2012 年 8 月
- 867 世田谷村日記 ある種族へ
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八月三十一日
7時半離床。すぐにXゼミナール「保存復元された東京駅3」にとりかかり、8時半過修了。昨夜3枚迄は書いていたのでアッという間であった。
書きたい事がある時の草稿は速い。読み直して手を入れるのはヤメにした。これはある種の勢いが我ながらあるようだから、そのマンマ、サイトにONする事にしたい。
編集者には間違いがある時はこのマンマでONして、それに編集者の赤字を赤字として入れて下さい。出来得れば超スピードの校正を願いたい。恥ずかしながら、わたくしとしても何年に一度あるか無いかの速力でやっている重要な仕事だ。
世田谷美術館より展覧会の知らせが届き開封したら、わたくしのドローイングも展示される、世田谷美術館コレクション展の知らせであった。少し面はゆいが照れている年ではない。ウームとつぶやき、これは出掛けてみる事にしたい。9月15日から11月11日迄の展示である。
今日はメキシコからホセ・太郎がやってくるので夕食を共にする事にしたい。
研究室ゆかりの若者が多く外国で頑張っているのが、わたくしの数少ない誇りであるが、ホセもその一人である。メキシコシティで頑張っている。建築のみならず「ドリーム・ハウス」というメキシコのアメリカへの出稼ぎ労働者の夢の中の家、そして現実を描いた映画を作ったりで、日本人には無いエネルギーの持主だ。
研究室OBの光嶋裕介より書籍2冊送られてくる。目を通したが印象他は記さぬが華であろう。自分をもっと大事にした方が良いが、その矜持、他人には言わぬプライドがあるかどうか、なければこんな風なにぎやかなチャラチャラ路線でやるしか無いだろうが、チャラチャラならそれで更にチャラチャラの中を生きて抜きん出なければアブクとして消えるしか無い。敢えて記す。実際、石山研卒も今や多士済々で便所の脇の毒ダミやらダボハゼやらでにぎやかになってきた。皆、健康にだけは留意して無い頭をふりしぼって生きてもらいたい。しかし、健康だけは留意せよと、さかしらに言い放っても健康の神の方で勝手に見放す事も多いのだ。
- 866 世田谷村日記 ある種族へ
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八月三十日
6時半離床。新聞を読む。伊東豊雄さん達のみんなの家がヴェネチア・ビエンナーレ建築展で金獅子賞をえたようだ。先ずは被災地の方々の辛い日々を思えば一条の光になるかも知れぬ。建築家の一条の光になっては困るけれど。しかし心底祝福したい。でも、わたくしは一連の日本の建築家達のみんなの家の如くの活動には疑問を持っている。批判に近い?である。その疑問が奈辺から立ち昇ってくるかはまだ良くは言えぬ。でもいずれハッキリ何かの形でキチンと記録しておかねばとは思っている。
昨日は東京駅に行き中央線の電車を降りたらいきなりプラットホームからギョロリと保存復元された東京駅の一部が顔をのぞかせていて、ビックリ。たちどころにスケッチをした。東京駅のプラットホームでスケッチをしていても誰もスケッチブックをのぞき込もうともしない。東京駅というところはそんな場所なんだなあと思いながら、人混みの中に突っ立ったまんまでスケッチを続けた。この感慨はXゼミナールに報告したい。何しろ書きたい事が沢山あって、日記に書き散らしてしまうのが少し自分でも勿体ないのである。
でも、それは少し古めかしい考えなのかも知れない。
Xゼミナール投稿便「保存復元された東京駅2」を7時半書き始める。
9時半6枚書いて研究室に送付。編集担当者が何故かドンドン急いでONしているので、今日にはキットONされるのであろう。そうかわたくしがそうしてもらっているのだった。
「作家論・磯崎新」「保存復元された東京駅」共にキチンと注釈を附す努力だけはして下さい。我ながら書き飛ばしているので注釈がどうしても必要になってはきている。
10時流石に小休する。脇目もふらずに集中できるのは2時間が限度だな。もう1サイクル2時間頑張ろうとすると、実に夜が眠れなくなる。わたくしの頭はそれ位の耐久性しか持っていない。
- 865 世田谷村日記 ある種族へ
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八月二十九日
7時離床。ボーッと3階のテラスのゴーヤやきゅうりのツルの葉を眺めている。それからボーッと新聞を読んだりしている。思い立って鈴木博之、『現代の建築保存論』王国社を読み始める。2001年に発行されたこの本のあと書きで、1972年、毎日新聞社創刊100周年を記念した論文募集に、当時大学院修士学生であった鈴木が応募した『都市の未来と都市の中の“過去”』が鈴木のそもそもの建築保存論の公表の始まりであると記してある。もう40年以上も昔のことである。先日、Xゼミナールの見学会で保存復元された東京駅を見学した。非常な感銘を受けた。
凡人は実際に目の当りにしなければ、鈴木の唱導する保存の意味が納得できない。頭で理解したと思ってはいても身体(情動を含む)がついてゆかぬものだ。保存復元された辰野金吾設計の東京駅をたっぷりと見学して、これはわたくしにとって並々ならぬ体験だぞと痛感した。
何年も前にスペイン、ビルバオのフランク・O・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイムを氏と共に見学した事があった。あの時もいささかの感銘を受けた。それはこんな風なやり方をしてもわたくしにはもうほとんど目が残されていないの確信であった。ただビルバオ・グッゲンハイム美術館が恐らく20世紀初頭の巨大な鉄の橋の下をくぐっている、それと不思議なやり方で連結しているのが、この20世紀最後の、コルビュジェのロンシャンをようやく超えるかも知れぬ建築の決定的な取得だという感慨も得た。
保存復元された東京駅は実はそれと同じ位の衝撃であった。これは中々伝わらないだろうなとも思った。だからゆっくり書くしかないのも知るのである。
で、今日からわたくしの保存復元された東京駅、小論を書き始める事にする。作家論も書き続けたいし正直大変な事になってきたなあと思うが、これはやりたい。今迄余りにも大きな事を見過してきてしまったという後悔もある。まだ取り返せるチャンスはかろうじてあるだろう。
「保存復元された東京駅」小論書き始める。小休朝食。今日は時間を都合して再度東京駅を独りで見る事にする。
- 864 世田谷村日記 ある種族へ
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八月二十七日 その2
昼過研究室、打合わせ。3時前台北の李祖原と話す。彼はあと1時間後に北京-チベットの旅へ発つ。研究室発世田谷へ。いささかの世田谷式生活・学校の下ごしらえ。17時過終了。18時世田谷村に戻る。
ここ9日間北京、台北でかなりのスピードで動いてきたので、日本の動きが妙に超スローで気に障って仕方ないが、仕方ない。
原稿をチェックしてみたら作家論・磯崎新はすでに26、27は書き終えてストックがあった。でも全体の流れとしたら昨日、今日で書いたモノをONした方が良いと判断。今晩の20時頃にはサイトにONされるだろう。自分のペースでやっているのでそんな事も自由にできる。
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八月二十八日
8時離床。作家論・磯崎新27にかかる。超大型台風が台湾の北部海上を中国大陸に向けて直撃するようだ。わたくしは絶妙なところで避ける事ができたが、大陸の人々は大変だろう。台風の進路が極端に変化したのは何故だろう。
11時8枚書き終えて、作家論・磯崎新27として研究室へ送付。ワイマールのツィンマーマンにメールを送る。
少しばかり小休とする。やっと旅の疲れは消えてきたが、作家論で再び頭を回転させ過ぎている。ロクな商売じゃないが、コレは商売でもない生きがいでもあるから仕方ないのである。
- 863 世田谷村日記 ある種族へ
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八月二十五日
8時離床。昨日迄のメモを台北で李玄に預けてきた。まだ東京に転送されていないのでサイトの日記は台北のその後の三日間がまだ消えている。だから日付が逆転してしまうやも知れぬが仕方ない。記録しておかぬと細部を忘れてしまいそうだ。昨日24日の14時に台北松山機場を李玄に見送られてチェックイン。長栄航空(エバーエアー)に初めて乗る事になった。長栄は今や世界最大のコンテナ便を扱う船会社である。それが空に乗り出した。
16時離陸。機体も新しく、座席も最新型。もう食事は結構だと思ったが、念のため洋式をたのんだら、これが滅法美味であった。ワインも上等だがエバーグリーン・スペシャルのカクテルだけは名前に引かれて頼んでみたが、コレハ一口すすって止めた。羽田空港20時過着。荷が重くなって少しヨロヨロ状態。それでも研究室に電話して渡邊大志に新宿で会おうとなる。
どうしても伝達したい件があったから。21時味王でいささかの打合わせ。味王の娘は「高山建築学校」へ行ってるとの事。どうやら青春しているらしい。22時過了。渡邊が烏山回りで荷物を持ちますと言うので、お願いする。こんなことは恐らく初めてだな。それ位に疲れが外に出ていたのだろう。
世田谷村21時半到着。サイトを少しのぞいて横になった。
今日はこれから色々とここ9日間の北京、台北で作り出した問題をチェックして、ワイマールに同じようにヘトヘトになって帰着している筈のツィンマーマンと連絡しなければならない。勿論、台北の李祖原とも。
12時過ぎ研究室、打合わせと伝達依頼。1時間程で要件は修了。
研究室の椅子を並べて横になり眠る。16時過発。銀座TSビルへ。
17時過東日本大震災復興支援スペース着。気仙沼の臼井賢志商工会議所会頭等にお目にかかる。東急不動産・金指潔社長他と挨拶。
この東急不動産が被災地へ無償貸与した大スペースも今月末で一度クローズとなる。
不動産社長の一存で無償貸与になったが英断であったと思う。
18時セレモニー始まる。臼井気仙沼商工会議所会頭挨拶。菅原市長挨拶に続き、東急不動産社長スピーチ。そして何故か阿川佐和子女史スピーチ。彼女が東急と気仙沼を結びつけたようだ。名門遠洋漁業臼福の今は社長である臼井壯太朗の力が大きかった
この世代がもっとのしてくれないと日本はもうダメなのだ。壯太朗は北京のMr.Kと同じ年だ。先ず国境を越えた思考が必須なのだと、そしてそれをリアルな日常感覚に包摂されたい。
記念シンポジウムみたいのが始まったので早々に退散する。地下鉄で新宿へ。味王で少しばかりの食事。ようやく疲れが抜け始めてくれているやも知れぬ。
21時半世田谷村に戻る。
今日は眠るぞと自分に言い聞かせる。
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八月二十六日
8時20分離床。良く眠った。ありがたい。3階のテラスのカヅラ、キュウリ、ゴーヤ、朝顔の緑が眼に涼しい。
作家論・磯崎新26書き始める。こんな時疲れてボーッとしている時にはむしろ頭は良く回転するものなのだ。3枚書いて、ブラリと長崎屋に寄り、知り合いと無駄話しをする。Mさんが来週手術だと言う。一番元気な人なのに、何が起きるか解らない。オヤジは生き延びている。バレーの先生はモンゴル行を中止したとの事。それは良かった。Mさんとは珍しく差しで話し込む。入院だったらそれじゃしばらく会えないなあと… … ブツブツと話し込む。Nさんは相変らずの洒脱さで好きな人だが、今日はそれではと言ってパチンコに出掛けた。
皆、恐ろしくしたたかでリアルな人間達である。
17時世田谷村に戻る。
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八月二十七日
7時半離床。すぐに作家論・磯崎新26、北京中央美術学院美術館の昨日の続きにとりかかった。北京CCTV、レム・コールハースにも触れた。コールハースの建築には一矢を報いなければとここ10年程思い続けてきたが、最新作でその矢を射ようと思う。彼のニヒリズムは危険である。
9時半、8枚をとり敢えず書き研究室に送付する。Xゼミナールに東京駅保存論の幕間にすぐONして貰いたい。急げ。
保存論もここ2、3日でやるつもりではあるが仲々むずかしい。中国での体験をベースにして、東京駅を書く予定である。
- 862 世田谷村日記 ある種族へ
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八月二十一日
6時目覚めて部屋の温泉につかる。山も空も美しい。9時1階レストランにてツィンマーマンと朝食。重要なミーティングとなる。11時半、李玄ピックアップ李祖原事務所へ。ミーティング後台北101へ。構造設計家と共に最上階迄登る。空も晴れ素晴しい眺めである。やはりこの超高層は李祖原の代表作である。北京から日帰りで見に来たMr.Kはさぞかし口惜しがった事であろう。女性の101支配人は驚く程活発な方であった。共に地下のレストランで昼食。
14時台北シティホールで政府都市発展局局長・丁育群、他と会う。その後ツィンマーマン30名程の局員、局長に対しての講演。堂々たる講義であった。修了後ツィンマーマンは市内の李祖原作品を見て廻る。わたくしは李祖原と共に近くの別のホールへ。史建等と初対面。どうやら台北の若い建築学生や先生達への講演会である。
大きなポスターが貼ってあり、わたくしと李祖原の対談もあるらしい。早い夕食を皆ととり、19時わたくしの講義。20時半より李祖原との対談。会場は250名程の人で一杯であった。
22時終了。会場を出てツィンマーマンと再合流。ホテルに帰る。部屋の温泉にたっぷりひたる。台風が来ているようだ。しかも2つも。TVでは馬総統がここも尖閣列島は台湾のモノだと演説していたが、中国大陸の論調よりもいささか穏やかである。
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八月二十二日
7時15分、ピックアップされ台北駅へ。李祖原と会い新幹線で台中へ。これは日本の技術だなとツィンマーマンが残念そう。
政治がダメだから技術位は、ドイツと張り合わなきゃなと思う。
8時20分発、1時間で台中へ。ドライバーが待っていて中台禅寺へ。
「ホッホー」とツィンマーマン驚く。やっぱりデッカイ寺だ。
息をつく間もなく、中台禅寺のマスターとの会見。2度お目にかかっているが、平和で雄大な御顔になられた。前は眼が厳しくてマフィアのボスみたいなお方だなの印象であったが、一変していた。苦難を全て乗り切られたのであろう。
寺院内を回遊する。スケッチを2点。その後中台山博物館へ。一度見たかったが、ここの展示品の数々は、それこそ仏教文化の至宝であろう。度肝を抜かれた日本の法隆寺阿弥陀三尊クラス、言ってしまえばそれよりも古く見事なアルカイックな石彫仏が群をなしている。一つ一つ見て廻れば2日位かかってしまいそうだ。
大変な美術館である。皆信者達の寄進によると言う。20年かけて世界中から集めたようだ。底知れぬこの寺の力の一端を垣間見せられた。後髪を引かれながら車で台中へ戻り、3人共に台中駅のベンチで昼食。これはうまかった。台北に戻り、李祖原事務所でミーティング。
後、台北101の80階だったかの高級レストランへ。いやはや、もう高級には参っているのだが仕方ない。
中華民国不動産協会理事長・黄南淵夫妻と李祖原事務所のチーフ達と会食。この方は日本建築学会の歴代の会長をよく知っていた。どうやら大実力者のようで、昼に会った台北市役所の局長もかけつけてきた。
夜半、北投麗禧温泉酒店に戻る。
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八月二十三日
8時15分1階レストランでツィンマーマンと朝食。トーストとコーヒーだけ。
胃が喜んでいる。9時前李玄来る。故宮博物院へ。前回来た時は大変な中国大陸の人々で足の踏み場もなかったが、今度はそれ程でもなくわたくしは古代ブロンズを中心に観て多くをスケッチした。
商の時代、すなわち紀元前16世紀〜14世紀の酒器、前13世紀〜11世紀、商晩期の楽器に心ひかれる。とてつもなく古い。ギリシャよりも1000年も古いんだからナァと、わたくしが自慢したって仕方ないのであるがなにしろ古い。もちろん仏教なんてのは新しい。建て売り住宅みたいなガラクタだなぁとバカな事を想ったりもした。
商前期の器にひかれるのは、この形態が全てアニミズムの結晶であるからだ。
古代王権とアニミズムの関係を知りたいものだ。
李祖原が自分で中国文化の形であると言っている根底にはアニミズムがあるのだ。それを彼は知らない。だから中国主義者の如くに誤解されてしまうのだ。残念なことをしている。
縄文文化も又、アニミズムの造形である。しかし古代日本というよりも東端の列島にはブロンズを作る技術が広く普及しておらず、古墳時代の銅鐸に限定されていた。
このあたりの事はアニミズム紀行の行き着く先であろう。勉強してみたい。
5世紀上半五胡十六国、青銅仏像に初めてお目にかかったのでスケッチした。仏像もこの辺りの古さになるとアイコンとしての決まりが外れていて妙に人間的で面白い。
まだまだ知りたい事が無限に近くあるなぁと想う。人生は余りにも短いがこれも又仕方ないのである。
いつだったか、磯崎新にカタールにつれていかれた事も思い出した。
クライアントであった王子やエミールと言う王に会った。
王子は世界有数のコレクターであった。
彼が日本にやってきて岐阜のミノル・ヤマサキが設計した名を失念したが教団の美術館が目的であった。そこにある小さなブロンズ像が欲しかったと言う。
それは1ヶ45億円の値がつけられて世界中に知られていた。
故宮博物院のこの小さなブロンズ像1ヶは恐らく60億円くらいするのだろう。もちろんアテズッポーだ。でもそれ程間違ってはいない。
とするとこんな奴が20ヶあれば1200億円なのか。
故宮博物院の収蔵品は李玄の先祖の蒋介石が中国大陸から全て移送したものであるが、変な言い方をすれば中国文化の結晶を全て移送したようなものだ。中心を移送した。蒋介石は国家の中心が何であるかを良く知っていたのだ。だからここにある美術品となっている宝物の全てが総額いくらなのかは実は知れる筈である。
国家はそれ位のモノであり、それ位のモノでしかない。
北京のMr.Kはその事を知っている。
建築もオークションにかけられれば異なる様相を呈してくるだろう。建築が芸術であるとするならば、それは美術品と同じに市場で流れ動くべきなのだ。Mr.Kが所有している唐代の絵画一本で盤古ビルディングは作れるよといっていたのは嘘ではない
ただモナリザがオークションにかけられぬようにマーケットで動く事が出来ないだけの事である。
昼食は故宮博物院の喫茶店ですました。ツィンマーマン共々、そうしてくれと頼んだ。サンドイッチが一番である。
14時李祖原事務所に戻り、会議。まとめの会議でリアルな事を沢山話し合った。このドイツ、中国(台湾)、日本の組み合わせには色々な可能性がありそうだ。
李祖原にお別れのあいさつ。李玄と夕食に出る。再び豊かな中国料理であったが、これが終りだと思って頑張って食べた。そうしたら美味であった。料理も覚悟で喰わねばならぬ。
20時過車で桃園国際空港へ。ツィンマーマンの便は台風が来ているけれど飛ぶようである。21時、ネバー・セイユー、Good bye、 ナイス・トリップ、ナイス・スリープとあいさつ。
ツィンマーマンとも8日間ビッタリの旅であった。これで友になったなぁ。彼はナショナリストではないが、ワイマーリストである。ワイマールのバウハウス文化に強烈な誇りを持っている。素晴しいと思う。
22時北投麗禧温泉酒店に戻り、温泉につかりもせずにブッ倒れて眠りにこけた。やっと独りである。
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八月二十四日
7時目覚めて三日分のメモを記す。もう忘れそうになっている事も多い。人間の生はそんなもんだ。8時半迄かかり、ようやく今日にメモが追いついた。
温泉につかる。独りである。旅の独りもいいものである。
只今10時半荷作りを終えた。今日は帰りの旅を休み切ろう。BR190便は羽田に20時には着くだろう。台風の影響もそれ程でない。
明日とは言わず今日から色々と考えねばならない。
27日から李祖原はMr.Kと共にチベット行だそうだ。チベットでは文革時代に破壊された大寺院にそれぞれの航空会社をスポンサーシップとして付けて大リノベーションの最中である。良い旅になるのを祈る。
二つの台風に尻をたたかれるようにして東京に飛ぶが、北京のTV、新聞での日本たたきは凄かったなぁと思い起こす。
中国の大メディアは政治色が強いが、日本のそれは余りにも上の空だなぁとつくづく思った。
- 861 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十七日 その2
朝食後、北京オリンピックメインスタジアム見学。施行中は見ていたが、初めて内に入る。壮大な大きさだが、余りの無茶苦茶な納まりの悪さにツィンマーマン共々呆然とする。大きな話題を巻き起こしたデザインであったが、その完成後の初歩的な諸設備、特に雨水の処理、電気設備のダクトが全くノーコントロールで凄まじいアナーキーな様相を呈しているのは余り報告されていない。このオリンピックスタジアムはハンドメイドの職人技の結晶であるが明らかに失敗作である。鉄製の廃墟である。と痛感した。それでも北京オリンピック終了後4年後に次のロンドンオリンピックも終ったが実に多くの中国の人々が見学に訪ねている。再利用のアイデアは無いようだが、この惨状は何とかした方が良いのではないか。
スイミングプールも見学する。これは上手に使われていた。
半分は市民の為の水遊びのプールとして多くの人が楽しんでいた。メインプールも水泳競技用に使われているようだ。メインテナンスは大変だろうが持続性は充分にある。オリンピック会場からレム・コールハウス設計のCCTVへ。火事に遭遇したりでこれも不幸な建築になった。
風水的に良くないとの風評が流れて、あんまり人気もはかばかしくはない。近づいて見る事が出来ぬので近くの北京市随一のSOM設計のハイライズに行き80階、40階から見降ろした。スケールが小さくて設計者が意図したダイナミズムは実現されていない。SOMのハイライズはミノル・ヤマサキ風のエレガント折衷様式である。コーヒーを飲んで小休。盤古酒店に戻り昼食。ツィンマーマンよりバウハウス・北京のアイデアは充分に考えるに値するの言があった。昨夜Mr.Kより「石山、君は最悪な時に北京に来たな」と言われた。
勿論尖閣諸島の領有権の問題である。「ドイツと中国の友好関係は実に良い」とも。つまりナショナルフラッグを北京に揚げるのはバウハウスならOKだと言う事だ。
ではそうすれば良い。ツィンマーマンならそれは出来るであろう。
その戦略をつめてくれるように依頼する。上海の同済大学には中独友好会館が在り、ドイツ国旗がひるがえっている。でも上海だ。中国は北京だからがMr.Kの持論である。
たっぷりとした昼食の後にCCTVの建築を見たのだった。盛りの沢山のスケジュールで頭が混乱している。天安門広場を過ぎて国立オペラハウスへ。中には入らない。ポール・アンドリューの設計である。フランス式クリスタルパレスだなとツィンマーマンとジョークを交わす。北京での国際コンペの成果はあんまり思わしくないようだ。
歴史的保存地内の嵩祝寺、智珠寺を利用したテンプルレストラン北京へ。400年〜300年前の寺を使ったリノベーション建築である。書庫としてあった本堂の内部は紅衛兵の手で傷められていたが残っていた。
ディナーも又素晴しかった。ドイツを敬してドイツの白ワインで乾杯。
美味なフランス料理と木造伝統建築が良く合っている。
ツィンマーマンも気持ち良さそうに活発に語る。やはり仲々の人物である。
チリの赤ワインに移り、もうわたくしは目一杯。終了後、腹ごなしだろう北湖の周遊へ。驚く程の人出で延々数キロメーターの屋台風レストランがつらなる。ほとんどの店が若い人達のライブミュージックを供している。北京のエンターテイメントなのだろう。ワイマールの人口の10倍を一夜で見たなとツィンマーマンに言ったらイヤ100倍だろうと帰ってきた。何しろ中国の人口の多さを目の当たりにする。
みんな家に帰りなさいと彼はつぶやく。ワイマールは究極の故郷感覚に満ち溢れた、それこそゲーテ、シラー、ニーチェ、リスト等が死を迎えるのに帰った町だから。
この静けさとは対極だな。
盤古酒店に戻り、22時休む。ホトホト疲れた、エレベーターの中でツィンマーマンと今日は疲れたナアと顔を見合わせて笑う。「ディープ・スリープ」と声を掛け合って別れた。C.Y.LEEのホスピタリティーも実に大き過ぎてそれについて行くのも大変なのだ。
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八月十八日
6時離床。オリンピック会場はガスに煙っている。
メモを記し、熱い湯につかり、8時に朝食に降りる。
8時45分盤古酒店発、天壇へ。北京市の問題は自動車の余りの多さだ。足が少々痛かったが凄く歩いて天壇見学。方形と円型と強い軸による群建築の名作。北京に来て初スケッチを一点。凄い人数の人間がスケッチの観客になってしまう。記念に子供にスケッチに参加させたら母親に謝謝と言われた。
ゲート廻りにイスラム建築の様式が明らかである。
回音壁(エコーウォール)の円形内の巫女(シャーマン)の皇穹宇の造形が見事である。でも余りの人の多さにヘキエキする。
タオイズムと皇帝の関係が良くわかる。地水火風木金北辰(北極星)の神々が祭られている。
4kmを歩いて、車に戻る。足の痛さが不思議にも消えた。
2時前北京ダックの昼食。全て美味なり。
17時に内部は閉館との事であったが、磯崎新の北京中央美術学院美術館を見る。ツィンマーマンの印象はアニマルのようだの一言。
18時40分盤古酒店に戻り、19時21階の日本料理屋で夕食。
その前に22階のスペシャルルーム、Mr.Kのプライヴェートハウステンプルのもう一つを拝礼。盤古酒店の北端に位置して、600メーター先のタワー内のもう一つのハウステンプルと対になっている。
全て風水思想による。
こちらにも毛沢東像があり、これは黒かった。南端には白い毛沢東が居た。これも何か意味らしきがあるのだろう。
22時前に話しは尽きなかったが夕食了。
風呂も何も使わずに眠り込む。本当に今日も疲れた。
ツィンマーマンと顔を合わせて何をか言わんや。
でもMr.Kと李祖原のホスピタリティーに圧倒される。
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八月十九日
6時過離床。今日はマアマア晴れている。昨日雨が少し降ったのと休日で車が動かぬからだろう。
記し忘れたが昨日はペキンダックの後に北海近くの大庭園のある皇子とプリンス達、22人の中国人姫、2人のロシア人姫、1人の日本人姫、つまりハーレムなのだがを見学して、人の余りの多さに仰天した。車の中からザハ・ハディドの建築やらKPTの建築やら何やらを見た。
今日はこれから風呂を使い、頭も洗い9時に朝食の予定。休みたい。
部屋から間近に見下ろせるオリンピックメインスタジアムとスィミングプールのシルエットをスケッチする。
そう言えば、昨日の午後はわたくしは5年前に一度訪ねた事があるMr.Kの自邸も訪ねたのだった。頭がうまく働いていないのだ。用心しなくては。Kの自邸は巨大な四合院の作りだが全面改修、リノベーションを行っている。地下に劇場、大プールがあったりするのだが、2階、3階と言うのかな、そこにある自邸ハウステンプルには度肝を抜いた記憶がある。
拝礼の対象である古代仏像の古さに驚いた。仏教の諸アイコンが中国に流入した恐らく1世紀〜2世紀のものだろうという仏像が南面している。日本最古の仏像は飛鳥大仏と言われているが5世紀のようだ。
中国に於いても恐らく最古のモノであろうか。それこそ中国に於いても至上の部類の仏像である。
飛鳥大仏のアルカイックよりも更に古いまさに原始仏教に近い感じの古拙振りがあり、自然に頭が下がる。一度ゆっくりスケッチしてみたいものだ。
今日、もしも時間があればこの盤古酒店内のハウステンプルのスケッチをさせてくれとC.Y.にたのんでみよう。
バラバラにしか記せぬのが辛いけれど、昨夜の夕食時のツィンマーマンの話しは凄味があった。ヨーロッパの一級の頭脳を間近に見た想いがする。ウンベルト・エーコからマネーの意味に迄。わたくしがC.Y.の巨大建築はワーグナーの音楽やシュペーアのそれに似てるのでは無いかの問いに、シュペーアのそれには似ているし、アドルフ・ヒトラーの危険さ、ダークさに通じる闇があると言い切った。ニーチェの仏教への接近はC.Y.には通じぬだろうが、ヒトラーのメディアとしての巨大好みには確かに通じるものがある。
ツィンマーマンはバウハウス大学学長時代にメディア学科を創設した御本人であるから、一度メディア論を聞いてみたかったが言うところのメディアの意味を了解する事が出来た。
天壇に対しても、これは皇帝自身が民衆へのメディアとしての顕現の意志だと明快であり、アドルフ・ヒトラーのスペクタクル、巨大好みもメディアなのだと言う事である。先に進めるならば環境という概念は決して工学内の狭小なケチなものではなくって、それはメデイアと溶融する概念だと言う事だろう。
ニーチェはキリストという神はすでに居ないと言ったし、権力という意志についての言及もあるが、ワーグナーの音楽表現と対立したり、惹かれたりの大矛盾も所有していた。つまり、神という(キリスト)アイコンはそれを伝えたい側も受け容れる側も、その双方にとってメディアであったし今もそうだと言うわけである。C.Y.LEEの巨大志向は彼がシャーマン的な表現の仲介者として無意識の内にメディア化しようとしている事だ。
シュペーアがそれを理解していたようにファシズムそのものが建築表現のメディア化を意味していた。
今日はツィンマーマンと万里の長城を見に行くが、これの意味も尋ねてみよう。巨大さも小さな精巧さも共にメディアなのだろう。
朝食後、Grand Wall(万里の長城)見学へ発つ。車の中でC.Yとツィンマーマンとの間で昨夜の続きのBIGとは何かの議論が続く。
ツィンマーマンのロジックは明晰である。1時間少々で長城へのケーブルカー乗場に到着するも大変な人間の数で、それは仰天すべき数でケーブルカー待ちの行列こそまさにGrand Wallなのであった。Mr.Kのスタッフが気をきかせて別のルートのケーブルカーへ。ここは全く行列が無いという妙な有様である。
恐ろしく揺れる小さなBoxに乗る。4名定員。中国の技術のまともな事を祈るしかない。強い風が吹いたら危険であろう。正直恐かった。
長城に登りつく。
確かに長大なモノであるが実に小さなモノでもある。高さが異常に低い。
これでは戦争の役には余り役立つとも考えられない。これは古代の国境線というメディアの表示、つまり表現だったのを知る。スケッチを一点。北京に戻り、盤古酒店6階のレストランで昼食。19時再びMr.Kのペントハウスへ。
重要なミーティング。バウハウス北京の一歩を踏み出す。
いささか疲れて24時前に部屋に戻る。疲れたと記すのも馬鹿馬鹿しい程に疲れた。
李祖原の息子、李玄に大丈夫ですかと問われたので、勿論大丈夫じゃないと答えた。実ワ、この部分のメモは8月21日の朝、台北のホテルで書いている。ようやく書く気持ちになれた。
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八月二十日
これは寝過ごした、と飛び起きた。6時ロビー発北京空港の約束の15分前であった。超スピードで衣服をつけ、荷作りして、下へ降りる。6時ジャストにすべり込み。
デッカいリムジンに乗せられて北京空港へ。皆タフな連中だ。
北京空港はノーマン・フォスター設計だが実際の作図作業他はC.Y.LEE officeも参加したそうだ。
8時20分発のCA便台北行に乗り込む。
1時間遅れて出発。これならアト30分は眠れたなホテルでとケチな事を考えた。
12時台北桃園空港着。李の専属ドライバーと再会。彼とも、もう30年の友人である。
台北の空は実にクリーンである。台風が来ていると言うが実に強い日差しで北京とは雲泥の差である。
北投の李設計の日本モダニズムスタイルのホテルにチェックイン。
これはエレガンスなジャポニカモダニズム。要するに今風のモダーン和風である。
少し時間があったので部屋にある温泉にすぐ入浴。台北風リゾート感覚である。北京の盤古ビルディング(旧北京モルガンセンター)は余りにもデッカクて、部屋も豪華すぎてわたくしの如きの小市民には疲れるのだ。本当にオレはケチな男だと痛感しつつ、部屋に2つもある浴槽に身を沈めた。
13時半前ロビーで李玄、ツィンマーマンと落ち合い、市内での昼食へ。
もう豪華なのは苦しいから、本当にラーメンが喰いたいと叫んだら、流石のツィンマーマンも「そうである。同意する」と言ってくれて、市内の博多ラーメンへ。320円(日本円)のラーメンが実にヘルシィーでうまい。
ツィンマーマンも「グッド、ベリーグッド」と宣言する。
15時C.Y.LEEオフィス。15時半、オフィススタッフへのShort レクチャー。16時、ツィンマーマンのレクチャー。その後質疑応答。
19時夕食をC.Y.LEE Groupのメインスタッフ、10名程と。
再び本格的な中華料理。
23時了。24時前北投のホテル帰着。部屋の温泉につかる。
01時就寝。
- 860 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十六日 その2
5時前世田谷村発。6時半羽田国際空港。CA184便チェックイン。ラウンジで休む。7時50分搭乗。8時半離陸。すぐに眠る。11時半頃北京空港到着。珍しくほとんど人の居ない空港内を独りで動きサイン通りに乗り物に運ばれてパスポートコントロールも独りだけでアッという間に出口へ。案の定誰も居ない。早過ぎた。しばし待つ内に盤古ホテルの人間がネームカードを持って現われ、ツィンマーマン氏の便は少し遅れるとの事で近くのエアポートホテルへ。ホテルロビーでC.Y.LEE、及びリチャーズに再会。
30分程してツィンマーマン来る。彼等は初対面であったがすぐに打解ける。汚れた大気の中を北京市街へ。盤古七星酒店着。隣りのオリンピック会場は中国国内のツーリストで大にぎわいだ。17階の室へ荷を上げて、ロビーへ。
地下の長い通路を電気自動車で動き、昼食会場のペントハウスの四合院へ。大変な料理とワインでこれは先が思いやられる。食べる苦行みたいなモノだ。流石のツィンマーマンも少々驚いている。
オリンピックスタジアム、スウィミングプールを見下ろしながら美味、珍味がくり出される。
長い盛り沢山の昼食を終え、少し休もうと又も電気自動車でホテルの部屋へ。昨日見た東京駅の長さにも驚いたが、その3倍位も長いのだ。まさに長城、グレートウォールである。李とツィンマーマンにわたくしの手作りのポートフォリオを渡す。今回の為に作成した。
1時間休んで、さてこの5棟ある長城を見学にかかる。
大変な数の係の人間が総出で説明にかかるので疲れたなんて言ってられないのだ。
何度もエレベーターで昇り降りしながら電気自動車の旅は続いた。バウハウススタイルとは正反対の豪華絢爛の内部の連続である。
ツィンマーマンは侍だから驚きは顔に出さぬが眼をむいているのを知る。
やがて最南端のオフィス棟へ。IBMの事務所になっている。
そしてMr.Kのデッカイ個人オフィスへ。
毛沢東の白い像と、となりに竜たちが水を呑む石盤がある。
水すなわち金であり、竜がマネーを呑むの例えなのだ。
吹抜けを見下ろす、Kのハウステンプル内のアイコンに拝礼。
地下のスーパーカーの個人コレクションと共に、驚かざるを得ない。スーパーカーはロールスロイスからブガッティのスポーツカー、アストンマーチン、ベンツ、フェラーリまでが数十台並んでいる。Mr.Kは自分用のテスト走行のレース場も持っているのだから何をか言わんやである。今は15人乗りのプライヴェート・ジェットで飛び廻っている。
Mr.Kの個人用ペントハウス(これも四合院の作りだが)に辿り着く。もうヘトヘト。うまいお茶をいただくうちに、Mr.K登場。まだ43才の若さである。再会を喜ぶ。
和気あいあいのディナー。ツィンマーマンも流石に堂々たる会話振り。ダテや酔狂でバウハウスの学長を長く背負った人間ではない。ワイマールを背負ってきている。
Mr.Kの活発な議論が続き、もう腹も一杯である。
Kはバウハウスを北京に持って来いと言う。バウハウスは上海の同済大学と深い関係があるが、上海はダメだ北京が一番なのだと例の調子である。さてはてどうなりますか。
Mr.Kにもわたくしのポートフォリオを渡し、大変喜ばれた。宴も終り22時過に又も電気自動車で建築内を動きホテルに戻って横になる。カーテンも何もかも全て電動なので操作をのみ込むのに手間がかかってしょうがないのであるが、仕方ない。なにしろ昇り龍がオーナーなんだから。彼の盤古インシュランスは、今は中国でNo.1なんだぞーと威張っていた。
なにしろNo.1が好きな男なのだ。
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八月十七日
六時離床。メモを記す。今日は昼は北京ダックで夜は市街地外のフランス料理屋だとC.Y.が言っていたけど、明日はラーメン屋で願いたいとは言っておいたが通じてはいないのだ。
磯崎新の北京中央美術学院は今日見ておいた方がいいだろうか?オリンピック会場はスモッグの中だ。
9時20分2階レストラン朝食。
- 859 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十五日 その2
13時15分新大久保近江家。ところが近江家が盆休みで、丁度来た鈴木博之さんとさて困ったなとなる。20分渡邊大志さんに依頼していたモノが届き、ではという事で東京駅に向う。
新宿で乗り換えようとしたら難波和彦さんとバッタリ、共に東京駅へ向う。14時前東京駅着。だいぶ時間があり昼食にしようと地下街で稲庭うどんを食べる。さてまだ早いけれど東京駅をグルリと外から眺めようと歩き出す。保存、改修計画の作品として眺める。実にデカイ。堂々たる建築である。辰野金吾のデザインがどうだと言うのではない。こんなに巨大な建築がまさに日本の超一等地、ある意味では資本主義市場での土地の値段としたら超高額な商品としての土地の上に、100年前の日本の近代の始まりとしての記念碑として文化的作品として保存された事に不思議な感動を覚える。正直なところ観念的には保存、文化財の意味は解っていた筈であるが、実に生まれて初めて凄えなあと感じ入った。
向いの道端に座り込んでスケッチする。辰野金吾の妙に日本的なる洋風建築、イギリス様式なのか全く解らない100年前の一心不乱の和魂洋才スタイルらしきをスケッチする。一番面白く感じた松本の開智学校の中央のヤグラ風の竜宮城みたいな、安土桃山風な唐破風のところをスケッチした。法隆寺にある日本最古の優美な安土桃山時代の唐破風の外形に実に似ている。
100年前の東京駅の位置からは皇居の石垣やヤグラ建築が視えた筈である。辰野金吾はそれを、つまり城郭を意識したのやも知れない。
少なくともこの建築は洋風と呼ばれるプリミティブな模造建築ではない。様式の混在が歴然と意識された建築ではないか。鈴木さんの説明では辰野金吾の設計第1案はドーム建築が分棟されていて、この第2案がより長く連続したスタイルに統合されたという事のようだが、第2案には江戸様式の如くが入り込んでいるのではないかと勝手な妄想をたくましくした。実に面白い。時間が無くてスケッチ中断して丸ノ内郵便局の保存見学に移る。2スパンの保存になったが、しかし立面は残り、したがって保存復元された東京駅との間に均質な近代の空間とは異なる時間の空間が立体的に出現していて、実に気分が良い。
現場事務所に寄り、担当の皆さんを紹介していただく。
東京駅の復元内部に入る。
内部は外部程のド迫力には少々欠けるが、それでもうまくまとめられていた。特にギャラリー部は多くの人間に愛されるであろう。ホテル客室、Bar、レストラン、そして両端のドーム部内等を案内していただく。月の満ち欠けの装飾等を興味深く見た。ドーム内の巨大な鳥の像や小動物の装飾も興味津々であった。
辰野金吾や職人達の気持の中にはアニミズムのようなモノがまだ生きていたのだろうか。
あるいはブルーノ・タウトが来日して余計な意見をのたまう以前であったから日光のなにがしかを学んだのやも知れぬし、江戸の神社の彫物などの動物たちを良く観察していたのやも知れぬ。
そんなこんなで17時過迄見学を続ける。
デッカイのと中身が濃いいのでいささか疲れた。
担当の方々とお別れ、礼を言う。
何処かで休もうと八重洲の小樽へ寄るも、ここも盆休みで近くの魚屋に入り一服する。
鈴木博之は大変な仕事を成し遂げたナアと、難波さんとねぎらう。このあたりの事はXゼミナールに記録して残したいと思う。感服し、様々な思いを得た。
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八月十六日
0時半本日のメモを記し終る。とても書き切れぬ一日であった。今日は5時には世田谷村を発ち羽田へ行かねばならぬが眠れそうにないな。
- 858 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十五日
6時半離床。とてつもない夢をみた。恐らく明方の一瞬に。ジャワか何処かの密林にいる。まわりは見知らぬ原住民ばかりだ。まるで長崎屋の客みたいな人たちばかりである。わたくしは何処かにマイルタワー・メモリアルらしきを建てるという命を受けてここに居るらしい。原住民たちは何時の間にやら皆銃を持っている。どうやらゲリラ達だ。バウハウスのツィンマーマン学長がどうやら居て、しかし味方なのか敵なのかは知れぬ。女性は一人も居ない。俺の夢はいつも女っ気が無いなとつぶやくうちに眼がさめた。余りにもバカバカしくてすぐに忘れそうなので、とり敢えずメモしておく事にした。実にバカバカしくも妙な夢である。まさか明日からの北京・台北行がいきなりミャンマー行になり、Mr.Kのプライヴェート・ジェットが密林に不時着するなんて事にはなるまいなと、これも白昼夢である。
今日は昼過ぎに新大久保近江家にてXゼミナールの後すぐに東京駅見学の予定。3階の表のテラスに出て咲く朝顔の花を眺める。21輪も咲いていて見事であった。
日経朝刊が保坂世田谷区長の下北沢・線路跡地に対する世田谷区独自の案を取り上げている。東京都、小田急電鉄の案とはいささか趣を異にする案である。東日本大震災の教訓をベースの一つに、2.2km小田急電鉄地下化に伴い、その地上部をいかに利用するかの計画案であり、区の案は防災上の見地から線状緑地を多くという案で、東京都、小田急は商業施設、戸建住宅をの案である。我々の世田谷式生活・学校としても、近い将来京王電鉄の高架化(地下化)に伴い烏山地区でも同様の問題にすぐに対面するであろう。
それはともかくとして日経が大きくこの問題を取り上げたのには敬服する。
- 857 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十四日
5時過離床。空は真紅の朝焼け。三階のテラスの朝顔が10輪程花を咲かせている。ゴーヤは実をつけて昨夜は喰べた。
6時新聞を読み7時再眠。充分に眠っている筈だがいくらでも眠くなる。8時半再び起きる。空模様は一転して小雨である。
昨日ベトナムの中村さんより連絡あり、色々と大変なようだが頑張っていただくしか無い。明後日よりの北京行きの資料他は全て準備を終了した。庭のサルスベリ(百日紅)が桃色の花をたわわに咲かせている。気仙沼安波山の樹は花をつけたのだろうか。これから毎夏に想う事になるだろう。
Xゼミナールは難波和彦さんよりの便がONされている。難波さんは巧妙な議論の立て方を始めているが、この巧妙さが何の為の巧妙さなのかは良く視えない。すでに鈴木、難波、石山と三者三様の径を行くのが眼に視えている。代役やピンチヒッターも居ない。独りで論を尽して、それでダメならそれまでの人間だったとあきらめるしか無い。少なくとも稀代の建築史家が同じテーブルに着いている。歴史家はもとより小さい私は捨てている。
無私とは言えぬがケチな我欲は極めて薄い。その人間と論を交わすのであるから、それなりに最期の、それを手放したらおしまいよの私は消せぬ迄もその努力はしなければならぬ。
仲々しんどい事ではあるが、そうするだけの価値はあるのだ。
井上雅靖さんより3冊目の『続続牙靑聯話』送られてくる。最初に送っていただいた本に失礼な感想らしきを書いて送った記憶がある。
今度の本はあと書きでも御自身触れられているが、随分ハッキリと御自分の身辺について書いておられる。
一読、すぐに礼状をしたためる。じっくり読んで再び読後感は書いて送りたい。わたくしとは異なる土地に棲み暮す人のようであるの印象に変わりはないが、不思議さは加速する。
- 856 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十二日
7時過離床。新聞を読む。今日でロンドンオリンピックは終りだ。
いつの間にか高校野球が始まっている。もう秋になるのだな。
12時『東照宮の近代』内田祥士、ぺりかん社、読了。
2度目の本であったので、それなりの読み方が出来た。
1955年生まれの著者はこの本を読む限りでは独自な視線の所有者であり、技術論と意匠論とを溶融させるべくの野心の持主である。解りやすく言えば数々の都市災害(敗戦を含む)と都市の不燃化、建築の工業化の技術系と建築意匠を結びつけようと試みている背骨を持っている。
その仲介の素材が日光東照宮という大物なのである。
日光東照宮は良く知られるブルーノ・タウトの将軍の美学=イカモノの美学的価値観により、伊勢、桂のモダニズムへと容易に継承され得た美学とは異なる。しかし、無視し得ぬ何者かの表われとして今も在り続けている。
内田祥士はそれを日本の近代都市の俯瞰的アナロジーと東照宮を随分強引に結びつけようとしている。
その根拠は量によって保証される美学=現代の普遍化し得る意匠の根底らしきの直観であろう。しかし、その点については十二分に論じられているとは思えない。が、巨大な視界であるのは確かである。今年亡くなった大野勝彦の仕事を美の問題として眺め返す。更には剣持昤の規格構成材論を表現論として眺めようとする野心が秘められている如くの風があり、実に困難極まる事に挑戦しているなの感想を持った。
内田祥士の意匠論としての核は、建築史家の大河直躬への共感であり、少し飛んで加藤周一の美学論、東照宮はディズニーランドに酷似した“いかもの”=壮麗さを持つとの論であろう。
わたくしは少しニュアンスは異なるが『ハリボテの町』などの著作がある木下直之の一連の論を思い浮かべた。木下の論の中枢は藤森照信の看板建築=いかものの洋風=擬洋風建築への関心と同様の日本民衆、大工、棟梁の内的想像力の自由に対する視線とパラレルなのだが、内田祥士もその道程の過中に居るのを知る。大衆の東照宮、ホンの一部の知的エリートの桂のくくりは近代の日本意匠論の中心の一つであり続けている。
来週、東京駅の改修を見学に出掛けるが、大江新太郎以下の東照宮修理改修のプロセスを内田の論に導かれて少し知ると、東京駅の保存デザインの問題も意外に近いのではないかと考えたのである。
ちなみに東京駅設計の辰野金吾は1854年生まれ、1919年没、大江新太郎は1876年生まれ、1935年没。辰野23歳の時にJ.コンドルはロンドンから東京帝大に教師として着任している。
たかだか100年、されど100年。日本の近代は実に狂おしい時間の、まさにまがいの(いかもの)歴史の結晶である。
でも、しかしそのような認識にまがりなりにも自分勝手に辿り着いたとするならば、まがいでない、本物によって構築されてきた歴史なんてあるのかねの疑問にもブチ当たろうと言うものだ。
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八月十三日
3時前眼がさめてしまいノコノコ起きて本を読む。山本夏彦の『笑わぬでもなし』数片を読み何故か安心する。4時になったので再眠する。8時迄熟睡。
今日は昼に北京、台北の準備。
- 855 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十日 その2
昼過ぎ研究室で諸々の打合わせ。北京そして台北での準備と「世田谷式生活・学校」の次のステップに関して。来週はほとんどの人間が夏休暇に入るのでそれを見越した打合わせとなる。
今のような時代は休める時には休んでおいた方がよろしい。
山本伊吾さんより、山本夏彦、『山本夏彦とその時代③―笑わぬでもなし』送られてくる。忙しかったがどうしても読み返したかったので拾い読みする。何度も読んだ文章だが、古びてはいない。
「恋に似たもの」、就中、「沈黙の春」を読む。
レイチェル・カーソンの余りにも世評の高い書物でもある。
わたくしは水上勉が小林秀雄の追悼のためにレイチェル・カーソンのこの本を引いているので知った。
水上勉と小林秀雄の関係というのもいささかギョッとするが、小林は水上をとても好んでいたようだ。その人柄を。
そして何処かへ共に講演旅行をした際に水上勉にレイチェル・カーソンの著作の存在を教えたらしい。水上は後にその故郷に原子力発電所が続々と建設される事をいぶかしんでいたのだが、その所謂「公害」なる思想を独自に考えようとしていた初心の頃で、それに小林秀雄が助け船を出したのがレイチェル・カーソンであったと記憶している。
小林秀雄の死に際して最も感傷的ではあるが、それ故に感動的な血肉を備えた文章を寄せたのは水上勉であった。
しかし、わたくしの文章の師でもある、至らぬ弟子ではあるが、山本夏彦はそのカーソンの思想らしきには触れずに、その文章の、つまりは文体の悪さに難クセをつけているのである。イヤハヤ、何とも中々の人物ではあったなぁと深く懐かしむのである。
昨日伊藤さんより聞いた悪文の代表の如くの僧の文章に早く接してみたいものである。この文体に対する論理的感性こそは、まさに日本的なるものの中枢ではなかろうか。
山本夏彦はその文体をアナーキスト、武林無想庵との中学生時代でのパリ生活で身につけたのではあるまいか。
山本夏彦はラディカルな、アナーキストであった。
山本伊吾による夏彦の青春日記が附されていて夏彦さんの青年時代の性への関心振りの正常振りが記されていて面白い。
ワック社発行、1619円+税。
廣瀬英男さんより1年振りのお手紙いただく。
「アニミズム紀行7」の#060のドローイング他を手中にしていただいた人物である。
「お足のエルビス」のドローイングシリーズだけで1冊にまとめようと思ってはいたがエネルギーが出ずに延ばし延ばしにしていたが、これは頑張らないといけないと思った。わたくしのドローイングに関心を持っていただける人がいるのかと沈思黙考する。
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八月十一日
7時離床。ラジオで男子サッカー、日本VS韓国を朝方うつらうつらと途切れ途切れに聞いた。案の定2-0で負けた。わたくしの予想では3-0で負けであったから、ほぼ予想通りであった。
8時には世田谷村を発ち、小平、吉元医院へ行く。
先日副院長の不在で検診検査を受けられなかった。
- 854 世田谷村日記 ある種族へ
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八月十日
9時離床。3時半から日本女子サッカーのラジオ中継を聞いた。前半で1点を先行され、これはアカンなと思いつつ眠り込み、フッと目覚めたらもう空は白々として1対2で健闘していたが結局、力負けしてしまった。
力はアメリカが明らかに上だから良くやったのだ。負けたのは又もわたくしが途中眠り込んでしまったからであろう。しかし女子レスリングの吉田は3連覇の金メダルで凄いもんだ。この人は負ける人達の悲哀に感じ入る風があると、もう少し人間的な風格が出るのになあと、これは朝の新聞の報道写真を見ながら痛感した。
昨日は午後研究室で中国北京での打合わせの打合わせ、世田谷式生活・学校の打合わせの後、18時に新大久保近江家で伊藤毅先生と早東戦の学生サッカーならぬ恒例になった早稲田・東大の合同課題についての予備打合わせ。仲々難しいが良い課題になりそうで、隈研吾先生、伊藤毅先生の小レクチャーを是非にとお願いする。早稲田側のレクチャーはわたくしがやる。終了後四方山話し。先生より稲垣栄三の渡辺保忠の『伊勢と出雲』への書評の存在を教えられる。又、尋尊なる興福寺子院の別当の日記が面白いのを教示された。悪筆でしつこく、それ故に実証的であるとの事。歴史家は皆しつこいなあと感服する。
鈴木博之さんとはかなり違う史観とまでは言わぬが知性の形を持つ人だなと思いつつ話しを聞く。建築史家は建築家達よりも余程際立った個性があるのを知るのである。20時過別れ、21時世田谷村に戻った。
今日10日は午後打合わせがある。風が少し涼しくなって心地良い。サイトのキルティプール・ギャラリー4をネパールのタカリ族の長、ジュニーはのぞいているだろうか。
北京、台北の旅はスケジュールが余程大きく組まれているので、気合いを入れてかからないといけない。
磯崎さんから中原への力の移動の大きな話しを聞いたので李祖原のこれからの行動の行方も確認したい。
わたくし自身を要約する一枚のポートフォリオには「ひろしまハウスinプノンペン」の内部写真、時間の倉庫の内部写真と庭園計画、水の神殿の広がりそしてワイマール・バウハウス展、シュツットガルト芸術アカデミー展をはじめとする国際的な展覧会のキャリア、それにネクサスワールドと石山棟、磯崎新の福岡オリンピックへの計画案、わたくしのグアダラハラ計画、ミャンマの計画、等を入れたい。
又、恐らくそうなるであろうから、李祖原の超高層建築を中心とした数々へのわたくしの意見を述べられる小レクチャーのデータ作成を依頼したい。
西安の巨大建築、峨眉山のモノ、他をデータ化してもらいたい。
そして、石山研の展覧会のキャリア、ここには名古屋の「ガウディの城」他を入れて下さい。
このレクチャーは北京と台北の両方でプレゼンテーションの形式でなされる事になる筈です。李は何も言ってこないけど、当然の如くにそうなります。
そのベースはわたくしのMAN MADE NATURE展が李祖原の中原思想とオーバーラップしているという事でしょう。
冒頭に気仙沼安波山計画及びその実行を置いて、次に李の台北101、そして李の気仙沼計画、とほぼわたくしの仕事と李の仕事を交互にプレゼンテーションしたい。
このシナリオの一部を本日午後迄に見たい。
- 853 世田谷村日記 ある種族へ
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八月八日 その2
前から気になっていて、何故か手を延ばさなかった『東照宮の近代—都市としての陽明門』内田祥士、ペリカン社の再読を始める。
大部の本である。著者には送っていただいた礼状もまだ出していない。そして3年経った。これは「骨太な本だぞ」の直観と「未完である」が混在した印象を持ったのだが、3年伏せてもう一度読み直してみようと考えたのは今年の正月に高尾山薬王院をスケッチしていてフッと思い出した。
高尾山薬王院は日光東照宮にかり出された職人達の力があって初めて成った。
小さいが職人の技能、そして職人の想像力に宿っているアニミズムが横溢している。しかも日光の如くにブルーノ・タウトが将軍の権威を笠に着たいかもの、であるとした過剰な力の集中は見られぬ。ささやかな小建築である。しかし、面倒臭い装飾物のスケッチをしながら、不思議に没入してゆくのに気付いた。
その装飾への職人達の想像力に引き込まれた。
日光は内田祥士によれば土木的都市東京の写しであるとの指摘だが、この辺りの事は再読して確認したいが、高尾山薬王院程度のささやかな山岳霊場建築の建築装飾にはイヤなモノは何もない。それこそ愛すべきモノの宝庫のように思えたのである。3日程で再読破したい。
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八月九日
7時前離床。新聞を読む。昨夜現スポーツニッポン役員、元毎日新聞の清水さんに会ったので色々と新聞界の事をうかがった。
新聞各紙共に何時ネットに転換するか、10年以内の事であろうとの事であった。
大住広人さんは元毎日新聞労組委員長であり別の視線での話しを聞けた。
朝方電話でおしゃべりを楽しむ。メールはアハハハというのが無いのでやはり生が良い。
昨日大住広人さんからいただいた『ひでこ、りつこ、ひろんどのうた』(水書坊) 1470円+税を読んだ。
大住さんは先日Xゼミナールの連中と乗った北海道の旭川、紋別線の鉄道員夫婦の息子であった。
先日、その鉄道に乗ったばかりであったので、初めて身近に読む事ができた。
大住さんは前述したように元毎日新聞労組の委員長で、それ故の匂いが濃厚な人だが、ああ鉄道員夫妻の息子だったのかと妙に納得した。納得したら妙にこの本が面白く読めるのであった。
大住さんには前著、『はるにれのころ』(水書坊)があり、これはそんな実感がなかったので通り過ぎた。時間があったら読み直してみよう。
ちなみに水書坊の電話は03-3752-1577である。
- 852 世田谷村日記 ある種族へ
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八月八日
8時過離床。新聞を読む。
東京新聞の反原発の論調が際立つ。注目し熟読したい。各全国紙とこれ程の差異が表れるのは何故か。東京新聞はTV・ラジオ・番組欄の構成も独自で驚くべきものがあるが、メトロポリスすなわち一国の首都をカバーするを旨とするメディアの戦略性なのか?
昨夜はロンドンオリンピックの深夜放送を聞き損ねた。それが原因ではあるまいが、男子サッカーはやはり準決勝でメキシコに3-1で敗退した。化けの皮がはがれたとは思わないが、実力通りであったのだろう。女子サッカーは決勝でアメリカと対戦するが、どうやらデータからでは勝ち目は薄い。決勝は眠らないで、応援はしないがキチンと聞く事にしたい。しかし、ラジオ放送の実況のアナウンサーの熱狂振りは中々に心地が良い。特に日本チームがゴールを決めた時の「ゴォーーール」の長い絶叫は実にスリルだ。肺活量の限界までが振り絞られている。この「ゴォーーール」を聞くだけでも千金の価値があろう。
渡邊君へ。昨日は宗柳まで足を運ばせて申し訳なかった。
北京、台北で手渡す私家本は大方良くできていた。宗柳で偶然隣り合わせた志村さんとその後色々と話し合う事が出来て、おかげ様にて世田谷式生活・学校の具体的な展望が開かれたので概略を伝えたい。
今年末に長崎屋の道向うの小広場でモチつき大会を行う。何故なら志村さんが自称モチ搗きの世田谷随一の名人だからだ。ちなみに志村さんは世田谷の大工職人さん達の協同組合の専務理事である。 昨日、ホラ、名刺持っとけと渡された。
代々の宮大工の家で、それで途中は省くがいつの間にかモチ搗きの名人に育った。あの晴れ姿を皆に見せてえと、それでモチ搗き大会をやろうとなった。 長崎屋のオバンは今度もわたしゃイヤだとゴネたが、常連の客が皆、それはイイゾと言うので渋々ながら長崎屋後援という形で参加する事になった。長崎の被爆者代表で挨拶しろと言ったら、それだけはイヤだと言われた。
それで君に頼みがある。長崎屋の向いのバス停の角、子育てセンター駐輪場につながる角の小広場を区から借りられるかどうか区と交渉して欲しい。これから暑い中を見学に行くが、カンカン照りの小広場に何故か垂直廻転型の小型風力発電機が廻っていて、その下に円形にベンチが置かれている。しかし、ベンチはあるが肝心の樹木らしきがない。一本の樹があれば人々は少しは安らぐだろう。それに緑とエネルギーを軸とする世田谷式生活・学校のシンボルにもなる。 その樹木を区民の浄財にて賄いたい。
その浄財集めの為のモチ搗き大会とする。 志村さんは意気込んでいて人集めもキチンとやろうと言う。ビラ配って人も集めなきゃと、9月3日に第一回の準備委員会を開催することになった。わたくしの記憶ではこの小広場には小テントが張られて何かに使われていた事があるから不可能ではあるまい。 12月の2日間、子供とお母さんの日も設ける。子育てステーションがあるから。子供が来ると車が危ないから交通整理も必要になるのであなどれない。我孫子真栄寺のモチ搗き大会を思い起こしてくれれば良い。 人数は300名程度ではあるまいか。
各地でバス通りに面していない道は交通量も少なく行列が可能である。 先ず世田谷式生活・学校から保坂区長に書式で区の協力依頼を出した方が良かろう。その文言を考えてもらいたい。同時に恐らくは区の烏山支所の担当になるだろうから、借用可能かどうかを水面下で調べて欲しい。恐らく難しいという答えが帰ってくるだろう。しかし、場所はあの角の広場が最適である。 烏山区民センター前の広場では大き過ぎるし、長崎屋から遠い。 長崎屋は都市内厨房として2日間使う事はできるだろう。 何はともあれ、使用可能かどうかの感触を知りたい。
「絵はがきの別府」古城俊秀コレクションより、古城俊秀監修、松田法子著、送られてくる。
高校の修学旅行は九州一周だった。母はその費用を捻出するのに苦労しただろう。別府の鶴見岳に皆と離れて途中まで出掛けたのと、地獄巡りは覚えている。後にダムダン時代仲間と再び九州一周をやらかした。 別府で闇雲に辿り着いて飛び込んだ温泉が異常に凄惨であった。難病の湯治客専用の温泉であった。あの凄惨さは今でも覚えている。 都市史の観点から編まれた本である。別府の古層から読み始める。
中国から帰り、軽井沢で静養中の磯崎新さんと諸々の雑用の相談。昼過ぎとなる。今日は午後遅く神田の岩戸で馬場昭道、大住広人等と会う予定だ。
- 851 世田谷村日記 ある種族へ
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八月七日
7時前、Xゼミナール「前川建築の変貌」鈴木博之、「都立美術館のリニューアルを巡って」難波和彦の両片を読んで「想いつくままに、2」石山修武、6頁を書き、11時半研究室に送付する。
鈴木博之さんの反応が素早いのに驚いての、わたしの反応である。
これは手強いゼミになりそうで全く息が抜けない。
- 850 世田谷村日記 ある種族へ
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八月五日
4時半離床。天空は白く明けそめ始めている。昨日10枚迄書きのばした作家論・磯崎新27に手を入れる。ようやくにして深みにはまってきたかなと思う。どうやら磯崎さんは昨日、軽井沢から中国へ出掛けたようで、お元気なようである。
昨夜は深夜のラジオ放送でロンドンオリンピック男子サッカー日本vsエジプトを本を読みながら聴いた。永井という人が先制のゴールを決めたところで眠りに落ち、目覚めたら女子バドミントン日本vs中国の試合であった。
磯崎新が死者の島ヴェネチアのサンミケーレ島にデザインしたルイジ・ノーノの墓の詳細が知りたくって、書かれてあった筈の本を探したが神隠しにあったようで、どうしても発見できない。時々、本はこういう不思議をおこす。猫が何処かに隠したのではあるまいか。
磯崎新の本を乱読し続ける。ここ迄乱読を続けると変なもので妙な事に気付き始める。磯崎新が書くモノは自己言及が小さいものは説得力があるが、日本的なるもの、の如くに日本と自己に関する言及は冷静に読むといささか弱い。不思議なものである。この辺りの事を作家論・磯崎新28で書こうと決めて想いを巡らせる。又もや深夜ロンドンオリンピック競技ラジオ中継を聴きながら眠りに落ちる。書物もラジオも眠りに落ちる点では同じだな。
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八月六日
7時半離床。早朝、どうやらウサイン・ボルトがオリンピックの100メーター競争で金メダルを知る。わたくしは運動会の徒競走では2位が最高位であった。なるべく弱い奴とあたるように順番に並ぶのを工夫したりの努力をしてもどうしても一位にはなれなかった。
朝刊を読む。ラジオと新聞は全く別世界である。TVも更にそうなのであろう。とすれば言説の世界などは奈辺に今や位置しているのであろうか。あるいは全く位置していないのであろうか。レイ・ブラッドベリーの短編に、火星の運河だったかな、未来、書物を読む人がほとんど居なくなり、読者が消える度に書物の存在のアナロジーとしての火星の表情から何者かが消えてゆくと言うのがあった。レイ・ブラッドベリーの詩人としての才質が良く表れていたと思うが、あれは未来小説、つまりSFではなくって、今を描いたモノであったと知る。
ウェブサイト・インデックスのドリトル先生動物病院倶楽部のタイトルを外して下さい。キルティプール・ギャラリーで良い。又その機会がくればこのタイトルは復活させましょう。
- 849 世田谷村日記 ある種族へ
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八月四日
7時半離床。又もなでしこJAPANの試合をラジオで聴いて、しかし途中で眠りに落ちてしまった。本を読むのが催眠効果大であるのは最近痛感するが、オリンピックの実況中継も同じだ。どうやら、なでしこJAPANは2-0でブラジルを下したようである。
作家論・磯崎新27、8枚書く。10時ウェブサイトをのぞいたら、Xゼミナール再開、難波和彦便、石山修武便がONされていた。作家論、磯崎新25もスケジュール通りONされていたので、サイトは充実している。一時間程をかけて全て読む。
鈴木博之さんの『建築の世紀末』がある種の共時性を介在させているのを知るが、難波さんの言う歴史性が批評性でありアイロニーであるというのには異論がある。が、しかし具体物を欠く議論は空論に堕するから、これは追い追いやろう。
昨夜の催眠本は①福田和也の『日本の家郷』であった。章立てが明快で、第3章、虚妄としての日本-モダニズムの地平と虚無の批評原理、批評論を中心に読んだ。具体的なマテリアルは横光利一の『旅愁』である。文芸評論も論ずるに足る素材に事欠いているのだろうか。日本を主題の舞台にすると右翼という事になるのか、福田和也は右翼という事らしいが右翼というのは唯美派右翼であった三島由紀夫がそうであったようにとどのつまりはファシズム同様の武力行使という頭がわたくしの頭にあり、氏のふくよかな顔やTVを視ていた頃の印象からは程遠いような気がする。
ただ、批評家としては浅田彰の滑りまくる口語体とは一味ちがう古めいた(万葉振り迄はゆかぬが)大正硬派白樺派みたいな匂いがある。三田文学の匂いかなとも思いつつ眠りに落ちる。
②中沢新一『アースダイバー』
実に軽妙な文体の持ち主だと感心するうちに眠りに入る。
『チベットのモーツアルト』を初読した時にはそのオリエンタリズム(サイード)、つまりはエキゾチシズムに仰天したものだ。
その後、オウム真理教事件の教団共振者として、『オウムと全共闘』小浜逸郎に厳しくバッシングされたが、島田裕巳(宗教学者)が再稼動している以上に、再び羽ばたいている。ダイバーというよりも、スチーブン・キングの『ナイト・フライヤー』と呼ぶべきか。血は吸わないけれどメディアの血の匂いは逃がさないのであろう。才人であるなと感服するうちにこれも又、眠りに落ちよう。しぶとい人柄なのだろう。世田谷村の近くと言っても旧甲州街道向うに、オウム真理教の別種教団アレフの道場があるが、中沢新一の分野である宗教人類学、まあ宗教学だが、それは重要なのだとは思うのだが。いぶかしい人物である。
- 848 世田谷村日記 ある種族へ
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八月二日 その2
16時、Xゼミナール、草稿11枚書き終わり、研究室に送付。明後日、8月4日朝に難波さんの草稿と同時にサイトONするように依頼する。流石に少しばかり疲れた。ついでにと言ったら何だが作家論・磯崎新27を少し進めようと試みるも頭がついていかず、ついに小休する。
20時いささか疲れて横になる。
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八月三日
7時離床。今日も暑い日になるな。こんな事書くのも馬鹿馬鹿しい位に。本を読まねば睡眠に落下できぬという、いやな習慣がついてしまった。これ迄の体験ですぐに眠りに落ち易いのは①柄谷行人『探求』、②『レッドオクトーバーを追え 上・下』、③蓮實重彦の大半の著作、④渡辺豊和の近著、⑤村上春樹の全ての著作、である。
①の『探求』はなぜこのような書物が書かれねばならぬのか、そして柄谷行人は固執するのかの不可思議に呆然とする中で自然に眠りに落ちる。
しかし柄谷氏は首相官邸前の原発反対デモの小さな呼び掛け人でもあり、それと『探求』は結びついているのだなの、信用は在る。やはりNAMの観念的運動の余りにも苦々しい挫折がそうなさしめたのであろうか等と考えていると誠にアッという間に眠りに落下出来る。
今夏の猛暑の眠れぬ夜には枕としても丁度良い厚さにもなり得る。Ⅰ、Ⅱを平積みにすればだ。言論は資本主義の現実に全く無効であるのを知らしめるのである。
②T.クランシーのスーパーベストセラーである。これ位売れればマーケットなんていう用語を使って考える価値もあろう。しかし、これ位の桁で売れる本、しかも冒険、推理小説というメジャーマーケットで頭角を現してくるのはやはり異常に高度な全体の構築力が在るのを痛感する。
俺もこんな本を書いて左うちわで暮らしたいと思えど今日の暑さかなで、とても書けない。頭の良さ、その資本主義的合理性から考えてみればT.クランシーははるかに柄谷行人より頭が良い。IQもはるかに高いのではあるまいか。IQに関しては柄谷の『ダイアローグ』の中で故中上健次と話題にしているので、コレワ暴言ではない。
③蓮實重彦の『凡庸さについてお話させていただきます』等の話しの作り方が良く解らない。
それにこの人物の根底にある通俗根性に想いをはせているうちに、イヤな気分になる前に眠る事が出来る。
『監督 小津安二郎』は蓮實重彦の本分であろう映画論であるが、実に凡庸な本であり、何の刺激にもならぬのがこれも又催眠状態にいざない心地良い。
④著者の最新版『失われたアトランティスの魔術』はそれこそ、霊界の人、仙童寅吉も出てくるわ、アインシュタインも出てくるわで、著者が意識してT.クランシーの2分の1、あるいは3分の1程の物語りの構築性に気を使ったならば、ヒョッとして日本的ベストセラーになり得るか?と親友、渡辺豊和が巨万の富を得て少し古くはなったが六本木ヒルズで暮すのを夢見たりしているうちに自然に眠りに落ちるのである。豊和さんは要するにベストセラーを狙うという強い方法論を持たぬのが弱い、俺もそうだとシミジミ、これ又眠りに落ちるのだ。
⑤村上春樹は巨額の印税を何に使うのであろうかと、色々と想いを巡らせているうちに、一ページも読まぬ前に眠りに吸い込まれる。それも村上好みの浅いアンダーグランドへのトンネルの姿を遠望出来ぬまに眠れる。
しかし、T. クランシーとM.春樹の印税収入はどちらが上なのであろうか。M.春樹もアーサー.C.クラークの如くにいずれセイロンならぬ、ギリシアのアトス山に豪邸を構えてひっそりとしかし目立ちながら暮すのかなあ等と考え込んでいると更に眠りに落ちるのは早まる。まさか讃岐うどんの里に豪邸は構えまい。しかし、村上春樹のうどん屋敷ってのもズルズルしていて面白い。
この日記のあり様はこれはもう夏休み状態ではあるまいかとの考えにも陥りそうだ。休まないぞ。
佐藤君、作家論・磯崎新25できれば注釈抜きで今日サイトにONしてもらった方が良いかな。どうでしょう。明日の午前中にXゼミナール・再開版が始まるから、その方が良いと思います。
- 847 世田谷村日記 ある種族へ
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八月一日 その2
12時宗柳で渡邊大志、佐藤研吾と打合わせ。
ネパールのジュニーからの伝言を伝えられる。ナーリさんの友であるジュニーである。やっぱり義理と人情に厚い。胸に込み上げるモノあり。延々と打合わせの心積りではあったが途中で今日がXゼミ会合の日である事に気付かされる。暑さボケである。あわてて12時45分切り上げ、新宿で皆と別れ14時ギリギリ約束の上野、東京文化会館のロビーへ。鈴木博之、難波和彦両先生すでに待っている。 すぐにXゼミ本題の前川國男事務所設計の東京都美術館増築の見学。夏休みに入り、フェルメール展示もあり多くの人が来館されている。この間の探訪記はXゼミナールに投稿するので記さぬ。
「東京都美術館ものがたり」の無料展示が興味深かった。都美術館、文化会館、国立西洋美術館の模型がキチンと展示されている。 前川國男と上野の山の連がりの深さ、それは帝室博物館のコンペ案から始まるのだが、に思いを致す。 再び文化会館に戻ろうとなり、酷暑の公園を歩く。妙な交番やらカフェがかつての端正だったオープンスペースを埋めて、ここにも又大量消費社会の波が押し寄せている。文化会館のまことに小さなジッグラトを視て、どじょうを喰べるかどうかで意見が分かれたが、鈴木博之さんの「どじょうの方がイイ」の一声で、そうだそうだとなりTAXIで浅草駒形どじょうへ。途中色々な処から東京スカイツリーを眺める。どじょう鍋をネギたっぷり盛っていただく。
しばらく休み、ソバでも喰おうと仲見世通りへ向う。やぶソバは通り過ぎる。隈研吾の雷門前の控えめな五重塔もどきを見る。色材質が周囲と融け合って佳品であると思った。隈さんはテクニシャンだな。ナーリさんの親戚の壱番屋、飯田屋をのぞくも飯田さん不在で、難波和彦さんの消防署を見学。隈さんの建築とは正反対に自分の方法に固執した建築で、これも又難波さんらしいと感じ入る。ひとつの姿勢、ひとつの方法、ひとつの美学が街をもともと支配するのではないのポストモダーンの世界を両者の建築の相違は良く示していた。何故か、ロバート・ベンチューリの消防署がフッと頭をよぎる。難波建築との距離がそうさせたのか?ベンチューリの建築の理論はいいんだけど、いまひとつ実物はねの不思議なアメリカ大陸での受容はそれだけのモノでは無さそうだ。考えてみたい。再び飯田屋へ。
若主人は帰っており、早速これもナーリさんの親戚の十和田屋ソバ店へ。幡随院長兵衛の血を引く、シャキシャキの美人が仕切る店だ。 飯田さんをXゼミの二人に紹介する。何しろXゼミの御二人はカンボジアで客死したナーリさんに会っていただき、ナーリさんもいたく感激恐縮していたという由縁がある。ナーリさんのプノンペンでの葬儀の話しは又、いずれ又何処かで飯田さんの話をうかがいたい。 二階から響いていた三味の音がフト途切れ、姿形を津軽三味線に整えた女性達七名程、降りてくる。 わたしたちの津軽三味線聴いてもらえますかの口上。飯田屋の差金であろう。喜んでうかがいますとなり、十和田屋はXゼミ専用の三味線劇場に転じた。津軽三味線曼荼羅とやらを聴く。ナーリさんに聴いてもらいたかったものですからとのシメの口上があり、一瞬涙がほと走りそうになったが面々の手前こらえた。 ナーリ劇場をたんのうした。鈴木、難波両先生も楽しんでいただけたようであった。 今日の昼、ジュニーからの伝言にあった、ナーリさんの広いヒューマニスト振りがこれを成した。成さしめたのである。鈴木先生と別れ、難波さんと地下鉄、別れて新宿経由、千歳烏山へ19時過ぎ戻った。良い一日であった。忘れ得ぬこれも又旅の一日である。
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八月二日
8時離床。明方迄色々と思う事もあり眠れず。ついでにオリンピックのラジオ放送を音楽のように聴き流す。日本サッカーは引分けでどうやら準々決勝でブラジルには当らず、エジプト相手のようだ。
メモを記し、再開された本来のXゼミナールへの投稿文を書き始める。10時小休し、朝食。何とか今日中にXゼミナールは書き終えてしまおう。
- 846 世田谷村日記 ある種族へ
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八月一日
10時前、作家論・磯崎新26を書き終える。すぐに27を始めるが小休とする。新聞でも読む事にするか。磯崎新論は自分でも驚く程にエネルギーが持続している。思い返せば始める前には俊乗房重源をやるかR・B・フラーをやるか迷っていた。少しばかりの残念さは残るが今は磯崎で良かったと痛感している。重源に関しては伊藤ていじ、広瀬鎌二の労作があるが、片や平安、鎌倉期のディテールの博識らしきに埋まり切り、重源の建築の日本建築史の中での特異性に一向に接近し得ていなかった。
こなたは即物的な建築につかまり過ぎて、その歴史性が描かれていなかった。大体、広瀬鎌二の工業化建築(住宅)論、及びその作品らしきと、重源の成した建築の意味の大きさの乖離自体がうまく自覚できていないようであった。広瀬は所謂エンジニアリング系のアプローチで重源を究明しようとしたが、彼には重源が本来、『南無阿弥陀仏作善集』の記録のみを残した実践的宗教家、すなわち坊主であったという視線が欠落していたように思う。
今、現在作家と呼び得る建築家は日本では磯崎新だけであろう。他は無い。
書き始めて良かったと自覚するのは、第一にまだ謎がある。他の日本製建築家にはそれが一切無い。要するに底が浅い。R・B・フラーもわたくしと川合健二の小史を振り返れば興味津々たる対象ではあったが、すでに多く書かれてきた以上の事は結局書けなかったろう。
ともあれ、今朝、作家論・磯崎新は27にとりかかる迄にはなり、25で閉じかかった壁も突破できそうな気配も手中にしている。
暑い夏に行くところ迄走ってみる。サイトへの発表は予告通り25で一度夏休みとする。
本来のXゼミナールの形式に戻したい。