R242
二月二十八日

七時起床。昨日は午後ドローイングWORK。十三時より卒論生面接。今年は少人数になりそうで、密度高くやるシステムにする。ウォーラル先生の学生に対する認知が不徹底であるので、もう一度アナウンスする事にした。夕方、ウォーラル先生と近江屋で打ち合わせ。ウォーラル氏は完全にスタンスがインターナショナルで、日本国内での早稲田建築には余り関心が無い。その志や良し。学生はすぐについてゆけぬかも知れぬが、でも頑張ってもらいたい。

十時半世田谷村発。十一時半研究室。前橋の市根井氏来室。世田谷美術館で試みた木製小生活用品の新タイプを持参して下さる。彼の持続力は凄いな。頭が下がる。キッチリ対応したい。

二冊の「アニミズム紀行2」にドローイング描き込み。一冊を市根井さんに手渡す。

十三時大階段教室。卒業計画・修士計画・論文公開講評会。多くの人がつめかけていた。渡辺仁史先生の尽力でITで同時中継しこれは世界に発信された。これからの公開講評会は全てそうしたら良い。

学部卒業計画では「Abandoned Land 産業埋立地の再編」「遊休の上のパレット」「名もなき場所 - 都市の裏側の存在理由」の上位三作品が優れていた。卒業計画は全教員の採点の集計でランクされる。先生毎に大体大きなギャップが無いのにいつも、いい意味で驚かされる。先生方も皆学生時代、一生懸命卒計に取組んだから、それがDNAとして後輩学生への暖かい眼差となるのだろう。

川端美絵・曽我崇弘・立野さおりの「名もなき場所 - 都市の裏側の存在理由」は収穫であった。この学年には私はいささかの特別な愛着がある。一時期早稲田設計製図は低迷の極みに達した。学生の非力に因があるわけではない、担当教師に因があると当然の事ながら気がつき、腹をくくった。私は私の義務だけはしかっり果たそうと覚悟した。それで設計製図教育に力を注いだ。それで私はこの学年の設計コースの学生の一人一人の力と個性を私なりに把握した。かなり厳しく鍛えもした。それぞれの知力、体力、感性も知った。しかし、こちらの体力も、学生達だって、そんな事を続けていたら参ってしまう。それで卒計はほとんど見なかった。学生達の地力に任せた。川端等の卒計作品は三年時への経験を良く生かし、更に延びていたのが収穫であった。

しかし、それは内向きな事情に過ぎない。より広い視野で眺めれば、この作品は今の時代の学生として考えたい事、テーマ、方法、戦略を適確にとらえていた。端的に指摘すれば、総合的な地球環境の問題、R・バッキー・フラーの宇宙船地球号のコンセプト、今やそれがクライシスの段階に迄辿り着いているという、若者に特有の感性の直観力が良く示されていた。東京湾岸のゴミによる埋立地の計画である。そこに環境調整機能を持つ埋設された施設を計画している。建築の姿形は視えない。それが魅力であるのだが、ここに示されている気配(ウォルター・ベンヤミンのアウラ、又は遊戯的技術への直観)のようなものを、何等かの形で地上に姿を現せるような努力がこれから必要であろう。

修士設計では吉田涼子(石山研)の作品(早稲田建築設計賞)が際立っていた。私は私の研究室生には決して甘くないが、そんな常識をはねのけても良い位に、建築という概念の拡張力を垣間見せるものがあった。

この計画も又、学部の優秀作品と同様に、ある意味では「海へ」の無意識がある。吉田は更に総合的に海をとらえ、環日本海文化を想定し、そこにモビリティをベースとした旅の共同体を設計しようと考えたのである。ル・コルビュジェの大型汽船による旅から生まれた建築イメージの検討から設計を始め、江戸時代の地理の旅、おかげ参り、ええじゃないか等を広く考究し、吉阪隆正等が意識的に発見した環日本海地図に辿り着き、そこに様々なモビリティを備えた道具群を設計し、日本海を巡るツアーをかりそめの共同体として構想したのである。修士設計としては最良の部類に属するものであろう。しかし、問題も又多いのだ。現実的地理空間を地として、海を仲介とした非連続的、それ故に、これも又、ベンヤミン言うところの遊戯的技術を構想したのだが、この計画は実現可能性が大であり、身近なものでもあるので、リアライズへの具体的プログラムを自身で構想する事が必要になるだろう。吉田はこの計画らしきを実現する為の戦略を練る必要に迫られるのである。本当に優秀な人材というのはそういうものだ。

この計画の実現に人生を賭けたら良い。それだけの事である。女子の本懐であろう。しなやかに、逆風に吹き倒されずに前へ進みなさい。

この作品は明らかに学部の卒業計画の水準を超えていた。まさに修士設計であった。

発表、講評修了後、先生方でいささかのミーティング。その後、ウォーラル先生、ゲストとして来場された古市徹雄先生と会食。二十一時過世田谷村に戻る。

R241
二月二十六日

十三時大学雑用。十三時半絶版書房2号にドローイングを入れる。12 冊 24 点了。十五時半研究室発。十六時目白GKデザイン機構栄久庵憲司さんの道具村の話しを聞く。

話しを聞いている間に色々とアイデアが浮かぶ。不思議なものだ。天性の運動家だな。

十八時了。辞す。十八時過ぎ大久保近江屋でF氏と会い雑談。二〇時迄。二十一時世田谷村に戻る。

二月二十七日

冷雨続く。九時前起床。昨日は絶版書房2号が一日で十数冊発注があって、残冊が百八になった。二月中に百を切れれば、何とか予定通り三月二〇日に絶版、第3号を送り出す事が可能になるであろう。一号の二〇〇冊が何とかほぼ予測していた通りに完売絶版したので、2号は二〇冊を増冊した。読者の皆さんにはどうでも良い様な小さい事であろうけれど、作っている側は色々と考える。印刷屋さんへの支払いの事。郵送料の事。封筒のコスト、そして私のドローイング時間の捻出の事等々である。印刷屋さんは我々と同じように経済的には大変な氷河期である。ここに迷惑をかけてはいけない。冊子を百四ページにしたので当然コストは上がる。しかし、読者の皆さんにとってはもうこれ以上値段を上げたら、買わないぞの、無言のプレスも当然感じている。しかし、字数とページは増やさねばならない。一晩では読み切れないものにどうしてもしたい。1号の読者の皆さんからの便りは、一気に読み切ったというのが多かった。それを、私はもう少し字数を増やさねば不満足なのだなと受け止めた。詩集じゃないんだからなあ。それに私詩人というのは全く解らないし。あの人達は冬のセミみたいな者であろううし。

で2号は字数・ページ数・ドローイング数共に限界状態迄引き上げてみた。そろそろ何冊かは読者の手許に届き始めているにちがいない。出来れば率直な感想批評をいただきたい。

雨が、みぞれまじりの雪になった。今年一番の寒さだそうだ。

R240
二月二十五日

昼頃研究室。いつも研究室に辿り着く頃は一仕事終っているので別に何もする事はないのだが、いそがしく過す。研究室OB・OGに幾たりか時間刻みで会う。今の日本社会の酷薄さを知る。十五時過、絶版書房「アニミズム紀行2」の冊子にドローイング入れ作業。5冊だけドローイングを入れる事が出来た。

この5冊はGAブックSHOPに行ってしまうので、直接メールでオーダーして下さる私の読者には手渡せないのだが、良いドローイングを描き込んだと思う。GASHOP向けに、建築的ドローイングを描いた。幾たりか、読者から封書他をいただくが、皆それぞれに独特なもので嬉しい。その後久し振りに近江屋で一服する。その後、うだうだと渡邊と打合わせして、二十一時前世田谷村に戻る。

今日は絶版書房の本の二号便がようやく百部チョッとの発注となった。先日から二号は発送しているが、その手渡しの反応が楽しみである。

二月二十六日

八時過起床。この天候が菜種梅雨というものらしい。気候が変調をきたしていると言われるし、実感もしているが、日本の四季の移ろいのリズムの骨格は持続しているのだろう。二階から間近に眺めている梅の花もほぼ散り終り、白と濃紅の色調のざわめきになっている。地面に落ちた梅の花片と椿の赤の片々の取り合わせも美しい。自然というものはその面白さ無限である。曇天の許、うっとうしいと思うのも自分、でも仲々美しいではないかと想うのも自分、全て人間の内にその観相のキーが在る。

絶版書房「アニミズム紀行2」のドローイングは五〇点を終了して、あと二〇〇冊四〇〇点程を成さねばならず、昨日から自分の脳内の立体イメージのエスキスとして成しているのだけれど、この作業の成果は皆他人の手に渡ってしまうので、逐一記録をとっておく必要があると考えた。すでに絶版書房一号の全冊子発送が終了したが、二百人超の方々の手に私のドローイングが仕舞い込まれているわけで、その状態を想像すると気持が和むのである。

このドローイング作業は、私が自身で勝手に想定している創造力のピーク時に、私なりにほぼ理想に近い形での創作立体を作ろうとしているプログラムへの準備作業でもある。絶版書房の絶版的活動についても考えているので、いずれ公開したいと思う。

R239
二月二十四日

十一時研究室、ミーティング。十三時教室会議。十四時過了。十四時半より絶版書房二号「アニミズム紀行2」にドローイングを入れる。

二号目は、一号よりも読み甲斐がある筈だが、手を抜かずに一冊に2点入れた。体力、気力を要する。一号からガラリとドローイングの主題を変えた。チベットの高地で体験した、高地の陽光が作り出す雲の影が、古代文字のはじまりではないかというインスピレーションを得ていたので、その体験を冊子に描き込んだ。

形象と意味の関係は象形文字では決定的なものであろうから。古代人が荒地に雲の影を見ている感じになってやってみた。十一時了。

十九時世田谷村に戻る。「ひろしまハウス」紀行前章に手を入れる。ひろしまハウスの次がようやく視えてきたような気がする。解らないと乗り越えられない。北海道水の神殿スケッチ作業。二十二時半。WORKを小休してる時に考えついた。明日からまだ二〇〇冊にドローイングを描き込まねばならない。墨と筆と絵の具で描いているのだがこれを対面している物のエスキスにする事ができないかな。それが出来れば合理的だな。

二月二十五日

七時過起床。寒い朝だ。TVはすでに崩落を開始していると実感する。朝、ニュースを視たいとTVをつけると、大半が芸能番組の枠組みの中でのニュース報道である。しかも新聞の活字を媒介にした、噂話の如くを垂れ流しているのである。こういうTVが今の政治をとやかく言えるのかな。

絶版書房で次の次にやりたいのは、つまり四号では「千年の時間」をやってみたい。

R238
二月二十三日

京王線沿線での仕事を終え、十四時烏山に戻る。十五時前、「ひろしまハウス」アニミズム周辺紀行3佳境に突入した。この主題に自信を持ち始めた。

キーツ詩集対訳読み始める。いささか仰天する。「アニミズム周辺紀行」で考えようとしている事が美しい言葉で言い表わされているではないか。夭逝した、しかも一七九五年生れの詩人の中に、今考えようとしている事の中心が在るのであった。イギリス人、しかも十八世紀末、25 才で死んだ若者の中に、理想とも想われる自然、大地と人間の結び付きの形があるとは!ボーゼンとして読みふけり、山手線を二周してしまった。仕事にならないと決断し、研究室は休みとし、世田谷村に戻る。

「ギリシャの壺のオード」の全ては、「アニミズム周辺紀行1」の世田谷村の母のデクの三尊にそのまま、あてはまるのである。

とすれば、母は十八世紀末キーツの趣向を、同様にいささか持ち得ていたのに違いない。十八世紀末のイギリス人には、母と同じく大地の精霊や、自然の妖精達が生きていたのか、これはキーツの天才と片付けるわけにはゆかぬだろう。

二月二十四日

七時過起床。昨日はまさに「キーツ」の一日であった。キーツを何故読み始めたか。いつだったか忘れたが、鈴木博之さんが「キーツはいいよ」とポツリと洩らしたのを、かろうじて憶えていたのだ。

私は詩人というのが、その存在形式をふくめてあんまり良く解らない。正直、アルチュール・ランボーなぞは凄い言語能力だなあとは思うのだが、むしろその人生そのものの方がはるかに興味深い。しかし、このキーツは良く解ったような気がした。対訳で読んだのだけど、日本語の座りが良くないなと思うような処は英文(原文)も読んでみたいと思い、つたない英語力で読み、成程、英語という言葉の力は仲々、解りやすいものだなと痛感したりもした。

八時になったので、鈴木博之さんに電話してキーツの事をさらに尋ねる。

アニミズム周辺紀行3は何とか目処が立ってきたが、その先はまだ闇だ。しかしながら行けるところ迄行ってみるのは決めている。キーツの生きた時代と彼の個人史を調べたい。十時世田谷村発。

R237
二月二十三日

八時前起床。昨日曜日は世田谷村で一日過ごし、ほとんど動かず。ベイシー店主菅原正二とFAXのやり取りをして、原稿数枚書いただけ。一日中ローマの中川昭一前財務大臣状態であった。動いても仕方無い時があるのだと思いたい。

「ひろしまハウス」ノートは百枚に辿り着いたが、もう少し書けるだろう。絶版書房3回配本分の作業と、設計他の仕事とがうまくからんでくれると良いのだが、そう上手くはゆくまい。

R236
二月二十一日

昨日二十日は津田沼の千葉工業大学へ十三時着。千葉4大学建築学科Cリーグ3年課題合同講評会にゲスト・クリティックとして出席。京都工芸繊維大学・岸和郎、東京大学・千葉学、藤本壮介各氏と共に千葉工業大学、千葉大学、日本大学、理科大学の 18 点の作品に接した。

観客は盛況であった。この試みは4大学にとって成功であった。古市徹雄先生が尽力されたのではないかと憶測するが、それぞれの大学がそれぞれに努力しているのを感じた。

個々の作品には触れぬが千葉大の吉田紘明君のモノ、千葉工大の中野友貴君のモノ等が印象に残った。それぞれの建築学科がスクール・カラーを持っているのにいささか驚いた。スクール・カラーは明らかに先生のカラーでもあろう。

どうしても早稲田建築の3年生と比較して見ざるを得ないが、比較して見ると早稲田建築の学生は良くきたえられていると考えた。早稲田の毎回の公開講評会よりも、ズーッとやさしく講評したが、それでもなお、とまどいを見せた学校もあったようだ。ゲスト・クリティックと言ってもこちらは演芸のお客さんで行ってるわけでも、ヒマでも無いのだ。キチンとクリティックしようと思うから、駄目なモノ、どうにもならないレベルのモノには、ダメだと言うのである。建築同好会にお呼ばれしているわけではない。

千葉工大には総じてエネルギーを感じた。建築を好きになる事が教えられている。千葉大学にはキチンとまとめようとする傾向を見た。3年生にはもう少しのびのびと自由な方が良いのではないか。日大には、これから延びるかも知れぬ芽を思わせるモノがあった。良い指導者に恵まれれば学生は育つだろう。理科大は淡白であった。

十八時前終了。学生、各大学の先生方と懇親会。その後、クリティック達と二次会。深夜世田谷村に戻った。

今日は十時頃起床。昨日のメモを記す。

千葉Cリーグの学生諸君は二月二十八日の早稲田の卒計、そして修士設計の公開講評会に是非参加していただきたい。興味深いと思います。入場は自由です。

十二時過西調布へ発つ。

R235
二月二〇日

六時半起床。「立ち上がる伽藍」計画を熟慮する。 ツタンカーメンの棺に入っていたという、サヤエンドーの種をいただいて、今年はそれを三階のテラスに置いたプラントBOXの土にまいた。見事に濃い紫の花を咲かせ、黒紫色のサヤをつけた。美しい。ツタンカーメンの紫かと思ってしまうところが面白い。歴史は物語りをつくる事があるのだと実感する。

十時四〇分研究室に連絡。「絶版書房」オークションの結果を問う。私が想定していたよりもズーッと高値 35000 円をつけて下さった方がおられた。一万円を上限にしようと考えていたが、昨夜は丹羽君が不在でそれも出来ず、考えた末、三冊共に 7500 円にさせていただく事に決めた。要するに、昨夕十八時以前のオークションの状態に戻させていただく事にした。三冊のオークションに参加していただいた方には御理解を願う。

しかしながら高値をつけて下さった方々には、その気持だけは有難くいただくと申し上げて、御礼の言葉とする。二号三号と次第に進化してます。

R234
二月十九日

六時前、起床。「設計製図のヒント」に難波和彦氏との討論を書く。今日の二十四時で絶版書房第一回配本のラスト三冊の、いささか念を入れた感もある手描き本のオークションが終了する。どうやらオークションは一週間もズルズルとやるようなものでは無いらしきを知ったが、結果はどうなりますか。今のところ、4500 円 - 7000 円の値が付けられている。

ある出版社の方から、これはウィリアム・モリスのケルムスコット版の試みみたいなものですね、とメールをいただいて、冷汗をタラーリと流したが、電子時代の装飾を考える糸口にはしてみたいと思っているのは確かな事だが、それを感じていただくのにはまだまだ力不足なのだ。

六時半了。今日も朝早く京王プラザホテルにマリア・セシリア夫妻との朝食に出掛ける。七時四〇分発。

八時二〇分京王プラザホテル、マリア・セシリア・ドス・サントス夫妻、二十四才の息子さんと、朝食。息子さんにはサンパウロで6年前に会っているが、ビックリする位に背が高くなっていた。ブラジルの竹みたいだなと笑う。

私の昨年の世田谷美術館の資料他を渡して、ブラジルでの展覧会について話し合う。

リオデジャネイロ大学の、あの印象的だった女学生ガブリエラ(最貧困層ファベイラの老婆、まぶたが垂れ下がってしまう病気になった、その老婆の為の眼鏡をデザインし、そういう老婆を生み出す社会をリサーチし、そのたった一人の老婆の眼鏡を作る工場迄考えようとした、私がこれ迄会った若者では最強の人材と思われる)は結婚して子供が生まれ、リオデジャネイロ大学の教師になって頑張っているという。マリアも「彼女は強いから大丈夫」と言っていた。ああいう強くて若い才能は日本には居ない。

私が世界で出会った最強の若い才能である。ズーッと気になっていたので、ああ頑張っているのかと、胸あたたまる。ガブリエラにはマリアから石山が決して忘れていないと連絡してくれる事になった。どんな仕事を母になった彼女がするのか楽しみである。

十時過了。マリアが二川幸夫に電話したいと言うので連絡を取ったら今、インドだそうだ。猛者はまだ世界中に居る。老若男女を問わず。

十時半過研究室。オークション・ページをのぞく。高値が7500円に動いていた。今夜に集中するのかもしれない。

十三時ウォーラル氏来室。基本的な研究室の教育方針等再度相談。国際化に向けて走ってもらうのが一番だ。

十六時絶版書房第二回配本「アニミズム周辺紀行2」印刷全て仕上がってくる。第一回から二〇冊増やして二二〇冊としたが、本の仕上がりは一回目と比べて格別に良くなった。読み応えがある。早速五冊に新しいドローイングを入れる。ドローイングも日記をつづける如くにしないと、続けられないなコレワ。今度は一冊に二点。我ながら才質の乏しいのを痛感するも、手は一切抜けない。

十七時つかれて小休。長くは出来ない。

北海道の「水の神殿」の施行体制を整えなくてはならず、ハードだ。

R233
二月十七日

十一時半前、京王プラザホテルで諏訪氏、太一両氏に会い、昼食。西宮市同氏のヨットハーバー周辺の整備計画の話しである。お役に立てるかも知れぬので考えてみる。何人かの人達の顔が思い浮かび、色々と知恵を借りて、下ごしらえしてみよう。十三時過了。新宿駅でお別れして、大学へ。

十四時建築学科入試「空間表現」採点。早稲田建築独特の入試の一部である。通常の科目に加え、毎年、先生方が知恵を絞って問題を創作し提示する。古くは石膏デッサンであったが、これでは創作力というか表現力の一端を知る事が出来ぬと、今の形式に変更した。毎年の採点が楽しみでもある。沢山の先生方と議論しながら、一点づつ点をつける。大変なエネルギーを費やすのである。しかし、この入試、そして採点方式が早稲田建築の伝統を継承する種子の一つであるから、気合いを入れて取り組む。修了後先生方と四方山話し。

新宿味王に寄り一服し、もしやと目星をつけていた京王線芦花公園駅近くの居酒屋ちょうちんに寄り、手帳忘れてなかったか尋ねたら、やっぱり大事に保管されていた。入試他で忙しかったので研究室の者に電話番号調べさせて問い合わせたが、電話では忘れ物は無しとの事であったが、どう考えてもここしか無いと、執念深くやってきたのである。店主も気にしてくれていて、「忘れ物無しなんて言って申し訳ありません」との事であった。たかが手帳、されど手帳で、手許に戻ってホッとする。失くしてガッカリする事もあれば、出てきてホッとする事もある。あきらめてはいけない。二十一時芦花公園駅より歩いて世田谷村に戻る。

二月十八日

四時起床。いくたりかのメモを記す。グーグルで検索した西宮のヨットハーバーのマップを眺め、又、周辺の写真も眺めて色々と考え始める。

五時半、「設計製図のヒント」難波和彦氏との討論、書き終える。再び眠り、六時半再起床。七時過発、今日も京王プラザホテルへ。

八時京王プラザホテル、ロビーでサンパウロ大学のマリア・セシリア先生と会う。ブラジルでの展覧会の相談、その他。彼女は東大での講義とワークショップで来日している。八時四〇分了。大学へ。九時半前大学研究室。M2の相談他。絶版書房「アニミズム紀行1」の最後の二〇冊程にドローイングを入れる。これでようやく、一号に関しての私の作業は終了した。雑事も入ったが、五時間程でやり遂げた。集中したのでグッタリとなる。 稲門建築会事務局長と打合わせ。アベルとチリの件打合わせ。

2 月 20 日は千葉工業大学、4号館の製図室で、C・リーグ(千葉工業大学、千葉大学、日本大学、東京理科大学)の公開講評会があり、ゲストクリティークとして招かれている。入場無料、先着 100 名との事である。関心のある人は来たら良い。

2 月 28 日土曜日午後は早稲田建築学科の修士設計、卒業設計の公開講評会である。場所、その他は追って掲示する。

絶版書房「アニミズム周辺紀行1」のオークションは明日の夜12時で締め切りです。

R232
二月十六日

十五時半過、入試のチョッとした合間に研究室に寄り、雑事とサイトチェック。朝八時過から入試の監督員予備として控室に閉じ込もっているのである。只今十六時半、アト少しで解放される。

時間がたっぷり過ぎる程あって、絶版書房3号「ひろしまハウス」ノートを 91 枚まで書いた。

先程研究室で、二月十五日付の難波和彦先生からのコメントをプリントアウトしたのを受け取った。おたがい六〇才を超えてからの議論は仲々、その基調のニュアンスの設定が難しいのだが、次世代の若い知性の為に半分はやってるようなもので、アト半分は自分の先の事を拓くためにもやる事だ。

難波和彦先生が展開されている論の中で重要なのは次の四点であろうと思われる。

一、石山は固有の作品とプロトタイプへの志向との分離に矛盾は自覚しているようだが、それを解決する意志はあるのか。

二、ライフスタイルはデザインできるか。

三、DIYについてと、それに関連して松村秀一先生、難波先生とのやり取り「アメリカ人て、やたら自分でつくりますね。驚くべきことに、部屋の増築まで自分でやっちゃう。そういうのは日本にはないですね」「ないですね。・・・おそらく日本は職人が安かったんじゃないか。・・・昔は安かったんだろうと。」

四、剣持れい(日に令)の「規格構成材方式」については、いずれ改めて。

四を除き、三点に関しては、出来るだけ早く「設計製図のヒント」に於いて考えを述べる。

今朝は都内の電車が皆遅れ、早稲田の創造理工入試は全て一時間遅れとなった。夕刻より、ブラジル・サンパウロ大学のマリア・セシリアと栄久庵さんと会食の予定であったが、あまり遅れても失礼と思い欠席とした。

十九時近江屋で猪苗代湖鬼沼計画の打合わせ。大きな図面をひろげて、店にはめいわくをかけた。45ha の鬼沼・時の谷を中心に展開しつつある計画は、未来へのライフスタイルへの提案も含めた計画モデルにしたいと考えている。二十一時過世田谷村に戻る。

二月十七日

七時起床。諸々のメモを記す。サンパウロ大学のマリア・セシリアからの電話あり、明朝八時京王プラザホテルで朝食を、となった。手帖が行方不明なので、ささいな事もとりあえずここに記しておく。絶版書房の3号にいささか苦しんでいる。

十時半発。京王プラザホテルへ。今日は向風学校の諏訪君の父上がわざわざ神戸から上京されているのでお目にかかる。

R231
二月十三日

十三時西調布でH氏と会う。「東京の地霊」に眼をとめて、アッこれね本屋で見て読みたかったんだけど、とうらやましそうにするので、じゃ、あげるよとゆずってしまった。三冊同じモノを持っていたので、彼のような読書家には読んでいただきたいと思ったので、良かった。お返しに「そろそろ畑やった方がイイヨ」と忠告されてしまう。

十八時過芦花公園駅近くのちょうちんで、世田谷美術館のN、M両氏と会食。NTT出版からの世田美講義録の件で相談する予定であったが、久し振りにお目にかかったので近況報告に終始してしまった。Nさんは今年のメキシコ展で大変なようだ。私もチリで頑張っているが、ラテンは大変だ全く、人生観がまるで違うからなあ。Mさんも前向きな気持ちを持ち続けているようで嬉しかった。二十一時過楽しみは尽きぬが、お別れ。春一番の風に吹かれながら世田谷村に戻る。彼等は昨年の世田谷美術館での展覧会で得た財産である。NTT出版の本は少し遅れそうだな。

二月十四日

近くの梅林の梅がいきなり咲いて、世田谷村の梅の花共々窓の外は豪華である。ひろしまハウスと幻庵とのつながりを考えている。今、対面しているプロジェクトは勿論の事、その先へ進む為には、考えをつきつめないといけない。この先は今から生み出される。

二月十五日 日曜日

七時起床。スケッチしては考え、考えてはスケッチの一日であった昨日は。

二十二時前、「ひろしまハウス紀行」 71 枚書いて小休。非常に疲れた。紀行と言っても、遂にひろしまハウスからほとんど一歩も外に出ない旅になった。外に出る必要もなくなってしまった。

先程、バンコクの安西君から電話が入り、明日プノンペンの「ひろしまハウス」に入ると言う。安西君の「ひろしまハウス」に於ける展覧会の成功を祈る。若い人の闇雲な行動力は私にはもう無いけれど、動かずとも色んな事が視える迄にはなってきた。

71 枚「ひろしまハウス」を書いて、まだ書き足りぬ。これから抜け出すのは又、大変なエネルギーを必要とするだろうな。まだ、先が拓けたわけではないが、とにもかくにも、この三日間の闘いでようやく一歩位は踏み出せるかも知れない。何しろ前へ進まなくては。

十九時半宗柳で夕食。

二月十六日

五時半過起床。今日は終日、創造理工学部にて試験カントク補助のお役目である。補助というのはカントクに何かアクシデントがある時にキチンとそれに備える役割である。八時二〇分には会場につめていなければならぬ。

R230
二月十二日

八時過世田谷村を発ち、杏林病院へ。採血、尿検査の後定期検診。異常無しだが、ビールはダメで、どうやら仕事をバンバンやっている時の方が数値が良いらしい。もっと動き廻っても良いですよ、だって。十一時前世田谷村に戻り、おイナリさん二つと青モノと汁の朝食。再び研究室へ発つ。電話での確認だが、どうやら「絶版書房」一号は絶版どころか、売れ過ぎて品切れ状態で、研究室に記録用として予備保管したモノ迄、廻さなければならぬ有様だ。GAに並べてもらったのも回収しなくてはならないかな。

十二時前研究室。三冊オークション準備、と雑用。十二時二〇分卒論参考テーマ発表。ウォーラル先生と一緒に調整を兼ねる。輿石先生、加藤先生との共同ゼミのテーマ発表。この共同ゼミにはもっと学生は興味を持ってしかるべきである。博士論文審査会十六時過迄。十七時過車椅子の丹羽君と一緒に高田馬場葉隠で絶版書房一号冊子絶版祝賀会。及び関係者五名への感謝の会。自分は義務としてやったが彼等は良くアシストしてくれた。二号は更にやるぞ。三号は爆発する。今日は何はともあれ、実に小さな目標だけれど一歩を踏み出せたので、絶版書房記念日と名付けたい。二十二時過世田谷村に戻る。

二月十三日

六時前起床、メモを記す。絶版書房交信を書く。八時半小休。新聞を読む。九時、「設計製図のヒント」に難波和彦先生との討論を書く。かなり水準の高い討論になりそうなので、私も色々と再勉強しなくてはならなぬ。しかし、ネット上のやり取りでもあり、若い良質な学生にも伝わるような工夫もしなくてはならないだろう。十四時四〇分了。新建築JAにゲラ校正を送り小休。

十二時前世田谷村を発つ。研究室に連絡、オークションは冊子 202 に千葉のB・S氏より 7000 円が呈示されている。筑摩文庫の「東京の地霊」が届いて、それを再読しようとポケットにしのばせて出る。藤森照信の解説と私の解説が並録されていて、これも面白い。買うべし。

R229
二月十日

九時世田谷村発。京王線の遅れで修論発表会に遅れそうになり、新大久保よりTAXIで大学へ。ピッタリに駆け込んだら、発表会の準備が整わず、発表会が遅刻していた。

十時過入江研発表。十四時半迄。昼食ミーティング、渡辺仁史先生を中心に、学科のホームページを高校生、一般向けに作成してみようと相談した。情報・デザイン・空間系イメージかな。試行錯誤しながらも、早稲田建築は古きを学び、でも前に行かねばならない。短時間ではあったが良いミーティングであった。

十五時十五分、石山研発表。十八時過了。修士設計賞、論文賞他を決めて、散会。新任のジュリアン・ウォーラル先生を計画系の先生方皆さんに紹介する。

研究室に戻り、修士、ゼミ生、四年生と簡単なお疲れ様の会。近江屋で一休みして、二十二時過世田谷村に戻る。

五十嵐太郎氏が毎日新聞夕刊に新宿西口の「コクーンタワー」を評している。私は少々異論を持つので、機会があれば論じたい。

二月十一日 休日

五時起床。メモ他を記す。いつもの事だが、修士設計・修士論文の発表会、これは二日間に渡るのだが、実に短い小一時間程の昼飯タイムがいつも楽しい。

早稲田建築教室の計画系の先生方は皆忙しい。入江正之先生はスペイン・カタロニヤの仕事でスペイン往復を繰り返していたし、古谷誠章先生もUIA、国際会議とこれ又、多忙である。普段はゆっくり顔を合わせる事も出来ない。渡辺仁史先生もサイエンスとプランニングを結ぼうとする重要な動きを一身に担っている。だから毎年必ずある二日間の二回の昼食タイムは貴重だ。

大学近くの甲州屋で、ランチセットや鴨せいろやらを喰べながら話し合う。私も含めて、計画系の先生方はお互いは皆本当はライバルである。研究も実作も、競争し、切磋琢磨している。それが無かったら教室の進歩は無い。入江先生は昔は良く飲んで、酔うと、「負けないぞー」と叫んだ。

しかし、早稲田建築の良さは、イザという時はラグビーじゃないけど結束するところだ。

今、世の中は大変な不況である。不況という言葉では言い表せぬ位の大転形期である。で、途中を省くが、要するに、もっと建築の面白さを若い人達に、つまりは次世代、次々世代に伝えてゆく努力もしなくちゃならないな、という話しになった。ソバを喰べながらである。

色々アイディアもあるので、やろうという事にもなった。

早稲田建築は面白くなりそうだ。

十時、絶版書房「アニミズム周辺紀行1」特別オークション用の三冊にカラードローイングを入れる作業の準備を始める。昨日、今日と丹羽君とコンタクトしていないので、残冊状況が把握できていない。しかし、絶版!は秒読み状況に入っているのは確かであるから、読者の皆さんに、嬉しい気持ちを込めて、ドローイングを描く。

描き始めたら、興が乗って、それぞれの一冊に4点を描き込んでしまう。

十四時半、疲れてWORKを休止。一冊に手描きを4点描き込むと、本が明らかに本を超える物になる。すでに二百冊近くににもドローイングは描き込んであるが、この三冊には色も使い少々手間もかけた。色はブリリアントオレンジ、クリムソンレーキ、サップグリーン、パーマネントイエローライトを使い分けた。

冊子が生き物のように感じられてくれればいいのだが。

十八時半、オークションの準備終える

十九時からサッカー日本、オーストラリア戦をTV観戦しようとしたが、何となくつまらなく、三階で読書となる。TV自体が面白くない形式になってるんだ。

二月十二日

六時前起床。オークションの3冊のそれぞれのドローイング、最終チェックする。それぞれのドローイングの題名を微修正。初めての事なので油断は禁物である。六時半終了、新聞を読む。

R228
二月九日

九時四十五分研究室。雑伝達。十時渡辺仁史研究室より発表始まる。絶版書房「アニミズム紀行1」は残部 12 冊となった。十七時残念ながら途中退席。十八時日本橋宝町東邦画廊、宮崎の藤野ア子・東京初個展オープニング。お世話になった藤野ファミリー全員にお目にかかる事ができた。

会場が二つもあり、すぐ近くの西湘画廊の近作展も見る。

十九時退、東京駅八重洲口まで歩く。八重洲口の小樽に寄る。ここはカンボジア、プノンペンのナーリさん(絶版書房「アニミズム紀行2・空跳ぶ三輪車 - アポロ 13 号」に登場)の友人、清水さんの経営する、サラリーマンの為の激安酒場である。清水さんに久し振りに会って旧交を温める。彼はナーリさんのヒッピー仲間で、これも又、稀代の人の良さの持主。フーテンの寅さんの弟分みたいな人物なのである。

夕方に絶版書房一号便は 9 になっており、恐らく一両日中に絶版を打ち上げる事が出来そうで、その後の三冊のみのオークション、他の打合わせをする。二〇時過了。二十一時過世田谷村に戻る。

二月十日

五時半起床。メモを記す。

「昨夜見た藤野ア子さんの絵の印象」

氷河期の花の化石を目指せア子さん、を痛感した。

二つの会場に一九九三年頃の作品群と、最新作とが並べられていて、最新作は病を得て、立ち直ってからのものである。

旧作の明るい色の乱舞、と新作の少し暗い淡さの、その違いが際立っているのに目をみはった。

私の研究室に一点ア子さんの絵の小品を所蔵しているけれど、その小品は素晴らしいもので、まさに色の化石と呼びたい位のモノだ。暗い宇宙の底冷えの虚空に色がさらに沈んでいる感がある。

もし、出来得れば、旧作新作二点を持てれば、人間の生命力の不思議さを直観できるのにとも思う。世田谷村には山口勝弘のペインティング小品が数点、宮脇愛子のドローイング数点がある。その双方がお二人が病を得て、そして立ち直りつつある最中に描いたモノだ。

私は毎日、それらの作品を眺めて、それらの作品を介して二人の作家の生命力そのものに触れているのを自覚する。そして、当たり前の事だが、生命そのものに脳内を揺すられる気分になる。

藤野ア子さんの絵も、そのようなモノになってゆくのだろうと予測する。色が生命だなこの作家は。

フォルムをどんどん消していったら素晴らしいと思う。色だけでそれが出来る状態を思い描けるかどうかが藤野ア子さんのこれからの課題ではないかな、と素人なりに思う。作家は自覚が生命だ。他人事じゃないな、コレワ。

今日も終日修士論文、計画の発表会である。彼等、彼女等にとっては6年の総決算だから、キチンと対応したい。しかし、院生達にその気持があるのか、いささか疑問ではあるが、クリティークはキチンとやる。

丹羽編集長、難波先生とのやり取りを絶版書房交信に入れ込むのは無理がある様です。「設計製図のヒント」が東大との合同課題クリティーク以来休止状態です、しかしヒットされ続けているようなので、ここに移してみましょう。 君の判断で何時の時点のモノから、移動するか判断して下さい。僕の問いかけから始めるか、難波先生のエピソード紹介から始めるか、どちらかだと思います。スグやって下さい。失敗したらスグ直せば良いのだから。

201・202・203のオークションの方法、今日の十三時三〇分迄にまとめて、提案して下さい。修論発表会の昼食タイムで、計画系の先生方とのランチミーティングの為研究室には寄れませんのでよろしく。メモを下さい。

R227
二月七日

十時十五分研究室。「絶版書房・アニミズム紀行1」のドローイング描き込み。十冊に描き込む。十二時過新建築JA来室。世田谷村の取材。もう昔の事を余り覚えていないのに我ながら驚く。それでも手描きの図面と私が撮った写真でどんな誌面が出来るのか楽しみにしたい。十四時半了。再びドローイング描き込み十冊。十七時ジュリアン・ウォーラル先生来室。今年の卒論のテーマ等基本的な私の考え方を述べる。早稲田建築の教師陣の国際化にとって大事な人材である。

国際化(教師の)に関しては、ドイツのグライター先生、中国人・李祖原先生と二度試みている。いずれも言葉の壁があった。特に日本人学生の方に。ウォーラル先生は日本語がとても上手で、その点は全く問題が無さそうだ。期待したい。学生の為にも良いだろう。

十九時過了。再びドローイング描き込み。残冊が二〇冊になり、研究室に山積みされていた在庫は、もう小さな一包みを残す迄になった。皆さん、恐らく石山変な事に夢中になってるようだが、何してるんだとお思いでしょうが、私奴は正気で頑張っているのです。

アニミズム紀行3「ひろしまハウス」の表紙デザイン、チェック。李君も次第に手際良くなっている。大筋のディレクションだけで進行するようになった。

新大久保の鳥安で、「絶版書房」の先の事を話し合う。読者との交信の中から良い知恵が出てくるかも知れない。が、考えられる限りの事は考えておきたい。 二十一時過世田谷村に戻る。

二月八日

五時半起床。メモを記し、難波先生をはじめとする皆さんとの交信作業に入る。九時半小休。難波さんとのやりとりは意味のあるものしたい。しかし、一回の論述が長過ぎても読者は大変だろうし、工夫が必要かも知れない。京都のY氏に返信をメモする。十一時前、一段落。小休。

十一時半安西、諏訪両君と昼食の為に宗柳へ。十三時四〇分昼食了。安西、諏訪両君バンコク経由、プノンペン「ひろしまハウス」へのスケジュール決定。「ひろしまハウス」での展覧会「安西直紀写真展・それぞれの若者たち、そして子供達の未来 in プノンペン」の相談。安西氏は二月十日にTOKYOを発ち、二月十六日よりプノンペン、ウナロム寺院境内ひろしまハウスにて、一週間の展覧会を開催する。展覧会のタイトルを「夢みる時間」に変更する事を提案する。

十五時半前、稲門建築会報への原稿を書き終える。十六時十五分発新宿へ、十八時ヴェトナム料理を食す。二〇時過世田谷村に戻る。

二十一時前読書しつつ、ラジオを聞きながら眠りにつく。ベイシイよりFAX再び入る。考えてみれば菅原正二は 40 年間絶版書房やり続けているようなものだな。敬服する。

二月九日

七時前起床。今日は新聞休刊日であった。今日、明日は修士論文、修士計画の発表日で二日間自由に動けない。ベイシイとの交信、研究室にFAXする。一気に絶版書房交信がふくらんできた。今朝の残冊を知るのが楽しみだが、私の予想では12日に「アニミズム紀行1」は絶版できる。私のドローイング能力も第一号は二〇〇が一杯である。つまり、二〇〇のバリエーションを描ける能力しかまだ開発できていない。

二号「アニミズム紀行2、空跳ぶ三輪車、アポロ 13 号」ではドローイングを一冊に2点入れる実験を試みるので、四百点のドローイングを試みる事になる。遠い遠い自己開発をしているのだと自分に言い聞かせつつ。

九時前発。修士論文発表会場へ。修士論文、修士設計共に四、五年低調極まっているが、今年はどうか。毎年楽しみにしてはいるのだけれど、学部の設計製図、及び卒計の低落には歯止めがかかったが、院はどうか。

R226
二月六日

十五時二〇分大学発。十六時前、GKデザイン機構へ。十六時栄久庵さん「GKとは」。午前中の打合わせで、今夕話しをするんだと聞き、これは聞いておこうと、夕方の予定をキャンセルして出掛けた。GKがデザインの運動体として出発し、今や大組織となった。若い所員他には発足時の熱気、気迫、モノの考え方を知らぬ人間が多いのだろう。栄久庵さんは、それで意を決して、全6回のGKへの講話を思い立ったようだ。こういうところに運動家としての面白躍如たるものがある。

やっぱり、見習わなければならぬモノが大きいが、私とは人間の器量が違うからな。今更無理も出来ない。栄久庵さんの話しの中枢は当然アニミズムである。アニミズムという言葉を使わずにそれを述べている。いただいたパンフレット中に梅棹忠夫が栄久庵さんの気風とアニミズムの密接な関係を述べている。講話修了後、お茶をいただいて、十八時半発。十九時新大久保近江屋。二十一時西調布、N先生。二十二時世田谷村に戻る。

二月七日

七時過新聞を読む。昨夕で「絶版書房アニミズム周辺紀行1」の残部は二十七冊になった。残部二〇冊になったら値上げすると宣言していたが、それは中止する。二〇〇冊は予価通りとする。ただし、二〇一、二〇二、二〇三の三冊だけはオークションにさせていただく。つまり三冊のドローイングだけは手の込んだモノとして、それなりの値段を設定したい。これ迄百七十五冊程にドローイングを描き込んできた。実感として時間をかければ三〇〇冊〜五〇〇冊まではいけるだろう。

やってみて解ったのだけれど、「絶版書房」連作の枠は手描きの部分の私の量産能力によって決められる事だ。活字や印刷では表わせない生命力のような物の、私自身の生産能力である。

R225
二月五日

十一時研究室で絶版書房「アニミズム紀行1」にドローイングを入れる。十冊程。根をつめるので、やっぱりヘトヘトになる。十四時教室会議。十六時半迄。午前中で「アニミズム紀行2」の手が離れたので、三号の準備に入る。十七時、紀行1は残部 39 となった。絶版間近である。

会議終了後、再びドローイング作業にかかる。再び十冊程。不思議な事にもうすでに百五〇点程冊子にドローイングを描き込んでいるのに、一向に慣れてこない。筆は二本目になっているが、手に慣れない。したがって、一点一点が型にはまらずに無骨なままだ。これが慣れてしまうと俳画になってしまうのだろうとおもう。私は句会妙見会のメンバーであるが、俳画趣味はない。この慣れなさが、ドローイングと称して二〇〇点の小品に取組んでいる要であろう。しかし、読者のほとんどはドローイングに関して無関心なのか反応が少ない。二十一時半世田谷村に戻る。

二月六日

八時前起床。満開の梅がもう散り始めている。樹の根方には亡くなったウサギのツトムが埋まっているので、あいつの気持ちが花を早く咲かせているのだと思う。隣の梅林は花ひとつ咲いていないんだから。

今日は十一時に目白のGKに栄久庵さんを訪ねて、フィンランドのプロジェクトに関して相談しなくてはならぬので、書類に目を通す。

今は何をやるにも厳しいけれど、決してあきらめたり、投げ出したりしない事だけが私の取得である。栄久庵さんも、私以上に厳しい世間を突っ切っているのに違いないから、恥ずかしい事は出来ぬ。力を尽したい。キリキリと段々に忙しくなるような予感がある。

十時四十五分、目白GK。栄久庵さんとフィンランドの件打合わせ。栄久庵さんはとても元気であった。十二時前昼食をご一緒する。ボロボロ面白い話が飛び出てきて、こちらの脳も刺激されて楽しい。十三時半、発。十四時過ぎ早大、二階小会議室で渡辺仁史研博士論文審査会。十四時過迄。研究室に戻る。「絶版書房」第一号の残は二十七冊となった。イヨイヨ絶版間近である。

R224
二月四日

十三時大会議室で卒業設計採点及び講評会。この学年には我々としても、危機感もあり力を入れてきた。総じて良かった。計画(意匠)、歴史、構造、環境、生産、の各系にまたがるチームでの共同設計で卒計に取り組むシステムにしてようやく成果が挙がり始めた。

東京湾のゴミによる埋立て地に計画した案は、今の時代の風に良く感応していて際立ていた。来年に期待したい。不思議な事にこの学年には小さな歴史の流れがあって、この学年から上向きになって欲しいものだ。三年次の設計製図のシステム、第一課題入江先生、第二課題古谷先生、秋に計画とエンジニアリングを分離させて第三課題は石山による共同設計(東大との共同課題)、第四課題は今年度からミニディプロマの流れがようやく結晶化してきたように思う。まだまだ手綱をゆるめるわけにはゆかぬがホッとした。二〇時半修了。近江屋で一服して二十二時半世田谷村。

二月五日

七時半起床。昨夕で「絶版書房・アニミズム紀行1」は残部四十二冊になった。スタッフも一生懸命やってくれているので、何とか公約通りアト十日で絶版にしたい。二〇〇部限定の少数なので、いまのところ、私もスタッフも一冊の取り分も無いのだ。研究室に記録用に何がしかのストックをしておこうとは考えているが、二〇〇部は全てお分けしたい。

R223
二月三日

十三時過世田谷村発。十四時四〇分東大福武ホール。鈴木博之最終講義会場へ。鈴木先生奥様、安藤忠雄さん等に会う。会場は超満員であった。伊藤毅先生司会、難波和彦専攻長のあいさつで始まる。鈴木先生の最終講義は、鈴木さんらしく、キチンとした骨格のもとに、淡々となされた。

「建築・未来への遺産」

一、鈴木氏自身のキャリアを私的ディテールを嵌め込みながら述べられた。先祖のひいじいさん源五郎、その弟大五郎のエピソードも入った。

二、十九世紀建築の魅力について述べられた。A・W・ピュージンの建築を引いて、その流動性を指摘されたのが私には新鮮であった。私は一月十五日だったかの、鈴木博之論ノートらしきで、彼の深い英国趣味への傾斜を述べておいたが、それが源五郎・大五郎のエピソードの後になされたので、実に自然に、

三、日本に於ける近代の表現、伝統と近代の相克

へと、つながった。彼が最近度々言及する近代の哀しみのエキスであろうか。彼の修士論文であった装飾観の変遷、が著作「建築の世紀末」となったのを初めて知った。今、私が考えようとしているのが、まさに装飾観の変遷のような事なので、又もや、頭をペンペンされるが如しであった。近代化=西欧化という誰もが疑いようの無い図式、それは本当にそうなのかという荒地に立ち、彼は近代化を日本で進めてきた人間達の和風好み、庭園観から、その問題に入り込んだ。堀口捨己、丹下健三に言及し、相変わらずの切れ味を示した。皇居の持っている近代性などという着眼は、鈴木博之ならではのものである。

四、土地所有形態と土地経営形態

へと話しが進み。これは中央公論「都市へ」で展開された都市論である。東京駅周辺の建築景観すなわち風景の歴史的持続性が無い事が、衝撃的な写真で示され、間に都市のインフラとしてのパワーカナルの話しが挟み込まれ、最後に

五、建築保存の仕事

へとつながった。

こうして、思い出しながら記してみると、勝手な解釈ながら驚くべき構成力である事を知る。最後がカンボジアの遺跡保存のサイトの地雷 HALD の写真であった。

最終講義終了後、ロビーでワインパーティ。青木淳、佐々木睦郎、松葉一清氏等と会う。多勢の人で足の踏み場も無い盛会であった。

十八時過、TAXIに分乗して、上野の杜、韻松亭へ。鈴木夫妻主催の会食。難波和彦、伊藤毅、藤井正、安藤忠雄、藤森照信、隈研吾、出席。二〇時半了。鈴木先生夫妻に御ちそうを頂くという、何だか逆のような気がするが、先生が言い張るので仕方ないのだろう。少し間をおいて、「鈴木夫妻に御ちそうされてしまった会」主催の返礼をしなくてはならぬであろう。上野駅迄歩いて、電車で帰った。二十一時半頃世田谷村に戻る。

二月四日

七時前起床。昨日のメモを記す。庭の梅の樹に目白が四、五羽きて、梅の花のつぼみを、ついばんでいる。世田谷村の斜めテンション材の向こうに、それを間近に眺めている。斜材のテンションが入るだけで花鳥風月が花鳥風月でなくなっているのが面白い。テンションが無ければ、ウジャけた保田輿重郎の世界になりかねない。保田がウジャけているわけではなく、私の方がであるのは勿論の事だが。

R222
二月二日

十二時半研究室。編集会議。絶版書房は残部七〇冊になった。今日迄の残部数で第二回の発行数を正式に決定する事にした。何しろ絶版を宣言するのが頼りの小出版である。嘘はつけない。

時の谷、穀物倉庫のドアのデザインを始める。穀物倉庫は時の谷の中心的な建築であり、現在建築確認申請を申請中で大方のデザインは修了している。アトは細部のツメである。徹底的にツメてみるが、コストが厳しい。余程のデザイン力が必要となる。

続々、と言いたいところだが、ポツポツと「アニミズム紀行1」への批評が寄せられている。原則的に全ての交信に何らかの対応をするつもりだ。その為の絶版書房である。本当に絶版、つまり、増刷は絶対しないぞ、というところに留意していただけると有り難い。東京の三砂氏への返信はすぐに書けるが、難波先生のコメントには少し時間がかかりそうだ。私が氏の建築について書いたものを「手厳しく批評している」と書いているが、そう思っていただけるのは光栄だ。難波先生の二〇年以上前の作品を手許に資料を持たぬママに混ぜこぜにしたのは、私のミスである。ネット上であるが公式にスミマせん。

しかし、大野勝彦氏の企画によるセキスイハイム・オリジナルが今や殆ど建築の骨格を失い、圧倒的にマーケットに商品として変容して流通する現実を眺めているからこそ、難波氏のWORKに過度に期待しているのであって、それ故にこそ手厳しくなるのです。

私は若い頃、大野勝彦さんと行動を共にしていたし、後の「群居」発刊、HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成迄、共に夢見た事があるのです。その辺りから、難波先生への手厳しさが出現するのです。何故なら、私はもうその戦線に戻る気力、体力共に失せており、離脱しました。

しかし、大きな関心は持ち続けている。それでなければ、チョッカイ出しません。手厳しいとされたクリティークの中で、あるいは別のところでも、「ある程度のスケールを想定した住宅生産へのモデル作り」と、表現者としての自負、背理を意識している作家として、手厳しくなく書いております。

ともあれ、「箱の家」他は、そのような認識を前提に、前向きにそれこそ手厳しく批評したいと考えていましたから、キチンとやります。私が今、持ち出そうとしているアニミズムは、アニミズム=装飾性という余りにも単純な仕分けには乗らないものを想定しています。逆戻りではない装飾性をキチンと呈示するつもりです。本格的なモノは遠廻りしてやりたい。

十五時アベル、チリ計画打合わせ。十六時半ライター・エディター長井さん来室。打合わせ。長井美暁さんには東大・早稲田共通課題の学生作品に対する私のいささかのウェブでのクリティーク集を本にしていただこうと相談している。今は当然出版は大変な事情なので、それ故にチャンスなのだ。

十八時近江屋で打合わせ続行。時々、外から視ている人の率直な言を聞くのは楽しい。いわゆるブログについて面白い考えを聞いた。彼女は名も知らぬ人のブログを時々のぞくそうだ。そうしていると、ヘェこの人誰か知らないけれど面白い考えしてるというのに当たり、その知らぬ誰かのすすめる本を買い求めたりすると言う。「石山さんのは署名入りだから、アッ石山か、それなら読まないって人いますもんね」だって。マ、そうだろうとは思ってるけど、面と向かって言われると、そうかあ、そんなに敵多いかと又、思う。

絶版書房「アニミズム紀行1」買っていただいた読者のいくたりかも、ネットでそれぞれ交信し始めているのだろうと思うとネットの面白さと無気味さを共に知る。

長井さんと話している内に、絶版書房、第二回配本「アニミズム周辺紀行2、空跳ぶ三輪車・アポロ十三号」の発行数はやはり二〇〇部にとどめておこうと決心した。今現在残部 63 冊になっており、このペースでゆくとあと 10 日程、すなわち二月十五日には絶版に出来そうなのだが、それだからと言って、すぐ次回は三〇〇冊に増やそうと言うのは「絶版書房」の根本に反するようだ。そう長井さんが言おうとしているので、彼女のせいにして、次回も二〇〇冊ポッキリで辛抱することにした。

明朝、残部五〇冊台になっていたりすると、再びこの決心はゆらぐであろう。二〇時。会食了。二十一時世田谷村に戻る。

二月三日

五時前、目覚め、昨日のメモを記す。三砂慶明さん 26 歳のメールに返信を試みる。こりゃあ、大変な事になったナア。お百姓さんより大変だ、まるで猟師だあ、とナンセンスを吐く。六時半、東の空が薄紅色に明けようとしている。あんまり、うまく返信できたとは思えぬが、又眠る事にしよう。

九時前再起床。研究室に諸通信送附する、十一時過今朝時点で「アニミズム周辺紀行1」は残部 55 冊となった。悩ましい数字である。スタッフの意見もよおく聞きたい。一冊作るのに大きな負担がかかるのは彼等だ。

R221
二月一日

八時、早稲田の佐藤滋先生の電話で飛び起きる。実ワ、昨日3年設計製図講評会終了後、定例の設計製図懇談会を高田馬場で開いた。小さい座敷で皆ジャケットを外した。帰りがけに、私と佐藤先生はお互いのジャケットを間違えて着用し、気付かぬママに帰った。私はそれでも、オヤ、ジャケットに入れておいた財布が無いなと気付き、コレワ、料理屋か何処かで失くしたなと考え、現金は小銭だったのでアキラメ、カードを使用停止処分にしていた。今朝、オヤ、コレは俺のジャケットでは無い、料理屋では隣には佐藤先生がいたな。彼と間違って着て帰ったと気付いていたので電話は予想通りであった。これは二月になって縁起は良いと明るい気持となる。お互い、少々間抜けであった。しかし、実に良く似たジャケットを着用していたのが実に残念。もう黒いのは着ない。

昨夜の会は、若い先生方も出席して、いいたい放題で仲々良い会だった。学生達は元気に少々欠けるが、教師陣は昔ながらの早稲田の良き古さが残っていて、たのもしい。しかし、グローバリゼーションの波に、それぞれの個人の力で対応できるわけも無いのは承知の上だ。マア、私は徹底的に、突き出た意見を表明するしか無いのは確信犯的に自覚している。早稲田は二流になっても、建築はそうはいかぬ。

朝から、ズーッと読書三昧にふける。十八時迄。どんな本を読んだのかは勿論秘密であるが、キーツを読まねばならんなとは思っている。

いずれ近いうちに文学と建築の総合的空間について、少し計りの小エッセイ位は残しておきたいと考えているのだが、絶版書房の「アニミズム紀行」のうちにそれは少しづつ、挟み込む予定でいる。

ガキの頃から、私は小説よりも、批評の方に文学性、あるいは物語り性を感じ続けて来た。ドイツ、バウハウス大学コロキウムでの柄谷行人のレクチャーは良かった。バウハウス、すなわちモダニズムデザインの本拠に於いて、バウハウス批判をやってのけた。その際に彼が使ったマテリアルは、ウィリアム・モリス、クリストファー・アレギザンダー、リチャード・バッキー・フラーの思想であった。全て、モダニズムの脱構築を無意識ではあったが実践していた人々だ。無意識と言ったって、モリスは歴史的な時間が初期資本主義に対抗する運動を推進しているという意識は無かったのは仕方ない。例え、ロンドンにマルクスが居た時期があったとしても。他はモダニズムを意識するには余りにも自由な枠外者であった。

僕は大した事は出来ないのは自覚しているが、デザインを枠付けているモダニズムのイズムの枠だけは少しとかしてみたい。それを体現したマテリアルだけは残しておきたい。次の世代に、渡しておきたい。言説は通じ難い。誤解も生じやすい。具体的なブツ、例えば建築物でも、ドアノブでもだ、ハッキリ形あるモノ、ブツは明らかに歴史的に継承されるブツになり得る。形ある断片は、考古学的にも多くを語り得てきたし、未来に対してもその原理は持続可能であるだろう。問題は、ブツは話しかけないのだ。それ故の「絶版書房」アニミズム周辺紀行シリーズ、なのです。

十九時、完全に休日態制に入る。しばらく、TVニュースでも視るか。と思うも、何だかグズグズと研究室スタッフにメモを記す。

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