R200
十二月二十七日

十三時M0ミーティング、十五時M2ミーティング、十七時了。欠席してしまった向風学校忘年会に世田谷美術館のN氏が持参して下さった『バラック浄土』を持つ。初心を忘れるなという事だろう。

十八時近江屋、句会妙見会忘年会。難波先生がボケて会の開始時間を三〇分間違え、おまけに私は十五分前に辿り着いていなければ失礼と殊勝にも考え、十七時四十五分には到着してしまった。待てど暮らせど誰も来ない。十八時三〇分ようやく辿り着いた難波先生いささかの反省も無く「十八時半って決めたじゃないか」と言い放つ。怒り心頭の私との間に大議論、句会の始めの時間について、グデグデとののしり合う。

同席の伊藤先生はいかにも京都人らしく、俺は知らんぞ、という態度に終止する。この人物は昔、私を四国の旅で、スリッパに関して恐怖のドン底までの人間不信に落とし込んだ人間なので、このような重大ないさかいに関して味方になってくれとは頼りにならぬのは知り抜いていたのだが、予想通りで誠にあきれた限りである。今夜の句会の行方に暗雲が立ち込めた頃、会長の鈴木先生が現われた。「時間持て余して、山手線でブラブラしてた」だって。もう時間に対する考えが、それぞれに異なり過ぎる。これでは句会が苦会になってしまう。

それでも二〇時頃迄、ののしり合いながらの会は続いた。おたがい、文句はあるのだけれど、それはそれ。年の功というか煙の如くの人格を感じさせる迄にはなったのである。本格的な句会の席を池袋の、上海の魔窟ワインバーに移す。四名の廃人ならぬ俳人、知力、痴力を尽しての句作にいそしみ、魔窟ワインバーは火花が満天の恒星の如くに拡がったのであります。誠に二〇〇八年末の妙見会は目出たくも、和気に満ち満ちたのであった。

余りの名作の続出に、とても全記録を残すのは、正直なところ眼もくらみ、頭迄もくらんでくるのだが、一部を記し、暗き世間の一燈としたい。

近江路より石山寺迄の旅を詠めり

近江路を 抜けて今また ボワールアンクー

博之句

ボワールアンクーとは池袋上海の魔窟ワインバーなり。女将ありて、七〇年代知識人の風あり、会長の詠める、なんとかの、なれのはてなり、黒寛、ブッシュ等の駄句をたしなめたり。句会の事務局長を広言したり。「そりゃー、池袋支局の間違いだろう」と強く言えり、されどもきかず。「全国事務局だー」と宣言せり。されど会員数は正しくは女将を数えても四名也。今夜、初参会の伊藤氏、まことに慎重な人也。入会を強くすすめるも、ぬらりくらりと逃げるばかり、ホンに京都はアナ、恐ろしと人々言えり。しかれども笑いのうちに会を、ようよう、おわりぬ。会長とどめにもならぬ、とどめの一句

くかいとは すべてにつける おさむかな

博之

しかれども考えるに、他の句、無数にあれども、どれ一つ思い出せず、全て失念したり。妙見会の、コレ、実力なり。次の年への発展をいのり、散会せり。二十三時頃だったか、世田谷村に戻った。

十二月二十九日 日曜日

昨日は休み。十三時半五反田で待ち合わせ。十四時T社長と打合わせ。十六時近江屋。十六時半安西君合流。九州小倉でお世話になった友人も来る。忘年会。十九時半世田谷村に戻る。

十二月三〇日

七時半世田谷村発。九時油壺月光ハウス、Nさん訪問。終日月光ハウスで眠りこける。

油壺の小さな洞穴群に関して白昼夢の如くに考えた事は山程あるが、これは「絶版書房便り」に記す。アニミズム周辺を考えつめていると、必らずその考えるマテリアルに遭遇する事になる。この小洞穴群は第二次世界大戦末期、日本軍が特攻兵器「震洋」を作り、隠していた洞穴であった。隣りの湾は人間魚雷回天の秘密基地であったらしい。戦争は人間の理性を失わせると同時に、人間をアニミズムに接近させる。十九時前西調布に寄って、二〇時過世田谷村に戻る。

十二月三十一日

七時過起床。ここ数日のメモを記す。この習慣が途切れたら危いなと思う。長男雄大の友人が二人昨夜より世田谷村に泊っていて、彼等と二階の陽だまりの中で朝食。日本の若い人の将来は大変だろうが、彼等なりにやってゆくのであろう。淡路島の山田脩二さんに電話して、たまプラーザの山口勝弘さんの星印瓦の進行状況を問う。「やってますよ」との事なので、山口先生にお知らせする。先生ホッとした模様。電話からホッの吐息が伝わってくる。

十一時半過、武蔵野の母に連絡。顔を見にゆくと伝える。京王井ノ頭線は全く休みモードである。「アニミズム周辺2」はナーリさんのFFC(空飛ぶ三輪車)、3はひろしまハウス、4水の神殿、5遺跡、6星印瓦、ここ迄考えは進行している。今日中にアト3項目の構想を立てたい。二〇〇九年だから、正月に9の構想というのも良いだろう。7は遺跡2・アンコールワット、8は旅、9は?

十二時半母の家。葉書を書いたりの仕事。十四時半去る。十六時世田谷村。夕食をとり、早く眠ってしまう。TV番組のことごとくは詰まらないことおびただしい。

二〇〇九年一月一日

七時起床。メモを記す。猫の白足袋はようやく野良猫DNAを脱しつつあるようではあるが、やはり血は争えぬもので、テーブルに飛び乗り、上のモノは落下させる。いくらしつけても止めぬ。台所カウンターの上のモノ、あらゆるオープンな棚という棚にあるモノ全てを落下させ続けるのである。バカかこの猫はといぶかしむのである。ペットフードばかり喰いやがって、一番ぜいたくしているのである。ブクブク太って、もう豚猫ですよ、お前は。メモを書きながら時事放談を見る。私は政治は解らないのだが、やはりTVよりは猫でも眺めて、からかっている方が心楽しいような気もするが、あんまり楽しくもないような気もする。実に詰まらぬ元旦のメモであるが嘘は書かぬと決めているのでこうなってしまう。二〇〇九年というのは音の響きも、数字の姿も共にあんまり良ろしくはない。しかし、二〇〇八年の年の姿というか、頼りない限りの気分とも言うべきか、それは良い筈だったのに、実体は余り良くは無かった事を考えれば、そういう気分はどうでも良いのが事実なのであろう。

一年の計は元旦にありというに習い、何とかこの〇九年の計を開陳しようとしているのだが、この体である。まあ、計は暮れから色々と立てているので元旦くらいは頭を休ませる事にしよう。母も正月を迎えられたようだしまずまずではなかろうか。

賀状は全て手描きの線を書き加えた。絶版書房「アニミズム周辺紀行1」と同様のコンセプトである。「アニミズム周辺紀行1」のドローイングは二〇〇点になる。五色のカラーで描くとして、今日五〇点のカラー線描をトライしたが、矢張りかなりの時間を要する。マアしかし、二〇〇点なら不可能という事ではなさそうだ。サインと日附の刻印も含めて三日もあれば可能だろう。

明早朝より、再びカンボジアの旅に発つ予定。中川武先生のアンコールワット修復の仕事を見学するのと、新しい遺跡の観光ルートへの繰り込みの可能性をチェックするのが目的である。トンレサップ湖からの河下りと、プノンペン、ひろしまハウス参観を何とかルートに組み込めないものか。二十三時休む。

R199
十二月二十六日

十三時四〇分市ヶ谷私学会館。東進予備校主催の早慶比較研究のレクチャーに出席。電機情報の松本先生のすすめである。一万五千人の参加者が集まったそうだ。五〇分早大建築学科での石山研の活動について受験生諸君にレクチャー。こういうものもやらなくてはいけない時代になったのを痛切に実感する。座していたら早稲田建築は死ぬぞ。中国の精華大学の力を眼の当りにしたばかりであるので、痛切である。

飯田橋に移動。神楽坂で時間つぶしに入った上島珈琲店が良かった。十七時四十五分発、待ち合わせの小料理屋へ。

十八時学科教室の先生数人他と雑談。二十一時半了。神楽坂より地下鉄で新宿へ、二十三時前世田谷村に戻る。

十二月二十七日

昨日のフッとした時間のあい間によった上島珈琲店神楽坂店の壁は良かった。クリフォード・ブラウン、エリック・ドルフィー、ソニー・ロリンズ等のモダーン・ジャズのヒーロー達の、精選された演目のLPレコードが、中古材で作った、ガッシリとした壁に嵌め込まれて、四点程ディスプレイされていて、それに対面して一人席が用意されている。低い座のゆったりした背もたれ付きの奴で、左肘の肘掛けの巾が広く、コーヒー&ティーを乗せられる。それで、ティーが三百円そこそこである。神楽坂通りを大久保側へ少し登って右手にある。クリフォード・ブラウンのジャケットの色を見ているだけで良い時間を過ごせること間違いない。そんな気持ちがあればの事だがね。

宮崎の大入りアーティスト藤野忠利さんに電話する。藤野ア子さんの展覧会のお知らせの原稿はアレで良いとの事だった。

R198
十二月二十五日

十六時絶版書房第一回配本「アニミズム周辺紀行1」最終打合わせ。一月十六日に印刷仕上がり、一月二〇日発送とする。全ての配送本に私のオリジナルドローイング「立ち上がる御伽」を書き込むのも決定した。二〇〇部なら、なんとかこなせるだろう。十六時半アベル・エラソ打合わせ。チリ建国二〇〇年祭の件。十七時半研究室発。十八時半、磯崎アトリエ。忘年会。磯崎さんと雑談。相変わらず、来客に対して微に入り細に届く気配りであった。二〇時半宮脇愛子さんアトリエを発つ、磯崎さんも帰られたので、私も失礼した。途中、向風学校の安西氏に、今夜の向風学校忘年会の欠席をわびる電話を入れる。出席しなくてはと思ったのであるが、体が言う事をきかないのだ。二十二時前世田谷村に戻る。

十二月二十六日

九時迄休む。年末は絶版書房第二回配本、第三回配本の準備と、一月十五日の鈴木先生退官記念講義の準備で忙殺されるだろう。

絶版書房の「アニミズム紀行1及び2」のチラシを用意する。丹羽君今日中になんとか数部だけでも作って下さい。十二月二十八日だったかの佐藤健の酸庵での会で本格的に配布したい。

宮崎の藤野忠利氏より、東京の西湘画廊、東邦画廊それぞれ二〇〇九年二月九日からの藤野ア子さんの、展覧会のすいせん文を書く。

昨日、磯崎アトリエで美術界も二〇〇九年は氷河期であるようだの話しがあったが、宮崎の人の心強さは氷河期もあんまり関係なく、病気もそれなりに乗り越えて、ただただ明るい処が、それが貴重である。

山田脩二について、少し計り多く書き過ぎたのだが、住宅建築担当者より、全文出しますの連絡をいただいた。もう、好意にはドンドン乗ってゆきたい。

R197
十二月二十四日

昼に大学でチョッとした雑事を終え、近江屋へ。今日はクリスマスらしいので、チョッとそれらしい時を過した。十五時了。世田谷村への帰途へ。人間は上格から下格まで様々にあるが、気持、あるいは精神の階層性は、いや増して急進しているように思う。出来るだけ、同じ位の気持の層を持つ人間とだけ附き合いたいとは願うけれど、それは夢の又、夢であろうな。私はと言えば中品だな。中古品であるやもしれぬ。そんな何とも頼りの無い無駄を考えて一日休養させていただいた。

十二月二十五日

昨日は東北一ノ関のジャズ喫茶ベーシーは定休日の筈であった。ベーシーの暗闇は気に入りの場所の一つである。しかも休みで店主菅原も不在であるに違いないので、その気に入りの場所へ久し振りにFAXを送信してみた。誰も居ないが、アンプの真空管の小さな光だけが灯っている筈の暗闇にFAXが吐き出される様を想像して、何となく、マ、こんな時もあるさと自分をなぐさめたのである。

ところが驚いた事に、すぐ返信があって。ベーシーからである。休店なのに、菅原は独人で店で、〆が大分先の原稿を書こうか、書くまいか思いあぐねていたらしい。

全く期待していない応信であった。

絶版書房の活動というか、駄動と呼ぶべきかの、知らせをしたのだが、良く良く考えてみれば、無人の筈のジャズ喫茶への送信というのは、センチメンタルではあったが、それほど悪くはない事であった様な気がしないでもなく、菅原からの返信も合わせて、絶版書房便りにUPすることとした。菅原には知らせないけれど、無人の筈の店からの返信だから、それも良いのではないか。

R196
十二月十九日

九時前成田空港。ラウンジで搭機待ち。眠い。

十二月二十三日休日

十五時迄眠り込んだ。余程疲れていたのだろう。

十八日から二十二日迄の北京は寒かった。-16 度C迄気温は下がった。カンボジアと比べれば実に 45 度Cの温度差である。記録をする時間も無かったので、五日間を振り返ってみる。

十九日は北京時間三時前に北京空港着。

ノーマン・フォスター設計の新空港は巨大過ぎて歩くのに骨が折れる。巨大さをまとめるのに精一杯で他には何の取柄もない。しかし、この巨大さこそが二〇世紀的な産業思想の帰結であったのだろう。機内で住宅建築の「山田脩二について」を書いていたので、それとは全く異なる世界だ、とつまらん事を感じたりもした。ノーマン・フォスターはボーイング747こそが二〇世紀の技術とデザインの成果であると考えていたようだが、この中国国家がオリンピックに向けて体面を賭け総力を挙げた国家の建築には初期のノーマンフォスターの清新な力は感じられない。やっぱりフォスターは女王陛下の国のテクノロジー好みに向いているのであって、五星紅旗の国の広大さには向いていないのか。でも、この大きさは誰がやっても失敗するな。新バンコク空港もそうだったが、新巨大空港のいずれもが、ノーマン・フォスター自身が言明する如くに、余りにもジェット旅客機の成果にひきずられ過ぎている。

もうジェット機での移動に旅のロマンティシズムは無いのは解るけれど、病院の待ち合い室と流体形の通路の組み合わせ、それにショッピングモールが組み込まれているのでは、余りにも通過点過ぎる、人間誰しもすでに移動の中に生活を見なければならぬ如くになっているのではなかろうか。

モノレールに乗って更に移動して、ようやく出たら陸海と清華大学のスタッフが迎えてくれた。清華大学近くのホテルにチェックイン。

その夜は陸海のオフィスに案内され、近くの料理屋で夕食。彼の奥さんと御一緒であった。中国人はどうしてあり余るのが解っているのに沢山料理を頼むのかと議論した。それでも沢山料理が出た。陸海は私の研究室で PH.D を取得して、こちらでパートナーとの事務所経営と教職の二足のわらじである。ホテルに二十一時前に戻り、原稿を書いて、眠った。

二十日は七時半朝食。九時から十二時迄清華大学で講義とディスカッション。四〇名程の聴講生は中国全土から集まった三〇代四〇代の設計事務所の運営者達である。非常に沢山の質問を受けた。熱心である。昼間は構内の食堂でペキンダック、又も大量の喰べ残しの山となる。この習慣を改めないと中国はヤバイぞ。食料が不足の時代になるのだから。

構内は車で移動しなければならぬ程に広大である。十三時半から十七時迄再び講義とディスカッション。終了後、受講者達と日本食レストランで弁当の夕食。終了後、オリンピックサイトの、李祖原設計の旧北京モルガンセンター、改名して盤古七星プラザの盤古ホテルにチェックイン。李祖原の計らいである。十七階のオリンピックスタジアム、オリンピックプールを間近に眺められるコーナーの一室であった。この六百メーターの長さ、高さ二百メーターの巨大建築のメディアスクリーンには我々のアイデアが入っているのだが、中国の技術でマアマアの良いクオリティーが得られていた。日本の技術で作りたかった。総数7ヶ所のメディアスクリーンがスイミングプールの発光体と共に発光して、何やら変な雰囲気を作り出している。しかし私はこっちの方へは行かない、建築では。

陸海と奥さんと室で少し飲む。彼等が帰って、原稿を書き、おぼれそうにデッカイ風呂に入って、バカデカイベッドで休む。

二十一日はホテルに閉じ込もり、朝から夕方迄、筑摩書房の鈴木博之、「東京の地霊」の解説を書く。北京オリンピックの会場内には王母娘娘廟が殆んど奇跡の如くに保存されていて、オリンピック修了後はこの国家の第二のセンターとも呼ぶべき場所を厳然と支配しているように思えて、私は鈴木博之の「東京の地霊」の解説は、ここで書こうと決めていた。つまり、この廟を眺めながら、鳥の巣国家スタジアムやスイミングプールの超モダーンな建築群を、祭典終了後はむしろ、圧倒的に支配してしまっているのを眺めて書くと決めていた。幸い、李祖原が手配してくれて、望みがかなった。

午後遅く、李の事務所のスタッフが来てくれて、七星プラザの中を案内してくれた。マイナス 16 度Cで六百メーターのコリドールを歩くのは難義であった。建築はもう少し小さい方が良い。李の事務所で西安の巨大プロジェクトを見たりで少し計り勉強する。

十七時ここのオーナーである Mr. Kに久し振りに会う。少し減量して健康そうであった。この若い登り龍の代表みたいな男の肩にかかっている重さは大変なものであろうと痛切に思う。万里の長城のある西山に丁度夕陽が沈み入る瞬間に、それを眺めて、この一瞬が素晴しいのだ、と一瞬素顔を見せそうになったな彼は。彼の如くの人間には一生が瞬間であるという現実も視えているに違いない。

六つの計画について相談する。

修了後、車で広東料理屋へディナー。二十一時頃ホテルに戻り、「東京の地霊」解説を書き続ける。台北の李祖原から電話あり、話す。彼とも長い附合いになるな。夜半迄原稿書く。

二十二日は六時起床原稿書く。七時頃陽が赤く北京の空を染め始め、オリンピックサイトを照らし始める。今は主になった小さな廟は黒々とシルエットを浮かばせている。この廟の事はいずれ鈴木博之に書いてもらいたい。十時ようやく原稿書き終える。他人はどう読むか知らぬが満足した。二階で朝食をすべり込んで取って、荷作りして、十二時半、李事務所のドライバーにピックアップされ空港へ。午後の便で成田へ、夜、世田谷村に帰着。

二十三日の今日は、一日眠っていた。やった事と言えば、いささかの仕事と、このメモを記しただけである。

カンボジアの旅、北京の旅、共に振り返れば、朝と夕の赤光の旅であったように思う。ウナロム寺院の壮大なメコンの朝焼け、盤古プラザの Mr. Kの広大なオフィスから眺めた西山の夕陽、共にKの言う如くに一瞬の光であった。

十二月二十四日

いくらでも眠れる程に、まだ疲れている。何とも弱くなったと実感するが悲しむ事もない。今日も一日休養した方が良いと知るが、チョッと大学で用事があるので、それに顔だけ出す事とする。

R195
十二月十九日

五時起床。荷造りをして、五時四十五分世田谷村発。NRTへ。まだ暗い。今日から北京。いささか疲れている様な気もするが、今度の北京は楽しみである。何が起きるか全然わからないところが良い。

丹羽君、北京滞在中の記録送る予定ですが、その時間があるかどうか不明です。恐らく超ハードスケジュールになるでしょう。英文、日文トップページの写真は土・日を除き毎日動かして下さい。ウナロム寺院及びひろしまハウスの最新取材を素材にしてください。レイアウトは任せます。

R194
十二月十八日

昨日プノンペンから戻った。三〇度Cの国から五度Cの国へ。この気候の違いは人間の生活やものの考え方にとって大変な意味を持っているな実に。八時半起床。今日は陽光が満ち溢れているが、プノンペンの光とは全く異なる。穏やかなものだ。

十三日〜十七日迄のカンボジア、プノンペンの旅については第二回絶版書房配本「アニミズム周辺紀行2、3」に二回に分けて記録出版するのでいずれ読んでいただきたい。出版は来年一月になるであろう。

明日からは北京で、今日一日が東京という事になる。北京は精華大学のワークショップの講師で、研究室卒業の陸海が通訳でついてくれるので心強い。オリンピック競技場に隣接した旧モルガンセンター、オーナーの Mr. Kにも久し振りにお目にかかる予定で、C・Y・LEEが彼のホテルを予約している。七ツ星ホテルらしい。北京は通信の便が良いので日記録を途切らす事は無いだろう。Mr. Kの五本林立したビルの一つのペントハウスは彼の両親、一つはビル・ゲイツの所有になる。世界的な大不況、特に投資家にとっては凍りつくような今であろうが、 Mr. Kがどう対処しているのか知るのは大いに楽しみである。北京プロジェクトのその後も見たい。

中国の今後についても、登り龍の代表的存在でもある、Mr. Kの意見と予測を聞いてみる。アッという間の北京ではあるが、重要な時間になるだろう。

十一時研究室。ページチェック。しばらく留守にしているとページが動かなくなる感があり、問題である。TOPページのグラフィカルなページは自動的に動かせるように、丹羽君にオペレーションしたい。北京はほんのわずかな滞在であるが、その間はプノンペンの素材を工夫して月曜日迄連続して動かす事としたい。

十一時半 JABEE の視察団が研究室を見学。昨日の昼食会は欠席してしまったので、そのおわびもする。コーリアの国際コンペでお目にかかった先生にも再会した。世界は狭いな。十三時古市氏来室。北京の件で打合わせ。十四時発五反田へ。十五時T社長と打合わせの予定。

R193
十二月十二日

十二時半M2ゼミ。十四時古市氏来室。中国の件。彼のバイタリティには期待したい。十五時三年設計製図第四課題中間講評会。東大との共通課題の第三課題を終え、次の第四課題はミニ・ディプロマである。各自個人での自由課題。十七時に切り上げて展覧会に行く予定にしていたが、結局果たせず。十九時迄附合う。第三課台で際立った才質を示した女性を中心に、やはり今年も女性の才能が群を抜いているのを実感する。二〇時半世田谷村に戻り、明日の旅立ちの準備。スケッチを沢山する予定なので紙を大量に運ぶ事となった。

「設計製図のヒント」55、モノリスを書く。女性の才質が歴然と際立った作品であった。この女性は何処まで走り抜くキャパシティを持っているのだろうかと、楽しみである。二十三時半迄かかってしまった。

R192
十二月十二日

七時半起床。最終クリティーク「設計製図のヒント」55書く。早大のモノリスである。設計製図のヒントは、これで第二章を終え、第三章に入る予定である。

丹羽君トップページ英文を動かして下さい。この前、木本君と渡邊と一緒に撮った「立ち上がる伽藍」の中から、世田谷村に宇宙船立ち上がる伽藍が出現した奴、西側の壁下に、地面スレスレに浮いているのをトップにして下さい。 今日は十二月十二日で、製図のヒントも五五回目。ゴロが良いから英日文双方の表紙デザインを変更しましょう。 十時半世田谷村発。十一時半研究室来客。

R191
十二月十日

十一時研究室。MONSTER STUDY 1「アニミズム周辺紀行1」の最終稿チェックし渡す。昨夜のシンポジウムでアニミズムに関する質問があったりで、決してアニミズムに関する考察が独自に孤立しているのではない事を感じたのだが、嬉しくもあり、少々残念でもある。孤立の誇りというのもあるのでね。

十五時長井さん来室。出版の件で打合わせ。これから先少なからぬ量の出版を企てているので、彼女の才に期待するモノは大きい。十八時前了。十九時近江屋で小休し、二〇時過世田谷村に戻る。

「東京の地霊」解説文を書く。山田脩二小論を書き始める。

十二月十一日

四時半起床。「設計製図のヒント」54書き始める。55迄でクリティークは終えて、次に発展させる。絶版書房の出版に関しては、宮崎の鉱脈社に紹介していただいたので、縁が出来るかも知れない。六時了。眠る。八時再起床。杏林病院定期検診。尿酸値高く、医者から怒られる。しかし禁酒は断じて禁じたい。十時四〇分了。烏山駅迄戻り大学へ。十一時半。「アニミズム周辺紀行1」のデザインがほぼ出来上がり、ようやく満足する。我ながらヨイ。

中国精華大学での中国の設計事務所・ディベロッパー相手のワークショップ及び講演の大枠を決める。

R190
十二月九日

十七時四十五分五反田 TOKYO DESIGN CENTER 。シンポジウム会場。十八時半 High-Tech and Tradition 展討論。司会古市徹雄、藤本壮介、船曵鴻紅、各氏と。

終了後近くのイタリア料理屋でディナー。二十三時半過了。二十四時半世田谷村に戻る。

十二月十日

七時過起床。昨夜のシンポジウムで藤本壮介氏のプレゼンテーションを見て話を聞いた。穏やかで、知的で遊戯的なものであった。

今、充二分な程に早大東大の学生諸君の設計製図作品に流れる趣向を検討しているが、その中の良質な趣向と三〇代後半の恐らくは最若年の建築家であろう彼の遊戯性とは少し計り距離があるような気がした。

そろそろ若い世代は総じて消費感覚的趣向から意図的に脱けねばどうにもならぬのではないか。

十時前、「設計製図のヒント」53を書き終える。あと東大3班、早大18班をやって、少し休みたい。大変面白かったし、身についた。最も若い世代の趣向そのものに接し得ているという実感がある。それは時代の趣向でもあろう。 おわりには、その事も書いてみたい。

R189
十二月九日

午後、プノンペンの小笠原さんと話す。カンボジアでの次の計画をそろそろ動かそうと考えているので、その下準備である。十三時来客。十四時半M0ゼミ。足かけ3年にわたる長期ゼミとする。「時代の趣味・趣向とデザイン傾向」という大筋としたいと提案。M0諸君の同意を得た。女性を中心とした陣容であるが、本格的な事をする。しかし、こういう本格的な、ある意味では古めかしい主観を彼女達が好むかどうかは、今は知らない。

R188
十二月八日

十一時研究室。北海道水の神殿、音のホール部分のアイディアまとめる。自分のHPを読み直すのに仲々エネルギーと時間がかかるようになってきた。十八時近江屋で小雑用の後二〇時世田谷村に戻る。

十二月九日

八時起床。宮崎の藤野忠利さんより「大入号」(鉱脈社)送られてくる。価格一二六〇円である。これ迄の具体アーティストとしての藤野忠利の仕事のとり敢えずの集大成がごった煮になって鍋炊き状になっていて大変愉快である。誰かが、阿呆アートと書いているが、まっこと、ここ迄やればパーフェクトな阿呆アートであって頭が下がる。下がり放しで、拝みたくなる位である。私には自分で自分を「アホ派」と名乗る自由も度胸も、何もない。まだまだアホにはなれないのだ。いつか、なりたい。十時過「設計製図のヒント」52了。

R187
十二月六日

昨五日は午後M2ゼミ、夕方M0ゼミを終え、十八時過近江屋で古市氏と会食。二十二時世田谷村迄車で送ってもらった。

八時起床。新聞を読む。九時「設計製図のヒント」49を書く。十時半了。十一時半発、目白へ。

十二時四十五分日本女子大学。十三時日本女子大、早大共同課題中間講評会。建築学科、住居学科2年生、それぞれ十名の発表を聞き、いささかのコメントをする。まだ東大早大合同講評会のクリティークを「設計製図のヒント」として書き継いでいて、設計製図の今、については考えている最中なので、大変興味深かった。2年生を考えるに、東大生はまだ駒場の教養課程で、一切の専門教育は受けていない。早大、日本女子大はすでに設計製図でかなり難かしい課題をこなしている。早大建築生は二年生から早々とアクロバットをやり始めている。学び初めを自覚せぬまま変な芸を演じている。浮ついていると言わざるを得ない。

日本女子大の女学生諸君はそれと比較すると二年生なりの初々しさを見せてくれた。総じて、感性はどうも日本女子大生に良いモノを感じた。2年生の頃は、じっくり体力をたくわえ、感性にふくらみを与え、倫理感を育てておけば良いのだ。早大生は汚れるのが早過ぎるようだ。十四時半終了。懇親会の後、入江先生、鈴木賢次先生、若い先生方と会食。二十二時頃世田谷村に戻った。

十二月七日 日曜日

九時起床。新聞を読み、メモを記す。夜半「設計製図のヒント」51迄書く。もう少しだ、やり切ろう。誰の為でもない、何しろやり切ろう。

十二月八日

八時起床。陽光はあるが寒い。加藤周一先生が亡くなって間もないが、本当に言葉通りの知識人であったな。磯崎新のおかげで何度かお目にかかる事が出来たが、あの高潔さが身についた様は忘れないようにしたい。

R186
十二月四日

十時半五反田T社。T社長と打ち合わせ。昼食をはさんで、十六時迄。日本の中小企業の創業社長のタフネスには全く驚かされる。T社長との打ち合わせは微に入り、細に止まり、隅々迄自分の頭にしまい込もうとする執念がある。将来のビジネスモデルについても話し合い、今日は充実した打合わせになった。

帰りの電車で渡辺と話しているうちに、フッと、アイデアが浮かんだので、あわてて世田谷村に戻る事にした。十七時過世田谷村、アイデアをメモする。

二〇時、「設計製図のヒント」47を了。まだまだ続けるが、ここ迄来て、東大建築生は問題発見型であり、早大建築生は問題解決型であるとの分析に到達した。自分でも驚いているが、自分の眼でそれぞれの作品を詳読しての結果である。大きく間違ってはいない。勿論、秀逸な者は双方を持つのだが、三年生で、これだけハッキリと性格が開いているのには仰天する。早稲田の製図教育は見直しの努力が必要だろう。昨年の第一回対抗戦以来、何か胸につかえていたものがあったのだけれど,その原因が解れば、先ずは良いのだ。

表面をなぜていれば、早大建築生は上手くて、エネルギーがあると見えるのだろうが、当事者の私は今年どうしても、簡単にそうは思えなかった。東大建築生は根深いところで、実に良く考えている。しかも、自分達の言葉で、自分達の感性で考えようとしている。それが年を経ると仲々の力になってくる原因であろう。

十二月五日

七時前起床。新聞を読み、メモを記す。十時半「設計製図のヒント」48書き終える。ヒント47で一つの仮説に辿り着いたので、気持ちを改めて第二ラウンドに入った。自分でも意外な程に、これは重要な作業をしているのではないかと自覚し始めている。何とかキチンとまとめたものにしなくてはと考える。

もしも、学生達が三年生の秋の設計製図で表現しているような建築が、社会に実現したら、リアライズされたら、社会は変わるだろうなと、そう考えてみる。そうか、学生の本質は革命家でもあるのだものな、と、そんな初心に戻らされるのである。イヤイヤ、面白い。学生は大した者だ。

R185
十二月三日

十七時ワイマールのカイ・ベックとユリア来室。源兵衛に行くも三日は定休日で休み。バスで高田馬場へ。ヤキ鳥屋でさよなら会食。二〇時サヨナラ。二十一時世田谷村。「設計製図のヒント」47書く。

十二月四日

八時前起床。山口勝弘先生より便りあり。来年のロンドンでの実験工房展に色々とアイデアを巡らせているようだ。又、淡路の山田脩二氏に山口オリジナルの星マーク入りの瓦製作を依頼しているようで、そうか屋根瓦に星があるのは解るナアと感じ入った。

北海道の計画に世界少数民族センター設立のアイデアも送られてきた。これは面白そうである。少し暖めてみよう。 八〇才の不動明王アバンガルドの創作欲の旺盛さに目をみはるばかりである。六十四才の私が負けてはならない、恥ずかしいぞコレワ。九時二〇分発T社へ。

R184
十二月二日

九時過木本、渡辺両氏来。すぐに「立ち上がる伽藍」の撮影作業にかかる。昼過迄かかり総計四百ショット程の写真をとる。面白いWORKであった。

十四時半新宿で全ての撮影を修了。十五時過研究室。この四百ショットを編集してアニミズム紀行2の一部とする。今日中に2号の編集作業を終えたいと気もそぞろである。十七時前木本君と打合わせに研究室を発ち、十九時迄無駄話し。二〇時過世田谷村に戻る。

今朝程、写真と実物のギャップと同一性を考えさせられた事はない。新しい知性は、この双方を恐らくは同質のものとして把握するのであろうと考えた。四百ショットの写真を前に、一夜頭を冷やしてから又、考えなくてはならぬと痛感する。高揚している時は危険な時なのだ。しかし、凄い、このマテリアルは。

デジカメでなければ得られぬ質を実感した。アナログカメラは人間の眼の延長で、デジタルはそれとは切り離されているのだな。その事の意味が重要かもしれない。

十二月三日

七時半起床。八時半「設計製図のヒント」46を書く。少し急ごう。十時過了。

R183
十二月一日

十一時研究室。十二時輿石研との共同ゼミ、卒論発表。二組。十三時二〇分了。十三時四〇分発。平和島へ。十五時前北嶋絞製作所。工場見学。昭和二十二年に開業した絞専門の工場である。富士が嶺観音堂の墓を百基作ったときに初めて、ステンレス絞りの専門メーカーの存在を知ったが、この工場はそれをより特化したプロ集団である。北嶋実社長の話しもうかがえて大変勉強になった。

こういう工場の、モノつくり職人達は一人一人が宝石みたいなもので、まことに頭が下がる。ヘラ絞り一筋三〇年というような職人が多くいる。その道具の見事に数十年も使いこなされた輝きと、機械と融合してしまったような身体の動きが感動的であった。北海道の仕事で使ってみたいと考える。

十六時半了。十八時浜松町やき鳥秋田屋で立ち呑み。秋田屋は昭和四年創業である。輿石、加藤、木本三氏と。十九時過了。二〇時過世田谷村。

十二月二日

深夜、三時半 MONSTER STUDY 1・アニミズム周辺紀最終校正終了する。鈴木博之、東京の「地霊」を再読。

八時半起床。今日は朝世田谷村に木本、渡辺両氏が来て、「立ち上がる伽藍」の撮影をする予定である。無駄話しでも続けてアッという間に構成を決めてしまおう。

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