石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 9 月

>>10月の世田谷村日記

895 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十九日

14時長崎屋。最後のチラシ渡し。幸い全世田谷野球チームの篠崎監督以下面々が居たのでお願いする。しかし日曜日は野球の日なので雨が降ったら来てくれと頼んだ。大人に無理は言えぬ。

常連の吉田さんの金ピカの派手な時計が見つかったようで、喜色満面であった。喜ばしい。どうやら大型台風が日本を横縦断する雲行きである。明日、明後日の行事が少しばかり心配だ。

木田元『反哲学入門』(新潮社、文庫460円税込み530円)本屋で買い求めて読む。実に読みやすい本である。

木田先生は過年癌を発見し胃の大半を切除した。そんな体験を経られて、別に何変りもなく哲学者だと言っても生死の意味等に埋没する事もなく、歌を聞けばこれは自分でも歌えるかどうかを吟味したり、高山建築学校でお目にかかった人となりとそれ程にちがってはいない。本は逆から読んだ。木田先生の中心でもあるハイデッガー、そして反哲学の始祖らしきニーチェと逆読みして、ニーチェで頭が一杯になり休んだ。三浦雅士が余計なあと書きを書く迄もなく、この本は名著なんだろうと思う。わたくしの頭でも実に良くハイデッガーらしきも理解できる。あと2、3回今度は順序よく正しい読み方をして、実に哲学入門をさせていただこう。

しかし、木田元先生の唄は良かった。先生の故郷山形、作造原の廃校での、「心もよう」などは、アレは名唱であったと思い出す。マイクないのでと、紙を丸めて持って、こうしないと気分出ないんだと唄われた。

木田元先生を思い出す度に作造原の紙を丸めたマイクを思う。

九月三十日

六時離床。昨日はハイデッガー、ニーチェを木田元先生に導かれて学習したが、その割には頭はさわやかに目が覚めた。先生の人柄が本に表われているからであろう。「生垣」13を書く為に無為無策の散歩に出る。台風が来るらしいのに今は誠に天気晴朗である。でも必ず来るんであろう、台風は。

烏山神社に参り、戻り、「生垣」13を書いた。8時20分である。

レオナルド・ダ・ヴィンチならぬ毎日の駄文太である。坂東之駄文太郎馬鹿吉を名乗りたい。

11時過寝ころんで「反哲学入門」読んでたら、台風来るから屋上からモノが飛ばないようにしろと言われて、渋々屋上に上がる。これが意外に大変な作業でヘトヘトになった。物は飛ばぬけれど、俺が飛ぶぞとタメ息をつく。アッという間に14時になり区民センターに出掛ける。

14時10分烏山区民センター3階集会室。14時45分定刻通り話しを始める。集まって下さった方々は70名程か。主に烏山地区の方々であろう。風々ラーメンのオカミの顔もあった。世田谷式生活・学校スタイルのクリーンエネルギーのアイディア。世田谷村の生垣の話し。風に吹かれて無駄話しの会の話し。そして12月末に予定しているもちつき大会、紙芝居大会の話しをする。45分話して、渡邊、佐藤にバトンタッチ。16時世田谷区長保坂展人、来てすぐに話し。沢山の質問提言を受け17時過了。知り合いと風々ラーメンに移り、メンマをつまみながら雑談。台風が接近していて電車が間引き運転に入ったとの事で早々に切り上げる。20時頃世田谷村に戻る。

夜半風強し。

十月一日

7時離床。本日の早大東大合同課題のためのレクチャー、シノプシスを追っていささか勉強する。

昨日渡瀬さんよりいただいた広島・木本一之展の写真を眺める。今年の展示作品には不思議なエネルギーを感じる。写真からだけれど。

9時半レクチャー予習を終える。

台風一過、快晴である。今日天皇、皇后を迎えて予定されていた東京駅保存再生竣工式典は台風を予想して中止となったようだ。台風の速力が速過ぎて、今東京はカンカンの青空ではあるが、被災地の方々が苦労されている東北地方も再び台風の通り径になったので、中止は良い決断であったと思う。しかし、天皇は皇居から東京駅迄自分で運転して車で来られたら良かったのになあ、と馬鹿な事を考えた。天皇はどうやら運転免許証をお持ちらしく、皇居内をドライブする事もあるらしい。

屋上に上がり、雑草をかき分け、北の棚の片付け。充分準備した筈なのに昨夜の風は余程吹きつのったようである。一片の木片が吹き飛びそうにようやくしがみついていた。

屋上からは富士山が眺められる。ビルが建ってしまい半片の富士である。

894 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十八日

12時過「作家論・磯崎新」28、北京・中央美術学院を書き終える。小休し13時45分世田谷村発。14時50分大学地下スタジオ着。北園先生、加藤先生、TA佐藤君と会う。加藤先生とはお元気になられて初の対面であり、他人事ならず嬉しかった。15時過演習G最終講評会。学生4人に先生4人の豪華なものになった。全て石山研の学生であったから、甘さを抜きさった批評とした。30才を超えて覚えている奴がいるかどうかは知らない。

17時終了。佐藤研吾に「作家論・磯崎新」のONの仕方を相談し、来週の月曜日には掲載することになった。佐藤を残し、両先生と新宿へ。

17時半まだ片付け中の味王に到着。少し計り体調を崩していた加藤先生の快気祝いとする。北園、加藤両先生共に言うにはばかるがわたくしの教え子である。共に今や40代の後半、これから建築家として大成するだろう人材である。

実は大いに期待する人材なのだ。北園先生は身体も頑健で、そこにいささかの難があるが、これから一直線にゆくだろう。気質が何より良い。わたくしの研究室の1期生である。加藤先生は池原義郎先生の事務所で修業されてから少し遅かったが独立した。病もいえて、顔色などは以前より良くなった位である。

北園先生同様に作品に詩魂が在る。共に稀な人材である。北京の話し等して久し振りにホラをドオーッと吹き上げストレス解消となる。良い人材を見守るのも、快楽のひとつである。長居はせずに19時半頃別れる。烏山で北のラーメン屋風風ラーメンに寄る。30日は三人連れて行くぞとオカミ言う。

20時半頃去り、世田谷村に戻る。

九月二十九日

6時半離床。新聞を読むも1時間程で再び横になり、次に起きたのは陽の高い9時半であった。メモを記す。

「作家論・磯崎新」29にかかるか、それとも「生垣」12にかかるか少し計り迷うが、「生垣」にかかる。

実は先日のXゼミナールの例会で鈴木博之先生から「生垣」についてはささいな批判を受けた。ささいと言うのは実に身を刺すもので、それでそんな事言うのなら止めてもいいんだけど、やっぱりヤローとなる仕末である。全く我ながらウジウジした性格なのだ。ジワリと刺され、ウジウジと反応するのも楽しい事の少なくなった今は楽しまねばならぬ。でも本当に楽しくはないのだけれど実に下劣な意地である。で「生垣」12は意地と生垣について書く事とする。

まことにイイ加減極まりない。

893 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十七日

9時45分研究室。10時教務課の人とバウハウス大学のクリス・デーネM.Sc.博士さん来室。古谷先生、渡邊大志先生と共に対応。わたくしとMr.ツィンマーマンとの間でサインした箇所間協定の自動延長の確認。バウハウス大学はMr.ツィンマーマンの政治力もあり大きな大学になったので組織も複雑巨大になった。その巨大さは早稲田大学の自動大量生産の巨大さとは異なるが10数年前のそれとはすでに異なる。それで不必要とも思える事務的な煩雑さが出現するのである。

11時前了。面接に来た留学生はどうやらシビルエンジニアリングに希望の学生であり、土木の事務所に行かせた。わたしの処では対応できぬ人材である。

12時佐藤研吾と昼飯に出る。昨日記した如くに新大久保・近江家迄の15分の道を歩いた。久し振りである。近江家で親子丼、佐藤は天丼。ここでは天丼の方が親子丼よりも格が上なので、チョコザイな!とも思ったが、ここ一ヶ月良く頑張ったので見逃したのであった。おまけに冷酒をたっぷり二合も飲みやがった。修論他の話しを少し。オカミにネットに顔写真出てるねと言ったら、そうなの実物より良かったでしょ、だって。

13時了。東京駅見学は別の日に廻し、烏山へ30日のチラシ配りへ。

ソバ屋宗柳でこちらもオカミにチラシをドサリと預ける。もうわたくしが配る気力は失せた。

前の石森さんと、宗柳のオヤジをつかまえて、近江家の親子丼はうまいぞーと説教する。前の石森さんも近江家は知っていた。前の家の庭はキレイな細身の竹が群生していて、どっちがゾバ屋なのかわからぬ位だ。

レクチャーの準備をいささかして早く休んだ。

九月二十八日

良く眠り過ぎて8時離床。今日は午後演習Gの講評会がある。

昨日、「生垣」11を書き捨てたので読み直してみる。又、そろそろ作家論・磯崎新の続行に戻らねばと、「作家論・磯崎新28 北京中央美術学院3」を読み直したりしてみる。注釈だけは着々と追いついてきていたのを知る。

9時半新聞を読み、朝食小休する。

892 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十六日

12時50分南のラーメン屋長崎屋へ。13時よりNHK・TVの自民党総裁選挙を観戦する。新聞各紙の予想では議員票で安倍氏が勝つとある。そんな事があって良いモノかとワザワザ茄子イタメを喰べながらの観戦となった。第1回地方党員の票を含んでの投票では石破氏が圧勝した。石原氏はみじめなくらいに票がのびない。もしや自民党議員にも良心らしき、そして倫理観はあるやも知れぬと第2回の決戦投票、これは議員だけの投票であるが、新聞の予想通り、派閥力学のなせる技なのか、利権欲しさの相変らずの議員心理なのであろう、安倍氏がわずかな差で勝利してしまった。

一緒に視ていたTAXIの運転手さんが、「もう勘弁してくれよ、亡霊みたいのが又出てきちゃって」の言がまことに適切なように思った。

勿論、民主党も駄目だが、自民党もこの体たらくでは期待できそうにない。しかし、何故谷垣氏が総裁の座を降りなければならぬ理由は更に不可解でもある。大体マスメディアが小沢一郎氏をバッシングするのも実に不可解であり、日本の政治は本当にドン底状態に突入していると痛感した。他人事でなく、どうなってしまうのであろうか。

南のラーメン屋に集う、実に言葉も恥じらうがわたくし奴も交えた、わたくしは残念ながらここでは議員諸氏と同様にセンセイと呼ばれてしまってるんだが、庶民くずれのわたくしも交えた人々のセンス、フィーリングは政治に関しては実にまともな様な気もするが、その総意を代表するらしきセンセイ達の馬鹿さ加減は壮絶なものがあるなあ。

しかし、南のラーメン屋長崎屋にまで出掛けてTV観戦した甲斐はあった。投票結果を待つ諸氏の表情にその人間の風格の一端が表れていたのを知り、又それぞれの取巻き議員の思惑も含めた表情さえもTVカメラは良くとらえていた。

TVを捨てて大分になるが、キャスターとか解説委員とやらが出てこぬ、カメラだけのTVは意味がそれなりにあるなあ。

今日は恥ずかしながら完全休養させてもらった。自民党総裁選TV観戦と早朝のコンビニ新聞購入だけが外出の一日である。予定していた北のラーメン屋は今日は休む。30日の世田谷式生活・学校の人の集まりが心配だが、山田のかかしも頑張っているにちがいない。

おだやかな夕暮、久し振りに世田谷村にとどまり幾つかの大事なレクチャーの準備にとりかかる。

若い学生諸君に語りかけるのもあと残り少ない月日になった。しっかり、けじめはつけたい。もちろん仕事は死ぬ迄続けるが、学生諸君とはそろそろお別れである。今度の10月1日の早大東大合同課題の小レクチャーでは東京駅の保存大計画を少しばかり話題とさせてもらおうと決めている。

九月二十七日

6時45分離床。新聞2紙を読む。うちの猫が少し太り過ぎではないだろうか。板の間に腹ばいになっている状態から起き上がるのにヨイコラショの声がきこえる位にギクシャクした時間がかかっている。この猫の取得と言えば元捨猫の歴然たるアイデンティティを置いて他には何も無い。だから人間になつかないし、かと言ってメシの時は露骨にさい促する。他には実に何も無い。なんでうちに居るのかも不明である。メシくれるからたまたまいるかの風である。こいつの遠い祖先は恐らくアフガニスタンの遊牧民のまわりをうろついていたのではないだろうか。自分勝手で一切他人にとんちゃくしない。そこからどうやって海を渡ってこの地にやってきたのかは謎である。まさか泳いできたわけではないだろう。

今朝は午前中ワイマールのバウハウス大学の先生方が来室する。又、一人ドイツ人留学生と面接する予定であり、午前中はそれでつぶれてしまう。今朝の生垣は休むこととする。マア再開するかしないかも決めてはいない。一人ずもうだから自由気ままが一番。

891 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十五日

18時過ぎ新大久保近江家でXゼミナール例会。難波和彦先生と雑談しているうちに鈴木博之先生も来た。保存運動の成果の一端などをうかがう。東京駅のオープニングには出掛けたいが、とても出席は困難なようだ。遠くから立見でもするか。立見といえば瀬戸内海小豆島の農村歌舞伎の劇場を見たことを憶い出す。みかん畑の石積みのだんだんがグルリと茅葺きの舞台を囲んでいた。アレが建築らしきの理想だろうな。20時了。21時世田谷村に戻る。

九月二十六日

7時15分離床。創業百余年とある新大久保百人町の近江家でもらってきた小さなパンフレットを眺める。近江家がそば処として初めて暖簾をかかげたのは初代が浅草三筋町で修業してから明治32年(1899年)に麻布笄町(今の南青山)に開業したとあるから難波さん家の近くにあった事になる。その後大正5年(1916年)に現在の新大久保駅前に移ったとあるから、今の場所になってからも100年近く経っていることになる。ネットで検索してみたらオカミさんの顔が出てきたのでギョッとする。更科系の白い北海道産のソバ粉を全卵でといたのが特色だそうだ。おすすめメニューはつつじそばとあった。百人町は明治天皇がつつじ見物に来た位に下級武士がつつじを育てていたのである。まだ喰べた事がなかった。チョッと高いけれど今度喰べてみよう。

昨夜も又、わたくしは親子丼を喰べた。ここの親子丼はうまい。ベラボーである。しかも安い。

烏山宗柳のそばと比較する事度々であるが、値段との相対性理論で厳しくチェックするならば、どうも近江家に軍配を挙げざるを得ないのではないか。やはり山手線の駅前という事もあり、各種の人の舌にもまれているのが強い。新大久保は今や韓国料理勢に押されまくって、ガードのあっちはもうここはソウルかと思わせる風だ。

近江家が、考えてみれば唯一の日本料理、しかも我国を代表する日本ソバ店である。まさか近江家が陥落する筈もないが、竹島問題もあり行方は解らない情勢である。Xゼミを除いてほとんど来なくなってしまったのが我ながら不甲斐ないのである。地下鉄の便利さに負けて味を捨てたのである。反省しなくてはならない。

考えてみれば地下鉄新宿三丁目の地下道の長さはイヤになる程だから、新大久保から仕事場への距離はそれ程苦にすることではないのかも知れない。最近、足がおとろえてきたと自覚せざるを得ぬのだが、それは地下道を陽光に当たらずに歩き過ぎているからだ。愚かであった。新大久保、つまり近江家から歩く道筋に戻してみることにしたい。昼時に近江家で親子丼とソバを喰ってゲップを吐きながら韓流通りをかきわけて歩く。ソバのゲップとキムチの風がぶつかり合い、第二の竹島問題に発展するやも知れない。

今日は自民党の総裁選である。ラジオを聴き夕刊をじっくり読むことにしたい。

9時渋々「生垣」10を書き始める。

890 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十四日

9時45分発。烏山神社へ。ズラリと正装した男ばかりが30名程集まっている。下町、中町、上町合同の神事。神主さん5名来て、のりと、おはらい。

皆さん整列して水屋でおきよめをしてから神事。こういう決まりも良いものだ。石段の上から写真をとったが申し訳ない感じ。見おろしてしまったから。志村棟梁晴れ姿である。やってきて、「昨日社務所寄ってくれたんだってね。ワルかった。わたしはグロッキーで休んでたの」

わたくしもグロッキー気味だが気力は横溢している。山田のかかし来たので神社を発ち、区民センター前広場へ。上町の神輿がチョコリと居た。

12時前おむすびの差し入れと共に研究室へ。チェック、チェック、チェック。

皆疲れているようだが、気になっていた処は全て手を入れた。良いチームになってきたのを実感する。まだ台北から来ないモノもあるのでメール打つ。

16時渡辺豊和さん来室。初めて人を研究室のコーナーに迎え入れる。

ズーッと密室状態だった。

渡辺豊和さんなら、もう良いだろう。

色んな話しをした。豊和さん何か言いたいことがあっての来室である。

17時半研究室を二人で出る。地下鉄で新宿味王へ。

「なにしろ頑張れや、それだけを言いにきたんや」との事。渡辺豊和74才である。日本に珍しい本物のアバンギャルドである。この人物の才質をわたくしは実に信頼している。

紹興酒を随分二人で飲んだ。

「もう会う事も無いからな」とポツリ。わざわざそれを言いに来てくれたのか?

味王を出て、足取りが少し覚つかぬ渡辺豊和の腕をかかえて、新宿南口改札迄送る。振り返らずに別れた。

研究室に21時過戻る。最後のWORK総点検。23時了。これで良し。

思い残す事は何も無い。力を尽せた。それだけが有難い。

ウイスキーで皆と深夜の乾杯。皆も良くやってくれた。何言う事もなし。

一廻り人間も大きくなってくれたのが嬉しいではないか。

24時過世田谷村に戻る。

九月二十五日

7時離床。眠たいが習慣になっていて、メモを記す。

庭の南西の隅にクスの樹があり、大きくなって今や庭で一番の大木になった。

3階建の隣りのマンションより高くなっている。と言いたいがマア同じ位か。

何時の頃か、風が運んできて、いつの間にか育ったクスの木である。昔からクスの木の大木があるような家に住んでみたいという貧しい夢があった。どうやらわたくしが生き抜いてダウンする頃にはかなりの大木になっているだろうか。

生垣、生垣と我ながら最近こしゃくな感がある。クスの樹や、月桂樹、さるすべり、金木犀、そして庭の中央には梅の老木もある。梅の老木は人間に例えれば老婆の風格がある。もらってきたすいふようの樹もピンクと白の花を沢山つけている。

仲々の庭かも知れぬな。自慢できるモノがなにもないわたくしではあるが、庭と生垣はえばっても良いかなあ。わたくしが作ったモノでないところが良いのである。

昨日、渡辺豊和さんは何を言いにやってきたのか。解るような気もするが、それは書かぬ。書けぬのではなく、書かない。

「奈良に住んでるから、もともと亡びてるんだ。俺んところの周りは。だから、ことさらに日本が今亡びつつあるなんてのは実感がない。モトモトこんなモンじゃないのか。戦後は良くみんなやったけどアレが精一杯だったんだ。江戸の頃ぐらいに戻るのが自然なんだ」

と言うのが、実に自然に響くのであった。

「大正時代くらいにはすぐなるんだろうなあ」と返すのがわたくしには精一杯であった。

二人の想像力の射程の違いである。本当は渡辺豊和さんは縄文と言いつのり、更にはゾロアスターの頃と平然と考えているのだが、わたくしの如くの小人を相手に江戸と情をかけてくれたのだろう。

「最近夢に良く毛綱が現われてなあ、まだそこに居るのかって言うのや、早くあっちに行くのも良いかと思ったりなあ」

そりゃあ、おたがい様だけれど、わたくしは今しばらくは作りたい。

トルコ、アナトリア高原の外れのエトルリア遺跡、ナムルートダキの山上ピラミッドは、アレは削り出したものだ。と思いもかけぬ事も言った。考えてみればそうだな。あんな山の頂上迄巨石を運び上げたと考えるのは不自然である。そうか岩山を削り出したピラミッドってのもありだなとホトホト感心した。

D.H.ロレンスのエトルリアの本が手許から消えて久しいが、アレはもう一度読み返したいものだ。

889 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十三日

10時過世田谷村発。烏山神社に寄る。雨の中多くの人が出ている。神興が3台、倉から出されて雨にぬれている。志村棟梁の顔もあり、石段の上から下町奉賛会代表としてあいさつ。赤いたすきがけで立派だ。神主の、のりととおはらいを受けて下町、中町、上町の順に神興がかつがれ神社を発つ。かつぎ手は皆一様にかつぎ慣れた風の人達。皆酒をチビリと飲んで気合いが入っている。昔、博多の山笠で町中を廻った事があった。殺気にも似た空気が張りつめていたのを憶い出す。会社を辞めて山笠に参加する人物もいるというのが解るような気がしたものだ。かつぎ手達のオイサ、オイサの掛け声に地面も震えるようである。3台の神興は順々に境内の屋内が居並ぶ街道を通り抜けて東の鳥居をくぐり、外へ出る。

子供の頃、神興について遠くまで歩いたものだった。何か神興にはオイサの掛け声と共に人の心を別の世界に連れ去るような力があるのだな。

志村棟梁にあいさつをして神社を出る。烏山区民センター前の広場は上町の祭礼の場のようだ。区民センターのチラシのチラされ方をチェック。微々たるチリ方である。

12時過研究室。台北、ワイマールからの情報の仕上がり共々にチェック、そして打ち合わせ。修正が大変だがもう少しだ頑張るしかない。皆は良くやってくれている。

14時半発烏山へ色々動き、16時長崎屋。18時発、19時世田谷村に戻る。

夕食をとり、すぐ横になる。正直今日は歩くのがキツかった。

九月二十四日

7時半離床。烏山神社の奉賛会の方が言っていたように今日は快晴だ。神興は夜はどこに居るのかなと気になって神社へ。職人さんが今朝の神事の社をつくっていたが神興は3台共に姿がない。何処行ったのと職人さんに尋ねたら、昨夜はそれぞれの下町、中町、上町へ帰ってるんですとの事であった。

今日の夜戻ってくるのもあるし、明日の昼間になるのもいるらしい。知らなかった。神社はしぶとく生きている。

帰りについでに世田谷村の生垣巡回する。クモも晴れたのでモソモソ動いてるのが居た。ジーッとしているのも辛いのであろう。

今日は夕方、大阪の渡辺豊和さんが来ると言っていた。それ迄にWORKの仕上がりを全て視なければならない。10時の烏山神社の神事とやらも参観したいので、忙しい日になりそうだ。8時20分、メモ、神社、生垣巡りを終える。

「生垣8」を書く。8時半過了。ホッと一息つく。ボーッとしているようなセカセカしているような中途半端な日々が続く。

888 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十二日

888の8並びの番号がつくメモを記す。誠にお目出たいメモになろう。

12時前研究室、打合わせ。大変だろうが皆短期間で力を付けてきたのが伝わってくる。打合わせも無駄を極力省く。大方うまくいっている。もう少しだ。頑張ろう。台北、ワイマールの健闘祈る。決めなくてはいけない事だけを決め14時研究室を去る。電車の中でまとめのコンセプトの小文を書く。アッという間に全文を書けた。

日々の日記メモのトレーニングのお蔭様である。烏山駅前のコンビニでスケッチブックに記したモノをコピーして研究室へFAXを送付した。これで明朝に予定していたわたくしのWORKは終った。

区民センターに寄り、チラシの減り具合をチェックして南のラーメン屋長崎屋に寄る。おばん姉妹は昨夜予定通り焼肉腹一杯喰ったそうだ。長生きしてくれ。まったく清々しい老婆達である。見習おうにも手が届かぬ。

街まわりをしている筈の山田のかかしが棟梁志村さんと一杯飲んで顔を真赤にしているので、頭をポカリとやった。皆さんにマアマアといさめられる。バカをなぐる奴も又バカであると言った奴もいた。良い事言うなあ。棟梁志村さんに聞けば今年の烏山神社の例祭は下町の担当で、総勢11名が世話人として関わっているそうだ。その11名も集まったり、集まらなかったりで人数はいささかさびしいようでもある。上町、中町の人達は関わりを持たぬらしい。品川宿でもそんな話しを聞いた覚えがある。

もう配るチラシが無いので世田谷美術館のパンフレットを配る。

ここはあんまり美術館の展覧会のお知らせは似合わぬのだが、マアいいや配らぬよりはマシだろう。

吉田くんと北のラーメン屋風風ラーメンに行く。棟梁志村さん又も現われる。

今年になってメッキリ仕事が無くなって辛いだの話しを聞く。

20時過世田谷村に戻る。

九月二十三日

今日は裏の神社の祭りだというのに朝からやらずの雨である。

昨日、神社に露店を出すテキ屋さんの、小さな5、6才だろう子供が良く働いて小型トラックから荷を運びおろしたりするのを見ていい子だなあと感心した。

ネパールの子供達みたいで、眼もキラキラしていた。テキ屋のまだ若いオヤジを助けて旅から旅に明け暮れているのだろうなあ。越後獅子の唄である。でも良く陽焼けして元気そうなのであった。

この雨では折角の屋台も客は不入りであろうから可愛そうな事ではあるが、すぐに見切りをつけて晴れた処へ旅立っているかも知れない。

雨でわたくしも生垣巡視は休止として、「生垣7」を書き始める。

WORKを終えたら、作家論・磯崎新に再挑戦したいし、東京駅保存と再生についてもまだまだ学ばなくてはならぬ。休んではいられないのだが、今日は日曜日でもある。

9時半書き終わる。

888の横並びの目出たい番号なのに、つまらんメモになった。

887 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十一日

烏山神社は23、24日が秋祭りである。多くの人が来るので世田谷式生活・学校の広報は最大のチャンスである。

区民センターに寄り12時研究室打合わせ。台北、上海のWORKすすむ。14時過了。発つ、15時過烏山へ。南のラーメン屋長崎屋に寄る。長崎からオバンの90才になる姉、次の姉が来ていて店を手伝っている。モト美女三姉妹だ。九州弁丸出しのデッカイ男もいて姉の息子だと言う。

これが誠に気のヨイ男で三人の姉さんに今夜は焼肉食べ放題を振舞うらしい。

長崎被曝者の会はどうしても世田谷式生活・学校のバックボーンとして後援していただこうとの気持ちを固めた。

オバン手作りのオハギをいただく。本当は甘いオハギは身体に良くないのだが、身体の少し位は仕方無いかと覚悟して見栄で2つもいただいた。

持ってくかと言われたがそれは断る。しかし、長崎屋のオバンのオハギはまったく絶妙なのである。甘くなく、それでもホンの少し計りの甘味が在る。

宗柳のオヤジ、九州で骨休みをしていたのが今日東京に戻り顔を出した。スーツを着ているので誰かと思った。

宗柳のオヤジが変な事を話し始めた。今入院手術中のここの常連Mさんが、この常席にいるのを夢に見たと言うのだ。ヨセやい、縁起でもネェ。

しかし、皆病持ちの連中なのでしんみりしちまった。下田病院の保(たもつ)さんに世田谷美術館のパンフレットを渡して去る。

再び区民センターに寄り、置いてあるチラシが少しは減っているのを見て喜ぶ。チラシが散りもしないのは口惜しいではないか。

北のラーメン屋風風ラーメンに移る。しょうゆラーメンを喰う。

本当に身体に悪いナァこれはと思いつつラーメン屋でラーメン喰わねば男が立たぬではないか。

誠に気が弱い。

それでもオカミが今日烏山地区の会合があると言うのでそれは良かったとチラシをゴッソリ手渡す。山田のかかしも頑張っているのだろう。朝一番で来たよとオカミがいっていた。朝一番とは昼12時という事だ。カカシとチラシ配り競争をしているようなもんだなコレワ。しかしこれも世田谷式生活・学校には大事な事だ。研究室ではヴィンセントも色々と工夫をこらしている最中である。

20時世田谷村に戻る。腹一杯で飯は喰えない。

九月二十二日

6時半離床。メモを記す。7時半、意地の「生垣」書き始める。

もう書くこと何もないのにほとんど自動記述なり、8時過書き終える。生垣巡視も含めて、ズボンが露にぬれてビッショリである。

ジンジャーの白い花が美しかった。

2階に上り下の地面を見おろしたら、今朝のわたくしの歩いた跡がくっきりと残っている。草を踏み倒して進軍した跡がわかるのに妙に感心してしまった。他愛もないモノでもあるな人間のやる事は。8時半小休。もう2時間の時が経った。充実していると言うか、マァみっちりしているなあとは思えど今朝の寒さかな。

そんなわけで「生垣6」書いた。

今日は土曜日か。新聞を読む。今朝は11時に烏山神社の社務所に顔を出してみたい。志村さんが祭り仕切りの大親方なので会えるだろうか。昨日は蜂の巣対策で大変だったようだ。

祭りにやってきた子供達が蜂にさされたら大変なんだよと言っていた。何か変な蜂が世の中に登場しているようなのだ。

886 世田谷村日記 ある種族へ
九月二十日

10時半花小金井吉元医院。老院長先生、副院長先生御二人に見ていただく。

先週の検診の数値結果を聞く。11時過了。高田馬場より研究室へ。角のコンビニでゴッソリ、サンドイッチを皆に買いおく。コンビニのサンドイッチは無味無臭で、でも身体には悪くはないだろう。12時研究室、打合わせ。グングンまとまってきている。台北の李祖原事務所も上海スタッフを駆使し始めたようだ。ワイマールも頑張っている。何とか良いモノを作れそうだ。14時過わたくしの役割は大半を終えた。あとは皆の仕上げを見守るだけ。全く良くやってくれている。

居眠りをするよりは良いだろうと烏山へ発つ。電車で眠る。千歳烏山には15時着。南のラーメン屋長崎屋で来客全てにチラシを配る。区民センターを通り抜け、北のラーメン屋風々ラーメンへ。オカミにチラシを渡して依頼。20時世田谷村に戻る。

九月二十一日

寝過ごして8時離床。一度4時に起きたが何もせず又眠った。曇天である。涼しくなった。「生垣」5を書く。意外に手間取り、9時40分までかかってしまう。書く事が無くって意地で生垣巡視に歩いたりもしたのだ。

花の名前も樹の名前も一向に頭に入ってこない。これはいかんなと思い続けてはいるのだが、どうしようも無いか。WORKの主体は台北、上海、そしてワーマールに移行したので、今日と明日はわたくしは少しゆっくりできる。

皆は大変だろう。

10時ゆっくり朝食をとり、それから出よう。

885 世田谷村日記 ある種族へ
九月十九日

11時研究室打合わせ。ブッ続けにWORK。19時前サンドイッチ。居残りの皆を残して発ち烏山へ。区民センターに寄り、風々ラーメンへ。おかみさんと後継ぎの息子さんと話す。色々と手広くやっているので大変なんだな。米屋の若旦那と再会、チラシを手渡す。区民センターに置いたチラシはただ置いてあるだけで一向に減らぬのはこれは自然だ。世間はそんなに他人のやってる事に関心は持たぬ。22時前了。22時半世田谷村に戻る。

九月二十日

6時離床。ヤル気満々であるが身体が持つか。昨日はOBの倉本琢さんから葉書きが届いた。設計事務所運営のかたわら鎌倉で雑貨商、古物商をはじめたそうだ。わたくしには昔から雑貨屋願望があり、積らぬ書物も残したが、店頭に座り、来客と対応する自在さはわたくしには欠けている。

倉本琢さんなら上手に両立させるかも知れない。一度電話して出掛けてみたい。Opening Exhibitionは「森正洋のデザイン展」で10月7日から28日迄だそうだ。鎌倉市由比ケ浜2-6-22が雑貨屋の位置である

来客万来を祈りたい。

宮崎現代っ子センターの藤野忠利さんとも話したが、お元気なようで再びカンボジアのひろしまハウスでカンボジアの子供達に絵を教えに出掛けたいとの事であった。

もう8時である。ノルマの「生垣」の小文書き始める。もう楽しくも何ともない一人身勝手な意地である。石山じゃなくって意地山だね。20分書き散らして終る。9時には発って花小金井の吉元医院に薬をいただきに出掛ける。

薬たってかゆみ止めの類であるのだから全く他愛のない事おびただしい。

申し訳ない人生である。

884 世田谷村日記 ある種族へ
九月十八日

11時研究室。打合わせ。15時H氏、T氏来室、技術的ヒヤリング及び打合わせ。プロの話しは解りやすくて助かる。16時S氏来室打合わせ。17時半終了。

18時新宿味王で会食。20時了。京王線桜上水で別れ、21時前世田谷村に戻る。

九月十九日

6時離床。6時40分迄新聞とメモ。「世田谷式生活・学校5」「生垣3」にかかる。7時半過ぎ終了。生垣だけで延々と書き続けてはみようと昨日思いついたのだが、大変だぜコレワ。自分の才質を点検しているようなものではあるな。恥をさらす事にもなりかねぬがやってみよう。

色々と便りやらも書きたいのだけれど、今は時間が無い。これを便りの肩代わりと今はさせていただく。8時前スケッチ始める。8時半前了。

9時朝食を食し小休。

883 世田谷村日記 ある種族へ
九月十七日

京王線電車内で早稲田OBの先輩にお目にかかる。釣り竿状の長モノを持っておられたので釣りですか?と言ったら、剣技大会に出場するとの事であった。良い時に会社を辞めましたとの事であった。死ぬ迄WORKする積りの私にはうらやましい限りである。それにしても移動している時に人に出会ったり、スケッチしたりで机上で思案しているよりも余程充実している感がある。

11時研究室、今日はWORKは午後早くで一端休止して、皆を少し休ませようと決めていたのでその旨伝える。14時半迄集中してWORK。14時半台北、ワイマールへ多くのメールを打ち、すぐに皆で発つ。地下鉄で渋谷へ銀座線で浅草へ。16時前浅草駒形どじょうで疲れ休めの暑気除け大会。皆うまそうに良く喰べて、良く飲んだ。それを視るのも嬉しいものだ。18時頃終了。仲見世の一番屋で飯田さんにあいさつして、再び地下鉄で渋谷に。散会。研究室に戻りWORKするも良し、家に帰って休むも良し。19時半烏山帰着。区民センターに寄ってから世田谷村に20時過戻る。今夜はわたくしも完全休養、スケッチもせず。

九月十八日

7時半離床。良く休めた。メモを記し、新聞を読む。大した記事もなし。石山研サイトはTOPページに「世田谷にうんこの神様登場か」のわたくしのスケッチをONしているが、これはやっぱりいささか臭うので今日でTOPの座を降ろして、以前描いた少しはキレイかも知れぬドローイング(現在世田谷式生活・学校のページの頭にある)に代えたい。

今日は午後に二組の来客が予定されている。世田谷式生活・学校の4、生垣2の原稿を書く。1日1本書いてやろうと思ってはいるが、出来るかどうかは解らない。

882 世田谷村日記 ある種族へ
九月十六日

出掛けに世田谷村の生垣の写真やらをとってから発つ。この生垣と三階テラスの緑棚は価値がある。河回村の街角を思い出した。何故かな。

烏山駅近くで下田病院の保さんにバッタリ。夜勤明けだそうだ。11時研究室打合わせ。14時迄。その間にヴィンセント来る。台北チームは動いているようだが、少しテコ入れした方が良いか。15時半長崎屋。常連の方々にチラシを渡し説明。16時40分宗柳を経て、区民センターへ。3Fの管理センターでチラシを置いてくれる様に依頼。

風々ラーメンへ。オカミと話す。昼に山田が寄ったとの事。少し実感として動き始めた。20時半世田谷村に戻る。

九月十七日

5時半離床。涼しくなって夜はグッスリ眠れるようになった。疲労の回復も早いが、今日はゆっくりしたいが、身体が自然に動きそうだ。自然の命じるままに動く事にする。

6時過再び生垣の写真をとる。朝の光で草も花々も美しい。

7時半過生垣について小文を書く。世田谷式生活・学校にONする予定

9時前諸々を終えて小休する。10時世田谷村発。

881 世田谷村日記 ある種族へ
九月十五日

11時半研究室。すぐに昨夜のスケッチを伝達、今日中に台北に送信するように依頼。14時なんとかまとまりそうか迄にはなる。そろそろ、わたくしのスケッチ作業は終わりにしないと覚束ないのだが、次から次へと問題が発生するのだ。

15時疲れてボーッとしてる時に世田谷式生活・学校の方のアイデアがボロリと落ちた。子供とお母さんの祭に、もちのうんこの神様に登場してもらおうか?という、我ながらゲへヘヘヘ面白いなコレはのバカ・アイデアである。

早速スケッチして、文章まで書いてしまう。山田にサイトONを依頼。

すぐにONされる。

16時前研究室発、ハードなWORKを続ける皆を残して山田と烏山へ。駅前で別れて、区民センターを抜け、風々ラーメンへ。18時開店だそうだが、もぐり込む。18時半山田、街を廻って、そして来る。子供の集まりそうなところにビラまけと言っておいた。なかなか難しい指示であった。アトリエ・クローという画塾で1時間もつかまってしまったらしい。

この青年とはここ一週間が何かを伝える山だなと思った。それで色々と説教たれたが、伝わったかどうか。文化人類学に触れて、電通へ行き戻ってきた男で、そこらのバカ学生とは一味違うだろうと目星はつけていたのだが、コレが大外れでどうにもならないバカなのである。

「おマエどうして、そんなにバカなの?」「分りません」の話の堂々巡りが続く。

要するに、今の瞬間にやっている事が人類学的アプローチなんだ、と言うに尽きるのだが、それがわからないのである。一向に結びつかぬのである。いつも学問は学問、現実は現実と分離してやがる。だからバカヤローと言うのである。

ここの豚骨ラーメンは美味だがチョッと塩辛い。

オカミは長崎屋のオバンを知っている。しばらくはここを拠点に人間のパイプを作っていくつもりである。あと2週間だからなあ、第10回の世田谷式生活・学校の開催までは。10回目の節目の学校だからこそ、ミッチリやりたいのである。

20時前世田谷村に戻る。

九月十六日

今日は日曜日であるが関係ない。11時に定例ミーティング。昼過ぎに来客の予定。その後、風々ラーメンに寄るつもり。しばらく長崎屋には行かない。ラーメン屋の掛け持ちでは体に良くないのである。5時半離床。日経の文化欄に早坂暁さんが『生きたくば蝉のよに哭け…』を書いている。

一読、良い文章だと感心する。チョッとセンチメンタルな俗臭のあるタイトルなので嫌ったが、中はそれとはいささか異なる。神風特攻隊に多くの若者を送った外道の統率者(特攻隊のアイデア故に)としての自覚があった大西瀧治郎中将のハナシである。中将は終戦の日にハラキリをして果てた。しかも首ハネの介錯はするなと駆けつけた部下に言い渡した。長く苦しんで死なねばの自覚があった。中将が送り出した特攻隊員は2500名を超えた。

中将のハラキリは夜半で絶命は明け方であったそうだ。

凄ェ武将がいた。そうやって責任を果たそうとした。早坂さんは神風の神話もどきは何処からくるのかを考えているそうだ。

早朝鳥の鳴声が多い。

わたくしの亡くなった母には兄がいた。終戦間際に沖縄の空で亡くなった。志願しての神風特別特攻隊であった。飛び立つ直前に正装して、まだ赤児のわたくしを抱いた写真がある。母の兄弟の中では出来の一番良い人間であったと母は言っていた。だから、わたくしは神風特別特攻隊にはいささかの関心がある。オジの直接の記憶は無い。でも語り継がれたわたくしにとっては歴史がある。

良く、ウチに来る鳥はそのオジの生まれ変わりなのである。

880 世田谷村日記 ある種族へ
九月十四日

10時半研究室すぐに打合わせ。WORK続行。夕方梅沢良三先生来室。打合わせ。その後20時半迄打合わせ。全員に疲れが見えるので夜食休養をとる。21時前味王で休む。24時前世田谷村着。

シンプルな日々が続く。

九月十五日

6時半離床。すぐにエスキス、スケッチにかかり、9時前まで集中。東京チーム、台北チーム、ドイツにも何とか今夕迄に最終情報を突っ込みたい。

東京は頑張っている。わたくしも頑張っている。面白いからなあ。

今日の午後は疲れが最高頂になるだろう。東京駅見学にでも出掛けようかな。

昨日は山田とも打合わせを続け、世田谷の仕事も少しは形になってはきた。

ここで形といっているのはFormの事を指して言う形ではない。

思考の形式の形だ。

難しく気取って言うのではない。思考の形式の品格の如きが大事だろうと言うのを、山田には伝えているのだが、猫に小判かヒゲナマズにメメズのエサ程に宙ぶらりんの反応で覚つかぬ。こっちの方は世田谷区の母と子供、そして老人の為の広場の使い方というテーマだ。

ささやかな、そして小さいと思いがちなテーマ程実は困難で、身体をいためるなあ。

3階テラスの朝顔の花が四色咲き昇っている。昇り龍ならぬ昇り朝顔だ。10時半発。

879 世田谷村日記 ある種族へ
九月十三日

花小金井下車、小平の吉元医院10時過着。この医院は流行っている。お年を召した看護婦さんも皆感じが良くって温かい。今朝はかゆみ止めまで老先生にみていただいた。老先生は漢方の治療医でもある。血糖値検査は良い方向ですとの事。

11時発。電車内でスケッチ続ける。12時過研究室。打合わせ。13時T社来室。

14時打合わせ了。再びミーティング。皆良くやってくれている。16時半発、烏山へ。山田と落合い長崎屋にて志村さんと打合わせ。路線を超えた風々ラーメンに移る。女主人の高橋さんがこの辺りの飲食店組合のボスである。色々と協力して下さる事になった。ただ長崎屋近くの場所は再考を要するようだ。

店々で集まっている人達の肌合いがまるでちがうなあ。20時過散会。山田と別れて世田谷村に。研究室と連絡。

九月十四日

5時半離床、新聞を読みスケッチ作業。WORKは追い込みにかかる。

烏山地区の件は今日の山田の頑張りにかかっているが、大丈夫かね。やり抜いてもらいたい。7時小休。3階のテラスに出て、南の緑の棚をしげしげと見上げる。

朝顔のつるが屋上に立てている不整形ポールに迄巻きついて空へ昇っている。

キュウリ、ヘチマ、ゴーヤが沢山実をつけている。

9時全て一段落して再び小休する。30分程休んでから発つ予定。

烏山神社にお参りしてからWORKへ出る。

878 世田谷村日記 ある種族へ
九月十二日

10時40分研究室。打合わせ。又も、ムスビだけ食べながら13時迄、断続的に。いささかリアルな判断力が小さくなってきたような気がして、でもしきりに手は動きたがっているので、絶版書房アニミズム紀行6に7冊、紀行7に3冊、記憶の旅と題したドローイングを10点描いた。3点位迄は新鮮で面白いのだが、その後は仲々の努力がいる。クソ忙しいのに何やってんだと思いながら突き進む。それでも購入していただいた方をそんなに長くお待たせしてはいけないので頑張る。イヤーッ辛いなと思う頃になってから、我ながらマアマアいいのじゃないかと思われるモノが出来るので不思議だ。

9月12日のドローイング」と題した小エッセイまで書いてしまった。

WORKの合い間に山田と世田谷式生活・学校の打合わせも細切れに何度か。

台北、ワイマールよりメール入る。コミュニケーションの速力はスーパー・プロフェッショナル・レベルを要求されている。わたくしも、何処かでバッサリ遅い速力のまんまは切り捨てなければならないのかも知れぬ。

出来るだけのオペレーションを済ませた後は居ても仕方ない。17時半研究室を足早に去る。18時半世田谷村到着。すぐソファーに横になる。出来るだけ体調は整えておかねばならない。

山口勝弘先生より私信届く。随分昔の雑誌の記事をつい先日の出来事の如くに記しておられる。もう自由自在だなあ。

20時よりスケッチWORKを少しばかり。チョッとしたアイデアが浮かんだので。21時15分スケッチをストップする。重要な方向性が出たと思う。こんな時には頭が興奮して良く眠れないのだ。明日は小平の吉元医院での定期検診があるので、酒は飲まないと決めているので、やっぱり眠れる本を読む事になるか?

九月十三日

8時離床。昨夜のスケッチを見直してみる。もう少しだなあ。9時には病院を発たねばならぬので、電車の中でスケッチをまとめる事になるのかな。

夕方は烏山で志村さんと紙芝居、もちつき大会の打合わせをするので今日は動き廻る必要もある。昨夜は短時間ではあったが良く眠れたので助かる。

昭道住職より電話いただき、元気そうで声に張りが戻った。あの入院は何だったのかなあ、と元気そうなんだが心配は心配である。

他人の健康の事は出来るだけ書くなと家人に注意されてはいるのだが、でも仕方ないのである。人間年を経てみれば生死の事が身近に迫るのであるから。

電車の中でアイデアの整理をして、病院後それを研究室、他に伝達しなくてはならない。30分でまとめたい。9時前発。

877 世田谷村日記 ある種族へ
九月十一日

11時研究室。WORK、打合わせ。にぎり飯を食べながらつめる。15時半前、梅沢良三先生来室。構造、他の打合わせ。昨日迄の案が少し変形する。

18時迄。20時迄WORK。21時前世田谷村に戻る。遅い夕食をとる。

遠雷がとどろく。福岡地所の平塚さんに連絡。色々と御足労をおかけしている事の御礼。台北、ワイマールと連絡。23時前、スケッチ修了。横になりWORK。24時過休む。結局眠ったのは02時頃か。

九月十二日

7時半離床。スケッチ。8時半ストップ。これでOKか?随分微変形を重ねたが、当初のアイデアは生き抜いている。頭の休みのために新聞を読む。9時前朝食、10時前世田谷村発。11時前研究室。

876 世田谷村日記 ある種族へ
九月十日

9時ブラリ散歩。町内巡回して「第10回世田谷式生活・学校」のチラシを配る。何軒かの郵便受けに、チラシを差し込んで歩いていたら、何と入院している筈の小川くんにブチ当った。

「どうした入院しているんじゃないのか?」

「(ふざけんな)もう退院した。今日から会社行くんだ」

とえばっている。(ふざけんな)というのは勝手なわたくしの憶測の言である。少しやせて、顔色もテカリが消えて流石に少しは上品になっている。

「オマエのところへ行って、御両親にどんな具合か尋ねようと思ったんだ」

と言ったら、顔をニカーッとさせて嬉しそうであった。誰でも気づかわれていると知ると気持良いらしい。チラシは皆配り終っていたので、と言っても数枚だが、

「チラシ、できたんでよろしく頼むぜ」

「わかった」

との事であった。犬も歩けば棒に当たるとは良く言ったもので、人も歩けば小川君に当る、であった。町は観察するモノではなくって、チラシを配るモノである。

橋本大阪市長が日本維新の会を旗揚げするんだったら、わたくしも小川君を立てて烏山一心太助の会でも立ち上げるかと思い付いたが実行はしない。今の小川君には冗談やブラックでも灰色でもユーモアに如かぬモノを受けつけぬ気配がある。

10時過ぎ福岡地所のTさんに連絡して少し計りの依頼事を。

途中を飛ばし、夕刻宗柳前のタマの主人、石森さんと会う。愛猫の話を聴く。政治の話、日本の景気の話、若者の話、世田谷区の話と話は実に良く展開するのであった。良く世相を観察しているのに驚く。19時世田谷村に戻る。明日からいささかなハードなスケジュールになるので今夜はゆっくり休みたい。

九月十一日

5時前離床。新聞を読む。TVを視なくなったので社会の風聞はほとんど新聞から得るが、今朝も喰い足りぬ感あり、コンビニ迄散歩。朝日、産経2紙を買って帰る。お下品な政治というより政局の季節で、こんな時は新聞記者の記事よりも、記名入りのコラム、論説が面白い。

歴史家の山内昌之氏が一面にコラムを書いていて、政治家の器量、身の処し方に触れている。松野頼久氏は元民主党首、総理の鳩山由紀夫の側近であった。それが今、日本維新の会へ籍替えするのは、返り忠であり、石原伸晃が谷垣自民党総裁を幹事長として支えてきたのに、谷垣を裏切ったのは明智光秀と同じの謀反である。そして崩壊間近であろう民主党総裁選で、細野豪志が立候補を見送ったのは、反逆をギリギリのところで踏みとどまったと、記している。わたくしの如き政治バカにも解りやすかった。産経新聞一面、歴史の交差点。

これを読んで産経新聞は恐らく自民の石破茂を総裁、そして次の首相として推しているなと知れた。書かせたのは産経新聞である。

昨夕、御一緒した近所のタマの主人石森さんもどっちかと言うと石破支持であり、歴史学者、政治史なのかな、それとタマの主人は同じ意見であるのも知ったのである。世田谷区長の保坂展人はもう一期区長やらねば税金ドロボーだとも言った。うちの無芸大食の猫にカンヅメのエサをやったら、たっぷり残しやがった。近くのタマはこんな安いカンヅメは喰わせずに特別に低カロリーに調理した、それでもエサなんだそうで、最近なついてしまった野良猫に、ウチの無芸大食猫に与えているカンヅメを与えているとの事。タマとウチとはどうやら格差社会なのも知るのである。

世田谷村の生垣が仲々良い季節になった。足許におしろい花の紅、セージの花が乱れ咲いている。青い露草もひっそりと咲いている。早朝の世田谷村の生垣廻りは良い。

Xゼミナールの難波和彦さんの日記をのぞいてみたら、難波さんが何か理不尽だと思うような事があり、ムシャクシャしたのでカントの純粋理性批判を読んだが、読めなかったと書いていて、失礼ながらグフグフと笑った。

不愉快な事があって、どうしても気持が収まらぬ時にはカントではなく、飼い猫の頭をポカリとなぐるか、蹴り上げてやるのが一番なのに。

童謡にもあるでしょ、「♪山寺の和尚さんは、猫をかん袋に押し込んで、ポンと蹴りゃ、ニャンとなく」って。

875 世田谷村日記 ある種族へ
九月九日

8時離床。どうやら今日は日曜日であるらしい。曜日を間違えていた事に昨日気付いた。昨日はドイツからヨルク・ネーニック、午後来室。打合わせ。17時了。今日も13時に会わなければならない。夕方はメキシコからのホセとも打合わせなので、午後は目一杯になるだろう。9時に渡邊さんに電話して時間の微修正を依頼した。

筆記具について。

何年も前迄は原稿は全て万年筆で書いた。モンブランの重厚な奴でTさんからのいただきモノである。字が下手なので太字でたっぷりリインクがしみ出るこの万年筆は下手な字が少しは美しく見える時もあり、気に入っていた。

ある日、どうやら飼い猫がいたずらして何処かにこの万年筆を隠した。神隠しにあったように姿が消えた。仕方なくそれからはボールペンになった。しかしどうしても良ろしくない。書いたモノに愛着が持てぬ。

ドローイングと称して下手な作図らしきもしている。これは筆と墨汁、うす墨、そして数種のセレクトした絵の具、そして水溶性の新型ペンで描く。時にクレパスや何やらと併用する。熟達はせぬが、これに慣れるのにほぼ一年近くを要した。

筆記具は身体にとっては極めて保守的なモノであるのを知った。

当然、世間様の大勢に従いコンピューターでの書き字を三日程トレーニングして、これはスッパリ止めた。

キーボードをたたく動きが一向に思考を刺激せぬのを本能的に知った。スティーブン・キング、トルーマン・カポーティの流れのアメリカの流行作家の文体(原語で読んだわけではないが)は、アレはタイプライターにルーツを持つキーボードたたきから生まれる。ヘンリー・ミラーもそうなんだろう。でも、わたくしはどうしてもあのスタッカァートの小間切れがどうも馴染まない。文豪を持ち出して偉そうな事を記しているが、こんな雑文だって記す時はやっぱり文豪気取りでいたい。

ヘミングウェイに端を発するらしい、あの歯切れの良いスピーディーな文体はどうも身体になじみにくい。アレは空気の乾いた、ドライな人間関係に徹した風土の生み出しものなのだろう。Xゼミナールに記してもいるが、推理小説を生んだ風土が、同様に作り出したプロテスタントの論理性の結晶なのかも知れぬが、まだ良く解らない。

しかし、推理小説の元祖エドガー・アラン・ポーがフランスの象徴派詩人ボードレールによってヨーロッパに紹介されて評価されたのはその論理性の小気味良さとハイブリッドした黒猫やアッシャー家の崩壊の、死、破壊をベースにした、犯罪もその一部なのだが、ヒンドゥー教で例えればシヴァ神の如くの原理を嗅ぎとったからだろう。

幼い言い方に聴こえるだろうが、人間は全て、古来誰一人として例外なく死に向けて生きている。崩壊と静止に向けて生を歩んでいるのを、エドガー・アラン・ポーは良く示し得た。そんなボードレールに反応したのが、小林秀雄等の仏文の学徒であった。良く知られるように小林はその後宿命的に中原中也等と出会った。女性問題等にストラグルされ、もみ苦茶になった。ボードレールやランボーにいかれた人間のこれも天命であったのだろう。

ヨーロッパはその更なる成熟にエドガー・アラン・ポーの死と犯罪への好奇心を必要としたとも言えようか。そんな歴史に本能的に気付いていたのは、小林秀雄よりもむしろ永遠の未完、坂口安吾であった。と、この辺りの事は、Xゼミナール、推理小説と保存・復元2を併せて読んで下さるともう少していねいに説明しようとする気持だけは伝わるだろう。

マ、日曜日の朝である。つまらぬデタラメを書く自由は許されたい。垂れ流し続けている雑記も、もう少しでよどんで堆積する汚泥位にはなるだろう。

九月の風が2階を通り抜けていて、壮快である。

午後、研究室にてヨルク・ネーニッグと打合わせ後、ホセ来室。ホセと佐藤と新宿味王で会食。キルティプール計画について話す。ヨルク、渡邊は研究室に残りWORK。21時前世田谷村に戻る。

九月十日

6時半離床。昨夜はチョッとした出来事が発生し、対応があわただしかったが、一応の手は打った。どうなりますか。

今日も穏やかな良い天気である。秋になったな。

ベトナムより連絡が入り、やっぱり苦闘しているようだ。ベトナムにしても何処かにしてもやっぱり価値観らしきが本格的に異なる民族と進める仕事は、日本人だけで和気あいあいと和みながら進める場合とは違う問題が当然の如くに出現する。すこぶるつきの柔軟な精神が必要になる。今更思い知るのである。

Xゼミナールに鈴木博之、第19信「復原と推理とオーセンティシティ」がONされている。歴史家に気持が乗ってきたなの評は失礼かも知れぬが、やっぱり東京駅の復元(原)は凄いのだから、色々と教えて貫うチャンスであるのは間違いではない。

シシリアのアグリジェントの遺跡を巡ったのは、度々記すが強烈な記憶として残る。アグリジェントの丁度良い大きさと思われた神殿を前に、実はアクロポリスのパルテノンは神殿としては異常に大きいんだの言は良く覚えている。その異常さに多くの建築家達が鼻面を引き廻されてきたのも、考えてみれば不思議だ。

その異常さの正体は何か?とヘッポコ推理を巡らせてみたくなるものである。

アグリジェントの遺跡の丘からは地中海が間近に眺められた。

フェニキア海洋国家の艦船が往来していた地中海である。

遺跡には多くの石片と共に野あざみらしき花々が咲き乱れていた。

アッ、花が咲いているなと、見た瞬間、折角地中海上にフェニキア海洋国家の艦隊の幻影を視たのに、黄色い花も無いだろう。自分は情けない日本人だなあとも思ったりしたのを思い出す。シチリアに来て、くたびれて宿借る頃や藤の花、じゃあねと我身をチラリと振り返ったのだった。

思いかけぬ乱戦模様の現実の只中、シチリアの旅を思い出したりして恥ずかしい。まことにメモを記す事は恥をさらすのと同義であるのを痛感するが、噴き出るかゆみと同じである、メモは。かくなと言われても、ついボリボリかいてしまうのである。

874 世田谷村日記 ある種族へ
九月八日

6時半離床。新聞は読み流す。昨夜は20時頃迄新大久保近江家でXゼミナール。鈴木博之、難波和彦両先生と話す。

両先生共にお元気そうでなによりである。『JR EAST 9月号 特集 東京駅』いただく。「復元の意味」鈴木博之、「赤レンガ駅舎は何故美しいのか」高階秀爾他のエッセイがある。

Xゼミナールに書き始めているが、東京駅保存と復元の顕現は実に重要な意味を日本文化の現在にもたらせるだろう。その事をいささか愚鈍に書き続けたい。あいつ何を今更書いているんだろうと、いぶかしむ人も少くはないだろうが愚鈍さは大事である。と自分に言い聞かせる。

雨空で涼しいが、湿気が多い。

昨日の夕方、原稿用紙がどうしても欲しくって新大久保の通りに確か一軒だけあったと記憶していた文房具屋を探して歩いたが、遂に無かった。姿形もなくなっていた。全て韓国料理屋、グッズ店に変っていた。歩いていると、ドスンドスンと威勢の良い娘達にぶつかるのであった。この娘達、オバさんも混じって道端でアイスクリームをなめたりしているのだったが、中々の変貌振りで呆然とした。地下鉄を利用するようになってから、この通りは歩かなくなっていた。

アッという間に韓国人街に変化した。

ただ一軒だけ、不思議な金魚屋さんだけが異和感横溢させながら昔通りに残っていた。金魚屋と言っても熱帯魚屋さんでもある。でもガラス水槽や金魚鉢の数々を街頭に並べて、これは保存と復元なった東京駅程ではないが、所謂韓流の店々とは、まるで異なる風景を作り出していて頼もしいものである。金魚と熱帯魚という国籍不明さも良い。金魚に日ノ丸は似合わない。

873 世田谷村日記 ある種族へ
九月七日

7時過離床。東京新聞に長田弘があんこについて書いているのに眼がいった。小さな本の大きな世界。あんこの世界である。

酒井駒子さんのイラストが良くって、それでオヤッと思った。ウサギが寝ころんで、両足を壁に突っ張って、それで本を読んでいる図である。

わたくしとした事が恥ずかしながら、可愛いじゃんなんて思ってしまった。うちの猫もこれくらいの芸をしてみろと言いたい。大食無芸の駄猫だ。コイツは。

うさぎが壁に両足を突っ張っているので思い出した。

昨日こんな事があった。

大学地下スタジオの打ち合わせ。五月女がやっているキルティプール計画、終の棲家の動画作りは仲々佳境に入ってきた。ようやく恥ずかしくない水準になりつつある。

それはそれとする。来週には一端をONできるであろう。

終の棲家の前に張ったソーラーバッテリーの天幕の下。

キルティプールのそれは良い風が吹いていて天幕はゆらいでいる。その下のクリシュナ老人とイシヤマ老人の二つの影。(アニミズム紀行5参照)クリシュナは立てヒザの姿でイシヤマはあぐらをかいている、と五月女に言ったら、五月女いはく「立てヒザが解らない」

エッ、君、ホンコンでは人間は立てヒザついて座ってなかったかといぶかしむ。

どうやら本気で知らぬと言う。

そしたら電通出戻りの山田が「エッ、知らないのか、立てヒザと言うのはこうなんだ」と、床に座ってスタイルを示そうとする。彼は年長者だから教える義務があると思ったのであろう。偉いなぁと感じ入った。

ところが、ところがなんである。

その立てヒザ・スタイルと言うのが、両のヒザを床に、要するにヒザまづく感じ、感じどころではなく、そのまんまなのであった。

ギャーと絶叫する。

君、何してんだ、そんなスタイル、イスラムやインドの連中していないだろう。立てヒザというのはこうだと、床に座り込んで示したのでありました。

小さな本の大きな世界(東京新聞9月7日朝刊)の酒井さんのイラストは、山田の両ヒザ立てというオリンピックなら床運動の新技とも言える不気味なスタイルが、ウサギが両足を突っ張っている姿で実にほほえましく示しているのであった。

勿論、長田弘の文章はキラリキラリの連続で素晴らしく、早速切抜いて保存する事にしたのでした。

しかし、色んな驚きに満ちてますなあ。

佐藤のところの犬が亡くなったそうだ。17才であったと言うから天命であろう。17才と言えば彼が生まれてすぐに、近くに居たという計算になる。気落ちするのも無理はない。それでウーシーという名であったらしいが、ウーシーの亡くなったのを残念だったなの会をすることにして、学外近くのもんじゃ焼きの店に初めて出掛けた。17年も一緒にいたんだから、その空白は大きいに違いない。ビールを飲んで、残念だったなあ。

夕方、柳宗前の石森さんのネコが太り過ぎなのもついでに心配して世田谷村に辿り着いた。

メールのやり取りがワイマール、台北と活発になってきた。

今夕は新大久保近江屋にてXゼミナールの会合がある。

872 世田谷村日記 ある種族へ
九月六日

6時半離床。すぐにXゼミナール、鈴木博之17信への応信を書き始める。9時半過、疲れて中断、それまでを研究室に送付して、日記メモを記す。いつも朝10時迄の時間が一番忙しい。

今朝はXゼミに没頭したので、新聞は日経、東京の2紙だけ。

昨日、久し振りに朝日を買ってきてそれを読んだ家人が「やっぱり朝日とってみようか」とつぶやく。恐らくホンとチョッとした断片からなのであろう。

昨日は昼前に地下スタジオで相談、その他をすませ、雑事にて外へ出た。

最近、東京駅の記事、広告が目立つようになった。喜ばしい事である。

先日見学した東京駅ステーションギャラリーの新スペースは中々に良いので、良い企画もさる事ながら、多くの人が訪ねる事を望みたい。

今日は暑くなりそうだが大学の地下スタジオに出掛ける。 今週一杯研究室は空調工事で立ち入れないのである。

Xゼミナール鈴木博之17信の冒頭に、天馬空を行くが如きの文章であると、わたくしをからかっている。 彼が書くと「鈍馬空を行く」と読めるから不思議である。

871 世田谷村日記 ある種族へ
九月四日 その2

グデグデしていたが、16時半突如アイデアがまとまりそうになり、急いで画用紙3枚にスケッチ。大き過ぎて研究室に送付出来ぬので、コンビニに出掛けてA2→A3に縮小した。研究室に送付。これで今日は眠れるだろう。17時半修了。

昨夜から、2、3冊繰り返し読み過ぎだと思われる本を再読する。恥ずかしいので本の名は記さぬが、ようやくむずかしく思える本を理解できるような状態になってきたとは思う。謂わゆる古典らしきは何度も読みこなさぬと身にはつかぬ。

九月五日

昨夜は良く眠った。

6時離床。新聞を読む。何だかつまらなくなり、なにしろ大阪維新の会から東国原等が衆院選に立候補するというのだから、そりゃあつまらなくなるのも道理なのである。それで再びコンビニに全国紙を買いにゆくことにする。ヤングなでしことやらもドイツ女子にコテンパンにやられて、そうは世界は甘くないのだろう。

宗柳は今日はシャッターが閉まっていた。産経と朝日を買う。小路で久し振りにネコのタマのオヤジ石森さんに会う。同じように新聞を駅前に買いに出ていた。ヤアヤアと再会を喜ぶ。オヤジはスポーツ紙である。

小川くんがどうやら入院らしいが、周囲はどんどん病院化社会である。タマも太り過ぎて病院通いになりそうだとの事であった。

社会がつまらんから新聞もつまらんのか、新聞記者がつまらんから政治家もつまらなく見えてしまうのか、恐らくその両方である。新聞こそ大改革しないと、これはただただ惰性だけで生き延びているだけだ。わたくしはすでにTVを捨てて一年以上経た。TVの無い日常は随分わたくしにも変化を促した。良く本を読むようになったし、近隣の人達との付合いも増えた。

日々の細部へとなにがしかの意が働くようにもなった如くの気はするが、これはどうかな。

昨夜、一関ベイシーの菅原正二さんと話した。今夏は同一日に6本の依頼原稿が集中したとの事である。

ベイシー(菅原正二)が書くものは近年みがきがかかってきて頼もしい。

知り合いで一人くらいは気がつけば文豪であったらしきがいたら良いと思うが、菅原正二はその第一候補かも知れない。何よりもその活動範囲が店から一歩たりとも出ないところが良い。どうしたって内へ内へと突き進むしかないのである。内へ内へと突き進むと言っても関心の対象がモダーンジャズであるから、中国6千年の歴史とホラを吹くわけにもゆかぬ。

せいぜい1950年代どまりなのである。

マア、考えてみれば日本の戦後文化と同じ程度のものなのかも知れない。日本の戦後建築と置き換えて一向に差し支えないのである。実に底が浅い。あるいは上げ底なのである。

だから、菅原はもしかしたら、ここ40年程で彼の道を極めてしまったのかも知れぬ。モダーンジャズしかもその音を再生すると言う彼の一生賭けた分野のピークは明らかに1950年代がピークであったようだ。

彼の最近の味というか、いい感じと言うのは実に径を極めてしまった人間のあきらめみたいなモノなんだろうと思う。ベイシーの真暗な店の中で、40年良くまあ、あきもせずやってきたなあと、つくづく思う。

それは彼がすぐ径(道ではない)を極めてしまって、それであきらめたからであろう。もうこの先は無いと。ライカもスピーカーも録音技師も1950年代に最高峰を極めたのである。

それを知り尽してからの菅原はマア一種のコレワ、抜けガラなんでありましょう。その清々しさというか、品格らしきにようやく世間一般が気付いてきたのであろう。

それで一筆たまわりたいの注文、門前列を成しているに違いない。

活字文化も滅びつつある様だ。

菅原のレコード文化と同様に。

昨夜、彼は野口久光先生の本がどうしたとか言っていた。野口久光先生も忘れ去られて久しい人間である。忘れ去られた人間への愛情に固執する菅原も又、近々忘れ去られる事を知尽している人間なのである。

870 世田谷村日記 ある種族へ
九月四日

7時離床。たっぷり湿気を含んで3階テラスの植物が嬉しそうである。笑い声が聞こえそう。新聞を読む、自民党総裁選は事実上の時期総理への顔選びなのだろう。昔の如くの派閥力学が動いているようだ。考えてみれば政治家という職業位根無し草はない。明日の無い浮草稼業だな。

昨日3日は予定通り志村喜久男さんにお目にかかり、世田谷式生活・学校主催の烏山祭事計画の相談をする。大方の同意を得る。10月28日の日曜日には芦花祭りで20人規模の餅つき大会を実施するそうだ。

又9月23日、24日には御神輿巡業を実施するそうで、そのビラ300枚を今日配ってきたとの事。簡単そうに見える町内の祭りの運営も実は大変な細やかさを要するのを知る。志村さんは烏山下町睦会の会長でもある。烏山神社の例祭では本殿に上って酒を飲み交わしているような連中なのだろう。これはえらい事を始めてしまったなあとギクリとするが、今更後には引けないのである。ディテールを少し計りつめていくと最小でも10名程の手が必要であり、研究室の若い学生達の力を借りねば覚束ぬなコレワと痛感する。渡邊、山田にこの辺りの感触をつかまさねばならない。

キルティプール・ギャラリーの次のSTEP、終の棲家の計画はようやく軌道に乗ったやも知れぬ。わたくしのコンピューター理解も少しは進み、動画作りは佳境に入った。

ツィンマーマンと李祖原に「ハイライズの可能性に関する研究会」準備委員会の提案をする。ワイマール、台北、東京にブランチを持つ事としたい。

色々と他にも企てているのだが、3つの都市間の連絡は容易ではないが、未知の領域であり、面白い。しかし、烏山で地をはう如くにやろうとしている事といささか異なる世界なのではある。どうなりますか。

9時過、新聞を買いにコンビニへ。産経、読売の2紙を買う。100円と150円。50円の差は奈辺にありや否や。日本の元全国紙は記者の意見を普及させようとする紙面作りである。

途中、道すがら宗柳の前を通りかかったら、オヤジがソバを打っていた。帰りに入り、そば打ちのガラス越しにトントンとあいさつを交わす。

869 世田谷村日記 ある種族へ
九月二日

昨夜は雨が降り、3階のヘチマやキュウリも今朝は元気そうだ。南に離れた処にある駐車場から眺めると世田谷村は再び少しばかりの緑におおわれている。クズの葉にそれこそ呑み込まれたゲゲゲの鬼太郎ハウスみたいな感じよりは少しはましな様ではある。定期購読している新聞をじっくり読むもつまらなく、物足りずにそうか産経新聞を買って読もうと、コンビニに出掛けた。途中宗柳を通り過ぎたら、シャッターが開いていてオヤジが朝早くから何か仕込みをしている背中が視えた。一心不乱に仕事してる職人の背中はいい景色だ。声を掛けようと思ったが、マアお茶でもとビールをすすめられるのが関の山なのでそれは避けた。朝からお茶(ビール)を飲んでたら人生おしまいだからなあ。

昨日は世田谷式生活・学校の件で長崎屋に寄った。Mさんが思いつめた顔で、ついに腹を切る事になりました。長のお別れです。と眼玉に異様な光を込めて言う。どうやら腹に出来たコブを切るらしい。Sさんが金かかるだろうと聞いたら、ウン百万円に少し欠けるぜ、こたえるぜと答えた。長崎屋の常連らしきのほとんどは歴戦の夕陽のガンマン達であるから、治療費には詳しい。こうすれば10万円は返ってくるぞとか、遠慮しねえで値切れよとかのアドヴァイスを受けていた。

「でもアンタ4日に心臓の検査なんだろ、こんなところで焼酎飲んでていいのか?」と訳知りにさとそうとしたら、「今更、酒やめてどうなるもんじゃネエだろ」と言う。「でも、タバコだけはヤメロ、しかもショートホープ、ブカブカ吸うのはヨセ」とSさんと共々に更にたしなめたら「今更、タバコ止めてどうなるもんじゃネエ」といいやがる。

じゃあ煙に巻かれて死にやがれ、さっぱりしていいやと言ったら怒って帰っちまった。

「本当は恐くて仕方ネエんです。俺手術生まれて初めてだから」と素直なのは、マア、焼酎2杯までなのであった。「アイツは呑むと人が変わる。俺の事を呼び捨てにしやがる」とSさん。Sさんは数度にわたる大手術をかいくぐって、来週は山梨に法事に出掛ける。クツを新調したが12000円もした、どうだコレと話しは例によって落語の域に移った。

全世田谷野球倶楽部の連中はもう70歳超えて野球の話ばっかり。

あの審判はイマイチだったとかなり専門的な話しに明け暮れていたのだった。

宗柳前を無事通り過ぎ、世田谷村に戻り、産経新聞をジックリ読む。

フジ産経グループは原発問題は実にあいまいであるが尖閣、竹島問題は深い。と言うよりも、先を言えば憲法改正、再軍備路線だコレワ。

東京新聞は原発問題への姿勢は明快だが、領土問題は少し力不足の感あり。しかし、他の全国紙の馬鹿馬鹿しさとは一線を画している。

両紙共に日経も加え、実に文化欄が充実しているのである。

山本夏彦翁は産経コラムを一押ししていたナアとフッと思い出したりもする。 娘さんの岡田しな子様より再びお手紙いただき、夏彦さんそっくりの文体だナアと感じ入ったりもする。文は人なりである。じっくり時間をかけて返信をしたためなければ、とまるで、利根の川風たもとに受けての、ひらてのみきさんみたいな心持になる。広島の木本一之さんより、広島での個展の知らせくる。

16時前、長崎屋に行ったら、又Mさんに会った。もう大手術をひかえて恐怖のドン底であるのだろう。でも、わたくしだったら大手術をひかえて酒を飲む愚かな、だけれどそうとばかりは言えぬ振る舞いは出来ネエーなと感じ入るばかりである。

では、サラバ、又会えるといいねと別れた。

九月三日

5時半離床。新聞を読み再眠、9時半メモを記す。世田谷のすでに伝統の如くになっている雑居まつりのポスターが手元にある。世田谷式生活・学校も参加したら良い。そのスケール感を体感したら良いと思う。もう37回、37年の歴史を持つ事になった催事である。今日は午後遅く、世田谷式生活・学校の小さな催事の初打ち合わせを志村さんとする。

次回、第10回世田谷式生活・学校は9月30日(日)に烏山区民センター3F集会室で開催される事になったが、話しする、つまりは集まってくれた皆さんに話しかけるメンバーはどのようになるのかなあ。色々と気になる点も多いが、考え過ぎるよりはマシだろう。少く考えて大きく実行したい。

空は輝くように晴れわたって、今日は暑くなりそうだ。

868 世田谷村日記 ある種族へ
九月一日

7時過離床。新聞を読み、石山研のサイトをのぞく。最近は自分の中をのぞく趣きがあり妙に新鮮である。こんな事で新鮮なのだから実に他愛ない人間である。とヘヘヘェと笑う。不気味になる。サイトおたくになったのかコレワ。

昨日五月女のキルティプールの終の棲家の途中経過を見た。恐らくカトマンドゥのジュニー・シェルチャンもこのサイトはのぞいているから、その眼になって見た。

ジュニーは今年プノンペンで亡くなったナーリさんの友であり、ナーリさんがわたくしに形見に残した人間である。恥ずかしい事はできない。今日は恐らく台北の李祖原は北京のMr.Kと共にチベットに居る。チベットとカトマンドゥは指呼の先である。機が熟する事を祈るばかりだ。五月女の仕事で気付いた事を記す。コンピューターの作図のそれが限界なのだが、線が明快過ぎて線、色の強弱が表現できない。線の太さ細さも均一で、色彩共々にズレ、ブレ、誤り、偶然が表現できぬ。これは言ってもせんない事であり、コンピューターを使う以上は逃れられない事ではある。

だから作図作業の単純なミス(これは五月女の感覚の問題でもあるが)を修正する以上に、やはりデジタルで細部をどんどん描き込む事をしなければならない。

終の棲家の室内、北東のコーナーの露出したシャワーの水しぶきをくるむ布地をウィリアム・モリスの壁紙を模したりのディテールが必須の事になる。この様な細部を更に積み上げてゆく作業を少しばかり集中してやった。部屋に置かれているTeaカップの装飾まで指定したり、食器の姿形まで選定した。

東の四角い窓に面した小さな仕事机に置かれた本のタイトルまで指定した。これらの作業が貫徹されると、あるいはされようとすると、このようなサイト上のWORKは異次元に入り込んでゆく筈である。それを楽しみにしている。細部を描き切る事によって五月女のWORKは積らぬ実物がとり囲まれている日常のリアリティーを超えてゆく事になるだろう。

昨日は又、来客したメキシコのホセと久し振りに話した。これからプロジェクトを共有するやも知れぬ佐藤研吾を紹介し、話し合いをワキで聞いていた。まだ記すべき事ではないけれど佐藤は勉強になるだろう。

ホセの混血の強さ、それはイサム・ノグチと同じだ。その進化した複雑なアイデンティティと何も無い0としての日本人の不可思議極まる弱さを眼の当りにしている。でもその弱さは民族的なモノであるから佐藤個人に帰するわけではない。

9月中にもう一皮むける機会が訪れる事を願う。そういえば五月女の高校は香港のアメリカンスクールであった。彼のナショナルアイデンティティの薄さは今は特権に化けるチャンスが大であるのを自覚(考える)したら良い。それは今の作図を洗練させる方向ではなく、細部への多様な想像力の問題である。 ホセとはメキシコに帰国する迄にもう一度会う事になった。

他に色々とWORKして昨日は暮れた。

今日はXゼミナールの草稿はひと休みとする。頭を別系統に切り換える必要がある。

世田谷村日記