R266
三月三十一日

午後、霞ヶ関から丸ノ内へ。チリ建国二百年祭計画準備。十八時八重洲口「小樽」で渡邊、李両君と打合わせ。鬼沼時の谷「北向き倉庫」北海道「水の神殿」に関して。「小樽」の清水氏と品川宿の計画について再び話しを聞く。二十時過了。二十一時世田谷村に戻る。

四月一日

小雨、六時半起床。私の六十五才の誕生日である。よくまあここ迄生きてきたとも思うが、まだまだやりたい事は山程ある。弱ってゆく訳にはゆかない。最近は馬鹿な私にもようやく少し計りの知恵がついてきたのを自覚しているので、月並ではあるが頑張りたい。今朝は雨なので畑仕事はしない。用意してあったゴーヤ他の種マキとネット張りは明朝にまわす。

吉阪隆正先生はたしか、六十四才で亡くなられた。私は先生よりも一年長く生きる事ができている。その幸運を生かしたい。「制作ノート8」を書く。「水の神殿」について。七時半了。図版は昨夕の打合わせでチェックしたモノをそのまんま使えば良いだろう。

S君と長電話。西宮ヨットハーバーについて。色んなアイデアはあるのだけれど、それを実行してゆく主体がまだあいまいなままだ。九時過朝食をすませて、小休。ボーッと何も考えないでいるが、5分も持たないだろうな、こんな時間は。我ながら貧乏癖である。それ故、世田谷村発。

R265
三月三十一日

六時半起床。チョッと一仕事。今年は無理をして「うね」を作らずにやってみようと考えている。七時「制作ノート5」書きながら、エスキスを描く試みをしばらく続けるが、上手くゆくのかどうかまだ解らない。

八時二〇分制作ノート5書きおえる。スタッフへのデザインの指標をかなり具体的に記した。少休する。一仕事おえた感じだな。早朝は考えがはかどる。

十一時十五分制作ノート5了。スケッチを三枚研究室に送る。十二時前研究室より本日のウェブサイトの主要部レイアウト送られてくる。少しまとめてオペレーションと意見を伝えておいた方が良いかも知れない。十四時世田谷村を発つ。

R264
三月三〇日

十時半研究室。ミーティング。絶版書房ドローイング。十三時アベル、チリより帰り、打合わせ。チリ建国二百年祭プロジェクトを具体化する条件がようやく整えられてきた。稲門建築会事務局長来室。打合わせ。十七時再びドローイング他雑WORK。

F氏より連絡あり、ちあきなおみの新しいCDを入手したのでお聞かせしたいと言う。このクソ忙しいのに、何と力強い人であろうかと呆気にとられるも、近江屋でお聴かせ頂くかとなった。 仕事が忙しくなると、変な事も忙しくなるようだ。

R263
三月二十八日

五時半起床。制作ノート3。厚生館グループの新計画について考える。八時前世田谷村発。東京駅へ。九時過T社長と会い、九時半の新幹線で郡山へ。車中話し弾む。飲食店作りに関して色々なアイデアを出し合う。

十一時郡山駅前。仙台「アトリエ海」の佐々木氏と会い、一緒に猪苗代の現場へ。途中十割ソバ屋でおいしいソバを二杯、いなりズシ。喰べ過ぎた。山にうっすらと雪がかぶっている。寒い。十二時半現場着。前進基地のコルゲートパイプの中の囲炉裏で佐々木氏、関組顔合わせ。工事のすすめ方について。その後中心施設のサイトで最終確認する。自然の中では小さく視えるが、内部は大きい筈だ。よいモノを作りたい。近くの猪苗代湖、遠くの白い嶺々が実に美しい。縄張り位置杭打ちもしっかりしており、完全に把握出来た。仮設電気柱の位置決め。修了後、前進基地に戻り、地鎮祭の相談等。十六時了。山を降りる。十七時前郡山駅で佐々木氏と別れ、十七時半の汽車で東京へ。車中再びT社長とおしゃべり。十八時東京着。十九時過烏山宗柳でK夫妻と食事会。二十一時了。世田谷村に戻る。

三月二十九日

八時起床。昨日のメモを記す。制作ノート3、記す。

エスキス作業。馬場昭道さんより小ドローイング五点程を依頼されたので、葉書きに七点描いて、宮崎に送った。昼過ぎ思い立って園芸屋に行き、レタスの苗、きぬさやえんどうの苗をそれぞれ少々、ゴーヤの種と、チンゲン菜の種を買い求め、思い切って畑仕事にとりかかり、全部植え込んでしまった。我ながら、手早く動いてしまった。

三月三〇日

七時半起床。八時過迄畑。昨日植え込んだレタス等に朝の陽光が指し込んでいて、それだけで庭から畑に変化するように、作る当人には視界が変化する。きぬさやえんどうの小さなツタの細い触手も昨夕設置したネットにからまり始めている。植物は敏感である。

R262
三月二十七日

十時前、木本君来村。京王線稲田堤へ。十一時前厚生館愛児園グループK理事長に、木本君製作の「鬼子母神像」を届ける。重量 50kg で男性の保父先生に手伝ってもらい、荷おろし。保母先生達に「鬼子母神像」は「カワイイ」の評判で嬉しい。理事長も満足して下さったようだ。久し振りにお目にかかり話もはずんだ。

隣の新計画の土地を再度見る。理事長より与条件の何がしかをうかがう。非常に面白く、興味深い機能である。力を尽したい。昼食を近くの食堂でいただき、十三時過お別れする。理事長よりバングラディシュのダッカ大学教授、ムハンマド・エヌス氏の画をいただいた。エヌス氏の個展を日本で開催し、それ以来の仲だそうで、貧しさの極でもあるバングラディシュの人々の気持が良く表れていて、とても良い絵である。理事長より、見ておいてくれと言われたので、世田谷の国立医療センターに隣接した大蔵保育センターを見学した。立派な建物であった。マアしかし、これ位のモノはこなせるし、ぶっち切りにはるかに抜き去る事は容易である。しかし、社会の傾向として児童保育医療他の建築はより充実するであろう。十五時過見学了。木本君と世田谷村に戻り、世田谷村の木本君に依頼する扉、ドアの採寸作業。修了後、近くの喫茶店で少しばかりのWORK。十七時半ネパール料理屋へ。十九時過了。

今日は一日木本君と一緒で色々話し合えて良かった。彼とは長い付き合いとしたい。又、今日は非常に現代的な課題をK理事長より与えられ、気持ちが建築への夢ではち切れんばかりになった。

夜、ムハンマド・エヌス氏の絵に視入り、よるべなき子供達の見るべき夢について夢想する。深い夢になると良い。

R261
三月二十六日

十時半研究室。十一時打合わせ。十一時半ドローイング。十二時半より十四時雑用。十四時過発。十四時半GK、栄久庵憲司さんと打合わせ。十六時近くのビルへ移動。栄久庵さんの道具寺のレクチャーを聴く。十八時前了。GKの皆さんと雑談。十九時発。二〇時世田谷村に戻る。

絶版書房2号残冊二〇冊。三号の最終校正を渡す。NTT出版の本の形式は分冊よりも分厚く重い一冊の方が良いのではないだろうか、と思い出した。考えてきた事を2分冊にしてしまうと、それこそ二つに分断されかねない。分厚い高価な本を売るのは大変だけれど、それなりに工夫したい。

栄久庵さんのレクチャーは氏が最終レクチャーだからと言うだけあって見事なものであった。アニミズムについて、物と自分の視線を同じレベルに置く事だという指摘が新鮮であった。

栄久庵さんの道具寺計画はメタボリの運動よりも実ワ、面白いのだが、それに気付いている人は又、実に少ないだろう。私の「立ち上がる伽藍」のコンセプトに近似しているので、私は道具村、道具寺のそれこそ縁起をほぼパーフェクトに理解できるし、理解するというよりも、むしろ大事な事は親愛感を持ち続けてきた。

GK、すなわち栄久庵さんは戦後日本のインダストリアルデザインの始まりであり、大主流であり続けた。それが、ここにきて創始者の手により、変容を企てられているのだから、GKという、今は大組織はとまどいを見せるであろう事も良く理解できるような気がする。つまりGKにとっての栄久庵さんは道具寺の本尊である千手観音というより、むしろ不動明王すなわち創造と破壊の神シヴァ神になっているのだ。戦後デザイン史のまさに画期であろう。要するに彼自身が言うように、最後は祈りの如きに到達してしまうのであり、祈りとか、愛情とかはモダーン・デザインのキャパシティの外に在り続けたものだからな。

これ以上の事は日記には記せない。制作ノートに記す。

三月二十七日

五時半起床。朝の淡い光の中で、沢山の梅の実の群が実に美しい。先頃の強風が梅の実を包む赤い葉のような部分を吹き散らせてしまい、こんな姿を出現させたらしい。初めて見る姿であり、まさに風姿花伝であるよ、コレワ。

最夜来、色々と考えていたが、フッと思い立って「制作ノート」をサイトに本格的に立ち上げる事にした。六時半前書き始める。今日からサイトに登場することになろう。スタッフには来週月曜日からと言い伝えてあったので、ビックリだろうな。

R260
三月二十五日

十時半研究室。すぐに絶版書房2のドローイングにかかる。GAに置いてあるのが売り切れている様で少し追加する事にした。厚生館の計画を考え始めながらドローイング 30 冊程、60 点を描いた。終りの頃のモノは最初の、つまり一冊目のモノとは全く異なる類のモノになってきた。同じモノは繰り返せない。気持ちがそれを許さない。修士卒業生の色紙にもドローイングを描いた。十七時了。

新宿へ出て、味王へ。卒業生花束を持ち現われる。渡辺保忠先生からは、「花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ」の井伏鱒二の訳詞を、お別れにいただいたので、その真似を毎年私も続けている。彼等はこれから大変な時代を生き抜かねばならない。その苦悩は私等の予想をこえるモノになるやも知れぬので、妙に安易な励ましも出来ぬのである。

絶版書房残冊は 20 冊になった。売り切り間近である。プノンペンのナーリさんにまとめて買われて仕舞った 20 冊を半分程、皆さんの方へ廻す工夫をした方が良いかな。

大きな花束を持って二〇時過世田谷村に戻る。

三月二十六日

八時起床。再び寒くなる。建築設計の仕事が急に増えそうで、身体に注意せねばならない。六十八才 - 七〇才に最高の作品を残したいと考えているが、その仕事が押し寄せているのかも知れぬ。アト五年程だ。人生は短いな。

鬼子母神像はキチンと写真を撮っておく必要があるな。今朝はまだ世田谷村に停留している木本君の車の中に仕舞われてあるけれど。

絶版書房3号は週末に印刷所に出す。4号のアウトラインを決めなければならぬが、趣向を変えてみようか、あるいは値段を下げて部数を増やすかした方が良いか、判断に迷う。

R259
三月二十四日

九時半広島より木本一之さん世田谷村に来る。昨日午後、広島の工房を発ち遠路はるばる車で、厚生館の「鬼子母神」像を運んでくれた。「鬼子母神」像は「ざくろの街燈」3点に続き、厚生館愛児園グループよりの依頼だが、とても良い出来上がりだ。木本さんは鉱脈を掘りあて始めているのではなかろうか。十時、近くのコーヒーショップでコーヒーを飲み、トーストをほおばる。ボソボソと話す。

木本さんの広島山中の工房は冬は厳寒で仕事にならぬと以前から聞いていた。カンボジア・プノンペンのウナロム寺院内のナーリさんの工房は冬も暑い位だ。それならば木本さんは冬はプノンペンで仕事したら良いのにと考えたり。「ひろしまハウス」の風鈴作りをベースにして、メコン河、トンレサップ河周辺に巨大な都市モニュメントを作ったらいいのにね。ツバメと同じに北国と南国をゆききすれば良いのである、と言うはやすし。実行する人はまれである。

三月二十五日

七時起床。絶版書房2号は昨日で残冊 29 冊となった。予想していたよりも少しゆっくりしたペースではあるが、今の世の中の事を考えれば仕方が無い。ドローイング作業が遅れているので、注文していただいた方への発送も遅れがちである。えらい事を始めてしまったと、ドローイングの事を想うたんびに頭が痛いが、やり遂げねばならない。

昨日はWBCでの日韓戦で世間は湧いた。イチローは、佐藤健が闘病の際に、自身のスパイクを送ってくれた人物である。健さんも、もう少し生き永らえてくれれば、今回のWBC決勝延長 10 回、2アウト2,3塁の場面でのイチローの一振りによるエンディング、そして名セリフなのかは知らぬが「神が降りてきた」の言を「イチロー物語り」毎日新聞刊の結末に出来たのに、さぞかし天国か何処かでチクショー、もう少し生きときゃ良かったナアとつぶやいている事であろう。イチローの事であるから、佐藤健の事は一風変わった記者として覚えているには違いないが、それにつけても昨日のイチローの一振りだけは奴に見せてやりたかった。闘牛じゃあるまいし、オーレだとかオーラだとかを信じる者ではないが、昨日のイチローの一振りは良かった。又、韓国の監督の敗因は「イチローと勝負してしまった事だ」の言も良かった。一塁が空いていたからナア。アノ数分はまさにドラマそのものだった。しかし、あそこでイチローを敬遠して勝ったとしても韓国の選手達には後味の悪さが残ったであろう。その意味ではサムライJAPANの呼称はむしろ、武将韓国にこそふさわしかったのではあるまいか。

今でも、健の自宅にはアメリカから送られたイチローのスパイクが大事に残されているのだろうと思う。あのスパイクは健の名残りを惜しむ人達の中ではアニミズムを代表するモノであろうなと、アニミズム紀行2をあくまで残部0にしたい気持ちで言う。今、この私のメモを読んでくれている人達も又、私を介して、佐藤健そしてイチロー、そしてイチローのスパイクへと想像力の何がしかは飛ぶであろう。良かったナア健さん。

R258
三月二十三日

十一時前西宮マリーナで西宮市役所土木局長等と会談。色々と話しをうかがう。十二時過迄。JR芦屋駅近くでS社長と昼食。只今十四時前新幹線で東京への車中。十六時半東京。四十五分八重洲口「小樽」。清水氏と会い品川宿の話し等聞く。彼はカンボジアのナーリさんの友人であり、それだけで充分におかしい人物であるのだが、憎めない人物なのである。聞けば、間もなくネパールのジュニー・シェルチャンがカンボジア・プノンペンのナーリさんのところへ行くという。何をしようというのかなァ。

二〇時過世田谷村に戻る。絶版書房2の残冊は 31 迄辿り着いたようだ。一週間近くの東京不在であったのでドローイングがすすまず、発送が遅れていて申し訳ない。

R257
三月十八日

九時半前東京駅。何故か、ここ迄辿り着いていささか疲れた。六時半の畑仕事なんてするのではなかったと、後悔する事仕切りである。

三月二十二日

甲子園近くのホテルで目覚める。七時。昨日、朝九時頃だったかな京都大山崎で東大建築学科の皆さんと別れて、西宮に来た。西宮駅前にS社長が迎えてくれて、西宮ヨットハーバーへ。色々とお話をうかがう。又、周辺の土地等も含めて見学。昼食は辰ソバで、細メンの揚げソバ。東京でいえば、冷やし天夫羅うどんである。これは美味であった。関西のうどんはうまい。午後、S君が合流し、大型クルーザーで海へ。海より、西宮ヨットハーバーそして周辺を見て廻る。陸から見る印象と全く異なり、これならば何か出来るかも知れぬと考え始めた。周辺のヨットハーバー他内海も船で見て廻った。昨日迄の丸三日間奈良盆地の中に居たので海が余程新鮮だったのだろう。あるいは、それだけ深く奈良盆地に沈潜していたとも言えるか。良い友人達、良いメンバーとの奈良古建築の旅であった。記憶に残るものになるだろう。

奈良に来る日には新幹線でバッタリ磯崎さんに会ったり、奈良の旅館ではスリッパで通りをゆく安藤さんの珍しい姿も見たりで、この旅は夢なのか現実なのか区別もつかぬ位のものでもあった。しかし、夢であったとしても悪夢ではなかったな。良い夢であった。

しかし、東大寺南大門を遠く西から眺める茶席風の座敷で友人達と静かにすすった抹茶は美味ではあったが、マンジューが注文したモノと違うのではないかと深く考え込む自分が居るのは夢の様な気もするし、あの座敷の丸障子に写っていた影は小津安二郎でもあり、ジョン・キーツ風でもあったのは、恐らくアレは夢であったのであろう。しかし、あの夢の様な近代和風らしい庭から眺める、ダブル三笠山や意味も無い水車小屋、転げ落ちそうな深い池の飛び石はあれは夢の又夢であったのであろう。が、そうであったとしても、南大門は正面から眺めたり、大架構を見上げたりよりも、あそこから眺める変な姿に真髄があるなと、あそこに行かずに新薬師寺にいったらしき同行の諸君にはイヒヒヒと笑うのである。南大門は西からの遠望が良いのだ。

その夜食べたと覚しき、まさか鹿肉ではあるまじき、肉、しかも、ゴーゴーと燃えるバーベキュー風の焼き方の豪華さはアレは夢であったに違いない。奈良公園の中でバーベキューはあり得ないからな。奈良は夢の中の古代都市の如くに、しかし味覚つきで思い出すのである。

何を甲子園近くのホテルで考えているのかと、現実に戻る。十時半にはS君が来るから朝食を食べておこうか、しかしまあ、昨夜の中華料理も含めて良く喰べた旅である。奈良漬けの一点を除けば奈良のメシも決してまずくはない、典型的な修学旅行の飯であり、アレは和辻の古寺巡礼定食だと思えば良いのである。

しかし、こんな形で奈良の旅をまとめてしまって良いものなのであろうか。イヤ、今日は日曜日だ。色々と考えてみよう。

九時半朝食。十一時前S君とロビーで会う。十三時半迄相談。十四時室で休む。十八時過ぎ夕食のため下に。レストランが四軒で、何も無く中華料理にするかと思い入ってみた。昨夜も中華だったが、中華は巾が広いからとセレクトしたのだった。店員の対応が私には不愉快であったので、すぐ席を発つ。一人でホテルの中華料理屋に入った私が間抜けだったのか。一人客への対応が全く考えられていない料理屋が配慮不足であったのかは今は知らぬ。しかし店員の対応は全くなっていなかった。隣りの「蔵」鉄板焼ステーキレストランに入った。これは怒りおさまらぬ私の胃にもとても和やかで良かった。旅だなこれも、又。

三月二十三日

七時起床。旅に出て六日目になる。TV報道によるとNRT空港で貨物機が炎上した。TVの宿命であるが、のぞき趣味が横溢して嫌味過ぎる。炎上している機内の二人の操縦士の命にも又尊厳があるのに。

十時半にS社長がホテルでピックアップしてくれる予定。N市役所の方と十一時にマリーナで会い、昼頃には全ての用件を終える事が出来るであろう。夕方には東京へ戻れるか。

R256
三月十八日

六時半起床。畑へ。ガーッと土おこし。汗ばんで、七時過了。朝の光をほんのりと浴びて、パジャマに長グツのスタイルで畑をやっていると、ゴン太郎、ゴン兵衛の感じで誠に気持ち良い。もう少しサマになてきたら、ホウかむりをして、鼻水すすりながらのスタイルにしたい。やっぱり、私はアリスファームのデザイン長グツよりも、そこらのクラシックなノンデザインの長グツの方が本当は好きなんだな。

いささかの荷作りをする。八時十五分過世田谷村を発つ。昨日、カンボジアのナーリさんから電話があったようだ。絶版書房2号が届いたのであろう。2号は残冊 39 になってから余り動いていない感じである。コンピュータも春眠なのであろうか。 2号は力作なので、アッという間に絶版だコレワと自信満々であったのだが、オッとどっこいなんだな世の中は、甘くないのである。関西で行商して歩こうかと、憮然としているのである。日記だけ読んで腰を上げようとしない人達よ、神社に行ったり、寺院に行ったりする時はおさい銭あげて手を合わせるでしょ。少しはお金を捨てなさい。

R255
三月十六日

十四時前より、ドローイング 10 冊 20 点。ミーティング。十七時NTT出版K氏来室。昨年の世田谷美術館での連続二十一講の出版についての打合わせ。少し作業が遅れているが、お陰で私は昨夏のレクチャーを客観化できるようになっているので、有難い。二分冊にするか、ドーンとまとめて重い一冊にするか、一冊の方が良いかも知れない。あの真夏の夜の夢みたいな二十一夜は、ハッキリと私の集大成であったから、キチンとまとめておかねばならず、これから、気を抜かずに手を入れてゆきたい。

あの二十一夜のレクチャーと記録があって、初めて、絶版書房のアニミズムシリーズがあるので、アニミズムシリーズの旅も、いずれ近いうちに、この真夏の夜の夢の大冊に帰還する事になるであろう。つまり過去に追いつく事ができよう。十九時近江屋で世田谷美術館N氏と合流、会食。新宿に流れて、二十一時頃世田谷村に帰着。

三月十七日

八時起床。ようやく春らしくなった。土いじりを少々。ついつい熱中して、道具を振り廻し汗をかいてしまい、気持悪くなってしまう。野良猫が一匹ジィッと畑仕事を見ていた。あわてて、横になり休む、盛岡市のN氏より着信していたお手紙を読む。どうやら眼のしっかりした方らしく、絶版書房は油断大敵だなと痛感する。盛岡ノート刊行委員会、刊の美しい「盛岡ノート・立原道造」再刊版をいただく。小振りの、実に美しいとしか言い様の無い本である。この手触り、小さな美しさは是非体験されたい。発行は、株式会社東山堂、TEL 019-623-7121 である。 980円。

R254
三月十四日

十一時研究室。ドローイング十冊二〇点。十三時半アトリエ海、佐々木氏来室。水の神殿、鬼沼・時の谷中心施設打ち合わせ。時の谷の建築に関しては難しい建築であるとの事で、顔を引きしめられていた。双方共にイヨイヨ正念場である。打ち合わせの後五反田T社へ。十六時T社T社長面接。佐々木氏を紹介。十七時了。佐々木氏仙台へ。新宿で用事を済ませ、十九時世田谷村に戻る。絶版書房残冊四〇冊である。

三月十五日

七時過ぎ起床。猫の白足袋が二階の外の雨戸をとり付けようとして用意してある三〇〇mm程の巾の窓台に出て外の景色を眺めている。梅の花も散り、椿の花も落ちた。畑には霜柱が白々と降りつもっていると思ったら梅の花びらの群であった。早春の世田谷村の風景は春とは言えど寂しいもので、その風景を白足袋は眺め続けている。余程面白いのだろうな。うぐいすの声も聴こえてくる。今年初めて聴く声である。

小刻みにやる事を変えてWORK。自分でSTUYの方法を工夫しないと、集中力を保てない。

午後一階(地面階)の土間の片づけ。そして、畑をひろげる作業。庭の樹のほとんどを植木屋さんがバサバサかり取ったので随分陽光がさし込むようになった。昨年迄の畑を西の方へ拡げようと考えた。拡げようなんて大ゲサだが実のところは畳二枚程の面積である。それでも汗ばんだ。まだ野菜は何をつくるか全く決めていない。陽当りが良くなったのでゴーヤをやってみようかと思う。近くのS氏には余り考えずに、サッサッとでたら目風にやれば良いと言われているのだけれど、S氏はあれで結構な野菜作りのキャリアがあるので自信があるのだ。最近のS氏は完全に畑作りでは私に対して優位に立つ事を自覚しており、畑コーチの風格迄ただよわせ始めたのである。

昔の私であればですね、すぐに反応して技を競い合ったりもしようけれど、流石に私も子供状態は抜けてS氏をコーチなりに立てるという知恵もついたのである。しかし、今日新しく拡げた畑の部分は生垣にさえぎられて、雨の小径からは見えないので、秘密の畑として、至玉の野菜を育て、S氏にホレと収穫物を差し上げ、ギョッとする顔を見たいのである。

S氏も知らぬ顔をしているが、私の畑は時々のぞきに来ているようだし、当然私も口には出さぬがS氏の畑はのぞきに出掛けている。それ故、他人目につかぬ、しかも陽当たりが良く、風通しの良い小さな畑を作ったので、ここで何を作るのかはこれから密かに考えを巡らせなければならない。

三月十六日

七時半起床。新聞を読み、畑へ少し計り出て、土いぢり。昨日作った畑を少しさらに拡げる。南の道側のワズカな場所も手を入れた。

四国のK社長と連絡。十四日の仙台アトリエ海佐々木さんとの打合わせ内容を伝え電話で討議。五月着工を決定する。北海道、仙台、四国の地理的関係上の仕事となる。

今年の夏過には植栽もほぼ修了して訪問者に見ていただけるのではないだろうか。

R253
三月十三日

十三時津田沼、千葉工業大学。川口衛先生等と修士設計・卒業設計講評会出席。

卒業設計に力作が多かった。玉置俊浩君の「学校につめこむ」、益子直也君の「商店街の行方」は共に堂々たるものであった。

玉置君のセンスの良さをこれからつぶさずにどう延ばすのか先生方の力が逆に試されるだろう。益子君の案は建築家、プランナーの案というよりも、むしろ社会運動家の才が必要になるだろう。かくの如き商店街・学校が出来るような政治・社会を作り直さねばならぬ現実に彼は早く対面したら良い。しかし、とても良いプランだ。

これ等二作品が秀品であるとしたら、鈴木辰弥君、白井裕二君の案はブッ飛んでいて大変面白かった。鈴木君の都市の縮図は渋谷のスクランブル交差点に巨大なメディア広場、メディア・ウォールを幻視した案で、この案は実は小動画、映画にしたらもっと面白かったろうし、意味が明解になった。少なくとも、これだけの模型を作ったのだからこれを使って、コンピューターの動画、又はコマ割りの物語を作ってみたらどうか。若者の支持を得るだろう。大友のアキラよりも面白くなる可能性がある。シナリオを作る才が必要だけれども。白井君の案「恵比寿、動植物園のある風景」は、どうしょくぶつ=けんちくを等価に考えたら、都市や建築にはどんな可能性があるのかを幻視したものである。

オランウータン、オカピ、キリン、ライオンを恵比寿の街の背後に隠棲させ、人間の感性を柔らかく解放させたいというもので、この案にはいささか驚いた。驚いて、反応した自分にも驚いた。まだ俺もミイラになっていないなと安心したのである。オランウータンやオカピの身になって丹念に模型が作り込んであって、これは、このマンマ、何処かサンリオショップかデパートのペット・コーナー等にディスプレイしたら、大人にも子供たちにも大人気になるのではないか。そういう類の健全さ、ナチュラルさを持っていたのである。街へ出て、津田沼駅周辺の大型店に展示したら良い。子供達は大喜びするだろう。鈴木、白井両君には是非私共の絶版書房「アニミズム紀行2」を読んでもらいたいと考えたのである。

このような才質をいかにつぶさずに育ってもらうかを我々は考えねばならないのだろう。少なく共、いま少しバリヤーをかけて守ってあげる必要だってあるのだ。こういう案、考え、アイデアを面白いなと思える状態を保持するのも大変なのだけれど、こういうアイデアに背中を向けてしまったら、それで失うものの大きさは計り知れない。

十八時過修了。懇親会。コメント出来なかった学生とも話し合えて面白かった。みんなスクスク、大らかにのびてくれと心から思うよ。川口先生等とその後会食。その後電車で東京駅へ。雨がドシャ降りであった。古市さんの車で荻窪の川口先生宅を廻って、二十四時頃、世田谷村に戻る。車中、ちあきなおみを沢山聴かせていただいた。構造設計家川口先生がお気に入りのようで、それも又、面白かった。古市さんは歌の趣味が急速に向上している印象を持った。

三月十四日

八時過起床。昨日のメモを記す。強い風が吹き荒れて、三階のテラスに作った、トリのエサ台が吹き放された。マア、仕方ないだろう。又、作り直せば良い。十時過世田谷村発。

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三月十三日

八時起床。高層アパートの計画案を考える。自分でもこの類のビルディング・タイプに関心があるのだろうかといぶかしむのだが、対面せざるを得ないのだ。十一時迄。今日は千葉迄出掛ける。

絶版書房3号の事は2号が絶版になる迄書けぬのだが、タイトルを変える。2号は残部 43 冊である。

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三月十二日

昨日は午後N氏A氏と会う。その後独人で動いた。

本日は七時半起床。N氏と連絡、関西のプロジェクト打合わせには同行していただく事になった。本日は輿石・加藤両先生との共同ゼミ、ガラス工場見学である。現場ガラス製作というのが永年の夢であり、北海道の「水の神殿」計画でその一部を実現させようと考え始めている。どんな小さなキッカケのアイデアでも良いのでつかみたい。若い両先生と山田脩二をいつか会わせておく必要もあるかも知れぬ。九時前世田谷村出発。

十時銀糸町駅駅改札口で先生、学生達と集合。駅近くのガラス工場見学。2階に炉を構え、多くの職人さん達が手技を競っている。M社は薄物のグラス状が得意な工場のようだ。建築用の厚物はどうなんだろうか。十一時多人数になったので2回に分けて見学。非常にていねいな説明を受けた。ありがたい。

地下鉄を乗り継いで十二時過西早稲田。昼食甲州屋で。十三時研究室。ミーティング。絶版書房のページをもう少し、顕在化する事にした。ミーティングしながらドローイング、仲々予約数に追いつく事が出来ない。

Nヨットハーバーへの資料チェック。十七時了。

R250
三月十日

淡路島の山田脩二さんと昼に近江屋で会う。酒仙の話は昔話しが多くなったが、お元気で何よりだ。娘さん、淡路の奥様とも電話で話す。こんな時はケイタイは良いと思ったり。グデグデと話している内に左官教室の小林澄夫編集長に会おうか、そうしようという話しになり、新宿へ、ただの酔っ払い二人小放浪の旅である。

ステーションビル8Fの不愛想な店に入り、やっぱり近江屋は相当いい店であると感心したり。実に我ながら、とりとめも無い時間を過す。しかし酒呑童子山田脩二、気持ちに濁りは無いからなあ。やがて小林さん登場。この人物は年月が経つと共に怪人物となり、今では私とか山田脩二を通り越して、カラマーゾフの兄弟というかドストエフスキーの作中の通行人の如くの何とも言えぬ風の様な風体になっている。人物が登場すると気温が一気に下がるのである。山田や私はただの酔っ払いであるが、小林さんは違う。何か本格的な孤独らしきを背中に貼りつけている。山田や私をジーッと遠くから視ている。何故こんなに楽しそうにしているのだろうと、憮然とするでもなく、わずらわしくもなく、道バタの石ころみたいな地蔵を眺める如くにヒンヤリと視ているのである。この人物は結社青空を結社と言うのに、たった一人で作って、そして見事な詩集を作り、それを送って下さる。

私は詩人という者の存在形式を理解しようとしない。しかし、この人物はまさに詩人であるように昔から思っていた。今も自炊生活だそうで、一切の生活臭、女性の影すらも感じさせぬ。バイカル湖畔で死ぬのを夢想している。何を話したのか、もう忘れる位の空気のような会話をして、では山田脩二を送りがてら、烏山のソバ屋に行こうとなって行った。昨日山田は朝五時迄呑んでいたそうで、ソロソロ珍しく限界でもあったろう。ソバ屋でバイカル湖行旅団を三名で結成し、厳冬期の方がいいだろう、そこで小林さんが死ぬのを見届けよう。死ななければソッとではなく、ドッと背中を押そうではないかと話し、別れた。実に下らない一日であった。全くの無駄な一日。

しかし、無駄と言えば、何もかもそうであるやも知れず、こんなドタバタも又、それなりに、ヤッパリ全く意味ネェな。

三月十一日

七時半起床。昨日は十八時には帰ってすぐ寝てしまった。山田脩二後遺症も無い。あんまり無くって気味が悪い位である。

考えるに、たまプラーザの山口勝弘先生と左官教室の小林澄夫編集長の空気は良く似ている。二人共にシングルである。二人共に髪の毛が薄い。パラリパラリである。二人共にやたらに孤独に強そうでもある。と言うかその愛好癖がある。人間が生きるに流派属性は一切あるまいが、面白おかしくそれを考えるに、山口、小林は生存者としては生存していないかも知れないという意味に於いても(これは冗談です。念のため)双璧だな。両脇侍像、日光、月光菩薩という位のモノ。それに近く、もう少しふくよかな、広島木本一之執金鋼剛像がいる。なにしろ、木本氏はブラックスミスであるから重いハンマーを振り廻して、山口、小林と比較すれば、マッチョである。ヤセたら仕事にならない。この三神がシングル三体身、三人合わせて単独者同好界の光を放つ金剛である。会っても会話も無しにすれちがうだけは保証する。

その周囲に、もう少し生臭く、山田脩二、外尾悦郎、死んでしまった佐藤健等がせいぜい明王位で居並ぶ。これ等はまだ生臭い。死んでも生臭い。そして、お互いどうやら気が合いそうにない。何だアノ野郎はと思い続けている。それから離れた離宮状の堂内にベイシーの菅原やらS教授がポツンといるな。遠くからうず巻星雲をうさん臭そうに眺めている。最近はそれ等の宇宙に箱形の妙な宇宙船を操縦するN氏の修道院も出現してきた。

つまらぬ事を考えていたら、とり留めもなく、終わりになりそうにないので、これ迄。

R249
三月九日

十一時研究室。ミーティング。研究室の今の仕事、プロジェクトをいかに「アニミズム紀行」絶版書房に組み込んでゆくかを相談する。アニミズムと呼んでいる概念の対象がどうやら惑星としての地球であると、自覚できてきた。アニミズム紀行は次第に地球との親近性、そして感性、直観の出自をたどる事になってゆきそうだ。

紀行2で書いてるアポロ 13 号の事故による地球帰還の叙事詩と交信、IT技術の革新はバッキーフラーの時代の地球イメージを急速に大衆のモノとして共有し始めている。フラーの時代を今ではいささか懐かしく思い出さねばならぬけれど、フラーを懐古できるのはテクノロジーのお陰だ。今では小さな子供迄、地球を宇宙からの視線で映像として共有できている。そして、アポロ 13 号は、その地球への帰還が大変な努力、壮大な努力を必要とするのを我々に教えた。つまり、地球への感覚をいかに日常生活に反映させ得るかを考えねばならぬ時代なのである。おいおいこの事は書き進めてゆきたい。

昼より十七時過迄ブッ続け5時間のドローイングをやる。25 冊に2点づつ、10 冊に1点。総計 60 点を描いた。集中したので疲れた。これだけの数をやると、次第に頭の中で考えている観念と手先がハッキリと分離して、手は手で自由になりたいと文句を言い始めるのを知る。あんまり、急速に上手になってしまってはつまらないので、それをいましめながら取り組んだ。

しかし、理由は定かではないけれど面白い。まだ外国からの注文はないけれど、沖縄から北海道まで、すでに僕のドローイングが三〇〇点位私有されている。僕は頭の中でその大方の配置を直観している。そのような視点で眺めている。そうすると、一点一点のドローイングが地理的にチカチカと発信し始めて立体化されようとしてくるのである。

これが情報の時代の根本であるような気がしてくる。

十八時過疲れ休めに新宿味王で一服し、又、討論する。他人の意見が今一番欲しい。自分が集中し始めているから。二〇時過世田谷村に戻る。

三月十日

八時起床。今朝二時半に目覚めて、江藤淳「小林秀雄」講談社を一時間半程再読した。小林秀雄が昭和五年十一月三〇日に白水社から出版した「あるちゅる・らんぼお酩酊船」は限定二三〇部であった事を知る。ランボーに関する著作は昭和十二年六月三〇日の野田書房の限定一五〇部、四九部某氏私家版まで、度々限定出版を繰り返している。小林秀雄程の意識家が、この限定出版に無意識であった筈がない。何を考えていたのか。江藤淳の作成した資料によれば、昭和三四年二月二〇日東京創元社からの二〇〇部限定「ランボオ詩集」が小林の限定本の最後である。

九時半、メモを記し終わり、朝食。昨日、今回の「アニミズム紀行2」はオークションを行なわないと決めた。これ以上ドローイングを更に充実させる事が不可能だから。

もしも、再びオークションを待つ方がいらしたら、今回と次回の三号はやりませんので、そのおつもりで願います

R248
三月七日

朝、フッと思い立って、多摩プラーザの山口勝弘先生にお電話した。「元気ですよ」と何変わらぬ風であった。「今は何をしておられますか」と問うと、「・・・・・」とすぐには返事が返ってこない。「山田脩二から星瓦届きましたか」「ハイ、届きました」「いかがですか」「とっても気に入っています。」

で、淡路島に電話する。

山田酒仙人が出て、「どうも、ども」「瓦どうもありがとう」「山口先生から礼状いただいちゃって、どっちの手で書いてんだろう」「右手だよ。ただし紙を押さえる左手が動かないんで、字が傾いたり、踊ったりしているだろう。でも右手は健在。よい手が残ったな」「イヤー、いい字でね、ビックリしちゃったよ。味があるネェー」と話す。淡路島も冷え切って、カマから煙も上がらない状態だと言うが、仙人はそれとは別種の価値観で動いているから、ヘコタレない。経済悪くてヘコタレるような輩は俗人界の住人だけである。山口勝弘先生も山田仙人も違う世界に生きているので、声にいつも張りがある。決して現在に不満や文句を言わない。それが偉い。

ところで、絶版書房の名付親は何を隠そう山口勝弘先生なのである。その詳細はいずれ、述べておかねばならない。それ故、絶版書房の正式名称は絶版書房 II なのである。ツウの II の字がチョッと気取り過ぎたデザインで伝わりにくいので、誰も着目してくれない。それで次次号四号からは歴然として II であるのをハッキリ表示しなくてはならない。近代的デザインの格好よさらしきよりも、古くさいかも知れぬがその小歴史的意味の方が余程大事なのだ。

今朝は四時に三号「ひろしまハウス」の全原稿を書き上げた。総字数三万四千 - 六千字になったであろう。三号はこれで良し。ひろしまハウス以降のミャンマーのプロジェクトに関して書き足した。朝、尋ねたら、残冊は 54 冊になっているそうだ。166 冊が手許を離れる事になっている。

今日は久し振りに太陽の光が満ち溢れ、私の仕事の一部も一段落し、モノ作りの方に専念する。

三月八日

十三時半銅版画2点、昨年途中迄手をつけて放り出していたものを仕上げた。久し振りに銅版を彫ると、筆や鉛筆で描くドローイングと随分違う世界のモノだと言うのが良く解る。毛筆と墨で描くドローイングは偶然の神が在る事にゆだねて、それでも踏み出す主体にしか自由はない。毛筆と絵の具の世界、これはペインティング技術の世界に属す。銅版画はコレは一番、銅版とそれをけずり込む道具の、抗争と妥協の産物の世界である。どれも面白いが、その面白さが全くちがう。

相も変わらず、何を描いているのか自分でも良く解らない。解らないのに、いささかの力を労して銅版を彫り込んでいる。無意識のままにこんなにエネルギーを浪費出来るわけもない。その事は意識できるのだが。でも、今年に入ってからの、つまり 2009 MAR の日付を刻んだ銅版には、筆の代わりの、ある道具の力を借りた部分と、鉄筆で自分だけの力を使って彫り込んだ部分を併存させてみようという意識だけは方法的に進めてみた。フォルムは数ヶ月前に刻んだモノを下地にしたので、いささかのタイム・ギャップがある。その間に絶版書房の発刊冊子に三〇〇点近いドローイングを描き込んだので、その体験が今日の銅版彫りにも反映しているのが、良く解るのだ。

こんな遊びもとことんやると、命がけにならざるを得ないのが解る。命がけといっても、眼を吊り上げて決死隊の命がけではない。一日一日をつくり続けてゆきたいという位のものである。

三月九日

十時過世田谷村発。何とも曇天が続いて、やり切れぬわけでもないが、うっとうしい。昨日彫った銅版中にいくつかの建築が出現している。それが全てではないが、やはりそれから自由になるのは大変なのだな。

R247
三月六日

七時半起床。急に文章が書けなくなった。世田谷村日記を十数年サイトに公開し続けて、自分で文章らしきを書く速力が随分速くなった、とうぬぼれていた矢先の事である。どうやら絶版書房がそのきっかけになっているらしい。

常に描いているか、書いているかしないと不安になる。頭の中や、気持の中でゆっくり何かを育てる事は我ながら不得意なのだ。やはり指先の人、手の人間なんだなと自覚し始めている。頭脳内に、あるいは気持ちの内にモノをつくり上げる事が不得意なのだろう。そんな七面倒臭い事は抜きにしても、要するに書きたい事が無くなってしまった様な気がするのである。絶版書房三号のつめの二〇枚程がピタリとも進まない。かと言って、描く方が山程進んでいるかと言えば、それも無い。恐らく、絶版書房冊子ドローイングを描き過ぎたのではないかと、非力を棚上げにして、反省している。ただ、これはあせっても仕方の無い事だろうと、さめざめともしている。だから、しばらく何もしないでいるしか無いなと覚悟し始めつつある。

私の今の生活リズムらしきは、絶版書房の動きと関係強い。あらゆる表現が、建築も、都市的なモノも、モバイルも、デザインもドローイングも銅版画も、書く事も、生活自体がこの配本活動と関係し始めている。だがしかし、書けなくなったら配本だって不可能になるのだから、いささか困ったものではある。どうやってこの状態を抜け出せるのか。

こんな時に、「アニミズム紀行2」の残冊は恐らく今日で六〇冊を切るだろう。第三号を早くまとめなくてはならない。辛くはないが、荒涼とした気分ではある。こんな事、店主としては書かぬ方が良いのだろうが、書くのも又良しという気持ちでもある。大きな壁状が立ち上がっている、自分の才質そのものの中に。

R246
三月四日

それにしても、我絶版書房の刊行物は現今の世相を眺めるならば我ながら実に品が良ろしい。二百人に読んでいただいているのだが、2号、3号とどのように展開するのか、私も工夫に工夫をこらしたい。内向きになればなる程に質は保てるのだが、力が失せるのは解り切ってもいる。昨日、2号の残部 97 冊であった。今日はどうか。少し絶版への速力が鈍いようで、これは私の力不足であろう。

十時四〇分五反田ROCロビー。渡辺君と打合わせ準備。十一時トモ CORP 社長と打合わせ。相変わらず細密な打合わせで、仲々にエネルギーを使う。猪苗代湖畔鬼沼 45 ha の中心、我々が呼ぶところの時の谷、中心施設の施工態勢他、を検討した。昼食をはさんで、十五時過迄。十六時前研究室。打合わせ、2件。雑用。ドローイング少し。十九時了。近江屋で一服の後二十一時前世田谷村に戻る。

絶版書房残冊 94 である。三〇部程の特別予約枠を考えているので、3月中には絶版可能であろう。今は、4号の概要、5号の概要の考えをつめている。しかし、今の時勢で 2500 円は読者にとって厳しいであろうし、あんまり急ピッチの作り込みも時代の空気に合っていないのかも知れず、悩ましい。

三月五日

八時過起床。北海道の水の神殿計画が佳境に入ってきた。昨夕、全ての要素に基本的なアイデアを示したので、これからは施工者との打合わせに入る。

「水の神殿」計画は、即物的に言えば食品の問題、特に人間にとっての飲料水の問題を大雪山系の地下伏流の自噴水を精選・清水化し、飲料として供しようとしている会社の依頼によるものだ。大自然の内に大雪山から三百年程をかけて地下伏流し、自噴するという水自体の生成の流れを場所のデザインとして顕在化させようとするものである。「アニミズム紀行5」としてこの計画案を取り上げてみる予定であるが、初期案はGAギャラリー展にすでに出展してあり、今はその第三次案、ほぼ最終案に辿り着いている。

予測していた 30 冊の予約が、50 冊にしろとの事であったが、これは出来ない。すったもんだの末、とり敢えず 20 冊だけは確保しておきしょうという事になった。残部 68 冊です。時々、残冊数がドターンと減る事がありますが、これはそんなわけで、どうしても何十冊よこせという人がいて、その人なりの理由があるわけで、説明はしませんが御理解下さい

R245
三月三日

十二時半油壺ヨットハーバー。第二次世界大戦末期、特攻艇震洋の倉庫としての洞穴を見る。ベニヤ板のボートに自動車のエンジンを搭載、米艦に体当たりさせようとしたのが震洋で、周辺には人間魚雷回天の洞穴収蔵庫群も残されているようだ。こんな事で良く大戦争を始めてしまったな、と痛切な思いを抱く。こんな事と言うのは現実把握ということで、それは同時に歴史の把握ということでもある。六〇年経った今でも、政治経済の現実はそう変わりはないと思うが、どうか。

洞穴の一つに入り込み、北海道の水の神殿の内部スケールをチェック。水の神殿の主要構成要素は洞穴と塔だ。音響に対する疑問は生じたが、人間的なスケールでもあるなと感じられた。マア、これも体当たり的なスタディであると独人苦笑いする。

十三時、N氏と会う。十五時了。十五時半三崎港で遅い昼食。ケーソン工法で海に沈めるらしい、とてつも無い構造物を見て、写真に記録する。港周辺にはとてつも無い物体があるものだ。

十七時過世田谷村に戻る。渡辺君は明日の準備で研究室へ。

三月四日

七時半起床。建築の保存の問題にしても、首都の中心部に建つモノは全てとは言わずとも、保存の対象にすべきだろう。フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルがあの姿を今、丸の内に残せていたら、東京の都市としての価値は違ったものになっていたかも知れない。郵政省の建築が再び話題になっているようだが、保存の形式を広く議論の対象とすべきだろう。昨日視た特攻兵器震洋の倉庫洞穴だって日本近代の大事な記録なんだから、キチンと保存すべきである。

昨夜の雪が薄く残り、外は白い雪景色である。十時半過世田谷村発、五反田へ。

R244
三月二日

〇時半。書類書きを終え、「建築の四層構造」を読み直す。

七時半起床。本の読み過ぎで眠い。九時過ぎ世田谷村発。十時過研究室。「絶版書房・アニミズム紀行2」、残冊は百になっている。ミーティング。二つのプロジェクトについて他。その後、OG、院生、他相談。12 冊にドローイング。十七時過了。会食後十九時世田谷村に戻る。

三月三日

今日は桃の節句だが、とても寒い。春は遠いようだが最近の天候、四季の移り変わりはギクシャクしているので、恐らく急に初夏になるような事になるのだろう。ギクシャクなんて書くのはネット上ではスレスレに許されるであろうが、こんなに変テコリンなカタカナを連発していたら山本夏彦さんには原稿突き返されただろうと、変な思い出し方をしている。人間は思い出す度に生き返るもので、特に山本夏彦さんは自称生きている頃から死んでいたから、ことさらにそうなのだろう。あの人は若い頃から翁の表情をしていて、年令も、正体というのか存在感らしきも、今風にいえばバーチャルであった。若い頃を知らぬが、そうであった。ただ文章にはそれこそ生命を刻み込んだ風があった。現実の身体は今の時間から姿を消しているようには視えるが、今もページを操るとその内に翁は生きているなと実感するのである。こういう生き方には凄味がある。

友人のS氏より便り届く。短いものであったが、簡潔に言うべきを全て言い、過不足が無い。名文であった。恐らくは、それもあり山本夏彦の文章を思い出したのであろう。いずれにしても、文は大変な力を持っているのだなと思う。

こんな風に書いているのは、これはイメージである。S氏の便りの中には、ある詩人の詩の日本語訳が良くないと書かれており、私も何となくそう思っていた。英語のまんまの方が余程伝わるだろうに、とつたない英語力の頭で考えていた。山本夏彦の名訳「年を歴た鰐の話」をそれで思い起こした。あの本の訳は原文を超えているのかも知れぬ、恐らく山本夏彦さんは自身でも一生あの処女作の訳業を追い掛けていたのかもしれない。こう想っている現実がある。その現実が山本夏彦を今在るものとしているのである。

現実というものは積まらないものである。ただ、一個の人間の内にイメージを喚起させる破片に過ぎない。全体というものが、在るとするならば、それは一個の人間の細胞の集積内に生まれるイメージそのものにしかない。

つまり、こんな一見無駄な事を書きつけている今の内に現実の全体は生まれるのである。

十一時渡辺君来て、共に油壷のN氏邸へ出掛ける。あそこの気持の良い海に面したテラスも今日は寒いだろう。そう想う寒さは現実の寒さの外に在り、より大きい。

R243
三月一日

七時半起床。昨日のメモ、特に修士設計・学部卒計の印象を記す。昨夜は難波和彦さんより『建築の四層構造・サスティナブルを巡る思考』INAX出版 2200 円を落手したので、読み始め、深夜となり、今朝、読了した。

『建築の四層構造』の読後感は日記には書き切れないので「設計製図のヒント」にキチンと近日中に書く事にして、ここでは断片的な雑感をメモしておく。

この書物が難波和彦さんの個人史の中でどのような位置を占めるものになるかは今のところは解らない。しかし、私には初めてと言って良い位に、難波和彦さんの全仕事の意味への入口に立った様な気がした。百三〇軒になったと言う、箱の家シリーズはすでに師の池辺陽の仕事を充二分に量に於いてしのぎ、そして思想的には自覚して継続している。私はその枠組み、よって立つフィールドへの方法的自覚については敬意を払い続けてきた。

しかし、正直なところ箱の家の持続力と引換えに、その表現に持続する退屈さにも実ワ同時に注目してきた。そして難波和彦さんの表現の中心ではないかと考えてもいた。退屈さと呼ぶだけで否定的なニュアンスが込められていると考えてはいけない。現代はそれぞれの人間に退屈さを必然的に求めるモノでもあるからだ。

難波和彦さんがベンヤミンを引き、マルクスを引く迄もなく、近、現代の生活というのは機械の基本的性格でもある繰り返し性にある事は間違いではない。差異は、特異性は必ず時間によって風化せざるを得ない。

難波和彦さんは建築・住宅にそんな差異性を求めるものではないと、その類のものはベンヤミンの言うが如き遊戯的技術である映画等の複製芸術に求めれば良い。それが今のスタンダードな資本主義社会のライフスタイルのモデルなのだと、これはチョッと考え過ぎか、しかし、完全なコンピューターモデルのデジタル思考の難波和彦さんはそう考えているのだろう。

一九八五年に「極」に書いたエッセイに手を入れたらしい〈恐怖〉のパタンと〈生気〉のパタンを改稿した「エイリアン」とアレキサンダーの「タイムレス」に始まる、第2部「建築的無意識」を読むと、難波和彦さんの繰り返し性の現代的意味の中枢に入れるように考えた。恐らく、これについて考える事は私にとってほとんど初めての事になるだろうから、とても大事な時間になるだろう。

第一回目の通読でそう考えた。私の難波和彦さんの仕事に対する、特にライフスタイルに関しての討論は大事なものになるかも知れないし、そうであって欲しい。

短兵急にしない方が良い、じっくりとやれば良い。難波和彦さんと私の表現に於ける差異は厳然として存在し、同時にどうやら考えのルーツは接近しているようだから、差異は無いに等しい。表現されるモノの差異は思考の差異から生まれる筈だろうに。人間は不可思議極まる。

夕方、小休する。午後は三〇分程畑のイモ獲りをした。今年初の土いじりであった。二十四時過加藤先生より送っていただいたシラバス書類書き終了。研究室指導方針を決定する。

OSAMU ISHIYAMA LABORATORY
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