石山修武 世田谷村日記

石山修武研究室

2012 年 11 月

>>12月の世田谷村日記

961 世田谷村日記 ある種族へ

11時過研究室で電気工学科の松本隆教授とお目にかかり、相談。すぐに終る。研究室での打合わせもなく早々退出する。13時過芦花公園・国中家具店、打合わせ。14時終了する。14時半烏山ダイヤ会館3Fで烏山商店街組合会長に面会のアレンジを依頼。15時過風々ラーメンでオカミと相談。地元のプロジェクトがゆっくり煮つまってくる。もう地元はコテコテの人間関係である。それを知らぬと失敗するのだろう。最近の政治家はその辺りの機微にうとい。だから田中角栄の如き政治家が出てこないのだろう。16時過いったん世田谷村に戻り小休し、17時再び出る。19時40分再び世田谷村に戻る。

国立近現代建築資料館の報道発表が12月3日(月)14時に行われるとの知らせがあった。田中眞紀子大臣と鈴木博之さんが会見には出席されるようだ。

960 世田谷村日記 ある種族へ

21時一段落して、ボーッとしている。ボーッとしてるったってただただボーッとしているわけではない!と言いたいが実にホンマにボーッとしているのである。

ヴェトナム仏教会より招待状が届き2013年3月30日にはベトナムに正式に招かれる事になった。この冬の12月中旬には俗世ではあるが大事な法会らしきも持たねばならぬ。頭を丸めて坊主になるかとも思案するが、頭が寒そうなのでそれには及ぶまい。

8時離床。今日で11月も終りか。エイとばかり身仕度を整え、220戸のアパートへチラシ配りの旅へ。9時過ぎ戻り、小休、公社のアパート3棟を含め260戸程にポスティング。チラシ、広告は不要、責任を持って引き取りに来いのワッペンも少なくはない。こうして徘徊チラシ老人をやっていると、それなりにアパートの様々が少しは視えてくるような気がする。

1. セキュリティが堅固になっていて、アパートはいよいよ積層戸建てBOXになっている。

2. ヴェネチアで家々の(アパートの)真鍮の呼び鈴が際立ってその家々の個性を表現していたが、そのような家々のシグナルらしきは無い。

3. 名札を出さずに室番号だけのユニットもあり、それはアパート毎に仕切られている。

今のところ、そんな感想を持っただけだが、アパート群から時に垣間見える世田谷村の光景は少しどころではなく、異様である。と今更ながら気付く。

廻りの人々はわたしの家を、そしてその住人にどんな想像をしているのか、いささか気になるところだ。でもアパートのBOXユニットとは違う、少なくとも開放感はあるな。

芳賀言太郎君から、サンチャゴのカテドラルの美しい絵葉書届く。大学を休学してサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼をしていたそうだ。自分の足だけを頼りに2ヶ月半かけたようである。お父さんの芳賀牧師の影響なのだろうが、えらいなと思った。

わたしだって巡礼はやってみたいが、やってみたいがすでに華であろう。

今朝は11時半電気の松本教授に会う予定。環境測定カメラを開発したらしい。

959 世田谷村日記 ある種族へ

11時半研究室、雑事。13時過、文化庁の方2名来室。国立建築資料館についての説明。何年か前から鈴木博之先生に言われて委員会らしきに出席はしていたが、初めてまっとうな設立の説明を受ける。安藤忠雄さんが名誉館長の役職らしい。創立に関しては様々な努力を安藤さんは為さったようだから順当であろう。

その後、日本ツリーハウス協会長小林さん来室。研究室ミーティングを17時頃まで続ける。18時烏山風々ラーメンでオカミと相談。明後日12月2日の件の打合わせ他。その後、長崎屋で地元の人々の顔を視て過す。

20時過、世田谷村に戻る途中20枚チラシ配る。俺はまことになにやってんだろうなあの吐息とともに夕食を取る。

958 世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。今朝は新聞配達ならぬチラシ配達は休み。だってチラシがすでに手許にない。研究室で300枚+150枚+150枚用意してもらわねばならない。300枚+150枚は自分で、アトは宗柳のお母さんが自分の住んでるアパートに配ってくれるそうだ。晴れている。今日は昨日よりは暖かくなりそうだ。昨日は寒かった。

7時朝の光が射し込んできたので部屋の灯りを消して自然光の許で伊藤アパートの大判のスケッチに取りかかる。単純だなあ俺は。松本竣介の都市のスケッチに触発されているんだろう。画家とは似ても似つかぬ作業ではあるがエスキススケッチは似ている部分もあるな確かに。8時20分修了。

>朝食、野菜と味噌汁。新聞読む。衆議院選挙の予想が出ている。

岩波より磯崎新著作集第一巻の著者解題「反回想①散種されたモダニズム」草稿送られてきて読む。編集部としては月報の催促の積りで送ってくれたのだろうけれど、すでに原稿は書き終えて送ってしまった。「死んでも死なない磯崎新」である。磯崎さんの原稿は驚くべき速力で書かれたものだと知る。息せき切って書きなぐる磯崎さんの息づかいまで伝わってくるようだ。武田泰淳は切腹した三島由紀夫を息せき切った刻苦勉励の一生であったと評した。今の磯崎さんも息もつかずに書きなぐっている。ほとんど初めて磯崎に暴力のようなモノを感じる。

81才になった磯崎さんは磯崎さんなりに色んなモノを失ってようやく自由になったのかも知れない。

84才の山口勝弘先生に電話するも不在。不動明王は何処を動くか。

957 世田谷村日記 ある種族へ

12時世田谷美術館。学芸員野田氏と近くの市場の食堂で昼食。雑談。多摩美大美術館の斎藤慶次郎展のカタログに対する感想を一方的に話す。又、デービット作の12月23日演の紙芝居についても話す。「これは福島原発の物語りですね」と流石に解りが早い。野田さんに最近の石山のサイトは読むのに苦労するぞと言われてしまう。申し訳ない。でも書きたい事が沢山あるのでお許しいただきたい。

13時、世田谷美術館・松本竣介展を見る。

若死にした画家の生誕100年記念展である。何が気になったのか自分でもわからないのだけれど、気になったので見た。1、2階を全て使った展示である。気になった絵を見るのは正直本当に疲れる。2階を見ながら、これはもう一度見なければなと思った。何故なのか?若死にしたこの画家は盛岡で少年期を過ごした。初期の風景画は一ノ関ベイシーを思わせる。

雪の盛岡郊外の風景画は清冽でとても良い。そして上京。ヨーロッパの様々に無茶苦茶に影響され、我を失ってゆく過程が痛々しい。全てとは言わぬが影響のルーツを指摘できるような気さえする。日本の近代建築界と完全にオーバーラップする。そんな事を考えながら見つづけた。1階の若過ぎる熟成振りも同様である。日本の芸術家のそれでも良質な部分であろうナルシシズムとそれに倍する模倣の本体との連続である。いささか痛々しくて疲れた。

14時半、取り敢えず今回の視る事はこれで打切る。バスを乗り継いでクタクタになって16時半烏山に。風々ラーメンで生ビールを飲もうと寄ったら、保さんがいて、ヤアヤアとなる。

保さんは12月23日の世田谷式生活・学校の祭りの重要な演者でもある。世田谷野球倶楽部の集まりのようだ。

早々に退散する。

956 世田谷村日記 ある種族へ

5時前離床。寒さは厳しくない。伊藤アパートのエスキススケッチ。明日のミーティングにはとり敢えず提示できるアイデアの最低限を整える。6時終了。小休。

9時半チラシ100枚世田谷村周辺のアパートにポスティング終了。ポストにはチラシお断りのワッペンが貼られているのも少くはない。別に悪い事をしているわけではないがアパートの玄関に入り込んでゴソゴソやっていると妙に後ろめたい気持になってくる。明日は大型のアパートに220戸入居しているから300枚配ってみよう。

全く挙動不審のチラシ徘徊老人である。9時45分少しホッとしてにぎり飯を喰う。薄曇りで鳥の姿も無い。

猫は好きなタイプのエサを喰べたのだろう、豚のように眠っている。よく太って全くこいつは猫豚の新種である。東京の飼い猫はきっといつか突然変異でブーブーと鳴くようになるであろう。

福島などの被災地の犬猫、飼い主が去った彼等はどうしているのか。

955 世田谷村日記 ある種族へ

8時離床。昨日のメモを読み直し、岩波・月報の磯崎コラムに手を入れて研究室に送信。今朝は清々しい青空で猫も外の陽光を眺めている。

昨夜研究室のサイトが更新されたので眼を通す。いつの間にどうやら過剰なページになっている。読者は皆恐らく毎朝TVの天気予報で地球の回転を眺めているような人々なのだ。それがどれだけ歴史的に大変なことなのかは自覚していなくとも。ニュートン、ガリレイ、ケプラーがこれを視たら気絶しかねない光景である。新聞をとりに降りる。今、世田谷村の大幅な改築増築を含めた2期計画を考え始めている。一階、すなわち地上階の広々としたボイド空間の良さを残しながら一族のアパートにできないかと思っている。

10時世田谷村発。いささかの買物と住宅公団アパートへチラシ、ポスティング。余ったチラシを公園内で子供を遊ばせていた若いお母さん達に手渡す。世田谷村周辺のアパートだけで500枚はさばけるな。マ、マラソン代わりにやってみよう。

15時研究室M2相談。その後WORK。16時富沢夫婦来室。18時半新大久保近江家Xゼミナール。鈴木博之、難波和彦両氏と談笑。鈴木先生のNYの話し等を聞く。21時前烏山長崎屋でノレンはしまわれていたがオバン、宗柳のオヤジと無駄話し。22時世田谷村に戻る。

954 世田谷村日記 ある種族へ

5時過フッと目覚める。世田谷式保育園に関してアイデアが浮かんだのでノコノコ起き出しメモする。随分前に東北、一関ベイシー菅原昭二に話した事があるアイデアである。菅原に話したのはいささかブラックなアイデアであった。今度のは我ながら暖かいモノである。早速今日の研究室ミーティングで話して、指示したい。12月23日の世田谷式生活・学校祭で地域の人々にも考えを聞いてもらい、その反応を感じてみたい。

わたくしには不思議に身障者、難民対策等言うにはばかるが弱者と呼ばれる人々へのプロジェクトが少くない。意識しての事ではない。気がついたらそうなっていただけの事だ。その軸の先になるプロジェクトであろうコレワ。地域の人々にも解りやすい形でそれをプレゼンテーションしたい。

5時40分眠くなったので再び横になる。あんまり気負うといけない。

8時半再び離床。曇りで肌寒い。今日のミーティング項目を箇条書きにしてみる。それ程多岐に渡っているわけではないが、こちらの記憶力がそれを要する。

10時過議題メモ了。11時前世田谷村発。

11時半研究室ミーティング。4件のProjectに関してわたくしの意見を述べて、いささかの討議。石山を含め8名で対応する事とした。担当を決める。

14時半終了。15時半烏山風々ラーメンでオカミと12月23日の件打合わせ。これには総勢15名程の軍勢が必要である。今週の土、日曜日区民センター前広場で実験的にオリジナルマスクをかぶって仮面劇ならぬチラシ配りをやってみるつもりだがどうなるやら。風々ラーメン特製のメンマとビールのセットも販売する事になった。19時半世田谷村に戻る。

世田谷式アパート、世田谷式子供と老人の家(保育園)のスケッチを少しばかり。

どうも山口勝弘先生から送られてきた多摩美術大学美術館の「モノみなヒカル」展の全く解らないカタログが気になる。全くわからないままだ。

日本宗教造形論の水尾比呂志氏の名も登場して、水尾氏の論の不完全さが同じようにほうり出されているような気もする。山口先生の文章は37年前のものの再録なのでやはりそれなりに古い。しかし「モノみなヒカル」はどうやら電子のアニミズムの事をいっているようで、気になる。

音楽家は厄介な人種である。22時ふてくされて横になり、斜め読み(カタログが重いので)したりしている。

953 世田谷村日記 ある種族へ

8時前離床。今日も朝の光が美しい。昨日11月24日は町内要所に世田谷式生活・学校の「12月23日学校祭り」のチラシを町内に配って歩いた。手渡さないと人が来てくれないのもすでに知っている。チラシジジイである。

志村棟梁と夕刻会い、もちつき他の相談。烏山下町の町内会長だから顔が広い。何処そこの誰がの話を聞く。烏山神社の碑にある伊豆雲見城の高橋一族の高橋さんが今、ハウス園芸の大地主だぞとの事。今度紹介してもらう事にした。

烏山神社所有地の使い方の相談などして面白かった。今日昼前に近くを訪ねてみたい。チラシはすでに40枚くらい手渡した。1000枚目標だ。

間もなくあいつは、つまり石山は区議選に出るだろうの噂が流れるであろう。

9時過世田谷村を出て町内巡回チラシの旅。烏山神社の駐車場を眺める。

隣りの念仏堂をのぞく。烏山小学校発祥の地である。石の地蔵がごろりと寝ころんでいる風な涅槃仏をしげしげと見る。足が小さくて、それで倒れた様な石仏である。余程下手な石彫職人が彫ったのだろう。でも稚気が漂っていて良い。

京王線の踏切を越えて旧甲州街道を東へ。オーダー家具屋を訪ねるも不在。志村棟梁の家を訪ねる。寝起きで眠そうだった。角の小さな保育園にチラシを入れる。芦花公園団地の保育園を訪ねるも休園で誰もいない。ポストもない。仕方ない、念仏堂のポストにチラシを入れて戻った。念仏堂ともちつき大会は遠いな。10時である。

朝食。

山口勝弘先生から大部の『モノミナヒカル展—佐藤慶次郎の振動するオブジェ』カタログが着いている。

先日のわたくしからの複合媒体芸術家から不動明王へ肩書きを変えられたしへの返答なのだろう。分厚いカタログを読む。わからない。一度くらい読んだのでは、チンプンカンプンである。何がわからないのかもわからない。

12時半迄かかり大方を読み終えた。相変わらず何もわからない。ジョン・ケージからの手紙、山口勝弘のドローイング、高橋悠治、武満徹等の名前、そして唐突に鎌倉時代の小仏像、九体寺の摺仏(阿弥陀如来坐像胎内の版画による仏図)が羅列されている。あんまり解らないので不愉快になりそうだ。編集者は何を考えているのだろう。

13時散歩に出る。

風々ラーメン、区民センターを廻り長崎屋へ。風々ラーメンでは烏山飲食店組合副会長のオカミと話し、色々な依頼。区民センターでは3階の区民広場使用の窓口の鈍い役人と撫然としたやり取り。でも怒らなかった。バカはバカなので仕方ないのである。長崎屋でTVの競馬を観ながら休む。

身体が不自由で杖をたよりのオカアさんとヒマラヤ仏陀エアーラインについて再び話す。飛べばかなりの確立で落ちる飛行機の話しだ。小さな黒い機体に仏陀のマークがプリントされている。15名位の乗客収容能力であろう。

実ワわたくしも、まだ乗った事がない。もうすでに歩いてはチベットの聖山カイラーサに辿り着く事は不可能であろう。だから3年後あたりにこの仏陀エアラインのエアークラフトをチャーターして、カイラーサを空から訪ねる算段をしているのである。

シャキャの牟尼さまも実際にはこの山を視ていない。しかしそのメディテーションの中に出現したニルヴァーナ、悟り、=絶対的あきらめの姿を形として具現した山である。世界の山観念の中心でもある。

その山に空から幾たりかの人々と訪ねたいと考えている。で、長崎屋で知り得た人々が、その旅の同行者としては最も適していると考えたのである。

そんなに間違った考えではない。

17時過再び「モノミナヒカル展」のカタログの再読を始める。

実験工房の芸術家達の気取り、根拠の無い高踏の中にも了然としてアニミズムが深く横たわっていたのかと理解すれば解りやすくなるかも知れぬ。

952 世田谷村日記 ある種族へ

6時半前、まだ薄暗い2階広間に降りる。すぐに佐藤研吾のエッセイに注釈作業。注釈が書き出したら解説となり、朝食を挟んで10時過までかかる。結局8枚書いてしまう。岩波月報の磯崎新に関してが6枚だから、佐藤の方が2枚上手である。相撲の番付だなこれは。

マ、何処まで育つかゆっくり育てたい人材ではある。磯崎新の佐藤研吾へのワルター・ピッヒラーを見なさいのアドバイス共々書いてみた。

今日は土曜日で12時近くなり陽光が降り注いできた。やっぱり太陽はありがたいな。

951 世田谷村日記 ある種族へ

寒い朝で薄暗い。雨まで降っている。世田谷村の生垣は今、山茶花の花盛りだ。白、紅、うす紅の花が咲き乱れている。その花に隠れて女郎グモ達が網を張り続けている。女郎グモは自分で自分を食べる事があると何かで読んだ記憶がある。記憶も怪しいから定かではない。それで何匹かの女郎グモの手足の数が少ないのを見ると自分の手足を喰う姿を想像してしまう。何喰って生きてるんだろうコイツ等は。それぞれの網には何処もそれ程の獲物が引っ掛かっているわけではない。昨日長崎屋で男なのか女なのか不明な客がやってきた。そそくさと皆帰り始めたのでそれ程好かれている人物では無いようだ。でもこんな時にはオヤジは立派で何差し障りも無く対応している。こっそり聞いたらどこかのスナックのママなのかマスターなのからしい。レバニラいためと、どんぶり飯を喰べていた。余程腹が減っていたのだろう。でも、まだ自分の手足までは喰いちぎってはいない。長崎屋には商店街の飲み屋の女主人や男主人もやってくる。少し年をとったママさん連中はうちの生垣の女郎グモみたいな目付きをしている。キラリとこいつは金になるか否かを瞬時に見極める眼だ。わたくしは原則的に女郎グモには近寄らないことにしている。

でも中には女郎グモらしからぬクモも居て、時に網に引っ掛かる。そんな時には大人しく勧められるままに長崎屋のオバンの小皿をごちそうになったりする。昼からカラオケに誘われたりもするが、今のところはていねいに、しかも強面にお断わりしている。

30名弱の常連さんの入れ替わり、立ち替わりでこの店は回転している。不意の客はほとんど居ない。バス停の真前の地の利だが、何か殊更に古めかしく、さびれている外観がそうさせるのだろう。ノレンも真紅にデカい字で店名を染め抜いていて、1950年代にあったかも知れぬラーメン屋の感じである。無かったかも知れない。過日秩父でパリーという名のラーメン屋があって感動した。ボギーが君の瞳に乾杯なんて言ったりして、ラーメンすすっている折衷様の極みであった。あそこはオジイが厨房、娘が配膳で頑張っていた。今様には無い薄暗さが、不健康、非衛生のスレスレ直前で踏ん張っていた。

カサブランカにはあれ程の店は無かった。旅をしてつまらない街であった。ボギーもバーグマンも影の気配も無かった。気配を求めて行く人間も愚かだが。カサブランカから汽車で半日程のフェズのバザールにようやく、バーグマンは居なかったがボギーの影を見た。沢山のボギーがバザールの入口のゲート横のコーヒー屋で日なが一日道ゆく人を眺めていた。あのコーヒー屋の人々は良かった。フェズの長崎屋だったな。 しかし、いくらなんでも千歳烏山の長崎とカサブランカは遠い。むしろ黒沢明の用心棒の舞台でもあった群馬辺りの

寒村の一杯呑み屋、空腹な用心棒三船がオヤジ、メシくれ、の一杯呑み屋に赤いノレンをかけたら長崎屋になるだろう。

あそこで用心棒がメシならぬラーメンをすすっていたら、あの映画は無茶苦茶になったであろう。しかし、用心棒に殺られた、首にマフラーを巻いてピストルを持ったもう一人の用心棒・仲代達也がやった役柄は言わば折衷様の極みであった。秩父のパリーみたいなモノであった。良く良く考えてみれば日本という空間に登場している我々の全ては折衷様の極みである。その人間を生かそうとする都市や建築が折衷様にならざるを得ないのは自然なのではないか。

9時過、伊藤さんに電話する。大田区のアパート建設の件。どんなモノがお望みですかと尋ねたら、街になじんだモノが良いと言う。ウーム、ヨーロッパスタイルですかと聞いたら、そうだの答えが返ってきた。人、皆、折衷様が安心なのである。わたくしもそう思う。東京にはそれが一番良い。しかし世田谷式・生活学校方式の太陽光エネルギーは何とか実現したいので、それもまた折衷様でやるしか無いだろう。若い学生が2、3年で入れ替わり借りてくれるアパートが良いらしい。若い入居者と太陽エネルギーはどう結びつけられるだろうか?

ダナンの計画のランドスケープは亀腹の丘とその上に建つ吉備津神社あるいは法華堂だな。ここ迄の折衷は近代には無いぞと再び剣呑な事を考えてしまう。バカだナアと自分の頭をペンペンする。

今日から三連休でうちのサイトも休止するから読者諸兄姉には余計なサービスのつもりでいささか長く書いてしまった。できれば今日は休みだが更新したいものである。

950 世田谷村日記 ある種族へ

14時半、岩波書店の月報、磯崎新建築論集への小稿を書く。たった6枚だから、すぐに書き終えてしまう。わたくしはすでに「作家論・磯崎新」を250枚くらい、コンピューターサイトに垂れ流している。

コンピューターサイトと岩波の区別はわたくしには無い。山本夏彦ゆずりなのだ、その点だけは。でもたった6枚は集中した。たった6枚であるから力を尽した。コラムだなこれは。わたくしは山本夏彦とは異なる。コラムニストではない。古めかしいがやっぱり長く書きたい人間だし、頭もそうなってしまってる。

15時書き終えて、長崎屋で12月23日の紙芝居の仮面かぶりの依頼。新ちゃんに鬼をアヤちゃんに鳥を頼む。皆子供連れでラーメン屋に来てる連中だ。これでおばさん役の保さんを含めて3人そろった。あと1人花の役が欲しい。17時過世田谷村に戻った。

949 世田谷村日記 ある種族へ

6時離床。すぐにアニミズム紀行8を書き始める。8時40分18枚迄書き進めて小休。今このメモを記している。アニミズム紀行7は残部が50程になり、もうすぐ売り切れ絶版になるので次を書いている。その理由だけでないのは言うまでも無い。ようやく造形論の域に辿り着きつつある。

これから朝食をとり、その後ヴィシュヌ神像と法華寺の不空羂索観音、つまり日本の仏像というアイコンの名作について書くつもりだ。

ようするに法華堂は倉庫だから、その中身について書く、すなわちモノ=マナの造形についてである。

昨日12月21日は別に書き残すべきは無い。渡邊大志の「2012年再読・『幻庵の浮橋』」第2稿への注釈を入れた位か。

サイト他に相当量書き散らしている。蕩尽である。でもそのほこりや、ちりが少しは身に付き始めているのも知る。ほんの少しと言うべきが何と哀しいが、それは人間の常であるから仕方ない。

朝食前に19.5枚迄書いた。小休する。10時研究室にメモを送信。

948 世田谷村日記 ある種族へ

11時半研究室、少し計りの雑事。すぐに終る。その後の中途は省略する。

17時烏山長崎屋にて12月23日の世田谷式生活・学校主催の催事の無駄話し。

話しは外れて、モモさんなる、例のミヒャエル・エンデ作の主人公ならぬTAXiのベテランドライバーの奥さん、障害を持つ夫人に、いきなりヒマラヤの峰々を眺める旅を3年後にどうだの話しになってしまった。

「わたしは障害者だから無理だよ」

「大丈夫だよ」

と言いながら、飛行機は障害者用トイレは無いなと気付く。

ここは大半がガンや、末期的、未来の無い強者(つわもの)の集まりなので、ヒマラヤなんて山は面倒くさくてイヤだと皆言う。しかしナァ、カトマンドウからヒマラヤの神のまします峰々を巡る飛行機を飛ばしている会社の名は、仏陀エアーラインと言うのだぞと叫び、しかもこの小さな飛行機は良く落ちるのだと教えた。

そしたら、それはいいねえ、落ちるのかー、イイネェとなり、希望者が続々と出たのである。仏陀エアーラインによる、これで終り、落ちるぞ観光のプランが姿を現わし始めてしまった。どうなる事やら。

19時半世田谷村に戻る。

947 世田谷村日記 ある種族へ

5時半一度離床するも再眠。8時再離床。昨日11月19日は14時より多くの東大の建築学科学生、先生方を迎え製図室で合同課題講評会。

今年は東大の学生の健闘振りが目立った。面白い才質の持主もいて彼等は彼等なりに自主的にやっているようで他校ながら頼もしい。

早稲田はワイマール、バルセロナの外国人留学生がしっかりしていた。ワイマールのビンセントはここ数ヶ月でとても延びた。収穫であった。

早稲田はこの方向を目指すべきであろう。設計・デザイン教育に限定した国際化である。17時前終了。その後懇親会。19時過会場を去る。千歳烏山長崎屋20時過、一服する。21時前世田谷村に戻った。

もうわたくしには学生(若者)は東大も早稲田も国籍も関係なくなってしまった。面白い人材は面白いのだ。これは正直なところである。

朝の陽光が広間に溢れていて心地良い。「アニミズム紀行8」を少し書き継いでみよう。

946 世田谷村日記 ある種族へ

8時過離床。昨日のメモを記す。11月18日10時半観音寺、母の三回忌法事。西早稲田観音寺は周囲が全て雑居ビルになり、南の早大校舎もつまらぬビル群になってしまったので余計にその異形振りが眼につくようになった。

不整形の土地の、整形な墓地区画と対比させた不整形を持つ寺院である。

四角四面が無いので、それでかえって周囲に馴染んでいる。わたくしの作品だが内外の色彩共々いささかの自信作でもある。

母が生きていたころによく会っていた小さな可愛い息子さんが成長して今日の法事の経をあげてくれた。良い声で良い読経であった。長谷寺が豊山派の本寺で今年又修業にいくと言う。

寺内には小振りだが立派な不動明王像が修復を終え戻って来ている。

12時過三回忌法事を終え、石山一族、伊藤一族と共に近くのリーガロイヤルホテルで昼食、共に小さな一族である。

13時半了。皆と別れて歩いて早稲田理工キャンパスへ。14時過ぎ製図室にて15名程の学生達のWORKを見る。明日11月19日の合同講評会の為に9点を選び直す。あと一点はどうしても選び切れず妙に寂しい。

17時過去る。佐藤研吾が12月に米国UCバークレー校に行くのでそれを含めた打合わせを味王で。19時半了。20時過ぎ烏山長崎屋で下田病院の保さん等と会う。保さんに12月23日のお面かぶりの一員として登場するのを依頼。デービットの紙芝居パフォーマンスは思わぬ展開をするやも知れない。

21時前世田谷村に戻ったのでした。

本日11月19日は10時半世田谷村発で11時半には製図室で学生の最終仕上がりをチェックして13時からだったかの東大との合同課題の最終講評会に出席する予定。

945 世田谷村日記 ある種族へ

5時半離床。6時サイトを読み終わる。わたくしの注釈作業(渡邊大志、佐藤研吾の両名)は全てONされた。出家とその弟子ではないけれど初老の愚とその弟子の関係が書かれていると思って、のぞいていただければ良い。

「アニミズム紀行8」にいどむ。今朝はどうなりますか?

8時、9.5枚迄書く。絶版書房の名付け親、山口勝弘先生に送信。

昨夜デービットのシノプシスを馬場昭道さんに送信して出版の件依頼したのでその確認をしてひと休みとする。本日は日曜日である。

母の三回忌の法事が午前中にある。昨夕からの雨も去り、まぶしい朝の光が広間に溢れている。台北のC.Y.Leeとの連絡は時差が1時間ありその1時間が難しいが、連絡を得た。出版の件他、次のステップに進めたい。

9時半世田谷村発、西早稲田観音寺へ。

944 世田谷村日記 ある種族へ

11月17日夕方、デービット作の紙芝居のストーリーシナリオ届く。とても良く出来ていて驚いた。素晴しい。手放しで喜んでしまう。

かくなる人材がワイマールには居るのか。たたけば、たたく程に内が深くなってゆく類の才質である。カイ・ベックととても近い質を感じ取った。わたくしは少し計り老いたから、このような瑞々しい感性は失い始めている。

19時よし負けじとばかり「アニミズム紀行8」のつづきを書き始めようとするが何故か一枚も書けない。

19時半デービットより電話あり、大変素晴しいと率直に誉めた。

横になって「アニミズム紀行8」のつづきを考える。色々と思いは巡るが明日になったら忘れているだろう。

943 世田谷村日記 ある種族へ

7時半離床。志村棟梁と世田谷式生活・学校の件で話す。少しずつ焦点を絞り込んでいる。

折角区役所の応援も得ているのだから、この際世田谷式生活・学校から世田谷区に世田谷式保育園の提案が出来ないかをXゼミナールの難波さんと相談してみることとする。10時過保坂区長に電話して少しばかりの相談。

今朝考えた事は全てまとめて複数にOUTPUTした。

一人でモヤモヤ考えていても何にもならぬ事はようやく知る迄にはなっている。

942 世田谷村日記 ある種族へ

7時離床、新聞を読み、メモを記す。穏やかな朝の光が心地良い。

12月23日に予定している千歳烏山区民センター前広場での催事に関して考える。小パビリオン(と言っても区から借りるテントだが)を2つ、子供達に喜んでもらえるようなモノにしたいと思う。

世田谷式生活・学校のことで志村棟梁と話す。又、芦花公園駅近くの(株)クニナカの国中昇平さんと会い参加を依頼する。

特注家具の製作の店を出している方であり、その旧甲州街道のたたずまいが前から気になっていたので訪ねた。

12時半製図準備室。デービット他と世田谷式生活・学校in烏山の打合わせ。

14時東大との合同課題早大生の提出物の採点作業。意外に手こずる。良いモノが少ないのだ。東大との約束もあり10点を選ばなくてはならないのだが半分も選べないのが実情である。結局15点程を水増しして選び、発表当日11日19日の正午に選び直す事とする。16時より30点程の講評。19時了。去る。

20時40分烏山長崎屋がノレンを外していたがもぐり込みオバンとおしゃべり。

湯どうふ鍋をごちそうになる。21時半世田谷村に戻り遅過ぎる夕食。

941 世田谷村日記 ある種族へ

8時離床。メモを記す。昨11月14日深夜迄『闘う区長』読み通してしまう。保坂区長、流石ジャーナリストでもあったから筆力大である。読める文章であった。政治全体が最底の状況になり、遂に国政は明日解散である。

昨夜のパーティーは興味津々でもあった。政治家諸氏の身の振り方が露呈していた。何しろパーティーの最中の解散だから。

都知事に立候補した笹川氏もスピーチで、立候補の弁を述べた。多くのスピーチで保坂展人に都知事に立候補させたかったがあった。又、各地方自治体、市町村との連携の姿勢が浮き彫りであった。面白い発想である。

11時過開放系技術論書いて送信する。11時半世田谷村発。13時頃製図準備室。スタッフと世田谷式生活・学校、他の相談。デービットが以前話しておいた子供向けの紙芝居物語りのシナリオを描いていたのを知り驚いた。やる奴はやるのだなあ。10数名の学生を見る。16時過去り、渋谷へ。松村秀一、野辺公一両氏と落ち合い、駒形どぜう渋谷店へ。談笑。

松村先生も元気そうであった。世田谷で予定している活動への協力依頼。19時半了。井の頭線で烏山へ、世田谷村に21時戻る。

940 世田谷村日記 ある種族へ

5時半離床。すぐにアニミズム紀行8を書き始める。7時過ぎ5枚きっかり書いて小休する。思いもせぬ速力で書き少し疲れた。面白いモノでアニミズム紀行8は自分でも驚く程に筋道がハッキリしてきている。又、わけの解らん事書くのかと叱られそうだが、メタル系の、つまりは現代のアニミズムについて書き始めた。ようやく、書けるようになったのである。日記その他諸々のトレーニングのおかげ様であろう。新聞を取りに下に降りる。東の低い朝の陽光がほとんど真横から広間に射し込んでいる。今日も晴れのようだ。

8時45分世田谷村発10時前研究室、レクチャー用データチェック、10時40分先端建築学特論講義12時半了。すぐに製図準備室へ、石山研卒論の総評後、学部設計製図を見る。相も変らぬ危機感の連続だが淡々として処するしかない。17時去る。18時前京王プラザホテル5階大宴会場、世田谷区長・保坂展人出版記念の会。400人以上の人がつめかける大パーティーであった。各界の実に多様な方々の挨拶が続いた。

1. 辻井喬(堤清二)2.菅直人(前総理)3.公明党池坊議員4.自民党加藤紘一5.世田谷商店会会長6.前世田谷区長熊本氏7.囲碁、竹宮氏8.菅原文太の順序で挨拶が続いた。保坂展人区長苦心のラインアップである。商店会会長のスピーチが良かった。最初は区長を応援していなかったんです、でもこの人はついているので、ついてる人にはついてゆきます。との事。

菅直人の挨拶中に民主党野田総理の11月16日解散がどうやら情報として入り、菅直人もいささかあわてふためいたスピーチになった。自分の選挙が心配なんだろう。社民党首のスピーチはなし。保坂区長のスタンスが歴然と表現された挨拶群であった。大変な人数であったが食事もたっぷり出て、腹一杯にして20時会場を去る。21時世田谷村に戻る。帰りに16日解散の号外を手にした。

本当に明後日解散らしい。

パーティーで貰った『闘う区長』保坂展人、集英社新書700円、読む。

939 世田谷村日記 ある種族へ

一昨日の失敗を取り戻そうと、10時世田谷村を発つ。山口勝弘先生からの葉書の効用である。先生は実にホンモノの芸術家である。メディアアートを標榜してナムジュン・パイクと競うようにビデオアートの領域に踏み入っていた頃は失礼ながら、自分で自分の頭をポカリとするが、アッイテエ、大した事ネエーなと思っていた。「ヴィトリーヌ」も名作らしいが何だろうコレワ位のものではあった。

現代芸術の袋小路にハメルーンのねずみ同様に入り込んでいるようにしか思えなかったのだ。これは今でもそう思っている。

先生は倒れられ、半身不随の身になり、車椅子上のアーティストになられた。

それからの先生は介護施設に閉じ込もり、自由のきく右手だけでドローイングやペインティングを続けられた。近寄るに鬼気迫るものがあった。不動明王になられたのだ。

そして、時々、その右手で手紙や葉書を下さる。一言一句が身につまされる。

現実と夢が薄皮一枚に同居されている気配がある。

勝手な言い草だが現代の表現者の先端に立った。

先生は昨日のことなのか、明日のことなのか知れぬ日常を過している。そして自分は幽閉されたゴミなんだという様な辛辣な事も平気で言われる。

今日、11月13日に読み直した手紙もそんな風であった。

一昨日、前から予定していた通りに記憶をたどってある古墳を見学にゆこうと思い立ち、家を出た。

確か記憶では京王線沿線のどこか駅の真近にその古墳はある筈であった。記憶の中では駅近くの、フェンスもハッキリ覚えている位に明確な姿形が在った。

ところが、三、四の駅に降り立っても全くそれらしきは無い。

でも、あの明らかな記憶の中の姿は何なんだろうか。

狐に鼻をつままれたような気分にもなる。わたしの記憶がおかしいのか、現実の方がおかしいのではないだろうか。

フッと、アニミズム紀行7を思い出した。

記憶の中の自分の家を訪ねたあの旅を。

人に尋ねたり、地図を頼りにするのはイヤだったが、ついに駅前の交番で尋ねてみた。親切な巡査がていねいに調べてくれたが見当たらない。

それで府中考古博物館に遂に尋ねてしまったのが今朝であった。

京王線沿線にはありませんが、分倍河原でJR南武線に乗り変えて一つ目の西府駅近くにありますよ、との事であった。それで出掛けた。西府駅はこれ迄降りたこともない駅だった。おまけに新しくって高架になりエスカレーターまでついている。

駅から北にしばらく歩く。新鎌倉街道近くに熊野神社があり、その境内に目指す古墳はあった。正式には武蔵府中熊野神社古墳という。コンクリート製の新しい資料館まであり、訪問者はわたくし一人であった。

ゆっくり、見学、又思いがけぬ資料迄入手した。スケッチ一点も得た。14時迄滞在。

山口勝弘先生からのお葉書に触発されてアニミズム紀行8の構想を得た。でも、しかし、わたくしの記憶にはっきり残っていた、アノ古墳の映像は何であったのだろうか。

今日見たものとは違うのである。

でも東京郊外の鉄道駅近くに古墳があり、それが上円下方墳として復元されている。

そして、飛鳥の石舞台(蘇我馬子の墓と言われる)とほぼ同時代の方円墳であるのは驚きだなあ。

世田谷野毛にはもっと古い古墳があるらしい。593年聖徳太子が摂政となったのだから、それからたった半世紀程の事である。

小林秀雄もいささか不勉強であったのか、わざわざ大和まで出掛けてモノ想いにふける事はなかったのだ。身近な東京にも石舞台に吹いてる風と同じ風が吹いていたのに。でもしかし、立派な復元ではあったが、やはりなあ。

毎日使っている京王線ですぐのところに7世紀中葉の古墳があるという現実はなかなか受け入れられぬのである。

何だろうか、この頭の固さは。しかもその古墳から出土した刀剣の鞘の鞘尻金具に七曜文が刻まれているとは。七曜文とは水木火土金、日(陽)月(陰)の七曜を表し、今我々がベトナム、ダナン五行山で計画している計画の、7つのリンガに印された星々と同様な装飾文様なのである。

七曜文は国産初の貨幣である「富本銭」にも見られると言う。

ベトナム、ダナンの装飾博物館で驚天してスケッチしたモノが近くの駅の神社の裏山としてどうやら親しまれていた丘の中にあった。

何とも、人間というのは凄ェ者ではあるな。確かあの7つのリンガの彫刻も7世紀中葉であり、熊野神社の方円墳も7世紀中葉である。そして同じような七曜文がかたや石に彫られ、かたや鞘尻金具の文様として彫り込まれている。

938 世田谷村日記 ある種族へ

今日は11月13日か。実に日付と言うのは酷薄なものでギクリ、ギクリと進むばかりだ。こちらの知恵は一向にすすみやしない。7時に離床して8時に「開放系技術論」を書き一段落した。昨日の無駄が別の方で発散された感がある。

山口勝弘先生よりお葉書いただく。不自由な手で、もうこれは字と言うよりも抽象画に近い象形文字のようなメディアが構成されていていつも感動する。

古い言い方ではあるが、かたじけないと思う。小さな額に納めて保存したいくらいのものである。

来年の実験工房の大回顧展のことで様々に頭を巡らされているようだ。84才の不動明王には負けたくないと、わたくしも思いを巡らせるのだが、それはそれ仲々に良い考えが簡単に出てくるものではない。

でも頑張りたい。先生に叱咤激励されるようではいけない。

937 世田谷村日記 ある種族へ

今日11月12日は早朝から馬鹿なことをして、とてもコレは記すわけにはゆかぬと決心。それに得るところも、それこそ何も無かった。しかしながら別に悪いことを仕出かそうとしたのではないけれど、マア記さぬが華であろう。17時過ぎ世田谷村に戻りグッタリしている。1日を完全に捨てたようなものだ。少しは取り返そうと「開放系技術論・生垣」を書く。

936 世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。新聞を読む。再眠、8時再び起きる。昨日は久し振りの建築見学でいささか疲れた。すぐに注釈作業。もうそろそろ打ち切りたい。際限が無い。11時半修了。

16時注釈の最後を書き終える。第一ステップの注釈はもう書かない。これが目一杯である。

先程、1時間半程長崎屋で小休してきた。志村棟梁から、烏山神社の伊豆雲見集落の高橋一族の、末裔が烏山に居る事を教えられた。地付の地主連中、下田、杉田他の世田谷特有の地主達はどうやら皆、伊豆西海岸雲見の高橋なる親方の一族、配下であったらしい。

実に、こんな小史は今にも生きているのかと実感する。ちなみに志村棟梁は今日、11月11日は烏山神社の七五三の祭礼の仕切り役だそうだ。烏山神社に例年40組くらいの七五三のお祝いの人々が訪れるそうで、それ以上の数でもそれ以下の数でもないそうである。

注釈作業は今日2点10枚程を書いて終りとするが、面白かった。

若い二人の書き手のエッセイを自分に引寄せて考えることができた。

この注釈の所在に辿り着くのはわたしの、つまり石山研のページでは仲々に困難そうなので、難波和彦さんのページのXゼミナールには読みやすくONされているので、そちらの方でも読んでいただける。

でも注釈は入れるべき本文があって、初めて存在すべき類であるから、それだけ切り離して読んでいただいても価値は半減するだろう。難波和彦さんには色々とかけなくても良いお手数をかけているようだが、わたくしも手を抜いているわけではないので御容赦いただきたい。

全ての注釈を終えてわかったのは、若い二人のエッセイがエッセイとして自律してしまい、モノに即した動き、即応とも呼ぶべきに充分なっていないのを痛感したのである。エッセイを書いて、それぞれに固有の力、エネルギーのこやしになっているのかなの疑問がいささか生じたのである。

勿論遠廻り、あるいはいささかの高跳高踏振りもトレーニングにはなるのだろうが、かつて建築家・大江宏が述べた如くの離見の見を意識、少しだけ意識される事を望みたい。いささかの年を歴た鰐ならぬ愚老の眼の言い草である。

935 世田谷村日記 ある種族へ

4時半離床。WORK。今日はフルに自分の時間を過ごせそうなので、没頭したい。昨日11月9日は13時前に製図準備室で修士論文、設計の相談。3年の設計製図の60点程に眼を通す。東大との合同課題の締切が間近だが学生の作業は遅々として進んでいない。

ワイマールのツィンマーマン前バウハウス大学長より東京スタジアムの件でメールあり。我々の案(落選案)をインターネットで公開するのは大賛成であるとの事。

又、ツィンマーマン氏はウェブサイトで全ての結果が公開された後に、当選案を含めてクリティークするそうだ。勿論、今のところ公開されている当選圏内の諸案と比較して落選した我々の案(C.Y.LEE+石山+α+ツィンマーマン)の正当性を述べようとするものである。バウハウス・コロキウムを長年オーガナイズし、ヨーロッパの建築理論の支柱としてバウハウス大学を支えてきた人間のプライドである。

大いに共にやろうと思う。建築のために。

そんなわけで本日11月10日早朝より、国立東京スタジアム、応募落選案のウェブサイトへの公開のプログラムを考えている。敗戦処理にも情熱は注ぐのだ。

すでに6時である。何とまあ時間の足の速い事よ。走ってゆく足のスネまで視えるようだ。10時迄わたくしも走るというよりWORKを続けるが、いかほどが出来るか心細い限りである。空がすっかり明るくなり、空の青さが見分けられるようになっている。キルティプールの家の映像を作っている五月女より映像ビジネスに関するリポートが送られてきたのでアドヴァイス。具体化の糸口になれば良いが。

10時過注釈作業2件を終えて小休息。

しばらく振りに、作家論・磯崎新31がサイトにONされた

13時開放系技術論:生垣3書き研究室に送附する。同半世田谷発、新宿で待ち合わせ茗荷谷へ。

14時40分茗荷谷。空腹となり駅近くのラーメン屋。小腹に入れる。歩いてすぐの銅御殿へ。国重要文化財、旧磯野家住宅である。鈴木博之さん達がこの旧磯野宅、現大谷美術館を守る会を結成し隣りに建てられる大型マンションによるダメージを最小限にしようと、間接的ではあるが環境も含めた保存運動を進めた。今日は銅(あかがね)御殿建築100周年の祝いの会である。主屋は明治の終りに建設され大正元年(1912年)に完成された。道奥に不思議に優美な唐破風様の、独特な曲線を持つ門がある。太い材の四脚門である。丸太垂木を寄せて曲線を作り出したらしい。主屋も船天井の如くの不思議な曲面が随所にあり面白い。余程クセのある棟梁だったのか。その棟梁に思う存分腕を発揮させた如くの趣がある。

銅御殿を守る会の村田さんにていねいに案内していただき恐縮した。1階の庇の出は深く、一本の継ぎ目の無い直線の丸太でその庇の荷重が全て受けられていて凄い。帆船のマストならとも角よくこんな材を見つけてきたものだ。木の建具もコリにコッていて見あきない。屋根はムクリをつけた銅葺きの屋根、外壁も銅葺きで、それで銅御殿と呼ばれた。

2階も3階も実に独特にまとめられている。建具が骨太で面白い。

3階は望楼の如くの書斎でそこからの屋根の重なりが見事である。屋根のそり、むくりの感じが普通ではない。

この棟梁余程船大工の如きの曲面づくりを何処かで修練していたのか、でもそれが手だれの風はなく、実に若々しいのである。

グルリと一巡して1階に戻り、主人の部屋、奥さまの部屋をのぞかせていただく。信仰深い方々が住み暮していたようで、調度品がとても情愛に溢れていて気持良い。凄い掛軸があり、平安時代の不動明王のようだ。天狗の面のコレクションも多く、実に面白い。この部屋だけでも一見の価値があるだろう。棲んでいた人々の香りが匂い立つようである。1階の一室で鈴木博之さん等にお目にかかり、茶菓子の御相伴をさせていただく。

鈴木令夫人も見えている。

名残は惜しいが、再び不思議な門をくぐり抜けて外へ。近くの茗渓会館4階の講演会場へ。16時鈴木博之さん司会で、大谷利勝・大谷美術館理事長、遠山公一・遠山記念館・慶応大学、土屋和男・常葉学園大学の講演。

18時了。懇親会。何故かわたくしもあいさつの羽目となりあわてる。

最後の大谷さんのお嬢さんのあいさつがとても良かった。銅御殿の住人であった。冬寒くて夏暑い家で暗くてとても恐かったと話された。とても良い家だったのを知ったのだった。立食パーティであったが、たっぷり夕食もいただき満足して、鈴木夫妻他と帰る。池袋でお別れして、烏山に21時前帰り、世田谷村に戻る。いささか疲れたが楽しかった。

面白い建築を体験すると身体の細胞が浮き立つのであろうか。

遠山公一さんより、遠山邸の冊子をいただく。今井兼次先生の遠山記念館等のクライアントである。

21時半今日のメモを記し終る。いささか長くなった。

934 世田谷村日記 ある種族へ

8時離床。寒くなってやはり寝床に居る時間が長くなった。自然にやりたい。今日11月9日は昼に製図準備室で諸々がある。しっかり対応したい。昨日11月8日は10時前から18時迄学部学生の卒業論文発表に立会う。

いささか疲れて大学を去り新大久保から烏山へ。まだ開いていた長崎屋で一息ついた。まったくここの76才になるオバンは働き者で感心する。20時過世田谷村に戻り、台北の李祖原に電話する。昨日の講談社・園部さんとの話しの概略を明日書類にして送信する旨を伝える。「グッド」彼の対応はいつも明快きわまる。ようし、この男のためなら全力を尽くすぞの気持になるのだ。勿論、自分のためでもあるのは自明だが。それを通り越してのことでもある。

さて本日朝に戻る。実に混乱していて読みにくいだろうし、わたくしも書きにくい。でも、日記から日付を消そうと思いついたんだから、しばらくは続ける。

9時半メモを記し終り、裏日記でもある生垣32、改め開放系技術論を書きすすめる。10時には研究室に送信するつもり。しばらくの乱れは許されたし。

933 世田谷村日記 ある種族へ

6時半過離床。今日11月8日は学部の卒論発表会なので9時前には世田谷村を発たねばならぬ。良い天気だ。昨日11月7日の16時半に講談社・園部さん来室され、李祖原とのプロジェクトに関して打合わせる。出版も建築も仲々グレイな業界である。何とか突破口を見出そうとしているのだが、うまくゆきますかどうか。打合わせの企画書を今日英文訳して台北に送信する予定とする。

今朝は2時半に目覚めてしまい起きてしまおうとコンピューターと面してサイトをのぞいた。わたくしのページ他を読み終えたら4時半になっていて再眠した。コンピューター中毒かなコレワ。中国大陸は明らかにネット時代を迎えているが、それだけに検閲が厳しい。日本からのメディアが容易に受け入れられる訳もないのが、今の状態である。それは今年8月末に直接肌で感じ取った。しかし人口13億である。台湾の人口は2500万人程のようだが経済を中心に華僑人口は膨大である。「台北101」の来館者数、そして「中台禅寺(台中)」の参拝者数の多さは日本の事例と比較すれば桁ちがいだ。双方共に本土中国人がすでに押し寄せてはいる。その現実を見据えた上での計画を立てたのだが上手くゆくかどうかはこちらの努力次第である。

でも挑戦する。7時企画書を再考する。8時45分世田谷村出発。

アニミズム紀行7、6、5にドローイング作業も続けている。ドローイングはダナン計画のスケッチ(エスキス)とさせてもらっている。何十冊にも描き込んでいるとデザインの目的が否が応でも浮き彫りになってくる。功徳であろうか。アニミズム紀行7の残部が大部少なくなってきているので、関心のある方々はのんびりしていると無くなりますよ。

932 世田谷村日記 ある種族へ

7時過に離床してサイトをのぞく。この頃は新聞よりも先にサイトをのぞくのが習慣らしきになった。

Xゼミナールに難波和彦さんが石山研の若い二人の建築家の論にクリティークを寄せている。恐らくは若い二人には生まれて初めての自作に対する批評ではないか。エッセイだって作品だからなあ、そう言う意識を持って書くならば。

いずれ今のXゼミナールの面々はこの世から姿を消すことになる。無常であるとつぶやかない。何故なら電気が在る間はコンピューターの記録は残るし、それにXゼミナールは若い二人も含めた人々に引き継がれてゆくのはもうすでに眼に視えてもいるからである。

折角難波和彦さんに批評してもらったのだから、この論は続けて書くべきだろうと思う。実に、その為にもわたくしの異常な情熱とも視えるだろう注釈作業があるのだから。

昨日、6日は記すべき事は何も無く過ぎた。山本夏彦翁の息子さんである山本伊吾さんより『山本夏彦とその時代』全十巻の4、『戦前真っ暗のうそ』、そして伊東豊雄さんから小冊子送られてきた。

山本夏彦さんは、彼の室内でのわたくしの文章修行の折に、清水幾太郎(いくたろう)の『私の文章作法』をいただいた。その清水幾太郎さんが、私は映画と和解してない、の山本翁の文中に登場している。清水幾太郎は芸人のまねはしても芸術家のまねだけはするなと言った。清水幾太郎は芸人の言葉が持つ悲しい響きを大切にしたいと言っている。「私の文章作法」大意として山本夏彦が再び言っているのだ。

大意というのは一冊の本を要約すればの意である。わたくしが今始めている注釈作業もいずれ大意と誰かにくくっていただけるやも知れない。

しかし、なあ、翁にお言葉返すようでいささか、はばかるが。今は芸術家という呼名の響きも詩人程度ではないけれど充二分にもの悲しい響きを持つ事ではあある。

大意という言葉を覚えようと思った。先ず言葉を発見し覚える。次にそれを使ってみる。あらゆる分野に言えることだろう。

日記から日付を消すというのも消去の大意が必要なんだろうけれど、日記自体が今は乱れてきている最中なので、それも出来ない。

しかし、大変な事だな日付を消した日記というモノも。

生垣31を書く。突然脳内がガシャーンと整理された。この生垣31から、ズーッと停止していた「開放系技術論」にONして下さい。生垣31にその少しばかりの理由は書いた。

いきなり、接続してくれれば良いのです。

931 世田谷村日記 ある種族へ

8時前離床。だいぶん、イヤ2日程ウェブサイトをのぞいていなかったのでのぞいた。石山のページも読むに時間がかかり9時前までかかってしまう。

注釈が独立させられていて、これでは注釈にならぬのではないか。とまず文句をつけて、今日11月6日は講談社の園部さんが来るのでその準備にかかる。

李祖原、G.ツィンマーマン、石山組の第二STEPを考える。昼過ぎまでかかりそうだ。あるいは、もっと手間取るやも知れぬ。李とわたくしの付き合いの決算の始まりになるだろう。夕方迄に英文にも訳せるように配慮したいが、今日は無理かも知れぬ。

昨日5日は13時40分新宿小松庵でヴェトナム・ダナンの中村さんと打合わせ。沖縄、台湾、ダナンの連鎖プロジェクトを考えついたが、相当な力業が必要だろうと体力が心配。少しは知恵はついたが、体力は減少するのは、これは仕方ないが切ないものでもあった。でもやってみよう。

雨が降り続けている。

930 世田谷村日記 ある種族へ

6時半離床。良く眠った。今日は11月5日。日記の見出しに日付をつけなくなったら日記の書き方も変化せざるを得なくなり、手ワ手間取っている。日記に実人生が振り廻されているとは考えたくないけれど確かにそんなところがある。こんな風な書き方をするのも、昨日11月4日の午後3時くらいから本棚に在った梅崎春生の『幻化』を読んでしまったからかなと思ったり。晶文社の箱入りの本で『幻化』と『桜島』の二片が納められている。

何故読み始めたのかは知らぬ。フッと手に取って気がついたら入り込んでいた。梅崎春生は夫婦共々神経症の地獄に陥り早死にした作家であることは知っていた。戦争体験と精神病体験の狭間に短い人生を終えた私小説家らしい事も知っていた。

だから敬遠していた。私小説読む価値無しの頭があったからだ。読んでみて、これは出版社のアイデアであったのか、桜島と幻化は戦争の死と戦後の死が糸で結ばれていると感じた。桜島に登場する鹿児島のチロチロ燃える廃墟は幻化の死の旅の始まりである。登場人物は異なるが同時に同様なのである。道具立ても同じモノが使われている。幻化のラストの10円玉を入れると使える望遠鏡、これは死を目指して阿蘇の噴火口を巡る人の影を追ったし、グラマンに射たれて死ぬ桜島の見張り兵は双眼鏡で遠くの民家で首吊り自殺しようとして果せぬ老人の姿をのぞき視ている。

人間は時に遠くをのぞきたがるのは昨日のわたくしの注釈作業でも書いたことであり、これは俺も神経症なのかなとイヤな気分になった。

そういう恐いところが確かに梅崎春生にはある。

石川淳とは異なり、私小説の方法から離れなかった作家なのだろう。

しかし、2本共にわたくしの注釈のレベルでは無く感じ入る事大であった。

石川淳(いしかわじゅん)と記してしまってから想い返すと、みうらじゅんという今は何をしているか解らないマンガ屋を想い出した、ナンシー関ってのもいたなー。これは死んじまった。梅崎春生からナンシー関って回路はあるんだろうか。梅崎の戦争とナンシー関、みうらじゅんの宣伝万歳、コピー万能時代は蕩尽って事では似てるか。でも、やっぱりそれ程の事は無くって消費の枠内の人々。そんなわけで今朝も、もう、『みうらじゅん大図鑑』を読み下してしまった。井上陽水、糸井重里、横尾忠則等が登場していた。

10時、注釈作業を2本終えて小休。これで注釈は3.11の原発事故、宇宙の縮図そして今朝書いた、三重の入れ子、(光の)強度の4本を研究室に送付済となる。サイトにONするスピードも又、二人の若い筆者、つまり被注釈者に任せたい。

新聞を読み遅い朝食をとる。

929 世田谷村日記 ある種族へ

7時過離床。注釈作業にかかり、二片を12時迄かけて書いた。意外に時間がかかった、と言うよりかけたなの実感あり。

途中、朝食もとったりしたが、まあ自分でも面白く我を忘れたと言うのが本当のところか。今日は11月4日か。

こんな注釈作業を他人がどう思うだろうか等の頭は全く無い。知った事かである。でもサイトに記録は残しておきたい。昨日の書き残しは全世田谷野球倶楽部の人々や三田くんと遊んで暮したのが11月3日であった。

928 世田谷村日記 ある種族へ

3時離床、注釈を一片書く。思いもかけずに手間取り5時修了。身体が冷え切って寝床にもぐり込む。再離床したのは8時過だった。

再び注釈に取り組む。11時前までかけてもう一片を書き終え研究室に送信する。一片舎兼実だなコリャー。九条兼実の『玉葉』はオヤジの書斎に並んでいた何かの全集で読んだ。俊重坊重源が何度か会ったのを知っていたのでその記録がないか知りたかった。それはどうでも宜しい。兼実の日記により我々は平安から鎌倉への転形期の社会風潮の一端を知ることができる。上級貴族すなわち官僚の眼で視た小社会ではある。わたくしの若い二人の才質への伝言らしきも、これは日記の体をなして来てしまった。いずれ二人の本文らしきを注釈が追い越すという逆転も予想している。そうなったらお仕舞いだろう。ただただ中途半端は超えてくれと念仏のように唱えるだけだ。いずれ西の空に阿弥陀が現われて、その光でもってスタンド代わりにするやも知れない。これぞ本当のガソリンスタンド。

昨日、11月2日は11時半頃製図準備室。学生の設計製図作品の大挙に眼を通す。これをしないとしっかりせよ、バーカの一言も言う権利が失くなる。でも正直苦痛である。大変な苦行である。設計製図は謂わゆる実技指導である。キミキミ、グランドにはパンツ位身につけて出なさいよの類の連続でもある。でもコレは先公の義務だからな。17時迄、こうしたら、ああしたらを続けて休止。去る。京王線で家人とバッタリ、薬局に寄り薬をもらって世田谷村に戻った。

どうも世田谷村のコンピューターではわたくしの注釈作業がうまく読めない。読ませるシステムが良ろしくないのではないか。難波和彦さんのXゼミナールのページはキチンと整理されてONされている。これを読んで下さる人はまさしくある種族と呼びたい人々であるのは知っている。極く少数の人々である。でも少しは通じる人でもあろうと勝手に思い込んでいる。

今日は11月3日文化の日、休日である。

休むのも苦痛であるのだが、休みは心須な手間ヒマかけての仕事でもある。すぐ隣りの、つまり世田谷村の隣人まで「ブログ読んでます」と声を掛けられた。仕方ない野ざらし紀行ならぬ野ざらし白骨死観の如くまでやるか。

927 世田谷村日記 ある種族へ

5時離床。まだ暗い中注釈作業を始める。陽が昇るまでの事とする。陽光の中でやる事ではないと今日は思った。

6時20分、注釈、2つを書き終えた。哲学の木田元先生が彼のゼミナールでは哲学を論じるというよりも、先哲の原典を細密に読ませるのだと言っていたのを実は真似ている。わたくしは物体の作家であるから、二名の最後とも思われるゼミ生には、わたしの最良と考える作品を読ませるのである。他に何が出来ると言うのだ。当り前の事ではないか。作家が若い作家の卵に伝えようとしている。だから半端なモノにはしたくないのである。

昨日11月1日は10時過に花小金井の吉元医院。若先生と老先生とお話しさせていただく。

吉元老先生は日本東洋医学会の専門医でもある。ヴェトナム・ダナンに計画中のものに出来れば薬草庭園をつくりたいと考えているので相談する。親切に色々と教えて下さった。12時半高田馬場、大学近くの台湾一杯メシ屋で昼食。13時製図室。15時研究室でヴェトナム・ダナン外務局代表のLE THI THU HANHさん一行とお目にかかる。チャム彫刻博物館でスケッチした碑文、リンガの件で話しが弾んだ。16時過製図室に戻る。学生の大半は笛吹けど踊らずだ。外国人留学生は笛を吹けば踊ろうとするので教える方も楽しくなる。

18時過去り、新大久保駅前近江家へ、Xゼミナール会合。19時過修了。長崎屋でビール一杯飲んで、世田谷村に戻った。

11月2日の今に戻り、7時メモも修了し新聞を取りに降りる。

生垣を一巡してクモの巣を点検、総計7つ程の巣があり、女郎グモ諸君が一様にプックリ太って居座っている。3重のレイヤーを張っているつわものもいる。

皆さん一生懸命に生きているのだな。

気がつけば、さざん花の花も咲き始めて生垣は美しい季節を迎えようとしている。

926 世田谷村日記 ある種族へ

6時40分離床。すぐにXゼミナールの渡邊大志、佐藤研吾の2つの投稿に注釈作業。それぞれ一点注釈を入れた。

 実に、この作業はわたくしの現実の設計作業と密着している。いずれ分かるかも知れぬ。わからなくても、わたくしには必要なのである。

図を描いたり、ドローイングを描くのと同じ、あるいはより高度なオペレイションになる筈のものだ。

今日、11月1日は朝早く花小金井の吉元病院にて定期検診及び薬をいただく予定。

昨日10月31日は16時に竹中工務店・四十物さん他来室。本社へ異動したとの事。

今日は午後から夕方にかけていささか忙しそうだ。

過去を記すのが日記なのだけれど、希望を持って明日を記したいと年甲斐も無く恥ずかしい事を記してテレ笑いをしている。ここで笑わないと本物のバカになってしまうのである。

ようやく頭がドロドロデロリンと回転し始めた。ベトナムに日本仏教の何がしかの人々を観世音寺の会議に出席していただけるように努力したい。

 「モノとココロ」の本を中国語と英語で台湾と中国で出版し、それと台北101と北京盤古プラザでの展覧会をドッキングさせる。

 サイトをのぞく、全てゆっくりが良いが考えている事は一歩一歩反映させたい。寒くなったけれど、朝の陽光が差し込み広間は光で一杯である。

世田谷村日記