R182
十一月二十八日

H親子と共に富士へ。十二時頃富士ヶ嶺。富士山は雪を冠している。アニミズム紀行の推敲を続ける。もう、あまり手を入れぬ方が良いかも知れない。

十三時過中国清華大学でのワークショップレクチャー骨子を決める。仕事がはかどる。富士ヶ嶺の菜園の様子を見て廻る。世田谷村の下の畑と同じ位の広さだが、白菜、ブロッコリー他の野菜の育ちははるかに良い。標高が高く、寒い筈だけれど、陽当りが良いからだ。凄い太陽の力である。世田谷村の畑も庭木の美しさをとるか野菜をとるか、ハッキリさせなければ駄目かも知れない。

十三時半、「設計製図のヒント」44書く。十四時四〇分了。小休。十五時半富士ヶ嶺発。十七時過京王線飛田給。十八時半新宿、味王で打合わせ。向風学校安西、諏訪両君と打合わせ。二十三時過世田谷村に戻る。

十一月二十九日

七時過起床。おにぎり二つ一汁の朝食後八時発。九時大学。十時過よりOA入試。書類審査をくぐり抜けた受験者六〇名程の面接。私は半数の三〇名程の個人面接を他二名の先生と担当。全体としては学科の教師陣総勢で対応する入試制度である。十八時合否判定修了。今夏の世田谷美術館の二十一回の連続レクチャーに参加した高校生達に試験会場で再開して、驚いた。元気そうであった。又、共に学べると良い。女性の活発さが目を引いた。

十八時半入江教授等と本部キャンパスの映像フィールドゼミへ。モンスタースタディの小レクチャーをする。二〇時バウハウス建築大学のカイベック、ブッシュ等と会場を去る。新大久保迄歩く。少し汗ばむ位で気持良い。コーリア料理屋が満員で入れず、寿司屋でディナー。二十一時半散会。二十二時半世田谷村に戻る。

十一月三十日 日曜日

七時過起床。メモを記す。「 MONSTER STUDY 」1・アニミズム周辺紀行、一、マルセルデュシャンの偏愛、ローズ・セラヴィ、二、韓国紀行、三、熊谷守一のアニミズム、を完了したので、第二回配本の構想を練る。十一時前広島の木本君来る。開店前の宗柳にもぐり込んでお茶を飲み、打合わせ。木本君も僕もそれ程おしゃべりな方ではないので、お互い無言でいる時間が多く、心地良かった。十三時了。別れて世田谷村に戻り、昼寝を十六時迄。「設計製図のヒント」45・薔薇の名前、書く。十七時半了。

十二月一日

七時半起床。世田谷村の一階の入口、左に木本一之さんとの協同作品「立ち上がる伽藍」を置いてある。二階の陽光のまぶしい位の場所に置くよりは似合うだろうと、言い訳がましくつぶやいているが、実は重くて一人では持ち上げる事が出来ないだけの事である。それに、まだこのシリーズは一作だけで二作、三作と続けていってはじめて、第一作の意味が生じる。まだ自分でも、これが何なのかハッキリ意識出来ないでいるので、居所が無いのでもあろう。恐らくは私の脳内モデルの立体的表現である筈だと目星はつけている。何のモデルであるか、それが問題なのだけれど、作りたい立体への意志に形を与えようとしているのだろうとは思われる。社会、経済から自由に、あるいはその枠から意識的に逸脱して、質量のある立体を構想しようとしているのであろう。ペーパーモデルや、ペーパースケッチでは何となく不足なのである。手軽過ぎて、つまり自由過ぎて。

鉄製の立体は当然ながら重い。非常に重い。それにこの立体には私にとっての他者が介入している。木本一之の手であり、彼の広島山中の工房という社会だ。

と、すれば、すでにして、この黒い鉄の立体は建築と呼べるのではないだろうか。人間の生身の身体はそこに入り込んで棲みつく事は出来ない。しかし、私の意識が複雑に働いて、この立体を作らせた事は事実である。それに私の意識はそこに入り込んでゆく事も可能である。つまり、そこに棲み込む事が出来る。コンピューターの画像、TV画像、そしてスケッチ、ドローイングには質量が無い。しかし、この立体には質量がある。これは、やっぱり、当初の直観通りの「立ち上がる伽藍」なのだろう。模型ではない。二百分の一とか、五百分の一の縮尺を持つ模型ではない。縮尺の無い模型、すなわち、原型の如きものだ。

設計製図のヒント」を書くうちに、私は自分で脳内モデルというハッキリ定義し難い概念らしきを使っている事に気付いた。しかも、かなり重要な言葉として使い廻してさえいる。書いていて、ここは充分に批評としては弱いなと気付いてはいたが、書いて、よりその事が明らかになってきた気もする。

脳内モデルの現実化されたものが電脳、すなわちコンピューターであり、現実社会ではパソコンであろう。つまり、考えをつめてゆけば、私の「立ち上がる伽藍」という呼び名を持つ黒い立体は、私の建築への意志と呼ぶべき脳内モデルの初歩的表現なのであろうか。

フレデリック・キースラーのエンドレス・ハウスの模型と、それに寄りかかるようにして立っているキースラー自身の、コンビネーション、人とモノとの関係写真とも呼ぶべきがあって、私のこの黒い立体はあの、エンドレス・ハウスに近い存在ではないかと思う。明日はまだ木本君は東京に居る筈だから、二人そろって「立ち上がる伽藍」モデルと一緒の写真を撮っておくのも一興であろう。朝の光の中と、地下室の闇の中の双方が必要である。

それ故に、「 MONSTER STADY 」2・アニミズム周辺紀行2は、「立ち上がる伽藍」を巡ってとなる。フレデリック・キースラー研究家でもある山口勝弘氏のスケッチ、及びインタビューを是非入れなければならない。少しピュアーになり過ぎるから、「建築美」に寄せた一幕一場の幕間劇のシナリオも、入れてみよう。猥雑になって良いかも知れない。

R181
十一月二十七日

十一時T社、T社長打合わせ。昼食を挟んで十六時迄。社長は細部迄納得しないと、気がすまない。完全主義者だ。終了後東大へ。十七時過難波研。「アニミズム紀行」に手を入れる。十七時半難波先生と雑談。十八時製図教室を通り抜け講義室へ。「設計製図のヒント」を書いた学生達の顔を見る。

十八時、鈴木博之教授退官記念講義第7回藤森照信を聴講。立派な講義であった。保存について、伊東忠太、藤島亥治郎他の歴史家の位置附けを話し、最後に鈴木博之に辿り着いた。要するに未来に向けての保存を実践、論じたのは鈴木が初めてであると断じた。勉強になった。

終了後パーティ。鈴木、藤森両氏とくつろぐ。三人で会うのは久し振りだ。講評を書いた東大生より立派なボールペンをいただいたり挨拶されたりで、照れ臭かったが、何となく友情も感じる。製図がとりもつ縁である。長井さんも見えていたが、話しは出来ず。

終了後、難波先生他と鍋料理屋へ。二十二時過迄。二十四時世田谷村に戻る。

十一月二十八日

八時過起床。昨日の藤森氏のレクチャーの印象はもう少し克明に記録しておいた方が良いな。アレは。今日の夜でも試みてみよう。

ボールペンをいただいたので、これは意地でも「製図のヒント」は書き続ける。変な意地だがマア良いだろう。

九時富士ヶ嶺へ発つ。研究室には午後おそくになるだろう。昨日、明日の映像ゼミのシナリオ・エスキスしておいたので、その作成にほぼ夕方迄かかるであろうと踏んだ。富士山で、清華大でのレクチャーのエスキスをする。

R180
十一月二十六日

午後研究室。MONSTER STUDY 発行打合わせ。大方をまとめる。鬼沼中央施設打合わせ。前進基地打合わせ。 十九時過近江屋。二〇時半世田谷村に戻る。

十一月二十七日

寝過ごして、九時前飛び起きる。メモを記し九時五〇分発。五反田T社へ。鬼沼計画の中心施設の設計が正念場になってきている。又、ハードルを一つ上げるので、スタッフは大変だろう。何とか乗り切りたい。

絶判書房「MONSTER STUDY1 アニミズム周辺紀行」も形になってきてみると、手を入れたいところが次々に出てくる。出来るところまで、手を入れてみる。建築とメディアは同じくらいに手間がかかる。まだ畑には手を触れられぬ。

R179
十一月二十五日

十二時過研究室。絶版書房、刊行一号の「アミニズム周辺紀行」のチェック。MONSTER STUDY のタイトルとした。メディアとしては絶版という名に殆どの意味が込められている。

十四時M2ゼミ。忘れていた修士生がいきなり現われたりで、何と言う事であろうか。

十六時、ワイマールよりカイ・ベック&パートナーのユリア来室。旧交を暖める。十七時タイ料理屋クンメイへ。店の前で旧知の木村さん親子とバッタリ。早い夕食十九時了。世田谷村に戻る。

十一月二十六日

絶版書房のアミニズム紀行は、マルセル・デュシャンのローズ・セラヴィ、韓国紀行、熊谷守一のアニミズムの構成になっている。八〇ページ位の構成になるだろう。二五〇〇円で発売する予定である。ドローイングを何処までレイアウト出来るか。それがクオリティの素になる。

北海道の「水の神殿」の入口に作る砲弾状の平面形をしたドームのスタディモデルが出てきて、まだ充分に立体がとらえられていない事に驚いた。「設計製図のヒント」は43迄書いて、少し休む。毎日書いていると、例え一時間半の時間でも頭がヒントの頭になってしまう。「世田谷美術館講義録」NTT出版の進行状況も少し気になる。十二月には打合わせしなくては。

バウハウス大学での石山展が来春開催される事になりそうで、カイ・ベックはその準備のためにも来日している。サンパウロとほぼ同時開催になると良いのだが。

木本一之さんとの共作である「ざくろの街燈」の2本目が星の子愛児園に設置された。園より写真が送られてきた。仲々良くて、嬉しい。

R178
十一月二十一日

昼過研究室。水の神殿に殊更なアイデアが生まれたので大判のスケッチに残す。これが実現できたら良いな。十五時製図準備室。若い先生と打合わせ。第四課題のミニ・ディプロマのテーマを、三〇名程の学生の発表を聞く。十七時迄。再び若い先生方と打合わせ。第四課題は基本的に学生達と若い先生方の自主的運営に任せる事とする。私はネットでの公開指導としたい。

二〇時迄若い先生方と議論して、後は彼等に託したい。あんまりつきっきりでも若い先生方も学生も良くないのだよ。近江屋で一服して二十三時前世田谷村に戻る。

十一月二十二日

七時過起床。昨日東大より鉛筆と、依頼してあった共同課題の資料が送られてきた。「設計製図のヒント」36を書き始める。送られてきた資料の版が小さいので、大きな虫眼鏡でこれをのぞくと、若い学生達が考えようとしている事が、より密実に伝わってくるので驚いた。学生の図面は小さく縮小して、虫眼鏡で凝視すると良いのかも知れない。実に面白い。東大 12 班の作品も虫眼鏡で見入ると又、別なものが視えてくる。今日は、これで一日楽しめるかも知れない。

早速、早稲田の連中の作品も縮めて、虫眼鏡でのぞいてみるか、あるいは自分のエスキスも縮めて、虫眼鏡でのぞいてみたら面白いかも知れない。何か、他人の気持をのぞき込んでいる風が出現するのである。

東大 15 班、といっても一人に孤立した学生の作品を大虫眼鏡でのぞき込む。イヤー驚いた。これが実にいいんだな。やっぱりと言うべきか、何ととつぶやくべきか、東大と合同課題やった役得だなコレワ。二〇〇八年宇宙の旅だぜこれは。第一グループの十点だけ、感想を述べようと思っていたのだがこれは 19 点全作品やってみるしかないなと覚悟した。だって面白いのだから。

しかし、この姿、誰かが見たら、変態製図マニア老人だな。あるいは虫眼鏡持っているから、製図占い師でもあるか。九時半了。十一時前世田谷村発、富士ヶ嶺へ向う。

甲州街道渋滞、十四時鳴沢N先生宅。十六時過迄。十九時、中央高速渋滞、世田谷村に戻る。二十一時二〇分、「設計製図のヒント」38を書く。全く、東大、早大とりまぜて、次の世代に伝えたいことは多いが、多分、あきらめるしか無いだろうな。せめて、エキスだけでもやっておく。

十一月二十三日

休日、体も気持も休む。「設計製図のヒント」40迄書く。

十一月二十四日 休日

七時前起床。今日は植木屋が世田谷に入る。若い、職人とはまだ言えぬような青年達である。午後遅くに雨になり、職人さんは散るように去った。「設計製図のヒント」42迄書く。

十八時、すこぶる工房の代島氏来て、二人で烏山で会食。二十一時戻る。

十一月二十五日

八時前起床。植木職が今日も入っている。彼等が去ったら、私の菜園も冬の陽当りが良くなるだろうから、畑仕事を再開してみようと思う。

R177
十一月二〇日

昼研究室。十三時学科会議室。博士論文内公聴会。続いて教室会議。十七時了。研究室打合わせ。十八時半了。新宿味王で一服。世田谷村に戻る

十一月二十一日

六時起床。読書。七時過、「設計製図のヒント」35書く。丹羽編集長が又もや、早くストック分を出してしまったので、本当に毎朝の務めになってしまった。八時過了。

R176
十一月十九日

十一時前T社社長室。鬼沼計画打合わせ。予算計画、契約の件、計画自体の件、その他諸々。昼食をとりながら続行。途中、鈴木博之先生に連絡。渡辺豊和氏の本の刊行に関して、数名の刊行委員会を作れないかと相談。面白そうだやろうじゃないかの答えを得る。百万の味方を得た気分となる。十六時迄。五時間強となった。いささか疲れて研究室に十七時に戻る。M2ゼミ。十八時人事小委員会。二〇時半迄。近江屋で一服、鈴木了二氏と電話で打ち合わせ。雲行きが怪しくなってきた。やりたい事はどうやら単独でやり始めた方がいいかも知れない。二十三時前世田谷村に戻る。

十一月二〇日

八時前起床。丹羽編集長が何を考えたか、矢継ぎ早に、ストックしておくつもりの「設計製図のヒント」クリティーク編をページに出してしまったので、今朝も一本書かねばならなくなった。編集長、もう少し考えて編集してくれ、とこぼす。

トップページは日文、英文共に李君に依頼した「絶版書房」の表紙のスタディにして下さい。これは毎日でも動かしてくれ。手間ヒマかからないし、ストックも多いから。

「設計製図のヒント」に書いたように、これで合同課題の東大生からボールペンでも来てみろ、毎朝設計製図のヒント書きまくらねばならない。幸いまだ来てないので、当然早稲田の三番目グループのものに対する批評を書く。九時半前「設計製図のヒント」34了。

R175
十一月十八日

午前中外出。午後自宅近くの喫茶店で「設計製図のヒント」3132を書く。世田谷村に十四時過戻ったら、奈良の渡辺豊和氏より郵便が届いていた。「建築への伝言」の完稿であった。すぐに読み始め、夜半読了。遺言を伝言に変えた旨の手紙が入っていた。勿論内容は烈々たる建築への執着、執心、熱情、狂気、狂風である。背筋が寒くなった。

これは私に対する設計製図のヒントだな。世間が何と言おうと渡辺豊和はいい。とても良い。学生達に、あるいはそれよりもむしろ先生達、建築家達に見習ってもらいたい。こんなに建築が好きな人間がいるという事を。

十一月十九日

七時前起床。八時二〇分設計「製図のヒント」33を書き終わる。昨日の渡辺豊和の「建築への伝言」の感動が乗り移っている感がある。

学生の為だけに書いているばかりではないのだ。自分の為にも書いている。九時四十五分世田谷村発五反田T社へ。

R174
十一月十七日

十三時四五分学科会議室。面接。十五時半了。先生方と雑談。その後加藤、渡邊両先生と昨日の講評会の反省会。十九時再び学科会議室。二〇時過了。近江屋で一服して世田谷村に戻る。

十一月十八日

五時起床。「設計製図のヒント」30を書く。早稲田大学の作品と東京大学の作品を比較しながら書き進める積もりなので、少し時間がかかるかも知れない。八時前了。

R173
十一月十四日

昼研究室。雑務。十三時M2ゼミ。十五時設計製図発表リハーサルを兼ねた採点。二〇時修了。二十二時半世田谷村に戻る。

十一月十五日

世田谷村を十一時半に発つ。郵便ポストの下に育てていた千両の小株盗まれた。正月用の切花として育てていたもので残念である。花泥棒は罪にならず、とて私も今夏は何度か近くのとり壊される団地より、花を泥棒させていただいたので、大声でとやかくは言わないが、これはチョット、ルールを犯してはいる。先ず、明らかに私有地内の植物である事。次に明らかに人工的に植え込まれた事が歴然としていた筈である事。しかし、仲々、とるには勇気もいっただろう。何処かの家でささやかに正月を飾るのであろう、それを想ってあきらめる。

十二時半学科会議室。鈴木了二、佐藤滋両先生と打合わせ。十四時半了。十五時学科会議室にて三年設計製図の最終リハーサル及び残り二点の選択。十八時了。苦しんで、二点追加して十点迄そろえた。当り前のことではあるが、学生の設計製図は未熟なものであり、教師は何処に目標を置いて、それを規矩にして学生を指導すべきかの、指導のスタンダードは持ちたいものだ。歴史観が必要だ。大小問はず、ヴィジョンらしきがあって初めて設計教育は成立する。そんなことを自覚しつつ最終指導をする。

三十数名の参加者であったが、一瞬でもよいのだ、全体が有機体の如くに動く様を自覚的に実感すればそれがつかの間の共同体になり得る。建築学科という、あるいは設計製図グループという一瞬の共同体である。

十九時前、コーリア料理屋で高木、渡邊両先生と会食。二〇時修了。二十一時世田谷村に戻る。

十一月十六日 日曜日

八時半起床。銅版画の構想を練る。構想と呼べる程の大ゲサなものではないけれど、彫りたい意欲を湧き出させる泉を掘ると言い換えても良い。

どんよりとした空模様。十一時半世田谷村発。十二時半東京大学福武ホール、B2レクチャーホール。早大東大建築学生が集合してざわめいている。早稲田は模型を運び込んでいる。先生方もそろい、十三時十五分合同課題講評会。一部は十組ずつ3分の発表とそれに対する12分の講評。西葛西インド人会長さんも参会された。中間講評と同様、UR都市機構の方もクリティシャンとして同席された。詳細は「設計製図のヒント」30以降に述べ、又、再クリティークもしておきたい。良く組織された会であった。二年目の合同課題で、私なりに解ったのは、東大と早大では三年生の秋の、第一課題の位置付け及び参加する学生の枠組みが異なっていて、同じ土俵では評価出来にくいと言う事。又、同じ土俵に乗せて眺めるのは生産的ではない事である。

それを自覚しつつも、やはり講評会自体の一部は対抗戦の色合いを持ってしまうのは歴然としている。仲々講評会は複雑にならざるを得ない。来年もやるとしたら、少し枠組みに手を入れた方が良いかも知れない。課題の形式を変えるのが手取り早いのではないか。

二部の小集団クリティーク及び総評を終えたのが十八時。福武ホールロビーの懇親会はインドカレーの差入れがインド人会よりあった。近くの料理屋で難波、山城両先生、早稲田の若い先生達と二次会。世田谷村には二十三時頃戻った。

十一月十七日

八時起床。昨日の東大早大合同講評会の第一部で唯一東大生がクリティシャン達にお手許資料を配ったのを読む。「土手の先にあるもの」のタイトルである。余程考えを伝えたかったのだろう。読むと仲々良く考えている。自分が設計製図の教師としてこの学生に接していたらどうしたろうかと、ボーッと考えてみる。

この学生達の考えている事の本質は実に正しい。そして、キチンとしている。しかし建築らしき形式には歩み寄っていない。だからこれはファンタジーである。

こういう形の若い知性に、建築の形式に歩み寄れと言うべきか、言わざるべきかの判断は難しい。しかし私だったら君達の考えている様な事は建築史、庭園史の中に、こうしてあるよ、とは教えただろう。英国の温室の歴史を土台にして、ジェームス・スターリングの建築、そしてロジャース、ひいてはノーマン・フォスターの建築が生み出された事を話したかも知れない。彼等にとって、それは建築への入口になったかも知れない。惜しいなと思う。

建築を好きになる入口を、製図教師は巾広く用意した方が良いのではないか。それには少なくとも近代建築史の様々を知る必要があるのではないか。

すでに、近代建築の歴史は我々にとって、限り無い収蔵庫になっている。その収蔵品を使う能力は学生よりも、若い教師にこそ必要なのではないだろうか。

R172
十一月十三日

十時卒論発表会。昼食を挟んで十八時過迄。今年の卒論は各研究室の特色が良く出ていた。

入江研はスペイン、及び北欧の建築研究。これは今井兼次先生以来の伝統である。恐らく外から眺めれば奇異なものだろうが、先生の頑固さは私は嫌いではない。学生にその先生の頑固さの気持の中身がきちんと伝わっていれば、良いと思った。

古谷研はスカルパ。カルロ・スカルパの研究と今の日本の建築学生の生活の質との間の距離は大きいと思うが、スカルパを介して、建築をより好きになってくれる学生が増えれば、それは良いのではないか。

渡辺仁史研は新計画学の為の基礎編の編集であろう。外から眺めれば一番まともな研究群である。

石山研は全てサイト、M0のページに公表するので参照されたし。

しかし、毎年の事ではあるが全て、四〇程の発表を聞くのは疲れる。夕方には完全に頭がボーッとなってしまう状態になるが、時に学生の関心の動向、それに対する先生方の対応が解るので、とても興味深い。

二〇時過近江屋で一服して、世田谷村に戻る。今日は少し寒さがゆるんで過ごしやすかった。

十一月十四日

八時起床、昨日のメモを記す。昨日の卒論発表の合い間に「水の神殿」プロジェクトの拝殿部分、音の小ホールの模型スタディを見たのだが、やはり面白いモノを作っている時は身体が生き生きと反応するのを自覚する。この計画は楽しみを尽そう。造園計画の勉強をし直す必要もある。

鬼沼計画の大倉庫及び管理人室の計画造りも正念場に差し掛かった。自分で自分に気合いを入れる必要を感ずる。これで、厚生館の本館のWORKが始まると、ギアを入れ替えねばならない。

淡路島の山田脩二氏よりだるま窯の瓦の見本送られてくる。今の研究室の面々は初めて触れるモノではないか。実に浅草仲見世にはピッタリのモノなのだが。

R171
十一月十二日

昼前大学、打合わせ。設計WORK及び自力出版の件。十四時半製図室。設計製図。遂に今年は十点を選び切れなかった。学生は良く頑張っているのだが、何かがかみ合っていない。明後日に採点をかねた発表リハーサルを行う事として、十九時製図室を去る。私も、もうこれ位でいいだろう。二〇時世田谷村。

持ち帰った「水の神殿」の球モデルを前に色々と想う。疲れて二十三時横になるが、眠れそうにない。

十一月十三日

七時十五分起床。水の神殿エントランス部分の拝殿のアイデアが六時頃まとまりハッキリと浮かんできたので、昨日持ち帰った模型にマークする。八時了。これで今日の卒論発表会中に考えを模型化できるだろう。今日は一日シンドイ日になろう。九時前、世田谷村発。十時卒論発表会

R170
十一月十一日

十三時新大久保駅前で向風学校安西直紀と昼食。元気になって、本来の安西になっていた。良かった。向風学校の次について話し合う。キチンと二ヶ月間の空白を説明してくれた。十四時過研究室のA君も参加、彼も回復期の人間で仲々たくましくなっていた。若者達が、もがいて、はい上ってくるのを近くに見るのは実に感動的である。両君の健闘を祈る。研究室のA君は、初めて誉められました、等と言っていたが、いつも心配していたのだよ、実は。そう言う事は話せないのだ。と言いつつ、公開してしまった。えらくなった、と誉めたのは大公開したいのだ。

十六時半了。十七時新宿南口長野食堂で、「設計製図のヒント」28を書く。十八時高島屋十三階小松庵で鈴木了二氏と映像フィールド・ゼミの事、他を相談する。十九時過迄。世田谷村に戻る。今日は若者二人の生命力に接する事が出来て良かった。

十一月十二日

八時半起床。安西君が復活したので向風学校の事を再び考える。折角の才質達と出会ったのだから、何とか、形にしたいとは考えているのだが、どうしたものか。安西君は李登輝には単独会見するわ、今度はダライ・ラマに会いたいと言い出すわで何ともまとまりのつかない男ではあるが、その小じんまりとしないところが力でもある。ちなみに彼の稀代の珍本「睨むんです」は今や、中古商品市場で高値を呼んでおり、何と一冊 6800 円迄うなぎ登りしているそうだ。どうやら私の本なんかよりも巷間の評価は高いようで、安西の馬鹿本に迄馬鹿にされるようでは情ない。口惜しいではないか。確かにネットオークションでは 6800 円となっており、憮然としたのである。

間もなく、しかし「絶版書房 II 」より私の方も稀代の珍品本を出すので、お待ちあれ。今、表紙のデザインと裏表紙のデザインにこっている最中である。

R169
十一月十日

十時四十五分研究室。北海道音更町「水の神殿」スケール入りスケッチ。寸法を入れると全てが急に建築になる。全体の大きさを少し縮めて、凹んだ土地を作り、それが人工的空間を出現させるように工夫した。こういうWORKをしているとアッという間に時が過ぎる。十三時過M2ゼミ。十六時雑打合わせ。十七時半設計製図。フランク・ロイド・ライトのラーキンビルの模倣からスタートさせたチームが良くなっていた。かくの如き初歩的模倣は設計製図の初心者には有効かも知れない。ただ本人達が巨匠の手習いが有効である事を自覚できるかどうかが一番の問題である。しかし、良く模倣からスタートすることを受け容れた。それが一番の収穫。馬鹿程、この期に及んでもガキの本性現わして、臭い自我の衣を捨てないから、救いようが無い。二〇時半迄。近江屋で一服して、世田谷村に戻る。幾つかの便りが届いていた。

十一月十一日

八時向風学校の安西直紀と久し振りに電話で話す。少し参っていたようだが回復した。がっくり参らぬような人間はロクな者ではないが、それから回復する人間はもっと素晴しい。私は不動明王になった山口勝弘を見ているから、そういうのには半端じゃなくなっている。昼に近江屋で会う事にする。何を言い出すか楽しみである。

東大との共同課題の公開講評会が十六日に東大の福武ホールであるが、その講評方式が決まった。十グループは早稲田一、東大一、つまり一対一対の方式になる。早稲田の奴はこういう方式に弱いから、相当うまいものでも喰ってもらって肝を据えてもらわなくてはいけない。大学入試で東大落ちて早稲田に仕方なく来ているのも居て、その類の学生は赤門見ただけで、うつむいちゃうからな。まあ、このハンデは仕方無いものとして、当然私も考慮には入れてある

安藤忠雄がいいのは、アノ、オッさんこう言ったで。

「この福武ホールは福武さんの寄附で建っとんのや、だから、ワタシも設計料は寄附。もらわん。しかし、いいで、ロケーションが、赤門の隣りや」

福武社長は早稲田出身。安藤忠雄は東大も早稲田もナシ。裸一貫である。こういう感じで、東大落ちて、早稲田に来た学生はやれ。華の赤門脇で東大生と一騎打ちできるんだから。身震いしてやれ。

東大生にはこういうハンデが無いから、さぞかしつまらないだろうな。

R168
十一月八日

甲州屋より戻り、ボーッとする。本当はもっとボーッとしなくてはいけないのは承知なのだが、貧乏性でそれが出来ぬ。十四時過研究室直下の西早稲田発。難波先生と打合わせへ。十一月はたそがれの国、とはレイ・ブラッドベリの名コピーだが、いくらたそがれでも土曜日の午後に難波先生と会うというのは、いくら何でも寂し過ぎるな、とつぶやく。つぶやいても、つぶやいても、それでもたそがれの、と字余り的つぶやきだ。もうヤケクソ。

偶然居合わせた伊藤毅先生も交えて雑談混じりの設計製図談義。その感想は「設計製図のヒント」26に記す。

十七時半世田谷村に戻り、日本シリーズでもみるかとTVをつけたら巨人が負けそうな試合で、ザマミロと早々と眠ってしまった。

十一月九日 日曜日

夜半に起きて読書したりで、結局起床は九時半。メモを記し、「設計製図のヒント」26を書く。十三時前修了。十四時半近くのソバ屋宗柳で昼食をとる。

十一月十日

七時半起床。「設計製図のヒント」27書く。学生に向けて書き始めたものだが、まだ百数十枚に過ぎぬ。まだ道半ばだな。九時半世田谷村発。

R167
十一月七日

十三時前研究室。静かだ。山口勝弘先生に「MONSTER」を送る準備にかかる。十四時半輿石研との合同ゼミ。十五時製図準備室。製図室にて東大との共同課題最終プレゼンテーション及び十点セレクト作業。二十一時半迄。二十二時半世田谷村。抜いていた夕食をとる。体に悪いのは承知だが空腹と徒労感で喰べざるを得ない。

十一月八日 土曜日

七時前起床。八時四〇分世田谷村発。九時半研究室。十時、北海道「水の神殿」のクライアント、K社長来室。十一時迄打合わせ。ようやく、案がまとまり始める。着工は雪融けを待ち来春となった。新事業の広報、商品容器のデザインも手掛ける事となる。ようやく、面白くなりそうである。

K社長との打合わせの後しばしボーッと考える。もう学生の製図の事等頭から洗い流さねばならないのだが、気になってしまうところが先公の業だなコレワ。「水の神殿」つくるのも大変だけど、ミジンコみたいな学生育てるのも、もっと大変なのだ。そして、大変を通り越して困難なのを実感しているから、エネルギーを注入してしまうのも知っている。余程俺は馬鹿だなと知るのだが、育てるのが困難過ぎるので、それで面白いのだな。ミジンコやメメズを人の形につくる感じだ、設計製図教育は。

十二時朝昼食へ。

R166
十一月六日

九時世田谷村発。十時大学。WORK集中。十三時過小休。TOPページに「MONSTER」アイデアを一部提示。十四時教室会議。十七時半製図準備室三年設計製図。難波先生より連絡あり、「どうもあんまり、うまくいってない早稲田は」と伝える。十一月十六日日曜日の公開講評会は各々十グループずつのみ模型持込み可のプレゼンテーションとなる。二〇時過製図室を去る。個々のグループに直接アドバイスする。設計製図は目と手で学ぶのが理想だ。

近江屋でひと休みしていたら、再び難波先生より電話あり、まだ製図室で指導中との事、東大もやってるなあ。明後日、打合わせでお目にかかる事とした。

十一月七日

八時半起床。山口勝弘先生より「絶版書房」に関する資料第2信が送られてきていた。「瀧口修造先生の有名なデュシャン語録も彼自身の手造り本でした」とあり、ロシア・アヴァンギャルドの詩人マヤコフスキーのなんでも屋さんぶりや、「キースラーもブルトンの詩集を作っておりました」とあった。

八〇才の老アバンギャルドからの便りの品格に打たれる。部屋に自らを幽閉し不動の人となり、脳内風景の知的構築に生き、それを楽しむ先生の姿を想うだに、芸術家はまだ生きているのだと痛感する。

李君、山口勝弘先生に「MONSTER」のアイデア、モデルの一号送りますので、プリントアウトしておいて下さい。

十時小休。

R165
十一月五日

午前中、木本さんに制作依頼している作品について考える。午後外出。夕方、再び木本さんと念入りなFAXのやり取り。彼とは顔を直接つき合わせていない方がコミュニケーションが上手くゆくな。このやり取りは制作ノート十一月五日に公表する。淡路の山田脩二と連絡。酒を飲んでいない山田脩二は立派な声で立派な話し振りで、何となく気押される感じだ。この男は、立派な男なのだろうな。

十一月六日

六時起床。広島の木本さんとのやり取りを振返る。木本さんの如くの作家には、あやふやな抽象的言語での伝達はマイナス方向に働くのが段々了解できてきた。こちらの言語能力、作成能力の今のところ限界だな。木本さんには同じ雲を見ながら、あの感じの曲面を作れませんかの如き会話が適しているのだが、いつも同じ雲を見ていられるわけもないのが現代だ。古代の人間達はいつも同じ大自然を共時共有していたからこそ、同じイコンを神として共有可能だったのだろう。木本さんには教えられる事が多い。

山田脩二が淡路島の自宅脇に「だるま窯」を地元の方々と作り上げた。この自称六十九才の痴呆(地方)も、もしかしたら木本さん同様に立派な男である。

二〇〇六年に開催された兵庫県立美術館の「山田脩二の軌跡 - 写真、瓦、炭・・・展」のカタログをしっかり読み直してみる。最後につけられた年譜も詳細に追ってみる。仲々の人間であるのが、今更ながらよおく解ってきて、今更ながら山田脩二は私なんかよりも、余程立派な生き方をしているなと、しみじみと解ってしまうのである。友人に引かれて善光寺参りだなコレは。

山口勝弘先生からの「絶版書房」の印のコピーといわれを又、しみじみと手にする。小さな紙片であるが、万感の思いを感じ、重い。山口先生は芸術家、山田脩二は瓦屋、木本さんは金属作家であり、私石山はやっぱり作家だろうな。作家よりチョッと上の作屋でもいいや。これは、さくやと読む。豆腐屋、魚屋と同じ称号である。つくりやと読むと臭味があってクサイ。山口勝弘先生も一時御自分の屋号に困って、環境芸術家とか、メディアアーティストとか複合表現作家(これはなかったか)とか名乗られていたが、今は芸術家が一番座りが良い。木本さんも早く鍛冶屋を名乗られるようになって欲しい。もともとが作家なんだから、より上の鍛冶屋を目指すべきである。

ところで「だるま窯」であるが、私、作家の石山も、瓦屋さんからだるま窯屋さんになった山田脩二に敬意を表して勝手に「だるま窯宣伝屋」を名乗る事にしよう。で時々、しばしば無関係な文脈で淡路の「だるま窯」が日記やら、何やらに出てくる事になろうが、これはハッキリ、宣伝であり、他の何者でも無いのである。・・・しかしなのだ、ところで「だるま窯」というのは何を焼いて売っているのであろうか、それが今のところ不明なのだが、風の噂、酒の流言ではどうやら、昔風の瓦を焼いて売っているらしい。山田脩二は立派な復古運動家の顔になっているのだな。淡路島のジョン・ラスキンだ。ダスキンではない。

だるま瓦で何か作ってみようと決めた。いつになるかは知らぬ。

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十一月四日

十一時前大学、鬼沼の穀物倉庫に関してアイデアが生まれたので、スケッチに残す。小さな模型を作るのを頼む。十三時過了。甲州屋で昼食。十四時了。十六時半、いくつかのアイデアをスケッチにする作業を終える。十八時前製図準備室。十八時三年設計製図。今日で十点に絞り切ろうというスケジュールであったが、団子状態でとてもそれどころではない。

しかし、ドン底状態からはい上がってくるグループが幾つもあって今年の製図は苦労が大きいが、面白い。二十二時半迄。

二十四時前世田谷村に戻る。夕食抜きであった。

十一月五日

六時過起床。新聞を読む。WORK。九時半加藤先生と電話で打合わせ。設計製図の件。十グループ選択の人材セレクションを努力の才能優先とすることにした。

R163
十一月一日

朝渡辺君に連絡して、京王稲田堤の土地を見ておくように指示する。今月は自分の制作作業に没頭する、と以前から決めていた。今のうちにもう一段階制作の水準を上げておきたい。建築設計は誰も相談相手がいないのは自明の理であるので、自問自答を続けるしかない。自分は自分で新しい未開の地に移る。

十一時半宗柳にて渡辺君と会食、打合わせ。諸々の雑談。十三時半了。空は澄み切った青になっている。世田谷村に戻り、「立ち上がる伽藍」計画に没頭する。世田谷美術館での個展で提出したと自分では自覚している構想の、ディテールのデザイン作業である。

「若林奮犬になった彫刻家」酒井忠康、読みおさめる。厄介な本であった。書く側も芸術家、書かれる側も芸術家であるから、一度読み流した位ではとても深みには入れない。二度三度と読み直してゆくうちに少しづつ世界が開けてくる。そんな類の書物であった。

しかしながら、二度、三度と読み返した私の方の関心も又、不可思議なものが我ながらある。恐らく、かくの如き書き方、書かれ方の双方の関係に一種の空間の如きを視ていたのであろうと、これが情報空間世界の入口なのだろうと実感させてもらった。

若林奮の彫刻作品には二〇代に関心があった。実物は軽井沢セゾン美術館の鉄の小さな庭状のオブジェクトしか見ておらず、他は小画廊で見たかどうか記憶も定かではない位だ。それ故、今は殆ど関心がない。酒井忠康の書物を読み直しても、再び若林奮のオブジェクトに関心が向いたわけではない。私がいささか注意深く関心を払ったのは、書かれた言語と化石となったオブジェクトの関係が、とても二〇〇八年的、つまり現代的であったという事だ。

今日は収穫があった。早目にゆっくり休んで、明日いささかの刈り取りにいそしもう。月下美人一輪咲く。今年は計四度も咲いた。

十一月二日

七時半起床。昨夜はグッスリ眠った。WORK十時半迄。朝食十一時了。WORK。十七時過迄WORK。

十一月三日

六時起床。新聞を読んで少休。

昨夜は巨人が連敗しそうなので、イソイソとTV観戦した。途中でこれは敗けだなヨシヨシと思い何時間も観るのも嫌で打切り、本を読みながら安心して眠りに落ちた。ところが新聞を読めば九回にラミレスという男がホームランを打って巨人が勝ってしまっているではないか。ゆだんしたのがイケなかった。私は長嶋嫌い、原も嫌い、とその理由を書いたら本になる位に嫌いで、それで巨人軍も好きではない。別にうらみがあるわけではないが、趣味趣向の問題として根深いものがある。しかし、西武ライオンズも嫌いなんだな。アノ、ブルーのユニフォーム、キャップがイヤだ。だから、本当は巨人が一人で勝手に負けるのが一番良い。

八時半WORK。十三時半迄近くの喫茶店で仕事。原口氏とバッタリ会う。夕方から夜にかけて、「美について」4書いて、バッタリ、眠る。酒も飲まず、TVも視ず、煙も吸わず、であった。

十一月四日

七時起床。九時過世田谷村発。快晴ではないが薄い陽光が差している。マア一生懸命やろう。

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