9月の世田谷村日記
313 世田谷村日記 ある種族へ
八月三十一日

九時半、東急玉川線松陰神社前M邸現場。野村、市根井すでに現場にて作業。M夫妻ともお目にかかり、M邸工事の最終のつめの打合わせ。居間の詳細デザインを直接市根井君と協同ですすめる。市根井氏が小型トラックで運んできた材料と工具で、居間の中心的デザインのフィニッシュを試みる。市根井君の大工としての才質は、実に精度も良く、仕事も速い。二時間程の作業で、細部の全体を完全に把握できた。

昼食は猛暑の中、少し歩いてソバ屋へ、熱いカレーそばを食べる。休息もせず、午後の作業にかかる。自分でも夢中になっているのがわかる。小さな部分の、わかりやすく言えば大型家具作りのような作業なのだが、机上のスケッチやコンピューターでは決して得られぬ、モノとクライアントも含めた作る主体、職人とデザイナーの一体感が得られている。恐らく、新しい、未知の世界に踏み込んでいるのを自覚する。

古い神棚に竹の吊り柱をとりつけて、居間のカモ居から上の部分、つまり人間の歩く自由をさまたげぬ1800mm以上の天井高の上の部分に手を入れた。いずれ間近に写真で公開したい。この作業は理論化も含めて連続させたい。十八時迄休みもとらずにWORK。流石に市根井さんに疲労の色が視えてきた。だって、わたしはズーッと立ち会って、寸法を決め、形を決め、素材を決めているだけ。切ったり、貼ったり、つなげたりの力仕事は全て市根井君なんだから。疲れたと思うよ。独人でトラックを運転して前橋迄帰るのだから、充分に気をつけて帰られたい。

十九時前、わたしも疲れて世田谷村に帰る。何とか、この方法を仕事としても持続させたい。

他人の夢をのぞき込む。あるいは自分の夢を、他人の夢をトンネルにして聴診する。そんな事を始めようとしている。夢といっても、こうしたいああしたいの夢ではない。眠りの中に現われる無意識の底。失礼をも省ず言うが、わたしは奈良のW氏の作る実物としての建築にはそれ程の関心を持つ事はなかった。例えて言えばわかり易かろう。荒川修作氏の建築らしき、かつての石井和紘氏の建築を体験するに同じ類の辛さがあるからだ。辛さとは何か。他人の建築作品を体験するわたしの辛さ。それと共に、建築を建築作品たらしめる自律的で保守的な技量とも呼ぶべきの不足を見るに、感じざるを得ない辛さでもある。荒川氏の建築作品はそして、かつての石井氏の作品は最低限必要とされるべきデザインの技量が備わっていないのである。

そのような巨大な欠点を持つにもかかわらず、W氏をわたしは実に敬愛して止まないのである。何故ならば、W氏には他に比類なき夢見る力の所有者であるからだ。夢見る力とは、ある意味では誤読する特権である。誤読とは通常な、俗な世界の表面を突き抜けて、深く事物の歴史の底へ降りていく事でもある。通俗すなわち現実でもある。

誤読には深い透視にもつながる歴史のアイロニーがある。又、わたしがW氏を敬愛するのは、そのアイロニーの中に深い透視が、幻視へと気化する、一種の悲劇をも視るからである。

このように記している自分はすでに充分に悲劇的ならぬ、充二分に喜劇的にさえ他人の眼には写るんだろう位の事は知りつくしている。そう考えてくれる人は数少ないだろうが。

W氏について、わたしは度々コンピューターサイトで触れてきた。サイトでのコミュニケーションは驚く程に浅く、広く、しかも速い。勿論、人々はすぐに忘れる。しかし、その速さの中にも深い現実は在る。W氏に触れるたびに読者のさめざめとした眼をわたしは感じ続けた。別に多くのメール等をいただいたわけではない。でも解るのだ。それ位に今の時代の趣向らしきとW氏の透視力は大きなへだたりがある。それは確実に在る。都市としての京都に女性の黒髪のうごめく生体観を背景として視てしまう。その明らかな誤読にわたしは悲劇性を視ている。

九月一日

七時前起床。メモを記す。クズの葉のツルがジワジワと家に接近してきている。今日から九月か。先月も今日から八月かと実感した。今年の正月には今年は2010年かとつくづくとつぶやいた。その事を思い起す。年月の流れ程酷薄なものはない。誰もがそれに抗し得ない。確実に積み重ねられるのは刻々と通過してゆく現実と過去だけである。

312 世田谷村日記 ある種族へ
八月三十日

朝、まだ気温がそれ程うなぎ昇りに上がらぬ頃。新聞受に朝刊を取りに行った。新聞の固まりの下に、一通の封書があった。昨日、とり忘れたものかも知れない。奈良住まいのW氏からの便りだった。又、ギョッとするような本でも書かれたか、その構想についての便りなのだろうか。二階に上って封を切った。とんでもない事が記されていた。

W氏はいつもとんでもないモノを作り、とんでもない説を立ててきた人物である。

十時過近くの喫茶店南蛮茶房で酷暑を避けメモを記す。十二時前発京王稲田堤の建築現場定例会へ。大人数の会議となった。二十時過迄。二十時半世田谷村に戻る。

W氏は決して、俗に言う夢見る人ではない。むしろ自分の根深い欲望に素直な人だ。つまり俗人ではない。それはおいおい述べる事にして、手紙にはこう記されてある。W氏はコンピューターを使わないから手書きである。流麗な達筆でだ。書体は人を表すものなのか否か、まだ知らぬが、これもいつも不思議に思っている事である。W氏の書体は女性のものの如くに柔かく、毛髪が流れるように美しい。

「冠略。突然ですが、一昨日夢をみました。普段滅多に夢などみないので、自分でも驚いています。しかも、どうやらわたしの珍しい夢が貴殿に関わりがありそうなのです。それで一筆したためます。

貴殿とのやり取りで何葉かのドローイングをお送りしました。下手な絵で恥ずかしいが、わたしなりの都市への考えを、しかも京都という面妖な都市への考えを図にしてみました。あのドローイングは貴殿のコンピューターの何処かに収蔵されていると思はれますが、あの女の黒髪と京都という歴史的都市が重なった絵は、いささかの自信がありました。あのドローイングが夢のはじまりでした。」

八月三十一日

七時前起床。メモを記す。九時過M邸現場へ。

世田谷村のクズの葉のツルがどんどん家に迫ってきている。この眼に視える位の速力というのが恐ろしい。W氏の京都の女、というか歴史に棲む妖怪のようなモノが描かれたドローイングを想い出させる。ズルリズルリと家にズリ寄ってくる、ツルの葉の生命力、寄生力と言うのかな、それを感じているので、それでW氏の事共を想い起しているのだろう。どうなってゆくのか、楽しみである。

311 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十七日

十一時研究室、雑用。十二時過、大工市根井さんと打合わせ。彼との協同の三球四脚の、それぞれの、あがりを視る。当然の事ではあるが、視れば視る程に口を出したくなる。ああしたい、こうしたいを言いたくなる。木をけずり、絶妙な技を注ぎ込む職人市根井さんをわたしは大いに認めている。その兼ね合いのバランスの中から微細な表現の価値も生まれる。三球四脚の3号迄を厳密にチェックし合う。いいWORKである。十六時半とり敢えず休止。遅い昼食へ。

十八時前打ち合わせを含めた昼食をおえる。2011年のドイツ・ワイマールバウハウスで予定の石山研の展覧会に三球四脚をはじまりの室に出品する事を市根井さんに告げる。ああ、そうですかだって。仲々いい、こういう姿勢は。職人は職人の世界があるからね。

只今、十八時半、京王線桜上水駅通過。十九時前世田谷村に戻る。井筒俊彦「意味と本質」を続けて読む。まだ60ページも読めない。自分の力の及ばぬ本には何冊も何十冊も出会ってきたけれど、これは又別格だ。しかし、何が目的で書かれた本であるのかの、それこそ本質らしきは解る。西欧思想とイスラム教を含む、そしてギリシャの思想を含む東洋思想を共時的に説こうとしている。恐るべき壮大さを持つ。とても不可能であろうと思いつつ読むが、井口先生の不可能を可能にする如きの根拠は先生がイスラム教に精通されており、ペルシャ語で原典を読み通し、理解可能な事である。サンスクリット語でヒンドゥー思想も読み切る巨大な才を持つ。

哲学者の木田元は哲学者を育てる為にはフランス語でもドイツ語でも原典を一行一行丹念に読んでゆくのが初歩だと言っていた。中世の建築が一つ一つの石を積み上げて伽藍を作り上げたのと同じだなと理解した。どうやら、この書物はその様式らしきが目指されているのが本能的に了解される。一片一片の書かれた言葉の積み上げ方を読まなくてはならない。かつて三島由紀夫が自死(割腹)する寸前に残した武田泰淳との対談で井口先生の書物に触れて、一度や二度読んでも解らないと正直に言うのに対して、文学者としては最良の頭脳の持主であったろう武田泰淳が、井口さんは難しい、解らせようとするサービス精神がカケラ程にも無いからなあ、と返していたのを記憶している。武田、三島にそこ迄言わせる井口先生の書物に恐れをなして、それで接しなかった。わたしはわたしの頭脳の性格を良く知っている。さわらぬ神にたたりなしとあきらめていたわけである。今、粗雑な脳ミソなりに読もうとしているのは、どうやらこれからやりたいとプランを立てている事共には必要になってきたの直観があるからだ。でも、むずかしい。しかし、面白い。わたしのような脳ミソでもいたく刺激するのである。トホホの読書だ。

1ページのうち、解るような気がするのが1行くらい。というよりも、60ページで、成程ナアと思ったのが、半ページ位なのだ。でも面白いというのはコレは何なのだろう。人間の脳のキャパシティは自分で想定しているよりも余程大きいのかも知れない。アキラメルことはない。少しずつ読み進もう。

八月二十八日

七時起床。

京都の5才の子供さんからドリトル先生動物園倶楽部への入会申し込みと1000円が送られてきた。その子に小さなドローイングを送ろうと思って、郵便局へ行ったら、土曜日は休日であった。暑い中をトボトボ歩いて、コンビニへ。メール便で送る。段ボールに描いた建築のドローイングなんだけれど、5才の子供だって、どう考えてくれるかは判らんじゃないか?ブレーキが踏めない自分がバカだとは知るのだけれど、今更直りはしない。バカは直らないのだ。

井筒俊彦先生のような知性は5才の子供にどう話しかけられるのかな。恐らくやはりブレーキがきかずに「同じセム族の生まれであったキリストさんとね、原始ユダヤ教の人たちね、それからイスラム教のね、シーア派という種族の人たちはね、それから忘れてはダメなのだが、ギリシャのアリストテレスなんていう人たちはね、同じところからXとして生まれる花なのだよ、君」なんて話しかけるんだろうな。それは正しい対話なんだと思うね。

だって、あらゆる本質論、原理論は子供たちの思考への想像の如くと酷似せざるを得ない。5才くらいの子供は皆井口先生が到達した思考形式をおのずから持っているに違いない。

子供たちの描く絵は皆何故具象であり、なおかつ美しく歪んでいるのだろうか。

八月二十九日

六時起床。Xゼミを記す。今日で海老原一郎、倉田康男は一区切りにしたい。高山建築学校主の倉田康男は今のように建築が鬱屈した時代には新しい謎として現われてくるのだ。

井口俊彦先生の「意志と本質」ようやく110ページまですすむも、相変わらず中に入る事も出来ない。井口先生も又、知の古典主義者であったのかと、思ったり。Xゼミも仲々うまく書けない。暑さのせいだと言いたい。

何故か、心怪しく引きずるものがあり、念の為に調べたら三島由紀夫と武田泰淳の対談で、三島がむずかしくてはじかれたと言っていたのを調べたら井口俊彦のものではなく宇井伯寿なる人物のモノであった。修正しておきたい。別に誰が気にとめるものでもあるまいが、自分で気になるので。しかし、「アーラヤシキと梁汚法(ぜんま法)の同時更互因果」というのが唯識の絶頂だなんて、勉強の仕方をしてしまうと、現実に空を体験する、死を急ぐという異常さが、異常だと考えられなくなるのだろうとは憶測する。

この日記もいずれそんな風になってゆくのかも知れない。夜、カンボジア風の水浴をする。シャワーなんてケチなものではなく、大きな洗面器に冷水をたっぷり注ぎ込み、ひしゃくでザブザブと身体にぶっかける。キリリと体が冷えて実に気持良い。こうなってくると人間も動物の一種に過ぎぬのを良く知るのである。カンボジアの方がしのぎやすい感じだな、ここ一週間程は。

3球4脚の物語りを作るノルマを自分に課しながら、無為の日を二日も流してしまった。二日は惜しい。TVの馬鹿番組にいら立つくらいなら、もっと没頭しておけば良かった。でも没頭できないママなのも自分の才質なのである。悲しいものだ。井口俊彦先生は110頁まで進んだけれど全くわからず、これも悲しい。無残である。

3球の球はプラトン立体の球、あるいは菩薩が持つ宝珠らしきを表している。要するに混乱する自分を整理して止まぬ思考の表われだ。

4脚の脚は人体、生物のアナロジー、要するに混乱そのものの動く生命を荷っている。球を球に静的世界の中にとどめ置きたくない表現である。3、4の数字は連続してゆく物語りへのメタファーだ。何処行くのかの、生の現実としての時間を示そうとしている。

球と脚の形の組み合わせを考えたのは上海だった。上海のシティースケープのシンボルであるあのTV塔の形とスケールに触発された。上海のTVタワーは良く知られるように、アーキグラムの中国版キッチュの典型である。アーキグラムの残したドローイングにロン・ヘロンのウォーキング・シティーがある。恐らくは、このTV塔の設計者はそんな事はおかまいなしであった。その純朴さがこの塔の不思議な精気を生み出した。世界有数の中国古代青銅器コレクションが上海美術館に在る。

そこで眼を引いて、釘づけになったのが鼎の青銅器である。驚くべき生命力を持つ形の器の群である。この器の群には上海のTV塔のフォルムとの類似性がある。どちらも何かの形、TV塔は完全な球形、器は恐らくは神酒の容器としての形に、双方共に脚が、生々しい生物のような足が生えている事である。

上海のTV塔のデザインが殷周時代、すなわち中国古代文明との脈絡を持つにちがいないと思い込んだ始まりである。殷周時代の儀式に必須の器、鼎の形や、それに刻み込まれている文様は、日本の縄文土器と類似性がある、しかし、日本のは土器であり、中国のは青銅器である。中国と日本の歴史の厚みの相違を知らしめさせる。

八ヶ岳山麓の縄文遺跡で、日本を代表する縄文土器を見学した時に、その陳列に中国古代黄河流域の土器やクレタ文明の土器が同じに並べられており興味深かった。地球上何処でも同じような形を人間はイメージするのだなと痛感した。でも、中国古代の青銅器はひとり独自であった。鉄器文明の始まりと言われるトルコアナトリア高原のヒッタイトの遺跡には何も残っていない。形あるものは。それを作る手間、労力、他を考えると金属器と土器の間には別世界と呼んでも良い開きがある。日本の銅鐸等の出土品と中国古代の鐸は恐らく別系統の出身を持つ。銅鐸には記録の精神は在るが、祈りの気持がない。祈りの気持、すなわち生に対する異様な執着心と、裏腹な死後の世界への想像力とでも呼ぶべきもの。

フィリップ・ジョンソンのニューキャナンのガラスの家で、驚いたのは古代ギリシャ、クレタだと記憶しているが、の土器のコレクションが大量にあった事だ。ジョンソンの眼は半端ではない、彼のプライヴェートギャラリーはデュシャンや、軽いところではウォーホル等、誰の写真だか失念したが、遺跡の写真のコレクションもあった。それで、古代ギリシャの壺のコレクションがそれこそゴロゴロ転がされてあった。ジョンソンの創作力は見るべきものは少ないけれど、ジョンソンの眼、そして編集能力は桁外れに凄い。それは未来をも暗示している。人間にとっての創造とは、すでに中国古代の青銅器の時代に終っているのかも知れない。それは、呪力と同義であった。生への執念であり、同時に死後の世界への好奇心、すなわち想像力の厳正な意味での発露である。

フィリップ・ジョンソンのコレクションには中国、インド、日本のモノは眼に入らなかった。彼の編集能力はギリシャ迄であったのだろう。きっとそうなのだ。フィリップ・ジョンソンよりも方法的にジョンソン的である巨匠磯崎新。磯崎の編集素子とも呼ぶべき関心事は、ジョンソンよりは拡がっているが、やはり建築家という存在形式の宿命なのだろう、地中海に、亞ヨーロッパに限定されている。

とめどもない記録をひろい出して書つけるのは、それだけ3球4脚の行末に自分で関心があるから。流れて帰らぬアイデアの数々もあるから、それを忘れぬようにの、まさに日記、備忘録である。

310 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十六日

クズの葉の観察を続けた。西の、金属にからまっている緑の中に、ポツリと紫の固まりがある。二階の床を西へ歩いて近寄ってみたら、これが何とクズの葉(樹)の花であった。ブドウ状に群れた美しい花だ。紫の色は濃くて、やはり亜熱帯を想わせる。広島の木本一之君の夏は「獄舎と神殿」作りに明け暮れしたようだ。酷暑の中を、それでもやっているようで、心強い。

十四時前、有楽町東京フォーラム、G棟、東進ハイスクールの大学学部研究会。要するに高校生諸君に進学のすすめをする会である。各国立大学の先生方に交じって早大建築としても、キチンとやらなければならない。私学は早大、慶応のみ。先生方は皆学部、学科が異り、総勢15名程。メンバーリストを見るに東大をはじめとする国立大学の先生方の方が良い人材獲得の競争に対して危機意識が高いように思う。

一時間を超す講義と、質疑応答。十六時半前了。

十八時烏山にてO君に会う。二〇時前世田谷村に戻る。

3球4脚と名付けた椅子について。このネーミングには3つの骨組みが隠されている。命名、与名は作品にとって重要である。名は体を表す等の俗論もあるが、命名は特に人工物に対しては重要である。作者にとっては作品の命名はその作品の存在価値にかかわる。球という言葉には幾何学への志向を託している。プラトン立体を想い浮べていただきたい。人間によって作られるモノは自然のカオスに対して幾何学を持つ人工的立体でありたいという考えである。

それに対して脚は、明らかに人体の比喩であり、又同時に非幾何学的生体を表している。あるいは幾何学の集合としての有機体を表している。3、4の数字は、数字に託した物語りを表わしている。1つの形や1つのマテリアルの内に自閉する事が出来ない複製物が持たざるを得ぬ物語りである。これは大事な事なので、おいおい述べ続けてゆく。

つまり、三球四脚という我々が作り出した物体はそれら、ほぼ3つの作る意志の形式の複合体である。一つの軸だけでは成し得ぬという意識の表明でもある。

この物体の私的な歴史の祖型は実は上海での体験から生まれた。メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って.その9


八月二十七日

朝起きて、すぐクズのツルと吊糸のからみ具合の観察。昨日より10cm弱、建築本体に接近している。人間の耳がより精妙な感受力を持っていれば、この成長、接近の速力そのものが発掘しているであろう音声は聴き取れるのだろう。それは凄い音だろうと想像する。中世の宗教家、法然は「山川草木みな仏性あり」と言明した。その仏性の響きとは、日本的趣向をベースにしたアナロジーではなかった。法然はトレーニングにより感覚を研ぎ澄ませ、悟性の水準に迄高めた。そして樹木の、その集合体としての山の発する音を感得したのである。今日は前橋から三球四脚の市根井さんが来室される。これから先の展開を話し合いたい。一人の智恵は限界がある。

309 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十五日

都市を庭園の如くに体験できる主体の状態が今、考え得る庭園の設計の入口の一つであろう。それは都市を眺める主体の知覚の性格と質に関する問題でもある。現代都市の夜景、上空からのそれは空海の曼荼羅よりも、はるかに曼荼羅的世界であるとは、これ迄も繰り返し述べてきた。上空から見渡す都市の夜景は、空海の教王護国寺(東寺)の講堂、その諸仏の像の配置がつくり出す荘厳をはるかに超えている。諸仏がロボット宇宙飛行士の如くに背負った光背は、光の形象化されたものだが、現代都市の俯瞰図は、まさに光り輝く有機的連関を人間にすでに暗示している。

赤裸々に言えば、都市の夜景の光の端子は人間の欲望の表われである。電灯、発光体、色光は全て電気エネルギーの端末である。すなわちこの発光のエネルギーの素は人間達の消費の欲望なのである。

日本の1995年、つまりオウム真理教事件と阪神淡路大震災は近代史上まれな大事件であった。現実が芸術的表現を超えてしまう現実を我々は共有した。2001年NY、WTC事件は日本で起きていた世界の予兆が本格的に到来したのを示した。しかし、WTCに於いて我々は、カミカゼの再来をも視たのであり、現代技術の結晶が一個の人間の死を賭した理念の前にはいかに脆弱なものに過ぎないのかを再び知ったのであった。

20世紀末の情報の流れは極めて一方的なものであった。イラン、パーレビ王朝のホメイニ師による壊滅の革命は、ロシア革命をしのぐ20世紀最大の革命であり、事件であったが、我々の多くはそう考えてはいない。アメリカ、ヨーロッパサイドからの情報だけが流れているからだ。2001年のWTC事件は結局イラクへのアメリカの侵攻をもたらせ、フセインは殺された。しかし、我々が得ている情報の全ては反イスラム側の情報である。今も、イラクで何が現実に起きているのかは、米軍以外は恐らく誰も知らない。又、ホメイニ師革命のイランで何が起きているのかも知らない。イスラム教圏の都市を少なからず体験して、イスラム都市が最高度な庭園的状態を伝統都市に於いて実現しているのを直観している。

イスラム現代都市のモスク、神学校が現実化している状態は、極めて高度な庭園世界の状態である。メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って.その8


私用を済ませて、十四時過スタッフとスケジュール調整他。昼食をとる。十八時過余りの暑さに、世田谷村屋上に上り、散水する。屋上の草木もかなりまいっている様子で、30分程水をやる。西の空の雲のエッジが光っている。久し振りに空を眺めたな。

三時、目覚めてメモを読み直す。いささか整合性を欠いているが、ままよ、修正はすまい。これが正直な現実だ。この暑さはやはり異常だが、エネルギー保存の法則は宇宙間に於いても成立しているのだろうか。地球の表面の気温の変化と、太陽の黒点の大小の関係とか。

白足袋も起き出して南の開口部の木製建具で爪を研いでいる。白足袋としても、二才チョッとの猫生でこの暑さの体験はどんな風に彼の歴史の中に刻み込まれてゆくのかな。シンガポールの仕事がイスラム圏での庭園計画のゲートになってくれれば良いのだが、人生は短い。若い時にイスラムを学ぶべきだったと悔やむ。ところで、ネコは蚊にやられないのであろうか。深夜の世田谷村は植物達の生命がざわめいている。

八月二十六日

八時起床。クズのツル、朝の観察。二本の吊糸にすでに5つのツルがからみ始めている。そうだなあ昨日よりもそれぞれ15cm〜20cmはのびているようだ。このツルは恐らく10月いっぱいは寄生を続けるであろうから、確実に建築本体には辿り着くだろう。今現在、世田谷村の南西端にすでに複数のツルがからみつき、これは屋上近く迄成長している。一度雨が降りさえすれば驚くべきエネルギーで更に成長を続けるであろう。又、東側の一室にはすでにツルが室内に入り込んで室内に葉を繁らせている。昨年、余りの室内への緑の多さにもギョッとして、このツルは地面近い部分で切った。アッという間に緑は姿を消した。今想えば惜しい事をした。

クズの葉の一葉の面積は大きい。容易に日陰を作りやすい。欠点は寄生している樹にダメージを与える事だ。長所は何しろ強い生命力。とすれば、このクズを非生命体に寄生させればどうなるか。高層マンションの小テラスにクズプラントをそれぞれに設置すれば、アッという間に建築はクズに覆い尽くされる事になる。建築の表面温度は3度〜4度は降下するだろう。梅雨明けから急速に成長し、晩秋にはキチンと葉を枯らせてくれるから、亜熱帯気候の人間居住には味方になり得る種族である。

美学を除けば、である。最大の欠点が一つあって、見た眼があんまり良くない。亜熱帯風のオドロオドロしさ、つまり過剰な生命力そのモノのカタチをしている。でも、それは人間の方が少し修正すれば良い事である。今夏の如くに、道を歩くに日陰を伝い歩かねばならぬ位になれば、葉の形やら色合いよりも、それが作り出してくれる影が一番美しいという事になるだろう。アー、暑い。

北京の天壇建築の方円形は地球が太陽を中心とした円運動をしている事の表現のようだ。つまり、あの建築は自らが回転運動しながら同時に太陽を中心に更なる円運動をしている地球と太陽系宇宙のアナロジーである。天壇の塔は地軸である。国家の政事を亀の甲の卜占で決定する演技を始まりとする中国の歴史を良く表現している。

天壇を体験すると、今人間がよって立つ大地が回転しながら、更に大回転運動を規則正しく繰り返す現実がわかるような気がする。人間が理解可能な宇宙観の最小のモノが確実に建築物としてデザインされている。

その真理はしかし、皇帝という観念、王という観念と同一視されていた。猪苗代湖畔の「時間の倉庫」も、ほぼ同様な観念の仕組を持つ建築である。しかし、ここでは観念は太陽系の外宇宙に出ている。我々はすでに太陽系外の宇宙の存在を観念的には知っている。

それ故に、ここでは地球自体の諸運動の基軸を北極星に求めた。地球も太陽も月も星々も、人間を中心とした視線の軸を中心に仮定すれば、北極星への軸を中心に表現したのがこの建築である。

何故、倉庫でそんな事を考えなければならぬのか?は愚問である。建築らしい建築の全てはその様な観念を内在させている筈である。

「時間の倉庫」を巡って.その16


308 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十四日

朝より、地下室でワイマールバウハウス大学ギャラリーでの展覧会の方針を考える。井筒俊彦「意識と本質」読み始める。今度は何とか通読したい。が又はじき返されるだろう。井筒は7ヶ国語を駆使して、イスラム思想も含めてアジアの思想に精通した大思想家である。大川周明の肝入りで満州帝国大東亜共栄圏構想にも参画した歴史を持つ。イランのパーレビ王朝に対するホメイニ革命迄テヘランのイスラム神学校にて研究生活を続けたが、脱出した。恐らくは日本人初のアジア思想の共時的構造を説き得る知性である。

井筒俊彦を読んでも、今日、明日をどう暮すかのヒントは何も得られない。良い本程、明日の糧にはなりにくい。あらゆる経済書は明日の糧のためのものだ。しかし、十年先の糧にはなる。何処に向うかの方向は、明日役に立つ本を読んでも決して何の役にも立たない。六十代半端のわたしにそれでは十年先はあるのか、確実に?それは誰にもわからないけれど、神のみぞ知るなのだが、その神は誰なのか、何者であるのか、唯一神であるのか、否かみたいな事なんだな、井筒さんの言ってる事は。人間は自分の意識だけで何から何まで現実(存在)を切り拓けるわけもない。しかし意識のカケラが無ければ、要するにカオスであり、虚無に沈み込むしか無い。宿命とはそういう事である。例えば、わたしが世田谷村の二階でワイマールの来年の展覧会の事を考える。二階は暑い、けれど広々として空間は大きい、遠くも眺められる、クズのツタの状態も見える。しかし、わたしは地下室に降りる事も出来る。地下室はヒンヤリと涼しく、暗い。どうしたって内省的になり勝ちだ。何処で考えるかによって微妙に考える内容がちがってくるのかを、わたしは知っている。それがわたしの考える場所(存在)への考える才質であるから。二階に居れば、暑いけれど風は吹き渡り、色んな事象を感得できる。つまり、ここは生の場所である。地下室は、今はガランとしているが、同様に広い。しかし空気の流動は無い。そして、かすかに水の匂い、微生物らしきの匂いがする。つまり死の場所である。

でも面白い事に、二階の開放的な場所で、わたしはむしろ悲観的な事を考える事が多いようだ。悲観的というのは、例えば浅いエコロジー世界の事である。ドイツは誰もが知るように環境立国を唱えている。そのやり方はいかにもドイツ哲学風で骨太く、その底にはドイツ、ロマン派の伝統がある。でも、ドイツ風の環境への考え方は、別の意味ではいかにも教条的で、危い匂いも嗅ぎ取ってしまう。環境ファシズム=進歩したグローバリズムなのではないかと考える。

だから、わたしは二階では意図的にニヒリズム方向への思考を育てようとする。神は死んだ、のニーチェ方面だ。ワイマールではニーチェハウスに泊められて、わたしはそこで明らかに幽霊らしき、あれは生霊と呼ぶべきかの白い影を視てしまった。ニーチェの妹のエリザベスの碑がある処で、深夜であった。そんな事を考えている、二階では。そうすると、ユング、曼荼羅のエコロジー的再考なんていう展覧会のテーマが浮いてくる。ユングに南方熊楠的世界を批判的に対比させてみようか、である。時間の倉庫や水の神殿はそういう建築である。バウハウス的機能主義はやはり浅い環境思考に解体されてゆく方向にある。地下室ではむしろ、楽天的な思考を進めようと試みる。開放系技術の思考の系である。うっすらと水の匂いがする暗い場所で、これを考え続けるのは仲々に脳の肉体力を必要とする。二階では、ディオニソスを演じたいし、地下室ではアポロ、これは余りにもガソリンスタンド的でいやだから、せいぜい柳田国男的労働である。

そんなわけで、ここ一週間程は、かなり自分なりに突きつめてゆくつもりだ。

八月二十五日

クズのツルの吊糸にからみ始めたクズを観察する。クズの面白いところは、この強い生命力が、からむ相手の樹木を現実的に弱らせて、ある季節は枯らしてしまう、そんな力を持つからだ。寄生虫みたいな、グリーンパワーの環境エコロジスト達にとっては癌細胞みたいな存在だからである。まさに資本の動態に酷似している。わたしが張り渡した二本のヒモに、今朝は周辺のツルが皆反応しているのがわかる。クズのツルの先端が沢山の鎌首をもたげて、宙に寄生する相手を求めている。寄生しないとこの類は死に絶えるのだ。

すでに、庭の王である筈の梅の大木は葉の多くをしなびさせている。クズのツルに精を抜かれているのだ。総勢15〜20本程の鎌首がどうやら二本のヒモを目指して生き延びようとしているのを知る。凄惨である。

クズの類の寄生草はギリシア神話のメドゥーサの髪の毛の蛇の親類だろう。メドゥーサは視た者を石にした。つまり一瞬の中に化石とした。クズのツタは寄生する対象を何に変化しようとするのか。この生命力を視ていると、これからの地球はこれ等の植物の王国になるのではあるまいか。そうしなければ、人間は自ら作り出した人工物による場所を守り切れないだろう。

この世田谷村の凄惨な光景はワイマールのバウハウスに見せても面白いかも知れない。

カトマンドウ盆地の数多い遺跡文化財の保存には多くの国が参加している。盆地の北端にあるブッダニルカンタの遺跡もその一つである。ここはドイツチームが近年の調査を行い、保存計画も立てた。

ブッダニルカンタの中心は大きな凹状の人工的形状を持つ池である。更にその中にクリシュナと呼ばれる、日本で言えば千手観音の如き石像が上向きに天空をにらみながら横たわっている。5メーター程の大きな像だ。伝説がある。昔、ここは農地であり、農夫がここをたがやしていた。スキがカチリと何か固いものに当り、掘り出されたのが、この像だと言うわけだ。でも、それ程に古代に迄さかのぼる形式の像ではない。でも、そんな伝説が生まれても何の不思議もない。あらかじめ何者かが埋蔵したモノを人間が発掘したという物語り。そういう時間の物語りがここにはある。

ドイツの調査団はここをいかにもドイツ風に保存した。池のほとりにあった一本のピポリの巨木を切り倒してしまったのだ。ピポリの巨木は勿論、クリシュナ像が横たえられた当初には存在しなかった。池が作られた時にも無かった。やがて鳥達が種を運び、それで、ここ迄、恐らく数百年を経て、育ってきた樹木である。大人が5、6人で手をつないで周らないと囲めない程の巨木であった。多くのリスや、鳥たちの棲処にもなっていて、水面に横たわるクリシュナに巨大な樹陰を提供していた。

ドイツ隊は、出来た当初を想定してピポリの樹を伐った。しかし、作った人々の想像力は復元しなかった。多くのヒンドゥー教徒達の自然への帰依の態度、万物の生命力に対する讃歌の如きモノの存在を復元する事はしなかった。

ネパールの高地、人々が歩く、旅をする処には必らずピポリの巨木が植えられている。人間が歩き続けて、休息をとりたいと願う地点には必らず在る。旅にはピポリの巨木はつきものであった。そこで人々は重い荷を降ろし、荷の下にツエを立て、自らはピポリの巨樹の下で強い日射を避けて休息をとった。ヒマラヤの峰々を眺めながら安息したのである。ブッダニルカンタのピポリの巨木も、恐らくは巡礼の旅の行きどまりの休息のために生い茂ったものであった。この遺跡の復元の仕方はヒンドゥーの人々の意見を充二分に聞くべきであった。

ここで行われた復元作業は、時間への想像力が欠けていた事、つまり、ブッダニルカンタが創生された時の人々の想像力をのぞき込む事が欠けていたが故に失敗である。

しかし、ドイツ哲学はこう考えているだろう、200年300年たてば又、樹は元に戻るだろうと。しかし、元に戻らせるのは恐らくは巨像の下にまで、池の下に迄はり巡らせてきたピポリの生命力そのものである。その生命力も又横たわる巨像と同様な尊厳を持つ。

メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って.その7


307 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十三日

地下室の白足袋に郵便が届く。白足袋お前読むかと尋ねたら、バカ言え、代読しろである。ドリトル先生動物園倶楽部関係の通信であろう。十二時半京王稲田堤現場定例会。十五時半修了。暑い。現場で働く職人さん達は大丈夫か、と心配する。建築は、現場で汗水たらして働く労働によって生まれる。設計者の努力だけの成果ではない。当り前だ。九州のMさんと連絡。以前作った建築のメンテナンスについて。建築は作った後のメンテナンスが必須だ。これから自由な訳はない。生きれば生きる程に、作れば作る程に、各種問題を抱え込む。でも仕方ないのだ。作る喜びは、これで保障されていると思わねば。

十六時烏山で遅い昼食。十七時世田谷村にいったん戻り、雑用後、私用。

名古屋市議会が河村市長に対抗する共同声明を議決するようだ。この動きには注目したい。このスケールに専門職は必要ない。その一点にしぼれば、わたしは河村市長支持である。市長は少々、パフォーマンスが過ぎるが自分の年収を800万円に自分で下げたのは、やり過ぎだろうが、気持ちは理解できる。でも、市議の数を減らす方が現実的であると思う。わたしは地元(世田谷区烏山地区)でいささかのボランティア活動を始めているので、考えるところもあるのだ。

八月二十四日

七時前起床。昨夜も熟睡できずのネガティブ読書。中国古代史、唐詩選等乱読。わたしの、いささかの中国趣味は父親ゆずり、そしてどうやら祖父ゆずりである。中学生の頃から吉川幸次郎の「新唐詩選」に親しんでいた。家に沢山のその世界の本があったからだ。中国山西省の荒涼とした風景を走り抜けた時、炭鉱を掘り続けている山々、黒い空、そして人間達を間近に眺めた時に、仕切りにそうした唐詩の世界を思い起した。南船北馬の故知を実感した。人間は土にまみれ、鉱石にまみれて生きている。凄惨であった。唐詩の凄味は北馬にあるなと痛感したのであった。

何日か前の日曜日、何とか庭に繁茂しているクズのツタを家にからませようと我ながら天才的なアイデアが生じて、余りの馬鹿らしさに実行してみた。ペットボトルに水を半分程注入して、吊糸を結びつけ、それを振り子のように二階から庭の茂みに投げ込む。茂みは沢山の狂暴なクズのツタが、それこそ行方を求めて、蛇のようにかま首を空にもたげている。ペットボトルに結ばれた糸はピーンと空にテンションを張り、今朝はそれに狙い通りにツタがからまり始めている。二、三日中には家にたどり着くであろう。つまり、クズのツタを吊り上げようとしたわけだ。世田谷村の2階が宙に浮いているので、こんな事をして遊んでいる。しかし、植物の反応は早い。必死なんだな。クズのツタと資本主義とは酷似しているなあ。

306 世田谷村日記 ある種族へ
八月二十一日

十二時研究室。ポッカリ時間があいたので、依頼原稿を書く。十三時E系サロンにて秋入学者の修士論文発表に立ち会う。その後入江、古谷両先生といささかの相談。

修了後研究室に戻り雑用。渡邊助教と遅い昼食へ。十六時四〇分了。十七時半世田谷村に戻る。庭のクヅのツタ葉がもう少しで2階の構造に届きそうなのだが、もう少しである。これが届けばここは全てツタにおおわれるのだ。

久し振りに、友人佐藤健の著作を読み直す。彼は多くの著作を残した。その本体は良質のジャーナリストであった。彼はわたしに言った。「オマエはいいよな、好きな事自由に書けて。俺達は裏をとらなきゃならんからな」。新聞記者であった彼は常に数百万人の読者の眼にさらされていた。遺作となった「生きる者の記録」は末期ガンが発見され、亡くなる迄の彼のいわば日記であるが、これは新聞社をあげての議論の末に公表となった。彼の個人の意志は常にチェックされていた。「阿弥陀が来た道」も、残された命を冷静に考慮して、彼が残した本だ。しかし、これは充二分に裏が取られてもいる。彼の知識の大半はジャーナリストらしく耳学問であったけれど、肝心なところは自分でキチンと調べた。その為に蔵書が膨大になり、その為に家を一軒建てなければならなくなった程だ。本に金を惜しまなかった。「空海の風景」は空海の中国上陸地点から長安(西安)へ、長安での住まいから、恵果の青龍寺への道のりを全て、ウラを取りながら歩いた記録だ。四国も、当然の事ながら高野山も全て歩いている。この凄味には、一読二読では触れられなかったが、三読四読でようやく、そのリアリティーが伝わってくるようになった。

教王護国寺(東寺)講堂の内部に対する繰り返しの記述は、ジャーナリストの枠を少しばかり超えて、自分の想いがにじんでいる。わたしも東寺講堂の内部は日本有数の宗教空間であると感じている。

しかし、その感受の中身は直観的なものでしかなく、それが何を表現しようとしているのかは知り得なかった。佐藤健は教王護国寺講堂に配されている諸像の意味を晩年は知るようになっていた。諸像の手が表している印相も全て読解し得た。つまり諸像を美の壮厳として視るだけでなく、諸像の発している祈りの言葉を聴きわけてもいたのである。彼の最初の大仕事であった「曼荼羅」毎日新聞社の、ラダック・ザンスカール探検からの長い長い図像、立体観察の積み重ねがあった。

つまり、わたしが、せいぜい総合性を帯びた直観として、美らしきを感得しているのに、彼はその個々が発信している意味を知っていた。つまり映像(姿形)として空間を視ているのではなく、情報の総合らしきとして東寺講堂を視ていた。わたしも、その一部を学べる時間はありそうなので、少しは接近したいと考えている。祈りとあいまいな書き方をしたが、これは意味=記号では無い事を示そうと考えての事だ。

「もう俺には何の執着もない。本にも無い。これだけ書棚に積んで見せたのも俺の未熟さからだ。お前、みんな持っていっていいよ。おすすめは辞典と地図だぜ。」

で、わたしのところには、いささかの辞典類が手許にある。キチンとした知識の枠組みが欲しかったからだ。彼の何よりの、ジャーナリストとしてのインスピレーション。

「仏教の中では密教が一番面白い、構築性がある。禅よりはるかに面白い。でもナア、神道はもっと面白いんだが。・・・時間が無い」。

アニミズム紀行はそこ迄辿り着けるか、不安である。

八月二十二日 日曜日

八時起床。メモを記す。ドリトル先生動物園倶楽部のエッセイを書き直す。編集者に言われての事だが、自分でもそうした方が良いかなと思っていたので従った。ケチな事言わないで全部書き直す。スケッチ作業すすめる。沖縄石垣島で長期の介護休暇を取っているW先生より連絡アリ。昨日今日と連絡が重なった。先生は奥様の介護で石垣島に転居された。奥様は日本で二人の医者しか対応できぬ病である。先生の今居る状況はわたしには想像もつかぬ。解らぬ事に対していい加減な事は言わぬ。しかし、W先生は誰も想像できぬ位の状態の中にいるのだから、そんな時は我々もその想像を絶する状態に、キチンと対応する気持は持つべきだ。しっかりして対応したい。

未来を見渡そう。建築の未来ではなく、人間の未来を。人間は誰もが皆すでに知っている。このままの近代化システムを地球規模で実現している現実を追認すれば、たった半世紀で人類には確実に危機が訪れるのを。近代化のシステムとは異る方向へ、先ずは微小でもカジを切らせるような、絵が今程必要な時は無い。

核兵器の開発、生産に歯止めがかけられぬ人間の愚かさを直視したい。科学技術工学の世界は誰の意志でもなく、自動的にすでに増殖を続けている。増殖する事を自己目的とする欲望のように。計測、定量化の不可能な人間の思考能力、それは歴史という想像力の集積であり、芸術であり、総じて文化的な概念に属するモノたちは、科学技術工学にブレーキをかける機能を持つ。少しでも別の方向へというのはブレーキの一種をイメージしている。エコロジーという考えは、科学、技術、工学世界の一方向性への文化的ブレーキの役割である。

ありとあらゆる本来的な庭園の機能は、一方向性への進行のベクトルに抑制的であるのが本質である。解りやすいアナロジーで言えば科学技術工学の普遍化=近代化のストリームそのものに空白を産み出すものなのだ。メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って.その6


八月二十三日

昨日の日経新聞に、子供の情景4「二人の巨匠」、岡本太郎と土門拳が子供の姿を撮った写真がツイン(ペアー)で論じられていた。面白かった。素人のチャンピオン写真家、岡本太郎とプロのチャンピオン写真家土門拳である。岡本の「沖縄、金武」1959年は作為なく自然に撮った写真に、切り取ったモノの余白、背景、時間を想わせる、まさにアニミズム的感性があり、シュールレアリスムの絵画以上の超現実性を感じ取る。土門拳の「江東のこども、近藤勇と鞍馬天狗」1955年は計算され尽した構図、そしてシャッター・チャンスを逃さぬ嗅覚を感得して、これも又、絵画芸術を超えるモダニズムを感じた。これらは明らかに芸術の名に値する。ベンヤミンの考えた複製技術時代の芸術そのものである。

宮本常一、山田脩二の写真に通じるものがある。

ところで、この二つの、あるいは二人の写真が撮られた年代を考えてみたい。この嗅覚の鋭い生物でもあった二人の写真家が子供達を撮ったのは共に1950年代であった。

今、Xゼミナールで足を踏み込んだ1950年代の日本の近代建築の背景、イヤイヤ、主役こそが、この写真に切り取られている子供達の生活の光景であった。Xゼミナールを読んでいただく際に、この二人の巨匠の写真を参照していただくと、何か得られるだろう。半世紀程の時間を経て、我々はようやく戦後のあるプアポケット、表現のユートピアを冷静に見返すことが出来るようになったのだろう。

305 世田谷村日記 ある種族へ
八月二〇日

十三時研究室。研究室ゼミ、M2を中心に幾つかのプロジェクトを素材にミーティング。院生ともなると一人一人の人材の、才質自体の個性が解ってくるので、全て個別に対応する。その成果というか、プロセスはサイトに一部公開している。スタディが実物になってゆくのを少しでも体験させたい。アッという間に十六時、シンガポールの新プラント内の本社オフィス・プロジェクトの打合わせで、投資会社スタッフ2名来室。一人は中国人アナリストである。十七時前了。再び研究室ミィーティングを十八時過迄。面白いけれど、仲々こたえるミィーティングであった。わたしが消耗する分、他は育つのだと、これはエネルギー保存の法則である。

十九時西調布、H氏と会い相談。二十一時半西調布発、二十二時過世田谷村に戻る。アニミズム紀行6号、ジワリと進む。月下美人一輪馥郁と咲き誇る。香気虚空に満ちる。

夜中の読書。「大地・農耕・女性」エリアーデ(未来社)1968年の本である。民俗学、文化人類学にはどうした理由か、昔から関心があった。今、一番考え込んでいる程ではないが、気になっているのが、民俗学者達の良質な部分がアート、作品に全くと言って良い程に関心を持たない事だ。代表的なのがクロード・レヴィ=ストロース。この知性はニューヨーク時代にアーチスト達との出会いがあった筈なのだが、全くブレる事なく関心を示そうとしなかった。

悲しき熱帯は何度か通読したが、まだわからない。ニヒリズムではない、別の体系の近代そのものに対する断念らしきを感じるようにはなった。この書物自体が表現作品でありアートなのになあ。

八月二十一日

七時過起床。二〇年程前から考えていて、まだ実行していないわたしの民俗学的スタディ案。もうほとんど絶滅状態になっている、かつぎ屋さんのオバさん達の複数インタビュー。あの大きな荷物を背負って、方々のお得意さんに自分で仕入れたモノを売り歩く人達。凄い位の興味があるのだが、実行できないでいる。いつだったか常磐線でその姿を見掛けて写真に収めたのだけれど話しかける勇気がなかった。風格に押されてしまったのだ。

沖縄の女性達(老婆)にも関心があるけれど、実はそれより深い関心を持つのは、かつぎ屋のオバサン達なのだ。あの人達の姿が消えるのも間もないだろう。あの高貴な種族の、モバイル人間達。5人のインタビューと追跡記録さえすれば、何かが解るような気がしているのだけれど、決断ができないでいる。人知れず記録だけでも残しておきたいのだけれど。民俗学への関心は直接に建築デザイン等に結びつく事はない。しかし、デザインする、モノを作るわたし自身の気持を、なだめて、抑制する為にだとは知る。低い次元での自己顕示欲を静める為の、学習としての有為なのだ。

三球四脚チェアーのチラシを昨日から持ち歩いているが、まだ誰にも手渡していない。気が弱いところがあるのと、手渡すべき人間に会えていないような気もする。77000円だからやはりそれなりに、渡す人間も用心しなくてはならない。見知らぬ人間に渡したら、それこそ狂人扱いされるだろう。でも、仕方ないやりますよ。

304 世田谷村日記 ある種族へ
八月十九日

十三時、アンドレ、他打合わせ。いささか心配な外国人学生も居る。マ、しかし信じるしか無いんだナア。日本人学生も日本人という国籍だけでは理解できないのが現われているが、これは更に難しい問題である。人材を差別してはいけないが厳然と区別しなくてはどうにもならない。十五時清水建設K氏来室。昨年の竹中工務店に次ぎ、設計施工のゼネコン設計部として、早稲田建築の設計教育の一端に参加していただく、五年間持続のプロジェクトの一環の打合わせである。産業構造の変化を見据えれば、この方法が早稲田にはベストである。産業界も応えていただきたい。十六時了。新大久保ガード下ラーメン屋にてレバニライタメを食す。十八時半世田谷村に戻る。

夜はいつもの乱読に次ぐ乱読。「江戸とロンドン」「方丈記私記」「密教美術」「パタゴニヤ・エキスプレス」これ等をほぼ1時間半位毎に切り替えて読む。大体、新しい本に次々と取り組むものが出来ない性質である。気に入った本は何回も繰り返し読む。

別冊都市史研究「江戸とロンドン」山川出版社は、これは才質のあるミステリー作家が読んだなら、素材ザクザクと思われるような本である。「工事中のウエストミンスター橋から望む聖ポール大聖堂」カナレットの都市風景を描いた絵の構図の酷似に、北斎がこのロンドンを描いた風景画を眺めていた可能性を説くところ等は、これだけでゾクリとさせられる。北斎の天才的な構図に、ロンドンの風が吹いていたと想像するだけで、別の北斎像が視えてくるのである。この本は二度目で少し面白味が解ってきた。堀田善衛の「方丈記私記」、鴨長明が住居そのものに大変な関心を持っていた事はこの本で教えられた。

今、方丈記をテキストにした部屋を考え始めているので、必迫しつつ読んだ。堀田善衛は高校生以来のお気に入りの作家である。堀田さんが老年を迎え、スペインに居を構えたのは、わたしのスペイン通いの頃であった。サクラダファミリアのロザリオの部屋について書き散らしたら、サクラダファミリアで働いている外尾悦郎から、あの本は間違った事が書かれているが、マアいいだろう、と堀田さんが言ってたぜと言われて身がすくむ思いをしたもんだ。グラナダからメスキースまで一面のひまわり畑の中をバスで走った時、その畑の中のポツリの一軒屋の人影に、堀田善衛を重ねたりもした。「密教美術」は、亡くなった友人の影響で、密教そのものを再考したいと考えて、わたしはやはり視覚的人間だと自己観察していたのを、すっかり、自分の眼は怪しいと思うようになり、時々、図像、仏像、建築物を見直すようにした。新しい視野を持つ人間にテキストを読み直してもらいたい、つまり書き直してもらいたい本の一つである。世田谷村にはチベットのジョカン・テンプル(大昭寺)からいただいたヤング・シャキャ・ムニの像があり、大切にしている。この小像から受ける印象はとても清澄なもので、日本に持ち帰られて、独自に変化した各種立体像、図像とは異る。今の時代のひとつの小像から、日本密教のあれこれを考えるのは楽しい。

頭が疲れたら「パタゴニヤ・エキスプレス」である。チリの砂漠の中の旧塩田工場の廃墟で、わたしはゲニウス・ロキの影を本当に視た。チリ政府の方が、あなた本当にあそこで展示会やりたいのですか、その前に是非一度実体験して下さいと、深い眼差しで見つめられながら言われた事があり、出掛けた。凄いところだった。近代植民地制、架空の国の実体を視た。展示会とか、催事とか、ましてや博覧会なぞを考えてはいけない場所が地球上にはある。エキスプレスはその様な事を想い出させて、でも仕方ないよなと笑ってくれる仕草がとても好きだ。中南米とスペインは勿論地下水脈でつながっている。残酷なユーモアと虚無は、スペインが世界帝国であった歴史から、はるか遠くようやく、ペーソスとして生み出されてくる。ペーソスはワインが熟すのとは異なる時間がかかるのだ。夜中の二時迄、そして四時過ぎにも一時間程読みふける。

暑くて眠れないのか、乱読のせいなのか境界がない。

303 世田谷村日記 ある種族へ
八月十八日

二階から、10M程下の地階に降りる。別世界かと思える位の冷気の中。地中の価値を考える。地球温暖化が逃れられぬ歴史であるとすれば、電力を極大に消費する人工環境だけでなく、地中の気候を考えてしかるべきだろう。でも、何故白足袋は地下室に降りて来ないのか?

R・B・フラーのダイマキションハウスに関して、フラーは次のような例え話を残した。

「我々の建物が封建的な低迷の最後の痕跡を失ったとき、我々は建築表現の新しい芸術的段階に到着していることであろう。建造物の内部では、張力と応力によって垂直軸から空間へと伸びるマストまたはケーソンによって重力に抗する。応力の集中した領域では、その加圧は我々が垂直性から離れるにつれて減少し、ついに我々は直接的な張力の中で下方へと進むことになる。そうすれば外観は、みごとな噴水のようにその頂上の外側の流れから垂れ下がりながら、軽やかさと光と色彩で満ちあふれることだろう。」4Dタイム・ロック(1928/1972年)

単純なアナロジーではあるが、フラーが力学の成果の彼方に詩的世界(芸術)の成果を視ようとしていた事が伝わってくる。

このような、R・B・フラーの表現を借用すれば、「時間の倉庫」は次のように表現される事になる。大半を地中に潜函として埋められた建築は、それ自体が宙へ登ろうとする構造を持つ事になる。凹型の谷の宙空を内部化しようとするからだ。螺旋の構造を持つ物体は、それ自体が建築の新しい存在形式であろうとするトポロジーの具体化である。螺旋状のエンドレスチューブ状に回転する場所には、それを体験する人間の動きに伴い、場所そのものがトポロジカルに、すなわち立体的に動くことになる。設計者は内の人間の想像力をそう期待している。

フラーのジオデシックドームの考えは、その考えの形式の中に外と内との、つまり地球のアナロジーと宇宙との、交差の回路を持っていた。「時間の倉庫」はそれを更にトポロジカルに進展させようとしたものだ。R・B・フラーとキースラーの思考をトポロジカルに展開させたのである。キースラーの何処にも継ぎ目の無いエンドレスハウスと、生産の量そのものを一品生産から考える事なく、まさに自動車や飛行機の作り方と同様に考える事をした、フラーのプロダクト・イメージの産物は不思議な接近を見せていた。

しかし、その様な思考に充分に慣れ親しんでいない人間の為に、ブーレーのプリミティブな建築観=世界観が必要になるのである。ブーレーのドローイングは建築史の中で幻視の産物として、重要視されてはいない。しかし、情報時代の時間中に、フラーの宇宙船地球号をはじめとして、ブーレーのドローイングも漂流している今、そのドローイングは多くの現実化されている実作品と同様の存在価値を持つのである。

つまり、ブーレーのドローイング「ニュートン記念堂」はジオデシックドーム、エンドレスハウスを正しく建築史の上に把握しようとするテキストとしての存在なのである。

かように、建築は視覚的な快楽のためのモノ、つまり美的存在から、知覚の喜びの為のモノへと進化してゆく。

「時間の倉庫」を巡って.その15


十七時過、O君と会う。四国旅行の話しを聞く。十九時世田谷村に戻る。小雨が訪れてくれて、今夜はしのぎやすいか。日記を読み直したら、昨日のは一部にダブリがあった。暑さボケである。修正せずにおく。

アニミズム紀行6を書き直し始める。うまくゆくかどうかまだわからない。

八月十九日

久し振りの曇天。今日はしのぎやすいか?ある政治家の話しを新聞で読んだ。ケイタイを2台持ち、ツイッターを外出しながら小まめに打つ。しかし、自民党のスター的存在からミニ政党の党首になり、TV出演もめっきり減って、要するに発信、受信量がめっきり減ってしまったらしい。今の政治家は世論らしきで意思決定する。その世論らしきは、マスメディア、やがてはコンピューター情報で形成されるのだろう。政治家はその面では敏感だから、情報の受発信の総量には眼を光らせ、耳をすます。比較するのも愚かだがわたしの場合は、政治家とは事情が全く異なるけれど、やっぱり現実社会と何処かでつながっていないと、やはり不安である。その不安がこの日記を続けさせている。自己顕示欲らしきの仕業だけではない。もう少しネガティブな性格を帯びている。

昨夜の読書で、アニミズム紀行6の大方の骨子を決められたような気もする。アニミズム紀行はわたしのモノづくり、制作活動のシナリオらしきを形づくる道具である。あんまり、ピタリと一致するのもバカバカしいし、ほのめかすのもイヤらしい。ボワーンと共に揺れ動いて、生き物の如くにあるのが理想だ。スッキリとわかりやすい表現ほど快しいモノがひそむような気もする。

302 世田谷村日記 ある種族へ
八月十七日

十三時東急多摩川線松陰神社、M邸現場。M夫人に介護の話し等をうかがう。M氏は今朝より母親の介護で外出との事。世はなべて介護社会になった。この変り様は凄惨なものがある。わたしの気付き方が遅過ぎるのであろうか。母親の殆ど臨死体験を体験して、やはりわたしなりに考えさせられた。世の中が別の姿をして視えてきた。生死の境は薄皮一枚なのも知った。M夫人のお母さんの状態を聞いていると、わたしの母親と酷似していたのを知る。男の人は介護は出来ないわよ、と言われてそれにも納得する。最終的な介護は女性というよりも、母性そのものに属するのではないか。現場発。山田脩二の瓦が見事である。しかし、この見事さを解る人間がどれ程いるだろうか。M邸はこの瓦をほんの少し計りだけれど使えたのが本当に良かった。次はこれを大量に使って山田脩二に報いたい。

すでに2008年に集中してやったドローイングには山のような瓦屋根が幾重にも折り重なって出現していた。あのドローイングを率直に受け入れよう。カトマンドウ盆地のカトマンドウ寺院の屋根、朝鮮の海印寺の屋根と山並み、通渡寺(浮石寺)の屋根、そして奈良薬師寺の屋根や、一歩ゆずって唐招提寺の屋根等々が参照されるだろう。屋根の美しさに留意したい。會津八一の文学的接近を越えて、エネルギー循環のサイクルとしての屋根を考えてみたいな、と思う。

十七時過、青山学院大鈴木博之研究室。何だろうねこの暑さはなんて話しているうちに、難波和彦さん来る。

Xゼミの会合が独特なのは、言葉に出して了解し合うのは、全く問題とされないので、言外の、つまり話し合わなかった事や了解事項として進行するという事だ。十七時半前、青山学院大鈴木博之研究室。鈴木博之、難波和彦両氏とXゼミの打合わせ。顔を付き合わせて話し合う事も無いのだが、かと言って顔や肉声抜きでやっていける事などたいした事でも無い。十八時過表参道駅の青山風焼鳥屋に移る。介護料理風のメニューをいただく。わたしは過日感電のショックで歯が一本抜けたままだし、難波さんも歯医者通いの毎日で、青山通りの歯医者なんてロクな者ではないだろうと毒づいたり。青山通りは最近、チンマリとした米国西海岸風になってきた。文化の陰りがない。鈴木さんは歯は丈夫そうで一本も抜けていないが、毛髪の方に夏風のそよぎを感じさせる。と互いに見診である。全員あと一仕事しなければ甲斐もない人間ばかりだ。

十八時半新宿南口味王で続きをやり、グデグデと建築を論ずる。二十一時了。では又二週間後にと別れる。二十一時世田谷村に戻る。

八月十八日

昨夜も、暑くて充分に眠れず、九時迄寝過した。白足袋もまいっているようだ。そう言えば、鈴木、難波両氏共に猫を飼っていて、鈴木邸ではその猫のために一部屋を夜でもエアコンつけ放しにしているそうだ。難波邸では、猫はやはり白足袋同様に自然に一階の涼しい処に身を移していると言う。両家共に外国産の超高級猫である。聞けば難波さんの帽子、ボルサリーノより高額な猫だと言う。わたしは、この辺に特に鈴木博之の思考と実生活との矛盾、余りにも大きなギャップを凝視してしまう。日本の初期近代は西欧化の普遍に和魂をもって歯どめをかけ得た時代であると認識しながら、飼い猫は洋モノである。歴史家としてどうなんだと思うなあ。これでは洋魂洋才ではないか。難波邸の猫も、妙なボルサリーノ風の名がついていて、毎日どうやらイタ飯を喰っているらしい。猫にイタ飯を強要するのはイタない。ではなくイケない。猫を箱の家に住まわせ、イタ飯三昧とは何事か。食前酒は白か?赤か、なんてやっている姿を想像するだに末世だと思うのである。うちの白足袋だって、残飯にカカメシ位がいいのだけれど、毎日、妙なペットフードのビスケットと肉、魚のカンヅメである。やはりですよ、鈴木さんの家の猫は、タマとかミケとかシロの風格が欲しいし、難波さんのところのは、コンラッドとかワックスマンとかの汎世界性を目指した名であって欲しい。ペペロンチーノとかチャールズはいけない。

駄目だ真夏日がここ迄続くと、脳味噌が海綿状態である。

いつだったか、鎌倉の近美で、バッキー・フラー展を見ての印象。フラーのダイマキション・バスルームユニット(1937年)であったか、バスタブユニットの原寸のモックを実見する事ができた。1949年ブラック・マウンテン・カレッジでのSTANDARD OF LIVING PACKAGEのバスタブであったかも知れぬ。ともかく、異様な生き物感の如きがあった。まるでイタリア製のブガッティやアルファロメオのボディデザインを視るが如くであった。

あらゆる細部がヌラリとして丸味を帯びていて、その後のイームズ風の簡単な規格品アッセンブルのものとは俄然としてちがっていた。恐らくは手打ちでたたき出した物であった。アメリカにも職人らしきが居るのだと実感した。手でたたき出した生物体の如しである。

フラーはバスタブに形を与えるのではなく、製作に不可欠な大量生産の可能性そのものから形を導き出そうと試みたのであった。あらゆる部位を非連続として、つまり部品、部位のアッセンブルとして考えようとしないで、アッセンブルの継ぎ目のない一体のモノとして考えた。その点に於いて、フラーの思想とフレデリック・キースラーのエンドレスハウスの考えとは、視た眼の相違を超えて酷似していたのである。

実際、グリニッチ・ビレッジでのマーサ・カニンガム等、イサム・ノグチ等との交友と共に、フラーとフレデリック・キースラーは会っていた。

ブーレーのドローイングへの関心からしばし離れたい。「時間の倉庫」のデザインの系統樹は何処にあるか。直接のソースはリチャード・バックミンスター・フラーであり、フレデリック・キースラーである。ジオデシック・ドーム理論とフレデリック・キースラーの銀河系計画、そしてエンドレスハウスのヴィジョンはブーレーのニュートン記念堂ドローイングを仲介として同一世界のモノとして視る事ができる。

「時間の倉庫」を巡って.その14


301 世田谷村日記 ある種族へ
八月十六日

昨日は終戦記念日であった。今朝は早朝から暑い。油ゼミがジージーと物言いたげに鳴いている。今年は随分セミの死骸を家の内部で見た。白足袋が捕獲したのが大半だが、迷い込んで息絶えたのもいるだろう。

十三時半研究室。サイトチェック、Xゼミナール2本を難波さんサイトに送信。自分もゆっくり読み直してみる。恐らく、読者は知らず、わたしだけの感慨なのだろうが、日記とXゼミ等のサイトが少し計り整合してきている。Xゼミとの振り子運動として日記を読んでいただきたいものです。

そろそろ、夏休み明けのペースに戻すつもりで、身体と気持を準備する。十七時前スケジュール調整。シンガポールの件質問送附他。家ではなく、部屋の複製化を試みる事ができないかのアイデアが急速にリアルなものに育ってきた。

十八時、新宿南口味王でミィーティング。全く良い知恵も出ず。二〇時散会。いい知恵が出るかも知れないと考える方がおかしいのである。しかし、実ワ、チョッといい考えが芽生えているのだ。二十一時前世田谷村に戻る。

「時間の倉庫」この建築について、断片的ではあるが書き続けているのには理由がある。この建築は建築が本来所有しているその歴史的出自の基準そのものをダイレクトに表現しているからだ。歴史的には正統である。今現実に作られ続けている建築らしきの大方は実に、歴史的にはアブノーマルな物体である。解りやすく言えば、今の建築の大方は古代からの建築史の脈絡から分離、あるいは脱落してしまった特殊な変異種なのである。近代は普遍という途方もない建築的幻想を産み出した。それは刃止めもなく拡張し続けた。遂にグローバライゼーションと呼ばれる民主的ファシズムに迄膨張している。

ブーレーのニュートン記念堂、そのドローイングの主役は巨大な球体の空虚である。宇宙を形象したものだ。キリスト教世界ではこのような建築的形象は稀である。それ故にこそ我々は着目もする事になるのだが、イスラム教世界では球形は優美なイスラミック・ドームとして、普遍化している。古代ヒンドゥ世界、仏教世界にも多くあった。その意味ではブーレーの巨大な空虚はその巨大さが実に特異な価値を持つ。

そして、空虚の中心に地球を象った巨大な物体が宙吊りになっている。前に述べた如くに今の眼から見れば、いささか稚拙な玩具まがいの地球像である。地球儀そのものが浮いていると考えればよい。「時間の倉庫」にも、これに似た地球儀が取り付けられている。建築が小さくあろうとも、内の空虚に回転運動を示現しようとしているのだから、当然なデザインである。この建築は地球の運動自体を表現しようとしたからである。内の螺旋運動はそのまま外部に表現されている。そして、その回転運動の中心には換気塔を兼ねた垂直軸が小さな場としてデザインされている。

その塔、あくまで塔である、換気装置だけの機能主義とは異なる。塔の上には、風見鶏ならぬ極点を指差す、オリエンテーションそのものがデザインしてある。この建築の機能は倉庫である。周囲に展開される農園の収穫物、その他を収蔵する為のものだ。倉庫に要求されるのは空虚そのものである。そこに建築の可能性を視たいと考えた。

「時間の倉庫」を巡って.その13


今日の東京は何と38℃迄気温が上昇した。汗をかきかき休む。しかし、昨日よりはしのぎやすい。人間は暑さ寒さには慣れる能力も持つ者だ。

八月十七日

七時起床。雨期のカンボジアの暑さだな、コレワ。プノンペン、ウナロム寺院のナーリさんは、床タイルの上に、相変わらずゴザをひいて、小さな蚊帳を吊って暮しているのだろうか。ナーリさんのウナロム寺院の住居と、世田谷村の平面が似ていると言った友人がいる。何を馬鹿なと聞き流していたが、この酷暑に遭遇してみれば、暑さを介してそうかも知れぬと思う今日この頃である。

元捨て猫の白足袋はこの酷暑をどうしのいでいるか。彼は何しろ、グタリと伸び切って横になる場所を探して日がな一日うろつき廻っている。今朝は二階から一階への木製階段室の、鉄製階段の厚木の段板の途中に組み込んだアルミ製の小さな踊り場にベタリと横になっている。素材の冷たさを選んだのである。世田谷村は上に行く程暑くなる。下に降りる程に冷気を得られる。勿論、地下室に降りると寒いくらいなのだが、白足袋に地下室の快適さを教えたいと考えている。何故なら、地下室で奴に壺振り特訓をさせようとのプランがある。品川宿の堀江新三に貸し出して、それで大もうけしようというのである。白足袋に壺振りをおぼえ込ませたら、わたしは白足袋にはTV出演はさせない。広告代理店などから、それこそ引く手あまたであろうが、マネージャーになったわたしはTVには出させない。白足袋の品格をとめどなく貶めるからである。

品川宿に週一度の壺振り姿あで姿の登場しか許さないのである。猫本来の後ろめたい、賭博者の気配が失われてしまう。余りにも出演依頼がしつこい場合には一度だけ出演を許す。その場合は最も低俗な番組を選びたい。女子アナやらキャスターなぞ、あまたのお笑いタレント共がジョロジョロしているのが良い。

そして白足袋には恐怖のキャッツ・アイアン・クローなる必殺技を教え込む。白足袋はいきなり宙に飛び、キャスターやらお笑い芸人やらの顔を無差別テロに及ぶのである。スタジオは地獄と化す。流血の惨事である。マネージャーはすぐに謝罪宣言をして、プロレスラーと化した白足袋をTV世界から引退させる。しかし、その眼の冷たさは一向に変わりようがない。

朝から、暑いと白昼夢もシュールレアリスムどころの騒ぎではない。昔日の香港B級カンフー映画の無茶苦茶な域に達する。

山口勝弘先生が、自分のやりたい事に協力せよとの手紙を下さった。一読、たちどころに感銘を受ける。芸術に古い新しいはない。芸術家に古い新しいが無いからだ。こういう手紙をいただくと、つくづくわたしは芸術家ではないと知る。山口先生と比べれば、わたしはやはり設計を職とするせいぜい作家である。絶版書房通信に公開するので、御覧いただきたい。芸術家は絶滅していない。これをもって読者の皆さんへの酷暑見舞いとする。まちがっても熱中症なぞに倒れたりしないでこの夏を乗り切っていただきたい。

300 世田谷村日記 ある種族へ
八月十三日

十一時前研究室。辿り着いてサイトをのぞいたら、なんとこれが300回記念であった。この300回というのは気まぐれで、十数年の時の流れの中で何度か、心機一転して、0からやり直す事数回。300回は毎度の程々の改心してからの回数なのである。実に他愛ない。十一時合同ゼミ開始。ゼミといっても、実際のプランニングの試みも入っているので、わたしだって緊張する。設計、デザイン以前の情報収集作業に於いて、仲々良い成果を得るのが、M2の人材の特色である。しかし、設計への離陸がうまくゆかない。わたしの求める水準が高過ぎるのは、わかり切っているのだが、それにしても、どうかな。良い人材が集まっている筈なのだが、やっぱり、わたしの問題か?研究室に居る時間を長くしないとダメなのかも知れない。が、わたしの都合もあるから、その案配はとてもむずかしい。十六時迄ミーティングを続ける。

サイトチェック。少しの雑用。十六時半新大久保近江屋にて研究室主要メンバーの暑気払い。近江屋の新作トマト・ソーメンターレみたいなソバ屋イタ飯風を食す。これは美味である。世田谷村に二〇時半戻る。実に平凡な振子のような毎日である。300号記念なので、何か気のきいた事を記したいと考えるのだが、無理だ。

八月十四日

昨夜は寝苦しく、何度も目が覚めた。七時起床。曇天風なし。

そう言えば、研究室の引出しの何処かに、榎本基純さんからのメリーランドのかたつむり依頼の手紙を保存してあったと思い起す。榎本さんは達意の文章家で、便りは常に簡潔で妙なるものがあった。全て残してある筈だが、一、二紛失しているかも知れない。メリーランドのかたつむり。

金子兜太氏の定型短詩としての俳句論の骨子にはいたく感銘を受けた。若死にした中上健二の小説定型論、物語り論も面白かった。俳句作家、小説作家の、作り続ける為の創作論である。この類の作家の創作論は意外に少いように思う。批評家の創作論は少くはない。しかしながらそれ等は読み解く面白さであり、やはりある種の謎解きへの好奇心がベースになっている。この謎解きの好奇心こそが批評の中心ではないかと思うことがある。批評も創作も共に自立するものではない。その境界はすでに無い。榎本基純さんは典型的な高等遊民の風格を漂わせていた。彼の幻庵にはまことに小さな書棚が陰にしつらえられていた。幻庵の全ての趣向は榎本夫妻の為のものであったが、同時に訪ね来る客人達のためのしつらえであった。

だから、充分にその書棚は客の眼、客の素養を意識してデザインされていた。デザインとは書棚の形の事ではない。書棚の中身のことである。来客毎に書棚の中身が変えられていた迄のことはなかったが、書物の著作者が来客として現われる時には、その著作物が書棚の片隅に必らず置かれた。来訪者がそれに気付こうが、気付くまいが一向に構わずにそれはなされた。

榎本さんが残した文章で、わたしにとって忘れる事の出来ぬのは筑摩書房文庫版の「笑う住宅」の巻末の解説文である。彼は、この解説文に於いて、わたしの絶版書房、「アニミズム紀行5」に記した、わたしの未来らしきをすでに予言していたのである。その文中で、わたしは究極の旅に出されて、ネパールのキルティプールでわたしらしきの人影を見た、という噂がチラホラと耳に入ってくる、と書かれていた。彼にとってのイシヤマはいずれ、何かしでかして、日本には居られなくなり、逃避行の旅に出ざるを得ぬ人間として映っていたようだ。

榎本基純とわたしの関係は、クライアントと設計者の関係を、超えていた。どう超えていたかと言えば、その関係を驚く程に抽象化したものに育てあげられていた。幻庵のようなモノのクライアントとデザイナーの関係はとても複雑だ。その、どちらが作者たる由縁を持ち得るかは、それ自体が創作の謎めいた世界に通じるのである。

この小建築に名を与えようと二人は考えた。榎本基純が考案した、つまりデザインした名前が斜意庵であり、わたしが提案したのが幻庵であった。

もともと、榎本基純には深い庭園趣味らしきが秘んでいて、幻庵の周囲の庭は彼が自分で作る気持が強く在った。その準備のひとつとして、彼は黒い巨石を入手して、それを随分苦労して、ここに運び込んだりしていた。今はすでに遠い記憶になった。メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って. その4


八時過小休。朝食をとる。

幻庵の小さな書棚の書物群は時々入れ替えられたが、常に在り続けた書物があった。中原中也詩集であった。それについて語り合った記憶はない。断片的に中也観が語られたのは憶えている。どうやら榎本基純は中原中也をいたく気に入っていたのである。

わたしも中也は知らぬでも無かったが、好きではなかった。こんな人間が身の廻りに居たならば、たまらんだろうなと単純な、その粘液質であろう人間に対する違和感からだった。

小林秀雄と中原中也の悪縁は世に良く知られる。その悪縁は一人の女性を巡るばかりのものではなく、批評家と創作者の関係の、それ位に抽象化可能な悪縁である。

榎本基純の幻庵の小さな書棚にあった中原中也詩集は、中原が事実上の遺稿として、死の直前に中也が小林秀雄に託したものである。中原中也の詩集を批評する能力はわたしには無い。でも感想らしきをのべる。中原中也の創作である、それ程多くはない詩作について。中也のアルチュールランボーへの傾倒振りから、中也の詩をフランス象徴詩とのつながりで考える向きがあるが、わたしにはそれは理解できない。中也が小林秀雄に自作の詩を読ませたら、小林はだいぶんうまくなったね。と評し、それに対して中也が怒ったというエピソードがある。ランボーを一瞬の頂点とするフランス象徴派の詩作群を小林は賞味する資質、教養を持っていた。だからうまくなったねの一言はその域に接近はしたねの評であったのだろう。ランボーの詩作の中に小林は要するにまぎれもない天才を視ていた。自分を相対化する才の持主であった小林はそれで俗に言う創作を断念した。二流である事に耐えられなかったからだ。そして、日本の批評という分野を創出した。中也にはそれを視渡す視野そのものが無かった。中也の詩はランボーよりも、むしろ何隠そう北原白秋の影響が露骨だった。人口に膾炙し易い語句の連続的な使用、そして定型を本能的に、しかし無意識に望んだ言語のリズム感(歌謡への接近と言って良い)、等々。中也は太宰治と折合いが悪かったようだが、実ワその詩は太宰の小説に酷似しているのである。榎本基純は高校の国体の幅跳びの記録保持者であった。肉体的な強さには恵まれていた筈で、中原や太宰の如く軟弱な肉体の持主とは異る種族である。そんな榎本が何故中原中也に傾倒していたか。榎本基純は自分の内に隠然たる批評精神、つまりは鑑賞者の才質を自覚していたからだ。榎本の晩年は庭師への径の途次であった。メリーランドのかたつむり。

水の神殿を巡って. その5


十九時過、Xゼミナール2本を書く。1本目は海老原一郎の強い影響を受けたと考えられる高山建築学校主の倉田康男の古典主義について。高山建築学校の事を書くと筆が自然にすすむ。倉田康男先生の事はXゼミできちんと何らかの形で歴史上に位置づけたいと考えていたので、その一端を試みようとした。長文になった。2本目はいつか書こうと考えていた、設計も含めた建設の労働の質に関して触れ始めてみた。近代建築の始まりを水晶宮におくか、ウィリアム・モリスのレッドハウスにおくかで随分思考形式も、実作さえも変わってくる筈だ。この点で、いずれ論を闘わせざるを得ないだろうと予測している。

少し休む。

八月十五日 日曜日

七時過起床。Xゼミナール書き続ける。何故か海老原一郎に倉田康男、そして1914年生れの立原道造まで出てきた。自分でも面白くて、昼前迄書き続ける。

「伝統都市3インフラ」を精読する。どうやら今年の秋の東大との合同課題は水道局の施設、及び周辺を立地とした課題になりそうなので、勉強する必要がありじっくりと読む。序、伊藤毅、都市インフラと伝統都市、鈴木博之、運河都市、吉田伸之、高輪海岸、他を読了。今日はこれ位にしておこう。

299 世田谷村日記 ある種族へ
八月十二日

新潮社「考える人」ドリトル先生倶楽部原稿を書く。

幻庵主榎本基純からの「メリーランドのかたつむり」の謎がわたしの庭園の旅のスタートだった。旅という言葉が換起するもの程庭園に近附けるものはない。そこには自然の途切れる事のない変転との密着に伴い、必然的に時間そのものが流入する。建築は人工物な構築の世界である。時間の倉庫は宇宙的なスケールでの地球の運動を建築内にとり込もうと試みたもので、人間の身体スケールでは抽象的な思考世界の庭園と呼びたいものだが、それを言うのには外部に構想している具体物としての庭園の完成を待つしかない。説明には順序がある。説明、解釈、批評も表現なのだ。人間自身が動きまわるにせよ、その想像力が動きまわるにせよ庭園とは本来に動きを内包するものである。わかりやすく言えば人を動かせるスケールを必要とするものなのだ。

紀行文学のみならず、そもそもありとあらゆる文学は何かの形で旅を暗喩せざるを得ない。人間の言霊の、その組合せアッセンブル、その持続こそが文学の形式である。ここで言う庭園は伝統的庭園ではない。理想としての庭園である。さりとて、日本の庭園と言えば誰もが中世よりの伝統的庭園を想い起すであろう。その伝統的庭園の大半が寺院を含む境界を形作っている。寺院境内の一部であるから当然、仏教の教義、比喩、物語りの引用でありパロディーである事が大半である。だから伝統的庭園の良質なモノを体験する事は仏教の典儀、書物というテキストを旅するに他ならないのである。近代的な視覚の美を旅するのとは異る。又、それを理解し得ぬのはテキストを読む教養が無いに過ぎない。庭の体験にはあらかじめの予備知識、情報があると楽しみは別次元になる。つまり、伝統的庭園は情報のフィールドでもある。

しかし、そのテキストを共有できぬ近代となり、それは高級高額な視覚物の点在となったのである。視覚的鑑賞物となった。竜安寺の石庭はその典型である。あれは額入りの抽象画を壁に掛けずに大地に置いて眺めさせられているようなものだ。わたしは好きではない。でも、わたしには何の教義も禅の公案も与えられなかった。引用すべきテキストらしきも示されなかった。それ故に、「メリーランドのかたつむり」。

水の神殿を巡って. その3


十八時半烏山区民センター二階で烏山駅周辺まちづくり協議会。ほとんど実質的な議論は進行せず。旧来のグループと新しく参加したグループの言い合いに終始した。これでは会の進行がおぼつかぬとは可会の副会長の言であるが、それならば時間を延長してでも議論を尽すべきなのである。しかし、これは恐らく別の要因で進められないのであろう。大体会が順調に進行したとしても、このままでは何の役にも立たぬ区役所への提言書らしきが提出されるだけなのだ。協議会自体がアンケート総数24の低多落の中で運営されている事、それがどれ程弱い基盤を持つモノでしか無い事を何名かの副会長、というよりも、区民小官僚の如きは認識すべきであろう。毎回出席している区役所の支所係長に、旧第一住宅団地の全ての出入口に立てられた看板の件について、これは非公式に協議会の議題としてではなく尋ねたところ、又もやあそこは私有地ですからと、けんもホロロの倒変木。流石にムッとして、今の看板の状況を実際に見てそれで返答を返してくれと、これは一区民として言う。明日から猫の手も借りて色んな準備したい。

二十時了。O君、Hさんの三人で立ち話しの後、宗柳へ、この夏の方針を話し合う。この三、四人が新規参入、いわゆる新参者グループである。対して守旧派は副会長グループ3人だから、人数としては五分五分だ。いずれにしてもコップの中の争いには間違いないが、これも現実である。二十一時世田谷村に戻る。

八月十三日

五時半起床。

Hさんと第一住宅団地の件相談。Hさんは彼なりに手を尽くしているようで、仲々の凄腕である。どんな局面にも政治家というのは顔をだしてくる者だな。2、3の電話をして早朝を過す。

十時世田谷村を発ち大学へ。

298 世田谷村日記 ある種族へ
八月十一日

先日の難波先生退職本のゲラに手を入れて彰国社に送る。編集者は苦労するだろう。ドリトル先生動物園倶楽部への入金希望の方々より、お金がザクザクと、ほんの2件送られてくる。

一件はどうやら、豊洲有庵という和菓子屋さんか、うどん屋さんか、何やらの包装紙を封筒にキチンと仕立て上げ、手紙も同様の包装紙の裏に書いてある。極めて様子よし。大阪府高槻市の囲炉裏茶屋気付、玉野井さんからのモノ。この人物は、わたしの最近の本を2冊読み、おまけにこの日記を過去一ヶ月分読み通して、それで入会を申し込んで下さった。余程用心深い習性の持主なのであろう。

いきなり当人のプライヴァシーを犯すのは、玉野井さんもすでにドリトル先生動物園倶楽部事務局の白足袋のこと、その飼い主および選無しの無投票会長であるわたしの事を「樫田・コンテナ」なるブログで触れているようなので、それなら五分五分だろうと、わたしも一方的に公開してしまう事にした。どうやら、半セルフビルドのコンテナ屋敷に棲み暮している、怪人二十面相的オバさんらしい。超絶美的魔女やも知れぬ。しかし、封筒のスタイル、書面のスタイルから推し計るのにかなりの気骨の人らしく、こちらも用心するにこした事はない。よろしく願いたい。

世田谷村の二階は空に浮いているのだが、今はクヅのつたと葉が音を立てる程に生い茂り、侵入しようとしている。もの凄い生命力である。このクヅの葉をカーテンみたいに南西面をおおい尽くしてもらう様に工夫したいのだが、とても自分で作業する気力は今はない。三階のテラスに土をあげてツタ類を植え込むのが一番合理的だが、葉に覆い尽くされてしまうのはとまどいが無いわけではない。

夕刻、十七時千歳烏山駅周辺まちづくり協議会運営委員O氏と会って明日の協議会の予備打合わせ。O君はわたしより一才年上で、高校の同級生であるのは以前記した。でも憶えている人は居ないだろう。何度も書かねばならぬのがこの日記の特色でもある。O君は妹さんと同居して、高齢の御両親の介護をしている。父上は95才で毎週一度、近くのプロテスタント教会へ礼拝へ通う。気丈である。母上は世間には珍らしく弱っておられて、妹さんと当番で介護しているのだそうだ、普通はまずオヤジがまいるのである。O君に「何でまちづくり協議会になんか参加しようと思ったの?」と尋ねたら、地元なのに、ほとんど知り合いが居ないのに気付いて、これはいかんと、年なりに考えたんだ、と答えた。

だからO君のまちづくり協議会へのスタンスは悠々としている。わたしと微妙に異る。だって、O君は明らかにこれ迄働き切って、まちづくりは第二の人生だと考えている。ところが、わたしは第二の人生ってのが仲々考えられなくて、だから、協議会もわたしの仕事の延長である。だから、O君にも君その次はどうするの、次の目標は何なのかと、いささかギスギスした問いを発してしまう。O君は、悠々と、時の流れに身を任せようという風があり、議会の、のほほんムードから浮いているのを知る。

でも、ほぼ四ヶ月のまちづくり協議会への出席を介して、これはO君的姿勢の方が正しいと思うにいたった。O君はひと仕事終えて、アトはマア楽しんで生きようと決めたのであり、わたしはそれが出来ない。わたしは、まだまだ仕事がしたいのである。仕事らしきを介してしか社会を眺められないと言っても良い。解りやすく言えば、こうだ。でも、今日はもう休み。明日にしよう。これはO君の影響である。まずい!

八月十一日

七七時過起床。一度四時半に目覚め朝焼けのはじまりを眺めたが、又眠ったようだ。

昨日のつづき。

当面O君は烏山寺町の事をやってみたいようだ。で、具体的な目標は?と問うと、ムニャムニャとなり、まあゆっくりやればいいとなる。寺町の行事(イベント)を烏山駅区民センター前の広場にもってくればいいやとなる。それで良いのだ。犬や猫の何やらコンテストくらいかなと思ったりする。O君は広告代理店的発想が好きなのだ。

一方、わたしは、寺町の高源院の弁天池周辺を景観としてもう少し、キチンとして目黒川のはじまりとしてデザインしたいと考えている。あるいは、いくつかの寺院に犬猫他のペット墓域を作る事で寺域のデザインを始められないかとも考えている。小さな庭の計画である。大半の方々が不可能だよと思いかねない事だろう。我ながら確かに少し変ではある。ドリトル先生動物園倶楽部に関しては、先ず、幾つかの動物の家、庭のモデルを作成し、それを動物病院との組合わせで作品として作ってみたい。これは杉並のI先生に先ず提案してみるつもり、Iさんはすでにドリトル先生動物園倶楽部会員である。

I先生みたいな人が、あと2、3人いるといいなと、つくづく思うが、これは明らかに無いモノねだりである。

向風学校の安西君より連絡あって、彼の住いに近い中目黒にはしかるべき、まちづくり団体が見当たらぬという。目黒川の出口と入口は何とか押さえたので、あとは中継ぎ点が欲しいので、君、作ったらとなった。無ければ作れば良いのだ会なんて。

297 世田谷村日記 ある種族へ
八月十日

十七時半、十二年前に研究室に居たバウハウス建築大学のペトラが来室。あの年はバウハウスから女学生が二名きた年だった。彼女は帰独後、NYへ動き、そしてアクシデントに遭遇した。記憶喪失症に一時期なったと聞いていた。金属製のつえを使用していたので、又、何かあったのかも知れない。日本に来て、来年の三月までいるそうだ。こんな時には深くを尋ねない方が良い。例え、ひとときであるにせよ記憶を失った人間の気持を想像するのはむづかしい。ワイマール近くのエアフルトという古都が彼女の故郷で御両親ともお目にかかった。一日弱のとても親切で密度のあるエアフルト観光もさせていただいた、御両親に。

こういう事は今や日本では考えられない。わたしにとってはエアフルトは忘れられない都市になった。ペトラはBABAさん元気でしょうかとしきりに聞く。そう言えば、あの頃はバウハウスからの留学生の宿舎は、我孫子の佐藤健の酔庵であった。真栄寺は近い。御両親も来日したおりに真栄寺を訪ねている。ペトラは今、柏にいるそうで、昭道さんには会いなさいと、困った事があったら何でも頼みなさいと、伝えた。

十二年の歳月は実に長く、そして短い。ペトラの人生も大きく揺らいだ。今の日本人には居ない、デリカシーを持つ人間で、話していると眼に涙が浮かんでくるのであった。泣かれたら、コチラも危い。あわててメシに行こう、ペトラとなり、渡辺助教をさそい、新宿南口味王へ。

陽気なバカ話しとなった。しかし、バウハウスからの学生達、特に旧東ドイツ系の人間達の「情」の形、深さ、はとても懐かしさを感じるのは何故か?

人によってそれぞれではあろうが、わたしの母や祖父母の気持の骨格にはそれらしきがあった。ペトラや彼女の御両親から感じられるのも、それだ。

二〇時頃お別れ。

二〇時半世田谷村に戻り、馬場昭道にペトラの件を頼んで、休んだ。

八月十一日

七時半起床。メモを記す。記憶喪失症から奇跡的に復帰したペトラの人生を想う。

第二次世界大戦後のドイツ。アドルフ・ヒットラーのナチズムが主導した戦争が終り、ドイツは二分された。連合軍側の西独とソビエト連邦による東独である。バウハウスからの留学生も西独系、東独系があり、わたしはそれに対面した。もちろん人間それぞれに個別な自立性はあったけれど、それでも西独系、東独系、の学生の気質は異なるように思った。古さをわかりやすく言えば、恐らくは戦前の日本人の多くが持っていた保守性である。家族の絆を中心とした、共同体を重層的に構成する気持が不自然ではなかった。宮本常一や、いきなり登場するが山田脩二の写真に記録されている村やそこに暮らす人間像である。

言葉を尽くすのが面倒なので写真に例える。

連合国側に占領された西独の学生達が我々に近いのは簡単に了解可能だ。我々も連合国(米国)に占領されたのだから。教育に介しての民主主義教育は共に徹底したものであったろう。それ以前のナチズム、皇国史観に抗する力を持たねばならなかった。戦後六十五年それは貫徹された。そして、時に、教育によって記憶喪失症になった自分の前身を、連続性を持つ人間の歴史を想ってみる。

わたしが今を生きている現実のバーチャル性、浮遊性は、これは歴然とした民族的な集団としての記憶喪失症なのではあるまいか、と。

ペトラのアクシデントによる記憶喪失を、客観的に冷静に見る事は容易なようだが、その冷静さは実はとても浅薄な思考でしかない。ペトラの御両親はほぼわたしに近い年令である。ペトラはわたしの長女と同じ位の年だ。わたしと比較すればペトラの御両親は明らかにわたしよりも、娘に対しての愛情は深いし、周辺の人間に対する心遣いの密度も深い。他人の畑はきれいに視えるのを差し引いても歴然としてそうだ。

半世紀以上の年月、日本の近代化の現実とは、その歴史の背後に記憶喪失症の病理を広げているような気がしてならぬ。

山本夏彦が寸鉄人を刺した、日本人はニセ毛唐になった、とはそれを短く言っていたのだろう。わたしたちの想像力はバブル経済期の10年を空白として把える力をすでに持つが、その認識の力は更に拡張する必要があるだろう。

296 世田谷村日記 ある種族へ
八月九日

十時前京王稲田堤、現場定例会。本格的な根切り工事進む。街路側に175mmしかクリアランスが無いのだが、うまくクリアーしたようだ。建築工事、設備工事、電気工事との細密な打合わせ。十二時過了。十三時一度世田谷村に戻り、再外出雑事をこなす。

伊藤毅先生より、「伝統都市3 インフラ」送られてくる。伊藤毅先生の近年の精力的な活動は眼をみはるものがある。恐らくは今、都市関係世界では最も骨格のある研究を進めているのではないだろうか。驚くべきはわたしが断片的に進めようとしている幾つかのプロジェクトも、この書物に書き留められている学術的論考にとてもアクチュアルな参考、指針が得られる事だ。すでに建築的発想が都市史的考究から自由ではあり得ぬ事を教示されるような気がする。

八月六日に旧第一住宅団地内の道路の通り抜け禁止の大きな看板が突如立てられた。又、防犯カメラ、セキュリティーが設置された旨の看板も立てられた。50年間生活道路として生活の一部として使用してきた者として、又、この住宅団地の公団としての誕生という歴史を考えるに、一企業の商業的意志、又はそれと連関する動きを見逃す事は出来ぬ。もの申すべきだと考え、何等かの署名運動を開始する準備に入る。

又、この土地は京王線立体化にともなうまちづくりとも密接な関係があり、鳥山周辺地域には重大な、実は問題でもある。この日記でモヘンジョダロ遺跡として紹介してきた土地でもある。本当は遺跡どころではない、生々しい欲動がうず巻いている土地なのだ。

十八時より、会合出席。二十二時半世田谷村に戻る。

左廻りにゆっくりと地底に降りてゆく。スロープの床も壁も全てコンクリートである。コンクリートの固まりに一条の刻み目を入れて、そこに潜り込んでゆく、そんな感じさえある。一条の刻み目と書いたけれど作った者の気持としては、この左廻りに降下してゆく斜路は巨大ボイドの中に構成するという当り前な気持が半分、ボイドの空虚それをくり抜くという感じが半分であった。解り易く言い直せば、先ず左廻りの螺旋が内部にあったのが半分。その螺旋を外部に結果として露出しよう、しかし建築にとっては外部に相当するゆるいU字型の谷間の地形に、それ相応に埋め込もうと考えたのが半分。つまり、更にわかり易く言えば三重に内外がトポロジカルに関係づけられている。左廻りに降下してゆく斜路の外には左まわりに登ってゆく谷間の道がある。谷間が生み出しているボイドに上昇する螺旋と下降する螺旋を意識したという事だ。

この事は建築にとっては、決してささいな事、ましてやエキセントリックな思考では決してない。誤解はされたくない。建築を巡る思考にだって、テクノロジーと呼びたい位の歴史的な世界がある。実に多くの建築家達が、勿論近代以前から考え続けてきたのは、一つは建築の内、外をどう結びつけるかと言う事でもある。

ブーレーのニュートン記念堂のドローイングはそれが歴然と現われている。ザラザラとした感触、ヌメリのある感触を介してそれを見てゆこう。

「時間の倉庫」を巡って. その11


八月十日

六時半起床。メモを記す。

ブーレーのドローイングに視入る。視入るというのは作者の気持の中に入るという事だ。巨大な風景が描かれている。肉眼で視える宇宙らしきが描かれてある。遠くに都市らしきのシルエットが影絵のようにあり、その宇宙らしきの巨大さが強調されている。明らかにブーレーの描こうとしたのは天空ではなく、宇宙という超越的スケールである。その宇宙を背景にして巨大な石造建築の断面図が描かれている。その断面はしかし立面図と同居して描かれている。

つまり、内外を同時に描こうとしている。ブーレーは。1枚の平面、つまり紙の中に建築の内外を同時に描こうとするブーレーの意志が在る。断面図は巨大な球形が中心、つまり主座である。巨大な球形の断面図の中心にはニュートンが発見した万有引力の法則をブーレーなりに視覚化したのだろう。ニュートンの思考は宇宙の原理であり、原理や法則という高次な概念は視覚化が困難である。不可能でもあろう。それをブーレーは敢えて描いてみせた。巨大なボイドの中に吊るされた地球概念モデルは、それ故に今の眼で視れば稚拙で、玩具にしか視えぬ風がある。しかし、フーコーの振子を知れば、この地球モデルは円を描いて運動する筈だから、その円運動そのものは圧倒的な感動を人々に呼びおこすであろう。ブーレーはその動きを表現したくて、地軸のみならず何本かの地球の経度ラインを描き込んでいるのかも知れない。その円運動を含めて、この玩具のような地球儀モデルはある種の精霊の如きモノとして描いてある。

「時間の倉庫」を巡って. その12


昨日、得たシンガポールのプロジェクトのファースト・スケッチを研究室に送信する。ほぼこれでスタートできようが、早急に模型化スタディーをすすめたい。

ブレーのドローイングを考えながらの作業であったが、まるでブレーの世界とは反対の、しかし技術のアイロニーの如くがスケッチには出現しているようだ。自分の頭脳の中をのぞき込んでいる。九時小休。

295 世田谷村日記 ある種族へ
八月七日

十四時高校生達にレクチャー。十五時M0M1M2合同ゼミ。当然の事ながらM2の健闘が目立つ。そりゃそうだろう、この中から将来の逸材が育ってもらわなければ教師としてのわたしはない。

今、やっている事、考えている事を十年以上の後に、つまり三十五才になった時にも忘れないで、というよりも時に思い出せるかどうかが分かれ目なのだろうと思う。

でも、それがいかに困難な事であるかをまだ彼等、彼女達は知らぬ。川端が月岡芳年「百器夜行」そして、鳥山石燕「画図百器徒然袋」を検索してきた。この一種の編集能力らしきものが今の世代の特色であり、武器だ。鳥山石燕の画業なんて、わたしは全く知らなかった。しかし、この江戸時代の画家の笑いに満ちた表現には驚いた。

「画図百器徒然袋」という画業の命名に2重3重の引用も隠されていて恐らくは相当の知識人であったにそういない。川端はこの原図を実現する位の気持を持ったらよい。それから展開を企てたらよいのだ。

十八時終了。ヒタヒタと若い知性に包囲されてのゼミは仲々にエネルギーを消耗するのだ。でも今日のは面白かった。

直下の地下鉄にて新宿へ。味王で久し振りに渡辺助教と夕食。最近の研究の成果を聞く。着々と進んでいるようだ。味王のお婆ちゃんとお嫁さんの関係も仲々味があって面白い。こっちの方が味王だな。

二〇時半頃了。二十一時半過世田谷村に戻る。

ブーレーの「ニュートン記念堂」のドローイングに視入る。コンピューターの画像のフィルターで濾されているので、実物の恐らくは力は失せている。

現代人の大半と言って良いだろう、は濾されたモノを好む。何故なんだろう。

生モノを深く恐れているからである。例えば、世界の現実に相対するに、書物ですら生モノである。だって、紙という物質にインクという物質で印刷されている。それ故に、コンピューターの画面に発行する映像としての文字、他に人々の好みは移行してしまう。

ピラネージの銅版画のオリジナルに触れた事がある。その時の手ざわりを今でも憶えている。その体験は、その後のピラネージの印刷物での体験に相当に影響を与えた。あの紙の重さ、ザラザラとした感触が身体に残っていてその触感が印刷物への視覚体験に、結びついていたように思う。

それがどのように結びついていたのかは、これから考えてゆきたい。

ブーレーのニュートン記念堂ドローイングのオリジナルは、それはそれは荒々しい、ザラザラとした重量感を持つものであるに違いない。

これは、勿論アンビルドの建築である。恐らく建てられる事をリアルに望んでのモノではあるまい。

ブーレーのこのドローイングで今、重要なのはこの生々しさなのではないか。コンピューターで濾された画像からさえも感得し得るザラザラ、ヌメーッとした感触そのものである。ブーレーはこの感触の奥に何を描こうとしたのだろうか。

「時間の倉庫」を巡って. その10


八月八日

五時半前起床。涼しい朝の冷気を楽しむ。

水の神殿はわたしの初めての庭園作品である。これから先、やってゆきたい主題の一つだ。庭園づくりはやりたい。

それでメリーランドのかたつむり、の記憶まで遡行している。人間には忘れようにも忘れようがない記憶というものが誰にでもある。庭園についての夢を確実なモノにしてゆく為には、まずはその夢、つまりは気持のモトを探求する必要が、少なくともわたしにはある。

「メリーランドのかたつむり」これは幻庵のクライアントである榎本基純がわたしに投げた、今では奥深くなるばかりの謎なのです。

メリーランドのかたつむりは榎本基純によれば、大江健三郎だったかすでに定かではないのですが、小説、キマイラに登場する想像力の中の幻生物の如きもの。うろ憶えではエリオットの荒地にも出現する、スコットランドの沼沢地に生息する年をとったかたつむり状の生物であったのかも知れません。

不勉強で、それを開いた時にすぐ原典をひもとく努力を怠ったのが、庭園への入口を、この年になる迄開くことが出来なかった原因となりました。悔やんでも悔やみ切れぬ事です。大事には潮時というものがある。それを逃しては事を為損じる、とは勝海舟の言です。卓越した実行家であった勝らしい至言なのです。つまり20代の後半にわたしは一度事を仕損じたのです。

巨大な時間の空白を経て、わたしの気持の中でメリーランドのかたつむりが再び動めき始めました。幻庵主榎本基純が千八百坪の小盆地に構想していたメリーランドのかたつむり。今では彼の脳内をのぞき込む事しかできない。 しかも、死んでしまった人間の脳内風景をのぞき込む事しかできないのですが、その作業から始めてみようと思います。

水の神殿を巡って その2


十五時半前、烏山世田谷区民センターのロビーで、烏山駅周辺まちづくり協議会のO氏と待ち合わせ。日曜の午後の烏山寺町散歩。先ず寺町には必須の墓石屋さん、大久保石材店に御あいさつ。

当然、ドリトル先生動物園倶楽部入会のご案内を。ブラブラ歩き、妙高寺へ。住職は不在であったが奥様に小川氏を紹介、ドリトル先生動物園倶楽部入会のすすめ。完全に寺町セールスツアーの様相を呈する。途中喜多川歌麻呂の墓などを訪れ、目的の高源院へ。品川宿にて太平洋に流れ込む目黒川の源と言われている弁天池を持つ禅宗の寺院である。

住職の奥様に御あいさつしたところ、住職は寺内で掃除やらをしている最中との事で、墓地に参入。タロー、ジローの犬達の立派な墓、やすらぎのモニュメントを経て、墓地を掃除中の住職に強引にお目にかかり、ごあいさつ。品川宿の連中が、目黒川源流の高源院と訪問する会の実施の依頼。住職はキョトーンとしたおももちであったが、突然、うちはペイスケ等を描いた漫画家の園山俊二の墓があるぞと宣言した。誠に禅宗らしい融通無碍というか自在な脈絡の無さである。アッ、そうですか彼は早稲田の漫画研究会出身で、ぼくらも早稲田です、と何とか品川宿VS烏山寺町OKをとりつけた。たまには早稲田も役に立つものだ。

たぬき寺とか、色々と巡り十八時前に烏山駅周辺に戻る。暑い中、三時間の仏閣ツアーであった。

十八時南烏山ちとから酒場に入り込む。小川氏のまさに家の隣りの小さな酒場である。ビールを呑んで一服。十九時前了。サラリと仕上げて世田谷村に帰る。寺まちの寺院群の中に庭園をひとつ実現したい。

八月九日

八時過起床。寝過した。気まぐれで昨夜読んだアーサー・C・クラークの3001年宇宙の旅のせいである。読み通したが、ピリリとしないものであった。以前は一度読みかけて投げてしまった。宇宙エレベーターとかのディテールが出てはくるのだが、全体の構成が精密でない。でも読み通したのは木星が二つになって、水の永の星の詳細が描かれようとしているからだ。水の循環のデザインを考えているので、何か記憶に引っかかったのであろうか。

九時過さくら乳児院なしのはな保育園現場定例会へ発つ。雨上がりで涼しい。やはり水は精気を与えてくれるものだ、と感じたり、これは恐らくこじつけである。日記で気取ってはいけない。

294 世田谷村日記 ある種族へ
八月六日

十一時前研究室、大学キャンパスに入ると普段と空気がちがう。少年少女がゾロゾロと歩き廻っている。職員らしきが旗を振って何やら叫んでいる。そうか、これがあのオープンキャンパスかと知った。まずい日に変なところに来ちまったなと、急ぎ足に歩いた。明日は彼等に向けてのレクチャーまでやらなくてはならぬのであったな。

少年少女が嫌いなわけではない。でもナイーブな少年少女趣味があるわけでもない。本当は教師でもあるわけだから、シニカルに避けるわけにはゆかない。恐らくは人間に期待し過ぎてきたつけが廻ってきているのだろうと思われる。未熟な少年少女学生達の一人一人に過度な希望を持ち過ぎてきた小史があるので、それが裏切られ続ける現実を知り過ぎてもいる。それで少年少女達を避けたいと思うのかもしれない。

そう言えば佐藤健も東大医学部の学生を中心とした無名塾とやらを開校していたが、あの学生達のその後はどうなったのか。あいつは話すのが上手で、しかも好きだったから絵になっていたけれど、わたしは向いていない。

かつて藤原新也が「乳の海」で描いた若者達の、何と言えば良いのか気だるい視界の卑近現象とでも呼びたい、まさに海。その藤原が今は、その若者達の生態を”リア充”と呼ぶ。自分達が要するにリアルな存在では無い事を自覚して、そのリアルさを演技して装うという意味のようだ。乳の海が乾燥して砂漠状になったとも言うべきか。

でも、わたしは一般的に若い人、あるいは学生というひとくくりの呼び方、くくり方は卒業したいとも考えている。個々の人間を視てゆくと。小さくとも、わたしとは異なるけれど、違うカタチの考える力を感じる事もあるのだ。

研究室に辿り着いてサイトチェック。8月に入ってからのヒット数他のデータもチェックする。日記他のスタイルを変えて読者数がほぼ倍になった。その状態が5日程続いているので、石山研のサイトは別ステージに入ったなと考えた。更に次のステージを目指したい。

鬼沼「時間の倉庫」三階から下の大きなボイドへと降り始める。左まわりに降下してゆく。スロープのパラペットには大、小の開口部がくり抜かれている。木製の照明器具が嵌め込んである。しかし、照明は弱い人間の視力をかすかに補うものでしかない。光の主役は分厚い外壁からの太陽光である。否、太陽光だけではない、月の光、星々の光。のみならず、大地が発光するやにも視える山々の光というものもある。誰でもが知るでしょう、時に山々が光るという現象を。大気に満ちた電磁波が生み出すのだろうか。確かに山々は発光するのです。

宙空に満ち満ちるありとあらゆる光、そして発光する大地のエネルギー。そのいささかを、このコンクリートのボイドへと導入したいと考えたのでした。平面形は完全な四角形(正方形)です。特にそのコーナーの開口は入念にデザインしました。斜降するスロープの人間の動きを、それは眼の動きのみならず知覚全体と関係します。四角いコンクリートの角は特に内部に於いて大きな意味を持ちます。スロープの角でもありますから。街で例えれば四つ角、交差点みたいな処です。街角をまわる時、あそこを曲ったら何か異る光景が拡がっているんじゃないかと、少しばかり心ときめくではありませんか。誰でもです。それが人間の、しかも日常に残されている都市の夢です。

そんな事をコーナーには託したのです。ブーレーのニュートン記念堂を考案してドローイングに残した際には、ブーレーの脳内にはニュートンの万有引力の法則への理知的な接近だけがあったとは、とても考えられない。あのドローイングから感得し得るのは、ブーレーの天空、そして大地に感じていたであろう中世的感受性そのものです。中世的感受性、つまりは神の存在の影とでも言うべきものでしょう。話しは少しばかり中枢に入り始めます。

「時間の倉庫」を巡って. その8


今日はあんまり、具体的な日常について書きたくないので書かない。

カレーそばと、カレーうどんを食してカレーづけに自分をひたし込んだ位の事しか特別な事はない。

二十一時過友人より情報入り、水道局の双子の給水塔のある土地の学生課題に対する仲々の困難さを知る。しかしながら学生達もかくの如きリアルな困難さは知った方が良いのではないかとも思う。

これ迄の課題作りを振り返っていささかの反省もする。もっとリアルに対社会な現実と対面するようなきっかけを作るべきだったかも知れない。ルドゥーの河川監視人の家の監視人は水道の何を管理していたのだろう。

夜半、メモを記しながらTVをつけてみて仰天した。今日はひろしま原爆投下の日である。NHK、民放共に、ひろしま主題に番組作りをしている。しかし、同時に明石家さんまのお笑いや、SMAPのチャラ気た音楽とも言えない水準のモノも流している。同時にである。前広島市長平岡敬氏がキチンとした正論を述べている。隣りでサンマがふざけている、SMAPがチャラケている。これが現実かと思う。TV界は余程考えるべきだろう。TV世界は日本の何を表現しているのか。平岡さんは変らず頑張っておられる。発言も一切ブレがない。

八月七日

六時起床。メモを記す。

プラネタリウムの球形に入っても、勿論わたしたちは神や神のようなモノ達の気配を感じる事はまず無いであろう。プラネタリウムでは内部の精密機械ロボット投光機が主役である。円天井に投光される光に星々の似姿を写し込み、楽しむ主体は人間であり、人間の娯楽を求める現世利益である。プラネタリウムには技術の体現を感得する事は出来るが、それ以上のモノを得る事はない。

プラネタリウムのドーム内で宇宙の神秘、すなわち超越的な、神らしきモノの存在を感じたりは、漫画やアニメーション、そして映像らしきにそれを感得する人間のある種族でしかない。決して、普遍を帯びようとしているものではない。科学、技術はそれらしき気配を解体、解折分解する方向を示し得ても、統合の怪は示す事が不可能なままだ。将来は歴然とした技術神の如きが出現するやも知れぬ。話しは飛躍してしまうが核兵器の示現するモノ、ひろしま、長崎の一瞬の壊滅やピカドンの光、そしてアノ、キノコ雲の姿形は技術の神の似姿であるのかも知れない.恐らくそうなのであろう。

ブーレーのニュートン記念堂はローマのパンテオンの非ダーウィン的進化の系列にある物体のイメージである。

パンテオンもニュートン記念堂も地盤沈下を起すであろう程に重い建築である。そして分厚い。石造技術の他にイメージし得なかったという現実はあったにせよ、むしろ建築家はその重量、質量の総体の中に何かを視ていたのである。

近代建築の歴史は、言ってみれば建築の重量からの解放、それも一途な一本道の動きであった。

「時間の倉庫」を巡って. その9


七時半休む。涼しいうちに休むのも何だという訳で、もう少しのメモ。

「水の神殿」北海道音更(おとふけ)

猪苗代湖畔の「時間の倉庫」を巡ってを書いていたら、ブーレーのニュートン記念堂に辿り着いて、話しは神らしき迄及びつつある。

神と言えば、同時に神の名のつけられた建築を作ったぞと、気が付いた、わけではない。当然意図的ななりゆきなのである。それが目的で書き始めているのだから

実は「時間の倉庫」もいずれは庭園論へと、マア論とは言えずノートくらいで終るでしょうが、それでも展開してゆく予定です。

庭園の主題なら、北海道十勝、音更町に作った水の神殿がそのものズバリなのです。

庭園らしい庭園をまだ作った事がありません。実ワ、私のデビュー作とされている「幻庵」のクライアント、榎本基純さんから頼まれてはいたのですが、わたしの力不足で出来ずじまいでした。幻庵の在る土地は1800坪程の小盆地です。七久保川と呼ばれる川に2方を囲まれて、庵の中にも川のせせらぎの音が流れ込むくらいのそれは庭作りには絶佳の土地だったのですが、大きいチャンスを逃してしまいました。榎本基純さんも亡くなり、申し訳ない事をしたなの気持が年々歳々押し寄せる今日この頃でもあります。

榎本さんがわたしに申し付けたのは庭の名前だけでした。

「メリーランドのかたつむり」という名前でした

「水の神殿」を巡って. その1


八時二十分小休する。

293 世田谷村日記 ある種族へ
八月五日

十一時研究室。シンガポールに事業を立ち上げたT氏の相談を受ける。某世界企業の活動拠点として、シンガポールに環境プラントと本社オフィスを建設する計画がある。参加しないかの、話しである。

かくなる話しには充分に慣れている。それ故、絵迄なら描いても良いとなった。絵を描いて、次のステップで要求される事もほぼ知るのだけれど、マア夏休みだからいいだろうと決断する。9月末にシンガポールでのプレゼンテーションのスケジュールである。

十一時四〇分学生達との対応をすませ、十三時仙台アトリエ海佐々木氏来室。幾つかのプロジェクトの打合わせ。佐々木氏は仙台メディア・テークの仕事をまとめた人物である。わたしの、リアスアーク、松島魚市場、鳴子早稲田湯、そして北海道十勝の「水の神殿」、福島猪苗代湖畔の「時間の倉庫」の仕事を全てまとめた人物である。この人物の意見には、わたしは充二分に耳を傾けるのである。十六時了。

暑い中を佐々木氏と新大久保駅へ、汗だくで近江屋にたどり着き、遅い昼食。近江屋の新作、「トマトとズッキーニ素麺チャンプル」等を食す。これはやはり美味である。十七時二〇分、了。仙台に帰る佐々木氏と別れる。

十八時頃、鳥山宗柳へ。ドリトル先生動物園倶楽部第1号会員のオヤジに入会金を払えとやさしくおどす。おまけに、ソバ屋宗柳でも「トマトとズッキーニ素麺チャンプル」らしきに挑戦せよと叫ぶ。アレは世田谷村近くでも喰べたい。世田谷村で挑戦しても良いのだがアレはやはり才能と年期が必要だろう。

十九時世田谷村。母はやはり手術となった。

「時間の倉庫」の夕暮。日常性がスケールとして建築空間に残る三階の管理人室の北の扉を開けて下の大空間に降り始めようとする。

ブーレーのニュートン記念堂とは異なり、この建築の大きさは常人に理解可能な大きさを持つ。巨大さをもって人間の感性、身にしみついた丈長な論理のカスを打ちくだく事はできない。

大事なのは、日常生活に馴じんでいるとも思われる大空間らしきのスケールの枠。それは商業建築でも公共建築でも共に建築としては体験済みなのだけれど。その慣れ親しんだ空間の大きさの枠の中で、デザインの力だけで、それとは異なる建築の、つまりは空間の、突きつめて言えばボイドの仕組みを呈示する事につきるのである。

三階の扉を開ける。ゆるい、きわめてゆるい傾斜を持つスロープへと身体はのり出す。

ゆるく降下するコンクリートのスロープには実に多様な光が降り注いでいる。

夜の闇が訪れる寸前、陽光自体も朝の激烈な力を失い、西の光の消え失せる予感を内在させたものへと移り変わっている。夕暮山の光は死の世界への入口の光なのだ。

「時間の倉庫」を巡って. その7


十七時半小休。ドリトル先生動物園倶楽部会員への会報01を書く。内容は、無茶に面白いとは思われるが、いやらしく秘す。当然である。二十一時前了。再び小休する。

八月六日

五時半起床。昨夜は世田谷村の開口部を全開した。風が良く通り熟睡した。

絶版書房通信を書く。少なからぬ人からアニミズム紀行6はいつ出るのかの問い合わせをいただいたからだ。尻を跳り上げられているのだが、アニミズム紀行5は、良し悪しは問わず、全力を尽した。

当たり前の事ではあるが、その先に走れなければ、旅を続ける意味はない。我ながら色々と考え過ぎているのも知るのだが、これもわたしの趣味だから。

家の白足袋を見ているうちに、こ奴にサイコロを振るのを教えて、品川宿の堀江新三に貸しつけて大金をせしめようか等のバカな思い付きが浮かんでしまう。恐らく、もう朝から猛暑なのであろうと、暑さのせいにする。七時休む

292 世田谷村日記 ある種族へ
八月四日

昼前研究室、サイトチェック。雑用。十二時半学生対応。長谷見主任と打合わせ。十四時常陸太田市観光物産協会事務局長佐藤氏来室。地方都市を何とかしようと情熱を傾けている人物である。

わたしの昔の仕事である町づくり支援センターの活動に着目されて来室した。町づくりの熱気らしきを感じた。こういう事ならできるかも知れぬの話しをして、話し合う。十六時又会いましょうと別れる。

遅い昼食をと考え新宿に出るも、長野屋食堂休み故に、新大久保近江屋でイタリア風の新工夫作品らしきを食す。美味なり。常陸太田自慢のソバもここに敵うかなとフッと考えた。次から次へと色んな事が起こるな今年の夏は。

十九時世田谷村に戻る。休まず、汐留パナソニック・ギャラリーのバウハウス・キッチン展の原稿と、建築士会優秀作品2点の選評を書く。二〇時半終了。

「UP」東京大学出版会8でスタートしている鈴木博之小川治兵衛とその時代連載、1を読む。筆者が言うように小川治兵衛、植治(うえぢ)の庭には近代日本の本質が潜んでいるらしい。「庭は無力なのか、底深いのか。」のつぶやきは深い。この連載は見逃せぬ。

八月五日

七時過起床。今日も厳暑であろう。風が救いだ。八時友人に東大早大合同課題について相談。今度の課題にはいささかの知恵袋が必要になってきた。

猪苗代湖畔の「時間の倉庫」の、再び朝。3階南の重い扉を開けて、細長い管理人室に入ったとこで歩を停めていた。管理人室の北には不定形の開口部があり、北の安定した微光が入り込んでいる。遠く安達太良山らしきの姿がその開口部から遠望できる。猪苗代湖越しの遠望で、それなりに雄大である。がしかし、たかが数十キロメーターの距離である。地球の大きさ、そして小ささを実感できる類のものではない。北に向いて、左の、つまり西の壁は下の倉庫の巨大なボイドに面している。右手、つまり東は外気に面していて、すでに朝の陽光が巡り始めている。朝の陽光にはエネルギーが充満していて、鮮烈な形の光が室内に走り込んでいる。

管理人室といえばルドゥーの河川監視人の家を想い起す。勿論、ルドゥーの建築案は時間の倉庫の設計に際しては参照した。しかし、ルドゥーの河川監視人の家は、参照するに小さ過ぎた。時間の倉庫は水道管理人の家よりもはるかに大きい。

が、しかしニュートン記念堂計画案ほどには大きくない。あの大きさに近附いていたら、それだけで歴史的な存在になっていたであろう、と夢想する事はあった。

でも、実現した、この大きさが丁度良かったのだとも考えている。現代資本主義下ではこの大きさ以上のモノを実現したら、むしろ危険だ。新興宗教の拠点だろう、とか怪しい投資で大成金となった人間の悪夢の実現とそしられかねぬ。ブーレーのニュートン記念堂に心ひかれる創作者は少なくはない。

「時間の倉庫」を巡って. その6


九時小休。十時世田谷村を発つ。

291 世田谷村日記 ある種族へ
八月三日

五時半起床。朝の風が吹き抜けている。昨日のメモの続きを記す。

時間の倉庫の内部には、まだ母が横たわっている。彼女の意識は倉庫内の暗がりと微細な光、星の光、月の光で照射され続けた。脳内世界の誰にでも在るイメージらしきの明滅状態と時間の倉庫の光の構造の動きが実に似通っているのが知れる。

考えてもみよ。人間は誰もが不意に脳内に何かのイメージを誕生させる。そして消滅させる。その巡環を繰り返している。それが人間の生の現実である。脳内世界は要するに電子世界の極微連関であり、電子運動のON、OFFの持続である。パッと意識(イメージ)は生まれ、瞬時に消える。時間の倉庫の内部、その光の状態は、その運動の状態を超スローモーションとして再現しているのである。

時間の倉庫の内部はその動きそのものなのだ。

朝だ、彼女を時間の倉庫から、つまりは殆ど止まっているに近い時間の動きの現実へ移送しよう。時間の倉庫での時間はあまりにも速いから、現実界の病院へと。つまり非建築へと連れ戻そう。あそこに横たえ続けるわけにはいかない。彼女はまだまだ、いったり来たりの時間を生きねばならない。

時間の倉庫の内部を実現して、建築の価値の極点らしきに接近する事ができた。これをどう持続してゆくか。

六時半メモ作業を中断する。七月三十一日から八月一日にかけての日記からスタイルが明らかに変化している。この日記の形式は紆余曲折を経て10数年続いている。10年ばかりの時間の中で、わたしのメモを記す速力が速くなってしまった。その速力の増大と外的な条件が重なって形式を変えた。自然に変わったとも言える。この形式だと自分の中に記録以外に積み重なるモノがあって、それも良い。

「時間の倉庫」を巡って. その5


八時半過世田谷村を発ち、世田谷区役所へ。

九時半過松陰神社前で渡辺助教と落ち合う。十時前世田谷区役所都市計画課にて打合わせ。双子の給水塔の件、早大東大合同課題は少し計りの問題に対面した。課題立地にセレクトした土地の全ては東京都水道局の土地であり、先ず水道局に相談する必要らしきがあると解った。学生の課題だから固い話は抜きましょうとは言えぬ側面もある。わたしだけの課題であればサラリとやってしまうのだけれど、やはり合同の課題だからそれなりの配慮は必要だ。

十一時了。ガツーンとアンダルシア風な陽差しの中をクラクラと歩く。三軒茶屋で、さぬきうどんを食べる。十二時前渋谷で渡辺助教と別れ、ひとり品川へ。十二時半京浜急行新馬場前のドトールでアイスコーヒーとレタス・ドッグ。

品川宿に壺振り猫がいると、風の噂に聞いた。今日はこれからその真偽をたしかめに品川宿会館に行く途中だ。浅草仲見世通りには780匹の招き猫が居る。実は777匹までかなり正確に数は数えたのだが、それ以降は定かではない。招き猫の仕草はわかる。幸せとは金の事なりと銭馬鹿の考えが猫に迄乗り移り、猫パンチならぬ金よコイコイの右手の生臭い仕草をしているのである。

そもそも品川宿の話しがちょくちょく耳に入るようになったのは、堀江新三之丞の賭博好きからだ。新三之丞は品川宿まちづくり協議会会長の身でありながら、本人は博打も打たぬクセに、賭場趣味の、それも強烈極まる趣味の持主なのである。賭場趣味とは何か、何がなんでも本格的に江戸趣味な、片肌抜いでの壺振り賭場をやってみたい。実現してみたいの、実に銭馬鹿とは正反対の考え方なのである。新三之丞はギャンブル好みの生活破綻者ではない。ここが少々むづかしいのではあるが、江戸趣味が高じての賭場趣味なのである。往時、ここ品川宿は賭場御開帳の華をまとった場所であった。東海道五十三次の、江戸日本橋を発っての初めの宿である。京、浪速へと旅立つ人、京から江戸へ入る人。共に旅の始まりと終りを祈願してエイヤッと賭場へと身を運んだのである。江戸の町民も又、品川宿迄チョイと足を運び江戸のアカを落しに賭場へと入ったのである。

それはともかく、話しは壺振り猫である。品川宿に壺を振る猫がいるの噂はまことか?して、その猫の氏素性は何者であるのか、話しを本筋へと戻さなければならぬ。

十四時半烏山駅周辺まちづくり協議会の小川氏と合流、品川宿まちづくり会館へ。堀江新三之丞と会う。他に二、三の品川宿まちづくり協議会の面々同席。十六時了。堀江さんと別れて品川宿を青物横町まで歩く。途中南品川7丁目の光照山真了寺の城南ペット霊園を見学。この寺は周辺の品川宿の寺社では随分と豊かそうな寺である。妙齢の美女やら若い女性達やら愛願供養の1坪程のペット達の墓参りの姿は絶えぬようである。

品川で小川氏と別れ、東京八重洲の小樽、堀江新三之丞の友人でもある清水店主に会う。彼が1990年に建立したというネパール、ポカラのピポリの大樹の下のシヴァ神殿の話しを聞く。どうして東京にはシヴァ神をまつる場所がないのだろうの疑問が浮かぶ。十八時別れる。十九時過世田谷村に戻る。

八月四日

六時前起床。涼しい東の風が吹き込んでいる。ドリトル先生動物園倶楽部の入会者が少しづつ増えている。入会者の一人一人には返信したい。早々と倶楽部の通信用キャラクターが出来たのでポツポツ返信を始める。皆さんがこの倶楽部を楽しんでくれる、その現実を楽しみたい。のんびりやるつもり。

品川宿まちづくり協議会会長の堀江新三との話しで、烏山と品川宿とは目黒川で結ばれているらしい。烏山の寺町臨済宗高源院の弁天池は目黒川の源であるとされている。堀江新三は目黒川を泳ぎ、船を浮かべて川の浄化にまちぐるみで取り組んでいるうちに、その源流を訪ねてみたいと自然のなりゆきになった。高源院を訪ねて品川宿の面々を迎えて、会を催したらどうかと調べてみたらこの禅宗の寺はとても格式が高い。大徳寺派で品川の泊船寺と親戚らしいので、堀江新三に地元だから自分で渡りをつけたら、と連絡した。この間2人の和尚に中継していただいた。仏教会の情報ネットは強い。九時半小休。

290 世田谷村日記 ある種族へ
八月二日

七時半起床。昨夜の事メモに記す。母の事、何処まで記して良いものなのかは知れぬが、肉親関係内の世界の事だから他人に傷を与える事もあるまいと判断する。ただ母の恐らくは死迄の事はわたしにもとても重要な事になるのを直観しているので、恥を忍んで記すのである。この体験はいつか建築らしきにしたい。

猪苗代湖畔、「時間の倉庫」の内外に人影はない。ひとつ尾根をこえた谷の朝モヤも引いた。半分地中に埋まった螺旋のコンクリートの固まりの中は、人影も何もない。強い虚空があるだけだ。その虚空に光が廻転している。ゆるいU字型の断面形と、同様な平面形を持つ谷には鳥が行き来し、虫や、微生物の生命の気配は満ちあふれている。沢山の樹木の樹液の鼓動のざわめきも満ちている。空には低く水蒸気をたっぷり含んだ雲が動いている。コンクリートの固まりに差し込む光はふるえている。りんかくはゆれている。

三階の南の扉を開けて中に入る。南北から少し東に振った軸上に細長いコンクリートの部屋が在る。東、北面には細い非定型開口部があり、今は朝だから東から強い光が差し込んでいる。開口部は明らかに光のために用意されている。朝の光が走るようにコンクリートの箱の中を動いている。

出入口間近には中心に太いシャフトが突きささっている。これは下の大空間の換気シャフトである。下の大空間は倉庫だ。

「時間の倉庫」を巡って. その3


十時前洗足の妹の家へ。母は昨夜よりもしっかりとしたようだ。十二時迄断片的にメモを記し、母のスケッチをしたり。今日の母は人間の姿をしている。昨夜は幽明界の住人であった。しかし、昨夜の顔は凄味があって、能面のようだったなと思い返す。昨夜彼女は、焦点の定まらぬ眼で、脳ずいに何を写し込んでいたのだろうか。随分昔の、恐らくは母が少女の時代の故郷の人間達のことを断片的に話していたそうだ。

異常なエネルギーによって、いままで見た事のない古い記憶が掘り返されたのだろう。今、彼女の脳内は、恐らく「時間の倉庫」の構造になっているに違いない。

パッパッと情報がきらめいて動めき、廻転している筈だ。光の動きの中に確実に情報を視ている。そんな時には光は時に生霊のモヤの如くに空間をつくり始める。

十二時半母を武蔵野市の病院へ連れてゆく手助け。

トイレに連れてゆく手助け。便が排出されて良かった。これで少しは食がすすむか。トイレから3メーター程動いて床に座るのも大騒ぎである。

生まれて初めて母を背負う。玄関、そしてTAXIへ。母、恐らく恐ろしいのだろう、わめいてドアやら何やらをつかんではなそうとしない。それをもぎとるようにしてTAXIへ。病院でこれからの相談をする妹と母を送る。洗足、目黒、新宿経由今桜上水である。

十四時半京王稲田堤さくら乳児院+なしのはな保育園、建設現場定例会。打合わせ十六時半迄。修了後、十七時半調布にて、馬淵建設主催、現場暑気払いの会。母の事が気がかりではあったが、この会は先約だったので出席する。サブコンの皆さんと話し合えたのが良かった。二〇時半修了。二十一時前一人世田谷村に戻る。

妹に連絡したら、母は武蔵野市母の家近くの病院に即入院との事。残念だが合理的な方法であろう。彼女はやはり独人で生きるべき人なのかも知れない。

夜になって、雲の切間から星明りがのぞく、ここは時間の倉庫である。

わたしの脳内で、母を鬼沼の時間の倉庫へと移送してみる。地階の大きなボイドの内、コンクリートの床の上に、そのまんま横たわらせてみる。夜の闇の中、ヒンヤリとした地中の空間にはそれでも知覚を研ぎすませれば、月の光、星の光が東西南北、はるか上空から降り注ぐ。母の小さな身体はその微細な光の中に浮いている。そうか、時間の倉庫と呼ぶ建築は場所の移送につながる時空移送が可能なのか。現実と、更に深い現実とも呼びたい脳内世界とを多点でのトポロジィカルなトンネルで開削しようとするデザイン意志そのものである。

「時間の倉庫」を巡って. その4


二十三時過、わたしも横になる。

7月の世田谷村日記