石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 10 月

>>11月の世田谷村日記

925 世田谷村日記 ある種族へ
十月三十一日

7時離床。ワイマール、台北、東京(WT2)チームの次の展開についての考えはほぼまとまった。実行に移したい。

東京国立スタジアム国際コンペのWT2応募案の全てはウェブ・サイトに公表する。御老体3人組みとも呼ぶべき実に良いチームであった。

このチームの結(ゆい)は実を結ばせたい。

サイトをのぞいたら「Xゼミナール」が全面的に更新されている。

渡邊大志、佐藤研吾の二本の投稿がONされている。双方共に力作である。日本の最若年ではわたくしがもしかしたらと目星をつけた人材である。似ても似つかぬところが取得だ。

この二本の投稿には、不肖わたくし奴が鋭意注釈を附してゆく。

その注釈共々できれば読んでいただいて鈴木博之、難波和彦両先生にクリティークいただければ幸いである。

で早速8時40分注釈差し込みにかかるとする。

今日は台北、ワイマールにいくつかの連絡を再開するので忙しい日になる。

924 世田谷村日記 ある種族へ
十月三十日

6時半離床、一昨日、日記に何月何日の日付を記すのを止めようと思った。

そうしないと、本日だったら924のメモの番号の意味が薄いからだ。でも習慣だろうか、今日のメモにも日付を附してしまった。人間は習慣の動物でもあるとつくづく思う。サイトをのぞき、新聞を読む。そう言えば思い出した昨日久し振りに安西直紀くんに電話したら、空港に居た。台湾に出掛ける途次とのこと。

石原慎太郎が突然都知事を辞めた。都知事選はどうなるのかと尋ねた。彼も知る由も無いだろうが、わたくしよりは事情を呑み込んでいるのではと思ったからだ。

結論は、誰も明日の事は解らぬだろう、である。でもそうではないだろうというのが、政治盲のわたくしの意見。石原慎太郎はただ歴史にもっと大きく名を残したいとの欲で都知事を辞めた。野心と欲は人間社会のカオスの原動力である。政治家はその固まりであろうと想像するが、それも失くした体の輩も多いようである。

11時研究室。12時発。新宿で佐藤とメシを食い別れる。その後雑用。次の展開の骨子が少し明らかになってきた。

夜世田谷村に戻ったら、研究室より連絡入り、東京国立スタジアム国際コンペは落選とのこと。WT2でやったコンペであった。ワイマールのW、台北のT、東京のTの略である。

台北の李祖原、ワイマールのG.ツィンマーマン、東京の石山他のチームをつくって力を尽したが及ばなかったようだ。

923 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十九日

6時半離床。新聞を読んで再び寝る。8時半再離床。研究室に送信するメモ類、原稿のチェック。9時了。山口勝弘先生に電話したら、相も変わらずお元気そうであった。相も変らずとわざわざ言うのは、何とまあ変りの無い事よ!の讃嘆の念からである。先生は確か磯崎新さんより幾つか年が上である。相も変わらず、車椅子の幽閉生活ではあるが、頭脳は驚く程に明晰である。先生に関してはサイト上で小さなアーカイブを作り始めていたけれど途中で中断したままではある。

動かぬ(動けぬではない)人、不動様になってからの山口勝弘先生は凄いと思う。ようやくにして感傷を取り去り、その人間の頭脳について考えられるようにはなった。以前、山口勝弘先生にはコケの話しをした事があった。コケアートを金に出来ないかの乱暴な山であった。ヘラヘラ聴いていたような先生だったが、以来、電話するたんびにコケの話しをなさるのである。ホントの芸術家はコワイ者である。11月になったら今居られる療養所が新築の為取り壊しとなり、近くに御本人は移転するそうである。

淡路島の山勝工場はどうなるのかな。

淡路島の山田脩二に電話したら淡路の司法書士磯崎さんが亡くなったとの事。

「でも偉かった。抗ガン剤を6回、(6段階)まで医者の言われる通りにやって、ボロボロになり倒れた」との事であった。普通は4段階まではやるのだが、その先はできないとの事である。

「山口先生の処には仮住居に引っ越しされてからお目にかかりにいこう」とアドヴァイスされる。こういう事、長生きするとかブッ倒れるとかの話しはわたくしよりは山田脩二の方がすぐれた考えを持っている。何しろ奴は大円とか円生とかだったか、イヤ円生は落語家である。の得度名を持つ身である。ではそうしましょうか、となったのであった。

奈良の渡辺豊和さんと仁徳天皇陵近くの遺跡について無駄話を少々。

秋の宮温泉の旧旅館がいよいよ取り壊しになるそうだ。ソロソロ腰を上げるかな。

15時烏山地区に戻る。18時世田谷村に戻る。

途中を全て省くが、選挙というシステムが日本全体を駄目にしているのではないかという考えにとらわれるが、これは戦後アメリカ型民主主義の帰結でもあるのでなにをか言わんやでもあろう。

真栄寺・馬場昭道住職より電話をいただきベトナムの件を相談する。

岩波書店より磯崎新著作集の月報に寄稿せよとの知らせ受け取る。何とたった6枚の寄稿分量である。だいぶ前から磯崎新に言われておりそれなりにやらねばと思ってはいたが、いささか拍子抜けする。

10月29日の記録である。

922 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十八日

8時半離床。今日は日曜日で世田谷村に沈没しようと考えていたので昨夜来乱読して身体のリズムが乱調である。予定通りGA編集部より依頼された観音寺に関する原稿を書き、10時前に終了する。西早稲田・観音寺については1996年に『GA JAPAN』で触れた事がある。あれから16年経っている。むしろそれ位の時間が経った方が当時考えていた事、考えようとしていた事は形がハッキリしてくるモノだ。それを書いた。

昨日、27日は12時過研究室で皆と打合わせ。13時ダナンの中村さん来室。ダナン計画の件。いささかの人々がヴェトナムから今秋来日されるようだ。

計画地の中心にイメージした直径115メーター程の円形庭園広場について熱心に討議する。世界の何処にも無いようなモノをつくりたいだけだ。

15時半了。再会を約して中村さん去る。浜松より金田真さん来室する。山本夏彦のファンだった人で懐かしい。16時半了。その後、皆と再び打合わせして新宿で会食。ただただ一生懸命にやらなくてはと思う計りである。

20時前世田谷村に戻り、早々にメシを喰って、それで乱読に入ったのでした。

渡邊大志より「2012年再読・『幻庵の浮橋』」の草稿を渡された。これもわたくしが依頼してのXゼミナールへの投稿原稿である。

妙なところのある原稿ではあるが、恐らく彼の最良の原基の一つを探り当てたのだろうとむしろ妙なところが出てきたのにホッとしたりもしたのであった

28日に戻り、アレコレと考えを巡らせるが手を動かせる迄にはならない。8月末に岡田しな子さんより便りをいただいていたのでその返信を書いたりで過す。山本夏彦さんの娘さんである。夏彦さんにしても、ナーリさんにしても姿を消した人の姿は日々確固たるものになる。これも又人間の想像力らしきの一端なのだろうが、人間に特有の形なのだろう。

長崎屋でビールを一本だけ飲んで戻った。以降、乱読に次ぐ乱読。

921 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十七日

四時目覚め、離床。読書&WORK。6時再眠。8時過再離床。

小林秀雄の徂徠、福田和也の徂徠とつまみ喰いして、最後に梅原猛の塔についてのエッセイへ流れた。孔子の事を少しかじりたくってこうなっている。

何故、イセには内宮、外宮の二つの御柱が立つのかを梅原は天武、持統の壬申の乱と天武のイセとの関係には直接触れないが、壬申の乱から遠い場所であった大和の同様の二柱について述べている。

昨日は午後製図室で東大との合同課題のエスキスを見る。わたくしは全体の流れを見るだけで、細部は全て若い先生方に任せている。しかし気だるい感じは全く時代の鏡そのものだな。ジタバタしても仕方無いだろう。

少し疲れて夕方早目に世田谷村に戻った。佐藤研吾がXゼミナールに投稿しようとする原稿を読んだ。これは図面が無いと伝わらないかもしれない。

しかし投稿をすすめたのはわたくしだから、いささかの責任もある。

やってみなはれって感じですな。

あっという間に10時過ぎだ。メモを送信して、11時半には発ちたい。

13時にベトナムから人が来るのが楽しみだ。

920 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十六日

6時半離床。新聞を読み、サイトをのぞく。石原都知事が唐突に辞職し、新党を立ち上げると報道されていて、アラアラと思った。わたしのサイトは少し充実し過ぎて全て眼を通すのにいささか努力がいる。もう少しブラブラリした方が良いかも知れない。

映像・キルティプールの家の事だが、その視方のような事でヘエーッと思った事があるので記しておきたい。

今、画像には二人の人物が登場している。この人物はアニミズム紀行5を読んでいただくと、その情景が描かれているので繰り返さない。

人影はでも誰の記憶にも乗り移る事が出来る。昨日の919日記で図らずも居なくなったナーリさんの記憶をいささかズルズルと描いたのは、この映像に視入っていたからだ。

テントの下の黒壇のテーブルを挟んで対面している、シヴァ神殿のシルエットを背にしている人物が突然オヤ、これはナーリさんじゃないかと胸をついたのだった。

で、一緒にレンガ積みでもしようかと考えていたけれど、居なくなってしまったので一緒のレンガ積みは出来ない。

その残念さがそう思わせたのではない。

シヴァ神殿のシルエットがそう思わせた。

プノンペンのナーリさんの終の棲家には線香立てと、小さなシヴァ神が祀られていた。恐らく自分の健康に不安を感じて、何かに祈らざるを得なかったのだろう。きちんと南面していた。

キルティプールのシヴァ神殿の内にもシヴァ神が居た。その姿は思い出せない。リンガだったような気もするし、ナーリさんの終の恐らくは願かけの依り代だった小さな踊るシヴァ神であったのか、どうしてもハッキリしない。

今、想えばアレが消えた生身のナーリさんとの別れだったが、「このシヴァ神持って帰って下さい。差し上げますよ」とナーリさんは言った。

「イヤ、ここに居なくちゃいけないよ、シヴァは」と断わった。10cmくらいの真鍮細工のシヴァ神であった。小さくてとても良かった。

あの線香の煙と一緒にいた南面するシヴァ神は今何処に居るのか、消えたのかは知らない。

そんな事もあって、シヴァ神殿を背中にした人物の影をナーリさんじゃないかと思ったのであろう。

そう思って眺めるとこの二つの人影は色んな組み合わせで視る事も出来るなと気付いた。

ドローイングや絵画そして動画等の映像の特権である。言葉は厳密なところがあるから対する人間の想像力はしばる。

こんなノスタルジーにしか過ぎぬような事でも、随分と未知な世界に踏み込ませてくれるものだ。

10時前、製図室に出掛ける時間を確認して、メモ「生垣」28を研究室へ送信する。

919 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十五日

7時半離床。明け方目覚めて4時半より磯崎新の『建築における「日本的なもの」』、イセを熟読した。読了して安心して少し眠ったようだ。「生垣」はすでに29迄書いたが、思いもかけず中国春秋時代の精妙な青銅器に始まる、中国古代の造形物へ話しが飛躍した。こうして日記を記したり、「生垣」を書いたりしていると否が応でも自分が何をしようとしているのかの中心らしきがひどく気になるものだ。

自分の事はさて置いて他人の事は良く視える如くの幻想も生ずる。例えば磯崎新のイセや重源を読みながら、オヤオヤこの考え方は鈴木博之の地霊の考え方とすれ違わざるを得ないなと気付いたりするのだ。「生垣」は磯崎新の建築における日本的なものの再検討になるだろう。又、鈴木博之の地霊を出来れば朝鮮半島、中国大陸、台湾等の造形物に見てゆこうとするものになるかも知れぬが、意あって力なしに終るだろう。でも、マア、力は尽してみたいものだ。

つまり、何を言おうとしているかと言えば、磯崎新の建築における日本的なるもの、その日本的なるものはつきつめれば自然に精霊を見ようとする集団的な作為でもあり、これも又考えつめれば一向に日本的なものばかりとは言えず、広く地球上に広がっている事なのではないか。「生垣」ではそれをブラブラ書いていきたい。

ブラブラ、当てずっぽう、場当たりに書いてゆくのはどうやらわたくしの方法でもあるようで、そうしないと持続できない。長く書けないとロクなモノにはならないのはすでに知るところでもあるので、何を言われようとブラブラ書いてゆくのである。

サイト「Xゼミナール」難波和彦さんのブータン旅行記を読む。

犬の夜吠えがうるさくって眠れずというのにクスリと笑った。確か難波さんは師、池辺陽没後、一年程も世界旅行というよりも、らしからぬ放浪した筈である。

その旅でも夜吠えの犬には多く出遭っただろうがやっぱり眠れなかったのかなあと考えたりした。

今の東京の中心部の動物も室内に閉じ込めて声も出させない方が少しおかしいのかも知れないと思ったからだ。

ナーリさん(アニミズム紀行3)がまだカンボジア、プノンペンのウナロム寺院の、ひろしまハウス隣りに住み暮していた頃、よく泊めていただいた。

夜、街も寺院の境内も寝静まり、外のテラスに蚊帳を吊って眠っていた。

犬の遠吠えがとても物哀しかったのを思い出す。次から次へとそれは連鎖して何かを訴えようとしているかに聴こえてあきなかった。

定住している遠い東京が何処かの植民地都市に思えたりもした。

ナーリさんが暮していたのは地上三階のテラスが全てであるような広間であった。月の光、星の光がひろしまハウスの屋根に降り注いでいた。

ポル・ポトが司令部にしていた本殿の屋根も光っていた。

明け方東の空がレッド・クメールの血の色のように明け染め、ナーリさんは飼い犬を連れてトンレサップ・リバーに散歩に行った。

帰ったら、犬は満足そうにノミをナーリさんにとってもらっていた。

それから、二人で近くの長崎屋みたいなラーメン屋に朝食に行った。屋台の湯気が街に流れていた。

ナーリさんがアッという間に居なくなり、何処かに消えた。わたくしはプノンペンに行く事も無くなった。プノンペンはナーリさんが居てのプノンペンであり他の何者でも無かった。

確かにナーリさんは消えたが、意外な事にその人間の輪郭と、その人間が居た場所の記憶は風のそよぎや、暑さ寒さ、夜明けの光の有様の中に増々ハッキリと確かなモノになり始めている。

記憶の中のナーリさんや、ナーリさんの家は今、わたくしの「キルティプールの終の棲家」にほんの少しだけ再現され始めている。風のそよぎや鳥の鳴く声の中に。

映像という現代のアニミズムの結晶は途方も無い拡がりを持ち、同時に途方もない不可能そのものでもある。

キルティプールの家をのぞいたら、ドアを入ったところのドローイングが予定通り替えられていて、ホーッ良いじゃないかと感心した。

実はこのドローイングは今進めようとしているヴェトナム、ダナンのプロジェクトにいずれつながるのだが、それはつながってから記す事にしたい。

五月女も次第に良くなってきた。何よりも感覚がゆるく開放されてきているのを自覚したら良い。

このドローイングを置いた位置はベストです。

マア、余白を探したらここしか無かったのかも知れないが、それはともかく良くなった。

918 世田谷村日記 ある種族へ

気になったので、誤訳というか誤編集を一点のみ記したい。

イームズハウスに関しての評をアメリカ・モダニズムとしてある。917の最後尾。

これはわたくしの草稿ではアメリカン・プラグマティズムとなっていたので修正したい。アメリカ・モダニズムとアメリカン・プラグマティズムでは開きがある。アメリカン・プラグマティズムにはわたくしの若い頃のヒーローでもあったR.B.フラーも入る。その末端にイームズが居る。アメリカン・モダニズムとは不勉強でしっかりした定義も無いかと思われるが、ヨーロッパから移送されたグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ等、ハーバード、MIT、IITのアメリカン・バウハウスの路線を指している他は何の根拠も無いのではないか。

十月二十四日

6時半離床。新聞を読む。TVが無いのでかなり集中して読む事になる。これで新聞を読まなくなったらとも思うが、社会と切り離れてしまうわけでも無いだろう。

新聞は新聞各社が伝えたい事だけが活字になっている現実がある。

朝の光が流れ込んでいて気持は良い。今朝は「生垣」をいつもより少し長目に書きながら、いささかの方針を決めたいと考えている。

10時過「生垣」28を書く。いささか資料を持ち出したりで疲れた。

生垣から備前閑谷学校の孔子廟にゆき中国春秋の青銅器の造形まで辿ろうとは思いもかけなかったが、できるところまでやってみたい。

知り得ている事が余りにも少ない、自分で自分に怒りを感じるくらいだ。怒ると空腹になる。

朝食とする。

917 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十三日

7時過ぎ離床。日経新聞の文化往来に愛媛県八幡浜市、日土小学校の木造校舎を保存、再生した人々が2012年ワールド・モニュメント財団(ニューヨーク)ノール・モダニズム賞を受賞したとの記事がある。

やはりと言うべきか、世界には眼も頭も備えているのが決して少なくはないのだなと知る。又、これをキチンと記事にする人間もいるんだなあと思う。

この件はしばらく前に鈴木博之さんから聞いていた。鈴木博之さんの個人史にとって2012年はエポックになるだろう。東京駅の復元再生と共に喜びたい。建築史家はスポットが当たらぬを旨とするが如きがあるが、めでたいモノはめでたいのだ。

大分前の事になるが、『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』の大部の本を花田佳明氏より送っていただいた。通読したが礼状も何も返していないのがズーッと気になっていた。

今度の受賞は花田佳明さんの著作の力もあったのだろうか。

建築の保存、再生はまだ外から眺めるだけだが恐ろしく総合性を備えた文化運動でもある。それ位の事はようやく解ってきた。

生垣」を書き続けて、そこ迄辿り着けるかどうか。自信はない。

岸和郎さんより『重奏する建築』、TOTO出版1800円+税、送られてくる。

まだ読み通してはいない。読み通さずに礼状も書けぬので何とか読む努力はしてみたい。どうなりますか。

以前Xゼミナールでチャールズ・イームズ自邸を少しかじった。難波和彦さんが岸さんのイームズ解釈をしきりに誉めていたが、わたくしは知らなかった。

この本の最終章9章にその分析らしきが述べられていてそこから読んでいる。

イームズハウスについては磯崎新が20世紀後半そのものを集約しているカタログハウスだとしている。アメリカ・モダニズムアメリカン・プラグマティズムの産物であると言う事である。

これは磯崎にしか言えぬ言ではあるが、岸さんの解釈はそれとは遠い地点からの考えであろう。

916 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十二日

7時半離床。新聞を読む。おだやかな朝の光だ。生垣の女郎グモの腹が赤くなって、その動きが活発になってきた。小さな小さな羽虫が何かに引寄せられるように女郎グモの身体にまとわりつき、恐らくは食べられているのだろう。又、昨日は初めて大きな獲物を銜え込んでいるところも見た。見ているとあきないがズーッと立って眺めているのも何かと疲れるものではある。これから冬になるので今沢山食べているのかな。気になって生垣の内に廻り樹々に巡らされたクモの巣を眺めたがクモの腹も赤くなっておらず、どうしてなんだろうか。

気になって生垣巡りというよりも女郎グモの点検に出る。一つ一つの巣の形は著しく異なっている。一つの巣に一匹のクモのルールもない。一つの巣に親子なのか大グモと子グモらしきが共生しているのもある。この小さいクモが大グモを食べるなんて光景が出現するやもしれないと期待したりで、15分位は楽しめるのである。

やはりどうしても生垣の樹や花よりもクモの方へ眼がゆくのはやむを得ない。

何しろ生物の動きは視えやすい。

植物も動いているのだろうが、その動きは眼に映りにくい。

しかし、皆同じようなものだろうと思っていたクモの巣の形状が個々に著しく異なるモノなのを知るのは驚きだな。立体的に糸を張り巡らせているのや、平面形の、いわゆるクモの巣らしきパターンが明瞭なモノ、ほとんど出鱈目としか思えない乱雑なもの。実に多彩である。

要するにクモの固体が巣を張ろうと考えた時に選ぶ場所が先ず問題なのだ。高い樹上からほぼ地下迄何メーターもの距離に張り始めるのもいるし、小さな生垣の隙間に張る奴もいる。不思議である。

樹々はとも角、世田谷村の構造もテンションが多用されていて、ある意味ではクモの巣だ。このテンション材に巣を張る奴が出現したら、それは見物だぜと思ったり。クモには関心のない構築物なのかな。屋上の樹々雑草もクモはいまだ巣を張らない。風が強いからなのだろうか。

9時半「生垣」27を一枚書いて中断。小休する。

915 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十一日

6時半離床。新聞を読み再眠。8時半離床。少しのWORK。

小休する。9時半メモを記している。914日記で記した「生垣」26にも少し手を入れた。

生垣」は作家論・磯崎新の如くにその始まりは何気なく散歩のように始まっている。でも我ながら予想していた如くに、どうやらそればかりでは無さそうでもある。

そのはじまりの生垣を点検観察したら、女郎グモの腹が紅く鮮やかに色付きおまけにプックリ太っていた。多くがそうなっていた。

まさに、おいらんのケバケバしい行列の服飾のようである。ビックリした。

何の為にこうなったんだろう。でも、この方向の観察は生垣の連載の方向にどうやら無縁でありそうだ。

914 世田谷村日記 ある種族へ
十月二十日

7時過離床。サイトをのぞき少し混乱する。日記がわたくしの書いた順序通りではなく誰かがアレンジして順序立てられていた。又、書き留めしておこうとストックのつもりで蓄積していた「生垣」連載も25迄全て一気にONされていて少々あわてた。これでは休日も無くなるなと少しガックリ。マ、ドンドン書けとの催促かと思いあきらめることにした。日記の方の混乱もわたくしの送信方法に難があったのであろう。これからはメモを記しているライブの日付を日付として記す事にする。

生垣の方はそんな訳で見出しのつもりの写真が同じのが幾つか連続してしまっているのはそんな理由からなんである。こういうのは手抜きをしているようでイヤなので、キチンと次回からは変えて欲しい。同じモノが連続してしまったのはそのままで良い。おかしな事として記録に残せば良い。

昨日、19日はと昨日を振り返るが、ここで記録番号は915にしないように。と老人の繰り言のようにいささかしつこい。今日は油物は喰べたくない。

11時半研究室、修士論文相談。12時過製図準備室にて専任の若い先生方、渡邊、小林両先生と少し計りの話し。わたしのここ5年間程の合同課題のプロセスについての考えを伝える。その後中川武先生と相談。15時合同課題中間エスキス。18時半去る。

再びそんなわけで「生垣」を書きのばす為に岡山県・閑谷学校を調べ始める。9時過ぎ朝食。食後、閑谷学校他を書くつもり。

書きたい事がある間は作れるだろうから、これはわたしにとって給油みたいなものだ。

11時半前「生垣」26、閑谷学校を書きおえる。

913 世田谷村日記 ある種族へ
十月十九日

5時過目覚め、寝床で色々想いを巡らすも良い知恵も出ず、いつの間にか眠った。7時半離床。メモを記す。広間に朝の光が射し込み少し気持も良くなる。成程、太陽ってモノは有難いモノなのだな。

今日の午後は製図室に出掛けるが、設計製図を始める前に製図を指導して下さっている若い先生方に再び少し申し上げたい。昨日の東大での合同エスキスで痛感した事でもある。むしろ学生達に伝えるよりも先生方に伝えたいと思うのだ。学生は社会の鏡である前に先生の鏡でもある。いつ何を伝えるかはとても難しいが、その時々、その素材と面して考えざるを得ないがその努力はしたものだ。少しばかりの好奇心も残ってはいる。人材に関してではなくって何かの崩壊過程とでも言うべきか。

少し危い事を書き始めている。この位で止めておこう。

8時40分「生垣」25のつづきにとりかかる。一頁しか書けなかった奴のつづきである。

9時二枚目を書き終えて、今日はこれで中断する。もう少し書けそうだ。筋道が視えてきたようである。

912 世田谷村日記 ある種族へ
十月十八日

13時半東大階段教室。伊藤毅先生レクチャー。プラトニズムにルーツを据えた歴史、地政学である。と聞いた。わたくしのアニミズム紀行とは正反対の位置からの思考なので関心がある。都市を含むモノの形象を幾何学すなわち数学に還元しようとする考えだ。

その後、東大製図室に移り、両校学生の製図作品のエスキス講評。17時修了。伊藤研究室でコーヒーをいただき去る。何故か学生設計製図を見た後は疲れて仕舞い、足取りも重いが、これではいけない。

地下鉄丸ノ内線で新宿へ、京王線で鳥山へ。北のラーメン屋で渡邊、佐藤両君と雑談し21時別れ、世田谷村に戻る。

911 世田谷村日記 ある種族へ
十月十八日

8時過離床。すぐに「生垣」25を書く。朝食をはさんで10時前まで続けたが仲々書き進めるのに困難で一枚しか書けず中断した。

随筆の形式では無理な内容になったからだ。それでは書けぬモノもある。かと言って随筆の形式をやめようとは思わない。

昨日は10時前に大学地下スタジオ。製図中間のエスキス、60点程に目を通す。5点を選びたかったが3点しか選べなかった。ヨーロッパからの留学生のものに見るべきがあった。内容以前に取り組みの姿勢が良い。

今日は午後東大で伊藤毅先生のレクチャーと両校の中間エスキス講評会の予定。

11時40分、幾点かのコレクションを持ち世田谷村を発つ。何日か前に奄美の保さんから田中一村の画集とアンディ・ウォーホルの画集をいただいたので、それのお返し。

910 世田谷村日記 ある種族へ
十月十七日

6時半離床。我ながら妙なモノにこだわりがある。今サイトにONされているキルティプールの家、入口を入ったところの壁の右端に小さくピン止めされているMAN MADE NATUREのモデル・ドローイングが気になって仕方ない。勿論描いた時の気持の動き等は克明に覚えているがキルティプールの家のアニミティーにはどうもそぐわないような気がしてならない。うまく動画の動き自体になじんでいない。と思い始めている。

この小さなドローイングには勿論作為がある。山や湖、そして樹木も建築の柱も飛躍して宇宙船のイメージにだって自然をモデルにした形象が連綿と続いているのだという、いかにも若い観念がある。そしてその若さは若さとして懐かしむのだが、この家、キルティプールの家には似合ってはいない。もう少し年をとってからのドローイングの方が良い。

大判の紙にヒマラヤを模した屋根の重なりと、大地をうごめく精霊を描いたドローイングがあるので、それに代えてもらいたい。

あのドローイングは若い生硬な抽象の気取りもなく、いかにも率直なドローイングであった。

又、このピン止めしている場所にかけるドローイングは時々代えるのが望ましいでしょう。どれ位の人が観て下さっているかは知らぬし、もうそういう事にはそれ程の関心も無くなってしまった。ただこんな事だって大事な仕事だの気持は強くなる一方だから今少しは続けることにしたい。

あの屋根のドローイングは実はカトマンドゥ盆地の旧王宮横にあるシヴァ神殿に隣り合ったカトマンドゥ寺院を描いたものだ。

カトマンドゥ寺院は盆地内で最古かどうか定かではないが、古い建築で、一本の巨木から作り出され建造されたといういわれが伝わっている。大きな屋根が船のようにも視える名建築だ。その一階の広い暗がりには階段が降りていて、まだ上部には登った事がない。

気になって仕方ない建築で、屋根の重なりが船に似てくるというのがとても大事なことかも知れないとは思い付いてはいる。

今朝は9時に世田谷村を発って製図室に出掛ける。

909 世田谷村日記 ある種族へ
十月十六日

6時半離床。新聞を読む。日経新聞に菅野昭正さんが丸谷才一さんを悼む「八面六臂」の追悼文を寄せている。菅野さんは近くの世田谷文学館の館長でもあり、勝手ながら一方的な親しみを感じている。一度だけ文学館でお目にかかった。端正な追悼文である。残念ながら丸谷才一さんはお目にかかったこともない。無縁な人である。菅野さんの追悼文は月並みな表現だが余す事なくその仕事を伝えてくれているような気がするので、こうして記憶にとどめればそれ以上の事はないかと考えた。恐らく充二分に理知的な文筆家であったのだろう。

ただ八ヶ岳のふもとに居を構え庭づくりに丹精を込められていた作家が居たのを記憶しているが、それが丸谷才一さんであったかどうかは定かではない。

昨日は12時に地下スタジオ(大学の)で留学生の製図を見る。

ワイマール、カタルーニヤからの学生である。その後日本人の学生の幾たりかを見る。

15時過デービット、佐藤と新宿小松庵に昼食。17時過烏山長崎屋。

三田さんがパチンコでどうやら当ったらしく、ご馳走になってしまった。

19時世田谷村に戻った。それだけの一日であった。どうやらウェブサイト上のわたくしと現実のわたくしとが分裂状態に突入しているようで、でもそれが当然至極なのであるとしたい。さらによりをかけることにしよう。

今朝は寝起きに夢を見たような記憶があるが、それも定かではない。

8時「生垣」24を書き始める。昨日、「作家論・磯崎新」30がサイトにONされた。北京の天壇で得たスケッチも掲載されている。このスケッチを描いている時に中国人の子供が物珍し気にズーッとのぞき込んでいたので黄色い色鉛筆をわたしてスケッチに参加させた。嬉しそうに色をつけていた黄色が画面右下に残っている。あの子は将来どんな仕事につくのだろうか。

人生は一瞬のうたかたでもある。あの子の走り描きの黄色のように。

と、いつものように信長の下天の夢気取りになりそうな自分をいましめる。

9時半中断する。これ以上書くと実に体力を消耗するのを知るからで疲れてまで書く事は無いと実ワ割り切る事にしている。

奈良の渡辺豊和さんに電話したら、今図書館に行っているとの事である。恐らくある遺跡に関する資料等を探究しているのであろうか。

縄文遺跡の探究は、わたくし奴の聖地、霊場の山容、あるいは風景が潜ませているアニミズムに実は通じる。負けぬように精進したい。

磯崎新の膨大な著作の到達点とも思われるモノ、つまりその主題はとどのつまりは「日本的なもの」への言及であろう。というアイディアに辿り着きつつある。渡辺豊和も随分馬鹿な事の放蕩三昧もあったが、その芸能論から縄文へ、日本古代の神話学への遡行に於いて実は同様である。

908 世田谷村日記 ある種族へ
十月十四日

15時長崎屋。体調がそれ程良くはなかったが足取りも重くラーメン屋にたどり着く。いつも通り客の無駄話しに耳を傾ける。これだけの耳話しを仕込んでいれば大衆小説位は書けるぜと思うが、その勇気はない。オバンと皆が競馬の賭けに興じている。わたしはまるで競馬には関心がない。夢中になっている皆さんに関心があると、少しばかり観察者を気取るのである。

競馬のTV放送が始まり、牝馬三冠馬が生まれた。オバンが当たり、他は外れた。オバンは嬉しそうだった。そりゃそうだろうオジンがヨレヨレで病院通いの「金喰い虫」だから、タマには当たれと天命を頼りだ。

昨日、快気祝いのメシを喰った三田くんがもう酔って叫んでいて、夕陽のガンマンの頭ツルリの抗ガン剤のオヤジから、若僧うるせいぞと叱られていた。動脈瘤位でガタガタわめくんじゃネェの科白が良かった。

ここは病気の重さ、深刻さで上下関係も決まるのである。でも上位の人間は皆ガンなのであり、切実さがステイタスとなっているのが、とても良い。

17時去る。世田谷村に戻り、リゾットの夕食であった。

十月十五日

8時離床。昨夜は藤沢周平とスチーブン・キングを読みながら寝た。

長崎屋の連中の話しを聞いていて、恐らく藤沢周平なぞの時代小説の大家はネタを同様に仕込んでいたのではないかと想像したりした。歌舞伎にはあのようなリアリティは欠けている。むしろ昔の時代劇、チャンバラ映画の類にはそれが横溢していたから、その世界の時代考証家から知識を得ていたのかな。 とも角、細部がないと無残な世界だから余程の精進をされているのだろう。

スチーブン・キングのモダーン・ホラーの凄さは歴史の薄い国の産物である。これは自分の想像力と筆力だけを頼りにタイプライターにズドンズドンと打ち込むエネルギーの迫力そのものである。日本の小説世界とは別世界の産物だろうか。昨夜はモダーン・ホラー・アンソロジーの『ナイトフライヤー』他を読んだが、実に他の作家達も含めた層が厚いのを痛感する。この作家達は我々が西部劇でしか知らぬ、賞金稼ぎのガンマン達の如くの暴力ムキ出しのままに今も創作の荒野をさすらっているのだろう。アメリカの銃の市場規制がままならぬ現実、今でも最後には銃で身を護ろうとする個人主義の赤裸々さが垣間見えてくる。

深夜になり、藤沢周平とスチーブン・キングの交互読みにも混乱し、終いには小林秀雄の中原中也の思い出を再々度読み、何故か安心して眠りに落ちた。

作家論・磯崎新は30をピークに少し停滞させる。31、32とゆっくりと歩く積りだ。

次は実作品を続けて論ずるよりも文章をやってみよう。つまり著作をやってみようと考えている。 先ずはその文体に思考家磯崎の重要なポイントがあるだろうと目星をつけているので、それで意図的な乱読を続けているのだ。と好きな乱読のいいわけをする。

8時半小休後「生垣」23を書き始めると、まずメモに記してから書くのである。少し大事な事を書き始めてしまったので、立ち止まる必要があり9時過ぎ小休。朝食とする。

907 世田谷村日記 ある種族へ
十月十三日

12時ソバ屋宗柳、長崎屋の知り合いの三田さんの退院祝いの会食。89才のお母上も御一緒だった。入院中宗柳のオヤジが夢で三田さんが一人で長崎屋のTVを視ていたとの報告があり、皆実は心配していた。いつも三田さんは定席でTVを一人視ているのでオヤジの夢にそれが出たのは夢幻の如くなら良いが、そりゃあ幽明界からの知らせだぜとなり騒然となったのであった。しかし無事戻られた。宗柳のオヤジもチョッと早とちりの夢を見てスマンの気持があったのだろう、大分ご馳走してくれた。三田さんのお母さんは本当に昔風の良い方で、ファンになった。

14時前長崎屋に寄り、全世田谷野球倶楽部の方々と談笑。「ウチのアンパイヤーと投手両方やってんのが89才。それで昔人間魚雷の乗組員だったんだ。それの生き残りよ」と突然とんでもない話題となる。

これだから長崎屋は止められないのである。

「人間魚雷の乗員だったら眼は余程いいんでしょうね」

「今度会わしてくださいよ」

「今度昭島のグラウンドに来るから、来るか」

となった。昭島は少し遠いな。皆さん73才平均の後期高齢者だが声もでかくて、何しろ野球の話に夢中である。

今日はヤンキースに移ったイチロー選手のバットの振り方の角度が少し良くネェ、と堂々たる高説が述べられていた。

17時45分烏山センター前の広場で渡邊、佐藤と待ち合わせ。 北のラーメン屋風々ラーメンに移る。 ダブルヘッダーどころかソバ屋ラーメン屋トリプル連戦である。

Xゼミナールを少し開いたものにできないかと勝手に考えて、二人に投稿を頼む。鈴木、難波両先生の胸を借りろと言う事である。

やってみますとなった。若い時には恥をかいても強い人間とぶつかった方が良いのだ。

「幻庵の浮橋」「牛原山と伊豆の長八美術館建築群」のテーマだけは与えた。Xゼミナールで作家論・磯崎新を書いている、わたくしを作家として論じよという枠組みである。

いづれも、わたくしの作品の中では最良のモノであると自負しているので、その自負をしているわたくしを批評せよと言ったのである。

つまり、作家論を書く作家というフレームが当然浮き上がってこよう。

20時了。世田谷村に戻る。

十月十四日

8時離床。新聞を読みメモを記し、サイトをのぞく。

キルティプールの動画を自分勝手に楽しむ。動画に登場する二人の男の人影はわたくしとクリシュナ老という想定であった。クリシュナ老についてはアニミズム紀行5を参照のコト。そのつもりではあったが、見ている内に、この人影の一方は幻庵主・榎本基純さんの生霊ではないかと、これ又独りよがりの想を巡らす。「生垣」20、21参照のコト。動画中にあるMAN MADE NATUREのモデルドローイングの、MAN MADE NATUREはワイマールシュツットガルトの石山展のページを参照のコト。

と、実に注文の多い料理店まがいである。でも、そうすると面白く読めるだろう。

日経新聞に山折哲男さんが宮沢賢治の雨ニモマケズの詩の読み方を書いている。賢治の法華経信仰と切り離してのこの詩はあり得ぬとの大事な指摘で成る程なと思った。

906 世田谷村日記 ある種族へ
十月十二日

十二時半大学地下スタジオ。3年設計製図の提出物を見る。14時半10数点を選び出して少しのクリティーク。その後各先生方に分担していただき80数名の指導。わたくしは留学生2名とおしゃべり。

18時去る。新宿長野屋食堂でいささかの息抜き。「ブリット」でのスチーブ・マックイーンがいかに格好良かったか。「死刑台のエレベーター」のジャンヌ・モローは印象が薄いが、やっぱりマイルス・デービスは格好良かった事などをしゃべって休む。20時前世田谷村に戻り、そうめんを食べて横になり、読書。

十月十三日

6時半離床。すぐに「生垣」21を書く。

昨日、我々のサイトにキルティプールの終の棲家の動画がONされた

新しい工夫がこらされて成熟いまだ遠しだが、少しずつ良くはなっている。

8時半小休。サイトの動画に刺激されて「生垣」を書いたようなところもあるな。

9時半前我孫子の馬場昭道に電話。

「カキの種とスルメを食うなよ、死ぬぞ」と説教たれた。

我ながら坊さんに説教するのは心臆するものだが、坊主は檀家廻りで出された駄菓子をついつい食べるという卑しさがあるので、それに昭道さんは今春原因不明の入院をしたから。

体調も良く再び動き廻っているようだ。

実ワ、用事も無く電話で無駄話しが出来る友人が少ない。考えてみれば自分は実ワ機能的な、無目的な行いが出来ぬ積まらぬ人間ではないかとの不安がよぎる事があり、そうすると坊主の友に電話するらしい。

905 世田谷村日記 ある種族へ
十月十一日

10時過花小金井の吉元医院着。大変な数の受診者で待合室は満員。しばらく待ち11時過若先生に、今日は検診はなく相談だけ。あんまり叱られもせずマアのんびりやりましょうとの事。12時過花小金井の駅より渡邊さんに電話、考えついていたアイデアのための下準備を依頼する。

朝飯を食べていなかったので高田馬場で記憶にあった日本ソバ屋を探すもどうやら消失のようだ。かと言って新大久保の近江家まで歩く気力も無く公園近くの台湾料理屋のランチとした。

13時製図準備室着。依頼していた伊豆西海岸・松崎町の伊豆の長八美術館増築、第1期〜第4期までのマスタープランの切り貼りを眺める。

10年以上をかけてほぼ収築した全体計画は色々なモノが散乱している如くに視えて、あるルールらしきがそれでも視えるのに気付いたのである。

そしてその全体像とこれからのダナン計画とを再編集することにした。

面白い可能性がある予感がある。

30年弱昔から手掛け続けた仕事、しかも無意識にやっていた事がチョット意識化できるようになった気がする。

スタッフと相談。

その後学生の製図を個別に見る。東大建築学科との合同課題である。

早稲田は人数が多過ぎるのでやっぱり合同作業は東大の人数に合わせて100名近くいる人数を半分に絞らなくてはならぬ。その為には少し計りの上ずみの層を核として発見しなくてはならない。その作業が全くままならない。

17時半迄いささか辛い作業となる。明日の方針らしきを相談して、わたくしはXゼミナール定例の為去る。急ぎ足で新大久保・近江家へ。鈴木博之、難波和彦両先生先着。雑談となり、わたくしの早稲田の退任を促する会を来春に開いて下さることになりそうだ。早稲田の教師は20年以上やったので、やり切った。勿論、別の世界の事をしたいと考えているので良いキッカケになるやも知れない。

20時過了。鈴木さんと別れ難波さんと共に田町の建築会館へ。20時半会館ホールで行われていた磯崎新、御厨貴さん等の首都に関するシンポジウムに遅ればせながら参会。磯崎さんより、その後メシでもどうかと言われていた。

21時シンポジウム修了。中川武先生とあいさつ。その後御厨先生と共に三田のレストランへ。MISA SHINギャラリーで展示を見た後、隣りのレストランに移る。

磯崎さんとは久し振りなので色々と話したい事もあったが御厨先生難波先生との話しが面白くて忘れてしまった。磯崎さんは前の話し好きの姿に戻っている。23時半迄。散会となり、難波さんとTAXIで目黒駅へ。山手線、渋谷で別れ新宿の12時過の京王線にすべり込む。

夜の会はいささか体にきつくなったな。01時前世田谷村に着く。

十月十二日

6時半離床。明け方悪夢を見る。何かのシンポジウムらしきに出ていて若造の先生から小生意気な批判をされて怒り心頭の夢。

昨夜の建築会館のシンポジウムは磯崎さんは完全に浮いていたな。

会場の空気も沈み切っていたように感じた。磯崎さんの事だからそんな空気は勿論感じ取っていただろうが、アレはもう意図的に自分を浮かせているとしか思えなかった。もう日本の空気に馴染んでいない。

昨日手にした磯崎新ZHONGYUAN中原のパンフレットを眺める。

中国内陸部の問題にはわたくしは李祖原と行動を共にすることにしたい。

8時半小休。新聞読む。

904 世田谷村日記 ある種族へ
十月十日

12時半研究室。13時地下スタジオ準備室でダナン、他Meeting。学生の作業を見る。中々に良い女学生がいるな。15時半渡辺、佐藤と食事へ。別れ烏山の北のラーメン屋へ寄り、19時半世田谷村に戻る。明日は又も病院なので藤沢周平を読みながら早く寝る。

十月十一日

6時50分離床。寒くなってきた。石山研サイトをのぞく、ポモ族の居留地が居留置になっていたのでビックリ。バークレー校には日本語がわかる人も多いので読んで仰天してるかも知れない。最近は多少の誤字、脱字の写しは仕方ないかと放っているが、この誤字はまずい。石山研の教養の程度が疑われても仕方ない。先住民の方々には申し訳ない間違いを犯してしまった。一つの誤字が人を傷つけることもある。すぐに直してもらいたい。

3階の中空に紫紅色の朝顔の花一輪。寒くなって咲く朝顔の花の色は、鮮やかである。10月の花を書く身の老いをいささか思う。と、これは気取ってるなあと消そうかとも思うが、恥も又良しとしたい。それで残した。一応色々と気を使っているので、コンピューターにたたき込む時にも少しは気を使って欲しい。わたくしはペンの手書きでないと言葉が書けない。

9時前世田谷村を発ち、花小金井の吉元医院へ向う。伊豆西海岸、安良里の藤井晴正より待望の秋のサンマが届く。船も動いているのを知り、安堵の胸をなでおろした。ハンマ(藤井晴正)はオホーツクから三陸沖迄魚群を追っての漁の日々が続いているのだろう。寒いだろうが、何とか続けてもらいたい。でも無理はしないでくれとつぶやく。

903 世田谷村日記 ある種族へ
十月十日

昨日は少し良い知らせがあった。ベトナム、ダナンの計画サイトが我々が望んでいた大きさにどうやら拡張されるとの事。ビン住職とヒュウさんが奔走してくださったようだ。ありがたい。中村さんは10月末に来日との事。

こちらの態勢も再び整えぬといけない。

佐藤研吾がアメリカ先住民ポモ族居留地の国際コンペに応募していたが、結果が出て3等に入賞、あわせてサスティナブル賞を獲得した。

良いアイデアだったので2等だろうと予測していたが、マア大体その通りで芽出度い。大きく育ってもらいたい、小さくては困る。

7時半離床。高曇り青空がのぞく。サイトに昨日考えたばかりの絶版書房オンラインショップカタログがONされている。鋭意充実させてゆきたい。何だか書かねばならぬ事が沢山あるような気がしていたが、いざ書こうとすれば何も無いのに驚く。今日は大学地下スタジオで、先ず、ダナン計画のスタッフと相談他。

次いで3年生の面倒をみる予定。佐藤くんとも少し話したい。五月女の次のキルティプール「終の棲家」内にも時々、掛け替えができるようなドローイングの展示スペースを設けたい。

9時過小休。世田谷式生活・学校「生垣」18を書く。45分終りとする。

902 世田谷村日記 ある種族へ
十月七日

11時池袋西武線改札前集合。研究室の面々と秩父へ。道々デービッドに少しばかり秩父に関して知っている事を話す。飯能を過ぎ、地名の変化とともに自然の風景、民家のありさま、そのバランスが変化するのを感じる。

西武秩父より秩父神社まで歩く。晴れてきたので人間が祭礼見学に集まり始めている。人のよさそうな老人が「今年の祭礼は15年振りの飾りつけだぞ」と教えてくれる。返礼に丁度通りかかったギンギラの六本木風タイ料理屋を「この店は15年振りに開店したタイ料理屋だ」と教えたら、すぐ回りの人たちに伝えていた。他愛ない噂はこうやって広まる一例である。こんなタイ料理屋があるのも知らなかった。

秩父神社への古びた通りを歩く。オヤと懐かしさが襲い来る。そうだ佐藤健がアル中で入院した病院、たしか岩田病院があるのであった。アイツはアル中で起こる幻影まで俺に自慢したからな。俺の幻影は極彩色だと言った。

途中アッ、と足をとめる。パリーという名の古びた往時の大衆モダニズムの名品が突如あった。パリーと言う大きな書体はゴールドのタテ書きである。

素晴しかった。中に入り込んだが満員であった。

時間が一瞬逆流した如くである。

交通整理のお巡りさんに「山車は今何処でしょう」と尋ね尋ね歩く。祭りの格好の似合わぬ若い女性達が多くすれ違う。エキゾチックでキッチュだな、今風の女性達は。

秩父神社駅前の広場に「山」は鎮座ましましていた。笠鉾は本当に15年振りに、曳行する道路の各種ワイヤーを取り払い、フルサイズに復元されたそうだ。

さっきのジイさんの言は本当だったのか。からかって悪い事した。ゴメン。

急いで恐らくは中近の笠鉾だろうか、をスケッチする。道生町の笠鉾らしい。

頂部に天然木が乗り、榊とされ金色の雲が漂う形が荘厳されている。町の方々の町の方々の祭礼用の衣装が素晴しいのでこれを描く。

14時空腹となり、皆とともに先程のパリーへ。

昼食とする。オジイと娘が二人だけで料理と配膳なので全てが遅いのが嬉しいではないか。

祭りの日だけ客が多いのだろう。いい食堂であった。酒とビールを飲む。何しろメシがなかなか出てこないのであった。

でも、とても美味でしたと御礼を言って、駅前のチョイと洒落た小レストランへ。

今度はやたらに速く色々と出てくるのに驚く。キャベツが無料サービスなので皆に大いにキャベツをすすめる。パリーのしょっぱいレバニラ炒めがすでに懐かしい。

デービッドに「あのパリーの先に、カサブランカって店があるんだ。」と再び嘘をついたらニヤリと笑ったので、こいつは冗談が珍しくわかるなと知れた。

秩父神社に戻り、笠鉾2基が寄り沿っているのを見学。やはり山は群れて集まり、初めて山らしくなるな。スケッチ2点を得る。ようやく筆ペンのタッチに慣れてきた。

群衆と山は良く似合う。

薄暗くなってきたので足早に去る。本当は夜がキラビヤカで良いのだろうがアレを見ちゃうと物哀しくなって帰るのがオチだからな。

帰りは特急で、池袋散会。21時前世田谷村に戻った。

十月八日

6時離床。直前の朝焼けが美しかった。世田谷村の朝は本当によい。メモを記し、昨日秩父で得たスケッチ4点を眺める。中々良く描けているではないか。

10時前「生垣」17を書き終わる。生垣は案の定アニミズム紀行の体を成してきた。

人間の考えることはバラバラではあり得ないのを知る。

午後棟梁に会う。今日は烏山センターでもちつき大会だそうだ。商店街主催らしい。オリンピックメダリスト、芸能人等が動員されていたそうだ。

紙芝居あるいはじぶんの発電所のつくり方講座etcの準備を急ピッチで動かさないといけないと痛感する。

十月九日

5時に目覚めたが再眠し離床したのは8時。肌寒い朝だ。

キルティプール・ギャラリーはいよいよ「終の棲家」の紹介迄ようやくにして辿り着いた。

間もなくサイトにONするが五月女がよく頑張っていて面白いモノに仕上りそうだ。

この動画映像とアニミズム紀行5を関連づける方法を考えている。

でもなかなかに現実の社会へねじり込む方法が見つからない。何とかとば口を発見したいものだ。

自分で自分のギャラリーをのぞいてみる。キルティプール・ギャラリーの出来は悪くはないと思うし、その前のムービーも決して悪くない。でも何かが欠けている。

恐らくはネパール、カトマンドゥのジュニーもこの動画は眺めているにちがいない。そしてイシヤマは何を考えているのかといぶかしんでいる。

何の為にこんな事をしてるんだろうと、当然いぶかしむ。つまり、コレはドコでマネーとつながるのか、あるいは何の宣伝になっているのだろうかと不思議がるだろう。

一番簡単でストレートなのはギャラリーに展示しているドローイングのオリジナルを販売する事だろうが、何となく気がすすまないままに数年経ってしまった。でも何かを売らないと、これはむしろ多くの人に解りにくいモノにますますなっていってしまうだろう。今日中に結論を出す。

901 世田谷村日記 ある種族へ
十月七日

5時半何か急に胸騒ぎがして起きてしまう。悪い胸騒ぎではない。それこそ大きなアイデアが生まれそうな気分になってしまったのである。今日は秩父に山を見学に行く。山と言っても動く山。笠鉾特別曵行である。巨大な山車が動くのを見に行く。

何故人々は動く山を作るのだろうか?を考えて、それで胸騒ぎが起きた。

大きな?を、つまり山なんだが、それを動かそうというアイデアは何処から来たのだろうか。何処からというのは地理歴史の問題ばかりではなく、人間の想像力の中の、その何処からという事である。

やっぱり人間は大きな、それはそれは大きなモノが動くのを視た記憶があるのではないか、つまり山がである。

ヒマラヤ山脈は太古インド亜大陸が南方より移動して大陸にブチ当り、それで隆起して生まれたモノである。そんなスケールでの動く現場の如きを人間は視た記憶があるな。確かに。と、その確信に胸騒ぎがした。

大風、つまり嵐が吹けば山の樹々は揺れる。それこそ動く。人間はそれに恐れおののいたであろう。

しかし、もっと生々しく巨大な動くモノを人間は視た記憶が必ずある。天皇位の継承に際し悠紀殿、主基殿と呼ばれる、字は不確かであるがやはり山車が動かされる。

それは恐らく今も動かされる。それは何故か?山は山岳信仰の対象として神の一群でもあったが、人間はそれが実際に動くのを視た記憶があるのではなかろうか。

インドのマドラスにはそれこそ車輪が10メーターもあるような巨大な山車が象に曵かれて動く。その車輪を視た記憶がある。

あれはインド亜大陸の移動の記憶につながるのではないか。今でも年に数ミリメートル大陸は動いているようだが、それは悠久の歴史の如くを人間はもっとまざまざと目にした記憶があるのではなかろうかと考えついて、それでどうやら胸騒ぎを覚えたのであった。

今日はそれを観に行くのである。

山笠、山車はそんな人間の記憶の継承なのではあるまいか。

人間の頭脳は驚くべき記憶力、コンピューターのそれをはるかに超える力を持つ、それを人間は夢と呼んだり、想像力と呼んでいるに過ぎぬのではなかろうか。全ては記憶なのか?

神輿にしても山車にしても祭礼の際に何故人間は動くモノを表現したがるのだろうか。

9時20分一段落して小休。曇天、小雨模様。秩父には昼過ぎになるだろう。

900 世田谷村日記 ある種族へ
十月五日

14時半、世田谷村地下作業室より上り、大学地下スタジオ製図準備室着。3年の東大との合同課題を始めるに当って学内の担当先生方に一言申し上げた。教師の水準はたちどころに学生の製図に反映されるからだ。どうも最近は設計製図が設計サークル活動の如き傾向を帯びてきているような気がしてならない。それで余計な事だろうが一言申し上げた。15時よりエスキス講評を始める。当然まだとやかく言える類のモノは一つも無いのがすぐに知れる。積まらんモノに積まらぬ事をクドクド言っても仕方ないのである。10点程を見て、それでもアレコレ言って切り上げる。来週から本格的な指導を始めたい。

17時過、佐藤と製図室を抜けて新宿味王でいささかの相談。20時世田谷村に戻り、2階の片付け等。

十月六日

6時起き出して、1階の片付け、及び掃除。少しの掃除でアッと言う間にキレイに片付くものである。2階の掃除も。特に1階の床下空間がガランときれいになった。久し振りに箒ではく。

雑巾がけ等もしていささか疲れたところに、10時予定通り難波先生以下放送大学の方々来る。2階で撮影の段取り等、すぐにインタビュー形式の対談に入る。

11時40分終了。カメラの方々は世田谷村の撮影を続け、わたくしは難波さんと共にソバ屋宗柳へ。昼食をとり、雑談。一人長崎屋へ廻る。時間が早くて客はわたくし一人である。

昨夜からの片付けの重労働のため、すさまじい眠気が襲来する。15時去り、世田谷村に戻り、900のメモを記す。

室内外がきれいに片付いているというのは、それだけで気持の良いものではある。

東京に戻った磯崎新に奈良の渡辺豊和が会いたがっている旨伝え、丁度良い堺辺りで古代の高倉みたいのが復元されて、それが三内丸山の柱と床と屋根だけといった形式らしいから、それを案内してくれと伝えてくれと言われた。11日のXゼミの流れの後、21時くらいに建築学会の夜学校の後でXゼミの連中とメシ喰えないかという話となる。

1時過ぎ、実に重労働つまり片付けの二日であったと小休。夕刊を読む。

9時半世田谷村に戻る。何やかやと忙しいような、忙しくないような一日であった。

ネット上に烏山美術館、あるいは烏山神社お隣美術館を開設してみようかと、フと思いつく。あるいは世田谷村美術館でもいいのだけれどね。研究室のサイトにネパール・キルティプールの丘のギャラリーが開設されているのだから、それ位の事はしなくてはならないだろう。20時佐藤くんと明日の秩父行の件で連絡。早々に休む体勢に入る。

899 世田谷村日記 ある種族へ
十月四日

8時45分発9時50分研究室。10時鹿島建設設計本部の方々来室。

建築学科3年生第4課題について相談。竹中工務店、清水建設、大林組についで4年目のゼネコン設計部による課題提供と設計指導の試みの一つである。毎年各社に大変なエネルギーを供して頂いている。早稲田建築の設計製図指導は各先生方にゆだねられているが、それには長短がある。

わたくしも含めて建築家が社会の要求に全て応えられているわけもない。謂わゆる建築家による設計指導は早稲田建築の要ではあるが、その不足分を補って頂こうと、システムとして導入した事である。

その大義の説明も含めて基本的な話しをさせて頂いた。

本来こちらが出向くべきであるが来て頂いて恐縮である。

次回の打合わせからは若い先生に出向いてもらう。

11時了。すぐに発ち高田馬場から西武線で花小金井、吉元医院へ。12時過着。

医院通いも楽しいものだ。特にこの医院は実に感じが良いのだ。

老先生、若先生にみて頂く。

12時から15時迄は休みなのであやうくすべり込んだ。いただいている薬が切れていた。薬は飲み忘れる位なのだが、なくなると不安なものだ。

15時烏山へ。南のラーメン屋長崎屋に出向いたら入院していたMさんが居てヤアヤアよく御無事でとあいさつ。

世田谷村で休んでいたらタマではなく人間の方の石森さんから電話があり、少し疲れていたが附合い北のラーメン屋風風ラーメンへ。

ここのオカミはやり手で往時デッカいカラオケ屋をやっていて、石森さんはどうやら常連であったらしい。

とうとうとカラオケ論をブタれた。20時前世田谷村に戻り夕食。早目に休んだ。明後日、難波和彦先生がどうやら熱中して取り組んでいる放送大学のTV録画取材があり、家中片付けでごった返している。

もう自然体で良いとは思うのだが家人には家人の考えもある。明朝は地下室の片付けをする。

十月五日

8時前離床。地下室に降りる前に急ぎメモを記す。

片付けられてわたくしの愛用の小物やメガネも何処かへ消えてしまった。

世田谷村には今はTVはない。それなのにどうしてTV取材なんだろうとボヤく。でも難波さんの依頼だから断る訳にもいかないのである。

断ったりしたら、南青山日記に四層構造の取材拒否とか書かれるだろうし、確かに地下を入れるとウチは四層構造だが日常は三層で暮らしているとつまらぬ事を考えたり。どうして未完の家なのか、とか建築家の家づくりへの役割とかの質問項目も送られてきており、もっともらしい事を考えねばならんなと、晴れた空がうらめしい。

本当は我家世田谷村取材ではなくって、長崎屋あたりで対談したら面白いのにと思ったり、でもあそこの連中と難波さんの波長は合いそうもないなと余計な事を考えたりもしてしまう。

わたくしの留守中に長崎屋を訪ねた伊豆松崎町の友人達も、あそこのラーメン屋はやめた方が良いとワザワザ云ってきたのも気になるし。

やはり無難に世田谷村内でとなるのであろう。松崎町の連中は皆元気なのだろうか。

モノを片付ける為なのか突然イケアの収納棚が組立てられ始めており、それが中途で大部屋のド真ん中に放り出されているのが気になるが、モノを片付ける為のモノが大体片付いていないのである。不可解なり。

しかし泣く子と難波先生には敵わないのである。

9時過地下室に降りる。

11時前まで地下で作業。小休する。

898 世田谷村日記 ある種族へ
十月三日

11時前世田谷村発、バスを乗り継いで世田谷村美術館へ。学芸員の野田さんと近くの世田谷市場の食堂へ。この食堂は安くてうまいのである。自分で野菜を中心に多種惣菜を選ぶ。顔見知りのオヤジさんがメシは半ライスにしてくれた。そうした方がいいのだろう。雑談の後美術館に戻り、じっくり「対話する時間」と名付けられた美術館コレクション展を観る。

1階2階の展示スペースを使い切って充実している。エピローグの室のジョアン・ミロの1974年の金属彫刻が眼をとらえる。どうも平面より立体に、しかも古典的とも思えるモノに関心が向いているようだ。アンディ・ゴールズワージーの精巧な自然の再構成は面白い。

荒木経惟の〈花曲〉1997年は枯れ始めようとする花を撮ったもので、今話題の蜷川さんの写真に随分前に先行していたのを知る。荒木経惟は死を撮らせると美しいな。

船越桂の〈夏のシャワー〉1985年も水気のあるミイラのようで良かった。 デイヴィット・ホックニーの絵はともかく1983年の大仏奈良写真切り貼りも何故かハッとした。

わたくしのドローイングが何点もあり、しかもジョルジュ・ルオーの版画コーナーの前の壁面をしめていたのでビックリして、こっそりあたりを見廻してしまった。何か後ろめたい感があり正視できないのであったが、人がいないのを見計らって2度見てしまった。

こんなモノでも美術館コレクションとして展示されると美術らしく見えてしまうものである。

エンツォ・クッキ〈月の旅〉も古い表現主義派的作品であるが気になった。古かろうが何だろうが気になるものもある。

1階2階を一巡して大変疲れた。カタログ他をいただいて再びバスを乗り継いで世田谷村を目指す。何でこんなに疲れるのであろうか。気になるネェ。

世田谷美術館館長酒井忠康氏のカタログの文章を読む。アフリカの彫刻家エル・アナツイの「あてどなき宿命の旅路」他、ダニ・カラヴァンの作品との対話をすすめておられるが、残念ながらわたくし奴には全て空振りで、日本の作家の充実がわたくしには目立った。

篠原有司男「モーターサイクルスパイダーマン」1984年なんかは、考えようとしても、考えようがない、ただの暴走族くずれin NYみたいな、おっちょこちょい三度笠振りは今日の美術のインテリジェント・インポテンツ群の中では際立っていたように思う。

18時前、疲れを押して烏山北のラーメン屋風風ラーメンにおもむく。本当に足を引きずる感じでおもむいた。

全世田谷野球倶楽部の面々が今日の草野球の反省会をケンケンゴーゴーやっておった。

全く恐ろしい程に元気な後期高齢者達の群である。

南のラーメン屋長崎屋が夕陽のガンマンの集会所であるとするならば、ここは75才平均のジジイの昔懐かしい石原慎太郎都知事の太陽の季節のトンデモジジイの群の会所のようだ。76才のジイさんがわたし今でも障子破りますよ、と際どい冗談を飛ばすのである。このジイさん達は美術館に行ったら、行くわけもないけれど、恐らく篠原有司男だけに共感を寄せるのだろうな。

でも、このバイク、チョイト小さかないかなんて騒ぐのでもあろう。

6時半過、切り上げて世田谷村に戻ろうとする。いきなり、自分の足取りに精気が戻っているのを痛感する。美術もいいけど、やはり人間も面白い。

実に多愛ない男である。わたくしは実に美術よりは本当は草野球に向いているタイプの人間ではないだろうか。今更野球でもないがね。

全世田谷野球倶楽部の面々から、ドア一つへだてたカラオケ屋に誘われたが賢明にもお断りした。しばらくカラオケはやっていない、調子が合わせられないだろう。北酒場の合唱の雄たけびを後に一人さびしく北のラーメン屋を去る。烏山の踏切で南のラーメン屋のオバンにバッタリ会う。今日は休みだが亭主の世話をしての帰りなのであろう。わたくしとしても南と北のラーメン屋の境界線を行ったり来たりの日々が、何処まで続くこのぬかるみぞの感じなんである。

腹がペコペコだ。夕飯をいただいて、世田谷美術館の「対話する時間」カタログを今夜は読みふけることにしよう。

十月四日

5時半過離床。夜が白々とし始めると猫がミャーミャー鳴いて起こしに来る。

寒くなって心細いのだろうか。猫はわたくしはタビと呼び他はポンポコリンとかポンポコと呼んでいて、恐らくまぎらわしいのではないか。大阪の維新の会みたいになっている。

新聞を読むも、読むべき記事は見当たらない。

世田谷美術館のカタログはとても良く出来ているので熟読する価値がある。どおもわたくしには美術作品そのものよりも、それを作る人間の方に関心が行ってしまうクセがあるようだ。

例えばデイヴィット・ホックニーの大仏さんの写真みても、オヤ面白いなと考えたのはホックニースタイルの断片切り貼りのハシに恐らく写真をとっている本人のクツが写っていたり、それならこのやり方で自分も写真にとって合成したら、それでようやくピカソを超えられたのになんて考えてしまう。

あれは写真の形式らしきをとった自画像である。

897 世田谷村日記 ある種族へ
十月二日

13時半作家論・磯崎新29書き終える。夕方タマの主人石森さんと会い、先日の世田谷式生活・学校の感想を聞く。やはり大の大人はそれなりの意見を持っているなと痛感。いじめの問題をやれと言われたが、わたくしの処には誰もその方面の素養が無い。20時世田谷村に戻る。

十月三日

7時離床。昨日ネパールのジュニーよりメールが入っていて、電話しろとの事であった。ナーリさんが亡くなってタカリ族の長であるジュニーとも仲々スムーズに気持の交信がままならぬ。わたくしの非才を嘆くばかりである。どんよりとした空で雨が落ちてきそうだ。寝起きの頭で作家論・磯崎新30にとりかかる。

9時半書き終える。自分でも驚く程に速く書けた。そして30回になるこれ迄の作家論の中では最良のモノが書けたと思う。思うのは自由だ。30回も書き続ければ愚鈍な頭にも一条の光は指し込むのであろう。これが無くては書き続ける意味も無い。ある種の到達点峠であろう。でも、これが書けたから次の高み、より高い峠を目指そうとする気持もわき上がるのである。

朝刊を読んで、朝食を取り、ゆっくり世田谷美術館に出掛ける事にしたい。作家論・磯崎新は2本書きためたものがあるので、31、32は少し歩調をゆるめながら続けられるであろう。峠を越えたら下り阪になるのは仕方ない。29の原稿への書き入れ修正したものと共に研究室に送信する。

896 世田谷村日記 ある種族へ
十月一日

新宿で地下鉄南北線に乗り換え本郷三丁目に。時間があったので松村秀一先生のところへ出向く。眼を病んだとかで心配していた。夕方から来られるとの事で、ああ良くなったのだと失礼しようとしたら、丁度エレベーターのところでバッタリ。研究室に戻る。しばしの雑談。どじょうの話をしばし。それでは又近々と別れる。

14時45分東大階段教室へ。沢山の学生達である。15時合同課題の説明開始。仲々難しい課題である。東京湾晴海の月島倉庫群の一角のサイトに何モノかを設計せよと言うモノ。

隈研吾先生レクチャー、最近の自作に付いて述べられた。驚く程の多作振りが隈さんらしいなあと思った。快調に仕事を展開しているのを知る。

続いてわたくしのレクチャー。スケールと時間(歴史)について。初心者のための設計製図と題して話す。冒頭で話すつもりであった言葉の思考と設計製図のこと、つまりプラトン、アリストテレスの師弟関係と超越モデル、自分自身の連続としての思考については、学生達の顔をみて省略した。代わりにここ5年間の合同課題での印象を述べる。いささか早稲田の学生には耳の痛い事を言ったのだが、通じたのやら。

その後隈さんとの対談を経て予定通りに17時過修了。東京八重洲で食事。新宿に廻りデービット、佐藤の腹を満たし、21時過別れ、世田谷村に22時前に戻る。食べさせ老人であるが若者はすべからく食べて育つ。

十月二日

6時離床。すぐにメモを記す。穏やかな朝である。一段落して新聞を取りに降り、読む。東京新聞の丸の内を走るナーガの如き東京駅の写真が素晴しい。東京国際映画祭の大きな記事があったので読む。映画は消費そのものであるから元気なのであろうか。消費というのがアイロニカルに響くなら蕩尽と呼んでも良いが。今年の映画祭には出掛けてみなければならない。眠くなったので再眠、起きたら10時過であった。小さな地震があったようで大地震の到来近しの漠然たる予感を得る。

木田元の『反哲学入門』は読了した。ソクラテスの弁明は読んで不思議な印象を得た記憶があるが、これを読んでから読んだらもう少し容易に理解できたかなと思う。

世田谷村日記