石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2011 年 10 月

>>11月の世田谷村日記

623 世田谷村日記 ある種族へ
十月三十日 日曜日

19時過、今日も意を決して学生の設計製図に附き合ったので随分気持ちが疲れた。その消耗の中で今グッタリしている。馬鹿なと思われる人も多々居るだろうが、本気で学生の設計製図に附き合っている大馬鹿は恐らくは少ない。実作をモノす以上のエネルギーと経験を要する。要するにモダーンデザインは近代の教育によって枠づけられたのは歴然としている。これは創作とは異なる大流であったのやも知れぬ。

十月三十一日

2時目覚めてメモに手を入れる。多少率直過ぎる事を記した部分を流石にけずったりしている。

9時前再離床。馬場昭道さんより連絡があり、大槻賞の事、新聞に出ているとの事。恐らくは気仙沼展銀座にどうかの意であると考え、早速大阪の点字毎日と連絡する。「甦る力」と題された作家・藤本義一の選評が素晴しい。直接被災地復興と関連は無いが、奥深いところでとても大事な、復興のベースにしなくてはならぬと感じ入った。滝田栄さんの地蔵さまの価値と通じるところがある。

今日午後から研究室の院生が銀座気仙沼応援スペースに入ることになった。

会場変化のドキュメントをサイトにONしていくつもり。明日には石山研の気仙沼・唐桑絵巻物が展示されるでしょうから是非いらして下さい。

12時大学製図準備室、諸方と連絡する。磯崎新さんより連絡あり、首都移動計画の件で来いと言う。東大の伊藤先生(都市史)も共にどうかと言う。

11月3日にうかがう事とした。楽しみである。巨匠は何想うのか今。

小打合わせを研究室の面々とした後、学生の製図作業を見る。

15時前製図室を去る。16時前銀座TSビル内気仙沼応援スペースへ。鳥居、橋本のディスプレイ作業を見る。笑わせるけれど懸命にやっている。16時向風学校代表・安西直紀と打合わせ。

石山研の絵葉書絵巻物プロジェクトを共に観る。東日本大震災のショック後すぐに思い立って始めた被災地支援のための経葉書作り、そして販売のプロジェクトである。こうやって眺め返してみるとマア、非力ながら少しは力を尽したなの感もある。これから先何処までこの巻物が延び得るのかは皆さんの支援次第であるので、よろしく願いたい。仲々のモノになっているとは思うし被災地の人々への、想いと支援の努力として御覧いただければ幸いである。

院生の作業も又、被災地の皆さんへの心ばかりの手向けの花である。明日には見ていただけるモノになっていると思うので銀座に来たらTSビル2階に寄っていただきたい。そして被災地支援オリジナル絵葉書1500円6枚組を買っていただきたい。売り上げの大半は気仙沼商工会議所、及び唐桑半島の人々に直接お渡しする。

18時前、作業を続ける二人を残し去る。19時頃烏山長崎屋で一服する。長崎屋オリジナル、絶品のオハギを来年3月に銀座で売りたいので、その準備である。このオハギは全く絶品であるから乞御期待なのだ。20時半世田谷村に戻る。

銀座TSビル気仙沼展会場に岩手ジャズ喫茶連盟代表ベイシー・菅原正二よりのJBLの小スピーカーが置かれていて由縁書きが置かれていた。次第にこのようなモノと物語りが積み上がってゆくのだろうと期待したい。かくなるモノ共を眼にすると、まだまだ人間は信頼するに足ると思うのだ。

十一月一日

6時半離床。よく晴れた朝である。石山研のサイトをのぞく。昨日の英文のドリトル先生動物園病院の小さな動画がONされた。担当者が工夫してやった。ヴェネチアのグランドキャナルに面したある小美術館に展示されいるのを想定して表現している。

アーチ型の小窓が同じモノの繰り返しなのと、その表現がいまいちである。

窓と窓との間隔も均質で機械的でヴェネチアの本質をつかんでいない。

又、アーチの内側のテクスチャーが新建材みたいで、これは香港製のヴェネチアである。アッそうか担当者は香港育ちであった。それで香港製ヴェネチアになりたがるのか。でも楽しんで作っているのが感じられるところは良い。

部屋の中をもう少しほの暗くしてもらいたい。又、窓から視えているグランドキャナルの風景が実に平板である。グランドキャナルにうごめく水上バス等が動いて視える位の事はできるのではないか。

又、望むらくは2番目の絵に登場する宮沢の賢治はん、あるいは賢治どんが絵から抜け出して室内を歩いている感じを表現できぬかね。

最初の部屋に展示する絵は9点になる筈である。部屋をグルリと一巡するか、時にフラリと反対側の壁に移るのかは任せる。

又、第2室はどうするのか考え始めてもらいたい。当然、窓から視える風景はヴェネチアではない。

何室か経巡って辿り着くのは勿論ドリトル先生動物園病院であるのは言うまでもない。

622 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十八日

11時製図準備室。小打合わせ及び研究室M2修士論文の相談。出来不出来の凹凸が激しい。ここにも格差が出現している。12時発、東大へ。13時東大建築学科製図室。伊藤毅教授等と合同課題の中間講評会。伊藤先生は都市史が専門であるが、とてもていねいで細部にわたる批評をなさり、早大建築生は参考になる事大であったろう。わたしも及ばずながら東大建築生の製図作品の良いところを出来るだけ引き出せる様にアドヴァイスした。毎度の事だが東大建築生の方が率直にアドヴァイスに耳を傾けるような気がする。受容のキャパシティが大きいのを感じる。やはり東大生のこれが自信なのだろう。早大建築生は耳を傾けさせる迄にえらくエネルギーを要するのは何故だろう。学生の本分は学ぶ事であるから、この点では東大生に一日の長を見るのである。製図の中身は実ワ二の次であろう。

16時近く迄中間講評を続け、伊藤研でお茶を頂き、17時早稲田製図室に戻る。以前から考えていた試みを設計製図に組み込むのを決心して助教、助手、非常勤の講師の先生方と相談して実行に移す。早稲田は人数が多いのでこうした方が良い。恐らくは東大の先生はこんな努力はしないですむのだろう。うらやましい限りである。

19時指導を続ける先生方に後を託して製図室を去る。今日は早朝からWORKしていたので流石に疲れた。これも仕方ないのであろう。

20時世田谷村に戻り、飯を喰ってバタリ。でもコーヒーを飲み過ぎたのか眠れないのであった。

十月二十九日

7時離床。メモを記す。いたらぬ小僧っ子みたいな学生相手の設計製図は実ワ、かなりのストレスがたまる。こんな事しなくてもの考えが勿論しのび寄るが、このストレスあっての人生でもあろうとも考えたい。11時ドリトル先生動物園病院、絵Ⅳ描き終る

十月三十日 日曜日

0時過目覚めてメモを記す。日経プロムナードコラム書くか。もう余分のストックが無いのだ。書かずにやはり眠ることにする。それの方が自然だと自分に言い聞かせる。

7時過再離床。新聞を取りに出て読む。世田谷村は郵便受けが家の外にあり、玄関から20メーターくらい歩かねばならず、しかも5メーターも上空にある2階からの降り昇りをしなくてはならない。だから他人様よりは新聞は有難く読まさせていただく。

どうやら山梨県甲府で深沢七郎さんの回顧展が開催されているらしく、フッと心が動いた。死んだ友人の佐藤健が深沢七郎が右翼に狙われている時にラブミー牧場で用心棒をしていた事があった。

それでであろう七郎さんから貰ったギターが池尻の家の壁にかけてあった。佐藤健は本やらはくれと言えば何でもくれた。わたしの愛蔵書の一部はそれで占められている。

で、そのギターも欲しくなって、クレと言ったが「これだけは駄目だ」と言われた記憶があり、わたしは深沢七郎のファンになった。

日経プロムナードコラムにはそのギターやらイチローのスパイクの事など書こうかと思う。

甲府へは行くかどうかはまだ決めかねている。

時半、ブラジル・サンパウロの谷さんより電話あり、気仙沼銀座応援の件。ありがたい事である。海外日系人の日本を想って下さる気持には実に美しいモノがあるな。電話で感動した。わたしも頑張りたい。

10時40分、結局イチローのスパイクも七郎さんのギターの事も書かずに、でも似たような事を一本書き終えた。短時間の旅をしたようなモノで楽しかった。

13時製図教室、22名程の学生がWORKしている。それはそれで良い、どうって事はない。13時過石山研卒論生の指導から始める。石山研はとり敢えず馬鹿は居ない筈なのだが、これが居るのだネェ。恐ろしい事である、が、とても対応は不可能である。全く勉強も何もしていないミジンコに何語りかける言葉があり得ようか。馬鹿学生は少しは学んでくれ、さもなくば知的労働者外の道を選択しろと言いたい。

それでも、日曜日、すなわち休日であるのに22名程の学生が製図室に参集していた。馬鹿は馬鹿なりに少しは努力しようと考えているのであろうか。恐らく合同課題の一方の学徒東大建築学生は1人も東大の製図教室で学んでいないのではないかと予測して、残念だねと思う。どうかは解りようが無いけれど、早稲田のバカ学生は休日でも22名は製図教室で努力はしているのである。才質は努力に越した事はないのは歴然としている。早稲田建築生の20名程はキチンと努力していると言い切る教師が居るのを知れと言いたい。学生は努力です。バカでも努力すればパカぐらいにはなる。しかし、バカ学生を相手にアングリで、早々に後を託して逃げもするのだ。学生とは言え、バカに触れているとこちらもバカになるのを知っている。

15時半製図室を去る。バカはバカなりに学べとつぶやく。

17時烏山長崎屋で一服する。

18時過去り、世田谷村へ。どうにもならぬ一日であったが、早稲田の建築学生の一部はキチンとしようと感じたであろう事を知っている。女子学生がそれを感じているのをわたしなりに知る。東大の建築学生も女子がキチンとしているのを感得しているので、これは仲々大いに難関なのである。しかし、オナゴのケツを蹴り上げるしか未来は無いのだろうか。

それならそれでヤルけれどね、わたしは。

19時夕食をとり休む。時代は女の時代になるのであろう。つまりは縄文時代の巨大な感性の流れへと雪崩打つという事である。

仕方ないのであろう。

621 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十七日

八時半三鷹市杏林病院。地下階で採血他。毎度のことだが採血はいささか緊張するのだ。下手な看護婦さんにブチ当ると、たかが採血と言えども痛いからだ。わたしは痛みに弱い。今朝は早朝で、初めて立派に年を召した男性に割り当てられた。10名程の採血者の中で唯一の男性であった。イヤーな予感がした。この人、理論は強いが注射器の扱いは下手だぞと思ったのだ。でも別の人に変えてくれとも言えずイヤーな予感のままに採血。ウーッと小さく絶叫する。「痛いですか」「痛いですよ。そりゃあ、痛いに決まってるだろう。下手っぴい」と内心鋭く叫ぶ。信じられん位の痛さ。針を抜いてやり直し。今度は大丈夫。やれば上手なのにと我ながらうらめし気。しかし、ていねいに「すみませんでした」と言われ、「どういたしまして」と別れた。

検診のフロアーでぐったりと傷心身の身を横たえる。ビリー・ザ・キッドが死を覚悟して船に仰向けになり、川を下り海へ出る場面を思い出す。本当、病院は何があるか解らないのだ。検診も担当医に色々と言われるも、痛みの記憶で上の空であった。そりゃあ、わたしだって早く悪いところは治したいのはやまやまなんだが、バカは治らないのと同じで、治りたくない病いもあるのだゼーイ。

10時半了。バスで仙川へ、新宿経由新大久保。近江家がまだ開店しておらず、しゃあないとばかりに隣りの牛丼屋へ飛び込み、お新香、みそ汁付牛丼。値段なりの、やはりサンプルみたいな味。 11時半、製図準備室。石山研ミーティング。それぞれに今日なすべきを指示する。

気仙沼銀座展が当面の壁である。乗り超えましょう。

修了後、学生の設計製図を見る。教室会議には渡邊助教に出てもらい、わたしは製図室。明日の東大での10点を選ぶ名目で全体を眺め渡した。小さな我をまだ張り続ける小さな学生程直りにくいのだ。16時過了。製図室を去る。

19時過世田谷村に戻る。

十月二十八日

3時半過目覚め、思い切って離床しメモを記す。寒い。折角だからと絶版書房交信42を記す。「アニミズム紀行の行方」「42の続き」の小片2本を書いた。6時朝風呂に入るぜいたく。再眠する。

620 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十六日

10時半製図準備室、諸々のWORKチェックと指示。11時過より学生製図指導。12時発地下鉄で渋谷経由銀座TSビル(モザイク銀座阪急・旧数寄屋橋阪急)へ。13時過「東日本復興プロジェクトfrom銀座」会場でリヴァンプスタッフと山口勝弘「三陸レクイエム展」、宮崎県「現代っ子センター」の子供たちの気仙沼支援の絵による「くじけるな気仙沼展」、石山研・気仙沼・唐桑復興支援絵葉書プロジェクトによる「絵葉書巻物展」、三陸新報社3.11記録写真展、4展同時開催に関する打合わせ。14時前了。新宿で図面等を受け取り鶯谷経由常磐線天王台へ。天王台よりTAXIで真栄寺着17時過。

18時、馬場昭道住職と我孫子市立我孫子第二小学校校長、我孫子小学校会会長・川島益雄先生にお目にかかる。

我孫子小学校連合による気仙沼応援展の打合わせ。

数校の児童による5、6百点の絵が集まるやも知れぬ。

又、ブラジル・サンパウロの谷さんと電話で話し、ブラジル日本人会の子供たちの気仙沼応援の絵も銀座に来る可能性もできた。

人間の縁というのも不思議なものである。次々に数珠つなぎで出来事が拡がってゆく。

19時過茨城県北相馬郡利根町のレストラン・ドルチェへ。何度か来た個人住宅内のとても良いレストランだ。川島校長、馬場住職と夕食。おいしいビーフシチュー、デザートはナシのアイスプリン。

20時半過了。外は寒くなっている。東北の被災者の方々の寒さはひとしおであろう。住職に天王台迄送っていただき別れ、鶯谷・新宿経由23時過世田谷村に戻る。

「東日本復興プロジェクトfrom銀座展」は軌道に乗るかも知れない。軌道に乗れば乗ったで凄い現場作業が発生しそうだ。こうなったら読者諸賢の力を借りるしかないだろう。

11月8日、9日、10日に年令、性別は問わず人手を借りたいので参集願いたい。午後1時に銀座TSビル、2階の展覧会会場に集まってください。作業は展示の作り込みとディスプレイ全般です。三陸海岸の被災現場へ行けなかった人、銀座に集まって下さい。

今日、日経夕刊プロムナードコラム掲載された。御一読願う。

宮崎県都城市大王町の佐々木鴻文さま、馬場昭道さんより災害復興支援絵葉書代を受け取りました。ありがとうございます。記して謝します。

十月二十七日

6時離床。肌寒いが快晴。夏の酷暑が幻のようだ。ドリトル先生動物園、動物病院IIIの原稿を書く。どうなる事やら、先が視えてやっている事ではない。

五里霧中なのだ。

7時40分世田谷村発杏林病院へ。定期検診。しばらくスッポかしてしまったんで医者殿からしぼられるであろう。

619 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十五日

12時製図準備室、五月女くんにドリトル先生動物園病院の線描画 no.III 渡しサイトへのON準備を頼む。鳥居くん気仙沼銀座、山口勝弘三陸レクイエム展、宮崎現代っ子センター・くじけるな気仙沼展、気仙沼・唐桑復興支援絵葉書プロジェクトによる「絵葉書巻物展」石山研究室、3展同時開催のちらし等チェック。

学部3年生設計製図を見る。14時半迄に今週28日の東大での中間講評会での発表10人の目星をつける。当然の事ながら一生懸命にやっている学生をピックアップする。一生懸命が一番の才能である。

2週間程わたしも製図準備室に自分の仕事の一部を持ち込んで学生達を見たので大方を把握した。

15時半、十勝水の神殿本殿設計打合わせ終え、昼食へ。その後私用、20時半世田谷村に戻る。

アキテムの鯉渕要三さんからの毎度の便り、ここ迄続くと立派である。

十月二十六日

2時15分目覚めて離床。メモを記す。少なからぬ文字をサイトを中心に書き散らしているわけであるが、これを止めたら脳が退化するのは眼に視えているのも解る迄になった。歩行を怠ると足腰が弱くなるのと同じである。思い切って日経夕刊コラム書くか、それとも絶版書房通信書くか、どちらにするか迷っている。結局何も書けずに再眠。

8時離床。明日シュッツットガルトへ展覧会の追加マテリアルを送るので今朝それをセレクトしなければならない。ワイマール展の修了後に3.11東日本大震災が襲来した。この大災害への対応の如何は附け加えるべきだと判断した。

宮崎の藤野忠利さんに連絡、気仙沼銀座展のチラシの催促。すでに1000枚送って下さったそうだ。これは銀座で配らないと全く意味が無い。

9時半世田谷村発製図準備室へ。

11月11日からの気仙沼銀座展の企画も具体化しなくてはならぬので仲々大変である。

618 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十四日

0時40分、眠れぬままに起き出してメモを記す。室内の月下美人が大輪の花を4つ咲かせた。これで今年は最後の花だろう。馥郁たる香りが夜の大気に満ち満ちている。人間も花もあやういモノであるから来年も又確実にこの樹の花に再会できるとは限らない。でも、会いたいものだ。ミステリーでも読みながら眠りにつくか。最近は眠りにつける本が少なくなった。文体が悪いのだな。一生懸命に咲いてくれているのでやっぱり記しておく。一昨日の夜もたった一人で咲いた奴がいた。この月下美人、自分で生き方を演出しているようだ。

8時過離床。メモを記す。昨日書かなかったので日経夕刊コラム、今朝書こう。12時半、コラム書き終えて字数も調整する。

13時半、製図準備室で書き終えたドリトル先生動物園の病院ドローイングを渡してサイトへのオンを頼む気仙沼地蔵堂十勝神殿気仙沼銀座展打合わせ。15時半製図作業を見る。とてつも無いカヤの木のデッカイ模型を作った学生がいて、怒るわけにもゆかず呆然とする。昨日、しみったれたケチな努力はどうにもならぬと叱責した結果である。この学生はしかし手間ヒマかかるけれどキチンと見てやらねばと、先生も自責の念にかられるのであった。

女子のトップは自力で走り出したように思う。それで良い、彼女の背中を皆が追えば良いのだ。

17時半製図室を去る。18時過新宿ヒルトンホテル。4階菊の間保坂展人世田谷区長を励ます集い。大変な人数の会であった。会場に着いてすぐに区長にあいさつ。

知り合いも居ないのですぐに帰るかとも思ったがマア様子を見るかと残る。

呼び掛け人代表、岩波『世界』編集長岡本厚あいさつが口火切り。

小宮山厚生労働大臣、平岡法務大臣、福島みずほ社民党首の平々凡々たるあいさつが続き、見る影も無い菅直人前首相あいさつ、山岡衆議院議員国家公安委員長、笹川たかし前衆議院議員のあいさつと段々政治家らしくなり、一番良かったのは熊本前世田谷区長のあいさつであった。前区長は自民党であり、ここに来て良いものなのか、どうか迷った末に来たと実に正直なあいさつをした。

笹川たかし氏も現役を退いても流石である、いい味出していた。亀井静香氏は早々と退出して、あいさつ無しも良かった。

19時過、会場を去る。

20時過烏山長崎屋で食事して、オバンと無駄話してから世田谷村に戻る。

今日は保坂展人の成長振りを実感できて良かった。2代目ゴッドファーザーをモデルにして凄味のある政治家になってもらいたい。今日の会の大にぎわい振りは政治家も大衆も勝ち馬に乗りたがるのを良く示していた。

十月二十五日

7時40分離床。ドリトル先生動物園描画Ⅲ描く。9時40分了。

アッという間に時が経つ。馬場昭道さんより連絡あり、明日夕方我孫子校長会先生とお目にかかることになった。

617 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十二日

渋谷、自由が丘経由等々力・玉川区民会館12時半着。第五回世田谷式生活・学校。松村秀一先生と久し振りにお目にかかる。難波和彦先生も参会して下さった。70名程の参会者。

保坂展人世田谷区長は15時前の参会。

13時半石山レクチャー風の報告。第四回世田谷式クリーンエネルギーのダイジェストと東日本大震災復興計画実践。14時半過了。松村先生のレクチャーは聞けずに残念ながら去る。15時半大学創成入試採点会場に辿り着くも、16時過迄手持ち無沙汰であった。創成入試一次試験採点。18時過修了。中川武、長谷見両先生といささかの相談。修了後、製図教室へ。20名程の学生がそれでも作業をしていた。今日来ていない学生はもう駄目だな。

折角の機会なので、かなり厳しく指導する。むずかしい事をいっても学生には通じない。努力をするのにケチ、しみったれでは設計は上達しないそんな事を伝えただけ。キレイ事ではなく叱り散らした。これを毎年一度は通過儀礼としてやらないと、どうにも学生の気持は動かぬのを残念ながら知っているのだ。中途半端な努力ではミジンコはボーフラにもならないのである。

製図室に居た。それでも全員の作業を見た。なかなかに辛い事だがやらねば底が抜けるのは眼に視えている。

20時過、もうわたしの体力の限界に達したので、渡邊助教、佐藤TAと共に地下鉄で新宿へ。味王で遅い食事。21時過烏山、長崎屋経由世田谷村に22時戻る。長崎屋で「ドリトル先生動物園倶楽部」入会希望者が何人も居るのをオバンから知らされる。日経夕刊コラムのお蔭様だ。

明日は日曜日だが、私用をすませ午後には製図室に顔を出すのを決める。

疲れるけれど、わたしの方も半端な努力は無駄なのである。

半端なのは学生だけではない、教師も実に半端なのである。

十月二十三日

6時半離床。昨日どうやら東池袋の芳賀牧師より佐藤くんがことずてを預かってきたようだ。2011.9.23、NO9とナンバーが打たれた震災対策NEWSである。

発行者は中家盾、日本キリスト教会東京中会震災対策事務局の発行である。芳賀牧師は恐らくは、わたしの「ドリトル先生動物園倶楽部」のコラムを読んで早速反応して下さった。

このNEWSは<被災動物特集号>被災地のために自分ができることって?

アニマルフレンズ新潟ボランティアスタッフによって編集されている。

イギリスの方であるらしいイザベラさん(アニマルフレンズ新潟代表)は私費を投じて、新潟に唯一の動物シェルターを設立していた。

動物シェルターは動物達の避難所である。震災当時すでに140匹以上を保護していたが、今回の震災で350匹を超える被災動物を受けれた。

この方がなさっている事は応援しなくてはならない。

又、日本キリスト教会栃木教会震災対策事務局メールアドレスjun.nakaie@dog.cxも同様な活動を始めたようで、関心のある方は連絡してみて下さい。

わたしの手許には、被災犬の子供や、仔猫の写真もあり、正直こりゃ大変な事になったと思ってはいるが、何しろ先ずはアニマルシェルターとのコンタクトの仲介の労はいとはぬ積もりです。その先は解らない。

青空が薄くのぞき出している。さて新聞を取りに出るか。

13時過製図教室。15名程の学生がWORKしている。流石にトップ3は全員やっている。それで良いのだ。出席者の全員の作業に目を通し指導する。

休みに製図室に出てきているのだ、教師としては当然のことだろう。

ボトム3とでも言いたかった女性達が全員良く頑張っている。これは意地でも上の方へ引張り上げてやろうと思う。かなりのエネルギーを要するだろうがやってみる。16時過修了。渡邊助教、佐藤TAを残して去る。

18時寄り道をして世田谷村に戻る。

猛然と「ドリトル先生動物病院2」のドローイングを描く。

ドリトル先生、孔雀明王で空を飛ぶに、イーハトーヴに呆然と立ち尽くす宮沢の賢治さんの影が登場して、津波のしぶきにぬれそぼっているの図になった。何処まで続けられるのか、自分で自分の才質のカサを測っているようなのは知っているのだ。我ながら本当にバーカである。学生の大半は小利口である。皆親の背中を見て育っているからな。

しかし、このドローイングにはルネマグリットの主題でもあった帽子が3つも登場して、それぞれが、それぞれに物言った気でありそれが楽しみでもある。動物病院のシルエットがすでに浮き上がってき始めている。

21時WORK終える。

616 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十一日

10時半研究室、銀座気仙沼展の件で山口勝弘、藤野忠利両氏と連絡。出展物の保険に関して。11時過学部卒論ゼミ2名相談。他は欠席、大丈夫なのかね。12時M2修論ゼミ、清王朝にイタリア人建築家が果した成果、イエズス会宣教師達の機能に関しての論文が面白くなりそうである。13時ホスピタリティ研究センター青柳新吾、石丸雄嗣両氏来室。様々な相談事。モービルホームの事等。14時過製図教室、3年設計製図指導。若い先生方、助手に半分以上のセレクトを任せる。15時、中川武、佐藤滋両先生を交えて10名程の作品にアドヴァイス。

今年は核になる人材がまだ視えない。大変だが作り出すしかないなコレワ。 全く我ながら御苦労な事である。でもこうしなければならない。

17時製図準備室で気仙沼陣山計画の設計打合わせ、又十勝の水の神殿本殿の打合わせ。仙台のアトリエ海・佐々木さんと相談。

19時過小雨にぬれながら製図室を去る。

20時過世田谷村に戻り夕食。ウェブサイトチェック。

十月二十二日

7時離床。宮崎市藤野忠利さんにより又もやゴッソリ送られてきた気仙沼銀座展の資料に目を通す。今日の世田谷式生活学校レクチャーのおさらい。まぁなんとかなるだろう。気合いを入れる。学部学生の設計製図だが、月並みではあるがやっぱり気合いが足りな過ぎる。古い言葉だけれど、やっぱり気合いである。基礎体力、基礎知力ならぬ基礎気合いの底が抜けているが、どうにか一人だけでもモデルを作り出さないと総崩れになるのは眼に視えている。東大建築学科との合同課題は少なくとも早稲田建築生は気合いだけは負けていたらどうにもならぬのは徹底して自覚させねば。

早稲田に馬鹿げた気合いが失ったらタダのゴミである。しっかりしろ。

気仙沼・臼井賢志さん、宮崎・藤野忠利さん、それぞれの用件で連絡。

11時過小雨の中を等々力・玉川区民会館へ発つ。

615 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十日

9時離床。寝過した。10時半世田谷村発、京王線烏山駅近くの通りで大の男と、大柄な女性が怒鳴り合いのケンカをしていたのでシゲシゲと見守る。スーパーマーケットの前の歩道を自転車を引きながら歩いていた男の自転車のハンドルが老女の手提げカバンに引っかかり、男はよろめいて倒れそうになった。それでブツブツ文句を言った。老女も何か言い返したようだ。大声の、ののしり合いになった。そこにデッカイ躯体をゆするが如きの女が参戦し、「ワザとやったんじゃないんだから、仕方ないだろう」と老女に味方して男をののしった。男はその勢いに呑まれて引き気味で、しかし何か言い返した。デッカイ女が「何言ってんだ、このヤロー」みたいに再び怒鳴り、男は逃げながら「憶えてろよ、バアロー」と明らかに負けて、勝負はついた。長崎屋ラーメン店の看護婦さん達といい、このデッカイ女といい、世は正に堂々たる女の時代である。男はもう少し体力、気力をきたえないとアカンでコレワ。

車中で、これから競馬に出掛けると言う、モヘンジョダロの顔知りのオジさんに会って新宿まで話して過す。例の、家近くの遺跡で美猫とえんえんと遊びたわむれるオジン、つまりタマの飼い主である。タマは寒くなり一日の大半を眠って過すので今が自分は外で一人自由になる時間があるとの事である。日本の年金の事、今の政治の事、人口減少の事などオジンは仲々立派な正論をグチ、わたしはタジタジであり、勉強になった。じゃあ今日競馬うまくゆきますように、イヤダメでしょうと新宿で別れた。奥さんを亡くして、立派な家にネコと二人暮らしのようである。

12時製図準備室で渡邊助教、佐藤TAとコーヒーを飲み、五月女くんを呼んで昨日描いた絵の、ホームページでの使い方、他の伝達。英文でロングストーリーに仕立てることにした。五月女くんは香港のインターナショナルスクール出身の日本人なので、ようやく本格的に使う径が出来たようだ。英文でなければ伝えられぬプロジェクトもあるのだ。

13時より、製図指導。そろそろ、それぞれの学生の人格、資質他を把握できるようになってきた。

設計製図は要するに総合的な、近代十種競技みたいな種目であり、知力、気力、そして受容力の総合を必要とするから、人間の人柄も又、少しは呑み込まないととても指導はできない。と、わたしは考えるようになった。設計の指導には、教える方にもある種の全体性が必要であろう。

10名をピックアップしようと考えたが、とてもそんなに人材は無く、それでもようやく4名を選び出した。一苦労である。

15時半製図室発、私用。19時半世田谷村に戻り、サイトチェックするも指示通りには動いてはいない。でも仕方ないか。今日のメモを記す。

21地過、小休し、絶版書房通信を記す。

十月二十一日

6時前離床。日経夕刊コラム、ゲラを手に入れる。1行を削るのが大変であった。山本夏彦さんのコラムの原稿を何かで見たがギリギリまで凄い推敲を重ねていたのを知っている。とてもその域に達する事は出来ぬけれど努力したい。コラムは書くに面白いが、ディテールの配置が大事で、そこが腕の見せ所なのは教えられた。日経夕刊コラムはすでに16本目になった。少し慣れてきた。慣れてきた時が一番危いのだ。流れてしまうことがある。気をつけて気合いを入れてゆこう。あっちで山本夏彦が読んでいるだろうからな。翁には、随分手を入れられ、つき返されたりで口惜しい思いもしたけれど、たった1回だけ、うまいと誉められた事があり、ウームと考え込んだ事があった。

山本さんは『年を歴た鰐の話』の味を若い頃にすでに身につけておられて、だから若い時からすでに年寄りであった。智恵があった。わたしは年を取ってから年寄りになると言う、これは凡人である。だから他人に数倍の努力をしないといけないのである。1本だけでも良いから、うまいなあと自分でほくそ笑むみたいなのを書きたいものだ。

うまいと誉められたのは少しばかりお伽話めいたモノだったが、翁は自分の才質をよく知り抜いていて、やはりそれに近いモノに気持が動くのだなと今は知るのである。

昨夜は月下美人が又、又5輪咲き匂った。今年はもう5回目の花の咲かせ方である。まだまだつぼみが残っているので、この様子だと総計80輪くらいになるやも知れぬ。狂い咲きでなければ良いが。

614 世田谷村日記 ある種族へ
十月十九日

11時製図準備室、渡邊、佐藤、鳥居と打合わせ。気仙沼十勝そして銀座気仙沼応援展覧会石山研シュツットガルト展に関して。昨日描いたスケッチ8枚を伝達する。12時半了。その後3年設計製図、東大早大合同課題の製図を見る。今年の学年はどうにもこうにも、どうなのかなの感じでホトホト困惑するが、当然の事ながら義務である手を抜かずにやる。しかれども途中、他の授業の時間を侵害しているのが解り学生を授業に行かせる。手持無沙汰になり、遅い昼食へ。

18時烏山、広島お好み焼屋で一服し、18時40分世田谷村に戻る。

本日、日経夕刊プロムナード「ドリトル先生動物園倶楽部」が掲載されたので、それに合わせて色々と作業をすすめる。

馬場昭道さんより連絡あり、千葉・我孫子の小学校会10校が気仙沼応援の展覧会に協力するとの事である。全く、この坊さんにだけは負けそうだな。実に偉い坊主が居るものだ。この人はコンピューターを使わぬのでこのサイトは読む筈もないので臆面も無く賞賛する。

21時、ドリトル先生孔雀明王にまたがりミランダ(極楽鳥の)と共に空を飛ぶ。そして眼下にドリトル先生動物園を眺めるの図を描き終る。この絵の縮小コピーと、本日の日経夕刊コラムを、そして若干のあいさつ分を同封して、久し振りのドリトル先生動物園倶楽部の会報として明日会員に発送したい。

24時過、眠れぬままに起き出し、昨夜描いた孔雀明王にまたがり空を飛ぶドリトル先生の図に視入る。普通に考えればこれはまともではないが、気がふれているという訳でもない。線画に納めてはいるが、これに色をつけ始めたら少し恐い世界に入ってしまうのかな、とは思うな我ながら。

この絵はアニミズム紀行7の表紙に使ってみても良いか。

613 世田谷村日記 ある種族へ
十月十八日

7時離床。どんよりと曇った空模様。ジェット旅客機で成層圏を飛ぶようになってこの雲の上では陽光が溢れているのを体験で知っているが、海水の気化が雲となり、その形状は水の状態の融通無碍なのを反映して千変万化である。チベットの高原で雲の形が裸の岩山、砂地に様々な影を落とし込んでいるのに遭遇し、文字の誕生を想ったのを思い出す。あの状態はやはり高地でなければ出現しないので、形象という概念自体の発生つまり万物はそれぞれの形を持つという普遍は高地に於いて得られたのかも知れない。

9時気仙沼臼井賢志商工会議所会頭より電話。諸々の相談。色々と考えて過す。

15時前ベイシーの菅原さんに電話して、気仙沼銀座の応援を公式に依頼する。快く引受けて貰えそうだ。親友であるからこそ頼み事はしにくいものなのだ。ホッとするが多少の苦労も背負い込む事にもなるだろう。

15時古市徹雄さんと連絡。11月25、26のハノイ、ホーチミンでの講演会の件引き受ける。

21時、気仙沼地蔵堂、十勝水の神殿本殿スケッチ作業をおえる。今日は本職の建築スケッチに集中できたので頭の芯迄疲れた。

少し間が開いてしまったが広島の木本さんに再びいささかの仕事を依頼できそうだ。

久し振りに再びジョン・キーツを読む。読んで眠りに入ろうとしたのだが何故か面白くってかえって目がさえてしまい、逆効果であった。たちどころに眠れる特効薬みたいな本は無いのか。

十月十九日

8時離床。昨日は熟睡した。11月11日から気仙沼・銀座展:山口勝弘、現代っ子センター、そして石山研の、特に石山研の出展物を決めないといけない。1、気仙沼・唐桑支援絵葉書プロジェクト巻物 2、気仙沼・地蔵堂、鎮魂の杜、内部パースと模型。スタート時には、先ずはこれ位にしておいて、次第に発展させてゆこう。

とすると、今朝11時の打合わせには鳥居も参加させて、会場のレイアウトが先行か。シュツットガルトに追加で送附する模型もそろそろ特定した方がよかろう。

612 世田谷村日記 ある種族へ
十月十七日

11時研究室ゼミ。13時学科会議室、古谷、入江両先生と相談事。14時半了、製図室へ。選び出しておいた2名の製図を見る。1人は何とかなりそうだが、もう1人はどうやらセレクトしたわたしの間違いであったようだ。わたしとした事が、こんな事は珍らしいのだが、お粗末であった。残念。

16時コーリア料理屋で遅い昼食。

18時世田谷村に戻る。

夜、我孫子真栄寺馬場昭道さんと長電話。彼は色々と考えてくれていて有難いことだ。陸前高田に牧場付動物病院を作ると宣言する。ベイシーの菅原正二さんにも連絡する。彼は陸前高田に別荘を持っていたが、とうの昔に流された。陸前高田はほとんど限りなく原っぱが拡がる事になろうが、それをうまく生かさなくてはならない。

21時小休する。

再び起き出して22日の「世田谷式生活・学校」のレクチャーを練り直す。

やっぱり、22日のレクチャーは東日本大震災への研究室の諸活動を世田谷区民の方々にプレゼンテーションする事にしたい。又、ドイツでの石山研の巡回展のテーマ「MAN MADE NATURE」ワイマール、バウハウス大学→シュツットガルトの一部紹介もするつもり。マンメイドネイチャー&自然・インフラストラクチャーを軸にする。

23時半、とりあえず世田谷式生活・学校22日のレクチャーのシノプシス作成を終える。一度まとめてもらってから再び手を入れることにしたい。

絶版書房交信40に手を入れて、研究室に送附する。

611 世田谷村日記 ある種族へ
十月十四日

11時前研究室ゼミ。12時半製図指導室。助教、助手に指導方針を確認。ミラノのマーシャ来室。ワインをいただく。山田脩二さん来室。長野の川上先生に紹介する。15時セレクトした10点のアドヴァイス。色々な先生が色々な意見を述べて、時に指導になっていない。若い講師の先生方の見識も又問われているのを知った方が良い。流石に中川武先生の考えはしっかりしていて、課題の本質を捉えているようだ。

17時取り敢えず了。その後はわたしは各先生方の指導振りを見る。個々の学生の力量他は今年はまだ把握できぬが、女学生に一人だけ良い素質らしきを見た。一人だけでも走ってくれると全体が動くのだが。18時半製図室を一人去る。アトは若い先生方に任せるべきであろう。

19時半長崎屋でオジン、オバン、2階のオジンのところに出戻った息子と無駄話。人それぞれに様々な模様があるなあ

21時過世田谷村に戻る。

今日は早朝日経プロムナードのコラム一本書いたのが面白かっただけだ。

十月十四日

5時起き出して、メモを記す。風が強く吹き荒れて外は風の音で満ちている。クズの葉の枯葉が実に汚い。この枯葉で腐葉土をつくると良い土が出来ると、世田谷式生活・学校で教えてくれた女性がいたな。

鎌倉の小笠原さんよりメールいただく。亡くなったナーリさんの、これ又一足先に亡くなった弟さんの娘さんからだ。小笠原家はこの方と娘さんの二人だけになったようだ。寂しかろう。小笠原家は唐津の名門だった。

毎日新聞社萩尾記者から『三陸物語 被災地で生きる人々の記録』萩尾信也著送られてくる。1500円税別。一読現場の息遣いが伝えられている。ジャーナリストの本分であろう。事実の追真に引き込まれる。人間の生死の狭間の物語り群は凄味がある。涙なしには読めない。でも、これからが本当の物語りなのだろう。萩尾記者の健闘を祈りたい。

十月十六日 日曜日

6時離床。新聞読む。眼を止めた記事なし。石山研のサイトをのぞいてみる。Googleの検索数が100万を切る数字になっている。多いのやら少ないのやらさっぱり知らぬが、前より少しは読みやすくなっていて、気がつかぬ処が更新されていたりで、自分で言うのも何だけれど生物みたいに動きが出てきた。9時過小休。

10時前、安藤忠雄さんより電話あり、気仙沼その他の件。安波山の植樹計画だが来年5月5日の植樹祭はともかく、もう少し植林の時期を早められないかとの事。努力したい。

宮崎・現代っ子センターの藤野忠利さんより連絡あり。宮崎市真栄寺の協賛が得られるので、宮崎市真栄寺の保育園、幼稚園の園児の絵も展示してくれとの事。

チラシを作成して会場で配布を始めなくてはならぬ。

山口勝弘先生の展示とバッティングするのはやむをえないが、良いバッティングの仕方になってくれれば良い。

千年に一度の大災害だ。アート振りの気取りと無知は眠らさねばならない。

小ギレイではなくっても気持の入った展覧会にしたい。

昼、山田脩二さんより電話あり、近くに襲来しているらしいので、あわてて逃げだ出す。逃げ切れれば良いが。

酒呑みを友人に持つと、三十六計逃げるに如かずの時もある。逃げ切れるか?

十月十七日

8時離床。昨日はやはりと言うか、どうにもというか山田脩二さんにつかまって半日がつぶれた。今日取り返せればいいのだが、でも考えようによっては日曜日なんだから仕方が無いと言えば仕方ない。しかし、良く体が続くな彼は。おだやかな朝である。

610 世田谷村日記 ある種族へ
十月十三日

7時前離床。昨夜サイトを閉じた。死んでしまったナーリさんの顔のスケッチが掲示されている。コンピューターの画面で視る彼は、記憶の中の人間と似ているような気もしないではない。微妙に異なっていて、又微妙に同じでもある。記憶そのものの濃淡の如くである。

今朝は少し早目に研究室に出て、アニミズム紀行5にドローイングを入れたい。ツバメと会話するキルティプールの屋根葺き職人にはナーリさんの感じをチョッと移植しておいたのでその感じを記録に残しておきたい。

8時40分宮崎・藤野忠利、我孫子・真栄寺連絡。宮崎の南郷市はすでに気仙沼に支援金を送っているので、支援展覧会への助成は無理なようなので別立てを考えた。

11時前研究室、アニミズム紀行5に6冊ドローイングを入れる。思い立ってカンボジアのナーリさんの一生を想い絵に託した。

この6冊、本日付の日付が入っているドローイングは我ながら入魂とも言うべきか、アニマが宿っていると想う。明日サイトに6点をUPするので、トクとごろうじろ

12時前、『atプラス』の若い編集者柴山君来。表紙のドローイングを渡す。気仙沼陣山の地蔵堂のエスキスのドローイングである。『現代思想』原稿ゲラをチェックする。13時学科会議室人事小委員会。14時教室会議はナーリさんの件で抜ける。新宿を経て16時過八重洲で清水さんに会う。積もる話しをいささか。17時研究室スタッフ集合。取り敢えずこれでひと区切りの会食。

21時過途中寄り道はしたが世田谷村に戻る。その後再び我ながらの乱読、乱考にて過す。

今日は清水さんに研究室から一つ肖像画をプレゼントした。大事にしていただけたら有難い。

わたしも、今夕気持をひと区切りさせた。時間の流れを区切るのは相当な力技が必要なのだがなんとか出来たように思う。

明日からと言わず今真夜中から頑張りたいとそんな事を想い続けて40数年になるのである。明日は朝方少し自分の時間があるが、他はどうにもならぬ不自由さである。

十月十四日

6時半離床。肌寒いくらいの朝だ。早速絶版書房交信を書きながら、日経夕刊・プロムナードも書き始める。日常的に随分駄文を垂れ流しているのでこんな事もできるようになった。これでエスキス、スケッチも同時に出来たら千手観音だな。あのアイコンは人間のそんな意志の表われであったか。

609 世田谷村日記 ある種族へ
十月十二日

10時、滝田栄さんと電話で打合わせ。地蔵堂の件、及び気仙沼銀座2Fでの仏師滝田栄展について。宮崎の藤野忠利さん、神奈川の山口勝弘先生、その他諸々の方々と連絡。

『atプラス』表紙ドローイング描く。14時40分一段落。15時半銀座TSビル、安西直紀さん、怪人SUUWAと会う。SUUWA氏はどうやらアフリカの方らしく、眼いっぱい日本社会とズレていて、対応が難しいのであった。

16時半別れる。何となく八重洲の清水さんに寄った方が良いかと思うも、SUUWA氏と話していたら気力がなえて、世田谷村に戻ることにしてしまった。時にこんな時があるものなのだ。

20時前、清水さん電話。「今朝フーテンのナーリさんが亡くなりました。」

覚悟はしていたが……。プノンペンで「もう会えないかも知れないな」「又、会えますよ」が最後の会話になった。

別れ際には、それでも眼に涙をうっすらと浮かべていたから、本当はもう会えないと思っていたのであろう。

とてつもなく、今の日本の御時勢とはズレてしまっていた人物であったがわたしは心底彼が好きであった。奴も、俺のコトは少しは好きだったんじゃないか。わたしも根はバカだからな。あいつもバカだった。

底が抜けておったなあ。

608 世田谷村日記 ある種族へ
十月十一日

昼過ぎ新宿長野屋食堂で佐藤くんと打合わせ。安波山計画、地蔵堂計画、十勝水の神殿本殿計画、気仙沼銀座半年間スケジュールを手に入れる。新たに一つを依頼。漁協の件。佐藤より気仙沼唐桑の畠山重篤さん『森は海の恋人』、『森里海連環学』(京都大学学術出版会)を渡される。畠山さんは今度の津波で命からがら助かった人だが、唐桑ではお世話になった。

気仙沼湾に注ぎ込む大川流域の植樹にも今度一部手をつけねばならないだろうな。

わたし達の植樹計画は眼に視えるモノを主幹とし過ぎている。川は大事だ。以前、利根町の小川に少しばかり附合った際に田んぼの中を流れるクリークや小川にも両岸に樹を植えてやらないと、魚もプランクトンも水草も育たないと知った。

馬場昭道のアンズの樹を植える運動も先見の明があった。大川流域に樹を植える運動に昭道さんにゆるゆると参加してもらおうか。

十月十二日

7時過離床。宮崎の藤野忠利さんと連絡する。11月11日よりの気仙沼応援展覧会への補助金に関して。大筋は視えてきても、事が現実に対面してくると多くの雑事が発生する。道に巨木が倒れていたり、大きな水たまりがあったりする。それを一つ一つ越えてゆくのが大変です、実に。でも一人でやってしまった方が素早い。

10時、ひと仕事終えて小休する。

607 世田谷村日記 ある種族へ
十月十日

13時銀座TSビル、気仙沼支援会場着。渡邊助教、佐藤、鳥居両君も来る。安西直紀さんと銀座気仙沼の半年分、つまり2012年の5月5日安波山植樹祭までのスケジュールを打合わせ。かなりえぐった所まで考えた案にまとまりかかっている。まぐろ丼を皆で5杯5人分いただく。これは飛び切りに美味であった。アトで宮城県北部鰹鮪漁業組合の方に聞けば1000kgの鮪をさばいたと言う。この価値を無料で食した人間達はキチンと味わっていただけただろうか。畳一帖分の鮪である。食後、控室で気仙沼のコーヒーをいただく、これも美味であった。

ひと仕事終えて、15時会場を去る。15時半上野へ。上野アメ横商店街連合のカネ上三幸商店・大橋磨州さんと会う。彼は安西くんの友人で慶應、東大大学院、そしてアメ横商売修行の変り者である。今度の気仙沼支援銀座プロジェクトに欠かせない人材とにらみ、たちどころに会いに来たのだった。横浜寿町のイベントでの誠実な裏方振りが眼に焼きついていた。

安西直紀の仲間達が少し実働できると良いが。実社会で回転させるようにお膳立てするのがわたしの役割だろう、小さい知恵を振り絞らねばならないので、振り絞っている。17時世田谷村に戻る。メモを記し、サイトチェック。うまく動いている。

東北の計画のサイトが情報量他を圧するであろうから、何らかの工夫が必要だろう。今日の銀座気仙沼での打合わせ風景、会場への行列風景等は早速明日11日に東北の計画のページにONするように。安西さんがとった図面(気仙沼マスタープラン)及びシュツットガルト展の日本の小屋用の小型組立てクレーンをスケッチしているところの写真は是非ONするように。

いずれ滝田栄さんの地蔵像もONするように。タイミングを計りましょう。

研究室に4点程スケッチ送附する。十勝の仕事も進みそうだ。

研究室の仕事が巾を持って一つの方向へ向かい始めているのを実感する。宮古島のWORKが具体的に始まれば、第一段階としてはまずまずの陣形になるだろう。今が頑張り時なのは承知している。天も味方してくれるだろう。

21時今夜は眠れそうにない、ちょっと頭を使い過ぎた。大した頭じゃないのをつくづく実感する。

眠りにつくにはどんな本が望ましいのか、又考え始めて、全く考え過ぎ地獄である。

十月十一日

7時離床。昨夜来読んでいた『点と線』松本清張、新潮社文庫、平成4年(1992年)10月15日71刷、9時読み終る。何度読み返しても面白く読める。

20年近くの昔に71刷であるから、今は100刷以上に達しているのではないか。

それだけの力がある推理小説である。推理小説は高校時代に押入れに2杯分位は読んだ。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』が史上最高作だと今でも思うが。クイーン、S・S・ヴァン=ダインの双璧の前には日本の推理小説は明らかに三流であった。とても読めたものではなかった。松本清張の社会派と呼ばれるモノが唯一太刀打ち出来た。点と線はその意味で画期的なものであった。

山口勝弘先生と気仙沼銀座展の実務的連絡を開始する。

606 世田谷村日記 ある種族へ

10時過、銀座気仙沼支援会場。丁度、臼井賢志とかち会えた。打ち合わせをするも、会場に臼井さんの同級生他が続々と訪れて、ジックリ話し合える状態ではなく、しかし断片的に大事な話しを聞く。今日も実に多くの人々が会場を訪ねてくれている。

少し間が出来たので、道を挟んで反対側の日動画廊で時を過す。画家・中村琢二の個展が開催されていた。会場に戻り再び打ち合わせ。今日で3日間を会場で臼井さん等と過すことになったが、実に良い時間であった。安西くんとも若干の打ち合わせを持った。彼の友人達すなわち私の顔見知りも会場に参集している。N証券の高堀くん迄会場に参加しているのには驚いた。聞けば気仙沼へボランティアで一週間行ったと言う。なけなしの貯金60万円も置いてきたらしい。立派だ。安西くんの周りは、人柄が素直なのが実に良いのだな。臼井さんと話し合い、今後の行動の筋道も描けた。もうやるしかない。台湾の媽祖神Group2億人に関しては李祖原に任せるしかないだろうが、補足的な動きもしなくてはならないような気も強まる。年内に媽祖Gより、この銀座会場に何か送っていただく事はしなくてはならないだろう。

大変な事を始めてしまったが、これは仕方ない。千年に一度の義理と人情である。

フカヒレスープをおいしくいただいて打ち合わせもミッチリで、14時過会場を去る。チョッと寄り道をして世田谷村に夕方戻る。

今日の打ち合わせの結果を各方面日本中へ伝達する。

十月十日

7時離床。メモ、日経夕刊プロムナードの一週先の分が大分整理されてきたので読み直す。まとまり過ぎてはいるがマア良いだろう。今朝は少し時間が開いたので、絶版書房交信を書き留められれば良いが、どうか。

驚くべき事に2片を書いてしまう。9時半小休。10時気仙沼銀座東急2階フロアーの半年間のスケジュールを考案する。

10時40分了。

605 世田谷村日記 ある種族へ
十月八日

11時過研究室、シュツットガルト展の詳細打合わせ。

13時半迄。地下鉄で銀座へ。銀座TSビルの気仙沼特産品販売フロアー、臼井賢志さん、安西直紀さん等に会う。3連休は連日サンマのつみれ、フカヒレ、そしてまぐろ丼が連日500食無料配給されるので会場は大にぎわいであった。ひとまずはホッとするが、この先が大変であろう。これでは東京の人間が気仙沼にボランティアされているようで、本当はおかしいな、逆じゃないかとも思ったが、今はとやかく言うまい。

臼井さんに山口勝弘先生の三陸レクイエム展をここで開催できぬかと提案し、いいんじゃないですかと受け容れられる。

又、わたし共の「絵葉書プロジェクト」巻物も会場に展示できたらと申し出て、これもいいんじゃないですかとなる。

シュツットガルトヴァージョンのモノを銀座にもう一本つくらねば。滝田栄さんが彫られた地蔵像のための地蔵堂の大きなパースも展示するように言われる。良い事だ、やりましょうとなる。

わたしも2階でサンマつみれスープをいただく。これがうまいのです。

15時半会場を去る。

18時半、世田谷村に戻る。

深夜3時、ノコノコ起き出してメモを記すうちに、気仙沼銀座へのアイデア、ガボガボ生まれる。明日も又、銀座に出掛けて臼井さん等に提案しなければならぬ。3時半再眠。

十月九日 日曜日

7時半離床。昨夜来考えついた気仙沼銀座に関するアイデアをメモする。全国の人脈総動員になるな。こういう事には我ながら頭が良く廻る。安西くんに連絡して10時に銀座打ち合わせとする。昨日は彼も中国人留学生を8名程動員して有楽町駅周辺で気仙沼支援物産市のビラを配らせていた。こういう事には行動力がある。政治家向きである。彼は有楽町駅前辻立ちだって何だってやってのけるな。えらい。

九州宮崎の藤野忠利さんに気仙沼支援の応援頼む。快諾される。

山口勝弘先生に気仙沼銀座の展覧会に関してまだ話してなかったのに気付き、イケネェーと連絡する。

今のところ、11月11日から1ヶ月は山口勝弘、九州現代っ子センターの三陸レクイエム、ガンバレ気仙沼展の開催となる模様である。是非記憶にとどめ来場し、気仙沼の物産を購入していただきたい。

9時過世田谷村発、銀座気仙沼へ。

604 世田谷村日記 ある種族へ
十月七日

9時過、銀座東急不動産・銀座TSビル(阪急デパート)角で渡邊助教、佐藤くん等と会い、東日本震災地応援の気仙沼物産販売フロアーを訪れる。臼井荘太郎さんに会う。明日からインドネシアにマグロの漁獲量に関しての国際会議だそうだ。体に気をつけて、今は世界を駆け巡って欲しい。臼井賢志さんにも勿論会えて、色々話す。安西直紀君を臼井父子に紹介する。何とか安西くんにも頑張ってもらいたい。東急不動産の方々、リヴァンプの湯浅さん等沢山の人々が集まっている。今日はこのフロアーのオープン、記者会見の日である。気仙沼市役所の方々も見えている。

俳優で仏師の滝田栄さんに臼井さんより紹介される。滝田さん作の地蔵菩薩像が2階に安置されている。東急不動産、小倉敏取締役。臼井賢志気仙沼商工会議所会頭、沿岸被災地商工会議所連絡会議代表等のスピーチに続いて、滝田栄さん等の手によりテープカット。多くのTV、カメラ、報道陣も駆けつけた。まだ会場は充実には遠いが、気仙沼の工場は今はこれが手一杯なのだ。次第に充実してゆくであろう。会期は来年の八月末だから長丁場なのだ。

楽屋控室で滝田栄さん夫妻にわたしの気仙沼陣山地蔵堂計画をプレゼンテーションする。滝田さん大変気に入って下さって胸をなでおろす。

臼井賢志さんもホッとしたようだ。

わたしたちの気仙沼復興計画の大事なポイントの一つである。

記者会見後1階の販売スペースでふるまいのフカヒレスープ等をいただき皆さんと別れて、大学へ。

13時半大学、製図準備室にて3年生製図の70名程の全エスキスに見を通す。今年はまだ学生一人一人の個性力量を全く把握できていない。わたしの非力が半分、学生の非力が半分である。

15時前、エスキス講評開始。今年は若い先生方の発言にも耳を澄ませたい。長野から来ていただいている川上先生の講評が今年は良かった。長野の自然がそうさせているのだろう。長野は道祖神の故郷である。

17時12点のエスキスを講評して、後は先生方に任せて退出する。17時半過新宿味王で佐藤くんと無駄話しと打合わせ。

19時過了。烏山へ。長崎屋をのぞいたらオジンとオバンが二人だけだったので、ここでも無駄話しに暮れた。

ここは40年前が絶好調だったとの事。ラーメンが一杯60円、50円の頃で、それでも今と売り上げが同じだったと言う。出前もしていたから子供の面倒も見る事が出来なかったの話し。

宗柳のオヤジ現われる。三鷹に義理の息子がソバ屋を出すそうで、これから応援らしい。

21時過世田谷村に戻る。

十月八日

7時半離床。メモを記す。今日は午前中、シュツットガルト石山展の作業状態を見て、午後銀座気仙沼物産販売フロアーへ廻る予定。

今日はしのぎやすい天気である。日経夕刊コラムの原稿に再々手を入れて、ようやく満足の域に入り始める。

603 世田谷村日記 ある種族へ
十月六日

夕方、気仙沼の臼井さんと連絡がつき、明日9時半東京銀座の東急不動産・銀座TSビルで会う事になった。明日から気仙沼の物産バザールが被災地応援の形で始まる。被災地は大変な状況であるから、オープン時には満足な形にはならないだろうが、それは仕方の無い事なので、おいおい年内ぐらいにキチンとしたモノにすれば良いのではなかろうか。

ありのままをさらけ出すしか無いだろう。妙に出来上っていたりするのはむしろ不自然であろう。

日経プロムナード・連載コラム一本書く。来週の分はストックがあるのだがその先が無い。書ける時に書いておいた方が良いだろう。

十月七日

朝食をいただき、8時過世田谷村を発つ。朝食はキチンと食べないと1日がどうもうまくないのを、ようよう知り始めている。若い頃からそうしてりゃ良かったのは重々知るが、時すでに遅しである。晩飯はむしろ喰べぬほうが良いのではなかろうか。今日は目一杯の日程である。

602 世田谷村日記 ある種族へ
十月五日

11時研究室、スコブル工房の代島さん、テレビマンユニオンの安藤真規子さん来室。打合わせ。代島さんは先年わたしの世田谷美術館の展覧会をTV番組として作った人間。安藤さんは何とか最近の石山の行動を番組に出来ぬかと考えている人。

しばし打合わせ、若干の資料を安藤さんに差し上げる。

修了後、代島さんといささかの相談事をする。『現代思想』原稿完了。夕方、烏山宗柳で向風学校・安西直紀と会い、同様の相談事をする。

19時前了、別れて世田谷村に戻る。

安西君とは近い将来の組み立てに関してかなり具体的な話しを交わした。話しが話しに終らねば良いが、彼ならなんとかするだろう。

雨がジトジトとイヤな降り方を続けている。まるで今の日本の諸状況の如くである。何とかこの状況を振り切りたいものだが、仲々簡単ではないのだ。勿論、簡単な事は今や少ない。だからこそ簡潔に考えられる知覚が必携だ。本日、日経夕刊プロムナードに「李祖原2・気仙沼へ行く」が掲載された。我ながら大見栄を切っていて、心許ないが、行くところ迄は行く積りだ。安西直紀にも幾分かのヤルベキことを押しつけているので、そこのところだけは心配ないだろう。アトはわたし自身の体力気力なのである。しかし、マア、我ながら大見栄を切ってしまったものだ。でも、切ってしまったんだから仕方ないのである。

02時読書を中断して休もうとする。眠れないであろうが休む。

本を読んでもすぐに賢くなる筈もない。でも10年位たつと何となく身につくものである。

十月六日

自然・深層のインフラストラクチャーと題した『現代思想』原稿にもう一度手を入れる。9時過修了。モンスーン明けの如くに雲の分厚い表情の天空から薄陽が洩れてくる。やっぱり陽光はいいものだ。

601 世田谷村日記 ある種族へ
十月四日

夕方遅く世田谷村に戻り、殺伐とした気分の晴れぬ間に乱読を始める。我ながら凄惨な乱れ読みである。その中の一冊、竹中労『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』白川書院(1976年)。全冊あった筈なのに見当るのは一冊だけの『江戸川乱歩全集2 パノラマ島奇談』、馬鹿馬鹿しくなって読み捨てる。編集委員は松本清張、三島由紀夫、中島河太郎である。解説を澁澤龍彦が書いている。澁澤龍彦については、うーんと若い頃に哲学者の木田元が、一言、妙な秘儀みたいな事やってる連中と言い捨てていたのを妙に思い出す。この人達の文章はある程度歳を取ってからは読み返すにたえぬのである。

竹中労の『山上伊太郎の世界』は不思議な事に面白く読めた。

冒頭のマキノ雅弘監督のインタビューが滅法図抜けて楽しめる。

何処にも気取りが無く、しかもさめた眼があって、自らが作り出した時代劇全盛時代を眺め返している。

一個の歴史家、大衆芸能史を語る人間がいる。竹中労も役者が違うので謙虚に聞き役を務めている。竹中労はすでに故人となっているが、自分なりに吠える如くに書きなぐったものは読むにたえぬが、しかし大衆芸能を語らせたり、聞き書きをしたものには多くの宝石がまだまだ眠っているような気がする。この本は山上伊太郎という浪人街の傑作、シナリオを書いた天才的な脚本家へのオマージュである。

わたしは残念ながら浪人街の一篇たりとも見た事が無い。しかし次郎長三国志は全篇見た。ビデオで全15巻くらいの実に退屈なものであった。見ぬものを予想するに浪人街も恐らくは今見れば退屈なモノに過ぎまいが、この映画を中心に、山上伊太郎の生涯、世界を熱を帯びながら追いかける竹中労の姿は、今の目から眺めても仲々良いのである。決して古びていない。

竹中労は梶山季之等と共に週刊誌全盛の頃にそれを舞台に駄文を書きまくっていた、週刊誌ライターであった。しかし70年代の大衆芸能、美空ひばり等の全盛時代を併走したペンゴロのヒーローでもあった。ペンゴロは自身の言葉ではペン鬼と言うらしいが、これは笑わせる。

山上伊太郎は竹中のペンによれば、脚本書きとしては天才、しかし映画をとらせたら落第の才質であったようだ。脚本は素晴しいのだが、それを自分で映像のつながりとしてとらえられなかった人らしい。それはともかく、竹中が一冊を賭して表現した山上伊太郎像は実に魅力的なのである。それによれば山上は娼婦と映画作りに命がけで、終いはフィリピンの山中で戦死するのだが、その戦死もどうやら自死まがいのモノであったらしい。と、竹中は書いている、。要するに良く言われる如くの破滅型の天才であったと書いている。

恐らく、この1冊に珍しく共感を覚えたのは、やはり遠い国で一人死んでゆこうとしている友人の事があったからだろう。他人事ながらその友人の姿が想い浮かび身につまされるものがあったからだ。

センチメンタルな凡俗であると自覚するのは、こうした時なのである。

生まれ育った国に居て、それ故に少しばかりの苦労はしても、国を捨て、捨てられた人間と比較するならば、全ては甘い、メロドラマの現実として自覚せざるを得ない。

そんな気持で幾冊かの書物を乱読すると、実に驚くべき事に竹中労のこの一冊が浮き上がってくる。勿論、文章は週刊誌ライターの流儀で思い切り、荒く書き飛ばしているのだが、それが仲々良いのである。江戸川乱歩の書き飛ばし方とは違う迫力がある。乱歩のは、思い逡巡して悩ましい書き飛ばしなのだが、竹中のはそれを飛び超えて実に彼の生き方と隙間なく密着しているのが納得できる。

大衆芸能も亡びた。としか言い様がない。竹中労の描いた芸能が戦後の全盛期であったとするならばである。それはともかくとして、竹中労が描いた如くの時代劇の全盛があり、その衰退の現実もある。

衰退の現実の全てはTVにあり、コンピューターの普及がそれに輪をかけている。

実はこの恥ずかしながらの駄文は、遠い国で亡くなりかけている人間への少し早いお別れの文章として書き始めたのだが、やはりうまくいかなかった。

だって、どうやらまだ生きているようなのだから、うまくゆく筈がないのである。

この人間の事は尾を引きそうだ。

600 世田谷村日記 ある種族へ
十月三日

4時半に目覚めデスクに向うも、何も出来ず。再眠して8時過再離床する。どんよりとした雲間よりそれでも光が指し込む。酷暑の夏から一気に涼し過ぎる秋たけなわになってしまった感あり。今年の気候の変化は東南アジアやインド亜大陸の如くの雨期、乾期の変化のように激変して、その変化に間が無い。間というのはどっちつかずと言う事であり、グレーゾーンでもある。

昔、良くアジアに旅していた頃、雨季明けの空模様が決して嫌いではなかった。この嫌いではなかったの言い方がグレーゾーンなのである。じゃあ好きだったのかと問われれば首を傾けるしの感じである。どんよりとしたとは言えぬ真黒な雲がかなりスピーディに動き、空全体が変化に変化を重ねる。天空がゴッホの絵のようにうず巻き変幻自在の風になる。バンコクなんかだと黒々としたヤシの樹が影絵みたいに揺れて一層その動きに拍車をかける。カトマンドゥであればヒマラヤの白い峰々が雲の切れ目に望めるか、望めないかの期待におののいたりする。今の日本の秋の空模様はそんな色合いを少し薄めて、しかし年々それに近附いているのである。

アニミズム紀行5にすでに記録したキルティプールの丘、シヴァ神殿の五重の塔の基壇を登り、軒先の影りの中から、光の満ち溢れるカトマンドゥの盆地越しに眺めるヒマラヤの山々が好きだった。

今でもそうだけれど、キルティプールの丘は恐らくは毛主義者の兵士や官吏たちに厳しくコントロールされて、そんな悠久の時を想わせる風景も眺める時間も無かろう。あるいは相も変らずキルティプールの丘の子供達は空高く、終日巾を上げてボーッとヒマラヤの白い峰々を眺めているのかな。そうであって欲しいとは想うが。

あんな風に壮大にボーッとしている時間が、すなわち無我の時が近代にはない。子供も大人も老人もネパールやインドでは一見ふぬ気のように、忘我の体で何処か遠くを眺めているのに良く出会った。

今、想い起こせば実に良い人間の姿に出会っていたものだと気付くばかりだ。

幻庵主榎本基純さんがガンガプルナの氷河湖へゆるりゆるりと降りてゆくのが遠望される。わたしはそれを白い旗が風にバタバタと鳴るマナンの集落の平たい屋根の上から眺めている。ヒマラヤの白い峰々に囲まれたマナン族の集落である。振り返ると小屋の石積みの壁にもたれて、一人の女性が手をかざしてヒマラヤの峰々を眺めているのが眼に入った。老いているのか若いのかよくわからない。ネパール山地の女性は皆そうだ。鮮やかな緑色のサリーを身にまとっている。首には朱色の玉のネックレス。腕輪の銀が日陰にキラリと光る。立ち尽し、小手をかざして山を視ている。ジィーッと視ている。彫像のように、微動だにしない。くぼんだ眼下に光る瞳に写るヒマラヤの姿さえ視える位に空気は澄み切っている。

榎本基純さんも、少なからぬ友も今はこの世には居ない。あの山に見入っていた女性も恐らくはもうこの世の人ではない。あの姿はすでにあの時にすでにこの世の人ではない位に神々しく、美しかった。ヒマラヤの峰々と同じ位に美しかった。フッとそれを思い起す。何度も何度も思い返して、夢だったのか、記憶なのかの区別も定かではない。

あの姿は観音菩薩であったのかも知れぬと今気付くのである。マナンは世界で一番高いところにある仏教徒の集落である。

13時半東大建築学科階段教室。少し遅刻したが、伊藤毅先生の講義にはギリギリ間にあった。その後石山講義大地のインフラストラクチャー。気仙沼で考えている事を初公開した。

はからずも伊藤毅先生の考えている事と、わたしの実践にそれ程多くの乖離が無かったのは学生達をとまどわせなかったのではないか。しかし高度な課題であるのは事実なので学生の反応がどう出るのか楽しみではある。

2つの講義の後に隈研吾、千葉学、伊藤毅各先生と課題についての公開ディスカッションをしばし。

16時過了。伊藤研で小休の後、松村研に寄り、東京駅へ。

17時半八重洲口「小樽」で久し振りに清水さんに会う。思いがけず御ちそうしていただく。店は再び活気を取り戻しているようで、料理も皆美味であった。何となくそのまま世田谷村に戻る気になれず、遠い国の友人の事などに思いをはせたりで、かえって気が沈み、長崎屋のオヤジとオバアと馬鹿話しをしに寄った。お蔭で再びごちそうが出てしまい、喰べてきたばかりだからと断れず、これがわたしお気の弱いところで、もう直らないだろう。

21時了。世田谷村に戻る。

遠い国に居た友人の死期が間近に迫っているのを知った。でも、もうどうにもならない。

どうせアタシは野垂れ死にです。と気障な言い草が実に似合う人だった。本当にそのまんま野垂れ死にのようだ。

今年の7月プノンペンで会ったのが最期になった。

十月四日

8時離床。9時もしやと思い、変な予感もあり念の為にプノンペンに電話する。友人は病院へ行ったと言う。留守の者が。夕方戻るとも言う。ワケが解らぬので夕方再び電話する事にした。万が一、もう顔を見る事はないだろうが声くらいは聴けるやも知れぬ。昨夜月下美人が一輪咲いた。

599 世田谷村日記 ある種族へ
十月一日

ウェブサイトの仕組みを改良したので、かなり充実したし、読み易くなった筈だ。東北の計画、世田谷式学校、シュツットガルト展、等プロジェクト毎の項目を冒頭にインデックスとして置いたので、日記だけを読み続けている人は時にはトップページものぞいてみると良いだろう

昨日はドタキャンに見舞われ空白が生じた1日であったが、アメリカ大使館商務課よりメールが入り、日経夕刊プロムナードに書いた米国モービルホームの被災地仮設施設への転用に興味を示してくれた。同時にすでに釜石で20台程のキャンピングカーがNPOによって活用されているといるとの事であった。

わたしのアイデアはキャンピングカーをダイレクトに使用するのではなく、大きな小屋と組み合わせたら、あるいは小屋のみならず他の機能と併存させたら良いというモノだが、図面をアメリカ大使館にメールで送附するように指示した。

7時離床して、大江宏シンポジウムの準備。今日のわたしの発言を要約すれば、大江宏再考の糸口の提示を試みる。それはフィリップ・ジョンソンの再評価につながる、という事である。

12時15分市ヶ谷法政大学正門。58年館を眺めながら指示通りここで待つ。

30分いや待てよ、もしやと思い、超高層棟25階のスタッフルームへ。磯崎さんすでに先に着いて皆と談笑していた。昼食して打合わせ。磯崎新に気仙沼安波山計画を見せる。すぐに京都の修学院大庭園の先行例を教示した。さすがである。

13時半開始。大江新先生の丹念な大江宏の軌跡。恐らく未公開の大江宏のスケッチ等も含めてとても良いレクチャーであった。父親の事はそれも法政大学で話しにくかろうが、それはみじんも感じさせなかった。

次に石山の大江宏再考の糸口について。

最後に磯崎新のレクチャー。一度尋ねてみたかった堀口捨巳への共感の源泉とも言うべきを中心に話された。東大に於ける佐野利器、内田祥三ライン、いわゆる都市の不燃化=近代化の国家の意志と堀口捨巳の距離。

そして分離派へと、堀口捨巳はすでにウーンと若い学生時代よりその東大が中心とするラインから外れ、自らもそれこそ分離してい続けた、というのが骨子である。

私のレクチャーの中心は大江宏のアニミズムへの関心を処女作の中宮寺厨子そのものの容器性、すなわち鞘堂的性格、内のアイコンが主体であり、厨子はそれを包むものだと言うにあった。

磯崎新も大江宏の香川文化会館のヤグラの意味に流石卓見を述べた。役者の口上は観客に対してなされるのではない、ヤグラに宿る何者かに向けてなされるのだと。

レクチャー3つの後小休を挟んで陣内秀信先生の司会でシンポジウム。

18時前修了。磯崎新と近々の再会を約し別れる。

18時半、新宿の懇親会場へTAXIで。渡辺真理、富永譲、大江新、佐々木睦朗、陣内秀信各先生と同じテーブルとなり、おいしいイタリア料理とワインをいただく。

修了後朝日新聞の大野正美さん、佐々木先生とTAXIで帰る。車中で本日充分に果せなかった取材を受ける。

23時頃世田谷村に戻った。

十月二日 日曜日

5時半離床。メモを記す。明日の早大東大合同課題出題時のレクチャーの準備をする。福岡オリンピック招致案を磯崎新の許で作成した折に、磯崎新からプレゼンテーションの為のシノプス(シナリオ)作成のテクニックを学んだ。へェと舌を巻いたのであった。

以後、そのテクニックはわたしのあらゆるレクチャーに流用、転用される事になった。

世田谷村の庭を見おろせば、彼岸花と酔芙蓉の花が咲き乱れている。

クズの葉がようやく枯れてきて、クズの葉蔭に隠れていたのが姿を現してくれたのである。

18時半、沖縄宮古島1-124TIDAアゲイン艇長渡真利将博さんに電話する。

渡真利島の計画打合わせ。11月になったら油壺月光ハウスの並木さんのところでやりましょうとなった。

十月二日

磯崎新アトリエ秘書網谷淑子様逝去の報届く。

つつしんで哀悼の意を表しウェブサイト、日記、半日閉じます。

若い頃から大変お世話になりました。

亡くなった猫のニコライは網谷さんのところから来た猫でした。

世田谷村日記