11月の世田谷村日記
357 世田谷村日記 ある種族へ
十月三〇日

十一時前私用。十二時地下スタジオ李祖原、T氏会談に立ち合う。

十二時半、古市徹雄氏企画の学生コンペの審査。李祖原も参加する。隈研吾等と会場で会う。

地下スタジオに戻り、WORK。十五時前、新宿、小松庵で李祖原、鈴木博之さん会談。十六時難波和彦先生加わる。十八時前、新宿南口味王にて難波先生とコーラン研究の相談。味王開店前に店に行ってしまい、玄関前の階段に座り込み、仲々、良い話を難波先生と交わした。今迄で難波さんと持ったベストな時間であった。話しは階段に座ってが良い。

二十一時前、味王を去り、二十二時頃世田谷村に戻った。

十月三十一日

昨夜の酒が残り、反省又反省。烏山神社に参り、十一時半地下スタジオへ。M邸見積りの件等打合わせ。十三時前李祖原来室。打合わせする。十三時半新大久保近江屋、古市徹雄さんと会う。十四時過、向風学校代表安西直紀と李祖原打合わせ。

安西直紀、ここ一年の活動の一部を李に報告。

変な組み合わせではあったが、李、安西、古市諸氏と歓談。

その後、古市ブラザース参会。興味深い集りとなったが、無益なような気もしないではなし、秋の暮。若者はすべからく自分と厳しく対面すべきだ。

十七時半、新宿南口味王に安西直紀と移り、じっくり話す。

安西は成長したな、短時間で、以前のバカ状態を完全に脱し始めている。今日生まれた李祖原とのプロジェクトの一端を彼に任せてみる事を決心する。私の、バカは死ななきゃ直らないプロジェクトである。北京オリンピックの際に発案した中日友好ブリッジ(橋)計画なのだが、もう一度トライする。

バカはこりないのである。安西もわたしに輪をかけたバカだから、突破できるやも知れぬ。ダブル、バカターレだな。

二十一時半了。安西と別れ、二十二時半世田谷村に戻る。

濃密な日曜日であった。

二十三時半、バッタリ眠る態勢に入るも、眠れないだろうな、こんな日は。

356 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十七日

烏山神社参りして、大学地下スタジオへ。十時過ぎ、市根井さんが待ち構えており、家具の打合わせ。原寸の試作品を持ち込んでくるのでウムを言わせぬ打合わせである。2つの試作品を討議、打合わせ。一球一脚は面白くなりそうだ。少しずつ売れたら良い。

市根井さん地下スタジオで大工を開始。それをみながら学生の製図を見る。十二時半井上フェローシップゴードン面接。十三時人事小委員会。十四時過教室会議。途中で抜けて、再び地下へ。ニコラス、ゴードンのWORKを見る。キチンと仕上げてきた。仲々やるじゃないか。

市根井さんとの打合わせも続ける。合間に学生を見る。ニコラス、ゴードンに学生のクリティークをさせてみたら案の定仲々の事を言う。TAとして充分な能力を持つ事を知る。明日早速公式にトライさせてみる。十九時半市根井さんの車で地下スタジオを去る。土砂降りの雨だ。二〇時過、烏山宗柳で市根井さんと夕食。市根井さんは47歳の大工さんだが、良い弟子を持ったものだ。大事に育てたい。

「あなたは何歳くらいから他人の言う事がわかるようになりましたか?学生の中には、いまだに全く聞く耳を持たないのがいるんだけど」

「イヤー、わたしはギリギリ35歳くらいでしたでしょうか。A3ワークショップで鈴木博之先生の模倣論ってのをのを聞いて、オヤ、自分とはちがう人がいるんだと気付いたような気がします」

「そうだったっけ。鈴木さんワークショップで模倣論やったな、たしかに」。

十月二十九日

朝から白足袋が絶叫するので目を覚ます。パジャマの上にコートを羽織って、自転車でコンビニへ。猫のペットフードを購入する。ヤツが。空腹でヘタったら、やはりわたしの責任だものなあ。

今朝は、カツオ節入りマグロを買ってみる。ヤツは嫌いなモノは見向きもしないから。用心せざるをえない。結局、ヤツとの戦いはわたしの方がジリジリと押されているのは歴然としているのだ。

戻ってカンを開け、皿にあけたら、これはムシャムシャとよく喰べた。畜生奴、カツオ節入りが好物だったのか。隣りの皿の本物の、安良里の漁師ハンマから送られてきたサンマの生身の小片には眼もくれぬのである。 こんな風景ハンマが知ったら怒るぜ、絶対見せられないなと思う。しかし、こうやってサイトに記せば、藤井晴正ははるか北海道沖、オホーツク海近くの洋上で、このサイトを読んでいるにちがいないので、やっぱり怒るだろう。来年のサンマはもう来ないかも知れぬ。しかし、ハンマよ、これは仕方のない事情でこうなっているのだ。許されたし。他のサンマは皆、家人の友人がクンセイにしてくれて、保冷しているので悪しからず。と頭を下げる。

バカヤローと白足袋に声を掛けたら、プイとあっちを向きやがった。

今日からは、台北より李祖原が来日するので、忙しくなる。

355 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十七日

六時四〇分起床。九時半烏山神社に参る。我ながら良く続くな。烏山神社がイスラムのモスクの様式であったり、神学校のスタイルであったりしたら、良いのになあと想ったりする。建築教なんだな、きっと。わたしは。神社の本体でもあろう空虚の強度に於いて神社の示す空虚と、モスクが示現する空虚とは、やはり強度が異なるんだよネェ。天皇制とコーランの違いだろうコレハ。と乱暴きわまる感慨にふける。なにがしかの人間の健康を祈る。わたしごときが祈っているのだから、祈られている人間は長生きするに決っている。

十二時京王線稲田堤、建築現場。二階迄建ち上った躯体をみる。不思議なもので、1600平米程の小さな建築であるのだが、この建築は良い建築に仕上がるだろうという感触を得た。この感触がないと、実は生きている甲斐はない。もしや、名作を作れるかもしれぬという、うぬぼれだけを信じて生きているんだから。

生まれて初めてのプロポーションの枠内で色々と努力を重ねている。鈍重なプロポーションは、すなわち都市そのものの不自由さから生み出されるものだ。わたしは、これ迄、自然の中で、あるいはゆるい都市性の中で自分のプロポーション感覚の中でモノを作ってきた。この建築はそれとは全く異る条件の中で作っている。わたしの自由はほとんどない。ほとんど全て、即物性とも言うべき都市そのものが規制してくる。予算も、大きさも、様々な機能も。その中で、今、ようやく半分程建ち上りつつある立体の、恐らくは来年の三月には出来上がるだろう、姿は一生懸命な姿を示すモノになるだろうと考えた。

これはイイ建築になるかも知れない。

ほとんど、わたしの自由は封じられたからこそ、その中で必死にあがいた。その力がじわりと表現される可能性が大きいと予感した。

十二時半、馬淵建設現場事務所で小休。十三時定例会議、理事長をはじめとする多くの方々と打合わせ。

十八時半修了。二〇時烏山宗柳にて夕食。このところ満足な白飯を喰べていなかったので、メシをひたすら食べた。

まあ、何とか、いい建築を建てられるかも知れないと思ったので、それだけで嬉しくて、食もすすんだ。二〇時半世田谷村に戻るも、ドリトル先生動物園倶楽部事務猫白足袋は、バカモノ。カンづめの魚ではなくって本物のさんまなのに喰わんのか、のバカ者振り。イヤハヤ、猫と設計製図のあの一部の聞く耳すら持たぬ学生を一緒くたにしてはいかんが、どさくさにまぎれて同一視する。白足袋の無能振りは狂おしいモノがあるなあ。ウチの猫はバカだ。大バカ者である。あくまで、ウチの猫です、コレワ。

建築の面白さは、実に多くの人間の力が集結するところにもある。クライアントの集団や施工の人々の力、その他諸々の力が、ひとつの方向を目指した時に、良いモノが出来る。そのチャンスは実に一筋の糸程のモノだ。この建築の現場も、その一筋の糸に、よじれてまとまると良いのだけれどナア。現場の多くの職人さんの力が欲しい。わたしもその一人である。

十月二十八日

五時起床。メモを記す。シーンと冷え込んで気持良い。良い建築が作れそうなので、仕切りに銅版を彫りたくなった。わたしの銅版彫りに登場する建築や鳥や樹は実にコの世のものではない。と早朝から気味の悪い事を言う。さりとて、あの世のモノでもない。この境界の細い糸を彫り込んでいる。

アニミズム紀行6も書き続ける意欲が湧いてきた。この紀行だって、何層ものフィールドを旅している記録だ。千夜千洞記はそれを端的に示している。それ等がバラバラになったら意識も壊れるのだ。このメモも銅版画も全ての無駄に視えるメモの群も建築作り、家具作りも、細いけれど糸で結ばれている。

今日は色々とやらねばならぬ雑事が山積している。合理的に動きたい。五時三〇分再眠。うまく起きられると良いのだけれど。

七時四〇分再起床。あつい朝風呂につかる。浴槽は青森ヒバで作ったので、古くなっても体にやさしいような気持になれる。うちの浴槽の背中部分はゆったりできるように角度をゆるくつけて倒していると自慢したら、友人のSがオレの浴槽はただの四角が良い、君にはプラトン的思考が欠けていると(私流に翻訳してはいるが)言われて、考え込んだのをゆっくり風呂に入る度に思い出す。

風呂くらい楽に入らせてくれと言いたいね。

白足袋が床に置いていた本の中から、私の書いた本を選んで自分のツメを研ぎやがった。おかげで私の本はボロボロのツンドラ状態、無残な荒地状になった。床に本を置いたまんまにしていた私が悪いので、白足袋を怒るわけにもいかない。しかし、何故、私の本だけを選んだのか、このヤローと爪を研ぎながらわたしの顔をみているヤローの眼を眺めている。心なしか、ニヤリと笑って、これ見よがしに本で爪を研いでいる。

念の為に他人が書いた本をとなりに置いてみると、振りむきもしないのである。明らかに、このヤロー奴は私にあてこすりの為に、私の本でまさにあてこすっているのだ。イヒヒ、今朝の朝食はヤロー奴のきらいなビスケットだけにしてやろうと決める。白足袋とわたし奴の神経戦もかなりの水準にまで登りつめつつある。

奴の寝床も寒くなったので南にうず高く積み上げた洗濯モノの山が定宿になっている。ここも封鎖してやろうかと戦術を練る。わたしの沈思黙考に危険を感じたのであろう、本のツメ研ぎをわざとらしく休止してみせた。そうか、そうなのか、お前がそのつもりならわたしも本格的な戦いモードに入るぞよ。と世田谷村は伊賀者の白足袋、甲賀者の黒足袋の闇の戦いが切っておとされたのでした。ちなみに、わたしのクツ下は五本指の黒色のモノを常用している。

354 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十六日

残念ながら今朝は烏山神社には参らず、失敬した。それ故、モヘンジョダロを経由して駅へ。途中、愛猫と熱狂的に共生している初老の知り合いと、手をあげて挨拶。この人、わたしとほぼ同年令と思われるが、恐らく達観してすでに猫と余生を送ると決めたかしこい男である。わたしとは正反対の達人である。モヘンジョダロの遺跡の城壁の上を猫に歩かせ、自身はオロオロとそれを追いつつ朝を過している。凄い人である。見習いたくはないけれど、実に立派な人間である。

十二時半地下スタジオ。ゴードン、ニコラスのWORKは進んでいるのか、どうか不明。チェック不能。M1、SにオーダーしたWORKは進んでいない。わたしの伝達方法が良くなかったのであろう。良いWORKをオーダーしているのだけれど、な。

建設中の現場デザイン、ワークを進めながら、合同課題の学生の作業を見る。仕事と学生指導を同時に進めているのだが、一部聞く耳を持たぬ学生の指導に費やすエネルギーは余りにも大きい。優秀な学生は良い耳を持っているのだが。

二〇時半遅い夕食を新大久保で若い先生と摂り二十三時前世田谷村に戻る。白足袋むかえもせず、全く猫と聞く耳を持たぬ学生は同じだな。意を尽くしても反応が無い。

353 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十五日

鳥山神社を経て、せいやラーメンでねぎラーメンと小ライスの朝食。朝からラーメンはわびしいが仕方ない。神田川沿いのつけ麺屋の方がうまいな、等と考えている。ボルヘスも荘子の夢もどこ吹く風である。入口ドアから通りが視えて、向いのクツ屋の知り合いのオヤジが驚いた顔して、朝からラーメン喰ってるわたしの姿を見つめている。店の奥で喰べた方が良かったな。京王線、地下鉄と乗り継いで、十二時四〇分東大建築製図室。

十三時中間発表講評会。今年の合同課題は都市のインフラに関する、極めて高度な課題である。高い水準の学生には高い水準の課題が似合う筈と考えたからだ。途中10分の休息をはさんで、十八時前に終了。

早稲田は全て掌握してたので、恥ずかしくない程度の出来である。上位3組が際立っているが、まだその際立ちが評者達に伝わっていない、そういう欠点がある。それぞれ工夫したいものである。

東大も、3組程、これは努力すれば面白い案になるなというのがあった。給水塔を囲むヘイの相似的縮小を視覚的構造にしたチーム。給水塔の内部の空白を更に際立たせて、その構造を外のマスタープランに反映させたチーム、このチームには芸術が解る奴がいるな。水道というインフラ、つまり蛇口をひねると飲み水が出てくるとう事の身体の側から感応し得る不気味さをコンセプトとしてかかげていたチーム、これは考え方は実に面白いけれど、表現が覚つかぬ。今日の中間講評会ではこの東大3点と早稲田上位3点とを、わたしは比較しながら見ていた。両校共に農に関する提案が多かったのは、良い知性の現れである。間違いではない。

講評終了後、上記東大3チームが、それぞれ話しに来たので、少しのアドヴァイスをする。良い案はゆきづまり易いから、困ったら早稲田の製図室にいらっしゃい。意見程度は申し上げる。もう合同課題は4年目だから、わたしには早稲田も東大も無い。優秀な人材に会いたいだけだ。

十九時、新宿南口味王で難波和彦先生、渡辺大志先生と夕食。今日の中間発表会の感想を話し合う。まあ、もう少しだ頑張ろう。

今夜がイスラム建築研究会の第一回みたいなものだな。難波先生は井筒俊彦を読みおえて、すでにシーア派、スンニ派の違い等を解説できるようになっていた。秀才である。ボルサリーノではなくイスラムの帽子をかぶればいいのにと考えながら傾聴していた。

二十二時過世田谷村に戻る。

352 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十三日

烏山神社を経て十時四〇分地下スタジオへ。高木、渡辺両先生、学生設計の製図の指導。M1・Sに大工が作る家具のコンセプト・シナリオのオペレイションを示し、作図するように指示する。初めて本格的課題を与えたのだが、出来るかな。

わたしは3組程の指導を三〇分程で終える。

東大での中間講評会を終えたら、学生達の指導方法をもう一度洗い直す。一夕で。二時間もあれば良い。

学生の不出来は教師の責任である。非力な学生は非力な教師が作り上げている。しかし、非常勤の先生に少なからぬ責任を押し付けるわけにはいかない。1組ずつだけで良い。つまり非常勤の先生にはそれぞれ3名のチームだけを責任持っていただければ良い。

十二時半地下スタジオを発つ。地下鉄で渋谷経由用賀へ。十四時の世田谷美術館「橋本平八と北園克衛展」オープニングに少し間があるし、世田美へのバスは一時間に2本である、食堂でメシを喰う間はない。のり巻きを買って何処かで喰うしかないと決め、ホームレスのオヤジさん同様バス停のベンチで、ひそやかにコッソリ、のり巻きを喰った。広場の方へ背をそむけて。こんな姿を誰かに見られたくネェーなと思った。

コッソリと、秘めやかに、ベンチでのり巻きを食べていたら、何と、ギャーッ、突然、鈴木博之が肩はたたかなかったが、イキナリ、本当にイキナリ出現してしまった。

最もこんな姿を見せたくない人間である。

ほとんど息がつまり、死にそうになったのだが、それはそれ、年の功である、キグーですな、なんて馬鹿な事言って、同じベンチに座ってくれた鈴木先生にのり巻きを一ヶすすめてしまった。

当然彼は武士の情を知る男だから、昼飯は済ませたのだけどねと言いながら、一つのり巻きを食べてくれた。有難さに涙こぼるるという感あり。かくて用賀駅ホームレス二人組となった。

聞けば、鈴木博之先生は高校生の頃から、北園克衛の詩のファンであったそうな。それでこの世田美のオープニングに出掛けたというわけだ。ハイスクールで北園克衛のファンはいささか異常だとは感ずるが、彼には異常なところが充二分にあるのである。それは兎も角、のり巻きをベンチで食べて共に世田美に辿り着いた。オープニング・セレモニーに列席。酒井忠康館長他の話しを共に聞く。その後、展覧会を観る。

人が多過ぎてゆっくり見られず、又、一人で来ようと決めた。それだけの価値ある展覧会である。

又、その後、世田美のレストランでウーロン茶なぞ飲んでいたら、いきなり高橋悠治に会ってしまった。本当に変な日である。

高橋悠治は旧友である。聞けば、子供の頃から北園克衛の詩のファンであるそうな。又、高橋悠治と鈴木博之は頭脳のクオリティーが酷似しているから、そうなんだな、と確信した。必要以上に頭が良過ぎるのである。ガキの頃から北園克衛のファンであるなんてのはそうに決まっている。

とボンヤリ想像している内に、鈴木、高橋共に姿を消し、仕方なく、バスを乗り継いで烏山に戻った。ボルヘス流の一日であった。

恐らく、会ったかも知れぬ鈴木博之も高橋悠治も荘子の蝶の夢なのであろう。

会った二人は恐らくわたしの白昼夢なのであり、会ったと考えているわたしも又夢なのである。

高田屋でソバ、レバ串他を喰って、モヘンジョダロを通り抜け世田谷村に戻る。そう言えばS先生もモヘンジョダロを通り抜けたなんて言ってたな。そんな事ある筈も無い。夢そのものの半日であった。

深夜、ラジオを聞いていたら面白くて耳を澄ましてしまい、眠れなくなってしまう。でも眠っているのかも知れぬ。

十月二十四日

八時半起床。昨日は現実と夢が入れ子になっていて、ホトホトエネルギーを消耗した。橋本平八と北園克衛のエネルギーの成せる技であろう。洗濯を済ませ、全て干して出掛ける。九時半烏山神社を経て、駅へ。私用で病院を巡り、神田川近くのつけ麺屋で、これはとびきり上手い麺を昼食で食べて、十三時半地下スタジオへ。十九時半迄合同課題設計製図を見る。降り出した雨の中、一足先にスタジオを発つ。若い先生方の熱心さに任せて良いだろう。設計(デザイン)教育には大変なエネルギーが本来的に必須である。わたしはそれを初期高山建築学校、A3ワークショップ、早稲田バウハウススクールの体験から学んだ。元気なうちに学んだモノを若い先生方に伝えてゆかねばならない。先ず、先生方にそれを伝える事が大事である。

二〇時半、烏山焼肉屋で夕食。近所のO君と無駄話。O君は介護生活の日々をおくっている。えらいなぁ。本当に、身につまされる。

十月二十五日

七時半起床。メモを記す。寒くなった。白足袋の奴も暖かいところを求めてウロウロしている。今日は午前中少し休んで、午後東大の製図室へ合同課題の中間講評会へ出掛ける。空腹で自分で朝食を作るか、外食で済ませるか考える。自分で作るたって、パンをレンジでやくくらいのお粗末だけれど。

351 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十一日

神社に行く前に、ドリトル先生動物園倶楽部の事務猫白足袋に、わたしが、わざわざコンビニ迄すっ飛んで買い求めてきたペットフードのカンを更に開けてやったのだが、見向きもしない。いつもの買いだめをしてあるのを開けたら、神妙に食べるのであった。一度、わたしも喰い比べてみたいものだが、冗談はよせよ白足袋、と言いたい。トースターにバター2切れのわたしと比べれば、お前は1カン、キャンセル、もう1カンなのだ。気に入らなくても文句言わずに喰え。こんな事では、倶楽部運営はとてもままならぬと他の事務用員を探す事も考えたい。昨日もお一人入会してくださって、ポツリ、ボツボツと会員は増えているので。2号の会誌は送付済みで、下手な事務猫の気取ったサインがはいっている。こういう派手な事はしたがるのに、ネコ食は何でも喰え、と再び言う。

只今京王線車中、今朝はpriority seatに若い鈍感女、無反応男も座っておらず、イライラしないですんでいる。多いんだからなあ、老人に席をゆずらないガキが。特に女のガキが多い。こういうのが母親になってしまうのだから、世の中良くならないのは自然だ。

私用を経て十一時過地下スタジオで、ゴードン、ニコラス他と宮古島プロジェクトの打合わせ。修了後学生指導。再び宮古島計画進めるのリズムを繰り返す。ゴードン、ニコラスはドイツ、フランス人の組み合わせだが、良いチームになりつつある。合同課題の製図の方は一日徹底してドン底6組を指導、一つ位は浮上するかもしれない。ゴードン、ニコラス等との打合わせは、勿論学生の設計指導とははるかに異なる水準である。

それ故、わたしもはるかに考えを廻転させる。三〇分の打合わせで、頭はグルグルと廻り続ける。一時間の打合わせはほとんど限界である。

一度のミーティングで必ず解決策を作らねば打合わせにならない。今のところはそれが出来ている。それは言葉のハンデがあるにもかかわらず、言葉つまり気持が通じているからだ。彼等にはわたしの考えの本体だけを伝えれば良い。つまり、このプロジェクトの重要さ、意味を伝え、基本的なスケッチを提示するにとどめる。彼等は求めているより、その先を時にやってくる。それで、わたしもいささか緊張し、更にアイデアを捻出させざるを得ない。良い関係になりつつある。

十九時過スタジオを発ち、彼等と夕食、ホットなコーリア料理で気力を高める。二十一時了。二十二時過、ギョーザとチャーハンの持ち帰りを買って、世田谷村に戻り、白足袋と夕食。

十月二十二日

七時起床。ゴードン、ニコラスとの今日の打合わせにそなえる。又、学生の製図への対応をほぼ決める。今日も一日やりましょう、ゆっくりと。九時半世田谷村発地下スタジオへ。

350 世田谷村日記 ある種族へ
十月二〇日

十一時過、神社参り、この神社は遠い白山御岳をまつっているようで、その由縁は解らない。西の方角に白山は在るので、鳥居、本殿の軸は西を向いている。丁度白山にぴたりと軸が通っているらしきが凄い。その先は朝鮮半島の先端をかすめ北京からスーッと西安へ、そしてタクラマカン砂漠に向っている。

十二時半、稲田堤、至誠館福祉館、建設現場定例。2階の型枠工事が進んでいる。1階の一部型枠がバラされて、打放し部分は良い仕上がりで満足。現地スタッフを良くやったなぁとねぎらう。定例会後、再び現場を見て廻る。重量鉄骨とのハイブリット構造で3、4階の現場工事は慎重を要する。十六時半現場を去る。十八時前世田谷村に戻り、白足袋にエサをやる。白足袋は体は悪くないようだが相変わらず元気なし。秋も深まり、猫なりにメランコリアの只中に沈み込んでいるのだろうか。まさか。白足袋が芸術家の魂を持つ筈も無い。

冷蔵庫の大きなナシをむいていただく。本当に久し振りの果物で実に美味しかった。鳥取からN先生が送って下さったものだろう。わざわざこんな事書く事なかろうが、この大きな梨をむいてですね、ザクリとかぶりつかずに何片かに切って少しずつかじる。甘い汁が口の中一杯に満ちて、実にもの哀しい位によろしい。他愛ないものだが、ついでに洗濯をして、夜空に吊した。

伊豆西海岸安良里の藤田晴正氏より大量のサンマが送られてきた。ハンマは今も現役の近海漁業の船長である。今は何処の海にいるのか。

十月二十一日

六時起床、メモを記す。昨夜折角干した洗濯物は小雨で乾かず。実は電気洗濯機の使い方が解らず、いささかとまどったのお粗末があった。脱水、すすぎ、乾燥を一環してこなしてくれる方法が解らなかった。旅をしているときは洗面所他で独人でこまめに洗濯はするのだけれど、マニュアルを読まねば理解できぬ各種電気製品に実に弱い。ケイタイを持てと身近な人間からも言われており、直立猿人的存在をしみじみと身につまされている。次第に気持の人に切り換えてゆくつもりではある。気持は自由でジャンプするが身体の動きはゆっくりしている位の事だけれど。

世田谷村は別称洗濯船と呼ばれている。呼んでいるのは私だけだが。が、いづれそう呼ばれるであろう。洗濯物が満艦飾な時が一番美しいのだ。雨の日にも本当は満艦飾でありたいが、やっぱり雨の日の洗濯物はモノの哀れをさそうだけか、コレワ。と反省、数点を風呂場にしまい込む。

暑い夏にいささか身に余る難しい本を読み過ぎて、頭が抽象化されている。読書の秋は、飯炊いたり、洗濯したりで、具体的なディテールに少し浸りたい。と、これも抽象ですな。九時半過ぎ世田谷村発、烏山神社参りして私用の後、地下スタジオへ。

349 世田谷村日記 ある種族へ
十月十九日

烏山神社参る。植木職が2名地面を掘り繰り返し、鉄筋を組んでいる。何つくるの?と聞いたら、コンクリート打つだけですの答え。神社の境内にコンクリート舗装は間違いなんだけれど、これも民度なんだな。とやかく言うまでの事ではないが、記しておく。神社の森は大事な宝で、その地面にコンクリートを無闇に打ち込むのは原理として誤りである。神社の森に機能主義の適用はいけない。南方熊楠を真似て神社の地面コンクリート舗装反対運動でも起こすか?冗談はさておきこんな小さな事でも簡単に見逃し続けると、今の日本の風景の非情さにつながる。

十時半地下スタジオ、ゴードン等と宮古島プロジェクト打合わせ。彼等の真当さは好ましい。与えた事にストレートに、つまり常にコンセプチュアルに取り組んでくる。

わたしも、負けてはいられないのでスケッチを少なからず描き進めた。

学生の製図指導。今日はドン底の学生を中心に見る。宮古島プロジェクトを進めながらの作業である。が、なんとかやれるものである。ドン底たちとも付き合っていると何らかの良い玉を発見することがあって、それが楽しい。と思わねばやってられないのである。

山本夏彦ならばロバは旅に出てもロバのまま帰ってくるというだろうが、やはり人間とロバはちがうかも知れないのです。あくまで、かも、ですけれどね。

人間には感情というモノがあるから余計性質が悪いかも知れぬ。しかし、ともあれ今日で60名の全てを把握した。

十九時宮古島プロジェクトチームと小会食40分程。労をねぎらう。二十二時過世田谷村に戻る。

十月二〇日

六時起床。メモを記し、空腹のためウロウロする。ドリトル先生動物園倶楽部事務猫の白足袋も空腹の為だろう、オロオロしている。仕方なく自転車でパンとペットフードを買いにファーストフード店へ。わたしのパンよりも白足袋のペットフードの方が高額なのを知る。急に不愉快になる。どっちが飼い主なのか解らん。資本主義的には白足袋がわたしの雇用主である事実が判明した。

七時バカな電話が入り、怒る。早朝にわざわざする内容ではない。こんな早朝に電話を受け取る身への想像力が欠けている。自然食品の取り扱いに関する区民グループのものであるが、困ったものだ。

白足袋は相変わらず元気なくふさぎ気味である。どうしたものか。こればかりはどうにもならないだろう。自力で立ち直るしかない。しかりしろと言ったら、それでも尾だけ振った。無理してサービスしているな。

348 世田谷村日記 ある種族へ
十月十八日

十二時、私用を終え地下スタジオ、製図準備室へ。雑務を少し。その後三年製図を見る。すでに見なければ何処迄も落ちてゆく気配があるのもいる。六十人という適正人数であるから、ほぼ全ての人材の把握は容易であるが、余りわたしの考え方を一律に浸透させるのは避けている。毎年驚くのはこんな少人数の集団にも歴然たる個人差があること。個人差すなわち能力差である。設計製図が比較的上手にできるのと、あんまり出来ないのとの落差が歴然として出る。この現象に興味津々である。設計製図は要するに知情意の総合である。知性、情熱、意志、が良い設計製図には表現されるものなのだ。

難しい問題ではあるのだけれど、基本的には情熱の量の問題がある。一見下手な人間には情熱が感じられないのです。その基本の問題に取り組んでみるか、大変ですけど。

十四時、宮古島プロジェクト打合わせ。ドイツ、フランスからの院生に参加させているが、当然の事ながら彼等には情熱がある。好きでやっていて、しかも遠いTOKYO迄やって来ているのだから。

加藤先生が用事があってやってきて下さったので、学生の指導もついでにお願いした。先生は情熱があるのです。

十七時過発、四谷三丁目へ。T社A氏と会食。話しがはずみ、新宿味王で二次会。車で世田谷村迄送っていただいた。二十二時過戻る。

十月十九日

七時起床、メモを残し九時半発。

347 世田谷村日記 ある種族へ
十月十五日

十一時M1M2相談、地下スタジオへ。十三時外国人学生面談、3年設計製図指導。二〇時過世田谷村。ワイマール・バウハウス建築大学ギャラリーでの展覧会出展出展プロジェクトを考案する。バウハウス建築大学はヨーロッパ建築理論の中枢たらんとする意志を持つので、やはりそれなりの対応が必要である。

十月十六日

九時過烏山神社を経て、発つ。使用。十一時地下スタジオ。三年設計製図を見る。学生を教師の数だけグループ分けしたので、明快な今はシステムになっている。非常勤の先生には遠くから来ていただいている先生も少くないので、その点は考慮しなければならぬが、少くとも中間講評迄の指導は先生方の責任に於いて任せている。教師の力量が当然学生の成果に反映する事にもなる。矛盾が発生すれば修正する。

バウハウスギャラリー展のコンセプトを決める。Living Islands Constructed by Opentechnology とする。Islandはわたしの仕事がある種の島状であるという自覚からである。わたしは日本の建築デザインの状況からは孤島状にある。それを明快にヨーロッパにプレゼンスしたいと考えた。幾つかの島にまとめてみた。この展覧会はわたしのヨーロッパへのプレゼンテーションである。2008年の世田谷美術館での展覧会を前向きに再構築したものになる。

十六時半、地下スタジオを去る。

十月十七日 日曜日

七時半起床。メモを記す。肌寒い。九時半世田谷村発烏山神社参りを経て私用。十一時過大学地下スタジオ。学生程々にスタジオにて作業していた。途中、コンビニで朝昼食のおにぎり他を買い求める。十四時半過迄、、スタジオで作業していた学生の大半の作業をみる。学生の質の格差は激しい。ようやくにして、有能な学生は程々に聞き分けるようになり、そうではなくあり続ける学生のイルカ者の自己主張、他愛のない思い付きに附き合う相互の無益を理解させ得たかどうか。イルカに合わせれば、有能な人間に割く時間が無くなり、さりとて、イルカを全て捨て去るわけにもいかない。自らの未発達な知の状態を自覚する事から始めさせねばならず、これが、わたしには実につらい作業なのである。教師はほとんど時に無為の人に接近する。モノを考えようとせぬ人との接し方は途方も無いエネルギーを浪費せざるを得ない。しかし、それが教師のdutyである。流石に疲れて製図室を発つ。教師の悲哀だなコレワ。

帰りの京王線車中で、いきなりあいさつされ、ビックリ。何と去年迄の区民農園で出会った知り合い、Aさんであった。イヤー、久し振りと話しがはずみ、千歳烏山でビールでもという事になり、駅前の高田屋という、ソバ屋風居酒屋で一服。正式に名刺交換する。Aさんは岡田哲郎建築設計事務所の社長さんで、実に絵に描いたような誠実な人間である。わたしと同い年である。十七時半名残りは惜しいが切り上げる。

十八時世田谷村に戻る。今日はA氏と会えたのが収穫であったな。長生きできたら、庭師(デザイナー)になるという馬鹿な夢の輪郭だけでも描くことができる径ができるかな。

十月十八日

六時に目覚め、でも起きずにいたら又眠ったようで七時過起きる。こういう時間は良い時間の筈だが、マアそんなに良い時間とも思えず、ただただ白々しいのであった。ドリトル先生動物園倶楽部事務猫白足袋相変わらず元気なく、ミャーミャーと早朝から声を上げ続ける。メシだけはやらねばいけないので、カンヅメを開け、定量を白足袋に供する。ここ数日、毎朝普段とは異なる道を歩いて動いている。そうなってみると、毎日同じ道を歩いていた自身の変テコリンさが浮き彫りにされる。同じ道の同じ風景を視ていると感性は鈍るし、自然に思考力も沈滞、停滞するのを知る。白足袋はビニール袋に押し込められて捨て猫状態の鉄火場から世田谷村にやってきた。それから2年程ほとんど家を出ない猫である。たまに外に出ても恐くてすぐ内に帰ってきてしまう。まあ家出されても寂しいけれどあんまり家の中というのも、退屈だろうと考えていた。しかし、考えてみればわたしの日常もそれ程、白足袋とは変わりがないなと思い知ったのである。毎日、同じ道を同じようにグルグル動いている、繰り返しである。チョッと歩く道を変えざるを得なくなって、初めてそれを知るのである。しかし、毎日が驚きに満ちて新鮮であり続けてもクタクタに疲れるだろうな。これ位で仕方ないのだろう。

346 世田谷村日記 ある種族へ
十月十四日

烏山神社を経て新宿、東大へ。赤門そばというソバ屋で昼食後、講義室へ。途中、松村秀一教授とバッタリ会い四方山話し。講義室十三時前。伊藤毅先生と挨拶。インフラストラクチャーの文化的な意味も含めて広義な概念規定について。都市史研究の成果も踏まえて充実したレクチャーであった。水に関しての話しが刺激的であった。

次にわたしのレクチャー。風景にストラクチャーをオーバーラップさせる事の可能性について。恐らくは2つのレクチャー共にすぐに設計製図に直接役立つ類のモノではないだろうが、それで、確信的に良いだろうと思う。東大早大の設計製図そのものの水準を上げてゆく、ハードルを上げてゆくのは少し計り時間がかかるだろう。資質に恵まれた人材を相手に話し、その資質そのものを刺激できれば、それで良いのである。

十五時過修了。伊藤研究室に挨拶して帰る。十六時過新宿で設計製図の方針相談。昨年迄共に働いた難波和彦先生に途中経過を電話で報告する。

後、私用にて過す。

十月十五日

七時過起床。メモを記す。ドリトル先生動物園倶楽部事務猫でもある白足袋が元気ない。しょんぼりしている。何を感じているのか。

京王線電車車中。相も変らず、Priority Seatにドデンと座り込み、前に老人が立っても席を立たぬ若いのが居て、実にイヤな風景である。わたしもこのSeatに座るのを楽しみにしている種族だが、このSeatの風景は日本文化の水準を良く表している。先程烏山神社に寄って、研究室に向っている。今日は一日中、地下スタジオの準備室でWORKする。

十時研究室。シンガポールの件でT氏と打合わせ他。十一時半迄。

M2相談。十二時前地下スタジオへ。東大早大合同課題、他への対応。

345 世田谷村日記 ある種族へ
十月十三日

烏山神社を経て、京王稲田堤、社会福祉法人厚生館福祉会至誠館さくら乳児院なしのはな保育園新築工事現場。馬淵建設、電気、設備との打合わせ。今日はセキュリティーの設備業者が交じる。十六時セキュリティー関係打合わせを終える。建築工事打合わせ。十八時半修了。その後急な私用。二十三時半世田谷村に戻る。

十月十四日

七時過起床。曇天。チリ、サンホセ鉱山の地中700Mからの人間救出WORKは心から良かった。世界中の人々も喜んでいるようで、それが又良い。みんな同じの月並みさが素晴しい。月並みと言えば大分前のアポロ13号の月からではないが宇宙からの帰還を思い出す。地下からワイヤーで回転する輪によって引っぱり上げられた。垂直に掘られた細長いトンネルをくぐって、いかにもローテクな、それでもカプセルと呼ばれる、ミニマム・スペース・シップは、実にアポロ13号と同じ姿をしている。アポロ13号の地球帰還と同様に世界中に殆ど同時中継されているのも同じだ。

であるから、わたしも皆と同じに喜んでいる。

ここのところ、我ながら何を想ったのか、わたしは時々の朝、隣りの烏山神社に散歩して、マ、お参りして、小銭を賽銭箱に放り込んでいるのだけれど、恐らくはコレがチリのサンホセ鉱山の奇跡的な地上帰還にキイタのである。賽銭を投げ込んでいる時にチリの人々のことは思い浮かべていはいなかったが、その他よろしく頼みますとつぶやいたのが、キイタのである。実に、昨夜から今朝にかけても色々と世界でも身の回りでもあったのだが、烏山神社の賽銭箱には今朝はチョッと奮発して50円程喜捨する。しかし、賽銭箱というのはおつりが無いのはイカンなぁ。毎回行く度に100円投げる気分ではない。器が実に小さいのである。我ながら。

344 世田谷村日記 ある種族へ
十月十二日

烏山神社を経て、大学へ。烏山神社には必ず参拝の人影がある。これは驚きである。皆さん何を祈っているのか。でもホッとする光景だな、人が手を合わせているのを視るのは。

十一時地下製図スタジオ。何組かのエスキスを見る。製図教師として実ワ、3年生のこの合同課題は、エスキスから見る見られるのは学生もわたしもお互いに初めてだ。クリティーク(講評)は早稲田の場合上位15点くらいに絞って行なうので、この課題でわたしは多くの標準クラスの学生達の製図を見た事がない。この多くの学生には毎年初めて出会い毎年仰天する。何かこの1ヶ月で常識的な力量だけは皆にもつけさせたい。同時にAクラスの数人はもっと強くしたいと思う。これは義務ではあるが、楽しみでもある。そうありたい。

十二時半スペインの女学生に製図室で面会。M0卒論相談。ドイツとフランスの留学生のWORKを見る。実際のプロジェクトに従事させているが、基本的な力量は年令の差もあるがどうもヨーロッパの優秀な学生はしっかりしている。しっかりしてくれ日本の学生。でも良い人材は国籍を問わず伸ばす。宮古島P、キンダーガーデンPの二つの課題を真剣に見る。2時間強のミーティングで実質少し進んだ。指導室でじっくり打合わせできた。十七時半、今日はこれで終了とする。十八時半世田谷村に戻る。

十月十三日

昨夜は、恥ずかしながら日韓フットボール親善試合をTVで観戦した。誰に言うでも無いが申し訳ない。ジワジワWORKをすべきなのだが、そうなった。何人かの知り合いと賭けもしていたので。昼食代ですけど。カサブランカという名のソファーに横になり、お茶をすすりながら視る。勿論、わたし韓国チームを応援している。韓国ナショナルチームの身体を張った闘志が好きなのである。国籍は関係ない。しかし、何故か日本のナショナルチームも闘う気持を表に出して健闘し、引分けた。

もうほとんど、日本のプロ野球には関心が無くて、新聞も開けなくなった。山本夏彦言うところの二流の人が、それでも金を取ってプレーしている、一流は皆、アメリカへ行っちまった。残ったのは要するに2軍であり、いずれ強い者はアメリカで金を稼ぐ事になるのだろう。

実に設計製図に於ける人材育成にも同様な問題が起きている。優秀な人材の一部は将来、設計家、デザイナーとして国際市場に出す必然がある。日本国内で頑張る人材とは当然別種の教育が必要になる。一律な横並び指導では、その人材は輩出し難い。強い人材を育てるのは昔のように、自然ななりゆきに任せるというわけにはゆかない。人工的に作る必要がある。又、当然ながらそのような人材の育成は、部厚い下支えの層が無くしては出現しない。悩ましい大問題だけれど、どうも一律の平均点教育ではすでに立ち行かなくなっているのは確かである。サークル活動的教育をわたしは好まない。その中からはスックとした人材は育ちにくい。多くの外国人留学生を研究室は受け入れているが、その多くは優秀であり、日本の学生は良い刺激を受けるだろう。日本人同士がドングリの背比べの学び合いだけではどうにもならないのである。

昨夜の日韓交流試合の様相、韓国との建築教育の競合もこれからは起きるであろう。その先に中国との競合も当然ながら起きる。じくじたる想いである。しかし、偉そうな事茶の間から言うが、昨日の日本チームはようやく、以前のサークル活動的姿勢から脱皮し始めたかなとは想わせてくれた。製図教室もそうありたいものです。

絶版書房通信を書く。

又、問い合わせがあったので記すが、ドリトル先生動物園倶楽部は入会受付けは続行しています。2号通信を先日発送しました。

343 世田谷村日記 ある種族へ
十月八日

烏山神社にお参りし、十時半研究室。サイトチェック。来週休み明けに編集を少し見直した方が良いかも知れぬ。十一時河野鉄骨専務来室、打合わせ。十二時半迄。

十三時、M2、WORKチェック。と相談。十四時過地下スタジオで東大との合同課題のエスキスを見る。2、3を除き不勉強さに驚いた。学生は一生懸命学ぶという、その事自体を学んで欲しい。十七時半製図室を去る。若い先生方、非常勤の方々も余程心して接して頂かぬと、今年は底が抜けるかも知れない。要するに、学生の不出来は教える側の責任でもあるのを自覚されたい。学生だけに原因があるわけもない。教師の不熱心さは学生に伝わる。

十八時半世田谷村に戻り、独人飯を喰う。今年も合同課題の指導はエネルギーを消耗しそうだ。でも考えようでは消耗するエネルギーがある間は大丈夫だと考えれば良いのだ。来週とは言わず、明日から集中してみよう。

14日に合同課題のために行うレクチャーは自分でも初めて話す内容にするので、きちんとまとめておきたい。

十月九日

六時起床。14日のレクチャー「もう一つのインフラ」(仮)の構想を練る。シャワーや朝食を交えて九時前迄。九時半発M邸へ。烏山神社を経て、下高井戸経由松陰神社前、十時半M邸。M氏御夫婦と打合わせ。マネージメントの件。これが仕事の中では一番困難なのだが、逃げる訳にはいかない。平身低頭、ケンゲンガクガク最後までやり通すのである。これ計りは他人に責任を押しつける訳にはいかない。昼食にいつもの通り、カレーソバをごちそうになりながら十五時半迄。M氏夫妻の信頼を裏切る訳にはいかない。当り前だ。個人住宅設計の要はここにしか無いのは、すでに知り尽くしている。雨中を大学へ。

十四時四十五分、約束に遅れる事1時間45分、大学地下製図スタジオへ。ヒヨコなりに一生懸命な学生の製図を見る。東大早大合同課題は、わたしもわたしなりにやってきたので、これはその方針を今年も持続する。

十七時半迄、単独で課題に取り組もうとしている者を含めて、6組程のはじまりの成果を見て、話しを聞く。本当はここ1週間がとても大事なのだが、学生はそれを直観できているか。進む方向が決まるのだから。地下鉄で新宿三丁目へ、味王で軽い夕食。今日のM邸の件伝え、他の件をスタッフと話す。二〇時半世田谷村に戻る。

十月十日

四時半目覚めて、WORKするかと思うも、眠ってみようとなまけた。あまり頑張るのも良いばかりの事は無し、秋の朝。七時過起床。メモを記す。秋の雨だ。九時半世田谷村を発つ。烏山神社参りを経て、京王線明大前、吉祥寺、三鷹を経て母の処へ。母の今朝はとても立派な顔をしている。沢山のチューヴを指し込んで、延命しているのだが実に風格があり、わたしは感動した。母は立派な境地に辿り着いたのだ。息子として生まれて本当に良かった。と、考えた事であった。いい顔になった。人間は戦い抜いてギリギリの世界に行き着くと輝くものだ。十三時烏山に戻り、O氏と昼食。世田谷村に戻るも、自分の家だと言うのに入れないというアクシデント。仕方ないので、駐車場に捨て置いてある、車にもぐり込んで眠る。十六時半迄。

目覚めても、どうにもならず、近くのコーヒー店、宗柳で時間をつぶし、14日の合同課題のレクチャー、シノプシスをほぼ完成させる。帰りがけ宗柳のオヤジが店を出て、こっそり言うに、昨日はドジョーの通夜でした、何だそれは、アノ飼っていたドジョーみんな死んだ。どして。水を換えるの忘れちまった。そうか、何となく、今日は柳川たのまなかったんだ。残念なことしたね。本当に。で、オヤジがいつもこっそり行って、飲んでいるらしい、噂のラーメン屋をついに聞き出し、家に入れぬのを幸いに、行ってみる。店の名は、長崎屋。前から気になっていた店であった。何故、気になっていたかと言えば、のれんをたぐって入るには余りにもなという位に烏山一帯で一番と呼んでも良いくらい、余りにも昔風の、そうだな1950年代風のたたずまいな店であったからだ。渥美清が旅のつれづれに立寄っている風な店。時代にポッカリとり残されて、いつも木枯しが吹いている。

勇気を出してもぐり込んでみると、やはり、オイちゃんとオバちゃんが居て、町の連中が、6〜7人クダを巻いている。オランダ村を描いた下手な絵がかけてあって。笑門来福の札、大相撲協会の番付、みち乃く兄弟とやらの2010年、唄と津軽三味線のポスター等。ここは新宿南口大階段下の長野屋食堂に勝るとも劣らない名食堂である。しかし、入るのに勇気がいる。

ようやく、世田谷村に入れるようになり、戻る。母の立派な顔と、何故か5店も食堂を放浪したのとは、無関係でしょう。でも、恐らく前向きに刺激されたのだろうと思う。明朝は早いので早く休もう。

山口勝弘先生より便りあり、ギリシャでのイカロス展に執念を燃やしているようだ。凄い年寄り達がいるのだなあ。

十月十一日

六時半起床。素晴らしい秋晴れである。青さが澄みわたっていて、ここまで青いともの哀しい。七時四〇分発。京王線沿線火災の為に電車遅れ。新宿湘南線に乗り遅れる。九時五十三分品川発東海道線で大磯へ。近頃、事故その他で電車の遅れがひんぱんになった。イギリス植民地時代からのインドの鉄道の遅れは有名であった。半日遅れはザラであった。そして、実に立派で精密極まる時刻表の在る事も有名であった。その時刻表本マニアがいた位に。日本は新幹線は過剰に立派だけれど、ローカル線は衰憊しつつある。

十時五十三分大磯着。日本ツリーハウス協会スタッフが迎えてくれ、取材の方と共に車でツリーハウス制作現場の山へ。2012年より小児ホスピスとしての活動が始まるそうだ。良い計画なので是非すすめられたい。わたしもそれに共感して、このツリーハウス製作セミナーに参加している。十一時過現場。昨年同様の雨上がりの天気で、見栄えのある小屋に案内される。顔見知りにあいさつ。23名の参加だそうだ。

小屋の近くに昨年のツリーハウスが完成していて、その上の斜面の樹に2番目のツリーハウスが制作されつつあった。陽光があんまり差し込まぬ森の中での作業は辛かろう。もう少し高度があると良いのだが、カナヅチやのこぎりを初めて持つ人達が多いので高所は危ないのであろう。

強い陽光を避けて小屋に入り、メモを記し、本日のレクチャーの準備をする。十二時半昼食の手作りパスタ。十三時一〇分、レクチャー。ツリーハウスの歴史については不明と述べる。3つの流れが出現するだろう。1.数奇屋流、2.アメリカ的、レジャースポーツ型、3.アニミズム型。今は日本ツリーハウス協会のツリーハウスは2のアメリカ型アウトドアスポーツ型の産物であるが、将来、1、3タイプのものが生まれると良いと思う、と述べた。

いくつかの類似事例を引きながらレクチャーし、十五時修了。その後、昨年に続き修了式に立ち合い、十五時半了。夕暮が来るのが早い。しかし、小林指揮下の日本ツリーハウス協会のツリーハウスは国内外で70例をすでに数える。仲々の展開力だな。大磯駅十六時前発品川経由、新宿十七時過。

十九時過世田谷村に戻る。良く電車に乗った1日であった。チョッと立ち寄ってみた例の食堂長崎屋は、どうやら常連の巣窟のようだ。その常連のおしゃべりのうるさい事、柴又帝釈天の寅屋店内の如し。店のTVを見ながらの会話。 「棚田鍋って何なんだろね。」

「俺は温泉がいいネ、棚田温泉」

「アメリカ行きてーんだ俺は」

「どして」

「グランドキャニオン一度見てみたいの」

「あれはオーストラリアだろ」

「そうだったか。」

とても会話に入ってゆける雰囲気ではない。しかし話がみんな店のTVを仲介にしているのがモノ哀しいところもある。1950年代のラーメン屋コミュニティーはかくあったのかと想像するのである。

イヤハヤ、うるさい事、うるさい事。「アー、諸君も少し静かにデケンのかね」と席を立って一度ブッたら、店内は一気に騒然たる取っ組みあいになるだろう。みなさん底抜けに良い人達なのは一目でわかるのだが、どうやらこの店の地域共同体振りはズッシリ、腹にもたれる類の筋金入りのモノらしい。1950年代研究には良いところだろうが、日頃、サラリと通うにはどうやら、もたれるなコレワと直感する。仲々、食堂選びはむづかしいのである。

十月十二日

四時過起床。昨夜の続きのメモを記す。近くに住む映画監督の沖島さんも言ってたが、仲々、近くで良い店ってのを見附けるのはむづかしいのである。話しは飛ぶが、お寺ってのは時に住職の話がくさくて腹にもたれる。死んだSも言ってたが、坊さんは得てして不勉強なのが多い。話しが面白くない。その点牧師の教会は仲々理路整然で話しも一般的に立派だが、畳の部屋が無いのが難点である。チョッと上がってゴロリと横になれない。いい夢を見れない。意識をしっかりさせていないと地獄に落ちてしまいそう。その点、神社はいい、中身が空っぽだから。実に静かだ。しかし難点は祝日祭日等に日章旗をサラリと立てるのは良いが、大仰に2本クロスでブチ上げたりするのは困る。食堂に日章旗はいらない。話しがズレてきた。

であるから、少し離れて新大久保近江屋となり、新宿南口味王となってしまう。味王のオバアちゃんは転んで顔を打ち、女子医大に入院していたが退院したそうだ。しかし、二度と店にはもう出られないらしい。本当に人生はアッという間に変る。アノ、オバアちゃんにも、もう会えないし、オフクロは幽明境の人になった。と、ここでゆく河の流れは永嘆し、アーとか、オーとか言えばそれで終りなのである。それを静かに、しかし冷やかではなく笑って見過ごしてゆきたい。全く、人間ってのはしみじみと笑うに値する者ではないか。社寺仏閣聖堂と食堂を比べたりして罰が当たるぞと言う向きもあろう。しかし、食堂は金を払えばメシを喰わせる。社寺仏閣聖堂はそれさえも無い。三井寺とか、清水寺とか名乗る前に、三井屋とか清水庵とか名称変更して、せめてモリソバ位を出せ。仏教は日本に於いてすでに死に体になっているが、坊さん連中は捨て聖までやれとは言わぬが、ソバ屋のオヤジ位にはなってほしい。北朝鮮の金正軒じゃない金正庵だったかみたいに全て世襲はまずい。ガラス張りの民主主義も場未のキャバレーみたいでイヤだけれど、せめて曇ガラス貼り程度に利権公開した方が良ろしい。

それにつけても教会で宗派を問わず、十字屋なんて看板上げてパン屋などを始めたら、信徒は増えるであろう。先ず、わたしが入信するだろう。更に、あらゆる神社を昼寝の場所として開放せよと言いたい。あの空ッポは人間が入って初めて価値を持つ。

五時半再眠する。

342 世田谷村日記 ある種族へ
十月七日

十一時過寺町妙高寺訪問。住職と久し振りに再会。四方山話しで旧交を暖める。六十八才になられたそうだ。十一時四十分、高源院訪問。勿論住職は葬式で不在であったが留守の人に色々と伝言を頼む。十三時前、烏山北口のそば屋、さか本へ。お母さんに紹介される。古いとても良い食堂である。十四時半葉山珈琲にてオーナーのM氏に紹介される。O氏は地元に顔が広い。

山形の長澤社長と話す、温泉付の墓地と寺の話し。十六時新宿私用。今日はすでに三〜四軒コーヒー店他を流れ動いており、腹がすでにコーヒー腹で何も入らない。それでも十七時半に約束があるので、一時間の時をつぶさねばならない。長野屋食堂にもぐり込み、お母さんとムダ話しながら、何本かの便りを書く。マメですねとからかわれる。今日は予定が大いに狂い、三時間の穴が開いてしまったが、こういう時が一番苦しいな。下高井戸で烏山まちづくり協議会会長にバッタリ会って驚いた。

新宿南口の大混雑の人の流れを、薄暗い食堂の中から眺めていると、世の中から取り残されたような気分になるが、その世の中自体が何かから取り残された風もあり、あるいは人間が生きる現実とは別の風景を視ているような、妙な、実に妙な気分なのである。スペインの町などに典型的なカーンと音のするような、人影もない道の空気がここには全くない。

つまり、孤独な魂の気配が無い。ここだけではなく、恐らくは日本中に無いのではないか。本格的な創作は仲々生まれにくいだろう。な。ここからは。

十七時半、例によって味王で難波和彦先生と会う。

難波さんは今や話せる数少ない設計家だが、色々と人間関係について教えられた。しかし今更この年になって根の生えた俗人とまともに附合えるかと、言明。俗人とはどの類かと問われたので、それはね、この味王のお母さんや、おバアさんやらではないのです。知識人の衣をかぶった低劣な人格の群なのだと、申し上げたのだが、通じたか。

彼は私の為を思って言ってくれているのだけれど、私は本当にイヤな風俗知識人はイヤなのである。十九時半早めに切り上げる。客がまだ誰も来ない時であったので、店を借り切った風になった。

彼は近々、大海の幻庵見学会(DOCOMOMO)に参加するそうである。カーンと音のする空虚を味わってくれる事を祈る。今夕は鈴木博之さんは顔を見せなかったが元気に近代建築博物館創設準備に走り廻っている様で心強い。

二〇時過世田谷村に戻る。「UP」と「紫明」が届いていたので、「庭師小川治兵衛とその時代-2」鈴木博之。「運命とタンゴへの愛着-ボルヘスに寄せて」福野輝郎、を拾い読む。福野氏は評論家、キタノサーカス主宰という人物で初めてその文を読んだ。紫明は不思議な雑誌で、その表紙を山口勝弘が描き続けている、能から現代美術、考古学迄がゴッタ煮状態のまさに雑誌である。UPと同じ版形であるが実に対照的でもあり、良く似ていると言えば良く似ている。

十月八日

五時半起床。寝床でボーッと想いを廻転させる。廻転させる程の想いではないけれどね。平野甲賀にもらった小振りの湯呑みで熱いお茶をすする。

この茶碗は平野の手になるモノで実にわたしの手になじむ。彼は手離したくなかったのだが、強引にさらってきたものである。平野甲賀の手は実に精妙なのだが、その手の特質が良く表れていて、これはかなりの良品なのである。今でも平野甲賀は手びねりの器を作っているかは知らぬが、わたしのところに来たモノが恐らく彼の終生の傑作であろう。友人に電話して元気な声を確認して、十時世田谷村を発つ。

341 世田谷村日記 ある種族へ
十月六日

十時半過烏山神社参る。十一時前南バン茶房で郵便等整理。十二時半過、至誠館愛児院、近藤理事長にあいさつ。十三時京王稲田堤さくら乳児院なしのはな保育園工事現場定例会。工事は一階の型枠工事が進行中。予測通りのスケールでスケールの計算違いは無い。

年内に四階迄打ち上げねばならないので、工事のスケジュールはタイトである。一日一日が貴重で二十時前まで様々なチェック及び討議。この建築は病院クラスの設備仕様となっており、設備、電気との取り合いにエネルギーを費やす。なんとか、良いモノを作りたいと、打合わせは綿密に続ける。ボルヘスも井筒俊彦の世界とも違うけれど、建築を作ると言うのは雑務らしきの連続である。

しかし、建設会社、設備、電気共に協和的チームになりつつあるので不安は少ない。設計者だけで建築は出来上がるものではない。

二十時、担当の渡辺君に、何種類かのコンピュータ・サイトの情報データを渡して別れる。延々七時間の打合わせであった。建築とは打合わせの連続の結晶でもある。しかし、体力勝負だな。

二十一時前、世田谷村に戻る。明日の高源院VS品川宿まちづくり協議会の会合について、最終確認したところ、どうやら葬式が入って明日の住職は午前中はつぶれてしまったとの事。あわてて品川宿の堀江氏他に連絡して、明日の会合は延期とする。お寺との約束は人間の有様と同じに定めが無い。

しかしながら妙高寺へは行かねばならぬようである。

月下美人の大輪の花が四輪一気に開花する。ふくいくたると言うよりも、むせ返るような芳香が室内に満ち溢れる。ちょっと溢れ過ぎて、これは眠れないかも知れぬ。ドリトル先生動物園倶楽部の事務猫白足袋は流石に賢い。月下美人の香りの風上で眠ろうとしている。風下ではとても、いかにタフな事務猫でも眠れはしないであろう。

十月七日

七時過起床。月下美人四輪すべてしぼむ。それぞれの種族のきまりではあるが、必ず繰り返されるのが凄い。植物には植物という妙な普遍はない。個別の特殊、それも見事な特殊があるだけだ。その特殊の中に深い普遍が潜むのを感じる。人間達も、その生きる道具でもある建築も同じではないか。月下美人はしおれたが、部屋の陽で種の名を知らぬランらしきが咲いた。アンコールワットを訪ねた際にホテルの裏庭に咲いていたのと同じ奴である。亜熱帯にも秋はあるのかな。あるとすれば今の世田谷村の内景がそうかな。あり得ぬ花達の風景を視ているらしい。庭のクヅのツルの成長がピタリと止まった。遂に釣り上げようとしたのは家には届かなかった。人間の浅知恵である。我ながらオカシクて笑った。

昨日、前橋の市根井さんから一片のスケッチが送付されてきた。一球一脚についての実にコンセプチュアルな考えが示されていて、驚いた。一球一脚はこの筋でゆくのが良いと思う。烏山神社の小さな森を北の窓から眺めるに、樹々の上の葉陰には多くの鳥達が暮しているようだ。鳥影が動く。

気がつけば、二、三日前からTVも新聞にも一切眼を向けぬようになっている。極く自然であるのが自分でも妙だ。

十時世田谷村発、烏山神社に寄って、O氏と待ち合わせ寺町妙高寺へ。

340 世田谷村日記 ある種族へ
十月五日

十時半烏山神社参る。何を祈るでも無いが、手を合わせる。とどのつまり神社は中枢が空虚なのが気に入っている。十一時半研究室、スケジュール等々確認に手間取る。十三時M0卒論ゼミ。十四時過了。アニミズム紀行5、12冊にドローイングを描く。秋になって又、少しずつ売れてきたそうだ。早く絶版したい。が、まだしばしであるな。この号は本当に記念すべき号になるのに。惜しいな。何が惜しいって、ウーム、仲々いはく言い難い。

十六時半、新宿南口長野屋食堂で遅い昼食。久し振りに食堂のお母さんと雑談する。

柔らかい風がゆるりと流れるとても良い夕暮になった。

ドリトル先生動物園倶楽部の皆さんに通信2を独人で作成する。この通信は他人に任せる訳にはゆかない。一歩間違えば本当にタダの冗談話になってしまうから。かと言って小賢しいテクニックを労したイヤミな通信にもしたくないし。こんな時に人間の地力が出てしまうようなきもする。

バウハウス大学のカイ・ベックよりバウハウスギャラリーでの石山修武展のオープニングを2011年の一月十九日に設定したいと言ってきた。今度は逃げられないな。来年は展覧会を多く開く事になるかも知れぬ。

十八時前、ドリトル先生動物園倶楽部通信2書き終える。 

十月六日

八時前起床。昨夜より書き始めていた「耳管の宮庭園の旅、千洞千一夜」を書き続ける。昨夜書いた(13)のスケッチ、一夜明けて見返しても安心出来るモノなので公開する事にする。ありがたい事に今やり始めている事が2008のカタログ中「電脳化石神殿窟院群」とのつながりが意識できるようになったのでとても嬉しい。いつも希望と不安、光と闇の中で製作は進んでゆくが。2008年の「電脳化石神殿窟院群」銅版画シリーズは、わたしの中では完全に建築の仕事だったのだが、非力でそれが上手く伝わらなかった。電脳化石神殿窟院群は地上の何処かに(2008年夏は世田谷美術館の展示場の一室に)在る窟院群の壁にかかれた、あるいは彫り込まれた壁画、レリーフ、彫刻、建築モデルをほったものであった。

2年経って「耳管の宮庭園の旅、千洞千一夜」の旅を始めてようやくにして、アレ、2年前の試みの意味らしきがわたしの脳内に、そして気持の中に意識されるようになった。何事も洞穴の如くに繋がっていなければ意味は薄い。2008年夏から2010年の夏を経て、2年、わたしは実に大きな制作の転換をしている。

しかし、そこには連続がなければ転換の意味も薄い。人間は2人を生きる事は不可能だからだ。

建築がみる夢は荘子の蝶の夢に似たものであったのを今は知るのである。あのままではいけなかった。ようやく動く事が出来る。

ドリトル先生動物園倶楽部の事務猫白足袋が早朝大騒ぎしているのを夢うつつで聴いていたが、今は南の陽だまりの中で寝ている。オイ、タビ(白は省略)、といったら、口を開いて応えるかと思ったら大アクビであった。猫には猫の苦労もあるのだろうが、人間よりは楽しそうだ。

以前から考えていた、美術館をサイト中に作り込むことを始める。第一階の展示は山口勝弘の「スペイン夕餉のためのアダージョ」である。小文を書く。十時半修了。昼に渡邊助教に今朝撮影したデータを渡して明日には開館出来るであろう。

ハイアートばかりのコレクションではなく、展示は続けていゆくつもりである。

339 世田谷村日記 ある種族へ
十月四日

十一時研究室、前橋の市根井さんと木製家具シリーズの打合わせ。三脚目のオリジナルが完成し、仲々の出来栄えである。市根井さんの身体の中にほんの少しでもわたしの考えが伝えられ、積み重なってゆく現実を視るのは楽しい。A3WORKSHOP創設以来の彼は大事なわたしの教え子でもある。47才の。本当にわたしが彼に学ばなくてはならないのかも知れない。自分をいましめる。

十三時地下スタジオ。早大東大合同課題出題。「三年間の合同課題を振り返って」他の小レクチャーを行う。渡辺助教より課題説明。千葉学先生よりアドバイス他。両校合わせで120名、早大61名東大60名のバランスのとれた参加となった。十六時半了。

十七時前発、地下鉄を乗り継いで都庁前、都庁地下でソバを食べる。遅過ぎる昼食である。抜こうと思ったが、どうやら持ちこたえられぬ。十八時過パークタワーOZONE8Fセミナールームへ。DOCOMOMOセミナー・レクチャー「幻庵をつくらせたもの」。耳管之宮庭園の旅、千洞千一夜でも書いたけれど、幻庵主榎本基純の記録に関して、レクチャーの形にした。作家は処女作に戻ると言われるけれど、最初に最新作「時間の倉庫」「水の神殿」を、そしてひろしまハウス、世田谷村、幻庵について。ラウンド・アンナプルナの旅に榎本さんの姿が残る写真が数葉あったので紹介した。白いヒマラヤの峰々の姿の中へ歩き込む榎本さんの姿を見て、アニミズム紀行5で描いたキルティプール計画を想った。二〇時迄のレクチャーで三〇分程参加者とのやり取り。二〇時半修了する。

DOCOMOMOの皆さんは、近日、幻庵を訪ねるそうである。心静かに楽しまれたい。市根井さんもツアーに参加するとの事でビックリした。

二十一時前、新宿南口、味王にて市根井さんを囲み会食。二十二時半頃了。お別れして、世田谷村に二十三時半戻る。何本かの便りが届いていて目を通す。

十月五日

八時起床。流石に早起きは出来なかった。豊島北教会、芳賀繁浩牧師の長文の手紙を再読。わたしの浅薄な宗教観を痛切に、実感する。わたしの古代アレキサンドリアの史実に対する誤りも指摘されていて、頭が下がる。ここは怪しいなと思いつつ書いたところだ。確かに古代アレキサンドリアに7世紀生まれのイスラム教が流れ込む筈もない。ユダヤ教の間違いであった。芳賀牧師は井筒俊彦の「ムハンマド伝」は読んでいらしたが、「意識と本質」に挑戦しつつあるようだ。リタイヤ寸前らしかったが、再挑戦中のようである。わたしもリタイヤ中であるので励まされて、再び入ってみるつもり。牧師さんに励まされた。「コーラン」は挫折続きとの事である。キリスト者の理知的信仰のロジカルさは実に敬すべきである。わたしにはキリストの影も視えぬが、牧師の姿は思い浮かべる事ができる。

又、芳賀牧師は「幻庵」と「時間の倉庫」の同位性を見抜かれて、わたしよりは率直に礼拝堂として捉えて下さったようだ。ただし、現代日本社会ではその空虚(良い意味での)が倉庫としてしか現出し得ぬとされ、この空虚を埋めるのが宗教者(キリスト者)としての自分達の課題であると、伝えて下さった。

生前、幻庵主榎本基純が「幻庵は教会堂になってもいいんだ、どうして皆そう考えないのかな」と言っていたのを強く想い起した。牧師は、日本人のキリスト教信仰そのものを、「擬」洋風、否「偽」洋風として自覚した森有正の「アブラハムの生涯」への「ノートルダム」であるとも教示された。何年も前に親戚の倉敷の寺院の墓を訪ねた時に、その墓の秘かに隠された十字架の群を実見し、信仰の不可思議さと強さを想った事共も想い起される。

338 世田谷村日記 ある種族へ
十月一日

六時半起床。メモ他記す。電話、FAX不調で遠からぬファミリーマートまで送信に歩く。夏の日の猛暑と青空は今は何処へ。雲天と何も無いけだるさのモヘンジョダロを通り抜ける。昨日のまちづくり協議会で区民の皆さんに配布された資料中に第1住宅団地の通り抜け道らしきが記されていたので、取り敢えずは今歩いている道は何とか守れるかもしれない。しかし、東西の通り抜け道路を遊式計画と呼んで新たに小さく2本付け加えてあったのは区役所の予防線であろう。役所にも仙谷官房長官みたいな小才のきいた悪代官的戦術家風がいるのかもしれぬ。

5枚程FAXして、又同じ径を戻る。

十一時半過ぎ再びモヘンジョダロを通り抜けて、京王稲田堤、現場定例会へ。十二時半なしのはな保育園+さくら乳児院現場定例会。1階の型枠が大方修了。園庭とのバランスが把握出来る。予測通りである。都市内施設としては充分である。

十六時半前、途中で抜けて明大前、渋谷経由青山へ。ときの忘れものギャラリー、宮脇愛子とマン・レイ展オープニング。宮脇さんには久し振りなので楽しみだ。

十七時半、南青山のギャラリー。宮脇愛子さんマン・レイ展オープニング。沢山の人が満ち溢れている。三宅一生、小池一子、槙文彦等の諸先生にお目にかかる。

昔、アンクールなるBarで飲んでいた井上氏にもお目にかかる。彼には送っていただいた2冊目の同人誌をクソミソに評した事があるので、気にしていたので、マ、面会出来て良かった。沢山の所謂スター達が満ち溢れる会であった。

十九時前、TAXIで近くのソバ屋に移動。何人かの知り合いと共に宮脇さんとの旧交を温める。愛子さんおわり迄つきあう。大変だったろう。二十一時修了。皆と別れて地下鉄大江戸線で新宿経由千歳烏山へ。

二十二時半世田谷村に戻る。

ときの忘れもの、ギャラリー主、綿貫不二夫、令子さん御夫妻共にお元気な様でなんとなく嬉しいのであった。他人の元気が嬉しいのは、自分の不元気のせいではないかと、フッと想う。良くないなぁ。

橋本平八と北園克衛展カタログ、読みふける。

知らぬ事を教えられるのを実感するのはジワリと嬉しい。ジワリという活字に対する速力の機微(コンピューターの画面とは異なる)だろう。遅いけれども気持の底に降り積もる感じ。カタログを読んでから展覧会を視る機会はそれ程多くなかろうけれど、頭から入るってのも面白いだろう。言葉で理解しようとしてから、実物を体験するのは、眼の力を批評するに等しいな。

十月二日

五時前、起床。メモ、手紙を記す。六時過了。小休。今日は八時五〇分に世田谷村発、私用で逗子に出掛ける。四日のドコモモの講演会、および東大との合同課題でのミニレクチャーのシナリオに少し計り手を入れているので、何処からか研究室に連絡を入れなければならぬ。ケイタイを持たねばならぬ日が迫っている悪い予感がする。街の何処からも公衆電話の姿が消えた。

十月三日

昨日(十月二日)は朝から逗子マリーナで月光ハウスのNさん、月光号クルーのZさんはじめとする皆さんとお目にかかる。私用含めて色々とお世話になった。ヨット月光号のクルー達は字義通り、まさにある種族である。ヨット世界選手権5位を含め、日本最高のヨットクルーであり、その矛盾に満ちているが実に面白い人達なのだ。迷走を続ける日本には必須な人材群なのではなかろうか。小さな湾を挟んで行動的右翼石原慎太郎も間近で、クルーは石原さんとも近い。まぁそれは兎も角、月光クルーとの附き合いは大事にしたい。世田谷村に戻ったのは二〇時半であった。

明けて本日は日曜日、流石に一日休みたい。宮崎の藤野忠利さんより、便りいただく。娘さんの藤野ア子さんが宮崎市に開店した「AKOバンダナショップ」の新聞記事(宮崎日日新聞)が同封されていた。ア子さんは乳がんの闘病経験をお持ちで、苦しんだ末の開店である。

色彩画家としての才質が、こういう形で開花されたのが嬉しい。ホクホクせざるを得ない。ア子さんの絵は何点かわたしも所有しているが、ベトナム産の布地の良さと共に、本来の色彩感覚が花開いたと想う。近々、町づくり支援センターのコーナーで紹介したいが、取り敢えずは問い合わせ先をお知らせしたい。

0985-24-1367

世田谷村にも、ベトナム製の擬アンティーク家具が2点ある。ベトナムの器用なモノ作り能力に接する度に、カンボジアのそれの低迷を想う。ポルポトによる知識階級ジェノサイドの後遺症はいまだに癒えていないのだ。クメール文化のあれ程を達成した人々が、今のママである筈はないと思いたいが、エジプト、ギリシャ文明の今もあるから、歴史の酷薄さは深く重く巨大だ。

品川宿まちづくり協議会長Hより連絡あり、十月七日目黒川源流の烏山寺町高源院を訪ねるのでアレンジせよとの事。向風学校の安西直紀にも声を掛けるか、彼は品川と烏山の丁度中間点に住んでいる。灼熱の夏に動いたのが涼しい秋にようやく動き始める。他も推して知るべし。

夕刻、来客あり、近くの宗柳で会食。今日は一日休ませていただき良かった。こんな日があっても良いのだ。様々な人と会い仕事のみならず、会話を交わす。それなりのエネルギーを当然ついやす。ボルヘスの短編をひとつ読むのと実は同じあるいはそれ以上のエネルギーを費やしている。でも、どうしてボルヘスを読むと赤裸々で、だからこそ俗で強いエネルギーがシーンと消えてゆくのだろうか。独特だなこの感じは、ボルヘスは脱力するのです。余程何かの力が働くのだな。何故だ?

十月四日

四時二十五分起床。耳管宮庭園の旅、千洞千一夜、(12)書く。

五時十分修了。長い旅の良い入口にようやくデザインできたと考える。五時十五分再眠、非常に眠くなった。良く眠れるであろう。毎日毎日人間は仮死しているのだな、と良く解る。

九時過再起床。眠り過ぎである。十時発研究室へ。曇天である。

9月の世田谷村日記