる名を附された、一見アートイベントの土台部分には骨太な行政、政治の、これ又、極めて正常な意志と力の存在があるのだ。違法行為があるのだろう小地域を浄化する。クリアランスするのは政治の当然な意志である。それに行政や、都市計画者達の力が加わり、この計画は実現した。

バザールの現場はディレクターのY氏他がていねいに案内して下さった。その情熱や夢はヒシヒシと伝わってきた。しかし、バザールと呼ばれた、謂わゆる現代アートの数々の表われは、黄金町の歴史のドキュメンタルな力に、遠く及んではいないと感じざるを得なかった。アーティスト達の日常の活動振りの自然とも思える表現の数々は、黄金町のドキュメント(現実の行政の意志、力)と充分に拮抗し得てはいない。この言い方のベースには当然、アートに対する過剰な思い入れがあろう。アートは力に対して、個人の表現で時に対峙し得る自由な世界でありたい、と言う幻想がある。

その思い込み(これは私的なもので、どうにもいたしかたないもの)を客観的に差し引いて計算してみても、バザールにディスプレイされた品々や空間は、やはり非力であるように感じられた。これはないものねだりなのであろうか。

北川貴好の「部屋の輪郭」「無数の労働と環境の構築」は極めてオーソドックスに黄金町の歴史と対峙していた。少し昔の売春宿の空間をアーティストの感性の中で再現しているのだが、面白かったのは幼児達が親に連れられてそれを観て、体験している姿だった。幼児の想像力の中で、この空間はどのように記憶されるのであろうか。又、親はどのように、この作品を子に説明できるのだろうか。これは、北川貴好の作品に典型的に出現してしまう、黄金町バザール・アートの問題点であり、核心である。

しかし、北川等の作品展示があって、黄金町バザールはアートとしてスレスレに成立しているように思えた。京浜急行高架下のディスプレイ他は、明るく、のびやかで今の消費社会の感覚がそのまま自動的に記述されていて、アートらしきの機能を放棄しているようにも思われたが、これをこのように表現させたのも計画の力であったのかも知れない。

横浜トリエンナーレを含む、横浜のアートと呼ばれる出来事の数々は、市民社会の日常に働きかける力というよりも、アート及びアーティストの現実を浮き彫りにしたのではないか。

北川作品の前のお店、お好み焼屋さんだったか、鉄板焼屋さんのスタッフ達の一生懸命なのも好かった。市民の参加=お店への来店が無ければ商売が成立しないわけで、その点北川作品とは別の、古いけれども坂口安吾的な迫力を感じさせられた。つくづく、日本の現代アートは大変なところに居るのだな、と思ったのである。勿論、参加したアーティスト達の趣向、考え方でアートの現在の全てを言うのは間違いだろうが、その一端を示しているであろう事も確かである。

要するに、黄金町バザールのアートの現実はドロドロ、サラサラと日常に溶け込んでいるのである。オヤ、と思わぬシュールレアリスム、異化の無いレアリスム、それはコマーシャリズムの変形ではないだろうか。ディレクターのYさんの努力は途方も無いものであるだろう。ここ迄まとめ上げた力、恐らくは行政とのネゴシエーションの力も充分に感じられたのであるが、勘心のアート、及びアーティスト達の力、思考の力がいまひとつ感じられなかったのが正真な印象である。

十七時O氏に世田谷迄送っていただき、車中話した。ほぼ一日黄金町バザール取材に費したが、面白かった。美術、特に現代アートは今、明るい廃墟状態なのだと直感した。

九時半前、昨日の印象をメモに記した。都市は近代的システムによって均質化=清潔化=衛生化されるであろうが、それでも、なお消去し得ぬ、消し切れぬ人間性の根源を何処かに生き残らせようとするのではあるまいか。環境浄化は行政の、当然過ぎる程に正当な意志の発揮である。芸術家の存在理由は何如にありや。それとももう無いのかなと、感じたので、いささか長い感想を記した。

私のこれからの仕事は、広い意味での立体物の具体化のヴィジョンの呈示だが、それには現代アートの一部を取り込もうとも考えているので、大変勉強になった。

R129
九月二十二日

二十日土曜日はその前日夕方よりの浅草での会合の疲れで完全に沈没した。疲れと言っても飲み過ぎ、喰べ過ぎである事は言うに待たぬ。I社長、花やしき社長、他と良く飲んで、話した。世田谷村に戻ったのは翌二十一日一時であった。I社長の振袖学院の女性達共お目にかかれた。

二十二日、福岡市、千葉東金市で相次いで幼児が尊い命を断たれた。まだ真相は解明されていないのでいい加減な事は言えぬが、直観的に深い病気の存在を推測せざるを得ない。その社会の病巣とも言うべきが、弱者の代表でもある幼児に降りかかっているのではないか。

福岡市の男児は公園の公衆便所の柱の陰で遺体が発見された。千葉東金の女児は道路の端に裸体で放り出されている。共に公共とも呼ぶべき場に投げ出されるように捨てられているという共通を持つ。住居内から外へと犯罪の場が移行している。宮崎勤事件、そして少年Aの事件の赤裸々な猟奇性は今の段階では感得し得ない。むしろ淡々たる日常性との関係が匂い立つのだ。それ故に、それだからこそその陰に深い病巣を見ざる得ない。

日常の中の戦争とでも呼ぶべき事態に我々は対面しているのではあるまいか。家族と社会、家族内の弱者である幼児の無防備の問題の浮上とでも言おうか。この事件には歴然として、最小単位のコミュニティである筈の核家族の疲弊と病巣化の現実があるような予感がする。誤った予感であれば良いのだけれど。

どうやら、福岡の男児殺害の犯人は母親であったらしい。おぼろげながら予測してはいたけれど、やはり事実として突きつけられると、何か底知れぬ病巣の、決して個人のモノだと片付けられぬ病気に、しかも古くて、新しい病気の存在に我々は対面していると感じる。これは母性そのものの中に巣喰い初めている病ではないか。しかも、母性は女性の普遍とも解されていた強い共同の幻想でもあった。最も強く、深い類の神聖なイコンでもあった。それが最近、否応なく壊され、闇の中に無気味な恵として沈殿し始めている如きの風さえある。母親の子殺しが急増しているのではないか。

一般論は抽象論の不可能性に限り無く接近する。具体的に言えば、殺されて、捨てられた幼児が住み暮らしていた住居風景、そして町の、都市の風景にこそ私達が問題にしなくてはならない恐ろしい程の問題がすでに在るのだ。

福岡県の児童公園、そして公衆便所、アスレチック遊具、千葉県東金の女児が裸で 殺され、捨てられていた道路の側溝の上、町の風景、捨てたであろう車が走り去り、行きついたであろう部屋の風景。そこにこれらの深い惨事の狂気の素が横たわっているのではないか。都市は、そして住居はすでに犯罪学の温床としても考察されねばならないのではなかろうか。

福岡市で殺された男児は、報道ではケイタイ電話のストラップで首をしめられたとされる。男児は気持に障害があったらしい。その障害のハンディを少しでも克服すべく、殺人者としての母は男児の首にケイタイをかけていたのではなかろうか。常に男児との身近なコミュニケーションが必要だったのであろうか。そのケイタイのストラップが凶器となってしまったのではなかろうか。母親は男児とのコミュニケーションに疲れ切ってしまったのだろうか。殺して、自分も死のうと咄嗟に思いつめてしまったのだろう。

政治は人を救う事は決してない。麻生太郎が自民党総裁になろうが、圧勝であろうが、なかろうが、かくの如き深々とした人心の闇に、政治は光を当てる事は出来ない。殺された一人の男児の地獄をのぞく事も出来ぬ。殺した母親の地獄も又、のぞき知る事もないだろう。かくの如き荒野を、それは日本近代の都市が構造的に生み出してしまった白昼の闇を、その存在だけでも何とか知らしめたいと考える。

それを解体したりする術を示す事は私には不可能だけれど、最低限、恐ろしい闇の存在を、何かの手段で知らしめる事は可能かも知れない。

思想らしきや哲学はかくの如き人々の実人生に救いの手すら延ばす事は出来ない。もっと、具体的で実利の生活に基盤を持つ世界の、これは役割なのではないか。創作の分野、つくる分野。モノにしても物語りにしても、映像であっても。つくる意識の対象として、幼児、母親(母性)の深層心理世界と、モノの世界の関係を考え始める必要がある。

九月二十三日

今日は、午後、横浜、黄金町バザールと呼ぶ(誰が呼ぶのかはまだ知らぬ)大がかりな、アートの催事を見学に行く予定だ。A新聞、O氏から声を掛けられた。私にとっても、興味のある新分野の動きを眼の当りに出来るかも知れないし、多分ガッカリしてしまうのかも知れない。それは、まだ解らない。O氏及び関係者から資料を沢山送っていただいた。オーッ、沢山あるな位に気楽に考えて、半分斜め読みで流そうかとも考えたが、仲々、この企画自体には大事なモノが潜んでいると考え直し、各資料を熟読してしまった。

このプロジェクトは横浜のみならず、美術館を中心とした美術行政が、いかにして格差社会の街へコミットし得るのかの問題が中心に在ると考えられる。横浜トリエンナーレは第二回のものは観た。具体の藤野忠利氏と堀尾貞治氏と共に観た。堀尾貞治は百円ショップの如き、一ドローイング百円販売のパフォーマンスを会場内で繰り拡げていた。全体の印象は美術の下放化の極みとでも言おうか、プロの美術家らしきの不在が印象的であった。全てがゴミの如くに視えなくもないが、それは現実の都市空間がゴミの集積なのだから、自動記述の如きであると解釈できる。そういう考え方もあるにはあるが、企画者側にそこ迄の意識、考え方があったのかどうかは難問であった。

黄金町バザールは、勿論トリエンナーレと共に都市横浜が企画した催事である。行政(美術行政も含めて)も含めての企画者側の意志が通ったものであるようだ(資料を読む限りでは)。その辺りの視どころをブラさないように、午後いっぱい、O氏に連れられて、見学したい。

R128
九月十八日

十一時世田谷美術館N、M両氏来室。世田美での展覧会の、まとめの報告をいただく。両氏に迷惑をかけたのではないかと心秘かに心配していたので、そんな事はないと言われたのでホッとする。入館者総数は一万六千弱で若い人が多かったのが特色だったそうだ。各メディアに感謝したい。N氏は今、仲々元のペースに戻れずにいるとの事で、それは私も同様なのだ。あの展覧会をベースに、前に進まなくてはならない。両氏共にそう望んで下さっているのが伝わり、心に期するものがあった。

水の神殿、浅草計画他打合わせ。T社長より連絡あり、面白い事をやろうと欲すれば、困難も比例して大きくなるのは明白だが、まさにドキュメンタルに色々な難問が出現する。余程体力を温存しておかなくてはと痛感。

R127
九月十七日

午後。様々に動き、意を巡らせる。考えがまとまり始めた物件もあるが、思うように考えがまとまらないのもある。年を取ると、それなりに知恵がついてくるから、出来ない事は出来ないと知るのは、一面では寂しいものだ。他力を頼ってはならないのを自戒する。

十七時過。馬場照道。清水両氏と会いに動く。今日、最後の動きである

九月十八日

八時半起床。昨夜は杉全泰夫妻を交えて、六名の会合になった。杉全氏『忘れがたき東京』角川学芸出版いただく。ディスカバー・ジャパンの藤岡和賀夫氏との仕事である。高山建築学校主故倉田康男の同級生であったとの事。杉全氏はしぶとく仕事を続けているようで心強い。昨日まとめたモノ研究室に送る。

十時発研究室へ。

R126
九月十六日

一時間遅れて大学着。十一時半研究室ゼミ。雑用を終え、十七時過発。近江屋で一服して世田谷村へ。

九月十七日

八時過起床。十時四〇分迄雑用。水の神殿企画書、連絡等のWORK。小休して朝食とする。昨夜、広島の木本氏、前橋の市根井氏と連絡、二人共に健在であった。時々連絡とってないと何があるか解らぬような時代になった。午前中、帯広のG氏、浅草のI氏、油壷のN氏等と連絡をとる。十二時三〇分発。

R125
九月十四日

十三時頃、ハラミュージアムアーク着。磯崎新七十七才を祝う会会場である。この美術館は増築をして見違える程に良い建築になっていた。若い頃、いつの頃だったか忘れたが訪ねて、何だか失望した事だけを憶えていたので、少し驚いた。黒く、素材感を脱色された木が、それでも、それなりの重力を持つ存在感を持ち、全体のスケール、ボリュームと共振して、心地良い立体の形式が実現されていた。

磯崎新の若い頃の増築、大分医師会館でとった方法はとらずに、一見穏やかに見える反復の形式をとりながら、実現された全体は格段の質量感が得られている。最近の磯崎建築の中では秀逸なモノではなかろうか。反復を繰り返した力を私は感じた。年の功としか言い様がない。しかし、この感じは写真他では伝わり難いだろう。要するに、立体の質量の問題であるから。

久し振りにお目にかかる磯崎新を非常に懐かしく思えた事が我ながら不思議であった。いつもの様に沢山な人達にとり囲まれて、義務を果たす如くにエレガントに芝生の会場に立つ磯崎を、まぶしくもなく、遠くに、なおかつ非常に懐かしく視ていたのであった。この懐かしさは、恥ずかしながら、少し計りの尊敬の気持、愛情の如きものの一種であろうが、それが入り込んでいたのであった。

先年、シャングリラからラサ迄の大旅行を共にした時の一種の痛切な感じを思い起こし、お祝いの言葉に代えさせていただいた。この様な会に、あんまり本音を述べても仕方の無い事は、重々、承知であるのだが、マア、仕方がないのであった。旧知の方々にも沢山お目にかかる事が出来た。

夜は、伊香保の旅館に泊まる。山田脩二、佐々木睦朗先生等と同室であった。総勢六十五名とか。大座敷で会食、宴会。二十一時修了。山田脩二が絶好調であったので、身の危険を探知し、佐々木氏と共に室に引き込もり、すぐ眠りにつく。功を奏して何と朝八時迄眠る事ができた。

九月十五日

温泉に入り、朝食の席につくと、予想通り、山田先生の絶好調振りは続いており、その横で六角鬼丈氏がゲンナリとする計り、昨夜の状景が出席していなくても了解できてしまったのだった。六角氏は山田仙人につかまり、遅く迄、附合わされたのであろう。体調万全な人間でも危険なのに、年なりに体力の落ちている筈の六角氏に山田仙人の無謀流の相手は、それこそ無謀なのである。食後、磯崎夫妻にあいさつして、休む。山田仙人の近くに居ると人々は皆遠巻きに去るので、自然と二人になってしまい、今日は六角の代わりに私がこの男の面倒見なくてはならんのだろうと、覚悟する。

水沢うどんでうどんを食べ、夕方新宿で散会、バスにゆられて帰ったので山田も眠りこけ、つかの間の静寂を得た。一人にするのかと言わんばかりなので、一時間程ビールを附合い、十七時半山田仙人と別れ、世田谷村帰着。十八時過。

九月十六日

九時頃起床。一昨日よりのメモを記す。一昨日来の宴への出席をもって、建築界の宴会らしきはもう卒業しようと思う。最後の宴会が磯崎新の喜寿の会であったのは記念になるかも知れない。あとは、細々と同好の土との無駄話にふけるしかないな。磯崎氏は又、今日から外国に出掛けるそうで本当に、健康の保持を祈るばかりである。又、同時に、山田脩二の健康も祈るしかないだろう。しかし、山田はもう少し弱り果ててからの方が味が出るだろうな。そうなって欲しい。

R124
九月十二日

水中ポンプ」考の荒いシノプシスを研究室に送附する。研究室でこれを研磨して、プロジェクト迄仕立て上げる事は不可能だから、当り前の事であるが、自分でやり遂げなければならない。これは仕方がない。

古い古い水中ポンプに歴然たるアニミズムを感得したという事を何らかの形で表現して、しかも遠廻りに換金するには相当複雑な手続きを踏まねばならない。水中ポンプの錆にアニミズムを感得したというのをエッセイ、コラムにて売文するのが1、それを物語りとしてより長く仕立てて、本にして売るのが2、これは大変な労力を必要とするし、余程の才能が不可欠であり、これは私には先ずあり得ない。3、漫画状にして小洒落たエッセイをつけて絵本状にするのもあるが、先ず売れない。4.水中ポンプの地下室でのJA、JA、ドロドロ、ガーガー、GA、GAの音を入れて映像にしてみるのも、そんな才質は私には無い。5,水中ポンプとアニミズム、そして山口先生、千村君等障害者達のイカルス的聖性を結びつけた計画を捏造して、それを商品、別体系の商品とするのが最後に残されるだけ。

しかし、ともあれドローイングはすでに描き始めたし、リアライズされる事が前提のプロジェクトも始まっている。これを前提にして、何等かの形での換金システムを構想すべきだろうな。要するに、焼鳥をタレ付きにして売るように考えて、手を動かして作ったモノを売るって事だ。行商するのも辛いだろうし、そのエネルギーは残されていないから、ウェブを使うしか無いのだけれど。

九月十三日

菅原正二よりFAXあり、返信として水中ポンプの件を。自分でも解っているのだが、地下の水中ポンプにハッとした覚えはあるのだが、それ以上ではなく、それ以下でもない。何かキッカケをつかもうとしている事だけは自覚できている。

ベイシーの菅原から珍らしくすぐ返信があり、私が送信した水中ポンプのドローイングに反応したらしく、私が忘れていたヒマラヤのアンモナイトまで想起させてくれるのであった。四〇年もジャズ喫茶の闇の中でうごめいている人間には、それなりの生物としての歪みの如き、歪みから発生するに違いない直観が生まれるのであろう。彼が暗闇の中でフッとキッカケの如きものをつかんだのであれば、それをのぞき込んでみたいと、そう思う。

十八時幡ヶ谷の会場で若松氏の通夜。何も書く事なし。

九月十四日

六時起床。新聞を読み、早朝のTVを見る。まことにつまらない時間であるが、他にする事もなし秋の朝。自民党総裁選の五人囃子五人官女の面々が出てきて、相も変らず詰まらぬ事を垂れ流し続けている。

渡辺直己『電通文学にまみれて』太田出版、『ポスト・モダンと批評』柄谷行人、『もう一つの日本は可能だ』内橋克人・光文社、拾い読みしながら、その五人の政治家の発言を聞き、眺める。どれが一番面白いかと比較してみる。一番面白いのは柄谷の書くモノ、一番つまらないのは、TV番組、次につまらないのが、渡辺直己の本。内橋さんの論は耳を傾けざるを得ないが、情報産業との組合わせの径が開示されていない。感傷的なニュアンスが時に露出されるのが残念。しかし、電通のTVメディアに対抗し得るのはネットサイトしか無い事は歴然としている。

今朝は十時半に新宿西口に集合して、バス二台で伊香保での磯崎新七十七才の祝いの会に出掛ける。天気は限りなくドンヨリとしている。

R123
九月十一日

七年前のWTC爆破事件、小さな限定戦争の日である。午前中、定例の杏林病院定期検診。尿酸値が高いと医師に指摘され、薬を飲むように言われる。ビールをあれだけ飲めば、こうなるのは自明の理で、控えなくては。十三時迄。

九月十二日

昨日午後から異常な乱読状態に落ち入る。我ながら異常で何とか修正しなくてはならないのを自覚するのだが、どうにもならない。

ロシア・アヴァンギャルドのマヤコフスキーを読んだりは、多分、友人であった若松氏の死に会ったからだろう。しかし、ドストエフスキーもマヤコフスキーも皆若くして死んでしまっている。若松四十九才。ドストエフスキー五十九才。マヤコフスキー三十九才。ロシアは若死の大地だな。若松氏とは、暗かったモスクワ、サンクト・ペテルブルグを良くうろついたものだったが、彼の魂も又、あの密実な闇をさまよっているのだろう。ロシアの油田にフォーカス当てるような人間だったから、一種の天才気質の持主で、私は彼のモスクワの住居が旧KGB職員の住む真只中であった事、アパートのエレベーターが手動でかなり危険であった事などを、うつろに思い出したりしている。

R122
九月九日

十二時過世田谷村発。世田谷美術館講義録出版の件と、それぞれのヴィジョン・パビリオン計画の全体構想。「イカルスと水中ポンプ」を書き始めてしまったことの道筋の事など何とか筋道がつかぬものかと、ウロウロ考えて歩く。

音更の「水の神殿」計画ものんびりしていられないのだ。

途中省いて十八時、新宿南口味王。石山研及び向風学校安西氏と会食。とりとめのない会であるが、とりとめのない無駄が一番大事なのだ。安西直紀、十年後に都知事選に出馬してもいいなと決心する。そりゃそうだ。現存の政治ゴロよりも安西のウツケの方がまだはるかにマシなのである。

二十一時過迄。二十一時半京王線のシートに座りながら反省す。別に悪い事をしている訳ではないけれど、何となく、取り敢えず反省してしまう。安西君はやっぱり東京都知事に立候補するのが天命であろう事と実感する。

今度の自民党総裁選に関しては全く興味はない。我々、ただの一票を持つ市民らしきの動向にだけ関心がある。私自身は今度は民主党に投票するのを決めている。本質的なレベルで考えてみれば、今度の選挙で再び自民党に投票する人物がいるとすれば、それは誤りだ。歴史感覚が0であると言われても反論はできまい。と、グズグズ考えながら京王線に乗り込む。全く、民衆は無反応であるな。元々、普通の、というよりも大衆の趣味はタコ焼きみたいなものである。

九月十日

昨夜車中でなぐり書きしたメモを読み直し、一人赤面する。捨てようかと思ったけれど、そのままHPに出す。大衆の趣味はタコ焼きみたいなものである、とは何を言わんとしたものであろうか。天にツバする如きを言わんとしたものか、昔から微動だにしないと考えているのか。もう思い出せない。バカ頭である。

午前中酒井忠康『犬になった彫刻家』読む。

友人でもあったアルファ社長若松氏の突然の死の知らせを受け取る。九月七日四時三〇分急逝されたとの事。一週経っての葬儀の予定であるから、ロシアで亡くなったのか、何故なのか、事故だろうかと考えがひとりでにグルグル廻るばかりである。十三日の通夜には出掛けたい。あんなに前向きでロシアの新事業に取組んでいたのに、世田美での展覧会にも顔を見せてくれなかったから、ロシアに居るのだろうとは考えていた。変な事件に巻き込まれていた可能性?彼は病気で死ぬような男ではなかった。 今日想定していたスケジュールがガラガラと崩れ去るような気持である。49 才の死は異常を思わせる。何があったのか。悲しみよりも今は疑念の方が大きい。

R121
九月八日

十二時研究室、打合わせ。十三時過研究室ゼミ。M0の頑張りが目につく。この人材をどう延ばせるのか工夫をこらす必要がある。十六時過迄。映像について面白いけれど、少々大学離れしたやりとりが続いた。大学離れは良いが、現実社会の酷薄さからの浮きが自覚できるかどうか、が問題だろう。

NTT出版担当者と世田谷美術館連続講義録について打合わせ。講義録は二〇〇 mm 程の厚さになっていて、これを書物にするには余程の工夫が必要だろう。うーんと厚くて、しかも安価な本て、出来ないものかな。

アベルとチリの件打合わせ、どうもやりとりがチグハグで上手くいってない事を自覚するが、いかんともしがたい。

近江屋で一服会食。このスタイルが定着してしまったが良い事なのか、どうなのか判断がつかない。俗ッポク、イタリア南部的生活なのだが、ただただデレデレしたいだけであるやも知れぬ。微調整が必要か。二〇時過世田谷村帰着。

九月九日

四時起床。すぐメモを記す。メモをキチンと記す事で、キチンとゆるんでしまった生活を一度爆破しなくちゃならないな。夜が白々と明けそめて来た。展覧会を介して、幾たりかの知り合いを得た。彼等から本を手渡されたり、いただいたりする。読めという事だ。読まなきゃ悪いなと思うところが私の気の弱さである。徳島の鳥羽耕史氏から、『運動体・安部公房』(一葉社)送られてくる。鳥羽氏の花田清輝・吉本隆明論争論は現代思想で大変面白く読んだので、イケネェ、こいつも多分読んじまうなと予感してしまう。三〇〇ページの本だから少なくとも半日、下手すると一日つぶれてしまうであろう。

しかし、近江屋でデレデレしてるよりは読書もいいか、と考え直す。NTT出版の担当者にしても、鳥羽氏にしても持ち込む読みモノは良いのだから仕方ネェなコレはと、五時過、安部公房論読み始める。七時疲れて休む。この本にも示されている鳥羽氏の事実に対する偏執的傾斜の情熱には驚かされる。書誌学的質といったものが、出現しているのであろうか。新日本文学との一瞬の附合いが私にはあったが、久保覚氏の名が度々出てくるのも、妙なリアリティを感じさせるのであった。

九時半、彰国社から送られてきた対談のゲラ、校正。良くまとめられていて、手を入れなくても良い位だったが、折角だからと思って、やっぱり少し手を入れた。この辺りの呼吸も面白いな、編集の共同作業だコレワ、校正というのは。

再び、安部公房に戻るが、鳥羽氏のこの書物は現代思想に書かれていたモノよりも、だいぶ読みにくい。十一時読み進めるのを休止する。

R120
九月六日

十三時京王稲田堤星の子愛児園。園長先生、理事長先生旧知の皆さんにお目にかかる。十四時第七回のコンサート始まる。男性四人組の唄と演奏。彼等は保育園のホールでの演奏という事で、いささか与し易しと考えたのか、どうやら六〇%位の出来としか思えぬものであった。イージー・クラシックとでも呼ぶべきか。若いのだから全力を尽くすべきだった。

十六時前終了。厚生館愛児園グループ「流れ星」チームによる和太鼓の演奏。これは見事なものであった。例年にも増して。保母さん達を中心にしたチームなのだが、皆一生ケン命でそのひたむきさが、ドデン、ドデンと伝わってくるのであった。満足する。茶菓子をいただき小休の後、同グループによる演奏再び。あの四人組の若いプロらしき連中に聞かせたかったね。

終了後、厚生館グループの皆さんの宴席に出席。いつもの事ながら、栄養士の皆さんの手のかかった料理を沢山いただく。

保母さん達が、私の世田谷美術館展覧の作品コーナーをしつらえて下さっていて、照れくさかったけれど光栄であった。こういうのは本当に嬉しいものだ。あいさつに引張り出されたり、インタビューらしきを受けたりで、オタオタしたが楽しんだ。女性達の自由な気持と力が伝わってくる。女性の時代だな、やはり。

カラリとしてるが、「ここに泉あり」という私設オーケストラの生い立ちを描いた映画を思い出したりした。合唱も、演奏も、ひたむきなのが良いのだ。このひたむきさは自分も忘れないように自戒したい。いつの間にやら失くしてしまうのが普通だからな。

二十一時前迄たっぷり楽しんで帰途につく。

九月七日 日曜日

四時起床。昨日すすまなかった講義録の校正。とても大変な作業でほとんど、ぼう然とする位である。ようやく三講目迄巡り着いたところで外出。このメモを記す。「イカルスと水中ポンプ」を書き進めなくては。錆びた水中ポンプが発するアニミズムとしか言い様の無い風格を言葉に置き変えておきたい。

十五時前。ダニ・カラヴァン展のカタログ読む。北海道・音更の水の神殿のアイデアを作り始める。

深夜迄WORK。

九月八日

早朝より、講義録に手を入れ、ようやく第四講の始まり迄、辿り着く。十一時世田谷村発大学。十二時頃研究室。

R119
九月六日

九時前起床、昨日九月五日は終日、世田谷美術館での連続二十一講レクチャーの校正に没頭する。研究室の連中が膨大なテープ起こしをしてくれたので、それに手を入れれば楽かと思いきや、案の定大変な作業となり、結局第二講まで手を入れ切れなかった。

読み直してみると、これを書物の形式にするのには相応のエネルギーを費やさねばならないのが解った。しかし、折角、大変な量のレクチャー(ライブ)をしたのであるから、これは生かさねばならない。何とかやってみるつもり。

十二時、NTT出版・安藤礼二『近代論』読了。南方熊楠、柳田国男、鈴木大拙、西田幾多郎、井筒俊彦の書物を介して日本近代を読み直すという意欲の基の記述である。大川周明等のアジア主義、大東亜共栄圏構想へのシンパシーが底に流れている如くに読んだ。井筒俊彦のイスラムは不覚にも未読であるし、西田も殆ど白紙状態で誠に無知状態をさらけ出すばかりであるが、良いガイドブックであった。

十二時半過、星の子愛児園に出掛ける。頭が疲れているが、外に出なくては。

R118
九月四日

昨日の午後は安西、諏訪両氏と向風学校のこれからについて相談した。明快な答えは得ようも無いが、辛抱強く持続させてゆくしかない。途中でほうり出す事だけはしない。

七時前起床。TV、新聞共に福田康夫総理辞意表明を受けて、ドタバタ報道を続けている。国民、つまり我々をなめているのは実ワ、TV、新聞というマスメディアではないのかの感にとらわれる。

私が安西直紀に十年経ったら東京都知事になったら良いと言うのは、そういう今の、国民をなめ切ったマスメディア、それに顔を向けている政治家、そしてマスメディアの背後にある資本の非構造的構造を見るからだ。全て、国民らしき、ようするに大衆をなめ切った何者かの構造がこの胡散臭い現象を引き起こしている。小泉改革が何を引き起こしつつあるのか、そでに我々は学びつつある筈なのだが、しょうこりも無く再びその径を転げ落ちてゆくのであろうか。

向風学校が先ずなすべきは、マスメディアに対して、反マスメディアのモデルを提出する事ではないか。と言うよりも有料の機関紙あるいはメディアを発行する事から始めたら良いのではないか。それに向けて安西、諏訪両氏と安西氏の慶応大学、学友グループを組織化してみたらどうか。

R117
九月三日

ホームページの新連載「イカルスと水中ポンプ」を書き始める。タイトルは途中で変わるかも知れぬが、長く書けそうな予感があるので、やれるところ迄やってみるつもりだ。只今、四時二〇分。二通の手紙を書き終えたところである。一度眠ろう。眠りながらアレコレ考えてみたい。考えるマグマが動き始めたと自覚する。

七時半起床。「イカルスと水中ポンプ」に手を入れる。朝になって読んでみると、昨夜得たインスピレーションはすでに見る影も無くカサカサになっているのを知るが、なにしろ長く書いてみる決心はまだ壊れていない。

R116
九月一日

十一時研究室。ホームページをチェック。一ヶ月以上チェックを怠っていたので少々違和感がある。早速修正しなくては。

東大との第二回合同課題のスケジュール調整他。博士課程学生相談。M0ゼミ。アベル、チリの件。十七時迄。近江屋で一服の後世田谷村に戻る。新大久保駅でT社長 Jr に会った。

N社と連絡。世田谷美術館での連続講義の出版について具体化の相談を今週より始める事となる。

「水の神殿」他のプロジェクトの、同時進行形式の物語り仕立ての連載ができると良いのだけれど、絵入りで、何処か良い処ないかな。

九月二日

五時過起床。メモを記し、展覧会でお目にかかった徳島大学鳥羽耕史氏から送っていただいた「現代思想」総特集吉本隆明を読む。鳥羽氏は花田清輝・吉本隆明論争について書いている。早朝には良い読書であろう。

八時半迄。鳥羽論文及び肯定と疎外と題された吉本隆明インタビューを読む。勿論固いオーソドックスなタイプのものであったが読み易かった。吉本は良い時代を生きたと痛感する。

朝食後、地下室に潜り、浸水した中を歩き廻り水中ポンプを探す。ようやく発見したが、三つの浮き子による自動スイッチがうまく動かず、悪戦苦闘。ポンプがいきなり動いて体中ビショビショになったり、石油まみれになったりで苦労する。ようやくポンプは再生したものの地上迄の太いホース、(ダクト)が塞がっていて使いものにならず、これはホースは新しく買わねば駄目だ。

アベルより連絡あり。仲々チリもしぶとい。

福田首相あっさり退陣との事。日本の政治家は淡白になった。十二時 60mm 径の排水チューブを買いに成城迄出向く。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
(C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2008 all rights reserved
SINCE 8/8/'96