R294
四月三〇日

昼過ぎ研究室。今日は大学は休みのようでキャンパスには人影も無い。研究室には人は居た。十六時半研究室発、八重洲へ。S氏のところでネパールのジュニーの近況などを聞きながら、研究室雑打合わせ。十九時迄。世田谷村に二〇時戻り。

五月一日

二時半目覚める。手紙を一本書く。いつの世にも考えを巡らせ過ぎて精神を摩耗させてしまう青年はいるものだ。良質な精神の持主であるが故に傷つきやすい。そうしてはならぬ故に、短文とした。

二〇〇九年の四月から、今は五月に時は巡っているが、そう考えているのは人間達だけで、他の生命体には時間なんてモノがあるのかどうかも解らないのが現実であろう。と哲学者風になって三時過再び眠りにつく。七時起床。畑へ。赤カブとナスは遂に芽を出さなかったので、つるありえんどうの種を埋めた。三階テラスのツタンカーメンえんどう豆は赤いネットごとやられてしまった。余程カラスには美味であったのであろう。いささか今朝は怒りを通りこして、ポカンとするだけである

数ヶ月後に、やはり私は道端で半ばミイラ化したカラスの死体を見る事になるであろう。アイツ等はやはり、ファラオののろいに身を焦がされる筈である。

しかし、万が一、ヤツラの指揮系統がインターネットに接続されていたとしたら、こちらの事情はつつぬけであり、先程、南に突き出した大きな箱ドイにとまって三階の私をのぞき込んでいた奴なぞは、とてつもなく大型のカラスで、眼なぞはアフリカ風であったから、エジプトの王家の谷から飛来したカラスであるやも知れぬのである。来年はエジプトからのカラスを念頭に置いて対策を講じなければならない。

R293
四月二十九日

十時前羽田空港。待ち合わせロビーでアニミズム紀行4の原稿書く。後藤氏と会う。相変わらず日本中を駆け回っているようだ。食を中心に動いていると言う。音更町の「水の神殿」計画もまさに、日本の食、水の問題とガップリ四つに組もうとしている企業の計画だから、何処かで接点が出てくるのではないか。十一時帯広に向け離陸。帯広は5度、一昨日四〇 cm 程の積雪があったようだ。縄張り大丈夫かな。

機内にて、原稿。少しばかり。動いている時の方が書き物ははかどる事が多い筈なのだが、たまには例外もある。アッという間に津軽海峡上空。北海道が視界の中に。やはり、雪景色だ。十勝の山々が実に美しいので写真をとる。帯広空港着陸間際に幌尻岳を見分ける事ができた。この山はアイヌの神、カムイの山である。

十二時半前帯広空港着陸。K社長迎えてくれる。昨日四国から北海道に入っていた。後藤健市氏と別れて、車で帯広市街へ。途中Kきのこの立派な工場を見学。ビックリした。いい工場だ。駅前のホテルで仙台のアトリエ海の連中と会う。連中は仙台から札幌まで飛行機、そこから友人の車で帯広入りした。車三台に分乗して、音更の現場へ。十四時過現場着。予想に反して雪は全くない。大雪山系だけが遠く白く輝いている。

水の工場内で計画案の説明。大方の了承を得る。その後、水の神殿の位置出し作業。敷地図のオリエンテーション、つまり北方向を示すマークが全く違っていて、真北を設定するのにとまどった。三つの磁石、今はケイタイで真北が分かるのもあって、ことなきを得る。設計基準点を大幅に移動した。持ってきた設計図の真北の軸と三〇度くらいの振れが生じたが、かえって良かった。駐車場のスペースが大幅に増えたし、アプローチの座りも良くなった。又、サイトにある白樺の樹を切らずにすむようにもなった。庭園の外形を縄張りする。全体の完成像を頭に思い浮かべた。小さい、何しろ小さい。まわりの風景が大き過ぎるのだ。十六時過修了。現場には関係者が十数名集った。ボーリングの位置を指定し、アトリエ海の佐々木氏と最終確認をして、現場を去る。

帯広市内でアトリエ海の連中が宿泊するホテルを確認する。彼等はここから現場に通う事になる。十七時過北海道ホテルへ。K社長の知人と会う。社長の水ビジネスの布石であろう。再び駅前のホテルでアトリエ海の連中と会い、歩いて北の屋台へ。北の屋台ではK社のキノコを北の屋台全店二〇店で使った「とかちマッシュフェア」が5月6日迄開催されている。K社長のおごりで三店を飲み歩き、キノコを喰べた。三軒目で私は時間切れ。皆さんとお別れして、TAXIで帯広空港へ。最終便、二〇時二〇分発にすべり込む。羽田着二十二時前。世田谷村に二十三時半前帰る。

四月三〇日

七時過起床。昨日のメモを記す。

ギョエーッという事件。わずかに残されていたツタンカーメンのさやえんどうが、カラスにやられてほぼ全滅してしまった。だから気をつけろと言ったではないか、と家人に文句を言う。しかし気をつけろと言っても、どう気をつければ良いかは私にもわからないのだ。朝からショックである。立ち直れるかどうか。しかし、赤いカバーをつけていた二ヶは無事であった。手間をかけたツタンカーメンは残り、手を抜いて、スダレで隠しただけの奴、五、六ヶをやられた。

考えるに、カラスの野郎達は、喰べ時を待っていたとしか考えられぬのである。ジィッと空の何処かから、私が必死の工夫の数々をするのを冷笑しつつ、今早朝、やりやがった。ツタンカーメンののろいで高熱どころか、喰べごろ待ちであったのだ。ツタンカーメンののろいならぬ、ツタンカーメンののろいボケになっていたのはコチラの方であった。残念無念。しかし、手許には四さや程残った。種にすると十二粒である。この残された種で、来年の種の保存と友人達への贈与をまかなわなくてはならないのだ。種の保存という生命の倫理をとるか、友情か。事態は深刻である。世田谷村最大のピンチだ。考えあぐねて、九時前畑へ。

R292
四月二十九日

六時過起床。畑へ。朝の霊気を浴びる、という感じになってきた。少し涼しくて気持良い、それだけかも知れぬが、アニミズム紀行4の為の原稿書き進める。我ながら思わぬ展開になってきた。スリルだ。七時中断、今日の北海道音更け「水の神殿」の、洞穴と塔を含む造園計画の位置決めの予習をする。大雪山系が現場でハッキリ視えると良いのだけれど。大雪山を借景として、庭園に取り込みたい。それと、真北の軸との多少のズレが位置出しの決め手だ。水源の位置との取り合いも、そのポンプ部分を最終的にどうするのかを現場で決めなくてはならぬ。

昨夕、十勝のヘレンケラー記念塔のオーナー後藤さんと連絡とれて、今朝は同じ飛行機で会えそうで楽しみである。八時過世田谷村発羽田へ。

R291
四月二十八日

十時過大学。研究室でサイトチェック。小打合わせ。十時四〇分学部講義。ようやく、一九六四年の吉村順三の森の中の家、磯崎新のN邸に迄辿り着く。磯崎新のN邸は山口の芸術村に再現されており、磯崎が執着するのが当然の名作である。小さな建築では磯崎新のベストではなかろうか。「空間へ」の踏切台であった。

一九五〇年代末から一九六〇年初めにかけての日本の近代建築は充実していたな、と思う。十二時前了。 「時間の倉庫」施工図チェック。十四時前迄。アニミズム紀行3にドローイングを施す。45 冊に入れ切って、もうやめた。十六時半であった。

R290
四月二十七日

区民農園に寄り、二、三人の人間が働いているのを見て、十一時研究室。打ち合わせ。アニミズム紀行3の残冊が二三八迄減っているようで、このペースでただただ牛のように歩けば良い。

その後雑事、そしてドローイングを 40 冊に入れる。後半 20 点程はようやく「ひろしまハウス」らしいドローイングが描けたように思う。柔らかい毛筆で描き続けているので、次第に描く内容も変化しているのだろう。十七時過了。十八時近江屋で一服して、二〇時世田谷村に戻る。

四月二十八日

二時半目覚めて起床。何かいいアイディアが生まれたような、生まれていないような中ブラリンな感じの中で、そのアイディアをメモしようとするも、仲々それが出来ない。まだ深夜だ。朝まで待とう。

六時過起床。鬼沼・時の谷の「時間の倉庫」とインドの洞穴寺院、そして川合健二邸の紀行を書き始める。間もなく着工する「時間の倉庫」は決して小さなモノではないけれど、もう少し大きいスケールに成長させる計画を作る。

七時過畑へ。三階ツタンカーメンのろいのカラス殺しテラスのツタンカーメンさやえんどうは今のところは無事である。アニミズム紀行4、原稿書く。八時過了。今日の学部レクチャー準備する。連休中で学生の受講者は少ないだろう。だからことさらに良い講義をするのである。

九時過区民農園に寄った。二人の人間が作業していた。

世田谷村を眺めるに、カラスが二羽屋上の東肩にとまっているではないか。「コラーッ」と叫び走り帰り、こぶしを振り上げていかくするも、全く動じない。むしろ大声で鳴き交わし仲間を呼んでいる風がある。しかし、石は投げられない。隣家に当たる可能性もある。それでも石を投げるふりを繰り返していると、ようやく「うるさい奴だな」とつぶやいて、少し移動した。圧倒的な奴等の優位なのだ。レクチャーの時間もあり、後ろ髪を引かれながら戦闘地域を離れた。今、京王線車中で戦記を記している。

R289
四月二十四日

十九時GAギャラリートーク。80 名程の方々が聞いてくれた。どうせ人間は皆死ぬのだから、ライフスタイルのデザインなくして、器の設計なぞあり得ない。自分の最後の仕事はネパールのキルティプールの小さな祠の修復と決めているので、それに向けて今は生き方をデザインしているのだ、というような話しをした。二〇時過了。

芳賀牧師、冷水さん他六名で近くのタイ料理屋で夕食。口なおしで新宿味王。二十二時過散会。二十三時世田谷村に戻る。

四月二十五日

五時半起床。メモを記す。昨日、区民農園 80 区画の方と話すに、ゴーヤは育てやすい。でも毎日水をやらなくてはいけないと教えられた。K2菜園のゴーヤの出来が悪いのは陽当りのせいではないのかも知れない。六時十五分畑へ。曇天である。七時過つるありえんどうの種をまいたところで雨が降り始め畑をあがる。

夜、久し振りに結城登美男さんから電話あり、結城さんは民俗研究家、帰農者である。良い人生を送っている。 「佐渡の宿根木、変わってたよ。何処もかしこも良くない」という話になった。突然、絶版書房4号のテーマを、菅原正二の朝日新聞東北連載第三十二話この素晴しき世界「 WHAT A WONDERFUL WORLD 」としてみようと考えついた。

四月二十六日

五時半起床。昨夜の思い付き「 WHAT A WONDERFUL WORLD 」はアニミズム紀行4の主題としては仲々良いと確信できたので、早速書き始める。なぜか出だしは宮本常一である。

七時過畑へ。午前中アニミズム紀行4原稿書く。何度か区民農園に足を運び、K2菜園も手入れする。千歳農協で苗・種売ってますよとの事で、行ってゴーヤの苗を入手。すぐ植え込み、ネットを張ったりで結局一日中畑で過ごした感じである。

ツタンカーメンのさやえんどうがカラスにやられた。全部で十五さや程実っていたのだが、アッという間に6、7ヶ以上のサヤを喰われた。紫色で実に不思議な美しい色のものだったので、カラスも好奇心にかられたのであろう。 喰ったカラスはツタンカーメンののろいにやられて闇に沈むであろう。クソガラス奴。3さや程残ったので、一粒づつ位しか友人にはお分けできなくなった。申し訳ない。

四月二十七日

五時半過起床。畑へ。レタス一ヶ採取。三階のテラスのツタンカーメンのさやえんどうの生き残りにカバーをつける。紅い小さな、ミカンをくるんでいた様なネットで、これでは、かえってカラスの狙い撃ちに会うのではないかと。無防備のままでいるよりはよいであろうか。

しかし、これはどう考えてみもカラスの頭脳の方が上である。都市のカラスは色んな事態に遭遇しているであろうから人間とのかけひきに関しては、人間よりは、はるかに進んでいるのだ。

しかし、待ち構えるに、カラスは一向に来ない。やはりツタンカーメンののろいにやられて、高熱でうなっているのであろう。とすれば三階のテラスはのろいのテラスとして。カラス共にはもう知れわたっているのかも知れない。

あんまりバカバカしいのでネットでくるんだツタンカーメンのさやえんどうを写真にとる。カラス種族のDNAにはエジプト時代ツタンカーメンのひつぎに納められた頃の記憶もプリントされているのだろうか。うちのツタンカーメンを喰って、のろいで高熱にあえいでいるカラスの野郎の頭には、ピラミッドが映っているかも知れん。ザマミロ。

R288
四月二十四日

十時四〇分院レクチャー。現代の特質、東大寺南大門を介して。十二時了。アニミズム紀行3にドローイング 30 冊程。十六時前了。GAレクチャーのシナリオ変更。キルティプール計画について話してみる。遠廻りに、うーんと遠廻りに。近道はつまらない。会場で聴講者の顔みて最終的に決めようと決定。十八時前研究室発GAへ。

R287
四月二十三日

十時区民農園へ。七名程の人間が畑をやっていた。72 区画の老人と会い、色んな話しをうかがう。やっぱり奄美大島出身の方であった。やっぱりという訳は「新制作ノート」に書く。

十一時研究室。ドローイングにとりかかる。十四時迄に 30 冊程に描き込む。教室会議十五時半迄。教授会に顔出して、十六時半五反田TOCビル、T社へ。社長と「時間の倉庫」設備の打合わせ。T社長は今朝インドネシアから帰ったとの事。タフだ。十八時半終了とする。マア、良く細かいところ迄気がつくなオーナー社長は、と舌を巻く。五反田駅近くで渡辺と一服し、第四号絶版書房の打ち合わせ。第四号は制作部数を再び縮小し、二百十部ポッキリにしようと決める。拡大路線を走るという愚は侵さないぞ。五号はこれはまだ秘密である。ビックリするぞ、皆さん。二〇時迄。二十一時頃世田谷村に戻る。

四月二十四日

四時起床。完全に早朝型人間になった。左官の首領であった森田兼次さんはいつも三時起床だと言っておられたのを思い出す。何をしておられるのだろうか、メモを記す。

五時二〇分、「新制作ノート」書いて、再び眠る。一日が実に長く使えるようになった。七時二〇分再起床。今日のGAギャラリートークのエスキスをする。八時十五分終了。

信濃毎日新聞で記者になった青木信之君から彼が書いた記事が沢山送られてきた。もう現場取材をして、記事も書かされている様だ。新入社員なのに新聞社はヤルナと思った。ただし、デスクに真赤に赤を入れられて、原稿は赤い紙の如くらしい。いつの日か、山岳修験の大ルポタージュをものす事を祈る。

R286
四月二十二日

十一時前、区民農場に寄って四名の方々が仕事しているのをのぞいて、十二時研究室。ドローイング作業3号 20 冊に入れる。十四時過、絶版書房2号ようやくにして絶版となる。これで1号二〇〇冊2号二二〇冊共に絶版とすることが出来た。

十四時四〇分演習G。参加学生一人一人の作業にクリティークとオペレーション。十八時迄。その後研究室に戻り、「時間の倉庫」「水の神殿」打ち合わせ。仙台のアトリエ海の施工管理を得て順調に仕事が進み始めた。

木本一之氏との共同作業「鬼子母神像」も依頼主厚生館愛児園理事長より喜んでいただけた様で嬉しい。次に進みたい。

二〇時過世田谷村に帰着。

四月二十三日

四時起床。昨日のメモを記し、WORK。昨日は何しろ、絶版書房2号を絶版することが出来たのが良かった。これで4号の目処が立つ。

五時四十五分、「絶版書房交信」書く。小文だけれど絶版書房の原理・原則の一部らしきを書いた。まだ、かくの如きを書く自分は少し信用できるな。2号を絶版にして下さった皆さんのお陰様でもある。

六時半、畑へ。朝の陽光の温かさの中にボーッと立つ。大した事してるわけじゃないけれど、ありがたいなとは思う。モロヘイヤの芽が出てきている。三階テラスの植物を見て一段落とする。七時了。

渡辺豊和さんより「バロックの王織田信長」悠書館 1800 円送られてきた。早速読みふける。まだ半分位しか読み進んではいないが、マア、途方も無くケッタイな本である。渡辺豊和さんはそれを自覚しているから書けるのだが、この人には梅原猛と同様なつきものがついているとしか思えぬところがある。つまり自分の内に狂気がうごめいており、それを統御し得ぬのを知っている。信長とフロイス等宣教師達との交流、交感は辻邦生の「安土往還」に美しく描かれているが、渡辺さんのこの書物にはその美しいセンチメンタリズムは一切無い。「何でこんなに変な想像力が働いてしまうのだ」と叫びたい位の、恐らくは歴史的な想像力の誤作動が連続するのである。

信長を当時のキリスト教自体が内在させていたリーマンブラザーズ的グローバリズムの中にとらえているのである。最大級の奇書である。読者は渡辺豊和の、自分のDNAはロシア系、トルコのゾロアスター教徒だったというウームウーム何だコレワという、しかし否定し切れぬ想像力を楽しめば良い。

R285
四月二十一日

九時過区民農園をのぞいて誰も居ないのを確認して、十時二〇分研究室。四〇分学部レクチャー。十二時前了。「水の神殿」他打合わせ。絶版書房2号、3号のドローイング。十六時休み。21 冊に描き込む。もうすでに1号から通算すると五〇〇冊に七〇〇点程描き入れている。重労働だけれどチョッピリ楽しんでいる。

十七時稲門建築会評議委員会、理事会。十九時了。村松会長、佐藤滋先生、稲門事務局長と西早稲田源兵衛で飲む。二十一時了。二十二時世田谷村帰着。

四月二十二日

五時半起床。五十嵐太郎さんから送られてきた「ヤンキー文化論序説」河出書房新社 1600 円読む。

帯に、オタク論にはもう飽きた!とあり、これは面白そうだと思ったが、内容はあんまり面白くもなかった。編者である五十嵐太郎さんをはじめ書き手の大半がオタク系の評論家であり、いつもの論調をフォーカスをずらして論じている感がある。最後に特別掲載の形で再録されているナンシー関の視線が、なつかしく光るのであるが、ナンシー関も今には通じないだろう。

要するに不良、ツッパリを文化として論じねばならぬ程に今が液化地盤現象に落ち入っているという事だ。五十嵐太郎の「自分は無色に出来るのが特色かな」の発言を聞いた事があるが、そのスタンスのとり方が、この本にも又表われている。

彼の言葉を借用するならば、私の身近な知り合いのヤンキーは何を隠そう、東北ジャズ喫茶エルヴィン元暴走族カルロス・アンドーネであり、ベイシー店主菅原にもその最良質の香りを嗅ぐことも出来る。サブカル自体へのフォーカスがすでに飽和状態になっている今、日本に於ける化石となったジャズ喫茶とその周辺の人々を追いかけた方が面白いんじゃないかなあ。ジャズ喫茶そのものがアフリカ→アメリカ→世界の構図があり、アメリカそのものが介して産み出された数少ない文化だから。

八時半読了。畑へ。昨日の雨で土が生き返っている。

R284
四月二〇日

五時起床。WORK 。十時前世田谷村を発つ。区民農園やいかにと思い、チョッと寄ってみる。125 区画中2名の方が作業をしておられた。その一人がなんと 72 区画の老人である。実は昨日曜日サニーレタス3ヶを頂いたので、カステラをお返ししたのであった。あいさつを交わした。

今日は朝から何処か心楽しいな、と仕事に出掛ける。毎朝の日課としたい。休んだので、頭が少しは廻るようになった模様である。

絶版書房、二号残冊5とのこと。あとも少しだな。最近、サイトが息をしているのを感じられるようになった。誌者の息づかいである。興味があるとヒット数が増加し、そうでないと減少するだけの事だが、それにも何かしら律動の如きがあるのだ。

午後我ながら闇雲な動き。十八時迄。

四月二十一日

一時眼が覚めてしまい。ノソノソ起き出し、WORK。再眠。五時半過起床。絶版書房4号のテーマを再び考える。時の谷の「時間の倉庫」「水の神殿」が共に着工するのでそれをテーマにするか、それとも竣工する迄待つか、少なくとも本格的な現場の写真は必要だから、4号には間に合わぬ。

この二つの建築はその名前からして現在の建築思潮から遠く離れた物体である。それ故。大きな価値があるに違いない。と、考え抜いて取り組んでいる。3号の「ひろしまハウス」以降の重要なモノである。しかし出来上がってしまうのは間違いない。私にとっては過去圏に属し始めているモノでもある。それならば4号は本格的なプロジェクトの提示をしてみようか。と思い悩む。ここで一歩を踏み出さぬと停滞してしまうやも知れぬ恐れだってある。

R283
四月十七日

十時過ぎ研究室。サイトチェック。又もウェブサイト動かずイラつく。十時四〇分院2回目レクチャー、現代の特質、転形期とは、東大寺法華経本堂と礼堂について。礼堂は重源の手になるとはいはれているようだ。十二時迄。雑用、十三時過サイト動き出す。アベルとチリ建国二〇〇年祭計画打合わせ。十四時過了。十五時迄ドローイング。研究室ゼミ、及び打合わせ。鬼沼「時間の倉庫」らせんスロープのパラペット開口部デザイン変更他。施工図が追いかけてきているので余計なものをどんどんそぎ落とし、その分グレードが上っているのを実感する。十八時半前了。近江屋へ。難波先生、ナーリさんと会食。彼等はプノンペンのひろしまハウスで会っており、妙に意気投合していて今日の会食となった。

箱の家シリーズの難波さんとフーテンのナーリさんの組み合わせは誠にもってシュールレアリスムというしかなく、何故二人の会話がはずむのか不可解なり。人生は不可解の塊だ。

ついでにと言ったらなんだが、チリ建国二〇〇年祭プロジェクトに難波さんの参加を依頼して了承を得る。モビリティが主題でもあるから、会場も人も少し動いた方が良いのだ。難波さんとは実際のプロジェクトを一度ならずとも、コレから先何度も協同する事になるだろうと予感している。

二〇時過ぎ会食了。ナーリさんと新宿味王で追加の相談。二十二時半世田谷村に戻る。

四月十八日

五時半前起床。昨日のメモを記す。六時前了。再び眠る。畑を見て、又眠るつもりが眠れず七時四〇分起きてしまう。

絶版書房交信、2本書く。ナンパ先生とナーリさんの巻である。書いてて自分で笑ってしまう。九時了。三本目書く。昼前了。午後、ボーッとして暮らす。老眼鏡がこわれて不自由していたので、駅前商店街に買いに出る。青年が1人でやっている店に行き、各種眺める。青年は趣味が良く、実に小さな店に並べられている眼鏡はどれも良い。そして安い。愛想も押しつけもなにもない。ただ淡々と対応するだけである。烏山駅南口の八百屋の二階である。6000 円のフレームを買った。一番安いのは 3000 円である。他は何もせず。雑読、雑想にふける。

四月十九日 日曜日

六時十五分起床。すぐ畑へ。八車草とカモミールを植える。一気に畑が華やいできた。テラスの花や、例のツタンカーメンのさやえんどうにも水をやる。七時前了。

区民農園を見に行く。一週間振りに見る農園はゆるやかに変化していた。コレは凄いな。人間のつくりたい情熱が表れているのだなと実感する。

日曜美術館でルーシー・リー&三宅一生を見る。全く不勉強でルーシー・リーの仕事を知らなかったが、TV画面からでも感動した。三宅一生さんは、誠に素敵な友をお持ちだ。

十時前、区民農園へ。先週、大変魅力的でスケッチさせてもらった 72 区画の老人を今週もスケッチ。何故、魅かれるのかは知らない。あいさつを交した。サニーレタス3ヶいただく。喰べ切れないのだそうだ。マア、何処迄やれるか解らないけれど、あんまり一生懸命にならぬ範囲で今日から「制作ノート」に区民農園の観察、交流を記録しておく

十五時頃までにK2菜園と区民農園を行ったり来たり。

関西の出版社より本の本を出版をするので、考えよの依頼あり。予想もしていなかった企画で、こういうのには食指が動く。良書、悪書を 30 点づつ、先ず挙げよと言う。悪書というのが良い。

二十一時過ぎ眠ってしまう。良く体を動かした一日であった。

R282
四月十六日

十時過ぎの新幹線で仙台へ。十二時過ぎ仙台、東北大坂口先生迎えて下さり、東北大へ。十三時4年設計製図課題説明と、補足レクチャー、鬼沼計画、北海道音更町水の神殿計画、チリ建国二〇〇年祭計画を参考として示す。4年スタジオは 15 名程のようだが、三〇名近くの学生(修士生も含む)が受講した。課題は農と食のスクールを東北に設計せよというもので、高度なものだ。経過は設計製図のヒントにおいおい記す。早稲田の演習Gと同じ様なものだと思う。

十五時過了。すぐに仙台駅に行き、十六時過ぎ一ノ関着。ベーシーへ。店主菅原正二と再会。十九時近くの店で外食。T夫人参加。T氏は病で参加出来ず。

菅原正二しきりに、あとわずかな人生だ、と断言す。そりゃそうだな、と返す。二〇時前、今日はこれ迄とし、ベーシーを辞す。菅原、今日は音が良くないからと金を受け取らず。結局押しかけて、食事をごちそうになって歓待された形になってしまった。残念なり。二〇時二十二分の新幹線で東京へ。二十三時東京着。一ノ関JR線の窓口駅員、親切にこういう方法で切符を買うと東京迄安く行けるのです、と説明してくれたのが良かった。東北新幹線のチケットは一ノ関で買うべし。

二十四時前世田谷村に辿り着く。フーッ。

四月十七日

〇時五〇分眠れず起き出して読書。つい先程、ベーシーで久し振りに、これ又再会した、カルロス・アンドーネなる菅原の友人の、名前が本当にカルロスだったのか、ドン・カステリーニョ・アンドーネだったか思い出せなくて、それが眠れない原因だと気付いたので、菅原の「ジャズ喫茶ベイシーの選択」講談社、一九九三年のページを繰ったのである。たしかアンドーネのフルネームが何処かに出ていた筈なのだ。四〇分程ページを繰ったが、どうしても見当たらず、やっぱりカルロス・アンドーネだった事にしようと決めて、再び眠りにつこうとしている。アンドーネはベーシーから車で三〇分程の処宮城県佐沼にある、もう一軒のジャズ喫茶エルヴィンのオーナーである。肉屋もやっている。本名は知らない。それはどうでもよい。早く眠らなくては、・・・本当に困った事だ。カルロスだったか、カステリーニョだったか、気になって仕方ないのだ

六時半起床。畑へ。七時前再び眠る。

R281
四月十五日

十二時研究室。打合わせ。絶版書房3号 15 冊にドローイング。昨日描いた 5 冊に手を入れ直した。どうしても気に入らぬ仕上がりだったので。まずまずのモノになった。

十四時四〇分演習G。参加学生がまずまずのモノを出してきたのでこちらも気合がはいった。博士課程、修士、学部学生と年齢も才質もバラバラで不均質な学生相手なのが面白い。十七時半途中であったが、後を若い先生二人に任せて抜ける。

十八時十五分京急線青物横丁で旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会会長堀江新三さん、Nさんと待ち合わせ。協議会事務所で総勢五名の顔合わせ。と挨拶。Nさんより断片的に聞いていた品川宿の計画がようやく頭に入ってきた。Nさんは「アニミズム紀行2」の登場人物なので、手にしていただいた人はその人となりを感じていただけると思うが、同時に私には一体なんの事やら解らなかったのも理解していただけるであろう。手にとっていただいていない人には解らないかも知れないな。

堀江さんとは以前にもお目にはかかっていたが謎の人物であった。品川宿の計画も長年まちづくり協議会の中であたためてきたもののようで、実に途方もないモノである。サイトに公表するのもはばかるのだが、書かなくては話にならぬので堀江さんの同意を得て、チョッと内容を書く。

品川宿には江戸文化が色濃く残されていた。特にここは東海道五十三次の江戸のゲートであったから、一大観光地でもあった。

でも今はその伝統は細い糸の如くになり、祭り、その他の行事の中にしか視る事は出来ない。

そこで堀江さんは考えた。ライブドアの堀江さんではない堀江新三さんである。賭場を何とか再現できないのかと。カジノではない、キチンとした江戸時代の賭場である。少し時代は違うが藤純子の緋牡丹博徒のお竜さん、高倉健の唐獅子牡丹で、映画ではおなじみの賭場である。賭場の、しかも江戸時代の東海道五十三次華やかなりし頃のモノを再現したいと言う。

話を聞いた途端に、もちろんこれは危い、ヤバイ、それこそ鉄火場状の話しだと解った。私、普通の常識人であるから。明らかに良識に反する計画だからである。ケンケンゴーゴーたる非難を浴びるに違いない計画である。

しかし、危いモノは面白そうでもある。ズズッと体が傾くのである。で、すぐに席を立ってサヨナラとは言わなかった。言えなかった。考えようではバブルの原因ともなった汐留の大再開発や六本木のミッドタウンの大計画よりも余程健全な計画ではあるまいかと、へりくつを考え出す自分が居たのであった。

で、結局最後迄話しを聞いてしまった。しかも、「やってみましょうか」などと、自分でも仰天するようなつぶやきを漏らしてしまったのである。堀江さんは一、二度捕まったっていいです、私なんてって言っちゃう。

そうか、この話しに深入りすると私も暗い所で一、二年なんて事もあり得るなと、老後のイヤな姿も想い浮かぶ。まちづくり協議会の全員とは言わずとも、多くの支持があればという条件と、やるならコソコソやらない。コソコソやれば本当にイケナイ話しになってしまう。正面から手続きを踏んで堂々とやるという条件をつけて、連絡待ちとなった。

一体どうなる事やら。二十二時過世田谷村に戻る。

四月十六日

五時半起床。昨日のメモ。変な話しを記録したので、いささか気を遣った。六時半過迄かかる。畑へ。七時過迄。今日は仙台の東北大建築学科に設計製図の授業で出掛けるので、九時前には世田谷村を発つ予定。

R280
四月十四日

十時研究室。サイトチェック。四〇分学部レクチャー。清家清の森さんの家、他。先週の池辺陽と実に対称的な住居観を持っていた事等を話す。十二時前了。

絶版書房3号「ひろしまハウス ひろしま・レッドクメール・備忘録として」5冊にドローイング。2号と異なる形式にしようと四苦八苦である。十三時前、M1M0ゼミ。「時間の倉庫」の照明器具のデザインについて。学生が提案した配置グリッドは、すでに私とスタッフでほぼ決めていたのでそれに従わせる。スタッフから寸法のズレ作りに関してとても良いアイデアが出された。

途中抜け、博士課程の論文相談。アベルとチリ建国二〇〇年祭の打合わせ。再びゼミに戻る。十七時了。何故だか今日は少々疲れた。

近江屋で一服しながら、絶版書房打合わせ。李君がDVD作りに頑張っているのでねぎらう。十九時過了。二〇時過世田谷村に戻る。久し振りの雨だ。

四月十五日

五時起床。メモを記す。東北大学建築学科四年生に出題する課題のエスキス。東北大の学生は多くが崩れていない純なところがあって、製図の指導も楽しみである。六時過了。畑へ。まいた種の全てが芽を出した。やはり雨の力は凄いものである。フッと考えたのだが、早稲田建築の4年生にも東北大建築4年生と同じ課題を取り組ませてみようかなと、悪くない。早速今日の4年の演習Gで話してみよう。八時前「新・制作ノート」チリプロジェクト書く。再び畑へ。モロヘイヤと大巾ニラの種を、わずかなスキ間を縫ってまいた。九時前休み。九時半設計製図のヒント書く。

R279
四月十二日

十一時過ぎNさん一行着。T社長一家、関組社長、アトリエ海所長を含め総勢十名の地鎮祭・起工式。式はささやかだが、構想はデッカく、強い。地中に大半の建築部分を埋めた、極度に複雑で、かつ明快な建築である。

「ひろしまハウス」以来、久し振りに力の入った建築なので、気持ち一杯工事の無事を祈った。

修了後前進基地で工事の打合わせ。十七時現場を去る。十八時の新幹線で東京へ。車内で照明システムのアイデア作りに没頭する。十九時過東京着。皆と別れて、二〇時過世田谷村に戻る。

四月十三日

六時四〇分起床。まだ眠かったがすぐ畑へ。大根の芽が大きくなっている他は変わりなし。生ゴミを埋め、水やり。昨日、猪苗代で買ってきた、トーホク交配小松菜.味彩の種をまこうとするも、もう場所が無い。七時半前迄。

七時四〇分馬場昭道より電話あり。竜ヶ崎に作ろうとしている寺の見積りを見てくれの事。僧侶も朝が早い。昼飯を一緒にする事にした。八時半「製作ノート」「設計製図のヒント」を記して小休。少しアイデアが開けてきたようで、速力が出てきた。

十時過ぎ老眼鏡を求めようと烏山商店街に行くも、一軒はまだ開店前、一軒は店員がうるさいので止めた。十一時四〇分新大久保近江屋で昭道さんを待ち、やがて現われた彼と食事しながら相談に乗る。書類をコピーする為に研究室へ。二、三の連絡の後別れる。昭道さん二つ目の寺である。三つ目は私が設計する。雑打合わせ、「時間の倉庫」打合わせ。「水の神殿」スケジュール調整。ナーリさんよりどうしても会いたいの連絡入り、十七時前新大久保近江屋で会う。品川宿構想の相談であった。良く解らないので八重洲の清水氏の話しを聞こうと八重洲へ。十九時了。二〇時過世田谷村に戻る。

四月十四日

五時四〇分起床。メモを記し、畑へ。五角オクラ、中国葱、細ネギ、きゅうりが芽を出す。行者ニンニク、元気なり。水やり。草取り。六時十五分迄。今日は午後から雨だそうで水をやるのはバカだと言われる。

昨日、研究室で四〇〇冊の建築がみる夢「ひろしまハウス」の山積みの固まりを見る。戦前の出版事情を詳しくは知らぬが、テーマがはっきりして、マア良質と思われるモノはこれ位の出版量のモノがあったのではないか。しかし、これを全て買っていただくには努力が必要だな。二号の残冊が十冊増えて十八冊ある。これも何とか工夫しなくては。レクチャー三本のエスキス。

R278
四月十日

十時半大学。サイトミーティングの後十時五〇分、院レクチャー。十五回のレクチャーのプログラム概要を述べる。来週の金曜日十時四〇分の第一回は、現代の特質、転形期について。もし聴きたい人がいたら、研究室に連絡して下さい。学部生には難しいかもしれないけれど。十二時迄。終了後アベルとチリの件について相談。

午後はいささかの所用で外出。その後絶版書房の出版のビジネス化の申し出を受けたりするが、お断りする。ネット社会は敏感である。

十八時半、いささか疲れて世田谷村に戻る。薄暗い中を畑に。生石灰をまく。畑に出るとほっとする。送っていただいた「at」 15 号読む。賀川豊彦特集である。山折哲雄氏の論を興味深く読んだ。宮沢賢治と賀川を並べて論じているのが刺激的である。そうか、宮沢賢治も、表現の全領域をアマチュアの水準としてしりぞける風潮もあったのか、と驚いた。日本では色々な事に手を出す人間は余り認められないのだなと再び知る。

四月十一日

六時起床。畑へ。もしかしたら、ゴーヤの芽が顔をのぞかせたのかも知れぬ。ゴーヤは二種類、百円ショップの奴はまだ気配も無い。中国葱の種まき、水やり、土おこしなど、あっという間に八時前になった。畑で新聞も読み、ついでに区民農園を見廻る。 44 番区画が頑張っている。この区画の初老の男性は恐らくエンジニアか、会社でいえば総務畑、あるいは税務関係の人ではないか。小さな畑を全て細かく直角に区切り、しかも苗床を木版で仕切っているのだ。いずれ、興味深い区画はそれぞれのオーナーにお断りして御紹介したい。121 区画全てに個性がある。

思い立ったが吉日。朝食前フッと予感があり、もしやと思い区民農園に駆けつけた。東の方から、一人初老らしき人物が現れ、途中ゆっくり水を汲んだりで、西の方へ上ってくる。途中で消えたのでやっぱりちがったなと思いきや、何と 44 区画に腰を据えたではないか。すぐに挨拶し、あとどれ位畑に居るかを確認。世田谷村に戻り、スケッチブック、色鉛筆等を持ち再びUターン。44 区画の方のインタビュー始める。続々と人が現れ農作業。37 区画、53 区画、72 区画、111 区画、79 区画の方々のスケッチをさせていただき、サイト公開の了承を得た。暑い中を12時前迄スケッチに没頭する。面白くなりそうだ。

十九時迄スケッチ、エスキス、「絶版書房交信」を書いたりの作業を続ける。小休後、古い雑誌等を拾い読み。何かが開けそうな予感が育ち始めている。何の予感なのかは全く知る由も無い。

四月十二日

五時半起床。ベーシーへのFAX返信後、畑へ。草むしり、六時四〇分世田谷村発。東京駅へ。電車の中の人は皆コートを着用。軽装で失敗したかなと思う。皆早朝のTV天気番組を見てるんだ。最近は人工衛星からの映像で雲の動きを適確に知る事が出来るから。ますます、神が宿る細部は身体の外にはなく、内に内にと向う傾向かな。七時前明大前通過。七時半東京駅。深川メシを買う。私駅弁はコレ一筋です。

T社長ファミリー一行集合し共に八時過の新幹線で郡山へ。十時半過ぎ猪苗代湖鬼沼現場着。「時間の倉庫」起工式準備。

R277
四月九日

八時二〇分世田谷村発。杏林病院へ。途中赤白の源平桜が美しい。八時四〇分採血、採尿。九時内科検診。血圧いいじゃないですかと言われる。いいじゃないですかと言われても何がいいのやら、いきなり倒れる確率は小さいという事位か。十時定期検診、血液、尿他の結果を聞く。尿酸値はマアマア良くなったとの事。「先生、おおせの通りにビールは全く飲んでません。焼酎一本槍ですから」と嘘をついてしまう。実は昨夕もビール飲んでたんですけどね。医者に嘘を言う精神構造が我ながら不可解である。数値を操作する、つまり検診直前は数値に出ないという、標準化から逃げる術を獲得し始めているのである。十時半前了。

病院近くの園芸屋に寄り、たい肥、越谷黒ネギの苗、紫色の花が咲く筈のダリヤの球根を求め、世田谷村に戻りサッと畑をやって、小休。

十四時前研究室。教室会議の後大隈講堂で建築学科ガイダンス。五分間スピーチを各先生方がする慣行である。途中抜けて、東京駅八重洲へ、S氏N氏に会い、品川の件等。二十三時過世田谷村。

四月十日

六時起床。3Fのテラスの昨日のカラスの残飯を今朝は雀が七羽やってきてついばんでいる。やっぱりカラスよりは見ていていいモノだ。

K2菜園を見て廻る。総太り交配大根の芽がハッキリ形になっている。赤カブの芽が少し遅れ気味である。頭上に雀の声を聴く。カトマンドゥの朝を想い出す。六時半制作ノート交信、書く。七時半了。ひと仕事終えたな。 しばらく、日記は短めにせよと言われているので、これ位でひと休み。エスキスをしばし。

M1・M0に向けて久し振りに設計製図のヒントを書く、読者の皆さんにも何かヒントになれば幸いだ。

R276
四月八日

十三時研究室ゼミナール。演習編。M1とM2の合同ゼミとする。間もなく着工する猪苗代湖鬼沼、時の谷北向き倉庫(仮称)の照明器具のデザインを研究室生に求めた。時の谷北向き倉庫は内部にらせんスロープを持つ建築だが、その建築の内、外部の照明システム、及び器具のデザインを課した。

M1は絵巻物になるような物語り性の連続を持つコンセプトに基づくモノ。M0はラセンの回転運動を群化してゆく造形を進める事になった。双方共に木工大工の技術で制作可能なモノとするという厳しい条件が附されている。

ゼミ生には、かなり高度な課題であるが、何とかするのではないかと期待する。何ヶ月か後には実際に出来る建築にビルトインされなければならないモノなので、リアライズにはそれなりのエネルギーを必要とするのだが、先ずはそのエネルギーを注ぎ込まねば良い実物は出来ないと言う事を教えたいのである。マテリアルに対する感性、そのアッセンブルに要する知性の入り口だけでも身体で感じさせたい。総計 40 - 50 の照明器具のデザインを全て個別に成し遂げたいのだが、標準化のルールをベースとしながらも、不連続の連続という現代に必須の民主主義的理想をも、デザインで成し遂げ得るという事も体験させたい。これは上手くいったら、石山研のスタッフを幹に院生、ゼミ生だけで一冊のパンフレットにまとめさせたい。

十四時北園、渡邊両先生と打合わせ。十四時四〇分演習G。都市に棲みつく形式を表現せよ、という課題。若い両先生のショートレクチャーの後、私も補足レクチャー。半年をかけての課題の始まりである。受講者側から質問が三名。質問は全ての始まりである。長年の体験で今はそんな単純な事実を知る。演習Gは当然、学部、院を通して早稲田建築学科では最高度の演習科目であるのを自負しているので、手は抜かぬ。デザイン・エリートを作るのが目的であり、それには、それなりの努力が必要なのを、先ず学生は知って欲しいものだ。

修了後、若い先生方、丹羽君等と研究室で雑談。ワインを少し計り。その後近江屋で小休の後、二十一時前世田谷村に戻り夕食。小休後、エスキス他。二十二時半了。山本夏彦さんの「だから言ったぢゃありませんか」じゃない、「浮き世のことは笑うよりほかなし」講談社、読みながら眠りにつく。山本さんの本を読むと実に良い眠りにつけるのだ。

四月九日

四時一度目覚めて、一時間程「浮き世のことは笑うほかなし」を読み、五時再眠。本というモノは死んだ人を生き返らせるモノだ。しかし、ひいきのひき倒しになり兼ねぬが、山本夏彦翁の如き人物は今は皆無に等しいな。皆小粒、薄味になった。政治家も学者も、芸術家も皆そうだ。私自身もそうだ。でも自分より歴然をすぐれている人物が居る事を知るのは、少しだけ大人になれたか。山本夏彦さんが「石山さん普通の町の人を現代の職人で取り上げなさい」と言ってくれた事は忘れないが、まだ出来てはいない。でもトレーニングらしきはしている様な気がする。

六時半畑へ。「総太り交配大根」が遂に芽を出した。ヨシヨシと声を掛ける。畑に水をやる。七時過まで。

三階のテラスのツタンカーメンのサヤエンドウが再び花を咲かせた。まったく、有史以来あらゆる植物は手を掛けるとそれに応えようとするのだな。「野菜は足音で育つ」とはけだし名言である。

テラスに鳥を寄せようと残飯を置くが、カラスばかりがやってくる。その度に外へ出ておどすのだが、皆半径 50 m くらいのところにある電柱のテッペンにとまりこちらをていさつするのである。ツタンカーメンのサヤエンドウもカラスに幾つかやられるかも知れない。木本さんにカラスおどしのカカシオブジェを考えてもらおうか。

昨日編集会議ならぬ雑談で石山さん、最近の日記書き過ぎですよ、それでサーバー動かないとたしなめられたが、別に長く書いてやろうと考えて長くしているのではない、自然にそうなっているのだ。それで読者諸氏にイヤがられても仕方ないのである。もう十年以上こうして書いているので、自然に速力が速くなってしまっている。

R275
四月八日

十時半過研究室。サイトチェック。再びサイトがパンクしていて二十一時以降どうやらアクセス不能であった。丹羽君にチェック依頼。動かぬページは化石だ。

建築雑誌 04、で平塚桂氏(ライター・ぽむ企画)が「勝手メディア」の可能性について論じている。「世田谷村日記」「絶版書房」を取り上げてくれている。ありがたい。

講談社より、山本夏彦「浮き世のことは笑うよりほかなし」送られてくる。表紙が先ず良い。山本翁が「だから言ったじゃありませんか」とニヤリとつぶやいているモノである。私との対談もはさみ込まれていて、光栄である。

山本さんの姿が見かけられなくなって、もう七年経つのか。でもこうやって本で出会えるから別にさびしくはない。声がひびいてこないだけだが、もともと山本夏彦さんの声は、くぐもって聞き取りにくい位だったので、本で読んでもあんまり変わりはないのである。私のはともかく、十七人の達人達との、おしゃべりが面白い、とても。向田邦子、安藤忠雄、盛田昭夫氏らが山本翁と共に登場している。千七〇〇円と手頃である。一読をすすめたい。

R274
四月七日

十時十五分研究室。サイトチェック他。十時四〇分学部レクチャー。ガイダンス、池田陽・難波和彦のシリーズ住宅。十二時半N氏と雑打合わせ。十四時半NHK研修生、番組作り研修のアイデア作りの雑談。

何といきなり、カンボジアに居る筈のナーリさんより連絡あり、今夕、会いたいと言う。何処に居るのアンタ、勿論日本ですよとなり四時に新大久保近江屋で急拠待ち合わせる。ところが待てど暮らせど来ぬ人は・・・で、電話があり、カンボジアの時差を修正しないマンマの時計でのんびりしてました。イヤーどうしましょうかと言う。どうするんですかはこちらの科白ですよとなり、新宿味王で六時に仕切り直しとなった。ホンマに、バカと附合うのは大変です。バカの友はバカです全く(絶版書房アニミズム紀行2参照)。

バカーンと時間が開いてしまったのでGAギャラリートークのプログラムを眺めるに、私より前にやる伊東、安藤、妹島、迄は全て満員御礼である。安藤忠雄などは希望者が多過ぎて、2回レクチャーやったそうである。私のところはまだ満員ではない。こういうのを見せられると、ムラムラと変な気分となり、それでは観客集めてみましょうかの気持になってしまうのである。是非共四月二十四日はGAにおこしいただきたい。

新宿南口階段下の、ひいきの長野食堂でカキフライを喰べる。顔なじみのおネエさんがドップリ、大きなカキを六ヶもフライにしてくれて、もうお腹一杯である。ナーリさんと食べるモノはもう何もない。味王でナーリさんを待つ。三〇分遅れで到着。もうイライラする気にもなれない。これからの日々が思いやられる。話しは全て行きちがうばかりである。全く会話にならない。怪人はすぐに酔払ってしまったので、早々におひらきとする。無事にどこかに帰れたのであろうか。怪人は私も見た事がないような戦後の闇市のブローカーの如き風体であった。足が弱っているな、と心配する。二十一時前世田谷村に戻る。

四月八日

六時前起床。鈴木博之先生より立派な「立原道造全集」4が筑摩書房を介して送られてくる。彼は編者として制作に関わったのである。しばし時を忘れ、畑におりるのも忘れて本に見入る。立原道造のスケッチ他を見るに、彼が実に短い生を生きた頃の日本の自然は実に豊かで、力強かったのを知る。私が生まれる数年前のスケッチを眺めると、幼少時の記憶がかすかによみ返ってくるのである。あの幼少時の記憶がおそらく今も、作ろうとする力の源泉になっているのではないかと思う事がある。

それにしても、立原道造は幸せである。短い人生ではあったが、それでも残したスケッチ、エスキス、図面、詩、短文だけで、こんなに立派な全集を編んでもらえるのだから。

六時四十五分畑へ。しばらく畑に座り込んで、立原道造は絶版書房など立ち上げなくても良かったんだなあと、しみじみ思った。

立原道造全集は全五巻、筑摩書房刊、少々値ははるが、今の二〇代の若者に手にしてもらいたい本である。七時二〇分制作ノート及び絶版書房交信を書こうと思うも、立原道造全集の立派さに元気がなえてしまい、はかどらず。鈴木博之先生は私をたしなめるつもりでこの本を送って下さったのか、歴史家は意地が悪い。

八時、それでもひと仕事終えて再び畑へ。K2山頂の行者ニンニクに眺め入る。サラダみずなの芽がハッキリと吹き出ているが、他は一切顔を出していない。又、今年もゴーヤはダメか。どうしても大根はやってみたいので、土の柔らかい処を一筋掘り返した。

八時半過K2山頂の行者ニンニクのスケッチをして、朝の仕事を修了。

R273
四月六日

九時、制作ノート10書く。十時過我孫子へ発つ。十二時前常磐線天王台駅。馬場昭道、竹之内さん迎え。いまい川の2 km に及ぶ見事な桜並木を歩く。川沿いの素晴しい桜並木である。コンクリート護岸もなく、桜もきちんと水辺に咲いている。五〇年程経った桜だそうだ。急に弁当が喰べたくなって、昭道さん買いに行く。私は一人、スケッチ2点。風で桜が散り始め、実に気持が良い。

弁当を喰べて、草の土手、桜の下でゴロリと眠るかとなり、三人の野郎ジジイが川の字になって眠ってしまう。十四時過迄。ボソボソと色々話す。大井競馬場の小村牧場に廻り、十六時レストラン「ドルチェ」でチーズ他。大変おいしかった。十八時真栄寺のしだれ桜を見る。宮崎県の天然記念物に指定されている五ヶ瀬町三ヶ所浄尊寺のしだれ桜の子供だそうだ。このしだれ桜は樹齢二百五十年 - 三百年であるようだ。本堂で話し。昭道氏の新しい本のブックデザインを見る。十九時半了。

只今二〇時、上野行快速電車の中である。長い一日であったが、心身共にリフレッシュした。二十一時過世田谷村に帰着。二十三時過横になる。

しかし、今日は早朝六時から、今二十三時十五分まで、十七時間十五分良く起きていた、それだけの日であったような気もする。これから眠りにつく寸前まで、色々考えたいものである。こういう日は眠れないモノなんだな。しかし、同時にロクな事も考えられない日でもあるのだ。明日は六時に起きて、再び畑で何やらして、その後、一生懸命ジタバタしてみたい。

四月七日

六時過起床。昨日お目にかかった竹之内さんは、農家から畑を借りて野菜を自分で作っているそうだ。何と 80 坪の広さだと言う。大変でしょうと尋ねたら大変ですとの事。遂に中古の小型耕運機を 10 万円で購入したそうだ。私には 80 坪の菜園はとても無理だ。K2菜園で充分。と思いつつ、畑に降りる。サラダみずなが芽を出していた。ちんげん菜は、ハッキリした芽の形になり始めた。K2菜園は六時二〇分に朝陽が先ずレタスから当り始める。

二〇分程ただ眺めて、満足する。K2の頂に植えた行者ニンニクも、どうやらついたらしく元気である。こいつは朝の冷気は嬉しいだろう。

宮崎の藤野忠利から久し振りにメールアート届く。馬場昭道の「ちょっといい出会い」の本作り合宿をしたそうだ。昨日は私も危うく、本作りに巻き込まれそうになったので用心したい。

「ときの忘れものギャラリー」南青山より便りあり、四月二十五日までマン・レイ展を開催しているとの事。これは見に行きたいものだ。四月十一日にはギャラリートークがあるそうだ。

今日から授業が始まる。学部生にはあんまり難しい話しをしても通じないから、住居論というよりも、どの住宅の問題を考え、学んだら良いのかの話しと、毎回何点かの日本の住宅の名作と思われるモノを紹介する事にしたい。初回は池辺陽のナンバーシリーズと難波和彦の箱の家シリーズについて。シリーズという意味の大事さをうまく話せたら良いのだけれど。

しかし、最低限、ハードな生産物としての住宅という考え方から、生活の一部を支える場あるいは拠点の、ネットワークの一断片としての住宅へと考え方が移行せざるを得ない事は伝えなくてはならない。大人数の学生の中で一人でも、二人でも、それを聞き分ける耳を持つ学生がいたら良いのになあ。

七時半制作ノート11を記す。

R272
四月四日 土曜日

十四時世田谷村を発つ。十五時過都立大学駅前、安西宅。安西直紀主催の桜の花見。宅内の2本の桜の老木が満開でそれを楽しむ。慶応大学関係の若い人が沢山見えていた。中国人留学生による牛肉、豚肉のバーベキュー等をいただく。十七時、去る。駅前でビールを飲んで散会。安西君も自宅で菜園作りをすれば良いのに。二〇時世田谷村に戻る。

四月五日 日曜日

七時起床。スケッチしたり、原稿書いたりの頭モードではないので、すぐ畑へ。昨年買い求めてあった、たい肥、培養土を二袋まく。小さなスコップでていねいに土を入れれば、種まきを終えた土床にも肥料は施せるみたいだ。小さなデリケートなスコップを使い分ける。K2菜園は小さなスコップの方が良い。畑が黒々としてきたので、又も区民農場ていさつに自転車で行く。八時半だと言うのに人影は全くない。これで菜園夫はつとまるのか、と鷹揚に構え、ついでに一度歩測で計った事がある区民農園の一区画の面積を、再び歩測で計った。3mX5m程である。K2菜園は正確に計量していないが、あまりにも不整形で気まぐれな拡張をしているので計れないが、それより少し広いのではないか。2倍くらいかな。

沖縄で感動した自家製の畑がK2菜園の2倍〜3倍位が平均であった筈である。K2菜園はもう充二分に広い。近くのライバルH氏の菜園は三角形で3mX3m=9平米の約半分である。しかしH氏は世田谷村から持ち去ったウドを南側の庭で栽培しているので、それを考えれば大方区民農園よりも少しくらい手狭くらいか。小さい方がどうも野菜の発育には良ろしいようである。

区民農園は3mX5mの菜園区画が総計 121 ある。であるから、歩いて数分、自転車で 30 秒程の近距離にK2菜園は強大なライバル、そしてモデルを持っているのである。今日、じっくり再び観察するに、 88 番区画と 95 番区画が特に強い。この二つの区画は共に四周にブルー、グリーンのネットを張り巡らせて、圧倒的に形状が建築的なのであり、恐らくいずれ天井部分にもカラス防御ネットを張り巡らせて、完全に立体化するであろう事は間違いではなかろう。

昨日K2を作成したので、久し振りに屋上菜園に上がってみた。かつての屋上菜園は今は見る影もなく、半分は完全にススキが原になっている。屋上の野菜作りの条件の悪さは身にしみているが、できれば今年は半分だけでも再チャレンジしてみるかと、今は思うのだが、恐らくしないだろう。上と下を双方でやる程体力が残っていないのだ。

全部やってみようと大それた事を考えるから、どうやらいけない。よおし、屋上に3mX3mの極少野菜アイランドを作ってみよう。そして三階のセルフビルドの塀が壊れた廃園状テラスにも、小さな土のスペースを、これは一鉢でも良いからやってみよう。と考えたのが九時半である。全て一人でやるのだ。

屋上の土起こし、三階テラスの鉢二ヶ、屋上から一鉢をプラス。屋上の土起こしは、ススキの根をブッタ切るのに力がいって、ホトホト疲れて汗ビッショリ。十一時もうやらない。

30 cm 直径の鉢の土を入れ替えようと、鉢内をほりくり返したら、狭い中に、イモムシが五、六匹いた。何処から来るんだこいつらは。もうヘトヘトである。が、頭はまだデスクワークモードにはならない。

ならないのなら、とことん百姓だと思い切り、自転車で近くの鈴木園芸店に。日曜日にはオヤジが店にでていて、色々と親切に説明してくれるのである。「行者にんにく」なる以前より目星をつけておいた山菜苗を3本入手。500 円である。古くから伝わる行者たちのスタミナ源と袋に書いてある。トマトの苗、キャベツの苗、キュウリの種、細ネギの種も買い込む。もうこうなったら理性もバランスも無い。眼を吊り上げて自転車を飛ばし、畑に戻る。

K2の山頂には当然「行者にんにく」を植え込む。山容がまことに、にんにくによって堂々としてきた。行者にんにくは北海道と近畿以北の深山に自生する多年草である。昔、山岳修験者達がニンニク臭のするこの草を食べたらしい。園芸屋のオヤジに、ここで大丈夫かと尋ねたら、私も遊びで育ててます、と店の奥のプライベート菜園につれていった。園芸やの秘密の花園である。小さな茎がこっそり育っていた。「一年目はダメですよ、二年待って下さい」だって。そうか二年がかりかと気持ちを引きしめる。

十三時ヘトヘトになり、足どりもフラフラしてきたので畑から引き上げた。いささか根をつめすぎたのである。十四時半「絶版書房交信」を書き上げる。頭の妙な部分が刺激されていて、ヒマラヤについて書いた。

十五時、三階テラスでツタンカーメンのサヤエンドウの種を拾う。区民農園の人間達も午後になって精を出しているのが三階テラスから眺められる。チョッと出足が遅いのではないかね、と余裕を持ちながら、遠望するのである。

午前中に植えたトマトの種が気になり見に行くと、やはり横に元気無くかしいでいる。そうか、げんきになってもらわなくてはなと支柱を立てることを決意し、区民農園で盗み見して学んだように四本立ててそのそれぞれを水平に連結して結んだ。イヤハヤ中々手間ヒマがかかるのであった。道をゆく通りがかりの人々から、やたらに声を掛けられる。こういう作業、つまり野菜作りに精を出している長グツ履き、上はパジャマにセーターの姿のオジイには声をかけやすいのであろう。私も精一杯愛想良く応えたりした。何と小一時間で五名の見知らぬ人達と、花や野菜に関して、実に和気に満ちたあいさつを交わしたのである。自転車で世田谷村を見に来たらしい学生2人にもニッコリ笑ってしまった。どうやら、畑仕事をしていると人間の性格まで変化してしまうものらしい。来週は通りがかりの人のあいさつは限定二人のみにしたい。ニッコリするのは疲れるのだ。

十七時、本当にふらふらになって今日一日の畑仕事を終える。K2菜園も3階テラスのプランタン群も、屋上のススキが原にも手を入れて、頭上も水平方向も、下も全て立体的に野菜畑になってきたのを自覚して、何だか面白い。立体的に畑の中に居る感じだなコレワ。

絶版書房1号「アニミズム紀行1」に記したが、画家熊谷守一は池袋に八十坪の土地と家を持ち、庭をうっそうとした森にしていたらしい。ある時期から、そこから四十年間一歩も外に出ようとしなかったらしいのだ。恐らく四十坪程の森の中を一日中、散歩して、全くあきる事など無かったのだろう。

絶版書房4号は「庭園」についてであるが、そう決めたのは今日である。庭園について、熊谷守一の都市の中の森についてを始まりに、イサム・ノグチの庭、川合健二の庭、そして私のK2菜園、そして秘密の花園や、トムは真夜中の庭で、その他を巡る紀行としてみたい。

勿論、北海道音更の水の神殿の庭園のデザインプロセス、施工記録を軸にするのだけれど。十八時、全ての作業をストップして、頭の中の遊びの世界に入る。

四月六日

六時過起床。畑へ。道路沿いに植えたスイートピーにネットを張る作業に没入。色々と工夫して倒れない構造にするのは意外と大変なのである。昨年まき残した清黒長ナスの種もまいた。朝陽を浴びて気持良い。ついでに、手製の塀も直した。直したと言っても、石コロや瓦でつっかい棒をしただけである。

K2菜園の南東側は巾4メーター程空いて何もない。そこに簡単な、入らないでくれの意思表示だけの板を渡している。その部分の公道側が散歩の犬の、トイレになっていて何となく犬にとっては、トイレにふさわしい処らしいのである。石コロを拾っていたら、いくつかのクソがあった。

七時過迄K2菜園の世話をして、3階テラスの鉢に水をやり八時前一服する。今日は昼に、我孫子真栄寺馬場照道のところに花見にさそわれている。私の幾つかの、これからの計画についても相談したいので、二人だけの花見になるだろう。

R271
四月四日 土曜日

七時起床。畑へ。新しく、五角オクラ、二十日赤カブ、なすの種をまく。菜園全体の構成をほぼ決めて、歩く小径(つまり、うねという事)の谷を、ほぼ掘り起こした。

ちんげん菜が芽を出していて、やっぱり嬉しいものである。よしよし、よく頑張ったなと声を掛ける。

思いたって、畑の曲り角にうーんと高い土盛りを作り、最初はネパールの神の山である魚の尾の形をした頂上を持つ聖山マチャプチュレと名付けようとしたが、あんまりとんがった頂上では野菜も植えられないと考え直し、それなら、しぶくK2と命名しようと思い、この巨大土盛り、標高 50 センチメーター位のモノにK2と名付けたのである。来年あたりは聖山カイラーサをも作ってしまおう。とすればK2をとりまくうねの谷部分は当然カリガンダキとなるわけだ。それで今年の世田谷村の猫の額菜園はついにK2菜園と名付けられたのであった。チョモランマと命名しなかったところがまことに奥床しく、気品を感じさせるではないか。今朝、世田谷村の庭にはヒマラヤ山脈が隆起したのである。

しかし酔芙蓉の小木や、金木犀の樹の方がK2よりもはるかに背が高いという現実はいかんともしがたく、何処かに縄を張って、ここよりヒマラヤ山系と標示すべきかも知れぬ。野良猫やハトが、カリガンダキをのし歩いたり、つぐみがK2にフンを落さぬよう眼くばりも必要となろう。

八時半終了。うちの庭は一変したな。劇的である。これで毎日ヒマラヤをのし歩けるのである。

十一時迄WORK。はかどらず。三階テラスの小BOXに植えていた。いわれつきのサヤエンドウの世話を少しばかり。強風で壊れてしまった3階テラスの塀らしきを整理する。

このサヤエンドウはツタンカーメンの棺の中にあったエンドウの種を再生したものが、世界にいささか流布しており、その一部を分けていただいたものである。

今年は見事に花を咲かせ、濃い紫の、そして黒ずんだサヤを実らせている。種が獲れそうなので、採取したら何がしかの人に贈るつもりなのである。数粒しか獲れぬので、友人達はあんまり期待しないように。

仕事がうまくゆかないので、再び畑へ。キヌサヤのネットの手入れとかをする。思い立って近くの区民農園へ久し振りにていさつに行く。

区民農園には男性ばかり、5、6名が土いじりをしていた。昨年、私はつくづく市民、区民の底力を見せつけられた。私だって、れっきとした区民なんだが、区民農園は申し込まない。区民菜園で野菜を育てるような本格的な区民ではない。しかし、正直昨年迄は私はその本格的区民らしきを多少、いささか、しかも本格的になめていた。正直言うと、目線がいささか高かったのである。

ところが、昨年私の畑は春先迄は絶好調であったのだが、梅雨時から夏にかけて草取り等の地味な世話をしなかったので、全滅した。そして、区民農園の人達の畑は、凄い成果物だらけ、喰べきれんぞ区民よ、の感じだった。つまり畑において私は区民農園に完敗してしまった。それ以来私は区民農園の日曜百姓の区民をまぶしく見るようになった。だって明らかに、アッチの方が力が上なんだから。実にみじめであった昨年の畑比べは。

で本日、畑にヒマラヤも出現して名前もK2菜園と命名できたので、おそるおそる区民農園をていさつに出掛けたのである。チンゲンサイの芽も出たことだし。

その結果を記せば、今のところはK2菜園が区民農園を一歩、二歩リードしていると明言してしまう。

何故ならば、区民農園は実りが余りにも良くって、その整理、つまり昨年の後始末がまだ始まったばかりの状態であった。自慢では無いが、私の畑には何にも秋には出来なかったので、後始末も何もあったものぢゃない。何も始末せずに今年の土おこしが出来るからだ。この優位がいつ迄続く事やら。

私は区民農園で働いていた人々はみんなにあいさつして、一人になんか「素晴しい大根の出来ですね、いつ種まいたんですか」などと、お世辞まで叫んでしまった。相手の方が力が上だと知ると、いきなり卑屈になってしまう性分なのだ。「去年の秋ですよ」と人物は鷹揚に応えた。

そうか、秋まき大根はこんなにデッカク育つのかと私は目を見張った。しかし、人物はその収穫や、他の作物の跡片付けで今年の仕事には手もついておらず、私は、内心、K2菜園はすでに「総太り交配春まき大根」なる強者の種をまいたのだ、恐れ入ったか、と下を向いてグフフと笑った。しかし心配なのである。私は大根は初体験なのだ。参考書等を読みあさると、大根は深く、出来れば 60 cm 以上掘り返しなさいと書いてあるのだが、私のK2菜園の一部は以前、住宅の一部が建っていたところで地中に石コロ他が埋まっており、それで昨年はクワ一ヶ、スコップ二ヶをダメにした。刃がボロボロになってしまう位に石コロ、瓦が出るのだ。それで、とても 60 cm は掘れないのである。せいぜい 30 cm くらいが関の山なのである。

改めて区民農園を見渡すと、実に良い土なのである。

区役所は恐らく大量の良質な土をここに入れたに違いない。つまり、ここには明らかに公共投資の力が投入されている。だから、スコップでざくりとやっているのを観察していると、アッサリ 40 cm 位はすぐ掘れるし、60 cm 以上土を掘り返している畑も、二、三、見受けられる。

つまり、何を言わんとしているかと言えば、どうやら、区民日曜百姓達は圧倒的に私よりも条件が良いのである。百米競争で例えれば二〇米先位からスタートするみたいなものなのだ。私はと言えば、今日もザックリ、クワを打ちおろせば、カチン、ゴチン、といまだに何かにブチ当たるのである。

しかし、今年は負けられないのである。今のところは例年通り、私の畑の方が先行している。梅雨明けの草取りが勝負だな。俺、草取りはキライだから。タネまいたり、土を掘りくり返したりするのは好きなんだが、その後のメンテナンスが苦手なのだ。日曜区民百姓さん達は、しつこくそれをやり続けるのが素晴しいのである。

オッ、そう言えばもう一人強敵がいた。京王線の反対側でやはり猫の額菜園をやっているH氏である。彼は最近、喰い切れぬ位に青菜やパセリ他を収穫してると言ってた。

それで思い立ち、自転車で数分のH氏のところへ踏切りを越えて行った。そしてのぞいたH氏の菜園を、確かにデッカク育ったモノ名前は知らない、や、バケ者みたいなパセリは育っていたが、マア、どうと言う事は無かった。これなら今年は勝負になるであろう。

ただし、H氏の菜園をじっくりお茶の木の垣根越しにのぞいて気が付いた、畑全体にやっぱり土が盛ってあるのだ約 20 cm くらい。やはり土を入れていたのか、俺だけか、ただ掘りくり返していたのはと、憮然として帰る。こうなりゃ生ゴミを小まめに埋めるしか無いな。しかし、畑作ってしまったから埋める処がない。

R270
四月二日

十九時過ドローイング作業を中断。久し振りに研究室の面々と軽い夕食を、パンとワインとチーズその他で。二十一時前ア。段々と完全な仕事モードを作り上げてゆく積もり。

早朝と夜がデスクワークの時間にならざるを得ないから、昼は雑務、学務で占拠されるも同然だからな。

それにしても今日一日の「ひろしまハウス」絶版書房3号の予約は凄かった。まだまだ世の中捨てたものではないね。希望はある。京王線車中でスケッチ作業。

二〇時過世田谷村に戻る。N氏と長い電話連絡。色々と入り組んでこんがらがった糸が少しほどけてきた。〇時半就寝。

四月三日

七時過ぎ起床、畑へ。総太り交配春蒔き大根。ゴーヤ。サラダみずなの種をまく。いずれも百円ショップで買い求めたものだ。百円ショップの種を馬鹿にしてはいけないのは昨年知った。園芸屋等で売っている種よりも時に図太い生命力を持つのである。しかし、今年の百円ショップのゴーヤの種は袋は立派だが、何と中身は五、六粒なのである。二袋百円であるから、一粒十円ですぞ。無事に育って程々のゴーヤになったとして、ゴーヤはスーパーマーケットで一山いくら位で売られるのだろうか。しかし、一袋に十粒入れて売るのと、その十粒を五粒ずつ二袋に入れて、二袋百円とするのとでは売れ方が違うのであろう。百円ショップの商才である。

八時過土いじりを終える。デジタルカメラを首からぶら下げての畑仕事だから、たかが知れているのである。種を植え込みながら、これをどうサイトに ON してやろうか等とレイアウトを考える始末なのだ。もう十年以上、この世田谷村日記をサイトに垂れ流しているが、最近はもう病気状態でメモを残す為に生活しているような気さえするのである。サイトによる一方的でもある通信が先か、実生活が先かよく解らない位だ。

恐らくこの畑仕事もそうなるだろう。恐ろしい事である。しかし猫の額程の畑にしゃがみ込んで土の匂いや、朝の光を背中にあびていると、ウムウムてな馬鹿満足感も多少、一瞬ではあるが生み出されてくる。

ところで、今朝で私の畑は、ちんげん菜、きぬサヤエンドウ、レタス、ゴーヤ、サラダみずな、総太り大根、の六種類の者共がそろった。きぬサヤエンドウには百円ショップで買ったネットを架けてやった。足りなかったので、支柱で小架橋をつくり、凧糸を垂らして石に巻き付け、ネット代りにした。テンションの自作ネットである。見るからに汚いが役には立つだろう。十時過迄エスキス。小休。

R269
四月二日

十一時過一時間弱時間が開いたので、メモを記す。

研究室に確認したら、絶版書房2号の残は 15 になっているそうだ。3号ひろしまハウスはアッという間に十数冊出てしまい、DVDも7点の注文で、これは手作りなので大変だけれど、マア、出来るところ迄頑張ってみよう。DVDの方の製作は辛くなったらストップするという事でお許し頂きたい。4号に関しては、急に仕事が忙しくなりそうなので、実作のプロセスをベースに新制作ノートに記録しつつある、記録のユニットを再編集する事を考えている。「水の神殿」「北向き倉庫」「子供達の家」「チリ計画」等をクロスさせてメディアとして構築してみたい。

十二時前世田谷村発。平河町へ。

十三時半平河町。早稲田OBの方々とお目にかかる。昔の良き早稲田の伝統を持つ典型的な早稲田人達であった。明るくおおらかで、何しろ前向きな方々である。面白かった。

十五時了。新大久保でパンを買って研究室に戻る。

何と一日で絶版書房三号、「ひろしま、レッドクメール・備忘録として ひろしまハウス・建築がみる夢」の予約が 50 部近くになっており、驚く。三号にして初めてのビックリである。これは三三〇部では足りなそうだと衆議一決。四〇〇部発行に部数を延ばす事に決定する。増刷はしないので、発行部数を増やすしかない。印刷所と再度打ち合わせてみる事とした。絶版書房の最初の山である。四月九日の残冊公表を楽しみにして下さい。

R268
四月二日

七時半起床。風が強い。北の神社の森も大きく揺れ動いている。遠くに見える南の大木も揺れている。それで畑に出るのは止めた。編集長の依頼で「絶版書房交信」を書く。編集長も昨日絶版書房3号の予約開始のページを開いたものの、2号の十六冊の売れ残りが気になっているのだろう。

しかし、私が書いたモノは十六の残数はピタリとここで止まってしまい、皆の関心はすでに3号に移っているという事である。ネット時代とはそういうものである。

2号の主人公であるプノンペンのナーリさんは、ウナロム寺院のひろしまハウスの真前に住んでいて、毎日毎日、ひろしまハウスと対面して暮らしているのを、まだ何処にも書いていなかった。不親切であった。

多くのメール他をいただいているが、それを公表するのは、やはり私の年令でははばかられる。つまり、とまどいがあるので、一方的な交信とした。九時までかかってしまう。

R267
四月一日

十時半研究室。ドローイング。十一時入学式。十一時半了。ドローイング。十三時半研究室ゼミ。WORKの課題を出題する。どう反応してくれるかな。十四時半了。ミーティング。絶版書房三号「『ひろしまハウス』ひろしま・レッドクメール・備忘録として」の刊行、公表するを決めた。まだ2号が残部十六部程あるが、3号はオプションとして自家製DVDも制作したので、とても充実しているので、少し早目に宣伝開始とした。

三号は、一号、二号と比較すれば、まともに正面から建築を論じているので、設計者、建築関係の方には読みやすいだろう。DVDは昨年、制作の為にカンボジア・プノンペン・ロケを行ったので、自家製であるが仲々の自信作である。しかし、極少数しか作れないのでDVD発売は極少数としたい。

いよいよ、絶版書房の面目躍如であると自画自賛する。

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