R220
一月三十一日

十一時研究室。絶版書房残部 82 確認。編集会議及びドローイング書き込み。3冊。これで 120 冊に描き込んだ。十四時会議室、事務的打合わせ。十七時半迄WORK。十八時近江屋。二〇時世田谷村。WORK。

一月三十一日

八時起床。基本設計の只中である「水の神殿」プロジェクトに関して、実際の設計活動と、そのメディア化とを同時に進行させる事を試みる。何しろ今は「アニミズム紀行1」の絶版を目指して頑張る。英文トップページ、和文トップページの更新のスピードがそろそろペースに乗ってきたので、このページの活用を試みたい。研究室のWORKの中心は「モノ作り」でもある。このところの一週間程の記録を振り返ると、モノとメディアのバランスを失しているのが知れる。今日で一月も終りだ、明日、日曜日までは何しろ絶版書房の立ち上げを頑張る。

建築生産は考えつめるに、農業と極めて似た状況になってきている。生産しているだけでは、もう社会に適応できぬ部分が生まれ始めている。お茶や野菜を作るだけでは不充分になっている。それを加工して、例えば、おにぎりにして売るとか、サラダに加工して売るとかしないと、今のグローバリゼーションには対応し得ない。その加工品が私の研究室ではメディアである。実物を作りながらそれを加工した第二次、第三次製品も同時に作り、小規模でも良いから流通させ始めたい。それが「モノ」の力を拡張する事にもなるだろう。それ以上でも、それ以下でもない。

年賀状の整理を小一時間。今年も又不義理を多く重ねる事になりそうだ。

十二時過研究室。M2がひっそりとスタディしている。よろしい。絶版書房「アニミズム紀行1」は残部 75 になっていた。いい年をしてニコニコしてしまう。我ながらおかしいとは思うのだが、一晩で七人も予約してくださった方々が居るんだから、コレは嬉しい。十四時過、絶版書房の 10 冊の本にドローイングを入れる。二時間で十点だから、一点十二分平均、下ごしらえも入れたら一点十五分かかってるな。15 分掛ける二〇〇冊は三〇〇〇分という事は 50 時間。ウーム、50 時間であるかと天を仰ぐも、研究室には天もない。

十五時、三年設計製図講評会。東大との共同課題をこなした学年であり、大方の人間の才質は把握している。とことんやってみなさいと言える人間はそんなに実は多くないのだ。変な幻想を持つのも三年迄にして、どんどん実務的なエネルギーを蓄えた方が良い者が大半なのは明確である。第四課題はミニ卒計であるから、それぞれの野心、気持の遠投力が良く浮き彫りにされる。東大の三年生達はどうしているのかな、それぞれの将来が楽しみだ

R219
一月二十九日

十四時前、昼食をとりながら雑打合わせ。その後外出十七時過迄雑事。栃木のA・Aさんに絶版書房の交信をメモしながら考えたのだけれど、アニミズム紀行2に「幻庵」を入れるべきだったかも知れない、と。

渡辺保忠の「工業化の道」あるいは、リチャード・バックミンスター・フラー批判:当時東大内田研生であった大野勝彦氏との出会い。会えなかったけれど、剣持りょう(日に令)の規格構成材方式論文との出会い等がカオスとなり、しかし中心には天才川合健二の延々たる個人レクチャーがあって、それが幻庵を生み出した。

あの処女作は私の無意識であるが故に、私の生命の、一方の中心であったかも知れない。振り返らぬと、決めてここ迄走ってきたが、ソロソロ、処女作と対面すべきかも知れぬと思う。不思議なものだ。絶版書房の読者のおかげ様なのかも知れないのだ。こういう書き方をすると又、日記の読者は不可解だと思うのだろうな。58 才の川合健二が 20 代の私に言っていたな。「わかって下さい」と、アレは理解してくれとは言っていなかったのだ。ただただ、それでも交信だけは望んでいたのだと、今にして思う。

一月三〇日

昨夜は何故か旧い友人達の事を想い出したり、アレコレと考えているうちに、早く眠りについてしまった。一度二時半に起きてしまう。恐らく、今何処かで私の「絶版書房」第一回の配本分を読んでくれている人間がいると想う。コレはただの量産本ではない。一つ一つに、私、あるいは我々の手が入っている。気持も入っている。読書をするような気持だけでは無く触れていただけると良いのだけれど。それは望んでも無理だろうな。まだ量産本のスタイルを引きずり過ぎているから。改良しなくては。

第2回の配本分には、もう一ヶ所ドローイングを増やそうかとも思う。実は第1回の配本分のドローイングは筆と墨で描いた。内容の解説を書く愚は犯さぬが、この具体的なマテリアルが少し私をしばった。描くスピードと、それがかわくスピード、描いたページに紙を挟んで整理するスピードが、三すくみになって、そこに変な時間が発生した。机上は一瞬だけではあったが工房の如くになったのだ。まだ百人チョッとの人にだけしか描いていないのだけれど、このドローイングの型式を少し工夫すれば、面白い表現手段が得られるかも知れない。

巨大な幻庵状の、イメージらしきが頭の中に浮かび、ふくらんだり発光したりを始めている。こんな事は初めてなので、あわてて、再び眠りにつく。もしかしたら、本当に作りたいモノが現われてくれるのかも知れない。三時十分、眠ろうとする。

七時半起床。新聞を読む。渡辺豊和氏よりおあずかりしている「建築への伝言」を再び読み直したのだが、渡辺さんは時折激情にかられて物を言ってる部分があり、その部分は少し修正しないとまずいだろう。叫びにも似た言及の部分のほとんどを私は好むが、アト 10 年経った時には、この部分は完全に風化してしまうのは眼に視えている。この点を電話で指摘したのだが手紙にして送る事とする。

関西で今渡辺豊和氏がどんな状態にあるのか私は眼で見て、耳で聴いてはいない。関東、つまり東京ではどうか。今、渡辺豊和氏を大半の若者は知らないだろう。知らせたいと思うね。こんな面白いモノ。渡辺豊和さんの建築作品については今は書かない。しかし私は彼の書く物を最大限に評価している。彼の著作を、特にあの歴史物を読んだ人には不可思議かも知れぬが、私は渡辺豊和の歴史物の著作を面白いと考えている。実証性は私だって疑問を感じる。しかし、フィクションとしてはとても面白い。渡辺豊和の想像力と実物の歴史とが織りなすしかけが実に現代的であるように思うのだ。

私が渡辺豊和氏に、特にその書物に関心を持ち続けるのはそんな考えからである。

R218
一月二十八日

十一時、「アニミズム紀行1」の残部 95 を知り、世田谷村を発つ。十一時半研究室。「絶版書房アニミズム紀行1」にドローイングを入れるWORK。十四時雑打ち合わせ。アベル、チリ計画打ち合わせ。突然、早大学院のOB先輩のI氏より連絡入る。未知の方である。「なんで早稲田は建築学科の先生が大学や付属校の建物設計しないんだ。たるんどる」と叱られる。返す言葉もない。マア、この件についてはOBと 共に本格的に考えなくてはならぬだろうし、昔のように学科の先生と本部がつまらぬイガミ合をしている時代でもあるまい。私だって出身校への愛情は人並み以上にある。そこにDNAの一かけらでも残したいと思うのは自然な事だ。じっくり考えを巡らしたい。集金能力や銀行融資の関係だけで設計者・施工者が自動的に決定されるのは、どうかなと思う。母校愛というのは何よりも貴重だぞ。まだ命がけになるまでの事ではあるまいが、腹は据えなくてはならぬかも知れない。

電話の一騒動修了後再び「アニミズム紀行1」にドローイングを入れるWORK。このWORKは集中しないとできないのでヘトヘトになる。十七時半修了。研究室を発ち、世田谷村へ。

帰りの道すがら、「絶版書房」でやりたかった事の条件が整って来た事を感じ、道々、車中、ズーッと考え続け遂に結論に達した。

今日から、ポツリポツンと「アニミズム紀行1」を読んでいただいた方からメールやらが届き始めた。私はメール族ではないので、メール交信はするつもりもないが、交信、らしきは実は好きだ。

絶版書房を巡る交信を、再編集して、もう一つの交信空間を作り出してみようと考えた。私は「アニミズム紀行」シリーズをネット社会に投げ出した。受け取ってくださる読者の始まりは二〇〇名、この数なら、充分に交信が可能だ。メール友達というのは私の趣味ではない。でも、交信自体をマテリアルにした交信フィールドの構築は可能だろう。十九時半夕食を終え、考えを辿り着かせたところまで、先ずは、絶版書房便り、改め、絶版書房通信に書き記しておく。

二十三時、一気に「交信」1,2を書き終える。当然、荒っぽい物だが上手くゆくかも知れない。一週間先くらいが大事だ。

一月二十九日

三時半に起き出して「空跳ぶ三輪車・アポロ十三号」のアニミズム紀行2に再び手を入れる。ようやく昨日、全体らしきが、つまり交信フィールドをデザインするという事を始めたので、異様に気持ちが高揚してしまったのだ。高揚するという事は、まだまだ自分は生きているって事。八時前再起床、驚くほどのメモの総量である。絶版書房交信1を読まれたし

十一時研究室。雑用。アトリエ海に図面送附。アニミズム周辺紀行1は残部 84 冊となった。動き始めたようだ。二号の大方も視えてきた。馬場昭道氏よりブラジルのT氏他と連絡とれたの報。

R217
一月二十八日

昨日は雑用に明け暮れた。面白くもなんともないから、記さぬ。この日記は当然読者の存在を前提としている。別に嘘を書いて面白がってもらう必要は全くないが、妙なもので、実ワ一日一日の総ヒット数、どの項目を何人の方が読んでいるのかは、簡単に知る事ができる。ヒット数が減ると、オヤどうしたんだろう、と変な気持になったりもする。で、それなりの工夫をしたりもするのだ。

面白いもので、ただただ一方的に私的なメモを公開しているのだが、十数年もやっていると、完全にこれは表現行為になってしまっている。何しろ、メモを露出したいという変な趣味、趣向が私にはある。それが、どんどん自覚されてゆく。毎日。実はあらゆる生活者にそれは共通しているというのが、私の考えの根底にあるが、そこ迄言うには七面倒臭い手続きが必要なのだ。

八時前起床なんて事を書いて意味あるのかなと、度々フと思ったりもする。それに長く旅をしたりすると、世田谷村に私が不在なのを知らせるも同然であるから、ある意味では危いところもあるのだ。家への、電話セールスだって異常な数があって、それが家人を悩ませていたり、の現実もある。今は「絶版書房」アニミズム周辺紀行シリーズの予約数に敏感になっている。昨日で残りが 99 冊になっていて、予告では残部二〇冊になったら値段を上げると宣言しているので、どうやらその数には辿り着きそうで、その対策も講じなければならない。と言っても、一体どうやって上げれば良いのかの知恵は実は無いのだ。ただ値上げしたって、面白くもなんともないし、ただただ今はあと 70 冊買っていただいたら、残り二〇冊には何か工夫をこらすぞという楽しみはある。

広島の木本一之氏から書評のFAXいただく。絶版書房便りに掲示しようと考えるも、少し好意的な文面で、八百長だと思われかねぬので、お礼のFAXと同時に、チョッと書き直してくれ、との生意気も伝えた。朝方、失礼にならぬ位の時間になって仕事の電話他を四、五本入れた。日記文を書く方が自然体で、電話は電話なりに緊張する事だなと、自覚する。

二階の板の間の、暖房カーペットにあぐらをかいて、外の梅の花を眺めている。今年は梅の花が早い。梅の花の上だけ眺めるのももう慣れてしまったが、梅の樹はやっぱり黒々とした幹があって初めて花の咲く、浮いた感じが出るんだナアと思う。樹や、花の形や香りも、土との接点があってようやく成立している。梅の花は土から水分のみならず、様々を吸収し続けて花になってるんだから。

R216
一月二十六日

十八時過近江屋から世田谷村に戻る途中、何と京王線の電車の中で旧友カメラマンの藤塚光政にバッタリ会う。短い時間をおしゃべりしている内に、当然、オイ何処かで三〇分程やってくかという事になり、烏山で降りてチョッと一服ヤルベーという事になった。月曜日は宗柳は休みなので彼の知ってるソバ屋にしようという事になった。それで烏山の初めてのソバ屋に行く。名は忘れた。品の良い店であった。

二〇時前迄、結局一時間程、藤塚と飲んだ。幸福な一時間であった。藤塚光政は当代一の建築、室内を撮る写真家である。なにしろ、この男は人柄が良い。山本夏彦のお墨付きであった位に良い。人柄がカメラを持っているようなものだ。人柄が良いからセンスも当然良い。二川幸夫のズドーンと音のするような写真はとらないが、小マタの切れ上がった、コノー、いい女だねという如くの写真をとってきた。

旧い友人であるから、当然心配もしていた。「お前、最近好きな事やってるの」の心配だ。小マタが切れ上がってスマートな奴は、当然小廻りが効き過ぎる。時代を抜ける事が出来ない。で、それを尋ねた。藤塚は、これ又、旧友であった故毛綱モン太の盟友でもあった。私の視るところ晩年の毛綱は、とり巻きに寛容過ぎた。どうでもイイようにチヤホヤされ過ぎていた。それを切れなかった。藤塚もとり巻いていた一人ではあったが、全くバカな計算が無かった。他とちがった。藤塚の写真と毛綱の最良のモノは本当は全く相性が良い筈はなかったのだが、双方共、その基本を知るのを避けた。そういう甘さがあった。だって藤塚は俗に言う、シティボーイの趣味の良さがあったが、毛綱の本質はそんなモンでは無かったのだ。

マア、時代は巡って、毛綱は死んでしまった。藤塚は生き残っている。これからが藤塚の勝負なんだな本当は。テーストの良さ、しかも時代にくるまれたそれが何処まで届くのかの問題が、彼の前に立ちふさがっている。

写真家として生きる形式について考えてみる。編集も、写真家も酷似しているのは、素材が無ければ生きていけないという事だ。大きくて強い奴程、その宿命から自由になろうとあがく。二川幸夫はそれで本能的に日本の民家をやった。今でも、アレは凄い仕事だった。アレをやったというだけで、二川幸夫は他を圧倒する。今のところ、世界の民家の断片はまだ結晶以前の状態である。キチンとして貰いたい。時に二川からはバトウされるから、言い返しているのではない。本当に、キチンとしてくれと言いたい。

で藤塚だが、好きな事をやってくれそれで金をかせいでくれと言いたい。藤塚はまだ本当に好きな事をやっていないという直観が私にはある。あのテーストを生かさずに、結晶させぬままでは、あまりにも勿体ないよ。本当に。凄い才を持っているんだから。何で人間とらないのかな。

一月二十七日

八時起床。昨日のメモに手を入れる。どうも酔って書いたモノはやっぱり、良くない過剰があり、他人を傷つけてしまいかねない。それは本意ではないから、書き直す事が多いのだ。

でも藤塚光政も今年 70 才になると言うのだから、彼に人間とらせようなんてプロデューサーは何故出現しないのだろう。凄いモノとるよ彼は。本当は建築とるより、向いている筈だ。くどくどしいけれど、アノ人柄だ、子供の生活、老人の生活なんてとらせたら抜群だろうと思う。昔、山本夏彦の「室内」で彼とは十年程、現代の職人のシリーズを協働した。とる対象がほとんどカメラを意識しない気にしない、彼は存在になる事ができて、私は取材の相手を緊張させる計りなのであったのを思い出す。あの巨大な才はまだ充分に生かされてはいない様に思う。

十時発高田馬場へ。朝、チリ建国 200 年祭の件で、二本電話するも空振り。そんなに物事は簡単ではない。

R215
一月二十四日

アベルとの打合わせ十七時了。ラテン・アメリカの典型的人間と私とでは、モノの考え方のタイトさが少し計り違う。彼等はどんなシリアスな状態に会っても、何となくノホホンとしている。何とかせねばならぬとは決して考えようとしない。チリ建国二百年のプロジェクトもテーマはデッカイのだが、出る金は小さい。アトはやる人が金を集めなさいという感じである。やりたい事はデッカクあるが、何しろ金が無い。当然どうしようコレと思う。アベルにも、コレは大変だぜ、君、今度は性根入れて頑張らなくてはな、と言っても、しゃかりきに頑張るという気持はラテンにはほぼ無い、あんまり頑張ろうななんて叫ぶと、疲れたからやりたくないなんて、平気で言うからなあ。

で、マア、一週間に二度は何をやるか、やったかの打合わせだけはやろうなと、それだけ決めた。あんまり突進するとラテンは疲れたと、後を向くのだ。もう、コチラは突進専門だから、ライフスタイル自体がまるで異なる。しかし、私としても、ライフスタイルとしては日本も、これからはラテンだろうな、頑張らない、適当にその日その日を生きていけば、それで良いというのが良いのは、頭では知っている。いささか、遅ればせながら、身体もそれなりに老いてきて、そうなろうとはしている。が、それが情ないゼと自分を責める自分も確実に居るのだ。どっちも自分である。

帰りがけに、そうだ夕刊に私の世田谷村生活の取材記事が発刊だなと、毎日新聞夕刊を買った。バカでかく紙面を占有していた。ギョッとする。「壁無し建築、北風にくじけず」の大見出しであった。良い記事なんではあるが、これで又、当分、普通の人間の家の依頼は、完全にシャットアウトだなと、でもその通りで逆に小気味も良い。金は無くても品格のある人を依頼者としては選びたい。ひろしまハウスのことも書いてくれていた。宮古島の計画も紹介してあった。これは有難い。

十八時世田谷村に空腹の中に戻るも、ネコだけ居たので、近くのソバ屋宗柳に出掛けて前夕食。しょうちゅうを飲んでいたら、オカミさんにゴハン喰べなさいと言われて、遂にメシも喰ってしまった。全く、男は辛いよ。家に帰って又、メシ喰うのだから、本当に仲々世間は渡りにくい。十九時前再び世田谷村に戻る。ミートソースをメシにぶっかけて再夕食。

二〇時よりNHKTVで福建省客家住宅(土楼)を放映していたので、本気になってTVを視た。アナウンサーが民放のレポーターみたいな軽さで難があったが、他は良かった。客家というのは、よそから来た人々という意らしい。日本を含む海賊和冦に対する防御の為にこの土楼の形が産み出されたと言う。壁厚一・五米らしい。又、壁作りの泥コンクリート、竹筋の製作実験迄やってのけていた。この土楼には訪れてみたい。

宮古島の計画に、遠くからこの客家は影響を与えているなと実感する。

一月二十五日

昨夜、絶版書房の第二回配本「空飛ぶ三輪車・アポロ 13 号」の原稿2本及び渡辺君のナーリさんロングインタビューの校正をする。全てに目を通した。今朝八時から十時迄、再びインタビュー部に少し手を入れる。読み込んでゆくと実に面白いインタビューである。余りにも面白いのでナーリさん渡辺のやりとりに対してコメントをつけ加える事にした。意外に手間取り十六時修了する。

十八時前大相撲横綱決戦を視て、何となくシナリオ通りの如くの気がするなの印象を持ちながら、夕食をとる。麻生太郎首相が、支持率UPの為に大相撲の会に出ていたのが、いささか辛い感じであった。ここまで何の自覚も無い国民らしきにコビを売らなければ、権力を維持できないのか。

二〇時、何となく、全てイヤになって、今日は死のうと決してもう眠る事に決めた。しかし、眠れるわけもなく、これからが、言ってみれば本当の試合であり、練習なんだな。

一月二十六日

十時研究室。K社長来室。北海道音更の「水の神殿」計画の打合わせ。仙台の「アトリエ海」佐々木氏の参入の可能性に関して了解を得る。十一時過、絶版書房アニミズム紀行2の打合わせ。週末に予約申し込みが入り、現在九〇冊程が予約されている。二号発刊の二月中旬迄に二〇〇部には届くだろう。二千五百円は仲々若い人(学生)には酷な額だろうが、私だって申し訳ないねと思いながら一冊一冊にドローイングを描き込んでいるのです。本当に二〇〇冊しか刷りません。第二号の表紙デザインをやり直す事にした。又、本体のレイアウトも少し規準を設定しなければと相談。「アニミズム紀行2」は発行部数を三〇〇冊とする事を決定した。

この限定手渡し本の読み方に関して、研究室スタッフにも説明していなかったので、るる説明を始めた。この説明は毎日の小レクチャーになるなと考えたので、「絶版書房の読み方」として絶版書房便りに少しづつ書き進める事にした。「アニミズム紀行」は、「読み方」とリンクして読んで下さると、解りやすいかも知れない。

十四時過研究室発。

R214
一月二十三日

十一時半世田谷村発。京王線車中は老人ばかりだ。若い人は皆朝に動いてしまうから、昼時の街は老人の影が多い。皆、複雑な影を出している。

十二時半研究室。「絶版書房、アニミズム紀行1」にドローイング入れる作業。十四時半迄十五冊に入れてクタクタになる。イヤハヤ、えらい事始めてしまったな、コレワ。でも言ってしまったんだから、やるしかないのである。十五点やっている間に自然に描いているモノが変化してくるのが我ながら面白い。送り出しが始まった絶版書房の書籍用封筒にも一つづつサインを入れた。一冊一冊が私の作品なんだから当り前である。

十五時三年製図の採点。入江先生、加藤先生と。十七時半了。研究室に戻り、GAプロジェクトの模型他チェックする。 今度のGAハウス展に出展する作品は我ながら面白いと思う。見て欲しいね。

十九時世田谷村に戻る。GAハウス展の原稿実に情けない程の短文を書く。GAは読む物が少ないのが実に良くない。マア、そのぶんは私は私のネットで補足したいとは思うが。今は、実ワ、あらゆるメディアは視覚重視から知覚重視へと移行すべきだと思うが。特にGAみたいな高度専門領域メディアは知覚重視へと動くべきだ。グローバルである事はすでにIT社会では何のアイデンティティーにもならない。大方の世界の情報はコンピューターで得られるから。

コラムの名人であった山本夏彦さんから、何でも短文で書けなくては駄目だと教えられた。長く山本夏彦さんを文章の師としていたものだから、いつの間にか頭の持久力が退化してしまった。5枚位の原稿紙量で書く事に慣れて長い文章が書けなくなってしまった。器用じゃないんだ頭が。

それで、不断に長い文章を書きたい、と本能的に世田谷村日記を書き始めたのではないかと・・・思う。十年以上も昔の事。そうしたら、今度は長く書かないと、うまく言えなくなってしまった。厄介なものだな、交信技術というものは。絶版書房の刊行開始も、可能ならば絶命する迄は続けるつもりで、それで絶版というのが、一番見事だろうと考えての事ではある。

一月二十四日

七時過起床。少し計りのメモを記す。早朝に日記その他のメモ類をいつの間にやら記すような習慣になった。八時半、絶版書房、アニミズム紀行3「ひろしまハウス」を書く。ひろしまハウス(プノンペン)では二月に安西直紀が展覧会を開催する事になり、昨日広島(K氏)の了解も得たので、彼にとっても良い試練になるだろう。勿論私にとっても。万全の準備体制を作り上げてみよう。

十一時研究室、絶版書房第一回配本分の十冊にドローイングを描き込む。自信がついてきたので彩色は止めて、墨一色。十二時過新建築H氏等来室。JA世田谷村の件。基本的には新建築とは没交流を決めていたが、ワザワザあいさつに見えたので、そこ迄意固地を張る程ガキではない。私の写真で良ければ、いいですよという事になった。それの方が面白いかも知れない。十四時了。再び絶版書房の本にドローイングを描く作業に入る。十五時過、十冊の本にドローイングを入れて、一息つく。これで予約をいただいた物には大体ドローイングを入れ終わった。一冊一冊に手書き本の趣きが加わり、仲々良い。

アベルとチリプロジェクトの打合わせに入る。

R213
一月二十二日

十三時過研究室。GAプロジェクト、チェック、打合わせ。面白い物が出来た。しかし、キチンと伝えないと解らないだろう。GAレクチャーが企画されているようだが、やるんだったらキチンとやりたい。今度のプロジェクトであれば、フィリップ・ジョンソンのガラスの家、くらいから説きおこさなくては。ガラスの家は、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸の二流品ではなくって、新しい可能性を持っていたという事から。十六時雑事で外出。十九時近江屋で野村と食事。二十一時前世田谷村に戻る。

一月二十三日

何と九時起床。世田谷村は天気と共にあるので、このところのハッキリしない曇天冷気をまともに受けて、時間の動き、つまり太陽の陽光の変化が内部に反映されず、それで空気が停滞してしまっているのだろう。

H氏から、そろそろ畑をやっていると告げられ、あんまり気も向かないけれど、H氏がやっているのなら、自分もそろそろ苗でも植えてみようかと考えていた。H氏は七十四才、今年になって母上を失くした。長い間自宅介護を続けてこられたが、亡くなる直前に近くの介護施設に母上を移された。色々な悲しみがあって、それをまぎらわす為の畑いじりではないかと、前から考えていた。

H氏は老母の介護、その他でいまだに働き続けているが、家人との生活を優先している方だ。私とは正反対の価値観の所有者である。この方の人生は私には真似が出来ないが、知れば知る程に興味深いのだ。いつも文庫本を手放さず、時間のある時はいつも何かを読んでいる。長女が旅行に行って帰ってきた時などは、その旅の話しを詳細に話すように頼むそうだ。何故ならば、他人の旅の話しから、そこに旅をしている気持ちになれるからだと言う。その話しを聞いて、私はH氏を視る眼がガラリと変化した。H氏の人生というか、生活の中にあるとても大事な核を理解できねば、これからの「生」を楽しむ事はできないと直観したのである。

私の畑作りよりも、H氏の畑作り、とは言ってもお互いに共に猫の額程度のものなんだが、H氏の畑作りの方が生きるに、密着しているなと思えた。

マア、かくの如くにすぐに比較したがるところが、私の悪いところ、ではなくって特色なのだ。H氏の畑はH氏の畑、私の畑は私の畑なのである。しかし、H氏の教え通りに、今年は種まきは極度に少なくして、苗植えに切り換えてみよう。種から芽が吹き出るのを眺める感動も確かにあるのだけれど、それは頭で考えた感動、つまり原理的な物への傾斜が過ぎるのである。H氏の畑は今、菜の花畑になっていると言う。今度の日曜日は畑に手をつけてみよう。

庭の梅の木が二分咲きで、その樹上だけが眼に入っている。世田谷村の主階は地上5mなので、一切の土が眼に入らない。だから、自分の考えも浮いてフワフワしているのかなとも思わぬでもない。高層マンションに暮している人間と地上で暮している人間とでは常に視ている物が違うので、多分考えている事も違いが発生しているのかも知れない。

R212
一月二十一日

十一時半研究室。15 冊の「アミニズム周辺紀行1」にドローイングを入れる。昨日も 20 冊に入れて、同じテーマで描いているが、ソロソロ、自分でアキてきた。36 冊目からは別のテーマで描いてみよう。これは大変な作業である。でも、二百冊やり通す。

十三時渡辺仁史研の博士論文審査、若干気がついた事を述べる。十四時半アベル、打合わせ。チリ建国二百年祭のプロジェクトが正式にチリ政府から認められた。チリの国家プロジェクトなのでキチンと対応しなくてはならぬ。予算がだいぶんけずられたので、チリに関連する企業各社他の支援をいただかなくてはならない。現実は厳しいが、灯りはついている。

十五時半学科小会議室。稲門建築会会長村松氏と雑談、相談。十六時半稲門建築会評議会。十七時半了。神田へ向けて発つ。朝から飯を喰っていないので少々力が入らない。十八時過ぎ神田、宮崎料理屋・岩戸。スポーツニッポンS氏、毎日新聞H氏、真栄寺馬場氏と新年会。宮崎の藤野忠利氏は欠席であった。藤野ア子さんの展覧会への支援を要請される。当然自発的に協力したい。

藤野ア子展

 二〇〇九年二月九日〜二月二八日、東邦画廊

 二〇〇九年二月九日〜二月二一日、西湘画廊

 東邦画廊 東京都中央区京橋 3-9-2 宝国ビル 2F

連絡先 Tel 03-3562-6054 Fax 03-3562-5974

藤野ア子さんは藤野忠利の娘。幼少の時から天才少女と騒がれた。オヤジが具体派の最若年画家で、ア子さんを天才だと信じ込んだのが、彼女の人生を楽しくもあり、辛いものにもした。

だからア子さんは父親に作られる事から、自由になりたかったのだ。父親の藤野忠利は典型的な具体バカ、あるいは六〇年代バカの代表である。気の向くママに製作し、気の向くママにそれをメールアートしてくる。お陰でウチは藤野作品、藤野さんのゴミで一杯だ。この芸術家の一大長所は、「もう送らんでくれ」とお願いしても、そんな事には一切構わずノンストップで送り続けるという事で、一時期世田谷村の西の壁は彼のメールアート作品で埋め尽くされたことさえある。私は彼のドレイの如くになり、せっせとそれを展示した。

ある日、私は芸術の現実にガク然とした。宅急便の配達の方から、「お宅の壁の荷札は・・・・」という言に出会ったからだ。そうか、藤野アートは一般的には荷札か、と知ったのだ。でも不思議に愉快であった。

ア子さんの展覧会のパンフレット、カタログに私も、友人なので、一筆書かせていただいた。そしたら、その御礼の意味であろう多分ア子さんの小品が一点送られてきた。

ア子さんは、類まれなる色彩画家で実ワある。しかし、以前の絵は単に明るい輝やき、だけが目立つモノでしか無かった。私のところに送り届けられたモノには、それとは違う世界があった。ある種の寂寥感が横溢しているのである。

私はア子さんは、ようやく画家になっているなと実感した。

色の中に、不安の闇があって、それが実に眺め入る者に勇気を与えてくれるのだ。

それを見ていただければ幸いである。

と、偉そうに、お願いする。

今夜の会食は馬場昭道の宮崎日日新聞連載一〇七回完結のお祝いの会でもあった。一〇七回の連載とは良くやった。毎日だからなあ。私のドローイングも何点か連載に花をそえている。お役に立って良かった。

二〇時修了。二十一時世田谷村に戻る。永雨が降ってきた。

一月二十二日

九時前起床。寒くて床を離れられない。十時メモを記し終える。H記者の「ガンを生きる」毎日新聞の記事を読む。昨日話しを聞くまで、この記事を集中して読んだ事が無かった。H記者は私の友人佐藤健のガンとの闘いにズーッとジャーナリストとして立ち会った人物である。生きる者の記録として、それは残された。以来彼はガンと闘う人間にみいられたようだ。人間の運命を感じる。

署名記事の記者と記事の関係にも実ワ深いドラマがある。H氏の書いたシリーズは今の時代に当を得たもので立派なものであるが、何か光に欠けているような気もする。こんな事を簡単に書くとH記者は怒るだろうが、宗教家がつまり寺院がその光を死との対面者に与えられない現実があり、こういう記事は眼を喰い入らせるように救いを求めて読む人もきっと少なくはないだろう。昨日も、私は氏に十年後の日本は老病死が中心に居座った国になるだろうなと言ったら、氏は十年後じゃない。数年だと言っていた。その自覚があるのなら、事実の向こうにあるに違いない光を書くべきではないか。

どうやら、その光(希望)は宗教家によるものでは無さそうだ。仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、それぞれの生誕時にはそれは光であったが、今はそこに光を視る事は出来ない。

むしろ、社会学、コミュニケーション技術、科学システムの中にそれを見出さねばならぬ時ではないか。メディアの役割は、特にかくの如きを取り扱う時には、そんな視点も必要なのではなかろうか。特に新聞メディアはそうだろう。

R211
一月二十一日

昨日というか、今早朝二時頃に米国第 44 代大統領オバマが就任した。噂の演説を聞こうと、私もノコノコ起き出してTVに視入った。午後に絶版書房第一回配本の二〇〇冊が出来上がってきて、向風学校の安西直紀と相談していたのだが、二〇冊程に毛筆と色鉛筆でドローイングを描いた。二〇冊にはネパールの「キルティプール計画」を描いた。かなり集中してやったので疲れたが、紀行の旅の出発でもあり、大変に嬉しく、ドローイングも明るい勢いのあるものになった。

読者(交信者)の皆さんも、このドローイングも又、旅の始まりだと頭に筋径を立てていただきたい。

色々と注文多い本屋さんなのです、絶版書房は。

安西直紀が「ひろしまハウス」に行くというので、二階の一室で一週間程、展覧会をやったらどうかと提案する。広島の皆さんも応援してやって下さい。

眠い眼をこすって、メモを記しているが、オバマ大統領の就任式をTVで視て、あーあ、日本の政治家とはまるで異る人種だなと痛感した。

日本の政治家達は米国のそれと比較して、やはり「神」に宣誓したり、「神」に祈ったりが、全く無い(形式としても)のがその存在自体を「形」のない物にしている最大の原因ではないか。彼らはいざとなると神の前に自分を対面させるからなあ。日本の根本は仏教的諦念であり、それは政治家の形にも表われてしまい、要するにイズムをいみきらう骨格が丸見えになってしまうのだ。しかし、政治家はやっぱり骨格らしきが見えないと、どうしょうも無く物足りないどころか、キチンと彼等と交渉事さえも出来ないのではないかと、そんな事を感じてしまった。集団の骨格が政治の理念とでも言うべきものだろう。

ともあれ、昨日は絶版書房、アニミズムの旅の旅立ちと黒人大統領の米国大統領就任が重なり、まことにお目出たい。と、大きなホラを吹き上げる。ホラは希望の一変種です。十時過世田谷村発。大学へ。

R210
一月十九日

九時過起床。中谷礼仁氏から送られてきた、「グラウンド・ツアー」の5部作、少しはやとちりしてグラウンド・ツアーをグランド・ツアーと間違って入ったものだから、いささか誤読ではなくて、入口ゲートでつまづいた感あり。私の方の一方的なミスである。私の絶版書房がアニミズムを入口とするに比して、藤森、中谷はマテリアルに関する想像力をメディアの主題として拾っているようだ。ゆっくり検討して感想を記したい。

美や機能を超えてゆく社会的概念は、好み、親近感、愛情というしかない。それを発展させると交信となる。その方向をアニミズムと少し解りやすく硬く言っているのだが、今年中にはもう少し明らかにしたい。イズムというのが、ズレているのだが、それは意識されていて、それ故にアニミズム周辺紀行としている。旅は始まったばかりである。先は長い。

十三時過研究室雑用。GAのプロジェクト、チェック。少し高度な事やり過ぎているぞコレワ。誰もわかんねえんじゃネェかコレワ。もういいんだ、誰もわかんなくてもイイもう。二〇時過世田谷村に戻る。ここのところ、体調、気分共にすぐれず研究室には迷惑かけているのを自覚している。明日ゆっくり休んで、気力を取り戻すか、休まず研究室に出るかを迷う位だ。歳のせいではない、自分自身の資質の問題であろう。

絶版書房は未来への旅行記のスタイルをとらせようとしている。明日、一号が出来上がる。非常に楽しみにしている。

一.アニミズム周辺紀行、地理は韓国。人間は母が主役である。紀行の形をとってはいるが、これはある仮想のフィールドの設計を意図している。言説と、ドローイングによるフィールド、願わくばそれを伽藍と呼びたいのだが、その形式の設計を目指してゆく。あんまり建築、建築では八方ふさがりになっちまうだろうから、6号くらい迄は可能な限りそれから自由になりたい。

二.は、空飛ぶ三輪車・アポロ 13 号、地理はプノンペン・ウナロム寺院、人間は小笠原成光。原始から続いている「制作」そのモノへのテーストを考えてみる。全ての入稿、及びドローイング作業は終了しているので、二月中旬には出せる。これは我ながら面白いと思っている。

三.は「ひろしまハウス」場所はプノンペン。人間はレンガ積みの鈴木さん。三号は交信手段を文と絵にプラスするにコンピューターの映像を現地(ひろしまハウス)で撮影したので、それを附け加える予定である。

一月二〇日

七時過起床。

絶版書房、交信予定。

四号は今、設計中の「水の神殿」北海道・音更。

五号は、石山研・ワイマール(バウハウス)での展覧会。ワイマール。

六号は、東北一ノ関。ベイシイ、「音の神殿」。

七号は、たまプラーザ、ライフコミューンの山口勝弘の部屋と不動明王。

八号は、猪苗代鬼沼、「時の谷」、時間と物体。

九号は、「時の谷」時の倉庫での儀式(演劇)デザイン。

十号は、「小さな畑」の可能性。

十一号は「朝食」の力。

十二号は「家」の力。

を予定している。具体的な「絶版書房」との交信者の皆さん(読者)には、色々と御意見もいただき、このプランを修正、修理、修繕してゆきたいと考えている。

勿論、十二号で終りではない。この交信活動は旅の形をとる事でもあり、支持がある限りはエンドレスに行なう気持である。

R209
一月十八日 日曜日

九時前起床。昨日のメモを記す。昨日は十三時研究室で仙台の「アトリエ海」の佐々木君吉氏にお目にかかる。 佐々木君吉氏は私の東北での建築の仕事の現場のとりまとめ役を全て仕切って下さった、言ってみれば協働者であった。熊谷組から独立して製作会社を設立した。本当に義理堅い人物で、昨日はワザワザ、あいさつだけに見えた。人間義理堅さは大事だ。

アトリエ海は、難しい与件を解決するに極めて有能である。伊東豊雄氏の仙台メディア・テークも佐々木さんの力が無ければどうだったか解らない。私のリアス・アーク美術館、松島魚市場、鳴子早稲田桟敷湯、全て佐々木氏の、つまり今のアトリエ海の力があって実現した。氏は造船技術を建築に導入する事の名人であり、私の見るところ、フランスのJ・プルーベの精神を今に引き継ぐ大人材なのである。

これからも度々、ご紹介するであろうが、今、「アトリエ海」は自らの実験工場を作り、建築の新しい作り方に、堂々と挑戦し始めようとしているのである。建築、住宅の作り方が殆ど議論されぬ現状に、アトリエ海の活動は一石を投じるであろう。又、そう望む。

余りにも唐突な、提案の如くであるが、例えば「箱の家」シリーズのそして無印住宅の建築家、難波和彦氏がアトリエ海の佐々木氏の経験から生み出されるヴィジョンと出会っていたならば、少なくとも、今の建築には見られぬ様相が出現するのではなかろうか。と言うような事を切実に考えるのである。難波和彦氏も私と同様に、ネット上でのメモ、考えを公表している。最近印象的であったのは、旧友大野勝彦氏を工業化住宅に関して、唯一、成果をあげ得た建築家であると明言した事である。大野勝彦氏は今体調を崩して休養中であるが、セキスイハイム、オリジナルの企画、設計者である。難波氏の箱の家、さらには無印良品印の商品化住宅と極めて近い存在なのである。

今、若い建築家達の抱く「社会性」そのものへのイメージ(内的構想力)の崩落状態は驚くべきものである。これを論じても全く意味も無い事であるから、しないが、そんな現実を見ているからこそ、ここで、こういう事を言うのである。住宅のみならず、建築一般をくるみ込む社会に対する本格的な論議が一向に湧いて出てこない。その場も無い。今ある大半は大量消費社会を前提として、その内でいかに楽して泳ぐかの類の傾向であり、その傾向を生み出す思考の群である。あるいは、もっと言えば何も考えようとしない痴呆的停滞の群である。

私がネット上で、難波的思考とアトリエ海の実践とを出会わせたいとの意を表明するのは、大野勝彦休養以降ほとんど氏だけが、ある一定のスケール(生産量、流通量)=枠イメージを持って、行動し、思考していると考えるからだ。難波氏の思考は極めて論理的である。ただし、建築世界の内で。その論理は、自然な事ではあるが、大野的生産の論理から色濃く消費の論理へと移行している。

少しはしょるが、工業化住宅は近未来、社会の主題ではあり得ない。少なくとも、社会を、都市を、建築の未来を考えようとする人間にとっては、それはすでに主題ではあり得ない。住宅の工業化は必要一定限程度はすでに達成されている。これ以上の市場のシェアーに有為な人材がエネルギーを割くのは、それこそ思考総体のエネルギー保存の法則から言えば、年を経た知性=難波先生の如き知性は、その枠の外にある可能性をも探るべき時なのではあるまいか。

難波氏の試行、私的工業化とでも言うべきものだこれは。もっと明確に表現するならば、小規模なある種の限定を目指す、もの作り体制だろうが、体制=システムと呼べる事は氏だけが、今、住宅デザイン界ではなし得ている。その重要さを認めた上で、もう一つの径を探るべきなのではあるまいか。 じゃ、お前やれと言われる人も居るかも知れない。前半生では私も、そのような事を考え、主張し、行動してきたからだが、今はそれをやり続けるのは合理的ではない、生の時間割から考えるならば。

難波スタイルとアトリエ海スタイル、それは共に少量多品種へのヴィジョン拡張の可能性がある。又、アトリエ海は私のセルフビルド論をゆるやかに拡大している存在でもあるから、私の考え方のバランスのとれた継投者でもある。であるから、私は難波思考とアトリエ海の創作工場の協同を夢見るのである。

日記がどんどん日記ではなくなっているのを自覚している。別に他人に託して、逃走しようというのではない。これから先何をするかを考えていて、次第にそれが絞られているに過ぎない。もう昼時である。少し休もう。

ベーシーの菅原正二としばらくFAXでやり取り。十五時になる。

R208
一月十六日

十二時過発。西調布へ。研究室OBの光嶋裕介君よりいただいた「CB08」ドローイング絵巻に眺め入る。建築する事自体が困難な時代に、こういうドローイング絵巻を公表するのが、どんな意味を持つのか、まだ私には良く解らないのだけれど、何かやらねばいたたまれぬ、という気持ちは良く伝わってくる。このドローイングは、自動記述的でエンドレスなところが特色だ。目的地も無く歩くが如きである。漫画的であるのも特色かな。奥行きがなく、ズルズルと続く日常の如きが描かれているとも考えられる。関心のある人は光嶋裕介君にコミットしたら良い。連絡先は、www.ykas.jp これだけのドローイングだ。入手するには、何がしかの対価を喜捨するのがエチケットだろう。

研究室を巣立って、何がしかの人間が世界へ出た。光嶋君もその一人だ。このようなドローイングを描き続けている、という事実は彼が三〇才になり、建築へのゲートに立ち、当然ながら悲観の海に沈んではいないことの証になっている。その志や良し。しかしながら、Connected Borders 2008 Tokyo と名付けられたドローイングは、いつどの様に切断して、つまり中止して、次に踏み出すのかが一番の主題になってもいる。この逆説が又、とても現代的とも言える。

西調布で鎌田遵君から「ネイティブ・アメリカン - 先住民社会の現在」岩波新書をいただく。鎌田遵は一九七二年生まれ、アメリカ先住民問題を中心にして、研究、執筆活動を精力的に開始している人物だ。アメリカの深い闇に光を当て始めている。専門がアメリカ研究、都市計画学であるので、いずれ何か一緒に出来ればいいなと目星をつけている、これは本格的に若い世代の若者である。日本にもアイヌ民族という先住民が歴然として居るわけだが、アメリカはより大きなスケールで、しかもUSA(合衆国)のアイデンティティを揺るがしかねぬ原理性を帯びた問題として存在している。鎌田君の視線は常に弱者として、追いやられた側に立つという強さを持っていて、これは今の私にはすでに失われてしまったものでもある。若い時には、それでは持っていたのかと、問われれば、チョッとはねと言うしか無いのだが。

そんな懐旧の情はとも角、この書き手には注目している。テーマはとも角、視点のベースに揺らぎが無いしこれからも無いであろうから。この書物に関しては、日記の枠では触れられぬので、書評の形で書いてみたい。中上健次が生きていれば深い関心を寄せたであろうから、柄谷行人さんに送って読んでもらったらいいのにね。アメリカは決してフラットではないのだ。例え合衆国人口の 0.9 %の少数民族であっても。その闇は深い。十八時、新大久保のタイ料理屋クンメーにて研究室OBのホセ・太郎に会い会食。彼も若い世代の人材である。メキシコ・シティで活動中で映像と建築の二足のわらじをはいて、ラテンアメリカを拠点に頑張り始めている。今の日本の若者にはあまり無い、真っ当なエネルギーと情熱の持主である。もしかしたら本当の日本の国際化は彼等によって、始められるのではないかと期待もしたい位だ。二十一時過世田谷村に戻る。

一月十七日

八時起床。ここしばらくのメモを記し、食卓に何故か転がっていた、香山リカの「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」を流し読み。こういう人はいつもメディアに漂流していないと、安心できないのだろうか。絶版書房とは遠い人だ。ミース・ファン・デル・ローエの建築を考え進めてゆくと、どうしたって、バウハウスの歴史に辿り着いてしまう。アドルフ・ヒットラーの愛したワイマールのエレファントホテルのバルコニーそして、その前の広場に辿り着く。ヒトラーがそこで演説するのを好んだという場所である。そして、ワイマールがゲーテ、ダンテ、ワーグナー等巨人達の死のテーマパークの如き場所である事へと。そんな事を考えていると、ミースがギリギリのところで、スピリチュアルにハマる人であり、ハマらなかった人であった事が浮かび上がってくる。鈴木博之の地霊の思念に導かれてだ。

こんな一銭にもならぬ事を考えている自分も何かに落下していっている風があるのを自覚もしていて、その自覚は増々強いモノに育ち始めてもいるが、その自分でもどうにもならぬ力の大きさを、少なくともその方向をどうにかならないものかと、考えるのである。デザイン、製作の楽しみよりもそれが強くなるばかりでは困るのだナア。今晩、久し振りに銅版画に取り組んでみようかと、フト思った。

R207
一月十六日

昨日は午後、二喫茶店、一食堂をハシゴして鈴木先生東大退職記念レクチャーの準備をして、十五時半に遂に居る処が無くなり難波研究室に転がり込んで仕上げた。本当に久し振りに緊張して、我ながらおかしいのであった。こうさせているのも鈴木博之の存在の力であろう。

十八時レクチャー開始。一時間二〇分程でまとめた。予定通り。あんまり、変な質問が出ない様式にまとめたので、その類の質問は出なかったので、その点では成功したのではないか。レクチャーは連続講義のまとめにはしなかったが、スタイルとしては最終であったので、つまらん質問で滅茶苦茶なおわりにはしたくなかったのだ。

鈴木博之ノートの形式のレクチャーとした。建築史家を作家論の形式を借りて述べようとした。意図的に成した事では、初めてではあるまいが、二番センジ、三番センジでは無い事はハッキリ自覚していた。その点があのレクチャーの一番の特色であったし、それに尽きる。内容に関しては、わざわざ来て下さった方々への御礼も含めてここでは書かない。一月十五日の受講者の特権である。私なりに考えた末でのスタイルを試みた、とだけ記しておく。早稲田の中川武先生の質問だけを書き残しておく。

「二人の(鈴木・石山の)連携関係は長いが、何の目的があったのか」

応じるに難しい問であり、当然答えにならぬ答えでお茶をにごした。

一夜明けて、鈴木さんも私も本来は単独者であり、孤立せざるを得ない基本的性格を時代に対して持っていて、お互いそれを本能的に知っていたので、それだからこそ、友人らしきを必要としたし、してきたのだとしか答えられないのに気付いた。正直なところである。

今日は十一時ころまで寝ていた。やはり疲れていたのだろう。鈴木博之を論ずるのは、楽しみも尽きないが、同時にエネルギーを要する。サラリと流すわけにはいかないからな。

しかし、これで、楽しみも一つ一段落してしまった。少し休んで、再び力を尽くしたい。

今日は夕方、メキシコからやってきているホセに会う予定になっている。

丹羽君、トップページ、英文和文とも動かして下さい。渡邊君と相談して、気持としては昨日で一段落したので一新したいがね、人生は仕方のない連続もあるからな。でも一新して下さい。形から入るのも大事。

R206
一月十四日

十四時前、毎日新聞記者、カメラマン、世田谷村に来る。夕刊のインタビュー。十五時半頃終了。中央大学キャンパス内で先生が刺殺された事を知る。キャンパスも先生もいつ事件にまき込まれるか解らぬ時代になったのか。

毎日新聞の車で竹橋迄行く。車中ポツリポツンと話す。竹橋より地下鉄で高田馬場十七時前研究室。

十八時十五分明日の鈴木博之論のリハーサル。きちんと整理してみると大変難しいレクチャーになりそうだ。うまく話せると良いのだけれど。近江屋に寄って、二〇時過世田谷村に戻る。寒い。

一月十五日

八時前、起床。昨夜は寝床で今日の鈴木先生退職記念講義をアレコレと練り直して過ごした。

十時中川武研究室。ヴェトナム学生の博士論文審査会。十一時迄、鈴木先生レクチャーの最終稿チェックのために何処かにこもろうと思うも場所なし。どうするか。

R205
一月十三日

十六時半風車メーカーとの打合わせ了。山田風車のブレードをお見せした。あの伝説の風車ですかの声あり。写真を撮って帰られた。風車にたずさわる人は皆特有な好奇心の持主が多く好感を持った。十七時半、絶版書房便り12書いて、研究室での仕事をおえる。

近江屋で打合わせして、二〇時半世田谷村。

一月十四日

七時過寝床で読書。立派な本を読む度に我身の不甲斐無さに身も細る想いだが、こればかりはいたしかた無い。気を取り直して、GA HOUSEに出展するプロジェクトに関してアイデアを再考する。GA HOUSEには休みなく、プロジェクトを発表し続けてきたので、その流れは中断したくない。

しかしながら、キチンと考えれば考える程に、建築計画案だけを模型とドローイングだけで、本に発表する事の可能性は、今の状況の中では深くその意味を考えなくてはならんのではないか。以前、二川幸夫さんには、出展したパネルを、持ち帰れとドヤされた事があり、今度のも、恐らく、ドヤされるのではないかと思いながら、やってみるつもりだ。

GAの展覧会で、あるいはそのメディアで私は若い年代や多くの人々に自分の作品や、プロジェクトを見ていただこうとは、もう余り考えていない。その意義は充分に認めた上で、私はあんまり若い世代の動向にも、作風にも、もう関心がないし、ほとんど可能性も無いと考えている。

ただ二川幸夫とだけはまだまだ勝負しなくてはと、変テコリンな考えにとりつかれているだけなのだ。

恐らく、世界でも歴史的にも有数な建築の見巧者であろう、二川幸夫さんは、鈴木博之や藤森照信とは全く異なるところから建築を視ている人物である。一切の観念、前もっての思念を取り外し、裸形の眼だけで、ありとあらゆる建築に対面している。だれから頼まれているでなく、独人で世界中の建築を見て廻り続けている。それをもう半世紀程も続けている。

これだけで、あるいは、こんな事されては頭を下げるしかないではないか。畏敬せざるを得ぬ人物なのである。

今度の出品は、恐らくそんな二川幸夫さんから見れば、「石山のバカ又、中途半端なアイデア出しやがって」と馬鹿にされるだろうと予想している。そんなモノになるだろう。しかし、私としては、キチンと今の時代に、チョッと文句つけたい、つけておかなくてはと考えての事である。マア、どうなりますか。

ただし、このプロジェクトは二川幸夫の考えに真向から対立してしまうモノになるのだけれど、建築の未来にとっては重要なプロジェクトになるだろうとは思う。

R204
一月九日

十四時研究室。雑務。絶版書房第一回配本の印刷屋さんとあいさつ。前から附合いのある印刷所である。

十七時、ジュリアン・ウォラル氏来室。十八時人事小委員会。十九時了。二十一時世田谷村に戻る。

一月十日

七時寝床で読書。八時過起床。絶版書房、第二回配本の原稿を書く。十一時半過迄。四〇分発。今日は、二年生の製図の日本女子大学との合同講評会である。出席するようにと、言われているので出掛ける。もう少しで、原稿いい調子に乗りかかっているのに残念である。

十三時大学。日本女子大住居学科X早大建築学科二年合同課題講評会。十八時過修了。基本的には総評に代えたあいさつをキチンとしただけ。個々の学生の課題に関しては、ほとんど言葉が無く、簡単に二年生の頃には何を考えているべきかを述べたにとどめた。二年生を相手にキチンとしたクリティークは害になるばかりである。基礎体力をつける事だけをアドヴァイスすれば良い。そうとばかりも言っておられず、女子大の学生の課題にはいささかのコメントをする。早大生のは大方をパスした、それが良いのだ。二年生にキチンとクリティークはあり得ないのだ。又、それを押しのけて批評したいモノも無かった。三年の秋からで良いだろう。懇親会で早大二年生が、それでも、どうだったでしょうと、こちらの気も知らずに尋ねて来たので、「なってないよ」とついつい本音をもらしてしまう。二年生の時にやるべきをやっていないのだから、こう答えるしか無い。嘘はつけないからね。

二〇時懇親会を脱けて日本女子大の先生方を含め会食。二十二時過迄。二十三時過世田谷村に戻る。

一月十一日日曜日

八時から十八時過迄、十五日の鈴木博之先生退職記念連続講義「近代とは何か」の構成に没頭する。何とかエスキスは終了させた。一晩寝かせて、明日、再びチェックしたい。

「近代とは何か?」という認識論を越えた方法で鈴木博之を論じたいと前から考えていたので、作家論としての形式を持たせた、鈴木論を構成したつもりである。

十九時前、「絶版書房」の原稿にかかる。今日は頭が完全に机上モードになっているので、夜もこのまま走らせる事にした。「空飛ぶ三輪車とアポロ十三号」を書き続ける。四十三枚迄辿り着く。

一月十二日

七時過寝床で読書。九時前起床。鈴木博之レクチャーチェック。十一時、絶版書房「空飛ぶ三輪車とアポロ十三号」書く。十四時半六十四枚迄辿り着く。予想以上にはかどっている。十六時半前、八十枚書いて、今日の仕事を終了する。十八時前渡邊君来たりて、近くの韓国料理屋にて、打合わせ。鈴木先生記念レクチャーのデータ作りと、絶版書房2の原稿渡し。ナーリさんのプノンペン・ウナロム寺院、旧日本語学校でのインタビュー原稿を受け取る。二〇時過了。世田谷村に戻る。寒天下の満月がそらぞらしく輝いてやがる。本当にこういう時の満月の風情はイヤらしいな。もう少し欠けてみろよ、あるいはキチンとヒビでも入れて見ろと言いたい。

一月十三日

七時過起床。新聞を読んでから原稿書き始める。「冬の東京から、南の国のナーリさんを想う」十二枚九時半過完了。これで絶版書房の第2回配本分の私の作業は完了した。昨年末に決めたスケジュール通りに事は運んでいる。 しかし、カンボジアのナーリさんの事をズーッと書いていたら、色んな事を考えさせられた。予想通り考える素材としたら超一級品だな、ナーリさんは。しかし、日月と二日間書き続けたので頭が逆に固まってしまったような気もする。

でも、このペースでやっていたら、この一年でため込んでいた引出しの財産の大半を吐き出さなきゃならなそうで、いささかキツイ。今更新しく溜め込むのも仲々に困難だろうしな。と先行きにいささかの不安を感じないでもない。考える事が無くなってしまったら、という不安くらい恐ろしいものはない。

十四時前研究室。丹羽太一編集長不在で日記他の更新がスムーズに進んでいない。李君が第二回配本向けのブックデザインを提案してくれた。第2回配本はアニミズム周辺紀行2というよりも、空飛ぶ三輪車とアポロ十三号特集なので、このデザインは第3回用にスライドさせねばならないようだ。

第2回配本のヴィジュアル、素材を明日世田谷村から研究室に持ち運ばねばならないな。 十五時風車メーカー来室。

R203
一月八日

十六時前研究室発。十七時上野芸大美術館。六角鬼丈退官記念展を観る。「新鬼流八道の建築」とサブタイトルが打たれていた。ジキルハイドと読ませる。六角好みである。一九六七年の自邸から近年の中国大陸に於ける仕事迄が集約された展示であった。

オープニングパーティーには磯崎新夫妻、鈴木博之等、多くの友人、知己がつめかけ大変盛会であった。六角鬼丈の人徳であろう。六角とは婆娑羅の会を始めとして、若い頃からの附合いで感慨深い。

ジキルハイドの二面性を創造の源にしてゆくぞの、これからの六角さんの決意表明の展覧会でもあった。私としては六角さんにはオスカー・ワイルドよりも夢野久作のドグラマグラを目指して欲しいと想うのだが、六角さんの内の近代の骨格は実に強いのも実感した。毛綱亡き後、無人の道を歩いている風があるが、渡辺豊和と並べて考えてみると面白い風景が浮かび上るのだ。東北から関西への渡辺、北海道から神戸、そして東京へ移動した毛綱、東京の六角と、それぞれのキャリアと場所の関係は、とても重要ではなかろうか。上野駅で食事をして、二十二時前世田谷村に戻った。

一月九日

七時半起床。昨夜は雪が降るという予報であったが、雪の白は何処にも無い。寒い朝だ。

昨日の六角鬼丈展の印象をもう少し。

一.六角鬼丈は場所に敏な作家である。自邸クレバスの家はその地形から導き出されたし、最近の北京の仕事は、キチンと北京というグローバルな場所に合わせたモノを提示している。

二.六角鬼丈は私的な歴史に敏感である。

「伝家の宝塔」の宣言自体が極私的でもあり、同時にそれが六角家という独自な歴史を半公的にも持つという六角さんのアイデンテティが六角さんをある意味では束縛し、又同時に創る源ともなった。

六角さんにとって、故毛綱モン太との出会い(六角・毛綱、共に改名に執心したのが面白い。名さえも私的な歴史に合わせたのだ。ただし、その私性が充分に時代の風を読み取っていたのも忘れてはならない。例え、それが一見反時代性を帯びて視えようが)。で、毛綱と六角さんとは歴史的な同時代の中で出会ってしまった。私にも、毛綱との出会いは強い力を及ぼしたが、六角さんは私よりも限定された土俵の中で毛綱と出会った。

自身の五感を出発点としたいと考えていた六角さんは、その五感をコンセプチュアルに語る事が出来た毛綱に、影響されはしなかったが驚いたには違いない。正直に驚いたのは、六角さんの伝家の宝塔、血脈とも言える人柄、人徳であった。その人柄が六角さんを救った。毛綱が生きていたら、私と同じようにジキルハイドは似合わないぜ、ともっと痛烈に言い放ったのではないか。

ジキルハイドは成熟した近代国家から産みだされた怪物であって、六角さんも含めて我々はまだ実に浅い近代の歴史、それはヨーロッパの近代でもあるのだけれど、それをしか持っていない。英国と日本は遠いのである、特に歴史的に遠い。産業革命の源であった歴史と、明治維新からの近代の歴史の、それは深浅でもある。

今の東京は文化的には白い廃墟、暗闇の無い白夜の廃墟であり、その場所にはジキルハイドは生息し得ないのではなかろうか。

三.それでも、我々は六角鬼丈のこれからに、ある種の希望を見たいと願う。その由縁は、彼のやっぱり伝家の宝塔を、更に堂々と建立して見せていただきたいからだ。

六角紫水の事は六角、伊東、山本、長谷川と徒党を組んでの勉強会「アデルカルサヴィーヌの会」で初めて知った。岡倉天心に迄遡行する芸大の歴史、日本の工芸、伝統芸術の中心である。それを基盤にしながら、しかも六角さんの知性はそれに落ち入らぬであろう、ナショナリズムに足をすくわれずに、創作の径をまっとう出来るのは六角さんを置いて他には居ない。同世代の他は皆六角さんの伝家の宝塔を形として持ち得ない。それが、現状のマネー万能のグローバリズム建築から脱出する、一つの細い径でもあろうから。

まだ、まだ書きたいが、日記のスタイルを少々逸脱し始めているようだから、とり敢えずはコレ迄。

十三時、絶版書房第二回配本、アニミズム紀行2「ナーリさんの空飛ぶ三輪車とアポロ 13 号のこと」二十一枚書く。ナーリさんの空飛ぶ三輪車に関しては当面今の私の最大級の関心事である。第二回の配本には乞御期待!第一回を早く買ってくれい。と叫ぶのである。

R202
一月七日

少し眠って、アンコールトムの霊気を洗い流し世田谷村を発つ。東京の陽光はとても弱い。春夏秋冬の光の変化の中で暮らしてきた日本人に独自な光感覚、時間の移ろいに対する観念が生まれたとするならば、更に日本といっても五千弱の盆地の集合であるとされるようだから、その場所毎の特異性が生まれていても決しておかしくはない。

第二次世界大戦後の急激なアメリカ文明化がその微妙さを破壊し標準化した。アメリカ化とは交通、交信の発達による標準化である。しかし、我々の想い描く日本の全体性は同時に世界の断片であるという事実はすでに多くの人の共通認識でもある。その全体という考えを突きつめてゆけば、ナショナリズムの難題も解決できる水準が産まれるのに違いないのである。ナショナリズム、あるいは我々に即して言えば日本独自主義とでも言うべきは、要するにアナログカメラに標準レンズを装着したまんまという状態に過ぎぬのではないか。デジタルカメラのアナログへの優位性は平板な感性の中ではすでに共有せざるを得ないものではある。がしかし・・・と考えようとするに今は不可。十八時京王線車中である。

渡辺君と近江屋で会い、色々と事務的な連絡の交換をして、二人だけの新年会とする。アンコール・トムで過ごした時間とは余りにも落差があるが、この落差をただただ肯定してしまったら、どうにもならないのである。アンコール・トムを今に引きずり出さなければならないのだ、そうしたい、のである。

一月八日

八時前起床。今日は芸大の六角鬼丈先生の退任記念展のオープニングがあるので、それに出席する予定である。昨日連絡を受け取った。今年は鈴木・六角と友人がそれぞれ節目の年になる。世の中で一番強いのは時間の流れだ。誰も止めたり、逆流させる事が出来ない。

ベーシーの菅原は今年はどうやら当り年になりそうだな。JALの機内ミュージックを渡辺貞夫氏と共に担当する事になったの記事が送られてきている。JALに乗ったら是非JAZZを聴いて下さい。絶版書房の第一回配本は予定通り進行しているので、これを読みながらというのが実に望ましいのです。菅原が一番真っ当な径を歩いているな、と想う事仕切りである。八時半過発。杏林病院へ、定期検診だ。

九時十五分杏林病院。老いも若きもハンディキャップも、正月から病院は大繁盛である。しかし、確かに烏山辺りを歩いている人影を見流すに、ジジイ、ババアの影が異常に多い。「影の時代」だなこれからは。歴史家は大繁盛であろう。老人と死者の最高の趣味は歴史だからな。

若夫婦つまり生産力を持つ世代はも少し郊外に棲息していて、そこは又、ガキ共の犯罪地帯でもある。若い人達の子育ては異常な困難に対面しているのだろうと感じる。五分程で検診終わる。しばらくして、データを全て診てくれたらしく、K先生があわてて外に出た私を呼び止め「ビール飲んでるでしょう、ダメ。もうダメ、いつ痛風になってもおかしくない数字出てます。どうしても飲みたければ、ショウチュウにして下さい。ビール駄目。知らないから」と柔らかくさとされる。今日はY先生の検診はなく、Y先生であると、もう少しヤンワリとしかしバサリと「酒くらい止められないんですか」とやられたであろう。

しかし、止めろと言われれば、益々飲みたくなるのが酒なのだ。まあ、そこ迄言うのならしばらく禁ビールとする。イヤな決心だ。十二時過研究室。

R201
一月二日

四時半起床。五時四〇分過世田谷村発。五時五十二分の京王線に乗る。中上健次全発言集読みふける。読書とスケッチは両立せぬ事が明らかに、どんどんなるな。車内のスケッチはなし。八時過NRT第二ターミナル。ヴェトナム航空チェックイン。空いている。

空港の銀行で両替を終えたところで中谷先生家族と会う。私は家内同行。アトは若い高口先生というメンバーである。誰に聞いても現地でのスケジュール他が一切不明である。これなら二日程プノンペンに行けるかもしれないな。朝食をレストランでとり、86 番ゲートへ。中谷先生のところは小さな子供を二人連れてるし、これは余程キッチリと頭を切り替えぬと、予定している制作は、とてもママなるぬと直観する。

アンコールワットの旅での制作予定。

一.アニミズム紀行プノンペン、ワッツ・ウナロムを書き上げる。

二.アニミズム紀行2、ひろしまハウス、森

三.空飛ぶ三輪車とアポロ十三号

唯一持って出た本が「中上健次全発言 II 1978-1980 」処々に面白さが埋まっている。私は中上健次には柄谷行人から入った。基本的に小説より批評の方が面白く読めたから。この本は元旦に拾い読みして、それ切りにしようと考えていたが、何故か、二段組み五百四十ページ程の分厚いのを持って出てしまった。十五秒程捨てて来ようかと思ったのだが、恐らくスケッチに入るのに時間がかかると直観していたので、飛行機で読んじまえと考えたからだ。二十二本の対談、鼎談他が詰め込まれている。

この書物の中で、例えば、中上は太宰の娘、津島佑子に言う。

中上「この間、青森に行ってみて、すごく青いんだな、空が。津島さんはやっぱり太宰じゃなくて、太宰の向こうにある土俗的なものに引張られてたんだなっていう部分さ。太宰が背中にしょってた青い空とか、恐山。あれなんか、でたらめだけど、それでも泣きに行くみたいな部分てある・・・」

中上はこの発言を三田誠広、高橋三千綱、高城修三、津島佑子との座談で言い放っている。最後に中上は彼等全てを年下のお前等に全く関心は持っていないと放言し、その断言は柄谷行人ゆずりだとも思える位だが、流石に熊野、紀州を仮想フィールドとして壮大にも思えた紀の国物語を書き続けた中上ならではの発言も散りばめられている。この発言も太宰の根底のアニミズム的なものに根ざしているのだが、肝心の彼のアニミズム的感応力が平板であり過ぎて、書き続ける事が不可能であった太宰の才質を良く言い当てている。

十四時五〇分ホーチミン空港着。時差が二時間ある。NRTから六時間程のフライトであった。乗り継いで十七時半シェムリアップ空港着。空港には中川武先生が出迎えて下さった。

一月六日

二〇時十五分、シェムリアップ空港離陸。空港迄は中川先生に送っていただいた。五日間お世話になった。二十一時ホーチミン空港着陸。二時間チョッとのトランジットタイムである。中谷 Jr が前のベンチで横になって眠っている。腹をこわしたらしい。ゆったりとしたスケジュールではあったが、こどもにはアンコールワットの遺産巡りはどのように眼に映り、感性に響いたのであろうか。

私の旅らしい旅の始まりは、彼よりも幼い小学生の頃の、岡山迄の一人旅であった。東京駅迄父親に連れられて、急行瀬戸に一人乗せられた。隣席の方に、山陽線の和気で降ろしてくれと頼み、それから十四時間は窓の外の暗闇に額をつけて、あきずに闇を眺めていた。のぞき込んでいたと言っても良い。

浜松で電気機関車は蒸気機関車に変わり、あの石炭煙の匂いは五〇年経った今でも、よみがえる事がある。 和気から今は廃線になった片上鉄道に乗り換え、備前矢田に早朝降りると、祖父の寿太が麦ワラ帽子を持って迎えてくれて、二人朝モヤの吹き上げる吉井川の橋を渡り、母の故郷の、それはそれは美しかった集落に入って行くのであった。

私の旅の始まりであった。そして故郷への歴史はその様にして作られたのであった。

今、ベトナムのホーチミン空港で突然そんな事に想いを巡らせている。この唐突さは何故なのか。

今度の旅ではアンコール・トムのバイヨンで独人半日程を過す事が出来た。何度目かのバイヨンであった。もうすでに、良い批評を読んだりする如くにバイヨンに対面出来る自分を感じている。

この建築が作られた頃、日本は平安時代であった。貴族達は疫病やたたりにおびえ、暗闇の中に何者かを視ていた。死である。それへの恐れである。宇治平等院鳳凰堂はその恐れから立ち上がった伽藍だ。バイヨンも又、その様にして建てられた。ジャヤヴァルマン七世はライ者であったと言われる。王はそれ故、死と対面し続けていた。それ故に、バイヨンは美を超えた構築の力学を獲得したのだ。それは力である。平等院鳳凰堂には美はあるが、力が無い。

小林秀雄は石舞台に、小さな感慨を寄せている。古代の人々が石によって、その現像力を構築していたら、どんなにか日本の文化は別の形に荘厳されたであろうか、と言うような事。この考えをもっと深く、大きく書き記してくれたらと思わざるを得ない。アンコール・トムは石造である。しかも岩盤上にではなく築き上げられた。それ故、沈下して崩落し続けた。アンコール・ワット、アンコール・トム他の巨大遺跡は壮大な森林の中に建てられた。ほとんど日本と同様な森林地帯である。しかも森のエネルギーは日本の森よりも強かった。森が強いと言う事は森が建築を浸食するという事だ。アンコールの遺跡の多くが樹木に侵されている今の姿はそれを物語る。アンコールの遺跡近くに石が採取し得るところは無い。石は遠くから運ばれてきた。川や運河や、象の力によって。

考えねばならぬのは、そんな自然条件は日本とほとんど変わりはないという事だ。何故、古代日本人、それは朝鮮半島からの渡来人でもあったのだが、巨大な石造の御伽を建てなかったのだろうか?

一月七日

日本時間六時十五分。あと三十分程で成田に着く。結局カンボジアでは、予定していた事は何も出来なかった。スケッチを二十点程得たのみである。何も出来なかったが、色々と感得するものはあったので、それ程失望しているわけではない。

中川武先生がアンコールワットで考えようとしている、古代クメール都市の相互関係、特に位置関係の構造性は、要するに天上からの視点による相互の位置関係の幾何学性は、そのような視点への関心の強大さを支えるものは何であったのかを考える事だ。遷都の思想、天上からの幾何学の思想が王権の中枢であった事が示される必要があろう。古代の王権が何によって構築されていたのかを考えねばならないのだろう。バイヨンとその王の関係は、その意味ではとても面白いゲートになるに違いない。中川先生の学生時代の吉本隆明好みが、ようやくにして別の形式の中で結実しようとしているのであろう。それも又、面白い。

七時、NRT空港着。3℃との事。日本は寒い。九時十五分都営地下鉄線浜町通過。十時には世田谷村に着くだろう。高口先生は大学へ寄ると言う。若いな、体力気力横溢しているのであろう。私とは四半世紀の年の差がある。私の方は眠くて、とてもその気持にはなれぬ。せめて、丹羽君に送信できるメモだけでも仕上げたい。

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