10月の世田谷村日記
337 世田谷村日記 ある種族へ
九月三〇日

十二時研究室でフランス人ニコラス君(文部省交換留学生)の入室の相談。ちょっと変わったフランス学生のようで、受け入れを決める。バウハウス建築大学からのドイツの留学生とは異なった才質の持主のようで、楽しみである。しかし、ニコラスという名前で良かった。ニコライだったら前に家に居た白猫の名前なので、まぎらわしいのである。最近、動物と人間の区別がかなり無意識のうちにうすくなっているので。ドリトル先生動物園倶楽部事務員としたら実に自然なのだ。十四時教室会議。

たった3日のシンガポール行であった。実質1日だけの仕事なのだが、行き帰りに2日かかってしまう。これは国内に於いても同様の問題が発生していて、これは土地(場所)にしばられざるを得ない建築設計だけに限らず建築という小世界の宿命である。土地は動かないから。人間が動かざるを得ない。要するに人間の方に体力が必要で、ボルヘスみたいな人間は晩年盲目となり、その分頭脳は酷使したのだろうから、頭脳のエネルギーは途方もない域に達していたのだろうな。古代ヘブライ語から、現代の諸言語に精通し、文学を中心としてはいるのだろうが、神学、聖書学、文献整理学までも、ほぼ手中にしてしまった人間の頭脳はやはり異常である。人間が本来所持している内的エネルギーに、種としてそれ程の特別な異例はあり得ようも無いから(エネルギー保存の法則は人体にも適用される)、ボルヘスの如き知性はやはり、トータルな生としては、肉体的に欠如するモノが発生するのだろう。彼は眼を引換えに知覚力を得たのだ。身体の何かを捨てなければボルヘス的知は成熟しないだろう。

怪奇、幻想という修飾語がボルヘスには冠されるようだが、日本語の誤りである。コレワ。そう名付けたがる人間の方が余程怪奇なのである。

十六時前教室会議を抜ける。私用。十七時四〇分千歳鳥山駅近くのソバ屋ですき焼きうどんを喰べながら今年の早大・東大合同課題の出題時(十月四日)のミニ・レクチャー「3年間の合同課題振り返って」の準備(エスキス)する。

十八時半鳥山区民センター1階ロビーでメモを記す。今朝、何通かの通信を受け取ったが、岩手のN氏から、わたしのベイシーでの展覧会に協力して下さる旨の便りは殊更に嬉しかった。出来れば岩手、宮城、青森、福島の方々には手助けをしていただきたいとは願っている。おいおい、この件に関しては記してゆきたい。 耳管の宮庭園の旅、千洞千夜物語りは、ボルヘスに学びながらやり続けたい。

十九時まちづくり協議会検討会。今日は多くの人が参加して自由に発言するのが目的の会だから、わたしは発言を控えた。少しづつ良い方向へ向っていると思う。二十時半修了。運営委員のO氏と近くで話す。O氏は駅前に格安の空いた土地を見つけてきて、どうだ、ここでドリトル先生動物園倶楽部やらんかと言う。15年間は格安なので、しかもNPOでなければならないと言う。彼は協議会のみならず、他の町づくりの会にも顔を出しているので、とても具体的な情報が入ってくるようだ。わたしとモノの考え方が違う人だから、予想もつかぬ事を考えるので、面白い。徹底的実利なのだ。二十一時過了。二十一時半世田谷村に戻る。

十月一日

「橋本平八と北園克衛展 世田谷美術館」カタログを読み始めた。酒井忠康のモノを読了して眠った。不勉強で日本近代の彫刻史にうとい。酒井氏がサンパウロビエンナーレでブラジルに出掛けた時に、わたしは運慶の末裔です、今の日本の彫刻は神経質ですね、と言ってのけた人物に出会ったというエピソード。何となく、その快人物が言い放った言葉が日本の他の、建築も含めた諸芸術に当てはまるなと考えた。昨夜の事である。適確な批評である。

六時半起床。酒井氏は日本美術の今を広範にも把握し得る立場に居る。その人の印象に強く残る言葉であると記しているのは、酒井氏も深い処ではその様な感じ方をしているとの表明でもあろう。まだ酒井氏の小論しか読んでいないので、理解は浅いが、どうやら橋本平八の作品群、そして論は深く彫刻そのものの古層の形式に近いのだと考えられる。彫刻表現の古層とはアニミズムに他ならない。

「幻庵をつくらせたもの」幻庵・世田谷村とひろしまハウスのレクチャーを十月四日にリビングデザインセンターオゾンでするので、その準備をする。

336 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十七日

本八幡経由京成線NRTエアポート。チェックイン。ロビーでメモを記す。荷物がほとんど無いので楽だ。独人旅でこんな時は丸一日一言もきかずに過ごす事になる。その分メモが増える。残念ながら最近は何処に行こうとほとんど日常と変わりなく感動というのとは無縁になってしまった。しかし、若い頃の旅の感動が何かに生きているかはどうも疑問だが。言葉に置き直す事は容易ではないけれど、何かの滋養にはなっているのだろう。建築空間の知覚的蓄積とも言うべきか。言葉にはならないがエスキススケッチの手がほぼ自然に動いて、形の組合わせの自動調節をする事があるが、あの空白の時間を活かしているモノに生きているのだろうと思う。わたしのメモにも出現すれば良いのだが、シュールレアリスムの自動記述をわたしは全く信用できない。言葉はやはり意識が何かに向けて産み出すモノで、自動というのは無意識へのより高次な冒険か、あるいは俗な屈服だけの事にちがいない。2冊の文庫本を持って出たので読みふける時間もあるだろう。井筒俊彦とボルヘスの好対称、あるいは完全な一致の双頭の鳥である。3日で読み切りたい。地上ではボルヘスを空中では井筒を読もうと決める。十一時ANA0111便シンガポールに飛ぶ。

只今十四時過、石垣島上空である。「意識と本質」井筒俊彦、もう一度最初から読み直しているが、まだ解らない。しかし「耳管之宮庭園の旅」が何処のポジションを占めようとしているのかの、ガイドラインを教示された。このメモランダムの幻庵及び榎本基純、佐藤健の記憶を書くのは、すなわち死者の記憶を記すのは大乗仏教的に言えば要するに縁起である。初期サルトルの実存主義は存在の本質の嘔吐をうながす如きグロテスクすなわち混沌をあぶり出したが、それはあくまで表層世界の事であった。無意識の深層には降下し得なかった。大乗仏教の縁起は実に俗な世界の現在を表象した。それは経験主義的な性格の思考を突きつめたものではあったが、どうやらあり得べき何者かの思考形式と相対すればやはり一段劣るのである(井筒の考えでは)と井筒は言う。つまり、今わたしが耳管之宮で書いているのは縁起の水準であるようだ。わたしだって、それ程間違った事を記している筈はないと思ってはいたが、何か物足りないなとは考えていた。その構図を指摘されたのである。わたしがやっている事に即して井筒の知覚の入口のようなモノが少しは視えてきた。

4時間程ぶっ続けで井筒俊彦を読んで疲れた。機内の映画を見て休む。ダイハード4だ。すぐにボルヘスに切り換える。ボルヘスも井筒俊彦同様に凄惨な知識と思考の人である。恐怖さえ感じる。今、日本時間十八時前、あと30分少々でシンガポールに着く予定。ほとんど窓の外をのぞかなかった。

十七時四〇分(シンガポール時間)シンガポール空港着。T氏及びスタッフ出迎え。車で市内へ。雨上がりで涼しい。キレイな樹木の多い都市だ。

十八時半ペニンシュラ・エクセリアホテル着。チェックインしてすぐに車でT氏オフィスへ。十九時打合せ始める。明日のプレゼンテーションに関して。二十時半了。歩いてオフィス近くのリヴァーサイドのオープン・レストランへ。中華系の店を選ぶ。ヨーロッパ人が非常に多い。静かで落ち着いた都市である。二十一時半了。TAXIでホテルへ。TAXIはつかまりにくい。二十二時過ホテルに戻り、シャワーと風呂を使い、明日のプレゼンテーションのリハーサルを一人芝居。英語は苦手なのだ。

九月二十八日

夜半三時半眼が覚め、再び眠る。

八時半起床、再び英語のリハーサル。真面目だな俺は。九時ピックアップされて九時四〇分シンガポール郊外のK社へ。十時インド人ゼネラルマネージャー他にプレゼンテーション。リハーサルの甲斐ありスムースに出来た。自分なりに満足する出来だ。十一時前了。30分程質疑応答。インド人の反応はなかなかつかみにくい。しかし、非常にコンセプチュアルだと評価される。当たり前である、そうしたんだから。予想通り「ハウマッチ」と来た。やり取りが続き、わたしはK氏達にそれは任せた。

十一時了。下のロビーで若干の打合せ。

十二時過プロジェクトの計画サイトを見学。予想していたよりはるかに良いサイトである。都市間近の海沿いの巨大なサイトである。近くにSONY他の研究所他が並ぶ。昼食をT氏スタッフのファミリーのレストラン(中華街)でとる。水関連の諸施設を見学して廻る。シンガポール国営企業のプロジェクトであり、なかなか厳しい競争になる事が予想される。5、6ヶ所の施設を見て廻り、かなりハードであったが夕刻近くに立ち直り、頑張った。ついでに伊東豊雄さん設計のショッピングモールも見学。大変にぎわっていた。近くにカジノが出来て、そこへのステーションがモール内に作られ多くの人を呼び込んでいるとの事。やはりカジノに敵うモノはないのか。中心街に戻り、古いヘルムート・ヤーンの建築、丹下健三のモノ等を眺める。見る影もない。しかし、シンガポールの中心街はなかなかコンパクトで上手く出来ている。最後に中華街に戻り、シアンホッケン寺院(天満宮)に参拝する。見事な中華街の一角に興味を引かれ、アイデアが生まれ、土地の値段を調べてもらう事にした。十八時二〇分、ホテルに戻り、シャワーを使い、小休。メモを記す。

先程、見学した50階建のアパートメントハウス、数棟の集合体 DAXTON RESIDENCEは良く出来た都市型住居であった。空中回廊があって、女性が100M程の宙空をジョギングしていた。これ位のモノはやってみたいなとは思う。シンガポールの印象はキチンとした優等生的都市である。国家がコントロールしている部分が実に多いような気がする。マレーシアから李ファミリーにより独立して、ファミリーの李統が統轄しているようで、歴史を調べたら面白いだろう。

十九時十分ピックアップされて昼と夕刻、2度訪ねたシンガポールの中心の中華街へ。昼間眼をつけておいた台湾料理屋へ。予想に反して不美味であった。しかし話はすすんだ。二十一時十分頃了。二十一時二十分ホテルに戻る。T氏とアシスタントと別れる。幸運をいのる。お互いに。二十一時三十分部屋に戻りメモを記す。

シンガポールの夜景は美しい。何か桁外れなモノを感じるとは言い難いが、クリアーで合理的にまとまっているのである。これでは何とかとてつもない文化は産み出せそうにないなと想う。この辺りの実感は大事な事であるかも知れぬので、明日の飛行機の中で考えてみたい。今は、ただ横になりたい。

九月二十九日

五時起床。まだ少し早いけれど眠っていても仕方ないので起きる。クリーンでモダーンで何不自由も無いように視えるが、シンガポールの空気にはエネルギーが感じられない。エネルギーとは生命をざわめかせる母体の如き感覚である。少しキザだがそう記すしかない。無いものねだりはいけないから、例えて言えば、昔のバルセロナにはそれがあったような記憶があるし、サラマンカ、セビリア、マラガ等にもあった。イタリアのさびれた小都サンジミニャーノ、他の山岳都市にもあった。アテネにもあった。と並べ立ててみれば一目瞭然この都市には歴史の種が旅行者には極めて少ない。ド真中の中華街だけではないか。つまり、ほとんど全てが人工的に作られたモノ(中華街だってそうなのだが)、近現代のモノだけで構築されているからだ。それ故に本格的な驚きが無い。

只今六時四十五分、シンガポール空港第2ターミナルE24ゲート。ホテルからTAXIで空港へ20分位。空港内で王ラーメンを喰べる。こんがり焼けたトースト付で3$47(シンガポール$)格安で、客が集中している。空港職員や飛行業務員の姿も多いので、皆知っているのだろう。でもラーメンはまずい。再びJ.L.ボルヘスに取組む。八時十五分定刻通りに飛ぶ。ボルヘスに没頭する。井筒俊彦を読む頭の状態ではない。しかしボルヘスの頭脳もどうなっているんだろう。恐ろしい程のモノだな。親子2代のブエノスアイレス図書館長のようだが、書物が一つずつレンガのように脳内でバベルの塔が設計されている。本による伽藍が建っている。基本的にボルヘスは短編だが、その1つ1つの作品の密度と積層度がとてつもないので時間がかかるのだ。

疲れて、又もダイハード4を視る。振り出しに戻った。帰りの飛行機と言ってもストーリーが逆に進行するわけではない。只今、日本時間十五時過、アト1時間少々でNRT着だ。只今、十七時前京成成田線で八幡へ。

335 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十五日

十二時前、シンガポールPプレゼンテーション案最終チェック。終了後、耳管之宮庭園の旅、千夜千洞記10を記す。まあ史上最高に読者の少ないコーナーで、それ故にこそ闘志を燃やす。これだけ無関心を呼ぶのは、余程ワケがわからないからに違いない。飛び過ぎているからか、説明が足りないのか、どちらかであろうが、後者だと考え、何故このシリーズを始めたのかの説明を少し計り書く。1000回続けて、まとめて、某処で展覧会やりますよの告示なのです、実ワ。

十五時学部3年設計製図講評会。十八時半頃修了。先生方と雑談、ビール。新大久保駅近くのタイ料理屋で会食。古谷、宮崎、荻原、渡辺(大)。ワインを3本だったか、4本だったか開ける。年に4回の定例だが先生方の近況やら考え方が聞けて貴重な時間だ。二次会も無く平和な会であった。

東大建築学科との共同課題を今年も続行するが、今年の課題はかなり高度なものであり、両校の学生はいささかの背延びが必要になろう。頑張ってもらいたい。

二十三時半世田谷村に戻る。

九月二十六日

六時半起床。朝食は抜く。烏山神社にお参り。吉祥寺、三鷹を経て緑町の病院へ、母と会う。切ない。明日からシンガポールなので、その旨妹に伝え、よろしく頼む。十一時妹夫妻に送ってもらい世田谷村に戻る。何故か疲れて休む。人間は皆、切ない者です。

十七時半目覚める。よく眠った。母に神様達の加護がありますように。何があってもシンガポールへは行くと覚悟する。

夜、耳管之宮庭園の旅、11を記す。書けば書く程に不可解ばかりが増えるばかりである。無明を漂うの感があるが、それも良いだろう。読者の皆さんは不愉快かも知れぬが、愉快ばかり、割り切れるばかり、解るばかりでは、どうにもならない水準を堂々巡りの旅になってしまう。時には不可解の中に飛び込まなくては。

十二時寝る。よく眠る日曜日であった。

世田谷在住の方よりドリトル先生動物園倶楽部への入会申し込みをいただく。ポツリ、ポツリと入会者が増えているのが我ながら嬉しい。肩ひじ張らずに気は抜かずきちんと対応したい。

酒井忠康氏より「鞄に入れた本の話 私の美術書散策」みすず書房、3400円+税、送られてくる。酒井さんの文体はスーッと入ってくるようになっているので、楽しんで読みたい。

九月二十七日

五時過起床。荷造りと言っても10分で修了し、暖かいお茶を1服。冷たいお茶よりはフーッと吹いて飲む熱いお茶が欲しい寒さになった。メモを記し、六時二〇分発、NRT空港へ。

334 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十四日

十一時過研究室。シンガポールのT氏と打合わせ。シンガポールでのスケジュール決定。プレゼンテーションマテリアルに関して、非専門家的クリティークをもらう。これが大事なのだ。少し計りどころか、かなりプレゼンテーションのディテールを変える事を決心する。こういう時に大事なのは非専門家の意見なのだ。専門家は専門馬鹿になっているからな。十二時半了。以降、プレゼンテーションの変更に没頭する。一人で全てのオペレーションをやり切る。アトはスタッフに任せる。十七時半迄集中する。

十八時前、新宿南口長野屋食堂で待ち受けていた山田脩二をひろい、すぐ近くの味王にて小会食。山田は十九時過に老年のガールフレンド複数と会うらしく、気もそぞろでそわそわしていて不愉快になる。この辺りが、山田脩二のダメなところだな。とひがむ。こう記すと恐らくは日本中の数少ない山田ファンがすぐ、淡路島にこれをプリントアウトして送るのである。本当に面白く、バカ臭い世の中になった。つまんネェーよお前はと、別れ、一人しみじみ飲む。でも、阿呆臭くて5分でやめた。

二十時過世田谷村に戻る。隣りの烏山神社へのお百度参りのノルマを果すべく、神社へ。縁日で凄い人混みである。おさい銭を納め、お参り。石段に腰かけて、沢山の人の群れを眺めながら、舞台の旅芸人の唄を聴く。無法松の一生と、日本列島女旅なるモノを二曲聴き、もの哀しくなり、世田谷村に戻り、メモを記す。しかし、あの旅芸人は悪ビレていなかった、仲々、良いよなあ。10月の初めにTVに出るぞとえばっていたのも大変良い。

三時半、起き出してノルマの原稿を書く。四時半了。早く終り過ぎて撫然とする。まだ夜は明けぬ、しかし再び眠るのも面倒だ。

「東京大学建築学科難波研究室活動全記録」角川学芸出版、2900円(税別)難波研究室、が送られてきていたので眼を通す。難波さんは東大在職6年半で良くまあこれだけの事をなしたと、いささか驚く。驚くというのでは評にならぬが、今日のところはそれ位の印象を述べるにとどめる。五時前やはり再眠しよう。

九月二十五日

八時半再起床。寒い。ボーッとする。白足袋は丸くなって眠っている。

十時半烏山神社にお参り。昨日のにぎわいは見事に去り。境内は森閑として、音もなし。凄いもんだ人間が集団で生きるって事は。潮の満干みたいなものだな。月の満ち欠けに似る。ざわめいて、シーンとするの、長い長い繰り返しである。人間も動物も眠り、つまり仮死状態を必要とするから、これは神社の境内の祭礼の繰り返しに似るのであろう。妹より連絡あり、シンガポールには行かねばならぬし、しかし、母の事だから心配するな、行けと言うだろう、とは思うのだが、しかし不安である。友人諸氏のつつがなき事を祈る。

十一時半過研究室。

333 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十四日

六時半起床。寒い。白足袋も暖かい布やマット状のものの上で丸くなって眠るようになった。アラーキーが愛猫チロの写真集を出したようだ。チロというのは、わたしの小学生低学年時代、家に居た猫の名前である。あんまり動物の気持が解らない頃だったので、あの猫には失礼してしまった。ある日フッといなくなってしまった。近くに大きな原っぱがあり、小さなコスモス畑が庭にあった。コスモス畑を横切って鎮守の森の方へ消えた。小さな黒白シマの猫であった。白足袋に似ている。と今朝気付いた。アラーキーは、一度しかお目にかかった事がないが、生き急いでいるとしか思えなかった。写真家の仕事の要は瞬間である。瞬間に対する感性がとぎすまされると、無常にはなるなあ。無常とはセンチメンタルであるから、アラーキは無常を今、生きているという事だ。

部厚い本だったが、「東京の都市計画家 高山英華」(鹿島出版会、3200円+税)読了した。とても読み易い本である。高山英華に接した事はないが、興味津々ではあったので、その好奇心の大半は満足させられた。東大建築学科の間近な近代の中心に居た人物の一人である。高山英華と大総長であった内田祥三の根太い関係。そして岸田日出刀、丹下健三の東大内地図、すなわち日本地図であった時代の姿が描かれている。高山、京大の西山夘三の関係も描き込まれている。

わたしにとっての東大建築は、磯崎新、鈴木博之、そして難波和彦、安藤忠雄、等からその歴史を眺めるのだが、鈴木博之の筋でもある太田博太郎大先生がサッカー部の高山英華の後輩であったり、生産研の池辺陽が一兵卒として出てきたり、対談相手に磯崎の名前があったりで、良く知る人、知らぬ人がガチャリ、ガチャリとモンタージュされてゆくのだった。

伊藤滋先生からは早稲田の先生方に読んでもらいたいとコメントがあったのだが、これは高山英華が丹下健三とは違って早稲田の人々、例えば菊竹清訓、尾島俊雄、他の諸氏を排除せずに、手厚く遇したという事なのかな。

内田祥三の学長振りも良く描かれていた。終戦間近、日本帝国陸軍少将から大学の開け渡しを要求され、突き返し、更に占領米軍から使用を求められ、これも又突き返し、マッカーサーに直接かけ合うのにGHQ本部に出掛け、これもしのいだりと、今の東大キャンパスを守り抜いた顛末なども書き込まれている。

話しはちがうが難波和彦東大名誉教授の退職記念本(彰国社)にわたしも寄稿したのだが、それも例えば鈴木博之が東大建築が東大建築であらしめるために、安藤忠雄をどうしても東大に呼ばねばならなかったのかその歴史的事情を論理的に書いたのだが、これも読んでもらいたい。ともあれ、この本は東大都市工学科、第二工学部誕生のいきさつ、高山英華、丹下健三の関係すなわち、日本的都市計画と建築家の都市像との違いなどが描かれてもいて面白い。

馬場昭道さんより電話。カワラを330枚すぐなんとかならんかと叫ぶ。実は昨日、淡路島の山田脩二と別件で連絡したら、今東京にいた。山田ガワラのセールスマンじゃないんだけどねと思いつつ山田に電話。ケイタイに出ズ。又、何処かで酔いつぶれているのであろう。

再び、高山英華に戻るが、わたしの学生の頃、早稲田建築には秀島乾という都市計画の大先生がいた。いつも蝶ネクタイをしていて、大学近くの酒場で、他の先生方と暴れていた。わたしは酒場の小部屋で取っ組み合い、どなり合いの先生方を間近に見て、これはエライところにまぎれ込んだのか、と深く人生をくいたりもしたものである。あの秀島乾先生が高山英華に近く、駒沢オリンピック記念公園のマスタープランに関わっていたのか、等も知った。良く調べたな著者の東秀紀さんは。

332 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十二日

十二時過研究室。サイトチェック、雑用。十三時M0ゼミ。学生が一人スタジオ・ジブリの「千と千尋の神隠し」中、名作の擬洋風「大湯屋」の模型を作ってきて、感心した。わたしは以前からこの「大湯屋」は日本現代建築の名作だと確信していた。その確信が学生の無偽とも思える努力の成果により、更に強いものとなった。日本近代の、エアーポケットとも言える擬洋風建築の可能性をこの模型は良く示していた。よい努力である。

擬洋風建築とは誰がつけた名前か知らぬが、洋風建築に相対する呼称でもある。では擬洋風に対する洋風建築とは何かと考えると、正統的近代的様式になろうか。しかしその正統的近代風様式の内実は宿命(いやな言葉だ。)的に正統的模倣の西欧モダニズムである。つまり擬洋風に対するのは模倣洋風という事になる。ここのところの理屈はいささか苦しいのは承知である。一歩ゆずって、擬洋風建築に対する呼称は模写洋風かな。いずれにしても変なものなのだ。日本という地球上ではローカルな場所の歴史から考えればのことだが。かくの如き思考法こそが擬原理主義的思考である。ともあれ学生が一生懸命作ってきた「大湯屋」で色々と考えさせてもらった。

考えを突きつめれば、日本というすでに歴史的な場所、すなわち文化の本体はすべて擬なのである。擬を今風に言い直せば情報建築であり、意識的皮相を装って、つまり自身を擬思弁家風に演ずればメディア建築という事になるだろう。これも又、イヤな間違った呼び方ではあるが、そうなってしまう。

ともあれ学生が作った「大湯屋」から直観したのは、作者であるスタジオ・ジブリの宮崎氏は日本建築史を日本の側から驚く程にスタディしていたなという事である。「大湯屋」の模型からは、信長の安土桃山城を先ず感じた。西本願寺の飛雲閣も、江戸再建の大仏殿、名を失念したが法隆寺の金堂等の正伽藍と夢殿の中間にある、やはり安土桃山様式の御堂、そして姫路城を代表とする数々の城閣建築等々。不思議な事にスタジオ・ジブリの「大湯屋」は正統擬洋風である山形済生館や松本開智学校、松崎町の岩科学校はあまり感じられなかったのであった。

「大湯屋」はそれ故に擬々洋風建築なのである。複層した擬態を示している。

信長の安土城も又、建築史家の想像復原でしか我々は擬体験する事ができぬ。あの復原図はスタジオ・ジブリ風なのである。安土桃山文化をすべからく体現していたと考えられる。信長の安土城は合理主義者信長の天才が宣教師達の情報から得、又、自分で組立てていた西欧世界への対抗的表現であった。つまり、安土城様式には可能性としての擬洋風建築の原点のようなフィールドが秘められている。「大湯屋」は現代の安土城である。

朝鮮料理を喰べて、世田谷村に十九時半戻る。夜はWORK。

九月二十三日

七時前起床。昨夜少しかじり読みを始めた「東京の都市計画家 高山英華」東秀紀、鹿島出版会、を読む。伊藤滋先生より送られてきたもので、藤森照信が腰巻きを書いている。

昨日、鳥山神社に参ったら、テキヤのオカミさんが荷を運び込んでいたので縁日はいつからですかと聞いたら明日からだと言っていた。

八時半鳥山神社に出掛けてみる。雲天で涼しい。と思っていたら雨が降ってきた。世田谷村の東隣りの家が建て替えの為に取り壊していて、今は東側からも建築が眺められる。全体の形が意識されていない事が良くわかる。鳥山神社境内は人々がざわめいている。神輿を組み立てたり、屋台を組み立てたりしている。神輿は上町、中町、下町のものが三台。収蔵庫から引き出されている。本殿にお参りしたら、欄干に台が作られ、そこに町づくり協議会の副会長がいた。3年に一度こういう役割がまわってくるそうだ

神社の良いところは中身が何も無いので、こんな時にその空っぽな場所が何にでも使えるのである。

神社本殿には正面に巨大な日章旗が交差させて組み立てられている。神社本殿は唐破風があり、これは何様式と呼ぶのか知らぬ。雨は本格的な降りとなってきたが、境内は普段と異なりざわめき続けている。九時半世田谷村に戻る。WORK。

331 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十一日

十一時過烏山神社。いつも誰かが本殿、奥の院、いなり社の何処かに手を合わせているのに驚く。日本人は信仰心に欠ける等は知識人の偏見かも知れぬ。

十二時半京王稲田堤、建築現場定例会。十七時半迄。いささか長いけれど、欠かせぬ打合わせ。いい建築を作る為に必須な時間である。

F先生より、JBLのスピーカー他について、グループの皆さんで岩手県一の関ベイシーを訪ねた旨の報告もうかがう。さて、どうなりますか。

ベイシーの菅原さんにはきちんと手紙で御礼を言わなくてはならない。FAXやメールは不可だ。そうしなくてはダメなのだ、とわたしは考えてしまう。時代からズリ落ちているのだ。けれど、ズリ落ちた方が良い時代だってあるだろう。浮ぶも沈むも同じ事ではないか。

十八時過、烏山にて渡辺助教と、食べそこねていた遅過ぎる昼食を。彼の、恐らくは安い演技の無い、質問に真直に答えようとする。全く、この授業料は馬鹿にならぬものがあるな、実に。しかし、人間も30才近くになるとようやくバカではなくなるな。十九時了。世田谷村に戻る。

九月二十二日

一時半、起き出して、WORK。四時迄。終了後少しのメモを記す。冷気が室内に流れ込んで気持良い。思い立って、幾たりかに葉書やらを書く。

こんな時間は読書よりも余程モノを考える。思考がゆっくりとした対話になり、少し震動を起すのを自覚する。友人、知人が外宇宙であることを実感するのである。宇宙は星々のきらめく真空の世界ばかりではない。友人、知人の脳内をのぞくのは宇宙への旅に似るのである。ほとんど無限である。と形而上、あるいは外を考えつつ、日本の検察も又、ひどいものだと考えたりもする。厚生省の村木元局長に対する地検特捜部のいんちきゲームまがいの実態が報道されて、やはり深く驚く。国家権力の中枢までこのザマなのかと不安にもなる。しかし、新聞、TVの報道も不様だろう。少し前までは村木局長を完全に権力の上昇志向の固まり、扱いしていたのを忘れないぞ。新聞に真実追求の能力が無い現実を視据えるならば、新聞は自己を律する知恵を持つべきだろう。

しばらく大人しくしているべきなのは新聞である。恥を知るべきなのも新聞であろう。検察対小沢一郎の真実は知り得ないけれど、今回の民主党内選挙の馬鹿さの大半はメディアが作り上げているのではないか。国民、民意、大衆、世論の大半はメディアが作り上げている、巨大な村木事件である可能性もなきにしも非ずである。寄ってたかっての一方的な報道は信じられない。危険なモノを感じざるを得ない。とM新聞の編集委員の友人に不安と怒りを伝える手紙を書いた。TVの解説やらに出てくる新聞記者の品性を疑うと書き送る。早朝からこんなに怒っていては体に良くないと反省。休む。

もう五時前だ。馬鹿だ。横になる。しかし、ただ真正直にモノ作りに専念していれば良いという訳でもない。専念できる条件を作るのが先決なのは良く知るのだがこれがとてもむづかしいのだ。芸術家の落下は建築家と同様に表現と商売が端的に結び付いている現実を誰もが知り始めているからである。マ、しかし努力するしかない。

七時半起床。再びWORK。十時迄。

330 世田谷村日記 ある種族へ
九月二〇日

世田谷村の南の窓辺、縁側状なのだが、そこで白足袋が異様な振舞いをして緊張している。どうしたんだと見てみると、南に突き出した引張り材の要の水平マストの太い丸棒に、小さな黄橙の蛇がくねって身をのせ、舌をチロチロとのぞかせている。蛇は家と土地の神様だと言われているが、やはり気持が悪く、木の棒でつついて下に落した。一体何処からこんな地上5M程の宙に浮いた構造材に登ってきたのか。梅の樹を伝って登って、飛び移るのは不可能であろうから、これはやはり地面から長い長い斜材を伝って、くねり登ってきたのだろう。

タコ糸を投げて、クズのツルを家に引寄せようと、ヒモを垂らしたら、蛇が上ってきた。アニミズム紀行の作者としたら、フラー的テンション材に蛇が伝って登るの図はオッと思える筈なのだが、そうはいかないのがオカシイ。小さくても蛇は嫌いである。

十一時過、烏山神社。十二時前烏山駅で渡辺助教と会い、近くのコーヒーショップでシンガポールPのプレゼンテーション打合わせ。十五時半了。私用。

九月二十一日

六時過起床。磯崎新の「新潮」最新号の論文「〈やつし〉と〈もどき〉 フレドリック・ジェイムソンの建築における日本的なもの書評に応える」再読する。磯崎さんの書くモノは論文とエッセイの境界を走る趣きがあり、一度読んでも解らない。

J・L・ボルヘスを介して荘子の夢(人間の思想)のハイパーバーチャル世界への透視に触れる事ができていたので、磯崎さんのエッセイの読み方も以前とは少し異なってきた。

このエッセイの眼目は磯崎新が近年主唱する〈和様化〉の主題が、新世界システムと彼が言う現代の只中で、どう働くかの日本文化論であり世界論である。最後のモンスター建築家(マスター)として、やはり建築の行末を案じている。

それはそれとして、わたしが関心を寄せたのは、書き始めと結末が何かの(磯崎はフレドリック・ジェイムソンの批評の枠組を日本の文脈にのせるためであると説明しているが、これは怪しい。むしろANY会議を開催し続けた磯崎及びアメリカ文化への微細でデリケートな配慮であろうと思われる)思慮で反転させられている事だ。

文末は荘子の渾沌に対する考えでしめくくられている。カオスに人体のアナロジーとしての七つの穴を開けたら、カオスは死んでしまったという話しである。

このくくりを、この論の冒頭に持ってきて、ジェイムソンの批評を本来あるべき補注の巻末に置換するならば、この論は全く違った論旨として、多くの読者は読む事になるだろう。残念ながら「新潮」というメディアが日本のペーパーメディアの中でどんな位置を占めるのかは知らない。磯崎は知っているだろうが、そんな事には配慮するような人ではない。これはアメリカに対して書かれている。そして中国に対して書かれている。大建築家としての磯崎としては主戦場となっている中国に向けて書かれていると考えた方が率直だろう。でも、建築業界紙が完全にジャーナリズム、更にはメディアとしての力を失った今では、磯崎が対象としている読者はどうやら日本に居る日本人ではない。それはほとんど彼の視界から消えている。その様な枠組みを持って読まぬと日本の、それこそ階層自体が和様化している日本の読者にはそれ程の意味はない。

私が今、用意している磯崎新論は、章毎に異なる視界からの磯崎を描いてやろうと試みている。建築史家から視た磯崎、普通の建築家たちから視た磯崎、中世の僧侶から視た磯崎、アメリカの特定の人物から視た磯崎。そして最後は中国から視た磯崎という風に。まだ、どれ程の時間がかかるかは知らない。計算がつかぬけれど作家論としてやってみる。

その作業の只中で気付いたことなのだけれど、磯崎新の自己構築している思想(論究)の伽藍が法隆寺と同じように、細部が補強され、新素材が切り込まれて貼りつけられたりと、常に更新され続けているという事に注目したい。 その意味では、この新潮の論は興味深い。

家人を手伝って、納戸の中の洋服立ての修繕を少しばかり。安手の市販の洋服吊りだから、すぐにぶっ壊れる。それをガムテープやらで貼り込んだり、壁に接着したり。まるでアポロ13号の宇宙飛行士だぜと思う。磯崎新はこういう事はしてないだろうと考えて、溜飲を下げる。しかし、磯崎は料理は上手なのだ。Xゼミでその辺りをいつかやれるかな。でも、Xゼミは誰も料理できないような気がするな。

329 世田谷村日記 ある種族へ
九月十九日

五時半起床。30分読書。六時烏山神社。すぐにシンガポールPのプレゼンテーションチェック。手を入れる。しかし大方は良くできていた。プレゼンのスピードは速いな。これは使える水準である。シンガポール行プレゼンは27日〜3日間となった。

このプロジェクトはわたしにとっては、横浜グランモールプロジェクトの復活戦である。良いアイデアがまとまったので頑張りたい。

八時前、集中してやってのける。午前中はかかると思っていたが、良かった。

昨日の無駄な読書と、無駄なWORKがこういうところに生きてくる。昨夜の読書は、ちなみに、「耳のこり」ナンシー関(朝日新聞社)、「〈横断性〉から〈カオスモーズ〉へ」フェリックス・ガタリ(大村出版)、「ヒューモアとしての唯物論」柄谷行人(筑摩書房)、「磯崎新の思考力」磯崎新(王国社)、「建築の遺伝子」鈴木博之(王国社)であった。狂読である。

全ての本は再読、あるいは再々読である。ナンシー関の本だって再読である。この人のモノはリリー・フランキーの東京タワーより余程良質なモノがあるような気がする。しかしその良質さはTV番組のしかもコメディーやらの楽屋話しに自閉している。その方法的自閉から生まれてきている。しかし、筑紫哲也の今晩は筑紫哲也れすは何度読んでも笑える。もう少し生きてくれていたら、どんなモノ書いたのだろう。ナンシー関の後にガタリを読むと、これが又、絶妙なのれす。ホームレスなのレス。そう言えば昨夕もモヘンジョダロの遺跡横にホームレスらしきオジさんが一人路に座ってファミレスの弁当喰っていた。格差社会が身辺に及んできているな。ガタリもナンシー関程若死ではなかったが早死だった。

でもようやく、読んでわかるようになった。何を言わんとしているかが。柄谷さんのは、これはよくわかる。ヒューモアとしての唯物論を正岡子規の死後という写生文から始めたいのも良く解る。やはり文芸評論から入った柄谷さんのキャリアの重みがあると、今度わかった。今は世界共和国構想を書く思想史家の如くになっているが、正岡子規をこう読める人の感覚はやはり理性から来るヒューモアだろうか。あまり変な事は書けない。磯崎さんの本はとても読みやすくなってきた。文章力は一番あるんじゃないか。ガタリの訳がいいのか、悪いのか知らぬが、ガタリの文章よりも読める。でも、磯崎さんの群島論はガタリから来ているのかも知れない。1950年代の建築、特に丹下健三についての考えはとても良くわかる。

鈴木博之の諸作を最近読み直し始めている。最も身近な人間であるけれど、不思議なもので読むたびに異なる人間の顔が出てくる。書く主体の内にすでに複数があるという、ガタリが一生懸命言っている事が実践されている様にも読めるのだ。

勿論、1日でこんな量の雑読ができるわけも無い。通読したのはナンシー関だけで、残りはつまみ喰いである。このつまみ喰いのお蔭様で今早朝のWORKへの集中力が生まれたのだろう。どちらが大事というわけもない。読書も創作も全く同じです。

八時半前、メモを記して休む。午前中の予定をすでにこなしているので今日は手持ち無沙汰な1日になるかも知れぬ。具体的な創作、制作ぐらい簡単なものはない。考えるというのはすぐには金にも身体のエネルギーにもならないから、本当にむずかしいものだ。

九月二〇日

四時起床。朝の冷気の中でボルヘスを読む。ボルヘスは父親が盲目の図書館長であった。自らも晩年そうなった。

この人が描いているのはアニミズム世界である。荘子が蝶になったか、蝶が荘子になったのかわからなかった、に関心を集めるのは、そういう事である。大人と子供の自由交換、個人と集団の交通(変換)、健常者と狂人の交通、生者と死者の交通に意識が集中していた。滅ぽう面白いけれど読みふけり過ぎると自分がボルヘスなのかどうかの区別がつかなくなりそうで恐ろしい。そうしたらボルヘスいわく読者のみなさんがわたしを理解するというのは疑問であるだって。良く言ってくれますねボルヘスさん。

泉鏡花とは全く異なるな。むしろ江戸川乱歩の挿絵の中の男だったか、のぞきからくりの中に入り込んでゆく男に自分を視て、同時にその男から自分を視ているところがある。鏡花にはそれが無い。ボルヘスは探偵小説風の短編があるが、ほとんどがその趣向である。文学の文学、文学地図の地図という事だ。夢野久作、小栗虫太郎がもっと深化し尽したという事だろう。七時半迄でストップ。長く読むのは危険です。

「時間の倉庫」はボルヘスのバベルの図書館に近い。他のどんな建築にも似ていないがこれには近いと考える。

328 世田谷村日記 ある種族へ
九月十八日

六時半起床。つっかけにて烏山神社参拝。朝の空気気持良し。境内の諸々に眼をとめる。面白いね神社は。東南角に新しい碑が立ち、伊豆雲見城より高橋一族がこの地にやってきて、守護神として社を造営したが、最近、きちんと儀式をしてお帰りいただいたとある。雲見といえばわたしに縁のある伊豆西海岸松崎町の集落であり、そうか、何百年も昔にあの雲見からここに来た一族があるのかと想いをはせる。この神社は太古海辺、入江のほとりにあったようで、高橋一族が来た頃も、まだ海からの河のような入江になっていたのだろうか。神社には他に2名程の人がお参りしていた。

327 世田谷村日記 ある種族へ
九月十七日

十一時研究室。十二時長谷見主任。十二時半ウォーラル氏。十三時卒論学生。十三時四〇分S君研究相談。これは面白くなりそうだ。デリダと南方熊楠、そして双六ゲーム。今のうちに思い切り脳髄のキャパシティーを拡大したら良い。

十四時過、山形県より株式会社GSD社長及び韓国の IUS.CO.LTD O氏来室。シンガポールPの打合わせ。GSD、N社長は山形で超高級牛を300頭飼育し、毎週東京の高級店に売りに出しているらしい。秋の沢地区の土地の相談も受ける。十六時半了。歩いて韓国料理屋へ。

N社長の温泉の使い方など、大いに話がはずむ。前向きな話しはやはり面白くて、意気投合する。十八時半了。新大久保で別れ、世田谷村に戻る。

326 世田谷村日記 ある種族へ
九月十六日

鈍痛状態の脳内をのぞき見るに、チベットの山中で遭遇した五体投地の巡礼をする人間を驚く程明晰に思い出した。汚れたチベット服やベルト、頭巾そして分厚い手袋の色までも。手袋はむろん大地に身を投げて尺取り虫の如くに這いずり進む、裸の手を保護する為のモノだ。顔まではっきりと浮かび、仰天した。それは何と奈良の渡辺豊和なのであった。バカな、そんな筈はないと叫びそうになって眼を覚ました。白昼の悪夢である。でも、こんな時に何故渡辺豊和が夢に登場するのであろうか。渡辺は今、思い起こす人も稀であるやも知れぬ。恐らくそうなのだろう。でも、わたしはある可能性の断片として存在し続けている。渡辺の最近の著作はほとんど幻想世界であり、冷徹に眺めればアレは狂気の域である。何故ならわたしにはとても不可能なことだから。それだけはわたしにはできぬ。わたしが銅版画を彫る時、そして変な絵を描く時、その時にほんの一瞬、私の中の妙なモノを実感するが、それはすぐに小さい理性によって封じられてしまう。

わたしが人間の狂気、しかも理性にギリギリコントロールされている極点を視たのは玉川温泉で、末期のガンとなり、それでも一縷の望みを託して湯治治療を試みていた佐藤健を尋ねたときであった。玉川温泉は日本に有名なガン治療の最後の駆け込み寺である。

夜半、わたしも付き合って湯につかり、その強酸性の湯に疲れ切って泥のように眠っていた。フッと何かの気配を感じ目覚めた。佐藤健がフトンの上に座り込み、カーッと眼を見開いて虚空を見つめていた。その眼はギラリギラリと光っていた。やがて、わたしが目覚めたのを察し、わたしを見据えた。射抜くような眼であった。恐ろしい眼であった。眼の光が私を刺しつらぬいた。隣では僧侶の馬場昭道がスヤスヤと眠っていた。あの時、佐藤健の眼は狂気そのものであった。生と死の境に狂気があるのを直覚した。わたしが渡辺豊和を不可思議にも信用するのは、彼が時に眼にそのような気配をみなぎらせる時がある事だ。

彼に狂風記を書かせたい。

九月十七日

昨夜より、世田谷村に一時預かりの血統書付きの犬が来ている。冷房のきいた和室で寝させている。破格の待遇である。わたしの顔を見るとウーッ、キャンと脅かすのである。こいつとは仲良くなれそうにない。たった三日間の仮住まいだから、まあいいやと淡々としている。

それはそれで良いのだが、白足袋の様子がおかしい。三階のわたしの寝床のドアの外にジィーッと座り込んで、どうやらわたしの起きるのを待っている風がある。おまけに姿勢まで正して行儀良さそうにしている。血統書付きの犬がいる部屋をジィーッと見入っているときもある。敏感なのだな。ただならぬ気配を感じ取っているのだろう。しかし、白足袋よ、お前は死に損ないの野良猫であるからこそ、そこから始まっているからわたしは好きなんだよ、と。それぞれの犬猫のこれ迄の小史を想うのである。

325 世田谷村日記 ある種族へ
九月十五日

十三時半M邸現場。十四時河野鉄骨社長専務、M氏、野村と打合わせ。十六時半了。その後、外構工事の下準備。ほぼ出来上った室内でM氏とビールを飲む。信州ソバもいただく。二十一時半了。駅迄送って頂き、玉電、京王線と乗り継いで二十二時半世田谷村に戻る。信州の峠という麦しょうちゅうがきいたようで、すぐに眠ってしまった。信州の峠を越えたら酔界であったというお粗末。

九月十六日

目が覚めたら何と◯時であった。恥ずかしくて記せない。今日は急に寒い程の天気である。涼しさのせいの寝坊という事にしておこう。メモを記す元気もない。何という人間だと俗な自己嫌悪に陥る。

324 世田谷村日記 ある種族へ
九月十四日

十時過京王稲田堤、星の子愛児園にて第2厚生館愛児園長F先生にベイシー菅原正二氏の著作2冊+αを、お渡しする。厚生館福祉会グループの先生方の気持、小さな子供たちに本当に良い音を聞かせてあげたいという情熱は嬉しい。川崎市の幼児施設にベイシーの音の技術の蓄積が生きると良いと思う。十一時四〇分了。世の中に少しは役に立てたかな、わたしでも。

十二時半研究室、小雑用サイトチェック。十三時前M0(学部4年)ゼミナール。十五時半了。十六時過近江屋にて遅い昼食。民主党代表選の結果を向風学校の安西直紀氏から聞く。安西はたちどころに、次の選挙戦に打って出るべきであろう。

二〇時過世田谷村に戻る。今夜も又、WORKを終えてから、何がしかの読書。プラトンのソクラテスの弁明中「アテナイ人よ」のアテネ市民への呼びかけは、そのまま今の時代の日本に通じるな。

九月十五日

昨日の夕刻考えて、ささいな事だけれども今朝から始めた、日記には書けぬ事を、手紙に書く。日記を記し続けサイトにオープンにしていると、友人達とのつながりが薄くなるのを、最近痛感する。

今日も元気にしているよ、と友人達に知らせている積りになっていて勘心の今日は何を考えてるよが上手に伝わらぬきらいが生まれているので。

323 世田谷村日記 ある種族へ
九月十三日

十時半研究室、雑用。十一時、2階学科会議室人事委員会。十二時半了。サイトチェックして十三時過発。十四時過、京王稲田堤現場定例会へ遅れて出席。今日は学科にとって大事な会議であった。

十六時半了。現場で非打放し部のコンクリート仕上げサンプルを視る。十七時過烏山南蛮茶房にてW君の夕食に付き合い。考究中の考えを聞く。あせらず、着々と伸びてくれれば良い。

十八時過了。十八時半前区民センター2F会議室。まちづくり協議会出席。二〇時終了。ひろしま屋でお好み焼きの夕食。二十一時半世田谷村に戻る。石垣島のW先生より連絡あり、十月半ばに訪ねる事を伝える。深夜迄WORK。

九月十四日

七時前起床。今日で民主党代表選狂詩曲の終演である。わたしも小俗人であるから今も小型TVを前にイヤだイヤだと想いながら、思いながらバカなTVを視て、変な新聞も読みふけるのある。そうしている自分が本当に疑わしい。

昨夜も、プラトン、デカルトの古めかしい哲学書を読みながら眠った。勿論訳文であるが、これは読み易く、大仰な事が述べられているでもなく、気持に違和感無く入り込むのであった。TVの論説委員やら新聞人の顔として出演している人物達の言っている知情意の水準そのものとはまるでちがう静かさがある。今度の民主党代表選で理解し得たのは、所謂マスメディア、新聞、TVが実に怪しい情報を垂れ流しているという現実である。

今朝はこれから星の子愛児園に、ベーシーの菅原さんの著作を2冊持参する。先生方が乳幼児に本当に良い音を聞かせたいと願うのに心動かされたからで、これは嬉しい使い走りなのである。

322 世田谷村日記 ある種族へ
九月十日

十四時前銀座で難波和彦さんと会いXゼミの相談。

十六時帰りの地下鉄でも議論する。確かに古めかしい議論ではあるが、これが無ければ建築文化は闇だ。東新宿で別れ、西早稲田研究室十六時過着。雑用。

シンガポールPのT氏来室打合わせ。シンガポールのOver Sea Chineseの資本を相手の仕事である。わたしの30才頃からのキャリアの一部を傾注すれば良いだけの話しだ。キチンとやりたい。T氏も半端でなく頑張ってくれと言明する。十八時過了。

十九時、新宿南口味王にてスタッフと会食。大いにホラを吹く。こんな時代にはホラがいかに大事かと痛感するのである。ホラがホラーになったらホラ見ろとは言われるけど。亡き黒川紀章氏のシンガポールでの大観覧車の仕事を私は好きだ。黒川さんは、友人の李祖原程ではなかったが肝っ玉はデカかったな。私の肝っ玉はめめずクラスで残念なり。二〇時四〇分了。皆と別れて京王線新宿へ。只今、明大前通過。

二十一時過ぎ世田谷村に戻る。

九月十一日

六時前起床。流石に涼しくぐっすりと眠れるようになりありがたい。単純なものだな人間は。八時、Dの絵のメモを記す。難しい、すぐには成果が得られぬのを自覚して、それでやっている事なので読者の関心、無関心には全く関係なく続けてゆく。

藤森照信さんより、茅野氏美術館で今夏開催された「藤森照信展」カタログ送られてくる。世阿弥の言う時分の花かな。

十一時西調布駅前Y酒食品店。世田谷村に十三時前戻り、地下室でWORK。銅版画一点に取り組む。銅版彫りに要する集中力は異常である。

十七時過新宿南口小ビル3Fの味王にて難波和彦さんと会う。Xゼミナールの相談。鈴木博之先生が多忙で顔を出せないので、ここをせんどと、鈴木博之批判を始めそして終る。鈴木さんは強者の悲哀であるな。それでも、Xゼミナールの大筋は視えてきたような気もする。

次回より、「東京タワーとスカイツリー」を中心にして5回くらいやってみようとなる。良いテーマだろう。早速難波和彦さんギュスターブ・エッフェルに関するうんちくをるる述べる。

十九時半了。二〇時過世田谷村。

九月十二日

六時起床。新聞を取りに降りる、ついでに吊り糸にクズの葉のツルをを長い竹棒を使ってからませた。やり過ぎだが、意図通りにツルが絡んでくれないのが、一本だけだが気になっていたのだ。

Xゼミナール、第11信を書く。八時半了。十時過西調布駅前Y酒店。Yさんと打合わせ。ご両親にも京王線立体化に対する状況等を聞く。

十三時烏山北口徳島料理うずまきにてO氏と昼食。まちづくり支援センターについて相談。O氏はある特異な業界に強いのでわたしとは全くない発想を聞くことができる。徳島料理うずまきのランチは安価で上味であるがメニュー数が少な過ぎる。でも一杯の人で溢れていた。

Xゼミナール、町づくり支援センター、Eの絵、他を書く。

九月十三日

七時過起床。何だかクズの葉のツルの勢いが少し弱まったようだ。花の色もツヤが消えた。アッという間に寄生種は枯れるのか。昨夜は小さい字の岩波新書を読みながら眠った。何が目的の読書ではない。何の為に読んでいるのか、もしかしたらただ時間をつぶす為の事かな、コレワ。TVの報道番組の存在価値と同じではある。ここ2週間程の民主党代表選挙に対する新聞、TVの報道は怪異としか表現のしようが無い。無くても良かった。情報自体の空白の2週間であった。

こういう馬鹿な事が歴史には発生するのか、を実見したのである。

321 世田谷村日記 ある種族へ
九月九日

京王線車中でバッタリ西調布のYさんに会う。彼は階段をすべり落ちるという事故に会い、ようやく松葉杖で苦労しながらも歩けるようになった。大変だったねと言ったら、エエ大変でしたとの事。人間何時何が起きるか解らない。

突然この人に町づくり支援センターの事業を一部引継いでもらおうかのアイデアが爆発した。立派な酒食品店のオーナーの長男だし、頭も良い。コンピューター操作も適確であろう。というわけで、常陸太田市観光物産協会の佐藤賢一さんから、丁度世田谷村地下に届いていた常陸太田地場産品の、水戸納豆、秋そば、うどん等を売ってくれないかと話す。

常陸太田市の話はこのアイデアからスタートさせよう。町づくり支援センターも再び陽の目を見せられるかも知れない。

そば、うどんに関しては実際に食べてみて、本当に美味であったらサイトで紹介したい。新宿駅でYさんと別れて研究室へ。

シンガポールPの打合わせ、他雑用にて過す。プレゼンテーションのシナリオは作成した。どれ位、突込むかの判断が大事だ。シンガポールのT氏と連絡。明日、帰日するので夕方研究室で打合わせとする。バウハウス大学よりゴードン・セルバッハ来る。来週よりシンガポールPに参加。

メディアフロント、川床優さんより、「漱石とデザイン」メディアフロント発行送られてくる。若い時に夏目漱石が建築家志望であった事を知った時のチョッとした驚きを、時を経て思い出し、考えている本である。若い人へのメッセージであるとの事だが、この本は50代以上の年令の者に何かを訴えている本だ。それは決して悪い印象ではなくて、川床さんが初心らしきを思い起している姿がほうふつとするのである。

非売品とあるが、入手可能かも知れぬ。メールアドレスを記す。

toko@ray.ocn.ne.jp

遅い昼食をとりながらスタッフと雑談。我ながら余り新鮮な話しも出来ず残念である。しかし、日々新鮮でいるのはまことに難しい。

十九時世田谷村。私用の後、WORK。二十二時半横になり、スタッフからすすめられた村上春樹の本の分析本新書を読むも、入れず。

しかし、中途半端はイヤで通読してしまった。三時間弱を捨てたな。

書物というのは変なモノで、読んですぐに身につく何者かが棲んでいる事はない。生活の実体験があって、その体験を整理する為の知識、解析力を得るためのモノであるようだ。勿論、わたしの場合はである。

九月十日

六時起床。涼しい。今日は天気予報は再び酷暑のようだが、空は曇ってその兆しはない。天気予報が外れると、嬉しい。台風が去り、再び酷暑だと覚悟していたら、オヤ曇りだ有難い。予報外れて嬉しいとなる。人工衛星から地球表面の雲の状況、気温等が正確に観測されるようになった。地球の自転する運動に変わりはないから、予報の確率は上がるに決まっている。

しかし、その予報がこうして外れて、わたしはそれが嬉しいという現実がある。予報が無ければそんなに嬉しくはなかったろう。

すなわち、科学技術による普遍に少しのひずみが生じた時にそれが嬉しいという、わたしの現実がある。

送られてきた、ひたちやの生うどんと水戸の納豆を食べる。

歯ごたえが独特である。納豆うどんにしたので納豆の味が良くまだ解らない。これは白いごはんと一緒でないとわからない。

かなり真面目に食してしまった。あと二、三日続けて、わたしにはうまいとか、普通だとかを言明したい。ただ、うまいと記したって誰も信用してくれまい。

庭のクズのツルが一気に花の数を増やした。やはり水気を得て咲き狂った。梅の樹も、クスの樹も、月桂樹も皆クズの花が咲き誇っている。変な光景だ。決して美しいとは思えない。

しかし生命力は溢れている。寄生の風景である。梅の樹の葉はすっかり精気を失ってしまった。だからこそこのクズの葉をうちの鉄材にどうしても自然にからませてみたい。鉄材に花が咲く光景を視てみたい。今年これだけの花が狂い咲くと、来年はどうなるのか、楽しみなような、恐いような。昨年はクズの葉が東の隅の部屋に侵入して葉を茂らせて、ビックリして切ったのだが、あれを切らなかったらどうなったのかな。植物と建築が混在するような光景が視られたかも知れない。

ブルース・ガフの植物愛好家の家の真意を問うてみたかった。

320 世田谷村日記 ある種族へ
九月八日

九時四十分発。十時世田谷区役所烏山支所、まちづくり課。第一住宅団地跡地(わたしが勝手にモヘンジョダロと呼んでいる場所)の通り抜けに関して相談。すぐには良い知恵も出ない。ゆっくり、しかし引かずにやりたい。十一時半了。

雨の中を歩く。身体がうまく水気に反応していないのを知る。私用にて過す。

今週に入ってから、こんな事は書くべきではないが、どうやら疲れが少々吹き出ている感がある。ようやく夜は涼しくなったので今日は爆睡させていただく。

九月九日

地下室に降りなくても、ようやく涼しくなったので三階の仕事場でWORK。

疲れは少しは取れた様な気もするが、わからない。一夜眠って取れるようなのは疲れとは言えぬような気もするし。脳の瞬発力はまだそれ程に戻ってはいない。大きな旅をする時には大方、一週間に一度は完全休養日を設けるのが常だった。アナトリア高原でも、ペルシャでも、インナーヒマラヤでも。一日中宿舎で沈没していた。TOKYOでの生活とはまるで異なる境遇であるにもかかわらず、やっぱりひどく退屈であった。そんな時には中公文庫の世界史とか、日本史を読みふけったものだが、それでも退屈であった。窓の外には異国の風が吹いていようと、退屈であった。退屈は辛い。わたしは苦手だ。

死んでしまった榎本基純さんは実に退屈に強い人であったなあと、強く思い出している。

早朝に記した絵解きのメモにそんな記憶を書きつけたばかりである。彼はわたしの事を本当にジィーッとしている事が出来ぬ人間だなあと、観察していたのだろう。

わたしは一処にジィーッとしていると恐怖を覚える位の非熟慮型の人間であった。しかし、流石に年を経て、人並みに体力も落ちて、気持ちも身体もうごめいてばかりいる事もままならず。仕方なく、定点観測の如き、かくなるメモを記し続ける迄になった。記録というのは自身の足腰が弱まったことの補完物なのだな。

319 世田谷村日記 ある種族へ
九月七日

十五時出先よりベーシーにTEL。川崎の幼児施設のJBLのアプリケーションについての依頼。当然、ア、イイヨなのだが、この先が難しい。達人のイイヨが皆のイイヨとちがうのを誰が知ろう。これはシンガポールのProjectのC.Y.LEE、李祖原のノープロブレム、OKの言と同じなのだ。達人は万国共通である。国境は平気で超えてゆく、しかし、我等凡人はそうはいかぬのだ。研究室に、京王稲田堤プロジェクトの平面と主要断面をベーシーに送るように指示。世田谷村の地下をベーシー状態にしたいのだが、わたしは難聴の耳ナシ芳一であるし、金もない。でも、いずれ完全なツンボ状態になったら、地下を菅原に頼んで最高のオーディオ・ルームにするのだ。聴こえなくても空気が震えているのはわかる。

夕刻、第一住宅団地前でバッタリO氏と会う。彼もここに関心を持ち写真で通り抜け禁止の掲示を記録していた。明日区役所に行くので、少々の打合わせ。

夜は、諸々のWORKのスケッチ他。二十三時、ソクラテスの弁明を読み一時頃自然に眠りにつく。プラトンの本は眠りを誘う。文体の速力がゆるい。のんびりした時代であったのだ。アテナイの市民の数も肉声で全てを話し合える程に少人数だった。今は大半の交信がメールになった。この交信にはほとんど生身の人間の情動が入り得ないのでエネルギーが必要とされない。ソクラテスもメールがあったら意地を張って自死する事もなかったろうが、それでは哲学自体が生まれようがなかった。哲学の領土は肉声の国だな。

九月八日

夜中に二度程目がさめて充分な眠りがとれなかった。

朝、久し振りの雨である。庭の緑がしっとりと葉に露を乗せている。北のモーターによる可動窓も沢山の雨のしずくを落して、涼し気である。猫の白足袋も、南の縁先に腹ばいになって降る雨を眺めている。奴も一息ついてホッとしているのかな。この猛暑の記憶は白足袋の中にも積み重ねられてゆくのだろう。白足袋は何故か世田谷村から出ようとしない。それ故同族の友人、知り合いは無い。で、野生が抜けて少しずつ人間に慣れてきている。何しろ、わたしに身をすり寄せてくる事がある位だから、変だ。ヨセヤイと言いたくもなる。

そのクセ、こちらも時たま、抱き上げてやろうとしたりすると、サッと逃げる。恐らくはそんな状態のままの明日、あさってであろう。

庭のクズの花、小さなブドウの房のような花を咲かせている。おおよそ百位の花の房が宙に浮いている。それを二階の床から眺めている。

地面は恐らく暗くて人は入り込めない。入り込もうとして何度もころんだ。

318 世田谷村日記 ある種族へ
九月六日

十二時過京王稲田堤、建築現場定例会。酷暑が原因なのだろう、工事は少し遅れ気味。現場にスプリンクラーで露をまいている位に厳しい。日本人のいわゆる勤勉さ等は、モンスーン・シェルターに守られた程良い気候から生み出されたものだったに過ぎないか。こんな暑さの中で外で働く職人さん達は超人的だと言うべきなのかも知れない。

十五時前了。烏山で遅い昼食を取りながら、W君とシンガポールPの打合わせ。研究室Pのチョッとした話し合いをする。

十六時半了。小休の後私用にて過す。深夜迄、いくつかのプロジェクトのスケッチにて過す。

山本伊吾「夏彦の影法師(新潮文庫)」読みながら眠りにつく。稀代のコラムニスト山本夏彦の死後残された50冊の手帖を基に書かれた本。最期の時の闘病記を生々しく読めるのが不思議だ。山本夏彦さんは生前から自分は死んだ人だと言い張った人だが、やっぱり生に対する気力は凄惨なものがあったのだと知り、何故か安心する。宿命とか従容として死に対面するというのは人間としたら、どうかなと思うのだ。この本も七年前出版されたものの、文庫本でやはり古いのであるが、本というのは古いモノ程良いモノなのかも知れぬ。人は亡くなっても本は生き残る。プラトン著「ソクラテスの弁明(岩波文庫)」併読、この本は1927年出版である。プラトンが描いたソクラテスは山本夏彦と重なります。本当に。

九月七日

六時半起床。日経新聞「私の履歴書」を哲学者木田元先生が連載している。面白い。高山建築学校(Xゼミナール参照)で何年にも渡ってお目にかかっているので、わたしなりの木田先生の実体と書かれている内容がダブって奥行きが生まれる。木田元の記憶を介して文章を読むから、ゆっくりとした演劇を体験しているようなものである。九時過発。烏山駅前の裏通りのパチンコ屋、今はパーラーと呼ぶらしいが、若者が長い行列を作って、大半がケイタイでメールを打ち合っている。学生だろうが、パチンコとケイタイ、メールはヒマつぶしなのであろうか。

只今、桜上水停車中。今日は耐えられぬ暑さではない。明後日には雨が降ってくれるようである。亜熱帯気候なのにスコールも無いのは辛い。空海でもアメンホテップでも誰でもいいから雨乞いさせたい。

十時過研究室。シンガポールP打合わせ。24日〜26日はシンガポールF1レースがあるので、その間のプレゼンテーションは不可との事。F1レースはそれ程のものなのか?

耳管之宮庭園の旅 千夜千洞記

@

メリーランドのかたつむり、を作りなさいという謎を、与えられました。与えた本人は今はこの世には居ない。ですから、この謎はわたしにとっては解きようのない?になりました。

三〇数年前、今の二〇代の若者にとっては、生まれる以前の話しですが、その頃、わたしはひとつの大きくはないが、決して小さくもない庭園づくりの依頼を受けたのです。その時に、依頼主であった榎本基純さんの、短い言葉、メリーランドのかたつむり、という名前の庭を作って欲しい。千八百坪、すなわち50000Fの土地を、梅林を中心とした庭としてデザインせよ、のオペレーション。それを決して忘れてはいないのです。

榎本基純さんはわたしが大昔に作った幻庵という、ブリキの茶室のオーナーです。

で、これからしばし、千夜程、その亡くなってしまった人間の言葉に導かれて、千夜一話の空間に入り込んでゆきたいと思います。

317 世田谷村日記 ある種族へ
九月四日

十一時半松陰神社前M邸現場。河野鉄骨社長、専務と打合わせ。十二時渡辺参加、外構工事について打合わせ。炎天で外の芝生に座り込んでの話し合いであった。十四時半迄。近くのソバ屋で渡辺君とシンガポールプロジェクトの打合わせ。大きな仕事なので李祖原とのコラボレイションにした方が良いと決めた。十五時半了。私用を経て、夕方遅く世田谷村に戻る。

夜、アニミズム紀行7のエスキス。6ではなし、7です。6は途中で意図的に休止している。アニミズム紀行5の続きを読みたいという人が多くはないが居るので、工夫してみようと始めている。

シンガポールPのスケッチ続け二十三時了。

「'70s 寺山修司」世界書院2004年読む。宮台真司が寺山の後継者を自ら任じ、モダニズムの典型は泉鏡花、江戸川乱歩であると言明している。共同体の闇と可能性の光に引き裂かれているのがモダニズムだと言う。寺山修司の活動はモダニズムとしてのものであったのか?そんなに単純ではないだろうけれど、気を付けなくてはならぬのが、思想、文学で論及されているモダニズムと建築思潮で言われているモダニズムの間に大きな距離が在る事だ。建築思潮で言われていると言っても、今現在続行しているのは難波和彦くらいであろうから、これは難波さんの言うモダニズム定義の問題にもなるだろう。

同時に、ポストモダニズムの問題にもそのまんま連結するだろう。思想、哲学の世界で使われるポストモダーンと建築思潮で言われたポストモダーンの違いは、いまだに整理されてはいない。

モダニズムの定義で一番気をつけねばならぬのはワルター・グロピウスのバウハウス運動からのモダニズムと日本に於けるモダニズムが混濁されているのではないかと言う事である。

九月五日

福知山動物園でサルとイノシシが仲良く暮しているのが報じられていて実に嬉しい。共に親を失くしたサルの子供とイノシシの子供が、苦労の末に共に暮すようになり、今ではイノシシの背中にサルが乗って走り廻っている。サル、イノシシ共に良いが、飼育係の年長のオジサンが更にとても良い。

小ザルが夜、飼育係が帰ると泣いてないてネエ。さびしいんだろうね。

でもそれではいけないと思って、小さいイノシシを小さいサルと一緒に寝させたの。最初はダメだったんだけど、今じゃあね、うまくいって、イノシシがサルを背中に乗せて歩くようになって、夜も一緒に寝てるよ。両方ともオスなんでね小ザルははいいイノシシ兄ちゃんを持ててね、よかったよ。

いい年をした飼育係のオジさんは実に人間として輝いている。

今朝は曇りで、暑さが来るのはおそいのか。日曜だからマ仕方ないとTVを視ながらメモを記す。どのチャンネルに切り代えても、大半が民主党代表選、小沢VS菅の、それでも良いのは本人同志が直接対決している。わたしは政治の事に、こんなメモ程度でも口を挟める程の知見を持たぬので差し控える。それで人間そのモノを視るなTVでは。ライブだから。

人間としたらTVで視る小沢一郎は面白く、菅は極めてつまらぬ男だ。福知山の飼育係のオジさんが人間としたら一番だけどなあ。

八時小休する。シンガポールPを練り上げる。休日ではあるが十時前にスタッフと連絡。シンガポールの現実に対する対抗案を考えてみる。

十二時前作業を休む。午後、私用。

十九時、耳管之宮庭園の旅・千夜千洞記01ドローイングを描きメモを記す。メリーランドのかたつむりの展開である。又、しばらく日記が混乱するだろうが、しばらく経れば落着くだろう。

二十一時半、台北の李祖原とようやく連絡がとれて、相談。提案はOKとなる。

九月六日

六時過起床。八月に世田谷村の月下美人が何輪か咲いた。一輪を除いて殆んど記憶がない。暑さでわたしの方に月下美人の姿、香りを楽しむゆとりが無かった。月下美人の花の名は掘口大学の月下の一群と同様に日本的抒情の極みだろうが、やはり暑さには敵はない。花より団子である。面白いもので、月下美人は一夜だけ咲き誇る、その短時間の姿は実に美しい。あざとい程のものだ。香りも馥郁として深遠沈潜人間の理を麻痺させる如くの風がある。花は少なからず皆そうだけれど。しかし、一夜咲き誇り、アッという間にミイラの如くにしなび、しおれる。宙空に化石状のヒモが吊り下がっているだけの状態になる。この落差が凄い。

わたしの子供(小学生低学年)の頃は、夏の花はと言えば朝顔だった。あるいは原っぱの夕顔であった。

耳管之宮庭園の旅 千夜千洞記

Travel to Ear-Palace Garden

Thousand Cave Story

01.

さて、庭を巡る人間達。不思議な事にそれだけは深い井戸のような探究心のようなもの、庭園に対する万人の夢の一様な鑿井(さくせい)力に魅かれての旅を始めてみる。

わたしの、一度は亡くなった友人たち。例えようもないインスピレーションを与えてくれた人たち。創作に秘密なんてあるわけもない。ゾクゾクする程面白いモノを考えられる時は皆、誰か他人が素材を与えてくれる。そして、その多くは亡くなった人達。つまりは死者達が何か素材を与えてくれるものだ。

今までも、そうだったし、これからもそうだろう。

昔と今、そして、もしあるとするならば明日、それは、わたしの中では順不動に並列されているが、それがある時、竜のようにうねり始め、らせん状にとぐろを巻き始める。そして、その巻き始めたとぐろが、あるチャンス、きっかけをこれも又、他人から与えられた時に、別の断片を生み出し、それがアイデアらしきに結晶する時もあるし、闇のまんまな時もある。形にならずに、まとまりのつかぬ断片の数々になる方がズーッと多いだろう。

それを図像の連続として表わしてみたい。メリーランドのかたつむりがわたし自身のつくる気持を何処に連れてゆくのかは知らぬ。つくるというのは、どんなモノでも決して個人的な欲求ではあり得ない。かくの如き、私的な作業に見えるモノでも必ずそこには他者がいる。

メリーランドのかたつむり。幻庵主榎本基純が残したわたしにとっての謎。「メリーランドのかたつむりという名前の庭園をつくりたいのです」。もう30年を超える昔の事だったけれど、その言葉が日々刻々と新しい今である。

316 世田谷村日記 ある種族へ
九月三日

十一時研究室、OB来室他。十二時研究室ゼミ。少しずつ成長しているのが心強い。ベーシック来室、O氏来室が重なる。韓国LEDメーカーとの打合わせ段取り。LEDの水耕栽培へのアプリケーションをチェックする。シンガポールのプロジェクト九月二十日にシンガポールにてプレゼンテーション決定。忙しくなりそうだ。十七時半O氏と打合わせ続行。韓国企業の急伸を実感する。今度のシンガポールのプロジェクトはわたしの仕事の系列では実施設計まで終了して、しかも実現出来なかった横浜Gモールの都市内風水発電計画をより進化させたものになる。アラブ諸国を含めたグローバリゼーションの、まさに渦中のプロジェクトである。この手の仕事は研究室という一見、激烈な現実から凹型に陥没したような場所は向いていないと考えられようが、別の視点から世界を視る事は可能なのが我々の強みである。二十一時世田谷村に戻る。

九月四日

今日も朝から猛暑。こう狂々しい天候が続くと人間は妙に深い気持のうちにある種の超越的な意志らしきの存在を感じてしまうものなのだろう。Xゼミナール、難波和彦さん10信をじっくり読む。面白いもので1950年代のコルビュジェの理解がわたしとは異る。そのあたりはXゼミの核心の一つになりそうなので、ゆっくりと、ゆっくりと交信を続けたい。

クズの葉のツルが家に迫る速力が少しにぶった。ツルもさぞかし暑くて疲れたか。クズの葉の花は実に南の島の紫や赤が混じり、美しいのかグロテスクなのかの境界線上に在る。勿論、こちらの気持がその感じ方に反映されているのだが。

315 世田谷村日記 ある種族へ
九月二日

地下で採血、採尿して九時二十分四階の検診ロビーへ。この待ちの時間が長いのである。少なからぬ知り合いも、このような時間を過していると思われるが、皆さんこんな時々は何を考えているのかな。こんな時に、活路を切り開く体のアイデアが生まれるやも知れぬし。でも現実にはそんな事は起りもせずにベンベンたる時を流すだけなのである。それにしても待合ロビーの人の多さよ。

世田谷村の構造は基本的に四本の鉄柱で屋上庭園スラブを持ち上げ、そこから二枚のスラブを吊りおろしている。圧縮と引張りを視覚的にも明快に表現している。ここ迄はR・B・フラーの4Dハウスのモデルを基本的には借用した。

今朝、その多くのテンション材にクヅの葉のツルがからまるのを眺めて、テンション材にはツルがからまりやすいのを知る。

ハイテックにはグリーンが似合うのは感じていた。グリーンではないなコレワ。寄生植物を必要としているのだと考えたい。R・B・フラーの4Dハウスには寄生植物が必要とされている。人間のための構造物としては。寄生植物の研究と寄生する対象の適否の研究等すると、生産論的建築が生態学的建築に一気に進化する。宇宙船のはやぶさの機構のはかなさ、蚊トンボのような弱々しさは、建築イメージとしては学ばなくてはならぬものだろう。

特に日本産のテクノロジーイメージとしては出色なものであった。

あれに、宇宙に漂流するにちがいない寄生アメーバ、ガスでもあるか、がまといつくイメージだろうか。つまり、ハヤブサがそれによってコケだらけになって漂うイメージが建築の、純粋建築、原理的建築の行方である。

十一時了。数値が悪い。でも、ビールでも飲まなければやっていけない夏ではある。ビールくらい止められないのかの問いには、ビールくらい飲ませてもらいたいと答えるようでは、医者としても、どうしようもないのかも知れない。

昼、世田谷村に戻り、地上階、つまり地面の上に立ち、庭の狂暴な程の樹々、そしてクヅのツルの廃園状を眼前に、ただただ立ち尽す。というと格好良さ気なのだが、ビール本当に止めるとしたら、いつ止めようか、しかし止めて数値は良くなっても人生良くなるわけじゃあるまい等と考えている。それに今夕は友人と会うし、友人と水呑みながらはあるまいしね。しかし、いずれ水呑みながらになるのだろう。

十八時近江屋。十八時半、難波さん、やがて鈴木博之さん現われてXゼミ。二人に、トマトソーメンチャンプルペペロンチーノ的近江屋の新メニューを喰べていただく。概ね好評のようであった。

十九時半、池袋の魔崖ワインBARに移る。相変らず、ここに来ると鈴木さん好調で、二、三当を得た批評を当てられた。参考にして前進したい。Xゼミとしては、一度小旅行をしてその旅行記を三人三様で書いて、コンピューター画面ではなく、古いペーパーメディアで出版しようとなった。アッ、そこ迄話してはいないんだけれど、又、そうなるだろうと考えた。

二十三時世田谷村に戻る。

九月三日

五時半起床。朝の冷気が部屋に吹き込み通り抜ける。地下室へ。寒いくらいである。昨日、Xゼミの会合でこのサイトの誤字脱字意味が通らぬ部分が最近多過ぎて、コレはみっとも無いよと指摘があった。今日から対応したい。三球四脚に関しても上手く伝わっていない。全体の枠組みを示さなければいけないのだろう。これも対応したい。でも進めたい。やはり、自分でキチンとコントロールしないと恥をかくのを知った。身近な友人の批評は有為極まるのを知らしめられた。油断大敵である。

Xゼミの秋の目標はペーパーメディアでの出版に向けたものになるのではないか。アニミズム紀行6を書く。十時小休。

314 世田谷村日記 ある種族へ
九月一日

朝、淡路島の山田ハンに電話したら、流石に暑いなであった。彼は得度していて別に俺はもう死ぬのなんて全く恐ろしくないからなあと言明している。死んだ佐藤健もわざわざ、もう駄目かも知れないと覚悟した時に死ぬのは恐ろしくないのだが・・・残念ではあるとワザワザ伝えてきた。奴も得度していた。人間は皆猿よりも少し長生きするだけのモノだ。

生死を問わず言えば、彼等は実に仏教的人間である。仏教的人間の中心(気持の)は無である。それ故に彼等は死は恐ろしくないと言えた。だって、もともと無なのだから、それに帰するというか、流れ込むだけだと直覚している。山田は本能から、佐藤は学習によって無に帰した。今日の新聞に哲学者の木田元の連載記事が始まっている。木田元先生も山口勝弘と同じ八十二才だそうだ。哲学者達は少なからず知らぬでもないが、日本のそれは多くが実践的宗教者の強さに届かぬ事が多いように思う。

実践的宗教者とは、オッとビックリ山田ハンの事である。このところ酷暑で相当に脳にダメージを負ったと自覚しているけれど、山田ハンを実践的宗教者と言う迄になったら相当に重傷である。もうダメかも知れぬでも、山田ハンは念仏聖である。「カワラ、カワラ、カメラ、カメ、カメ」と念仏を唱えながら全国を遊行して廻っている。あれをカワラセールスと思ったら、大間違いで、アレは遊んでいるのだ。より正しく言えば遊行して回遊している。あの人物は実に現代に稀な、実に実践的宗教者なのだ。勿論、属する処は最もいい加減な禅宗である。仏とはクソカキベラの類である。山田ハンは得座名、大円である。佐藤健の居士名は自業自得大明王である。何処かの本山から大明王の大は外せと言われたらしい。

自業自得小明王、あるいは小天鬼位が良かったかも知れない。

ところで、その山田ハンの写真集、山田脩二「オデッセイ」2010年宇宙の旅ならぬ日本旅が売れているらしい。まことに喜ばしい事である。白黒写真ばかりで古臭いなんて言う人も少なくないらしいが、それはただの無明の愚衆であるから眼をくれる事はない。そういう人は要するに品が無いだけだ。山田ハンの写真集が売れる事を心から祈っている。皆さん買いなさい。御利益があるよ。何しろ、山田ハンはクソ坊主なのだから、御布施だと思って、役に立たぬが花だから買いなさい。死んだら、山田ハンが何処かで念仏唱えてくれるでしょう。いずれ、わたしも三球四脚の手を引いて円空上人まがいの雑貨商巡礼の旅に出たいのだが、勇気が無いのだ。山田ハンみたいな。

十一時研究室サイトチェック。スタッフと全体打合わせ。その後、細部にわたる打合わせ。絶版書房、アニミズム紀行のゆくべき方向の話しや、そろそろ倉庫にストックされ始めた三球四脚の展開等、仲々の打合わせである。十六時前昼食へ。近くの新しいコーリヤ料理屋へ。腹一杯喰べる。十七時半了。十八時、只今明大前通過中である。

十八時過世田谷区烏山区民センターにて、町づくり協議会会合。二十時半迄。寒々とした議論であった。どの世界にも意見の相違があるが、ここにもあるのは当り前であるが、町づくりコンサルの立ち位置が全く不明。都市計画の分野にはこのコンサルという存在がつきモノである。町づくり協議会というミニ市民社会と行政を結ぶ役割を任じるが建前なのであろうが、そういう役割のプロフェッションが日本的市民社会に於いて可能なのか?大いに疑問である。個々の才質の問題ではない。行政のシステムに完全に組み込まれたコンサルという機能が疑問だ。

九月二日

七時起床。クヅのツルの葉はますます家に攻め込んできている。九時前、杏林病院へ。今日は私の定期検診の日である。

8月の世田谷村日記